礼拝、説教

主日礼拝                                                                                                2022年 8月14日  

    聖霊降臨節 第11主日 オープンチャーチfor high school    

  

招き   前奏

招詞   詩編14編 7節

頌栄   539

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  90

交読文  28 詩編103編 

旧約聖書  エレミヤ書2章1節~9節(p.1173)
新約聖書  コリントの信徒への手紙一15章20節(p.321)

賛美歌  197

説教   「  神はあなたの若い日を覚えている 」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

               小河信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  450

使徒信条    

聖餐式     

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2022 年8月14日「神はあなたの若い日を覚えている」
エレミヤ書2章1節~9節
コリントの信徒への手紙一15章20節
220814_0154.MP3
MP3 オーディオファイル 29.7 MB
2022年8月7日「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」
歴代誌上12章17節~18節
コロサイの信徒への手紙3章12節~17節
220807_0152.MP3
MP3 オーディオファイル 29.1 MB
2022年7月31日「あなたの道を主にゆだねよ」
詩編37編1節~22節
マタイによる福音書5章5節
220731_0151.MP3
MP3 オーディオファイル 30.6 MB
2022年7月24日「強くない者の弱さを担う」
詩編69編10節
ローマの信徒への手紙15章1節~6節
220724_0149.MP3
MP3 オーディオファイル 28.0 MB
2022年7月17日「結びあわされていく教会」
民数記20章2節~13節
エフェソの信徒への手紙4章7節~16節
220717_0483.MP3
MP3 オーディオファイル 21.4 MB

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〈説教の要約〉

2022年 8月14日  ~オープンチャーチfor high school~ 

旧約聖書 エレミヤ書 2章1節~9節

新約聖書 コリントの信徒への手紙 15章20節

       神はあなたの若い日を覚えている」

                    小河信一牧師

 

*実際の説教では、この〈説教の要約〉を元に、中高生向けに分かりやすく説教いたします。

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神はあなたの若い日を覚えている ……エレミヤ書2:1-2             

Ⅱ イスラエルは収穫の(はつ)()である    ……エレミヤ書2:3  

Ⅲ 主はどこにおられるのか          ……エレミヤ書2:4-6    

Ⅳ 主はあなたがたの子孫と争われる  ……エレミヤ書2:7-9           

Ⅴ キリストは初穂となられた    ……Ⅰコリント15:20   

 

エレミヤは、紀元前6世紀から5世紀にかけて活動した預言者です。エルサレム近郊のアナトト出身で、祭司の家系に属していました(エレミヤ書1:1)。突然、彼は神の召しを受け、南ユダ王国が激動の時代に呑み込まれていく中で、神の言葉を宣べ伝えました。

エレミヤの召命と相前後して、ヨシヤ王による宗教改革が実行されました(632 / 628)。神殿で発見された律法の書」に基づいて(歴代誌下34:14-21)、祭儀や政治の刷新が(くわだ)てられました。しかし、大国バビロニアの脅威にさらされ、民の信仰心は衰え、堕落していきました。そうして、王国は滅び、指導者など大勢の人々が捕囚となりました。

エレミヤは、王や祭司はじめ民が神から離れて行く事態に直面しました。貧しく弱い人々が苦難に巻き込まれてゆく、その()(ちゅう)エレミヤは神の言葉を取りつぎました。エレミヤは、伝来の「律法の書」に基づきながらも、ユダの民衆の現状を熟視して、独特の預言を語りました。

エレミヤは、神に遣わされ、へりくだり、常にユダの民の(かたわ)らで活動しました。その預言全体を見返すならば、いかに的確に、ユダヤ民族と異邦人の「今から将来」をとらえていたか、が分かります。国家はじめ被造世界の行く末を見据(みす)えていたと同時に、子ども女性など脅威をこうむっていた人々に心を寄せていました。エレミヤが孤立していた16:1-13)のは確かですが、彼は「(あわ)れみの(うつわ)」(ローマ9:24)として、神と隣人を愛していました。

分かりやすく言えば、人がいかにして立つことができるのか、を神に問い尋ねながら、その真実なる回答を表したのが、エレミヤの(しん)(こっ)(ちょう)です。人は、国家の危機、自然災害、そして親しい人の裏切りなによって、打ちのめされます。つまずき、倒れ伏してしまます。エレミヤ自身、幾度も、そのような挫折を味わいました。しかし、エレミヤは生涯、神に召された者としての立場を貫きました。

あなたのこれから長い人生の土台を、「砂の上に」、あるいは、「岩の上に」、どちらに置くのでしょうか(マタイ7:24-27)? それとも、自分は「親ガチャのはずれ」だから、その人生の土台にすでに、「努力では挽回(ばんかい)できない差」が生じていると考えるのでしょうか(「親ガチャ」とは、子どもがどんな親のもとに生まれるのかは運任せであり、家庭環境によって人生を左右されることをいう流行語)

 

Ⅰ 神はあなたの若い日を覚えている 

エレミヤ書2:1-2――             

1 主の言葉がわたしに臨んだ

2 行って、エルサレムの人々に呼びかけ

耳を傾けさせよ。

主はこう言われる。

わたしは、あなたの若いときの真心

あなたの花嫁のときの愛

(たね)()かれぬ地、荒れ野であなたの従順あなたのことを思い起こす。

主の言葉がわたしに臨んだ」……いよいよ神から委託されたエレミヤの活動が始まります。ただひたすらに御言葉を取りつぐ、それがエレミヤの使命でありました。彼は時々刻々変化する情勢の中で、同胞(どうほう)に向かって、ふさわしい御言葉を告げています。

主なる神は、「エレサレムの耳」(直訳)に「呼びかけよ」と、エレミヤに命じました。神はエレミヤの個性と賜物をご存じでした。画一的・形式的な「預言」を与えてはおられません。「主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」(エレミヤ書20:9)という預言者の葛藤(かっとう)の中から、すばらしいメッセージが表されました。

わたしは、あなたの若いとき真心

②(あなたの花嫁のとき

(たね)()かれぬ地、荒れ野でのあなたの従順あなたについて思い起こす。

合計4回、「あなたのあなたに」という女性単数形が使われています。まことに「エレサレムの耳」に(ねんご)ろに語りかけています。弱く貧しい人々への神の憐れみが感じ取られます。エレサレム(の人々)」を、娘・おとめになぞらえられるのは、雅歌1:5、イザヤ書37:22、哀歌2:10など、聖書の詩の文学的特徴の一つと見なされます。

さて、巧みな呼称と共に、その内容の中心にあるのが、わたし……思い起こすということです。主なる神が、「あなたについて」、そのすべてを記憶している以上、神は「あなたの」人生を見守り、導かれます。〈おとめ〉という親密な関係において、「神は羽をもってあなたを(おお)(つばさ)の下にかばってくださる」(詩編91:4)ということです。(ひな)母鳥かれているように(マタイ23:37)、「おとめエルサレム」は神の愛に包まれています。

そして、わたし……思い起こすという具体的出来事が、三つ並べられています。

その語句はいずれも、〈或る期間〉+〈神学的用語〉という構成になっています。

〈或る期間〉は、①「あなたの若いときあなたの花嫁のとき、そして、③(たね)()かれぬ地、荒れ野での40年間」となっています。また、〈神学的用語〉は、①「真心」(ヘセッド)、②アハヴァー)、そして、③「従順(直訳:わたし〔主〕につき従うこと)となっています。

まず、〈或る期間〉について見ましょう。

これは、実際の人間の生涯についてか、それとも、イスラエルの歴史についてか、どちらなのでしょう、という問題があります。ここでは、基本的には、あなたという人に語りかけている、と見ることにします。漠然とユダの民を(しか)っているわけではありません。エレミヤはあなた」と、顔と顔を合わせて、その心に語りかけようとしています。

エレミヤは以下の節で、人が、神から離れ、罪に陥っていることを告発しようとしています。そうだとすれば、神に対し人が〈花嫁のとき〉であったのは、〈過去〉ということになります。つまり、神が人を創造され、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)と宣言された初めの時ということです。

エレミヤは、あなたと語りかけて、「あなた」が悔い改めて、元の「信仰」(詩編37:3)に戻って来るのを待っています。弱く貧しいあなたは〈〉倒れ伏しています。エレミヤはその(かたわ)らにいます。「あなた」が神の呼びかけを聞いて、立ち上がるのを、忍耐強く待っています。

①「あなたの若いとき真心」の「若いとき」には、人間創造の初めの時が反響しています。人間の「若さ」が闇雲(やみくも)たたえられているわけではありません。そうではなく、人間が罪によって堕落する前、神の助けのもとに、人間には、真心」または「慈しみ」が全心全霊に行き巡っていたということです。もちろん、人間に欠けや(あやま)ちがなかったというわけではありません。それでも、「あなたの若いとき」、「真心」が、人の存在を支える柱となっていました。

②「あなたの花嫁のときの愛という語句には、夫婦の関係が暗示されています。すなわち、大胆にも、神が花婿であり、ユダの民が花嫁という、の交わりが想起されています(ホセア書2:9,18,21-22)。花婿なる神は「」をもって、花嫁なる民と、永遠の契約を結び、平安なる生活へと導こうとしておられます。

③「(たね)()かれぬ地、荒れ野でのあなたの従順」という語句には、民族の共通体験としての「従順」が顧みられています。出エジプトと荒れ野放浪におけるイスラエルの、神への従順です。しかし、それは「聖書」に照らせば分かるように、神の忍耐と知恵によって、(かたく)なな民の内(はぐく)まれた「従順」です。偶像に惹かれ、貪欲さに駆られた人は、その徳性にあずかることができませんでした。

このように見てくると、神の似姿としてわたしたちが、主イエス・キリストを模範として、①「真心」(ヘセッド)、②「」(アハヴァー)、そして、③「従順」を身に着けるべきものだ(コロサイ3:12)と分かるでしょう。神は初めの時〉・〈出発点に、それらの徳性をまとえるように、人を造り、命の霊を吹き込まれました(創世記2:7)。

それこそが、わたしたち・人間、一人ひとりが、寄り頼むことのできる人生の土台なのです

独り静かに、①あなたの若いとき、②「あなたの花嫁のとき」、そして、③「(たね)()かれぬ地、荒れ野での40年間」(申命記29:4)を思い巡らすとき、それはまさに至福の時であります。何よりも、神御自身が、「わたし……思い起こす」と語られています! あなたの若いときは、主なる神にとって、記憶に値するものなのです。「わたしの目にあなたは価高く、(とうと)」(イザヤ書43:4)ということです。

 

 イスラエルは収穫の(はつ)()である  

エレミヤ書2:3――  

イスラエルは主にささげられたもの

収穫の(はつ)()あった

それを食べる者はみな罰せられ

災いを(こうむ)った、と主は言われる。

神は、恵みをもって、寄り頼むことのできる、わたしたちの人生の土台を造ってくださいました。この節では、神と人間との関係が、信仰告白的な文章によって表されています。

それは、「イスラエルは主にささげられたもの 収穫の(はつ)()であった」という部分になります。

①と②の句が連関していることに注意いましょう。

主にささげられたもの」の原意は、「主がイスラエルを他から分けられた」ということです。聖なる神は、大いなる祝福のもとに、イスラエルを招き入れられました。イスラエルは、それに対する感謝・応答として、自らを神に「ささげ」ます。

具体的には、②彼(主)収穫の(はつ)()を、彼(主)にお返しします。それが、「イスラエル収穫の(はつ)()であった」ということの真意です。農業の一つの儀礼、そのささげものによって、「イスラエル」の、神への「信仰」が表明されています。(はつ)()は一部でありますが、最も高価なものを意味しています。まず、神に(はつ)()ささげるのは、わたしたちの全生活・全財産が神から「分け与えられている」ことを象徴しています。神の寛大さによって、わたしたちは、「(はつ)()」以外の残りのものを、この世で活用することが許されています。

ところが、ここに、その信仰告白にもとる悪事が生じたと報告されています。

それを食べる者はみな罰せられ 災いを(こうむ)った、と主は言われる。

元来、(はつ)()は神に属するもの・聖なるものですから、日常の食事に供されてはなりません。「(はつ)()」は、人が「主にささげられた」ことを証ししています。単なる農作物・食料ではありません。

古来より、イスラエルの民は収穫期に、(はつ)()奉納(ほうのう)する(レビ記23:10,17)ことによって、神と人との親しき交わりを再確認してきました。人々は神を信じ、①「真心」、②「」、そして、③「従順」をもって、隣人と共に礼拝共同体を造りました。適切な時期に、「(はつ)()」がささげられました。

これに反して、そのような礼拝共同体を(こわ)そうとする者を、神はみな罰せられ」ます。ここから、エレミヤは「主の言葉」によって、告発を展開していきます。

 

Ⅲ 主はどこにおられるのか          

エレミヤ書2:4-6――    

4 ヤコブの家よ

イスラエルの家のすべての部族よ

主の言葉を聞け。

5 主はこう言われる。

お前たちの先祖

わたしにどんなおちどがあったので

遠く離れて行ったのか。

彼らは空しいものの(あと)を追い

空しいものとなってしまった

6 彼らは尋ねもしなかった。

主はどこにおられるのか

わたしたちをエジプトの地から上らせ

あの(こう)()、荒涼とした、穴だらけの地

乾ききった、暗黒の地

だれひとりそこを通らず

人の住まない地に導かれた方は」と。

このでは、「お前たちの先祖」、そして、次のでは、「お前たち」および「お前たちの子孫」に対する告発が並んでいます。そうして、エレミヤは、神の裁きと救いの歴史を見渡し、説得力を高めています。

告発というと、相手を論破するという先入観があるかも知れません。しかし、エレミヤは、相手がいくら罪深くとも立ち直ること、悔い改めることに主眼を置いています。人が、神から離反し罪に走っているのを見るのは、「(かな)しい」、それがエレミヤという人の受け止め方です。

そのエレミヤの哀しみがほとばしり出ているのが、主はどこにおられるのか(ヘブライ語:アイェー アドナイ)という疑問文です。エレミヤ書2:6,8、2回出てきます。そのように疑問を(てい)する不信仰さを責めているのではありません。そうではなく、あなたの罪のゆえに、神が御顔をしておられる(イザヤ64:6)としても、なぜ、あなたは、「主はどこにおられるのか」と問い尋ねないのか、と訴えています。

ああ主はどこにおられるのか……この問いは、冒頭に「ああ」(エレミヤ書1:64:10)と添えたくなるほどに、哀調を帯びています。エレミヤにとって、神との親しき交わりがいかに大事であるか、分かります。エレミヤならば、「神よ、わたしの祈りに耳を向けてください。嘆き求めるわたしから隠れないでください」という詩編(55:2)の祈りのように、神を慕い求めるということです。「ああ主はどこにおられるのか」と泣き叫ぶ、それこそが誠実な信仰者である、とエレミヤは確信しています。今、自分がよく分からないというのは、決して恥ずかしいことではありません。

彼らは空しいものの(あと)を追い 空しいものとなってしまった」……(かたく)なな相手に(じょう)でも(ことわり)でも、真意がなかなか伝わりません。しかし、優れた人間観察者であるエレミヤは、言葉遊びを伴う(いん)によって(エレミヤ書1:11)、相手の姿勢が(ゆる)められることを知っています。まずは、主の言葉の余韻を、相手の心の内に残すという伝達の仕方です。(かな)しみを知るエレミヤは、文学的技巧の修練によりユーモア()けた人になりました。主なる神が、まだ若いエレミヤに対し、どんな人格形成を望んでおられるか、が分かります。

において、神と人間との関係が、信仰告白的な文章によって表されていることを確認しました。

誰しも、「主はどこにおられるのか」、明答するのは、容易ではありません。そこで、伝来の信仰告白文が、神から「遠く離れて行った お前たちの先祖」に提示されました。それは、彼らにとって実体験と重なり合う文言(もんごん)でありました。

このお方はわたしたちをエジプトの地から上らせ あの荒野、荒涼とした、穴だらけの地 乾ききった、暗黒の地 だれひとりそこを通らず 人の住まない地に導かれた。

そして、このお方はお前たちを実り豊かな地に導き 味の良い果物を食べさせた。

(エレミヤ書2:6より)

お前たちの先祖」と共に、わたしたちの思い起こすべき、神の偉大なる御業がほめたたえられています(C.ヴェスターマン)。このように、エレミヤが民に伝達した初期の預言には、信仰告白文が織り込まれています。伝統と革新という点で、エレミヤはバランスの取れた人でありました。

 

 Ⅳ 主はあなたがたの子孫と争われる

エレミヤ書2:7-9――

7 わたしは、お前たちを実り豊かな地に導き

味の良い果物を食べさせた。

ところが、お前たちはわたしの土地に入ると

そこを(けが)

わたしが与えた土地を()まわしいものに変えた

8 祭司たちも尋ねなかった。

「主はどこにおられるのか」と。

律法を教える人たちはわたしを理解せず

指導者たちはわたしに(そむ)

預言者たちはバアルによって預言し

助けにならぬものの後を追った。

9 それゆえ、わたしはお前たちを

あらためて告発し

また、お前たちの子孫と争うと

主は言われる

すでに述べたとおり、ここでは、語りかけの対象が、お前たちおよびお前たちの子孫へと移っています。エレミヤは、とりわけ「お前たちの子孫」に向けて、将来とその希望を描き出そうとしています。活動初期のエレミヤは、自分をお前たちの子孫の世代として認識していたでありましょう。想うに、老いてなお、エレミヤの魂は、「自分たちの子孫」と共にあったのではないでしょうか。

告発の目的が単に、相手を論破することであってはならない、ということで、熟慮されたメッセージが伝えられます。そこで、「お前たち」に「どんなおちどがあった」のか、どこで道を踏み(はず)したのか、検証されます。

ところが、お前たちはわたしの土地に入ると そこを(けが)

わたしが与えた土地を()まわしいものに変えた。

神は民に、「実り豊かな地に導き 味の良い果物を食べさせた」、それから以後の出来事を思い起こさせようとしています。神の恵みの賜物である」と「果物を、感謝をもって受け取り、それにふさわしい生活を送ったか、省みるよう(うなが)しています。神からの賜物以外の、空しいもの」や「助けにならぬものの後を追ったという「おちど」に、気づかせようとしています。

空しいもの」や「助けにならぬもの」など、すぐに()けの皮を現しそうですが、なぜ、多くの人々が神から離れ、それらのものの後を追ったのでしょうか。そこで、そのように民を神に(そむ)かせた責任が、祭司たち」・牧者(ぼくしゃ)たち指導者たち・「預言者たちに問われています。

人々の「もっと欲しい」という願いを、「空しいもの」・「バアル」への崇拝(すうはい)へと誘導していったのが、共同体の指導者たちでありました。それによって、大勢の人が道を踏み(はず)し、立ち上がれなくなりました。

わたし(神)が与えた土地を()まわしいものに変えた」と、手厳しく告発されています。ということは、その「土地」に暮らす人々も、「()まわしいもの」になったということです。

従って、「お前たちの子孫」が集う礼拝共同体の課題は、〈初めの時〉の、神と人との交わりの回復ということになります。なぜなら、「イスラエルは主にささげられたもの 収穫の(はつ)()であった」のですから。それこそが、わたしたち・人間、一人ひとりが、寄り頼むことのできる人生の土台なのです

また、わたしはお前たちの子孫争うと 主は言われる」……「争う」と言っても、それは、何が真実なものであるか、示すための論争です。「このお方は(しいた)げられている人々に法をもたらす」(詩編146:7 私訳)というように、「お前たちの子孫」を招き寄せて、主による公平な裁きが行われます。

人々は途中、道を踏み外し、(あた)りは闇に覆われてしまいました。その時、主イエス・キリストが御言葉が闇の中で輝き出します。

 

Ⅴ キリストは初穂となられた      

コリントの信徒への手紙 15:20―― 

しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの(はつ)()となられました

このメッセージの注目点は何と言っても、「イスラエルは収穫の(はつ)()であった」という神の恵みが恵みとして働くために、キリストは(はつ)()となられたということであります。「イスラエル」、いや、神の新しいイスラエルに、「(はつ)()」の恵みが回復されました。そして、「キリスト」の復活によって、わたしたちの人生にとって〈初めの時〉の土台が再び()えられました。

アダムとエバは、「」と「果物」(創世記3:22-24)を失いました。「しかし、実際今や〉」、人は神から賜った「」、聖霊の(くだ)った「教会」に集められ、生きるようになりました。「キリストは(はつ)()となられました」とは、「彼(主)の収穫の(はつ)()」(エレミヤ書2:3)、一人ひとりの信仰者を(たば)ねるものとなられたということです。それによって、「(はつ)()」なる主イエス・キリストを中心とする「教会」が誕生しました。

このように使徒パウロは、エレミヤからバトンを受け取ったかのように、お前たちの子孫」の一人として、今から将来」の希望を(かか)げました

ひと度は、聖なる(はつ)()が「()まわしいもの」となりました。しかし、実際今や、キリストは死者の中から復活し」、キリストなる「(はつ)()」と共に、信仰者なる「(はつ)()」(ヤコブ1:18)は、死からのよみがえりの力にあずかることになりました。それは、主イエス・キリストの復活によって、死が退(しりぞ)けられ、永遠の命がもたらされるという、驚くべき回復でありました。わたしたちの思いをはるかに超え、恵みに次ぐ恵みがあふれ出しました。

 

Ω

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2022年 8月7日                              

聖霊降臨節 第10主日 平和主日 

旧約聖書 歴代誌上 12章17節~18節

新約聖書 コロサイの信徒への手紙 3章12節~17節

          「愛はすべてを完全に結ぶ帯です」

                                                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ もし平和を望むなら、心を一つにしよう                                                  ……歴代誌上12:17-18             

Ⅱ 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい                                            ……コロサイ3:12-13

Ⅲ 愛は、すべてを完成させるきずなです                                                            ……コロサイ3:14  

Ⅳ キリストの平和があなたがたの心を支配するように                                                 ……コロサイ3:15          

Ⅴ イエスによって、父である神に感謝しなさい                                                       ……コロサイ3:16-17 

 

コロサイは、小アジア(トルコ)の内陸部に位置しています。その町に教会がありました。そこにも、巡回伝道者によって、「聖書」に基づき、福音が宣べ伝えられていました。その頃(紀元8090年代)までには、パウロの書簡や福音書が著されていました。その御言葉を通して、キリスト者の群れは、神が全世界を支配していると信じ伝道していました。

ところが、コロサイ教会の周りには、間違った教えを持つ異端者や信仰から脱落させようと惑わす者がいました。そのために、コロサイ教会の人々は、礼拝で主イエス・キリストによる救いを告白し讃美することを重んじていました。教会員一人ひとりが、「キリストの体」(コロサイ1:24)に属する者として、キリストにつき従っていました。

コロサイの信徒への手紙3:11――

そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです。

土地在住の人はじめ、ユダヤ人、異邦人など、集っている人の多様性が、コロサイ教会の特徴でありました。そのことを踏まえ、教会の指導者はキリスト者の生活がどうあるべきか、を教え(さと)しました困難が次々と(おそ)って来る中で、皆が一つとされ、高くキリストの平和」を(かか)げていました。

そこでまず、旧約聖書から先行例を挙げましょう。人間の予想も期待もしないところで、神によって、敵味方を超えて、一致と平和が築かれるという(くす)しき出来事を起こされました。戦闘や敵意など危難に()っても、悪徳や災いばかりを見て、失望することはありません。

それは、ダビデが人々の歓呼のうちに王となる(歴代誌上14:8、サムエル記上16:13)以前のエピソードです。いわば、ダビデが脚光を浴びる前の秘話です。それは、人に知られないところで、神の選びの御手が働いていたことを証ししています。

 

Ⅰ 平和を望み、心を一つにしよう                      

歴代誌上12:17-18――  

17 ニヤミン族とユダ族の人々も要害にいるダビデのもとに来た。18 ダビデは彼らの前に出て、こう言った。「もしあなたたちが平和を望んでわたしを助けようとして来たのなら、わたしもあなたたちと心を一つにしよう。しかし、もしわたしを(あざむ)いて、敵に引き渡すつもりなら、わたしたちの先祖の神がそれを見て、責め立ててくださるように。わたしはこの手でどんな不法も働いたことがないのだから。」

竪琴を(かな)ることが巧みな少年ダビデ(サムエル記上16:16は、サウル王の従者として仕えていました。ダビデはギブア(エルサレムの北5㎞にある)の王宮に住んでいました。

ところが、主から来る悪霊がサウルをさいなむようになりました(サムエル記上16:14)。そうして、サウル王とダビデの関係が悪化し、ダビデは逃亡生活を()いられることなりました

その時の王の内面が、「サウルはこれ(ダビデの名声)を聞いて激怒し、(くや)しがって……この日以来、サウルはダビデをねたみの目で見るようになった(サムエル記上18:8-9と描かれています。怒りと(ねた)みとは反応し合って、いら立ちを増殖させます。

詩編37編の詩人によっても、いら立つの後に、「うらやむ」((ねた)む)が続く、そうなると、(ふん)()(しっ)()とがごたまぜになって、人を弱らせていくということが証言されています(37:1)。サウルはまさにその実例でありました。そして、その「いら立ち」のとばっちりを受けたのが、王の従者のダビデでありました。

当時の最高権威者の、(うら)みを買ったダビデの行く末には、多難が予想されます。ダビデはどのように生き延びたのか、独りで不安ではなかったか、といろいろ想像されます。王国の希望の星にとってそれは無駄な時間だったのでしょうか。ちなみに、ダビデは生涯のうちに、3回、油注ぎを受けています。一度目は、サウル王に召される前、父親や兄弟に見守られる中、預言者サムエルが少年ダビデに油を注ぎました(①サムエル記上16:12-13 ②サムエル記下2:4 ③同上5:3)。ダビデ逃亡の折にも、神の召しと守りは不動のものだったに違いありません。

ここに、「ダビデがまだキシュの子サウルを避けていなければならなかったとき、ツィクラグにいるダビデのもとに来た者は次のとおりである」(歴代誌上12:1)という信頼すべき情報があります。事の詳細を見てみましょう。

ツィクラグ」はエルサレムの南東方面にある町です。そこは、ユダの領地の南端で、サウル王の時代にはペリシテ人の支配下にありました。「要害にいるダビデのもとに」との語句から、「ツィクラグ」周辺の荒れ野にある要害に、ダビデが身を(ひそ)ませていたことが分かります。辺境地帯の(とりで)……文字通りダビデは(がけ)っぷちに追い込まれています。

そのような過酷な状況を背景に、「聖書」は、ダビデの援軍として、次々に「勇士たち」が()参じて来たことを物語っています。

ベニヤミン族ユダ族の人々も」とさりげなく記述されていますが、一方、サウルはベニヤミン族、他方、ダビデは「ユダ族」の出身でありました。血縁・地縁からすると、「ベニヤミン族」の戦士は、ダビデにとって危ない人たちでありました。が、驚くべきことに、「ベニヤミン族」からもダビデを「助けようとして来た」人たちがあったということです。

先の引用文は、「要害」から荒武者たちに向けてとどろかせたダビデの言葉です。「もしあなたがたがならば、~になるように」という文が2回出ています。ダビデは、「勇士たち」との関わりにおいて、幸いと災いの両面を見ていることが分かります。

もちろん、ダビデが()い願っているのは、「もしあなたたちが平和を望んでわたしを助けようとして来たのなら、わたしもあなたたちと心を一つにしよう」ということです。幸いを希求しています。

寄せ集めの荒武者たちに対し、ダビデが「平和を望んで」とのスローガン(標語)を掲げたのは、賢明な王の姿を先取りしています。二つの「もし」のどちらなのかという答えは、ダビデ自身からではなく、天から(くだ)って来ました。

歴代誌上12:19――

すると霊が三十人隊の(かしら)アマサイ(くだ)った。

「ダビデよ、わたしたちはあなたのもの。

エッサイの子よ、あなたの味方です。

平和がありますように。

あなたに平和、あなたを助ける者に平和

あなたの神こそ、あなたを助ける者。」

ダビデは彼らを受け入れ、部隊の頭とした。

アマサイは、「ベニヤミン族とユダ族」の「三十人隊の(かしら)」でありました。彼は、「彼らの前」でダビデの問いかけた言葉を聞きました。すると、神の霊が「アマサイ」の上に(くだ)り、彼は預言する状態になりました(サムエル記上19:20)。それから、「あなたに平和、あなたを助ける者に平和」という将来の約束を告げました。

荒れ野は、独りで不安に陥っていたダビデを訓練する場所でありました。何も頼るもののない、貧苦を通じて、人は何に寄りすがるべきか、が示されました。

ダビデは、今後、「わたしもあなたたちと心を一つに」して、「平和を望もう」という道を進むことになりました。ダビデは、「あなた(ダビデ)の神こそ、あなたを助ける者」との神の霊感を受けた隣人の言葉を忘れることがなかったでありましょう。

ダビデの子、イエス・キリスト」(マタイ1:1)によって建てられたコロサイ教会は、このダビデのエピソードを継承していました。なぜなら、「キリストの体」に属する信仰者として、「平和」と「一致」によって、礼拝と日常生活を打ち建てることを願っていたからです。

 

Ⅱ 憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい

コロサイの信徒への手紙3:12-13――

12 あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい。13 互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい

以前、ローマの信徒への手紙の講解説教で、次のようにお話ししました。

ローマの信徒への手紙12章-15章には、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、ということが書かれています。救いにあずかった者の生き方は当然、変わってきます。なぜなら、神への奉仕、礼拝の恵みが、信仰者の生活全体にゆき渡るからです。

同様に、コロサイの信徒への手紙3:12-17においても、どういう生活をすればよいのかというキリスト教倫理が説かれています。その前段(コロサイ3:5-11)には、どうあってはいけないのか、が述べられました。

さて、冒頭の「だから身に着けなさい」という命令は、牧会者パウロの好む表現です。配慮に満ちた勧め方になっています。このような言い回しが、憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という五つの徳目を実践することに関して使われています。

なぜ、配慮に満ちている、と言えるのでしょう。それは、「主に信頼し、善を行え」(詩編37:7)という命令を実践する側に、不要な圧力(プレッシャー)をかけていないからです。

ローマの信徒への手紙13:12――

(よる)()、日は近づいた。だから、闇の行いを()ぎ捨てて光の武具(ぶぐ)を身に()けましょう。

(ころも)を「()ぎ捨てて」、そして、「身に着けましょう」と、まことに平易な教えになっています(並行例:コロサイ3:9:12)。主イエス・キリストによる救いを信じて、自分の死と罪の縄目から解き(はな)たれなさい、その上で、「光の武具(ぶぐ)」をまといなさい、ということです。神が救いの御手をもって、わたしたちの身に衣を()させてくださいます。

憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容という徳目はすべて、主イエス・キリストがどのようにわたしたち・罪人を執り成してくださったのか、ということにさかのぼります。主イエスにつながれてこそ、わたしたちは、隣人に対し、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という重荷を背負うことができるのです。

従って、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容を身に着けなさい」というのは、端的に「主イエス・キリストを身にまといなさい」(ローマ13:14)と言い換えられます。主イエス・キリストという(ころも)ならば、信仰者・各人にぴったり適合することでしょう。偽メシアやサタンがつけ入る(すき)はありません。

主イエス・キリストを着なさい」とは、わたしたちの存在と生活すべての土台が、主イエス・キリストであるということです。新生をもたらす、その力は、困難に直面するわたしたちの現実の中で働きます。

これに沿()うならば、続けて、「赦し合いなさい。主があなたがたを赦してくださったように、あなたがたも同じようにしなさい」と勧められているのも、自然なことです。というのも、「憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」という徳目は、罪人または隣人を「赦す」ことにおいて集約されるからであります。

キリストの体」は、兄弟・姉妹が召し集められたところに成り立ちます。その兄弟・姉妹というのは、互いに「赦し合っている」人々です。主イエス・キリストによって無償で与えられた、罪の赦しは、神の豊かな恵みにほかなりません(エフェソ1:7)。清らかな川水が、都の神殿から死海へと流れ下ったように(エゼキエル書47:1-12)、神から(たまわ)った「赦し」は、わたしたち・「憐れみの器」を通して、罪人や異邦人のもとへと流れ出していきます(ローマ9:24)。

 

Ⅲ 愛は、すべてを完成させるきずなです               

コロサイの信徒への手紙3:14――

これらすべてに加えて、愛を身に着けなさい。愛は、すべてを完成させるきずなです。

キリスト教倫理の教えが展開される際に大切なことは、主イエス・キリストの救いの御業に立ち帰ることです。主イエス・キリストは、ご自身の十字架の死をもって、わたしたちの罪と死を(あがな)ってくださいました。そこに、神の愛があります。それによって、神と人を愛する」(ローマ8:2813:8)であるわたしたちは、「善い(わざ)」へと、「善をもって悪に勝つ」(ローマ12:21)ように導かれます。

愛は、すべてを完成させるきずなですというのは、これまた、「それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(Ⅰコリント13:13)とのパウロの言葉を思い起こさせます。わたしたちの「信仰」と行いが、「完成させ」られているかどうか、の判断基準として、が明示されています。従って、きょう、自分は「神と人を愛した」か、そして、御父が御子を遣わして、罪人に愛をあらわされたことを思い起こし感謝したかが、きょう自分がどのように生きたのかということの中心となります。

愛は、すべてを完成させるきずなです」という以上、主イエス・キリストの愛は、わたしたち・信仰者の賜物を生かしながら、「完成」に向かっています。そこでは、「」は不毛であるという考えは退けられます。「キリストの体」である教会は、「」において成熟し、「霊の実」の豊かに結ばれる(ガラテヤ5:22)、終わりの日を待ち望んでいます。

 その「完成」に向けて、コロサイの教会に、平和」と「一致」が告げられます

 

Ⅳ キリストの平和があなたがたの心を支配するように          

 コロサイの信徒への手紙3:15――

また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。この平和にあずからせるために、あなたがたは招かれて一つの体とされたのです。いつも感謝していなさい。

で、コロサイ教会の時代からさかのぼること、一千年前に起こった(くす)しき出来事を紹介しました。戦闘と敵意のただ中で、「平和を望んで」・「心を一つにしよう」という群れが荒れ野に現れました。逃亡中のダビデと彼を慕って来たアマサイが「平和」の(ちぎ)りを交わしました。霊なる神の仲介によって、ダビデアマサイは「一つ」となりました。ダビデにはこれから、悪霊に()かれたサウル王との戦いや国家安泰を(はば)もうとするペリシテ人との戦いが待ち受けていました。そのようなダビデが、平和を望んで」という信仰の基本姿勢を学んだことには、計り得ない価値がありました。

この世の荒れ野を行くコロサイ教会には、教会の困難が待ち構えていました。教会の内外に、間違った教えを持つ異端者や信仰から脱落させようと惑わす者がいました。彼らの陰での画策によって、「わたしもあなたたちと心を一つにしよう」との祈りが弱められることになりました。

そこで、「キリストの平和」の下に立ち帰ることが勧められました。それは、わたしたちの手の届かないものではありません。

ヨハネ福音書20:19――

その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に(かぎ)をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

よみがえりの主、イエス・キリストは、鍵のかけられた「家の戸」をすり抜けて、弟子たちのもとにやって来られました。人間の恐怖と孤立を追いやるかのように、「あなたがたに平和があるように」と挨拶されました。そうして、弟子たちの家に、そして教会に、「平和」が支配するようになりました。

さらに、弟子たちには、「あなたがたは招かれて一つの体とされた」という恵みが与えられました。その一つの体において、一人ひとり、「恵みの賜物」(ローマ5:15)をもって組み合わされました。そこには、自分勝手に振る舞う人はいません。というのも、「一つの体」の中で、他の兄弟・姉妹の働きや賜物を教えられ、自分自身を(かえり)みることになるからです

いさかいや行き違いが生じて、波風が立つときにも、「キリストの平和があなたがたの心を支配するように」と、祈ることができます。「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ている」(ローマ5:1)ことに感謝しましょう。そうすれば、「互いに忍び合い、責めるべきことがあっても、赦し合う」(コロサイ3:13)ように導かれます。

 

Ⅴ イエスによって、父である神に感謝しなさい           

コロサイの信徒への手紙3:16-17―― 

16 キリストの言葉があなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい。知恵を尽くして互いに教え、(さと)し合い詩編と賛歌と霊的な歌により、感謝して心から神をほめたたえなさい。17 そして、何を話すにせよ、行うにせよ、すべてを主イエスの名によって行い、イエスによって、父である神に感謝しなさい。

初代教会は、キリスト教倫理の勧告の仕方について、一つの型を作り上げていました。つまり、勧告の文章・段落の最後のところで、讃美や(しゅく)(とう)が表され、それが礼拝への招きとなっているということです(参照:ローマ14:1115:5-6)。

そのような展開になっている、理由は大きく二つあります。しっかり押さえましょう。

一つは、主イエス・キリストへの回帰です。すなわち、主イエス・キリストの為された救いの(わざ)(あお)ぐという出発点に戻るということです。何よりも、「キリストの体」なる教会は、主イエス・キリストによる死人の中からのよみがえりによって、神の満ちあふれる力が増し加えられます。

もう一つは、わたしたちの実践すべき徳目・倫理に関することです。それは、わたしたちがどのように、やり遂げる力の足りなさと向き合うか、という問題です。この書簡でも、Ⅱ・Ⅲ・Ⅳで読んだ通りに、教会の指導者から、どのように生活するのか、懇切丁寧に示されました。

しかし、それらのことは、ある意味では、信仰者がすでによく知っていることなのです。主イエス・キリストという模範に(なら)うことによって、自分の生活が清く整えられることを認識しています。

問題は、「やり遂げる力の足りなさ」、つまり、「自分の持っている(わず)かなもの」(詩編37:16)の受け止め方にあります。信仰の原点に帰って、自分に与えられている(わず)かなものを見つめ直すのです。

それは、聖なるものです。「(わず)かなもの」というのは、神から賜った恵みのしるしです。喜びと謙虚さをもって受け取りましょう。小さな(つぼ)でも、そこに聖霊または恵みの賜物)を(たくわ)えておきさえすれば、「信仰」のともし火は消えることがありません。神がを注いでくださいます。五つの徳目も、感謝をもって、実践したかどうか、指折り数えられるでしょう。

キリストの言葉あなたがたの内に豊かに宿るようにしなさい」……ここで、勧告を結ぶという意図が明白です。「言葉」によって、主イエス・キリストを信じることが強調されています。御父・御子・聖霊を(おが)むことが、わたしたちの日常の初めなのです。神礼拝では、「キリストの言葉」の説教または讃美が中心に置かれています。そこで啓示された神の愛と正義によって、わたしたちは一週の旅路へと送り出されます。

この勧めでは、「互いに教え、(さと)し合い」ということが、「詩編と賛歌と霊的な歌」と一体化しています。例えば、第Ⅰ讃美歌に、皆さんのご存じの曲、「主の義をまといて みまえに立たまし」(280番)や「ただしく清くあらまし」(452番)があります。🎶霊的な歌」によって📖キリストの言葉」が心に染み込んでくることでしょう。「あなたがたの内に豊かに宿る」とは、まさにこのことです。

(あなたがたは)行うにせよ、~によって行いと、徳目・倫理の実践が強く命じられる中に、「すべてを主イエスの名によって」という句が鮮やかに示されています。

主イエスの名」にはその方の全存在が含まれています。たとえ、そのお方の憐れみの心、慈愛、謙遜、柔和、寛容」を十分に知らなくても(Ⅰコリント13:12)、わたしたちにできることが、一つあります。それは、「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)、「主イエスの名」を、「詩編と賛歌と霊的な歌」をもってほめたたえるということです。

「(あなたがたは)イエスによって、父である神に感謝しなさい」(他にコロサイ3:15)……最後に、「感謝」で結ばれています。わたしたちはいつも、あらゆることについて、感謝しているでしょうか(エフェソ5:20)。感謝をもって、神に栄光を帰しているでしょうか(Ⅱコリント4:15)。

荒れ野の要害に独り身を潜ませていたダビデに、新しい隣人たちが()参じました。そこに、感謝が満ちあふれました。神に感謝し、隣人に感謝する、そこに生まれる「平和」と「一致」のもとに、礼拝共同体が築かれます。油注がれたダビデによって、律法と讃美を重んじる礼拝が都エルサレムで行われるようになったことが、それを立証しています。

コロサイの教会は、「心から神をほめたたえ」つつ、ダビデの遺産を継承しました。「すべてを主イエスの名によって行い……神に感謝する」ことを目指して、徳を建て、教会を建てる群れとなりました。

 

 

Ω

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〈説教の要約〉

2022年 7月31日                             

旧約聖書 詩編37編 1節~22節

新約聖書 マタイによる福音書 5章5節

       あなたの道を主にゆだねよ」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 悪事を(はか)る者のことでいら立つな   ……詩編37:1-3             

Ⅱ あなたの道を主にゆだねよ            ……詩編37:4-6

Ⅲ 貧しい人は地を継ぐ         ……詩編37:9-11 マタイ5:5      

Ⅳ 主は彼を笑われる                    ……詩編37:12-13          

Ⅴ 主に従う人が持っている物は(わず)かでも ……詩編37:16-17 

Ⅵ 主に従う人は憐れんで(ほどこ)            ……詩編37:21-22 

 

祖国滅亡と捕囚……ユダヤ民族は、前587年から前538年までのおよそ50年間、第二次世界大戦中のホロコースト(大虐殺)に並ぶような苦難を経験しました。人々の生活を支える諸制度は、宗教から政治・経済に至るまで、崩壊しました。神殿礼拝、祭司制度、預言活動、外交、食糧等の問題によって、物心両面で、人々は疲れきっていました。

そのどん底にあって、霊的な力を、今、将来に向けて出来ること、すなわち、聖書()むことに傾注しました。預言者エレミヤや第二イザヤ、また、特定の詩人たちが互いに影響を及ぼしつつ、「聖書」を世に送り出しました。神の御言葉のもとに、ユダヤ民族が異邦人を巻き込んで、再結集するように推し進められました。

前回は、アルファベット詩の系譜の上で、詩編910編に続いて書かれた詩編25を読みました。

詩編25の特徴として、「道なき道を行く」、放浪の民に、歩んで行くべき「」(詩編25:4,8,9,12)についての教えが反復されました。「主よ、あなたの道をわたしに示してください」(詩編25:4)との祈りがささげられました。苦難のうちにたたずんでいた民に、立ち上がる好機が巡って来ました。

さらに詩編25編では、捕囚により新天地に暮らし始めた人々や、なおも放浪を続ける人々に対し、平安なる生活が(かか)げられました。その人は恵みに満たされて宿り 子孫は地を継ぐであろう」(25:13)……夜、安眠できる家と定住場所が備えられるとの、神の約束が告げられました。人の目には事態が変わらないように見えても、神の「恵み」によって着実に、人々の信仰生活は形づくられていきました。

詩編37の詩人は、先行するアルファベット詩・25編の使信を心に(いだ)きながら、新たな詩を編み上げました。暗黒の時代に、人々の魂の奥深くに送り届けられた詩編37編の前半(:1-22)を読んでみましょう。

 

Ⅰ 悪事を(はか)る者のことでいら立つな               

詩編37:1-3―― 

1         ダビデの詩。

悪事を謀る者のことでいら立つな。

不正を行う者うらやむな。

2 彼らは草のように(またた)く間に枯れる。

青草のようにすぐにしおれる

3 主に信頼し、善を行え。

この地に住み着き、信仰を糧とせよ

どのように、「いら立つ」ことに対処するかは、いつの時代にあっても、大きな課題です。詩の冒頭でそれが主題であるかのように、神の御前で、「いら立つな」と命じています(他に詩編37:7,8)。

いら立つ」の後に、「うらやむ」((ねた))が続いています。(ふん)()(しっ)()とがごたまぜなって、人を弱らせていきます。(しか)り飛ばして、「悪事を謀る者」を遠ざけようとすると、「不正を行う者」の巧妙さと財貨に()せられるという具合に、人の心は(むしば)まれていきます。

では、どうすればよいのでしょうか? 詩編全体から慎重に御言葉を読み取りましょう。

大切なのは、一人の悪事を謀る者にだまされないようにすること、つまり、いら立ちの元になっている不正を行う者繁栄の道を行く者の実態を眺めわたすことです。心が鬱積(うっせき)していると、世の中に「悪事を謀る者」が(あふ)れかえっているように思われます。「不正を行う者」の群れに圧倒されると、「自分も悪事を謀ろうと、いら立って」しまう(詩編37:8)ことになりかねません。

冷静に眺めわたすべき、彼らの実態が、「彼らは草のように瞬く間に枯れる。青草のようにすぐにしおれる」、と描写されています。詩編37編の詩人は「知恵の教師」の系譜に連なっているとも言われますが、真実を伝える、巧みな言葉遣いに留意しましょう。

瞬く間に枯れる。すぐにしおれる」……、彼らが「繁栄の道を行く者」であっても、瞬く間にすぐに彼らは消え去ります(他に詩編37:10しばらくすれば」、:16(わず)かでも」)。これは、「神は細部に宿る」という格言の一面(時間的側面)を言い表しているでしょう。

繁栄の道を行く者は親切顔をして、先の見通しの立たない「貧しい人」(詩編37:11)や「主に従う人」(同上37:12)に忍び寄って来ます。、彼らの誘惑に乗ることはありません。瞬く間すぐに、彼らの未来は断たれます(同上37:38)。要は、しばし待つことです(同上37:7,9)。

そうだとすれば、瞬く間にすぐにの中に、神の支配と介入を確信しているかどうかが、分かれ道となります。、あなたは苦難をこうむり、忍耐しなければならないけれども、「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3-4)と、あなたは信じますか、ということです。

悪事を謀る者」たちの力によって押し流されそうになっても、わたしたちが、「瞬く間」の忍耐と希望によって救われている(ローマ8:24)ことこそが、防波堤となります。

主に信頼し、善を行えこの地に住み着き、信仰を糧とせよ」……詩人は神によって救われている人の歩むべき「」(詩編37:5)を示しています。「主に信頼し、善を行え」との勧めには、人の思いと行いを主に向けるという信仰が表されています。「信仰を糧とし」、「互いの向上」(ローマ15:2)をもって、神殿(旧約)または教会(新約)を建てることが、この地に住み着くうえでの第一のこととなります。

このように、暗黒時代の終わりを見据え、時宜(じぎ)(かな)って、詩人は、わたしたちの「信仰について、詩の冒頭で物語りました。

 

Ⅱ あなたの道を主にゆだねよ           

詩編37:4-6―― 

4 主に自らをゆだねよ

主はあなたの心の願いをかなえてくださる。

5 あなたの道を主にまかせよ

信頼せよ、主は(はか)らい

6 あなたの正しさを光のように

あなたのための裁き

真昼の光のように輝かせてくださる

詩人は、人々のいら立ちについて、最も根本的な回答を提示しています。それが、「主に自らをゆだねよ」、または、あなたの道を主にまかせよということです。自分で怒りや(ねた)みをもみ消そうとすればするほど、いら立ち(こう)ずるばかりです。

あなたの道を主にまかせよ」の「まかせよ」の原意は、「転がす」です。自分で()()ろうとしてはなりません。主の導くままに、転がっていくのであります。悪事不正は裁かれねばならない、というのは、その通りです。だから、詩人は、「あなた(信仰者)のための裁きを 真昼の光のように輝かせてくださる」との神の約束を告げています。

あなたの道を主にゆだねる」ならば、いら立ちから解放されます。自分に内在する怒りや妬みは、「しばらくすれば」消え去ると安んじることができます。その忍耐と共に、主にある喜びが「いら立ち」を(かげ)へと追いやります。

詩編37:4,11―― 

4  主に自らをゆだね  主にあって喜び楽しめ (私訳)

11 豊かな平和に自らをゆだねるであろう ⇒ 大いなる平和を喜び楽しむであろう (私訳) 

新共同訳で、「自らをゆだねる」と解されている動詞は、むしろ、自らが歓喜に満たされるの方が原意に近いと言えましょう。

つまり、「主にあって自らが歓喜に満たされる」がゆえに、もはや、自分で「いら立ち」をかき消さなくてもよくなった、ということです。あなたが(いきどお)らずとも、主なる神が「あなたの正しさとあなたのための裁き」をもって、「悪事と不正」を退けられます。

主に自らをゆだね、喜びに満ち、大いなる平和を楽しむ」……これが、わたしたちの信仰に基づく生活の、本来の姿であるということです。この信仰によって、日頃の「いら立ち」が克服され、いよいよ、「この地に住み着く」ことができるよう「あなたの道」が切り(ひら)かれます。

 

Ⅲ 貧しい人は地を継ぐ                      

詩編37:9-11―― 

9  悪事を謀る者は断たれ

主に望みをおく人は、地を継ぐ。

10 しばらくすれば、主に逆らう者は消え去る。

彼のいた所を調べてみよ、彼は消え去っている。

  11 貧しい人は地を継ぎ

豊かな平和自らをゆだねるであろう。

ここでは、地を継ぐ」(詩編37:9,11,22,29,34という神の祝福が表されると共に、その祝福がどのような人に与えられるのかが示されています。

神は、「主に望みをおく人を祝福されます。「しばらくすれば」、神が介入される、とその人は待ち望んでいます。

神は、貧しい人(別訳:柔和な人々)を祝福されます。「地を継ぐ」のみならず、とこしえに「豊かな平和」が続くよう、その人は自らを献げます。

神は、アブラハムに「あなたの子孫にこの土地を与える」と約束されました(創世記12:715:18)。「あなたの子孫」とは、アブラハムの「信仰」に従う「貧しい人」にほかなりません(ローマ4:16)。

マタイ福音書5:5――

柔和な人々は、幸いである、

その人たちは地を受け継ぐ。

神は、御子イエス・キリストをこの世に遣わし、柔和な人々に「地を受け継ぐ」・「幸い」を宣言されました。神は御子を死よりよみがえらせました。それによって、今や「柔和な人々」は、永遠の命に得て、神の国に入れられることを待望しています。「貧しい人の希望は決して失われない」(詩編9:19)という、闇の中での「希望」が明るみに出されました。

 

Ⅳ 主は彼を笑われる                     

詩編37:12-13―― 

12 主に従う人に向かって

主に逆らう者はたくらみ、(きば)をむく

13 主は彼を笑われる。

彼に定めの日が来るのを見ておられるから。

神は、「いら立つ」の後に、「うらやむ」((ねた)む)が続くという人間の弱さをご存じです。人がいくら踏ん張ってみても、また、見て見ぬ()りをしようとしても、世の「悪だくみ」(詩編37:7)に(おびや)かされていることを知っておられます。人間が自分の良心をもって怒り憎しむとき、主の「豊かな平和」が(かげ)りはじめます。瞬く間にすぐに」と予告されている神の介入よりも先に、自分で対策を講じようとします。

しかし、「主に逆らう者はたくらみ、(きば)をむく」という出来事が継起しているこの世で、「自らが歓喜に満たされる」生活を守るのは、わたしたちにとっては、大変難しいことです。

 「主は彼を笑われる」……(おびや)かされている人々を守るのは、神御自身です。神の御手の中に、「主に逆らう者」に置かれています。彼は、神の笑いを見ていません。神は彼に手を大きく開いておられます(詩編145:16、申命記15:8)。

わたしたちの(いだ)く、怒り・憎しみ・おびえには、それ相当の理由があることでしょう。そこで、「主に自らをゆだねよ」(詩編37:4)との命令に従う人は、幸いです。笑っている神の祝福が与えられ、喜びに満たされます。神は、「柔和な人々」に、この世で喜びを絶やさない知恵をさずけられます。

 

Ⅴ 主に従う人が持っている物は(わず)かでも

詩編37:16-17―― 

16 主に従う人持っている物は(わず)でも

主に逆らう者、権力ある者の富にまさる。

17 主は御自分に逆らう者の(うで)を折り

従う人を支えてくださる

主に逆らう者(つるぎ)」や「(詩編37:15)を防御するかのように、神の恵みと真理を告げる「知恵の教師」の言葉が繰り出されます。

先に、時間について、「瞬く間」(詩編37:2)は神の支配のうちにあると述べましたが、そのことは、人の所有物についても当てはまります。すなわち、「(わず)」ばかりの物も、神がそれを用いられるならば、大いに役立ちます。しかし、「主に逆らう者」の「」は大部分、倉にしまい込まれて使われません。さらに悪いことに、「(つるぎ)」や「」の「豊かさ」は、人を神の御心に(そむ)かせるばかりか、柔和な人々」に悪口を浴びせ迫害するように仕向けます(マタイ5:11-12)。

しかしそこで、「知恵の教師」は、主に従う人の(わず)なものが、主に逆らう者の「豊かさ」よりも「善い」と言い切りました。なぜならば、「主は御自分に逆らう者の(うで)を折り 従う人を支えてくださる」からです。「不正に富をなす者」(エレミヤ書17:11)は、「瞬く間に」、煙となって滅びます(詩編37:20)。

主に従う人」は、神から「(わず)」なものを与えられたことを心から喜んでいます。たとえ、「地を継ぐ」(詩編37:9,11,22,29,34)としても、彼らが()り高ぶることはありません。というのも、豊かな平和」の宿る「」も、(わず)」なものも、神から(たまわ)たものだと知っているからです。それ故に、慢心(まんしん)しないで、どんな貪欲(どんよく)にも注意を払う(ルカ12:15)ことが、大切です。

(わず)」なものを備えておくことに関して、主イエスの「十人のおとめの譬え」を引きましょう(マタイ25:1-13)。一方、愚かなおとめたちは、油を切らして、ともし火を消すことになりました。他方、賢いおとめたちは、「(わず)」な……分けてあげるほどではない 25:9……をもって、ともし火を輝かせ続けました。というのも、自分たちの(つぼ)に、神から(たまわ)った聖霊とも解されます)を入れて持っていたからです。

主に従う人は、健全な「信仰」のうちに、「わたしは貧しく、孤独です」(25:16)との告白を唱え続けました。へりくだって、自分の(とぼ)しさを受け容れました。類例として、貧困にさらされていたマケドニア(テサロニケなど北ギリシア地方)のキリスト者の様子を見てみましょう。パウロが、アカイア(コリントなど南ギリシア地方)のキリスト者に、エルサレム教会への募金を勧めている場面です。あなたがたに、「神の恵みについて知らせましょう」(Ⅱコリント8:1)と前置きして、次のように語っています。

コリントの信徒への手紙 8:2――

彼ら(マケドニア州の諸教会)は苦しみによる激しい試練を受けていたのに、その満ち満ちた喜びと極度の貧しさがあふれ出て、人に()しまず施す豊かさとなったということです。

このパウロの貴重な証しは、バビロン捕囚時代の詩編と響き合っています。「極度の貧しさ」と隣り合わせの中で、「満ち満ちた喜び」があふれ出して、「憐れみ深い施し」が生まれ出るということは、パウロが「聖書から学んだ」(ローマ15:4)ことでありました。

 

Ⅵ 主に従う人は憐れんで(ほどこ)          

詩編37:21-22―― 

21 主に逆らう者は、借りたものも返さない。

主に従う人は憐れんで(ほどこ)す。

22 神の祝福を受けた人は地を継ぐ。

神の呪いを受けた者は断たれる。

主に従う人は憐れんで(ほどこ)」……すでに見たとおり、その人の「持っている物は(わず)」です。その人は、どのように、隣人に向き合うのでしょうか?

そこで、憐れんでと「(ほどこ)」という、結び合わされている二語の意味を(とら)えましょう。

無闇に分け与えるのではなりません。それでは、「権力ある者」が「」をばらまくようなものです。

では、「主に従う人は憐れんで」というのは、どういう意味なのでしょう。

主に従う人が、主イエス・キリストを信じる人であるとの観点に立って、真意を説き明かしましょう。

神は御声をもって御前に、わたしたち、主イエス・キリストを信じる人を召し出されました。それは、「神が憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たちに、御自分の豊かな栄光をお示しになるため」(ローマ9:23)でありました。私たちは週ごとに、主日に教会に来ていること、あるいは、主日に家庭で御言葉にあずかっていることを通して、神の()を確かめています。

神は憐れみ深いとして、私たちを取り扱われようとしておられます。わたしたちが悔い改めて、神の似姿を回復する、それが、「憐れみの器として栄光を与える」ということなのです。神の似姿であるキリスト(Ⅱコリント4:4)が、「憐れみの器」として生きるわたしたちの模範となってくださいます。

わたしたちは、憐れみ深い神(なら)い、隣人を「憐れむ」ように、隣人の傍らに呼び出されています。そこに慰めがあります。「慰め」によって心(やわ)らげられた隣人は、わたしたちの憐れみ」と「施しを受け取ることでしょう。そこに、真心からの感謝が生じます。

元々は、神を源とする「憐れみ」と「施し」を通じ、わたしたちと隣人の間に、兄弟姉妹の関係が築かれます。このようにして、主イエス・キリストにつき従い、神の豊かな「恵み」を分かち合う教会生活が始まります。貧苦のときにも、神の「豊かな栄光」に照らされて、わたしたちの間に、「()しみなく分け与える」善い業(詩編112:5,9)が受け継がれていきます。

混沌(こんとん)とした時代に書かれた、アルファベット詩・詩編37編は、礼拝共同体の将来と信仰生活のあり方を指し示しています。それは、今また同じような時代を生きているわたしたちにとっての「祈りの書」であるに違いありません。

貧しい人の希望は決して失われない」(詩編9:19)との御言葉は、とこしえに真実であります。神の約束は必ず成し遂げられます。「神の祝福を受けた人は地を継ぐであろう」……この約束を通して、わたしたちは、この「」の旅人として、神の国をめざしなさい、とのメッセージを受け取っています。

さあ、主に自らをゆだね、喜んで、わたしたちの道を転がっていきましょう

 

 

Ω

 

 

 

 

 

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〈説教の要約〉

2022年 7月24日                             

旧約聖書 詩編69編 10節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章1節~6節

       「強くない者の弱さを(にな)う」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 隣人を喜ばせなさい         ……ローマ15:1-2             

Ⅱ キリストはご自分を喜ばせなかった    

                ……ローマ15:3 詩編69:10 

Ⅲ 忍耐と慰めを通して希望を持ち続ける  ……ローマ15:4 

Ⅳ あなたがたが神の栄光を現すように   ……ローマ15:5-6          

結 

 

ローマの信徒への手紙14:115:6では、キリスト教倫理を踏まえ、「牧会的な問題」について指導を試みています。その講解説教の最終・第6回目となりました。

或る一つの「牧会的な問題」について、当事者である信徒に向けて、最後に何を語っているのか、が注目されます。今後に向けてのまとめの観点から、パウロの勧めをしっかり捉えましょう。

①問題そのものを踏まえた回答になっているか。

②お説教を()れることなく魂への配慮が()されているか

③救われた兄弟姉妹が共々に、どこを目指(めざ)してゆくのか、その将来見渡されているか。

実際に、勧めの()めくくりは、以上の観点に立って記されていますが、で確認することにしましょう。

事の発端は、こうでした。

ローマの教会内には、肉を食べるか食べないか、ぶどう酒を飲むか飲まないか、そして、特定の日を重んじるか重んじないか(ローマ14:4,6,21)、について異なる意見または生活慣習がありました。そのため、教会に亀裂が生じ、多数派・「強い者」(ローマ15:1)と少数派・「弱い人」(同上14:1,2)との間には、「軽蔑」と「裁き」が渦巻いていました(同上14:3)。

牧会上、一つの問題に(かか)わり、それを(にな)うに時間と忍耐が必要です。手紙一通で、丸く収まるとは思えません。だからこそ、ひと(たび)問題を整理し、まとめ、御言葉によって神の力と愛に満たされることが大切なのです。最終の段落を読むことにしましょう。

 

Ⅰ 隣人を喜ばせなさい 

ローマの信徒への手紙15:1-2――                   

1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを(にな)うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです

皆さん、驚かれるでしょうか、パウロは、誰に向かって、どのグループに対し語っているのでしょう。

わたしたち強い者」に向けて、です。不公平だと思われますか? 「弱い人」にも、けじめをつけてください、と。

これまで、「強い者」は、「何を食べてもよいと信じている人」(ローマ14:2)または「食べて人を罪に誘う者」(同上14:20)というように、(えん)(きょく)に言い表されていました。

その理由としては、前置き無しに、強いと言えば、信仰が「強い」と勘違いされる懸念があったからでしょう。注解者のU.ヴィルケンスが、この強い(ギリシア語 デュナトスについて、的確に解説しています。

彼らが強いのは、むろん、自分自身の力によって強いのではない。そうではなくて、それは、彼らが神の霊の解放的に自己を全く明け渡して、キリストによってキリスト者に与えられているトーラー(律法 ローマ7:2)からの解放を認識し、かつ実践において、それを生かすことによってである。しかしまさに、彼らにその能力を与えるのは、彼ら自身の力ではなく、キリストの、すなわち、キリストの愛の自己献身のである。

この解説に「」が多用されているのは、ギリシア語「強い」(デュナトス)が力ある」という意味だからです。キリスト教的に、信仰者が強い」のは、主イエス・キリストの「キリストの愛の自己献身の」を信じているから、ということです。「なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:10)とのパウロの言葉も、同じ文脈で使われています。

強い者は、キリスト者のあり方として、「てすりも、原理もなく、特別な慣習も放棄した生活」の方を選びました(K.バルト)。彼らが選んだというより、聖霊が彼らを、キリスト教倫理の範囲内で、自由な生活を送るように導いたのです。他方、「弱い人」は、「てすり」(生活または行動の一定の様式)を活用する暮らし方へと招き入れられました。

先に示唆した、「皆さんの驚き」に話を戻しましょう。

前段ではパウロの勧告は、弱い人をつまずかせる強い者(ローマ14:20,21)へ、と同時に、強い者から悪い影響を与えられる弱い人(同上14:3,23)へも向けられていました。ある意味、パウロは公平な立場を取っていました。(から)み合った問題を解きほぐすために、その公正さは必須でありました。

そこで、なぜ驚きかと言えば、このまとめに至って、「強い者(たち)」が明示され、彼らがターゲットにされている、からです。彼らからすれば、どうしてわたしたちに矛先(ほこさき)が向けられるか、と思ったかも知れません。

ともかくも、わたしたち強い者に焦点が合わされている理由を読み取りましょう。

わたしたち強い者は、強くない者の弱さを(にな)うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません」……「(にな)うべき」ことと「喜ばせるべきではない」(満足を求めるべきではない)こととが指し示されています。「強い者」には、〈肯定・実践〉と〈否定・抑制〉、二つの責務があるということです。

強くない者の弱さを(にな)うべき」ということで、弱い人よりも、むしろ、「強い者」に忍耐が求められています。「それは不公平です」と言いたいところですが、まさに耐え忍びましょう。

自分を喜ばせるべきではないの「喜ばせる」は鍵語で、隣人を喜ばせなさい(ローマ15:2)、そして、「キリストはご自分を喜ばせなかった」(同上15:3)というように、つながっています。つまり、「強い者」はキリストに(なら)って、自分を喜ばせず、隣人を喜ばせることに努めなさい、ということです

このように、文脈に即してみると、「自分を喜ばせるべきではない」ことの真意が分かるでしょう。そしてまた、わたしたち強い者という呼称において、パウロは「わたし」を強い者と認識し、自ら勧告を守ろうとする姿勢がうかがわれます。実際、パウロは「異邦人と一緒に食事をする」(ガラテヤ2:12)ほどに食生活において強い者でありましたが、「弱い人」の間では「肉も食べなければぶどう酒も飲まなかった」(ローマ14:21)ということです。キリスト者としての倫理の基礎が、「隣人を喜ばせなさい」ということに置かれていたからです。

おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです」……ここで、「隣人を喜ばせる」ことと、互いの向上とが結びついていることが分かります。互いの向上とは、「徳を建てる」または「教会を建てる」という意味です。

強い者は徹頭徹尾、へりくだって、「強くない者の弱さを(にな)うべき」であります。そして、弱い人をじっと見て、喜びに満たされているかどうか、に心を配ります。そうした時、強い者を励ます力となるのが、そこに「互いの向上」があるということです。弱い人」と「強い者とが組み合わされて、「キリストの体」として、教会が建てられていくのであります。自己満足を(おさ)え、忍耐を()いられる中でも、「強い者」に、平安と感謝があるのは、それよって、教会が成長していくからです。

 

Ⅱ キリストはご自分を喜ばせなかった    

ローマ15:3―― 

キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。

勧告のまとめにふさわしく、ここで、聖書に裏付けられる形で、キリストの御姿が描き出されます。「キリストはご自分を喜ばせなかった」ことが、パウロの説き明かしによって、「強い者」の信仰の中心に置かれます。

地上の公生涯において、主イエスは様々な苦難に遭われました。それはたまたまそうなったというのではなく、父なる神の計画によって進められたものでありました。主イエスはまさに、ご自分を喜ばせず」、「隣人を喜ばせるよう、全心全霊をささげられました。

詩編69:10――

あなたの神殿に対する熱情

わたしを食い尽くしているので

あなたを(あざけ)る者の嘲り

わたしの上にふりかかっています

ここでは、この詩編の一節を、キリストにおいて成就した預言として読みます。「あなた」を父なる神、そして、「わたし」をキリストに当てはめます。パウロが引用しているのは、この節の後半ですが、初めに前半を確認しておきましょう。

あなた(神)神殿に対する熱情」の「熱情」には、二通りのものが考えられます。

一つは、ご自身が聖なる「神殿」であろうとされる主イエス・キリストの「熱情」です。「この神殿を壊してみよ。三日で建て直してみせる」(ヨハネ2:19)との宣言は明らかに、主イエス・キリストの十字架と復活を指し示しています。主イエスは、その救いの御業を成し遂げることに、熱情を注がれます。

 もう一つは、その聖なる「神殿」を汚す罪人や商売人の「熱情」です。今や、都エルサレムの「神殿」に、主イエスが臨在されています。にもかかわらず、彼らは自分たちが信仰熱心であると決め込んで、「神殿に対する熱情」を冷まそうとしません。早く、人をだますような商売を止めるべきなのに……。

言うまでもなく、ご自分を喜ばせず」、隣人を喜ばせる」ことを実践するためには、自己犠牲が伴います。この点で、「あなたの神殿に対する熱情が わたしを食い尽くしている」との句は、主イエス・キリストによって体現された「自己犠牲」を表しています。

すなわち、「熱情」に駆り立てられた罪人たちによって、主イエス・キリストが十字架につけられ、殺されることを預言しています。「わたしたち強い者」の知るべきは、主イエスが十字架の死に至るまで、従順に、罪人たちの「弱さを(にな)われた」ということです。「わたしたち強い者が自分を喜ばせるべきではない」というのは、単なる道徳の一箇条などではなく、十字架によって自分の罪が贖われたことを信じる者が第一に取り組むべきことなのです。

あなた(神)をそしる者のそしりが、わたし(キリスト)にふりかかった」……十字架の道行きにおいて、「(あざけ)る者の嘲り」に主イエスに浴びせられ(マルコ15:20,31)、この通りのことが起こりました。

なぜ、「強い者が強くない者の弱さを(にな)うべき」なのか、それは、主イエス・キリストに従い、自分の十字架を背負って歩む(マタイ10:38)のが、信仰者の人生だからです。自分が主と共に十字架を背負っていることにより、神と隣人を喜ばせる」という恵みが与えられます。

パウロは詩編69編の一節を引いて、主イエス・キリストの受難を通じ、信仰者が「強くない者の弱さを担い」、そして「隣人を喜ばせる」べきことを教えました。そうして、次にパウロは、「かつて書かれた事柄」、すなわち、「聖書」が、わたしたちの歩みを照らす(ともしび)となる(詩編119:105)ことを示します。

 

Ⅲ 忍耐と慰めを通して希望を持ち続ける

ローマの信徒への手紙15:4―― 

かつて書かれた事柄は、すべてわたしたちを教え導くためのものです。それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです。

牧会上の問題解決を願って、パウロは、忍耐と慰めとを……二節(ローマ15:4,5)連続で……教会の人々に指し示しています。

忍耐に、労苦や節制が伴うことはあっても、慰めとは結びつかないような気がします。そこで、忍耐と慰めの原意に即して、具体的に、強い者と「弱い人との関係を描き出しましょう。

忍耐とは、「下に踏みとどまるという意味です。従って、強い者」が「強くない者弱い人の弱さを(にな)」ことにおいて、忍耐」が発揮されていると見なされます。留意すべきは、強い者と「弱い人」とが、飲食のいさかいのためにまだ和解していないとしても、「弱い人」の(ちょっ)()に「強い者」がいる密接な関係が築かれていることです。「強い者」が「弱い人」を下支(したざさ)えしています。

次に、慰めとは、「(かたわ)らに呼ぶ」という意味です。ここでは、強い者弱い人の傍らに呼ばれているとしましょう。「弱い人」のそばで、何をするのでしょうか。

前段の言葉を借りるならば、「あなたの食べ物について兄弟弱い人が心を痛め」ないように、「愛に従って歩んで」行く(ローマ14:15)ということです。それによって、強い者を裁き、敬遠しようとしていた「弱い人」が我に返り、悔い改め、平安が与えられる、それが慰め」です。

肉も食べなければぶどう酒も飲まず」(ローマ14:21)という禁欲的な生活の中に、再び、神への感謝と喜びが(あふ)れ出します。その食卓には、隣人の喜ぶ様子(同上15:2)を見て、自らも「慰め」を得た強い者」が座っています。

このように、パウロの勧告全体に照らしてみると、忍耐と慰め」が重ね合わせられていることの真意が明らかになります。神の御心に(かな)った忍耐は、慰めを生むということです。闇の中での独りの「忍耐」は、穏やかな晴れの日の「慰め」に通じています。

それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができるのです」……ここで確認したいのは、聖書から」と希望を持ち続ける、二つの語句についてです。

かつて書かれた事柄」、すなわち、「聖書」というのは、旧約聖書を指しています。実際、パウロは詩編69:10後半の引用によって、自己満足を求めない、へりくだり……まさに「忍耐」……を言い表しています。

ローマの教会が、これからも牧者の善い指導にあずかるという点で、「希望を持ち続ける」ことが重要です。教会内に、新しい「弱い人」が現れたり、現代風の行動・生活の様式が持ち込まれたりすることもあるでしょう。その際には、「強い人」と「弱い人」とが互いに受け入れる(ローマ14:1,3)道を探っていかねばなりません。対立しているような信徒たちが垣根を越えて認め合うところに、教会のまことの成長と交わりがある(E.ケーゼマン)のですから、「希望」を失ってはなりません。

わたしたちは兄弟姉妹と一緒に、「聖書から希望を持ち続ける」よう、主日の礼拝を続けています。テキストの終わりに、執り成しの(しゅく)(とう)が置かれています。パウロは、エフェソからローマへと礼拝の()(ぶき)を伝えようとしています。

 

Ⅳ あなたがたが神の栄光を現すように          

ローマの信徒への手紙15:5-6――

5 忍耐と慰めの源である神あなたがたに、キリスト・イエスに(なら)って互いに同じ思いを(いだ)かせ6 心を合わせ声をそろえて、あなたがたに、わたしたち主イエス・キリストの神であり、父である方をたたえさせてくださいますように

ここでパウロは、それと気づかぬよう言い方を変え、ローマの教会の人々に、あなたがたと呼びかけています。もはや、強い者」と「弱い人とわだかまりは消えた、あなたがた」は一つなのだ、というメッセージを送っているのです。その「あなたがた」も、「主イエス・キリストの神」にあって、「わたしたち」と一つなのであります。付け加えれば、「互いに同じ思いを(いだ)かせ」との句にも、その一体性が昭示されています。

豊かな内容を持つ祝禱ですが、文の根幹を押さえましょう。直訳では、忍耐と慰めの神がしてくださるように・~を与えてくださるように」となります。新共同訳聖書で、「忍耐と慰めの源である」と意訳されているのは、「」が「与えてくださる」神だからです。神がさまざまな恵みを「あなたがた」に(たま)うということです。

わたしたちの祈りをもって、「忍耐と慰めの神がしてくださるように」という、その内容は、大きく二つに分けられます。

キリスト・イエスに(なら)って互いに同じ思いを(いだ)かせられるように。

心を合わせ声をそろえて神をたたえさせてくださいますように。

②「神をたたえさせてくださいますように」の直訳は、あなたがたが神の栄光を現すように」となります。このように整理してみると、この祝禱が、あなたがたと②「、双方に向けられていることが分かります。

パウロがモーセのように、あなたがたと②との間にあって、執り成しているとは、まさにこのことです(出エジプト記32:31-32、申命記9:25-26、ローマ9:3)。このように、天と地を架け渡しているこの祝禱は、「」の部と「あなたがた」の部から成る「十戒」と「主の祈り」を写し出しています。わずか二節に凝縮したのは、主にある、パウロの知恵によるのでありましょう。

初期の課題は、強い者」と「弱い人とが互いに「受け入れる」ということにありました。その点で、パウロは礼拝を想定しながら、「心を合わせ声をそろえてあなたがたが神の栄光を現すようにと勧めているのは、注目に値します。

なぜなら、「互いに同じ思いを(いだ)かせられるように」ということの原点が、礼拝中の、神をほめたたえる讃美と告白にあるからです。心を合わせ声をそろえて、「わたしたちの主イエス・キリストの神」を信じます、と歌い唱えるのです。

そうして、自分ではいさかいの()(だね)消しきれない強い者」と「弱い人」が、神の愛と正義によって、互い赦し合います。そこに、あなたがた」が一つとなって、将来へと進む道が開かれます。

 

結 

パウロは、一つの「牧会的な問題」に(かか)わることになりました。その解決のために、霊的な力を傾注しました。には、その締めくくりの文章を評価する三つの基準を(かか)げました。ローマの信徒への手紙15:1-6の内容に則して、わたしなりに、どのように勧告が締めくくられたか、振り返ってみましょう。そうすることは、きっと、牧会者であるわたしならびに教会の兄弟姉妹に益するものとなることでしょう。

①問題そのものを踏まえた回答になっているか。

弱い人」も聴いていることを前提に、強い者に向かって語りかけています。

強い者」が教会内の飲食の問題について、行いを改めるよう指示しています。

()いては、それが「互いの向上」(教会を建てること)となって実を結ぶと教えています。

隣人を自分のように愛しなさい」(マタイ22:39)との主イエスの教えに(なら)って、

わたしたち強い者」に、「隣人を喜ばせなさい」と命じています。

主イエス・キリストの最重要視された教えに基づいて、回答していることが分かります。

②お説教を()れることなく、魂への配慮が()されているか。

わたしたち強い者と呼称しているところに、パウロの(いさぎよ)さが感じられます。

自分をもめ事の渦中に()えています。

キリストはご自分を喜ばせなかった」または「そしりが、わたし(キリスト)にふりかかった

など、主イエス・キリストの苦難が前面に打ち出されています。

そのお方につき従い、「わたしたち強い者」は、隣人の弱さを担うために労苦します。

そのように、へりくだって、主に仕える者に、忍耐と慰めが与えられます。

③救われた兄弟姉妹が共々に、どこを目指(めざ)してゆくのか、その将来が見渡されているか。

荘重な祝禱が、「弱い人」と「強い者」とを礼拝に招いています。

聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続ける」のにふさわしいところは、

礼拝にほかなりません。

互いの向上」によって、教会がますます堅固に建てられ、礼拝の喜びが高まります。

わたしたちは天を(あお)心を合わせ声をそろえて」讃美しながら、神の国を目指しています。

このように、終わりの時が近づいているという信仰によって、

(いま)だ収束しない問題に対する冷静さと知恵とが備えられます。

現実には、「牧会的な問題」に押し(つぶ)されそうになり、先が見えなくなることがあるかも知れません。しかし、そのような時にこそ、牧会者のスーパーバイザー(監督者)たるパウロの言葉、それでわたしたちは、聖書から忍耐と慰めを学んで希望を持ち続けることができる」を胸に秘めて、歩みたいと願います。

 

Ω

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<説教要約>

2022年7月17日  講壇交換

エフェソの信徒への手紙4章7~16節 

民数記20章2~13節      

      「結びあわされていく教会」 

            秋間 文子牧師(南湖教会牧師)

 

茅ヶ崎香川教会、茅ヶ崎南湖教会は、茅ヶ崎教会によって生み出された教会で、役員を加えた協議会が2000年に始まったのを機に、講壇交換もなされてきました。ただの説教者の交換ではなく、各教会が改革派的な教会形成を進めていけるようにという願いの中で始まったものでした。南湖教会は二教会の祈りによって建てられた教会ですから、感謝しつつ現状を報告し、また、二教会の在り方に学ぶ時と思ってまいりました。そのため、礼拝におきましても、教会について語る箇所から共に聞きたいと思います。

 

1 組み合わされる教会

教会にとってもコロナ禍の影響は大きく、教会は礼拝に召される群れですから、集まることができない、また制限されるというのは、試練が与えられた年月でした。そういう中で教会とは何かと考えます時に、ただ集まっているだけではないという教会の本質に目を向けなくてはならないことに気づかされます。

私はキリスト教とは関係ない家に育ち、毎年初詣に連れて行かれたのですが、そこに例え千人の人がいたとしても、ただ隣同士で参拝しただけですから「千人の教会」とは言わないわけで、隣の人と自分は何も関係がないというものです。教会の礼拝がただ時と場所を同じにしたというだけならば、それと変わりないことになってしまいます。そうではないと言えるのは、一人ひとりが個別の礼拝をしているのではなく、この群れとして礼拝しているからです。

聖書を見ますと、信仰は個人のものというよりも共同体全体のもので、共に神を信じる民として礼拝を献げ、群れが信仰を基として歩んでいるかということも常に問われてきました。今日の箇所は、教会を形作るための勧めとして書かれたもので、神様から招かれて同じ洗礼を受け、恵みが与えられてきた一人ひとりが教会を造り上げ、体全体は組み合わされ、結び合わされていくと言います。

「組み合わせる」とは、石を積んで家を建てていくことをいう建築用語です。パレスチナでは石を積む技術が古くから発達し、自然の石、もしくは切り出した不揃いの石の形を見て、その凹凸に合わせて、ちょうどいいものを職人が寸時に選んで積んでいくと言いますが、それがこの「組み合わせる」という作業でした。

教会は人が集まっただけではバラバラなままですが、石に例えるならば、凹凸のあるそれぞれが組み合わされることで造り上げられていくというのです。

 

2 モーセが組み入れられる

それは、単に、それぞれの良い面が生かされるというような綺麗ごとでは済まされないものがあり、自分が変わらざるを得ないということを含んでいます。そのために労した一人がモーセです。彼は自分一人信仰深ければそれでいいというのではなく、共同体全体が信仰によって歩むように用いられ、自分を献げるほどのことが求められたのでした。

出エジプトの旅は過酷を極め、民はモーセとその兄アロンに八つ当たりをします。エジプトの肥沃な地とは違い、荒れ野には種を蒔く土地も食べ物もなく、死なせるために連れてきたのかと文句を言ったのです。出エジプトは神様がイスラエルの嘆きを聞いて、導き出してくださったものでしたが、モーセが民のいらだちを向けられる的にならざるを得ないのでありまして、神様と民との間に立って、モーセは困り果てました。その困ることこそがモーセの役目でした。彼がいなかったら、怒りを向ける先が無かったら、民はバラバラになってしまったでしょう。

 彼らはモーセに文句を言うことで、神様に向き合っているのです。「神はどうしてこんな荒れ野に引き入れたのか」という問いを投げかけることで、その問いを抱え続けたのです。群れから離れたらその答えは永遠に得られないでしょうが、イスラエルがそれを引き継ぎ、申命記において、その答えを語り継いでいきます。それがイスラエルの信仰として結実していくのです。

 その歴史の中にモーセも組み入れられたのであり、すぐには答えの出せない民と歩みを共にしなくてはなりませんでした。モーセとアロンは、臨在の幕屋(礼拝の場所)でひれ伏すと、神様は水を備えてくださいました。「杖を取り、…共同体の前で、岩に向かって水を出せと命じなさい。…その水を共同体と家畜に飲ませるがよい」と言われ、民のことは何も責めずに、モーセのなすべきことを教えました。水を出す奇跡こそが神の応えであって、その奇跡によって「神は見放してはいない」と伝えたのでした。

 しかし、モーセは怒りがおさまらず、「反逆するものらよ、聞け。」と切り出し、「この岩からあなたたちのために水を出さねばならないのか。」と言って、岩を打つと水が出たのですが、神様はこれをよしとはされませんでした。神様が言われたのは岩に命じることでしたが、モーセは岩を打ったのでありまして、命じられた通りにしなかったのです。モーセは食物がなくて困る民、家畜をどう養うか悩む者の側に立つこともなく、また彼らを憐れむ神の側に立つのでもない、外から批判するだけの者になっているのであって、それは約束の地に向かう群れの一員ではないと言われてしまったのです。

 

モーセは、この出来事がなかったら神様に叱責されるようなことはなかったでしょうし、生涯敬虔な信仰を貫いて約束の地に入れたかもしれません。しかし、彼は人間の奥底に潜む罪をあらわにし、そこに神の怒りが向けられる、そういう一人として立つことが強いられたのです。他の人々も信仰深かったのではなく、神に問われなかったということでもないでしょう。モーセは、その民と共に滅びていく者とされたのです。一緒に死んでいくのではありませんから、運命を共にするということではありません。民のせいで、ではなく、モーセは自分の罪を負っていくのです。しかし、それは他の人たちの罪と関係ないというのではなく、表れ方は違っても、誰もが持つ人間の負うべきものを負って、神の前にひれ伏さなくてはならないのです。そして、神の救いは、自分とは関係ないところで起こるのではなく、「このモーセを救う神が民を救う」ということこそ、彼が知らなくてはならなかったことなのです。

 

 3 主イエスの十字架と復活

 主イエスが伝えたことは、このモーセの姿に映し出されています。主イエスがこの地に来られて、民の一人として生き、民の罪の渦中において十字架に架かられます。主イエスが罪を背負うことによって、私たちは自分たちの罪を知らされるのです。間違いを犯した子どもの代わりに、親が平身低頭謝罪することで、子どもは自分のしたことの大きさを知るのに似ています。そういう私たちが神の赦しを頂いて生きていくということを主イエスは十字架をもって教えられたのです。その主イエスが復活されたことは、私たちも新たな自分になって生きていくことを示していました。それは罪とは関係のないものとなるというのではなく、神様の赦しを知って生きる者となると言った方がふさわしいと思います。

モーセは思いもしなかった罪があらわにされることを通して、ひれふすべき神様を知り、神様によって生かされていることの尊さを知ったのです。それを伝えることこそイスラエルの群れが信仰によって立つためになくてはならないことでした。モーセはこの出来事の後も民を導いていく役目を担い、約束の地に入ってからの生活について勧めをし、後継者ヨシュアを任命し、民への祝福を語りました。神の義(正しさ)と愛を伝えるために用いられたのです。彼は信仰共同体を形作るために、そうやって組み入れられたのです。「反逆者」とののしる者としてではなく、自分も罪を贖っていただかなくてはならない者の一人として、神を伝え、共に礼拝する群れを作っていったのです。

 

 4 教会形成と三教会

 教会は主イエスの十字架によって赦された者の群れであって、それを自分のこととして味わうことから始まります。あの民のように文句を言ってもいいし、「なぜ神様はここに導いたのか」と問いかけてもいい、それを抱えて答えを求めながら、困りながらも共に歩んでいくのが教会です。そこで罪を知らされ、神の聖なることを知らされ、なお赦されていることを共に味わう群れなのです。「組み合わされる」とは、その一人とされることです。あの民もモーセも、人とぶつかり、自分のみっともないところをさらけ出し、それでも神様の赦しと導きの中を共に歩む者となれと言われているのです。私たちが自分の人生で出会う罪、過ちは限られますが、共に歩むことで、それ以上の罪とそこにある苦悩を知り、神の愛の深さ、キリストの十字架の深みを知るのです。教会の仲間はそのための友です。だから、補い合うことでしっかりと組み合わされ、結び合わされていき、教会が造り上げられていきます。

教会が隣人のために祈るのは、あのモーセが民のために臨在の幕屋に行くようなものですから当たり前のことなのですが、隣人の重荷を自分のこととして担っていくというのは、普通はあり得ないことで、そうやって関わることで、自分の人間性が変えられていきます。かつては損得で動いていた者が、神様に仕えるがゆえに人に関わる者となるのでありまして、相手を配慮し、思いやりをもって、共に礼拝する道を探る、そういう関係へと導かれていくのです。

そのような教会の関わりの中で、私たちは隣人を愛することを学び、思いやりのある社会が築かれるようにと祈りつつ関わるのですが、三教会においても同じです。三つの教会が組み合わされ、結び合わされていくことで、良い関係が築かれるでしょう。互いを配慮し、補い合いながら、共に礼拝する交わりを築いてまいりたいと思います。

 

祈祷いたします

 

主イエス・キリストの父なる神様。

 

神様は、この教会を愛し、慈しんで、創立以来、今日までの歩みを導いてくださいました。教会は人の集まりであるがゆえに、欠けを持ち、破れを経験しますが、それにもかかわらず、神様が召し集め、主によって結ばれた群れとして教会を建ててくださいました。主の招きに感謝いたします。どうぞ、自らの上に注がれている神様の愛と赦しを思いつつ、さらに、しっかりと組み合わされてまいりますよう導いてください。茅ヶ崎香川教会の上に、小河先生のお働きの上に、神様の御支えがありますように。三教会の交わりが神様の御心にかない、互いを高め合う、良い交わりを続けていくことができますように。主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

月報7月号

 

説教 南風が吹いて来た

ペンテコステ礼拝

         使徒言行録 28章1節~16節      小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ この人は神様だ             ……使徒28:1-6             

Ⅱ パウロは行って祈り、手を置いていやした ……使徒28:7-10

Ⅲ 南風が吹いて来た                 ……使徒28:11-13 

Ⅳ 神は南風を吹き巡らせた         ……詩編78:26-28          

Ⅴ こうして、わたしたちはローマに着いた   ……使徒28:14-16 

  結

 

主イエス・キリストが死んで、よみがえられた、その50日後に、聖霊降臨の出来事が起こりました。本日は、それによって建てられたキリストの教会とその伝道が、どのようになったのか、使徒言行録の最終章を読んでみることにしましょう。その(かん)のことも丁寧にたどるべきではありますが、初めに、聖霊の風が吹いて来た、そして終わりに、何が起こったのか、ということには、心が引かれます。

パウロは、第三回目の伝道旅行を終え、エルサレムに(のぼ)って行きました。主にある「兄弟たち」に、自分の奉仕を通して、神が異邦人の間で行われたことを報告するためでした(使徒21:17-19)。ところが、ユダヤ人から悪意による告発を受け、パウロは逮捕されました(使徒21:27-36)。それから(なが)らく、彼は(しゅう)(じん)(使徒23:1827:1)の立場に置かれることになりました。

パウロは、ローマ皇帝の法廷に出頭する道を選び取りました(使徒25:10)。そして彼は、ローマにいる皇帝のもとに護送されることになりました。55 / 56年頃、すでにパウロはエフェソまたはコリントから、ローマの信徒への手紙を書き送っていました。神のお恵みがあれば、ローマの教会の人たちと出会えると期待していたのかも知れません。

さあ、ざっくりとですが、ローマへの旅の最終行程を提示しましょう。

58年頃、パウロを護送中の船は、マルタ島に漂着します。荒天の時季・冬を越すために、この島に三か月(とど)まります(使徒28:11)。祈りをもって、マルタ島からローマをめざした、その旅は……

マルタ島からローマへの旅、航路と陸路で約800kmは、東京から北海道・札幌市まで、831km(直線距離)に相当します。パウロたちは、22日をかけてローマに到着しました。その間、一都市での七日間の滞在(使徒28:14)を含みます。季節は、冬の荒天が(やわ)らぐ、2月末から3月にかけて、と見られます。

もちろん、旅行の利便性は、現代とは比較になりません。紀元1世紀のこと、最後の最後のところで、死の危険に遭遇し挫折することもあり得たでしょう。

パウロの、マルタ島からローマへの旅を総括すれば、「(じゅん)(ぷう)(まん)(ぱん)」でありました。見事に(ちょう)()を飾りました 春の到来と共に、イースター(34月)とペンテコステ(56月)が近づいていました。嫁ルツを伴ったナオミの、ベツレヘムへの帰郷も、春先のことでありました(ルツ記1:22)。使徒言行録は、春から春へと巡っている、そこに見逃せないメッセージがあります。

これが、使徒言行録の告げる結末です。皇帝に出頭したパウロの裁判の行方、ローマの教会での伝道牧会、異邦人とユダヤ人の交わりなど、もろもろの問題は積み残されていました。しかしながら、神は「(しゅう)(じん)」パウロの周りに、聖霊を吹き送った、というところで()めくくられました。そこには、確かな希望があります。

わたしたちもまた、この世にあって死と罪の暗闇から抜けきれない「囚人」であります。ただただ、聖霊降臨の恵みにあずかり、聖霊によって、主イエス・キリストの御業を思い起こさせられるように、と願います。

簡略に、マルタ島漂着までの経緯(いきさつ)を押さえましょう。エウラキロン」(ユーラクロン 北東風)という暴風によって、パウロ一行を乗せた船は、地中海を漂流することになりました(使徒27:14-15)。挙げ句の果てに難破し、乗員や囚人は海に飛び込んで泳ぎ、陸地にたどり着きました(同上27:43-44)。それから……

 

Ⅰ この人は神様だ                             

使徒言行録28:1-6――

1 わたしたちが助かったとき、この島がマルタと呼ばれていることが分かった。2 島の住民は大変親切にしてくれた。降る雨と寒さをしのぐためにたき火をたいて、わたしたち一同をもてなしてくれたのである。3 パウロが一束の枯れ枝を集めて火にくべると、一匹の(まむし)が熱気のために出て来て、その手に(から)みついた。4 住民は彼の手にぶら下がっているこの生き物を見て、互いに言った。「この人はきっと人殺しにちがいない。海では助かったが、『正義の女神』はこの人を生かしておかないのだ。」 5 ところが、パウロはその生き物を火の中に振り落とし、何の害も受けなかった。6 体がはれ上がるか、あるいは急に倒れて死ぬだろうと、彼らはパウロの様子をうかがっていた。しかし、いつまでたっても何も起こらないのを見て、考えを変え、この人は神様だ」と言った。

このは、キリスト者パウロによる奇跡物語が書き表されています。そして、双方、同じパターンで話が展開されています。その共通のパターンを通して、或る問題が克服されていくことが、証示されています。

 島の住民が親切にもてなした……使徒28:2,7

  ②住民の目の前で、パウロが不思議な業を(おこな)った。……使徒28:3-5,8-9

  ③住民は驚き、パウロはじめ「わたしたち」に対する考えや態度を改めた。……使徒28:6,10

このマルタ島における二つの伝承の構造が見抜ければ、使徒言行録が何を訴えようとしているのか、つかめます。すなわち、注目点は、②の奇跡を通じて、住民の心が①から③へ転換されることにあります。

確かに、島の住民がすぐにキリスト教を受け入れたとは、書かれていません。パウロについて、「この人は神様だ」と言うのは、誤解も(はなは)だしい……。しかし、大切なのは、「人の心が動き始めた」ことです。漂着して来た人を「親切にもてなす」ことは、美徳にほかなりません。ただ、そこに(とど)まっているならば、自分は「善い人」(ローマ5:7)であっても、「神により救われるべき人」とは思い至らないでしょう。古来よりの生活習慣を守っているだけでは、新しいものが見えてきません。

日本のキリスト教伝道が、地元の人々に「親切にもてなされる」……流行としてのキリスト教式結婚式やクリスマスなど……のは、悪いことではないかも知れません。しかし、その段階を突破しないかぎり、「善い人」は、自分の罪科に向き合うことはありません。それ故に、パウロが②の不思議な業によって、主イエス・キリストの福音を宣べ伝えたことに、改めて注目すべきであります。相手方の接待漬けにかまけて、本来の職務を忘れてはなりません。

それでは、パウロによる奇跡物語の一つ目を見てみましょう。

わたしたちが助かったとき」……必死の思いで一人ひとりが岸辺まで泳ぎきりました。嵐の中で、パウロが、「船は失うが、皆さんのうちだれ一人として命を失う者はないのです」(使徒27:22)と予告した通りになりました。「わたしたち」の結束がより一層強められたことでしょう。

それから、「わたしたち一同」は、島の住民から恐れられることなく、歓待されました。それは、ずぶ()れになり寒さに(こご)えている外来者への好意と愛情に満ちたものでありました。

ところが、暖を取ろうと(たき)()をしていると、「一匹の(まむし)が熱気のために出て来て」、パウロの手に(から)みつきました。

それを目撃していた住民は、「」に()まれたパウロは、すぐに死ぬと予測しました。というのも、彼らの素朴な「正義ディケーの女神」崇拝において、「悪人」・パウロには死の罰が下るはずだったからです。

ところが、「彼らはパウロの様子をうかがっていた」のですが、パウロの身に何も起こりません。気絶すらしません。そこで、島の住民は「考えを変え」、「この人は神様だ」と言って、パウロを(あが)(たてまつ)りました。「正義の女神」に()(けん)する、と言っているようなものです。

島の住民が、正統的なキリスト教信仰に到達しているとは、決して言えません。先にも述べたように、ここで大切なのは、「人の心が動き始めた」ということです。一方、もてなす人、他方、もてなされる人という人間関係に、(くさび)が打ち込まれました。パウロはじめ「わたしたち」を支配している主イエス・キリストなる神を信じる、その(とびら)が開かれました。

 

Ⅱ パウロは行って祈り、手を置いていやした                

使徒言行録28: 7-10――

7 さて、この場所の近くに、島の長官でプブリウスという人の所有地があった。彼はわたしたちを歓迎して、三日間、手厚く(=親切にもてなしてくれた8 ときに、プブリウスの父親が熱病と下痢(げり)で床についていたので、パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした。9 このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった。10 それで、彼らはわたしたちに深く敬意を表し、船出のときには、わたしたちに必要な物を持って来てくれた。

パウロによる奇跡物語の二つ目になります。ここでは、「親切にもてなした」という行為が、「島の長官プブリウス」によって()されました。この人の謙遜さが内示されている(いつ)()です。

その「三日間」の中で、「島の長官」にとっても想定外であったでしょうが、パウロが「プブリウスの父親」の病気を治しました。

パウロはその家に行って祈り、手を置いていやした」というのは、主イエスの癒やしの業そのものであります(ルカ4:40)。物語のパターン構成上、中心となる②において、まさに主イエス・キリストによる不思議な業が指し示されています。「このことがあったので、島のほかの病人たちもやって来て、いやしてもらった」というのは、ガリラヤ湖半の、「イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやした」(マルコ1:34)との出来事を思い起こさせます。

キリスト者である「わたしたち」にとって重要なのは、②での神の働きによって、①から③へという大転換が「知られざる神」(使徒17:23)を(あが)めていた人々に生じたということです。

(使徒28:1-10)で読んだ、パウロはじめ「わたしたち」の滞在が、マルタ島におけるキリスト教伝道の(こう)()(最初)であります。実際のところ、これだけでは、証拠は不十分かも知れませんが、漂着して来た人との出会いは、島民にとって後世に残る出来事となりました。

あくまでも現代の統計ですが、マルタ共和国の約51万人の内、98%がローマ・カトリックの信者です。間違いなく、パウロによって、「(たね)()かれぬ地」(エレミヤ書2:2)に伝道の(くわ)が入れられました。

 

Ⅲ 南風が吹いて来た              

使徒言行録28: 11-13――

11 三か月後、わたしたちは、この島で冬を越していたアレクサンドリアの船に乗って出航した。ディオスクロイを(ふな)(じるし)とする船であった。12 わたしたちは、シラクサに寄港して三日間そこに滞在し、13 ここから海岸沿いに進み、レギオンに着いた。一日たつと、南風が吹いて来たので、二日でプテオリに入港した。

この日から、およそ800km22日かけてのローマへの旅が始まりました。2月末または3月の()い日」のことでありました。「プテオリ入港」までが海路で、あとはイタリア半島・陸路となります。

冬の航海は危険である(使徒27:9)との知見を踏まえつつ、パウロは「今日」という時が来るのを待ちました。「苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生む」(ローマ5:3-4)との言葉は、ローマの信徒のみならず、パウロ自身の胸の内にも刻まれていました。

故松永希久夫氏は、「風を待つパウロ」と題して、伝道者の姿を浮き彫りにしています。その風を受けて、船は「レギオン」から「プテオリ」へ、イタリア半島沿いに北上して行きました。

「そこ(使徒言行録の航海日誌・旅程表)には、『風を待つパウロ』とでも呼ぶべき姿が行間に(にじ)み出ている。既述せるごとく、パウロのローマへの伝道旅行は、自分の意志による自由な旅によるものではなかった。…(中略)… 暴風雨があって船は流され、難破する。人間の計画は(こわ)され、伝道者の意志や主体性は(こっ)()()(じん)に打ち砕かれる。…(中略)… 伝道者の生活は、希望を失わず信じて待つ所に成立する。最後には、南風が目的地に送ってくれるのである。」(「説教者のための聖書講解」より)

聖書を熟読していたパウロのこと、次の詩編も愛唱していたことでしょう。主のもとから風が出て」(民数記11:31、マナを()らせ、イスラエルの民に食べさせた(詩編78:24)……(おさな)(ごころ)に、忘れられない話でありました。

 

Ⅳ 神は南風を吹き巡らせた  

詩編78:26-28――

26 神は東風を天から送り

御力をもって南風を起こし

27 彼らの上に肉を(ちり)のように()らせ

(つばさ)ある鳥を海辺の砂のように()らせ

28 彼らの陣営の中に

宿る所の周りに落としてくださった。

詩編78:26後半を直訳すると、「神は力をふるって南風を操縦された(原文:ナーハグ drive)」となります。こうして、貪欲なイスラエルの民(詩編78:18,29、)が、(あめ)なる神に依り頼むように導かれました。

神は意のままに風を(あやつ)り、食糧を目的地(彼らの陣営)に正確に運ばれます(落としてくださった)。これって、なんだか、「買い物支援」ドローンみたい、でしょうか。日本国内の或る地区では、ドローン(drone 無人機)を使って、食料品を配送する実証実験が行われています。三千年以上も前、神は、荒れ野を放浪する民の食生活を支えてくださいました。たとえ荒れ野が不毛の地に見えようとも、そこには、神の遣わされた聖霊の風が吹き巡っています。わたしたちの人生の「荒れ野」においても、聖霊の導きと助けが欠けることはありません。 

一日たつと、南風が吹いて来た」というように、「」を知るには、祈って待つことが大切です。そして、神が送ってくださるものを、しっかりと受け止めることです。わたしたちが神の国を目指すとき、聖霊に頼り、その「」の導くままに歩んで行くこと……そのように、ローマへのパウロの旅・最終章は、わたしたちに教えています。  

       

Ⅴ こうして、わたしたちはローマに着いた             

使徒言行録28:14-16――

14 わたしたちはそこで兄弟たちを見つけ、()われるままに七日間滞在した。こうして、わたしたちはローマに着いた。15 ローマからは、兄弟たちがわたしたちのことを聞き伝えて、アピイフォルムとトレス・タベルネまで迎えに来てくれた。パウロは彼らを見て、神に感謝し、勇気づけられた。16 わたしたちがローマに入ったとき、パウロは番兵を一人つけられたが、自分だけで住むことを許された。

パウロはじめ「わたしたち」は、最後の停泊港・プテオリで「七日間」過ごしました(類例:使徒21:4 ティルスの港での七日間の滞在)。当然、主の日(日曜日)が含まれます。ということは、イタリア本土に上陸したとき、神に感謝し、前途の平安を願って、礼拝したということです。洪水後、箱船から()りて来たノアが「主のために祭壇を築いて」(創世記8:20)、礼拝したことを思い起こさせます。「プテオリ」での礼拝には、この地方の「兄弟たち」も一緒でしたので、喜びもひとしおだったことでしょう。

こうして、わたしたちはローマに着いた」……目的地に到達して、「わたしたち」はローマの「兄弟たち」と一つとなりました。エルサレムでの、「()(じゅん)(さい)の日が来て、一同が一つになって集まっていると……」という記念の出来事を、ここローマでも祝えるように導かれました。

このように、わたしたちが初めの「聖霊降臨祭」を記念するとき、神は「わたしたち」の教会にふさわしい礼拝とその伝道を用意してくださいます。聖霊の風によって、「わたしたち」の思いをはるかに超える神の御業と御言葉が現れ出てきます。

 

使徒言行録、もとへ、聖霊行伝における、ローマへの旅は、神の計画されたものでありました。パウロが追体験した、主イエスの「癒やし」の奇跡、「南風」によるマナ降臨、そして「箱舟」下船後の神礼拝などの出来事は、これが、神の備えたもうた旅路であることを雄弁に物語っています。

最後になりますが、「聖霊」と南風って、ほんとうに関係があるのでしょうか? という質問にお答えしましょう。

使徒言行録を読むかぎり、南風(使徒27:1328:13聖霊の力が被造世界に行き渡っていることを証ししています(ルカ福音書には同一の語が「」〔11:3112:5513:29〕の意味で3回出ています)。聖霊(はら)んだ南風のおかげで、被造世界の船も人間も、目指すところに運ばれて行きました。「南風」は間違いなく、被造世界を構成する大切なものです。

民の不平とモーセの祈りを聴かれた神の応答として、「そこで、風が主のもとから出発した」(民数記11:31 私訳)という出来事が起こりました。神がその(あやつ)っておられます(詩編78:26)。

湘南地方、「南風」の心地よい土地に住まわされていることに感謝します。わたしたちの教会とこの地方が「聖霊の風」に包まれる「()い日」でありますように、お祈りしましょう。     

Ω

 

      

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