礼拝、説教

主日礼拝                                                                                              2024年 2月18日 〈10時15分~11時20分〉

降誕節 第6主日(受難節第1主日)

 

招き   前奏

招詞   詩編45編 8節~9節

頌栄   540

主の祈り  (交読文 表紙裏)

讃美歌  139

交読文  8 詩編24編

旧約聖書 ゼカリヤ書 14章20節~21節(P.1495)

新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章16節~17節(P.302)

祈祷

讃美歌  499

奨励   「あなたがたはその神殿なのです」

                        小河信一牧師

                      (※下記に録音したものを掲載しています)

祈祷             

讃美歌  352

使徒信条(交読文 p.1)

献金

報告

讃詠   545

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2024年2月18日「あなたがたはその神殿なのです」
旧約聖書 ゼカリヤ書 14章20節~21節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章16~17節
240218_0221.MP3
MP3 オーディオファイル 31.1 MB
2024年2月11日「イエス・キリストという土台」
詩編66編10節~12節
コリントの信徒への手紙一3章10節~15節
240211_0220.MP3
MP3 オーディオファイル 28.1 MB
2024年2月4日「あなたは神の子だ」と、叫び声があがった
ダニエル書3章25節
マルコによる福音書3章7節~12節
240204_0219.MP3
MP3 オーディオファイル 28.3 MB
2024年1月28日「愛のきずなをもって引き寄せる神」
旧約聖書 ホセア書 11章1節~11節
新約聖書 マタイによる福音書 2章14節~15節
240128_0218.MP3
MP3 オーディオファイル 28.5 MB
2024年1月21日「成長させてくださったのは神です」
旧約聖書 エズラ記 6章1節~5節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章5節~9節
240121_0217.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2024年1月14日「安息日に命を救う主イエス」
旧約聖書 エゼキエル書 44章24節
新約聖書 マルコによる福音書 3章1節~6節
240114_0216.MP3
MP3 オーディオファイル 31.3 MB
2024年1月7日「安息日は人のためにある」
旧約聖書 サムエル記上 21章1節~7節
新約聖書 マルコによる福音書 2章23節~28節
240107_0215.MP3
MP3 オーディオファイル 27.9 MB
2023年12月31日「幼子に対するように語る」
旧約聖書 エゼキエル書 35章11節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章1節~4節
231231_0214.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2023年12月24日「マリアは初子の男子を産んだ」
旧約聖書 サムエル記上 16章1節
新約聖書 ルカによる福音書 2章1節~7節
231224_0212.MP3
MP3 オーディオファイル 20.4 MB
2023年12月17日「見よ、わたしは来て、あなたのただ中に住まう」
旧約聖書 ゼカリヤ書 2章5節~17節
新約聖書 テモテへの手紙 一 4章12節
231217_0211.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2023年12月10日「見よ、わたしは使者を送る」
旧約聖書 マラキ書 3章1節~5節
新約聖書 ルカによる福音書 1章76節~77節
231210_0210.MP3
MP3 オーディオファイル 27.3 MB
2023年12月3日「待ち望む者に事(こと)をなされる神」
旧約聖書 イザヤ書 64章1節~11節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 2章9節
231203_0209.MP3
MP3 オーディオファイル 28.6 MB
2023年11月26日「わたしたちは神からの霊を受けた」
旧約聖書 イザヤ書 40章13節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 2章10節~16節
231126_0208.MP3
MP3 オーディオファイル 25.8 MB
2023年11月19日「善には聡(さと)く悪には疎(うと)く」
旧約聖書 創世記 3章15節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 16章17節~23節
231119_0207.MP3
MP3 オーディオファイル 28.5 MB
2023年11月12日「時間どおりに食べ物を分配させる」
旧約聖書 箴言 31章12節~20節
新約聖書 ルカによる福音書 12章41節~48節
231112_0206.MP3
MP3 オーディオファイル 29.7 MB
2023年11月5日「新しいぶどう酒は、新しい革袋に」
旧約聖書 イザヤ書58章3節~7節
新約聖書 マルコによる福音書2章18節~22節
231105_0205.MP3
MP3 オーディオファイル 23.4 MB
2023年10月29日「神の霊の啓示」
旧約聖書 イザヤ書 64章3節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 2章6節~9節
231029_0204.MP3
MP3 オーディオファイル 24.8 MB
2023年10月22日「キリストの十字架の死と復活の体に生きる」
旧約聖書 ヨブ記 19章25節~27節
新約聖書 ローマの信徒への手紙 19章25節~27節
231022_0202.MP3
MP3 オーディオファイル 41.2 MB
2023年10月15日「わたしは今、喜んでいる」
旧約聖書 エゼキエル書 18章30節~32節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 7章8節~13節前半
231015_0201.MP3
MP3 オーディオファイル 26.5 MB
2023年10月8日「まいごの羊を見つけた」
新約聖書 ルカによる福音書 15章1節~7節
231008_0200.MP3
MP3 オーディオファイル 28.2 MB
2023年10月1日「あなたの罪は赦された」
旧約聖書 詩編103編 3節~5節
新約聖書 マルコによる福音書 2章1節~12節
231001_0199.MP3
MP3 オーディオファイル 26.4 MB

2024年 2月18日     日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

復活前第6主日(受難節第1主日)

旧約聖書 ゼカリヤ書 14章20節~21節(P.1495

新約聖書 コリントの信徒への手紙 3章16~17節P.302

説  教「あなたがたはその神殿なのです」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あなたがたは神の神殿である   ……Ⅰコリント3:16前半

Ⅱ 神の霊が自分たちの内に住んでいる……Ⅰコリント3:16後半

Ⅲ 神の神殿を壊す者               ……Ⅰコリント3:17前半

Ⅳ すべて万軍の主に聖別されたものとなる

                  ……ゼカリヤ書14:20-21

Ⅴ 神の神殿は聖なるものである      ……Ⅰコリント3:17後半

結 

 

今、パウロは「霊的なものによって霊的なことを説明する」(Ⅰコリント2:13)ことに集中しています。「“霊”(=聖霊)に教えられた言葉によって」いるので、その論理展開は(なめ)らかで、説得力があります。わたしたちは、神からの知恵とその聡明(そうめい)さに基づく、奥深い議論にしっかりと耳を傾けることにしましょう。

パウロは議論を展開するにあたって、知恵のある者」と「世の無学な者」、また、キリストにある(おさな)()」と「信仰に成熟した人Ⅰコリント1:26-282:63:1)、すべての人に呼びかけています。土台を()える人もそれを建てつぐ人も、そこに加わるように求められています。なぜなら、一人ひとりが神の()しを受け、「神のために力を合わせて働く者たち(同上3:9)として働いているからです。

今回のわずか二節のテキストにおいて、パウロは聖霊の導きを受けて、教会論を展開しています。圧倒的な瞬発力で、「集中講座」、絶賛開講中です。わたしたちの周りには、「うまい言葉やへつらいの言葉」(ローマ16:18)が満ち満ちています。まずはそれらをはね()けましょう。

パウロは、「あなたがたは神の畑である」(Ⅰコリント3:6-9)⇒あなたがたは神の建物である(同上3:9-15⇒「あなたがたは神の神殿である」(同上3:16-17というように、日常的な比喩から真実な宣言へと教会論を積み上げています。

コリントにある神の教会」において、「おのおのの仕事」や「賜物」(Ⅰコリント1:2,73:13)が組み合わされ、万事が益となる(ローマ8:28)という道すじが示されています。そこでは、先を見越して論理展開できるパウロの強みが発揮されています。また、皆が向き合って関与すべき問題も、(おく)することなく明らかにされています。

 

Ⅰ あなたがたは神の神殿である      

コリントの信徒への手紙 3:16前半――          

あなたがた、自分が神の神殿であり神の霊が自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。   の部分を前半として取り扱います。

パウロは、「あなたがたはを知らないのですか」と問いかけています。「はい、わたしたちは既に〈“霊”(=聖霊)に教えられて〉知っています」との答えが期待されています。しかし、全員が「はい」と答えられないのを見越して、順序立てて説明しています。

すなわち、この節の①が主題となる宣言で、②がその論拠になっています。ここでは、①について、パウロが一体何を言いたいのか、(とら)えましょう。次節17節では、その宣言への補足ならびに警告が記されています。

ここでの「あなたがた」は、コリント教会のすべての兄弟姉妹を指しています。その「あなたがた」が全体として神の神殿なのです。わたしたちは、「神の」、すなわち、神のものであります(詩編24:1冒頭)。だから、わたしたちは神に造られたものとして、神の栄光をほめたたえます(同上102:19)。「神のもの」を(けが)したり壊したりしないように、と警告されています。

パウロの言う神の神殿は、教会にほかなりません。では、「あなかがたは神の教会である」とは、どういうことなのでしょうか? 実際、パウロはコリントの信徒への手紙 の冒頭から「神の教会」との用語(Ⅰコリント1:210:32)を使っているのですが……。

パウロは今、旧約聖書を背景とする神の神殿に根ざしながら、「神の教会」についての教会論を打ち立てようとしています。とすれば、神の神殿とはひと言でいえば、何であったのでしょう。余談ですが、コリント滞在中のパウロについて、「天幕造りがその職業であった」(使徒18:3)と書かれています。生活の糧を得るときにも、「神の神殿」のことを考えていたのでしょうか。

それは、主なる神の「います所」(詩編74:2)であります。そこにおいて、人が「神に出会う(申命記4:29)ことが許されました。人が神に出会う」ために、「神の神殿に至聖所が設けられ(列王記上6:16)、祭司職が整えられました。そして、民衆もまた、「神の神殿」で「神に出会う」ために、三大祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)の時、巡礼するのが(なら)わしとなりました(申命記16:16)。

さらに、パウロはコリントの信徒への手紙 においても、「わたしたちは生ける神の神殿なのです」(6:11)と述べています。「わたしは彼らの間に住み、巡り歩く」(Ⅱコリント6:16)という神に、今わたしたちは、教会でお会いすることができるのです。そこで、わたしたちは臨在してくださる神の御前で礼拝をささげます。それによって、「あなたがたは神の神殿である」ことが、信仰者の告白と感謝と讃美をもって言い表されます。

ここでパウロは、「神の神殿」が神のものとして十分に尊ばれていないことを見抜いています。教会教育の賜物を持ち、謙遜にキリストにある(おさな)()」を導いているパウロは、適確な説明を加えています。

 

Ⅱ 神の霊が自分たちの内に住んでいる      

コリントの信徒への手紙 3:16後半――          

あなたがたは、自分が神の神殿であり、神の霊自分たちの内に住んでいることを知らないのですか。   の部分を後半として取り扱います。

既にこの節について、①が主題となる宣言で、②がその論拠である、と述べました。言い換えれば、あなたがたは神の神殿である」との告知を、どのようにすれば信じられるのか、また、それによってどんな益があるのか、が②で説き明かされているということです。

とは言っても、パウロはここで新しいことを提示しているわけではありません。この手紙の冒頭で提示されている、「十字架の言葉は、わたしたち救われる者には神の力です」(Ⅰコリント1:18)というキリスト教の基本を、神の霊なる聖霊がわたしたちに教えているということです。つまり、そのために、「自分たちの内に住んでいる」というように、聖霊なる神がわたしたちの内に常駐(じょうちゅう)しているのです

“霊”(=聖霊)は一切のことを、神の深みさえも究めます(Ⅰコリント2:10という聖霊が自分に寄り添っています。聖霊はわたしたちをキリストにある(おさな)()から信仰に成熟した人へと成長させてくださいます。そうして、成熟させられた一人ひとりが、神のために力を合わせて働く者」(同上3:9)として、「神の建物」を建てついでいきます。その時、コリント教会はあなたがたは神の神殿であるとの宣言にふさわしい教会であるということになります。

聖霊がわたしたちの内に住みつくことによって、教会が「生ける神の神殿」となります。聖霊の力が充満して、人間の誇りや(かたく)なさは打ち砕かれます。このようにして、パウロは教会論の基本を簡潔に指し示しました。

次の節の前半でパウロは、「あなたがたは神の神殿である」ことが危機にさらされる場合について言及しています。まさに「熟練した建築家(Ⅰコリント3:9のごとく、パウロには()かりがありません。

 

Ⅲ 神の神殿を壊す者                 

コリントの信徒への手紙 3:17前半――  

神の神殿を壊すがいれば、神はその人を滅ぼされるでしょう。

ある人が神の神殿を「壊す」ならば、神はその人を「滅ぼされる」ということです。二つの動詞はギリシア語「フセイロー」という同一語です。つまり、「破壊する」者は自ら「破壊される」のだという同害報復が宣告されています。同害報復とは、被害に相応した報復を行うことで、目には目を、歯には歯を」(レビ記24:20)との言葉がよく知られています。

まことに厳しい警告ですが、一体、コリント教会の誰に向けられたものなのか、明らかにされていません。また、どのようなやり方で、神の神殿を壊すのか、も書かれていません。

しかし大切なことですから、パウロの手紙全体を読んで推論してみましょう。

まず、「神の神殿を壊す者」とは、誰か、どんな人物なのか、について――

パウロの手紙には、「偶像を崇拝する者」(Ⅰコリント5:11)や「娼婦と交わる者」(同上6:16)のことが出てきます。そのような人々は、主イエス・キリストにあって聖とされた教会に属しながらも、いまだこの世の中、「」の中に生きています(同上5:5)。彼らはサタンの支配下に引き渡されています。

パウロは、神の神殿」のメンバーについて、次のように描き出しています……「なぜなら、わたしはあなたがたを純潔な処女として一人の夫と婚約させた、つまりキリストに献げたからです(Ⅱコリント11:2。自分は神から愛され救われた、その熱い思いをもって、コリント教会の一人ひとりを「純潔な処女」として尊んでいるということです。そのような人が(けが)れてしまい、罪に巻き込まれていくのは、パウロにとって耐え難いことだったでしょう。

次に、何をもって、どのようなやり方で、「神の神殿を壊す」のか、について――

外からの圧力によるものか、それとも、内部崩壊によるものか。ここで()(だん)されているの神殿を壊す者」ですから、「木、草、わら」(Ⅰコリント3:12)などの(もろ)い資材をもって建てつぐ人とは別になります。というのも、建てつぐ人の安直な仕事は明るみに出されますが、彼らは救われるからです。「木、草、わら」が燃え尽きてしまえば、彼らは「損害を受けます(同上3:15が、それによって、神の愛による主イエス・キリストの救いが取り消されるわけではありません。

さて、「神の神殿を壊す」ことが、内と外、どこから起こるのか、言明できませんが、わたしたちの警戒すべき「破壊力」というものがあります。

それは、「肉の人」、信仰の成熟していない人の間に絶えないという「ねたみや争い」です(Ⅰコリント3:3)。エゼキエル書35:11には、イスラエル(弟ヤコブの末裔(まつえい)とエドム(兄エサウの末裔との本来親密であるはずの関係の中で、憎しみ怒りねたみという連鎖によって争いが激化することが指摘されています。それは、教会の兄弟姉妹という交わりの中でも、起こり得るという警鐘でありましょう。

そして、既にパウロが取り上げていることですが、「ねたみや争い」にも関連する問題として、「分派づくり」があります。「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(Ⅰコリント1:123:4)というように、当時のコリント教会における、一致と協調との欠如を、パウロは認識していました。

これは、「神の神殿」における内部崩壊の事例になります。ただし、冷静に手紙により当時の状況を分析するならば、内的な原因に加えて、外から「自然の人」の考え方、すなわち、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6,14)が教会内に流入していたと言えるでしょう。

分派づくり」は、教会に幾つもの亀裂を生じさせます。それはやがて、「神の神殿を壊す」ことへと至る恐れがあります。悔い改めて、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」とのパウロの教えを受け止めねばなりません。

そこで、旧約聖書から、「あなたがたは神の神殿である」との宣言に即した出来事を読んでみましょう。

 

Ⅳ すべて万軍の主に聖別されたものとなる  

ゼカリヤ書14:20-21――

20 その日には、馬の鈴にも、「主に聖別されたもの」と(めい)打たれ、主の神殿の(なべ)祭壇の前の(はち)ようになる。21 エルサレムとユダの鍋もすべて万軍の主に聖別されたものとなり、いけにえをささげようとする者は皆やって来て、それを取り、それで肉を煮る。その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる。

ゼカリヤは紀元前6世紀後半に活動した預言者です。ゼデキヤは神殿の再建作業に関して、エルサレムの住民に霊的な指導を行いました(参照:ゼデキヤ書2:5-17 若者2:8〕の育成)。ゼデキヤ書の最終・14章では、終わりの日を見据えて、諸国民の巡礼と都での礼拝が描き出されています。

それはまさに、再建されたエルサレム神殿と都に上って来た巡礼者によって、「あなたがたは神の神殿である」ことが成就するということでありました。その祝祭の中心に、「わたしはあなたのただ中に住まう」(ゼカリヤ書2:9,14,15)と宣言される主なる神がおられました。

折しもそれは、三大祭の一つ「仮庵祭」(ゼカリヤ書14:16,18,19)を祝うために、主の民が「神の神殿」に押し寄せて来る時でありました。

さて、終わりの日に、「主の神殿」では、一体何が起こるのでありましょうか?

その日には、馬の鈴も、(なべ)も、(はち)……すべて万軍の主に聖別されたものとなる(であろう)」……不思議なことですが、祭事に関わる物までもが「聖別され」と預言されています。あまりにも大勢の人がやって来るので、聖なる物が品不足になっているかのようです。それもこれも、待望の仮庵祭が神と人とに喜ばれるものとなるように、ということです。すべてのものが、礼拝を献げるために、「聖別され」、神に属するものに変えられます。

その日には、万軍の主の神殿にもはや商人はいなくなる」……主イエスによる宮潔めが思い起こされます。ちょうど、「ダビデの子にホサナ」との群衆の歓呼(マタイ21:9)に応えて、主イエスがエルサレムに入城された時のことでありました。過越祭が迫っていました(同上26:2)、

マタイ福音書21:12――

それから、イエスは神殿の境内(けいだい)に入り、そこで売り買いをしていた人々を皆追い出し、両替人の台や鳩を売る者の腰掛けを倒された。

主イエスは商人たちを追い出されました。(いきどお)をもって厳しく対処されました。日常、神殿の回りで、「いけにえをささげる」ために、動物を「売り買い」することがありました。また、諸国の人々が()(さい)(せん)をするために、「両替」が必要でありました。

しかし、その日」には、「この世の知恵」(Ⅰコリント2:6)と霊的な教えとは(あい)()れないものでありました。過越祭や仮庵祭を祝うために、すべて万軍の主に聖別されたものとなる」のが大事なのであります。

ところで、預言者ゼデキヤは、「主に聖別されたもの」という神からの恵みがどのようにして、「神の神殿」にゆき(めぐ)ると考えているのでしょうか。言い換えれば、諸国の民がことごとく集められた礼拝ゼカリヤ書14:2)において、どのようにして、「あなたがたは神の神殿であるとの宣言が聞かれるのでしょうか。

ゼカリヤ書4:6 第五の(まぼろし)――

(御使い)は答えて、わたし(ゼカリヤ)に言った。

「これがゼルバベル(神殿再建の指導者)に向けられた主の言葉である。

武力によらず、権力によらず

ただわが霊によって、と万軍の主は言われる。」

ゼデキヤは、わが霊なる神の力によって、この地から(けが)れた霊が追い出されると語っています(ゼデキヤ書13:2)。また、万軍の主は、嘆き悲しみに襲われるときにも、「ダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ」と述べています(同上12:10)。

そうして、その日には「わが霊」なる神の力によって「あなたがたは神の神殿である」ことが実現します。神の霊の働きに寄り頼んだゼデキヤは、「神の霊が自分たちの内に住んでいる」と宣言したパウロの先駆けとなりました。

 

Ⅴ 神の神殿は聖なるものである             

コリントの信徒への手紙 3:17後半――  

神の神殿は聖なるものだからですあなたがたはその神殿なのです。

神の神殿は聖なるものだからです」……この点については、既にゼカリヤが「その日」の(くす)しき出来事として預言していました。巡礼者のみならず、日用から借りてきたような祭具に至るまで、「主に聖別されたもの」となるということです。

そうして、諸国の民は、「神のもの」・「神に属する会衆」として神殿に入ります。そこで、人々は主なる神の「わが霊」を注がれます。そこで、諸国の民は神への信仰において、一つとされます(ネヘミヤ記8:1)。「あなたがた」は「神の神殿」を構成する肢々(えだえだ)となって、祭りを祝い、それぞれの日常へ帰って行きます。わたしたちにとってまるで、聖霊降臨日の祝祭(ユダヤの暦では七週祭にあたる)を見ているかのようです(使徒2:1-6)。

パウロは、初めに提示した主題、「あなたがたはその神殿なのです」を繰り返しています。極めて簡潔な宣言ですが、「あなたがたは主イエス・キリストの十字架の復活の御業によってその神殿なのです」と補足すれば、一つの信仰告白となり得ます。ただし、この文脈において、キリスト論への寄り道は避けているようです。おそらく、一つ一つ、要点を押さえながら、キリストにある(おさな)()」の前で語っているからでありましょう。

 

結 

あなたがたは神の畑である」⇒「あなたがたは神の建物である」⇒あなたがたは神の神殿である……日常的な親しみやすい比喩から始まり、最後、「聖なる」宣言で締め(くく)られました。聖霊の導きのもとに、パウロの教会論は築き上げられました。

あなたがたは神の神殿である」との確信において、皆が「成長させてくださる神」(Ⅰコリント3:6)のもとに()し集められることでしょう。浅はかな人間的な知恵ではなく、「神の深み」なる知恵によって(同上3:10)、互いの間の「ねたみや争い」も根絶させられることでしょう。

               Ω

2024年 2月11日          日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第7主日

旧約聖書 詩編66編 10節~12節(P.898

新約聖書 コリントの信徒への手紙 3章10節~15節P.302

説  教「イエス・キリストという土台」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 土台を()える者とその上に建てつぐ者 ……Ⅰコリント3:10             

Ⅱ イエス・キリストという土台         ……Ⅰコリント3:11

Ⅲ かの日がおのおのの仕事を明らかにする

                     ……Ⅰコリント3:12-13  

Ⅳ 神よ、あなたは我らを(こころ)みられた     ……詩編66:10-12          

Ⅴ 火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる

                    ……Ⅰコリント3:14-15  

 結

 

コリント教会には、ユダヤ人」・「ギリシア人」・「奴隷」・「自由な身分の者」など、さまざまな人が(つど)っています(Ⅰコリント12:13)。また、知恵のある者や「能力のある者や、家柄のよい者の少数派と、そうでない「世の無学な者」や「身分の(いや)しい者」の多数派との間に、対立がありました(Ⅰコリント1:26-28

パウロは将来に向けて、キリストの体なるコリント教会が大きく成長し、豊かに実を結ぶよう、励ましの手紙を書いています。彼はその最適任者でありました。というのも、第2回伝道旅行(4952年頃)の際、パウロはおよそ一年半コリントに滞在し、教会を建てたからです。「わたしは植えた」(Ⅰコリント3:6)というように、コリント教会にとって、パウロは開拓伝道者だったのです。

およそ2年の歳月を()、パウロはエフェソ(小アジア・トルコ半島)からコリント(ギリシア)へ手紙を書き送りました。それは、コリント教会の問題を見つめ直すのに、ふさわしい時空間の(へだ)たりだったと言えましょう。

パウロはキリストの福音に照らしつつ、コリント教会の複雑な状況を分析し整理しています。そして第一に、信徒一人ひとりが、キリストにある(おさな)()」から「信仰に成熟した人へ(Ⅰコリント2:63:1)と変えられていくという道すじを示しました。そのように、洗礼(バプテスマ)を受けた者が造り変えられる奥義として、神からの霊を受けなさい、と勧めました(同上2:12)。教会が「神から恵みとして与えられたもの」(同上2:12)に満ち(あふ)れていることを知るとき、お互いの間に、ねたみや争いは起こり得ません。そこには、いつも神の知恵にあふれた讃美と感謝が行き巡っていることでしょう。

今回のテキスト箇所では、あなたがたは神の建物なのです」(Ⅰコリント3:9との観点から、いわゆる教会論が展開されます。それは、キリストの体なるコリント教会という全体像を昭示するということです。そうすれば、知恵のある者」と「世の無学な者」、また、キリストにある(おさな)()」と「信仰に成熟した人、それぞれの違いも、一致の中にある多様性として受け止められることでしょう。

パウロは、異なる賜物を持った仕える人」(ディアコノス)が一つの群れとなって神のために力を合わせて働く者シュネルゴス)となるという方向性を明示しています(Ⅰコリン3:5,9)。

では、ご一緒に神の建物のルームツアーのひと時を過ごしましょう。「熟練した建築家」パウロが案内してくれます

 

Ⅰ 土台を()える者とその上に建てつぐ者        

コリントの信徒への手紙 3:10――             

わたしは、神からいただいた恵みによって熟練した建築家のように土台を据えましたそして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。

まず、「神の建物」の建築について、役割分担が明らかにされています。すなわち、「土台を据えた」人と「その上に家を建てている」他の人がいるということです。これは、「神の畑」において、「わたしは植え、アポロは水を注いだ(Ⅰコリント3:6,9ということと響き合っています。

すでに述べたように、コリント教会にとってパウロは開拓伝道者ですから、「わたしは熟練した建築家のように土台を据えました」との点については、皆同意したことでしょう。「熟練した」(ソフォス)とは「知恵の」という原意で、本来、「隠されていた、神秘としての神の知恵」に由来するものです(Ⅰコリント2:7)。パウロは神の御心に添うようにと祈り、土地を選定しました。そこに、それまでに(いく)つかの教会を建ててきた、パウロの「熟練」、すなわち、「賢さ」がありました。

さて、土台を()える者からその上に建てつぐ者へと、バトンが渡されるとき、そのリレーが首尾よく行くようにと、誰しも思います。コリント教会の「建てつぐ者」の代表として、アポロが挙げられます。彼については、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家」(使徒18:24)との情報があります。パウロとは旧知の仲でもあり、コリント教会の牧会者として最善の後継者でありました。アポロは神からの()しを受けて、「土台の上に家を建てる」ことに従事しました。

ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」……「おのおの」は、教会の一人ひとりとの意味で、牧師や伝道者のみならず信徒をも指しています。一人ひとりがさまざまな賜物を与えられ、それぞれの務めに()いています(Ⅰコリント12:4-5)。大切なのは、キリストの体の隅々にまで、聖霊の働きが現れるように、ということです(同上12:7)。

その時々の教会の実際問題をめぐっては、「どのように建てるか」の正解が見出しがたいかも知れません。しかし、あなたの憎しみあなたの怒りあなたのねたみという連鎖によって争いを起こしてはなりません(エゼキエル書35:11、Ⅰコリント3:3)。教会を()(へい)させてはなりませんわたしたちは神のために力を合わせて働く者である」(Ⅰコリント3:9)との初心に立ち返ることです。

土台を()える者とその上に建てつぐ者との連係や「どのように建てるか」問題を見越して、パウロは「神から(わたしに)いただいた恵みによって」との句を、この文章の冒頭に置いています。

パウロ自身について言えば、この句は大きく二つのことを言い表しています。

一つは、キリスト教を迫害していた自分、「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)が神の恵みによってイエス・キリストの救いにあずかったということです。

もう一つは、使徒として立てられ、各地の開拓伝道において「熟練した建築家」の働きが神の恵みによって、与えられ支えられたということです。

次の節では、「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」と語ったパウロが、その「土台」について説明しています。そこで、教会を建てる際、中心となるお方が登場します。

 

Ⅱ イエス・キリストという土台                 

コリントの信徒への手紙 3:11――

イエス・キリストという既に()えられている土台無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。

土台を()えた者も、その上に建てつぐ者も「無視」できないのが、「イエス・キリストという既に()えられている土台」です。つまり、教会を建てる際に、伝道者や信徒が「土台」を設計して造り出す必要はないということです。パウロのように、既にある「土台」を据えればよいのです。とすれば、パウロが据えた「土台」とは、一体何なのでしょう。

イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)……このお方御自身が「土台」になってくださいます。信仰により祈りをもって建てられる教会の「土台」は、イエス・キリスト以外にあり得ません。コリント教会へのパウロの信頼は、「イエス・キリスト」が土台として「既に()えられている」ことに()っています。神の用いられる道具として、パウロは慎重に「熟練した」手をもって据えたのです。

従って、わたしたちの礼拝や伝道の確かさは、すべて「既に()えられている土台」なるイエス・キリスト()かっています。イエス・キリスト」が「土台」であり、その神の住まいに霊の働きに満ちるとき(エフェソ2:20-22)、わたしたちが信仰において成熟するように、また、ねたみや争いをくぐり抜けて和解するように、導かれます。

終わりに、「この土台はイエス キリストである 19907月定礎」……茅ヶ崎香川教会の「隅の(おや)(いし)」(詩編118:22)に刻まれている文……に関して一つ、類句を(かか)ましょう。

ペトロの手紙 2:4――

この主のもとに来なさい。主は、人々からは見捨てられたのですが、神にとっては選ばれた、(とうと)い、生きた石なのです。

イエス・キリストという土台がここでは(とうと)い、生きた石と言い換えられています。「生きたとは単に「永遠の」という意味ではありません。それは、「十字架につけられて死んだ後に、よみがえった」ということです。この「生きた石」は人々から踏みにじられ、(ほう)り捨てられました。しかし、神から選ばれた」、そのは、神の力によって復活されられました。その意味で、教会には困難を乗り越える力が備わっているはずです。

わたしたちは今、神の建物の「土台」なる「生きた」(単数形)の恩恵にあずかっています。パウロは次のように証言しています。

ガラテヤの信徒への手紙2:20――

生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです。わたしが今、肉において生きているのは、わたしを愛し、わたしのために身を献げられた神の子に対する信仰によるものです。

さて、次の段では、「土台」なる主イエス・キリスト、その「土台」を「熟練した建築家」のように据えたパウロに続いていよいよ、建てつぐ人々、すなわち、現在のコリント教会員へのメッセージが記されています。

 

Ⅲ かの日がおのおのの仕事を明らかにする       

コリントの信徒への手紙 3:12-13――  

12 この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合、13 おのおのの仕事は明るみに出されますかの日にそれは明らかにされるのです。なぜなら、かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです。

注目すべきは、建てつぐ人々の課題と共に、「神の建物」に関わる将来が見渡されていることです。「建物」というのは一般的に、そこに長い間住むものですから、これは必須の説き明かしでありましょう。わたしたちが安心して、そこで生活するための、基本情報になります。

金、銀、宝石木、草、わら」……パウロは、建てつぐ人々が用いている六つの資材を挙げています。そして、それらを二グループに分類しています(H.W. ホーランダル)。

金、銀、宝石」……火によって(そこ)なわれないか、ほとんど損なわれない資材

木、草、わら」……火の中で完全に燃えてしまう資材、つまり、容易に燃える物。

この土台の上に」積み上げていく資材が重要だ、というのはすぐに(うなず)ける話です。主イエスも、「家と土台」の(たと)えの中で、「雨が()り、川があふれ、風が吹いてその家を(おそ)」ことがあると警告されています(マタイ7:24-27)。「砂の上に建てられた家」は、たとえ「土台」自体が(がん)(じょう)であっても、「倒れて、その倒れ方がひどかった」という結末に至ります。

神の建物」の建築に関わる、二グループの資材の比喩はよく分かります。しかし、「おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」(Ⅰコリント3:10)との警告を、建てつぐ人々は教会の働き・奉仕として、「どのように」実践すればよいのでしょうか。礼拝、伝道、説教、聖書研究、交わり……

この点についてすでにで、少し言及しました。

一つは、「わたし(パウロ)は、神からいただいた恵みによって」との冒頭の句が、建てつぐ人々の胸に刻まれること。

もう一つは、その時々の教会の実際問題をめぐっては、「どのように建てるか」の正解が見出しがたいこと。従って、わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」(Ⅰコリント3:9)との初心に立ち返って、協議すること。しばらく忍耐して待たねばならないこともあるでしょう。

なぜなら、かの日(単数形)が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」……かの日(おおむ)ね、「終わりの日」、すなわち、キリストの再臨の日を指していると見なされています。「神が(教会を)成長させてくださる」(Ⅰコリント3:6-7)ことに、終わりが告げられるその日と、より一般的に解することもできるでしょう。

大切なのは、かの日に、おのおのの仕事は明るみに出されるが故に、(おそ)れをもって「終わりの日」を見据(みす)えていることです。そうして、今の「仕事」に全身全霊をもってたずさわるのです。なぜなら、神が最終的に、吟味した上で、評価を下されるからです。その時、「それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります(Ⅰコリント3:8

「神の建物」の支配者なる神と建てつぐ人「それぞれ」の関係が重要です。周りを見て、「主よ、この人はどうなるのでしょうか」(ヨハネ21:21)と、問うのは差し控えましょう。あくまで、神に仕える(しもべ)として、自分の「仕事」を全うすることです。

果たして、わたしは神の恵みを信じて救われるのかどうか、「かの日」まで裁きが据え置かれるとしたら……。答えを得ようと(あせ)って悶々(もんもん)とするよりも、慰め深い旧約の詩人の言葉に耳を傾けてみましょう。

 

Ⅳ 神よ、あなたは我らを(こころ)みられた              

詩編66:10-12――          

10 神よ、あなたは我らを(こころ)られた。

あなたは銀を火で()るように我らを(ため)れた。

11 あなたは我らを(あみ)追い込み

あなたは我らの腰に(かせ)をはめ

12 あなたは人が我らを()り立てることを許された。

我らは火の中、水の中を通った

あなたは我らを導き出して

豊かな所に置かれた

我らは火の中、水の中を通った」との詩行から、バビロン捕囚(紀元前6世紀初め)のような歴史的な苦難がこの詩の背景にあると分かります。「我らは」は、敵に侵略され、大災難の中でもがき苦しみました。

上の詩文で特徴的なのは、一つの詩行を除いて、「あなた(神)我らを~した(合計6回)との言い回しが貫かれていることです。あなた(神)」と「我らとの関係に()らぎは皆無です。「我ら」を造られた「あなた(神)」は、「我ら」を守り導いておられます。神は「火の中、水の中」、民と共に歩んでおられます。

内容的には、神がイスラエルの民を、苦難や危機を通して訓練される様子が描かれています。訓練とは、「銀を火で()(こころ)のように、()(れつ)なものです。「我ら」の(おこな)った善いことも悪いことも、すべて(あら)わにされます。それは、善悪を見分ける霊的感覚と経験を身につけるためです(ヘブライ5:14)。その上、その訓練が、いつまで続くのか、「我ら」に知らされていません。

そして神は、「我らの腰に(かせ)をはめ」て御前に立たせ、我らの罪を裁かれます。誰も、その厳しい裁きから逃れられません。なぜなら、かの日、おのおのの仕事は明るみに出される」(Ⅰコリント3:13)という終わりの日が到来するからです。

みなさん、不安になられるでしょうか。思わず、周りの人の様子を(のぞ)きたくなるでしょうか。詩人のつづった最終詩行を読んでみましょう……しかしあなたは我らを導き出して 豊かな所に置かれた」。ここに、希望があります。

神の寛大さを証しする、別の事例についてお話ししましょう。

創世記26章に、イサクがペリシテ人によって妨害されながらも、井戸を掘り直したという挿話(エピソード)が出ています。イサクは飢饉のために、ペリシテ人の領土ゲラル(ガザの南方)に移住しました。そこに、イサクの父アブラハムの掘った井戸がありました。土で埋められていたので、修復しようとしたのです。それは、その土地に種を()いて収穫するためでありました(創世記26:12,15)。

その時、ペリシテ人はイサクをねたみ、彼と争い、彼に敵意を(いだ)きました(創世記26:14,20,21 参照:エゼキエル書35:11)。そのために、イサクはゲラル周辺の谷に移住し、天幕を張って住みました。イサクは、荒れ地に井戸を掘った父アブラハムの労苦(同上21:25,30)を思い起こしたに違いありません。

そうして、新たな井戸が掘り当てられ、もはやペリシテ人との間に争いは起こらなくなりました。神がイサクを祝福されたのです。

創世記26:22――

イサクは、その井戸をレホボト(広い場所)と名付け、「今や、主は我々の繁栄のために広い場所をお与えになった」と言った。

詩編66:12豊かな所」は、「(うるお)い」とも「自由」とも読み換えられます。「我ら」を(しば)り付ける「(あみ)」や「(かせ)」から自由になっていることは、確かです。わたしたちが大いに慰め励まされるのは、この使信((こころ)みからの救い)がキリストの福音につながっているということです。

 

Ⅴ 火の中をくぐり抜けて来た者のように救われる  

コリントの信徒への手紙 3:14-15――  

14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15 燃え尽きてしまえば損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。

かの日」の話の続きです。今の時代の、教会・設立の問題として語り直してみましょう。

建物に土台を据える人々がいます(複数人としておきます)。そして、建築を押し進めて、建てつぐ人々がいます(これも複数人として)。「植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります」(Ⅰコリント3:8)との文意が今、深く理解できます。

すなわち、一人ひとりが、「報いを受ける」か、それとも、「損害を受ける」か、それぞれに、分かたれるということです。しかし、驚くべきは、その先です。

ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」……その人とは、「損害を受ける」人、神の裁きによって罰を受ける人です。「その人」は「熟練した建築家」ではありません。愚かにも、神の建物に、木、草、わら」などの資材を持ち込んでしまいました。早く、建て上げようと急ぐあまりに、「かの日」という将来を望み見ることがありませんでした。

その人は「神の建物」、すなわち、教会を建てつぐ者として、「神からいただいた恵み」を十分に生かせなかったのです。彼らの中には案外、教会の兄弟姉妹の評判はよかった人もいるかも知れません。しかし、その仕事は「燃え尽きてしまいました」。永続するようなものではなかったのです。「かの日」に「その人」は罰せられました。

しかし、驚くべきことに、その先がありました……「ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。確かに、「我らは火の中、水の中を通った」(詩編66:12)というように、その人は「火の中」の試練を耐え抜きました。

その人は、「キリストにある(おさな)()」(Ⅰコリント3:1)のような人とも言えるでしょう。「キリストにある」ということだけが、「救い」なのであります。

 

ここでは、「かの日に、おのおのの仕事は明るみに出される」(Ⅰコリント3:13)に関連して、重要なことを補足します。

コリントの信徒への手紙 になりますが、パウロは「あなたがたは神の建物なのです」(Ⅰコリント3:9)という教会論を発展させています。それは、わたしたちが主イエス・キリストと再会する、終わりの時・「かの日」を見据(みす)えたものになっています。

コリントの信徒への手紙 5:1――

わたしたちの地上の住みかである幕屋が滅びても、神によって建物が備えられていることを、わたしたちは知っています。人の手で造られたものではない天にある永遠の住みかです。

一瞬、()(ぜん)とするでしょうか。地上で、神のために力を合わせて働く者たち」(Ⅰコリント3:9)が土台を据え、建てついだ神の建物・教会とは別の「建物が備えられている」とは……?!

いや、別のものと言うよりも、わたしたちの教会は、「天にあるものの写し」なのです(ヘブライ8:5)。だから、地上の「神の建物」を聖なる宮として、建て上げるようとしているわたしたちの働き」(Ⅰコリント3:8)、その「労苦」は、決して無駄になりません。

主なる神は、終わりの時に、「天にあるものの写し」なる教会を精査され、群れの一人ひとりの「働き」を吟味されます。そうして、「火の中をくぐり抜けて来た者のように」救われた者たちは、「天にある永遠の住みか」に入れられます。格闘と呼べるほどの仕事に終わりが告げられます。まことの安らぎに包まれます。

 

これほどの、身に余る「報酬」(Ⅰコリント3:8)が約束されています。先走りの損得勘定は()めて、達し得たところに従って進んでいくことにしましょう(フィリピ3:16)。

               Ω

2024年 2月4日      日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第6主日

旧約聖書 ダニエル書 3章25節(P.1385

新約聖書 マルコによる福音書 3章7節~12節P.65

説  教「あなたは神の子だ」と、叫び声が上がった

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ おびただしい群衆がイエスに従った  ……マルコ3:7-8             

Ⅱ 多くの人がイエスに()れようとする    ……マルコ3:9-10

Ⅲ 四人目の者は神の子のような姿をしている

                     ……ダニエル書3:25  

Ⅳ あなたは神の子だ             ……マルコ3:11-12          

 

主イエスの伝道が進む様子が描かれています。ガリラヤ湖畔で、主イエスを取り囲んでいる群衆がいました。辺りには、騒然(そうぜん)とした空気が漂っています。その中心に、神の知恵をもって、事態に対処しておられる主イエスがおられます。

おびただしい群衆」、「病気に悩む人たち」、そして「(けが)れた霊ども」が押し寄せて、主イエスを湖に突き落とす恐れも出て来ました。舟の用意を急がねばなりません(マルコ3:9)。屋根をはがして穴をあけ、主の御前に突進して来る集団もいました(同上2:4)。このまま熱狂が高ずれば、何が起こっても不思議ではありません。

ここで、日本人のわたしたちはこう思うかも知れません。「(けが)れた霊ども」はともかくも、この人たち(ユダヤ人ならびにエドムなどの異邦人)は、静かに整列できないのだろうか、と。主イエスと対面するためにも、列を作って並んだ方が効率的なはずだ、と。そもそも、耳をつんざくような喚声(かんせい)怒声・雑談にむかつく、と。整列しているならば、万一、「今日はこれまで」となっても、あきらめがつくのに……。

日本人と異なる民族性や行動様式の、こういう人たちだから()むを得ないとも言えますが、わたしたちは極限に近い混沌状況において、主イエス・キリストがどのように振る舞われたのか、を知らされます。

実際、主イエスはご自身に迫り来る群衆マルコ2:4,133:9,20,32)への伝道に心を配っておられました。主イエスは神の御前に、群衆が秩序づけられるように、御言葉を傾聴する態勢が保たれるように指導されています。何よりも、「群衆」が見習うようにと、祈りの時間を作っておられます(マルコ1:356:41)。

将来、教会の設立に向けて「群衆」を秩序づけていく中で、主イエスは信仰の基本線を明確に示されています。すでに、(ちゅう)()の人を癒すという出来事において、主イエスはご自身が「①罪の赦しを教える⇒②病気を(いや)」(マルコ2:1-12ルカ5:17)お方であることを現されました。それは、「主はお前の罪をことごとく赦し (やまい)をすべて(いや)すお方」(詩編103:3)との讃美であり預言である御言葉の成就でありました。

このようにして、主イエスをどういうお方として信じればよいのかが、易しく宣べ伝えられていきました。そして次の段では、湖畔から山に登って、主イエスによって「これと思う人々を呼び寄せられ」、十二人が使徒として任命されました(マルコ3:14)。それによって、群衆」は十二使徒を通して宣教の恵みにあずかることができるようになりました。

さて、本日のテキストは、主イエスのガリラヤ伝道を二分する(マルコ1:163:63:138:26)、その橋渡しをする箇所になります。要約の形で、伝道の伸展と労苦とがまとめられています。

 

Ⅰ おびただしい群衆がイエスに従った    

マルコ福音書3:7-8――             

7 イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られたガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、8 エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た。

ここでも、主イエスによってガリラヤ伝道が押し進められているのが明白です。「おびただしい群衆」の圧迫によって、主イエスが右往左往することはありません。そのことが、「イエスは立ち去られた」ならびに「群衆が(イエスに)従った」との句に表されています。

イエスは弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」……主イエスはあえて無理を通されません。父なる神の御心に添って行動されます。「嘆き悲しむに時があり、また、踊り舞うのに時がある」(コヘレトの言葉3:4 私訳)のをご存じです。

主イエスが「弟子たちと共に湖の方へ立ち去られた」のは、まさにリトリート ‘ Retreat ’ するためでした。リトリート元来「退去」という意味ですが、キリスト教用語として「黙想」や「修養」を目的とする集会を指すようになりました。日常生活から離れ、祈りと讃美をもって神に心を向け、自分の心身をリセットするのです。

その原型が、弟子たちを伴った、主イエスの湖畔への「退去」にあったということです。「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」(マルコ3:6)というファリサイ派の人々などの策略を恐れて、伝道方法を変えられたわけではありません。祈りをもって、神の御心に添った伝道がなされています。

イエスは立ち去られた」が、それでも「おびただしい群衆が(イエスに)従った」とは、まるで磁石に引き付けられているかのようです。主イエスは「集まって来る」群衆の真ん中にあって、休む(いとま)もありません。

その通り、主イエスは一人ひとりがご自分に「従った」かどうかを注視しておられます。主イエスのガリラヤ伝道は具体的には、ペトロとその兄弟アンデレの召命から始まりました。それについて、「二人はすぐに(あみ)を捨てて従った」(マルコ1:18)と語られています。

二人は「湖で網を打っている」(マルコ1:17)時に、主イエスと出会いました。そして、「人間をとる漁師」になるように、その人生が一転させられました。

ペトロとアンデレは主イエスの後をついて行きました。「主があなたと共におられる」(ルカ1:28)という生活が始まりました。それが、「群衆が(イエスに)従った」ということの意味です。彼らは人生のさまざまな問題を主イエスにゆだねることができるようになりました。

そのようにして、主イエスは野外で、あるいは、会堂や或る人の家で神の国の福音を宣べ伝えておられました。主イエスに御業を伝え聞いた人々が、「ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺り」からやって来ました。すなわち、ユダヤ民族の(かき)()を飛び越えて、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。

 

Ⅱ 多くの人がイエスに()れようとする        

マルコ福音書3:8-9――

9 そこで、イエスは弟子たちに小舟を用意してほしいと言われた。群衆に押しつぶされないためである。10 イエスが多くの病人をいやされたので、病気に悩む人たちが皆、イエスに()れようとして、そばに押し寄せたからであった。

おびただしい群衆」が主イエスを「押しつぶさん」ばかりでありました。その際の、主イエスの対応が簡略に記されています。

 すぐに乗ることはなかったのですが、小舟が用意されました。それは、単なる乗り物ではありません。「舟に乗って腰を下ろし、(群衆に対し)たとえでいろいろと教えられた」(マルコ4:1-2)というように、宣教に活用されました。主イエスはわたしたちの一歩も二歩も先を行かれています。

 「多くの病人」……この時点までにも、主イエスは多くの病人をいやしてこられました(マルコ1:34)。具体的な病気としては、「熱を出していた人」、「重い皮膚病を(わずら)っている人」、「(ちゅう)()の人」が挙げられます(同上1:30,402:3)。それらにおいて、主イエスは「①罪の赦しを教える⇒②病気を(いや)」という信仰の基本線を示されました。

 「病気に悩む人たちが皆、イエスに触れようとして」……ここで一つの現象が(きわ)()たされています。病人の方から「イエスに触れようとして」います。主イエスが病人をいやしために、その人に触れたのではありません(マルコ1:41)。

 これでは、病気のいやしが先行して、先の信仰の基本線がかき乱されてしまいます。「イエスに触れる」ことに、何か意義があるとしたら、それはどんなことなのでしょうか?

 それを説き明かす前に、注目したいのは、病気そのものです。「病気に悩む」のは、古今東西変わりありません。しかし、改めて「病気」とは一体何なのか、問うのは無意味ではありません。

 端的に、病気(ギリシア語:マスティクス)とは、「(むち)打つ」との原意を持っています。当時、民衆の一部においては、神から与えられた」であると考えられていました(列王記下15:5、詩編89:33)。そのために、病人は深く「苦しむ」ことになります。鞭打たれるような「苦しみ」が重くのし掛かってきます。以上は、「病気」についての、語源的な一つの理解です。

そこで、「病気に悩む人」がその「苦しみ」を、やがて鞭打たれることになるお方(マルコ15:15)に身をあずける、それがイエスに()れるマルコ1:415:27-346:56という行為になっているのではないでしょうか。そのような直接接触……あるいは真実なる出会い……を()い願うほどに、「多くの病人」は主イエスにその人生をゆだね切っているのです。

そして、人々がイエスに()れると、イエスの内から「」が出た(ルカ6:19)と証言されています。「力は弱さの中でこそ十分に発揮されのだ」(Ⅱコリント12:9)という出来事にほかなりません。聖書は、人間の触れる力にではなく、主イエスの憐れみに焦点を合わせています。多くの人の病気がいやされたのは、主イエス・キリストの憐れみ深さによるものです。

主イエスによるガリラヤ伝道の要約・最終部分を見る前に、それに関連する旧約聖書を読むことにします。大きなテーマは、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということです。

 

Ⅲ 四人目の者は神の子のような姿をしている 

ダニエル書3:25――  

ネブカドネツァル王は言った。

「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

新バビロニア帝国の王・ネブカドネツァル(在位:604562)によって、捕囚となったユダヤ人が苦しめられている時のことでした。その王宮にユダ族出身の若者たちが召されて仕えていました(ダニエル書1:6)。王に召し(かか)られたとはいえ、彼らの信仰を守り抜くために、大変苦労しました。というのも、夢を解く知恵や理解力の点で、ユダ族出身の若者たちに並ぶ者はだれもいかなったため(ダニエル書1:19)、王に仕える侍従や祈祷師などから(ねた)まれたからなのです

ある時、バビロンのカルデア人は信仰上のことでユダヤ人を中傷しました。それが、ネブカドネツァル王の知るところとなり、ユダ族出身の若者たちに罰が下されました。

そうして、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」(ヘブライ語名:ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ)に対し、「(ただ)ちに燃え盛る炉に投げ込め」(ダニエル書3:15)との命令が出されました。気まぐれな王が家臣たちの(わな)にはめられる結果となりました。

間もなく王は立ち上がり、炉の中をのぞきに行きました。上の引用文はその時、ネブカドネツァル王が言ったものです。(しば)られたまま炉の中に落ち込んだのは、三人です。

しかし、「わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える」と、王は驚きの声を上げました。「四人目の者」とは、一体だれなのでしょう。ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの若者の同僚である「ダニエル」だったのでしょうか。

異邦の王、ネブカドネツァルは、「それに四人目の者は神の子のような姿をしている」と告白しています。王は、ユダヤの信仰に立って、神の子のような者を見たと、証言しているのです。

興味深いことに、ベルシャツァル王(新バビロニア帝国・最後の王)の治世に、ダニエルは夜に見た幻について次のように記録しています。すなわち、「見よ、人の子』のような者が天の雲に乗り 『日の老いたる者』の前に来て、そのもとに進み 権威、威光、王権を受けた」(ダニエル書7:13-14)。

ダニエルは、異邦の王の、神の子のような者」への目撃証言を受ける形で、「『人の子』のような者」の存在を告知しています。ここに、ユダヤと異邦世界の全体を治める主なる神、「日の老いたる者」が現れました。その御前で、人の子に「権威、威光、王権」が授与されました。この「人の子」は明らかに、イエス・キリストを指し示しています。

わたしたちは今、終わりの日に、人の子なるイエス・キリストが「大いなる力と栄光を帯びて天の雲に乗って来る」(マタイ24:30)のを待ち望んでいます。その時には、すべてのものが炉のような火をもって裁かれます(Ⅱコリント3:13)。耐え忍んで、「人の子」イエスをまことの救い主と告白する者は救われます。

異邦の王、ネブカドネツァルは、炉に投げ込まれた若者たちが神の介入によって救われたことに大変驚きました。そして王は、ダニエルたちが信じている「神の子のような者」または「御使い」をほめたたえました(ダニエル書3:28)。ネブカドネツァルが聖なる神の霊が宿っていた」ダニエル(同上4:5)との交わりの中で、そのように導かれたのであります。

主なる神は、すべての出来事を支配しておられます。主イエスの御前で、「(けが)れた霊ども」はどのような証言をするのでしょうか。

 

Ⅳ あなたは神の子だ                 

マルコ福音書3:11-12――   

11 (けが)れた霊どもは、イエスを見るとひれ伏して、「あなたは神の子だ」と叫んだ。12 イエスは、自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められた。

群衆の怒声や喚声が(うず)巻いています。人々が波のように主イエスの回りに押し寄せています。ここに、一つの証言記事があります。これからも続くガリラヤ伝道の光と影を予感させるような出来事です。

(けが)れた霊ども」がまるで信心深い人間であるかのように、主イエスに「ひれ伏して、『あなたは神の子だ』と叫び」ました。解説すれば、悪霊の軍団が声をそろえて「あなたは神の子だ」と叫んだということです。このような出来事にも、「聖なる神の霊が宿っていた」イエスの感化が及んでいるのでしょうか。

マルコの報告によれば、主イエスはあなたは神の子」との告白を否定されてはいません。悪霊による妄言(もうげん)だと決めつけられてはいません。そのため、混雑によりだれが言ったのか分からないままに、「あなたは神の子だ」との多勢の叫び声がガリラヤの山野にこだましました。

主イエスが聞き届けられた「あなたは神の子だ」との叫びは今、キリスト者に向けられています。というのも、パウロが「神の霊によって導かれる者は皆、神の子なのです」(ローマ8:14)と語ったように、主イエスと同じように、キリスト者に「神の子」という()えある称号が授けられているからです。主イエスの恵みによって、キリスト者は、「神の子とする霊を受けた」(同上8:15)のです。

ただし、「(けが)れた霊ども」の事例では、「信仰の告白ではなく、恐れの告白である」(L. ウィリアムソン)と考えられます。それ故に、主イエスは「自分のことを言いふらさないようにと霊どもを厳しく戒められ」ました。

主イエスは「厳しく戒められて」、その働きが(しず)まるように、悪霊を追い払われました。伝道が悪霊によって妨害されるのは、先刻承知でありましょう。主イエスは各所での礼拝や伝道の労苦をご自身が担われました。

神の子」、イエス・キリストが主導権を握っておられます。ファリサイ派などの人間や「(けが)れた霊ども」による策略や妨害に(たい)()し、時に論争されることもあります。わたしたちが神の国を目指して歩んでいるとき、主イエスの行われた礼拝や伝道はわたしたちの手本となります。

わたしたちが主イエスに「従う(しもべ)となり、その僕らが「神の子」として(つど)う教会が建てられますようお祈りしましょう。

 

                Ω

2024年 1月28日                日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第5主日

旧約聖書 ホセア書 11章1節~11節P.1416

新約聖書 マタイによる福音書 2章14節~15節(P.3

説  教「愛のきずなをもって引き寄せる神」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ まだ(おさな)かったイスラエルをわたしは愛した

                     ……ホセア書11:1-4            

Ⅱ わが民はかたくなにわたしに(そむ)いている

                      ……ホセア書11:5-7 

Ⅲ わたしはお前たちのうちにあって聖なる者

                     ……ホセア書11:8-9   

Ⅳ 子らは海のかなたから恐れつつやって来る

                  ……ホセア書11:10-11           

Ⅴ わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した

                                  ……マタイ2:14-15

ホセア書11章は旧約聖書の中で、神の愛を高らかに歌い上げている、屈指(くっし)箇所だと言われています。全体にわたり、親である神と(おさな)()である民という比喩的表現が基調になっています。また、忘れてならないのは、ホセアが()(てい)の妻をとことん愛した人だということです。

なぜ、ホセアは妻をとことん愛し抜いたのでしょうか? もし姦淫の罪を犯したならば、離縁されるどころか、死刑に処せられます(レビ記20:10、申命記22:22)。神に()し出された預言者が、律法を破ってよいのでしょうか。

神は、死罪に値する妻を(かか)えたホセアを、境遇そのままで預言者として用いられました。ホセアは町の人々から彼の家に石を投げつけられても、やり返せません。一番つらいのは、ホセア自身ですが、隣人を悪に巻き込む恐れのある妻を放置している責任が、厳しくホセアに問われています。

そう言えば、ここでわたしたちは、人々の面前で石打ちされる寸前であった、姦通(かんつう)の女のことを思い起こします(ヨハネ8:1-11)。姦通の現場で捕らえられた女が、神殿の境内(けいだい)におられた主イエスのところに連れて来られました。律法の上では即刻死刑が確定・執行される状況です。

今ここでは詳しく論じませんが、主イエスが待たれた、すなわち、死罪に値する、罪を犯した人間に立ち直る時間を与えられたことが重要です。この時、主イエスは女の(かたわ)かがみ込んで」おられました(ヨハネ8:6)。それはまるで、地にひれ伏して、主イエスご自身が大罪に対する神の怒りをこうむっているかのようでした。それから、主イエスは女を罪に定めずに、「行きなさい」と言って解放されました(同上8:11)。

姦通の女と同様に、ホセアの妻も、死刑執行の(きゅう)()に追い込まれていました。その罪は告発されました(ホセア書2:4)が、同時に立ち直る機会が与えられました。父なる神は、ホセアに「行け」(同上3:1)と命じられました。神は、その夫婦関係が()(たん)したままで、ホセアをイスラエルの民の間に遣わしました。

子どものいる家庭(二男一女 ホセア書1:3-8)で、妻が愛人について行こうとしています(同上2:8)。常識的に言うならば、ホセアは外での活動に集中することなどできません。しかし、ホセアには、神の霊が宿り、神からの御言葉が示されました。それを取りつぐのが、ホセアの使命でありました。

主なる神は、姦淫の罪を犯したホセアの妻はじめ、イスラエルの人々を見捨てることはありませんでした。彼らの悪事や罪責にもかかわらず、「主がなお彼らを愛されるように」(ホセア書3:1)……ホセアは、親である神と(おさな)()である民との関係において、民を愛し抜かれる神の愛を教えられました。彼は絶望のどん底にあったにもかかわらず、預言活動を続けたのであります。

他に類を見ないような、ホセアの弱さと貧しさのうちに、神の力が恵み深く言い表されました。ここに預言された、その愛は、(おさな)()イエスいとおしみ育てられる、父なる神の愛へと至ります。

 

Ⅰ まだ(おさな)かったイスラエルをわたしは愛した        

ホセア書11:1-4――            

1 まだ(おさな)かったイスラエルをわたしは愛した。

エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

2 わたしが彼らを呼び出したのに

彼らはわたしから去って行き

バアルに犠牲をささげ

偶像に(こう)をたいた。

3 エフライムの腕を支えて

    歩くことを教えたのは、わたしだ。

しかし、わたしが彼らをいやしたことを

彼らは知らなかった。

4 わたしは人間の(つな)、愛のきずなで彼らを導き

彼らの(あご)から(くびき)を取り去り

身をかがめて食べさせた

父なる神は、「イスラエルエフライムはその別称)に対し、親である神と(おさな)()である民との関係を説き明かしておられます。そのため、ホセアが、「主の言葉を聞け」(ホセア書4:111:11)と民に呼びかけています。

父なる神と「わが子」なる「イスラエル」との関係は、初めの愛〉⇒離反⇒〈再会という時系列で展望されています。その預言を取りつぐホセアはおそらく、自分自身の夫婦関係と重ね合わせたことでしょう。

すなわち、ホセアは子どもたちを不遇の中に巻き込んで、〈新婚〉⇒〈離別〉⇒〈復縁〉という激動の半生を送りました(参照:1章-3章)。今主なる神は、〈横軸〉なる夫と妻との関係を、〈縦軸〉なる神と人との関係において(とら)え直すように迫りました。そうして、この世的であり、問題解決不能と見られていたことの上に、からの(あけぼの)の光(ホセア書6:3)が射し込んで来ました。

夫婦関係においては、ホセアはの立場から半生を顧みることになります。しかし、ここでの親子関係においては、または母なる神の視点から、親子の関係を見通すことになります。そこで初めて、ホセアは天より「(あけぼの)の光」を存分に浴びることになります。そして、「わたしはあなたとまことの(ちぎ)りを結ぶ」と言われる神を知るようになります(ホセア書2:22)。このようにして、ホセアは主につながれ、イスラエルの町に、預言者として遣わされます。

ホセア書11:1-4の内容を、初めの愛⇒〈離反〉の時系列に沿って並べてみなしょう。

初めの愛

1 まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した

エジプトから彼を呼び出し、わが子とした。

3 フライムの腕を支えて

    歩くことを教えたのは、わたしだ。

4 わたしは人間の(つな)愛のきずなで彼らを導き

彼らの(あご)から(くびき)を取り去り

身をかがめて食べさせた。

主なる神はあたかも(あか)()(いだ)いていかのように(ねんご)ろにイスラエルの民を育てられました。

まだ幼かったイスラエルをわたしは愛した」……主なる神は、「母の(たい)から生まれる前に」(エレミヤ書1:5)、イスラエルの一人ひとりを選び、聖別されました。「まだ幼く」愛することを知らなかった人を無償の愛をもって(いつく)しまれました。その無償の愛は、わたしは愛のきずなで彼らを導くというように、イスラエルの民が無視しても、また抵抗しても、消え去ることはありませんでした。

わが子とした」というのは、赤子に名前が付けられるように、人間としての人格が基礎づけられることを意味しています。

日ごと夜ごとに、「まだ幼かったイスラエル」に、「腕を支えて歩く」こと、また「身をかがめて食べる」ことが教えられました。「愛のきずな」はより強固なものとなりました。

それにもかかわらず、イスラエルの民は神から〈離反〉していきました。

ホセア書11:2-3――            

2 わたしが彼らを呼び出したのに

彼らはわたしから去って行き

バアルに犠牲をささげ

偶像に(こう)をたいた。

3 しかし、わたしが彼らをいやしたことを

彼らは知らなかった。

神は、「歩くことを教えたのは、わたしだ(ヘブライ語:アノヒー)」と明確に自己を現しておられます(他にホセア書12:1013:4わたしはあなたの神、主」)。また、「わたしはエジプトから彼を呼び出した」というように、「わたし」なる神は、苦難の()(つぼ)であるエジプトからイスラエルの民を救い出されました。この救いは、イスラエルの歴史上、記念碑となるような出来事でありました。

今も、「わたしが彼らを呼び出し」ておられますが、「彼らはわたしから去って行き」ました。自分たちの欲情に駆られて、バアル()かれていったのです。豊かになりたいという願望を「バアル」が即座に(かな)えてくれると思い込んだのです。しかし結局、イスラエルの民は「自ら掘った穴に落ちる」(詩編9:16)ことになります。

 

Ⅱ わが民はかたくなにわたしに(そむ)いている         

ホセア書11:5-7――

5 彼らはエジプトの地に帰ることもできず

アッシリアが彼らの王となる

彼らが立ち帰ることを(こば)んだからだ。

6 (つるぎ)町々で荒れ狂い、たわ言を言う者を断ち

たくらみのゆえに滅ぼす。

7 わが民はかたくなにわたしに(そむ)いている。

たとえ彼らが天に向かって叫んでも

助け起こされることは決してない。

 親である神と(おさな)()である民の関係において、イスラエルの民が神に(そむ)いている様子が描き出されています。子らは神によって罰せられます。子らは、そのようにして神がしつけ(さと)されるように育てておられること(エフェソ6:4)を知らねばなりません。神は「わが民」が「立ち帰ること」を願っておられます。

彼らはエジプトの地に帰ることもできず」というのは、現実にイスラエルがエジプトと同盟を結ぼうとして破局に終わった出来事を指し示しています(列王記下17:4)。これは、ホシェア王の時代の出来事(前724年)で、アッシリアに()(ほん)を察知されて、(さら)なる攻囲をこうむることになりました。

自分本位の「たくらみ」で、一時しのぎにエジプトへ避難することはできませんでした。で詳述するように、主の天使がヨセフに、「起きて、子供(イエス)とその母親(マリア)を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい」(マタイ2:13)と告げた出来事とは対照的です。

たとえ彼らが天に向かって叫んでも」とありますが、民の多くは真剣に祈っていません。「(つるぎ)は町々で荒れ狂う」という狂乱の中で泣きわめいているだけです。墓穴に(おちい)って、闇が深まるばかりです。しかし、神の御心に(かな)った時に、わが民」は再び「助け起こされる」ことでしょう。

 

Ⅲ わたしはお前たちのうちにあって聖なる者        

ホセア書11:8-9――   

8 ああわたしはエフライムよ

お前を見捨てることができようか。

イスラエルよ

お前を引き渡すことができようか。

ああわたしは)、アドマのようにお前を見捨て

ツェボイムのようにすることができようか

わたしは激しく心を動かされ

憐れみに胸を焼かれる

9 わたしは、もはや(いか)に燃えることなく

エフライムを再び滅ぼすことはしない

わたしは神であり、人間ではない

お前たちのうちにあって聖なる者

怒りをもって臨みはしない

いよいよ、旧約中、屈指(くっし)詩文の最高潮へと至ります。

Ⅰで、父なる神と「わが子」なる「イスラエル」との関係は、初めの愛〉⇒〈離反〉⇒再会という時系列で展望されると述べました。その〈再会〉の部分に入ります。

熱情の神(出エジプト記20:5)の名にふさわしい詩文です。しかし、父または母なる神の息遣(いきづか)いは、乱れることなく柔らかにリズムを刻んでいます……「エフライムよ」・「イスラエルよ」、「アドマのように」・「ツェボイムのように」。

 一体何が、内容的に優れているのか、ひと言でいえば、〈初めの愛〉⇒〈離反〉⇒〈再会〉という基本線が、神の忍耐・寛容・決断のもとに貫かれているということです。そのような神の大いなる計画と実行が、上記の二節に実証されているのです。

その中心には、「わたしはアノヒー神である」との神の自己啓示が()えられています。「歩くことを教えたのは、わたしだアノヒー」(ホセア書11:3)との句と響き合っています。そして、「激しく心を動かされ 憐れみに胸を焼かれる」という神の内面が、哀感を帯びた「ああわたしは……」との反復により表出されています。神は子らを「しつけ(さと)され」ますが、過重な罰を与えることはなさいません。

わたしはお前たちのうちにあって聖なる者」……神はわたしたちの間にあって、身を低くしておられます。幼子に向き合い、身をかがめて、歩くことや食べることを教えてくださいます。「主があなたと共におられる」(ルカ1:28)……主なる神は(いや)しく貧しい者のそばにおられます。子らが父のもとに返って来るのを待ち続けておられます。

わたしは、もはや(いか)りに燃えることなく …… わたしは怒りをもって臨みはしない」……この言葉の意味と正しさは、わたしたちがどんなに考えても分からないでしょう。それは、主イエス・キリストを信じ、そのお方が十字架につけられるのを見たときに、すべて明らかになります。そこで、わたしたちは、神の怒りが主イエス・キリストに下り、わたしたちの罪と死が滅ぼし尽くされたことを知らされます。

 

Ⅳ 子らは海のかなたから恐れつつやって来る     

ホセア書11:10-11――           

10 獅子のようにほえる主に彼らは従う

主がその声をあげるとき

その子らは海のかなたから恐れつつやって来る

11 彼らは恐れつつ飛んで来る

小鳥のようにエジプトから

鳩のようにアッシリアの地から。

わたしは彼らをおのおのの家に住まわせる

主は言われる

主に彼らは従う」とは、親の呼び出し(呼び声)に従って、彼らが歩き始めるということです。それは、「歩くことを教えた」神のお陰であることは言うまでもありません。親の愛と献身によって、幼子がひとり立ちしました。子らはようやく神の呼びかけに応答しました。「その子らは海のかなたから恐れつつやって来る」、また、「彼らは恐れつつ飛んで来る」という時が来るのを、神はどれほど待ちわびていたことでしょう。

そして神は、「わたしは彼らをおのおのの家に住まわせる」と宣言されます。そこで、神の子らの迎え入れが完了します。確かに、父と子は〈再会〉しました。

さて、親である神と(おさな)()である民との関係をたどっていくと、〈初めの愛〉⇒〈離反〉⇒〈再会〉という神の大いなる計画と実行が浮き彫りになりました。その神の秘められた計画の中で、「彼らはエジプトの地に帰る」、そして、「彼らは恐れつつ飛んで来る。小鳥のようにエジプトから」ということ(ホセア書11:5,11)が、主イエス・キリストの生涯において実現します。旧約屈指の詩文とその預言が、新約の時代に成就します。

 

Ⅴ わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した 

マタイ福音書2:14-15――

14 ヨセフは起きて、夜のうちに(おさな)()とその母を連れてエジプトへ去り、15 ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

御子イエスが降誕したばかりで、ヘロデ大王による大虐殺が起こる、その頃の出来事です。それは、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)という大惨事でありました。

マタイ福音書記者はこの出来事の悲惨さを、ベツレヘム近くのラマで客死したラケルの悲しみと重ね合わせています。旅の途上、産気づいたラケルは、難産のために息を引き取りました(創世記35:16-20)。赤子と対面することはありませんでした。預言者エレミヤは、彼女の嘆き悲しみを追想し、「ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない」(マタイ2:18、エレミヤ書31:16)という哀悼(あいとう)の歌を作りました。

子を失った母や父の泣き叫びの上がる「」に、主なる神は介入されました。天使を通し、ヨセフに「起きて、エジプトに逃げよ」と告げられました(マタイ2:13)。

ヨセフ・マリア・イエスの家族がひと(たび)、エジプトに下り、そこからユダヤに(のぼ)って来るというのが、神の御旨でありました。とても、赤子を(かか)えた若い家族にふさわしい、旅のプランとは思えません。

しかし、重要なのは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」との預言が成し遂げられることでありました。「わたしの子」に対する父なる神の愛が、これから成長していく家族の上に示されることでありました。

わたしは愛のきずなで彼らを導く」……それは、ホセアが預言し、待望したことであります。ホセアは、大いなる御手をもって苦難の()(つぼ)・エジプトから人々を救出する神を信じていました。そして、まことの愛が、自分の家族と民の上に注がれるという神の約束を告げ広めました。そして今、わたしたちは、ヨセフ・マリア・イエスの家族の出来事によって、それが成就したことを知らされました。

アーメン、ハレルヤ

             ☦

2024年 1月21日           日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第4主日

旧約聖書 エズラ記 6章1節~5節(P.730

新約聖書 コリントの信徒への手紙 3章5節~9節P.302

説  教「成長させてくださったのは神です」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ アポロとは何者か。また、パウロとは何者か

                                       ……Ⅰコリント3:5             

Ⅱ 成長させてくださったのは神です     ……Ⅰコリント3:6-7 

Ⅲ 植える者と水を注ぐ者とは一つです   ……Ⅰコリント3:8    

Ⅳ あなたがたは神の畑、神の建物なのです ……Ⅰコリント3:9             

Ⅴ 神殿は再建されなければならない     ……エズラ記6:1-5 

祈り

 

問題の認識から問題の解決へ……パウロは霊的に鋭い問題意識をもって、コリント教会が(かか)えている課題に取り組んでいます。「あなたがた」のコリント教会が、主にあって建て直されるように、とパウロは筆を運んでいます。パウロの権威や厳しい態度に対して不信を(いだ)いていた人もいたかも知れません(参照:Ⅱコリント13:10、Ⅰテサロニケ4:6)。そのため、パウロはコリントの人々が置かれている状況や手紙への反応を踏まえて、メッセージを書き送りました。

ある意味では、パウロはあけすけな(もの)()いをしています。というのも、あなたがたは信仰において成長していないのではありませんか」、そして「あなたがたはキリストにある(おさな)()です」(参照:Ⅰコリント2:63:1)というのが、根底にあるパウロの認識だからです。まさに、「自然の人」(同上2:14)は激高(げっこう)して手紙を破り捨ててしまいかねません。しかし、そのような人々は、自分の判断に()(しつ)するばかりで、心を閉ざしています。

ねたみや争い」が絶えることなく(Ⅰコリント3:3)、八方(ふさ)がりになって悩み苦しでいるのは、「あなたがた」自身です。この状況が放置されれば、その悩み苦しみの中に「霊の人」(同上2:15)まで巻き込まれてしまいます。

コリントの信徒への手紙全般に言えることですが、今回の短いテキスト3:5-9を見ても、霊的な判断を下す、パウロの集中力や独自性が表れています。どうか、コリント教会の人々が、そして、わたしたち・茅ヶ崎香川教会の人々が、イエス・キリストを信じることの本質を汲み取るようにと、願います。

それでは、問題の認識から問題の解決へと、テンポよく論理展開する文章を読んでみましょう。聖霊に導かれている人の一句一句が、信仰者の持っている理性に訴えかけています。キリストにある(おさな)()へ贈られたキリスト教入門にもなっています。

 

Ⅰ アポロとは何者か。また、パウロとは何者か  

コリントの信徒への手紙 3:5――             

アポロとは何者か。また、パウロとは何者かこの二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です。

パウロはここで、ひと呼吸置くようにして、問いを投げかけています。原文では、「アポロースとは」、「パウロスとは」と、韻を踏んでいます。具体例に自分の名を挙げて、(おく)するところがありません。

パウロの第三回伝道旅行(53年頃-56年頃)の際、アポロはエフェソやコリントで御言葉を宣べ伝えていたと報告されています(使徒18:2419:1)。恐らく、二人はコリントで巡り会ったことでしょう。

そのアポロについて、使徒言行録では次のように紹介されています。

使徒言行録18:24――

さて、アレクサンドリア生まれのユダヤ人で、聖書に詳しいアポロという雄弁家が、エフェソに来た。

ユダヤ人で、聖書に詳しい」という点は、パウロと共通しています。アポロは時に、「激しい語調でユダヤ人たちを説き伏せた」(使徒18:28)とも言われています。「雄弁家」と呼ばれている通りです。

さてパウロは、「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か」との問いに対し、素早く回答を提示しています。

この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」……二つ注目すべき語句を挙げるとすれば、「主がお与えになった分に応じて」と「仕えた者(たち)」になります。この二つを順に説明していきましょう。

最初に、「主がお与えになった分に応じて」です。文字通り、「主がお与えになった」が原点です。わたしたちは、先行する神の恵みに着目しなければありません。万一、アポロやパウロが神の恵みを授かっていないのであれば、彼らは「何者でもない」ということになります。つまり、「ただの人」(人間 Ⅰコリント3:4)です。そのような人は、キリストにある(おさな)()」として生まれ変わらねばなりません。

つまり、パウロもアポロも、主がお与えになった分によって、信仰者となり伝道者として立っているという点は共通しています。これが、最も重要なことです。確かに、「主がお与えになった分に応じて」、その人それぞれの人生が形成されており、さまざまな賜物を授けられています。しかし、人がそれぞれの信仰者の「主がお与えになった分」をあれこれ論評するのは、尊大な態度にほかなりません。

次に、「この二人は仕えた者(たち)です」という点で、これまた共通しています。すなわち、パウロとアポロとは、「主がお与えになった分に応じて」、主に「仕えた者」なのです。

なお、「仕えた者」には、「食卓で給仕する者」との意味があります。五つ星レストランの「給仕する者」と駅前食堂のそれとを比較すること自体、ナンセンスです。また例えば、「仕えた者という観点から、コリント教会のパウロとエルサレム教会のペトロ(使徒8:1411:2)との間に、優劣がつけられないのは自明なことです。

この節におけるパウロのねらいは、もはや明白でしょう。「すべてキリストにあって」(参照:エフェソ1:11)論じ合おうではないか、ということです。それがまさに、信仰に成熟した人たち(Ⅰコリント2:6)のやり方です。そこに、「キリストがすべてである」とする「仕えた者」の謙遜な姿勢があらわされています。

以上のように、パウロは議論の発端において、しっかりと主イエス・キリストに(いかり)を下ろしました。

 

Ⅱ 成長させてくださったのは神です          

コリントの信徒への手紙 3:6-7―― 

6 わたしは植えアポロは水を注いだ。しかし、成長させてくださったのは神です。7 ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です

ここでパウロは、「」と「仕えた者(たち)」との関係を解きほぐすために、ある(たと)えを採用します。それは、農業従事者の譬えです。ひと言付け加えれば、ギリシアなど地中海性気候の乾燥した地域では、「水を注ぐ」ことは、品質や収量に直結するため、それに(たずさ)わる人の技量が(ため)されます筆者は実際に、19904月、コリント遺跡を訪れたことがあります。その日はカンカン照りでしたが、風通しの良い、陽光あふれる土地だと分かりました。当地では、灌漑(かんがい)不可欠です。「水を注いだ」との(かん)()には、アポロの労苦に対するパウロの敬意が込められているに違いありません

そうしてパウロは、「主がお与えになった分」には、仕えた者(たち)それぞれに違いがあるのではないか、というコリント人の疑問に答えます。パウロは常に読み手に寄り添っていることが分かります。

現実に即せば、最初にコリントに来た「わたし(パウロ)は植え」(使徒18:1-8)、そして、その後来た「アポロは水を注いだ」(同上19:1)となります。

パウロの第2回伝道旅行(4952年頃)の際、パウロはおよそ一年半コリントで、御言葉を語ることに専念し、教会を建てました。パウロは開拓伝道者として、この地に御言葉の種を「植えた」あるいは「()いた」のです。それは、良い土地に蒔かれた種のように成長し、多くの実を結びました(マタイ13:18-23)。

その後に、パウロとは個性の異なるアポロが「雄弁」をもって御言葉を説き明かしました。さまざまな問題を(かか)えていたとは言え、コリントの教会は何と恵まれていたことでしょう。パウロはいかに恵まれていたのか、ひと言で表しています。

しかし、成長させてくださったのはです(Ⅰコリント3:6

ですから、大切なのは、成長させてくださるです」(Ⅰコリント3:7

何と巧みな論理展開なのでしょう。ここでは、優れた伝道者であるパウロやアポロは背後に退(しりぞ)いています。良い土地」を備え、「」を与え、それを大きく「成長させられる」神が際立たされています。「キリストにある(おさな)()たち」よ、「信仰に成熟した人たち」よ、こぞりて神の栄光をほめたたえよ、ということです。「成長させてくださる神」を信じることが、文字通り「成熟」の源です。

このようにして、すべてキリストにあって」という福音の基調が、農業従事者の譬えによって、より鮮明になりました。

 

Ⅲ 植える者と水を注ぐ者とは一つです         

コリントの信徒への手紙 3:8――    

植える者と水を注ぐ者とは一つですが、それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります。

ここでパウロは、自分とアポロの関係、すなわち、教会内の兄弟姉妹の関係について触れています。というのも、コリントの人々が信仰を成熟させようとしても、「お互いの間のねたみや争い」(Ⅰコリント3:3)が足枷(あしかせ)になっているからです。

互いにねたんだり、争ってはならない、という大きな理由が、「植える者と水を注ぐ者とは一つ」だから、と指摘されています。「一つ」である以上、分裂は真逆であり、由々(ゆゆ)しき事態です。

では、なぜ、パウロとアポロは「一つ」なのか、パウロは即座に答えています。それが、「それぞれが働きに応じて自分の報酬を受け取ることになります」という一文に示されています。

ここには明示されていませんが、一体だれから自分の報酬を受け取る」のでしょうか。その問いを言い換えるならば、一体だれが仕えた者」に報酬」を与えるでしょうか。パウロはコリントの人々が自分で答えを出すように、と願っています。

それぞれが働きに応じて」という「働き」の原意は、「打つ」です。そこから労苦」や「格闘という意味が派生しました。従って、報酬」を与えるのは、わたしたち・信徒の「労苦」や「格闘」をよく知っているお方に違いありません。もう答えはお分かりでしょう。

答えは、主なる神です。神が「報酬」を与えられます。主なる神が「キリストの体」の部分部分(ローマ12:5、Ⅰコリント12:27)に行き届くように「賜物」を分けてくださいます。だから、「植える者と水を注ぐ者とは一つ」なのです。人それぞれに「賜物」は異なっていても、その目的は、キリストに仕え、神の栄光を現すという点で一致しています。

念のために、ヨハネ福音書15章の「ぶどうの木」の譬えを少しアレンジして説明しましょう。

まことのぶどうの木は、イエス・キリストでおひとりです。そして、それを成長させる「農夫」もまた、神おひとりです。そして、神はぶどうの木、「キリストの体」につながっている一人ひとりに働きまたは賜物を与えられました。パウロは「植える者」、また、アポロは「水を注ぐ者」というように……。

そうして、「まことのぶどうの木」が豊かな実を結びます。支配者なる神は、「仕えた者」一人ひとりを顧みられます。「仕えた者」は労苦に応じた「報酬」を、感謝をもって「受け取り」ます。

以上の通り、パウロは、「すべてキリストにあって」という福音の基調を踏まえながら、主にある兄弟姉妹の交わりを説き明かしました。

信仰が成熟していないところから脱出する道では、まず自分自身が悔い改めなければなりませんが、それと共に、主より与えられた賜物によって生かされている兄弟姉妹と交わることが大切です。自分の(から)に閉じ(こも)もっているのは、残念なことです。兄弟姉妹の交わりによって、自分の想像しなかった労苦や自分の慰めとなる賜物に出会えるのではないでしょうか。

 

Ⅳ あなたがたは神の畑、神の建物なのです      

コリントの信徒への手紙 3:9――             

わたしたちは神のために力を合わせて働く者でありあなたがたは神の畑、神の建物なのです

キリストにある(おさな)()()んで含めるようなテキストの結びです。用語は平易ですが、「“霊”に教えられた言葉」(Ⅰコリント2:13)にほかなりません。深遠な事柄を平明に表せるというパウロの賜物にあずかっている、わたしたちは幸いです。良く噛みしめて、「キリストにある(おさな)()」と共に、「神の霊に属する事柄」(同上2:14)の中に招き入れられましょう。

この節を三つに分けます。そのいずれにも、「神の」という鍵語が出ています。「すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっている」(ローマ11:36)ということです。

まず、わたしたちは神のために力を合わせて働く者であり」から見てみましょう。

仕えた者(たち)(Ⅰコリント3:5)から「力を合わせて働く者(たち)」へ転じていることに着目しましょう。その言い換えの巧妙なることにお気づきでしょうか。最初、パウロはコリント教会の分派活動を背景に、パウロとアポロの働きの違いを説明する文脈で、仕えた者(たち)ディアコノス)を用いました。そして最後に、キリストにあって一つということを強調するために、力を合わせて働く者(たち)」シュネルゴス)を使いました。

パウロもアポロも、それぞれの場所でそれぞれの時に、神の召命を受けました。二人とも「仕えた者(たち)」としての働きは特筆に値します。それから、広大な地中海世界の中で、二人の足跡(そくせき)が交わりました。そして、彼らは「植える者と水を注ぐ者とは一つ」との言葉を胸に、コリントで「神のために力を合わせて働く者」となりました。

仕えた者」から「力を合わせて働く者」へという、労苦に満ちた道筋(みちすじ)こそが、信仰において成熟する(かがみ)となるのです。先のパウロの言葉の繰り返しになりますが、その成熟はひとえに、「神からの霊を受けた」(Ⅰコリント2:12)かどうかに掛かっています。

次に、この節の二つ目の区分です。

あなたがたは神の畑なのです」……当時の日常生活において、「力を合わせて働く者(たち)」の姿が見られるのは、「ぶどう畑」でありました。イザヤは「ぶどう畑の歌」を書き残しています。

イザヤ書5:1,7――

1 わたしの愛する者(主なる神)は、()(よく)な丘に

ぶどう畑を持っていた。

7 スラエルの家は万軍の主のぶどう畑

主が楽しんで植えられたのはユダの人々。

ここでは、主なる神が「見張りの塔」(イザヤ書5:2)を立てて畑を管理しておられます。ヨハネ福音書15章の「まことのぶどうの木」の譬えに先行する形で、この歌の中で、神が主人かつ農夫として働いておられるのが描かれています。

主なる神は、「神の畑」の労働…「植え、水を注ぐ」…の輪の中に、収穫の祭りの喜びの内に入って来るように、多くの人に呼びかけておられます。このような「ぶどう畑」の持ち主と(やと)われている労働者の関係は、コリントの人々にとってもなじみ深いものであったと思われます(参照:マタイ20:1-17 ぶどう園の労働者の譬え)。

パウロもアポロも、そして、「信仰に成熟した人」も「キリストにある(おさな)()」も、神の畑で働いています。彼らは神の恵みに応じて、「主がお与えになった分に応じて」(Ⅰコリント3:5)、それぞれに異なった賜物を発揮しています(ローマ12:6)。大切なのは、そこが「神の畑」であり、植えられたものが成長し、必ず実を結ぶということであります。

それでは、三つ目の、最終の文を読みましょう。

あなたがたは神の建物なのです」……もしあなたが、神の畑」と「神の建物は類語反復による強調だと見なすだけならば、ここできっと、パウロの霊的な導きの深遠さを思い知らされるでしょう。

実は、神の畑」と「神の建物」の並行表現は、旧約聖書伝来の教えであります。二箇所、例示します。

申命記28:30 神の呪い――

あなたは婚約しても、他の男がその女性と寝る。あなたは家を建てても、住むことはできない。ぶどう畑を作っても、その実の初物を味うことはできない。

エレミヤ書1:10 エレミヤの召命 主→エレミヤ――

見よ、今日、あなたに

諸国民、諸王国に対する権威をゆだねる。

抜き、壊し、滅ぼし、破壊し

あるいは建て、植えるために。

神はエレミヤに「(神の建物を建て、(神の畑で植えるために」権威をゆだねられました。若いエレミヤが「今日」、諸国民の前に、「仕える人」(ディアコノス)として立てられました。やがて、エレミヤの周りに、彼の預言を口述筆記したバルク(エレミヤ書45:1)のような力を合わせて働く者」(シュネルゴス)が集まって来ます。

このような旧約の「神の畑」と「神の建物」という並行表現を踏まえた上で、パウロは「神の建物」に焦点を合わせました。日常親しみある「神の畑」から、聖なる「神の建物」へ、と移行したのであります。それが後続のコリントの信徒への手紙 3:10-17に引き継がれ、いわゆる教会論が展開されています。書くことを先に先に想定している、これが、読み手に対するパウロの配慮になっています。

それでは、「神の建物」とは一体何なのでしょうか。

エレミヤ書24:6――

彼らに目を留めて恵みを与え、この地に連れ戻す。彼らを建てて、倒さず、植えて、抜くことはない。

彼ら」とは、バビロン捕囚となったユダの民を指しています。そのユダヤの民が「主の神殿」(同上24:1)として「建て」られます。なぜなら、主なる神は彼らを「良いいちじくのように見なして、恵みを与えよう」(同上24:5)と約束されたからです(ここでも、植物栽培と建築とが並行しています)。

建てる」のは神、そして、その建物、すなわち、主の神殿に部分部分として組み入れられるのが、ユダヤの民ということになります。そこで、パウロが今何を言いたいのか、ということですが……。

それは、教会という「神の建物」において、あなたがたは「神のために力を合わせて働く者」として()されているということです。あなたがたは、「使徒、預言者、教師、奇跡を行う者、病気をいやす賜物を持つ者、援助する者」(Ⅰコリント12:28)など、それぞれの働きに召されています。そのようなおのおのが一つとなって、礼拝をささげることによって、教会は成長していきます。

ユダヤの民は幾たびも、神の神殿が壊され、倒され、破壊されるということを経験してきました。しかし、神はそのたびに、ユダヤの民を立ち上がらせ、「神の神殿」(いわゆる第二神殿)を再建させました。で一つの挿話(エピソード)から、いかに神が確固たる御心によって、人々を用いて、「建てる」という計画を遂行したか、を見てみましょう。

わたしたちは去年、ゼカリヤ書2章から、第二神殿の建築に関わる、別の挿話(エピソード)を読みました。それは、測り(なわ)を手にした」若者の上に起こったことでありました。

彼が「測り(なわ)」を持って、エレサレムへ急いでいた時に、天使の御告げがありました。もはや「エルサレムを測り、その幅と長さを調べる」(ゼカリヤ書2:6)必要はないとの(よし)でありました。なぜなら、「エルサレムは人と家畜に溢れ 城壁のない開かれた所となる」(同上2:8)からです。「町を囲む火の城壁」(同上2:9)として臨在される神が、若者に自分の考えを……たとえそれが高いこころざしであっても……変更するように求められたのであります。

教会を建てていくとき、わたしたちもまた、神の秘められた計画(Ⅰコリント2:1)に即していかねばなりません。

 

Ⅴ 神殿は再建されなければならない            

エズラ記6:1-5――

 1 そこで、ダレイオス王により命令が出され、バビロンにある記録保管所が調べられ、2 メディア州の都エクバタナで一つの巻物が見つかった。それには、このように記されていた。

(おぼえ)(がき)3 キュロス王の第一年、キュロス王、(ちょく)(れい)(はっ)()エルサレムの神殿、いけにえをささげる場所として、以前の基礎を保ったまま、神殿は再建されなければならない。建物の高さは六十アンマ、間口は六十アンマとする。4 切り石の列を三段置き、木材の列を一段置く。費用は国庫負担とする。5 更に、ネブカドネツァルがエルサレムの神殿から取り出して、バビロンに持って来た神殿の金銀の祭具類は返還され、エルサレムの神殿にある元の場所に戻されなければならない。それをその神殿に納めるようにせよ。」

紀元前520年頃の話です。5年後に完成する第二神殿の建設に関して、その発端となる出来事が、ペルシア人々の間に起こりました。約言すれば、被統治となっているユダヤ民族が神殿を再建しようとしているが、それを認可するかどうかという当時のペルシア王や部下の長官(総督)をめぐる問題でありました。

ユダヤの民の側にしても、ペルシア帝国によって神殿が破壊されては困りますから、ペルシアの権力者の認可は必須でありました。

その出来事の展開の鍵となったのは、「記録保管所」の(おぼえ)(がき)でありました。それはもちろん、ペルシア帝国の側の記録です。それが、旧約聖書・エズラ記に引用されているということです。いわば、外交文書が霊的な書物の中に残されたのです。

ペルシアの長官「タテナイとシェタル・ボゼナイ」は、神殿を建てさせるかどうか、その裁定を「ダレイオス王」に託しました。彼らには、ユーフラテス西方・地域の担当官として、多民族が共生する中で、あらぬ騒動を起こしたくないという思惑もあったことでしょう。

バビロンにある記録保管所が調べられ、メディア州の都エクバタナで一つの巻物が見つかった」……王はじめペルシア人が賢明であったのは、裁定にあたり過去の記録を調べたということです。そして、現在の王である「ダレイオス」は、先王「キュロス」がすでに「(ちょく)(れい)(はっ)()」していることを知りました。

エルサレムの神殿、いけにえをささげる場所として、以前の基礎を保ったまま、神殿は再建されなければならない」……この「(おぼえ)(がき)」を受けてただちに、「ダレイオス王」は「神殿を再建し、完成せよ」との命令を下しました(エズラ記6:7,12)。

過去の文書が発見され、そして、現在の王がそれに基づいて裁定した……そのどちらが欠けても、神殿の再建は暗礁に乗り上げるところでありました。しかも、ユダヤの民が祈ることを考えもしなかった、良い出来事が続いたのであります。まことに不思議なことであり、ユダヤ民族にとって幸いなことでありました。

あなたがたは神の建物なのです」……今ここに、茅ヶ崎香川教会が建てられているのは、神の秘められた計画」に()ることです。すべてのものの造り主である神は、土台を据える⇒建て上げる⇒補修する再建するという一連の業の中、わたしたちを働き人として用いてくださいます。

 

祈り

父なる神よ、茅ヶ崎香川教会が「神の神殿」として、「以前の基礎を保ったまま」(エズラ記6:3)、日々新しく聖霊の力を注ぎ入れてください。「イエス・キリストという(すで)()えられている土台」の上に(Ⅰコリント3:11)、「神の教会」が建てつがれますように、主の御名によってお祈りいたします。

 

W

2024年 1月14日                日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第3主日

旧約聖書 エゼキエル書 44章24節(P.1370

新約聖書 マルコによる福音書 3章1節~6節P.65

説  教「安息日に命を救う主イエス」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ そこに片手の()えた人がいた

                            ……マルコ3:1-2            

Ⅱ わたしの安息日を聖別しなければならない 

                                     ……エゼキエル書44:24

Ⅲ 真ん中に立ちなさい   

                              ……マルコ3:3-4  

Ⅳ イエスは人々のかたくなな心を悲しんでいる

                                   ……マルコ3:5          

Ⅴ どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた

                                    ……マルコ3:6

 結

 

新しい年・2024年が始まりました。その初めに、わたしたちはマルコ福音書の安息日の物語によって、主の日・日曜日の信仰的な意味を学んでいます。本日のテキストにおいて、だから、人の子は安息日の主でもある」(マルコ2:28)ということが、主イエス・キリストの行いと言葉によって実証されます。

そのようにして、「安息日」の恵み豊かさが主イエス・キリストのよみがえりの日・日曜日に回復されます。その一日がわたしたちの一生の基点となり、一週間の歩みが始まります。そして、それが一つのリズムとなって52週巡り、一年となります。たとえ、平凡な一年であっても、主の日ごとに、神からの恵み豊かさが積み重ねられるのは、まことに幸いなことと言えましょう。

神にかたどって造られた人、すなわち、男と女が最初に経験したのは、どんな一日……ユダヤの週の(こよみ)で言えば木曜日の夕べか金曜日の夕べ・安息日入りまで……だったでしょうか?

天地創造の第六の日に、男と女は創造されました(創世記1:27,31)。それが、朝なのか昼のかは分かりません。確かなのは、神が「光あれ」と言って、造られた光(同上1:3を、人間が見たであろうということです。男と女の人生は、まぶしいほどの光の中から始まりました。

夕べがあり、朝があった」(創世記1:31)……男と女は肩を寄せ合いながら(これはわたしの想像です)、第六の日(金曜日の夕べ)の()が落ちるのを眺めました。夕暮れに響く鐘のような、「見よ、それは極めて良かった」(同上1:31)との宣言を聞きました。そうして、一夜を過ごして、安息日の朝を迎えました。

後の時代のことですが、第六の日から第七の日に移る、この夕暮れに、「カバラット・シャバット」(安息日迎え)の儀式が行われるようになりました。闇の中にろうそくを(とも)し、家族そろって神に感謝と讃美をささげて食事をします(詩編24編、92編)。主イエスは、このような安息日」の恵み豊かさを熟知されています。その上、安息日に関わる律法(出エジプト記20:8-1131:14-17、エレミヤ書17:27、ネヘミヤ記13:15-22にも精通されています。

主イエスと敵対する者との論争が続いています。ついにファリサイ派の人々が登場し、安息日をめぐる議論の()(ぶた)が切られました本来、人にとって安息日はどのような日なのか、人はどのように安息日を過ごせばよいのか、主イエスは明確な答えを示されます。主イエスのよみがえりの日・日曜日に、夕闇の中から現れ出でた「安息」(創世記2:2-3)が回復されますようにと願います。

 

Ⅰ そこに片手の()えた人がいた           

マルコ福音書3:1-2――            

1 イエスはまた会堂にお入りになったそこに片手の萎えた人がいた。2 人々はイエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた

当然のことではありますが、人々の中には苦悩のうちに安息日の礼拝に来た人がいました。悲惨さに程度の差こそあれ、少なからぬ人が難問を(かか)え、不安なまま家を出て、会堂にやって来ました。それが、安息日の現実でした。救いの岩」(詩編95:1)なる神の御前に、「悩みを注ぎ出し、苦しみを訴えよう」(同上142:3)とする人々がいたのです。同時に、「いかに楽しいことでしょう 主に感謝をささげることは」(同上92:2)とほめ歌っている会衆には、彼らに寄り添うことが呼び求められていたのであります。

そうした中、「イエスはまた会堂にお入りになりました」。安息日に会堂に入り教えることに、主イエスの伝道の基本が置かれていました(マルコ1:213:1-26:2)。

そこに片手の()えた人がいた」……主イエスはその重苦しい現実の中に入って来られました。「片手の()えた人」は自分の障がいのために苦しみ悩んでいたに違いありません。ところで、会堂の中には、「重い皮膚病を(わずら)っている」(マルコ1:40)とか、あるいは、「腰が曲がったまま」とか、いわゆる持病を(わずら)っている人を、安息日にいやしてはならないと考える人がいました。

ルカ福音書13:10-11,14――

10 安息日に、イエスはある会堂で教えておられた。11 そこに、十八年間も病の霊に取りつかれている女がいた。腰が曲がったまま、どうしても伸ばすことができなかった。……(中略)…… 14 ところが会堂長は、イエスが安息日に病人をいやされたことに腹を立て、群衆に言った。「働くべき日は六日あるその間に来て治してもらうがよい安息日はいけない。」

会堂長は、聖書朗読(ルカ4:16)や祈祷など、安息日のルーティンが(さまた)げられるのを嫌ったのでしょうか。安息日に持病を持つ人がいやされたことに腹を立てました。週日に「治してもらうがよい」と、まるで他人事(たにんごと)のように言い(はな)ちました。主イエスに向かってではなく、「群衆に言った」というように、「会堂長」の態度は、大衆におもねろうとするものでありました。できるだけ多くの人に気に入られ、地域社会の「顔役(かおやく)」でいたいという願望に()られていたのでしょうか。「十八年間も病の霊に取りつかれている女」への憐れみがまるで、この安息日には消えてしまったかのようです。

この事例のような「会堂長」と同列に置かれるのは、主イエスの一挙手一投足を見つめていた「ファリサイ派の人々」であります。

人々イエスを訴えようと思って、安息日にこの人の病気をいやされるかどうか、注目していた」……主イエスを取り囲む「人々」の中心にいたのが、「ファリサイ派の人々」なのです。

彼らは悪意をもってイエスを見張っていました。自分たちは、安息日に関わる律法の権威であるというおごりがありました。「イエスを訴える」と、決めてかかっていました。その口実を探し出すために、彼らは安息日の会堂の席に占めていたのです。

主イエスとファリサイ派の人々の安息日論争の、次なる展開に入る前に、旧約の安息日律法を一つ確認しておきましょう。

 

Ⅱ わたしの安息日を聖別しなければならない       

エゼキエル書44:24 主→エゼキエル――

「争いのあるときは、彼らが裁く者として臨み、わたしの裁きによって裁かねばならない。

彼らは、わたしが定めたすべての祝祭日に、わたしの律法と(おきて)を守らねばならないまた

わたしの安息日を聖別しなければならない。」

バビロン捕囚(紀元前6世紀初め)の後、故郷に戻ったユダヤ人たちは、礼拝の改革に取りかかりました。例えば、エゼキエル書44章には、祭司とレビ人の役割の見直しが行われました。レビ人が偶像に従い迷ったので、彼らには神殿の雑務が割り当てられました(同上44:10,14)。こうして、神の家から徹底した改革が始められました(同上9:6、Ⅰペトロ4:17)。

ユダヤの民は深い嘆き苦しみから立ち上がろうとするときに、会堂(シナゴーグ)に(つど)い、十戒などの文書を整えました。時に、神の召しを受けた預言者から、王や民衆が主の言葉・律法を説き明かされることもありました。

エゼキエルの召命と派遣は、神からの一つの「命令」に集約されます。一つの「命令」とは、「あなたはわたしの言葉を語らなければならない」(エゼキエル書2:7)ということです。その後にも、「イスラエルの家に語りなさい」(同上3:1,4)と反復されています。エゼキエルはとまどいもせず、また、抵抗することもありませんでした(比較:イザヤ書6:5,11、エレミヤ書1:6 他にヨナ書1章)。

エゼキエルはただ、語ることに徹します。御心に(かな)った、神の代弁者となりました。なぜなら、御言葉の力によって、イスラエルの家の「反逆」(エゼキエル書2:3,5,6,7,8)を打ち砕かなければならなかったからです。

上に引用したように、エゼキエルは主なる神から、安息日律法を聞かされました。定型句・「主はわたしに言われる」(エゼキエル書44:5)との親しい語りかけのもとに、十戒の第四戒が告げられました。安息日律法に、新しく神の息吹が吹き込まれました。

十戒の第四戒――

安息日を心に留め、これを聖別せよ。」(出エジプト記20:8

       

また、わたし(主なる神)安息日聖別しなければならない。」(エゼキエル書44:24

わたし(主なる神)の安息日」という用語は、わたしたちに「この日に神はすべての創造の仕事を離れ、安息なさったので、第七の日を神は祝福し、聖別された」(創世記2:3)との一節を思い起こさせます。わたしたちが主日の礼拝において、神の「安息」にあずかることが大きな課題と言えるでしょう。

いずれにしても、「安息日を聖別する」よう命じられています。「聖別する」とは、神のものとして相応(ふさわ)しいように、わたしたちの生活を改めるということです。そのために、俗なるものから切り離される必要があります。その点で、「安息する」(ヘブライ語:シャヴァット)が「()める中断する」との原意を持っていることに留意すべきです。一度、わたしのものを手放して神にお返ししましょう。自分が持って行くべきものは、神がお示しくださいます(マルコ6:8-9)。

それでは、主イエスはどのように「安息日を聖別した」のか、見てみましょう。ファリサイ派の人々はじめ皆が、その様子に注目していました。

 

Ⅲ 真ん中に立ちなさい                    

マルコ福音書3:3-4――  

3 イエスは手の()えた人に真ん中に立ちなさい」と言われた。4 そして人々にこう言われた。「安息日に律法で許されているのは、善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか。」彼らは黙っていた。

真ん中に立ちなさい」……聖なる出来事の開始が告げられます。天から()って来たような、まっすぐな言葉です。主イエスの命令が会堂全体に響きわたりました。

病んでいる者、弱く貧しい人が「真ん中に」……そうだ、そうだと、それが教会のあるべき姿だと思います。皆さんはきっと、次の挿話(エピソード)を思い起こされていることでしょう。

マルコ福音書9:35-37――

35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」 36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、()き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」

ガリラヤ湖畔のカファルナウムでの事です。主イエスは子供のような、小さな者を軽んじられませんでした。弟子たちに、「心を入れ替えて子供のようになり、自分を低くしなさい」(マタイ18:3-4)と教えられました。わたしたち皆が、「真ん中に、来させなさい」(参照:マタイ19:14)との命令を共有しなければなりません。弱く貧しい者たちが、教会に、天国(マタイ18:3)に招き入れられるために……。

主イエスは弟子たちに模範を示すかのように、手の萎えた人に「真ん中に立ちなさい」と呼びかけられました。そして、敵意を(いだ)いている人々に、神の(わざ)がこの人に現れる」(ヨハネ9:3)のを()の当たりにさせられます

主イエスは神の(わざ)を現すと共に、安息日論争を正しい方向に導かれます。

善を行うことか、悪を行うことか。命を救うことか、殺すことか……「黙って」、見ているだけの人々に「あれか、これか」の決断を迫っています。

具体的に言えば、手の萎えている人をいやして「善を行う」のか、それとも、イエスを殺そうかと相談して「悪を行う」のか、ということです。主イエス・キリストに対面する中で、古来よりの安息日律法を踏まえて、「命を救う」のか、それとも、「殺す」のか、応答するよう求められています。

わたしたちは、主イエス・キリストを十字架上で「殺した」罪を悔い改めつつ、あらゆる人の「命を救う」よう、安息日の恵みを受け継がねばなりません。そのためにこそ、わたしたちは聖なる主日に、復活の主、イエス・キリストを迎えて礼拝しているのです。

 

Ⅳ イエスは人々のかたくなな心を悲しんでいる    

マルコ福音書3:5――          

そこで、イエスは(いか)って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。伸ばすと、手は元どおりになった。

イエスは(いか)って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら」……主イエスが安息日に「命を救う」ために、全身全霊をささげられていることがよく伝わってきます。マルコとは別の福音書記者ヨハネも、主イエスの同様の姿を活写しています。

ヨハネ福音書11:33-43――

33 イエスは、マリアが泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのを見て心に(いきどお)りを覚え興奮して34 言われた。

エルサレムに近い村、ベタニアでの事です。以前より、主イエスはマリアとマルタの姉妹、そしてその兄弟のラザロを愛しておられました(ヨハネ11:5)。ところが、主イエスがそこに居合わせなかった時、ラザロは死んでしまいました(同上11:14-15)。四日たってから、主イエスはベタニアに到着しました。

そして、「イエスは見て、心に(いきどお)りを覚え、興奮して」、それから(ほうむ)りの現場で、「イエスは涙を流された」(ヨハネ11:35)と言います。会堂で病人と会衆に出会った時にも、また、墓場で死人と家族に向き合った時にも、主イエスは同様の態度をあらわされました。人々が悲惨な状況に囲まれている中で、心を大きく動かされる主イエスの姿が描き出されました。(はらわた)の痛む」ほどに、深く人を「憐れむ」(マルコ1:416:34)とは、まさにことです。主イエスは他の人誰よりも、わたしたちに寄り添っておられます。

手を伸ばしなさい」……千々(ちぢ)に乱れる思いを集中し、主イエスは「片手の萎えた人」に向けて御言葉の力を発揮されました。主の御手が病める者に触れる間もなく、いやされました。(見よ)今や、恵みの時、(見よ)今こそ、救いの日」(Ⅱコリント6:2)、安息日とはまさにこのような日であります。御言葉によって現される神の(わざ)が、安息日の礼拝の「真ん中に」置かれました。

そのような神の言葉と業は、人間の心の奥底を照らし出します。これもまた、安息日は神のもの……「わたし(主なる神)の安息日」……、聖なるものである故に、この日に欠かせないことです。

彼らのかたくなな心を悲しみながら」……主イエスの深い「悲しみ」をもって、人々の「かたくなな心」に光が当てられました。内在する「かたくなな心」が暴走すれば、悪を行い、殺す」という暴挙に至りかねません。主イエスは、ねたみや闘争心(Ⅰコリント3:3)の染みついた「かたくなな心」を悲しんでおられます。

 

Ⅴ どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた 

マルコ福音書3:6――

ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒にどのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

次は、湖の岸辺の群衆や十二人の選ばれた弟子の話(マルコ3:7-19)に移りますので、ここで一つの大きな段落(同上2:13:6)が完了します。これまで、主イエス・キリストはどのようなお方であるのかということを巡って議論が繰り広げられました。

そうして、悪意ある人々が「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた」ところで、論争は幕切れとなりました。言い換えれば、「かくて十字架が、ここで初めて視界に現れることになった」(E. シュヴァイツァー)ということです。

ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に」という動向からは、今後、陰謀を(たくら)集団増殖していくことが予見されます。彼らは自分たちが安息日に関わる権威者であることを()めようとしません。それに対して、主イエス・キリストは人の罪と病と死を(にな)って、十字架につけられ、復活されます。「特別の安息日」(ヨハネ19:31)とその前後の出来事を通して、「人の子が安息日の主である」(マルコ2:28)ことが立証されます。

 

特別の安息日……安息日が過越祭の祝日と重なる……が近づこうとしている時に、主イエス・キリストに対し、裁判で十字架刑が決められました。そして、安息日に入る寸前に、主イエスは息を引き取られました(ヨハネ19:30)。そして三日後、主の日(日曜日)の朝、よみがえられました。

 

主イエスが墓に葬られたのは、安息日直前の夕べで(マルコ15:42)、また、女たちが葬りのために香油を買ったのは、安息日明けの夜でありました(同上16:1安息日とその前後の出来事、それが、主イエス・キリストの十字架と復活でありました。人々はキリストを信じる者として、安息日の律法に従って、その時を過ごしました。そして彼らは、主イエス・キリストのよみがえられた日・日曜日を記念して繰り返し祝うようになりました。                                               Ω

2024年 1月7日        日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第2主日 

旧約聖書 サムエル記上 21章1節~7節(P.463

新約聖書 マルコによる福音書 2章23節~28節P.64

説  教「安息日は人のためにある」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序