次週主日礼拝 2024年10月20日(午前10時15分~11時20分)
聖霊降臨節 第23主日
招き 前奏
招詞 詩編116編 5~7節
頌栄 539
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 14
交読文 37 詩編146編
旧約聖書 詩編 146編 1節~10節 (p.986)
新約聖書 ペトロの手紙一 4章6節 (P.433)
祈祷
讃美歌 20
説教
「主はうずくまっている人を起こされる」 小河信一牧師
祈祷
讃美歌 183
使徒信条
献金
報告
讃詠 546
祝祷
後奏
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2024年7月21日「永遠の命に至る食べ物のために」
列王記上17章8節~16節
ヨハネによる福音書6章22節~27節
※今回はレコーダーの不具合により説教音声はありません。申し訳ありません。
〈説教の要約〉
主日礼拝 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
マタイによる福音書14:22~33
神奈川教区・巡回教師 貴田寛仁
「ペトロの信仰」要約
ここに登場するペトロは私にとってはペテロと云う方が馴染み深い名前です。イエス様は神様と同様の存在ですから、聖書の登場人物の中で、最も好きな人物です。この聖句では、弟子たちは、イエス様と別れて、弟子たちだけで、舟に乗り、湖の向こう岸に向かっている途上の出来事です。弟子たちは、一晩中風と波とに翻弄されて、岸辺から1キロメートル位の所にいます。夜明けごろ、弟子たちは、湖の上を歩いて来られたイエス様と出会います。私がペトロを好きな理由の一つですが、イエス様と出会えた安心からか、ペトロは舟から少し離れたところにおられるイエス様に、湖の上を歩いて、イエス様の下に行かせて欲しいと頼みます。そして、イエス様はそれをお許し為さいます。しかし、ペトロらしいのは、強い風に気が付いて、溺れそうになります。私がペトロの信仰が素晴らしいと思うのは、「主よ、助けてください」と叫べる事です。その時、イエス様はしっかりと、ペトロを掴んでお助け為さいます。1枚の絵画が有ります。私はその絵葉書を手作りの額縁に、入れた物を、母教会の牧師から頂きました。額縁に貼り付けて有るので、その絵画の題も、作者も、分かりません。この場面を描いたものですが、イエス様が腰まで沈んだペトロの腕をしっかりと掴んで居られます。ペトロは何も掴んで居ません。イエス様が私たちを支え、助けて下さる時も同様だと思います。私たちも、ペトロの様に、全てをイエス様に委ねれば、良いのです。私たちがそうした時、イエス様が私たちをしっかりと掴んで下さいます。しばしば、この小舟は、強風と荒波の中に有る教会に譬えられます。今、日本基督教団の教会は高齢化が進み、教会で、若者を見る事が少なくなりました。今がイエス様に全てをお委ねして、ペトロの様に、「主よ、助けてください。」と叫ぶ時です。
〈説教の要約〉
2024年 10月6日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第21主日
旧約聖書 エレミヤ書 15章18節(P.1206)
新約聖書 マルコによる福音書 5章21節~34節(P.70)
説 教「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……マルコ5:21-24
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
……マルコ5:25-26
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
……エレミヤ書15:18
……マルコ5:27-29
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
……マルコ5:30-31
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。安息日に会堂に入ったり(マルコ1:21、3:1-2)、人家に招かれたりして(同上2:1、3:20)、神の教えを説いておられました。その上、今読んでいるテキスト(マルコ4:35-5:43)に出てくるように、風や湖を従わせる奇跡、悪霊の追放、そして病気のいやしを行われました。
主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と出合い会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。主イエスは、12歳の少女のいやしと12年間出血を患っている女のいやしとに向き合われています。一体、主イエスはどのように、緊急事態中の緊急事態に対応されるのでしょうか?
わたしたちの関心は、危篤状態の人(マルコ5:23)が助けられるか否か、に向いてしまいがちです。しかし、くり返しますが、主イエスがどのようなお方であるかを、“ 霊 ” によって見て、知って、信じることが大切なのです。
Ⅰ イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると
マルコ福音書5:21-24――
21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
時系列をたどると、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」(マルコ4:35)というゲラサ地方の伝道を終えて再び、ということになります。
ですから、ここで「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」というのも、「夕方」のことかも知れません。いずれにしても、「一日が夕方から始まる」(創世記1:5)という時に、主イエスは驚くべき御業を成し遂げられます。そうして、湖畔の闇のただ中に、神の栄光が灯されます。
「大勢の群衆がそばに集まって来た」という雑踏を掻き分けて、「会堂長の一人でヤイロという名の人」が主イエスのもとにたどり着きます。そして、主イエスを見て、言いました……「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。
ヤイロは苦悩のどん底に置かれています。闇の中に、ひと筋の希望を見出そうとしています。「足もとにひれ伏して、しきりに願った」という主イエスへの信頼が、今のヤイロを支えていました。
湖畔の道端からヤイロの家へ……一刻の猶予も許されません。主イエスは、12歳の「娘が死にそう」な緊急事態を受け止められ、「ヤイロと一緒に出かけて行かれ」ました。「大勢の群衆も、イエスに従い」つつ、その後を追いました。
そのようにして、緊張がますます高まっていく中、マルコ福音書はもう一人の、病を負った女の存在を告げます。何もこんな時に出て来なくてもと、邪魔者扱いされそうですが、その女の事情が丁寧に描き出されます。
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
マルコ福音書5:25-26――
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
この女は病を負い、傷つき苦しんでいました。また、孤独であったに違いありません。というのも、モーセの律法に「男女の漏出による汚れと清め」との規定があったからです。すなわち、「25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている」(レビ記15:25-27)と指示されていました。
ということは、「十二年間も出血の止まらない」というその期間、彼女は町や村の共同体から遠ざけられる存在であったということです。独りで苦しみに耐えるしかありませんでした。人前に出ることさえ憚られました。
しかし、果敢にも彼女は病と闘いました。「直りたい」との気持ちを捨てなかったのです。それにもかかわらず、「多くの医者にかかって……全財産を使い果たしても……」、病はいやされませんでした。モーセの律法が、病身の彼女にのし掛かっていました。「その期間中は汚れている」以上、祭司はじめ衆人環視のもとに置かれていました。
そんな女のもとに、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をされているお方のうわさが入って来ました。聞けば、舟に乗って湖畔の群衆にたとえを話したり、また、通りがかりに様々な人々に語りかけている(マルコ1:16,19、2:14、4:1-2)ということです。ガリラヤの自然のように、心の広いお方であると、彼女は思ったかも知れません。
「十二年間も出血の止まらない女」がどんな行動に出たかを見る前に、哀しみを知る人エレミヤの苦悩について説き明かしましょう。なぜ、エレミヤは「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます」(詩編38:6)というほどに、苦汁をなめなければならなかったのでしょうか。神はエレミヤを見捨てられたのでしょうか。
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
エレミヤ書15:18――
これは、「エレミヤの訴え」と呼ばれているテキストの一節です。エレミヤは「あなた」なる神に対峙しています。実際、直後の19~21節には、エレミヤへの主の返答が記されています。
最大の問題は、神に「諸国民の預言者」として立てられ聖別されたエレミヤ(1:5)がどうして苦悩のどん底に落ち込んでいるのか、ということです。神に遣わされているならば、「わたし(預言者)は力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)はずなのに、何とエレミヤは情けないことかと、あなたは思われるでしょうか。
預言者の苦悩……それは、安楽椅子に座っている学者の理論では知り得ないものがあります。旧新約聖書が描き出す預言者や伝道者の姿はリアリティそのものです。そこには、神と民衆との間に立っている葛藤、あるいは、人間の不信仰や絶望を垣間見ている恐れと憂いなどによって、彼らはしばしば憔悴・衰弱することがあります。
預言者が群衆に、神の愛と義を唱えれば、一部の者から罵声を浴びせられます。彼らは自己中心であり、自分の生活を変えられたくないからです。
コリントの信徒への手紙 一 2:3――
(わたしが)そちら(あなたがたのところ)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
パウロは自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。パウロはコリント教会の、少なくとも一部の人々が知っている事実を元に訴えています。というのも、(この手紙を書くおよそ2年前)パウロは1年半ほどコリントにとどまって伝道していたからです(使徒18:11)。
しかし、パウロの打ち明けた「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。これはある意味、真の「キリスト・イエスの僕」には避けられない体験でありました。それほどまでに、パウロはコリントで、神の言葉を教え、身を粉にして働いたのです。
さて、エレミヤに、ひいては、「十二年間も出血の止まらない女」に話を戻しましょう。
エレミヤは、「わたしの痛み」と「わたしの傷」を、「わたしを裏切り 当てにならない流れのようになった」かに見える神に訴えました。ここで、注解者のC.ヴェスターマンは、「エレミヤは徹底的に神に抵抗した。このように止めようのない痛みの中から、エレミヤは鋭い言葉で神を告発する。大切なことは、たとえ神に対する告発であったとしても、その言葉が神に向けて語られた言葉であった、という点である」と述べています。
従って、「十二年間も出血の止まらない女」が救われるかどうかは、彼女が主イエスの御前に自分を包み隠すことなく、主に依り頼むかどうか、に掛かっています。「やむことない痛み」と「重くて、いえない傷」に屈することなく、慈しみに満ちた神からの答えを待ったエレミヤは、間違いなく彼女の先駆者たる人物です。果たして、人を隔離に追いやるモーセの律法を乗り越えて、彼女は主イエスと対面することができるのでしょうか?
マルコ福音書5:27-29――
27(彼女は)イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
「イエスのことを聞いて」との一句によって、主イエスに対する彼女の期待が分かります。願わくば、仮に彼女の期待通りに行かなくても(参照:たといそうでなくても / but if not ダニエル書3:18)、主イエスに従い続けることです。そうすれば、やがて彼女の期待は、主イエスへの信仰に変えられます。
「群衆の中に紛れ込み」……幸いにも、主イエスに押し迫るほどの群衆が、彼女の隠れ蓑となりました。そして、彼女は「後ろからイエスの服に触れ」ました。
実は、イスラエル人の男子の衣服には「四隅に房が縫い付けられて」いました(民数記15:38)。主イエスの服に「房」が付いていたかどうかは不明ですが、聖なる「房」に触れるようにして、女は主イエスの御力にあずかりました。本来、律法には、「あなたたちが房を見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(同上15:39)と規定されています。
女はおそらく、「服の房をただ見ているだけ」という律法を知らなかったのでありましょう。しかし、「イエスのことを聞いて」、それが動機となって彼女は主イエスとの交わりを乞い願いました。群衆の誰かに、正体が気づかれれば、外に引きずり出されてしまいます。「去れ、汚れた者よ」、「去れ、去れ、何にも触れるな」(哀歌4:12)と。
彼女は一縷の望みを「後ろからイエスの服に触れる」ことに託しました。というのも、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。雑踏の中、彼女は決死の覚悟で、主イエスに近づきました。そうして、「イエスの服に触れる」ことができました。
「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」……彼女の「いやしていただく」との願いは「すぐに」聞かれました。それはあたかも、「十二年間も出血の止まらない女」が祈る先から、神が彼女の願いを聞き届けておられたかのようです(マタイ6:8、イザヤ書65:24)。「すぐに」いやされた女から、「すぐに」気づかれた主イエスへと、焦点が切り替えられます。それによって、主イエスと女の出会いは揺るぎないものとなります。
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
マルコ福音書5:30-31――
30 (そして)イエスは(すぐに)、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
主イエスは、御自身の服に触れ、「すぐに」いやされた女に、「すぐに」気づかれました。なぜなら、「自分の内から力が出て行った」からです。わたしたちの信仰において、神ならびに主イエスの「力」を受けるというのは、とても大切です。
コリントの信徒への手紙 一 2:5――
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
ルカ福音書6:19――
(ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方からやって来た)群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
「神の力」が主イエスを通じて、人々に分かち与えられます(Ⅱコリント12:9)。「イエスから力が出て」、現実に病気のいやしや悪霊祓いが成し遂げられます。その御業にあずかった者は、「体に感じた」と証言しています(マルコ5:29)。何よりも、「イエスから出た力」は、神ならびに主イエスと信じる者との交わりを強めます。
使徒パウロが述べている「神の力によって信じるようになる」との言葉は、それを実証しています。すなわち、「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されます。「神の力」の影響が、わたしたちの生活の隅々にまで及びます。“霊”と力 の働きに押し出されて、わたしたちは善い業に励むようになります(Ⅰコリント2:4、コロサイ1:10)。
ところで、主イエスの弟子たちは、「後ろから」忍び寄って来た女の存在に気づいていません。それは、主イエスの問いへの答え、「それなのに、『だれがわたし(イエス)に触れたのか』とおっしゃるのですか」から分かります。彼らの視界には、病を負って苦しんでいた孤独な女が入っていません。
その時の情況を踏まえて、その理由を二つ挙げましょう。
①「幼い娘が死にそうな」ヤイロの家に急いでいたから。
②「群衆があなた(イエス)に押し迫っている」ので、必死に主イエスを護衛していたから。
このように弟子たちの内心を探ってみると、主イエスの態度との違いが明らかです。
主イエスは、助けを求めてきた一人に心を配られました。そして、緊急事態においても、〈中断する〉のを厭われませんでした。つまり、遮二無二に前へ前へ、というのではなく、とどまる必要がある時には、休止されました(マルコ1:35、3:9)。主イエスは神の栄光を現すために、〈中断する〉勇気を持っておられたということです。
そこで主イエスは、〈途上〉の緊急事態に立ち向かわれました。この場面でいえば、大群衆の中に、「わたしの服に触れたのはだれか」、探し出そうとされました。
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
マルコ福音書5:32-34――
32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」……この主イエスの様子は、「見失った羊のたとえ」の一節を思い起こさせます。
ルカ福音書15:4――
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
わたしたちが真に主イエス・キリストに出会うためには、羊飼いなる主によって「見つけ出され」ねばなりません。なぜなら、主イエス・キリストによって、自分が「救われる」ことが出会いの原点だからです。
そうして自分が「救われる」ならば、「羊のために命を捨てる」、慈しみ深いお方(ヨハネ10:11)につながれます。逃げ出したり、隠れたりしてはなりません。
「出血が止まって病気がいやされた女」の場合は、どうだったでしょうか。
「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」……驚き、恐れ、恥じらいなど、いろいろな感情が入り交じっているように思われます。注目すべきは、「進み出てひれ伏し」と「すべてをありのまま話した」との二点であります。
悪霊に取りつかれていたゲラサの男も、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」ました(マルコ5:6)。「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。
これは、主イエスの招きに対する、「救われた」者の感謝をもっての応答です。「すべてをありのまま話す」という姿勢が保持されていれば、きっとこの人は、神に何でも打ち明ける祈りの生活に入っていくことでしょう。
自分の「ありのまま」というのは、神によってひっくり返されることと矛盾するのではないか、と問われるでしょうか。それは善い質問です。その答えを導き出すには、「ありのまま」の原意は「真実」(アレーセイア)であることを知らねばなりません。
つまり、神の「真実」がわたしたちの体験し生活している「ありのまま」を支配しているということです。従って、神の「真実」が、自分の固執している「ありのまま」、あるいは、ねたみと争うに満ちた「ありのまま」を変えることがあります。そうであってもまずは、この女性のように、「すべてをありのまま話す」ことが大切です。
最後に、序.で確認した、主イエスの宣教の基本線に立ち返りましょう。すなわち、主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)との宣教をくり返していたということです。
「十二年間も出血の止まらない女をいやす」というのは、緊急事態中の緊急事態、〈途上〉で惹き起こされた出来事です。急ぎがちになるような〈途上〉においても、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのでしょうか?
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」……というように、病気のいやしの物語は結ばれています。
結論的にいえば、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのか、に対する答えは、「はい、その通り。基本線が明確に確認できます!」ということです。
そこで、「①娘よ、あなたの信仰があなたを救った⇒②安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」との主イエスの言葉の配列に着目してください。
初めに、①あなたは主イエス・キリストを信じる、そして次に、②あなたは主にあって平安と健康を享受する、という流れになっています。
確かに、時系列上は、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされた」(②の治癒 マルコ5:29)が先行しているように見えます。しかし、さかのぼるべき出発点は、「(彼女は)イエスのことを聞いて」(同上5:27)という事実にあります。つまり、彼女は人づてであれ、主イエスによって伝道されていたのであります。彼女がすでに、「たとえの連続公開講座」(マルコ4:1-32)の興味深い話、あるいは、人の罪を赦すという福音(同上2:10、3:28)を「聞いて」いたとしても不思議ではありません。
そのような一人の女性が、「振り返られた」主イエスのまなざしの中に置かれています(マルコ5:30)。そして彼女は、主イエスの御前に「ひれ伏して」います。主は親しみを込めて、その女に「娘よ」と呼びかけられました。ふたりの関係は、「あなたの信仰」によって堅く結ばれています。
この女性はこれから将来にわたり、健康はじめ、すべてのものが神から与えられる(Ⅰコリント4:7)という幸いな人生を送ることになります。
ローマの信徒への手紙11:36――
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
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月報9月号
説教 『 風はやみ、すっかり凪になった 』
マルコによる福音書 4章35節~41節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう ……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか ……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,
10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も
一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、
わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、
わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この
光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への
信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これは
まさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせ
られる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
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〈説教の要約〉
2024年 9月29日
聖霊降臨節 第20主日
旧約聖書 イザヤ書 55章1節~5節(P.1152)
新約聖書 ヨハネによる福音書 4章13節~14節(P.169)
説教の構成――
序
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
……イザヤ書55:3後半-4
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
……イザヤ書55:5
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
……ヨハネ4:13-14
序
主イエス・キリストの十字架と復活の力によって、わたしたちの人生や考え方はひっくり返されます。そして、ひっくり返されると、どうなるかと言えば、神の祝福が大河のように押し寄せてきます。
天からの祝福の流入を、「遠慮」や「独占」によって堰き止めるのは止めましょう。自分の飢え渇きをもって祝福にあずかりましょう。「貯めておこうか」と思うときには、隣の人に分かち与えましょう。
このような姿勢を取るのは、意外に難しいことかも知れません。では、あるがまま、で良いでしょうか、と問われるでしょうか? ハイと言いたいところですが、あるがままだと、大概、自分に、つまり自分の欲望や誇りに力が入ってしまうことでしょう。そこで、パウロはあるべき信仰者の姿を、心を開いて「霊で賛美の祈りを唱えている」(Ⅰコリント14:16)というように提示しました。祈りをもって天を仰いでいる、賛美して喜んでいる……すでに多くの方が知っておられた通りのことです。
ここで、このような前置きを書いている理由を要約しましょう。すでに触れていることなのですが……。
それは、神の祝福が圧倒的な勢いで、主イエス・キリストを信じ、聖霊によって導かれているわたしたちの生活の隅々にまで流れ込んでくることを、心に刻んでおくということです。そしてそのことを、実体験するために、第二イザヤが描出している神の祝福の奔流に身心を浸してみましょう、ということなのです。
そこで、アラムの軍司令官ナアマンの轍を踏まないようにしましょう。神の人エリシャは、使いの者を通して、ナアマンに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王記下5:10)と命じました。しかし、大の大人がだだをこねて、家臣に、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(同上5:12)と言い返しました。そのように憤慨したナアマンは、身を翻して立ち去りました。
神の癒やしにあずかるのも、神から祝福をいただくのも、同じことです。自分の欲望や誇りには、力が入りやすいので警戒しましょう。幸い、ナアマンの周りには、率直に助言してくれる家来たちと、重い皮膚病を患った人を憐れんでいる神の人エリシャとがおりました。ナアマンは彼らによって、神の御前にへりくだるように導かれました(列王記下5:14)。
それでは、さあ、「霊で賛美の祈りを唱えている」との心備えをもって、第二イザヤの最終章を読みましょう。イザヤ書55:1-5は基本的に、主なる神がイザヤを通して、イスラエルの民にメッセージを告げるという形になっています。
Ⅰ ああ、渇いている者は皆、来なさい
1 (ああ)渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
新共同訳では訳出されていませんが、冒頭の「ああ」との嘆きを聞き逃さないようにしましょう(他にイザヤ書45:9,10)。というのも、その一句の内に、悲惨な民のただ中に身を沈められる神が表されているからです。主なる神は、災いから立ち直れない民と共におられます。神は時に厳しく、時に優しく、一人ひとりに寄り添っておられます。
主なる神は、民が立ち直るために必要なものを差し出されています。飢え渇いている者に、「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が無償で与えられます。「銀を持たない者も」、「銀を払うことなく」、そして「価を払うことなく」というように、3回もそれらがただであると強調されています。
悲惨のうちにあるイスラエルの民が悟るべきは、神の恵みの豊かさであります。わたしたちは、「水」や「穀物」が安定供給される様を見て、永遠に神の恵みが満たされるということを知らねばなりません。「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が不足しそうだと不安になるときにも、「ああ」と嘆いて、民に寄り添う神を信頼することです。
無償の恵みを受け取りなさいとの招きに続いて、神は民に忠告を与えています……「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか」。いくら神が助けの御手を差し伸べても、民が過ちを認め、立ち直ろうとしなければ、先に進みません。
ここで、「糧にならぬもの」と「飢えを満たさぬもの」というは、一体何を指しているのでしょうか?
イザヤの預言からは、「剣」(=戦争の象徴 イザヤ書51:19)、「よろめかす杯」(=暴飲 同上51:22)、無用な「搾取」(=弱者を苦しめる貧困 同上52:4)などが挙げられるでしょう。また現代社会においても、「糧にならぬもの」ために、一部の人々はお金を浪費し自ら堕落する一方で、その隣人は飢餓により死線をさ迷っているということが起こっています。
この世の生活の中で、「水」や「穀物」のことが気にかかるのは分かります。実際、イスラエルの民は荒野放浪を始めた途端に、「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と不平を鳴らしました(出エジプト記16:3)。この愚痴を小耳に挟まれた神(同上16:4、マルコ5:36)は、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」と告知されました。神は速やかに、人間の「ああ」(イザヤ書24:16、29:15)との嘆きに対処されました。
わたしたち・信仰者には、神と隣人を愛し、被造世界を保持していく務めが与えられています。その中で「銀を量って払い、労する」という生活が営まれます。誘惑の多いこの世で、一体何のために、「銀を量って払い、労する」のか、真剣に祈り求めることが大切です。
主なる神は、飢え渇いている者への語りかけを、招きから忠告へ、それから勧めへと展開していきます。
勧めの中心点は一目瞭然です……「わたしに聞き従えば」、「耳を傾けて聞きなさい」、そして、「聞き従いなさい」。「聞く」べき内容は、イザヤの口を通して宣べ伝えられています。
3回も「聞く」ように勧められているのには、訳があります。それは、民が御言葉を耳にしながらも、「真に聞いていない」、つまり、「聞き従っていない」ことが生じているということです。
それ故に、民の頑なさを見抜いておられる神は、民が「聞き従う」ように厳しく命じられたのです。義しい姿勢は、御言葉を「聞いて」心に納め、行うべきことを行って「従う」ということです。それならば当然、大河のように流れ下って来る神の祝福を堰き止めるようなことはないでしょう。
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
イザヤ書55:3後半-4――
初めに、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」と呼びかけられた、神の〈本気度〉がひしひしと伝わって来ます。神とイスラエルの民との「契約」の特徴が克明に描き出されています。さらに、その「契約」に関して、「わたしは彼を立てた」ことと、その対象の拡大、つまり、「あなたたち」(イスラエルの民)が「諸国民」に拡げられたこととが告知されています。
順に見ていきましょう。まず、「契約」の特徴を二つに分けて……。
神は「ああ」と叫んで、民の困難や堕落に介入されます。神は忍耐強く、預言者を遣わして、民に悔い改めるよう呼びかけられます。人間の側がどんなに「契約」にふさわしくない態度を取っても、神は見放されません。それが、「とこしえの契約」と言われる所以なのです。
ここに、神は “ 霊 ” なる御力をこの世に宿らせ、いつもわたしたちと共におられることが実証されています。神は、具体的・歴史的人物を通して、「とこしえの契約」を結ばれました。「ダビデ」は、争いと妬みに巻き込まれることが頻繁で、罪深い人です。けれども、神は「ダビデ」に油を注いで、イスラエルの国を建て直されました。「ダビデ」のさまざまな働きを、神は陰で支えておられました。
ところで、主イエスは「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ1:1、21:9)。主イエスは人の子として、「ダビデ」の家系にお生まれになりました(ルカ2:4)。それはつまり、「(神が)ダビデに約束した真実の慈しみ」が主イエスによって引き継がれ、拡大されたことを示しています。
神がイスラエルの民と結ばれた「契約」は、「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえ」なるものとなりました。
次に、「かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とした」との真意をつかみ取りましょう。
第二イザヤは、神が「彼を立てた」が故に、「契約」が確固たるものとなった、と述べています。それでは、一体「彼」とは誰なのでしょうか?
それは、第二イザヤが42章から53章にわたり預言してきた「わたしの僕」(イザヤ書52:13)、すなわち、苦難の僕であります。挫折と回復が交錯するような時代に、四つの僕の詩は歌い上げられました。そして、それらは、イスラエルの民が、ユダ王国崩壊とバビロン捕囚という大災難から、茨の道を経て、立ち上がっていくときの、信仰の原動力となりました。
そうしたことを踏まえて、第二イザヤは最終章で、「かつてわたしは彼〈苦難の僕〉を立てて諸国民への証人とした」と総括したのです。もはや、神の「真実の慈しみ」、祝福の奔流は現実のものとなります。その顕著な現れこそが、「わたしの僕」が人々の「罪すべて負い」(イザヤ書53:6,11)、その罪と過ちから救い出すということです。「諸国民」がその喜びの知らせにあずかるというのは、なんと幸いなことでしょう。それは、神が人々に「見よ!」(ヘブライ語:)と呼びかけるほどに、画期的なことであります。
神は、今なお「背いている者たち」を見捨てられません。「(主の僕は)背いた者のために執り成しをした(原文:執り成しをするであろう)」(イザヤ書53:12)との言葉は文字通り、神の約束です。なぜなら、その約束は主イエス・キリストによって成し遂げられるからです。
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
イザヤ書55:5――
あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。
前詩行と並行して、導入句「見よ!」(ヘブライ語:ヘン)が置かれています。「あなた」、すなわち、神の民は皆、じっくりとご覧なさい、ということです。そこには、「神の国」を予兆するような、出来事が繰り広げられています。
神の民として結集した「あなた」には、人の思いをはるかに超える形で、神の恵みが与えられています。これまでに挙げられた神の恵みには、圧倒されます。初めから整理して並べると……。
「水」・「穀物」・「ぶどう酒」・「乳」、そして、「善良」と「豊潤」(イザヤ書55:2)、あなたたちの「魂」と「命」、さらには、「とこしえの契約」と「指導者」なる「彼」(わたしの僕)がイスラエルの民と諸国民に与えられました。そして今、それらものは、わたしたち、「キリストに結ばれている者」(ローマ16:22)に、無償で授けられると約束されています。
このような神の恵みによって充足された「あなた」に、次なる展開が起こります。立ち直った「あなた」が今度は、「兄弟姉妹を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)ということです。
親しい「兄弟姉妹」の範囲が、「あなたの知らなかった国」まで拡げられました。「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との神の招きがすでに、はるか彼方まで届いているかのように、「諸国民」は速やかに応答します。船に乗って海を渡り、あるいは、らくだに乗って砂漠を越えて、彼らは「あなたのもとに馳せ参じて」きます。このようにして、「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(同上55:2)との預言が成就します。
第二イザヤの最終章・前半は、次の神の預言で閉じられます。ここでは、「神の国」の予兆にふさわしく神の栄光が現されます。
「諸国民」が、「あなた」と呼ばれるイスラエルの民のもとに結集します。その時、「あなたの神である主」は、「あなたに輝きを与えられ」ます。神を信じる者にとって、これ以上の栄誉はありません。わたしたちが神の栄光を帯びるというのは、「土の器のかけらにすぎない」人間(イザヤ書45:9)と神が一つになるためであります(ヨハネ17:22)。
ただし、それは生半可なことではありません。“ 霊 ” によって、一人ひとりが決断しなければなりません。復活された主イエスは、悔い改めたペトロに、「あなたはその死に方で、神の栄光を現すようになる」(ヨハネ21:19)と告げられました。まことに畏れ多いことです。同時に、自分が死ぬ時にも、「神の栄光」が現されるということに、どれほど慰められることでしょうか。
第二イザヤの預言は、主イエス・キリストの行いと言葉によって成し遂げられます。そうしてまさに、神とイスラエルの民との「契約」が、(イザヤの預言上の)「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえの契約」となることが実証されます。
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
ヨハネ福音書4:13-14――
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
これは、「水」をめぐる主イエスとサマリアの女の会話からの引用です。一読して、イザヤ書55:1-3前半の神の招きと、大差はないと思われるかも知れません。確かに概ね、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との呼びかけと符合しています。しかし、先行するイザヤ預言があるからこそ、わたしたちは主イエスにおいて際立っている点を汲み取ることができます。
一方、第二イザヤは「あなたたち」、イスラエルの民に向かって叫びました。他方、主イエスは孤独なサマリアの女に語りかけています。主イエスによってすでに、ユダヤ人と異邦人との垣根は取り払われています。主イエスは「知らなかった国」(イザヤ書55:5)の女性に呼びかけています。
従ってここでは、主イエスがどのように、神を知らず、負い目を持つ人(ヨハネ4:18)の心を開くのか、が必見となります。「水に価を払うことはありませんよ」(イザヤ書55:1)と言えば、かえって警戒されそうです。
ヨハネ福音書4:7――
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
昼下がり、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました(ヨハネ4:6)。「水を飲ませてください」との言葉には、何ら不自然なところはありません。つまり、相手に不信感を与えていません。
ただし、ユダヤ人がサマリア人に声をかけること、そして、孤独と悲哀のうちに沈んでいたその女に助けが求められることは、極めてまれなことでありました。
主イエスは「渇きを覚えている者」となり、女が久しく忘れていたであろう善行を促されました。それが、困っている人を助けるように、「冷たい水一杯を飲ませる」(マタイ10:42)ことでありました。こうして、主イエスはサマリアの女に立ち直るきっかけを与えられました。主イエスに対する、この小さな愛の業は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という信仰を植え付ける土台となることでしょう。
さらに、主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、驚くべき発言をされました。もちろん、このことは第二イザヤには書かれていません(比較:第三イザヤの58:11)。「水」や「穀物」の安定供給は、ひとえに神の恵みに掛かっていると示唆されましたが……。
ところが、今主イエスは、「わたしが与える」かぎり、その「水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言明されました。主イエスを信じる者たちへの、何と大いなる祝福でありましょうか。
同時にこれは、主イエスにつき従う者たちに、大いなる使命が与えられたということであります。すなわち、「その人の内の泉」から「永遠の命に至る水」を汲んで、罪人や病人に差し出すことです。そして、「永遠の命に至る水がわき出る」かぎり、小さな者たちへの小さな愛の業をくり返されます。
自分自身の世界に閉じこもっていた、一人の異邦人が主イエスによって解き放たれました。神と隣人を愛する人に変えられました。
結
主イエスは、第二イザヤの「渇きを覚えている者は皆、来なさい」との告知をしっかりと受け止められました。そして主イエスは、「水を飲ませてください」と言って、外国人女性に助けを求めるほどにへりくだり、わたしたちの弱さや疲れの中に入って来られました。
実は、主イエスは極限状況の中で、「渇き」を体験したお方でありました。それは、主イエスがサマリアを旅しておられた時、ヤコブの井戸のそばで覚えられた「渇き」をはるかにしのぐものでありました。
ヨハネ福音書19:28――
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「わたしは渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「聖書の言葉(=詩編22:16)が実現した」という通り、主イエスは十字架上で、神の御心に添って、焼き付くような口の「渇き」に苦しまれました。その点で、主イエスは心底から、人の「渇き」を体験されました。だからこそ、「渇いている人」を助け出すことがお出来になるのです。
主イエスは十字架上で、「わたしは渇く」と叫ばれた後に、死を遂げ、そして三日後によみがえられました。それによって、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との約束が成し遂げられました。
というのは、復活の主が、きのうも今日も、また永遠に(ヘブライ13:8)、「わたしが与える」という務めを果たし続けておられるからです。ですから、「わたしが与える水」は、「永遠の命に至る水」にほかなりません。
わたしたち・信仰者の前途には、飢え渇きが潜んでいます。しかし、試練の時にも、主イエスは、「永遠の命に至る水」を注いで、わたしたちの魂を潤わせてくださいます。
そして、わたしたちは自分の内の「泉」の「永遠の命に至る水」をもって、自分と隣人の「渇き」を癒やします。そうして神の国にたどり着いた者に、主なる神は、「永遠の命」を得させてくださいます(ヨハネ3:16)。
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2024年 9月22日 聖霊降臨節 第19主日
説 教「現代に通じる共感の教え」 三浦久光役員
新約聖書 マタイによる福音書 7章7節~12節(P.11)
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。このあまりに有名な聖句を今まで何度聞いたでしょうか?クリスチャンのみならずノンクリスチャンの人でさえ知っている言葉です。これは主イエスが山上の説教で述べられたあまりに有名な句で黄金律とも呼ばれていますから今更説明するまでもないとは思いますが、果たしてどれだけの方が理解されているでしょうか?自分勝手な解釈にとらわれ思い違いに悩みまた、信仰から遠ざかってしまうのも、まさにこの聖句の解釈による問題なのではないかと感じております。ミッション系の学生ならば毎月毎週聖句の話を聞いていることでしょうから、本来は皆しかるべき時に洗礼を受けクリスチャンになるはずと考えますが実際はほぼ100%に近い学生が洗礼を受けずに卒業している現状です。なぜでしょうか?皆さんも覚えがあるでしょうが、人は本来「ああしなさい。こうしなさい。」言われれば言われるほど反発を覚えるものです。まして親や先生など近しい人であったりすればなおさらです。「こうするべき。こうあるべき。」いわゆる「べき論」を押しつけられるのは受け入れられないのです。学生時代毎週毎月先生型からああしなさい。こうしなさい。君は出来るはずだ。なんで努力を惜しむのか?などありとあらゆる機会に言われ続ければ聖書はおろか教師の話を聞くことすら苦痛になり結果として信仰どころか聖書を読み続ける古都からもとうのいてしまのではないかと私は考えてしまいます。聖書は実に不可思議な書物で世界一のベストセラーであり誰もが知る書物ですが、人によっては感心したり反発したりと。まさに様々な反応を示す書物でもあります。私も聖書を最初に一読しさらに4度通読しましたが、読み終える毎に違う感想や考えが浮かんできます。聖書にはわざわざ「信じられない」「納得しかない」と思われる出来事ばかりを記していて、読み手には反発されることを承知で「○○しなさい。」と押しつけがまし表現を使っている箇所が随所に見られます。聖書はそうしたやり方で私たちの常識や偏見を揺さぶりながら様々なことを問いかけてくるのです。そうして聖書と我々の対話を引き出してくるのです。山上の説教5章39節には「誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をもむけなさい」とあります。実際見ず知らずの人に、いきなり殴られてもう一回どうぞなどという人を見たことがありますか?残念ながら私を含め友人知人の中には一人もいませんでした。そんな馬鹿みたいな人はいないだろう?言い方は良くないかもしれませんが、そんな間抜けやでくのぼうみたいな人間がいるわけないだろう?それこそが世間一般の常識です。人に殴られたらさらに殴られ衣服をとられたらさらに与える。そんな間抜けが社会にでたらすぐに人生の終焉を迎えるかもしれません。人が人に対して寛容な世界なんかあるかいな・といわれてしまいそうです。しかし、仮に最も大きな悲劇である戦争を考えてみてください。やられたらやり返す。人質を一人殺されたから、こちらは2人を殺し返す。さらに倍またその倍と復習の連鎖がおさまりません。まさにイスラエルとパレスチナの戦争は復習による復習の連鎖で終わることがありません。主イエスは2000年以上前に人間の弱さ愚かさを十二分にご承知でした。それを踏まえた上での山上の説教だったのです。こうした理解をしているクリスチャンが今どれほどいるのでしょうか?私にはわかりませが。7章8節には「誰でも求める者は受け探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この聖句についても「そんなことあるわけない。」「現実は甘くない。」と考えるかもしれません。しかし、ここで不満をいう人たちは自分だけの狭い世界でしか考えていないのではないかと見受けられます。「だれでも」というときに「わたし」しかいない、確かに自分自身の人生をふりかえってみても求めても与えられず、探しても見つからず、門をたたいても開かれずということの方がはるかに多かった事でしょう。自分自身のそうです。聖書のいう「だれでも」は「わたし」を含めた世界を含む世界を映し出す鏡として読んだときに初めて共通の認識としてなされるのではないでしょうか? 主イエスが語られた言葉はわれわれに、ただ我慢を敷いていただけではありません。7章1節にあるように「求めなさい」と言われております。求めていいのです。何でもいいのでしょうか? 復讐による連鎖さえ起こさなければ何でもいいのか?というわけではなさそうです。9節にはパンをほしがる子どもに石を与えるだろか?10節に魚をほしがるのに、根火を与えるだろか?とあるように悪い者である私たちでさえ自分の子どもには良いものを与えることも知っている。とありますから、何もかもご存じである天の父が求める者つまり我々には良いものを与えてくださるに違いない。だからこそ、我々も人にしてもらいたいこと思うことは何でも人にするのです。社会派を気取るつもりは毛頭ありませんが日本における在日米軍基地の問題、まさに沖縄一極集中、平和維持のため必要なのだ。出あれば47都道府県全てに5~6%おいたらいいだけではないかと思いませんか?東日本大震災時に瓦礫の処理を東京都で石原都知事が引き受けるときに自分の街には受け入れたくないと多くに人が叫んだいましたが。石原さんは国に先駆け受け入れましたけど。自分にシテほしくないことを人には平気で押しつける。このような状態で平和な時代が保たれるのでしょうか?聖書で語られた主イエスの言葉は私たちが日々生活していく上でも大きな意義をもっているのです。クリスチャンなのであれば少なくとも聖書に書かれた主イエスの言葉のもつ意味や意義を共通の理解としてもつことの重要性が問われているのではないでしょうか?これからは私自身の私見として話しますが、主イエスが語られたのは信仰すら持てない当時の疲弊したユダヤ人に向けて主を仰ぐ信仰をもとめなさい。そうすれば信仰が与えられる。主イエスが語られる場所を探しなさい。そうすれば会うことも出来る。門が閉ざされていたならば叩きなさい。そうすれば開けられ主イエスにお会いできる。こう言いたかったのではないかと個人的には考えます。当時のユダヤはローマの支配下ですから太陽神や牛を捧げ子孫繁栄を願う宗教儀礼にまみえたいましたし、主イエスがご降誕前にはウル王朝から続くヒッタイトやアッシリアの神々の信仰など、ユダヤの民が主を契約された信仰がことごとく打ち砕かれようとする社会的な愛敬がありましたから、ユダヤの民の信仰する自由にローマから赦されていたわけではない状況下にありました。こうした中で人々に希望や神への自由な信仰を説く主イエスはまさに統治する側から見れば異端そのものであったはずです。そんな中でユダヤの人々はおろか異邦人にさえ神の救いをとく主イエスの存在がいかほどの喜びであったかを今一度想起する必要があるのではないでしょうか?
祈ります
御在天なる、あわれみ深い父なる神さま。過ぐる一週の間私たちはイエス様にたいしさらに罪を重ねる日常であったかもしれません。しかしながら、イエス様は、われわれに多くに希望や信仰に至る息吹を与えてくださいました。私たちの日々の生活を見越しながら如何に豊かに賢く平和に生きるかの教えすら与えてくださいました。教会員一人一人に聖書の知恵の中に大きな喜びを見いだせますように。今日この場に様々な事情で集えなかった兄弟姉妹方も同じ恵みが与えられますように。また教会学校に集う子供たちが将来あなたこそ主であると告白する日が来ますようにと願います。今日尾から始まる一週間の歩みも健やかでありますように、この言い尽くし得ぬ感謝と願いイエス・キリストの御名により祈ります。アーメン
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〈説教の要約〉
2024年 9月15日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 12章1節~10節(P.339)
説 教「大いに喜びて我が弱きを誇らん」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
……エゼキエル書28:24
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
……Ⅱコリント12:8-9
……Ⅱコリント12:10
本日は、2024年度の教会標語「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:18)を含む聖書箇所を取り上げます。毎年、9月が年度のほぼ中間に当たるということで、その年度の標語がどのようなメッセージを持っているのかを、礼拝で説教してお伝えするようにしています。
そこでまず、使徒パウロとコリント教会の人々とは今、どんなことを論争しているのか、あるいは、何が焦眉の課題なのか、テキストの前後関係から押さえておきましょう。
なるべく具体的にお話ししましょう。
コリント教会の一部の人々との対立点は、パウロ、アポロ(Ⅰコリント16:12)、そしてテモテ(Ⅱコリント12:18)などの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、にあります。彼らを非難する立場の人たちは、パウロやアポロにはつかないで、「他の指導者につく」と主張しています(Ⅰコリント1:12)。
他方、コリント教会内には、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてパウロがわたしたちをもうけたのです」と言って、パウロを「父親」のように慕っている人々がいます(Ⅰコリント4:15)。容易に察せられるように、これではコリント教会は分裂状態に陥り、「神の聖なる神殿」(同上3:17)は崩壊してしまいます。
そこで、問題解決にあたるパウロは、コリント教会の一部の人々が「人間を誇っている」(Ⅰコリント3:21、Ⅱコリント11:18)という点に提示します。
人の知恵に頼り、「高ぶっている」かぎり(Ⅰコリント4:18)、神の力である十字架の言葉を軽んじてしまいます(同上1:18)。なぜなら、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同上1:21)ということが分からないからです。伝道者パウロが「神の秘められた計画」(同上4:1)を説き明かそうとしているにもかかわらず、彼らの高慢さと頑なさとが厚い壁を造っています。
パウロは、地中海の「エウラキロン」並の逆風(使徒27:14)にさらされています。そうした中、パウロはいわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会を忍耐強く続けます。パウロは信仰上、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(Ⅰコリント2:10)との点でぶれることがありませんでした。裏を返せば、批判者の問題点を、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(同上2:14)というように見抜いていたということです。
問題の本質を捉えていたパウロは、まさに「父親」のごとく、「自然の人」、「肉の人」、そして「キリストにある幼子」を見守っていました(Ⅰコリント3:1)。だからこそ時には、彼らを厳しく教え諭したのです(同上3:2-3、4:8,21)。「鞭」すらもちらつかせながら……。
そういう状況において、パウロはコリント教会の人々の前に、或る神秘的体験を持ち出します。その体験の内容によりけりですが、選ばれた人だけがそのような体験を持てるとの見方が今日でもあります。そうした人たちの中には、 霊的的パワーを誇示し、人々を幻惑することがあります。
パウロはいたずらに神秘的体験をキリスト者に推奨しているわけではありません。それを誇る気もさらさらありません。その種のことが誤解されやすいことに留意しつつ、パウロは幻を見、そして啓示を受けたことを語りはじめます。
Ⅰ その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた
コリントの信徒への手紙 二 12:1-4――
1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
パウロの誇大広告しない控え目さによるのでしょうか、何か曖昧な感じがします。この体験に基づいてパウロが宣べ伝えようとしている要点は、Ⅱ.ならびにⅣ.で説き明かしますので、それまでお待ちください。そこで、パウロはこの神秘的体験に、どんな意味づけをしているか、が分かります。
今は、二つの点を押さえておきましょう。
①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。
②第三の天または楽園にまで引き上げられた。
付け加えるとこれは、「十四年前」、「キリストに結ばれていた一人の人」に起きた出来事です。その「キリストにある人」ならびに「彼」・「このような人」というのは、パウロを指しています。神の知恵を物語ることが目的ですから、極力「自分」(わたし・一人称)を消そうとしています。「わたし」が高ぶってはいないことを証しするために、他人事のように三人称「彼」を使っています。
まず、①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした について説明します。
これを言い換えると、パウロは明瞭に、神の声を聞いたり、神の姿を見たりしたのではない、と述べています。というのも、「口にするのを許されない、言い表しえない」ものだからです。
しかし、パウロは「十四年前」の体験を鮮やかに記憶しています。自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活(Ⅱコリント11:23-29)において、それがどのような意味を持つのか、“ 霊 ” の導きによって考え続けてきました。
大切なのは、「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(Ⅰコリント14:13)というように、神秘的体験を「解釈する」ことです。人は恍惚状態で、異言を語り、神秘的体験をしています。その時、我を忘れるような喜びに浸っていることもあるでしょう。
しかし、それらは独り善がりに陥りやすいものです。自分だけ夢中になって、周りの人が見えなくなります。そこで、パウロは異言が「解釈できるように祈りなさい」と勧めました。その過程を経てはじめて、天上の聖なる「言い表しえない言葉」が、わたしたちの理性においても読み解けるようになります。「十四年」の歳月のうちに、「人の心に思い浮かばなかったこと」(Ⅰコリント2:9)が現れ出で、宣教の言葉とさえなります。
片や、この箇所の神秘的体験の叙述がおぼろげで、片や、パウロのメッセージが鮮明なのは、そのためです。
「霊で祈り、理性でも祈った」(Ⅰコリント14:15)上で、その体験の持つ意味を汲み取っています。そのことをパウロは、わたしたちの信仰に益するように、と語ってくれています。
次に、②第三の天または楽園にまで引き上げられた を取り上げましょう。
ここでは、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」、「彼は楽園にまで引き上げられた」というように、「パウロは神によって引き上げられた」(受動態)、すなわち、「神はパウロを引き上げた」ことが二回繰り返されています。もちろん、パウロがこの世に生きている時の話です。
瞬間的にせよ、天の父なる神ならびに御子イエス・キリストとパウロとの特別な交わりが示唆されています。「楽園」(パラダイス)という言葉から、十字架上の主イエスが犯罪人の一人に言った「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)との約束を思い起こされる方も多いことでしょう。
その犯罪人は、十字架の木に「引き上げられ」ました。しかしその後、主イエス・キリストの憐れみによって、「楽園に引き上げられる」と告げられました。「今日」、そしてこれからずっと、「あなたはわたしと一緒にいる」と約束されました。
パウロの伝道は、まことに苦難と労苦に満ちたものでありました。その中で、「第三の天」または「楽園」を見上げることが、障壁を越えて前進する力の源となったのでありましょう。それでは、パウロによる神秘的体験の「解釈」に分け入っていきましょう。
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
コリントの信徒への手紙 二 12:5-7――
5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
パウロは、神秘的体験の「解釈」、意味づけについて、どんな観点から述べているのでしょうか?
「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」、だから、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)ということを基調としています。端的に言えば、自分はへりくだり、「思い上がらない」ということです。
誇りや高ぶりへの、やや間怠っこい言及は、「わたしの身に一つのとげが与えられました」とのパウロの告白に収斂しています。そして、その「とげ」は、「わたしを痛めつけ」、「思い上がらないように」させた、と述べています。
「一つのとげ」を「思い上がらないように」させる、持続的な刺激物として受け止めたというのが、パウロの “ 霊 ” 的な「解釈」です。
序.で述べたとおり、ややもすれば或る種の神秘的体験は人を高ぶらせます。自分は選ばれた者だからこそ、幻を見、霊感を受けたのであると、周りの人々を見下します。そうして、自分は品性を高められ、名誉と富を得たのだ、と誇ります。
その点では、パウロが神秘的体験によって受けたもの、言い換えれば、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」は真逆です。なぜなら、それは「わたしの弱さにかかわる事柄」(Ⅱコリント11:30)だからです。一般論としては、「わたしを痛めつけるとげ」は生活の質(クオリティ オブ ライフ Quality of Life = QOL)を下げる元となります。周りの人々は、そのような人物を避けようとするかも知れません。
しかし、パウロはその「とげ」によって、自分が弱くされたことを受け入れています。「とげ」を含む「あの啓示された事があまりにもすばらしい」と証言しています。ここに、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)という信仰の基があるのでしょうか。
「とげ」についての、パウロのさらなる「解釈」、意味づけを読み取る前に、いつものように、旧約の関連聖句を見てみましょう。
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
エゼキエル書28:24――
イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
パウロは、「わたしを痛めつけるとげ」と表現していましたが、「彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげ」はその数倍も痛そうです。しかも、「イスラエルの家には二度と……臨むことはない」との言い回しからは、次のことが分かります。
すなわち、「イスラエルの家」は持続的または断続的に「茨」や「とげ」の痛みを被っていたということです。イスラエルが偶像崇拝に走ったり、また、弱く貧しい人や寄留者を抑圧したりしていたために、神の裁きが下りました。そしてそれは、神が憐れみをもって、「イスラエルの家には二度と茨やとげが臨むことはない」と告知されるまで続きました。
それでは、「周囲のすべての人々」からイスラエルが「侮辱」されたのは、一体何のためだったのでしょうか?
それは、「彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」ためでありました。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11 口語訳)ということです。
『ジュネーヴ教会信仰問答』(カルヴァン著)の冒頭に、問一「人生の主な目的は何ですか」、その答「神を知ることであります」と掲げられています。
その理由として、「神はわれわれの中に崇められるためにわれわれを創り、世に住まわせられたのでありますから」とあります。キリスト者は、「わたしが主なる神である」ことを、“ 霊 ” の導きによって知らねばなりません。神に自分が創られて、今この世に暮らしていることを感謝し賛美したいものです。
それは、わたしたちがひたすら、“ 霊 ” による上からの啓示にあずかるかどうかに掛かっています。しかし、しばしばその “ 霊 ” の働きを、わたしたちの高ぶりや欲望によって拒んでしまいます。
それで、どうなったのかは、「イスラエルの家」やパウロの神秘的体験が実証している通りです。「突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨んだ」ということです。
パウロにおいては、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」の中で、「わたしを痛めつけるとげ」に焦点が合わせられました。その「とげ」は、パウロの、いわば信仰の質(クオリティ オブ フェイス Quality of Faith = QOF)に、どのような作用をもたらしたのでしょうか。
わたしたちは、パウロ自身の体験的ガイドに沿って、悪性の痛みを伴う緊急事態に立ち向かうことにしましょう。パウロのメッセージは、「とげ」で負傷している人をやさしく包み込むような、癒やしと慰めに満ちています。
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
コリントの信徒への手紙 二 12:8-9――
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
パウロは神に、「わたしを痛めつける一つのとげ」から解放してくださるように、と切に祈りました。「三度」というのは、「ひたすらに」・「しばしば」という意味です。
その祈りは同時に、「とげ」の与えられた神秘的体験が「解釈できるように祈った」(参照:Ⅰコリント14:13)ということでもありました。実際、「とげ」の痛みは治癒されませんでしたが、パウロは神の御心を読み取ることができました。
これは、神が信仰者の願い求めを超えて、より大きな賜物を与えられたという祈りの実例です。自分の祈りにこだわり過ぎている人は、このテキストの パウロの熱心な祈り⇒神の恵み深い応答 を手本とすべきでありましょう。どんな回答を投げ返されようとも、パウロに恐れはありません。神を心から信頼しているからです。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました……これはまさしく、罪人や病人への福音、喜びの知らせです。主イエス・キリストが、弱く貧しいように見える人々の人生の中に、「恵み」をもって介入されます。
「主は言われました」と、パウロは厳かに書き記しました。それは、この言葉が主イエス・キリストによって成し遂げられることが約束され保証されているという意味です。わたしたちに求められているのは、悔い改めをもって「キリストに結ばれている人」に造り変えられて生きることです。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということです。
このメッセージこそが、「わたしを痛めつけるとげ」に悩まされ続けられたパウロに、癒やしと慰めをもたらしました。こうして、彼の信仰の質(クオリティ オブ フェイス)は飛躍的に向上させられました。同時に、パウロは主イエスに倣いつつ、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」ようになりました(ヘブライ4:15)。“ 霊 ” の力によって旧約の出来事を知り抜いているパウロは、「突き刺す茨や痛みを与えるとげ」に苦しんでいる人々にも同情を寄せたに違いありません。
パウロにとって、「十四年前」の神秘的体験を通して、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」とのメッセージを受け取りました。人生を暗くする否定的なものの象徴であるパウロの小さな「とげ」にも「キリストの力」が宿っています。だから、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」と言い切っているのです。
最後の節でさらに、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」との中心メッセージが深められます。
Ⅴ わたしは弱いときにこそ強い
コリントの信徒への手紙 二 12:10――
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
ここで、パウロはこれまでの自分の小さな「とげ」に特化してきた議論を切り替えています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と、視野を拡大しています。
その意図が、自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活を覆い尽くしている「キリストの力」の大きさを物語るためであるのは明瞭です。
これまでパウロは、神秘的体験を引きながら、「わたし(キリスト)の恵みはあなた(パウロ)に十分である」ことを証ししました。しかし今や、「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言った洗礼ヨハネのごとく、パウロは背景に退いています。「わたしはキリストのために満足しています」というように、キリストに依り頼んでいます。
なにゆえに、それほどまでにキリスト中心になるのか、教えられるために、D.ボンヘッファーの説教の一部を読んでみましょう。
「神(主イエス・キリスト)は十字架上で苦しまれた(詩編22:2,7、ヘブライ2:9)。そのゆえに、あらゆる人間の苦しみと弱さは、この世における神御自身(主イエス・キリスト)の苦しみと弱さにあずかっているのである。
わたしたちは苦しんでいる! 神(主イエス・キリスト)は、もっともっと、苦しんでおられる。わたしたちの神は苦しむ神である。
苦しみは、人間を神の像に形造る(創世記1:27、Ⅱコリント4:4)。苦しむ人間は、神の似姿を持っている。」
主イエス・キリストは、弱さの極みである十字架上で、神の栄光を現されました。パウロが「わたしは弱いときにこそ強い」と結んでいるとき、彼は一心に、十字架上のキリストを見つめています。
「この(とげをもたらしたサタンの)使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」との祈りは聞き届けられました。なぜなら、その祈りは、十字架と復活の主、イエス・キリストの御名によって祈られたものだからです。
なおも「とげ」が刺さり、痛みがうずいているにもかかわらず、パウロは祈りへの神の応答に満足しているに違いありません。このキリストの証人の姿は、どんなに、苦悩・衰弱・絶望などの中から、神に叫びを上げる人々への励ましとなっていることでしょう。
W
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〈説教の要約〉
2024年 9月8日
旧約聖書 イザヤ書 52章2節(P.1148)
新約聖書 マルコによる福音書 5章35節~43節(P.70)
説教の構成――
序
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか ……マルコ5:37-39
Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい ……マルコ5:40-41
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした ……マルコ5:42-43
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは安息日、礼拝をする時には、会堂に入って聖書朗読や説教をされました(マルコ1:21、3:1)。また主イエスは、人の家に招かれて、神の教えを説いたり、病人を癒やしたりされました(同上1:29-31、2:1-12)。時には、食事でもてなされることもありました。
その上、主イエスは路上でも多くの人々と出会われました。土地の人々はしばしば、町から村へ、山辺から海辺へ、忙しそうに歩いている主イエスの姿を見かけるようになりました。時には、大勢の群衆が主イエスに押し寄せて、遠巻きに眺めるしかないこともありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。
ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。そこで、彼女の病気を癒やすと共に、信仰を授けられました。それは、神によって救われたと、一生涯信じ、平穏に暮らすということでありました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。
中断はしばしば、わたしたちの人生の方向を変えることがあります。一方それが、良い休養となって、新しいアイデアが浮かんで来ることがあります。他方、突如中断されて、緊張の糸が切れ、あきらめや絶望に心が支配されることもあるでしょう。
ここで主イエスは、ヤイロが遅延にいらつき、希望を捨てないように、彼に寄り添っておられました。考えようによっては、主イエスにおいて、12年間の病のどん底から人間を立ち上がらせる神の力が実証されたのは、順番待ちの人々によっても幸いでした。というのも、忍耐強く、待ってみようという余裕が湧いて来るからです。
なおも、出血が止まり癒やされた女性との会話が続いている時に……
Ⅰ ただ信じなさい
マルコ福音書5:35-36――
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
「お嬢さんは亡くなりました」との訃報に接して、父親のヤイロは青ざめたことでしょう。そして、彼の家の者は追い打ちをかけるように、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げました。このひと言は、ヤイロを打ちのめしました。というのも、ヤイロは、「足もとにひれ伏して」懇願するほどに(マルコ5:22)、主イエスに依り頼んでいたからです。
ヤイロは、瀕死の娘(マルコ5:23)のいっさいを主イエスに託するという覚悟であったはずです。それが、「もうお世話にならなくていい」と人から言われてしまったのです。
「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」……主イエスにひれ伏す思いを持っている人と主イエスとの関係が切れそうになっています。娘の夭折によって、一時的にせよ、その関係が揺らいでしまうのは、誰しも非難できないことでしょう。
しかし、結論的に言えば、主イエスを大いに「煩わせて」善いのです。主イエスは、わたしたちが罪と病と死の淵から、助けを呼び求めるのを待っておられます。それが、忘れられない、神との出会いになるように、主イエスは導かれます。そうして、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰告白に至るのです。
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた……即座に主イエスは、ヤイロが「その話」を真に受けないように、介入されました。「その話」が偽りだと言うのではなく、「その話」はまだ経過途中であるということです。
「恐れることはない。ただ信じなさい」……救い主なるイエスから、適確な勧めが動揺しているヤイロに投げかけられました。
ヤイロは、「お嬢さんは亡くなりました」とのひと言が頭から離れません。闇の世界に突き落とされました。もはや、ヤイロの視界からは、主イエスも、重い病が癒やされた女も消え去っていたことでしょう。
そんな中、「恐れることはない」との主イエスの言葉が耳に入って来ました。ヤイロは主イエスに、心配や不安をあずけることにしました。それに、息絶えて様変わりしたのかどうか、その娘の姿を見て確かめたわけではないのですから。
「ただ信じなさい」……主イエスはヤイロを、「生きるのも、また、死ぬのも、主のために」という信仰に招き入れようとしておられます。ヤイロに求められているのは、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」(マルコ5:22-23)という姿勢に立ち返ることです。主イエスに向き合う、その姿勢が崩されないように、自分の外から注がれる “ 霊 ” に助けを求めることです。
ヤイロの家へ急ぐ途上での〈病気の癒やしと救いの宣言〉は完了しました。主イエスは、つかの間の遅延を乗り越えて、幼い娘の死という難題に立ち向かわれます。
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか
マルコ福音書5:37-39――
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
主イエスは、弟子の中から「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」を選び出して、態勢を整えられました。神の “ 霊 ” 的な御業は見せ物ではありません。主イエスと言えども、集中力高め、祈りをもって取りかかられます。
「会堂長の家から」の使者が「お嬢さんは亡くなりました」、と言った通りでありました。そこには、ガリラヤ地方の葬祭儀礼が繰り広げられていました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て」との一文から、主イエスが喪に服している人々の悲しみを受け止められたことが分かります。主イエスは大きな嘆きに包まれた家のただ中で、“ 霊 ” 的な御業を現されます。
「なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……「眠っている」だけだから、安心しなさいという趣旨ではありません。「わたしは、泣き騒いているあなたがたのもとにやって来た。わたしがどんなことを眠っている娘に行うか、しかと見届けなさい」ということです。
主イエスはこれから、あたかも少女が夜昼、「眠り、そして起きる」ように、死から生へと彼女を立ち上がらせます。「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)、神の恵みはわたしたちに与えられています。眠っている少女が呼び起こされます。わたしたちにとって大切なのは、極めて日常的な出来事の中で、十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、悲嘆のどん底にいる人々に関わっておられるということです。
マルコ福音書5:40-41――
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
「人々はイエスをあざ笑った」との描写は、他所者への拒絶を現しています。人々は葬祭の鎧を付けて、主イエスを跳ね返そうとしています。何事も常識で振る舞おうとしている人間ならば、退却するしかありません。衆人から嘲笑を浴びている場面から、一刻も早く逃げ出したいことでしょう。
主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」との言葉尻をとらえる人間にかかずらってはおられません。「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。
主イエスはあたかも「悪霊を追い出す」かのように(マルコ1:34,39)、「皆を追い出し」ました。というのも、「悪霊」ならびに「悪霊に取りつかれた人」(同上5:16)には、神の力の働く聖なる御業を妨害しようと習癖があるからです。
「子供の両親と三人の弟子だけを連れて」との一句には、主イエスの優しい気遣いが表されています。ペトロをはじめ「供の者たち」は、後々までの証言者として招き入れられています。
もはや、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」との、慇懃な断絶宣言は、遙か向こうに飛び去りました。主イエスの介入は頂点に達します。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた……「タリタ、クム」という言葉(アラム語)は、少女はじめその場にいる人々にとって、生涯忘れられない言葉となりました。毎朝、「○○よ、さあ、起きなさい」との御声と共に、彼らは活動しはじめます。
主イエスは「子供の手を取って」というように、幼い娘の介助をされました。その接触により、主イエスの「内から力が出て行って」(マルコ5:30)、娘の身体全体に行きわたりました。その背後には、父親の祈りがありました……「どうか、おいでになって手を置いてやってください」(同上5:23)。彼が「イエスの足もとにひれ伏して」、切に願ったことが実現されました。
「子供のいる所」に、その部屋中に、キリストの行いと言葉による御力が充満しました。その結果へと進む前に、旧約において、主なる神がどのように「捕らわれの娘シオン」に寄り添われたのか、見てみましょう。
イザヤ書52:2――
紀元前六世紀後半の頃のことです。ユダヤの民は目下、国家滅亡とバビロン捕囚からの回復をめざしているところです。
一方、捕囚の民は異国での生活が長引き、あきらめムードに浸っています。エルサレム神殿の再建の話を聞いても乗り気になれません。何しろ、暑い砂漠を通る帰還の旅には、命がけの困難が伴います。ならば、このままバビロンの流れのほとりに、定住し続けようか、となります。
他方、エルサレムに残留した人々にはまた、それなりの心労がありました。それは現実に、破壊され荒れ果てた都エルサレムを目の当たりにしているということです。希望よりも絶望がより多く生み出されていました。神の罰を受けて破壊されたものを直視せよ(エレミヤ書36:31)との厳しい声と共に、実際、再建を妨害する周辺住民もいます(エズラ書4:1-5)。
そのように、国の内外でにっちもさっちもいかない状況に陥っていました。神はそこに第二イザヤを遣わされました。聞く耳を持たない民の心を打ち開く言葉が語られます。それは、神の知恵に満ちた、美しい詩になっています。
「立ち上がって塵を払え」……この「塵」には深い意味が込められています。この「塵」に、ユダの民の挫折と絶望がまとわり付いています。というのは、「塵」はまさに、瓦礫となった「エルサレム」または「シオン」を象徴するものだからです。
神殿はじめエルサレムの人家は、外敵によって略奪され、指導者たちは異国へ連行されました。多くの人々が喪に服するかのように、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶり」ました(ヨブ記2:12、哀歌4:5)。残留した人々は死んだも同然の苦悩を味わっていました(エレミヤ書8:3、ヨハネ黙示録9:6)。
詩の第一声、「塵を打ち払いなさい」……この命令が、挫折と絶望のまみれた「塵」を掃き清める力の無い者に下されました。言い換えれば、それは、主なる神が「エルサレム」から「塵を打ち払う」のを約束されたということです。なぜなら、今「エルサレム」は「捕らわれ」の状態にあって動き出せないからです。
付け加えれば、「エルサレム」や「シオン」との呼称は、擬人法で、都の住民を指しています。この呼称にさらに、「娘」または「おとめ」(哀歌2:10)が添えられているところに、神の憐れみが表されています。
それから次に、「立ち上がりなさい」との命令が下されました。つまり、「頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る」(エゼキエル書27:30)ほどに、悲しんでいる人々に、「起き上がるように」との告知が向けられたということです。当然、主なる神は彼らの「手を取って」、立ち上がる力を彼らに注ぎ入れられます。
第二イザヤの預言は、主イエスによって受け止められました。なぜなら、「塵を打ち払いなさい」ならびに「立ち上がりなさい」との命令かつ約束が、ガリラヤ湖畔の喪中の家で、主イエスによって成し遂げられました。預言に託された神の企図は、中断で揉み消されることもなく、また、遅延で切り捨てられることもなく、幼い娘を救出する際に実行に移されました。
主なる神は、異邦人を含めて(イザヤ書51:5、55:4)、ユダヤの民が一つのなることを望んでおられます。「娘」や「おとめ」が成長して自立できるように、「首の縄目を解かれ」ます。
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした
マルコ福音書5:42-43――
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
「少女はすぐに起き上がって」……この「すぐに」は、出血の止まらなかった娘が癒やされた時の様子と合致しています……「すると、彼女はすぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(マルコ5:29)。ここに、神の御業が主イエスにより、「娘」二人に現されました。今か今かと救いを待ち望んでいる人も、この「すぐ」に期待を寄せることができます。
ここに、ガリラヤ湖畔を巡回する伝道が確立されました。主イエスは路上でも多くの人々と出会ってくださいます。それならば、大勢の群衆が主イエスに従い、押し迫っている中でも、自分の時を待つことができます。主イエスの目には、一人ひとりが「捕らわれの娘シオン」のように、「価高く、貴い」存在なのです(イザヤ書43:4)。
「彼女は歩きだした。もう十二歳になっていたからである」……幼い娘の将来に、幸多かれ、という祈りが湧いて来ます。少女は現実に罪や病に突き当たり、そこで集積されていく経験や思索を通して、自らの考えを深めていくことでしょう。聖書に明記されてはいませんが、彼女はその後、どうなっていくのでしょうか?
結
「主イエスがあなたの救い主です」……少女は「十二歳」の時に、主イエスによって「立ち上がらされた」体験を繰り返し思い起こすに違いありません。両親(マルコ5:40)は娘に、目撃したこと、また、自分たちの悲嘆や歓喜について語り聞かせたことでしょう。そして、差し出された「食べ物」を元気よく食べたことも……。主イエスに「ただ信じなさい」(マルコ5:36)と命じられた父が見守る中で、彼女は成長していきました。
さらに、もう一人の「娘」、12年間重い病に苦しんでいた女と巡り会って、主イエスの御業を共有したかも知れません。それに、「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」という或る一人が、その日、同時に起こった、出血を癒やされた女の出来事を彼女に教えてくれるということもあり得たでしょう。
いずれにしても、「十二歳」の少女にとって、主イエス・キリストによる救いが人生の基盤になりました。彼女は一家の危機を乗り越えた父母と、会堂に集う人々に囲まれて育っていきます。そこは、カファルナウムを伝道拠点とされている主イエスにとって重要な会堂です。
カファルナウムは、神の裁きを告知されるような伝道困難な町でありました(マタイ11:23)。しかしそこの会堂で、「十二歳」の少女を生徒とする教会学校が始まったと想像することも許されるでしょう。「娘」二人の回復の証人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその教会学校のスッタフならば最高です。それならば、弟子たちがヤイロたちと共に、主イエスによる「救い」を宣べ伝えることになります。
「タリタ・クム」、「少女よ、さあ、起きなさい」との主イエスの御声は、いつまでもガリラヤ湖畔にこだましています。主イエスは、カファルナウムの町の人々の悲しみと喜びをご存じです。その力強い御声によって、小さく弱い存在の少女を救ってくださいました。
十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、わたしたちの町に来られた、そして、少女を救われた……その喜びの知らせは、ガリラヤの小さな町から世界中に広がっていきました。その知らせが今、あなたのもとに届いています。
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〈説教の要約〉
2024年 9月1日
旧約聖書 ヨブ記 21章14節(P.802)
新約聖書 マルコによる福音書 5章11節~20節(P.69)
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊どもは出て、豚の中に入った ……マルコ5:11-13
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている ……マルコ5:14-15
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした ……マルコ5:16-17
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ ……マルコ5:18-20
結
序
主イエスは今、ガリラヤ湖畔とその周辺で、大いなる救いの御業を現されています。マルコ福音書の大きな段落(マルコ4:35-5:43)の中に次々と、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが出てきます。
そして主イエスは今、「墓場を住まいとしてしている」人と向き合っておられます(マルコ5:3)。ゲラサ地方の人々はその男を遠ざけながらも、その狂暴性のゆえに彼を監視していました。夜も昼も、墓場から聞こえて来る雄叫び(同上5:5)に恐れおののいていたに違いありません。
主イエスはその人に深い同情を寄せられます。むやみに相手を叱りつけることはありません。むしろ、その人が被らなければならない神の怒り(イザヤ書65:3,5)を、自ら背負っておられます。というのも、主イエスは罪人を滅ぼすためではなく、罪と病と死の縄目から人を解き放つために、この世に来られたからです。
墓場に押しやられた人への深い同情は、現れるべくして現されたものであります。というのも、福音の中心的な出来事として、主イエスは、三日間、墓に閉じ込められたからです。十字架刑により死を遂げた後、墓の中に横たわらされました。
ガリラヤ伝道のさなかにも、主イエスは、エルサレムでの十字架の死と葬りを見据えておられたはずです。主イエスの将来には、「されこうべの場所」(マルコ15:22)で殺され、「墓場を住まいとさせられる」という悲惨さが待ち構えていました。その観点からすると、「墓場で」悪霊に取りつかれ、そして「墓場から」救い出された、その人はまさに、「イエスの兄弟」と呼ぶにふさわしい者でありました(ヘブライ2:11-12)。
「湖の向こう岸」に行かれた主イエスは、人の目を驚かすような悪霊祓いの御業を成し遂げられます。わたしたちもまた、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いを携えて、弟子たちと共に同行することにしましょう。
そこでまず今回は、悪霊祓いの後半ということで、直前の流れを確かめておきましょう。
主イエスは、悪霊に憑かれた人に出会うやいなや、「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との命令を発せられました。しかし、悪霊からの「かまわないでくれ」との懇願や、主イエスからの「名は何というのか」との問いが入って(同上5:7,9)、ひととき、時間が経ちました。
マルコ福音書5:11-13――
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との告知のうちに、悪霊祓いは終息に向かいます。地鳴りが辺り一面に起こり、その後に、静寂が到来しました。
ここで、「二千匹の豚」がおぼれ死んだのは、あまりにも残酷ではないか、との疑念を抱く方がおられるでしょうか? 一人の人間の命を助け出すためとは言え、神は、犠牲になった「二千匹の豚」に心を痛められないのか、ということです。古来より、被造物にもたらされる災いや悪について、義と愛なる神は沈黙しておられるのか、との疑問が出されて来ました。
確かに、神の創造された被造物を巻き込んで、主イエスの御業が成し遂げられました。それは、人間と被造物がこの地に共に生きていることの証しであります。
主イエスの語りには、ユダヤ人の間では律法上、豚肉を食べることが禁じられている(レビ記11:7)という背景があります。ガリラヤ湖畔のユダヤ人にとって、「豚」は禁忌になっている動物でありました。「汚れたものであり」、「死骸に触れてはならない」(申命記14:8)ものでありました。だからと言って、「二千匹の豚」の溺死を見過ごしてください、ということではありません。
そうではなく、「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」との惨事を含む主イエスの語りの中心は、どこにあるのか、ということです。これは、「豚の群れ」にまつわる教訓ではなく、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」の救済に関わる記事である、というのが肝心です。
「豚飼いたち」(マルコ5:14)が暮らしているゲラサの地で、生業の動物が突然消え去る中で、いつまでも残るのは何でしょうか? それは、主イエス・キリストの行いと言葉、そして、それにあずかった人の証し、すなわち、宣教(マルコ5:20)であります。それに合わせて、聖書による規範・生活指針が提示されていきます。そのようにして主イエスによって、異邦の世界に種蒔きのための鍬が入れられたのであります。混乱が一切起こらないというのではなく、まさに「雨降って地固まる」ということが大切なのではないでしょうか。
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている
マルコ福音書5:14-15――
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
「汚れた霊、この人から出て行け」との主イエスの命令から始まった出来事の反響が続きます。悲惨な目に遭った「豚飼いたち」が、主イエス・キリストの行いと言葉を「知らせる」一役を担います。
「豚飼いたち」の話を、聞き捨てならぬこととして、近隣の「町や村」から人々が、「イエスのところ」に来ました。「人々は何が起こったのかと見に来た」のも、実は神の御計画ではないでしょうか。そうして、「何かを起こした」、主イエス・キリストを見て、知って、信じさせるというのが、彼らに対する神の導きでありました。
ここで際立たされているのは、「レギオンに取りつかれていた人」の変貌ぶりです。その人は今や、「レギオン」(=大勢・軍団)の抑圧から解放されました。以前には、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)というのですから、裸同然であったかも知れません。
しかし、その人が「服を着、正気になって」います。「町や村」から駆けつけた人々は唖然としたのではないでしょうか。叫び狂って、人を威圧するような面影はありません。何より印象深かったのは、主イエスの御前に、悪霊に憑かれていた人が「座っている」姿でありました。人を人とも思わぬ猛者が、彼らの知らない来訪者に「ひれ伏して」従っています(マルコ5:6)。
「町や村」からやって来た人々は、何を思ったかは、ひと言、「彼らは恐ろしくなった」と証言されています。これは、真実な報告でありましょう。この「恐れ」は、「主イエス・キリストを見て、知って、信じる」こととは、大きな隔たりがあります。
「町や村」の人々はまだ、悪霊祓いの「成り行き」が把握できていません。彼らが「恐れている」だけなのは、当然とも言えるでしょう。異邦人の漠然とした「恐れ」が、主イエス・キリストへの「畏れ」に変えられる日を待ち望みましょう。今しばらくは、主イエスも弟子たちも、異邦世界に広げられる「神の国」の福音を拒み、頑なになる人々の様子を見守らなければなりません。
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした
マルコ福音書5:16-17――
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
主イエスは、開始されたばかりのガリラヤ伝道において、カファルナウムの町という拠点を造られました。しかし、故郷のナザレの人々から憤りを受けて追い出されたり(ルカ4:20-30、マルコ3:20-34)、また、ゲラサ地方の人々から「出て行ってもらいたい」と言い出されたり、困難に遭いました。内憂外患、身内からも、周辺の異邦人からも、遠ざけられました。
ではなぜ、ゲラサ人は主イエスに、「出て行ってもらいたいと言いだした」のでしょうか? 初めは一部のゲラサ人の拒絶だったかも知れませんが、うわさが広まると、それはゲラサ地方全体からの「村八分」、排斥運動もなり得ます。
「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」と証言されているように、ゲラサ人の目撃者は、「豚のこと」を気にしていました。
ゲラサ人の中に、「豚飼いたち」(マルコ5:14)がいました。その生業が尊ばれていたか、あるいは、蔑まれていたか、は安易に判断できません。しかし明白なのは、ユダヤ人と異なり、「豚」の肉を食べていたゲラサ地方では、それが「基幹産業」の一つであったということです。つまり、養豚とその食肉は、豊饒なる地の象徴でありました。それは、「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)、ユダヤ人の約束の土地とはひと味ことなる特色でありました。
ここまで言えば、もうお分かりでしょう。「二千匹ほどの豚の群れ」と「悪霊に取りつかれた人の身」とを天秤にかければ、ゲラサ人は当然、前者を取ります。だから、「悪霊に取りつかれた人の身」を案じるイエスという旅人にはお引き取りいただこう、となるのが常識です。自分たちの生活や慣習を守りたいというのが、彼らの本心でしょうし、現代に生きるわたしたちも、多かれ少なかれ、同じ思いを持っています。
ここに、人間の本性に伴う典型的な伝道の困難さが現れていると言えます。そこで主イエスは、神の知恵をもって忍耐強く、その壁を打開されます。いきなり、ゲラサ人の日常をひっくり返すというのではなく、福音を浸透させていくというやり方を採られます。その地方の「流れのほとりに植えられた木」が、御言葉を滋養とすれば、「ときが来れば実を結び、繁栄をもたらす」(詩編1:3)ことでしょう。
その「神の知恵」については、最後のⅤ.で説き明かします。その前に、「そっとしておいてもらいたい」という人間の本性について深掘りしておきましょう。
Ⅳ ほうっておいてください
ヨブ記21:14――
これは、ヨブがナアマ人ツォファルに答えている言葉の一節です。内容的には、「彼ら」、すなわち、「神に逆らう者」(ヨブ記21:7)の暴言が活写されています。
ヨブの主張によれば、「神に逆らう者」はこの世の幸せを第一として、「財産を手にし」、「生き永らえ」ています(ヨブ記21:7,16)。彼らは「あなた(神)に従う道など知りたくもない」と言って、神信仰をあざ笑っています。
彼らの考え方はヨブからは遠いものであります(ヨブ記21:16)。ヨブは、「あなた(神)に従う道を知る」ことを重んじる「無垢な正しい人」(ヨブ記1:8)です。
「神に逆らう者」がこの世の春を謳歌しているのとは裏腹に、ヨブは「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」(ヨブ記30:26)と嘆いています。しかし、友人たちは、そのような不条理に悩み苦しんでいるヨブを慰めようとも寄り添おうともしません。
ただおひとり、主なる神がヨブを見守っておられます。深い悩みの淵から、ヨブが立ち上がり、「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(哀歌3:38、ヨブ記2:10)と、再び告白するのを待っておられます。
周りの人々が「神に向かって」、「ほうっておいてください」と言っているのが、ヨブの耳から離れませんでした。自分もそう宣言すれば、神の束縛から解放されると思ったかも知れません。自分勝手にやれば、すべてが自己責任で済むというように……。
しかしヨブ自身は、「ほうっておいてください」との宣言を自重することができました。それ故に、神の神たるゆえに信じるという「無垢な」信仰が全うされました。ヨブは感謝と謙遜をもって、この世の「災いも、幸いも」受け取る人であり続けました。
さて主イエスはどのように、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」、すなわち、「ほうっておいてください」と言い放った人々に向き合われたのでしょうか? 神に「そっとしておいてもらいたい」とは口が裂けても言わなかった、「無垢な正しい人」ヨブの物語を語るのも一つの方法かも知れませんが……。いずれにしても、主イエスは神から授けられた知恵によって伝道を進められます。
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ
マルコ福音書5:18-20――
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
「レギオンに取りつかれていた人」は今や、新しい人生を歩みだしました。「一緒に行きたい」というのは、直訳すると、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」ことを願っている、となります。すなわち、その人は、「レギオン」(=大勢・軍団)の支配から、「インマヌエル」の呼ばれるお方の愛と正義のもとに移されました(マタイ1:23)。「神は我々と共におられる」という名のイエス・キリストが、「共にいたい」との願いをかなえてくださいます。
これによって、信仰上、その人の人生全体がひっくり返されたということが確約されました。なぜなら、主イエスはこれからずっとその人を見守り、その人のために祈っていてくださるからです。
イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい」……「それを許さないで」というのは、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」を拒絶されたのではありません。そうではなく、主イエスに同伴するのではなく、主イエスから派遣されるという別の道を、「インマヌエルの神なるイエスがあなたに勧める」ということです。