礼拝、説教

主日礼拝 2021年 3月7日  

復活前第4主日 (受難節第3主日) 

  

 

招き   前奏

招詞   詩編89編 2節~3節

頌栄   539

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  139番 

交読文  9 詩編27編

旧約聖書 エレミヤ書11章15節~17節(p.1198) 

新約聖書 ローマの信徒への手紙11章17~24P.290)

 

祈祷

賛美歌  258番 

説教   「見よ、神の慈愛と峻厳とを」

               小河信一牧師 (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  249

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2021年3月7日「見よ、神の慈愛と峻厳とを」
エレミヤ書11章15節~17節
ローマの信徒への手紙11章17節~24節
210307_0067.MP3
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2021年2月28日 「巻物を食べると口の中で蜜のように甘かった」
エゼキエル書3章1節~15節
使徒言行録13章9節~12節
210228_0066.MP3
MP3 オーディオファイル 24.7 MB
2021年2月21日 「互いに愛し合いなさい」
レビ記 19章18節
ヨハネによる福音書 13章31節~38節
ヨハネによる福音書13章31節-38節.MP3
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2021年2月14日 「裏切りのために心を騒がせられる主イエス」
詩編41編 10節
ヨハネによる福音書 13章21節~30節
ヨハネによる福音書13章21節-30節.MP3
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2021年2月7日 「ユダヤ人のつまずきが異邦人の富となる」
創世記29章9節~14節前半
ローマの信徒への手紙11章11節~16節
ローマの信徒への手紙11章11節-16節.MP3
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〈説教の要約〉

2021年 3月7日                             

旧約聖書 エレミヤ書 11章15節~17節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 11章17節~24節

           「見よ、神の慈愛と峻厳とを」  

                                      小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ある枝が切り取られた   ……ローマ11:17-20        

Ⅱ 根があなたを支えている  ……ローマ11:18

Ⅲ 神の慈愛と峻厳(しゅんげん)      ……ローマ11:21-22       

Ⅳ 再び()ぎ木する神     ……ローマ11:23-24

 

ローマの信徒への手紙11章の講解説教・全5回のうちの第3回目となります。本日のテキスト(ローマ11:17-24)は、前段の最終節を受けて展開されています。

ローマの信徒への手紙11:16――

麦の(はつ)()が聖なるものであれば、()()全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

希望に満ちた文章です。ここには、(いん)()(メタファー)をもって、パウロの救いの確信が述べられてます。次のように、私は説き明かしました。

自分の罪や失敗をかこち嘆くのではなく、今こそ「練り粉」または「」全体が「聖なるもの」へ(いた)るという神の御計画を思い起こしましょう。それは、主イエス・キリストによって「清められる」という希望を掲げることであります。逆境の中にも、異邦人とユダヤ人の間に、若い」が育ち伸びつつあります。それを()でる平安がそなえられますように

本日のテキストにおいてパウロは、「異邦人とユダヤ人の間に、若いが育ち伸びつつある」という神の御計画について論述しています。

()ぎ木」などに関するパウロの所説は、植物学的に間違っているとも評されます。まるで「植物図鑑」を読んでいるように、クラクラするのを少しでも解消するために、最初に、主な用語①~⑤について解説しましょう。これらを参照しつつ、聖書の骨子を(とら)えていただければと思います。

①「ある枝」(ローマ〔以下同〕11:17

=神に不従順な一部のユダヤ人(11:25)。

②「」(11:16,17,18,19,21,24

=形容句を伴いつつ、ユダヤ人を指している。

    異邦人もまた、キリストを信じるならば、オリーブの木の「」とされる。

   それが「接ぎ木される」(11:17,19,24)ということである。

この「接ぎ木」は、ユダヤ人にもほどこされることがある(11:23,24)。パウロは今後、それが起こることを期待している。

神はまことに、お忙しい「(にわ)()」であられる!          参照:ヨハネ15:2

③「野生のオリーブであるあなた」(11:17

=異邦人のキリスト者。

ローマの異邦人に対し、「あなた」(11:17,18,20,22,24)と、一人に呼びかけるように親密に接している。

④「」(11:16,17,18

=ユダヤ人の父祖。アブラハムをはじめとする族長。

   私たちの信仰の根本は、「主イエス・キリスト」にあるが、ここでパウロが注視させようとしているのは、旧約聖書に登場するイスラエルの先祖または彼らの信仰である。

⑤「栽培されているオリーブの木」ならびに「元の木」(11:24

=イスラエルの先祖の信仰という「」を土台として育っ

ている「善い木」。

このような「善い木」が伝統的に「オリーブの木」になぞらえられているのである(エレミヤ書11:16、ホセア書14:7)。

(いん)()(メタファー)がふんだんに使われています。いくらか「オリーブの木」の実体が見えてきたでしょうか。「オリーブの木」の実体を遠い世界のこととしてはなりません。異邦人(例えば日本人)とユダヤ人とから成る教会の形成の一端を、茅ヶ崎香川教会も(にな)っています。根から豊かな養分を受けるようになった」(ローマ11:17)というその「養分」および「異邦人の富」(ローマ11:12)は、私たちの教会内のみならず、世界の宣教に目を向けるよう導くものです。

パウロは「深い悲しみ」と「絶え間ない痛み」(ローマ9:2)を(いだ)きながら、ユダヤ人問題に取り組んでいます。しかし、いつまでも悲しみに暮れているのではありません。この手紙には、聖霊に導かれて文をつづっている人の知恵根気が表出しています。

 

Ⅰ ある枝が切り取られた 

ローマの信徒への手紙11: 17-20――     

17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに()ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、18 折り取られた枝(原文:それらの枝)に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。

今から将来にわたる明るい希望の上に、暗雲が(ただよ)っています。

ローマの教会を代表する「あなた」(異邦人)に向かって、一部のユダヤ人は「折り取られた」と(ほう)じています。大部分のユダヤ人と言わず、「ある枝」、すなわち、「いくつかの枝」と(しょう)しているところに、同胞(どうほう)へのパウロの親愛がうかがわれます。

折り取られた」には、ぞっとする響きがあります(参照:ヨハネ15:6)。教会が霊的な「機能()(ぜん)」に陥っているようです。端的には、ユダヤ人がキリストを信じていないということです。なぜ、「枝が折り取られた」という比喩が用いられているのでしょう。

元来、ユダヤ人は、「栽培されているオリーブの木」である「元の木」(11:24)に連なる「」(枝々(えだえだ) 複数形)であります。イスラエルは、神に選ばれ、育てられてきた民です。

神は、父祖アブラハムに、「あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(創世記22:17)と約束されました。代々(よよ)、アブラハムの信仰(創世記15:6、ローマ4:3)は受け継がれてきました。苦難や試練が襲って来ましたが、ユダヤ人の間に「残りの者」が与えられました(ローマ9:27)。その「残りの者」が、アブラハムとのつながりを保ったのです。

パウロはそのような観点から、「いくつかの枝」(ある枝)は、アブラハムの信仰という「」を失い、「元の木」から「折り取られた」と語っています。そこで、アブラハムから続いてきた系譜が途切(とぎ)れたのであります。信仰受け継がれるべきユダヤ人の系譜に()(れつ)が走ったことを、「枝が折り取られた」と描出しているのです。

なぜ、そうなったかと言えば、キリストを信じていない、すなわち、行いをもって義の律法を追い求めることに懸命で、信仰による義を得られなかったからであります(ローマ9:30-32)。同胞であるペトロやパウロのように、イエス・キリストの十字架と復活を信じて、全く新しい人間に変えられるという神の恵みにあずかれなかったのです。

ところで、旧約のエレミヤ書に、本来は「善い木」である、その木の枝が(そこ)なわれるという比喩がありますので、読んでみましょう。パウロがテキスト上、引照した可能性のある、オリーブの(さい)()」であります。この詩文は、587年の南ユダ王国滅亡・バビロン捕囚へと向かっている民族的患難の()(ちゅう)に、エレミヤが書き残したものです。

エレミヤ書11:16-17――

16 主はあなたを、美しい実の豊かになる

緑のオリーブと呼ばれた。

大いなる騒乱の物音がするとき

火がそれを包み、その枝を(そこ)なう。

17 あなたを植えられた万軍の主は、あなたについて災いを宣言される。それは、イスラエルの家とユダの家が悪を行い、バアルに(こう)をたいてわたしを(いか)らせたからだ。

イスラエルの家とユダの家」を指している「美しい実の豊かになる 緑のオリーブ」は、まさにパウロの言う、神によって「栽培されているオリーブの木」にほかなりません。「火がそれ(緑のオリーブ)を包み、その枝を(そこ)なう」という災いの原因は、人々が「悪を行い、バアル(偶像)(こう)をたいてわたし(主)(いか)らせたからだ」と論じられています。

緑のオリーブ」から、枝が折り取られた(損なわれた)」という点で、これはローマの信徒への手紙11章の比喩と同列であります。「美しい実の豊かになる 緑のオリーブ」と()(しょう)されるような、神の選びと祝福に囲まれていながら、神への反逆、不信仰が生じてしまったのです。

パウロは、預言者エレミヤに教え導かれるようにして、「枝が折り取られた(損なわれた)」ことへの(こころ)(そな)えをしたことでありましょう。異邦人の使徒・パウロは、わたし(主)の愛する者」(エレミヤ書11:15)、ユダヤ人に対しても、「目の前に、イエス・キリストが十字架につけられた姿ではっきり示されたではないか」(ガラテヤ3:1)との信仰の確信をもって、彼らの立ち帰りを祈り続けたのです。

以上の通り、パウロは、「オリーブの木」について、「ある枝が折り取られた」と報じました。「元の木」から、一部の不信仰なユダヤ人が切断されました。それでは、「」は一体、どのようになっているのでしょうか。悪い土地で()(ぐさ)などしてないでしょうか。次は、オリーブの「」に焦点を合わせてみましょう。

 

Ⅱ 根があなたを支えている 

ローマの信徒への手紙11:18――

折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。

あなた」は、異邦人キリスト者で、そして、「」は、アブラハムをはじめとする族長ならびに彼らの信仰を示しています。

ローマ11:16根が聖なるものであれば」→11:17根から豊かな養分を受けるようになった」→11:18根があなたを支えている」というように、論理展開されています。ユダヤ人の父祖を源泉とする霊的な流れ・祝福が、異邦人に波及し、異邦人を支えるものとなっています。

」から発出された「豊かな養分」は、樹液のように「オリーブの木」全体にゆき巡っています。根があなた異邦人キリスト者を支えている」というのですから、その「豊かな養分」はキリスト者である「あなた」に対し、十二分、有益なものとなっています。具体的に言い換えましょう。

私たち・キリスト者は、主イエス・キリストの十字架と復活を信じています。そこで、「あなたは信仰によって立っています」(ローマ11:20)ということが成り立つためには、」から豊かな養分」を受け続けることです。自分が受けて、自分に満たされた、その「養分」、神の恵みが、オリーブの木」全体を潤すように、接ぎ木された一つの「」(肢体)として賜物を用いることです(Ⅰコリント11:7,12)。

更に具体的に言えば、旧約聖書を読みなさい、ということです。「根が聖なるもの」であることを知り悟るように、謙虚に、かつ貪欲(どんよく)になりなさい、「主イエス・キリストの十字架と復活」という宝は、聖書全体に隠されているのですから。

今日、「主イエス・キリストの十字架と復活」を信じているからといって、明日、「あなたは信仰によって立っています」という保証は誰にもありません。「思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい」。福音を福音として信じるために、「根から豊かな養分を受ける」ことです。主イエス・キリストによって告知された新しい福音を信じ続ける秘訣は、アブラハムの信仰に立ち帰り、それがパウロの信仰につながっているのを知ることにあります。今、パウロは隠喩を(から)めながら、そのことを訴えています。

そこまで言うかと思われるような、新約学者・故竹森満佐一氏の言葉を紹介しましょう。

「われわれはユダヤ教の信者といっしょに成長していく。

 神がイスラエルを選んだという事実を見逃してはいけない。

 イスラエルはいつか元に帰って来る。」

 

Ⅲ 神の慈愛と峻厳(しゅんげん)            

ローマの信徒への手紙11:21-22――

21 神は、自然に生えた枝を容赦(ようしゃ)されなかったとすれば、恐らくあなたをも容赦されないでしょう。22 だから、神の慈しみと(きび)しさを考えなさい。倒れた者たちに対しては厳しさがあり、神の慈しみにとどまるかぎり、あなたに対しては慈しみがあるのです。もしとどまらないなら、あなたも切り取られるでしょう。

ここでパウロが提示しているのは、「(にわ)()」である神は、どのようなお方であるのか、ということです。オリーブの木が植えられている所が、「良い土地」(マルコ4:2-9)か、「悪い土地」か、まだ判然(はんぜん)としません。確かなのは、そこに神が臨在されていることであり、「慈愛と(しゅん)(げん)」をもって本気で関わっておられるということです。容赦される」((ゆる)される)か、否か、「」なる人間の側にも緊張が走ります。

パウロは、「一方では……、他方では……」というように、二つのものを対比しています。

一方、倒れた者たち(一部のユダヤ人)には……、他方、あなた(異邦人キリスト者)には……という切り分けをもって、「倒れた者たちに対しては厳しさがあり……あなたに対しては慈しみがある」と言い表しました。

片や、「もし、あなたが神の慈しみにとどまるならば」、「あなたは信仰によって立っています」。

片や、神の慈しみにとどまらないならば、一部のユダヤ人のように、倒れてしまいます。

ここで重要なのは、私たちがしっかりと、「神の慈愛と(しゅん)(げん)」を受け止めることであります。

U.ヴィルケンスはこの箇所で、「神においては二つで一つのものとして、神の恵みの二つの側面を指す」と注解しています。ちょうど先の主日に、エゼキエルの召命と派遣について説教したことが思い起こされます。

聖句と説教要約を引用します。

エゼキエル書3:3――

(主は)言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を()(ぶくろ)に入れ、腹を満たせ。」 わたしがそれを食べると、それは(みつ)のように口に甘かった。

反逆の家」(ヘブライ語 ベート メリー)は、エゼキエルの内に、「苦々(にがにが)しく同上 マル)、(いか)りに燃える心エゼキエル書3:14)を()き立てます(メリーマルは別の語源〔反抗すると(にが)〕ですが、語呂合わせになっています)。これに打ち勝てるよう、エゼキエルはそれは蜜のように口に甘かった同上 マトック)」という原体験を味わわせられました。反逆(メリー meri)の(にが)さ(マル maru)と御言葉の甘さ(マトック matok)とは間違いなく、エゼキエルの脳裏に刻まれることになりました

預言者の召命と神の御心という相違はありますが、「甘さと(にが)が「二つで一つ」という点は、「神の慈愛と(しゅん)(げん)」に関しても同様であります。

エゼキエルは、苦々(にがにが)しい哀歌や嘆きの言葉を()み込みましたが、「それは蜜のように口に甘かった」と実感するに至りました。そしてパウロは、「神の峻厳」をもっての「容赦ならぬ」のと宣言が決して最後(つう)(ちょう)ではないと論じています。「ある枝が折り取られた」というその者に、神は再び「接ぎ木される」チャンスを与えられます。それこそが、「神の慈愛」です。

 

Ⅳ 再び()ぎ木する神    

ローマの信徒への手紙11:23-24――

23 彼ら(イスラエル・ユダヤ人)も、不信仰にとどまらないならば、()ぎ木されるでしょう。神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです。24 もしあなたが、もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木されたとすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう。

ここには、本日のテキスト(ローマ11:17-24)のまとめが書かれています。Ⅲでは、神はどのようなお方であるのか、が示されました。それを受けて、このⅣでは、神は何を行われるのか、が明らかにされます。

中心となるのは、「神は、彼らを再び接ぎ木することがおできになるのです」という一文です。「神は~できる力(デュナミス・圧倒的な力)を持っている」という信仰告白的宣言が下地になっています。

それは、どんな「力」(デュナミス)であるのか、具体的に論証されています。

「(神によってあなたは)もともと野生であるオリーブの木から切り取られ、元の性質に反して、栽培されているオリーブの木に接ぎ木された

言い換えれば――あなた」(異邦人)は、アブラハムの信仰という「」に(えん)はなく、美しい実の豊かになる 緑のオリーブ」の「」として育ったのでもない。その「あなた」が「元の性質に反して」〈反発に(こう)するべく神のの介入によって〉、善い木に接ぎ木された――ということです。

()(せい)であるオリーブの木」というのは、「()オリーブの木」という意味です。そこは、自然の「()」ですから、必ずしも「善い土地」ではありません。「野」は、石だらけか、土が浅いかもしれません。

(にわ)()」である神は、()(せい)であるオリーブの木」に付いていた「」(異邦人)を、「栽培されているオリーブの木」に接ぎ木されました。その善い木が、主イエス・キリストの恵みにあずかって、今や大きく成長していこうとしています。更なる期待は……

とすれば、まして、元からこのオリーブの木に付いていた枝(イスラエル・ユダヤ人)は、どれほどたやすく元の木に接ぎ木されることでしょう

パウロは、片や、「倒れた者たち」・同胞への熱心な助け手、片や、異邦人の使徒(ガラテヤ2:9、エフェソ3:1)、地中海伝道圏のトップランナーであります。精神のバランスを失っても、不思議ではありません。その均衡(きんこう)を保つことが難題である中で、パウロは、神はできる力デュナミス圧倒的な力)を持っている」というお方に出会い、そのお方に支えられました。そのお方こそ、御父が遣わしてくださった主イエス・キリストでありました。

牢獄の中でも、パウロは「とすれば、まして……どれほどたやすく……」という平安に包まれ、讃美が湧き上がってきたに違いありません。「彼ら(イスラエル・ユダヤ人)を再び接ぎ木することがおできになる」神に、すべてをゆだねよう、そして、根を伸ばし枝を張る美しい緑のオリーブ」を育てるために、自分に備えられた持ち場で働こう……それが、パウロの願いであり祈りであったのではないでしょうか。

「待てば海路の日和(ひより)あり参照:使徒言行録28:13)……パウロが安んじて、異邦人の都ローマに旅立てる日が近づいて来ました。「あなたがたはオリーブの木の枝です」……太陽の国・イタリアで福音を伝える準備が出来ました

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〈説教の要約〉

2021年 2月28日                             

旧約聖書 エゼキエル書 3章1節~15節

新約聖書 使徒言行録 13章9節~12節

    巻物(まきもの)を食べると口の中で(みつ)のように甘かった」  

                        小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ この巻物を食べなさい           ……エゼキエル書3:1-3         

Ⅱ わたしの言葉を彼らに語りなさい    ……エゼキエル書3:4-9 

Ⅲ すべての言葉をあなたの心に(おさ)めなさい ……エゼキエル書

                           3:10-11       

Ⅳ 主の御手(みて)がわたしを強く()らえていた   ……エゼキエル書

                           3:12-15 

 

先月に続いて、エゼキエルの召命と派遣を取り上げている聖書箇所を読みます。

エゼキエルは前6世紀前半に召命を受け、主に捕囚の地バビロンで活動した預言者です。母国である南ユダ王国が壊滅の危機に瀕している中で、エゼキエルは主の前にひれ伏し、そして霊によって立ち上がらされました。一人の人間が、どのように神の()しを受けたのかそして派遣の準備が、どのように行われたのか、ぶことにしましょう

これから、捕囚となった人々の生活が異国で始まります。問題は、自分の国と自分自身の崩壊、それに伴う信仰と礼拝の危機を、どのように乗り越えていくか、であります。期待の人物として、エゼキエルが立てられ派遣されようとしています。

ケバル川の()(はん)」(エゼキエル書3:15)という新天地に、預言者は霊の息吹を送ることが出来るのでしょうか。エゼキエルには、通りよき(くだ) Channel of Blessing 祝福の水路)になり切るということが求められています。そのために、主なる神は、「(ひたい)(かた)く心も硬い」反逆の家に立ち向かうべく、エゼキエルに備えをなされました。心の(かたく)さに負けない力が、神から預言者に与えられました。

召命に際して、エゼキエルに抗弁(こうべん)や抵抗は見られません。主なる神はこう言われる」(エゼキエル書2:43:11)と、神の言葉を同胞(どうほう)に向かって語る……神と預言者はその点に集中しています。苦々(にがにが)しく、(いか)りに燃える心」(エゼキエル書3:14)といった人間の感情は、神によって退(しりぞ)けられています。ここに、「神の言葉の神学」の一つの原点があると言ってよいでしょう。

それでは、イスラエルの家の反逆を見定めつつ、神によってなされる預言者派遣の準備を読んでみましょう。

 

Ⅰ この巻物を食べなさい  

エゼキエル書3:1-3――

1 (主)はわたしに言われた。「人の子よ、目の前にあるものを食べなさい。この巻物を食べ、行ってイスラエルの家に語りなさい。」 2 わたしが口を開くと、主はこの巻物をわたしに食べさせて、3 言われた。「人の子よ、わたしが与えるこの巻物を()(ぶくろ)に入れ、腹を満たせ。」 わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった。

エゼキエルは祭司の家系に生まれ育ちましたので(エゼキエル書1:3)、「巻物」、すなわち聖書(旧約聖書)は親しみ深いものでありました。日頃、身近に接して読んでいたのではないかと思われます。しかし、それを「食べなさい」という命令には、(きも)を抜かしたことでありましょう(特段の拒絶反応など見られませんが……)巻物」は、聖なる物として丁寧に扱うべきものですから、「食べなさい」というのは()(ぼう)です

この「わたしが与えるもの」・「目の前にあるもの」の内容に関してはすでに、次のようにエゼキエルに教えられていました。

エゼキエル書2:10――――

(主)がそれをわたし(エゼキエル)の前に開くと、表にも裏にも文字が記されていた。それは哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉であった。

エゼキエルは、「哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉」の記されている巻物を、「食べる」…()み込むという方がぴったりでしょうか…ことになります。これは、」・「」・「」・「響き」が、召命を受けようとしている人を取り巻く中で起こった霊的な体験ではないかと考えられます(エゼキエル書1:4,24,283:12,13)。

哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉」というのは恐らく、597年の第一次バビロン捕囚、そして前587年の南ユダ王国滅亡・第二次捕囚という歴史的な患難を背景にしています。神の嘆きを知らしめる「哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉」を歌いなさい、そのようにして、神の裁きの(もと)にある試練・挫折を受け止めなさい、ということです。確固たる神の言葉を支えとして、民族の大災難に出遭うというのですから、(おの)ずからそこに忍耐と(いち)()の希望が生じます。

巻物の食べ方については、わたしが(わたしの)口を開くと」(エゼキエル書3:2)と描写されています。苦々(にがにが)しい言葉満載の「巻物」ですから、思わず()き出しそうですが、すんなりと()み込めたようです。

わたしが(わたしの)口を開くと」というのは、平易なことです。神が提供される御言葉を、内なる飢え渇きのままに、神に注ぎ込んでいただけば、よいのです。自分の()り好み都合(たて)に、遠慮してはなりません。神は、人が御言葉を「むさぼり食べる」ことを望んでおられます。エゼキエルの召命の出来事がそれを物語っています。

わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」(エゼキエル書3:3 他に詩編19:11119:103)というのは、詩編詩人の証言と共に、聖書を読む人の実感でもありましょう。神の厳しい裁きは、人の悔い改めを、また神への立ち帰りを促すものであります。御言葉により罪と死に直面させられたときに、神の救いに身をゆだねる人は幸いです。そうして、人は救い出され、喜びがあふれます。

それは蜜のように口に甘かった」というのは、エゼキエルの第一声と(しょう)せるものです。神に対する応答の始まりです。言い換えれば、それは、生涯、御言葉を「わたしの道の光」(詩編119:105)とするという信仰告白であります。エゼキエルの使命は、神の言葉を基盤(ベース)とする幸いで(かん)()な人生を、イスラエルの同胞(どうほう)に宣べ伝えていくことです。

 

Ⅱ わたしの言葉を彼らに語りなさい      

エゼキエル書3:4――――

主はわたしに言われた。

「人の子よ、イスラエルの家に行き、わたしの言葉を彼らに語りなさい。」

エゼキエル書2:7 主→エゼキエル――――

「たとえ彼らが聞き入れようと(こば)もうと、あなたはわたしの言葉を語らなければならない。彼らは反逆の家なのだ。」

召命に際して、主なる神は、エゼキエルが遣わされたときに為すべきことを提示しています。彼が忘れることのないよう繰り返されています。

すなわち、口を開いて食べた「巻物」に基づいて、「わたし(主)の言葉を彼らに語る」ということです。どんな相手であれ、どのような環境であれ、「語る」ことに(てっ)するのです。

ケバル川の()(はん)」での、ユダヤ人の新生活には、衣食住の確立が急がれたことでしょう。母国語に頼るだけでなく、現地語を習得しつつ、さまざまな日常会話がなされたことと思います。そうした中で、都エルサレムの神礼拝のように、聖なる(ふみ)・聖書に則して、わたし(主)の言葉を彼らに語る」ことには大きな意味がありました。それは、ユダヤの民の全生活の「規範」が御言葉に置かれるということに他なりません。

裏を返せば、通りよき(くだ)」なるエゼキエルの派遣は、まことに時宜(じぎ)(かな)ったことでありました。民が(けが)れに染まらないように、彼らに御言葉を通し、「清め(きよ)」を(きゅう)することが出来ました。実際に、捕囚の民は全生活の「規範」の(あか)しとして、当地に会堂(シナゴーグ)設立されました

ここで、主なる神は、「語れ」というシンプルな命令に引き続いて、重大な勧告が発せられます。

エゼキエル書3:7-9 主→エゼキエル――――

7 「しかし、イスラエルの家は、あなたに聞こうとはしない。まことに、彼らはわたしに聞こうとしない者だ。まことにイスラエルの家はすべて、(ひたい)(かた)く心も硬い。8 今やわたしは、あなたの顔を彼らの顔のように硬くし、あなたの額を彼らの額のように硬くする。9 あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする。彼らが反逆の家だからといって、彼らを恐れ、彼らの前にたじろいではならない。」

神の言葉は、「不可解な言語や難しい言葉」(エゼキエル書3:5,6)ではなく、イスラエルの言語で伝達されます。その点では苦労がありません。ところがここで、「イスラエルの家」は「反逆の家」(エゼキエル書2:5,6,83:14)であるという(ほん)(しょう)を現れ出て来ます。

反逆の家」(ヘブライ語 ベート メリー)は、エゼキエルの内に、「苦々(にがにが)しく同上 マル)、(いか)りに燃える心エゼキエル書3:14)を()き立てますメリーマルは別の語源〔反抗すると(にが)い〕ですが、語呂合わせになっています)。これに打ち勝てるよう、エゼキエルはそれは蜜のように口に甘かった同上 マトック」という原体験を味わわせられました。反逆(メリー meri)の(にが)さ(マル maru)と御言葉の甘さ(マトック matok)とは間違いなく、エゼキエルの脳裏に刻まれることになりました。

彼らはわたしに聞こうとしない」は、「彼らはわたしに聞くことにおいて意欲・願望がない」と意訳されます。御言葉に反応する「意欲・願望」が無いのも、当然です。「(ひたい)(かた)く心も硬い」という(おお)いが彼らにかぶさっているのですから。

預言者エゼキエルの前に、反逆の家」、(かたく)なな民という難敵が立ちはだかっています。あなたはあざみと(いばら)に押しつけられ、(さそり)の上に座らされるエゼキエル書2:6というほどに、「反逆の家」は冷酷(れいこく)なものです。

そのような不安な先行きに対して、神は堅固な守りを新しい預言者に与えられます。それが、「あなたの額を岩よりも硬いダイヤモンドのようにする」ということです。エゼキエルには、神の守りを信じて、イスラエルの民に関わっていくことが求められています。冷たく()(ごわ)い相手はね返されても忍耐して働きかけなさい、ということです。「恐れてはならない」、「たじろいではならない」(イザヤ書7:4、エレミヤ書1:8)……エゼキエルは(ひと)りではありません。主に遣わされたイザヤエレミヤなど先人たち(あと)をたどっていることを忘れてはなりません。

 

Ⅲ すべての言葉をあなたの心に(おさ)めなさい       

エゼキエル書3:10-11――――

10 更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。11 そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと(こば)もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」

エゼキエルを派遣するに当たっての総括(そうかつ)が簡潔に記されています。彼が迷った時には、ここに帰って来ればよいという原点です。

すでに、エゼキエルが巻物を食べて、御言葉を語り出すという点で、神の揺るぎない支えがあると告げられています。「反逆の家」との長い戦いが続行するでありましょう。その時に大切なことは、「反逆の家」に振り回され疲れ果ててしまって、自分を見失わないことであります。

自分が()されたとき、神との出会いがあった、霊的な体験をした……そこにこそ、エゼキエルは自分の存在価値を見出すべきなのであります。「わたし(主)の目にあなたは(あたい)高く、(とうと)」(イザヤ書43:4)という自分(わたしはである)の存在です。敵に()き乱されそうになることをも見越して、神は初めにエゼキエルに教えられました。それが、「すべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい」ということです。それが、かけがえのない自分を保つ秘訣です。

たとい、相手に向かって語り出すチャンスが見出せなくても、自分の心身に、御言葉という()(よう)をゆき巡らせることは出来ます。伝道の()(なか)にも、備えの時はあります。通りよき(くだ)」から流れ出す御言葉が、敵対者や罪人の心に染みわたる時が必ず到来します。「心におさめ、耳に入れた」言葉が、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)というのは、ペトロばかりではありません。

 

Ⅳ 主の御手(みて)がわたしを強く()らえていた 

エゼキエル書3:12-15――――

12 そのとき、霊がわたしを引き上げた。わたしは背後に、大きなとどろく音を聞いた。主の栄光が、その御座(みざ)から(のぼ)るときの音である。13 あの生き物の翼が互いに触れ合う音、生き物の(かたわ)らの車輪の音、かの大きなとどろく音を聞いた。14 霊はわたしを引き上げて連れ去った。わたしは苦々しく、怒りに燃える心をもって出て行ったが、主の御手がわたしを強く()らえていた。15 こうしてわたしは、ケバル川の河畔のテル・アビブに住む捕囚民のもとに来たが、彼らの住んでいるそのところに座り、ぼう然として七日間、彼らの間にとどまっていた。

」・「」・「」・「響き」が(さか)()く中での、召命体験()ろされました。エゼキエルは実生活に戻されました。「こうしてわたしは……ぼう然として七日間……」というのは、()(くるめ)くような出来事の衝撃を物語るものです。神との出会いが真実に起こったという事の証拠です。エゼキエルには、「七日間」という完全休養が必要でありました。そうして神は、預言者が天の御告げを地に伝えるべく、彼を回復させるのです。エゼキエルは、捕囚民に向き合い、伝道する者として、神により造り変えられたと言ってよいでしょう。

霊がわたしを引き上げた」という神の介入は、折々にエゼキエルの上に、繰り返されることになります(エゼキエル書3:12,148:311:1,2443:5)。このような人が、私たちの間に「とどまっている」(座っている・住んでいる)というのは、神からの恵みであるに違いありません(ヨハネ1:14)。

霊に引き回されるように生きるにせよ、また、「(ひたい)(かた)く心も硬い」民と(たい)()するにせよ、の使命をエゼキエルが成し遂げうるのか、彼の内には何の保証もありません。その点で、エゼキエル書1:32:93:14)は一貫して、「主の御手がわたしを強く()らえていた」ということを知らせています。

わたしを強く捕らえていた」の「強く」は、「岩よりも硬いダイヤモンド」(エゼキエル書3:9)の「硬い」と共振しています。都の城壁のように堅固な神の守りが表されています。この「主の御手」は、神の(しもべ)に差し伸べられていると同時に、神に敵対する者の上にも(のぞ)みます

使徒言行録13:11 パウロ→魔術師バルイエス――

「今こそ、主の御手はお前の上に(くだ)る。お前は目が見えなくなって、時が来るまで日の光を見ないだろう。」 するとたちまち、魔術師は目がかすんできて、すっかり見えなくなり、歩き回りながら、だれか手を引いてくれる人を(さが)した。

パウロの第一回伝道旅行の際の、キプロス島での出来事です。長大な伝道活動の発端(ほったん)に、魔術師であり偽預言者である者がパウロに対抗しました。神の言葉を聞こうとする者を、伝道者から遠ざけようとしました。

そこで、パウロが聖霊に満たされると共に、「主の御手」の介入が起こりました。それは、「時が来るまで日の光を見ないだろう」という暫定(ざんてい)的かつ実効的な助けでありました。このように、主の御手」は、手厳しく災いを押し(とど)めつつ、幸いを繰り広げてゆくものです。

七日の後」(エゼキエル書3:15)が何曜日に当たるか、は明示されてはいません。(しっ)(ぷう)()(とう)の「七日間」の旅路が過ぎ去りました。エゼキエルはそれをはるかに望み見るという形でありましたが、私たちは、その「七日間」の旅路を、主の日(日曜日)から始めることが許されています。都エルサレムに起こった主のよみがえりが基点です。主イエス・キリストによる十字架と復活の出来事を記念する日、ぼう然としていた者も目覚めさせられます。

主の御手」による罪人への救い、そして信仰者への支えに感謝・応答する者として、為すべきことは、ただ一つであります……わたしの言葉を彼らに語りなさい。エゼキエルの御言葉中心の伝道は、今も継承されています。

テモテへの手紙 4:2――

 

御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。

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〈説教の要約〉

2021年 2月21日                          

旧約聖書 レビ記 19章18節(P.192

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章31節~38節P.196

       「互いに愛し合いなさい」  

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 栄光を輝かす御父(おんちち)と御子イエス       ……ヨハネ13:31-32          

Ⅱ わたしは去って行く           ……ヨハネ13:33 

Ⅲ わたしがあなたがたを愛したように   ……ヨハネ13:34-35     

Ⅳ わたしのことを知らないと言う       ……ヨハネ13:36-38 

 

夕食」(ヨハネ13:2,4 主の晩餐)の終盤で、主イエスは「神の栄光」について語られます。そこで最初に、明暗という視点から、ヨハネ福音書を大きく(とら)てみましょう

簡潔に言えば、1章-12章では、光と闇とがせめぎ合っており、それに対し、13章-19章では、闇の支配が次第に増していっているということになります。19章で、主イエスが十字架につけられて死ぬ場面で、その闇は極限に達します。

ということから、ヨハネ福音書13章は、闇の支配の発端となっていることが分かります。では、その13章に、どのように光と闇とが映し出されているのか、見てみましょう。留意すべきは、闇が深いところで、光はいっそう照り輝くというとです。

四つに分けられるヨハネ福音書13章の流れを再確認しましょう。

13:1-11「弟子たちの足を洗う主イエス」(説教題 以下同)→②13:12-20「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」→13:21-30「裏切りのために心を騒がせられる主イエス」→13:31-38「互いに愛し合いなさい」となります。これらは、起承転結」の組立てになっています。

この章の流れの中で実は、過越祭前の「夕食」の行われている部屋には、暗闇が次第に広がっていました。

ヨハネ福音書13章 夕食の場面に()みわたる闇

13:1-11 (すで)にイスカリオテのユダはイエスを裏切る考えを(いだ)いていた。

13:12-20わたしのパンを食べる者が 威張(いば)ってわたしを(あし)げにします」(詩編41:10)という預言が成就する。

13:21-30 主イエスはユダの裏切りを告知した。それに伴って、ユダは外に出て行った。

13:31-38 主イエスは、ペトロが主を「知らないと言う」ことを予告した。

このように見てくると、ヨハネ福音書13章の展開を通じ、確実に闇の勢力が増していることが分かります。人間の罪が、裏切り、無理解、過信、否認など、様々な形をとって見え隠れしています。

闇が忍び寄って来ていました。その状況下で、「夕食」の主催者(テーブルマスター)であり、夕べの「礼拝」の司式者である主イエス・キリストは、世の光(ヨハネ8:12)としての務めを果たされました。弟子たちに対し、洗足という行いをもって、へりくだることを現されました。また、互いに愛し合うことを教えられました。

主イエスご自身、これから十字架という暗黒に立ち向かう途上に立っておられました。主イエスはそのことを見据(みす)えつつ、弟子たちに、「裏切る」、「足げにする」、「サタンが入った」、「知らないと言う」などという罪の(おそ)ろしさ(しょう)()されました弟子たちの思い違いや無理解に(くっ)することはありませんでした。

主イエス・キリストこそが、圧倒的な闇の支配の中で、神の栄光を照らし出す源でありました。主イエスはまことに、「彼はかすかな灯心(とうしん)をかき消しはしない」(イザヤ書42:3 私訳)という預言を成し遂げられた、「苦難の(しもべ)」でありました。その光は、人間の罪の嵐のただ中で輝き続けます。

その「」(ヨハネ13:30)、一つの部屋からこぼれ出した罪の闇は、エルサレムの町全体を(おお)い始めていました。それでは、「夕食」が閉じられる光景をのぞいて見ることにしましょう(なお、主イエスの説教は14章以降も続きます)。

 

Ⅰ 栄光を輝かす御父(おんちち)と御子イエス               

ヨハネ福音書13:31-32――

31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。」

このような主イエスの御言葉が、「夕食」の「結び」に置かれているのは、私たちにとって喜びであり感謝なことです。主イエスが、神の栄光について言い残されているのは、意味深いことです。心の弱り(おとろ)えかかっている弟子たちを目覚めさせるメッセージです。

さて、ユダが出て行くと」、彼は裏切りの(くわだ)て、すなわち、イエスを「引き渡す」ことを(はか)ります。それがうまくゆけば、主イエスは十字架に上げられます(ヨハネ12:32,34)。その陰謀を見抜きながら、主イエスは、「神の栄光」について語られました。要点を二つ挙げると、次のようになります。父なる神と御子、イエス・キリストの密接な関係性を前提に物語られています。

①御父も御子も、栄光を受けられた。〈過去形・受動態〉……ⓐⓑⓒ

  父なる神は、御子イエスと共に闇を打ち破られた。

②御父は御子に、栄光を与えられる。〈未来形・能動態〉……ⓓⓔ

  父なる神は、御子イエスを十字架につけ、よみがえらせる。

要するに、①が、神の宣言〈約束〉だとすれば、②は、神の御業〈成就〉だと言えるでしょう。実行性を伴う「神の栄光」は、私たちが信頼するに足るものであります。

主イエスが真ん中におられる「夕食」、すなわち、「主の晩餐(ばんさん)」で、罪の闇が去り、神の栄光が輝くことを信じる者は、幸いです。わたしが父の内ふところにおり、父がわたしの内ふところにおられる」(ヨハネ14:11 参照:ヨハネ1:18)という御父と御子の交わりが、私たちを罪のどん底から引き上げます。もはや、自分の闇に引きずり込まれることはありません。「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)という主イエスの御言葉は、信じる者に、神の栄光に包まれる日がやがて来たるということを告げています。

 

Ⅱ わたしは去って行く          

ヨハネ福音書13:33 主イエス→弟子たち――

「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを(さが)すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。」

やがてあなたがたは神の栄光に包まれるというメッセージを踏まえたうえで、主イエスは弟子たちとのしばしの別れを宣告されました。

子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」……なんと慈しみに満ちた御言葉なのでしょう。主イエスご自身が「心を騒がせ」られた(ヨハネ13:21)としても、この苦難の時、「子たち」は平安に過ごしてほしいという祈るような思いが込められています。「落ち着きなさい」……子どもがあわてて(さが)すことを踏まえて語りかけています。

わたしが行く所」(ヨハネ13:33,36)というのは、「わたしが去って行く所」が原意です。主イエスが退(しりぞ)こうとされている、その「」とは十字架であり、また、御父のみもとふところ〉であります。去って行こうとされている主イエスに、「今ついて行く」ことは、誰にも出来ません(ヨハネ13:36)。

なぜなら、主イエス・キリストは、私たちを死と罪から解放するために、十字架という「」に上げられねばならないからです。それを成し遂げて、主イエスは天へと帰って行かれます。

主イエス・キリストは、弟子たちが今、(あと)()いできないような、大いなる救いの御業を成就されようとしておられます。弟子たちに問われているのは、常に、「わたしはあなたがたと共にいる」という神の力にあずかることあります。「わたしはである」という自己啓示(ヨハネ6:4110:7他)において現される、主イエスの愛や正義を、弟子たちが受け止め、隣人に分かち与えることであります。

そこで、主イエスは、主につき従う弟子に対し、主から「学び、行う」べきことを示されました。「弟子」(ヨハネ13:35)というのは、()から「教えられ、それを学び取る」人であります。

 

Ⅲ わたしがあなたがたを愛したように       

ヨハネ福音書13:34-35  主イエス→弟子たち――

34 「あなたがたに新しい(おきて)を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」

今弟子たちにとって大事なのは、「わたし(イエス)が行く所」(ヨハネ13:33,36について行くことではありません。そうではなく、主イエスの教えに従うことです。「新しい掟(おこな)ことであります。

ヨハネ福音書13章の展開に即して言えば、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(13:14)が、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」と、より普遍的な命令に置き代えられたことになります。主イエスの洗足という「模範」(ヨハネ13:15)…(もく)()できる行為…(なら)いつつ、今度は自分たちが、愛を実践していくということです。

「弟子たちが互いに」という点を除けば、これはモーセの時代にさかのぼる神の掟と重なります。

レビ記19:18 主なる神→モーセ――

復讐してはならない。民の人々に(うら)みを(いだ)いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

ここで顧みるべきことは、古い時代から伝えられて来たものが、何故に「新しい(おきて)」と呼称されているのか、ということです。まず、「弟子たちが互いに」、世の人々に手本を示すように実践すべきことだから、「新しい」と言うのでしょうか。

パウロの口癖(くちぐせ)借用すれば、「(だん)じてそうでない」(ローマ11:11他)。なぜなら、「新しい」という根拠は、「わたしがあなたがたを愛したように」という一句に見出されるからです。主イエス・キリストが弟子たちに、愛し合うように呼びかけたところに、「新しさ」が現存しています。元となるレビ記19:18の最後にも、「わたしは主である」との句が置かれています。私たちは、神の力を源泉とするのでなければ、人を愛するどころか、「復讐」や「恨み」という悪弊(あくへい)から(まぬか)れ得ないものであります。

言い換えれば、「新しい(おきて)」を唱えられた主イエス・キリストは、弟子たちがそれを実践するように、寄り添うお方であるということです。弟子に、「学び、行う」ことを命じて、自分は陰に引っ込むというのではありません。主イエスは、「わたしはあなたがたと共にいる」ことをモットー(標語)とされる教師です。

弟子たちが互いに愛し合うことの源泉となる、主イエス・キリストの愛は、一言でいえば、十字架の愛です。主イエスは、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)、つまり、最後の最後まで罪人を愛し通すという出来事において、その愛をあらわされました。

 

Ⅳ わたしのことを知らないと言う        

ヨハネ福音書13:36-38――

36 シモン・ペトロがイエスに言った。「主よ、どこへ行かれるのですか。」イエスが答えられた。「わたしの行く所に、あなたは今ついて来ることはできないが、後でついて来ることになる。」

37 ペトロは言った。「主よ、なぜ今ついて行けないのですか。あなたのためなら命を捨てます。」 38 イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

夕食」を()めくくる話題として、ペトロの否認が出て来ます。

今あなたには分かるまい」(ヨハネ13:7)という「ペトロ問題」が実証されているような、ペトロとイエスの問答です。「今あなたには分かるまい」という二つの理由を、前回(ヨハネ13:21-30 説教要旨)挙げましたので、以下に引用いたします。「ペトロ問題」は、自分の課題でもあることが分かるでしょう。

一つは、自分の知恵や努力によっては「分からない」、または、自分の罪に気づくまでは「分からない」ということです。

もう一つは、主イエス・キリストが十字架につけられ、よみがえられることを、自分はまだ信じていないということです。

ペトロとイエスの問答によって、十字架の出来事の前に、人の罪が(あら)わにされました。そして、人の罪が(あら)わにされた、そのところにこそ、神の救いの御手が差し伸べられるのです。主イエス・キリストは、世の人の罪を(あがな)うために、十字架に上げられ、神の栄光を照らし出されました。自分の罪の闇を(かえり)みたときに、その栄光が射し込んで来るのではないでしょうか。

主イエスの警告、神からの(せま)りを受けて、ペトロは自分の(あやま)ちに気づかされます。それもしばらく経って、鶏が鳴いた時に しかし、これこそ、本当の罪告白です。神の御前に立たずして、自分の罪を知ったかぶりに、自分で罪を打ち明ける……わたしの罪告白がそのようなものになっていないか、(かえり)みたいと思います。

ところで、イスカリオテのユダとペトロとの違いは、一体どこにあるのでしょうか?

裏切りと否認という罪責について(こう)(りょう)すること、あるいは、十字架刑に追いやったという観点から罪の重さ探究することから、ユダとペトロとを「区別する」ことは可能でありましょう。厳しく、どのような罪を主イエスに対し犯したのか、問いただすべきでありましょう。ただここでは、別の観点から、ユダとペトロとの違いを確認したいと思います。

一方、ペトロは「夕食」(主の晩餐)に最初から最後まで出席していました。彼は確かに、主イエスの御業を見、御言葉を聞いておりました。一座の人々に思い違いと無理解とが(うず)()いている中でしたが主イエスが、大切なことを語りきられたことは事実です(その語り〔マタイ26:26-29〕を私たちは「聖餐式」において再現しています)。

ペトロは、「子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる」(ヨハネ13:33)と語りかけられる主の臨在わたしはである)に触れました。彼は主イエスのまなざしの中に入れられていました。主に見つめられていました(ルカ22:61;讃美歌Ⅰ-243番)。そして、自分の分限を越えるような形で、十字架の道行きに「ついて来ることはできない」と、(くぎ)()されました

他方、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った」(ヨハネ)という通り、(ちゅう)()しました。新しい掟」を聴く機会を失いました。

ユダは、自分の「思い違いや無理解」を「」の闇に(ほう)り出してしましました。「いましばらく」の間に自分の罪と向き合うチャンスを(いっ)したのです。サタンが彼の中に入った」(ヨハネ13:27)と同時に、ユダは闇の支配という牢獄(ろうごく)に入れられてしまいました。もはや立ち直れなくなりました。

最後に、ペトロの立ち直りの道を(なが)めてみましょう。

あなたのためなら命を捨てます」というところで、ペトロは自分の分限を越えています。この際、人間の持つ勇敢さや性急さ(せっかち)に引きずられて、主の御前に一歩退(しりぞ)く、謙虚さが失われています。

わたしのことを知らないと言うだろう」と主イエスに予告(警告)されながらも、その通りになった実例を一つ挙げましょう。

ルカ福音書22:58 第二回目の否認から――

少したってから、ほかの人がペトロを見て、「お前もあの連中の仲間だ」と言うと、ペトロは、「いや、そうではない」と言った。

いや、そうではない」、すなわち、「わたしはありません」(ウーク エイミ)とは、悲しい言葉です。お気づきのように、わたしはであるエゴー エイミ)の否定形です。片や、罪の内に滅び消えてゆくペトロ、片や、十字架の道を突き進まれて、最後にはわたしは救い主である」ことを現される主イエスとの違いが明瞭です。

同時に、ペトロの立ち直り、悔い改めへの道がここに開かれます。「わたしはありません」という欠乏または飢え渇きの内に、神の愛を、「新しい掟」を注ぎ込んでいただくということです。「わたしはである」お方が、ペトロの存在と人生を下から支えてくださいます。

夕食」の部屋に(とも)ってともし火は、後で、十字架の輝きとなり、神の栄光となって照りわたります。そうして、「後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)との、ペトロへの主の約束が成就します。

 

受難節から復活祭へと至る時、ペトロと共に、私たちもまた、サタンの(わな)を見抜くために、そして、神の栄光を(あお)いで悔い改めるために、過越祭前の夕べの出来事を想起しつつ歩んでまいりましょう。

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〈説教の要約〉

2021年 2月14日                             

旧約聖書 詩編41編 10節(P.875

新約聖書 ヨハネによる福音書 13章21節~30節P.195

    「裏切りのために心を騒がせられる主イエス」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 心(さわ)がせつつ証言したイエス   ……ヨハネ13:21          

Ⅱ み(むね)に寄りかかる弟子      ……ヨハネ13:22-26 

Ⅲ すぐに出て行ったユダ        ……ヨハネ13:27      

Ⅳ 夕食は終わっていない         ……ヨハネ13:28-30 

 

ヨハネ福音書13章「洗足と晩餐」の講解説教は、次のように四つに分けられます。

13:1-11「弟子たちの足を洗う主イエス」(説教題 以下同)→13:12-20「あなたがたも互いに足を洗い合うべきである」→13:21-30「裏切りのために心を騒がせられる主イエス」→13:31-35「互いに愛し合いなさい」という区分で行います。灰の水曜日(217日)をはさんで、③を本日、そして、取り上げます。

ヨハネ福音書13章の場面は、過越祭の前に開かれた「夕食」です。これは、共観福音書の「主の晩餐(ばんさん)」(マタイ26:20-30他)と連関するものですが、ヨハネ福音書の特徴がはっきりと(うつ)し出されています。

上の①②③④の区分はちょうど、「起承転結」の組立てに沿()っています。

本日の③・」では、主イエスから弟子による裏切りの(たくら)みが(あば)き出されます。()に着いている一同、どんでん返しを()らうようなものです。情景が暗転し急展開が呼び起こされます。

来週の④・」では、嵐が吹き荒れたのちに、「心に騒ぐ波はなぎて」(讃美歌Ⅰ-338番)、平安が広がりますように、と願うばかりです。

 

Ⅰ 心(さわ)がせつつ証言したイエス                 

ヨハネ福音書13:21――

イエスはこう話し終えると、心を騒がせ、断言された。「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。」

夕食」の場面での、主イエスの(たく)()(テーブルスピーチ)が続いています。通常の「(彼は)言われた」(ヨハネ13:7,11,12)が「(彼は)断言されたへと転調しています。「断言された」は本来、「証言された」という意味です。主イエスが命をかけて(あか)しされています。

主イエスの言葉は常に力に満ち、真実であることに変わりありません。がしかし、主イエスが「証言された」という以上、その内容は福音的に重大で、決して聞き逃してはならないものでありましょう。

そのように「証言された」主イエスについて、「心を騒がせ」((さわ)がせつつ)と描写されています。実はこの直前にも、主イエスは「心を騒がせ」ておられました。

ベタニアでラザロの死とその姉妹の悲しみに直面して、主イエスは「心に(いきどお)りを覚え、興奮して(騒いで・動揺して)」おられました(ヨハネ11:33)。それから、エルサレムで「今、わたしは心騒ぐ」(ヨハネ12:27)と、主イエスは群衆の前で不安を口にされました。殊に「心騒ぐ」(ヨハネ12:2713:21)は、「霊においてかき乱される」というのが原意ですから、主イエスご自身、動揺によって心魂が押し(つぶ)されそうになっていたことが分かります。それと共に、弟子たちに「証言され」ようとしていることが、「」的な問題、信仰上の一大事であると察せられます。

私たちは、「心を騒がせ」ておられる主イエスによって守られています。親しい弟子による裏切りと、その先にある十字架刑とを、主イエスひとりが見通されています。私たちがそのような出来事を、まともに知れば、私たちはひどく「心を騒がせ」ることになります。今宵(こよい)、主イエス霊においてかき乱されつつ」も、信仰上知っておくべきことを、丁寧に弟子たちに語られています。

はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている。

冒頭の「アーメン アーメン」(はっきり言っておく)から始まって、重い言葉が並んでいます。皆が勢ぞろいすべき、最後の「夕食」で「一人」欠けが出ます。つまり、12人で一心同体であった群れに()(れつ)が走ったということです

11人では、どうしていけないのか……それは、12であることが、神の永遠なる御心だからです。それが、12弟子選出(マタイ10:1-4)の基盤となっています。

神は、「イスラエルの12部族」(創世記49:28、マタイ19:28、そして、「ヤコブの12人の息子たち」(創世記35:22-26)を(きた)え、教え、導くことを通して、愛と正義をあらわされました。ヤコブの息子たちが(たくら)んでヨセフ一人をのけ者にしましたが、神は、兄弟12人を「一心同体」のものとして、危難から救い出しました。そのために、神の御子、主イエスは、「あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」ことに思い悩まれています。と同時に、主イエスは深い動揺の中で、11人の弟子に向かって、証言することに集中されています。主イエスの復活後、「神の永遠なる御心」に()、一人の補充(マティア 使徒言行録1:26)が行われ、数が満たされます。

イスカリオテのユダの「裏切り」は、大きな罪です。ユダがイエスを「裏切る」、すなわち、イエスを他者に「引き渡す」のは、()(そく)なやり方です。途中で自分は手を洗い(マタイ27:24)、最終的な(あく)(ぎょう)誰かに押しつけ、自分は雲隠れしてしまいますユダについては、で再び取り上げることにしましょう。次のでは、そのユダの対極に位置する弟子の様子を見てみましょう。

 

Ⅱ み(むね)に寄りかかる弟子

ヨハネ福音書13:22-26――

22 弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。23 イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が食事の席に着いていた。24 シモン・ペトロはこの弟子に、だれについて言っておられるのかと尋ねるように合図した。25 その弟子が、イエスの胸もとに寄りかかったまま、「主よ、それはだれのことですか」と言うと、26 イエスは、「わたしがパン切れを浸して与えるのがその人だ」と答えられた。それから、パン切れを浸して取り、イスカリオテのシモンの子ユダにお与えになった。

この過越祭の前の「夕食」には、「今あなたには分かるまい」(ヨハネ13:7 他にヨハネ12:40)というモティーフが浸透しています。

弟子たちは、だれについて言っておられるのか察しかねて、顔を見合わせた。」(ヨハネ13:22

()に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。」(ヨハネ13:28

確かに弟子たちは、ユダの手引きによって主イエス・キリストが十字架につけられるという出来事を、心で(さと)ることが出来ません。いや、まったく理解していません(ヨハネ13:36-38)。

今あなたには分かるまい」という理由を、二つ挙げましょう。

一つは、自分の知恵や努力によっては「分からない」、または、自分の罪に気づくまでは「分からない」ということです。

もう一つは、主イエス・キリストが十字架につけられ、よみがえられることを、自分はまだ信じていないということです。

後の方の理由の大切さは、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)との、ペトロへの主イエスの言葉からも分かります。十字架の死によって、私たちを罪と死から救い出してくださった主イエス・キリストの御前に、悔い改めをもって立ち帰るまで、「しばらくの時」がペトロはじめ弟子たちには必要でありました。言い換えれば、神の御計画による大いなる救いが成し遂げられるのを、しばらくの間待つ、そのことが弟子たちに求められていたのです。

主イエスを取り巻く深刻な事態が飲み込めていない弟子たちですが、ここに一人、主イエスにつき従っている弟子がいました。

「イエスのすぐ隣には、弟子たちの一人で、イエスの愛しておられた者が

食事の席についていた。(ヨハネ13:23)

イエスの愛が注がれ、その愛に生かされていた弟子がいました。「イエスのすぐ隣には」というのは、「イエスの胸・ふところの中に」が原意です。その弟子のすべてを、主イエスが受け入れておられたことを象徴するような二人の親密な様子です。神と人との愛の交わりです。神は慈しみをもって人を引き寄せられます。このようにして、神は愛する者を召し出されます。去って行くイスカリオテのユダとは対照的に、主のふところに飛び込んでいる弟子の姿がありました。

ヨハネ福音書1:18――

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。

初めに、「父の胸・ふところの中に」との句によって、父なる神と御子イエスとのつながりが示されました。そして、「イエスの胸・ふところの中に」との句によって、主イエスと弟子とのつながりが示されました。主と主に愛された者の交わりは、「かの日には、わたしが父の内〈ふところ〉におり、あなたがたがわたしの内〈ふところ〉におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる」(ヨハネ14:20)との御言葉を立証しています。

神の御心に思いも及ばない私たちですが、ただ、「イエスの胸・ふところの中に」寄りかかることによって、「分かる」者、目覚めた者となることが出来ます。「夕食」のえんが進み、「」が深まる時にも、真ん中におられる主イエスは、神の栄光を映し出しておられます。ユダの罪も私たちの失敗も、まことの光によってあばき出されます。      

 

 

Ⅲ すぐに出て行ったユダ               

ヨハネ福音書13:27――

ユダがパン切れを受け取ると、サタンが彼の中に入った。そこでイエスは、「しようとしていることを、今すぐ、しなさい」と彼に言われた。

で確かめたように、主イエスは、「はっきり言っておく。あなたがたのうちの一人がわたしを裏切ろうとしている」と予告されました。そして、主イエスは、「(むね)に寄りかかる弟子」に語りかけつつ、ユダにパン切れを渡されました。そこで、裏切る者が「あなたがたのうちの一人」のユダである、と明らかにされました。彼は、主イエスがパン切れを()かち与えられた、食事の列席者です。この点において、ヨハネ福音書は、旧約の預言が成就したと告げています(ヨハネ13:18)。

詩編41:10―― 

わたしの信頼していた仲間

わたしのパンを食べる者が

威張(いば)ってわたしを足げにします。

足げにする」とは、かかとを上げる」という意味で、馬がかかとを上げて人を()り飛ばすように、不意打ちを食らわすということです。なぜ、「信頼していた仲間」がそんなことをするのか、当惑します。

しかし、このような人間の反逆を、主イエスは、聖書の言葉の実現として、すなわち、神の救いの計画の一環として受け止めておられました。「今あなた(ペトロ)には分かるまい」(ヨハネ13:7)との主イエスの叱責(しっせき)の通り、弟子たちには見えていないことでありました。「わたしのパンを食べる者が 威張(いば)ってわたしを足げにします」と表現されるほど、人目を引く反逆にもかかわらず、イエスの「裏切られる・引き渡される」ことが予見できていなかったのです。

サタンが彼(ユダ)の中に入った」というのは、衝撃的な言葉です。誰しも、恐ろしいことと思います。しかし、神に敵対し、自分中心に生きている者すべてに、この言葉は当てはまるに違いありません。「サタン」が(いざな)う罪、例えば、高慢や貪欲(とんよく)に陥らないよう、常に自分の身を守るのは、「自信のある人間」にこそ難しいことです。

しようとしていることを、今すぐ、しなさい」との主イエスの命令は、ユダに「裏切り」をけしかけているようにも聞こえます。しかし、この言葉の力点は、サタンに誘導された裏切り者の行為によって、今十字架の道が始まろうとしているところにあります。「わたしの時が近づいた」(マタイ26:18)と、主イエスが受け止められたということです。主イエスはユダの裏切りをも、人を罪から救出するために必要なものとして、耐え忍ばれたのです。

 

Ⅳ 夕食は終わっていない        

ヨハネ福音書13: 28-30――

28 ()に着いていた者はだれも、なぜユダにこう言われたのか分からなかった。29 ある者は、ユダが(かね)()れを預かっていたので、「祭りに必要な物を買いなさい」とか、貧しい人に何か施すようにと、イエスが言われたのだと思っていた。30 ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった。

今あなたには分かるまい」(ヨハネ13:7)ということが、ペトロに限らず弟子たちすべてに適合します。しかし、ユダの「しようとしていること」が「分からなかった」弟子たちを、主イエスは()(はな)されません。主は、弟子たち全員がイエスの胸ふところの中に」いるような思いで、(たく)()を続けられます。主イエスは、「訣別説教」や「大祭司の祈り」(ヨハネ1417章)を通して、弟子たちに語りかけられます。なぜなら、彼らが「後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)ことを知っておられるからです。

主イエスは、弟子たちへの伝道が実を結ぶものとなるよう務めておられます。夕食の主催者・司式者の役割を果たされます。

その中の一幕(ひとまく)として、「ユダはパン切れを受け取ると、すぐ出て行った。夜であった」ことが目撃されています。夕暮れ時から、晩餐(ばんさん)を執り行ううちに、漆黒(しっこく)」へと至りました。

夜であった」との句によって、一人の男が暗闇に忍び込んだことが告げられています。ユダが為す裏切りの行為は、主イエスを不法な裁判、そして無実の十字架刑へと巻き込んでいきます。そうして、人間の罪の深い闇が、十字架の丘を(おお)い尽くします。

その時にこそ私たちは、最後の「夕食」で主イエスが()し語ってくださったことを思い起こすことが大切です。主イエスは、その部屋ともし火を(とも)してくださいました。希望の光を備えられました。心で(さと)らず(かたく)なな者たちに、また、罪深い弟子に、パンを差し出してくださいました。(さかずき)を回してくださいました(マタイ26:27)。そして、へりくだって、互いに愛し合うよう、教えを()かれました(ヨハネ13:14,34-35 来週の④・」の場面)。

夕食」のともし火は、主イエス・キリストの十字架から復活へという天からの光となって輝きわたります。十字架上で、主の〈()(からだ)が裂かれ、血潮が流されました。それは本当に、罪人なる私たちに、パン()かち与えてくださった、つまり、私たちに新しい命を注ぎ入れてくださった、ということです。

それが、主イエス・キリストによって成し遂げられた、大いなる神の救いの出来事です。イスカリオテのユダの裏切りによって、最後の「夕食」が、回想すべき愛餐(あいさん)が、台無しになることはありませんでした。神は、その陰謀(いんぼう)の究極なる罪をも、十字架の御業を実現するためにお用いになったのです。

 

再び、私たちが聖餐にあずかれますよう、その輪に幾人かでも(ローマ11:14)、救われた人が加えられますよう、お祈りいたします。

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 〈説教の要約〉

2021年 2月7日                               

旧約聖書 創世記 29章9節~14節前半P.47

新約聖書 ローマの信徒への手紙 11章11節~16節P.290

説 教「ユダヤ人のつまずきが異邦人の富となる」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 問答と二つの要点        ……ローマ11:11          

Ⅱ 異邦人の(とみ)                     ……ローマ11:12 

Ⅲ 骨肉(こつにく)にねたみを起こさせる       ……ローマ11:13-14        

Ⅳ 死者の中からの命               ……ローマ11:15

Ⅴ (はつ)()や根が聖なるものであれば  ……ローマ11:16

 

ローマの信徒への手紙11章には、「どうしたらユダヤ人・イスラエル人が救われるか」という主題が取り扱われています。この章を5回に分けてお話しします。今日はその第2回目です。

パウロは、異邦人への伝道者として立たされています(ローマ1:5)。その伝道の苦しさと豊かさの中で、パウロは、同胞のユダヤ人について思いを巡らしています。一方、少なからぬユダヤ人がパウロの異邦人伝道を妨害しようとしています。他方で、各地のユダヤ教会堂を(あし)()かりに、使徒たちの説教を通じてユダヤ人キリスト者が生まれています。

パウロは、ユダヤ人から受ける迫害によって暗澹(あんたん)たる思いになる、と同時に、ユダヤ人と異邦人から成る教会の設立に(いち)(じょう)の光を見ています。今回のテキストの内にも、そのようなパウロのジレンマ板ばさみの状況写し出されています。

しかしながら、()しくも、パウロがやっかいなユダヤ人問題に取り組むことによって、過去から将来へとつながっていく「神の大いなる救い」が明らかにされます。ユダヤ人信徒の第一人者としてパウロはいつも、主イエス・キリストの苦難、十字架、そして復活という救いの出来事に立ち帰りました。キリストがこの世を見捨てなかったように、パウロは(げん)()の困難から、「世の富」(霊的な宝)や「世界の和解」が現れ出て来る(ローマ11:12,15)ことを信じていました。

堅く福音を信じつつ、ユダヤ人や異邦人のこと、また、過去から将来への道筋について、霊の導きにより説き明かしているパウロの言葉に耳を傾けましょう。

 

Ⅰ 問答と二つの要点          

ローマの信徒への手紙11:11――

では、尋ねよう。〈問い〉ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか。

〈答え〉決してそうではない。かえって、彼らの罪によって〈要点①〉異邦人に救いがもたらされる結果になりましたが、それは、〈要点②〉彼らにねたみを起こさせるためだったのです。

さすがパウロ、前置きの文章が(しゅう)(いつ)です。よく整理されています(〈 〉の区分けはU.ヴィルケンス『EKK新約聖書註解 ローマの信徒への手紙』、教文館に()る)。順を追って見ていきましょう。

では、尋ねよう」(直訳:そこで、わたしは言う)と、問いを立てて始めるのは、相手を引き込むために有効です。

ローマの信徒への手紙11章冒頭でも、「では、尋ねよう。神は御自分の民を退(しりぞ)けられたのであろうか」(11:1)と、疑問を投げかけました。先行するこの問いが、民に対する神の取り扱いを論じているとすれば、後続の「ユダヤ人がつまずいたとは……」は、人間の側の振る舞いを尋ねています。

まず神が為されたこと、次に人間が(おこな)ったことを吟味するような形で、パウロはいずれも「決してそうではない」(断じてそうではない)と結論づけています。この〈(いな)〉が、以下のパウロの議論の根底にあります。ユダヤ人は「倒れっぱなし」ではない、ということです。

〈問い〉「ユダヤ人がつまずいたとは、倒れてしまったということなのか」の「つまずいた」について、説明を加えます。ローマの信徒への手紙9:32イスラエルはつまずきの石につまずいた」の箇所で、私は次のような解説をしました。

つまずく」という語(ローマ11:1とは別の動詞)の原意は、「~に打ち当たる・突き当たる」ということです。…… ここで皆さんに気づいていただきたいのは、全員が全員、自分の足が「つまずきの石」に突き当たって「つまずく」・「転ぶ」わけではないということです。その点では、「つまずきの石」はそれに突き当たった人に、言い換えれば、歩行中、「つまずきの石」に出会った人に、何かのメッセージを送っているかも知れないのです。(以上、説教要約より引用)

全員が全員、「つまずきの石」に突き当たって「つまずく」わけではない、というところがポイントです。つまずきそうになっても、全員が「倒れてしまった」わけではありません。言い換えれば、パウロは、押しなべて、ユダヤ人たちが「倒れてしまった」と見なされることに、異を唱えているのです。

神に反逆し、律法を追い求めて我が道をゆくイスラエルなんぞ、(そう)(くず)れだ、神の怒りがすでに彼らに(くだ)っている、とは、「どうか、異邦人の皆さま方、そのように思い込まないでいただきたい」ということです。なぜなら、最初にイスラエルを選び(ローマ11:28、申命記7:6-7)、最後まで愛し通されるというのが、神の御心だからです。

さて、ローマの信徒への手紙11:11後半に含まれている二つの要点に触れておきましょう。

要点① 異邦人に救いがもたらされる          →詳細はローマ11:12

要点② 彼ら(ユダヤ人)にねたみを起こさせる。 →詳細はローマ11:13-14

第一に異邦人、第二にユダヤ人に関わることということで、均衡(きんこう)がとれています。パウロは、異邦人とユダヤ人、双方の面から、「神の大いなる救い」を見つめています。

初めに戻って言えば、「確かに彼らの一部はキリスト教会を迫害していますが、どうか、ユダヤ人がつまずき、倒れてしまったと決めつけないでください、要点①と②という()いしるしがあるのですから」となります。なぜ、特に要点②が「善いしるし」なのかは、で説き明かします。

 

Ⅱ 異邦人の(とみ)

ローマの信徒への手紙11:12――

彼らの罪が世の富となり、彼らの失敗が異邦人の富となるのであれば、まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう。

この節には、要点①「異邦人に救いがもたらされる」が展開されています。三つの「彼ら」について、

❶と❷はユダヤ人を指し、❸はユダヤ人と異邦人とを含めた全体の人々を表していると、私は理解します。

ここで驚くべきは、ユダヤ人の「」や「失敗」が「世の富(霊的な宝)または「異邦人の富」となったということであります。ただしパウロは、どのようなユダヤ人の罪過が、異邦人伝道を益するものとなったのか、という具体的な論証をしていません。

しかし、当時のパウロを取り巻いていた伝道の(しん)(ちょく)状況から、「異邦人の富」は明白です。

ユダヤ人による迫害(罪)が地中海世界を席巻(せっけん)する中で、キリスト教会は町々ユダヤ教会堂を拠点として、異邦人に伝道していきました。悪意を持ったユダヤ人の接近によって、かえって異邦人は結束し、神の恵みに寄りすがり、熱心さを増してゆきました。逆境に置かれた地中海各地の人々は、「手紙」の回覧や巡回伝道者の働きによって、正しい信仰を守り抜いたのです。

パウロの次の言葉を読めば、「世の富」や「異邦人の富」の真意が捉えられるでしょう。それらは明らかに、いわゆるこの世の富とは異なります。

フィリピの信徒への手紙4:11-12――

11 物欲しさにこう言っているのではありません。わたしは、自分の置かれた境遇に満足することを習い覚えたのです。12 貧しく暮らすすべも、豊かに暮らすすべも知っています。満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する()(けつ)(さず)かっています。

いついかなる場合にも対処する()(けつ)」……これこそが、パウロと異邦人キリスト者が共有していた「世の富(霊的な宝)なのであります。この「」は、神の恵みの豊かさを源泉としています。まさに主にあって「()るを知る」ということです。それ故に、異邦人は、押しつぶされそうになる生活上の「貧しさ」やユダヤ人の「」によって打ち負かされなかったのです。

ところで、要点①「異邦人に救いがもたらされる」ことを展開した文章は、「まして彼らが皆救いにあずかるとすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」(ローマ11:12 新共同訳)という結句へと達します。

この新共同訳は意訳で、原文は、「まして彼らの充満(満ちること)」となっています。元には、「……とすれば、どんなにかすばらしいことでしょう」の部分はありません。

興味深いのは、ローマの信徒への手紙11:12において、世の⇒❷異邦人の⇒❸彼らの充満へという盛り上がりを見せていることです。❸の「彼ら」は先述の通り、ユダヤ人ならびに異邦人を含めた全体を表しています。キリスト者が全世界に「充満」するようになれば、ということです。

今パウロは、ユダヤ人の「」や「失敗」という闇を直視しています。パウロは異邦人伝道において、迫って来るその闇と戦いながら、キリストによって救われるという希望の光を掲げ続けています。実際、異邦人に救いがもたらされています。自分は都ローマに行きたいと願っています(ローマ15:23-24)。その中で、上より示されたのが、ユダヤ人と異邦人とが「充満」する、すなわち、すべての人が救われるという「」だったのです。パウロはそのような「」を抱きつつ、人を「」から解き放ち、人の「失敗」を赦してくださる主イエス・キリストを、今もっぱら異邦人に宣べ伝えています。しかしながら、パウロはユダヤ人の問題を(たな)()げにしてはいません。彼の心の大きさは、ただただキリストの愛の広さ、長さ、高さ、深さ」(エフェソ3:18)による賜物でありましょう。

 

Ⅲ 骨肉(こつにく)にねたみを起こさせる       

ローマの信徒への手紙11:13-14――

13 では、あなたがた異邦人に言います。わたしは異邦人のための使徒であるので、自分の務めを光栄に思います。14 何とかして(わたしは)自分の同胞(どうほう)にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。

要点①の「異邦人に救いがもたらされる」と(あい)(たい)()しつつ、要点②として、「彼ら(ユダヤ人)にねたみを起こさせる」ことが提示されました。上の二節では、要点②について説明しています。

冒頭、「では、あなたがた異邦人に言います」と、パウロは異邦人に呼びかけています。これは、異邦人に、ユダヤ人に関わることを聞いてもらいたい、という意味での注意喚起です。内容はむしろ、異邦人キリスト者に接しているユダヤ人の問題です。

パウロは熱い願いとして、「何とかして(わたしは)自分の同胞にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです」と述べています。すなわち、「あなたがた、異邦人キリスト者のゆえに、自分の同胞にねたみを起こさせる」ということです。

ここでの一番の問題は、「異邦人キリスト者にねたみを(いだ)く」⇒「キリストに救われる」というユダヤ人伝道のシナリオ(筋書き)でありましょう。そのようなシナリオ、否、神の計画が実際進められているのでしょうか? パウロは以前にも旧約の故事を引きながら、イスラエルの民に「ねたみを起こさせる」ことに言及していました。

ローマの信徒への手紙10:19――

それでは、尋ねよう。イスラエルは分からなかったのだろうか。このことについては、まずモーセが、

「わたし(主なる神)は、わたしの民でない者のことで

あなたがたにねたみを起こさせ

(おろ)かな民のことであなたがたを怒らせよう」

と言っています。

ここには、神が、選民イスラエルの「ねたみ」や「怒り」という悪感情を利用して、本来あるべき姿へと彼らを目覚めさせるということが述べられています。「わたしの民でない者」または「(おろ)かな民」が一体誰なのかは、よく分かりません(参照:申命記32:21 バビロニア人かペリシテ人か)。しかし、イスラエルは「(おろ)かな民」を見下しているかも知れませんが、人が他の者のことを気にするのは事実であります。

パウロは、ユダヤ人が異邦人キリスト者のことを「気にして」発奮(はっぷん)することを、神にゆだねていたでありましょう。他者の内にある「ねたみ」や「怒り」を、自分が操作することなど出来ません。ただパウロは、「異邦人の富」、神の恵みの豊かさが、」や「失敗」を繰り返しているユダヤ人の目に留まり、彼らが神に立ち戻って来るよう祈り求めていました。

何とかして(わたしは)自分の同胞(どうほう)にねたみを起こさせ、その幾人かでも救いたいのです。

パウロは、救われるべきユダヤ人を、「自分の同胞(どうほう)」と呼びました。「わたしの骨肉(こつにく)」という意味です。つまり、この用語は、自分と同じ民族のユダヤ人というよりも、自分の身内・親族を指していると言えます。そうだとすれば、主イエスの言葉、「預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)の通り、「わたしの骨肉」への伝道は相当困難で、その成否はただ神のみが知るということになりましょう。旧約聖書から、「わたしの骨肉」が出てくる場面を引用します。ヤコブの親族の交わりや争いの真ん中に、仲介者なる神が立っておられます。

創世記29:9-14前半 ユーフラテス川上流のハランの地にて――

9 ヤコブが彼らと話しているうちに、ラケルが父の羊の群れを連れてやって来た。彼女も羊を飼っていたからである。10 ヤコブは、伯父(おじ)ラバンの娘ラケルと伯父ラバンの羊の群れを見るとすぐに、井戸の口へ近寄り石を転がして、伯父ラバンの羊に水を飲ませた。11 ヤコブはラケルに口づけし、声をあげて泣いた。12 ヤコブはやがて、ラケルに、自分が彼女の父の(おい)に当たり、リベカの息子であることを打ち明けた。ラケルは走って行って、父に知らせた。13 ラバンは、妹の息子ヤコブの事を聞くと、走って迎えに行き、ヤコブを()()め口づけした。それから、ヤコブを自分の家に案内した。ヤコブがラバンに事の次第をすべて話すと、14 ラバンは彼に言った。「お前は、本当にわたしの骨肉(こつにく)の者だ。」

これは、ヤコブが伯父ラバンと従姉妹(いとこ)ラケルと巡り会った場面です。ここで確認したいのは、これは、神の備えられた、思いがけない「骨肉(こつにく)」との出会いであったということです。神が「骨肉」の間のしがらみに介入されました。ヤコブは、異教の地の()()(ばた)から人生再出発することになりました。

ただしこれで、「骨肉」とのいさかいが解決したわけではありません。ヤコブは、母リベカの勧め(創世記27:43)によって兄エサウのもとから逃亡しました(同上28:5)。母と自分で(たくら)んで、兄から長子の権を奪い取ったこと(同上27:5-29)が発端でした。これから先も、義父となる、狡猾(こうかつ)なラバンとの忍耐を要する駆け引きが待ち受けています。出会いから年後、ヤコブ愛するラケル結婚することができました(創世記27:28-30)。

わたしの骨肉」とのつき合いのために、ヤコブは労苦します。自ら造った()(だね)を消すことに、人生の大半を費やします骨肉」とのいさかいは、次のヨセフの代にまで波及します。しかし、神が親密に「わたしの骨肉」と関わるようヤコブやその子らを導いてくださり、問題解決のために助けてくださいます。

そうして、ヤコブは愛と知恵を学んでゆきます。そのことを、壮大なヤコブ物語(創世記2535章)は私たちに教えています。神に守られたヤコブの足跡は、カナンを中心に、広く北のハランに、また南のエジプト(同上46:6-747:28)に残されることになりました。ヤコブの生涯、「骨肉」と異国の人々との出会いに恵まれたものでありました。使徒パウロの人生もまた、父祖ヤコブのそれと同等の拡がりがありました。

 

Ⅳ 死者の中からの命

ローマの信徒への手紙11:15――

もし彼ら(大部分のユダヤ人)の捨てられることが、世界の和解となるならば、彼らが受け入れられることは、死者の中からの命でなくて何でしょう。

私たちはローマの信徒への手紙11:12異邦人に救いがもたらされる」の箇所で、ユダヤ人の罪や失敗から、驚くべき神の恵みの豊かさが現れ出て来るというメッセージを読みました。パウロは深い苦悩の中で、世の⇒❷異邦人の⇒❸彼らの充満へという進展を望み見ていました。

パウロは再び、ローマの信徒への手紙11:15、「小なるものから大なるものへ」(U.ヴィルケンス)という増進を提示しています。ここでは、「大部分のユダヤ人の捨てられること」を起点としています。それは、一時的にしても神から「捨てられること」に違いありません。従って、「小なるもの」というよりも、「どん底なるもの」または「救い難いマイナスの状況」と称するのが適当です。しかし、そこから、「大なるものへ」達することを、パウロは確信しています。彼は、そのように主イエス・キリストの恵みが満ちあふれるものと信じています。パウロには、神からの試練やこの世の逆境に耐えうるよう、聖霊が注がれています。

世界の和解」とは、ユダヤ人と異邦人が共に神に赦された者として、一つにされるということです。そして、「死者の中からの命」とは、主イエス・キリストの十字架と復活を信じる人に与えられるものです。

多くのユダヤ人が、神からの恵みとして、「死者の中からの命」を授けられます。同時に、それは、神と「骨肉」と異邦人に、「受け入れられる」ことへと実を結びます。

 

Ⅴ (はつ)()や根が聖なるものであれば

ローマの信徒への手紙11:16――

麦の初穂が聖なるものであれば、()()全体もそうであり、根が聖なるものであれば、枝もそうです。

パウロはこの節で、要点①「異邦人に救いがもたらされる」と要点②「ユダヤ人にねたみを起こさせる」という内容を持つ今回のテキストのまとめをしています。

 麦の「初穂」も、木の「」も、神が初めに選ばれたイスラエルの民を指し示しています。問題は、どのように彼らが「聖なるものである」こと、または「清められている」ことを維持していくか、であります。

 当時、多くのユダヤ人に問われたのは、自身がねたみや怒りを感じながらも、「世の⇒❷異邦人の⇒❸彼らの充満」という進展を、「神の大いなる救い」の一環として受け止めることでありました。

自分の罪や失敗をかこち嘆くのではなく、今こそ「練り粉」または「」全体が「聖なるものとなる」へと至るという神の御計画を思い起こしましょう。それは、主イエス・キリストによって「清められる」という希望を掲げることであります。逆境の中にも、異邦人とユダヤ人の間に、若い「」が育ち伸びつつあります。それを()でる平安がそなえられますように

 

冬枯れの景色に囲まれた礼拝堂から、各家庭へ、職場へ、世の隅々にまで、神の恵みが行き巡りますようお祈りいたします。

月報2月号

    説教 弟子たちの足を洗う主イエス

     ヨハネによる福音書 13章1節~11節       小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ この世に(つか)わされ、この世から父のもとへ移るイエス         

Ⅱ 最後まで愛し通されたイエス 

Ⅲ 弟子たちの足を洗うイエス   

Ⅳ 弟子たちの反応――シモン・ペトロとシモンの子ユダ

 

本日より、ヨハネ福音書の講解説教が第13章に入ります。

ヨハネ福音書212章は、イエスの(おおやけ)の伝道で、それに対し、1317章は、イエスの()(てき)な伝道というように区分されます。イエスの私的な伝道では、夕食13:2)、洗足(13:4-17)、訣別(けつべつ)説教(13:3114:31)、大祭司の祈り(17:1-26)などによって、弟子たちへの信仰的訓練が行われます。

「弟子たちに伝道した」というのは、決して、この世の他の人々が遠ざけられたということではありません。主イエスは、12人の小さな羊の群れに対して、徹底的に御言葉の宣べ伝えと実践を行われました。そこには、主イエスがこの世を去られる時が迫っているという〈神の計画〉の時間的制約もありました。限られた時間と整えられた場所において、主イエスは弟子たちと深い関わりを持たれたのです。

12弟子以外の人々、私たちはその弟子の一人として、「に向けられたものとして、主イエスの御業と御言葉を受け止めましょう。さあ、過越祭の前、夜の場面に分け入りましょう。

 

Ⅰ この世に(つか)わされ、この世から父のもとへ移るイエス     

ヨハネ福音書13:1――

さて、(すぎ)(こし)(さい)の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを(さと)り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。

ヨハネ福音書13:1を基点に、主イエスは十字架の道を目指してゆかれます。この節に大変重要なメッセージが含まれています。節の後半部、「(イエスは)世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた」につきましては、次ので取り上げることにします。

今は、「イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを(さと)」に集中しましょう。

イエスは悟り」は、「イエスの知っているところとなった」という意味です。これは、神の子、イエス・キリストが「悟った知った」ということですが、私たちにはそのことを「信じる」よう求められています。

すなわち、イエスはこの世に遣わされ「この世から父のもとへ移る」お方である、とあなたは信じますか、と問われているのです。偶然にも、先週に、ローマの信徒への手紙10:15に出てくる「(つか)わす」に関して、次のようにお話ししました。

一つ目は、〈根源〉❶「遣わす」についてです。端的に言えば、あなたがたは、御父が御子イエス・キリストを「遣わした」という神の出来事を、信仰の土台に()えていますか、ということです。

これを補うなら、

あなたがたは、父が子イエス・キリストを遣わした、それから、子は父のもとへ移ったという神の出来事を、信仰の土台に()えていますか、

となります。

イエス・キリストの〈初め〉の現れ、つまり、「生まれ、死に、そして復活し天に挙げられた移った)」その生涯において、私たちは、この世に「天から光が照りわたった」と「信じる」のでしょうか。そのことを悟った知った」(ヨハネ13:1,3)主イエスは、私たちに、ご自身の派遣と帰還の……大きな円環(えんかん)のような……出来事を信じるよう願われています。

主イエスがまず、弟子たちの信仰の土台を固めようとされたように、御子の派遣と帰還を、私たちのキリスト教信仰の〈根源〉に置くべきであります。

ヨハネ福音書13:3――

イエスは、父がすべてを御自分の手にゆだねられたこと、また、御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていることを悟り、(洗足の準備をされた)。

御自分が神のもとから来て、神のもとに帰ろうとしていること」という言葉には、イエス・キリストが神のもとから遣わされて来て、受肉、十字架、復活を成し遂げられて、神のもとに帰って行かれることが、明確に述べられています。大きな輪を描くようにして、キリストは天に戻って行かれることが分かります。

繰り返しますが、主イエスが、ご自身の派遣と帰還という大きな見地から、弟子たちへの信仰的訓練を始められたのは的確です。というのも、私たちが、生まれ、死に、そして復活し天に挙げられた移った)」キリストと出会い、この方こそ、主・メシアであると告白することが、キリスト教の根本だからです。

皆さんは、「父のもとへ移る」または「神のもとに帰ろう」という表現から、何か悲しい気分を感じられるでしょうか。それが、主イエスとの「別れ」を指しているならば、そう感じるのは、むしろ自然でありましょう。

しかし、力点を「父のもとへ神のもとに」に置いて読み直すならば、この世における主イエスとの「別れ」は、悲しみから喜びへと変えられることでしょう。主イエスご自身、この「別れ」を、いよいよ「御自分の時が来た」(ヨハネ13:1)と前向きに受け止められています。

確かに、主イエスは、弟子たちと別れます。そのしるしまたは記念の儀式として、弟子たちの足を洗われます。そこで現された全身全霊の謙虚さをもって、主イエスは十字架へと進まれます。苦しみを耐え忍ばれます。そうして、「父のもとへ移る」のです。御子は御父のご支配の下に、御父の右の座に戻られます。この世に残された弟子たち・私たちのために、助け主なる聖霊を送ってくださいます。

弟子たちが、この世での主との別れを()しむことなく、前に進み出せるよう、主イエス・キリストは執り成してくださっています。「父のもとへ神のもとに」を合言葉(参照:讃美歌Ⅱ-191 1節「父のもとに導く」)に、私と共に御国を目指していこう――これが、主イエスが、公の伝道から私的な伝道へという節目にあたり、弟子たちにお伝えになりたかったことなのです。

参考までに、「この世から父のもとへ移る」という動詞のニュアンスを汲み取ると、「この世から天国に引っ越す」と言い換えられます。信仰生活上の大事ではありますが、神は私たちが「引っ越せる」よう、一人ひとりを導いてくださることでしょう。この世から天の国へ、住まいを「移す」というのであれば、私たちは安んじていられます。

まず、「神のもとから神のもとに」という御子、イエス・キリストによる救いの出来事の基本線が打ち出されました。そして、次には、主イエスと弟子たちとの関係の中で、主イエスが弟子たちはじめ「世を愛された」(ヨハネ3:16)ことが告げ広められます。

 

Ⅱ 最後まで愛し通されたイエス 

ヨハネ福音書13:1――

さて、(すぎ)(こし)(さい)の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを(さと)り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた

原文に照らせば、「世にいる弟子たち」は「世にいる自分の者たち」、そして、「(イエスは)この上なく愛し抜かれた」は「最後まで愛し通された」という意味です。

今、主イエスは弟子たちの前におられます。その場面で、主イエスは、「世にいる自分の者たち」、すなわち、弟子たちのみならず、「主イエス・キリストのものになる(~に属する)」すべての人への愛をあらわされました。

イエス・キリストが「最後まで愛し通された」という表現の中に、どのような形でその「」があらわされるのか、示唆されています。この「最後まで」というニュアンスは、パウロの手紙の中に、共鳴する句となって出現しています。

フィリピの信徒への手紙2:8――

(キリストは)へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

その通り、主イエス・キリストは「十字架の死に至るまで」、私たち・罪人を愛し通されました。主の十字架において、罪と死から人を助け出す、そのようにして愛は(きわ)みに達したと言ってよいでしょう。

主イエスが十字架上で、「成し遂げられた」(ヨハネ19:30)と言い、息を引き取られました。それは、救いの御業が、「最後まで(世にいる自分の者たちを)愛し通された」ことによって、「成し遂げられた」という意味です。

弟子たちのこれからの使命は、十字架で極みに達する愛を、「世にいる自分(キリスト)の者たち」に宣べ伝えることでありました。「最後まで(世にいる自分の者たちを)愛し通された」という愛はまさに、先行する神の恵みです。それ故に、ヨハネ福音書13章、弟子たちへの伝道と訓練の冒頭に置かれています。それを弟子たちがどのように受け止めたのか、はⅣで説き明かします。

ところで、先に引用したフィリピの信徒への手紙2:8に、「(キリストは)へりくだって……十字架の死に至るまで従順でした」と書かれています。主の十字架の死において、たぐいまれな「へりくだり」が示されたということです。言い換えれば、主イエスは、私たちに対するご自身の「へりくだり」をもって、私たちに、十字架の愛をあらわされているということです。

次に、夕食の場面の出来事から、主イエスの「へりくだり」を見てみましょう。このような「へりくだり」無しには、迫り来る十字架刑に立ち向かい得なかったことが分かるでしょう。

 

Ⅲ 弟子たちの足を洗うイエス  

ヨハネ福音書13:4-7――

4(イエスは)食事の席から立ち上がって上着を脱ぎ、手ぬぐいを取って腰にまとわれた。5 それから、たらいに水をくんで弟子たちの足を洗い、腰にまとった手ぬぐいでふき始められた。6 シモン・ペトロのところに来ると、ペトロは、「主よ、あなたがわたしの足を洗ってくださるのですか」と言った。7 イエスは答えて、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」と言われた。

初めに、どんな「夕食」・「食事」(ヨハネ13:2,4)なのか、押さえておきましょう。

これは、「さて、(すぎ)(こし)(さい)の前のことである」(ヨハネ13:1)との記述から、ニサン(3月~4月)の月の13日の夕食と考えられます(比較:共観福音書の「主の晩餐」は一日後の14日)。ヨハネ福音書においてこの夕食は、主イエスが弟子たちの足を洗うことが中心になっています。いわゆる「主の晩餐」のように、主イエスがパンと(さかずき)を取って弟子たちに分かち与える(マルコ14:22-26他)という記述はありません。

大切なことは、主イエスが洗足によって現された「へりくだり」が、「へりくだって……十字架の死に至るまで」(フィリピ2:8)とのキリスト証言の通り、十字架の救いの御業につながっているということです。

確かに、(ほこり)っぽく(よご)れた人の足を洗うことに、十字架刑を受けるほどの()(こく)さは看取(かんしゅ)できないかも知れません。しかし、全身全霊が打ち砕かれるような思いをもって、人に仕える、すなわち、自ら犠牲となって汚れを(こうむ)るという点において、洗足は過酷なものでありました。ここで、その洗足の行為について、旧約聖書の人物が証言していますので、耳を傾けてみましょう。

サムエル記上25:40-42――

40 ダビデの部下がカルメルにいたアビガイルのもとに来て、「ダビデは我々をあなたのもとに(つか)わし、あなたを妻として迎えたいと言っています」と告げた。41 彼女は立ち上がり、地に()して礼をし、「わたしは御主人様の(しもべ)たちの足を洗うはしためになります」と答え、42 すぐに立ち、急いでろばに乗り、彼女に仕える()(じょ)を五人連れて、ダビデの使者の後に従った。アビガイルはダビデの妻となった。

簡潔に前後の事情を説明しましょう。

アビガイルの夫ナバル(「愚か者」の意)は、或る時、ダビデに礼を失するような、愚かな行為をしてしましました。それが災いし、ナバルは突然意識を失いました。「主がナバルを打たれ、彼は死んだ」(サムエル記上25:38)のです。その後(どれほど経ったかは?)、賢さと穏やかさを兼ね備えたアビガイルを知るダビデが、「あなたを妻として迎えたい」と申し出たというわけです。ちなみに、これは、ダビデが王になる前の話です。

夫ナバルが失態を演じた際、アビガイルはダビデに面会し、直談判(じかだんぱん)していますから、彼女がダビデの人となりを知らないわけではありません。それどころか、アビガイルが、報復に(いさ)み立つダビデをいさめ、改心させたことさえありました(サムエル記上25:32-34)。

さて、ダビデの唐突なプロポーズに対して、アビガイルは――

わたしは御主人様(ダビデ)(しもべ)たちの足を洗うはしためになります

今日の男女同権の考え方から観て、男性側の論理がアビガイルという女性に押しつけられている側面があることを認めた上で、「あなたの(しもべ)たちの足を洗うはしため」という自画像(花嫁像)には、徹底した「へりくだり」が体現されています。なぜなら、夫ダビデの奴隷になっている人々に、自分は「はしため」として仕えるというのですから。そんな(むご)ことを、ひとりの女に言わしめる「聖書」とは一体何ぞや、と嘆きたくもなるでしょう。ただし、ここで驚くべきは、「聖書」の中に、「(しもべ)たちの足を洗うはしため」の(むご)を受け止めてくださるお方、主イエス・キリストが登場したことです。

十字架につけられる日も近い、或る夕食において、主イエスは「足を洗う」という奴隷の仕事をなされました。Ⅳで確認するように、シモンの子ユダやシモン・ペトロは、罪人でありました。ということは、アビガイルが「(しもべ)たちの足を洗うはしため」であったとすれば、主イエスは「罪人たちの足を洗う奴隷」になられたのであります。

主イエスは、罪人たちの足を洗うという全き「へりくだり」の姿勢を、十字架の死に至るまで」貫かれました。主イエスは、「へりくだり」の姿勢において揺らぐことがなかったばかりか、仕えているその相手(弟子・罪人)を「最後まで愛し通された」のです。最後に、夕食に招き入れられた弟子たちが、どのように、主イエスの、十字架に至る「へりくだり」・従順を受け止めたのか、読んでみましょう。

 

Ⅳ 弟子たちの反応――シモン・ペトロとシモンの子ユダ

過越祭前の夕食では、シモン・ペトロとシモンの子ユダに、スポットライトが当てられます。

ヨハネ福音書13:8-10――

8 ペトロが、「わたしの足など、決して洗わないでください」と言うと、イエスは、「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と答えられた。

9 そこでシモン・ペトロが言った。「主よ、足だけでなく、手も頭も。」 10 イエスは言われた。「(すで)に体を洗った者は、全身清いのだから、足だけ洗えばよい。あなたがたは清いのだが、皆が清いわけではない。」

主イエスとペトロの対話の中で最も重要なのは、「(もし~なら)あなたはわたしと何のかかわりもないことになる(のではないか)」という言葉です。否定形(否定疑問文=勧誘)を肯定形に転じると、「あなたはわたしとかかわりを持つことになる」となります。ここで提示されている主イエスと人間との関係を、少し整理して説き明かしましょう。

あなたはわたしとかかわりを持つことになる」というのは、主イエスから私たちへの呼びかけ・宣言です。「あなたがたが罪科によって断ち切ってしまった、私との関係を回復しよう」との招き勧誘です。私たちに求められているのは、その羊飼いなるイエス・キリストの御声を「聞く」ことです。主に飼われ養われている羊として、「聞き従う」ことです。そうして、私たち、一人ひとりが、イエス・キリストに全幅の信頼を置く、すなわち、イエス・キリストを「信じる」のです。その時、「あなたはわたしとかかわりを持っている」信仰者、主の兄弟姉妹として、主に迎え入れられます。

主イエスの返答の底に響いている「あなたはわたしとかかわりを持つことになる」という主イエスの招きが、ペトロには通じていないようです。ペトロは、「主よ、足だけでなく、手も頭も」と、ただ自分自身の中で(あせ)(さわ)いでいます。破れた関係を修復してくださる主イエスが、「わたし(この自分)を洗ってくださる」のならば、そのまま身をゆだねればよいでしょう」とか、「」とか、「全身」とか、こだわることはありません。

主イエスに足を洗っていただいた者たちにとって大切なのは、「あなたはわたしとかかわりを持っている」という、その交わりを実践し強めていくことです。それが、「あなたがたも互いに足を洗い合わなければならない」(ヨハネ13:14)という主イエスの命令です。主イエスの「この上もない愛」に感謝し、主の示された「へりくだり」を実行することです。

わたしの足など、決して洗わないでください」――シモン・ペトロは、主イエスのこの「へりくだり」を拒みました。主イエス・キリストに、自らの罪や弱さをゆだねることが出来ませんでした。困惑して逃げ惑うような者をも、最後まで見守り続ける主の愛(ルカ22:61)、十字架で成し遂げられる愛が、この夕べ、「奴隷の奴隷」による洗足によってあらわされていることに気づけなかったのです。

「シモンよ、〈神は聞かれた〉と名にし負う者よ、主イエスは、『主よ、足だけでなく、手も頭も』というあなたの勘違いを赦してくださるお方です。『あなたはわたしとかかわりを持つことになる』――主イエスは、中途で逃げ出すあなたの先回りをして待っておられます

ヨハネ福音書13:2――

夕食のときであった。(すで)に悪魔は、イスカリオテのシモンの子ユダに、イエスを裏切る考えを(いだ)かせていた。

ヨハネ福音書13:11――

イエスは、御自分を裏切ろうとしている者がだれであるかを知っておられた。それで、「皆が清いわけではない」と言われたのである。

本物を前にして偽物(にせもの)は逃げ去ります。

(かた)や、イスカリオテのシモンの子ユダは、主イエスを「裏切ろう」と企てる闇夜に身を隠します(ヨハネ13:20)。片や、主イエス・キリストは、闇夜に(まさ)る暗黒の中に、十字架の苦難の中に分け入っていかれます。洗足で示された「へりくだり」と「この上もない愛」とを()(はた)に進みゆかれます。

主イエス・キリストは、私たちがつまずきそうになっても、立ち止まっても、私たち一人ひとりを見つめておられます。

神よ、私たちに、最後まで愛し通された、その主イエス・キリストの愛を注いでください 

そのために、聖霊なる神が働いてくださいますように 

どうか、謙遜に、私が周りの兄弟姉妹と共に、主の愛を受け止め、その愛に生きることが出来ますように。   

 

 

 

 

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