主日礼拝 2023年 3月26日
復活前 第2主日(受難節第5主日)
招き 前奏
招詞 詩編46編 2~4節
頌栄 539
主の祈り (交読文 表紙裏)
賛美歌 145
交読文 8 詩編24編
旧約聖書 列王記上17章1~24節(p561)
新約聖書 ルカによる福音書 7章15節(p115)
讃美歌
奨励 「 その川の水を飲むがよい 」
小河信一牧師(2020年3月22日録音)
(※下記に録音されています)
祈祷
讃美歌 516
使徒信条 (交読文 表紙裏)
聖餐式
献金
讃詠 546
祝祷
後奏
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〈説教の要約〉
2020年 3月29日
復活前第2主日(受難節第5主日)
旧約聖書 列王記上 17章1節~24節(P.561)
新約聖書 ルカによる福音書 7章15節(P.115)
「その川の水を飲むがよい」
小河信一牧師
本日は、旧約聖書から、紀元前9世紀中葉の出来事を読みます。ソロモン王の統治の後、王国が北と南に二分されました。その内の北イスラエル王国で活躍したのが、預言者エリヤです。彼は、当時、偶像崇拝に惹かれていた王アハブとその妻イゼベルと対決することになります。
列王記上17:1――
ギレアドの住民である、ティシュベ人エリヤはアハブに言った。「わたしの仕えているイスラエルの神、主は生きておられる。わたしが告げるまで、数年の間、露も降りず、雨も降らないであろう。」
エリヤについては「ギレアド(ヨルダン川の東側)の住民である、ティシュベ人」と一言紹介されただけで、突然、王アハブへの神の言葉の告知が表されています。ここで分かるのは、エリヤが神に「仕えている」こと、そして、これから干ばつという異常気象が到来するということです。
読者は、いきなりエリヤVSアハブ&イゼベルとの間、火花の散る壮絶な話が始まるのか、と身構えるかも知れません。そうではありません。そのような話は、次章・列王記上18章(エリヤVSバアルの預言者)に出て来ます。
今、神はエリヤ、その人自身に目を注がれています。ところが、彼の生い立ち、性格、受けた教育などに関する情報はありません。イエスはエリヤの再来ではないかとうわさされる(マタイ16:14)ほどに霊的な人物、私たちの手本となるような信仰者について、詳しく知りたいところです。エリヤの置かれた人間的背景は分からないのですが、実は、エリヤについて私たちが最も知るべきことが、列王記上17章全体にわたって展開されています。
その私たちが最も知るべきこととは、どのようにエリヤが信仰者として育てられていったか、ということです。
「エリヤ」という名の意味は、「ヤハウェはわたしの神」です。その点で、エリヤは「わたしの神」によって鍛えられ、幾多の困難を乗り越えさせられました。そうして、エリヤが神と隣人を愛するようになってはじめて、「ヤハウェはわたしの神」と告白する神信仰に到達したのです。
列王記上17章全体を通じて、どのようにエリヤが信仰者として育てられていったか、を汲み取るならば、誰もが、彼の信仰を受け継ぐ者となれるのです。あなたの日々のうちに、「主は生きておられる」という恵みと喜びが湧き出て来ます。
さて分かり易いように、列王記上17:2以下を段落に従って、①17:2-7、②17:8-16、③17:17-24に三分します。
この三つの段落は、流れるように展開して重なり合っているところがあります。具体的に鍵語(キーワード)で見るならば、「水(を飲む)」が①17:6と②17:8-16、また、「死ぬ」が②17:12と③17:18,20というように重複しています。
ただあまり重なり合いに目を奪われると、①・②・③、三つの物語の特徴が分かりにくいと思われます。
そこで、枝葉を省いて、①・②・③、三つの物語を紹介すると、こうなります。
①荒れ野で、烏に養われ、川の水を飲んで生き延びたエリヤ
②異国の町で、パン・食べ物の欠乏を堪えしのいだエリヤ
③異国の町で、子どもの命を生き返らせたエリヤ
列王記上17:1冒頭で示されたように、エリヤは、主なる神――預言者という垂直軸の堅い関係に立つ者として現れました。そうして、①→②→③という困難さの増大(R.D.ネルソン)なる「試練」・「教育」を経て、
異邦の女――旅人・信仰者という水平軸の隣人関係を結ぶ結末へと至ります。
①・②・③、三つの物語において、エリヤは奇跡に出合い、また、自ら奇跡を起こしています。その点で、①・②・③は奇跡物語と総称できるでしょう。しかし、謙遜な「信仰者」たるもの、常にそうあるべきですが、エリヤは決して「かっこいいミラクルメーカー」として描かれてはいません。そうです、彼は、私たちの最も近いところにいる、神の御言葉と御業の体験者なのです。
では、列王記上17:2-7 ①「荒れ野で、烏に養われ、川の水を飲んで生き延びたエリヤ」から読みましょう。
列王記上17:3-4 エリヤに臨んだ主の言葉――
3 「ここを去り、東に向かい、ヨルダンの東にあるケリトの川のほとりに身を隠せ。4 その川の水を飲むがよい。わたしは烏に命じて、そこであなたを養わせる。」
この告知の通り、数羽の烏がエリヤにパンと肉を運んで来ました(列王記上17:6)。朝な夕なに……。
烏にはいささか失礼な言い方かも知れませんが、どん底のもの、自分の想像のつかなかったもの、本来ならば遠慮したいものによって、エリヤは養われました。それは、神が新たにお造りなったものではなく、「そこにいる」もの、ありきたりなものでした。神は取るに足りないものを用いて、エリヤに日毎の糧を与えられたのです。
大切なことは、人生のどん底で「無い」と焦るのではなく、どん底に「有る」ものに目を向けることです。絶望の果てにおいても、神が備えられているものは無くなりません。
ここで、エリヤが学んだことは、「決して自分の力に頼らない、そうではなく、神の備え給うもの、前々からあるものに依り頼む」ということでした。「気持ち悪い」とか「想定外」とか、選り好みはいけません。
エリヤが一見何も「無い」ような荒れ野で、神に教えられたのは、へりくだることでありました。それは、霊的な働きの期待される預言者への、信仰教育レッスン①として適切でした。
「水はその川から飲んだ」(列王記上17:6)というエリヤから、私たちは主イエスとサマリアの女のエピソードが思い起こされます。人の子として人生の飢え渇きを知り、疲れて、「水を飲ませてください」(ヨハネ4:7)と、他人に乞い願う主イエスの謙遜さを、エリヤは身に着けたのであります。
次に、列王記上17:8-16 ②「異国の町で、パン・食べ物の欠乏を堪えしのいだエリヤ」を読みます。
列王記上17:8-10――
8 また主の言葉がエリヤに臨んだ。9 「立ってシドンのサレプタに行き、そこに住め。わたしは一人のやもめに命じて、そこであなたを養わせる。」 10 彼は立ってサレプタに行った。町の入り口まで来ると、一人のやもめが薪を拾っていた。エリヤはやもめに声をかけ、「器に少々水を持って来て、わたしに飲ませてください」と言った。
「サレプタ」は、ティルスとシドンの間に位置する地中海の町です。敵対者イゼベルは、このシドンから王家に嫁いできましたから、エリヤにとっては完全アウェー(周囲が敵だらけ)です。
「一人のやもめ」は、名前すら挙げられていません。赤貧洗うがごとし(極めて貧しい人)、でありました。烏と同列に扱うのは、これまた失礼でしょうが、やもめは「エリヤを養うにはまったく不適当な存在」でありました(R.D.ネルソン)。列王記上17章の基調(モティーフ)に、困難さの増大 ①→②→③ が貫かれていることがお分かりいただけるでしょう。
エリヤはこの②奇跡物語から、何を学んだのでしょう。
それは反復されている「壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない」(列王記上17:14,16)という文句に示されていることです。「あなたとあなたの息子のため」にも作れ(列王記上17:13)、とあるように、エリヤは「粉」と「油」で作られたパンに、やもめとその息子と共にあずかる者となりました。
「壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない」というこの文句は、伝承されている粉挽き女の「信仰の歌・労働の歌」のようにも聞こえます。実際、以前私が仕えていた教会の或る婦人は、これを暗唱聖句とされていました。彼女は「赤貧洗うがごとし」の生活を味わい尽くした人であり、料理好きの母親でありました。
①の幕切れでは、「しばらくたって、その川も涸れてしまった」(列王記上17:7)とあり、エリヤの命を潤した水が期間限定であったと分かります。これと対照的に、「壺の粉は尽きることなく 瓶の油はなくならない」と、②の結末では、私たちの命の糧が「永遠に」与えられ続けるということが示されています。
エリヤは①と同様に、見た目には「何も無い」困窮の中に住まわせられました。今度は、一人でその場をしのげばよいのではなく、憐れみをかけるべき「やもめとその息子」に囲まれていました。
そこで神の示された「有るもの」の特徴は、「少ないもの」・「小さいもの」でした。
列記すると、「少々水を持って来て」(列王記上17:10)、「ただ壺の中に一握りの小麦粉と、瓶の中にわずかな油があるだけ」(同上17:12)、「二本の薪を拾って帰り」(同上17:12)、「小さいパン菓子を作って」(同上17:13)……これでもか、これでもかと、物足りなさを訴えています。
しかし、それらがいくら極少、極めて少ないとしても、それらは間違いなく、自分が今持っているもの、手に握っているものです。エリヤに問われているのは、まさにこの事です。
「あなたは神から与えられたもの……世間的評価では最低ランクかも知れないもの……を、生きていくのに役立てますか。神にお返しするという信仰をもって、それらを隣人と分かち合いますか」ということです。
②奇跡物語でエリヤが知るべきは、自分の召し(自分的には準備不足の召命)を、自分の賜物を、神にささげること、そして、自分と隣人とが共に神の豊かさによって生かされるということでありました。自分なんかと思っている人にこそ、信仰教育レッスン②が備えられています。
最後に、列王記上17:17-24 ③「異国の町で、子どもの命を生き返らせたエリヤ」を読みましょう。
列王記上17:17――
その後、この家の女主人である彼女の息子が病気にかかった。病状は非常に重く、ついに息を引き取った。
困難さの増大 ①→②→③の図式の通り、「死」によって極地へと至りました。②でエリヤたちは極貧状態で「死と隣り合わせ」でしたが、何とか窮地をしのぎました。そこで、エリヤもやもめも、自分は苦難を「永久に」乗り越えられると過信したでありましょうか。しかし、「その後」、神からの信仰教育レッスン③が下ったのです。
この時、エリヤは一人息子を亡くしたやもめから、猛烈な非難にさらされました。
「わたしに罪を思い起こさせる」(列王記上17:18)にしても、息子を死なせることはないでしょう、と食ってかかります。エリヤの「異邦人伝道」は風前の灯でありました。ユダヤ人と異邦人との間には、もともと敵意という中垣(エフェソ2:14)があるのでしょうか……。
エリヤに問われたのは、繰り返しやって来る困難や試練を、神の御力によって耐え忍び、乗り越えていくことでした。罪と死に直面する人間が、そこから解放されるかどうかという時に、エリヤは神に頼りきりました。死の問題を神にゆだねて、ひたすらに祈りました(原文:神を呼んだ 列王記上17:20,21)。エリヤは息子の回復のために、「乏しく」とも自分の全身全霊を傾注しました。
列王記上17:22-23――
22 主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
23 エリヤは、その子を連れて家の階上の部屋から降りて来て、母親に渡し、「見なさい。あなたの息子は生きている」と言った。主は、エリヤの声に耳を傾け、その子の命を元にお返しになった。子供は生き返った。
神がエリヤをやもめのもとに遣わして、息子を生き返らせました。まさに、大いなる神の③奇跡物語です。
この神の出来事がいかに重大であったかは、次の主イエス・キリストの御業にあらわれています。
ルカ福音書7:15(本日の新約聖書箇所)――
すると、死人は起き上がってものを言い始めた。イエスは息子をその母親にお返しになった。
ナザレにほど近いナインという町で、あるやもめの一人息子が死んだ時のことでした。「町の人が大勢そばに付き添っていた」(ルカ7:12)とあるように、町が悲嘆に沈んでいました。
死からの解放のために、主イエス・キリストが御力をあらわされました。生き返った息子を、手ずから母親に返したという憐れみ深さは、エリヤと共通しています(列王記上17:23)。
しかし、ほんとうの意味での死からの解放は、御父が御子主イエス・キリストを世に遣わして、十字架と復活の御業を成し遂げた時に起こったのです。
エリヤが心で信じ、サレプタのやもめが口で告白した通り、「主は生きておられる」(列王記上17:1,12)……これが正しいことが、主イエス・キリストの復活によって示されたのです。
このように、エリヤは預言者として本格的に立つ前に、神から準備教育を受けました。すべてことが、すなわち、①・②・③全体が、主イエス・キリストを信じることへの導きとなるものでした。
①荒れ野で、烏に養われ、川の水を飲んで生き延びたエリヤ―→永遠の命に至る水 ヨハネ4:14
②異国の町で、パン・食べ物の欠乏を堪えしのいだエリヤ―→永遠の命のパン ヨハネ6:35
③異国の町で、子どもの命を生き返らせたエリヤ―→永遠の命 マタイ25:46
偶像崇拝などという敵との戦いに急ぐことはありません。ただ一つ、必要なことは、主イエス・キリストが無償で、恵みとして私たちに賜う「永遠の命に至る水」と「永遠の命のパン」によって、私たちが養われることです。「永遠の命」の源なるお方、主イエス・キリストが私たちを、罪と死から解き放ってくださいます。闇が打ち勝つかのように見える受難節の時を、主イエス・キリストの御跡に従って歩んでまいりましょう。
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〈説教の要約〉
2023年3月19日(2020年 3月22日)
旧約聖書 ヨエル書 3章5節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章9節~13節
「主の御名を呼ぶ――告白と讃美」
小河信一牧師
いよいよ2019年度末となりました。今年度の茅ヶ崎香川教会の教会標語は、「信仰告白と讃美により建つ教会」でした。本日は、この標語に添う聖句、ローマの信徒への手紙10:9「口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです」を取り上げます。この聖句を通して特に、口と心とによる私たちの「信仰告白」について学びたいと思います。
最初に考えてみたいのは、「口で……心で……」という句についてです。ローマの信徒への手紙10:9の前後の節、10:8と10:10にも「口」と「心」が出ています。
主イエス・キリストによる救いを告げる文脈において、こんなにも「口」と「心」とを強調しているパウロの真意を探ってみましょう。
二つの観点があると思います。
①なぜ、「口」と「心」とが一緒に出てくるのか。なぜ、「口」と「心」とが結ばれているのか。
……「口」と「心」とを連語として結合していること。
②なぜ、Ⅰ「口で」、そして、Ⅱ「心で」というように順序立てられているのか。
……「口」と「心」とを使い分けて区別していること。
まず、①を説き明かしましょう。
①なぜ、「口」と「心」とが一緒に出てくるのか。
次の聖句を読めば、「口」と「心」とが結び付いていなければならないことが、よく分かります。
詩編55:22――
口は脂肪よりも滑らかに語るが
心には闘いの思いを抱き
言葉は香油よりも優しいが、抜き身の剣に等しい。 他に、詩編28:3、イザヤ書29:13
心も同様ですが、人が口・舌を制御するのは困難です(ヤコブの手紙3:5,6,8)。時に、人前であれ、陰であれ、人の口から大言壮語(おおきなうそ)やうわさ話などが現れ出てきます。また時に、心には思ってもいない事がおせじや言い訳となって口から蕩蕩と流れ出てきます。
こうした人の「口」と「心」との分裂や「口」の制御不能は、「不義の世界」・「不信仰の世」の実体をあらわしています。
主イエス・キリストによる救いを告げる文脈、すなわち、イエス・キリストの福音という信仰の世界を物語るローマの信徒への手紙8章で、「①「口」と「心」とが結び合っているべきこと」に言及するのは、当然であり、まさに心配りと言えましょう。
再び、人称代名詞「あなた」を補ってローマの信徒への手紙10:9を引用します。
あなたがあなたの口でイエスは主であると公に言い表し、あなたがあなたの心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。
「口で……心で……」は、「あなたたち」ではなく、「あなた」の問題です。神に向かって口と心を高く挙げ、「あなた」が救われているかどうかです。
ここで、①「口」と「心」とがつながっている、合体していることについてまとめましょう。
「口で…心で…」(ローマ10:8,9,10)ということにより、人間の全体性が内示されています。その人間の全体性が保持されるためには、信仰的な「健全さ」、あなたの心身の健やかさが必須なのです(参照:マタイ5:30、18:8)。その全体の一部が、憎しみや裏切りなどの罪によって「病んでいる」ならば、あなたは「口で…心で…」信仰告白を為し得なくなるのです。
本日の旧約聖書箇所には、「口でイエスは主であると公に言い表す」者、イエスという「主の御名を呼ぶ者」に対し、各人の信仰的な「健全さ」を回復し保っていくために、神からの助けがあることが記されています。
ヨエル書3:5――
しかし、主の御名を呼ぶ者は皆、救われる。
神は「あなた」はじめ、皆が救われる道を開いておられます。あなたは独りではありません。
ヨエル書3:1には、「その後 わたしはすべての人にわが霊を注ぐ」と、聖霊降臨が預言されています。霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです(Ⅰコリント12:3)。人間は、神により命の息・霊を吹き入れられて創られました。「口」と「心」とが結び合っているのは、この霊の働き・執り成しによるのです。「口」が衰え、「心」が乱れ、人間の内からうめきしか出て来ない時にも、聖霊が「言葉に表せないうめきをもって執り成して」くださいます(ローマ8:26)。
次に、なぜ、Ⅰ「口で」、そして、Ⅱ「心で」というように順序立てられているのか、について捉えましょう。
すでに、人間において「口」と「心」とが結び合っているところに、信仰的な健全さがあるということを確かめました。それを前提としながら、パウロは、リズミカルな礼拝式文のような形で、「口で…心で…」と信仰者に語りかけています。そこには、「口で」公に言い表し、「心で」信ずべきイエス・キリストの福音が、その最も重要な二つのことが、順序正しく書かれています。
Ⅰ 口で「イエスは主である」と公に言い表す。
Ⅱ 心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じる。
「 」括弧内が、二つの基本的なキリスト教信条です(P.W.Meyer)。「口」と「心」との使い分けにより、Ⅰ……、Ⅱ…… の二箇条が提示されています。
Ⅰ 口で……、Ⅱ 心で…… の順に従って説き明かしましょう。
皆さんは、聖書によれば、いつ、どのように人間が「口」を使うようになったか、つまり、話をしたか・言葉を発したか、ご存知でしょうか?
Ⅰの通り、人の「口」は告白に通じているので、神は人の「口」・「発話」・「言葉」に重きを置かれているに違いないと推し量られます。その通りです。
創世記2:19――
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を土で形づくり、人のところへ持って来て、人がそれぞれをどう呼ぶか見ておられた。人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人類の祖アダムにおいてすでに、「呼ぶ」という明瞭な形で、「発話」・「発声」されています。「口」が用いられ、声が出されています。この人類初の出来事によって、得体の知れない動物への命名によって、「事物」と「言葉」とのつながりが出来ました。アダムを取り巻く世界が秩序立てられたのです。エデンの園(創世記2:15)というのは、人の話し声のする喜びの世界でありました。ちなみに、二番目の発話は、男から女への、詩的な愛の賛歌です! 創世記2:23をご覧ください。
ここではアダムが、動物に向かって命名・発話したということ以上に、神が「呼ぶ」人間を「見ておられた」ということが重要です。なぜなら、神が人の言葉に、ローマの信徒への手紙10:9で言えば、人が口で公に言い表す告白に耳を傾けておられるということが証しされているからです。神と被造物に向かって「呼ぶ」人間、そしてそれをご覧になりその言葉に聞き入っておられる神、そのことが、初めに、天地創造の時に示されました。
ここで余談になりますが、ヘレン・ケラー(1880年-1968年)の有名な井戸端のエピソードを思い起こしてみましょう。物とその名が結び付く、それがいかに驚くべくことか、ということにまつわる逸話です。
ヘレン・ケラーが7歳のとき、家庭教師、サリヴァン先生は、井戸からほとばしる水の流れにヘレン・ケラーの片手を置きました。そして、彼女のもう片方の手に、先生は ‘ w-a-t-e-r ’(ウォーター)と綴りました。しばらくして突然、手の上を流れている冷たい物と言葉とがつながり、それぞれの物には名前があることを、ヘレン・ケラーは理解したのです。
ヘレン・ケラーは身体的障害のため、その時言葉を発したわけではありませんが、生き生きとした単語と物が結び付くことによって、暗黒の世界から解放されました。物には名前がつけられていることを知った、この出来事がヘレン・ケラーの人生の土台となったのです。
それと同様に、鼻に命の息を吹き入れられた人がアダムと呼ばれ、そのアダムが名をもって動物を呼んだということが、アダムの人生の、いや、あらゆる人間の基盤となったのです。
Ⅰ 口で「イエスは主である」と公に言い表す、に戻ります。
「イエスは主である」は、ギリシャ語原文で、「キュリオス イエスース」の二語です。聖なるお方、「主」を名付けるすれば、「イエス」(意味は「主なる神は救い」)であるということです。「イエス」という御名をもって主を呼び求める(ローマ10:12,13)ところに、福音の原点があります。
聖霊の導きによる、あなたの口での「イエスは主である」との告白こそが、私たちの信仰生活の初めから終わりに至る支えとなるものです。初めの時、アダムに対面されたように、神はいつもあなたを「見ておられ」、その告白に聞き入っておられます。「イエス」(主なる神は救い)という名をもって、「主」という私たちの信仰の対象であるお方を、私たちは仰ぎ、信じ、愛することができるのです。
そこで、パウロの巧みな順序立てに従って、
Ⅱ 心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じる を捉えましょう。
ここでは、Ⅰ「イエスは主である」との連関において、なぜ、「イエスは主である」のか、について、ワンポイント・レッスンがなされます。
あなたの心でもって信頼を寄せるべき、「基本的なキリスト教信条」は、この「神がイエスを死者の中から復活させられた」です。「(父なる)神が」が主語になっている点に、ご注意ください。
「イエスは主である」ということは、父なる神と御子イエス・キリストの救いの計画とその成就に基づいています。イエスが主であるのは、この一事、御父がイエスをよみがえらせたことの故です。
Ⅰ 口で「イエスは主である」と公に言い表す で、天地創造の時、人類の祖アダムの出来事を想起しましたが、Ⅱ 心で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じる において、私たちは私たち・キリスト者の将来を、終わりの時を見渡すことが許されるでしょう。
主イエス・キリストの復活が、信仰者の、やがて来たる最良の喜びの時に関わっていることは、次のパウロの章句に指し示されています。
フィリピの信徒への手紙3:10-11――
:10 わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、:11 (わたしは)何とかして死者の中からの復活に達したいのです。
私たちが、神から新たに命を授けられることによって、私たちの内にまことの回復が起こります。それは、神が主イエス・キリストの復活によって、私たちを永遠の命にあずからせてくださるからです(ルカ18:30)。
「口」で「イエスは主である」と唱え告白すること、それによって、私たちの人生の土台、初めから終わりへと至る支えが据えられます。そして、「心」で「神がイエスを死者の中から復活させられた」と信じること、それによって、主キリストが私たちの先頭に立ってくださり、私たちは御国と永遠の命の栄冠に向かって前進して行くのです。
私たちはこの世を生きる中で、しばしばうつむきがちになります。そのような「弱いわたしたち」(ローマ8:26)をよく知るパウロは、歯切れのよい高らかな「告白と讃美」をあらわしました。それによって、私たちは罪と死との闇から解放されます。それこそ、神が私たちにお与えくださる豊かな恵みです(ローマ10:12)。霊に助けられ、「口」と「心」を新たにされ強められて、告白と讃美を続けてまいりましょう。
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〈説教の要約〉
2023年3月12日(2021年 3月21日)
~大人と子どもの合同礼拝 ~
新約聖書 ルカによる福音書 9章37節~43節前半(P.123)
「子どもをいやすイエス」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ どうかわたしの子を見てやってください
……ルカ9:37-39 〈主への懇願〉
Ⅱ 弟子たちはできなかった ……ルカ9:40 〈人の挫折〉
Ⅲ 我慢しておられる主イエス ……ルカ9:41 〈主の忍耐〉
Ⅳ 子どもをいやして父親にお返しになった
……ルカ9:42 〈主によるいやし〉
Ⅴ 神の偉大さに心を打たれた
……ルカ9:43a 〈新たにされて生きる人〉
序
「翌日、一同が山を下りる」(ルカ9:37)というその前の日には、主イエスの「山上の変貌」と呼ばれる出来事がありました。主イエスは三人の弟子、すなわち、①ペトロ、②ヨハネ、③ヤコブ〔②と③はゼベダイの子で兄弟 ルカ5:10〕)を連れて、山に登られました。十二弟子のうち、九人は山に登らず、いわば下界に待機していました。
「山上の変貌」では、「栄光に輝くイエス」(ルカ9:32)が現れました。ペトロ、ヨハネ、そしてヤコブはその光景を目撃しました。これは、主イエスによって選ばれて山に登った三人がほかの九人の弟子たちに伝達すべき大切な出来事でありました。殊に、「モーセとエリヤは栄光に包まれて現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について話していた」(ルカ9:31)というのは、信仰者によって聞き取られ、また語り継がれるべき宣教の中心メッセージです。
これから十二弟子は、苦しみに遭い、十字架刑によって死なれる主イエスの御跡に従うことになります。そこで、弟子たちが目に焼き付け、心に刻んでおくべき、主の御姿こそ、「栄光に輝くイエス」だったのであります。罪と死という闇の支配が自分たちに襲い来るときにも、あるいは、たとい自分たちがつまずき倒れたとしても、最後には、主イエス・キリストにおいて神の栄光が輝くということが、弟子たちの希望となったのです。
山に登ったペトロ、ヨハネ、そしてヤコブには、霊的な体験を伝えること、そして、ほかの九人はその証を聴き取ることが求められていました。しかし下界では、大勢の群衆に取り巻かれる中、或る困難な事態が生じていました。主イエスは山の静寂から地上の喧噪へと入って行かれました。
Ⅰ どうかわたしの子を見てやってください 〈主への懇願〉
ルカ福音書9:37-39――
37 翌日、一同が山を下りると、大勢の群衆がイエスを出迎えた。38 そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。「先生、どうかわたしの子を見てやってください。一人息子です。39 悪霊が取りつくと、この子は突然叫びだします。悪霊はこの子にけいれんを起こさせて泡を吹かせ、さんざん苦しめて、なかなか離れません。」
「一同が山を下りると」、麓の平地で、信仰に関わる破綻が生じていたという展開は、荒れ野放浪時代の「金の子牛」事件を思い起こさせます。
出エジプト記32:15,19――
15 モーセが身を翻して山を下るとき、二枚の掟の板が彼の手にあり、板には文字が書かれていた。その両面に、表にも裏にも文字が書かれていた。…… 19 宿営に近づくと、彼は若い雄牛の像と踊りを見た。モーセは激しく怒って、手に持っていた板を投げつけ、山のふもとで砕いた。
十戒を授けると主に言われ(出エジプト記24:12)、モーセは雲の中に入って、山に登りました。そしてモーセは四十日四十夜、山におりました。その山の上には、主の栄光がとどまっていました(同上24:14-15)。下山後に露わにされる不信仰も含めて、主イエスの「山上の変貌」の先触れのような物語です。
ちなみに、山の麓で民と一緒にモーセを待っていたアロンは、信仰に関して何の役にも立ちませんでした。アロンは民が偶像崇拝に走るのを止めず、大きな罪を犯させてしまいました(出エジプト記32:1-5,21-25)。
主イエスの下山後の話に戻りましょう。
「そのとき、一人の男が群衆の中から大声で言った。」(ルカ9:38)
萎えかかっている気持ちを振り払い、一人の男が叫びました。大勢の群衆の中からというのですから、主イエスめがけて、大声を発したのでありましょう。主イエスへの男の願い求めは必死です。とにかく「見てやってください」……なりふり構わず、懇願しています。
そして、この男は主イエスに、「悪霊が……悪霊は……」と、子どもの病の原因と惨状を訴えました。果たして主イエスは、一組の親子の苦悩を、この世の一つの不幸を「顧みられる」(見てやってくださる)のでしょうか。主イエスは単なるミラクルメーカー、癒し手としてではなく、人々に信仰を授けるお方として、下山直後の事件に向き合われます。忍耐強く弟子たちを導かれます。
Ⅱ 弟子たちはできなかった 〈人の挫折〉
ルカ福音書9:40 一人の男→主イエス――
「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに頼みましたが、できませんでした。」
子どもの病を通して或る親子の身心に関わる「どん底」が現された後に、信仰上の「どん底」が現されました。それを象徴するのが、「(彼らは)できませんでした」という一句です。次節には、「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(ルカ9:41)という主イエスの嘆きが表されています。
「(彼らは)できませんでした」という告発は、弟子たちが病をいやせなかったことを責めているように聞こえます。しかし、主イエスに派遣された弟子たちという観点からすると、彼らは神から託された力を「十分に使うことができませんでした」という点に光が当てられます。
もちろん、「治療の必要な人々をいやす」(ルカ9:11)ことが、自分たちには「できない」とあきらめてはなりません。しかし、より大切なことは、「できる」(ギリシャ語:デュナマイ)主イエスの力を「信じる」こと、神の国が来たことを宣べ伝えることでありました(ルカ9:2,11)。
私たちもまた、この世のもろもろの問題の中で、「(彼らは)できませんでした」という無力さへと追い込まれることがあるでしょう。実際、苦難に遭って挫折します。そうした窮地で、私たちが為し得ることがあります。「(彼らは)できませんでした」という自分の弱さを、主イエスの前に告白することです。主イエスに向かって祈ること、叫び、「懇願する」ことです。九人の弟子たちが、霊の力を失ったのは、山に登られたイエスが「離れてしまった」と思い込んだからではないでしょうか。
病気の子どもと父親に伝道しようとする、そこで、自分の信仰上の「どん底」、力の無さに気づかされる、そこで繰り返し、「何でもできる」神(マタイ19:26、ローマ11:23)に立ち帰る……伝道は、求道している人のためである、と同時に、自分自身とその信仰のためのものであります。
Ⅲ 我慢しておられる主イエス 〈主の忍耐〉
ルカ福音書9:41――
イエスはお答えになった。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。いつまでわたしは、あなたがた(弟子たちをはじめとする群衆)と共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。あなたの子供をここに連れて来なさい。」
今や、主イエスご自身の言葉によって、弟子たちの「悪霊祓い」失敗の本質がえぐり出されます。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」
見渡せば目の前に、ごろごろと失敗や挫折が転がっています。「よこしまな時代」とおっしゃるけれども、世の中は結局、そのようなものだ、という冷めた意見が聞こえてきそうです。弟子たちの目の前には、突然叫びだし、けいれんを起こし、泡を吹いている子どもがいます。
ところが、主イエスは子どもをいやす、その前に、弟子たちの信仰を問われました。彼らは父親に代わって、「主よ、早く子どもをいやしてください」と言いたかったかも知れません(「すぐに」とせっかちになるのは悪の誘惑です! マルコ15:1)。子どもがいやされれば、静寂が戻って来ます。しかしそうなると、自分たち(弟子たち)のことは二の次となり、自省の機会を逸するかも知れません。
「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか。
いつまでわたしは、あなたがたと共にいて、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
子どものいやしに取りかかろうとする、そのわずかの間に、主イエスは弟子たちの信仰を「治癒」するために、彼らに語りかけられました。深い嘆きをもって、弟子たちの「どん底」を照らし出されます。
ここで「我慢する」というのは、「上にあげた状態を保つ」、すなわち、「背負う」が原意です。主イエスは弟子を背負っておられます。忍耐強く下から支え続けられます。「我慢しなければならないのか」というのは、「もう自分は担ぐことを止めた」というのではなく、罪人や病の人を「背負う」わたしの使命を、あなたがたはしっかりと受け止めなさい、ということです。言い換えれば、罪人や病の人を「背負う」ために、十字架につけられた主イエス・キリストを信じ、まことの弟子になりなさい、ということです。主イエスの深い嘆きの内に、弟子たちへの期待がひそんでいます。
そのような観点からすれば、この子どものいやしの直後に、ルカ福音書・二度目の受難予告が置かれているのもうなずけます(一度目 9:22 二度目 9:44 三度目 18:31-33)。マルコ福音書によれば、「その後(復活後)、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった」(16:14)と書かれています。
主イエスの「我慢」は長期戦です。主は弟子たちを担い続けられます。とことん愛し抜かれます。弟子たちが「信じる者になるため」ために、彼らが神と完全に一つになる(ヨハネ17:23)ために、主イエスは惜しみなく「我慢」をあらわされます。
Ⅳ 子どもをいやして父親にお返しになった 〈主によるいやし〉
ルカ福音書9:42――
その子が来る途中でも、悪霊は投げ倒し、引きつけさせた。イエスは汚れた霊を叱り、子供をいやして父親にお返しになった。
主イエスによって、奇しきしるしが行われる時がやって来ました。雑踏の中から、一人の男がまっすぐに主イエスに叫んだのに応えて、主イエスは父子に向き合われます。主イエスに弟子たちのいやしの失敗が伝えられました(ルカ9:40)から、萎えかかっている親の気持ちもご存知です……「あなたの子供をここに連れて来なさい」(ルカ9:41)。
いやしの結果のみならず、父子が忘れてはならないのは、主イエスのこの招きの声(参照:ルカ18:15-17)です! 神の御子は御言葉をもって、信じる者との交わりを保ち深めてゆかれます。
「(イエスは)子供をいやして父親にお返しになった」……「お返しになった」との言葉から、抱きかかえるようにして、子どもが主イエスから父親に受け渡された情景が目に浮かびます。子どもの居所である父のふところに返されました。男児が成長して自分の手で抱えられなくなっても、この父親は「手ずから渡され、自分の手で抱えた」ことを、その重さを覚え続けるでありましょう。なぜならば、そこには、弱い者を慈しむ神の御業の重さが掛かっているのですから。
Ⅴ 神の偉大さに心を打たれた 〈新たにされて生きる人〉
ルカ福音書9: 43a――
人々は皆、神の偉大さに心を打たれた。
奇しきしるし、子どものいやしへの人々の反応が記されています。
「神の偉大さ」とは、何でありましょうか? いやしの奇跡に「心を打たれた」というのであれば、それは底の浅い感動であると言わざるを得ません。
主イエス・キリストは、山から平地へとゆき巡る中で、「神の偉大さ」をあらわされました。「山上の変貌」での「栄光に輝くイエス」(ルカ9:32)が、山を下り、この世に生きる人々に係わられました。それは、天の父が御子に託された使命を、この世で果たすためであります。私たち・信仰者の側からいえば、御子があらわされた「神の偉大さに心を打たれ」、この地で信仰をもって、もろもろの問題に取り組んでいくことであります。「いと高きところには栄光、神にあれ、地には平和、御心に適う人にあれ」(ルカ2:14)とは、まさにこの事を指しています。
もう一度、振り返りましょう。主イエスは山を下って来られました。そして、人々へのへりくだり・謙虚さをもって、「神の偉大さ」をあらわされました。
そこには、信仰上の「どん底」に沈んでいる九人の弟子がおりました。彼らは神から託された力を「十分に使うことができませんでした」。彼らの力に期待を寄せた父子を失望させました。弟子たちは赤恥をかき、焦ったでありましょうか。
その時、大切なのは、「栄光に輝くイエス」に、「何でもできる」天の父が派遣したお方に、立ち帰ることであります。主イエスは、信仰上の「どん底」を露呈してしまった人間を背負われます。我慢されます。主イエスは、挫折の「どん底」に苦しむ者、弱く貧しい人を、声高く招いておられます。
主イエスは、弟子たちが「新たにされて生きる人」になるまで、彼らと共に働かれます(マルコ16:20)。主が十字架につけられ、復活し、弟子たちに出会い、彼らが「信じなかった」(マルコ16:11,13,14)としても、主イエスは彼らから離れられません。いったん罪を犯した者を見捨てられません。
今日のテキストの主題は、人間の信仰上の「どん底」と共に、「一人の男」の「一人息子」の命の尊さであります。神は、「一人息子」、弟子の一人ひとり、そしてわたしの命の尊さをご存知であります。
実例として、悪霊に取りつかれた「一人息子」の健やかさを回復してくださいました。そのために、御父の御心に従い、主イエスは自らへりくだり、犠牲となられました。
ヨハネ福音書3:16――
神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
そうです、身心に関わる「どん底」にある人間も、また、信仰上の「どん底」にある人間も滅びませんでした。父なる神の「独り子」なるイエス・キリストを、私たちのために遣わしてくださったからです。
喧噪、無力、落胆、赤恥、それらが行き交う中で、重病の「一人息子」が救い出されました。私たちが思い起こすべきは、それが、十字架につけられた「独り子」、イエス・キリストの御業であったということです。わたしが日々、新たに生かされているのは、わたしの罪と死とために、犠牲となってくださった主イエス・キリストの救いによって、であります。
ご自身の「独り子」の死をもって、或る父親の「一人息子」を元に返す、それが、世を愛された父なる神の御心でありました。父なる神は「独り子」を十字架の苦難に引き渡すことによって、「一人息子」、つまり、私たち一人ひとりを、神に立ち帰らせようとされたのです。
ひとりの子どもの命と人生を慈しむ、それは、私たちが、十字架の死に至たるまで従順であられた(フィリピ2:8)主イエスの弟子となるかどうかに掛かっています。主から「教えられ」、主に「学ぶ」弟子となるのです。殊に、子どもが苦しむ時、親が途方に暮れる時、周りが騒ぎ立つ時、一心に「命を尊ぶ」姿勢、それは、私たちの信仰に掛かっています。
Ω
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2023年3月5日礼拝説教
新約聖書 テモテへの手紙二 3章10~17節
旧約聖書 申命記11章1~7節
「赦された者が用いられる」
秋間文子牧師
(茅ヶ崎南湖教会牧師)
1 義に導く訓練
今日、注目したいのは、16節にある「訓練」という言葉です。「訓練」というと、信仰という心の中のことと相容れないような感じがしますが、軍隊のような訓練を一律にするというのではありません。信仰において、自分が変えられていくことが起こるからでありまして、が偶然、予期せずに起こるというのではなく、神様の御心にそって変えられていくという方向性があるということを、この訓練という言葉が表しています。
それがどういう訓練かというと、単に何かの役割になることを目標としているのではありません。ここでは、「義に導く訓練」という深みをもったものと言います。
「義」という言葉は、私たちの普段の会話には、あまり出てこないので親しみがないと思いますが、「正義、正しさ」という意味で、「義に導く」と言ったとき、この「義」が意味していることには、2つの面があると思います。
(1)義とされたことを学ぶ
一つには、聖書の語る義は、神様と人間の関係を表わすという面です。聖書では、「義とする」という言い方をしますが、例えて言うならば、裁判の場で、神様が私たちに無罪を宣告するようなものです。私たちは、神様の目から見たら、責められるところが無いとは言い切れないもので、私たち自身、自分の中にある罪というものを、どこかしら知っています。してしまったことや、しなかったことをきっかけにして、そういう形に表れなくても、自分の中に潜んでいる罪の根っこのようなものに気づかされます。人へのうらみや妬みであったり、疑いや敵意、悪意のようなもの、また、相手を拒否する思いなど、人には言わなくても、言葉に表せない思いを持っています。それは良くないと思っても、自分の力では取り除くことも、消すこともできないもので、それが神様との関係をいびつにします。「そういう自分を見ないでいただきたい」と神様に背を向けたり、自分を卑下して「駄目だなあ」と思ったり、神様の前にふさわしくないと思ったりもします。よく、教会の敷居が高いと言われますが、そういう思いも一因ではないかと想像いたします。
その私たちが神様の恵みの中に立ち帰ることができるように、主イエスが来てくださったのでありまして、私たちを裁くのではなく、その罪を背負って十字架に架かられたのでした。私たちが謝ることも償うこともできないものを主イエスが代わりに謝ってくださり、代わりにそれを背負われたから、神様は、私たちに「罪なし」と宣言してくださったのです。それによって、神と人の本来の関係に取り戻してくださったのでした。
南湖教会の礼拝では、月に1度、旧約聖書を読んでいまして、創世記の天地創造の箇所を読んだところですが、私たち人間が造られたのを見て、神様は「極めて良かった」と言ってくださいました。神様に愛されて造られたというのが、私たち人間と神様との本来の関係ですから、そこに戻してくださるのです。ちょうど、生まれたばかりの赤ん坊が何の責めも受けずに周囲の者から愛されているのと同じく、私たちも「神のもの」とされて、「愛されて生まれてきた」と言ってくださるのです。だから罪があっても、「自分は駄目だ」と見下す必要はなく、その神様との関係の中で生きよと言われているのです。
私たちは、洗礼によって、それを確かなものとされたのですが、何かあると、この「義とされた」ということが忘れ去られてしまいます。日本キリスト教団の信仰告白には、主イエスが「十字架にかかり、ひとたび己を全き犠牲として神にささげ、我らの贖ひとなりたまへり。」と言います。「贖い」というのも、耳慣れないことばですが、「売られた者を買い戻す」という意味です。分かりやすく言えば、「普通は責めを負うべきところを、主イエスが肩代わりしてくださったという、あり得ないことが起きた」ということです。「普通は」という発想で、私たちは自分を責め、人を責めるのですが、そういう私たちの根本が神様によって肯定されているのです。この世的な責任は負っていかなくてはなりませんが、神様の前で否定されているのではない、ということを洗礼によって、確実なものにしていただいたのです。
ここでいう「義に導く訓練」というのは、一つには「義とされたという事実に、自らを導いていく訓練」と言うことができます。「赦された者である」と自分自身に教えていくことです。そのために、聖書が有益であると今日の箇所は教えているのです。その聖書を基にして礼拝がなされます。招詞、招きの言葉を聞き、讃美歌を歌い、主の祈りを祈り、聖書に聞く、その中で、「義とされた」ということを自分のものとしていくのです。自分で自分を裁く思いから、自分の評価を神様に委ね、神様の赦しの言葉を受け入れる、自分への言葉とする、そのこと自体が、私たちにとって、まず必要な訓練です。
さらに、聖餐式では、あの教団信仰告白、「神は、…我らの罪を赦して義としたもう」と告白し、主の体と血を頂くのでありまして、私たちの知的な理解を越えて、自らに刻み込む大切な儀式と言えます。
(2)二つ目に、「義に導く」というのは、私たちが理解し、納得すればいいというのではなく、この義という言葉の持っている本来の意味に目を向ける必要があります。
義というのは、相手との関係を重んじたものですから、神と人とのことで言えば、神様の前における「正しい在り方、求められる行為」を指します。神様に赦された者が、それにふさわしく、神様に応えていくことです。
キリスト教の教えは「そのままでいい」という風に単純に表現されることがありますが、誤解されやすい言い方です。赦されるために、私たちが何か徳を積む必要があるかというと、そうではなく、「わたしたちはそのままで、ただ主イエスの十字架によって赦される」と言えるのですが、それは、この先、ずっと「そのままでいい」ということを意味しているのではありません。ある学者が面白いたとえをしました。例えば、パックの牛乳の中身が腐っていた時に、そのままで良しとして「合格」の印を押したとしても、中身が腐っていることに変わりはありませんから、「合格」させること自体、何の意味もないことになります。(神代真砂実著『改めて学ぶ、教団信仰告白』東神大パンフレット43)
義とされるというのも、同じで、私たちが良しとされても、中身が変わらなければ、私たちの悩みも、生きにくさも変わりないのでありましょう。「赦されたのだから、罪はどうでもいい」ということにもなりかねません。
教団の信仰告白では、「聖霊は我らを清めて、義の果を結ばしめ」とあります。神様の義、神様の求める正しさに応えていこうとする私たちの行い、またその姿勢が実りをもたらすというのです。テモテへの手紙一では、「正義、信仰、愛、忍耐、柔和を追い求めなさい」と言いますから、「義に導く訓練」というのは、それらへと向かって行くことを意味します。まさしく、神様に赦され義とされた者が、その内実を持つように導かれていくのです。それは、「訓練」というよりも、「訓育」と言った方がいいと言われます(『新約聖書釈義事典』)。「訓育」というのは、「人格の形成を目ざすもので、その人の素質・習慣などをよい方に伸ばすように教え育てること」と言われます。義とされた者として、私たちの内面も養われ、生き方、あり方が変えられていく、神様の喜ばれる方へと伸ばされていくことがここで言う訓練なのです。
聖書には、多額の借金を帳消しにしてもらった家来が、自分にほんの少しの借金をしている仲間を赦さなかったということの問題を指摘している話があります(マタイによる福音書18章21~35節)。神様から赦された者が、今度は隣人を赦していくことが求められているのでありまして、それなしには、神様の赦しを本当に味わうことにならないというのです。私たちは、主イエスのようになれるわけではありませんから、「義の果を結ぶということは出来ない」と思われるかもしれませんが、その方向へと導かれていることは確かなことです。
3 教会において
今日の箇所、17節には、「こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。」と言います。今の2つの面を重ね合わせていうならば、「赦された者が育てられ、用いられていく」のです。私たちはそのように育てられている最中でありまして、人間的には、自己評価を低く見積もりがちなのですが、そういう私たちを神様が育てているのです。
申命記を見ますと、その神様の訓練を知っているのと知らないのとでは大違いであると言います。今日の箇所では、出エジプトの旅のことを取り上げていますが、その旅自体を「主の訓練」と呼んでいます。荒れ野では、食べる物にも事欠き、飢え死にしそうだと不平を言い、エジプトにいた方が良かったと嘆き、モーセに八つ当たりするのですが、そういう民を、神様は不思議な力で導かいてくださいました。岩から水を出し、マナという食べ物も与え、神様の導きがあることを知らしめたのでした。食べ物を与えつつ、同時に、「人はパンだけで生きるのではなく、主の言葉によって生きる」ということを教えたのでありまして、イスラエルの民は、生きるか死ぬかというところで、神様を信じることが生きる力になることを学んだのでした。苦労をすることで、信仰の厚みが増すのでありまして、それを味わっていない子孫とは違うと言うのは、苦労したことを受け入れた告白、大変な中、信仰を貫いたことへの誇りさえ、感じられる言い方です。つい神様は自分たちの願いをかなえてくれるように思ってしまうけれども、そうではないと知らされた者は、計り知れない御心にひれ伏しつつ、謙虚に歩む姿勢を得てきたのです。
今日のテモテ書の冒頭は、苦難を受けつつも、主イエスの後に従ってきたことをパウロが述べているのですが、私たちは、そのように育てられ、整えられている途上にありまして、教会はそれを共にする群れです。今日の箇所の最後、「神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられる」という言葉は、まず教会において具体化し、実現していきます。人間的な得手、不得手はあると思いますが、それを越えたところで、同信の仲間と共にいることが求められ、奉仕をし、互いのために祈ることが求められます。それぞれが神様の許で、訓練され、育てられているのでありまして、「赦された者が用いられる」という神様の大きな計画がなされている最中なのです。さらに私たちに課された働きは、教会の中のことに留まらず、創世記1章では、この地を治めよと命じられていますから、この地に対しても、善い業を行うようにと期待されています。教会で培われた隣人愛をもって、この世での役割を担っていくようにと押し出されるのです。教会を建て、また、この世の働きを担っていく知恵と力を頂けますよう、祈りたいと思います。
祈祷致します。
主イエス・キリストの父なる神様。
私達を教会に集め、ここでの出会いを与えてくださった恵みを思います。私たち赦された者が育てられ、用いられていますことを思い、感謝いたします。
香川の地に建てられた教会に、多くの友が招かれ、信仰が与えられてきました。どうぞ、教会の働きを祝してください。主任牧師のおられないこの時期を支え、一人ひとりが善い業を行うことができるよう、十分に整えられてまいりますように。
それぞれに必要な訓練がなされてまいりますように。
この場に集い得ない友らを顧みてください。私たちと同じく神様に養われてまいりますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
〈説教の要約〉
2023年2月26日
(実際の説教日 2020年 11月22日 降誕前 第5主日
於 茅ヶ崎教会-講壇交換 )
旧約聖書 エレミヤ書 20章7節~13節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 4章8節~10節
「主の言葉が燃える火のように」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 主よ、あなたがわたしを惑わした
Ⅱ 主の言葉が燃える火のように
Ⅲ 恐怖が四方から迫る
Ⅳ イエスの命がこの体に現れるために
序
エレミヤは、紀元前7世紀後半から6世紀前半かけて、南ユダ王国で活動した預言者です。出身は、都エルサレム近郊の町アナトトです(エレミヤ書1:1)。その生涯の間に、バビロニア帝国によって南ユダ王国が滅ぼされ、民が捕囚となるという災禍が起こりました。
もう少し詳しく言うと、礼拝と信仰の堕落、社会倫理の低下、国家の壊滅、そして遠国への捕囚など、エレミヤはあらゆる悲惨にさらされました。その上、歴代の王はじめ大多数のユダの民との軋轢・不和に、エレミヤはさいなまれました。そのようなことを、召命の時、「若者」(エレミヤ書1:6)・エレミヤは想像もしなかったでありましょう。
今回は、預言者として働いていたエレミヤが書き残した「告白」を読むことにします。悲嘆や確信が入り混じる形で、神への訴え・祈りが表されています。絶望の底から神に叫んでいるというところに、信仰者の様子がリアルに描かれています。そこに例えば、パウロに通じるような信仰者の典型的な姿を見て取ることができます。「わたしにも思い当たる節が……」と共感を呼ぶならば、幸いです。期待して読み進んでみましょう。
Ⅰ 主よ、あなたがわたしを惑わした
エレミヤ書20:7――
①主よ、あなたがわたしを惑わし
わたしは惑わされてあなたに捕らえられました。
⇒原文:あなたは(わたしを)捕らえた。
②あなたの勝ちです。
③わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
重要な点に番号を付けました。いきなり告白され、なおかつ見逃せない要点が三つも連続していますから、分かりにくいことでしょう。
順序立てて説き明かしましょう。
①の「あなたがわたしを惑わし わたしは惑わされて」は、「惑わす」が繰り返されて、その出来事が強調されています。「エレミヤが惑わされた(だまされた)」って、どういうこと? という疑問が沸いてくることでしょう。
「惑わされた(だまされた)」と聞くと、エレミヤは、王か民の誰かに、落とし入れられたのか、と思います。それほど、人聞きの悪い言葉です。がしかし、そうではなく、「主よ、あなたがわたしを」と昭示されているように、「惑わした」のは、主なる神です。一体、神が預言者、神の僕を惑わすとは、どういうことでしょうか? 段階を追って説明しましょう。
神と出会う前、神から召命を受ける前、否、正確には召命を受けた後も、エレミヤは自己中心という罪の中で苦しみました。王やユダの民との軋轢の中で、神の御心に添って、使命を果たそうという思いまたは信仰が揺さぶられます。エレミヤが神から受けた預言を伝達する際、人々は彼を「笑い者」にし「嘲り」ます。
この世との戦いが激しくなればなるほど、ますます神によりすがっていかねばならないと頭では分かっていても、心身がついていかなくなります。そうして芽生えてくるが、「わたしはこう判断する」あるいは、「わたしほど頑張っている者はいない」という自己中心的な思いなのです。それが表れているのが、エレミヤの、以下の告白の部分です。
わたしが語ろうとすれば、それは嘆きとなり(わたしは嘆き)
(わたしは)「不法だ、暴力だ」と叫ばずにはいられません。
主の言葉のゆえに、わたしは一日中
恥とそしりを受けねばなりません。
エレミヤが叫びわめくのも無理はありません。神の御心に添わず、罪に走っている民は、エレミヤを打ち、拘留した(エレミヤ書20:2)のですから。エレミヤを自己中心と言うのは手厳しいかも知れませんが、彼は神中心に生きることから離脱しそうになっています。神から離れれば、「自分で」生きるしかありません。
エレミヤ書20:9a――
(わたしは)主の名を口にすまい と(わたしが)思っても
(わたしは)もうその名によって語るまい(と思っても)
「主の名を口にすまい」または「もうその名によって語るまい」というのは、明らかに神の預言者であることを「止める」ということです。「あなたと共にいて 必ず救い出す」(エレミヤ書1:8,19)という「神のために」生きるのか、それとも、「自分で」生きるのか、エレミヤは瀬戸際に立っています。そこで、私たちの耳に入って来るのが、
②あなた(主なる神)の勝ちです という一句です。エレミヤは伸るか反るかの瀬戸際に立ちながらも、自分への回答を得ています。これが、分岐点であることは、「わたしの負けです」(エレミヤ書20:9)という対照的な宣言からも分かります。勝利宣言に、敗北宣言が対応しているのは健全なことです。エレミヤは、神に召され、神に捕らえられた者として、栄光はただ神にのみ輝くことを認めています。さらに……
エレミヤ書20:11――
しかし主は、恐るべき勇士として
わたしと共にいます。
それゆえ、わたしを迫害する者はつまずき
勝つことを得ず、成功することなく
甚だしく辱めを受ける。
というように、エレミヤに敵対する王やユダの民が、神に打ち勝つことはないと告知しています。
従って、
③わたしは一日中、笑い者にされ
人が皆、わたしを嘲ります。
というように、エレミヤは迫害されていますが、それに勝って、忍耐する力が神から与えられています。神の預言者を愚弄する者たちは、「とこしえの恥辱」(エレミヤ書20:11)に染まることになります。
要点の②と③を踏まえつつ、①の「エレミヤが惑わされた(だまされた)」(英訳:be induced 中に+導かれる)ということを簡潔に説明しましょう。
エレミヤが、神に惑わされたとは、神の中に引き入れられたということです。自己中心や隣人蔑視の罪から解き放たれて、神の勝利と正義の中に移されたということです。エレミヤはひと度は、自分の考えに固執しましたが、「主の言葉」(エレミヤ書20:8,9)によって方向転換させられました。
自分が当初、人生の中でやりたいと思っていたことが、神から委託された「ご用」(奉仕)のために出来なくなった……つまり、神に惑わされた、つまり、神から預言者として生きることへと誘われたということです。それが、エレミヤの言いたかったことです。「だまされた!」と叫び声をあげたくなるほど、エレミヤの人生が変えられてしまいました。それは、神が貧しく弱い者に恵んでくださった奇跡であり驚きなのであります。
ひと言でいえば、「だまされて」残念ではなく、「だまされて」納得・快哉・ハレルヤということです。
そこで次に、どんな事において、「だまされて」ハレルヤなのか、見てみましょう。
Ⅱ 主の言葉が燃える火のように
主の名を口にすまい
もうその名によって語るまい、と思っても
主の言葉は、わたしの心の中
骨の中に閉じ込められて
火のように燃え上がります。
押さえつけておこうとして
わたしは疲れ果てました。
わたしの負けです。
「(わたしは)主の名を口にすまい と(わたしが)思っても (わたしは)もうその名によって語るまい(と思っても)」という自己へのこだわりは消し飛ばされています。「主の言葉が 火のように燃え上がっている」(普遍の真理を示す文体になっています)からです。
その主の言葉は、時に、「主に向かって歌い、主を賛美せよ。主は貧しい人の魂を 悪事を謀る者の手から助け出される」(エレミヤ書20:13)というように、信仰者の賛美へと行き巡っていきます。賛美は暗闇で戦う預言者の力となります。
「主の言葉が彼に臨んだ」(エレミヤ書1:2)ように、エレミヤは加えることも削ることもなく、御言葉を伝達しました。預言の内容が変えられることはありませんでした。しかし、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し あるいは建て、植えるために」(エレミヤ書1:10)と、都大路で叫ぶことは、まさに命懸けのことでありました。
ヨハネ福音書12:25 主イエスの言葉――
「自分の命を愛する者は、それを失うが、この世で自分の命を憎む人は、それを保って永遠の命に至る。」
以前に、この主イエスの言葉について、次のように説教しました。
「自分の命を憎む」というのは、誤解を生じかねない、過激な言い方です。それは、この世の価値観からすれば、〈異常な〉生き方と見なされるでありましょう。しかし、「自分の命を憎む」という、私たちの思いを超えた〈新しい〉生き方の中にこそ、「それを保って永遠の命に至る」という恵みが隠されています。主イエスは、「自分の命を憎む」という句によって私たちに、そのような恵みを与えられる神への信頼を呼び覚まそうとされているのです。
パウロはこの世において、「自分の命を憎む」という厳しさを自らに課し、「生きるとすれば主のために生き……」という主にあって晴れやかな人生を送りました。自分の骨身を削る……それが、パウロの献身であり喜びでありました。ハレルヤ!
エレミヤは、「主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」という真実を告白し、そして、「わたしは疲れ果てました」と打ち明けました。
Ⅲ 恐怖が四方から迫る
エレミヤ書20:10――
わたしには聞こえています
多くの人の非難が。
「恐怖が四方から迫る」と彼らは言う。
「共に彼を弾劾しよう」と。
わたしの味方だった者も皆
わたしがつまずくのを待ち構えている。
「彼は惑わされて
我々は勝つことができる。
彼に復讐してやろう」と。
エレミヤが「わたしは疲れ果てました」と打ち明けています。実際、彼を打ちのめしたのは、「わたしの味方だった者」の裏切りです。愛し合う者から憎しみ合う者へと転換は、衝撃です。
王国の壊滅、そしてバビロンへの捕囚という惨劇の中で、さまざまな悲しい出来事が起こりました。その一つが仲間同士の裏切りでした。外敵の横暴に加え、以前には慰め励ましてくれた者の離反は、信仰ある者をも絶望へと追いやりました(哀歌1:2,16)。
かつてエレミヤは、神殿の最高責任者である祭司、パシュフルに「恐怖が四方から迫る」(マゴール ミサヴィヴ)という名を与えました。安穏にもパシュフルが、エレミヤの預言に耳を傾けず、嘲笑したからです。パシュフルは偽りを預言する者でありました(エレミヤ書20:6)。
ところが今、「恐怖が四方から迫る」(マゴール ミサヴィヴ)という呼称が、パシュフルら反逆者から、エレミヤに投げ返されました。「恐怖が四方から迫る」という裁きの言葉が弾丸のように、同胞エレミヤに向かって打ち込まれました。彼らはエレミヤに報復したのです。それは、外圧のみならず、内部から南ユダ王国が崩れていく兆しでありました。
「わたしの負けです」、そして、「わたしを迫害する者はつまずき 勝つことを得ず」という情況の中で、エレミヤの唯一の希望は、宣言であり預言である「あなた(主)の勝ちです」との言葉に置かれていました。
パシュフルら反逆者からの報復はともかくも、エレミヤは実際に、「恐怖が四方から迫る」という情況にありました。ここで新約聖書に目を転じると、エレミヤ同様に、「恐怖が四方から迫る」という瀕死の試練に遭った人物がおりました。使徒パウロがその人です(使徒言行録9:23-24、14:5)。
Ⅳ イエスの命がこの体に現れるために
コリントの信徒への手紙 二 4:8-10――
8 わたしたちは、四方から❶苦しめられても①行き詰まらず、❷途方に暮れても②失望せず、9 ❸虐げられても③見捨てられず、❹打ち倒されても④滅ぼされない。10 わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています、イエスの命がこの体に現れるために。
ここで、❶苦しめられて、❷途方に暮れて、❸虐げられて、❹打ち倒されて というように、パウロはじめ「わたしたち」は、四重の脅威に囲まれています。「わたしたち」は前後左右から圧迫されて、押しつぶされそうです。ところが、①行き詰まらず、②失望せず、③見捨てられず、④滅ぼされない というように、「わたしたち」は護られています。信仰の先達、エレミヤに拠れば、私たちの内に、主の言葉が火のように燃え上がっているからです。
確かに、信仰者は、❶苦しめられて、❷途方に暮れて、❸虐げられて、❹打ち倒されて というように、我が身をすり減らすような苦難に遭うことがあります。問題はその際、その苦難において、「いつもイエスの死を体にまとっている」かどうかであります。四方が封鎖されている中で、主イエス・キリストの十字架を仰いでいるかどうかです。
H.-D.ヴェントラントは、「キリストとの交わりは、苦難の交わりである」と述べています。その苦難の故に、「自分が惑わされた(だまされた)」と思った時、エレミヤは「わたしはあなたに捕らえられました」(エレミヤ書20:7)と告白しました。私たちにおいては、十字架のイエス・キリストにつながること、その主を信じることが重要です。
十字架のイエスの死、その贖いの業によって、私たちは罪と死から救い出されました。「イエスの命がこの体に現れるために」、再臨の主イエス・キリストとの出会いを心から待望します。神によって「惑わされて(だまされて)」(英訳:be induced 中に+導かれる)、重荷を負う人生を送ったとしても、イエス・キリストの命の中へ導かれる(ローマ6:3-4)ことこそが、私たちの心からの願いです。
「わたしたちは、いつもイエスの死を体にまとっています」……主イエスに、やがて似させられる者(ローマ8:9、Ⅰヨハネ3:2)として、苦難は付きものです。決して、①行き詰まらず、②失望せず、③見捨てられず、④滅ぼされない という神の護りを信じ、日々、自分自身と教会の「わたしたち」が新たにされるようにと願います。聖霊なる神が、私たちを造り変えてくださいます(ヨハネ3:4-8)。
讃美歌Ⅰ-333番 3節――
わが力は 弱く乏し、 暗きにさまよい 道に悩む。
あまつ風を 送りたまえ、 さらば愛の火は 内にぞ燃えん。
「主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」。
神は、私たちを救い出し、造り変えるために、熱情を注がれるお方です。
Ω
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〈説教の要約〉
2023年 2月19日
新約聖書 マルコによる福音書 9章14節~29節
「信仰のないわたしをお助けください」
小河信一牧師
説教の構成――
Ⅰ 悪霊を追い出せなかった弟子たち ……マルコ9:14-18
Ⅱ いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか
……マルコ9:19-20
Ⅲ 信じます。信仰のないわたしをお助けください
……マルコ9:21-24
Ⅳ イエスが手を取って起こされると、立ち上がった
Ⅴ この種のものは、祈りによらなければ
……ゼカリヤ書10:6 + マルコ9:28-29
序
わたしたちはこの世にあって、天より再び来られる主イエス・キリストにお会いできる日を待ち望んでいます。主の再臨という聖なる出来事に対して、わたしたちの期待が高揚しつつも、忍耐強く、今為すべきことに集中すべきでありましょう。
主イエスが、「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)とおっしゃられていますので、伝道は急務であります。神が愛をもってわたしたちにお与えになった「独り子」、イエス・キリストを、世に宣べ伝えることが、わたしたちの為すべきことの第一です。
再臨を待ちつつ、伝道に勤しむというけれども、どれほど時間が残されているのか、分からないし、時には休みたくもなります、と言われることでしょう。そこで、本日は、「山のふもと」で「栄光に輝くイエス」(ルカ9:32)が戻って来られるのを待っていた、弟子たちならびに群衆の様子を見てみることにしましょう。
主イエスと共に、三人の弟子、すなわち、「山上の変貌」(マルコ9:2-8)を目撃したペトロ、ヨハネ、ヤコブが山から下りて来ました。十二弟子のうち、九人は山に登らず、いわば下界に待機していました。群衆に囲まれる中、弟子たちは深刻な問題を抱え込んでいました。主を待ち望むという状況下で、暴き出された課題は、わたしたち自身のものとして受け止めるべきであります。
主イエスは、山の静寂から地上の喧噪へと入って行かれました。
Ⅰ 悪霊を追い出せなかった弟子たち
マルコ福音書9:14-18――
14 一同がほかの弟子たちのところに来てみると、彼らは大勢の群衆に取り囲まれて、律法学者たちと議論していた。15 群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した。16 イエスが、「何を議論しているのか」とお尋ねになると、17 群衆の中のある者が答えた。「先生、息子をおそばに連れて参りました。この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。18 霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです。すると、この子は口から泡を出し、歯ぎしりして体をこわばらせてしまいます。この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした。」
九人の「弟子たち」と「大勢の群衆」との間に、議論が持ち上がり、その騒動に、「律法学者たち」が油を注いでいる……そんな光景が目に浮かびます。「大勢の群衆」は、弟子たち寄りと律法学者寄りとに分断されて、収拾がつかなくなっているのではないかと、心配されます。
「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き、駆け寄って来て挨拶した」……まるで、エルサレム入城の時にように、主イエスが堂々と、かつまた、謙虚な面持ちで登場してきたかのように描かれています。ただし、「群衆は皆、イエスを見つけて非常に驚き……」ということですが、どういう意味合いで「非常に驚いた」のかは、不明です。
ただただ「イエス」というお方そのものに「非常に驚いた」というのであれば、群衆が、主イエス・キリストがどのようなお方であるか、を見て、知って、信じることが、次の課題になります。
主イエスの答えに「驚き入る」(マルコ12:17)ように、群衆と主イエスとの問答が進められていきます。「先生、息子をおそばに連れて参りました」と言っていることから、この「群衆の中のある者」は「この子」の父親だと分かります。
父親は騒々しい「議論」を尻目に、「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」と、失意の底に沈んでいます。主イエスに怒りをぶつけている、とも取れる、父親の激しい訴えです。主イエスは今、死と罪に押し流されそうなこの世の状況に直面しています。父親の証言に従って、由々しき事態を整理してみましょう。
ここには、二通りの「どん底」を経験している人間がいます。片や、身心に関わる「どん底」にある息子とその父親、そして片や、「この霊を追い出せなかった」、信仰上の「どん底」にある弟子たちであります。わたしたちが、「山のふもと」に暗雲が垂れ込めているように感じるのは、そのためであります。
「山のふもと」で、身心に関わる「どん底」と信仰上の「どん底」とが現されました。そこに、主イエスが入って来られました。「群衆は皆、駆け寄って来て挨拶した」とのことですから、歓迎のうちに主イエスはやって来られました。主イエスは御言葉と御業をもって、絡み合う難題に立ち向かってゆきます。
さて、死と罪に打ち負かされた状態から、人間はどのように、神の癒やしと救いによって助け出されるのでしょうか。
Ⅱ いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか
マルコ福音書9:19-20――
19 イエスはお答えになった。「なんと信仰のない時代なのか。いつまでわたしはあなたがたと共にいられようか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。」 20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。
人々の心を悩ます情況が目の前にあります。一人の父親が、「この子は霊に取りつかれて、ものが言えません。霊がこの子に取りつくと、所かまわず地面に引き倒すのです」(マルコ9:17-18)と証言しました。そして実際に、人々は「すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになった……」(同上9:26)という現場に居合わせました。多くの人は気が動転しそうになっていることでしょう。主イエスは御言葉をもって、混乱した情況を解きほぐしてゆかれます。
主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれ、「信仰」が根本の問題であることを明示されました。何が「信仰のない」ことなのでしょうか?
それは、主イエスの留守の間、弟子たちが、「この霊を追い出せなかった」ことを指しています。それによって弟子たちは、信仰上の「どん底」を露呈してしまったのです。主イエスは、証人としての父親の訴えに耳を傾け、弟子たちを見つめながら、「なんと信仰のない時代なのか」と、声を上げられました。
「この霊を追い出せなかった」という一件で、弟子たちを「信仰のない」と断罪するのが、主イエスのやり方なのですか、と問われるでしょうか?
確かに、十二弟子を巡回伝道に派遣するとき、主イエスは彼らに、「悪霊に対する権能を授け」られました(マルコ6:7)。ところが、叫び苦しむ子どもに出会い、「イエス・キリストの御名」を唱えて癒やそうとしました(同上9:38、16:17)が、失敗しました。たった一回の失敗かも知れませんが……。
おそらく、主イエスはその悪霊追放の不成功を責めたのでないでしょう。そうではなく、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれるほどに、不信仰なこの世に、弟子たちが遣わされた、その主の僕としての使命を問われているのではないでしょうか。すなわち、あなたはほんとうに、「イエス・キリストの御名」を信じていますか、また、世に御名の力を現すことに重荷を負っていますか、ということです。
一度挫折したからといって、この世からの非難や軽蔑に巻き込まれてはなりません。「イエス・キリストの御名」の働きを疑うならば、その弟子が「信仰のない」人と呼ばれても、反論できません。
弟子たちによる悪霊追放が失敗して、子どもが放置されているという重い空気の中で、主イエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と命じられました。厳しい言葉によって固まってしまった弟子たちと入れ替わるように、主イエスが動き出されました。自らの御業によって神の栄光が現されるよう、前に進んで行かれました。主の招きに応えて、弟子たちではなく、ある「人々」が子どもを「イエスのところに連れて来」ました。
弟子たちも群衆もまだ気づいていなかったでしょうが、主イエスは子どもを迎え入れるにあたり、救い主としての姿勢を示唆されました。「いつまで、わたしはあなたがたに我慢しなければならないのか」との一句に、それが表されています。「信仰のない時代」においても、世を愛し抜かれる、主イエスの忍耐深さに注目しましょう。
「いつまで、わたしはあなたがたに我慢しなければならないのか」……「我慢する」という動詞は、「手を上げて(あるものを)支える」というのが原意です。従って、支えている人が持ち上げているものに嫌悪を抱いているというわけではありません。むしろ、喜びと感謝をもって「我慢する」・「支える」というニュアンスが汲み取られます。
ここまで説明すれば、「わたしはあなたがたに我慢しなければならない」との言の葉から、十字架を担がれる主イエス・キリストの御姿が垣間見られるでしょう。「汗が血の滴るように地面に落ちる」(ルカ22:44)ような忍耐をもって、主イエスは十字架を背負い、その木に上げられ、死を全うされました。全人類の罪を背負い、十字架の死をもって贖うために、耐え忍ばれました。
その点で、「いつまで、わたしはあなたがたに我慢しなければならないのか」との御言葉は、深い嘆きであると同時に、わたしは十字架の死に至るまで従順であるという主イエスの予告にほかなりません。付け加えると、「山上の変貌」とこの「悪霊の追放」の記事(マルコ9:2-29)は前後、「主イエスによる死と復活の予告」(同上8:31、9:31)によって囲まれています。
この場面で、主イエスは「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれました。主イエスはいつも、「信仰」を根本の問題に据え、あらゆる機会に、人々を正しい「信仰」に導き入れようとされています。その主の御心が適い、一人の信仰者が誕生します。
Ⅲ 信じます。信仰のないわたしをお助けください
マルコ福音書9:21-24――
21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。22 霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」 23 イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」 24 その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」……父親は絶望の淵に置かれていました。父親は重ねて、息子の窮状を訴えました。気持ちがもはや萎えかかっています。
しかし、主イエスは急がれません。焦ることがありません。父親の言った「もしあなたがおできになるなら」との一句に心を留められました。正しい「信仰」への突破口を見出されました。
「もしあなたがおできになるなら」との言葉の内に、主イエスに対する疑いが入り交じっているとも受け取られます。あなたの弟子たちに失望させられました、「あなたが」信頼できる人なのか、見極められないということです。主イエスご自身、この現場・「山のふもと」が、「この霊を追い出せなかった」という弟子たちの無能さや「信仰のない時代」の空気に覆われているのは、ご存じです。
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」……主イエスの真意を説き明かしましょう。
まずは、「もしあなたがおできになるなら」という留保は止めなさい、ということです。息子が癒やされるかどうか、あるいは、このわたし(父親)に神の憐れみが下るかどうか、つまり、癒やされたらとか、あるいは、神に憐れまれたらとか、自分で納得できるものがあれば、という考え方は、「信仰」と相容れません。それでは、自分の思想や欲望の枠内に、「信仰」の対象である主イエス・キリストを、そのお方を、押し込めることになります。
「信じる者には何でもできる」……この言葉の意味は、こうです。
まず前提として、「あなたがおできになる」、すなわち、「人間にできることではないが、神にはできる」(マルコ10:27)ことが、この宣言の土台になっています。「何でもできる」と言い切っているところに、全能なる神の力への信頼があります。御子イエス・キリストは、御父の全能なる力を、この世にあらわされたお方です。だから、それは破棄されることのない、主イエスの宣言なのです。
そして、それを踏まえながら、「信じる者には何でもできる」と告げられています。ここで神は、人々が「何でもできる」イエス・キリストを信じ、そして、「信じる者」が御名を唱えて、神の愛と正義をあらわすようにと願っておられます。神は愛と正義の業を行うよう、「何でもできる」僕たちに託されています。たとえ神の奇跡を起こそうとして失敗したとしても、主イエス・キリストによって立ち直りの力が与えられるよう祈り求めるのが、「信じる者」にほかなりません。
「わたしは信じます。信仰のないわたしをお助けください」……主イエスとの対話のうちに、父親は「信仰」を告白しました。
わたしたちは、主イエス・キリストによって、いったい何から救われるのでしょうか?
ひと言でいえば、死と罪の縄目から解放されるということです。しかしまた、「信仰のないわたし」が、主イエス・キリストによって「信じる者」に造り変えられるとも言えましょう。つまり、不信仰なわたしから、「何でもできる」神の御力によって助け出されるということです。
わたしたちは礼拝で、また、祈りの時に、「わたしは信じます」と告白します。神に向かって叫びます。その時、わたしは「信仰のないわたし」を神に隠すことなく、真に悔い改めます。わたしは信仰上の「どん底」、その危難に遭っても、ただ神によって救い出されることを祈り求めます。
人の信仰上の「どん底」からの回復が示された後、人の身心に関わる「どん底」からの治癒が行われます。
Ⅳ イエスが手を取って起こされると、立ち上がった
マルコ福音書9:25-27――
25 イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」 26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
病気には、いろいろな種類のものがあります。わたしたちは「病が癒やされますように」と祈ることが許されています(ヤコブ5:13-15)。新感染症が再流行している折しも、わたしたちは切に癒やしを願い求めています。
果たして、癒やしが「できる」かどうか、というときに大切なことは、神の奇跡として、すなわち、神の御心に添った出来事として、癒やしを行い、また、その結果を受け止めることであります。従って、自分は人を癒やす力を持っているなどという過信は退けられます。
何よりも、十字架と復活という大いなる神の救いの御業が、御心に添った出来事の土台となっています。その御業への「信仰」こそが、苦しんでいる人を癒やす力の源泉となります。
その点で、汚れた霊に取りつかれた子どもの癒やしが、主イエス・キリストの十字架と復活を想起させるような形で成し遂げられているのは、驚くべきことです。まさに、「信仰」的な、神の奇跡です。
子どもに対する癒やしは、以下のように進められてゆきました。
①御言葉による開始宣言:「わたしの命令だ(わたしがあなたに命じる)」⇒②霊は出て行った⇒
③死んだようになった〈十字架の死〉⇒④起こされる〈復活〉⇒⑤立ち上がった
もう一例、挙げましょう。
マルコ福音書5:41-42 ヤイロの娘の癒やし――
41 そして、(イエスは)子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
汚れた霊に取りつかれた子どもの癒やしとの類似が、顕著であります。この二例からも、癒やしが「できる」かどうかは、ひとえに、主イエス・キリストの十字架と復活を信じることに掛かっていると教えられます。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活が映し出されるような神の奇跡が、わたしたちの困窮した現場で起こるように、願い求めます。そのような神の奇跡を期待することが許されています。嘆き呻いている人でも、主を信じ、「イエス・キリストの御名」を唱えることができます。
「信じる者」に、悪霊を追い出すようなしるしが伴うこと(マルコ16:17)は、真実です。ただし、しるしはあくまでも「伴う」ものであります。「信じる者」が、集中すべき本筋は、永遠の救いに関する福音を宣べ伝えることにあります。そこに、「神にはできる」という御力が増し加えられます。
突然、地上の喧噪へと入って行かれた主イエスに再び、静寂が訪れました。わたしたちも心が整えられるよう前置きとして、「わたし」なる神の御言葉に耳を傾けましょう。
Ⅴ この種のものは、祈りによらなければ
ゼカリヤ書10:6――
結論的に、「わたしは彼らの祈りに答える」(直訳:わたしは彼らに答える / わたしは彼らのことを聞き届ける)ということが提示されています。感謝なことです。
問題は、そこに至る過程です。それを見逃してはなりません。そこには、悪霊祓いのしるし一つすら見出せないような、困難が横たわっていました。
北イスラエル〈ヨセフの家〉と南ユダ〈ユダの家〉による王国の歴史は、前587年、バビロニアによるエルサレム破壊とバビロン捕囚をもって幕を閉じました。兄弟の国が、神を拝まず、自分勝手な罪なる生活を極め、崩壊へと至りました。〈ユダの家〉は悪行を重ねた末の〈ヨセフの家〉の破滅を恐れず、同じ過ちを犯してしまいました。そうして、預言者ゼカリヤの活動中も、パレスチナの地は、ペルシアやエジプトの支配下に置かれていました。
その時、仲違いしていた兄弟、〈ヨセフの家〉と〈ユダの家〉とが共々に、神によって「力を与えられ、救われ」ます。離散して、バラバラになっていましたが、神のもとに「連れ戻」されます。ここに、衰退や憎悪を打ち払う神の奇跡が成し遂げられました。
そして、「彼らはわたしが退けなかった者のようになる」という宣言には、神の「憐れ」と赦しが昭示されています。裏を返せば、「彼らは、かつてわたしが退けた者である」ということです。今、神はその「放蕩息子」の帰還を喜ばれ、その「生き返り」を支えておられます。
そうして、今後に向け、〈ヨセフの家〉と〈ユダの家〉が悔い改めをもって心に刻むべきことが、「わたしは彼らの神なる主であり 彼らの祈りに答える(であろう)」とのメッセージです。「祈り」に関わる約束をもって、「わたし」なる神は和解した兄弟の将来を見守られます。
マルコ福音書9:28-29――
28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
「ひそかに」……願わくは 公然と! 隠し立て無用……ではありますが、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と、弟子たちは自らの失敗を省みました。それは、弟子たちの再出発の起点となります。
主イエスの答えを読み取りましょう。
九人の弟子たちは、この度の悪霊祓いの失敗にこだわっているに違いありません。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(マルコ9:18)という衆人環視の中での非難は、弟子たちの耳について離れなかったことでしょう。
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」……悪霊祓いの一件から、弟子たちを解放するかのように、主イエスは、「この種のものは」と、普遍的に物語っています。
①主イエスご自身がわたしたちのために祈ってくださっている。参照:マルコ1:35、6:41、14:32
②主を信じ、「イエス・キリストの御名」を唱える。
③「わたしは信じます」という「信仰」が、「祈り」によって保たれる。参照:ルカ22:32
つまり、主イエスの「祈り」がわたしたちの背後にあることを知り、「御名」を呼び、「信仰」をもって祈るということです。そのようなこと全体を踏まえているのが、わたしたちの本当の「祈り」です。そうして、わたしたちが挫折や危難に遭った時にも、「祈りによらなければ」という主の助言が生きたものとなります。
主イエス・キリストを信じる者が集う「教会」から、新しい出発が始まります。「山のふもと」に、混沌とした下界に、「教会」が造られました。そこには、主イエスが弟子たちに臨在された「家」、主イエスが弟子たちを立ち直らせた「家」がありました。
「教会」は、主イエスの入って来られた「家」が土台になっています。そこでは、今や公然と、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9:31)ことが言い広められています。
Ω
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月報2月号
説教 『 恐れを取り除かれた男たち 』
小河信一 牧師
説教の構成――
序
……ヨハネ19:38
Ⅱ サウルとその息子たちの遺体を城壁から取り下ろした
……サムエル記上31:11-13
Ⅲ ニコデモも、没薬と沈香を持って来た
……ヨハネ19:39
Ⅳ 彼らはイエスの遺体を受け取った
……ヨハネ19:40
……ヨハネ19:41
Ⅵ この墓が近かったので、そこにイエスを納めた
……ヨハネ19:42
結
序
ヨハネ福音書18-19章には、主イエスの逮捕から、十字架の死、そして埋葬に至るまでのことが書かれています。その最後に当たる、今日のテキスト(19:38-42)には、どのように主イエスの遺体が葬られたのか、が描き出されています。使徒信条に照らせば、「(主イエス・キリストは)十字架につけられ、死にて葬られ」たとの箇所が成し遂げられました。
安息日入りの直前、夕闇の迫る中、主イエスの葬りは厳かに執り行われます。主イエスがわたしたちと同じように、死んで葬られたということは、重大事です。そこで、「すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(マタイ18:16、申命記17:6)との規定が満たされるように、二人の「証人」が召し出されます。
木曜日の夕方~金曜日の夕方が、「準備の日」に該当します。
「特別の」とは、その年は、過越祭の第一日目に当たっていたことを表しています。
「証人」たちは寡黙ながら協同して、その日のうちに主イエスの葬りを全うしました。それによって、聖なる「特別の安息日」に汚れが及ぶことはありませんでした。いや、それ以上に、神の御心に添った形で、①準備の日が完了し、②特別の安息日、そして、③週の初めの日へと明るい見通しが示されました。というのも、アリマタヤ出身のヨセフとニコデモの忠実な働きは、③週の初めの日のマグダラのマリアによる墓訪問へと受け継がれていったからです(ヨハネ20:1,11-18)。
それでは、①準備の日の葬りのために、突如現れた、意想外の男たちの様子を見てみましょう。まず、一人目が登場します。
Ⅰ アリマタヤ出身のヨセフがピラトに願い出た
ヨハネ福音書19:38――
その後、イエスの弟子でありながら、ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフが、イエスの遺体を取り降ろしたいと、ピラトに願い出た。ピラトが許したので、ヨセフは行って遺体を取り降ろした。
ローマ方式の磔刑に拠れば、刑死した罪人を、数日間そのまま野ざらしにすることもあり得ました。そこで、アリマタヤ出身のヨセフが即刻、「イエスの遺体を取り降ろしたいと、ローマ総督ピラトに願い出ました」。ピラトがそれを認可した一因は、ヨセフが「身分の高い議員」(マルコ15:43)だったということにあるのかも知れません。
問題は、なぜ、ここで、「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」が現れ出てきたのか、ということです。ピラトへの願い出やイエスの埋葬が公になれば、ヨセフは大祭司や律法学者から追及される危険がありました。
ヨハネ福音書12:42-43――
42 とはいえ、議員の中にもイエスを信じる者は多かった。ただ、会堂から追放されるのを恐れ、ファリサイ派の人々をはばかって公に言い表さなかった。43 彼らは、神からの誉れよりも、人間からの誉れの方を好んだのである。
「議員」に限らず、人は、周りの人の顔色を見ながら、なるべく損をしない生き方をしようとするところがあります。「いい人」でいたい、積み上げてきた地位や「人間からの誉れ」を失いたくないのです。さらに、「会堂からの追放」という罰を受ければ、宗教上の信仰生活ならびに共同体の付き合いの面で、その人は破綻してしまいます。
それならば、なぜ、アリマタヤ出身のヨセフは矢面に立つような行動をしたのでしょうか?
「すぐ血と水とが(イエスの遺体から)流れ出た」というほとばしりについて、「それを目撃した者が証ししており、その証しは真実である」(ヨハネ19:35)との、ヨハネ福音書記者の言葉がありました。すなわち、今や、ヨセフは「それを目撃した者」となったということなのでしょうか。ヨセフは、「あなたも見ていたのか」(讃美歌Ⅱ-177番)との陰なる声を聞いて、「はい、目撃しました。今後、それを証しします」と答えたのでしょうか。ヨセフがもし、その場に居合わせていたとしたら、それは彼の人生に大きな転機をもたらしたに違いありません。
古来より、ニコデモと合わせて、ヨセフはなぜ、こんなにも勇敢な行動に出られたのか、と問われてきました。しかし、ここに、二人の悔い改めや心の内が明示されているわけでもなく、ほんとうの理由は分かりません。
ただ、ここで二人は神に呼び出されて、聖霊を注がれ、神の器として用いられた、と言い得るのみです。驚くべきことに、アリマタヤ出身のヨセフが手本とすべき先行例が、聖書にあります。敵対勢力に囲まれながら、敬愛する主君を懇ろに葬ったという事例です。
Ⅱ サウルとその息子たちの遺体を城壁から取り下ろした
サムエル記上31:11-13――
11 ギレアドのヤベシュの住民は、ペリシテ軍のサウルに対する仕打ちを聞いた。12 戦士たちは皆立って、夜通し歩き、サウルとその息子たちの遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろし、ヤベシュに持ち帰って火葬に付し、13 彼らの骨を拾ってヤベシュのぎょりゅうの木の下に葬り、七日間、断食した。
*「ぎょりゅう」……枝がよく茂り、形は垂れ柳に似る。乾燥に強く、砂漠にも生える。
ここで、死を迎えたのは、「サウル」です。救い主なるイエス・キリストとは比ぶべくもない、迷いの多かった人間です(サムエル記上18:10-11、20:24-33)。サウルは、今や日の出の勢いで昇って来たダビデに対し、「落日の王」でありました。信仰的にも、戦場で「エン・ドルの口寄せの女」に寄り頼むような弱さがありました(サムエル記上28:7)。
そのようなサウルがペリシテ軍に包囲されたために、自害して果てました。それを見つけたペリシテ軍は、「サウルの首を切り落とし、武具を奪い」、それから、「その遺体をベト・シャンの城壁にさらした」ということです(サムエル記上31:8-10)。
ダビデがヘブロンで即位する直前の出来事です(サムエル記下2章)。ダビデは、サウルとその子ヨナタンを悼んで、哀悼の歌「弓」をうたいました(同書1章)。
上の引用文は、ダビデに勝るとも劣らぬ弔意が、「ギレアドのヤベシュの住民」によって表されたことを物語っています。彼らもサウルも同じく、イスラエルの民に属します。戦いの指揮官としての能力からすれば、ダビデの陣営に付いていた方が得策だと、「ギレアドのヤベシュの住民」は知っていたでありましょう。それでも、主君が「死にて葬られ」るために、彼らは……。
「戦士たちは皆立って、夜通し歩き」……「ギレアドのヤベシュ」から「ベト・シャン」までは、約20km、およそ5時間の行程となります。戦士たちは、「ヨセフは行って遺体を取り降ろした」ということの前例であるかのように、「遺体をベト・シャンの城壁から取り下ろしました」。神の霊に導かれ、勇気を出して、務めを果たしたという点は、合致しているでありましょう。
「ギレアドのヤベシュの住民」は、サウルの好んだ「ぎょりゅうの木の下」(サムエル記上22:6)を、臨時の墓としました(後にダビデ王によって改葬されます。サムエル記下21:14)。受け入れ難い君主の死に直面する中での、「ギレアドのヤベシュの住民」による誠意を尽くした弔いは、後世にまで記念されるものとなりました。
ヨハネ福音書19:39――
そこへ、かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た。
ここに、「ユダヤ人たちを恐れて、そのことを隠していたアリマタヤ出身のヨセフ」の同志、ニコデモが現れました。彼は、「ユダヤ人たちの議員で、ファリサイ派に属する」人でありました(ヨハネ3:1)。ニコデモは、「ある夜、イエスのもとに来て」、主イエスから「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」と教えられました(ヨハネ3:2-3)。
しかし、ニコデモは愚問を発するばかりで(ヨハネ3:4,9)、信仰問答は成立しませんでした。遂には主イエスから、「あなたは御言葉を心底から受け入れていない」(ヨハネ3:11-12)と叱責されてしまいます。
「ニコデモも、没薬と沈香を混ぜた物を百リトラばかり持って来た」……「百リトラ」というのは、32,6kgに相当します。持ち運ぶのも大変な量です。ニコデモは人目もはばからず、十字架刑の現場にやって来ました。
最初の「夜」、主イエスと対話した時とは状況が異なります。今、ニコデモはわたしたちの罪を背負って、死を遂げられた主イエス・キリストに出会っています。ニコデモは、自分がどうなるかよりも、その遺体を懇ろに扱うことに集中しています。主イエスのために、貴重な「没薬と沈香」を献げました(参照:ベタニアにて、香油をイエスの頭に注ぎかけた女の話 マタイ26:7)。
このようにして、主イエス・キリストの死と葬りに参与したニコデモは、「人は、新たに生まれなければ……」との主の言葉を再考するチャンスを与えられています。来たる③週の初めの日〈日曜日〉、主イエスがよみがえられる朝、ニコデモにその真実が説き明かされるでありましょう。
「人が新たに生まれる」とは、「もう一度母親の胎内に入って生まれること」(ヨハネ3:4)ではありません。そうではなく、神の御前に、罪咎を背負った、古い自分が死んで、主イエス・キリストの復活によって永遠の命を受ける、と信じることです。それが、ニコデモに残された、主イエスの明快なメッセージです。
そのニコデモがアリマタヤ出身のヨセフと助け合いながら、ますます葬りの業に専心していきます。
Ⅳ 彼らはイエスの遺体を受け取った
ヨハネ福音書19:40――
彼らはイエスの遺体を受け取り、ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ。
ヨセフとニコデモの心は、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い」、遺体を葬ることでいっぱいだったでしょう。彼らは「ユダヤ人たちの議員」として、その適任者でありました。ただし、留意すべきは、時々刻々、安息日が近づいているということでした。「安息日を心に留め、これを聖別せよ」との十戒(第四戒 出エジプト記20:8)を守ることが大前提でありました。
さて、「ユダヤ人の埋葬」においては、土葬が慣例であり、その前に、遺体に防腐処置がなされました(創世記50:2)。「(遺体を)香料を添えて亜麻布で包んだ」というのは、応急的ながらそのような処置がほどこされたことを証ししています。
その他、「ユダヤ人の埋葬」に関して言えば、伝統に倣いつつ神に祝福されるように、墓の購入や遺体の墓への移送などについて、細心の注意が払われました(創世記25:9-10、50:13)。ヨセフとニコデモは最後まで結束して、葬りの業に取り組みました。
Ⅴ イエスが十字架につけられた所には園があった
ヨハネ福音書19:41――
イエスが十字架につけられた所には園があり、そこには、だれもまだ葬られたことのない新しい墓があった。
「イエスが十字架につけられた所」に、「新しい墓」がありました。遺体を移送する手間がかかりません。時間も節約できます。アリマタヤ出身のヨセフは、ピラトと遺体の取り下ろしを交渉する際、すでに、この墓のことが念頭にあったようです(マルコ15:43,46)。
「十字架につけられ、死にて葬られ」(使徒信条)ということで、今、主イエス・キリストは休止または平安の状態に置かれています。しかし、十字架の救いの御業は、父なる神と御子イエス・キリストとが一つになって成し遂げられるものであります。
父なる神は、ふさわしい奉仕者を召し出し、制約された時空間の中で、御子を墓に葬られました。それは、聖書に記念として残されている、「ユダヤ人の埋葬の習慣」に従って行われました。その点からも、主イエス・キリストの埋葬が神の御心に添っている、と分かります。畢竟、ひとりの「ユダヤ人」のように「死にて葬られ」ました。
父なる神は、公生涯を終えた御子を、この「園」にお戻しになられました。そこは、まるで「エデンの園」のように、神の命(創世記2:9)と平安によって支配されていました。そこは、人間世界の騒がしさや汚れや欺き(マタイ27:64)から守られています。
Ⅵ この墓が近かったので、そこにイエスを納めた
ヨハネ福音書19:42――
その日はユダヤ人の準備の日であり、この墓が近かったので、そこにイエスを納めた。
繰り返しになりますが、「その日はユダヤ人の準備の日であった」は単なる日にち・曜日の確認ではありません。著者ヨハネは、神の支配する時が、①準備の日〈金曜日〉⇒②特別の安息日〈土曜日〉⇒③週の初めの日〈日曜日〉と進んでいることを告知しています。主イエスが息を引き取られたと言われる①準備の日〈金曜日〉の午後三時で(マルコ15:34)、時間が止まっているわけではありません。
付け加えれば、③週の初めの日〈日曜日〉を迎える前、この日 ①準備の日、「夕暮れに急ぐ男たち」の姿が神の光のもとに照らし出されます。「その日には、夕暮れ時に光がある」(私訳 ゼカリヤ書14:7)という預言は、主イエスが「十字架につけられ、死にて葬られ」た日に成就したと言えるでしょう。この見方が正しいかどうかは、三日後に明らかになります。
「イエスを納めた」……直訳すると、「彼らはイエスを置いた」となります。十字架を無理に担がせられた、キレネ人シモン(マルコ15:21)は身をもって、主イエス・キリストの苦難の重さを知りました。その出来事は、シモンの信仰を形つくる土台となりました。
今また、別の形ではありますが、ヨセフとニコデモもまた、身をもって主イエス・キリストの苦難の重さを経験しました。十字架上から遺体を取り下ろして、近くの墓まで運び、中に置くまでにも、主イエス・キリストの死に向き合うのに、充分な時間がありました。
結
アリマタヤ出身のヨセフもニコデモも、正々堂々と、主イエスが救い主であると告白してはいません。ユダヤ人たちは「特別の安息日」の準備のために忙しく、人の世話をするどころではありません。人々の関心がよそに向いている、午後三時から日没までの間に、ヨセフとニコデモは、主イエスに「対面」しました。どっちつかず態度を取っていたために、世間に、二人の真の居場所はありませんでした。その二人に、救い主を墓に葬るという、奉仕の機会が備えられました。それは、自分が神から愛されていることを知る、大きな一歩でありました。
過越祭の律法に則って(出エジプト記12:6,22,46)、まことの「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)なる主イエス・キリストが屠られました。この出来事について、エルサレムの住民の大多数が関心を寄せることはありませんでした。
三日後に、主イエス・キリストはよみがえらされます。ニコデモが、自分の死と罪を贖うために、十字架に上げられて、よみがえらされた主イエス・キリストを信じるならば、彼は、「新たに水と霊によって生まれさせられる」(ヨハネ3:3,5)ことでしょう。
そうして後々も、ニコデモもヨセフも、主イエスが自分たち・人間と同じように、死なれ、人の世話を受け、墓に納められて、平安に包まれたということを忘れないことでしょう。人生のどん底で、希望を失ってはならないことを知るでしょう。
Ω
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