礼拝、説教

新型コロナウィルス感染症に関する対応として、

2020年4月5日(日)からも、当面の間、教会に集合した形式での主日礼拝を行わず、
各家庭において礼拝を守ることと致します。

 

(※下記に添付されている録音には、前奏・説教・祈祷・讃美歌(1曲)が入っています。)

 

主日礼拝 2020年 5月24日  

復活節第7主日

 

 

前奏

招詞   詩編48編 2節~4節

頌栄   544

主の祈り  (交読文 表紙裏)

讃美歌  79 

交読文  20 詩編67編

旧約聖書 列王記上21章1節~24節(P.570)

新約聖書 使徒言行録6章8節~11節(P.223)

祈祷

讃美歌  128

説教   「あなたの隣人について偽証してはならない」

               小河信一 牧師 (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  276(※下記に録音されています)

 

使徒信条 (交読文 P1)

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2020年5月24日説教「あなたの隣人について偽証してはならない」
列王記上21章1節~24節
使徒言行録6章8節~11節
200523_0024.MP3
MP3 オーディオファイル 34.9 MB
2020年5月17日説教「神の愛から引き離すことはできない」
ローマの信徒への手紙 8章35節~39節
ローマの信徒への手紙8:35-39.MP3
MP3 オーディオファイル 26.7 MB
2020年5月10日説教「イエスの足に口づけする女」
ルカによる福音書7章36節~50節
200509_0022.MP3
MP3 オーディオファイル 34.1 MB
「わたしの業を信じなさい」
詩編82編5節~7節
ヨハネによる福音書10章22節~42節
200502_0020.MP3
MP3 オーディオファイル 39.3 MB
「エリヤが『主よ、もう十分です』と言った時」 小河信一 牧師
列王記上19章1節~18節
ローマの信徒への手紙11章1節~4節
列王記上19:1-18 説教 2020年04月26日 茅ヶ崎香川教会 録音.MP
MP3 オーディオファイル 34.4 MB
2020年4月19日説教「もし神 我らの味方ならば」讃美歌154番
詩編118編 5節~9節
ローマの信徒への手紙8章31節~34節
ローマの信徒への手紙8:31-34 説教.MP3
MP3 オーディオファイル 27.7 MB
2020年4月12日説教「一人、二人、そして十一人に現れる」
エレミヤ書8章17節
マルコによる福音書16章9節~20節
200411 説教.MP3
MP3 オーディオファイル 29.5 MB

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2020年 5月24日説教要約  復活節第7主日

小河信一牧師 

 

旧約聖書 列王記上 21章1節~24節P.570

 

新約聖書 使徒言行録 6章8節~11節(P.223

 

説 教「あなたの隣人について偽証してはならない」 小河信一牧師 

讃美歌 276

 

 

 

本日は、旧約の講解説教、預言者エリヤの物語の続きを行います。

 

初めに、前回の出来事、簡潔に列王記上19章を思い起こしましょう

 

ある時、エリヤは「明日のこの時刻までに」お前の命を取る(列王記上19:2)というイゼベルの、彼への殺害計画を耳にします。イゼベルというのは、北イスラエル王国の当時の王アハブの妻です。

 

荒れ野に逃げ込んだエリヤは、「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください」(列王記上19:4)とつぶやくほどに落ち込んでしまいました。

 

その時、エリヤを救い出したのが、主なる神の顕現と御言葉でありました。

 

見よ、そのとき主が通り過ぎて行く」(列王記上19:11)という呼びかけと共に、エリヤは神の現れに接しました。さらに、エリヤがしっかりと立ち上がるように、主は彼に「静かにささやく声が聞こえた」(列王記上19:12)という御言葉の傾聴体験をさせました。そのような形で、エリヤは主からの究極の弟子訓練を受けたのです。主なる神はエリヤを、死の恐怖の(ふち)から助け出し、神の恵みと命の豊かさを言い広める預言者として、(つか)わされました。

 

さて、列王記上21章ですが、またしても、あのイゼベルが登場してきます。究極の弟子訓練を経たエリヤは、イゼベルに立ち向かうことができるのでしょうか? 果たして、どうなることでしょうか?

 

列王記上21章は、二つの部分に分けられます(E.ウュルトワイン『ATD旧約聖書註解』)。

 

21:1-16  生き生きとした緊張感にあふれる叙述の仕方による出来事または会話

 

21:17-29 エリヤを通じた神の語り

 

前半の登場人物は、ナボト、アハブとイゼベル、町の長老と貴族、二人のならず者、そして町の民です。エリヤが姿を見せていないのが気になります 「真打ち登場はあとのお楽しみ」は、いかにもドラマ仕立てですが……

 

後半②では、エリヤが神の言葉を、アハブに向かって、彼とその妻に対する裁きを告げます。ここでは、エリヤは御言葉の伝達者に徹しています。これはまさに、弟子訓練の成果ではないでしょうか。

 

それでは、①列王記上21:1-16の内容を()み取りましょう。

 

列王記上21:1-2―― 

 

1 これらの出来事の後のことである。イズレエルの人ナボトは、イズレエルにぶどう畑を持っていた。畑はサマリアの王アハブの宮殿のそばにあった。2 アハブはナボトに話を持ちかけた。「お前のぶどう畑を(ゆず)ってくれ。わたしの宮殿(原文:すぐ隣にあるので、それをわたしの菜園にしたい。その代わり、お前にはもっと良いぶどう畑を与えよう。もし望むなら、それに相当する代金を銀で支払ってもよい。」

 

一見、遠い世界の事のように思われるかも知れませんが、意外に私たちの身近な話です。キーワードは、「そばに」・「すぐ(となり)」という言葉です。つまり、アハブとナボトは、別荘地における別荘の所有者と地元民という関係にあるということです。

 

ギルボア山の麓、イズレエルという町に、「王アハブの宮殿」、家があった、それは王が冬に過ごす別荘であった、そして、その王の家の隣には、ナボトという男のぶどう畑があったということです。今日、隣家との問題がありふれたことであるのは、私たちも知っての通りで。

 

「隣人同士」なので、という前提と共に、この場合、アハブとナボトとの身分や職業の違いも、(あらそ)を誘発しこじらせる要因となっています。これもありがちなことで、なかなか隣人と「対等」に付き合えません。

 

列王記上21:3――

 

ナボトはアハブに、「先祖から伝わる()(ぎょう)の土地を(ゆず)ることなど、主にかけてわたしにはできません」と言った。

 

神はいつも「土地を(ゆず)ること」を禁止されるわけではないと考えられますので、ナボトの王への回答は「(しゃく)()(じょう)()」とも言えます。しかし、ナボトが主なる神を(あお)ぎつつ、権力者に正々堂々と「ノー」と言ったのは賢明なことでありました。いずれにしても、「相当する代金」で(いく)であれ、いきなり、隣家の「ぶどう畑」を譲ってください、なんて「顔を洗って出直せ」と言いたくなる話です。

 

今日の説教は、十戒に即しながら、人間の罪を洗い出していくことにします。では、列王記上21章冒頭のアハブ王の言動によって、十戒のどこが破られそうになったのでしょうか。出エジプト記20章ではなく、申命記5章にある十戒がこの場合、適切ですので引用しましょう。

 

申命記5:21 十戒の第10戒――

 

「あなたの隣人の妻を欲してはならない。隣人の家、、男女の奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲しがってはならない。」

 

 主なる神は先刻、アハブの罪を見抜いておられました。きちんと、「隣人の畑を欲しがってはならない」と書いてあります。王宮に「十戒」は張っていなかったのでしょうか。

 

今日は十戒のうち、三つの戒めが破られたことを説明しますが、物語がこの10戒の軽視を発端(ほったん)としていることは意味のあることです。

 

10戒が戒めているむさぼりは、目で犯す罪と言われています。「妻、家、畑など、隣人のもの」を目にするまたは(なが)めることから、貪欲(どんよく)が頭をもたげてきます。見て欲しくなり、一端に手に入れれば、さらに眺めて、もっと欲しくなります。「口にくつわをはめる」(ヤコブの手紙3:3)ことで、口は制御可能ですが、目はそうはいきません(参照:マタイ5:27-29姦淫(かんいん)してはならない」)。

 

 アハブという「悪い王様」だから、隣人のぶどう園、まさに()(うつ)りするものを欲しがったというのではなく、彼が「普通の人間」だから、なのです。この点で、ナボトとアハブという隣人同士の出来事は、今のわたしわたしの隣人のもの、とも言えるでありましょう。列王記上21章は、「わたしあなた」という読者を巻き込んで始められました。次にどう展開するのでしょうか? これも、「あるある」です

 

列王記上21:5-7―― 

 

5 妻のイゼベルが(アハズのところに)来て、「どうしてそんなに御機嫌が悪く、食事もなさらないのですか」と尋ねると、6 彼は妻に語った。「イズレエルの人ナボトに、彼のぶどう畑をわたしに銀で買い取らせるか、あるいは望むなら代わりの畑と取り替えさせるか、いずれにしても譲ってくれと申し入れたが、畑は譲れないと言うのだ。」 7 妻のイゼベルは王に言った。「今イスラエルを支配しているのはあなたです。起きて食事をし、元気を出してください。わたしがイズレエルの人ナボトのぶどう畑を手に入れてあげましょう。」

 

 (るい)は友を呼ぶ……親密な夫婦だから仕方ない、のでしょうか。悪事は簡単には終息しません。

 

妻が、食事も取らず元気を無くしている夫(列王記上21:4)から打ち明け話を聞きました。困っている夫に妻が「思いやり」をもって語りかけるというのは、日常茶飯の事です。

 

問題はここで再度、十戒破りが行われたということです。初めは、夫への「思いやり」でしたが、妻は夫そっちのけで、用意周到な計略を立てました。それは、目で犯す罪から、口が犯す罪へと展開していきます。

 

列王記上21:8-10―― 

 

   8 イゼベルはアハブの名で手紙を書き、アハブの印を押して封をし、その手紙をナボトのいる町に住む長老と貴族に送った。9 その手紙にはこう書かれていた。「断食を布告し、ナボトを民の最前列に座らせよ。10 ならず者を二人彼に向かって座らせ、ナボトが神と王とを呪った、と証言させよ。こうしてナボトを引き出し、石で打ち殺せ。」

 

ぶどう園の所有者ナボトを「消す」という策略中の秘策は、「偽証」です。イゼベルは、「ナボトが神と王とを呪った」という「偽証」をあたかも、正しい「証言」であるかのように、発言させる舞台を整えました。神は、決してこのようなことを為してはならぬ、とモーセに告げておられました。

 

出エジプト記20:16 十戒の第9戒――

 

隣人に関して偽証してはならない。

 

偽証してはならない」を直訳すると、「(いつわ)りの証人として答えてはならない」となります。

 

「ならず者」はまさしく「偽りの証人」です。「ならず者」というのは、「破滅をもたらす」者というのが、原意です。ナボトの「ぶどう園」という財産を破滅させた、その通りです。しかし、私たちにとって、もっと深刻なのは、「破滅をもたらす」者の偽証によって、ナボトとアハズという隣人関係が破滅させられたということです。

 

ここで、目で犯す罪から口が犯す罪へ、第9戒から第10戒への展開を跡づけておきましょう。

 

むさぼりの罪(第9戒)は、「もっと欲しい」と言って、隣人から、有形無形・さまざまなものを(うば)おうとします。奪うことをターゲットにした相手を、さげすみあやつろうとします。さらに、その相手から奪い続ける中で、相手をいじめぬき(おとし)め、相手に対し()るがすような偽証すること10戒)へと至ります。

 

隣人が何と訴えようと、自分の「証言」が正しいと言い張ります。イゼベルが夫はもちろんのこと、町の長老と貴族、二人のならず者、そして町の民を、()(じん)に囲い込んだのは、隣人を本気で「つぶす」と考えていたからです。ここで、本日、提示する三つ目の十戒破り、究極の犯罪が実行されました。

 

列王記上21:12-13―― 

 

  12 彼らは断食(だんじき)を布告し、ナボトを民の最前列に座らせた。13 ならず者も二人来てナボトに向かって座った。ならず者たちは民の前でナボトに対して証言し、「ナボトは神と王とを呪った」と言った。人々は彼を町の外に引き出し、石で打ち殺した

 

石で打ち殺した」のは、「殺してはならない」(出エジプト記20:13)という第6戒の違犯です。

 

ここで聖書本文は、「断食(だんじき)」の布告と、ナボトの裁判の因果関係をつまびらかにしていません。その聖書記者も気づいていたであろう沈黙(説明不足)は、裏を返せば、()(ちゃ)()(ちゃ)ナボトの裁判の実態を表しているのではないでしょうか。「断食(だんじき)」の布告が意味不明であれ、要はナボトに冤罪(えんざい)着せればよいのです。

 

このような意味不明な裁判に引き出された人が、ナボトの他にもおりました。偽証(第10戒)から殺人(第6戒)へと至るというストーリーも、同一です。

 

使徒言行録6:9-11――

 

9 ところが、キレネとアレクサンドリアの出身者で、いわゆる「解放された奴隷の会堂」に属する人々、またキリキア州とアジア州出身の人々などのある者たちが立ち上がり、ステファノと議論した。10 しかし、彼が知恵と“霊”とによって語るので、歯が立たなかった。11 そこで、彼らは人々を(そそのか)して、「わたしたちは、あの男がモーセと神を冒する言葉を()くのを聞いた」と言わせた。

 

ステファノは、初代教会の伝道者であり、最初の殉教者です。

 

人々を(そそのか)して」とは、「人々を買収し扇動して」という意味です。「あの男がモーセと神を冒する言葉を()くのを聞いた」というのは、偽りの証言です。真実に「神を冒する」ならば、「神をののしってはならない」(出エジプト記22:27)、「神の御名を(のろ)うならば、寄留する者も土地に生まれた者も同じく、死刑に処せられる」(レビ記24:16)という重い刑に処せられますが、ステファノもナボトも、それに当てはまりません。

 

しかし、人々は大声で「ステファノ目がけて一斉(いっせい)(おそ)いかかり、都の外に引きずり出して石を投げ」、殺害しました(使徒言行録7:57-59)。無実の人が「町の外」(列王記上21:13)または「都の外」で()き者にされたということが、繰り返されました(参照:ヨハネ19:20 主イエスが町の外で十字架につけられたことについて)。

 

列王記上21章に戻りましょう。エリヤは、その後半②21:17-29「エリヤを通じた神の語り」で、何と言ったのでしょうか。

 

列王記上21:17-19――

 

17 そのとき、主の言葉がティシュベ人エリヤに臨んだ。18 「直ちに下って行き、サマリアに住むイスラエルの王アハブに会え。彼はナボトのぶどう畑を自分のものにしようと下って来て、そこにいる。19 彼に告げよ。『主はこう言われる。あなたは人を殺したうえに、その人の所有物を自分のものにしようとするのか。』」

 

エリヤは、主の言葉を通して、アハブやイゼベルが十戒(第6戒と第10戒)を破ったことを告知しています。預言者は、主の言葉を語りきっています。もはや、イゼベルの魔の手を恐れていません。

 

主なる神は、ひと(たび)民により十戒違犯が行われたのち、再び民に十戒を授けられました(出エジプト記34章、申命記5章)。従って、神がエリヤに託したメッセージは、「あなたたちを断罪(だんざい)するのではない。悔い改めよ」ということになるでしょう。

 

人々の罪の恐ろしさが(あら)わにされました。しかしそこで、まことの悔い改めの道 in Christ Jesus キリスト・イエスによって」(ローマ8:1,39)、開かれました。

 

なぜなら、主イエス・キリストご自身、人々の偽証(マタイ26:65)によって十字架につけられ殺されたお方だからです。主は人間の犯した偽証と殺害の罪を、十字架において受け止めてくださいました。

 

ルカ福音書23:34 十字架上で――

 

そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお(ゆる)しください。自分が何をしているのか知らないのです。」

 

人間は、滅茶苦茶な「ナボトの裁判」に象徴されるように、「自分が何をしているのか知らない」ままに大きな罪を犯すことがあります。主イエスはそのような私たちを、十字架上で()()してくださいました。私たちのために、真剣に祈ってくださいました。

 

主イエス・キリストは私たちの罪を赦し、私たちが神と隣人とを愛する者として悔い改めるように、十字架と復活によって大きな愛をあらわしてくださいました。

 

人間の罪によって汚されたナボトの「ぶどう畑」は元来、神の管理する「ぶどう畑」でありました(イザヤ書5:1-7、エレミヤ書2:21)。マタイ福音書20:1-16「ぶどう園の労働者の(たと)え」によればそれは「天の国」です。ところが、「ぶどう畑」の争奪(そうだつ)を描く列王記上21章には、罪深い者たちによる()(しょく)悪い食事」や「断食」の光景が繰り広げられていま21:7,12,27)。犬の群れや空の鳥が人の死体を「なめて」、「食べる」という有り様です(21:19,23,24)。

 

しかし今や、神の管理する「ぶどう畑」の中心に、イエス・キリストが「まことのぶどうの木」として立っておられます(ヨハネ15:1)。そこは、御子の十字架の()(しお)によってパンと(さかずき)の分かち与えられる所、すなわち、聖なる食事のなされる教会として再建されたのです。

 

父なる神と御子イエス・キリストとの御前に立ち、ひたすら聖霊の導きを祈って歩んでまいりましょう。

 

 

 

 

 

次週の予告 

 

2020年 5月24日  

 

聖霊降臨日(ペンテコステ) 聖霊降臨節 第1主日      日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

 

旧約聖書 ダニエル書 6章1節~4節(P.1390

 

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 1章11節~14節P.352

説 教「聖霊によって保証される」 小河信一牧師  讃美歌 228

 

2020年 5月17日説教要約

 

旧約聖書 詩編44編 23節(P.878)

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章35節~39節(P.285)

説 教「神の愛から引き離すことはできない」 小河信一牧師  讃美歌 321番

 

  

 

本日の聖書箇所、ローマの信徒への手紙8章・最終部において、この世的に分かりやすく言うならば、ベートーヴェンの第九・第四楽章「歓喜の歌」のような盛り上がりへと至ります。実際、ローマの信徒への手紙8:31-39は、「愛の(がい)()(勝利の歌)」とも呼ばれています。

 

前回、ローマの信徒への手紙8:31-34の説教で、「ここには、『勝利』ならびに『愛』という言葉は出て来ません。出て来るのは、ロマ(はち)の終わりの終わり、(本日のテキスト)8:35-39になってからです。ローマの信徒への手紙8:37に『勝利』が、また、8:35,38に『愛』が、8:37に『愛する』が登場します。聞き手の期待を引きつけに引きつけておいて、まさに(でん)()宝刀(ほうとう)を抜くかように、輝かしい勝利のうちに、キリストの愛を語って、終えるということです。心憎い説教術というよりも、福音を宣べ伝えるとは、そういうものなのでしょう」とお話しいたしました

 

では、パウロが最後に言い残しの無いよう、何を語ったのか、どんな切り口や文章構成で『勝利』と『愛』を歌い上げたのか、読んでいきましょう。大いなる伝道者の遺言(ゆいごん)を、しっかりと聴き取る「覚悟」をもって(のぞ)みましょう。

 

ローマの信徒への手紙8:35―― 

 

だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。(つるぎ)か。

 

ローマの信徒への手紙8:39―― 

 

高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです

 

いきなり、本日のテキストの最初と最後の節を掲げました。なぜなら、「(かゆ)いところに手が届く」パウロの並々(なみなみ)ならぬ配慮があらわれているからです。裏を返せば、パウロ先生は、私たちがちょっとしたこと((かゆ)みならぬ悩み)で、じたばたしてふらつくことを見抜いているのです。

 

ひと言でいえば、「引き離されるな」です。正確には、御父と御子キリストはあたながたが引き離されないように守るので、(やす)んじよ、ということです。とりわけ、最終の39節では、単に「引き離されない」から「引き離すことはできない」へと代えられ、信仰者に対する神の防御の鉄壁(てっぺき)なることが強調されています。

 

私たちが為すこと、それはただ「キリストの愛」にとどまりなさい(ヨハネ15:4,9)、ということです。ズバリと結論を打ち出す、それを(ふく)(しょう)する、説教の手本です。

 

ここでパウロは、「引き離されない」とか、「とどまる」とか、私たちの義務を強調しているのではありません。そうではなく、父なる神と御子イエス・キリストとが、私たちに注ぎ出してくださった「」への彼自身の喜びと感謝とを、人々に伝えたいのです。

 

御子をさえ惜しまず死に渡された方」(ローマ8:32による「神の愛」が、そして、「死んだ方、否、むしろ、復活させられた方、神の右に座っていて、わたしたちのために執り成してくださる方ローマ8:34による「キリストの愛」が、「死のうと生きようと私たちを捉えて(はな)さない」P.アルトハウス)のです。私たちが為すべきは、そのことに、心からの喜びと感謝をもって礼拝し生活してゆくということです。

 

ところで、パウロが「わたしたちを引き離すことはできない」と、深慮(しんりょ)をもって語っているのには、大きな理由があります。それは、ローマの信徒への手紙8:35-39に全面的に展開されている苦難や迫害によって、「わたしたち」の信仰が(あや)うくされるという問題です。

 

苦難や迫害について、パウロのここでの語り口は歯切れよく斬新(ざんしん)ですが、彼はすでにそのことに言及しています。

 

ローマの信徒への手紙8:18――

 

現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りないとわたしは思います。

 

ローマの信徒への手紙8:22――

 

被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。

 

人間のみならず、本来、「被造物」全体が、神の栄光を(うつ)し出しうるものです(詩編19:1-5)。しかし今、「被造物」と共に、「弱いわたしたち」(ローマ8:26)は「滅びへの隷属」(ローマ8:21)の下にうめき苦しんでいます。パウロは自らの体験をもって、「艱難(かんなん)か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。(つるぎ)」と数え上げています。以上、七つの「()(なん)目録が前置された上でさらに、創造者に反抗する宇宙の特色」(E.ケーゼマン 例:天使も…高い所にいるものも……)を表すの言葉が後置されています。

 

ローマの信徒への手紙8:38-39――

 

38 わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、39 高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

パウロは、苦難や迫害によって、私たちが神の愛から引き離されないように、祈り求めていたことが分かります。ここで、私たちは単純にも次のように思ってしまうかも知れません。

 

「そうだ、何が何でも神の愛にとどまり、苦難や迫害から逃げるようにしよう」と。

 

目に触れないよう、そこから逃げて()むのであれば、パウロは()(なん)17も提示しなかったでありましょう。

 

問題は、それらのうちに(いく)つを私たちが体験するか・克服するかではなく、一つ一つの苦しみを、信仰をもって受け止めるということなのです。ローマの教会の人々の信仰に訴えかけるべく、パウロは旧約から詩編44:23)を引用しました。

 

ローマの信徒への手紙8:36―― 

 

「わたしたちは、あなたのために

 

一日中死にさらされ、

 

(ほふ)られる羊のように見られている」

 

と書いてあるとおりです。

 

この引用句を読む最大のポイントは、「あなたのために」には、「主イエス・キリストのために」という意味が込められていると理解することです。主イエス・キリストは、「(ほふ)られる羊ように」十字架につけられ、「死にさらされ」殺されました。その「あなたのために」、私たちはあえて苦難をこうむるのです。自分の苦しみを主キリストの苦しみに重ね合わせて、主の(くびき)を負い、主に学ぶ(マタイ11:29)のです。十字架の主イエス・キリストのために、「あなたのために」、そうするのです。

 

 そのようにして、主キリストにつき従う私たちの人生が、挫折ばかりで希望の無いものではないことを、パウロはやはりすでに、私たちに教えてくれています。

 

ローマの信徒への手紙8:17―― 

 

もし子供であれば、相続人でもあります。神の相続人、しかもキリストと共同の相続人です。キリストと共に苦しむなら、共にその栄光をも受けるからです

 

キリストと共にその栄光をも受ける」とは、将来に向けての約束です。キリストと共に苦しみにあずかればこそ(そうして信仰を全うすれば)、再び来られるキリストと出会い、「死者の中からの復活」(フィリピ3:10-1)に達するという私たちへの約束が成し遂げられるのです。

 

と同時に、苦難や迫害に囲まれているとしても、その中心に主イエス・キリストがおられ、その主から「わたしたちを引き離すことはできない」という点において、信仰者の人生は、愛と平安に包まれています。

 

ローマの信徒への手紙8:37―― 

 

しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を(おさ)めています。

 

私たちは大勝利している……これは、何ものにも()るがされることのない事実です。永遠の真理です。

 

これらすべてのこと」には、まさにあらゆること、死と生、嘆きと喜び、憎しみと愛、戦いと平和(コヘレトの言葉3:1-8)、自然と超自然など、すべてが含まれています。その点では、主キリストに(なら)って、私たちは忍耐強く、「柔和で謙遜な者」(マタイ11:28)であることが求められます。「この苦難は、なぜ・何のために?」という問いを(かか)えて歩まねばならないこともあるでしょう。

 

しかし、私たち、教会に連なる者たちは、陸の孤島に住んでいるわけではありません。「わたしたちを愛してくださる方」、主イエス・キリストが、きのうも今日も、また永遠に私たちを「愛し続けて」おられます。「キリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために()()してくださるのです」(ローマ8:34)。主キリストは私たちを、愛をもって(しか)り、愛をもって裁かれるお方です。私たちの捧げた愛について、「この人が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる」(ルカ7:47)と、主キリストはおっしゃってくださいます。主は、私たちのささやかな愛を、豊かなものとして汲み取ってくださいます。

 

神の愛」によって、私たちは守られています。その「神の愛」が分からなくなったりしないよう、「主キリスト・イエス」の十字架と復活によって、「」をあらわしてくださいました。

 

ロマ(はち)の最初と最後の節を確かめて、説教を終わります。

 

ローマの信徒への手紙8:1――

 

従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。

 

ローマの信徒への手紙8:39―― 

 

高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです。

 

キリスト・イエスに結ばれて」と「キリスト・イエスによって」とは、英訳 in Christ Jesus の通り、原文では同じ句です。しかも、その句が両方の節の末尾に置かれています。さらに、39節の方には、パウロの、キリストを(とうと)信仰により、わたしたちの主」と付けられています。

 

ということは、パウロはロマ(はち)、「キリスト・イエスによって」で始め、「キリスト・イエスによって」で終えているということになります。前と(あと)キリスト・イエスによって」という句は、私たち・信仰者が「キリストの愛」によって(はさ)まれていることを宣言しています(参照:Ⅱコリント5:14 キリストの愛による板挟(いたばさ))。

 

それは、「わたしたちの主キリスト・イエスによって」というように、口ずさみやすいものです。それ自体が讃美であり、祈りの終わりに唱える句でもあります。

 

パウロはいつも、「キリスト・イエスによって」、 in Christ Jesus と唱え、「わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛」を思い起こしています。それによって、想像を絶するような苦難や迫害に囲まれていたパウロも、神の愛から引き離されることはない、と確信し続けることができたのです。

 

ロマ(はち)は、あなたの()(ゆう)(めい)(常に心にとめておく御言葉)、いつもあなたのそばにある御言葉です。あなたが座っている時も起きている時も寝ている時も、「キリストの愛」・「神の愛」はあなたから離れません。

 

ハレルヤ、アーメン

 

 

 

 

 

次週の予告 

 

2020年 5月24日  復活節第7主日                    日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

 

旧約聖書 列王記上 21章1節~24節P.570

 

新約聖書 使徒言行録 6章8節~11節(P.223

説 教「あなたの隣人について偽証してはならない」 小河信一牧師  讃美歌 276

 

       2020年 5月10日説教要約

 新約聖書 ルカによる福音書7章36節~50節  

    「イエスの足に口づけする女」 

                小河信一牧師

 

 

 

♪ガリラヤの風 かおるあたり

 

 あまつ()(くに)は (ちか)づけり、と  (讃美歌228番)

 

みどりの風の吹き巡る頃……例年、茅ヶ崎香川教会では、大人と子どもの合同礼拝を行う時節を迎えました。今年は残念ながら、(つど)っての礼拝をすることはかないませんが、香川教会が子どもから大人まで一つの家族であることを覚えて説教いたします。

 

ルカによる福音書7:36-50をお開きください。

 

初めに場面の様子を確認します。

 

主な登場人物は、三人、主イエス、罪深い女、そしてシモンです。

 

シモンというのは、ここでは、シモン・ペトロ、12弟子の一人ではありません。このシモンはファリサイ派に属する人で、一緒に食事をしようと、主イエスを自分の家に招きました。

 

ということで、場面はガリラヤ(ルカ4:315:17)の、シモンの家での食事の席ということになります。

 

主イエス、罪深い女、そしてシモンが現れて、ファリサイ派流に整えられた食卓で、いったい何が起こるのでしょうか? 期待いたしましょう。

 

罪深い女とシモンの二人について、もう少し紹介しましょう。

 

まず、罪深い女からです。

 

ご存知の通り、「香油を塗る(注ぐ)女」の話は四福音書に類似の記事があります。ルカ福音書では、この女性は無名で、「罪深い女」(ルカ7:37,39)とだけ言われています。シモンと同じ町の中に住んでいる人です。

 

そして、この女の態度には、他の三福音書(マタイ・マルコ・ヨハネ)と際立って違う点がありますが、それは後で見ることにしましょう。最後ですが、その読み手の目にはっきりと(うつ)る「罪深い女」の様子とは裏腹に、彼女の言葉はいっさい出て来ません。

 

次に、シモンについてです。

 

そもそも、なぜ、彼が主人として主イエスを食事に招いたのか、動機がよく分かりません。が、おそらく、主イエスから話を聞きたかったのでしょう。まだイエス・キリストへの信仰は持っていなかった、と見られます。

 

シモンという名は、ヘブライ語ではシメオンで、「聞く」という意味を持っています。その点から言うと、まだイエス・キリストの御言葉を十分に「聞いていない」シモンが、「聞く」人となれますように というメッセージが込められているのでしょう。実際、ルカ福音書7:36-50の、かなりの部分(同上7:39-47)が主イエスとシモンと対話から成り立っています。

 

罪深い女とシモンの紹介の最後になりますが、私たちは自分を、罪深い女のみならず、シモンとも重ね合わせることが大切です。これが、「香油を塗る(注ぐ)女」に焦点が合わせられている他の三福音書と違う点でもあります。つまり、その女性に注目するばかりでなく、シモンに注意せよ、ということです。それ故に、ルカ版はとても味わい深いものとなっています。

 

端的に言えば、「金貸しの譬え」は、シモンをターゲットにして語られたものです。後でお話しますが、「金貸しの譬え」(ルカ7:41-42)は、信仰者にとっては「やや変」なところがあります。しかし、自分を(かえり)みず謙遜さを欠いたシモンのような人を目覚めさせるには、まことに効果的な譬えであったのです。

 

それでは、ルカ福音書7:36-50の内容を読み取っていきましょう。

 

説き明かしが錯綜(さくそう)しないよう、まず、「罪深い女」に登場していただきましょう。この女性に関しては、ルカ福音書7:36-50のテキストでは、外枠のルカ7:37-39:44-50(特に最終の:48-50)に言及されています。

 

まず初めの方から、ルカ福音書7:37-38――

 

37 この町に一人の罪深い女がいた。イエスがファリサイ派の人の家に入って食事の席に着いておられるのを知り、香油の入った石膏(せっこう)(つぼ)を持って来て、38 後ろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらその足を涙でぬらし始め、自分の髪の毛でぬぐい、イエスの足に接吻(せっぷん)して香油を塗った。

 

どうですか、招かれざる客の、この圧倒的な存在感! 主イエスへの女の切なる想いによって、塗油(とゆ)は頭にするものだという「伝統的儀礼(レビ記14:18,29、ルカ7:46)が塗り替えられています。 

 

信仰とは、この女のようになりふり構わぬものだ、との賛辞も聞かれます。演劇鑑賞的な言い方かも知れませんが、女性の「この態度」が、あなたの目に焼き付いたならば、ルカ版「香油を塗る女」のメッセージは十分汲み取られたと言えましょう。

 

ちなみに、この女性の動きを、動詞で数えてみると、こうなります。

 

ルカ7:37(つぼ)を持って来て:38後ろから近寄り(現れて)、③泣きながら、④涙でぬらし始め、⑤髪の毛でぬぐい、⑥足に接吻(せっぷん)して、⑦香油を塗った、というように、七つに(のぼ)ります。福音書でこれに()(けん)するのは、父親(=神)による放蕩息子の歓迎の描写息子を見つけて憐れに思い走り寄って④首を抱き接吻した ルカ15:20-21,22-24)くらいでありましょうか。

 

一読して分かるように、「この態度」の上に、彼女の魂が、イエスに向かって、正確に言えば、イエスの足(ルカ7:38,38,38,44,44,45,46)に向かって、注ぎ出されています。香油の額(ヨハネ版〔ヨハネ12:5〕を参照すれば、300万円)も相当なのですが、こんなにも自分は、主イエスに、自分のすべてを捧げきっているか、と全く恐れ入ります。

 

そして、ここからが福音的な主題に関わるのですが、いったい、この態度、この行為は、どこから出て来たのでしょう。それを読み解く鍵が、次の一節にあります。

 

ルカ福音書7:47 主イエス→シモン――

 

「だから、言っておく。この人(女)が多くの罪を赦されたことは、わたしに示した愛の大きさで分かる。赦されることの少ない者は、愛することも少ない。」

 

下線部に注目していただきたいのですが、別の訳を(かか)げましょう。

 

「だから、私(イエス)はお前(シモン)に言うが、

 

彼女の大いなる愛が、彼女も数多い罪が赦されたことを証明しているのである。」(NEB 英訳より)

 

ここで読み取るべきことは、初めに多くの罪を赦された」ことです。つまり、罪深い女は、何もしなかったのに、罪が赦されていたということです(ローマ5:10、Ⅱコリント5:18)。そうです、あの七つの動詞に示される彼女の圧倒的な態度・行為があらわされる前に、彼女の罪は赦されていたのです。

 

そんなことが、あり得る?! いや、それが福音、喜びの知らせなのです。父なる神と子なるイエス・キリストは、彼女を赦し、救うことをあらかじめお定めになっておられました(ローマ8:29,30、エフェソ1:11)。ただ、その神による赦しが、出来事として現れたというのが、きょう(今)だったのです。

 

ただ女の行為の方が先ではないかといぶかる人は、後ろの外枠に、主イエスの赦しの宣言が出て来るのを見ておられるのかも知れませんね。

 

ルカ福音書7:48―― 

 

そして、イエスは女に、「あなたの罪は赦された」と言われた。

 

ギリシャ語の文法的な話になりますが、「あなたの罪は赦された」の「赦された」は完了形です。これは、ある動作が過去において完了して、その結果が現在に続いている、という意味です。

 

主イエスはきょう、シモンの家で、罪深い女に出会うことを知っておられました。そして、以前からお定めになっていた(完了していた)彼女への罪の赦しを、シモンや同席の人たちが見ている場で、宣言された、それが、「あなたの罪は赦された」なのです。

 

そこで、先の句の後半、「わたしに示した愛の大きさで分かる」との主イエスの言葉に注目しましょう。

 

罪の赦された女は、主イエスに「大いなる愛」を示し、感謝をあらわしました。彼女は、イエス・キリストの赦しの愛を信じたがゆえに、足を洗う女奴隷のごとく謙虚に振る舞いました。彼女は、イエス・キリストへの感謝として、大きな献げものを差し出し、お返ししたのです。もちろん、見返りなど求めずに……。

 

ルカ福音書7:50――

 

イエスは女に、「あなたの信仰があなたを救った。安心して(平和に)行きなさい」と言われた。

 

なんと配慮の深い、主イエスの御言葉なのでしょう。主イエスへの女の愛は、「信仰」において認証され、彼女の「信仰」は、主イエスの宣言によって(こう)(きゅう)的なものとなりました。

 

問題は、この女性がこれから「罪を赦された」者として生きてゆけるか、であります。そこで主は、「あなたは罪赦され救われたのだ、だから、あなたの信仰を堅く守りなさい」とおっしゃられます。彼女が「安心して(平和に)」歩んで行く中で、主イエス・キリストは、十字架と復活の出来事をもってあなたの信仰の土台を()えられるのです。

 

さて、これまで見た通りに、実際的に食事にお出でになった主イエスをもてなしたのは、家の主人シモンではなく、飛び入りして来たこの女性でありました。全身全霊をもってのへりくだりと、主に最後に宣言された「信仰」とをもって、主に仕えました。まさに私たちの学ぶべきところの多い信仰者です。

 

面目(めんぼく)丸つぶれのシモンですが、主イエスは食事の席で、ひたすらこのシモンに向かって語りかけました。

 

この説教の冒頭で、「自分を(かえり)みず謙遜さを欠いたシモン」とご紹介しました。「謙遜さを欠いた」というのは、女の、主に仕える態度に比べてのことです。シモンの具体的な振る舞い・行いについては何も記されていません。彼は石のように動こうとしないかのようです。では、「自分を省みず」という点は、どうでしょうか? その弱みが分かるのは、こんな譬え話を、主イエスがされたからです。親から「聞く」人と名付けられたシモンは、真意を聞き取ることができたのでしょうか。

 

ルカ福音書7:41-43――

 

41 イエスはお話しになった。「ある金貸しから、二人の人が金を借りていた。一人は五百デナリオン、もう一人は五十デナリオンである。42 二人には返す金がなかったので、金貸しは両方の借金を(ちょう)()しにしてやった。二人のうち、どちらが多くその金貸しを愛するだろうか。」 43 シモンは、「帳消しにしてもらった額の多い方だと思います」と答えた。イエスは、「そのとおりだ」と言われた。                     ※1デナリオン=1日の賃金に当たる。

 

これは、この世の次元の話題であり、この中に示されているのは、相互()(けい)の原則だと言われます(三好迪『新共同訳 新約聖書注解Ⅰ』、305頁)。五百デナリオン帳消しにしてもらった人は、それ相当の愛を、また、五十デナリオン帳消しにしてもらった人は、それ相当の愛を、金貸しとの間で()わすというのが、「互恵」(互いに恵まれる)ということでしょう。

 

シモンが「聞いた」とすれば、罪深い女を「五百デナリオン帳消しにしてもらった人」に(参照:ルカ7:39,47)、そして、自分を「五十デナリオン帳消しにしてもらった人」に当てはめた、ということです。そのようにして、主イエスは聞く耳を持たなかったシモンを()さぶられたのです。

 

町でも評判の「罪深い女」を見れば(今シモンの目の前にいます)、「借金」が罪の負い目であること、そして、女の態度を見れば、「愛する」とはなりふり構わず主イエスに仕え尽くすことだと、認めざるを得ません。そこが、シモンに向けられたこの譬え話のツボなのです。そのようにして、シモンは自分も、同席の人たちも、すべて罪人であると気づかされました。

 

でもさっき、これは信仰者にとっては「やや変」なところがあると指摘したのは、どういう訳でしょう。もうすでに察知された方もあるかと思います。それは、あの人の罪は「五百デナリオン」、この人の罪は「五十デナリオン」と値踏(ねぶ)みすることは、「信仰」の世界ではあり得ませんね、ということです。

 

信仰者は、自分の「大きな」罪を省み、悔い改めます。そして、「香油を塗った女」のように、全力投球で、神と隣人に愛の業をあらわします。自分の「大きな」罪を超えて(それ相当のではなく)、感謝と讃美をささげるのです。

 

信仰の本質から観れば、「金貸しの譬え話」は、「やや変」ですが、主イエス・罪深い女・シモンがいた場での「譬え話」としては的確なものであったのでしょう。

 

自分の思う型の中で「祈る」、また、自分の好む形で「聖書を読む」……そのような良い習慣が、時に信仰の弱体化をもたらします。それは、厳格主義のファリサイ派、シモンの(おちい)りやすいことでありました。

 

特効薬の「金貸しの譬え話」で、シモンが目覚めさせられたならば、彼のそばに、「信仰」を教えてくれる人が、今や伝道する相手を求めている女性がいることに目を向けることでしょう。

 

ルカ福音書19:9-10――

 

9 イエスは言われた。「今日、救いがこの家を訪れた。この人もアブラハムの子なのだから。

 

10 人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである。」

 

その女性と同様に(否、それ以上に)、自分は罪深い者である、もう自分は罪の重荷に耐えきれません、と、シモンや同席の人たちが罪の告白をするならば、主イエスが今、食事をしておられる家、そこが、ガリラヤ・最初の教会となることでしょう。私たち・茅ヶ崎香川教会も、食卓を中心とするその教会の、神の赦しと救い、人々の愛の(わざ)平和にあずかれますようにとお祈りいたします。

 

 

 

 

 

次週の予告 

 

2020年 5月17日  復活節第6主日                    日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

 

旧約聖書 詩編44編 23節(P.878

 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章35節~39節P.285

 

説教「神の愛から引き離すことはできない」小河信一牧師  

讃美歌 321番 

 

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                               2020年 5月3日説教要約            

 

旧約聖書 詩編82編 5節~7節(P.920

新約聖書 ヨハネによる福音書 10章22節~42節P.187

 

       「わたしの(わざ)を信じなさい」 

                   小河信一牧師  

  

 

本日は、ヨハネによる福音書・講解説教の続きを行います(中心聖句は、ヨハネ10:27-2810:38)。

 

これまで、この福音書に繰り返し出てきた言葉に、次のようなものがあります。

 

ヨハネ福音書7:30――

 

人々はイエスを()らえようとしたが、手をかける者はいなかった。イエスの時はまだ来ていなかったからである。 ⇒他に、ヨハネ2:47:68:20

 

そこで、福音書記者の告知した「イエスの時はまだ来ていなかった」という時間軸に心を留めながら、説教いたしましょう。つまり、今回のテキストにおいても、「イエスの時はまだ来ていなかった」にもかかわらず、一体、主イエスとユダヤ人たちの間で、何が起こっているのか、ということを捉えます。そして、「まだ来ていなかった」と言われる「イエスの時」は、近づいているのか、まだまだ遠いのか、そして、「イエスの時」とは一体、何かということです。

 

それでは、具体的にヨハネ福音書10:22-42の時季設定を見てみましょう。

 

ヨハネ福音書10:22-23――

 

22 そのころ、エルサレムで神殿奉献記念祭が行われた。冬であった。23 イエスは、神殿の境内でソロモンの回廊(かいろう)を歩いておられた。

 

神殿奉献記念祭」は、「宮清めの祭り」(ヘブライ語:ハヌカ)とも呼ばれるもので、冬の11月~12月頃に催されます。これは、ユダヤ人にとって伝統的な行事で、詩編30編には「神殿奉献の歌」という(ただ)し書きが見られます。ハヌカは(とう)()をともす「光の祭り」ですから、闇の中に、神殿の境内でソロモンの回廊(かいろう)を歩いておられた」主イエスが照らし出されていた様子が目に浮かびます。

 

ヨハネ福音書記者の丁寧な時季設定を、一つさかのぼってみましょう。

 

ヨハネ福音書7:2――

 

ときに、ユダヤ人の仮庵(かりいお)(さい)が近づいていた。

 

ヨハネ福音書7: 37――

 

祭り(仮庵祭)が最も盛大に祝われる終わりの日に、イエスは立ち上がって大声で言われた。

 

(かわ)いている人はだれでも、わたしのところに来て飲みなさい。」

 

仮庵(かりいお)(さい)」(ヘブライ語:スコット)は秋の9月~10月頃に催されます。霊的な水を「飲みなさい」との主イエスの招きと連動することですが、当地では、初秋より雨期に入ります。

 

今、説教の前置きとして、ヨハネ福音書10:22-42の時季設定を確認したのは、二つのことのためです。

 

①「イエスの時はまだ来ていなかった」と反復される中でも、時は過ぎていたということ。

 

さらに言えば、「イエスの時」に向かって着実に進んでいたということ。

 

ただし、〈秋〉「仮庵祭」の時も、〈冬〉「神殿奉献記念祭」の時も、「イエスの時」ではなかったということ。

 

②「仮庵祭」から「神殿奉献記念祭」へと至る中で、主イエスとファリサイ派の人々またはユダヤ人たちは、延々と議論を続けていたということ。

 

 言い換えれば、かたくなな彼らに対し、主イエスは忍耐をもって接しておられたということ。

 

 その論争の過程において、主イエスは(わざ)と言葉によって、「イエスとは何者であるか」をあらわされました。

 

では、ヨハネ福音書10:22-42の内容を読み取っていきましょう。

 

中心聖句〉ヨハネ福音書10:26-28 主イエス→ユダヤ人たち――

 

26 「しかし、あなたたちは信じない。わたしの羊ではないからである。27 わたしの羊はわたしの声を聞き分ける。わたしは彼らを知っており、彼らはわたしに従う。28 わたしは彼らに永遠の命を与える。彼らは決して滅びず、だれも彼らをわたしの手から奪うことはできない。」

 

ここに、主イエスの忍耐強さと、ユダヤ人たちの無理解とが明白です。「いつまで、わたしたちに気をもませるのか(不安のままにしておくのか)。もしメシアなら、はっきりそう言いなさい」(ヨハネ10:24)は全くの言いがかりで、主イエスは分かりやすく語っておられます。

 

主イエスは前段(ヨハネ10:1-18)の「良い羊飼い」の(たと)えを繰り返されています。主は「信じない」ユダヤ人の心を見通しながらも、反復理解をこころみておられます。聞き手に御言葉を、しっかり送り届けようとされています。

 

その、どうしようもない「ユダヤ人たち」の姿を余所(よそ)ごととするのではなく、私たちは「良い羊飼い」の(たと)えの要点を思い起こしましょう。

 

上の主イエスの文言で、最初に目を留めるべきは、❶「わたしは彼らを知っており」です(他に、Ⅰコリント8:3、ガラテヤ4:9)。すなわち、主イエスは、罪人なる自分を「知り」、「愛し」、「救い出し」てくださるお方です。罪の泥沼(どろぬま)に落ちてしまった私たちを(さが)し出してくださいます(マタイ18:12)。そして、「わたしの羊よ」と呼んでくださり、主イエスの囲いなる神の宮・教会に連れ戻してくださいます。

 

他方、主イエスが私たちに求めておられるのは、❷「わたしの声を聞き分ける」ことと、❸「わたしに従う」ことです。これも要領を得た、主イエスの語り口です。すなわち、私たちは為すべきことは、(この順序が大切です)❷御言葉を聞く→❸御言葉を行う(実際に従う)ということなのです。

 

さらにここで、主イエスは「良い羊飼い」の(たと)えを、新しく(深めて)説き明かしておられます。

 

それが、「わたしは彼らに永遠の命を与える」という言葉です。イエス・キリストによる救いを、最も明確に表している宣言です。

 

前段までの「良い羊飼い」の(たと)えで、主イエスは、わたしは羊のために命を捨てる」(ヨハネ10:15)ならびに「わたしは自分でそれを捨てる。わたしは命を捨てることもでき、それを再び受けることもできる」(ヨハネ10:18)と語られていましたが、ここで「再び受ける」というそのの内容、その豊かさがあらわされました。それが、「永遠の命」です。

 

繰り返しますが、❶「わたしは彼らを知っている」とは、「わたしは彼らを愛している」ということです。なぜなら、主イエスは御自身の命を捨ててまで、私たちに無償で「永遠の命」を与えてくださったからです。主イエスは(とうと)い代価を払って、私たちを赦し、私たちを御自分のものとしてくだったのです。

 

わたしと父とは一つである」(ヨハネ10:30)……この点で、主イエスは行いをもって❸「従う」・「ついて行く」ということの手本を示しておられます。御子は父の御心のもとに、一匹の羊を助け出すかのごとく、「一人も滅びない」(ヨハネ3:16、マタイ18:14)よう、今ユダヤ人たちと対面しておられます。

 

ヨハネ福音書10:31――

 

ユダヤ人たちは、イエスを石で打ち殺そうとして、また石を取り上げた。(補えば、しかし、イエスの時はまだ来ていなかったということです。)

 

イエスは殺される寸前です はらはらして、もう「イエスの時」は来ているのではないか、と思わせられます。しかし、殺意に取り囲まれようとも、主イエスは()(ぜん)として説き明かしを続けておられます。

 

ヨハネ福音書10:34――

 

そこで、イエスは言われた。「あなたたちの律法に、『わたしは言う。あなたたちは神々である』と書いてあるではないか。」

 

律法」というのは正確ではなく、これは詩編82:6からの引用です。主イエスは、ユダヤ人たちの土俵に入って論争されています。ここで、人間を「神々」と呼んでいいのかどうか、を議論するのではありません。

 

人間はこの詩編で「神々」と(しょう)されるほどに、御父なる神の目に(とうと)ものであります(イザヤ書43:4)。「それなら、父から聖なる者とされて世に遣わされたわたしが、『わたしは神の子である』と言ったからとて」、おかしなことではないであろう、ということなのです。

 

実際にはユダヤ人たちは、「わたしは神の子である」とのイエスの証言に対し、冒瀆(ぼうとく)の罪を言い渡しました(ヨハネ10:34)。しかし、これは、冒瀆でも偽証でもなく、真理でありました。

 

あなたは、人間なのに、自分を神としている」(ヨハネ10:33)というのは、イエス・キリストの真理に関わることなのです。

 

ヨハネ福音書1:14――

 

(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

肉となって」、神の子なるイエス・キリストが人々の前に現れました。「恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1:17)のです。

 

秋の祭りの時にも、冬の祭りの時にも、ユダヤ人たちの前に、主イエスが立っておられたのです。しかし、彼らはそのお方を見ようとも信じようともしませんでした。そうした中で、テキスト前半の「良い羊飼い」の(たと)えの説き明かしに続いて、主イエスが焦点を(しぼ)られたのは、次のことです。

 

中心聖句〉ヨハネ福音書10:37-38 主イエス→ユダヤ人たち――

 

37 もし、わたしが父の(わざ)を行っていないのであれば、わたしを信じなくてもよい38 しかし、行っているのであれば、わたしを信じなくても、その業を信じなさい。そうすれば、父がわたしの内におられ、わたしが父の内にいることを、あなたたちは知り、また悟るだろう。」

 

わたしを信じなくてもよい」とは、主イエスもずいぶん大胆なことを言われます。これは主イエスの真意ではなく、「しかし」以下に、注目させるための一種の論法です。「父の(わざ)を行っている」かどうかに、目を開きなさい、「父の業を行っている」かどうか、そこから信仰入門しなさい、ということなのです。

 

ここで、主イエスが言われる「その(わざ)を信じなさい」の、「その業」について、二つの例を挙げましょう。それは、①具体的な一つの「」と、②何ものにも代えられない唯一の「」、と言えるでしょう。

 

①の、イエスの「(わざ)」というは、つい最近、同じエルサレムの町の中で目撃されたことです。主イエスはユダヤ人たちが思い起こしやすい奇跡をもって、「その業」について教えられたのです。否定しようのない、身近な実例を引かれたのです。

 

生まれつきの盲人の癒し ヨハネ9:1-7

 

 時季設定としては、「仮庵祭」と「神殿奉献記念祭」との間に起こった出来事ということになります。

 

 ヨハネ福音書9:7――

 

そして(イエスは)、「シロアム――(つか)わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

 

主イエスの行われる奇跡は、人を驚かすためのものではなく、人を信仰へと導くためのものです。

 

この奇跡の本質は、目の見えない人が見えるようになったこと、ではありません。肉体的な意味で「見える」とか「見えない」とかいうことを超えて重要なのは、イエスが何者であるかが、「見える」のか、「見えない」のかということです。

 

ヨハネ福音書9:37-38――

 

37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」 38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと、

 

この人は、イエスが「見える」ようになりました。イエスが何者であるかが「見えた」のです。イエスこそ救い主であると分かりました。そのことが、「主よ、信じます」という告白によって言い表されています。

 

さて、①具体的な一つの「(わざ)」の次は、②何ものにも代えられない唯一の「(わざ)」です。しかし、「その(わざ)を信じなさい」(ヨハネ10:38)という②の「その(わざ)」に移る前に、次のヨハネ福音書記者の言葉を聞きましょう。

 

ヨハネ福音書10:39――

 

そこで、ユダヤ人たちはまたイエスを()らえようとしたが、イエスは彼らの手を(のが)れて、去って行かれた。(この箇所でも、イエスの時はまだ来ていなかったからである、を補わねばなりません。)

 

②の唯一無二の「その(わざ)」が、世にあらわされる「イエスの時」があります。その時が満ちるのは、〈冬〉の「神殿奉献記念祭」ではなく、〈冬〉を越して〈春〉が来た時の「(すぎ)(こし)(さい)」(ヨハネ12:119:14)であります。

 

すでに人間の罪深さは、主イエスに対する反逆、殺意、無理解において、あふれ出しそうです。それ故に、ゆっくりとではありますが、主イエスは十字架の道へ向けて歩み出されます。

 

説教の冒頭に、福音書記者の告知した「イエスの時はまだ来ていなかった」という時間軸に心を留めましょう、と言いました。その時間軸、時の流れにおいて見えてくるのは、この世の祭り、〈秋〉・〈冬〉・〈春〉をたどりながら、最後に、主イエス・キリストの十字架に行き着く旅路であります。

 

主イエスはこれから(いち)()、洗礼者ヨハネの活動していた所、ヨルダンの向こう側に退去されます(ヨハネ10:40-42)。「まだ来ていなかった」のは確かですけれども、刻々と「イエスの時」は迫って来ていました。

 

一つ一つの季節の祭りだけを追っているのでは、見えて来ない、神の整えられた、真っ直ぐな巡礼の旅であります。十字架の道行きです。その最大の目的こそ、「(すぎ)(こし)(さい)」において神の小羊として、主イエス・キリストが十字架につけられるということであり、その主の復活によって、悔い改める者に、「永遠の命」が与えられるということであります。これが、何ものにも代えられない唯一の(わざ)」なのです。主イエスはそれを「信じなさい」と言われます。

 

主よ、信じます」と告白するのか、それとも、大部分のユダヤ人たちのように、主に抵抗を続けるのか、その分かれ道に立つ私たちに向かって、主イエスは、ただ一つのその業を信じなさい」と呼びかけておられます。 

 

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   2020年 4月26日説教要約        

 

 「エリヤが『主よ、もう十分です』と言った時」

                   小河信一牧師  

 

 

 

今日は列王記上19章、神の山ホレブで、「静かにささやく声」を聞いたエリヤということで有名な箇所を読みます。「静かにささやく声」が聞こえたということが、どんな場面に置かれているのか、捉えることにしましょう。

 

まず、列王記上19:1-18の段落ですが、内容に即して三つに分けられます。

 

 ①19:1-4   エリヤ、神の山へ向かう。     

 

        ベエル・シェバへ、そして荒れ野へ ・神の山への到着は19:8

 

  19:5-8  エリヤ、奇跡に満ちた食事にあずかる

 

えにしだの木の下で 19:4,5

 

19:9-18 エリヤ、ヤハウェの通過を体験する

 

       神の山ホレブ  洞穴(ほらあな)の中と入口で 19:9,13

 

静かにささやく声が聞こえたのは、洞穴の中においてです。

 

まるでロードムービーのような展開です。つまり、旅の途上で起こる、記念すべき出来事が、息つく(ひま)もなく折り重なって、最後に向かって流れ込んで行きます。従って、この章のエリヤ物語の中心・最高潮は、③にあるということです。

 

列王記上18章末においては、エリヤはカルメル山近くのイズレエル(18:46)にいることになっています。そこから、①に出ているベエル・シェバまでおよそ160㎞あります。さらに、実測する必要はないかも知れませんが、ベエル・シェバからシナイ半島のホレブ山までは、およそ300㎞あります。神信仰が試される巡礼であったことは間違いありません。

 

 段落分けの次に、列王記上19:1-18の主題を掲げましょう。それは、究極の「弟子訓練」です。それを、主イエス・キリストへの信仰の観点から言い換えれば、「まことのキリスト者とされる」または「まことのキリスト者であり続ける」ということです。

 

 あれっ、エリヤはすでに列王記上17章で、主につき従い続けるための弟子訓練を受けたはずですが、と思い起こされますか。だから19章は、究極の「弟子訓練」なのです。

 

列王記上17章でエリヤは、❶荒れ野で、(からす)に養われ、川のを飲んで生き延びる、異国の町で、パン・食べ物の欠乏を()えしのぐ、異国の町で、子どものを生き返らせるという出来事を体験しました。困難さが増大する試練(R.D.ネルソン)の中で、エリヤは神と隣人を愛する(しもべ)・預言者として育てられていきました。

 

そのエリヤに備えられていた「訓練」または「試練」とは、いったいどんなものだったのでしょうか。

 

では、①の列王記上19:1-4から、説き明かしましょう。

 

この箇所には、エリヤが信仰的な勝利を収めたとは言えバアルの預言者450人を皆殺しにしたこと(列王記上18:40ならびに19:1)、それに対しバアル崇拝の側に立つ王妃イゼベルがエリヤ暗殺を企てたこと(同上19:2)、そして、それを聞いたエリヤが恐れおののき、逃亡し生きる望みを喪失したこと(同上19:3-4)が記述されています。全くの暗さです。

 

つまり、預言者エリヤも、敵対者イゼベルも、そして私たち・読み手も、死、死、死、の連鎖に取り巻かれてしまっています。目を(そむ)けたくなる(さん)(じょう)と言えますが、これほどの事態はまれであったとしても、忘れてはならない人間の歴史の実情です。

 

エリヤの心情を具体的に表せば、「独りぼっちなのがこわい」(自分の仲間はいずこに?)、「たった一人の人間の企みがこわい」、「従者も残して一人で逃げよう」(列王記上19:3)、そして「死に向き合おう」……ということでしょうか。思考の一貫性などありません。ただ否定的な思考が(うず)()いて、どん底へと人間が突き落とされていく、それが①の場面のエリヤの姿なのです。あまりのつらさです。寄り添って、語りかける言葉も出てきません。

 

ロードムービー①の(せき)(りょう)たる場面を象徴するものに、「一本のえにしだの木」があります。ベエル・シェバから荒れ野に一日入った先に植わっていた木です。()(てい)に言えば、ここにエリヤは死に場所を見出したのです。

 

えにしだは、砂漠に自生する低木です。枝はもろく、葉は乾燥に耐えるため非常に細くなっています。その木が「一本」というのですから、木陰に息つくどころではありません。

 

その木に身を寄せ、座り込んだエリヤはこう言いました 列王記上19:4――

 

「主よ、もう十分です。わたしの命を取ってください。」

 

顧みれば、エリヤは、干ばつに堪え、サレプタのやもめと子どもを助け、カルメル山でバアルの預言者と戦ったのです(列王記上17章-18章)。「もう十分です」とのつぶやきが理解できないことはありません。

 

エリヤは信仰の旅路において危機に瀕しました。「もう駄目だ」と思いました。「これまで十分にやって来た。もうこの(へん)()めよう」とあきらめかけたのです。

 

しかし、あきらめてはならない、希望を捨てははならない、とはこのことです。あなたが「主よ」と呼んだ「」が共におられるではありませんか。

 

そうして、段落の①から②へと展開していきます。ただし、「一本のえにしだの木」の下に座って(死ぬのを)待つという場面はまだ切り替わっていません。

 

実は聖書をたどると、「荒れ野の木の下で」、神の介入、すなわち、神の御使いの(つか)わされたことが、以前あった、と分かります

 

アブラハムの子を宿し産んだエジプト人の女奴隷ハガルは、正妻のサラから過酷な扱いを受けました。そして、その子イシュマエルを背負って逃げ出しました。

 

創世記21:14-16――

 

14 ハガルは立ち去り、ベエル・シェバの荒れ野をさまよった。15 (かわ)(ぶくろ)の水が無くなると、彼女(ハガル)は子供を一本の(かん)(ぼく)の下に寝かせ、16 「わたしは子供が死ぬのを見るのは忍びない」と言って、矢の届くほど離れ、子供の方を向いて座り込んだ。

 

逃亡中に、「ベエル・シェバの荒れ野」の「一本の(かん)(ぼく)の下」で死に直面したというのは、ハガルとエリヤにおいて()を一にしています。そして列王記上19章において、段落の①から②へという移り変わりは、御使いの降臨によって幕開けされたのです。ハガルの救出の場合と全く同じです(創世記21:17)。

 

列王記上19:5――

 

(エリヤ)はえにしだの木の下で横になって眠ってしまった。御使いが彼に触れて言った。

 

「起きて食べよ。」

 

御使いがエリヤに触れるというほどに、神はエリヤに寄り添っておられました。エリヤと共におられました。

 

この②の二度の「起きて食べよ」(列王記上19:5,6)は、③の「静かにささやく声」と共に、神の声、御言葉として重要です。直接的には、この御使いの声かけのうちに、エリヤに「焼き石で焼いたパン菓子と水の入った(かめ)」が届けられたということです。しかし、「エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた……」(列王記上19:8)とあるように、この飢餓(きが)の中での食事は、エリヤの人生全体を支える糧、霊的な食事となったのです。

 

今、私たちは、エリヤをどん底から助け出した御使いの言葉「起きて食べよ」に、次の主イエスの招きの言葉を重ねて聴き取ることが許されるでありましょう。

 

マタイ福音書26:26――

 

一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」

 

私たちが死に取り巻かれている中で聞くべきは、預言「起きて食べよ」の成就としての、イエスの言葉「取って食べなさい」であります。

 

R.D.ネルソンは、①から②への展開を、こう跡づけています。

 

「エリヤはすでに十分であった(ラヴ)が、死が許される代わりに長い(ラヴ)旅に遣わされる。」

 

列王記上19:7後半に「この旅は長く、あなたには耐え難いからだ」との御使いの執り成しがあります。

 

語呂合わせを見抜いたR.D.ネルソンの解説を、私なりに言い換えると――

 

「十分とか、不十分とか、自分で速決するな。神の十分さ(ラヴ)、豊かさに生きよ。神はこれからのあなたの人生を、長い(ラヴ)旅として用いられる」ということです。まさに、パウロの「それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです」(Ⅱコリント12:10)との言葉に通じるものがあります。

 

この旅は長く」との告知によって、エリヤに信仰的な覚悟が求められました。

 

②の終わりから③へと通じる報告 列王記上19:8――

 

エリヤは起きて食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。

 

まず、「四十日四十夜歩き続け」というのは、完全にエリヤは「信仰の旅路」を歩き抜いたということです。主イエスも荒れ野で「四十日間、昼も夜も断食した」(マタイ4:2)とのことですから、これは、主に追従する上での究極の「弟子訓練」です。これは、死に包囲された①段落の惨状を脱する、悪魔の誘惑との戦いです。エリヤは耐え抜きました。

 

次に、「その食べ物に力づけられた」というのは、エリヤはいわば天からのマナ(出エジプト記16:35、民数記11:9)にあずかったということです。言い換えれば、「信仰の旅路」が全うされたのは、エリヤの「行い」(ローマ11:6)・「(いさお)」でなく、神の恵みであることを表しています

 

最後に、「ついに神の山ホレブに着いた」というのは、神を神として礼拝する場所にたどり着いたということです。逃亡の旅が巡礼の旅に変えられました。失意の人生が、希望の人生に変わり得るのです。

 

段落の③の中で、エリヤは二回、同一の嘆きをもって、神に呼びかけています。

 

列王記上19:1019:14)――    

 

エリヤは(主に)答えた。「わたしは万軍の神、主に情熱を傾けて仕えてきました。ところが、イスラエルの人々はあなたとの契約を捨て、祭壇を破壊し、預言者たちを(つるぎ)にかけて殺したのです。わたし一人だけが残り、彼らはこのわたしの命をも奪おうとねらっています。」

 

①で取り上げたエリヤの不安、「独りぼっちなのがこわい」(自分の仲間はいずこに?)というのは、ここに証しされています。殺害の出来事ばかりで話が錯綜(さくそう)しそうですが、ここでは、イゼベルがイスラエルの預言者を、でもなく、エリヤがバアルの預言者を、でもなく、「イスラエルの人々は(自国の)預言者たちを(つるぎ)にかけて殺した」と述べられています。つまり、エリヤの仲間である、主なる神の信仰者が殺されたというのです。

 

神信仰または神礼拝の危機が、イスラエルの民自体、内側から生起していたのです。エリヤが、「わたし一人だけが残り……」という深刻な思いに至るのも責め立てられません。エリヤが神を信じ通せるか、あるいは、くじけてしまうか、の瀬戸際に立っていることを踏まえつつ、再度、思い起こしたいのは、最後に、「ついに神の山ホレブに着いた」ということです。エリヤは間違いなく神の前に立ちました。神が彼を礼拝に招いたのです。

 

列王記上19:12-13―― 

 

12 地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた。13 それを聞くと、エリヤは外套(がいとう)で顔を覆い、出て来て、洞穴(ほらあな)の入り口に立った。

 

ここで起こったことに注目しましょう。

 

見よ、主が通り過ぎて行かれる」(列王記上19:14 他に出エジプト記34:6)というのが、出来事の核心です。実際にエリヤが見たとは書いてありませんが、「わたしは万軍の主」(同上19:14)との自己啓示において、神が現臨されました。同時に、「静かにささやく声」を皮切りに、神の言葉がエリヤに伝達されました。

 

エリヤは神の前に立ちました。外から内からの迫害の下に、たとえ「わたし一人だけ」であれ、「残りの者」となりました。神の恵みによって、死と罪の力に打ち勝った「残りの者」となったのです。

 

そこでエリヤに期待されることは、神の助けを受け、生き延びた彼が他の「残りの者たち」と共に、神礼拝と神信仰を受け継ぎ、広めてゆく者となることでありましょう。それは、エリヤからエリシャへ、旧約から新約へと架け渡される「神の大いなる救いの業」の伝道として伸展してゆきます。

 

列王記上19:18 主はエリヤに言われた―― 

 

「しかし、わたしはイスラエルに七千人を残す。これは皆、バアルにひざまずかず、これに口づけしなかった者である。」

 

ローマの信徒への手紙11:4-5――

 

4 しかし、神は彼(エリヤに)に何と告げているか。「わたしは、バアルにひざまずかなかった七千人を自分のために残しておいた」と告げておられます。5 同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています。

 

死の脅威におののくエリヤが「残りの者」として聖なる神礼拝にあずかったのは、まさに神の「恵み」です。神の御使いによる荒れ野の食事への招き、「四十日四十夜」の歩行の予告、そして神の臨在と御言葉、そのすべてが神の「恵み」でありました。

 

同じように、現に今も、恵みによって選ばれた者が残っています」とのパウロの宣言において、彼は、「主イエス・キリスト」のよる恵みを指し示しています。「現に今も」というのは、エリヤの時代とは全く異なり、今や、神の恵みが、主イエス・キリストの十字架と復活によってあらわされたということです。パウロはエリヤの物語を指さしながら、新しい福音を語ったのです。

 

その主の十字架のもとに、「七千人」にまさる「恵みによって選ばれた者が残っている」のです。神は、神の恵みを告白し賛美し感謝するよう導き、神の民の教会を育ててくださいます

 

 

 

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        2020年 4月19日〈説教の要約〉

 

         「もし神 我らの味方ならば」 

                       小河信一牧師

 

ローマの信徒への手紙8章は、聖書中の聖書、福音中の福音と言われます。8章が、ローマの信徒への手紙のクライマックス(最高潮)です。残り2回の説教で、このロマ(はち)を終えます。今回が8:31-34で、次回が8:35-39です。

今私たちは、クライマックスなる8章の終結部を読もうとしています。それなりの覚悟が必要です。と言っても、信仰的な覚悟、へりくだって御言葉に耳を傾ける姿勢です。そして大事なことは、ここで受けた御言葉によって、今日からの一週間の生活を、私たちの口と心と行いを、新たにされるということです。逆に言えば、この8章終結部のパウロの言葉に正面から向き合うならば、聞き手の不信仰は打ち砕かれるということです。

もう少し、ローマの信徒への手紙の残りの箇所、8:31-39全体について説明しまししょう。

もしこの箇所に題をつけるなら、「キリスト者の(がい)()U.ヴィルケンス)または「神の愛への讃歌」(竹森満佐一)となります。凱歌、すなわち、勝利の歌ということです。「勝利」にせよ、「愛」にせよ、確かに(ちょう)()を飾るにふさわしい主題のように思われます。

そこで、今回のローマの信徒への手紙8:31-34についての説き明かしに入って行くのですが、ここには、「勝利」ならびに「愛」という言葉は出て来ません。出て来るのは、ロマ(はち)の終わりの終わり、8:35-39になってからです。ローマの信徒への手紙8:37に「勝利」(原意:輝かしい勝利を得る)が、また、8:35,38に「愛」が、8:37に「愛する」が登場します。聞き手の期待を引きつけに引きつけておいて、まさに(でん)()宝刀(ほうとう)を抜くかように、輝かしい勝利のうちに、キリストの愛を語って、終えるということです。心憎い説教術というよりも、福音を宣べ伝えるとは、そういうものなのでしょう。

それで、その直前の箇所・ローマの信徒への手紙8:31-34に、「勝利」や「愛」という言葉自体は見当たらないのですが、内容的には実は、それらのことがパウロによって語り尽くされています。だからこそ、8:31-34から8:35-39へと滑らかにつながって行くのです。それでは、パウロが「勝利」や「愛」を使わないで、どのように福音を語ったか、見ていくことにしましょう。

ローマの信徒への手紙8:31――

では、これらのことについて何と言ったらよいだろうか。もし神がわたしたちの味方であるならば、だれがわたしたちに敵対できますか。

この節にはすでに、ロマ(はち)のクライマックスに向けての、パウロのほとばしる思いが、その口調に表れています。それは、「何と」や「だれが」という言葉遣いから分かります。全部並べると、ローマ8:31何と」、

:31だれが」、:33だれが」、:34だれが」(続いて:35にも「だれが」)となります。これらは反語疑問文ですから、「何と」言うべきか、付け足して言うことはない、以下、「だれ」もいない、「だれ」もいない……という意味で(よう)は、聞き手の注意を喚起しているのです。

ある(現在する)のは、「輝かしい勝利」であり、「キリストの愛」である、それをあなたは信じますかということなのです。今「神がわたしたちの味方である」という句をもって、神の勝利と愛を語っています。

神が味方というのは、心強い宣言であるけれど、少し分かりづらいと思われるでしょうか。これを、身びいきしてくれる、自分に都合のいい「味方」と勘違いしてはなりません。

原意に即して言えば、「神はわたしたちのためにおれらる」、そういうお方であるということです。

すなわち、神は「わたしたちのために」、いつも心を砕いておられる、「わたしたちのために」働いてくださっている、「わたしたちのために()()してくださっている、わたしたちのために」そばに座っていてくださる、ということなのです。時に神は、「わたしたちのために(かたわ)らにいて沈黙しておられるかも知れません。つまり、神が自分の強い「味方」に見えない時もあるでしょう。しかし、神が「わたしたちのために」おられることは不変です。

先にお話ししたように、「だれがわたしたちに敵対できますか」の答えは、「だれ」もいないです。しかし現実に、ほんとうにいないのか、話は別です。いや、パウロ先生の言説(げんせつ)に忠実に従えば、神を信じれば、いない、しかし、もし神を信じないなら、または、「冷たくもなく熱くもない」信仰(ヨハネ黙示録3:15-16)ならば、「敵対」者はいるのです。

不信仰な世界にいる「敵対」者たちのことに、あまり気を()む必要はないのですが、「敵対」者として想定されるのは第一には、私たちを罪に引きずり込む「サタン」です。サタンは私たちを「敵対」する側に(ころ)ばせます。私たちは自分が転んだことを隠そうとして、さらに(あく)(ぎょう)を犯します。そうして私たちは、いつ自分の罪が暴かれ、告発されはしないか、と恐れおびえるのです。

付け加えれば、パウロの「神に選ばれた者を訴える」(ローマ8:33)や「私たちを罪に定める」(同上8:34)という言い回しからは、刃向(はむ)かう者として、私たちの「良心」がさらに挙げられます。

本来、神と人の「敵対」者ではない「良心」が、私の中で告発する側と弁明する側に分かれ、私の「心身」を疲れ果てさせることがあります。いわゆる「良心の()(しゃく)」も、その一種でしょう。「良心」の(あかし)や弁明を軽んじてはなりませんが(ローマ2:15)、自分が自分の罪告発をして、終わり 生きる望みなし では、サタンの思惑通りになってしまいます。(いさぎよ)く自己を(かえり)みる人の「良心」が鋭く自分を責め立てても、「神がわたしたちのためにおれらる」ことを(きも)(めい)ずべきです。

詩編118:6,9――

:6 主はわたしの味方、わたしは誰を恐れよう。

人間がわたしに何をなしえよう。

:9 (くん)(こう)に頼らず、主を避けどころとしよう。

(くん)(こう)」のように高貴な人、潔い良心を持つ人は尊ぶべきですが、主なる神こそが、私たちの「避けどころ」なのです。私たちを苦難や死(詩編118:5,18)から救い出してくださるのは、「わたしたちのために」救いを成し遂げてくださる主なる神にほかなりません。

ちなみに、この詩編118:6主はわたしの味方」も原文に即せば、「主はわたしのためにおられる」(英訳 The Lord is on my side))となります。あくまでも、主がわたしの主人であり、「わたしのために」というところに「神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)とが含蓄されています。

それでは、ローマの信徒への手紙8:31-34の中心点を、8:32前半と:34後半の並行・連係に注目して説き明かしましょう。

ローマの信徒への手紙8:32――

わたしたちすべてのために、その御子をさえ()しまず死に渡された方は、御子と一緒にすべてのものをわたしたちに(たまわ)らないはずがありましょうか。

ローマの信徒への手紙8:34――

だれがわたしたちを罪に定めることができましょう。死んだ方、否、むしろ、復活させられた方であるキリスト・イエスが、神の右に座っていて、わたしたちのために()()してくださるのです

下線部において、パウロは主イエス・キリストの御業を語っています。彼は、御父の御心に(かな)った、そのの御業について、①十字架の死、②復活、③神の右にのぼられたこと(マルコ16:19)、そして④執り成し、という四つの点を挙げています。この上、「これらのことについて何と言ったらよいだろうか」(ローマ8:31)、これらのことを伝えれば、語り尽くしたことになるというのです。

神は、御子を「()しまず」死に渡され、すべてのものを私たちに「(たまわ)りました」((たまわ)らないはずがない)というのが、福音の中心です。「愛」という字は出て来ませんが、ここに、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)というまことの愛があります。神は、そのような(あたい)のつけられない「愛」を、無償で、恵みとして私たちに「賜った」のです。ローマの信徒への手紙8:31-34には、「愛」という言葉が出て来ないけれども、「キリスト・イエスによって示された神の愛」が主題となっているということがお分かりいただけたでしょう。

その神の愛は、「すべてのものをわたしたちに」与えてくださったことにより、具体的なものとなりました。この世にあって弱く乏しい者に、必要な「日用の糧」がほどこされます。「すべてのものをわたしたちに……」というのは、「万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)との先行句と響き合い、私たちが困苦や患難を乗り越えていく力の源となります。

珍しい言い方ですが、御子、イエス・キリストは、「神の右に座っていて、わたしたちのために()()してくださる」と言います。私たちの罪を「訴える」と、私たちの罪を「執り成す」とは正反対です。「人を義としてくださるのは神なのです」(ローマ8:33)と告知されているように、私たちの罪は神の義をもって(おお)われ、私たちは、罪と死の滅びから永遠の命へと移されています

私たちの、容易に想像し得ないことでありますが、御子が「神の右に座っていて」くださることは、私たちにとってどんなに心強いことでしょう。今、自分を訴える者や自分を罪に定める者の怒号や(くる)い叫びが聞こえてくる中で、私たちは静かに、神の右に座っておわれる御子の御前に立つことができます。それが許されてます。その時、御子は「わたしたちのために()()してくださる」のです。私たちが弁明する前に、今も、最後の審判の時にも……。そして、この最後の審判において、「神がわたしたちの味方である」ということが成就するのです。

①十字架の死、②復活、③神の右にのぼられたこと(マルコ16:19)、そして④執り成しという主イエス・キリストの救いの御業によって、御父と御子は「わたしたちのために」、すべてものを与えてくださいました。私たちを守ってくださいました。私たちの口と心と行いをもって、私たちの主の大いなる救いの御業を宣べ伝えてまいりましょう。

 

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      2020年 4月12日 <説教の要約> 

     「一人、二人、そして十一人に現れる」 

                                    小河信一牧師  

  今日、主イエス・キリストがよみがえられたことを記念する復活日・イースターを迎えました。説教のテキストとして、マルコ福音書16:9-20を選びました。ひょっとしたら、マルコ福音書本文に続く〔 〕書きの部分であり、説教を聞いたことがあまりない、という方もおられるかも知れません。

 

今回取り上げました〔 〕書きの部分は、新共同訳聖書の呼称では、「結び 一」となっています。裏を返せば、マルコ福音書16:9より前の箇所には、「結び」、すなわち、福音書らしい結末が見当たらないということです。そのことは、マルコ福音書16:8を読めば、すぐに了解されます。

マルコ福音書16:8 イエス、復活する――

 婦人たちは墓を出て逃げ去った。


震えあがり
、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

これは、いわゆる(から)の墓で、天使なる若者を目撃し、その天使から語りかけられた直後の、マグダラのマリアはじめ「婦人たち」の反応です。確かに、「だれにも何も言わなかった」では、復活証言が黙秘されてしまい、教会の伝道へとつながっていきません。それを踏まえて、後の福音宣教へと通じるよう、マルコ福音書16:9-20という「結び」が書き残されているのです。

 

この一週間、聖霊の導きを祈りながら、私はマルコ福音書16:9-20を熟読しましたが、「付加」(()()し)のような軽さは全くありません。全体として、イエス・キリストの復活直後の、真実なる出来事と言葉とが(おさ)められています。私なりにその「結び」を言い換えるならば、「復活後の困難と希望――今を生きる私たちに向けての結び」となります。

 

読み慣れておられない方が多いかも知れませんので、初めにガイダンスをいたします。

 

マルコ福音書16:9-20は、四段落に分かれます。一行空きで、①16:9-11、②16:12-13、③16:14-18、④16:19-20、と並んでいます。そこで、この四段落の配列と内容に注目すると、マルコ福音書16:9-20全体からのメッセージが汲み取りやすいことをお話しいたしましょう。

 

ところで皆さんは、聖書の中で、三回失敗があって、四度目に成功する話、何か思い起こされるでしょうか? 私が思い出すのは、少年サムエルの夜の出来事です(サムエル記上3章)。

 

サムエルは夜中、主から呼びかけられましたが、三度とも、祭司エリの声と勘違いしました。しかし、エリから助言された四回目には、「どうぞお話しください。(しもべ)は聞いております」とサムエルは答えて、主の言葉に耳を傾ける体験をしました。三回、苦悩や失敗が続いて、四回目に成功するというストーリーはいかにも民話的です(例えば、アメリカの民話による A.E. ハント作『3本の木』いのちのことば社)。

 

これに加えて言うならば、先週の説教した、「ペトロの三回の否認」(ルカ22:54-62)はどうでしょうか。

 

()(たび)、イエスを否認したということは、完全にイエスの弟子であることを否定したということです。そして、ペトロが罪のどん底に沈んだところで、そこで悔い改めの道を歩み出したのです。明示されているわけではありませんが、四回目に到来したペトロの、主にあって幸いなる「成功」、否、立ち直りは、ヨハネ福音書21:15-19(イエスとペトロとの問答)や使徒言行録2:14-36(ペトロの説教)を読めば分かるでありましょう。三回の後、振り向いて彼を見つめられた(ルカ22:61)、主イエスの「恵みのまなざし」(H.ゴルヴィツァー)のうちに、ペトロは新しい道を、主の道を歩み出したのです。

 

つまり、大いなる四回目が来る前段の三回において、私たちは自分自身と向き合い、主によって弱さや(もろ)さを含めて自分は一体何者なのか、教えられることが大事なのです。それが、主による弟子訓練なのです。

 

マルコ①16:9-11、②16:12-13、③16:14-18の三つに記されていて、④16:19-20には無い重要句があります。

 

①マルコ福音書16:11――

 

しかし彼らは、イエスが生きておられること、そしてマリアがそのイエスを見たことを聞いても、信じなかった

 

②マルコ福音書16:13――

 

この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった

 

③マルコ福音書16:14――

 

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人々の言うことを、信じなかったからである。

 

①②③は別の出来事であるにもかかわらず、一様に、「信じなかった」人々がいたと証言されています。三連続で「不信仰」が告知されてる……不思議です。いや、それが実態だったのです。

 

①②③の共通点はいずれも、主イエスが十字架の死を遂げられたエルサレムでの出来事であるということです。「都にとどまって」いた(ルカ24:49)弟子たちや婦人たちは、どんな思いで、どのような信仰を持って、過ごしていたのでしょう。彼らは何かの失敗をしたというよりも、主の復活直後における宣教の試練をこうむっていたと言えるでしょう。

 

いずれにせよ、③段落の「信じなかった」で終わるなら、これまた「結び」とならなかったでしょうが、④段落・マルコ16:19-20が来て、締め括られています。

 

それでは、「信じなかった」人々が続出した①②③、マルコ16:9-18で何が起こっていたのか、そして、その闇と光との戦いをくぐり抜けて、どのように、希望の④マルコ16:19-20へと達していったのか、捉えることにしましょう。

 

簡潔に三つの段落を紹介しましょう。新共同訳聖書の小見出しも、ご参照ください。

 

①マルコ16:9-11――

 

 「週の初めの日の朝早く」(=主の復活の朝)

 

  マグダラのマリアが、復活の主イエスに出会う。弟子たちに伝達する。

 

②マルコ16:12-13――

 

 「その(のち)

 

  エマオ途上、二人の弟子が、復活の主イエスに出会う。弟子たちに伝達する。

 

③マルコ16:14-18――

 

 「その後

 

  十一人の弟子たちが、復活の主イエスに出会う。主から不信仰をとがめられる。

 

人物が入れ替わっているとは言え、わりあい単純な筋立てだと、ご理解いただけるでしょう。

 

よみがえられた主イエスに出会ったという証人の数は、一人→二人→十一人と順調に増えていますが(参照:マルコ4:8,20)、その反面、不信仰の壁はますます厚くなっているように思われます。その主イエスの顕現(けんげん)(あらわ) マルコ16:9,12,14)を(こば)む壁には、「かたくなな心」(マルコ16:14)が塗り込められていたのです。その壁は()からびて、上よりの良き知らせを受け付けなくなっておりました。

 

もう少し詳しく①②③の三つの段落ならびに④の結末を見ていきましょう。

 

①②③、マルコ16:9-18で見逃してならないのは、主の復活の証人たちの姿です。

 

①マルコ福音書16:10――

 

マリアは、イエスと一緒にいた人々が泣き悲しんでいるところへ行って、このことを知らせた

 

②マルコ福音書16:13――

 

この二人も行って残りの人たちに知らせたが、彼らは二人の言うことも信じなかった。

 

③マルコ福音書16:15――

 

それから、イエスは言われた。

 

「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。」

 

マルコ福音書16:17――

 

(イエスは言われた)「信じる者には次のようなしるしが伴う。

 

彼らはわたしの名によって悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。」

 

証人の人数の増加以上に、「知らせる」→「宣べ伝える」→「新しい言葉を語る」というように、御言葉による伝道の力が強められていっています(③は主の命令・宣言)。ここには、「福音を知らせ、宣べ伝え、語る、主の証人たち」がおります。キリストの新しい命を受けて、古い自分を脱ぎ捨てたキリスト者が誕生したのです。

 

この御言葉の伝道者を後押ししたのが、よみがえられた主イエスの言葉、「あなたがた(=弟子たち)はこれらのことの証人となる」(ルカ24:48)でありました。今後の弟子たちのあるべき姿について、よみがえり生きておられる主から、高らかな宣言があったのです。

 

その一方で、先に確認した通り、御言葉の伝道者をくじかせ、挫折に追い込むような「抵抗」と「壁」がありました。しかし、それは乗り越えるべきものでありました。これらの「抵抗」と「壁」を打ち破ってこそ、「全世界」と「すべての造られたもの」(マルコ16:15)に向けての、福音宣教が達成されるからです。全世界が、全被造物が今うめき苦しみつつ、救われることを待ち望んでいます(ローマ8:19-22)。神に派遣された宣教者には、それに応える使命があるのです。 

 

一部の者たちは「信じなかった」と言って、切り捨てることなどできません。なぜなら、自己中心的な考え方や(つみ)(とが)(ひた)っている私たちが、死からの復活を「信じる」のは、決して容易なことではないからです。ただ神に寄り頼むということが難しいのです。

 

以上、三つの段落において、エルサレムにとどまっている人々の間に、「信じる」か、「信じない」かの葛藤が実在したことを見ました。その中で、四つの段落において一貫していること、すなわち、「週の初めの日の朝早く」以来、変わらず起こり続けたことがありました。

 

①マルコ福音書16:9――

 

イエスは週の初めの日の朝早く、復活して、まずマグダラのマリアに御自身を現された

 

②マルコ福音書16:12――

 

その後、彼らのうちの二人が田舎の方へ歩いて行く途中、イエスが別の姿で御自身を現された

 

③マルコ福音書16:14――

 

その後、十一人が食事をしているとき、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。

 

④マルコ福音書16:19――

 

主は彼らと共に働き、彼らの語る言葉が真実であることを、それに伴うしるしによってはっきりとお示しになった。

 

主イエス・キリストは私たちの罪と死のために、十字架の死を()げられました。その主御自身がよみがえられ、今生きておられる、私たちと共に働いておられるということが、私たちへの喜びの知らせであります。

 

主イエスは、①の「まずマグダラのマリアに御自身を現された」から始まって④に至るまで、婦人たちや弟子たちはじめ人々と共におられました。主イエスは、「信じなかった」者たちが()じっているからと言って、彼らを見捨てられはしませんでした。それどころが、主イエスは忍耐をもって御自身を現され、そして復活の証人たち、「信じなかった」人々のもとへ遣わされました。

 

遣わされた者は、主イエスの顕現の体験者であると同時に、「あの方はよみがえられた」(マルコ16:6)という御言葉を宣べ伝える者でありました。

 

ところで、「手で蛇をつかみ、また、毒を飲んでも決して害を受けず、病人に手を置けば治る」(マルコ16:18)と、主イエスは信じる者が行うしるし」(マルコ16:17)について言及されています。これは、信仰者の()す奇跡の数々を喧伝(けんでん)するものではありません。そうではなく、彼らの信じ(とな)える「わたしの名」(マルコ16:17 イエス・キリストの御名)の大きさを示すものであります。

 

イエス・キリストの御名が偉大であればこそ、信じる者もモーセのように、神の裁きからの解放者として用いられるのです。エレミヤ書8:17には、「わたしはお前たちの中に蛇や(まむし)を送る。彼らにはどのような呪文(じゅもん)も役に立たない。彼らはお前たちをかむ、と主は言われる」とあり、その理由づけとして、「我々の神、主が我々を(だま)らせ 毒の水を飲ませられる。我々が主に罪を犯したからだ」(エレミヤ書8:14)と述べられています。

 

しかし、神の裁きの時は過ぎ去りました。というのも、「そして、モーセが荒れ野で蛇を上げたように(民数記21:4-9、人の子も上げられねばならない」(ヨハネ3:14)との予告の通り、主イエスが十字架上に「上げられ」、罪と死という「毒の水」を洗い流し、復活されたからです。信じる者の行う「しるし」というのは、この主イエス・キリストの御業に()るものなのです、。

 

マルコ福音書16:19――

 

主イエスは、弟子たちに話した後、天に上げられ、神の右の座に着かれた。

 

この主イエス・キリストの出来事が使徒信条において、「我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。…… 三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と記されてます。

 

ここに、主イエス・キリストがどんなことを成し遂げられたか、明確になり、御国へと進む「信じる者」の人生の展望が開かれました。

 

初めに今回の新約テキストに、「復活後の困難と希望――今を生きる私たちに向けての結び」という題を付けると申しました。単に「信じる」人々が増えたということ以上に大事なのは、「信じなかった」人々への伝道がマルコ福音書16:9-20によって示されたということです。①から③までの段階であきらめるな(完全にしくじったとしても)、必ず、終わりの時④がやって来るということです。その時、「主は彼らと共に働き」(マルコ16:20)、主は「収穫は多いが、働き手が少ない」(マタイ9:37)と呼びかけられることでしょう。

 

信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)との御言葉の通り、今日、私たちの教会に、救われた喜びに輝く一人の兄弟が誕生しました。「信じて」、主のものとなったのです。私たちと共に労苦し歓喜する「働き手」を与えてくださったことを、感謝し祈りましょう。

 

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    2020年4月5日説教の要約

 

      「振り向いてペトロを見つめられた主」 

                  小河信一牧師

  

 

教会暦の上で本日より、受難週に入ります。今週の金曜日に、主イエス・キリストは十字架の死を遂げられ、そして次の主日に、主イエス・キリストはよみがえられたということを想起いたします。

 

そこで、ルカによる福音書に従って、主イエス・キリストの最後の晩餐と、十字架の丘への道行きとの間に起こった重要な出来事を読みます。それは、主イエスが人々に逮捕された直後の物語です。

 

ルカ福音書22:54――

 

人々はイエスを捕らえ、引いて行き、大祭司の家に連れて入った。ペトロは遠く離れて従った。

 

何ともさり()なく書かれていますが、ここで主イエスは逮捕されました。自由を失いました。「イエスを捕らえ、引いて行った」という人々の力に(くっ)している主イエスの御姿が、ここに描き出されています。

 

そして、「ペトロは遠く離れて従った」というこれまた、さり気ない記述から有名なペトロの三回の否認が展開されていきます。十字架の場面における最大級の罪への誘惑が、さり気なく、なに気なく、ペトロの心に忍び入って来たのです。

 

ペトロの犯した最大級の罪というのは具体的には、「裏切り」であります。

 

本日は、①②③の三箇条をもって、ペトロの「裏切り」の真相を捉え、そこから私たちへのメッセージを汲み取ることにしましょう。

 

その前に、「裏切り」とは何か、押さえておきましょう。広辞苑の「裏切る」の項には、「❶敵に内通(ないつう)して、主人または味方にそむく。❷約束・(しん)()(約束を守り果たすこと)に反する行為をする。人の予期に反する」とあります。ペトロの事例では、まさに❶が当てはまりますが、私たちにとって、❷の方がより身近かと思います。つまり、私たちは人に対し、約束を破ったり、期待はずれの結果を招いたりすることがなくはないということです。

 

もう一つ、「裏切る」の語義と共に押さえておきたいのは、「裏切った」と「裏切られた」という双方の立場の違いについてです。今、我が身を省みて言うならば、「裏切り」の罪の大きさが分かるのは、自分が「裏切った」ではなく、自分が「裏切られた」というケースであります。

 

自分が「裏切った」というケースでは、どれだけ自分が自覚しているか、また、どれだけ裏切った相手の思いが分かっているか、という難題があります。自覚と想像力の欠如がネック(障害)になります。それ故に、「裏切った」ことは、水に流されます。そのようなことは思い当たりません、となってしまいます。

 

しかし、自分が「裏切られた」というケースでは、まざまざと「裏切り」の実体とその影響が分かります。分かるというより、暗黒のうちに自分という人間全体が()()られます。裏切られた」ことによって時に、体はわななき、心は相手への憎悪で満ちあふれます。

 

さて、「裏切る」という言葉の意味や立場の違いを通して、私が言いたかったことは、「裏切られた」ことに()(しつ)しがちな私たちでありますが、「ペトロが裏切った」ことを()(にん)(ごと)と考えてはならないということです。そのことを踏まえた上で、ペトロに裏切られた主イエスの御姿」を注視し、私たちに対するその出来事全体のメッセージを受け取りましょう。あくまで主イエス・キリストへの信仰を前提としてですが、本来、私たちが裏切られた側の痛みに鋭敏であるのは、一助となることでしょう。

 

 

ペトロの裏切りの真相①――十分な(おおやけ)の証人のいる裏切り

 

世にあまた起こっているであろう裏切りのほとんどは公になっていません。善意と忍耐で他人の裏切りは言うまい、と多くの人は考えているでしょうし、もし、世の人の裏切りが逐一(ちくいち)報じられるなら、暗いニュースばかりになってしまいます。

 

ルカ福音書22:56-57 第1回目 ペトロ、イエスを否認する――

 

56 するとある女中が、ペトロがたき火に照らされて座っているのを目にして、じっと見つめ、「この人も一緒にいました」と言った。57 しかし、ペトロはそれを打ち消して、「わたしはあの人を知らない」と言った。

 

否認・裏切りの目撃証人を整理すると、以下の通りです。

 

第1回目

 

女 ルカ22:56 女中 

 

第2回目

 

男 ルカ22:58 他の人

 

第3回目

 

男 ルカ22:59 別の人

 

1回目のみ女で、2回目と3回目は男です。いずれも単数形ですから、女・男・男、計3名の、「ペトロの裏切り」についての証人ということになります。

 

申命記19:15には、「いかなる犯罪であれ、およそ人の犯す罪について、一人の証人によって立証されることはない。二人ないし三人の証人の証言によって、その事は立証されねばならない」と記されています。

 

裁判において、ペトロの「犯罪」を裁くのに、十分な証人がいます。

 

先にお話しした通り私たちは、自分の「裏切った」ことがなかなか認知できません。その裏切りの罪の大きさに向き合おうとしません。その中で、ペトロの「裏切り」行為が公になっている、つまり、3回の裏切りが大写(おおうつ)しになっているのは、何のためでしょうか?

 

それはまさに、「自分は裏切る者である」、つまり、「自分も(私も)ペトロと同様にイエスを裏切った」ことを、告白するためであります。大祭司の屋敷の中庭で、座っているペトロをたき火が照らし出している(ルカ22:55 まるで映画の一幕(ワンシーン)のような描写)のは、あなたも、あなたの罪も、神と人の前にあぶり出されて(明らかにされて)いますよ、ということなのです。とりわけ、神の御前に、です。人々の中に「()じって腰を下ろしている」(ルカ22:55)のではなく、人が御前にひとり立つことを、神は望んでおられます。

 

 

ペトロの裏切りの真相②――主イエスによって予告された「裏切り

 

ルカ福音書22:60 第3回目 ペトロ、イエスを否認する――

 

だが、ペトロは、「あなたの言うことは分からない」と言った。まだこう言い終わらないうちに、突然(にわとり)が鳴いた。

 

すでに①で見た、(おおやけ)に証言されうる裏切りとのつながりになりますが、」もまた、証人となりました。何とも情けないことです。一つの伝説によれば、「ペトロが通りかかると、人々は鶏の鳴き声をまねてはやしたてた」と言われています。確かに、その朝以来、毎朝、(神の創られた被造世界の自然現象ですが)鶏の鳴き声を聞くたびに、ペトロは「あの朝」のことを思い出さねばならなくなったのです。主イエスを完全に裏切ってしまった、その罪のどん底から彼の一日が始まったのです。

 

さて、主イエスは前もって、「(にわとり)が鳴く」ことを含め、ペトロの裏切りを予告されていました。

 

ルカ福音書22:33-34――

 

33 するとシモン(ペトロ)は、「主よ、御一緒になら、(ろう)に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。34 イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」

 

ペトロが自分の強さを主張したところに、(かん)(ぱつ)を入れず、主イエス彼の弱さを宣告されました。自分は失敗しないと宣言する人間にかぎって、しばしば失敗し落ち込みます。それは、私たちもまた経験上、よく知っていることでしょう。

 

主イエスは、自分を十字架につける人の罪を見通されていたように、弱く(もろ)いペトロのことをご存知でありました。主イエスが、ペトロを「知っていた」というのは、そのようなペトロをありのままに受け止められ、「愛しておられた」ということです。

 

主イエスは、裏切りの予告のときも、その予告の通りになったときも、変わらずにペトロを愛し抜かれました。ここで、本日の旧約聖書箇所を読みます。

 

詩編38:12―― 

 

(えき)(びょう)にかかったわたし(直訳:わたしの疫病)を 愛する者も友も避けて立ち

 

わたしに近い者も、遠く(意訳:遠ざけるようとわたしから)離れて立ちます

 

ここには、「愛する者、友」や「わたしに近い者」の限界が描かれています。人の意気込みや思いやりだけでは、「(えき)(びょう)にかかったわたし」を支えることはできません。支えようとするどころが、「(えき)(びょう)にかかったわたし」から「遠く離れて」(ルカ22:54)しまいます。自分には手に負えない、その災難(疫病の別訳)は大き過ぎる、というのは一見、正当な理由づけであり自己弁護であります。

 

主イエスは、弟子たちの筆頭たるペトロに信仰をさずけ、彼が神と隣人を愛する伝道者となるよう導いておられました。しかし、ペトロは「愛する者、友」としての責務を、主イエスに対する従順を全うすることができませんでした。途中で挫折したのです。

 

(みじ)めにもペトロは変わり果てました。しかし、主イエスの、人への「一方的愛」は変わるどころか、今や、十字架の丘に向かって頂点に達しようとしておりました。

 

 

 

 

 

ペトロの裏切りの真相③――神の計画と執り成しのもとにある「裏切り

 

ルカ福音書22:61-62――

 

61 主は振り向いてペトロを見つめられた。ペトロは、「今日、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう」と言われた主の言葉を思い出した。62 そして外に出て、激しく泣いた。

 

ペトロは、「主の言葉を思い出し」ました。御言葉という、神と人との(きずな)、それがペトロをつなぎ止めました。

 

主イエスの復活後のことですが、暗い顔をし(ルカ24:17)挫折しかけていた主の弟子たちがおりました。彼らを救ったのは、主イエスによる聖書の説き明かしでありました。彼らはそれについて、「聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」(ルカ24:32)と証言しています。全く同様に、ペトロは「主の言葉を思い出し」、くすぶりかけていた御言葉への熱心を回復したのです。

 

文脈に即せば、ペトロは、自分による3回の否認予告を「思い出した」ということです。だから、赤面したのです。だから、ペトロは「激しく泣いた」のです。この瞬間において、ペトロは人生の中で初めて、自分自身と向き合ったと言えるでありましょう。主を裏切った自分から目を離すまい、自分の弱さを主におゆだねしようと、ペトロは悔い改めへと歩み始めました。ここに、「我(自分)、(なんじ)(神)の前に立つということが起こったのです。ここに、主と距離を置いたペトロの姿は見られません。

 

それらすべてが、御父と御子イエス・キリストの御計画であったことは、「主は振り向いてペトロを見つめられた」との一句にあらわされています。

 

主は振り向いて」というところに、神の子と信仰者との新たな出会いが告知されています。

 

人間が一方的に、自分は神に見放されたと思ったとしても、神は「振り向いて」人を見つめる機会を備えられます。主イエス・キリストは「振り向いて」、ペトロに、また婦人たちに(ルカ23:28)、「わたしはあなたたちと共にいる」ことを知らされました。何度でも、罪人に向かって「振り向いて」、彼らを悔い改めへと至らせることが、主イエスの使命であり伝道だからです。

 

主イエス・キリストは、罪人なる私たちと共におられることを、愛する私たちと共におられることを、十字架と復活の出来事によってあらわされました。それによって、ペトロを振り向いてご覧になった主のまなざしが、「裁きのまなざし」ではなく、「恵みのまなざし」であったこと(H.ゴルヴィツァー)が示されたのです。

 

この一週間、ペトロのように(つまず)くことを恐れないで(どう躓くからじっと(とど)まっているなどと思わないで)、また躓くことを隠さないで、十字架の主につき従い、信仰を守り抜いてゆきましょう。私たちの信仰を新たにしてくださる聖霊なる神に、助けを祈り求めましょう。

 

 

 

 

 

 

 

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       4月号月報説教

 

 

 

     説教 万事が益となるように共に働く

 

ローマの信徒への手紙 8章28節~30節   

                  小河信一 牧師

 

 

 

今、世の中は一体、どこから来てどこへ行くのか、闇に覆われているような、そして私たちもまた不安に包まれているような、時を迎えています。

 

そうした中で、ローマの信徒への手紙8章、聖書中の聖書、福音中の福音と言われる御言葉が、神より私たちに与えられました。この一週間、霧がかかったような闇の中にあるこの世を、大地に足を踏み締め、神の御心に添うようまっすぐに歩んでまいりましょう。

 

前の段落(ローマ8:18-27)からの流れが大切なので振り返りましょう。

 

被造物全体がうめき、産みの苦しみを味わっており(ローマ8:22)、また、被造物の一つである人間もまたうめき苦しんでいる(ローマ8:23)中で、“霊”・聖霊なる神は「弱いわたしたちを助け」うめいてくださいます(ローマ8:26)。そして、聖霊はこの情況を、主キリストの御力を通して父なる神に伝え、祈ってくださいます。

 

このことを受けながら、私たちは聖霊なる神のうめきをもっての執り成しに安んじると同時に、本日のテキスト(ローマ8:28-30)によって私たちは救いの確かさをしっかり(とら)えることにしましょう。

 

簡潔に言えば、聖霊なる神の執り成しが今から将来において、きちんと目標に到達するのだ、ということが述べられています。私たちの待ち望んでいること(ローマ8:23-25)へと、(まと)(はず)すことなく前進してゆくので、聖霊の執り成しに頼りきりなさい、ということです。私たちに祈る力が充分になくとも、聖霊が祈り続けてくださいます。

 

ローマの信徒への手紙8:28―― 

 

神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。

 

この御言葉は、古代より数多くの人々を慰めてきました。座右の(めい)にしておられる方も多いかと思います。「万事が益となるように共に働く」というのは、まさに格言風の句で、前後の文脈において、一旦(いったん)ここで内容を凝縮しています。

 

ではまず、この句の中から、「益となるように」の部分を取り上げましょう。

 

「益となるように」は原文で、「良いことに向かって」 for good into the good と書いてあります。そこで、とかく私たちは自分中心に「良いこと」、 good なことを考えてしまいます。従って、神がお考えになっている「良いこと」と私たち人間の考える「良いこと」に、ずれが生じるということが出て来ます。

 

私たちには、「悪」としか思われないことが、神の目から見れば、それは「善」であるということがあります。自分に降りかかった試練が、時を経て、自分に「益となる」ものであったと思い直されることは、少なからずあるでしょう。

 

私たちは悪いことが起こらないように心配しますが、神が示してくださる良いこと……時にそれが苦難や病気のこともある……を受け取るという姿勢が大切です。そこで、神から目を()らすのではなく、そこに何か神の計画がありはしないか、と問い続けるのです。間違いなく「益に向かっている」、 into the good という確信を持つのです。何が「益」かは、神が定めてくださいます。

 

次に、「万事」に着目しましょう。現下の新たな病気による脅威を含む「万事」です。これに関連して、D.ボンヘッファーは、次のように述べています。

 

「神を愛する者たち……万事が益となる」ということをほんとうに理解するならば、最悪の日といえども、いかに喜ばしい日となるであろうか。

 

つまり、ボンヘッファーは、最悪の日にも「万事が益となる」と信仰告白できますか、と私たちに問いかけています。W.リュティもまた、こう述べています。

 

 神は、人間を絶えず最悪の状況の中から光へと引き出して救われるほどに、力強くあられる。

 

自分が順調な時、幸せな時には、「万事が益となる」は信じやすいのかも知れませんが、逆境の時、最悪の時にまた、この言葉を神からの使信として受け止めなさい、と二人の説教者は説き勧めています。

 

前の段落からの流れで、パウロ自身の言葉により、「万事」を押さえておきましょう。

 

列記すると、「現在の苦しみ」(ローマ8:18)、「滅びへの隷属」(ローマ8:21)、「弱いわたしたち」(ローマ8:26)となりますが、当然のことながら、これらも「万事」、すべてに入れられます。いやむしろ、苦しみ・滅び・弱さを前景に置いたうえで、パウロは「万事が益となる」と告知しています。

 

イザヤ書46:10―― 

 

わたしは初めから(すで)に、先のことを告げ

 

まだ成らないことを、既に昔から約束しておいた。

 

わたしの計画は必ず成り

 

わたしは望むことをすべて実行する。

 

これはとても美しく構成された詩で、いわば格言のような品格を備えています。そしてこの節には、「万事が益となるように共に働く」と呼応する「わたし(=神)の計画は必ず成り わたしは望むことをすべて実行する」という言葉が出ています。

 

神は天地創造の時に、御計画を持っておられ、それを言葉として約束され、そしてその計画が時満ちて、私たちの思いをはるかに超える形で、出来事となり実行される、というのが、この節の内容です。

 

天地創造から今に至るまで、さまざまな事がありました。アダムとエバの堕罪から始まって、神の寛容により王国が建てられたにもかかわらず、人間の罪や偶像崇拝によって王国が滅ぶなど、いろいろな事がありました。しかし、第二イザヤはそのユダ王国崩壊という挫折の中で、「神の計画は必ず成る」と預言しました。神の言葉は決して変わらない(イザヤ書40:8、Ⅰペトロ1:25)ということです。最後には、神の「望むこと」が成し遂げられます。

 

では、このメッセージはいったい、どのような人に向かって語られたのでしょうか? とてもりっぱな信仰者に向かって、でしょうか。アダムとエバは堕落してしまったので、慈しみ深い神の宣言に関係ないのでしょうか。ダビデはいいけれども、その子ソロモンは贅沢(ぜいたく)に身を持ち崩したので、聞く資格は無いのでしょうか。

 

そうしてイザヤ書46:10の前後を読んでみると、このメッセージが、孤独を味わっている「残りの者」(同上46:3)、「(そむ)く者」(同上46:8)、「心のかたくなな者」(同上46:12)に向けて語られたものだ、と分かります。

 

第二イザヤは、苦難の(しもべ)があらわれ、私たちの罪を(にな)い、背いた者のために執り成すということを預言しました。この預言はやがて、私たちの罪の重荷を担って十字架にかかってくださった主イエス・キリストにおいて成就しました。主の憐れみのまなざしは、すべての者に、とりわけ、罪の深い「(そむ)く者」や「心のかたくなな者」に注がれたのです。主イエスは、そのような一人ひとりに寄り添い、「あなたが不幸であるとか、弱く貧しいとか、目先の出来事で失望することはない、あなたに対する初めの約束は必ず成る」と語りかけられたのです。これは、神に背を向けている者が回心して信ずべきメッセージです。

 

今私たち自身が、「万事が益となるように共に働く」ことを信じきれるかどうか、問われています。信仰者の弱さを知るパウロは、その格言に連係し、以下の節に的確な言葉を配しています。

 

付け加えて言えば、「万事が益となるように共に働く」ということを、まさに(ことわざ)のようなこの言葉を、ローマの信徒への手紙8章の文脈から抜き出してしまうならば、どうなるでしょうか。それでは、お(まじな)いのように唱えれば、自分は何もしなくていい、ということになりかねません。聖霊の執り成しに(まか)せることは大事ですが……。そこで、パウロは次節で、キリストとの関係において、信仰者が「万事が……」を受け止めるように導きます

 

ローマの信徒への手紙8:29―― 

 

神は前もって知っておられた者たちを、御子の姿に似たものにしようとあらかじめ定められました。それは、御子が多くの兄弟の中で(ちょう)()となられるためです。

 

「神は前もって知っておられた」、また、「神はあらかじめ定められました」(ローマ8:29,30)という言葉が気になる方がおられることでしょう。これらは、永遠の昔に、神が救いに入れる者と入れない者を選び分かたれたということを証拠立てる聖句として引用されることがあります。確かに、自分は選ばれた人間なのか、あるいは、自分は神が前もって知っておられた者たちに属するのか、と()(まど)わせられます。神はすべての人を救いに招いておられると同時に、神はあらかじめ人間一人ひとり、どのように救うのか、決めておられるのでしょう。しかし、ここで大切なことは、神は前もって知っておられた一人ひとりに対して御計画(ローマ8:28、イザヤ書46:10)を持っておられたということです。神は私たちに自由を与えてくださっていますが、基本的に神は、自分や教会がどのように歩んでいくのかについて、見通しを持っておられたのです。

 

そこで、この節の中心的使信を汲み取りましょう。

 

「御子の姿に似たものにしよう」というのは、神の以前からの(おぼ)()しです。つまり、「万事が益となる」、その一番の「益」 the good は、私たちが「御子の姿に似たもの」になるということです。これこそ、グッドニュースなのです。

 

自分が幸せである、人に迷惑を掛けない、などというのも、良いことですが、神がお考えになっている「益」は、「弱いわたしたち」が「聖なる者」(ローマ8:27)とされ、「神を愛する者」(ローマ8:28)に変えられることであり、その究極・目標 the end が「御子の姿に似たもの」にさせられるということです。

 

私たちにとって、これがグッドニュースでしょうか? その通り、アーメン、ハレルヤ、これぞ、良き知らせです! 私たちの希望です。

 

もちろん、ここで、私たちがキリストになる、と言ってはいません。そうではなく、数々の苦難を乗り越えられた主イエス・キリスト、人の憎しみに()いながらもその敵を愛そうとされた主イエス・キリスト、そのお方に似たものになる、これほどの恵みはありません。この神の恵みに基づいて、パウロは自分自身、「一つのとげ」(Ⅱコリント12:7)にさいなまれながらも、彼は「万事が益となる」と言い切ることができたのです。

 

洗礼の恵みにあずかった者たちは、何とも頼りない自分でありながらも、今現在において、「御子の姿に似たもの」になっています。主イエスが「(ちょう)()」・長男で、私たちはその兄弟姉妹になることが許されています。しかし、それが本当に成就するのは、私たちが再臨の主イエス・キリストにお会いした時です。

 

フィリピの信徒への手紙3:20-21――

 

20 しかし、わたしたちの本国は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主として来られるのを、わたしたちは待っています。21 キリストは、万物を支配下に置くことさえできる力によって、わたしたちの卑しい体を、御自分の栄光ある体と同じ形(=似たもの ローマ8:29)に変えてくださるのです。

 

終わりの時に、私たちは栄光に輝く体、朽ちない者に変えられます(Ⅰコリント15:52、Ⅰペトロ1:7)。将来、それは完成するのです。

 

2月下旬、関係幼稚園の年長の子どもたちが教会を訪ねてくれました。卒園にあたり、教会で礼拝をささげるためです。その際に、キリスト教にまつわる、牧師への質問コーナーがありました。二つの質問のうち、一つは、こういうものでした。

 

神さまと人は、どうして同じ形なのですか?

 

これが子どもたちの(非常に深い)質問か、と驚きながらも、次週の説教テキストに「御子の姿に似たものにしよう」と記されていることを想起し、慎重に回答を考えました。

 

もし、神と人とがどうして同じ形なのか、という問いを、子どもたちが抱き続けてくれるとすれば、これは幸いなことです。なぜなら、教会は、聖書は、これに対する明確な回答を、その子に差し出すことができるからです。今回、子どもたちはとても大切な質問をしてくれました。

 

この度の教会訪問の際には、「神さまはみんなのことを、一人ひとりとても愛していてくださるから」とシンプルに答えました。ただ、「神と人とがどうして同じ形なのか」という問いに対する回答は、時系列において考えてみると、より明瞭になります。

 

天地創造の時、神はご自身の形にかたどって、人を創造されました(創世記1:26-27)。そう言われても、その時いなかった私たちには、よく分からないことかも知れません。しかし、神の姿にかたどられたということは、間違いなく、神は人を愛してくださったということです。それが、人類の始まり、わたしやあなたの始まりです。神は神に似たものとして、それぞれの個人を誕生させられました。

 

ところが、人はうそをつくまいと思っても、うそを言ってしまいます。けんかしてはいけないと思っても、けんかするか、(いん)にこもって憎しみを抱きます。ということで、神の形にかたどられたところを出発点としながらも、私たちの実際の「姿」はずれたものとなっていきます。どんどん神の形から離れていっています。

 

この事態の中で信仰者は、ずれていかないよう、主イエス・キリストの救い、聖霊による執り成しによって踏み止まることを祈り求めます。端的に言えば、そこでこそ、「キリストに従う」(マタイ8:22、Ⅰペトロ1:2)ことです。

 

そうした罪の闇との戦いの中で、「神と人とが同じ形である」という初めのメッセージの重さが発揮されます。どうしてか?

 

それは、人が「初めの姿」(エイコーン ローマ8:29)に戻る、正確には、新しくされ(きよ)められて「似姿」に帰るということです。ひと(たび)(まよ)ったとしても、そこに帰ればよいのです。

 

イエス・キリストは、この世に宿られました。受肉されました。神の形にかたどられた者として、私たちの中で「(ちょう)()」となってくださいました。「キリストに従う」というのは、私たちが「御子の姿に似たもの」であることを、今大切し、そしてそのことに将来の希望をかけるということです。神の子であり人の子であるイエス・キリストに従う、もし離れたらその方に帰って行くのです。

 

「それは、御子が多くの兄弟の中で(ちょう)()となられるためです」には、私たちが神の家族として育成されることが示されています。尊いお方、主イエスが、私たちの長男となっておられます。そのような主の兄弟姉妹たちになることが私たちに許されています。この神の家族において、「万事が益となるように共に働く」のです。今つらく悲しい思いのうちにある兄弟に、今恵みを受けている姉妹が寄り添うのです。教会が全体として、「益に向かっている」、 into the good であることを現したいと願います。

 

ローマの信徒への手紙8:30――

 

神はあらかじめ定められた者たちを召し出し、召し出した者たちを義とし、義とされた者たちに栄光をお与えになったのです。

 

この節について故竹森満佐一牧師は、「この文は、喜びをもって口ずさみたくなるほどのリズムを持っている」と述べられています。最悪の日にも、讃美をもって信仰を告白し続ける(使徒言行録16:25)というのが、神の家族の礼拝です。そこに、讃美の力があります。

 

神があらかじめ定められたように、信仰者を、「召す」⇒「義とする」⇒「栄化する」(栄光を与える)というのは、まさに「栄光への道」です。私たちは幾多の障壁を越えて、前進しています。説教の冒頭にお話ししたことですが、神は聖霊を遣わし、きちんと目標に到達するように、私たちを導いておられます。

 

私たちが神に「召し出された」というのは、一人ひとりの誕生において神が愛し呼びかけてくださったことと同時に、具体的にこの世において各人の職務や奉仕に招き入れられていることを示しています。神により生を()けて、私たちは人生を歩み始めたのです。そこに、具体的な使命を全うすべく、歴史的に刻まれた、かけがえのない、私たちの一歩一歩があります。

 

そして、私たちは主イエス・キリストの十字架と復活により「義とされた」者です。罪を(きよ)められた今、(ただ)しく・まっすぐに進む者とさせられました。

 

そして将来、再臨の主との出会いにより、「御子の姿」と同じくされ、「栄光を与える」という約束が私たちに与えられています。

 

今のこの事態の中で、「万事が益となるように共に働く」というパウロの言葉、いや、キリスト教の中心のメッセージを堅く信じて、一週間を過ごしましょう。

 

 

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