礼拝、説教    次週の礼拝是非お出掛け下さい。

 

                                                   礼   拝

 

礼拝は、神と人との交わりの場、出会いの時です。み言と聖餐を通してキリストを受け、祈り、讃美、信仰告白、献金などを通して、みずからを神に献げます。私達の信仰と生活の原点がここにあります。

 

次週の礼拝 
              聖霊降臨節第9主日礼拝

                            

                                

               

  

    2018・7・9(午前10時15分~11時30分)

 (*支障のない方はお立ち下さい)
招き                前奏
                * 招詞     詩編101編1節~2節

                * 頌栄           542

                * 主の祈り  

悔改め         * 讃美歌    11番          

      * 交読文      30 詩編118編

神の言           旧約聖書  民数記20章1節~13節

            新約聖書     マタイによる福音書 6章26節

                     祈祷
                 * 讃美歌       537番            

説教              「キリストに結ばれた一つの体」

                       秋間文子牧師    

                     祈祷           
                 * 讃美歌    393番    

                 * 使徒信条

感謝・献身        献金
                     報告
                 * 讃詠        546
祝福・派遣        祝祷
                     後奏

 

 

礼拝説教

 

「思いわずらいから自由にされる」
マタイによる福音書6章26節
20180708説教.MP3
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「世界を受け継ぐという約束」
ローマの信徒への手紙4章13節~17節
創世記17章1節~6節
20180701説教.MP3
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「顔と顔とを合わせて見る」
出エジプト記33章1節~11節
コリントの信徒への手紙一13章12節
180624説教.mp3
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「イエスのしるしに応答する人々」
ヨハネによる福音書6章1節~15節
列王記下4章42節~44節
20180610説教.MP3
MP3 オーディオファイル 35.4 MB

説  教 (月報より)

  

 

 

6月説教

聖書を開いて読むイエスさま 』 

 

(大人と子どもの合同礼拝)

 

   ルカによる福音書 4章16節~30節

        小河信一 牧師

 

 

 

今年度、教会学校ではルカによる福音書を通して礼拝をしています。サマーバイブルキャンプも、ルカによる福音書によって、「主イエス・キリストのご生涯」を学ぶことになっています。

 

その点で、本日の聖書箇所は、主イエス・キリストのご生涯において注目すべき場面です。

 

先週、教会学校の説教では、主イエスが荒れ野で誘惑を受ける(ルカ4:1-13)という場面が取り上げられました。

 

主イエスは「霊によって引き回され」、荒れ野で40日間、何も食べずに過ごされました。その時、主イエスは御言葉をもって悪魔と戦われました。

 

荒れ野には、人っ子一人いませんでした、主イエスと悪魔以外には……。それは今日の場面と全く対照的です。主イエスは今、故郷ナザレで大勢の人に囲まれています。

 

言い換えれば、主イエスの孤独な戦いは、「今日」(ルカ4:21)という時への(まえ)(ぞな)えであったのです。

 

荒れ野の誘惑とは、①食欲を満たしてみないか、②神以外のものに寄り頼み、この世の繁栄を手に入れてみないか、③父なる神を(ため)してみないか、という三つです(ルカ4:3,6-7,9-10)。主イエスはご自身が大変苦しんで、これらの誘惑に打ち勝つことにより、人間の置かれている危険であり、悲惨な状況を把握されたのです。そのようにして、主イエスは天の父に祈り、罪への誘惑と戦い、勝利して、この日を迎えられました。

 

主イエスは荒れ野からガリラヤに帰り、ユダヤ人と出会われました。「いつ」・「どこで」、ユダヤ人と出会ったのか、明記されています。主は最善の時と場所を選ばれました。「さあ、みんな、ここに来なさい」という主イエスの招きがあったのは……

 

ルカ福音書4:16――

 

イエスはお育ちになったナザレに来て、いつものとおり安息日に会堂に入り、聖書を朗読しようとしてお立ちになった。

 

神の御子、イエス・キリストが、「安息日」に「会堂」で、人々に出会う、そこからすべてが始まるのです。いや、始められなければならないのです。イエス・キリストは、「私とあなたたちの旅が始まる」、そう宣言さなったのです。

 

「安息日」(土曜日)というのは、主イエス・キリストのよみがえりによって、新たに「主の日」(日曜日)として()え直されました。「会堂」は礼拝堂ということですから、主イエスがユダヤ人たちに出会ったというのは、まさにこの状況です。すなわち、みなさんが主の日に、茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に集っているのと、同じ状況です。

 

どうして、礼拝堂だったのでしょうか?

 

それは、ここに「聖書を開いて読むイエスさま」(説教題)がおられるからです。私たちは礼拝を通して、「聖書を開いて読むイエスさま」にお会いするのです。主イエス・キリストがそばにいてくださることを、見ずして信じるのです。私たちは、それぞれの荒れ野から、神の御力によって連れ出されて(出エジプト記19:4,17)、ここに来た、そこが教会というところです。週の初めに、一同が一つになって集まる(参照:使徒言行録2:1)ということこそ、教会の原点です。私たちの務めは、主イエスを中心とする週の初めの礼拝を、「いつものとおり」(ルカ4:16)に続けていくことです。

 

「どうか、主イエスの思っておられることや主イエスが私たちを用いして()そうとされていることを、分からせてください」と願い求めつつ、この説教を聴いてください。

 

さて、およそ30歳の主イエスが、「お育ちになった(育てられた:原文は受け身)ナザレに来て」、会堂でお立ちになっている様子を思い浮かべてみましょう。

 

育てられた」とあるように、そこには、主イエスを「育てた」人々がいました。父ヨセフ、母マリア、主イエスの兄弟・姉妹、近所の人々など、主イエスの幼い頃を知っている人々が集っていたことでしょう。自分を育ててくれた人々の住む地で、主イエスが礼拝をささげられたという点で、私は主の深い愛を思わされます。会衆の一員として聖書を朗読し、神に向き合う成人の姿を示すということは、まさに神と隣人に対する愛の現れにほかなりません。主イエスは自分が育った故郷、自分を育ててくれた人々を大切にしたことがよく分かるでしょう。

 

私たちは今朝起きて()()(たく)して、茅ヶ崎香川教会にやって来ました。しかし、私たちが忘れてはならないのは、その前に「彼はナザレに来た。そして、彼は会堂に入って来た」(ルカ4:16 直訳)ということです。つまり、私たちの到着よりも、主イエスの入場が先行しているということです。主イエスは、私たちを迎えてくださるお方、私たちを、闇から連れ出し、光の中へと招き入れてくださるお方であります。

 

主イエス・キリストは、私たちの教会に、そして世界中の教会に来てくださいました。「あなたはわたしのために食卓を整えてくださる」(詩編23:5)とうたわれているように、私たちのために、主イエスは準備をしてくださいました。

 

主イエスはやって来て、そして、何を為されたのでしょうか?

 

それは、聖書を朗読し、一つの説き明かし(あるいは宣言 ルカ4:21)を行われたということです。聖書朗読と説教……その通りに引き継いで、私たちの礼拝で行っています。

 

そこから、私たちの側に求められていることも、自明です。聖書朗読と説教を「聞く」、耳を傾けて言葉を聞くということです。

 

ルカ福音書4:21――

 

そこでイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」と話し始められた。

 

「あなたがたが耳にしたとき」というのは、直訳では「あなたがたの耳の中に」という簡潔な句です。まさに、聖書の言葉が「あなたがたの耳の中に」入って来るほどに、確かなものとなった、つまり、いつまでも鳴り響いている、ということです。「聖書を開いて読むイエスさま」の声に守られているのが、私たちの信仰生活です。では、主イエスが朗読された聖書は、いったい何を告げているのでしょうか。

 

ルカ福音書4:18-19――

 

18「主の霊がわたしの上におられる。

 

貧しい人に福音を告げ知らせるために

 

主がわたしに油を注がれたからである。

 

主がわたしを遣わされたのは、

 

()らわれている人に解放を

 

目の見えない人に視力の回復を告げ、

 

圧迫されている人を自由にし

 

19 主の恵みの年を告げるためである。」

 

ここで、主イエスは、「貧しい人」、「()らわれている人」、そして「圧迫されている人」に福音を告げ知らせています。私たちは実際、主の御前において「貧しい人」・「()らわれている人」・「圧迫されている人」です。

 

主イエスは、何かに(しば)られているように感じている人に、自由を与える、と言われます。「解放する」・「自由にする」とは、信仰的に言えば、「あなたの罪を赦す」ということです。確かに、あなたを貧しくさせている人(隣人)も罪を犯しているでしょうが、しかし、ここで主が宣言されているのは、貧しい人・あなた自身の中にある罪を打ち滅ぼす、その罪の(なわ)()から解き放つ、ということです。だから、「貧しい人に福音を」というのです。

 

そして、公生涯の終わりにおいて、主イエスは、十字架の上から「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)と言われました。彼らは、罪によって「()らわれている人」であり、自分を持たない「貧しい人」でした。このように、ナザレの礼拝から終わりの時に至るまで、主イエスは「圧迫されている人」を訪ね探しながら、罪の赦しを宣べ伝えられました。

 

本日の聖書箇所には、「貧しい人」の変な姿が描き出されています。

 

ここにいる多くの皆さんは、すでに救われている信仰者であり、また、長らく教会学校に来ている子どもたちです。ですから、もはや「貧しい人」とは言えないかも知れません。今、私がお話しようとしている「貧しい人」というのは、いわば、裸のままの人間を指しています。裸のままの人間を見てみると、「ああ、なるほど人間には変なところがあるなぁ」と思います。それが、人間のありのままの姿なのだ、と分かります。主イエス・キリストにお会いして、主に向き合った時に、隠しようもなく、その姿がはっきりと現されます。

 

自分はそうではないと思い込んでいたとしても、主イエスの御言葉に()たれたとき、私たちはほんとうの自分を見つめ直すようになります。そして、週の初めの今日、そうではいけないと悔い改めて、主イエス・キリストによって出発しようと、神から力を与えられることが大切なのです。

 

それでは、ナザレの会堂に集っていた人々は、どのように変だったのでしょうか?

 

まず、ナザレ帰郷の直前の記事から……

 

ルカ福音書4:14-15――

 

14 イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた。その評判が周りの地方一帯に広まった15 イエスは諸会堂で教え、皆から尊敬を受けられた

 

そして、ナザレの会堂にて、主イエスが席に戻られた時……

 

ルカ福音書4:22――

 

皆はイエスをほめ、その口から出る恵み深い言葉に驚いて言った。「この人はヨセフの子ではないか。」

 

それから、主イエスが、エリヤとエリシャの出来事をもって、ナザレの人々を教え(さと)された時……

 

ルカ福音書4:28-29――

 

28 これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨(ふんがい)29 総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の(がけ)まで連れて行き突き落とそうとした

 

この変わり身の早さは、いったい、どうしたことなのでしょう。確かに、変です。ナザレの人々は一旦(いったん)は、主イエスの御言葉がいかに恵み深いものであるか、汲み取ったのではないでしょうか。

 

要約すれば、「最初には、ナザレの人々は、主イエスを尊敬し、ほめていた、その評判を広めようとさえしていた、神の言葉こそ恵みだ、自分たちを慰める救いの言葉だ、ということも分かっていた、ところが、後には、彼らは(いか)った、いきり立った、そして主イエスを崖っぷちに追い込んだ」ということです。

 

(ひょう)(へん)ぶりに驚くばかりですが、これが、裸のままの人間の姿なのです。真に主イエスに出会ったとき、おりこうさんの自分ではなく、「貧しい人」、罪を内に秘めた自分が現れ出てきます(参照:ルカ5:8)。「貧しい人」はそれを取り(つくろ)ったり、隠したりできません。が、それが出来ないほど、弱いところに、救いがあると言えましょう。

 

初めの礼拝の時から時間が経つと、(ことば)なる主イエス・キリストについて、腹が立ってくる、他の物事に惹かれて忘れてしまう、あるいは、無関心になってくる、ということと、並行する他の事例が、聖書に証言されています。

 

ヨハネ福音書5:35 主イエスがユダヤ人たちに――

 

「(洗礼者)ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした。」

 

主イエスの先駆者として、神の言葉を伝える霊的なヨハネを、人々は「しばらくの間喜び楽しもう」としました。ところが、領主ヘロデは、「イエスの評判を聞き」ながらも、神を畏れず「人を恐れて」、ヨハネを殺害しました(マタイ14:1-12)。ヨハネというともし火を「(おとろ)え」(ヨハネ3:30)させ、闇に葬り去ったのです。

 

さらに、歓迎から迫害に急転直下するという、恐るべき出来事が、聖書に記録されています。それを教会学校の皆さんは、イースター・ページェントを行っています。裸のままの人間を知るという上で、まことに印象深い場面です。

 

(しゅ)()の主日から受難日の金曜にかけて、それが起こります。

 

ろばの子に乗って、主イエスがエルサレムに入城した時……

 

ヨハネ福音書12:13――

 

(大勢の群衆は)なつめやしの枝を持って迎えに出た。そして、叫び続けた。

 

「ホサナ。

 

主の名によって来られる方に、祝福があるように、

 

イスラエルの王に。」

 

「ホサナ」とは、詩編118:25に由来する「私たちを救ってください」という嘆願の言葉です。エルサレムの丘に、「ハレルヤ、イエスさま、ハレルヤ、イエスさま」という叫びがこだましました。

 

ところが、突然、木曜日、金曜日と雲行きが(あや)しくなって、総督ピラトの裁判が開かれた時……

 

ルカ福音書23:18-21――

 

18 しかし、人々は一斉に、「その男を殺せ。バラバを(しゃく)(ほう)しろ」と叫んだ。

 

19 このバラバは、都に起こった暴動と殺人のかどで投獄されていたのである。

 

20 ピラトはイエスを釈放しようと思って、改めて呼びかけた。21 しかし人々は、「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫び続けた。

 

ページェントの脚本のト書きには、「全員、狂ったように大声で叫ぶ」と指示されています。全員で叫びながら、自らの罪深さと変わり身の早さを思わずにはいられません。

 

最初のナザレでの出来事に戻ります。なぜ、故郷ナザレの人々が主イエスに対する態度を変えたのか、その理由を一つ挙げましょう。

 

故郷ナザレの人々の、主イエスに対する期待……

 

ルカ福音書4:23――

 

「カファルナウムでいろいろなことをしたと聞いたが、郷里のここでもしてくれ。」

 

旧約の預言者たちの働きをたどりつつ示唆される主イエスの御心……

 

ルカ福音書4:24-27――

 

24 そして、(イエスは)言われた。「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。25 確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、26 エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。27 また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」

 

ここで明らかに、「主イエスの御心」は「主イエスに対する期待」をはるかに超えています。主イエスが郷土の期待を裏切っているわけではないことは、主イエスがまず第一に(ルカ福音書の順序正しい記録上 ルカ1:3)、安息日にナザレで礼拝をささげられていることから裏付けられます。

 

人というものは、相手方が自分の知らない姿や考えをあらわすと、とまどいます。そこで、自分の思いに固執するならば、相手方を批判したり、無視したり、挙げ句の果ては憤激(ふんげき)したりするようになります。殊に、ナザレの人々には、イエスは私たちに「育てられた」のだ、恩返しをするのは、当然だという思いが強かったのでしょう。

 

主イエスの挙げたエリヤとその弟子エリシャは、〈内〉のユダヤ人、〈外〉の異邦人という、〈内〉と〈外〉との垣根を超えて、神の救いの御業をあらわしました。エリヤは、シドン地方のサレプタのやもめのもとへ遣わされ(列王記上17章)、そしてエリシャは、遠路はるばる訪ねて来たシリア人ナアマンの重い皮膚病をいやしました(列王記下5章)。彼らは、郷里・地元だけに尽くすという偏狭な考えに染まることなく、()()・異教の地に神の救いを告げるという働きを為しました。

 

「主イエスの御心」が私たちの思いをはるかに超えて(エフェソ3:19,20)、成し遂げられた、その究極の業は、十字架と復活による救いです。私たち、世のすべての人の罪と死の恐れを滅ぼすために、主イエスが十字架につけられることにより、全うされた御業です。私たちに求められているのは、聖霊の導きのうちに、「私たちの罪を赦された」ことを感謝し、そして「イエスは主である」(Ⅰコリント12:3)と告白することです。

 

ルカ福音書4:30――

 

しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。

 

「立ち去られた」(動詞の未完了形)というのは、前進していった、旅を続けていった、ということです。主イエスは、さらに先の道を進んで行かれました。

 

主イエスは、ガリラヤ中を歩いて伝道し、そしてエルサレムへ(のぼ)られました。エルサレム入城の際には、人々から歓迎を受けました。ところが、最後には、人々から追いつめられ、十字架につけられました。多くの人々の憤慨と拒絶のうちに、十字架刑にされたのです。しかし、父なる神のご計画により、主イエス・キリストは死にて葬られ、そこで、罪と死を打ち滅ぼして、前へと進まれました。弟子たちはじめ人々と交わりながら旅を続け、そして、天に昇られていきました。

 

その間に登場してきた人間、十字架で苦しむ御子を傍観しているような「貧しい人」、罪の(なわ)()に「()らわれている人」、それは、私たち自身の裸の姿をあらわしています。しかし、そこにこそ、「私は貧しい人に福音を告げ知らせる」という主イエスの言葉が、私たちの耳に鳴り響いています。

 

安息日の、ナザレの会堂の礼拝というのは、「私はあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との救い主、イエス・キリストの言葉を、私たちに伝えています。

 

主イエスは、十字架の丘に追いつめられましたが、十字架の苦難をすり抜けて、永遠の命を、私たちに与えてくださいました。主と共に、御国に向かって、前進してゆきましょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

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