礼拝、説教    次週の礼拝是非お出掛け下さい。

 

                                                   礼   拝

 

礼拝は、神と人との交わりの場、出会いの時です。み言と聖餐を通してキリストを受け、祈り、讃美、信仰告白、献金などを通して、みずからを神に献げます。私達の信仰と生活の原点がここにあります。

 

次週の礼拝 
          復活節第2主日礼拝            

                                

            

  

    2019・4・28

(午前10時15分~11時30分)

 (*支障のない方はお立ち下さい)
招き                前奏
                * 招詞     詩編142編6節

                * 頌栄           544

                * 主の祈り  

悔改め         * 讃美歌    73          

      * 交読文      19 詩編65編

神の言           旧約聖書  ネヘミヤ記8章13節~18節

            新約聖書      ヨハネによる福音書7章37節~39節

                     祈祷
                 * 讃美歌       353            

説教              「わたしのもとに来て飲みなさい」

                         小河信一牧師    

                     祈祷           
                 * 讃美歌    270

    

                 * 使徒信条

感謝・献身        献金
                     報告
                 * 讃詠        545
祝福・派遣        祝祷
                     後奏

 

 

三日目に死者の中から復活する
ホセア書6章2節
ルカによる福音書24章36節~49節
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「父よ、彼らをお赦しください」
詩編69編20節~22節
ルカによる福音書23章32節~38節
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「イエスの方は彼らに引き渡して」
イザヤ書53章7節
ルカによる福音書23章6節~25節
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説  教 (月報より)

 

2月説教

恵みの支配下に生きる  

 

   ローマの信徒への手紙 5章18節~21節     

                  小河信一 牧師

 

 

 

新しい年を迎えました。

 

ちまたに、年頭所感あるいは新春インタヴューというものがあります。皆さんは、テレビやラジオ、あるいはネットでそのようなものを聴かれたでありましょうか。年の変わり目にあたり、各界の著名人が、昔を顧み未来を見据えて語る言葉には味わい深いものがあるように思います。

 

そのような時節に、説教の準備をしつつ、私はパウロの手紙に取り組んでまいりました。そこで感じたのは、私たち・信仰者にとって、今日礼拝において与えられたローマの信徒への手紙5:18-21こそ、「年頭」にふさわしい言葉であり、2019年の初めから終わりまで、私たちの生活全体を支える力を持っているいうことでした。その御言葉を、本日取りつがせていただきます。

 

最初に、ローマの信徒への手紙5:18-21の中心聖句を選び朗読します。

 

ローマの信徒への手紙5:20後半――

 

しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

 

これは、大変力強い言葉です。この句には、地中海世界の都市、フィリピ、テサロニケ、コリント、エフェソなどの教会を伝道牧会したパウロの経験に基づく真理が言い表されています。そして今、彼はその真理を、ローマの人々に伝えようとしています。その句によって、私たちの魂が天国に、すなわち、父なる神のもとに引き上げられると同時に、この地上で生きていく力を与えられたいと願います。

 

さて、本日の旧約テキスト、エレミヤ書33:6-9を、ローマの信徒への手紙5:21恵みによって支配しつつ」の箇所との連関で読んでみましょう。どのように、「恵み」と「義」が重なり合って(参照:ローマ3:245:17,21、ガラテヤ2:215:4、テトス3:7)、神による驚くべき回復が告げられているのか、見てみましょう。

 

エレミヤ書33:6-9 エレミヤに(のぞ)んだ主の言葉――

 

6 しかし、見よ、わたしはこの都に、いやしと治癒と回復とをもたらし、彼らをいやしてまことの平和を豊かに示す。7 そして、ユダとイスラエルの繁栄を回復し、彼らを初めのときのように建て直す。8 わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを赦す。9 わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。

 

上のテキスト中の「恵み」について解説します。

 

ここで神は、傷を負い破れ果ててしまった都エルサレムに、「大いなる恵み」を与えると宣言されました。これは、紀元前587年、南ユダ王国がバビロニアの軍隊によって滅ぼされた、その直後の神からの言葉でありました。

 

神は、罪に陥ったユダの人々(エレミヤ書32:32,3533:8)に対し「大いに怒り、憤り、激怒して、追い払った」(エレミヤ書32:37)といいます。ところが、神はご自身の側から一方的に救いの御手を差し出されました。それが、無償の「大いなる恵み」という言葉に凝縮されています。民にとって思いがけない回復が神によって為されようとしているところです。

 

それでは、「義」はこのテキストのどこに出ているのでしょうか?

 

エレミヤ書33:8 エレミヤに(のぞ)んだ主の言葉――

 

わたしに対して犯したすべての罪から彼らを清め、犯した罪と反逆のすべてを(わたしは)赦す。

 

この中に「義」は出て来ませんが、内容的には神の義の働きが明瞭です。

 

人の「犯した罪と反逆」は、神の「義」、すなわち、まことの正しさに照らしてはじめて、それらが悪しきもの、神の御心に添わないものであると立証されます。言い換えれば、私たちが神の「義」による容赦の無いほどの裁き……上例では国の崩壊と捕囚……に向き合ったとき、私たちの罪は(ただ)されるのです。

 

その時、「義」は「恵み」と相働くゆえに、私たちの罪は神に(ただ)されると共に、神に無償で赦されます。恵み豊かな神の御手の助けが無ければ、私たちは「不義」から立ち上がられません。

 

この箇所には、ユダの民が神の御前に(こうべ)()れた、悔い改めた、という記述は見られません。人間の側のことではなく、神が先手を打たれたということが前面に出ています。神はアダムの違犯(ローマ5:14)以来積み重ねてきた諸々(もろもろ)の民の罪をえぐり出し、「すべての罪から彼らを清め」てくださいました。神はアダムにさかのぼり、未だに逃れられない「不従順」の罪から人々を解放してくださいました。

 

「恵みも義によって」という神の救いの計画が、主イエス・キリストによる救いに先行するかたちで、旧約の時代、罪深いと同時に悲惨な民の中に実行されました。

 

もう一つ、エレミヤ書33:6-9の中から大切なことをお話しします。

 

エレミヤ書33:9 エレミヤに(のぞ)んだ主の言葉――

 

わたしがこの都に与える大いなる恵みについて世界のすべての国々が聞くとき、この都はわたしに喜ばしい名声、賛美の歌、輝きをもたらすものとなる。彼らは、わたしがこの都に与える大いなる恵みと平和とを見て、恐れおののくであろう。

 

今年度、私たちは「信仰告白と讃美により建つ教会」を教会標語として歩んでいます。世界の国々の間で、「この都は賛美の歌をもたらす」といいます。

 

神を信じ礼拝することを基として、ユダとイスラエルの繁栄が回復されると共に、喜ばしい知らせが世界のすべての国々に宣べ伝えられます。その時に、嘆きと悲しみから立ち直りつつある民の「賛美の歌」が湧き上がったのです。

 

神から霊感が与えられ、ユダの人々が「賛美の歌」をつくり歌っていると、そこへ世界中から巡礼・賛美する人が集まって来る、ということです。この出来事には、神の言葉が世界中に伝道される時に、「賛美の歌」の力が大いに発揮されたということが昭示されています。殊に、外国人や教会の外の地域の人々に対しては、讃美歌が福音を伝える()り所となると教えられます。

 

以上、エレミヤ書33:6-9を通して、恵みと義が相働いて、神の民が苦難のどん底から、讃美のうちに救い出されるという使信を確認しました。

 

ローマの信徒への手紙5:18――

 

そこで、一人の罪によってすべての人に有罪の判決が下されたように、一人の正しい行為によって、すべての人が義とされて命を得ることになったのです。

 

「そこで」、つまり、「こういうわけで」の句によって始め、以下のところで結論が導き出されます。ということは、あなたはどちらにつくのか、信仰をもって決然たる態度をとりなさい、ということです。

 

すなわち、()(ざい)により死に占拠されたアダムの側に立つのか、あるいは、恵みと義の協働するキリストの側に立つのか、ということです。

 

あるいは、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21 他にローマ12:17、Ⅰテサロニケ5:15 いずれもパウロ書簡)とのパウロ特愛の言葉を引いて言うならば、あなたは自力を振りかざして悪と闇に立ち向かうのか、それとも、あなたは最高の善、神の恵みと義の支配に身をゆだねるのか、どちらですか、ということです。

 

この節に、「一人の正しい行為」という表現があります。これは、主イエス・キリストの十字架による救いの御業を指しています。神はその「義」において人間の犯し続けている罪を見逃さず、罪の償いとして御子を十字架にかけられました。そして、十字架上で主イエス・キリストが裁かれることにより、無償の「恵み」というかたちにおいて全人類の罪の潔めが成し遂げられました。それは実際に行為でありました。

 

父なる神と御子、イエス・キリストが単に心の中で考えた、熟慮したというのではありません。主イエスの苦しみ・痛み・叫びを伴う行為によって、私たちは、罪と死による支配から解放されたのです。

 

ローマの信徒への手紙5:19――

 

一人の人の不従順によって多くの人が罪人とされたように、一人の従順によって多くの人が正しい者とされるのです。

 

アダムとキリストを並列(内容上は対比)している「一人の……ように、一人の……のです」という文章構文は、前節5:18と同一です。その中で注目したいのは、「一人の従順」という言葉です。

 

前節の「一人の正しい行為」というのが、「一人の従順」と言い換えられています。この「従順」は、フィリピの信徒への手紙2:8と同様に、キリストの十字架のへりくだりを指し示しています。

 

フィリピの信徒への手紙2:6-8――

 

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、7 かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

 

ここで重要なことは、父なる神の御言葉と御心に、主イエス・キリストは「従順」であった、ということです。御子は父に従いきった、ということです。

 

その「従順」が、人間と同じ者になられたキリストの「正しい行為」としてあらわされたのが、主の十字架の出来事であります。その中で、主イエスの内面において、人間に到底()しようがない「従順」が貫かれたということです。

 

或る牧師は、「神の身分であられたイエス様が、地上の低いところに降りて来てくださり、人間の姿をとり、飼い葉桶に誕生なさったのです(ルカ2:7」と語っておられます。イエスはまさに「飼い葉桶に寝かせられて」(ルカ2:12,16、その象徴的な姿において、世に現れ出でました。イエス・キリストは公生涯の初めから終わりまで、ご降誕から十字架の死に至るまで、へりくだりの道を全うされました。

 

万一、誰かが「飼い葉桶に寝かせられて」産まれたとしても、「十字架の死に至る」ことはないように、「一人(イエス・キリスト)の従順」は私たちの従順(フィリピ2:3)とは全く質が異なります。最高・唯一の御業をもってあらわされたのが、「一人(文字通りひとり・無二)の従順」です。

 

それでは、私たちがへりくだることができないのかと言えば、そうではありません。主イエスの()(あと)に従って、このお方の「従順」を信じるとき、「3 へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払う」(フィリピ2:3-4)ことが為されるのです。

 

ローマの信徒への手紙5:20――

 

律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました。

 

私たちの信仰生活や教会の状況を振り返って、「罪が増した」ということを考えてみましょう。

 

「罪が増した」という言葉を聞くと内心、個人の信仰や教会の霊的な勢いが悪くなってきているではないか、と疑心暗鬼が生じます。状況が悪くなってきたことを真剣に考えなければ、と思います。「罪が増した」ことを「真剣に」考えない人がいると、その人への批判すら生じます。そうして、一面的に「罪が増した」ことへと話が傾いてしまいます。が、まさにそのような信仰者が耳を傾けるべきなのが、ローマ5:20なのであります。

 

「恵みはなおいっそう満ちあふれました」ということを、第一に置くことなく、「罪が増した」ことばかり言い立てたり、騒ぎ立てたりするのは、それこそ、サタンの思う(つぼ)ではないでしょうか。「恵みはなおいっそう満ちあふれました」という信仰こそ、罪の増殖に打ち勝つ唯一の手立てなのです。

 

ローマの信徒への手紙5:21――

 

こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

 

私たちは、「恵みの義による支配」によって守られています。つかの間に悪や罪がはびこったとしても、恐れたり(あせ)ったりしてはなりません。それらは必ず恵みの支配下に置かれます。

 

どうして、「罪が増した」または「罪が死によって支配していた」のか、二つの観点から顧みてみましょう。

 

一つは、律法による、ということです。律法は本来、神の言葉ですから、悪いものではありません。ところが、イスラエルの人たちが不信仰になり自力で律法を守ろうとしたとき、律法は人々の罪深さを気づかせる役割を持つようになりました。十戒を唱えつつ、罪を数える、罪人であることを覚えさせられる、そういうことが増えていくようになったのです。

 

もう一つ、罪が増し加わるというのは、キリスト者であるということに関係しています。私たちが、主イエスの真実や正義を、聖書を通して教えられるとき、私たちは罪を自覚させられます。どれほど自分が罪深い者であるか、と良心が痛みます。より正確には、聖霊の力によって、「罪が増したところ」が照らし出され、悔い改めに導かれます。

 

キリスト者が、「罪が増したところ」から完全に解放されているわけではありません。受洗後のキリスト者は罪の誘惑にますまず敏感に気がつくようになりますが、罪を犯さないわけではありません。ただキリスト者には、その罪の縄目から助け出され、立ち帰るところが備えられています。すなわち、「恵みはなおいっそう満ちあふれました」という神の臨在される所、諸々(もろもろ)の罪の克服される場に立ち戻ることです。

 

確かに、私たちは愚かで罪深い者であり、洪水のように罪が増し加わります。しかし、大切なことは、そのところでこそ、「恵みの義による支配」を信じるのです。

 

「あふれるほどの悪があるとしても、もっとあふれるほどの恵みがあるのだ。

 

これが、福音の核心である。」(P.アクティマイアー)

 

ここで、数え尽くすことができないほど罪が氾濫(はんらん)している中で、私たちはただ「恵みの義による支配」にすべてをゆだねるということでよいのか、と問い尋ねる方がいるでしょうか。

 

確かに、ただちに人が罪を犯していることを責めなければならないこともあるでしょう。しかし、あなた(殊に的外れの自分自身)から見ての「その人の罪」が本当に罪なのか、あるいは、その人がその罪から脱却すべきなのか、慎重に考える必要があります(参照:マタイ13:24-30,36-43 毒麦のたとえ)。私たちの思いの中で、罪の激増や激化という闇を排除する(いくさ)に出て行くのは大変危険なことです。「変えることのできるものと、変えることのできないものとを、識別する知恵を与えたまえ」という「ニーバーの祈り」を想起したいと思います。

 

「ニーバーの祈り」と共に想起したいのが、先にも引用した口癖(くちぐせ)のようなパウロの言葉、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)です。

 

パウロは牧会者として例えば、コリント教会の悪(Ⅰコリント1:125:1)を()らしめないのですか、と問いただされたかもしれません。しかし、パウロは、「恵みはなおいっそう満ちあふれました」という神の最善の業を信じて、「罪が増し加わる」ことに打ち勝ちなさい、と教えたのではないでしょうか。

 

もう一度、ローマの信徒への手紙5:21を引用します――

 

こうして、罪が死によって支配していたように、恵みも義によって支配しつつ、わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです。

 

 確かに、私たちの罪、アダム以来の罪というものは厄介(やっかい)なものです。律法を知れば知るほど、自分は罪深い人間だと思わされます。また、キリスト者として潔められれば潔められるほど、世の汚れ、教会の悪、私たちの罪に気がつくでしょう。

 

 そうした中でパウロは、神からの啓示として、全世界の教会が「恵みの義による支配」下にあると告知しました。

 

「恵み」は神から私たちに無償で、一方的に与えられるものです。この点について、私たちはそれを信じるあるいは受けるのみで何もすることはありません。

 

それに対し、「義」・「正義」は私たちに対し、いかに私たちが罪深いか、的外れであるかを露わにします。そこでは、罪からの全き解放を神にゆだねると共に、これまで自分が犯してきた罪については、神の御前に(こうべ)()れ、赦しを()わねばなりません。言い換えれば、「恵みの義による支配」への私たちの感謝・応答は欠かせないことなのです。

 

パウロはここまで神の言葉を、鋭く深く取りつぎ、最後に「わたしたちの主イエス・キリストを通して(原文の最終句)()(くく)っています。この短い句は、「わたしたちの」教会の信仰告白にほかなりません。これは、「救い主、イエス・キリストの御名によってお祈り致します。アーメン」というように祈りの最後の言葉であると共に、讃美であります。旧約聖書の例になりますが、詩編8:2135:5147:5では、「わたしたちの主」という呼びかけをもって、主をほめたたえています。

 

ローマの信徒への手紙5章は、「わたしたちの主イエス・キリストによって神との間に平和を得ており」(5:1)から始まり、「わたしたちの主イエス・キリストを通して永遠の命に導くのです」で終えられています。まさにイエス・キリストへの、讃美から讃美へ、というのが基軸です。

 

今日は、一年の最初の礼拝です。「わたしたちの主イエス・キリストによって」から始めましょう。そして、一年の最後にまた、「わたしたちの主イエス・キリストによって」という信仰告白と讃美へとたどり着かせていただけますよう、神に祈りましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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