礼拝、説教

主日礼拝                                                                                                2021年 11月28日 

待降節 第1主日(降誕前 第4主日) 

  

招き   前奏

招詞   詩編127編 1節

頌栄   544

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  96

交読文  43 イザヤ書53章 

旧約聖書 エズラ記 9章1節~15節(p.735)
新約聖書  テモテへの手紙一 3章14節~16節(p.386)

賛美歌  393

説教   「わたしたちの目に光を与える神」

               小河 信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  194

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   545

祝祷 

後奏

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2021年11月21日「そうすれば、天に宝を積むことになる」
マルコによる福音書10章17節~22節
211121_0107.MP3
MP3 オーディオファイル 29.0 MB
2021年11月14日「敬うべき人は敬いなさい」
ダニエル書4章14節
ローマの信徒への手紙13章1節~7節
211114_0106.MP3
MP3 オーディオファイル 27.7 MB
2021年11月7日「悲しみは喜びに変わる」
エレミヤ書31章13節
ヨハネによる福音書16章16節~24節
211107_0104.MP3
MP3 オーディオファイル 20.1 MB
2021年10月31日「すべての人の前で善を行う」
申命記 2章35節
ローマの信徒への手紙 12章14節~21節
211031_0103.MP3
MP3 オーディオファイル 29.2 MB

〈説教の要約〉

2021年 11月28日  アドベントに入る。                  

旧約聖書 エズラ記 9章1節~15節

新約聖書 テモテへの手紙 3章14節~16節

      「わたしたちの目に光を与える神」

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしはぼう然として座り込んだ    ……エズラ記9:1-5             

Ⅱ わたしたちの目に光を与えるために     ……エズラ記9:6-9

Ⅲ わたしたちの重い罪悪をも そう重く見ず                 

                      ……エズラ記9:10-15  

Ⅳ キリストは異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられた                      ……Ⅰテモテ3:14-16      

 

本日より、イエス・キリスト降誕前の待降節に入ります。初めに、今回の旧新約のテキストと待降節との連関をお話しします。

その連関を説き明かすために、シメオンの讃歌を引用しましょう。これは、御子イエスが清めの儀式を受けるために、神殿に上ったときに歌われたものです。

ルカ福音書2:22,25,28,30-32――

22 さて、モーセの律法に定められた彼らの清めの期間が過ぎたとき、両親はその子を主に献げるため、エルサレムに連れて行った。…… 25 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。…… 28 シメオンは幼子を腕に()き、神をたたえて言った。

30「わたしはこの目であなたの救いを見たからです。

31 これは万民(ばんみん)のために整えてくださった救いで、

32 異邦人を照らす啓示の光、

あなたの民イスラエルの(ほま)れです。」

ユダヤ人の律法(レビ記12:1-8)に(のっと)って儀式が行われる中で、シメオンは「異邦人を照らす啓示の光」を(あお)ぐことになりました。主イエス・キリストの救いによって、世界の隅々にまで、「あなたの救い」・「啓示の光」が行きわたるということです。

(とぼ)しい献げもの(山鳩一つがいまたは(いえ)(ばと)(ひな)二羽 ルカ2:24)しか()し得ないヨセフ・マリアの夫婦が、シメオンに迎え入れられました。このユダヤ的な儀式を通して、イエスが(うい)()の男子であり、神のものであることが(おおやけ)にされました。キリストは肉において現れた」(Ⅰテモテ3:16)とは、このことです。

わずかな、貧しい人々しか立ち合っていないような出来事です。「聖霊がとどまっていた」シメオンに、「これは異邦人を照らす啓示の光です」とのメッセージが示されました。ここで、主イエス・キリストの御業について、「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)、そして、「万民(ばんみん)」へと至ることが予告されました。

主イエス・キリストによる神の救いは、ユダヤの人々の思い、律法に忠実な信仰者の予測を超えていったことが、実証されます。シメオンは、「わたしはこの目であなたの救いを見た」人間として、世の人すべての上に、まことの光が輝くことを証ししました。彼は年老いてなお、神が世にもたらす偉大なる〈転換・逆転〉を受け容れました。シメオンは、今「神殿の外の庭」(エゼキエル書40:17、ヨハネ黙示録11:2)にいて、幼な子の祝いの儀式に立ち会えない異邦人も、やがて救いの輪に入れられるということを信じました。

ユダヤ人と異邦人との関係の面で、エズラ記9:6-15⇒テモテへの手紙 3:14-16への展開において、偉大なる〈転換・逆転〉が起こっています。それはまさに、世の人すべての救い主を迎える準備をなす待降節にふさわしい知らせです。どのような〈転換・逆転〉が、わたしたちの前に現れるのか、期待しましょう。

わたしたちは一面では、「数々の大きな悪事と(ざい)()のゆえに受くべき艱難(かんなん)」(エズラ記9:13)に恐れおののく者であります。災いにがんじがらめになって、身動きの取れないことがあります。しかし、主イエス・キリストの降誕の出来事は、「その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)ことを告げるものであります。

今そうなっていないとあきらめずに、待望することです。書記官エズラと同労者パウロ・テモテとの、活動期間には、およそ500年の隔たりがあります。待って待ってのことかも知れませんが、主にある忍耐のうちに、喜びの時代が到来しました。

 

Ⅰ わたしはぼう然として座り込んだ                          

エズラ記9:1-5――

1 このような事があって後、長たちがわたしのもとに来て、言った。「イスラエルの民も、祭司も、レビ人も、この地の住民から離れようとはしません。カナン人、ヘト人、ペリジ人、エブス人、アンモン人、モアブ人、エジプト人、アモリ人と同様に行うその住民の()まわしい行いに従って、2 彼らは、自分のためにも息子たちのためにもこの地の住民の娘を嫁にし、聖なる種族はこの地の住民と()じり合うようになりました。しかも、長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです。」

3 わたしはこのことを聞いて、(ころも)とマントを裂き、髪の毛とひげをむしり、ぼう然として座り込んだ。4 また、この()(しゅう)の民の悪事に対するイスラエルの神の裁きの言葉を恐れる者は皆、わたしのもとに集まって来たが、夕べの献げ物のときまで、わたしはぼう然として座り続けた。5 夕べの献げ物のときになって、かがめていた身を起こし、裂けた衣とマントをつけたままひざまずき、わが神、主に向かって手を広げ、祈り始めた)。

 

〈歴史年表〉

539年 ペルシア、バビロニアを征服

538年 ペルシア王キュロスの勅令。ユダヤ人への祖国帰還と

     神殿再建の許可

515年 第二神殿完成    

この間に、礼拝と倫理の堕落が起こる。参照:マラキ書1:62:17

458年頃 書記官エズラのエルサレム派遣

このような事があって後」、バビロニアによって連行された地から、再建の切り札(エース)として、エズラはエルサレムへと(のぼ)って行きました。彼に率いられた会衆の総数は、42,360人であったと言われています(エズラ記2:65)。エルサレムに到着し、三日間休息を取りました。その後、祭司やレビ人の長たちがエズラのもとにやって来ました。

話の主旨は、「聖なる種族はこの地の住民と()じり合うようになった」との事でした。すなわち、七つの異民族の「娘を(息子の)嫁にする」という「国際結婚」が生じていると言うのです。エズラたちが帰還したばかりで「婚活、(はや)?!」と思いますが、実は、バビロニアからのユダヤ人・第一次帰還(538)以降、そうした慣習が広まっていたということでありましょう。

天にいます神の律法の書記官」(エズラ記7:12,21)と呼ばれるエズラは、以下の条文を知っていたはずです。

申命記7:1-3 主なる神→モーセ――

1 あなたが行って所有する土地に、あなたの神、主があなたを導き入れ、多くの民、すなわちあなたにまさる数と力を持つ七つの民、ヘト人、ギルガシ人、アモリ人、カナン人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人をあなたの前から追い払い、2 あなたの意のままにあしらわさせ、あなたが彼らを()つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない。3 彼らと縁組みをし、あなたの娘をその息子に(とつ)がせたり、娘をあなたの息子の嫁に迎えたりしてはならない。 

これは、イスラエルの民がカナンに入り、エルサレムなどの町に住み始まる前に、神から与えられた警告です。北イスラエル王国が滅び、そして南ユダ王国が滅び、遠い国へと流されるという大惨事の中で、ユダヤ人の倫理道徳は地に()ちてしまいました(皆さんがお尋ねになりたいであろう、「国際結婚」の正当な認識については、で触れることになりますので、お待ちください)。

異邦人の女性との結婚という以上に、「聖なる種族」の尊厳に関わることが問題でありました。そこに、あなたがたと神との関係が危機に(ひん)するのではないか、あるいは、あなたがたの「主の聖なる民」・「御自分の宝の民」(申命記7:6)としてのアイデンティティが喪失されるのではないか、という根本的な問いかけがありました。

この地の住民から離れようとはしません」とありますが、俗なる世から神の側に、「分離区別される」というのが「聖なる」(ヘブライ語:コーデシュ エズラ記9:2,8)という言葉の語源になります。「聖なる」お方につき従うことが、ユダヤの民の本来的な立ち位置アイデンティティです。

あなたがたは異邦人の「()まわしい行い」(ヘブライ語:トエヴァー エズラ記9:1,11,14)に従った、と告発されています。他の旧約聖書箇所を見ると預言者たちは、トエヴァーという用語によって、ユダヤの民が偶像崇拝に走っていることを非難しています。「木の切れ(はし)」が偶像となり(イザヤ書44:7)、「バアルの高台」(エレミヤ書32:35)が異端の巣窟(そうくつ)となりました。それが、ユダヤ人の避けるべき「()まわしい行い」、トエヴァーです。

異民族の「娘を(息子の)嫁にする」とすることにより、偶像崇拝が浸透してしまったという悪名高い事例があります。すでにモーセの律法、すなわち、異邦の民との「縁組み」禁止を熟知している指導者が犯した罪です。

列王記16:30-33――

30 オムリの子アハブ(北イスラエルの王)は彼以前のだれよりも主の目に悪とされることを行った。31 彼はネバトの子ヤロブアムの罪を繰り返すだけでは満足せず、シドン人の王エトバアルの娘イゼベルを妻に迎え、進んでバアルに仕え、これにひれ伏した。32 サマリアにさえバアルの神殿を建て、その中にバアルの祭壇を築いた。33 アハブはまたアシェラ像を造り、それまでのイスラエルのどの王にもまして、イスラエルの神、主の怒りを招くことを行った。

異邦人・イゼベルはアハブ王との婚姻を契機として、その支配力を発揮しました。その結果、「バアル」と「アシェラ」への熱狂的崇拝の影響下に、イスラエルの宗教と政治が置かれることになりました。

特殊な事例ではありますが、「ソロモンが老境に入ったとき、彼女たちは王の心を迷わせ、他の神々に向かわせた」(列王記上11:4)と報告されています。「彼女たち」というのは、エジプトのファラオの娘のほか、多くの外国の女を含む「七百人の王妃と三百人の側室」を指しています(列王記上11:1,3)。

モーセの律法による禁令と顕著な悪例があるにもかかわらず、またしても、「長たる者、官職にある者がこの悪事にまず手を染めたのです」。

エズラの脳裏には、「国際結婚」⇒「偶像崇拝」という最悪のシナリオがよぎったことでしょう。あるいは、「主よ、せめてわたしを召し出されるときに、ひと言、この事態についてご通告いただきとうございました」とこぼしたかも知れません。

エズラはその場に、「ぼう然として座り込みました」(エズラ記9:3,4)。修復された壮麗な神殿を前にして、彼の心は()れすさんでしまいました。れから、「神の裁きの言葉を恐れる者たち」がエズラのもとに集まって来ました。

冷静さを取り戻させたのは、「夕べの献げ物のとき」です。「安息日(シャバット)こそユダヤ人を守ってきた」との言葉どおり、()(ごと)の祈りの時がエズラを守りました。その上、ユダヤ人にとって、新しい一日は夕暮れから始まります。上よりの力を得たかのように、エズラを起こし、ひざまずきました。

 

Ⅱ わたしたちの目に光を与えるために                    

エズラ記9:6-9――

6(エズラは)祈り始めた。「わが神よ、御前に恥じ入るあまり、わたしは顔を上げることができません。わたしたちの罪悪は積み重なって身の(たけ)を越え、(ざい)()は大きく天にまで達しています。

7 先祖の時代から今日まで、わたしたちは大きな罪科の中にあります。その罪悪のために、わたしたちは王も祭司もこの地の王の支配下に置かれ、(つるぎ)にかけられ、捕らわれ人となり、略奪され、(はずかし)められてきました。今日、御覧のとおりです。8 ところが今、ほんの少し前から、わたしたちの神、主の憐れみにより、わたしたちの幾人かが捕囚を(まぬか)れて生き残り、あなたの聖なる所によりどころを得るようにされました。こうして、わたしたちの神はわたしたちの目に光を与え、奴隷の身にありながらも、わずかに生きる力を授けてくださいました。9 まことに、わたしたちは奴隷にされています。しかし、わたしたちの神はわたしたちを奴隷のまま捨て去ることなく、ペルシアの諸王がわたしたちに対して好意を(いだ)くようにし、生きる力を与えてくださいました。こうして、ユダとエルサレムでわたしたちの神の神殿を再建し、廃虚を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。」

わが神」に向かって、エズラは自らを(かえり)、「先祖の時代から今日まで」のユダヤ民族の罪を言い表しました。祈りの終わりまで、「罪深い者として、御前にぬかずいております」(エズラ記9:15)という姿勢が貫かれています。

また、エズラは祈りの中で感謝をもって、大きなものから小さなものまで、神から授けられたものを列挙しています。「ぼう然として座り込みました」という直前の落胆に引きずられることなく、エズラはしっかりと前を見ています。

大きなものとは――

①「わたしたちの幾人かが生き残り……あなたの聖なる所によりどころを

得るようにされました。

②「わたしたちの神は……ユダとエルサレムでわたしたちの神の神殿を再建し、

廃虚を復興し、城壁を得るようにしてくださいました。」 以上、エズラ記9:8,9

小さなものとは――

①「ところが今、ほんの少し前から、主の憐れみにより

②「わずかに生きる力を授けてくださいました」 以上、エズラ記9:8 

①と②の傍点の句には、「メアット」(少しわずか)というヘブライ語が含まれています。

民の指導者が、「細大(さいだい)()らさず」()ているというのは、指導される側にとっても安心です。そしてエズラは大きなものから小さなものまでの背後にあるもの、すなわち、「主の憐れみ」に信頼を置いています。

いつの時代にも、「主の憐れみ」によって、全被造物とその(いとな)支えられています。「主の憐れみ」が「ペルシアの諸王」にまで行きわたっているが故に、彼らが「わたしたちに対して好意を(いだ)くように」なるという奇跡が生まれるのです。

神はエズラに、ユダヤの民の礼拝と倫理を建て直す務めを与えました。「聖なる所」または「神殿」は、神が「わたしたちの目に光を与えるために」造られたものであります。深い闇にすっぽり包まれても、光を得て輝く「わたしたちの目」によって先へと進むことができます。

祈りにおいて、エズラは初めに罪を言い表し(エズラ記10:1)、次に神への信仰、神殿礼拝を重んじる信仰を告白しました。

 

Ⅲ わたしたちの重い罪悪をも そう重く見ず                 

エズラ記9:10-15 エズラの祈り――

10 わたしたちの神よ、こうした()(おん)をいただきながら、今何を申し上げればよいのでしょうか。わたしたちは御命令に(そむ)いてしまったのです。11 御命令は、あなたの(しもべ)、預言者たちによってこう伝えられました。『これから入って所有する地は、その地の住民の(けが)れによって汚された地である。そこは、その(はし)から端まで彼らの()まわしい行いによって汚れに満たされている。12 それゆえ、あなたたちの娘を彼らの息子に(とつ)がせたり、彼らの娘をあなたたちの息子の嫁にしたりしてはならない。あなたたちが強くなり、この地の良い実を食べ、それを永久に子孫の所有とすることを望むならば、彼らと同盟を結ぼうとしてはならない。また、それによる繁栄を決して求めてはならない』と。

13 わたしたちは、数々の大きな悪事と(ざい)()のゆえに受くべき艱難(かんなん)をすべて受けましたが、わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。この後で、14 またしても御命令を破り、その忌まわしい民と縁組みをすることができましょうか。お怒りになって、わたしたちを一人残らず滅ぼし尽くされても当然です。15 イスラエルの神、主よ、あなたは恵み深いお方です。だからこそ、わたしたちは今日も生き残りとしてここにいるのです。御覧ください。このような有様で御前に立ちえないのですが、罪深い者として、御前にぬかずいております。」

この祈りの終わりの部分には、わたしたちの学ぶべき点が多くあります。エズラは一方、祭司やレビ人の長たちからの訴え(エズラ記9:1-2)に耳を傾け、他方、「あなた(神)(しもべ)、預言者たち」による警告(マラキ書2:11-12、ヨシュア記23:12-13)を想起しています。自然な形で、(なま)の人の言葉や聖なる(ふみ)託宣(たくせん)が祈りに溶け込んでいます。そこに、聖霊の導きが現れ出ています。

前面に出ているのは、長たちの訴えに対する執り成しです。すなわち、「その忌まわしい民と縁組みをすることのないように」ということが、神への祈りの課題になっています。(せん)(だつ)である「あなた(神)(しもべ)、預言者たち」の託宣にもかかわらず、実生活の中でその禁止命令を徹底することが、いかに難しかったか、エズラは()の当たりにしています。何か、希望の光は見えるのでしょうか。

この箇所には、先の「わたしたちの神、主の憐れみにより」(エズラ記9:8)という句と並んで、「主よ、あなたは恵み深いお方です」という呼びかけが出ています。必ず、「自分の目に光が与えられる」ことを信じ、今はただ、神の「憐れみ」と「恵み深さ」(原文:(ただ)しさ)に頼りきるということを、エズラはわたしたちに教えています。

そして最後に、エズラの祈りについて、ぜひとも触れたいことがあります。それは、エズラがひざまずき集中して祈る中で、「気づき」が与えられたということです。祈り、すなわち、神との対話において、エズラは神の御心を知る機会を得たのであります。

わたしたちの神、あなたはわたしたちの重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました。」(エズラ記9:13

本来ならば、わたしたちの「数々の大きな悪事と(ざい)()のゆえに」、重罰が科せられるところ、その懲罰が軽減されたということに、エズラは気づいたのであります。そのような、憐れみ深い神の御心を知らされたのです。

祈りの課題である「国際結婚」撲滅(ぼくめつ)の見通しは立っていません。しかし、わたしたちの「悪事と(ざい)()」に対して、神の憐れみが(くだ)される、罪への罰を軽くしてくださるとの「気づき」を得たことは、何よりの幸いです。

主イエス・キリストは、わたしたちの罪への罰を軽くしてくださるという神の御心を、十字架の御業によって示されました。その御業は、「軽くする」という以上に、わたしたちの「悪事と(ざい)()」すべてをご自身が背負ってくださいました。わたしたちが代価を支払うことなく、無償でわたしたちの罪を(きよ)めてくださいました。死と罪の重荷から、わたしたちを解放されました。主イエス・キリストはまさに、「重い罪悪をもそう重く見ず、わたしたちをこのように生き残らせてくださいました」。

異民族との婚姻禁止という(へん)(きょう)さを(はら)みながらも、エズラの祈りには、何事も神の「憐れみ」と「恵み深さ」にゆだねるという信仰の強さと伸びやかさが表れていました。

 

Ⅳ キリストは、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられた

テモテへの手紙 3:14-16――      

14 わたしは、間もなくあなたのところへ行きたいと思いながら、この手紙を書いています。

15 行くのが遅れる場合、神の家でどのように生活すべきかを知ってもらいたいのです。神の家とは、真理の柱であり土台である生ける神の教会です。

 16 信心の秘められた真理は確かに偉大です。すなわち、

キリストは肉において現れ、

において義とされ、

天使たちに見られ、

異邦人の間で宣べ伝えられ、 

世界中で信じられ、

栄光のうちに上げられた。

いよいよ、ユダヤ人と異邦人との関係の面で、エズラ記9:6-15⇒テモテへの手紙 3:14-16への展開において、偉大なる〈転換・逆転〉が起こっていることを説き明かしましょう。

鍵は、リストラ出身のテモテ(使徒16:1)に、パウロが福音を告げ知らせているという点にあります。リストラ(ルステラ)は、小アジアのローマの属州ガラテヤにある町です。ギリシア語「リストラ」の原意は不明ですが、英語の「リストラクチャー」restructure 再構築に掛けて、リストラの町で画期的なリストラ・再建が起こったと、ご記憶ください(ちなみに、日本語のリストラには、「人員削減」や「整理解雇」というニュアンスがあります)。

さて、パウロがリストラで出会い、そこから第2回伝道旅行(使徒15:4018:22)に同伴することになったテモテを紹介しましょう。

使徒言行録16:1-3――

1 パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人(エウニケ)の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。2 彼は、リストラとイコニオンの兄弟の間で評判の良い人であった。3 パウロは、このテモテを一緒に連れて行きたかったので、その地方に住むユダヤ人の手前、彼に割礼を授けた。父親がギリシア人であることを、皆が知っていたからである。

なんと、テモテは、ユダヤとギリシアとの間の、「国際結婚」による子どもでありました。テモテの祖母ロイスと母エウニケ、共にキリスト教信者でありましたが(Ⅱテモテ1:5)、ギリシア人である女婿(じょせい)または夫を受け入れていたということです。ユダヤ人のしきたり(レビ記12:3)に従って、出生時に割礼を施すこともありませんでした。

リストラ(英語では「再構築」の意)出身のテモテ、ユダヤ人とギリシア人の両親を持つテモテ、その彼がパウロを通して神の召しを受けました。今や、「国際結婚」についての旧約の偏狭な考え方は打ち砕かれました。ついでに言えば、パウロは独身者です(Ⅰコリント7:7,32,38)。テモテの抜擢(ばってき)で、パウロの伝道旅行は一新されました。

書記官エズラは、「国際結婚」撲滅(ぼくめつ)祈りの課題(かか)げましたもちろん彼の祈りは、罪と信仰の告白、そして、神の御心への気づきの点で尊いものでありました。それから、およそ500年の歳月が過ぎました。パウロが同労者テモテに書き送った手紙に、新しい展開が記されています。

同一民族との結婚によって、信仰を堅持する必要は、もはやなくなりました。なぜでしょうか? 当時に、パウロとテモテは離れた所にいたようですが、パウロは、すぐにでもあなたに会いたいという願いを(いだ)きつつ、テモテへの手紙によって福音〈喜びの知らせ〉を告げました。

キリストは肉において現れ、

異邦人の間で宣べ伝えられ、 

世界中で信じられ、

栄光のうちに上げられた。

これが、信心の秘められた真理です。神の大いなる救いの計画とその実行によって、ユダヤ人と異邦人との隔ての壁が取り払われました(エフェソ2:19)。ここに、偉大なる〈転換・逆転〉が起こりました

エズラが(あお)ぎ見た聖なる所によりどころ」である「神の神殿」は、主イエス・キリストを(もとい)として再構築されました。それが、「真理の柱であり土台である生ける神の教会」であります。「教会」が「キリストの体」と言われる(コロサイ1:24ほどに、「大きなもの」となりました。

エズラや民の長たちは、異民族と縁組みしてはならないという律法を追い求めましたが(ローマ9:31)、その達成には至りませんでした。そのことは、キリストの福音宣教において、国際カップルの子ども・テモテが用いられたことにより否定し得ないものとなりました。テモテが召し出された直後、パウロとテモテはエーゲ海を越えてギリシアへと(使徒16:10-11)、開拓伝道に乗り出しました。「真理の霊がこれから起こることをあなたがたに告げる」(ヨハネ16:13)という聖霊の風が吹き巡りました。

主イエス・キリストの福音とは、あたかも讃美歌の歌詞のごとく、「キリストは肉において現れ、異邦人の間で宣べ伝えられ、世界中で信じられ、栄光のうちに上げられた」ことであると明示されました。

 

神の神殿」・再建の切り札(エース)エズラの奉仕と祈りは、偉大なる〈転換・逆転〉を経て、リストラ(再構築)出身のテモテに引き継がれました。ユダヤ民族の歴史に通じ、「生ける神の教会」を建てることの困難さを知るパウロが寄り添っていました。「わたしたちの神はわたしたちの目に光を与えるために」働き続けておられます。光の降誕祭・クリスマスを待ち望みましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 11月21日  ~大人と子どもの合同礼拝~               

新約聖書 マルコによる福音書 10章17節~22節

     「そうすれば、天に(たから)を積むことになる

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 主イエスの御前での問い        ……マルコ10:17             

Ⅱ 主イエスの教え 神を信じなさい      ……マルコ10:18

Ⅲ 十戒についての愚かな答え       ……マルコ10:19-20  

Ⅳ 主イエスの教え  わたしに従いなさい ……マルコ10:21          

Ⅴ 自分のところに戻る                 ……マルコ10:22

 

これは、ひとりとひとりが出会って、ひとつのことを(めぐ)って対話するという物語です。その内のひとりは、主イエスで、もうひとりは、ある男を指しています。その人について、「たくさんの財産を持っていた」(マルコ10:22)とありますが、詳しいことは分かりません。ですから、そのもうひとりは、「あなたである」と受け止められるよう(とびら)が開かれています。

光〈ひとり〉が闇〈もうひとり〉に入り込んで来て、真の救い〈ひとつのこと〉があらわされました。ひとつに集中して、読みましょう。〈ひとり〉と〈もうひとり〉とが問答し、〈ひとつのこと〉が示されることの中に、わたしたちの人生の出会いも挫折も、そして希望も、すべて含まれています。

結末は、あっけなく終わります。福音書の中で、主イエスが伝道されていた時の出来事として、最も悲しい物語の一つとさえ言われます。というのも、主イエスの招きへの明解な応答なく、この人はその場から姿を消していったからです。

ところで、「もうひとりがあなた」だとしたら、即答できるでしょうか。「はい、わたしはここにおります。わたしはあなたに従う(しもべ)です」と答えられるでしょうか。その意味ではこの物語には、わたしたちの応答を〈神が待っている〉という隠されたメッセージがあると言えましょう。信仰を授けてくださる神に対し、あなたが応答するところから、あなたの信仰の人生が始まります。

 

Ⅰ 主イエスの御前での問い                   

マルコ福音書10:17――

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

主イエスはある町での滞在を終えて、旅に出て行かれるところでした。十字架の道に向かって、都エルサレムをめざしておられました(マルコ10:32)。

ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」の描写には、その人の一生懸命さがにじみ出ています。かけがえのないチャンスを逃してはならないという思いが伝わってきます。

その道の途上 on the road にて、ひとりがひとりと出会いました。ひとりの人間の人生が、主イエス・キリストと(こう)()ました。このまま、主イエスについて行けば、神の大いなる救いの業、十字架の出来事を目撃することも可能でありました。まさに、わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と告げられる主イエスが、救いを求めているひとりの人間に、道の途上で出会われました。

善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。……問いの内容を吟味する前に、しっかり()えるべきことがあります。

それは、この人が主イエスの御前で、自分というものを正直に(かえり)みたということです。わたしたちが、「主イエスの御前」に立つときに、まだ自分が知らないことに、あるいは、自分が願っていることに、光が当てられるということです。いつも自分が「主イエスの御前」にあるならば、主に問いかけ、その答えを待ち受け、自分の進むべき方向を決めることができるでしょう。

そこで、問いの内容の吟味に入りましょう。

「①善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。

①②③の箇所に「添削」が必要と思われますが、最初に言うなら、このままでも良いと思います。なぜなら、この人にとって重要なのは、主イエスに教えられることであって、完璧な問いをつくり出すことではない、からです。「どうですか、完璧な問いでしょう」と、ドヤ顔を見せるのは高慢です。それでは、答えをもらっても、うわの空、答えの中にある指示を聞き逃してしまいます。質問の「添削」はで行うことにして、主イエスからの答えを見てみましょう。

 

Ⅱ 主イエスの教え 神を信じなさい     

マルコ福音書10:18――

イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

 ある人の問いについて、の言葉の問題点を、主イエスご自身が指摘されています。これは、ひとりとひとりとの出会いに関わる根本的な事柄でありました。

問題は単に、「善い先生」という言葉遣いの(あやま)りということではありません。ある人が出会ったばかりの、主イエスがどういうお方なのか、ということが大問題なのです。最初に、それを誤ることなく、見定めておくことです。

それが、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というその「」の立場で、「主イエスがどういうお方なのか」を(とら)えるということです。これこそ、幾度も問い返しつつ、このある人が明確に受け止めるべきことです。

・主イエスは神がこの世に遣わしたお方である。

・主イエスは神の愛と義を、十字架と復活の御業によってあらわされるお方である。

・「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と、信仰者に勧めるお方である。

主イエスが、わたしたちに対し第一に、「」・御父に目を向けされる理由は、「主イエスがどういうお方なのか」についての、上記の説明から明白であります。主イエス・キリストは、「善い先生」という呼称に収めきれるお方ではありません。

引き続いて、ある人の答えの②と③を「添削」しましょう。その言葉遣いの微妙な誤りには、その人の信仰上の弱さや(とぼ)しさが反映しています。愛をもって、正しい答えへと導きましょう。

「①善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。

主イエスが、信仰者に向かって永遠の命を受け継ぐ(であろう)」(マタイ19:29)と宣言された事例は確かにあります。ただし、この人の答えにおいては、何かを③「して」、遺産のように②受け継ぐ」、それも今受け継ぎたいというようなニュアンスが含まれています。

何かを③「して」ということに力が入ると、行為義認になります。神の救いにあずかるという信仰は、どこにいったのでしょうか。結局、義の律法を追い求め(ローマ9:31)、それを実行することに、熱を上げることになりかねません。

一応、問いについての修正案をあげると、こうなります。

主イエスよ、神の賜物である永遠の命にあずかるには、何を信じたらよいのでしょうか。

(これでよいかどうか、主よ、お教えください

繰り返しますが、「主イエスの御前」では、どんな質問をも許されるはずです。自分がへりくだり、神は答えてくださるという基盤に立つことです。くどくどと言葉を述べるのは、避けるべきです。それは、大通りの角に立って、神への祈りを人に聞かせるようなものです(マタイ6:5)。神への讃美と感謝から始めて、主イエスに、自分の願い求め、嘆きうめき、そして質問を打ち明けるというのが、正しい姿勢でありましょう。

以上、ここまでのまとめをしましょう。ある人が主イエスに出会い、(とっ)()のことながら、主イエスに不十分問いが出されました。これに対し主イエスは、信仰入門として、「神おひとり」に心を傾けるように、つまり、「神を信じなさい」と勧められたのであります。

 

Ⅲ 十戒についての愚かな答え        

マルコ福音書10:19-20――

19(イエスは言われた。)「『殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という(おきて)をあなたは知っているはずだ。」 20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

主イエスは、善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか(マルコ10:17)との問いから、質問者を軌道修正させようとしておられます。神に(まと)(しぼ)られていなかったので、神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と告げられました。

その次に出てきたのが、十戒(第6-10戒)です。文字通り、神の律法です。あなたという関係が問われたのだ、と見れば、を提示した直前のとつながります。そして、あなたという関係が不十分であることが(あば)き出されます。自分が「主イエスの御前」にあって、(まと)(しぼ)られるならば、当然そこに、自分の罪または(みじ)めさが見えてきます。

 

答 神の律法によるのです

このひとりの人は、「あなたは(十戒を)知っているはずだ」と、主イエスから問いただされました

ハイデルベルク信仰 問3――

 何によって、あなたは、あなたの(みじ)めなことを、認めることができるのですか

そこで、彼は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。「愚かな答え」とは、このことです

推察の域を出ませんが、彼は十戒(第6-10戒)すべてを「守ってきた」わけではないでしょう。例えば、「父母を敬え」ということに、自分は申し分ない、と評価しうる人がいるでしょうか。それよりも根本的な問題は、神の律法である十戒から自分は何を教えられたか、ということです。

この人は、守ってきました」と、まるで(よろい)で身を固めているかのようです。自分の主張にこだわっています。しかし、この人のなすべきことは、「あなたは(十戒を)知っているはずだ」との主イエスに呼びかけに促されて、「神が十戒をもって自分に何を教えてくださったのか」を静思することでありました。自分が「守ってきた」かどうかは、神の判断にゆだねればよいのです。

神の律法・十戒を唱える者に(あら)わにされるのが、ハイデルベルク信仰 問3にあるように、「あなたの(みじ)めなこと」です。自分が罪深い者であり、神から救われなければ、生きることも死ぬことも(むな)しい、と認めることです。

この男が「みな、子供の時から守ってきました」と即答したことによって、(はか)らずも彼が自分の惨めさや罪に向き合っていないことが(あら)わになりました。主イエスは深く嘆かれたと同時にこの人を憐れに思われたことでしょう。

 

Ⅳ 主イエスの教え  わたしに従いなさい        

マルコ福音書10:21――

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

主イエスの教え①「神を信じなさい」から 主イエスの教え②「わたしに従いなさい」へというように、ある人への導きがスムーズに進められています。詳しく見てみましょう。 

まず主イエスは、愚かで、つっぱった返答をした「彼を見つめ、慈しんで言われ」ました。「慈しんで」は意訳で、原文では「イエスは彼を愛した」と書かれています。「(イエスは)世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された」(ヨハネ13:1 口語訳)ということが、ここで実証されています。

あなたに欠けているものが一つある」という〈ひとつのこと〉について、で次のように述べました。

光〈ひとり〉が闇〈もうひとり〉に入り込んで来て、真の救い〈ひとつのこと〉があらわされました。》

〈ひとつのこと〉を真の救い」と言い直しましたが、この会話に即して見てみましょう。

あなたに欠けているものが一つあるという理由は、「行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」との命令を、この人がまだ実行していないことにあります。その命令を遂行するならば、「天に富を積むことになる」と言います。

ここで、注意深く読み取る必要があります。貧者への施しの命令を実行したら、この人に「欠けているもの」が無くなるということではないでしょう。確かに、(いさぎよ)いほどの施しは難しいことですが、そういう行為・善行の欠けが問題になっているわけではありません

むしろ、貧者への施しによって、「天に富を積む」という神の喜ばれることを果たしているかどうか、そこが重要な点です。たとえ貧者への施しを(こな)ったとしても、それにより、自分の名声を求めるのでは、「天に富を積む」ことにはなりません。つまり、「そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」という神中心の生活が自分のものとなっているか、が重要なのです。そうであるならば、貧者への施しなどの善行が(おの)ずと、その人から(あふ)れ出てくるでありましょう。

真の救いと呼びうる〈ひとつのこと〉とは、一体、どんなことでしょうか?

それは、主イエス・キリストに従っている生活、主イエスの執り成しにより神と一体になっている生活です。つまり、それが、真に救われた人のあり方です。

主イエスは、わたしたちの罪を(あがな)うことによって、わたしたちを聖徒としてくださいました。神と完全に一つであるように、わたしたちを(きよ)めてくださいました。

神と一体であれば、本来は神に属する「永遠の命」に、わたしたちがあずかるという道が開かれます。信仰者の側からすれば、「永遠の命を受け継ぐ」というよりも、神の恵みによって「永遠の命を受ける(であろう)」ことが、やがて成し遂げられるということです。

澄んだ目」(マタイ6:22)をもって見れば、神との霊的な一致を悟ることができます。仮にそれが見通し難いとしても、実際的に、「わたしに従いなさい」という主イエスの招きに応えることによって、神と一体になっている生活が築かれます。あるひとりの人には、キリストへの(しん)(じゅう)(信じ従うこと)という〈ひとつのこと〉が欠けていました。キリストへの信従を基盤とすることが、まだできていなかったのです。

これは、〈ひとり〉が〈もうひとり〉と出会って、〈ひとつのこと〉について問答したという物語です。そのメッセージは、〈ひとり〉が〈もうひとり〉の的外(まとはず)れ(方向違い)を(ただ)して、〈ひとつのこと〉に立ち帰らせるというようにシンプルです。

 

Ⅴ 自分のところに戻る                 

マルコ福音書10:22――

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

で述べたように、結末はあっけなく、悲しい余韻を響かせています。このような結末であるからこそ、わたしたちは信仰の糧を汲み取ることができます。

その人は、「主イエスの御前」から立ち去りました。そうして、「自分のところ」に戻って行きました。自宅か、仕事場か、どこか「自分のところ」に帰りました。言い換えれば、それは、自分の現状を見つめる、あるいは、背伸びすることなく、冷静に我が身と周りを見わたすということではないでしょうか。

そこで、「主イエスの御前」に立っていた自分を、主イエスから教えられたことを、思い起こすならば、自分の罪・弱さ・(みじ)めさなどが見えてくることでしょういかに「たくさんの財産」を用いるかということで、自分の生活を見直すきっかけともなります。本来は、「天に富を積む」という「」がそこにあると気づくかも知れません。

その人は大きな問いの前に立っています。神の備えておられる、真の救い〈ひとつのこと〉に立ち帰るのか、それとも、自分のところに戻ってしまうのか、という分かれ道に立っています。主イエスの招きの声が響く中、「子供の時から(十戒を)守ってきました」と言い張る者、あるいは、貪欲(どんよく)に財産を()き集めるにとって、悔い改めるチャンスがそこにあります。

この男はユダヤの辺境に住んでおり、その地を主イエスが訪ねて来られました(マルコ10:1)。彼にとって、真の救い〈ひとつのこと〉に立ち帰るというのは、今、十字架の途上におられる「主イエスに従う」ということです。都エルサレムへの「旅に出よう」(マルコ10:17)とされている主イエスについて行けばよいのです。父祖アブラハムや十二弟子のヤコブやヨハネが、故郷を後にして旅立ったように(創世記12:4、マルコ1:20)……。

不思議なことに、その時、「あなたに欠けているものが一つある」という欠けが満たされます。神の恵みにより、無償でそのようになります。穴を掘り、「たくさんの財産」を隠しておくような生活(マタイ25:18)から解放されます。

この物語は、自分の人生を〈ひとつのこと〉に掛けること、すなわち、父なる神の喜ばれる、主イエス・キリストに従う生活とその信仰の大切さを教えています。

 

 

Ω

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〈説教の要約〉

2021年 11月14日            

旧約聖書 ダニエル書 4章14節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 13章1節~7節

      「敬うべき人は敬いなさい」  

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 人間の王国を支配するのは、いと高き神である 

                   ……ダニエル書4:14              

Ⅱ 人は皆、上に立つ権威に従うべきです  

                      ……ローマ13:1-2 

Ⅲ 良心のためにも、これに従うべきです   

                      ……ローマ13:3-5    

Ⅳ 敬うべき人は敬いなさい     ……ローマ13:6-7           

 

本日の聖書箇所で、パウロは極めて珍しくも、上に立つ権力とキリスト者の関係を語っています(他に、Ⅰテモテ2:2、テトス3:1)。「上に立つ権力」というのは、「権威者」(ローマ13:1,2,3 原意:合法的である)や「支配者」(同上13:3 原意:治める)を指しています。具体的には、王や皇帝から役人や(ちょう)(ぜい)(にん)などに至るまで権威」を持った官憲(かんけん)ということです。

このような「権威者」とキリスト者の関係がデリケートな(扱いが難しい)問題であることは、指摘するまでもありません。それに関して、個人の考えや立場の自由が保証されるべきであります。実際、ここでパウロは、「権威者」とキリスト者の関係について、原理原則を打ち出しているわけでありません(ただし、今日でもローマ13:1-7は「上に立つ権力への服従」の原則を示していると解釈する人々もいます)。

そもそも、その「権威者」がキリスト者であるか否か、パウロはどう考えているのか、教えてほしいと言われるかも知れません。彼らについては、ただひと言、「今ある権威はすべて神によって立てられた」(ローマ13:1)と述べられているのみです。

トピック(話題)は異なりますが、前章の「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:5)との勧めと、「上に立つ権力への服従」とを重ね合わせてみましょう。説教要約(ローマ12:14-21)より――

〈ここでもパウロは、自分の周りの「喜ぶ人」や「泣く人」と対面して、「」(アガペー)に基づいて、どのように振る舞うのが、「」(善いこと)なのか、を考えようとしています。その答えが、「」をもって深い同情のうちに、「喜ぶ人」や「泣く人」に寄り添うということなのです。〉

ここで、「喜ぶ人」や「泣く人」というのは、教会の外の人々という前提ですから、「に基づいて……」という接し方は権威者」や「支配者」についても当てはまります。」をもって深い同情のうちに、という基本線を維持しながら、パウロはいわゆる政治的権力との交わり方を説き明かしています。

もちろん、「この世に(なら)ってはなりません」(ローマ12:2)との戒めを忘れてはなりません。罪に引き込まれるような迎合があってはなりません。「この世の型・スタイルにはめられる(染められる)」と、神の憐れみによって、「心を新たにして自分を変えていただく」という最も善い生活が遠のいていきます。

この世」には、不道徳な生活という側面があります。しかし同時に、「この世」というのは、神の救いの来ていない世界、神の救いによって新しくされるのを待っている世界にほかなりません。それ故に、主イエス・キリストの十字架と復活の御業に基づく「善としての愛」をもって、「権威者」や「支配者」の前に立つことが大切です。彼らの「権力」を恐れることなく、キリスト者は「善としての愛」を実践し証しすべきであります。その点では、今回のテキストの勧めは、貴重なものであります。

の最後として、ローマの信徒への手紙が書かれた当時の状況を押さえておきましょう。

パウロが、「権威者」や「支配者」への従属を説いている背景には、当時、ローマ帝国がキリスト教に対し割合に寛容であったという事情があります。「パウロが伝道した1世紀前半においては、ローマ帝国はキリスト教を迫害の対象とはしなかった」(佐藤敏夫)と言われています。

ユダヤはローマ帝国の支配下にある一属州でありました。その頃、パウロがローマ皇帝(ネロ)への上訴を、総督フェストゥスに申し出たことがありました(使徒25:11)。ユダヤ人に訴えられる中で、自分の取り扱いがどうなるか、分からない状況でありました。その際にパウロの採った手段が、皇帝の裁きに身を委ねるということでした。ローマ帝国とキリスト者の関係が険悪ではなかったということを物語っています。

皇帝に上訴しているからと言って、パウロが「権威者」に日和(ひよ)った発言をするわけがありません。帝都ローマの兄弟姉妹のことを覚えつつ、神の憐れみによって、「上に立つ権力への服従」を勧めているのです。

Ⅰで引用するダニエル書は、パウロも読んでいたのではないでしょうか。

権威者 ローマの官憲    パウロまたはローマの教会の人々

↓    600年さかのぼる    ↓

権威者 バビロニアのネブカドネツァル王    ダニエル

という構図になります。ダニエルとパウロには、最強国家の下にある被征服民である同時に、神の霊の宿った信仰者であるという共通点があります。ダニエルとパウロ、両者の間に、権威者」や「支配者」への見方について、連関は見出せるのでしょうか。

 

Ⅰ 人間の王国を支配するのは、いと高き神である               

ダニエル書4:14 天使が大声で呼ばわって ネブカドネツァル王が見た夢の中で―― 

 『この宣告は見張りの天使らの決定により

この命令は聖なる者らの決議によるものである。

すなわち、人間の王国を支配するのは、いと高き神であり、この神は()(むね)のままにそれをだれにでも与え、また、最も(いや)しい人をその上に立てることもできるということを、人間に知らせるためである。』

前提となるネブカドネツァル王とダニエルとの関係ですが、これについては親密な仲にあったと言えるでしょう。というのも、ダニエルはすでに夢解きの知恵が認められ、国の最高長官に召し上げられ王宮にとどまっていたからです(ダニエル書2:48-49)。ダニエルは、王が神に依り頼み、御前にひれ伏すことを願っていました。夢判断のおぞましい結果を知らせる際にも、ダニエルは、「王様、どうぞわたしの忠告をお受けになり、罪を悔いて施しを行い、悪を改めて貧しい人に恵みをお与えになってください。そうすれば、引き続き繁栄されるでしょう」(同上4:24)、と真心のこもった言葉を添えました。

そうした間柄の中で、ダニエル書4章には、ネブカドネツァル王の夢(4:1-15)と、ダニエルによる夢解き(4:16-24)が繰り広げられています。ダニエルの霊的な力と祈りにより、異邦の最高「権威者」、ネブカドネツァル王に対し、神の言葉が通じる状況がつくられていたということが重要です。実際、王は夢から()める前に、天から(くだ)って来た天使の声を聞きました――「この神は、最も(いや)しい人をその(王国の)上に立てることもできる」。

その(王国の)上に」、神によって立てられた「最も(いや)しい人」とは、誰なのか、答えは自明でありましょう。自分を過大に評価するのではなく、信仰の度合いに応じて慎み深く評価する(ローマ12:3)とは、まさにこの事です。天使の呼びかけに、「最も(いや)しい人こそ、わたくし、ネブカドネツァルでございます」と応じることです。

付け加えると、エレミヤ書(25:927:6)では神により、ネブカドネツァルが「わたしの(しもべ)」(主の僕)と呼ばれ、国々の「支配者」となると宣告されています。パウロに先立って、エレミヤにおいて、「権威者は神によって立てられる」という信仰が芽生えていたことが分かります。

大地の真ん中の、一本の木」(ダニエル書4:7)というのは、バビロニア帝国の王ネブカドネツァルを象徴しています。その木はしばらくすると、葉が茂り豊かに実って成長し、またしばらくすると(ヨハネ16:16,19)、その木は葉を散らし実を落とし、ついに切り倒されました。その(あと)に、「切り株が残った」ということです(同上4:7-12)。

ダニエルを(かい)してではありますが、異邦の権威者」なるネブカドネツァル王に、このように深い神の()(むね)が教示されているのは、驚くべきことです。「人間の王国を支配するのは、いと高き神である」という普遍の真理が、ネブカドネツァル王の生涯を照らし出しています。彼の人生の光も影も、神の御手の中に置かれています。神に仕える「最も(いや)しい人」として、神に用いられる地上の王として、民を治めよ、というのが、天使からのメッセージでありました。

パウロは常に、旧約聖書を(もとい)としてローマの信徒への手紙を書いています。皇帝から(ちょう)(ぜい)人にわたる官憲(かんけん)に関わる権威」、ならびに、それへのキリスト者の関わりを説き明かすときに、神によって立てられたネブカドネツァル王のことを思い出していたとしても不思議ではありません。

 

Ⅱ 人は皆、上に立つ権威に従うべきです           

ローマの信徒への手紙13:1-2――

1 人は皆、上に立つ権威に従うべきです。(なぜなら)神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです。2 従って、権威に(さか)らう者は、神の定めに(そむ)くことになり、背く者は自分の身に裁きを招くでしょう。

かつて、パウロはアテネのアレオパゴスの丘で説教したことがありました(使徒17:16-34)。聡明な人々の心を(わし)づかみするには、第一声が重要です。あたかも講壇に立っているかのごとく、「人は皆(すべての人は)……」と主題を示し、すかさず「なぜなら」と、その理由を述べました。「権威」(政治的権力)に関わる主題にふさわしく荘重な雰囲気が伝わって来ます。

手紙を読んでいるわたしたちからすれば、キリスト者の礼拝と日常生活についての勧め(ローマ12章)を聴き取っている状態からの、スイッチの切り替えが必要かも知れません。ただし、パウロはすでに、12章の終わり(12:14-21)で、教会内の者と教会外の者との関係、信仰のある者と信仰のない者の間の課題を取り上げていました。従って、教会外の、見逃せない問題に向けてのレールは敷かれていたと言えましょう。

あえて「教会外の」と言いましたのは、「上に立つ権威」を有する人々は必ずしもキリスト者ではない、と手紙の中で想定されているからです。

それにしても、命令形できっぱり、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」と言い切っています。「権威」とやや遠回しな言い方をしていますが、これは事実上、わたしたちが「国家権力」と呼んでいるものにほかなりません(K.バルト)。すでに述べた通り、具体的には、王や皇帝から役人や(ちょう)(ぜい)人などに至るまでの、いわゆる官憲(かんけん)を指しています。一瞬、威圧感のある(?!)彼らから我が身を引きそうになりますが、パウロは、「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」と、服従すべき理由を明示しています。

この理由づけは、天使が異邦の王が告げた、「この神は、最も(いや)しい人をその上に立てることもできる」との御言葉と響き合っています。王に信心があったかどうかではなく、神によって「立てられた」かどうかに、焦点を合わせねばなりません。全能なる神が、この世の人物や出来事を支配しておられるという信仰をもって、わたしたちがその「権威に従う」ということなのです。

に前置きした通り、これはデリケートな問題です。これを原理原則にして、なにがなんでも「服従すべきである」と、キリスト者の考えや行動を(しば)りつけることは、行き過ぎでしょう。わたしたちはまず、祈りをもって神に依り頼み、その上で、上に立つ権威に従う」という信仰の道を歩んでいかなければなりません。神は、信仰者が「神の定めに(そむ)」ことや「自分の身に裁きを招く」ことを望んではおられません。

自分がその「権威」が奪い取ろうとして、「上に立つ権威」に(あらが)うならば、憎しみや争いが生み出されます。平和の主、イエス・キリストを信じるということを第一に、そして、わたしたちの生活を守っている「権威者」や「支配者」との良き関係が築いていかれるようにすることです。そこで、パウロは二番目の理由づけを提示します。

 

Ⅲ 良心のためにも、これに従うべきです            

ローマの信徒への手紙13:3-5――

3 (なぜなら)実際、支配者は、善を行う者にはそうではないが、悪を行う者には恐ろしい存在です。あなたは権威者を恐れないことを願っている。それなら、善を行いなさい。そうすれば、権威者からほめられるでしょう。4 権威者は、あなたに善を行わせるために、神に仕える者なのです。しかし、もし悪を行えば、恐れなければなりません。権威者はいたずらに剣を帯びているのではなく、神に仕える者として、悪を行う者に怒りをもって報いるのです。5 だから、怒りを逃れるためだけでなく、良心のためにも、これに従うべきです。

初めに、「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」という主題について、「(なぜなら)神に由来しない権威はなく、今ある権威はすべて神によって立てられたものだから」と、根拠が明示されました。神が立てたということですから、信仰者にはそれをしっかりと受け止めることが求められています。

それに対して、二番目の理由づけでは、自分の良心に照らして、服従への勧めを実践するように促されています。確かに、聖霊に導かれつつ、「良心」を顧みるならば、自分が「」を行っているか、それとも、「」を行っているのか、判別できることでしょう。

パウロは、一方、自分が「」を行っているならば、「権威者からほめられる」、他方、「」を行っているならば、「権威者から怒りをもって報いられる」と述べています。「(しん)(しょう)(ひつ)(ばつ)(必ず賞を与え、必ず罰する)、当たり前のことを言っているようにも聞こえます。ある意味では、国民あるいは市民として、わきまえ知るべきことなので、パウロは「良心のためにも、これに従うべきです」と語っています。

ただし、わたしたち・信仰者には、この「良心」が聖霊に導かれ、より鋭くより清くされていくことが求められます。すなわち、主イエス・キリストがわたしたちに教えてくださった「」と「」(マタイ12:35、マルコ3:4)によって、自分の「良心」が養われ育てられることが大切です。

パウロもここで、(悔い改めてキリスト者になっていない可能性の高い)「権威者」を「神に仕える者」と呼んでいます。人は皆(すべての人は)」(ローマ13:1)というパウロの広い視野に即せば、あらゆる「権威者」は、神に愛されている者であり、それ故に、神を畏れる心を(いだ)いている者であります。「権威者」は、神と人に「仕える」ように、「神によって立てられた」のです。

そのような「権威者」や「支配者」が上に立って世を治めていることに対し、パウロは「善を行いなさい」と勧めています。自分の「良心」に照らし、キリスト教倫理(例:ローマ1215章)に(かんが)みたときに、彼らは「善い」人とは見なせないこともあるでしょう。そのときにこそ、キリスト者は、「善としての愛」を実践し証しするように励まねばなりません。つまり、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)との勧めにおいて、「上に立つ権威に従うべきです」。

教会の外だからと言って、「善をもって悪に勝つ」という主キリストの隣人愛に基づく最高峰の倫理(真理が凝縮している、信仰的な(けい)())を手放してはなりません。パウロはさらに具体的に、教会の外での実践について語り続けています。

 

Ⅳ 敬うべき人は敬いなさい                    

ローマの信徒への手紙13:6-7――

6 (同じように)あなたがたが(みつぎ)を納めているのもそのためです。権威者は神に仕える者であり、そのことに励んでいるのです。7 すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人には税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい。

(みつぎ)を納める」こと、すなわち、納税が、「自分の義務」であるというのは、極めて当たり前の話です。しかし、「同じように」と、前に述べられたことと並行している点に、留意すべきです。

すなわち、あらゆる権威者」に対し、「善をもって悪に勝つ」との信仰をもって接するのと、「同じように」ということです。へりくだり、隣人を愛するように、(みつぎ)を納める」ということです。

そうです、日常世界の「自分の義務」を、「あなたから(いただ)いたものの一部をお献げいたします」という礼拝献金の祈りの心をもって果たすのです。そこに、「(ちょう)(ぜい)(にん)」への敬意と憐れみが生まれます。敬うべき人は敬いなさい」という命令の理由づけは、初めに戻って、「すべて神によって立てられたものだから」ということです。たとえ自分の目の前に、「最も(いや)しい人」が座っていようとも、神への畏れによって支配され、謙虚にさせられることでしょう。

わたしたちの「澄んだ目」(マタイ6:22)には限界があります。今、終わりの時に向けて、神の大いなる救いの計画が立てられ実行されています。聖霊がわたしたちに寄り添って、「これから起こること」を告げてくださいます(ヨハネ16:13)。しかし、わたしたちは、すべてを聖霊の働きにゆだね切っているでしょうか。

今回のパウロの命令に見られるように、わたしたちは、キリストの体である教会の中に生きているのみならず、この世との係わりを持って暮らしています。もちろん、この世や「権威者」の言いなりになって、「」にまみれることも良しとせよ、というのではありません。

そうではなく、この世や「権威者」は、神の救いの来ていない世界、または、神の救いによって新しくされるのを待っている人であると受け止めることです。「すべて神によって立てられた」との言葉を受け入れるのです。パウロの命令を、わたしなりに言い換えれば、終わりの時をめざして、「信仰に生きよ、伝道に励め」となります。

新約聖書全体においても、「上に立つ権力とキリスト者の関係」が説き明かされているのは、極めて珍しいことです。パウロは、神の国へとわたしたちが進んで行くうえで、祈りをもって神に依り頼み、「上に立つ権威に従う」ことが大切である、とわたしたちに教えています。

終わりの時が来るまでは、この世界が神の御心に添うものとなっていくために、「上に立つ権威」の働きは欠かせないものでありましょう。 

主なる神よ、イエス・キリストがあらわされた「善としての愛アガペー)」をもって、わたしたちが上に立つ権威に従う」ことができますように、そして、御心でしたら、「権威者」や「支配者」が、自分は主イエスキリストによって立てられた(しもべ)であると信じられますように、お導きください

 

Ω

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〈説教の要約〉

2021年 11月7日  召天者記念礼拝              

旧約聖書 エレミヤ書 31章13節

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章16節~24節

      「悲しみは喜びに変わる」  

                 小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ しばらくすると……またしばらくすると……  

                     ……ヨハネ16:16-19             

Ⅱ あなたがたの悲しみは喜びに変わる  

           ……ヨハネ16:20-22 エレミヤ書31:13 

Ⅲ 願いなさい。そうすれば与えられるであろう 

                     ……ヨハネ16:23-24    

結 

 

訣別(けつべつ)説教において、主イエスは弟子たちに、これからいったい何が起こるのか、予告されています。その主旨を二つに整理すると、こうなります。

一つは、主イエスを十字架につけようとする人間の(あく)(ぎょう)とその罪深さが暴き出されるということ、もう一つは、主イエスが十字架にあげられることによって神の救いの計画が実行に移されるということです。そのことを、主イエスと共に生活している弟子たちが「分かった」のかどうか、が問われています。

主イエスは、「彼らが尋ねたがっているのを知って」(ヨハネ16:19)、忍耐強く福音〈喜びの知らせ〉を説き明かされます。弟子たちの疑問に耳を傾けながら、答えておられます。その説教を聞いているわたしたちに求められているのは、自分自身への福音〈喜びの知らせ〉として、神による罪と死の縄目からの救いを信じることであります。

弟子たちが漆黒(しっこく)の「」(ヨハネ13:30)に飛び出して行くには、今しばらくの(いとま)があります夕食はまだ終わっていません。最後の晩餐において主イエスは、主催者・司式者としての役割をやり遂げられます。

今、主イエスは(一部の?)分からず屋の弟子たちに、キリスト教の本質を丁寧に説明し続けておられます。一つだけ直前の主イエス言葉を振り返っておきましょう。

ヨハネ福音書16:13 主イエス→弟子たち―― 

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

要は、今理解できないことを恥じることはない、自分の愚かさのゆえに(あせ)ってはならないということです。なぜなら、弟子たちに寄り添う聖霊が、「真理」を示し、「これから起こること」を告げるからです。再び、質問が生じれば、「真理の霊」に向かって祈り、問い尋ねればよいのです。いたずらに不安にならないことです。

さらに、この「真理の霊」への説明で言外に示されている大切なことがあります。それが、主イエス・キリストと聖霊との密接な連係であります。

しばらくするとわたしは去って行く〉。またしばらくすると真理の霊が来る〉」というように、主イエスと聖霊の働きは接続しています。聖霊は、主イエスの語ったことをことごとく思い起こさせる(ヨハネ14:26)というように、「わたしのもの」(ヨハネ16:14,15)、すなわち、主イエスの告げたことをそのまま、聖霊が信仰者に伝えます。()(たん)偽物(にせもの)の混じり込む余地のない、(なめ)らかな連係です。

主イエスに尋ねたがった弟子たちは、懇切に主イエスから説き明かしを受けました。それと同様に、「分からない」と嘆いているあなたには、聖霊の的確な導きがあります。まずは、「何を話しておられるのか分からない」(ヨハネ16:18)と、当惑している弟子たちに対する、主イエスの回答を読むことにしましょう。

 

Ⅰ しばらくすると……またしばらくすると……               

ヨハネ福音書16:16-19――

16(イエスは言われた)しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる。」 17 そこで、弟子たちのある者は互いに言った。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』とか、『父のもとに行く』とか言っておられるのは、何のことだろう。」 18 また、言った。「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう。何を話しておられるのか分からない。」 19 イエスは、彼らが尋ねたがっているのを知って言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見るようになる』と、わたしが言ったことについて、論じ合っているのか。」

この直前、主イエスは、現在から将来へという流れの中で、聖霊の働きを的確にまとめられました(ヨハネ16:12-15)。それは、「主イエス・キリストから聖霊へのバトンタッチは完璧(かんぺき)です」ということを、弟子たちに悟らせるためでありました。

急に話が飛んだわけではありません。確かに、弟子たちの不安や悲しみに配慮しているからでしょうか、主イエスの言い方はやや(えん)(きょく)になっています。しかし、しばらくすると……」との主イエスの言葉は、「主イエス・キリストから聖霊へのバトンタッチ」を、別の角度から説明しているだけです。

にも記した通り、基本は、「しばらくするとわたしは去って行く〉。またしばらくすると真理の霊が来る〉」という密接な連係にあります。ただし、「またしばらくすると真理の霊が来る〉」の箇所が、「またしばらくすると、わたし(イエス・キリスト)を見るようになる」と代わっている点は、解説が必要でしょう。

しばらくすると

  主イエスは去って行く。

  主イエスは十字架にあげられ、死を()げる

     

またしばらくすると

  ①よみがえられた主イエスが弟子たちに現れる。〈復活〉

②真理の霊が来る。〈聖霊降臨〉

③天に昇られた主イエスが再び弟子たち・信仰者に出会う。〈再臨〉

単純に言えば、主イエス・キリストとの別れと出会いが起こるということです。別れという悲しみを突き抜けた先に、再会という喜びが()き起こります。その喜びについて、神に信頼するように、主イエスは幾重もの約束をしてくださいました。

またしばらくすると、(あなたがた・弟子たちは)わたしを見るようになる」というのは、①または③の出来事を指しています。その点において、「わたしは再びあなたがたと会う」(ヨハネ16:22)という先行する主イエスの愛の行為によって、「(あなたがたは)わたしを見るようになる」との約束が成就するということが重要です。なぜなら、それによって、わたしとあなたがたとの愛の交わりが結ばれるからです。

前回の説教で指摘したように、弟子たちは、主イエスがもはや自分たちと一緒にいなくなる(ヨハネ16:5-7)ということから、主イエスが捕らえられて殺されるということは、次第に分かってきたと思われます。しかし、「またしばらくすると」、主イエス・キリストの〈復活〉、〈聖霊降臨〉、そして、主イエス・キリストの〈再臨〉が起こるということが、まだピンと来ていなかったようです。

闇の支配が次第に増し、弟子たちの上にも艱難(かんなん)が降りかかって来ることが予告される中で(ヨハネ15:18,2016:2)、主の十字架が、神の大いなる救いの計画の一環であると「分かる」のは容易でなかったことでしょう。()しむらくは、弟子たちが、神の大いなる救いの計画全体を見わたす、それ以前に、彼らはしばらくすると」(ギリシャ語 ミクロン)という言葉に引っかかってしまいました。

確かに、「しばらくすると」(ミクロン)というのは、謎めいた言葉です。その時間の長さは計れるもの・決まったものなのでしょうか。さらに、「しばらくすると……またしばらくすると……」と重ねられて、途中で変化・転換が起こることも、弟子たちには理解できませんでした。

しばらくすると……またしばらくすると……」という謎めいた言い回しの真意を理解するためには、ただ、「しばらくするとわたしは去って行く〉。またしばらくすると真理の霊が来る〉」という基本に立ち帰ればよいのです。

わたし(イエス・キリスト)……。真理の霊が……」というように、それは神の側の出来事であり、わたしたちはただ信じるべきことであります。主イエスご自身が「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)と約束しておられますから、「しばらく」の間に、心騒がせたり不安になることはありません。「しばらくすると……またしばらくすると……」というのは神の救いの時を写し出しているもので、人間がその長短を計るものではありません。落ち着いて、神の時の経過とその転換を見守りましょう。

詩編90:4――

千年といえども(おん)()には

昨日が今日へと移る夜の一時(ひととき)にすぎません。

神から見れば、「千年といえども」、城壁の見張りが働いている「夜の一時(ひととき)にすぎません」。「千年」もしばらく」の間です。

人間の目には、はかなく、何の動きもないように思われる「しばらくすると……またしばらくすると……」という時が、まさに永遠のむかしに(くわだ)てられた神の時であり、その間に驚くべき救いの業が成し遂げられるのです。主イエスは、将来に期待を持てなくなった弟子たちに、説き明かしを続けられます。主イエスは、彼らが「しばらく」の先に、期待を(いだ)いていない理由を見抜いておられます。

 

Ⅱ あなたがたの悲しみは喜びに変わる   ……ヨハネ+ エレミヤ書31:13 

ヨハネ福音書16:20-22――

20(イエスは言われた)「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。21 女は子供を産むとき、苦しむものだ。自分の時が来たからである。しかし、子供が生まれると、一人の人間が世に生まれ出た喜びのために、もはやその苦痛を思い出さない。22 ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。」

のテキストの最後で、弟子たちは、「わたしが言ったことについて、論じ合っている」と記されていました。で、主イエスは、迷走しているような弟子たちを真理へと導いてゆかれます。それを表すかのように、の冒頭には、「まことに、まことにアーメン、アーメン〕、わたしはあなたがたに言う」(はっきり言っておく)という句が置かれています。

そこで主イエスは、弟子たちの引っかかる元になっていた「しばらくすると……またしばらくすると……」との言い回しが明瞭になるよう、弟子たちの思い・心情に即して説明されました。

主イエスはご自身が十字架につけられ殺されることを踏まえて話しておられます。そして、「世は喜ぶ」という現実の中で、「あなたがたは泣いて悲嘆に暮れる(であろう)」と予告されます。まさに泣く人と共に泣いておられます(ローマ12:15、ルカ19:41)。そして、主イエスは深い憐れみの中で、「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」と語られました。この句に、「しばらくすると……」との言い回しを当てはめると、こうなります。

しばらくするとあなたがたの悲しみが極みに達する。 

またしばらくすると大いなる転換が起こり喜びが満ち溢れる。」

主イエスが見えなくなる(ヨハネ16:16,19)という弟子たちの不安を()み取りつつ、主イエスはその不安が喜びに転じることを約束しておられます。主イエスゲツセマネの園(マタイ26:36-46)とゴルゴタ丘(されこうべの場所 マタイ27:32-56)で体験された「悲しみ」そのものが、「喜び」に変えられるのです。その〈大いなる転換〉は、主なる神の御心に添って、成し遂げられるものです。旧約の預言によって、それは、神の御心に違いないと分かります。

エレミヤ書31:13―― 

そのとき、おとめは喜び祝って踊り

若者も老人も共に踊る。

わたしは彼らの嘆きを喜びに変え

彼らを慰め、悲しみに代えて喜び祝わせる。

わたし」は主なる神を指しています。すべての人々(諸国の民 エレミヤ書31:10)に向かって、イスラエルの回復を告げる文脈で、「わたしは彼らの嘆きを喜びに変える」とのメッセージが表されています。

新約の「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」との関連では、主なる神が、悲しみから喜びへの〈大いなる転換〉を起こすということが分かります。

喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」(ローマ12:15)との命令は、御父の支え無くしては()(なん)でありましょう。このことを、御子、イエス・キリストは、弟子たちの模範として実践されました。主イエスは婚礼の席(ヨハネ2:1-11)で「喜び」を、また、()(ちゅう)の家(ヨハネ11:28-37、マタイ9:23)で「悲しみ」を、人々と分かち合われました。

御父によってこの世に遣わされた主イエス・キリストは、神の愛を宣べ伝えるべく、「喜ぶ人」や「泣く人」に寄り添われました。そして、その(おおやけ)の伝道の最後に、「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」と宣言されました。それは、この世に残され、イエスを見なくなる(ヨハネ16:16,19)弟子たちへの最善のメッセージでありました。主イエスの最後の言葉、いわば遺言は、必ず成し遂げられます。

 

Ⅲ 願いなさい。そうすれば与えられるであろう  

ヨハネ福音書16:23-24――

23(イエスは言われた)「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。24 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」

まことに、まことにアーメン、アーメン〕、わたしはあなたがたに言う」(はっきり言っておく)との共通の前置きによって、のテキストは響き合っています。がしかし、内容的にこのまとめのは、どのようにの中心聖句、「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」とつながっているのでしょうか。

 そこでまずの内容を要約すると、質問をして「尋ねる」ことから御名によって「願う」ことへの方向転換を取るよう勧めている、となります。

に述べた通り、これから(聖霊降臨後)は、弟子たちに寄り添う聖霊が、「真理」を示し、「これから起こること」を告げる時代になります。もし、疑問が生じれば、「真理の霊」に問い尋ねればよいのです。不安は無用です。むしろ、そこで弟子たちが心を傾けるべきは、「願いなさい。そうすれば与えられるであろう」との命令であります。言い換えれば、全面的に神に頼るということです。気を落とさずに絶えず祈っているならば(ルカ18:1-8)、あれやこれやの「悲しみ」に引きずり込まれることはありません。

 パウロの勧め(ローマ12:1-3)にからめて言えば、自分の生活が「神の憐れみ」のもとにあると信じて、「慎み深く」、大胆に願い求めよ、ということです。そうして、神から「与えられた」もの、恵みの賜物や善いものを、礼拝と日常生活の中心に()えるならば、幸いこの上ありません。「自分が願って、与えられ、満たされた」生活というのは、岩の上に建てられた家のようなものです(マタイ7:24-25)。

 たとえそれが、神に願ってばかりの、(とぼ)しく苦労の多い日々であったとしても、「あなたがたの悲しみは喜びに変わる(であろう)」との約束が支えとなります。その時が来ると確信して、自分のためばかりで、貧しい隣り人のために、イエス・キリストの御名によって「願いなさい」。「喜び」というのは、人と分かち合うほどに、大きく増えていくものです。

 

結 

「しばらくお待ちください。」……こう言われて、いら立つ時も、余裕の持てる時もあります。

主イエスは、「しばらくすると……またしばらくすると……」とのメッセージを告げられました。これを受け取るわたしたちの姿勢と信仰が問われています。

しばらくすると……またしばらくすると……」というのは、神の時です。その間に、神の愛をもって御子、主イエス・キリストによる罪人の救いが成し遂げられました。それは、神の定められた時に起きました。

わたしたちは、礼拝と日常生活において、「しばらくするとわたしは去って行く〉。またしばらくすると真理の霊が来る〉」という時を過ごしています。追体験しています。そこに信仰があるならば、わたしたちはその「しばらく」の時を、主の平安のうちに過ごすことができます。いら立つことはないでしょう。

またしばらくすると」、神の右に座したもう主イエス・キリストがわたしたちに出会うために、この世に来られます(の箇条書き③参照)。この「またしばらくすると」への待望が、わたしたちの生き方に張り合いをもたらします。背筋をピンと伸ばすことができます。

またしばらくすると」への待望を抱き続けるには、忍耐が必要です。またその間に、災いが降りかかって来るかもしれません。そのことの方に気が取られ、()かりきりになることもあるでしょう。

だからこそ、わたしたちは礼拝において、「しばらくすると……またしばらくすると……」との神の時を追体験し、主イエス・キリストの福音〈喜びの知らせ〉に耳を傾けるのです。

主イエス・キリストは、「あなたがたの悲しみは喜びに変わる」との約束を実行されます。「またしばらくすると」、主イエスがわたしたちに会い、そして、わたしたちが主イエスを見る時がやって来ます。 

  

 

Ω

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〈説教の要約〉

2021年 10月31日  宗教改革記念日礼拝                 

旧約聖書 申命記 32章35節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章14節~21節

      「すべての人の前で善を行う」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 迫害する者のために祝福を祈りなさい ……ローマ12:14-16          

Ⅱ すべての人と平和に暮らしなさい   ……ローマ12:17-18

Ⅲ 復讐するかどうかは神に()かっている 

               ……ローマ12:19-20 申命記32:35        

Ⅳ 善をもって悪に勝ちなさい      ……ローマ12:21         

 

ローマの信徒への手紙12章-15章、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、の第四回目です。

これまでのところ(ローマ12:1-13)で、パウロはローマの教会の人々に、数々の勧めを与えました。それは、恵みの賜物を持つ一人ひとりがつながって、一つのキリストの体(ローマ7:4)、教会を形成するためでした。

救われた者とはいえ、自分自身、気の(ゆる)むことがあります。また、兄弟姉妹の間に、争い・対立・無関心などが(しょう)じることもあります。そこで、立ち帰るべきは、主イエス・キリストの十字架にあらわされた神の「」(アガペー ローマ5:5,88:35,3912:9)であります。

その上で、壁を突破してローマ教会が成長していくように、「兄弟愛フィラデルフィア)を高く(かか)げよ、その愛に偽りのない教会を建てよ」とのメッセージが送られました(ローマ12:9)。神の「」(アガペー)は、信仰者の間において「兄弟愛」(フィラデルフィア)をつくり出し(はぐく)、とパウロは確信していたのです。

さて、今パウロは、信仰者に焦点を合わせた教会内の勧めから、次の段階へと移ろうとしています。ルカは福音書の冒頭で、「わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)と述べました。この「順序正しく書いて」という特徴は、パウロの手紙(書簡)にも当てはまります。

ここでは、礼拝や奉仕など教会内の問題から、教会外の人々との間の問題へと、「順序正しく」展開されていきます。つまり、新しい段落では、教会内の者と教会外の者との関係、信仰のある者と信仰のない者の間の課題を取り上げるということです。教会内の勧めを実践しながら、教会外、すなわち、この世を見渡すことは、不可欠です。

なぜなら、信仰者はこの世で日常生活を送り、世を愛されている神(ヨハネ3:16)の(しもべ)として伝道しているからです。先に述べた通り、救われた者として、礼拝に導かれ、奉仕をなし、兄弟姉妹の交わりを深めていくときにも、困難に出遭うことはあります。しかし、教会外では並々ならぬ試練が待ち受けています。

今回のテキストに()るとローマの教会が迫害を受ける、それに対して、復讐心を燃やして反撃に出るかどうかというリアルな問題があります。そして、これは今日、わたしたちが抱えている難題にほかなりません。

激しく迫害を受ける           ⇒ すきをうかがって、反撃・復讐に出る

    ↓                   ↓

人に理由もなく傷つけられる  ⇒ 何か仕返ししたい気持ちに駆られる

一部の過激な人々が迫害を始める、そこで、ある人々が正義を振りかざし、彼らに復讐し壊滅させるという事態が、いかに多くの戦争や不和を生み出しているでしょうか。そのような状況下で、「」に負けて、わたしたちの信仰が弱められないよう、真剣に教会外を見渡しているパウロが助言してくれています。

ひと言でいえば、ここでパウロは、」に直面しながら、何が「」(善いこと)かという真理探究を、「」(アガペー)に基づいて(おこな)っています。何が「」で、何が」かは、分別のある賢い人なら分かるかも知れません。しかし、もろもろのがはびこっているこの世で、」をもって「」を実践するのは並大抵のことではありません。

パウロは聖霊の導きにより、祈りをもって、この問題に取り組んでいます。この世の暗さや陰に吸い込まれてはなりません。荒れ地や砂漠に囲まれた中で、「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る(であろう)」(イザヤ書35:2)との約束は、わたしたちに向けられたものです。主の栄光は、教会の外にも、解決()(なん)の問題の上にも照り輝くことでしょう。

 

Ⅰ 迫害する者のために祝福を祈りなさい          

ローマの信徒への手紙12:14-16――

14 あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、(のろ)ってはなりません。15 喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。16 互いに思いを一つにし、高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません。

いきなり、迫害する者が出てきます。ただ、わたしたちは主イエスご自身から、迫害する者が信仰者を取り囲んで攻め立てるということを聞いています。

夕べの食卓で、主イエスは、十字架の時に向けて暗闇が支配するようになると予告されました。その際に、

憎悪迫害会堂追放殺害(ヨハネ15:18,2016:2というように闇の勢力の反抗が強まっていくということです。

ここで、パウロは迫害者から「逃げよ」というのではなく、「祝福を祈りなさい」と勧めました。迫害する者を憎むのは当然ですが、憎しみはこの世に分断をもたらします。この世から教会が孤立することもあり得ます。

パウロは、憎しみをもって迫害者を罰する、その正当性を否定しているわけではありません。しかし、何が愛をもって()す、「」なることかと考えたとき、それは「迫害する者のために祝福を祈る」ことだと示されたのです。

迫害に対処するには、忍耐が必要です。しかし、ここではそれを超えて、相手のために「祈りなさい」と勧められています。主イエスは自分を攻撃する者に忍耐をもって応じられました。そして、弟子たちに「悪口を言う者に祝福を祈り、あなたがたを侮辱する者のために祈りなさい」(ルカ6:28)と命じられました。十字架上でも、主イエスの「侮辱する者のために祈る」という姿勢を貫かれました(ルカ23:34)。

当然、「迫害する者」を放置しておくと、迫害殺害というように、さらなる「」を生み出しかねないではないか、という議論が起こるでしょう。現実的な対応として、迫害する者」を封じ込める策を取ることもあり得ます。

繰り返しになりますが、ここでパウロは、迫害という」に直面しながら、何が「」(善いこと)なのか、「」(アガペー)に基づいて問い尋ねています。そこで、神より示されたのが、「迫害する者のために祝福を祈る」ことでありました。それはまさしく、地上を歩まれた主イエスの御姿と教えに合致するものでありました。最後には、「」を源泉とする善行(ぜんこう)が、悪事を滅ぼすに違いありません。

迫害する者」の次にパウロが目を向けているのが、教会外の「喜ぶ人」または「泣く人」への共感という問題です――「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい」。

教会内の兄弟姉妹で、「喜ぶ人」または「泣く人」への共感に比べると、ぐっとハードルが上がることでしょう。なぜなら、教会外の人々とは、主にある交わりを持っていないからです。

しかし、まだ福音を知らない人々、礼拝に行く機会のない人もまた、「神の憐れみによって」(ローマ12:1)、救われるべき人々であります。主イエス・キリストが弱く貧しい人々を憐れまれたように、わたしたちもまた、「喜ぶ人」または「泣く人」に対し、深い同情を寄せることが求められています。

迫害する者」への祝福の祈りに関して気が乗らないとすれば、それは、わたしたちの「被害者意識」でありましょう。そして、「喜ぶ人」または「泣く人」に対して気が乗らないとすれば、それは、わたしたちの(しっ)()(しん)である思われます。殊に、「喜ぶ人と共に喜ぶ」ことが難しいのは、明らかにねたみが心底からの共感をさえぎるからです。そして、隣人へのねたみによって、わたしたちが支配されているならば、「泣く人と共に泣く」ことも難しくなります。そこで、めそめそと「泣く人」はよくよく自分を省みるがよいなどと、冷たくあしらってしまいます。

ここでもパウロは、自分の周りの「喜ぶ人」や「泣く人」と対面して、「」(アガペー)に基づいて、どのように振る舞うのが、「」(善いこと)なのか、を考えようとしています。その答えが、「」をもって深い同情のうちに、「喜ぶ人」や「泣く人」に寄り添うということなのです。

それによって、嫉妬心、あるいは、自分だけが幸福であればよいという自己中心から解き放たれます。パウロは信仰者同士に向けて、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)と勧めたように、信仰を持っていない人々への態度に関して、「高ぶらず、身分の低い人々と交わりなさい。自分を賢い者とうぬぼれてはなりません」と教え(さと)しています。

要は、主イエス・キリストのまことの謙遜さ、十字架の御業におけるへりくだりを、信仰者に対しても、未信者に対しても、全うせよ、ということなのです。自分を捨てて、「迫害する者」、「喜ぶ人」、そして「泣く人」を憐れみ、救い出そうとした主イエス・キリストに(なら)うこと、それが、キリスト者の日常生活の基本なのです。

 

Ⅱ すべての人と平和に暮らしなさい  

ローマの信徒への手紙12:17-18――

17 だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい。18 できれば、せめてあなたがたは、すべての人と平和に暮らしなさい。

迫害する者のために祝福を祈ることから、順序正しく」、すべての人と平和に暮らすことへと移行しています。善き牧会者であるパウロは、ローマ教会の人々の信仰を耕しています。キリスト者の生活は、一歩一歩前進する中でつくり出されるものなのです。ここで、平和に暮らすことが主題として打ち出されているのは、(ローマ12:19-20)で復讐という難題を提示する前置きにもなっているからです。

しばしば、「」がこの世を席巻(せっけん)しているかに見えます。それ故に、」に打ち負かされないように、パウロはわたしたちに、主イエス・キリストを信じ、「」(アガペー)を源泉として「」(善いこと)を実践するようにと勧めています。ここでは、「だれに対してもすべての人の前ですべての人と…」という言い回しによって、信仰者の目指すべきところが、パウロにより包み隠すことなく示されます。寛大な心で、新入りを歓迎しながら、「そこに大路が敷かれる」(イザヤ書35:8)という信仰の道を歩んで行くのです。

できれば、せめてあなたがたは(新共同訳)という句には注意が必要です。新改訳聖書では、「あなたがたは、自分に関する限り」と、より原文に忠実に訳されています。信仰者は「すべての人」、すなわち、教会の内のみならず外の人々とも、争いを()めて和解しなければなりません。そこには、(おの)ずから限界があります。なぜなら、わたしたちは今、世の人々に「平和の福音を告げ知らせている」(エフェソ2:17)、その途上にあるからです。主にある忍耐と知恵とをもって、平和をつくり出している(さい)(ちゅう)です。

ここでわたしたちは、パウロが数々の「勧め」(命令)を提示する前に、まずは自己点検せよ、自分を整えよ、と述べていたことを想起しなければなりません。

ローマの信徒への手紙12:3後半――

自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて(つつし)み深く評価すべきです。

パウロは、これから帝都・ローマの教会を訪問する(ローマ15:24,29)という神の壮大な計画を(いだ)いています。その際、教会の信仰者や世の人々の関わる根本に、「慎み深さ」を置いています。「自分に関する限り、すべての人と平和に暮らす」と、自分の限界をわきまえています。他者への奉仕について、そのような謙虚さと健全さがあればこそ、常に、「恵みを超えて恵みを(たま)う主イエス・キリスト(ヨハネ1:16)に寄り頼む信仰が保たれているのです。

 

Ⅲ 復讐するかどうかは神に()かっている  

ローマの信徒への手紙12:19-20――

19 愛する人たち、自分で(ふく)(しゅう)せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』と主は言われる」と書いてあります。20 しかしかえってあなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよ。そうすれば、燃える炭火を彼の(あたま)に積むことになる。」

パウロは、めりはりの()いた文章をもって、勧めを書き(つら)ねています。まず、「平和」という希望の(かか)げた上で、次に、復讐」というに論及しています。「順序正しく」展開されていきます。伝道の困難に出遭っている信仰者の心がくじけないように配慮されています。復讐心の(とりこ)とならないように、しかしかえって」、あなたがたの()すべきことは、これこれだと、巧みに導いています。

いざ、闇の問題に触れるというとき、パウロは愛する人たち(よ)」と呼びかけています。ここに、愛するローマの信仰者たちと共に、がはびこっているこの世で、」をもって「」を実践しようとするパウロの姿勢が鮮明に現れています。

自分で(ふく)(しゅう)せず、神の怒りに任せなさい」――勧めの深い意味を、パウロが引用している旧約聖書に照らして読み取りましょう。

申命記32:35――

わたしが報復し、(むく)いをする (直訳:復讐と報復とはわたし〔主〕のもの)

彼らの足がよろめく時まで。

彼らの災いの日は近い。

彼らの終わりは(すみ)やかに来る。

復讐」についての、神の「実行」(実力行使)というよりも、神の「主権」が強調されています。「わたしが復讐する」ことを決めたので、後は「実行あるのみ」というわけではありません。旧約を踏まえたパウロの主旨は、「あなたがたは敵に対し、決して復讐してはならない」、なぜなら、「復讐するかどうかは、わたしに()かっている」から、ということです。

主なる神の御計画は、わたしたちの思いをはるかに超えています(イザヤ書55:9)。たとえ、「あなたの敵が騒ぎ立ち、あなたを憎む者が頭をもたげた」(詩編83:3 私訳)としても、「神の怒りに任せなさい」。

さらに()っ込んで考えてみましょう。というのは、仮に、自分で復讐せず」、報復・応酬の連鎖を断ち切ったとしても、敵や憎む者への怒りは容易には治まらないからです。怒りはくすぶり続けるものです。

神の怒りに任せなさい」の直訳は、「神の怒りにところを与えなさい」となります。つまり、神は怒りを収める(ふところ)深さを持っておられる、そのところで、神は怒りを(たくわ)え燃やされるということです。

それでは、「神の怒り」は、どこに行ってしまったのでしょうか? 怒るほどのことはない、と「思い直された」のでしょうか。

ヨナ書4:2 ヨナの信仰告白――

「あなたは、恵みと憐れみの神であり、忍耐深く、慈しみに富み、災いをくだそうとしても思い直される方です。」

そうではありません。ゲツセマネの園(マタイ26:36-46)とゴルゴタ丘(されこうべの場所 マタイ27:32-56)で、神の怒りは御子、イエス・キリストに(くだ)りました(竹森満佐一)主イエスは、「迫害」や「復讐」などの悪事を引き起こす、すべての人間の罪を(にな)って、十字架に上げられました。神の(ただ)しい怒りによって、人の罪と死打ち滅ぼされました。

なぜ、御父が十字架上の御子に、怒りを注ぎ出されたのでしょうか?

それは、神が人を愛しておられるからです。「神の怒り」のうちに御子を十字架につけることによって、最善の形で「」(アガペー)があらわされました。

主イエス・キリストは、(あら)ぶる」……憎悪迫害会堂追放殺害というエスカレート……を真正面から受け止められました。そうして、「罪を犯されなかった」お方(ヘブライ4:15)が、十字架と復活の御業をもって「善としての愛」(U.ヴィルケンス)を示されました。

パウロは神の怒りに任せなさいと厳しく命じた後に、見事にスイッチを切り換えて、しかしかえってあなたの敵が飢えていたら食べさせ、渇いていたら飲ませよと命じました。誰に対しても食べさせ、飲ませよ」、「を行えということです。そのことに集中しているならば、」からの誘惑に()かれることはありません。

復讐」を主題とするテキストの最後に、パウロはそうすれば、燃える炭火を彼の(あたま)に積むことになると述べています。これは箴言22:5に由来し、解釈の分かれる聖句です。

いったい、燃える炭火とは何か、ということが議論の(まと)になっています。今さら、あなたの敵」に仕返しを(たくら)んで、「燃える炭火」で敵を炎上させようというのではないでしょう。すでにパウロは、「あなたの敵」を含む「すべての人」との間に、「平和」宣言をしています。

もし、自分の頭に燃える炭火が積まれていることを悟った、その人が主の御前に悔い改めるならば、その人への罰はすでに帳消しになっています。主イエス・キリストの(あがな)いによって、その人は赦されています。こう考えると燃える炭火」は、主の御前で、人に恥と悔い改めをもたらすもの(たと)えであると言えましょう(古くアウグスティヌスにさかのぼる説です)。

わたしたちが、人への復讐にかかずらうことありません。平和があるようにと挨拶して、食べさせ、飲ませること、人に仕えることに専念すればよいのです。


 

Ⅳ 善をもって悪に勝ちなさい 

ローマの信徒への手紙12:21――

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

本日のテキストの帰結として、この短い句が置かれています。真理が凝縮している、信仰的な(けい)()です。

世の人の多くは、自分を迫害する者や憎む者が「」を重ねているとき、彼らに「」をもって対応しようとは考えないことでしょう。「」でもてなすなど、お人好し過ぎると、非難されかねません。即刻、彼らの「」を()めさせ、彼らに罰を与えようとするのが、常識です。それが、正しいことだと主張します

しかし、「」に「」を返す(ローマ12:17)なら、「すべての人」の間に、分断が生じます。「復讐」の連鎖が起こり得ます。そうして、わたしたちを「仲間」と「敵」とに切り裂いていきます。そうして、すべての人と平和に暮らすことは遠のいて行きます。」が席巻(せっけん)しているこの世の不穏な空気が、教会の内にも忍び入って来ることでしょう。

をもって悪に」なのか、それとも、をもって悪になのか、使徒パウロの答えは、明確です。をもって悪に勝ちなさいということです。なぜ、パウロは、善をもって悪に勝ちなさいということを、キリスト者の生活の根本に()えようとするのでしょうか。数ある勧めの中でも、善をもって悪に勝ちなさい」というのは、パウロの勧め全体の帰結であり要約であります。

どうして、わたしたち・信仰者は、誰に対しても(キリスト教の尊さの一つ、「善をもって悪に勝つという姿勢を手放してはならないのでしょうか?

それは、わたしたちが、主イエス・キリストが十字架と復活の御業をもってあらわされた神の「」(アガペー)を信じる者だからです。パウロは主の十字架を仰ぎつつ、「愛は隣人に悪を行いません。だから、愛は律法を全うするものです」(ローマ13:10)と言い切っています。

主イエス・キリストは、❶憎悪迫害会堂追放殺害という最悪の人の罪を背負って十字架につけられました。この最悪に対してすら、ひとかけらの「」をも、「呪い」をも返されることはありませんでした。

主の十字架と復活の救いはまさに、「善をもって悪に勝った」出来事でありました。そこに、神の「」があらわされました。わたしたちが希望をもって、をもって悪に向き合い続けられるのは、ひとえに善をもって悪に勝った」という十字架の出来事を信じているからです。この信仰が()らがない限り、自分に関する限り」(自分の限界をわきまえていれば失望しません)、「善をもって悪に勝ちなさい」との勧めを実践していくことでしょう。

Ψ


 

 

 

 

 

今日のひと言

 

世の人に高ぶらずに言うべきことと思いますが、

パウロの言葉には、

迫害する者への祝福の祈り、

喜ぶ人と泣く人への共感、

すべての人との平和な暮らし

のように、キリスト教の(とうと)さがあらわされています。

わたしたちの目の前に、

善をもって悪に勝たれた

十字架の主イエス・キリストの姿が

はっきりと示されますように

よろめき、つまずきやすいわたしたちが

神の愛によって支えられますように。

 

 

Ω

 

          

月報10月号

 

 

 説教 収穫の主に願いなさい

     ルカによる福音書 10章1節~12節         小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した  ……ルカ10:1               

Ⅱ 収穫の主に願いなさい                   

              ……ルカ10:2 歴代誌上28:20-21 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ  ……ルカ10:3-4   

Ⅳ この家に平和があるように               ……ルカ10:5-7         

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           ……ルカ10:8-12

  結

 

2021年度のほぼ(なか)ばにあたり、説教のテキストとして、年間聖句(ルカ10:2)を取り上げます。この聖句は、二年連続の教会標語「主の()しに応えて伝道する」に添ったものです。去年度はルカに並行するマタイ9:37-38を読みました。新感染症拡大の中で、わたしたちの出来ることは限られているという現実に直面しています。今出来ること、()し続けることで、最重要なのは、伝道に向けての態勢を整えておくということです。主イエス・キリストはわたしたちを通して、神の愛がこの世に伝えられるよう、その計画を進めておられます。

主イエス・キリストによってあらわされた神の愛を信じる、そして、この世に遣わされて、人に愛を伝える――それが、神の憐れみによって勧められているわたしたちの信仰生活です(ローマ12:1)。

 

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した

ルカ福音書10:1――

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

その後、主はほかに……」との告知は、「働き手」・伝道者を(あと)()しする主イエス・キリストの愛の大きさをあらわしています。「その後、ほかに」の前に、主イエスは「十二人」を呼び集め、権能を授けて、派遣されました。それに続いて、「七十二人」が選び出されたのです。主イエスによって、新しい局面が開かれたということです。

初めに、十二人が、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」(ルカ9:2)、町や村へ送り出されました。福音宣教が順調に進んだわけではありません。彼らは、悪霊に取りつかれ苦しんでいる子どもをいやせず(ルカ9:27-43)、挫折を味わったこともありました。

主イエスは先手を打たれ、また、忍耐強く後押しされるお方です。そこで「ほかに」、6倍の数の「七十二人」を任命されました。

その後、主はほかに……」というお方が、「十二人」や「七十二人」の背後に立っていることを忘れてはなりません。教会において、自分の恵みの賜物を最大限に生かすのみならず、教会員すべての「それぞれ異なった賜物」を(あい)(はたら)かせるというのが、礼拝であり伝道です。

ルカ福音書・使徒言行録という一連の文書は、エルサレムの神殿での儀式から始まり、ローマの借り家での礼拝・伝道で終わっています(ルカ1:5-25、使徒28:30-31)。およそ60年かけて、祭司ザカリアから、使徒パウロへと至ります。忠実に礼拝者としての務めを行う両者の連関において、格段の霊的な伸展がありました。

その背景には、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」という、主イエスご自身による伝道の〈ビジョン・(まぼろし)〉があります(使徒1:8)。その意味で、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。

そのザカリアとパウロの間で、「十二人」⇒「七十二人」、または、「十二人」⇒「百二十人」(聖霊降臨前 使徒1:15)という「働き手」の増強が起こりました。それは、主イエスが「働き手が少ない」という諸教会の困難を見守っておられるという証しであります。

働き手が少ない」ことを身に()みて感じる二人組(二人ずつ)の者が歌うのにふさわしい讃美歌として、わたしは次の曲を思い起こしました。

讃美歌Ⅰ-234番 1節――

(むかし)主イェスの ()きたまいし、

いとも小さき いのちの(たね)

芽生(めば)え育ちて 地の果てまで、

 その枝を張る ()とはなりぬ。

 

Ⅱ 収穫の主に願いなさい                  

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

七十二人」がこれから主イエスより先に、町や村へ出かけて行こうとしています。その時、主イエスは「十二人」が派遣された際のことを思い起こされていたと見られます。

使徒「十二人」の目の前には、突然叫びだし、けいれんを起こし、(あわ)を吹いている子どもがいました(ルカ9:37-43。そこで、彼らは自分の信仰上の「どん底」、力の無さに気づかされました。そのことを、主イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(ルカ9:40)との嘆きをもって(あば)き出されました。

そうした失敗例を踏まえて、あるべき信仰というものを、どのように告白すべきなのか、主イエスは七十二人に語られました。それが、だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさいという祈りの勧めでありました。

主イエスのガリラヤ・サマリア伝道に同伴している「七十二人」にとって、主の十字架と復活の御業はこれから起こることでありました。そこで今、イエス・キリストを信じていることを言い表す、一つの祈りが示されたのです。確かにこれは、()()ない町や村へ派遣される者たちにとって、切実な願いでありました。またそれは、「収穫」を自分の成果と捉え、その多い少ないに心を寄せがちなわたしたちに対する警告でもありました。

霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう」(Ⅰコリント14:15)とのパウロの言葉を借りるならば、霊で主イエスの臨在……我々と共におられる神……を信じ理性で働き手の必要性を認識するということになるでしょう。

歴代誌上28:20-21―― 

20 こうしてダビデはその子ソロモンに言った。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に()こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」

これは、ダビデ王からその子ソロモンへの惜別(せきべつ)の言葉です。ソロモンが即位する(歴代誌上29:22-23)直前のことです。

この場面でダビデの最も伝えたいのは、「わたしの神、神なる主はあなたと共にいて」という神を信じること、また、新しい神殿でその神を礼拝することであるのは、一目(りょう)(ぜん)です。なおかつ、「理性で働き手の必要性を認識する」ことに関しても、「あらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており」と述べられています。ソロモンは為すべきことは、「御心のままに」(マタイ26:39)、と祈ることであります。そのように、これから派遣される七十二人も、昼も夜も主イエスに向かって叫び求めることが大切なのです

主イエスの言われた「収穫は多い」という「収穫」とは、神の民が集められ、神の栄光があらわされるということです。自分が独占できるような成果ではありません。「もっと欲しい」という自分の欲望を打ち砕く主イエスの言葉が続きます。

 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ   

ルカ福音書10:3-4 主イエスの言葉――

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、(おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな。途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな。」

途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな」との命令は少し奇妙ですが、前例があります。

列王記下4:29 シュネムの婦人の男の子が急死したとき―― 

そこでエリシャはゲハジに命じた。「腰に帯を締め、わたしの(つえ)を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならないまただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその子供の顔の上に置きなさい。」

(しもべ)ゲハジはエリシャから子どもを生き返らせるという務めを託されました。彼はカルメル山からシュネムへ(約30㎞)、寝台に横たわっている子どもの家へ駆け付けます。事情は異なりますが、「七十二人」はそれぞれの招き入れられる家をめがけて道を急ぎます。

主イエスによって託された使命に専心すべき理由は、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」との言葉の内に明らかにされています。

七十二人」には、自分たちが弱く乏しい者であることを認める謙遜さが必要でした。なぜなら、主イエスはその弱く乏しい者を、罪と死の縄目から解き放ってくださったからです。神の憐れみによって、人の弱さ・乏しさが(かえり)みられたことを忘れてはなりません。

主イエスは、「七十二人」が遣わされるのは、「小羊を送り込むようなものだ」と(たと)えられています。この世では、「小羊」がこうむるような苦難が彼らに襲って来ます。その究極の苦難こそが、「(すぎ)(こし)の小羊」なるイエス・キリストが(ほふ)られた十字架の出来事でありました(ルカ22:7、ヨハネ1:29)。

主イエスはご自身の苦難〈十字架〉と神の勝利〈復活〉を見据(みす)えたうえで、「(おおかみ)の群れ」の中へ「七十二人」を送り出されたのです。彼らは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)というこの世で伝道すると同時に、苦難を通してキリストにつき従う(しもべ)として成長してゆきます。

主イエスの「行きなさい」との命令が高らかに響いています。かつて、神はアブラハムに「(あなたが)行きなさい」と命じられました(創世記12:1)。アブラハムはこの突然の呼びかけを、神からの()し出しと受け止め、行き先も知らずに出発しました(ヘブライ11:8)。父祖アブラハムは、「七十二人」にとっての先駆者であります。

 

Ⅳ この家に平和があるように                     

ルカ福音書10:5-7 主イエスの言葉――

5 「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。」

ある家を訪ねて、「この家に平和があるように」と挨拶するのは、ごく自然なことです。この地域の慣習です。問題はここからで、二人一組の者が一つの家に結びつくかどうか、が分かれ目になります。

相手への「平和」の挨拶から、相手が「平和の子」かどうかという話に伸展しています。さらには、「あなたがたの願う平和はその人にとどまる(であろう)」というように、その相手の将来が見渡されています。そう考えると、遣われた者の使命は、主イエス・キリストの「平和」を伝え、その喜びの知らせを聞いた人を「平和の子」につくり変えることだ、と分かります。

主イエス・キリストは、神とわたしたちの間の「平和」を回復されました。主が十字架にかかることよって、わたしたちの罪と死を滅ぼし、平和を打ち立てたのです(コロサイ1:20)。主イエスがザアカイの家に泊まられたように、伝道者も、その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさいとの勧めを実践するのです。それによって、その人と家族の者すべてに、主イエス・キリストの「平和」が伝えられます。

 

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           

ルカ福音書10: 8-12 主イエスの言葉――

8 「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

主イエス・キリストの「平和」が宣べ伝えられました。主イエスを受け容れるか否かによって、二分されます。一方、「平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。他方、闇の中を歩み続ける人には、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言われます。

神の国は近づいた」というメッセージは、宣教の初め(マルコ1:15)から終わりまで、一貫しています。たとえ、人がかたくなに耳を閉ざそうとも、神の真実を知らせるのです。「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)の中から、善い「働き手」が現れ出るかも知れません。

先に述べたとおり、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。ユダヤ人と異邦人が相接(あいせっ)して住んでいる地域で、その(くわだ)てが始まりました。その点で、「七十二人」の宣教において、その中心メッセージが「神の国は近づいた」であるのは、神の御心に添っています。

闇の中を歩み続ける人にもなお、悔い改める機会(ルカ5:3210:13)が残されています。主イエスご自身が伝道されているうえに、「十二人」が、そして、「七十二人」が加えられました。「神の国は近づいた」――主イエスは、神の支配がもう地上にすべての人のために来ている、と語られました。

神の国は近づいた」ことを知らせた主イエス・キリストは十字架について死なれ、復活されました。罪人たちが主イエスを十字架にかけ処刑しましたが、「神の国」の接近は妨げられませんでした。むしろ、「神の国」は、死を超え、死にも打ち勝つものであることが明らかにされました。

平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。「神の国」は自分の目で見えないと言って、失望することはありません。大切なのは、わたしたちを罪と死から救い出されたイエス・キリストを信じること、そして、主イエスの再臨を待望することです。

ヨハネ黙示録22:20――

アーメン、主イエスよ、来てください。

再び、主イエスが来られる時、主は、わたしたちに、収穫・刈り入れの完了の宣言してくださいます。わたしたちは、「収穫が多い」という神の恵みの豊かさに驚かされることでしょう。

わたしたちが再臨される神の御子に出会うということは、わたしたちの国籍が「神の国」にあることの現れです。地の産物の中から「初穂」を選んで神に献げる(レビ記2:14)のは、わたしたちが「神の国」に帰属しているという証しであります。「富は、天に()みなさい」(マタイ6:20)との(おきて)の実行によって、わたしたちは天に国籍がある(フィリピ3:20)ことを確認しています。

そして最後の審判を経て、わたしたちは、地上の家ではなく、「神の国」において、「出される物を食べ、また飲む」(ルカ10:7)ことが許されます。讃美が絶えることなく、祝宴が続きます(参照:讃美歌Ⅰ-5044節)。そこには、主の(しもべ)・「働き手」から教えられて、主イエス・キリストの愛を信じるようになった人々が集っています。

 

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫は多い ……終わりの時に、満ち満ちる神の恵みの豊かさ

働 き 手」 ……終わりの時までに、救われるべき自分の隣人

収穫の主  ……終わりの時に、再び来られる主イエス・キリスト

収穫の主に願いなさい」とは、「主イエス・キリストに祈る」ということです。今から終わりの時に向けて、「働き手」(わたしの隣人)が増し加えられるよう、神の右に座っておられる主イエス・キリストに執り成していただくのです(ローマ8:34)。このように考えると、「七十二人」の出発にあたり、主イエスが彼らに教えようとされたのは、最も重要な(おきて)であったと分かります。

ルカ福音書10:27――

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。

主イエス・キリストが愛によって、神と隣人(やがて教会において兄弟姉妹となる人々)とに結ばれるよう、教えられました。「収穫の主に願いなさいとは、「愛しなさいという命令が実行できるように、主イエス・キリストにすべてを任せなさいということです

主イエス・キリストの愛を注がれ、死を超える永遠の命にあずかっている人、「七十二人」がつくり出されました。「愛しなさい」との(おきて)を受けて、彼らがこの世に遣わされました。あなたがたもまた、信仰者の群れの中に入られますようお祈りいたします。

 

 

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