主日礼拝 2023年10月1日 〈10時15分~11時20分〉
聖霊降臨節 第19主日礼拝
招き 前奏
招詞 詩編74編 22節
頌栄 540
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 77
交読文 33 詩編127・128編
旧約聖書 詩編103編 3節~5節(p.940)
新約聖書 マルコによる福音書 2章1節~12節(p.63)
祈祷
讃美歌 332
奨励 「あなたの罪は赦された」
小河信一牧師
(※下記に録音したものを掲載しています)
祈祷
讃美歌 258
日本キリスト教団信仰告白(交読文 p.1)
聖餐式 (讃美歌205)
献金
報告
讃詠 545
祝祷
後奏
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〈説教の要約〉
2023年 10月1日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第19主日
旧約聖書 詩編103編 3節~5節(P.940)
新約聖書 マルコによる福音書 2章1節~12節(P.63)
説 教「あなたの罪は赦された」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅳ イエスは中風の人に言われた ……マルコ2:10-12
序
今からおよそ二千年前、主イエスによってガリラヤ伝道が繰り広げられました。「数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると」(マルコ2:1)……大勢の人、四人の男、中風の人、律法学者というように、人々が主イエスのもとに集まって来ました。直前の、主イエスが重い皮膚病を患っている人を癒した、ひっそりとした場面(マルコ1:40-45)とは対照的です。何かが起こりそうな予感がします。実際、或る事の幕開けを告げています。
それは、マルコ福音書2:1-3:6を読み通せばすぐに分かります。すなわち、律法学者、そして、ファリサイ派やヘロデ派の人々が次々に現れ、彼らは主イエスと論争します。そのやりとりの中で、主イエスへの反論や批判が提示されます。群衆(マルコ2:4,13、3:9,20,32)は固唾を飲んで見守っています。
論争のテーマはいろいろですが、主イエス・キリストがどのようなお方であるのかを巡って深められていきます。今日は、発端となった論争を捉えることにしましょう。律法学者の心の中の思い(マルコ2:6-7)について、あなたはどう考えるのか、が問いかけられています。奇しくも律法学者は、あなたが主イエス・キリストに近づく「(迷)ガイド役」を務めています。彼らに応じられる主イエスの御姿と御言葉を通して、正しく導かれるように、と願います。
Ⅰ 四人の男が中風の人を運んで来た
マルコ福音書2:1-5――
1 数日後、イエスが再びカファルナウムに来られると、家におられることが知れ渡り、2 大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。イエスが御言葉を語っておられると、3 四人の男が中風の人を運んで来た。4 しかし、群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかったので、イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした。5 イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。
このⅠ.では、主イエスと律法学者との論争の前に、或る家の中で起こった出来事を見てみましょう。律法学者の批判は、その出来事の中での主イエスの言葉に向けられます。私たちもその家に招かれた者として、事の一部始終を注視しましょう。
「イエスが御言葉を語っておられると」……出来事の初めに、まさしく「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)という通り、主イエスの御言葉をもっての宣教が行われていました。それが、癒しの業の前に「あった」のです。
私たちが主イエスに近づこうとするとき、思わぬ障壁が立ちはだかることがあります。例えば、重い皮膚病を患っている人に関して、「(その患者は)衣服を裂き、髪をほどき、口ひげを覆い、『わたしは汚れた者です。汚れた者です』と呼ばわらねばならない。この症状があるかぎり、その人は汚れている。その人は独りで宿営の外に住まねばならない」(レビ記13:45-46)という厳格な律法がありました。その人には、阻んでいる壁を乗り越え、主イエスの所に突進していくという決断が必要でした。
この度の中風の人の障壁はより具体的に描かれています。
・大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった。
・群衆に阻まれて、イエスのもとに連れて行くことができなかった。
「大勢の人」・「群衆」が妨げになっています。主イエスが遠くにいるわけではありません。「家におられる」(マルコ2:1)ということで、目標は明確です。主イエスは四人の男に「なんとかして道を捜す」ように求められています。
ルカ福音書11:9 イエスの教え――
「そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」
必死で「探しなさい。そうすれば、見つかる」……その通り、驚くべき形で、「運び込む方法」が見つかりました。主の御言葉から、私たちの行いへ……実行あるのみです! 「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり降ろした」。
中風の人ならびに四人の男にとって、意外なことが起こりました……イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、「子よ、あなたの罪は赦される」と言われた。明確に、主イエス・キリストの言動が現されています。
中風の人はまだ癒やされていません。しかし、より大切なのは、主イエスが、困窮し憐れみを乞うている人々に、何をし、何を言われたか、です。
主イエスは、決死の覚悟で〈突破〉を試みた「その人たちの信仰」をご覧になりました。そして、病んでいる人に、罪の赦しを告げられました。それによって、私たちは、主イエス・キリストがどのようなお方であるのかを知ることができます。
驚くべき〈突破〉によって、今や苦しんでいるが、中風の人が「家の中に入れられイエスの前に置」かれました(並行記事ルカ5:18)。この突然の出来事に、見ている者は呆然としていたことでしょう。しかし、まだ中風の人も四人の男も、何も分かっていないと言えるかも知れません。
繰り返しになりますが、大切なのは、主イエス・キリストのところに来てひざまずき(マルコ1:40)、その特等席(招待席)で、主の言動を見、知り、信じることです。その一貫として、主イエスと律法学者との間に論争が生じます。足の踏み場のないような屋内に、律法学者・数名も席を占めていました。
Ⅱ そこに律法学者が数人座っていた
マルコ福音書2:6-9――
6 ところが、そこに律法学者が数人座っていて、心の中であれこれと考えた。7 「この人は、なぜこういうことを口にするのか。神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか。」 8 イエスは、彼らが心の中で考えていることを、御自分の霊の力ですぐに知って言われた。「なぜ、そんな考えを心に抱くのか。9 中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。」
「ところが、そこに律法学者が数人座っていて」……雑踏のただ中に、彼らの優先席が設けられていました。主イエスに近いところに居ながら、彼らの心は今、相交わるべきお方から遠く離れていました。
「神を冒瀆している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」……論争は、「彼らが心の中で考えていること」から火蓋が切られます。正面衝突はまだ起こっていません。律法学者は主イエスを論破する時をうかがっています。
実は、律法学者・数人が座って、「(旧約)聖書」(マルコ9:12)に照らしながら考えていることは、間違いではありません(出エジプト記34:9、詩編25:11)。彼らの見地からすれば、一介の人間にすぎないイエスが、赦す権威を持つ神に代わることはできないからです。
「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか」という主イエスの問いかけについては、以下の引用文をお読みください。
ルカ福音書5:17-26 小河信一・説教要約(2022年9月11日)より――
どちらも、神の御業に係わることだとすれば、「どちらが易しいか」、結論を出すのは、無意味です。というのは、罪の赦しも、病の癒しも、神によって私たちに与えられる恵みなのですから。あの業この業の難易度を計っている場合ではありません。……もし、イエスの問いに対し答えるというのであれば、イエスは初めに罪の赦しを宣言し、次に中風の人を癒された、それがすべてです。「どちらが易しいか」とのイエスの問いは、いい加減にランクづけを止めなさいという教えにほかなりません。要は、「イエスが①(罪の赦しを)教え、②病気を癒しておられた」(ルカ5:17)という出来事を、ありのまま心に納めることです。以上、説教要約の引用文
神がこの世に遣わされた主イエス・キリストの言葉と行い全体を見て、(旧約)聖書に基づきつつ、イエスがどのようなお方であるか、知り信じることです。そうすれば、「この人は、神を冒瀆している」と決めつけた頑なさから解き放たれます。次のⅢ.で「(旧約)聖書に基づきつつ」という重要性を捉えることにしましょう。
Ⅲ 神は罪を赦し病を癒される
病をすべて癒し
4 命を墓から贖い出してくださる。
慈しみと憐れみの冠を授け
5 長らえる限り良いものに満ち足らせ
「イエスはご自分の霊の力で律法学者の考えを知って」おられました(マルコ2:8、ルカ5:22)。「神冒瀆」だという律法学者の非難を冷静に受け止められました。私たちもまた、「霊の力」に導かれて、詩編103:3-5を読んでみましょう。
ところで、主イエスは敵対者との最初の論争において、明白な形で旧約聖書を引用しておられません。この福音書で、主イエスが旧約聖書を引用して説教したり問答している例がいくつかあります。
マルコ4:12∥イザヤ書6:9-10 マルコ10:6∥創世記1:27、
マルコ12:10-11∥詩編118:22-23 マルコ12:26∥出エジプト記3:2,6
ということは、明白な形で旧約聖書を引用するにせよ、しないにせよ、主イエスは「(旧約)聖書に基づきつつ」、群衆に語りかけ敵対者と論じ合っていた、と考えられます。
以上のことを踏まえながら、まず詩編118編について説き明かしましょう。
これは、讃美と感謝に満ちた個人の詩編です。そして、詩編103:3-5には、六つの動詞が順々に出て来ます(C.ヴェスターマン)。
赦す――癒やす――贖い出す――冠を授ける――満ち足らせる――新たにする
主なる神の導きのもとに、人が救われていく様子が描かれています。これによれば、詩人の信仰の原点が、神による罪の赦しにあったことが分かります。もろもろの罪による障害が取り除かれる(A.ヴァイザー)ことによって、「鷲のような若さ」を持つ詩人の人生が切り拓かれました。
顧みれば、イスラエルの救いの基である出エジプトも、神の赦しが先行する出来事でした。
「あなたたちのいる家に塗った血は、あなたたちのしるしとなる。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す。わたしがエジプトの国を撃つとき、滅ぼす者の災いはあなたたちに及ばない。」 他に、出エジプト記12:23,27
主がイスラエルの民の罪を赦してくださいました。彼らは裁かれることも滅びることもなく、災いから救い出されました。というのも、弱く貧しい彼らの死も病も、「過ぎ越す」神がその肩に担ってくださったからです。そのしるしとして、「過越の羊」が屠られました(出エジプト記12:21)。民を赦す神の憐れみはその血の流された犠牲(同上12:21,27)の上に打ち立てられています。
彼らが荒れ野で宿営したとき、神の御言葉がモーセに下りました。
3 モーセが神のもとに登って行くと、山から主は彼に語りかけて言われた。
「ヤコブの家にこのように語り
イスラエルの人々に告げなさい。
4 あなたたちは見た
わたしがエジプト人にしたこと
わたしのもとに連れて来たことを。」
主なる神が、「あなたたちを鷲の翼に乗せて」というところに、約束の地へと至る将来が見渡されます。
預言として、「主はお前の罪をことごとく赦し 病をすべて癒すお方」(詩編103:3)という詩句は「イエスは初めに罪の赦しを宣言し、次に中風の人を癒された」ことを指し示しています。次のⅣ.で、中風の人が癒される様子を確かめましょう。単に奇跡物語に驚かされるというのではなく、主イエス・キリストの御言葉と御業を、聖霊に導かれ信仰をもって受け止めましょう。
Ⅳ イエスは中風の人に言われた
マルコ福音書2:10-12――
10 (主イエスが律法学者たちに)「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。」 そして、中風の人に言われた。11 「わたしはあなたに言う。起き上がり(命令形:起き上がりなさい)、床を担いで家に帰りなさい。」 12 その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った。人々は皆驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美した。
主イエスは、中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」、そして律法学者に「人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう」と告知されました。罪の赦しから始めることが、父なる神の御心であり、「(旧約)聖書に基づいて」正しかったからです。福音の土台もそこにあります。
神は人の罪を赦すために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。そして、御子を十字架に上げて死を遂げさせることによって、私たちの罪を贖われました(ローマ3:23-26、8:11)。そして、御子をよみがえらせ、その十字架と復活の御業を信じる者に、永遠の命を与えると約束されました。
そのような福音がさまざまな出来事を通し、初期のガリラヤ伝道において告知されています。最後に、「イエスは初めに罪の赦しを宣言し、次に中風の人を癒された」という後半、それが成就したことを見てみましょう。
「人の子が地上で罪を赦す権威を持っている」……「人の子」、すなわち、イエス・キリストの「権威」は、天に由来し、「地上で」実践されるが故に、重みがあります。そこに神の栄光が現され、闇にたたずむ人々を引き寄せます。この出来事では、「人々は皆驚き……神を賛美した」と報告されています。
「その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行った」……中風の人は繰り返しに襲い来る痛みに耐えながら、その「床」に伏せっていました。死の恐れと絶望のために心が折れそうになったこともあるでしょう。
「起き上がりなさい」……中風の人と共に、私たちがこの言葉を聞くところに、深い慰めがあります。なぜなら、これは、死と病を打ち滅ぼして復活された主イエス・キリストが語られたものだからです。「さあ今、立ち上がって、わたしと共に生きていこう!」……奇しき御業の力は、私たちに寄り添ってくださるお方、主イエス・キリストによっていつまでも続きます。
主イエス・キリストは、この方こそ「罪をことごとく赦し 病をすべて癒すお方」であると信じて、突進してくる人を迎え入れてくださいます。「このようなことは、今まで見たことがない」という新鮮な驚きが、礼拝の讃美の源となるようにお祈りしましょう。
Ω
〈説教の要約〉
2023年 9月24日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第18主日
旧約聖書 レビ記 14章1節~9節(P.182)
新約聖書 マルコによる福音書 1章40節~45節(P.63)
説 教「御心ならば」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 重い皮膚病を患った人が清めを受ける ……レビ記14:2-3前半
Ⅳ ただ、行って祭司に体を見せなさい ……マルコ1:43-44
Ⅴ 人々は四方からイエスのところに集まって来た
……マルコ1:45
結
序
主イエスは、ガリラヤへやって来て、人々に「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)と言われました。そして、会堂を訪れ、ガリラヤ全地を巡っておられました。
その中で、多くの病人と出会われました。「汚れた霊に取りつかれた男」(マルコ1:21-28)、「熱を出して寝ていたシモン・ペトロのしゅうとめ」(同上1:29-34)、そして、「重い皮膚病を患っている人」(同上1:40-45)のいやしを行われました。このように、ガリラヤ宣教の初めには、いやしの奇跡を通して、主イエス・キリストの力ある業が現されました。
ところで、主イエスは「重い皮膚病を患っている人」に関して、人々に「シリア人ナアマン」がその病を清められ、いやされたことを想起させています。
ルカ福音書4:27 主イエス→会堂にいるすべての人 安息日、ナザレにて――
「また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。」
天の神は、神の人エリシャ(列王記下5:8)を遣わして、「身を洗え、そうすれば清くなる」(同上5:13)と告げさせました。これは、神の御前にひれ伏し、神を信じることを教える、注目すべき物語です。主イエスが「シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった」と言われた通り、旧約聖書に「重い皮膚病を患っている人」がいやされたという事例は他に見当たりません。
逆に、モーセの姉妹ミリアム(民数記12:9-10)やユダ王国のウジヤ王(歴代誌下26:16-21)の場合には、神の罰として「重い皮膚病」に冒されました。彼らの身分の高さにもかかわらず、祭司によって清められたという話はありません(参照:民数記12:14 祭司は登場しません)。不治の病になることも多々あったのでしょう。ウジヤ王の最期は、次のように記録されています。
歴代誌下26:23――
ウジヤは先祖と共に眠りにつき、その遺体は、重い皮膚病に冒されていたということで、王の墓の近くの野に先祖と共に葬られた。その子ヨタムがウジヤに代わって王となった。
そこで、素朴な疑問なのですが、祭司は「重い皮膚病」に関して、それを治す医師の役割は果たさなかったのでしょうか。ナアマンのいやしに関わったのは、神の人エリシャでありました。彼は預言者であって、いわゆる祭司ではありません。
そこで、レビ記14章の、重い皮膚病についての記述や祭司による儀式を少しひもといてみましょう。注目点は、祭司が「清める」(レビ記14:7,19)とは、どういうことなのか、ということです。「清めの儀式」(同上14:4,7,8,11,14,17,18)が、それを解く鍵となります。
そのようにして、旧約の「清める」祭司と新約の「清める」主イエスの相違が明らかになることでしょう。ガリラヤ湖畔で、「重い皮膚病を患っている人」に出会われた主イエスは、どんな御業を行われ、そして、祭司に何を託されたのでしょうか?
Ⅰ 重い皮膚病を患った人が清めを受ける
1 主はモーセに仰せになった。2 以下は重い皮膚病を患った人が清めを受けるときの指示である。彼が祭司のもとに連れて来られると、3 祭司は宿営の外に出て来て、調べる。患者の重い皮膚病が治っているならば、4 祭司は清めの儀式をするため、その人に命じて、生きている清い鳥二羽と、杉の枝、緋糸、ヒソプの枝を用意させる。
この最初の段落に、祭司の仕事が出てきます。祭司は何をして、何をしないか、が分かります。それは、「皮膚病」について詳述されているレビ記13-14章全体の要約にもなっています。
すなわち、「祭司は(皮膚病を)調べる」というのが、その務めです。「調べる」の原意は、「見る」(ヘブライ語:ラーアー)です。病気の治療には関わっていません。病気の経過または結果を、ただ見ているだけです。「治癒は、ひたすら待望することしかできないのであり、祭司は治癒したことを確認するにすぎないのである」(M.ノート)ということです。分限を越えて、奇跡的ないやしを安請け合いしないという抑制があるのかも知れません。
「祭司は(皮膚病を)調べる」=「ただ見ているだけ」説を裏付けるのが、「皮膚病が治っている」(レビ記13:18,37、14:3,48)の語法です。すなわち、「皮膚病は(何かによって または 自然に)治らされている」(受動態)となっています。「祭司が(皮膚病を)治す」という記述は皆無です。ちなみに、ヘブライ語で「治す。いやす」は「ラーファー」で、医者は「ロフェー」と言います。祭司は「コヘン」と呼ばれています。
では、祭司は何をするのでしょうか? ひと言でいえば、主がモーセに命じた通りに、「清めの儀式」(同上14:4,7,8,11,14,17,18)を執り行うということです。そのために、慎重に「祭司は(皮膚病を)調べる」必要がありました。
レビ記14:6-7――
6 それから(祭司は)、杉の枝、緋糸、ヒソプおよび生きているもう一羽の鳥を取り、さきに新鮮な水の上で殺された鳥の血に浸してから、7 清めの儀式を受ける者に七度振りかけて清める。その後、この生きている鳥は野に放つ。
一見、祭司が皮膚病を治しているように思われます。しかし、祭司は皮膚病が治ったと見られる人に、その要請に応じて「清めの儀式」を挙行しているのです。
主なる神の御心に従って、このような旧約時代の慣わしが作られ継承されてきました。そこには、医学的な限界もありました。「祭司が(いろいろな病気を)治す」という点で、できないことはできないとする節度が保たれたのは、信仰的に健全だったと言えましょう。
主イエス・キリストが「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と告げて、「いろいろな病気で苦しむ者」(ルカ4:40)のもとに来られたのは、このような時代です。主イエスは、神の人エリシャ(列王記下5:8)のいやしの業をも引き継いでくださるお方です。
列王記下5:13-14――
13 しかし、彼の家来たちが近づいて来ていさめた。「わが父よ、あの預言者が大変なことをあなたに命じたとしても、あなたはそのとおりなさったにちがいありません。あの預言者は、『身を洗え、そうすれば清くなる』と言っただけではありませんか。」 14 ナアマンは神の人の言葉どおりに下って行って、ヨルダンに七度身を浸した。彼の体は元に戻り、小さい子供の体のようになり、清くなった。
異邦人ナアマンが重い皮膚病のいやしにあずかりました。それは、エリシャが神の言葉をもって病者の体を清め、かつ、いやした出来事でありました。それは、祭司の務めを超えるものでありました。主イエスはナザレの会堂で会衆に、その出来事を思い起こさせました。
主イエスは、神の人エリシャによる奇しき業に心を寄せられ、なおかつ、祭司による「清めの儀式」を尊ばれるお方でありました。そこに、先駆者を超える偉大さがあります。
それでは、主イエスと「重い皮膚病を患っている人」との出会いを読んでいくことにしましょう。
マルコ福音書1:40――
さて、重い皮膚病を患っている人が、イエスのところに来てひざまずいて願い、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。
「御心ならば」の直訳は、「あなたがそう望まれるなら」となります。従ってここに、「わたし」と「あなた」との関係が前置されています。その間に、誰か、助け手が介在しているわけではありません。
その上、「わたし」は、「あなたが望まれる」ことに、すべてを掛けています。「わたしが…わたしが…」という焦りや高ぶりはありません。それが、「イエスのところに来てひざまずいて願い」というへりくだった姿勢にも現れています。彼は新しい一歩をもって歩み出しました。
Ⅲ よろしい。清くなれ
マルコ1:41-42――
41 イエスが深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ、「よろしい。清くなれ」と言われると、42 たちまち重い皮膚病は去り、その人は清くなった。
「重い皮膚病を患っている人」は律法の規定(レビ記13:46)に従って、独りで町や村の外に住んでいたと考えられます。一瞬の躊躇もなく、主イエスはその人を迎え入れました。「深く憐れんで、手を差し伸べてその人に触れ」られました。「重い皮膚病」を「調べる」(見る)ことなど、ありませんでした。
「よろしい。清くなれ」の「よろしい」の原意は、「わたしは望む」ということです。「わたしはあなたをいやす」……それが、主イエス・キリストの御心でした。「重い皮膚病を患っている人」が御子によって聖別されました。
ここに、主イエス・キリストの御業において、どのように「清める」ならびに「いやす」という鍵語を理解したらよいのか、示されました。「清める」(ギリシャ語:カサリゾー)が「重い皮膚病」を「いやす」(治す)という意味で使われています(他にマタイ8:3、11:5、ルカ17:14)。「皮膚病が(何かによって または 自然に)治らされている」ということではありません。神の人エリシャによる預言的出来事……「皮膚病を清める=いやす」……が、主イエスによって成し遂げられました。
主イエス・キリストは「病気を清めるまたはいやす」という、その先に見ておられたことがありました。それは、苦しみ悩んでいる人を「あらゆる不義から解き放ち、その罪を赦す」(Ⅰヨハネ1:9、マルコ2:9)ということでありました。将来再び起こりかねない病気からいやされること以上に、聖別され、主イエス・キリストのものとされ、永遠の命を信じる者となる(マルコ2:5、5:34)ことが、よりいっそう大切なのです。
「重い皮膚病を患っている人」はたちまち清められ、いやされました。その人は、「わたしは望む」という主イエス・キリストの福音を、まだ十分に知りません。「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)との主の言葉が自分に向けられたものであることに目覚めねばなりませんでした。厳しい注意が、主イエスからいやされた人に下ります。
Ⅳ ただ、行って祭司に体を見せなさい
マルコ1:43-44――
43 イエスはすぐにその人を立ち去らせようとし、厳しく注意して、44 言われた。「だれにも、何も話さないように気をつけなさい。ただ、行って祭司に体を見せ、モーセが定めたものを清めのために献げて、人々に証明しなさい。」
「厳しく注意して」(原意:馬が鼻を鳴らす)……この人が忘れてはならないのは、主イエスの、この厳しさです。主イエスは、この人がまことの信仰に至るまで見守っておられます。
すでに清められ、いやされた人に、祭司によって「清めの儀式」(レビ記14:4他)を執り行ってもらうよう命じます。旧約聖書に祭司はただ「皮膚病を見る・調べる」と記されていたように、彼の本務は儀式を遂行することにありました。主イエスはその儀式を尊重されました。そして、いやされた人が献げ物を神の御前に携えて行く(レビ記14:11,23)という教育を施されたのです。というのも彼は、日常生活ならびに礼拝共同体に戻らなければならなかったからです。
「重い皮膚病を患っていた人」に求められているのは、病気が清められ、いやされたことを「人々に証明する」ことでした。それによって、「人々」はやがて、熱心に主イエスを取り囲む「群衆」(マルコ2:4,13、3:9,20,32他)に変えられます。
Ⅴ 人々は四方からイエスのところに集まって来た
マルコ福音書1:45――
しかし、彼はそこを立ち去ると、大いにこの出来事を人々に告げ、言い広め始めた。それで、イエスはもはや公然と町に入ることができず、町の外の人のいない所におられた。それでも、人々は四方からイエスのところに集まって来た。
皮膚病をいやされた男は、主イエス・キリストの大いなる御業を宣べ伝えました。それによって、「人々は四方からイエスのところに集まって来」ました。
それに対し、「イエスは、町の外の人のいない所におられた」……主イエスにとって、無駄な時はありません。しばし人里から退いて祈る時を持っておられました(マルコ1:35、6:46)。「数日後」、大勢の人の前に現れる備えをしていたのです(同上2:1)。待つことができるかどうか、大切なのは、困難な中でも、父なる神の御心に適うことを尋ね求めることです。
結
主イエスは神の御業を行う「医者」(マタイ9:12)として、「重い皮膚病を患っている人」に出会われました。病気のいやし以上に大切なのは、主イエスに厳しい注意のもとに、その人が生きるということでありました。というのも、「わたしのしていることは、今あなたには分かるまいが、後で、分かるようになる」(ヨハネ13:7)との主イエスの、弟子ペトロへの教えの通り、その人は「後で、分かるようになる」時を待たねばならなかったからです。
ガリラヤ湖畔の伝道において、主イエスは、その人が、また、群衆が信じるべき福音を宣べ伝えられます。
Ω
2023年 9月17日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第17主日
旧約聖書 エゼキエル書 33章10節~11節(P.1350)
新約聖書 ルカによる福音書 15章8節~10節(P.138)
説 教「一人の罪人が悔い改めるなら」 小河信一牧師
説教の構成――
序
33:10-11
Ⅱ 念を入れて捜す ……ルカ15:8
Ⅳ 一人の罪人が悔い改めれば ……ルカ15:10前半
Ⅴ 神の天使たちの間に喜びがある ……ルカ15:10後半
序
来る10月15日に、2023年度・主題聖句 「(わたしは)今は喜んでいます。あなたがたがただ悲しんだからではなく、悲しんで悔い改めたからです。あなたがたが悲しんだのは神の御心に適ったことなので、わたしたちからは何の害も受けずに済みました」(Ⅱコリント7:9)を取り上げる予定です。それに先立ちまして、本日(ルカ15:8-10)と10月8日(ルカ15:1-7)にそれと関連深い聖句を説教に取り上げます。
それら三つの説教に共通する主題を、二つ掲げましょう。
・罪人の悔い改め
・天における喜び
ルカ福音書15章の、「(ドラクメ銀貨十枚のうち)その一枚を無くした」または「(百匹の羊のうち)その一匹を見失った」という句には、深い絶望や無力さを現しています。持ち主が「無くした」または「見失った」というのは、銀貨・羊(人間を指している! 放蕩息子 15:11-32)の側から見ると、「滅びに瀕している」または「死線をさまよっている」との意味です。
二つのたとえ話では、「高が、取るに足りないもの」などと、放置されません。その「一枚」・「一匹」が捜し出されたときに、天に喜びが湧き起こり、それを仰ぎ見る者たちの心が一新されます。それらの出来事はまさに、「あなたがたが(ひとたび)悲しんだのは(天の)神の御心に適った」というメッセージを指し示しています。
2023年度、わたしたちの心が一つとなるように、御言葉から力と慰めを与えられて歩んでいきましょう。初めに、旧約聖書から、深い絶望や無力さを経験したユダの民と、彼らへの神の呼びかけを読んでみましょう。
Ⅰ わたしは悪人が死ぬのを喜ばない
10 「人の子よ、イスラエルの家に言いなさい。お前たちはこう言っている。『我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか』と。11 彼らに言いなさい。わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか。」
エレミヤと同じく、エゼキエルは祭司の家系に生まれ育ちました(エレミヤ書1:1、エゼキエル書1:3)。エゼキエルは前6世紀前半に預言者として召命を受け、主に捕囚の地バビロンで活動しました。ただし、このエゼキエル書33章の、主の言葉は、エルサレム陥落後、ユダの地になお残る人々に向けて語られたものと考えられます。
ユダの民は国家が崩壊するという苦難の中でも、神に対し頑なに心を閉ざしていました。しかし、エゼキエルは、御言葉を聞き入れない「反逆の家」(エゼキエル書2:5、24:3)に寄り添い続けました。
容赦ない裁きによって、ユダの民が打ち倒されていることは、彼らの嘆きから分かります。
「我々の背きと過ちは我々の上にあり、我々はやせ衰える。どうして生きることができようか」
主なる神が、この投げやりな言葉に耳を傾けておられました。「我々の背きと過ちは我々の上にある」と言いながらも、神への背信の罪を反省していません。神礼拝を立て直そうとする気力が萎え果てています。「どうして(わたしたちは)生きることができようか」……彼らの脳裏に浮かぶのは、死の恐れに覆われた暗い将来です。彼らを見守るエゼキエルの苦悩が忍ばれます。
再度、ルカ福音書15章のたとえ話の、「(ドラクメ銀貨十枚のうち)その一枚を無くした」または「(百匹の羊のうち)その一匹を見失った」という句を引くならば、その「一枚」・「一匹」が捜し出されて、日の当たるところに戻るという希望が無い……それが、今のユダの民の苦境です。
上記のたとえ話から、「一枚」・「一匹」は自ら動きようがなく、闇にたたずんでいる様子が目に浮かびます。それはまさに、エルサレム陥落によって離散してしまったユダの民でありました。それでは、見失われたものを探し出す者はいるのか、まずはエゼキエル書33章を確かめてみましょう。
「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。」
罪と死の淵で「やせ衰え」ている人々の前に、「わたしは生きている」と告げられる主なる神が現れました。しかも、「悪人が生きることを喜ぶ」と、主なる神と共なる喜びへと、「我々」が、否、「悪人」が招かれています。
神は、「反逆の家」を、その罪と死から解き放つという救いの計画を立てられました。「主なる神はこう言われる」(エゼキエル書2:4、33:25)と、口を開いて告げる預言者を、人々の間に遣わしました。神はユダの民の苦難を受け止め、彼らが「立ち帰り」、天を仰いで立ち上がるのを待っておられます。その大いなる救済に向けての道は、やがて時に満ちて、主イエス・キリストによって完成させられます。
Ⅱ 念を入れて捜す
ルカ福音書15:8 そこで、イエスは次のたとえを話された――
「あるいは、ドラクメ銀貨を十枚持っている女がいて、その一枚を無くしたとすれば、ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか。」
短いたとえ話です。序の解説やⅠの旧約の出来事を踏まえて、内容を捉えるようにしましょう。
「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」とは、誰か、しばし考えてみましょう。もう一方のたとえ話の「百匹の羊を持っている人」(ルカ15:4)がヒントになります。
主イエスは、二人の主人公の設定において、わたしたちの日常生活に分け入って来られます。当時、羊飼いは最もポピュラーな職業でありました。主イエスを取り巻いていた「群衆」(ルカ14:25)の中に羊飼いがいたかも知れません。たとえ話でありますが、聞いている人々に身近な話として語っておられます。なぜなら、神に抵抗する「反逆の家」の頑なさが聴衆の心に無いとも限らないからです。
次に、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」は、わたしたちに身近な存在でしょうか? はい、そうです! わたしたちは大抵、多かれ少なかれ財産を所有しています。「ドラクメ銀貨十枚」というは、当時の日当10日分です。女が貯金することの可能な額でしょう。
いや、違う、「ドラクメ銀貨十枚」とは、女の「花嫁料」または「持参金」を指していると唱える人がいるでしょうか。しかし、日常性の観点からすれば、嫁ごうとする娘が相手の親から「ドラクメ銀貨十枚」もらうというのは、人生の一頁の出来事です。そのような立場にいる彼女に、村や町の人々は関心を注いでいます。たとえ話は、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」の登場により滑らかに始まりました。
「その一枚を無くしたとすれば」のところで、序で述べたように、深い絶望や無力さが広がります。「残り九枚」はさておき、「その一枚」のことで、時に人は気が動転してしまいます。世も末とばかりに、悲嘆に暮れてしまいます。もはや、幸せ絶頂だった「嫁ごうとする娘」から目が離せません。
「(女は)ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて捜さないだろうか」
女は、小さな窓しかない暗い室内に「ともし火」をともします。そして、「家を掃き」ます。石または土、いずれにしても床にはひび割れがあります。割れ目に落ち込むと、なかなか見つけられません。
丸い銀貨は遠くまで転がって行くことがあります。しかし、女はあきらめずに、くまなく屋内を捜して回ります。彼女はまるで、誰からも見つけられないという銀貨の悲しみを一身に担っているかのようでした。
Ⅲ 一緒に喜んでください
ルカ福音書15:9――
「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて、『無くした銀貨を見つけましたから、一緒に喜んでください』と言うであろう。」
「そして、見つけたら、友達や近所の女たちを呼び集めて」……とうとう見つかりました! 「女たち」の間に、喜びが広がります。彼女たちは、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」の捜索を手伝ったわけではありません。捜し回ったのは、その女ひとりです。
今、彼女が求めているのは、自分の喜びを分かち合ってくれる「友達や近所の女たち」です。彼女は、「女たち」の日々の暮らしの中に、喜びの少ないことを知っていたのかも知れません。自分の家に、捜すのに手を貸すことのなかった人々を招き入れています。
失われそうになっていたいたものが見つかりました。その存在がこの世から消えかかっていたものが、主人によって取り戻されました。では、この「ドラクメ銀貨一枚」は、一体何を表しているのでしょうか?
それは、「一人の罪人」にほかなりません。その人が、「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」と「友達や近所の女たち」の歓喜の中心にいます。本来、帰るべき所に来たことを、皆が心から喜んでいます。そこには、救い出されたという、「一人の罪人」の深い感謝があります。
考えてみると、転がり出てしまった「一枚の銀貨」は、他の「九枚の銀貨」または「友達や近所の女たち」にとって、かけがえのない存在です。なぜなら、「一枚の銀貨」はその弱さや傷つきやすさを、周りのものに教えているからです。絶望に打ち倒されず、救いの手を待ち続ける姿を証ししています。
Ⅳ 一人の罪人が悔い改めれば
ルカ福音書15:10前半――
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
ここで、深い絶望や無力さに包まれていたユダの民、「反逆の家」に向けられた主の言葉を思い起こしましょう。神と隣人を愛することからかけ離れた「悪人」(エゼキエル書33:11)に、御声がかけられ、たちまち救い出されました。
人は、まず第一に、何をなすべきなのでしょう。隣人たちと共に、喜びを分かち合うことでしょうか。そうではありません。喜びの源である主なる神に立ち帰ることです。「言っておくが、彼ら(これらの小さな者)の天使たちは天でいつもわたしの天の父の御顔を仰いでいるのである」(マタイ18:10)という主の御前に出ることです。
預言者エゼキエルは、「むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から」という激しい呼びかけを聞きました。
「このように、一人の罪人が悔い改めれば」というのは、たとえ話で言えば、「一枚の銀貨」または「一匹の羊」の上に、「立ち帰れ、立ち帰れ」との御声が響いたということでありましょう。「一枚の銀貨」とは、「一人の罪人」であり、あなた自身であります。
「立ち帰る」(エゼキエル書33:11)または「悔い改める」(ルカ15:7,10)とは、たとえ話に暗示されているように、行き詰まり途方に暮れてしまった状態から離れ、主の御心に適った道へと戻っていくことを表しています。主の御声を聞くと同時に、「悔い改めた」者は天にある喜びを世に伝え始めます。
Ⅴ 神の天使たちの間に喜びがある
ルカ福音書15:10後半――
「言っておくが、このように、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある。」
単なるまとめではありません。ここでわたしたちは、「神の天使たちの間に」という句によって、たとえ話の読み方を一新する必要があるかも知れません。整理しながら進めましょう。
「ドラクメ銀貨を十枚持っている女」または「百匹の羊を持っている人」とは、一体誰なのでしょう。後者の方がひもときやすいでしょうか。
ヨハネ福音書10:14――
「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている。」
主イエス・キリストが「羊飼い」ならば、念入りな捜索や手厚い保護に合点のいくことでしょう。ポイントは、次の点にあります。
「天使たちが天でいつもその御顔を仰いでいるような天の父」、その父が遣わした御子イエス・キリストが、地で平凡な職業の「羊飼い」になったということです。手元から無くなった「一枚の銀貨」も、わたしたちの日常「あるある」を示しています。ここに、学識をひけらかす「ファリサイ派の人々や律法学者たち」(ルカ15:2)の頑なさを打ち砕く知恵が見られます。
従って、主イエスのたとえ話が、天から遣わされた主イエスが、卑近な日常の題材を採りながら、何を教えようとしているか、にテーマが絞られます。あまりにも、ありふれた光景なので、パレスチナの「民話」か「昔話」かと思ったというのでは困ります。では、たとえ話のテーマとは、何なのでしょう。それは……
主イエスは、聞き手の心に染み入るような平易な語りにおいて、神の愛の大きさを語っているといことです。「(羊飼いは)見つけたら、喜んでその羊を担いで」(ルカ15:5)、「(羊飼いは)ともし火をつけ、家を掃き、見つけるまで念を入れて」(ルカ15:8)……一人の罪人に対し、神の愛はいかに大きなことでしょう。「神の天使たちの間に喜びがある」……天使たちは、罪人を悔い改めに導き、赦す、神の愛を知らされました。だから、それが地に届くほどに、喜んでいるのです。
結
要約すれば、ルカ福音書は、地上の出来事を通し、透かし模様のように、わたしたちに天を見上げさせます。さりげなく、人々の暮らしを題材にしながら、神の愛の大きさを知らせ、人々がまことの喜びに招かれていることを描き出しています。
たとえ話が語られた場は、安息日の食事(ルカ14:1、15:2)です。それは、過越の食事(ルカ22:8,20)と共にユダヤ人たちの生活の根幹をなしています。今、父なる神はその食卓主として御子イエス・キリストを送られました。安息日や過越の食事は、透かし模様のように、神の国での宴会(ルカ13:29)または食事(ルカ14:15、22:30)を指し示しています。
主イエス・キリストは、十字架と復活の出来事を通して、神の愛を現されました。
主よ、御心ならば、地上で繰り返される食事・聖餐式において、まことに悔い改めることができますように!
2023年 9月10日 大人と子どもの合同礼拝
日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第16主日
新約聖書 ルカによる福音書 18章18節~30節
説 教「らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ あなたは十戒を守っているか ……ルカ18:19-21
〈金持ちまたは若者に向かって〉
Ⅲ 人と共に嘆く主イエス ……ルカ18:22-23
後半 ルカ18:24-30
Ⅳ 神にはできる ……ルカ18:24-27
〈聞いた人々に向かって〉
Ⅴ 主イエスに従う弟子の道 ……ルカ18:28-30
〈ペトロに向かって〉
結
序
古典落語に例えば、「刻そば」や「寿限無」という有名な演目があります。江戸時代から庶民にとても親しまれてきたものです。聖書の物語は大概、笑いを主題とするものではありませんが、このルカ福音書18:18-30を、わたしはこれぞ、二千年来の古典・「らくだ針」、と呼んでみたい気がします。そこに、苦笑があり、爽快感が呼び覚まされる点(持ち上げておいてから一挙に落とす技法や若旦那ならぬ一癖ある人物描写)でも、繰り返し読みたい、主イエスの物語です。
さて、人の年齢というのは、(著者ルカは医者らしい?)ルカ福音書にとっての重要な視点です。キリスト誕生と前後して、「年老いた者」たち(ルカ1:7〔ザカリヤとエリサベト〕、2:29〔シメオン〕,36-37〔アンナ〕、箴言22:6)が登場します。そして、このルカ福音書18章では、「幼子」や「子ども」(18:15-17)と対比されつつ、「議員」(ルカ18:18,21,24)が現れます。
福音書の並行記事に照らし合わせると、この「議員」は、「青年」(マタイ19:22、箴言22:15)であり、「金持ち」(マルコ18:23、箴言18:23、28:11)であったと見られます。わたしたちは決してステレオタイプ(固定観念)化に陥ってはなりませんが、ルカの描き出しているように、「年老いた者」、「幼子」、そして青年「議員」に、ある種の特徴は見られるのは事実でありましょう。
先人の知恵とも言える、前掲の箴言は、そうした世代が抱えている問題の一部をえぐり出していますので、ご参照ください。
今日のテキストの前半・ルカ18:18-23では、何が主旨か、捉え難いほどに、主イエスと一人の人物との対話が詳しく展開されています。というのも、青年「議員」が、一筋縄ではいかない、厄介な人だからです(付け加えるまでもありませんが、今日のわたしたちの一般的見解を表明するものではありません)。そこには、群衆にその人物のことを自分自身として受け止めてほしいという主イエスのねらいがあります。主イエスは、いわゆる「お利口さん」ではなく、厄介な人、つまりは、罪人を救い出そうと伝道を続けておられます。
では、なぜ、青年「議員」が神と人から離れ、孤独になってしまっているのでしょうか? 主イエスは聖書の御言葉、十戒によって、彼の内側を照らし出されます。
Ⅰ ある議員の疑問または要求
ルカ福音書18:18――
ある議員がイエスに、「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」と尋ねた。
血気盛んというか、いささか前のめりなっています。「(わたしは)何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」は一見、正しい疑問のように思われますが、二つ問題があります。また、主イエスへの呼びかけ「善い先生」も心がこもっていないというか、形式的で、内容が伴っていません。
疑問文中の「永遠の命を受け継ぐ」に関しては、後で、主イエスご自身の言葉として、「永遠の命を受ける」(ルカ18:30)という約束が表明されています。
Ⅴ.で説き明かしますが、この議員のいう「永遠の命を受け継ぐ」には、神からの賜物として、人が「受け取らされる」という信仰的なニュアンスが欠けています。少し極端な言い方かも知れませんが、まるで、強盗が「永遠の命」なる宝を奪い取ろうとしているかのようです。
ここで、議員が前のめりになっていることは、「何をすれば」との彼の一句に如実に表されています。「何を行えば」ということで、彼には善い行いをする用意があるようです。しかし、問題は、この議員の、神と人との関係は、いかがなものか、ということです。突然、ある議員が善行をしたとしても、周りの人はそれを喜ぶとは限りません。議員の下心か、あるいは、彼の立派さか、が見透かされて、周りの人は彼に近づこうとしないのではないでしょうか。
主イエスとの関係性の欠如は、「善い先生」という呼びかけに現れています。この慇懃な、相手にリスペクトを払っているように見える「善い先生」との言い回しの、どこが悪いのでしょうか? 青年「議員」は単なる社交辞令として、そのような敬称を使っているのでしょうか?
Ⅱ あなたは十戒を守っているか
ルカ福音書18:19-21〈金持ちまたは若者に向かって〉――
19 イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。20 『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」 21 すると議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。
青年にありがちなことですが、彼は「善い先生」の言葉の真意を知らずに、体の良い敬称としてそれを使いました。しかし、ここで青年は神の御子、主イエス・キリストと対面しているのですから、「善い先生」の「善い」を、信仰的に突き詰めて考えてみなければなりません。
主イエスは、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と言われました。父なる神は、私たちの企む悪をも「善」に変えられる「善いお方」であります(創世記50:20、歴代誌上16:34、エレミヤ書33:11「恵み深い」=善い)。その「善いお方」、唯一のまことの神が、イエス・キリストをこの世に遣わされました(ヨハネ17:3)。
そのような青年「議員」の問題点として、父なる神または御子イエス・キリストとの関係の破れが暴露されます。主イエスはその男の前に、聖書中の聖書を持ち出されました。十戒です。
「『姦淫するな、殺すな、盗むな、偽証するな、父母を敬え』という掟をあなたは知っているはずだ。」
ここには、十戒の後半(第五戒~第九戒 ⑤⑥⑦⑧⑨)のうち、四つが、⑦→⑥→⑧→⑨→⑤の順で出ています。「あなたは、隣人との共同生活の中で、これらを実践していますか」と尋ねられています。
すると、青年「議員」は「はい」……そういうことはみな、子供の時から守ってきました……と答えました。礼拝を遵守する両親のもとで、彼は律法教育を受け、今や立派な青年に成長しました。
しかし、何かがおかしい? 強気の反面、謙虚さが欠けています。そのように十戒を守れない、同年配の仲間への共感が見られません。立派さの陰に、友達少なく、孤立しているような空気が漂っています。
主イエスは、背伸びし、前のめりになっている、青年「議員」の罪を見逃されません。一挙に、彼の誇りを打ち砕かれます。
Ⅲ 人と共に嘆く主イエス
ルカ福音書18:22-23――
22 これを聞いて、イエスは言われた。「あなたに欠けているものがまだ一つある。持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、(来て)わたしに従いなさい。」 23 しかし、その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。大変な金持ちだったからである。
ここで、主イエスから、青年「議員」にガツンと一発が加えられます。厄介な人物、生意気な若造を取り囲んでいた民衆は、さぞや溜飲が下がったことでしょう。初め、彼が聖書に忠実らしく持ち上げておいて、今度は一点突破(十戒の第十戒)……持っている物をすべて売り払い、貧しい人々に分けてやりなさい……で、彼の破綻した神と隣人との関係をさらけ出すとは!
では実際、青年「議員」はどうなったでしょうか? そうです、ペシャンコに押し潰されました……その人はこれを聞いて非常に悲しんだ。ここには、思春期の子どもらしい、動揺しやすい心理が垣間見られます。
主イエスは、十戒の第十戒によって、青年「議員」の内面、心の奥底に光を当てられました。
出エジプト記20:17――
隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない。
「欲してはならない」という禁止命令を、より積極的に言い換えると、「分け与えよ」となります。それは、主イエスがパンと魚の食事において実践されたことであり、それに倣ってキリスト者は、困っている人々に「分け与える」よう勧められています(エフェソ4:28、詩編112:9)。
主イエスはかつて、第十戒を踏まえながら、次のように群衆と弟子たちに説教されました。
マタイ福音書5:28-29――
28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
第十戒は、人間の貪りの罪について警告しています。貪りとは、「もっともっと欲しい」と切望することです。他人から現実に奪わなければ、それでよいのか、決してそうではありません。
主イエスは、「右の目であなたの隣人の持っているものを見る。そしてそれを欲しがる」ということが、まさに十戒を破ることなのだ、と教えられました。「議員」はやはり経験または洞察が浅いと言えるでしょうか。彼は、姦淫しない(十戒の第七戒)ために、体の一部をえぐり出して捨てるか否かという血を流すような戦いがある(ヘブライ12:4)ことに気づいていません。
そのようにして主イエスは、表面的には隣人とうまくつき合っていると言う人に、問いかけられました。それは、世間知らずで、社会から孤立しているように見る、ある青年「議員」、ひとりの問題ではありませんでした。
Ⅳ 神にはできる
ルカ福音書18:24-27〈聞いた人々に向かって〉――
24 イエスは、議員が非常に悲しむのを見て、言われた。「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。25 金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」
26 これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと、27 イエスは、「人間にはできないことも、神にはできる」と言われた。
ここで、主イエスとの会話によって心の打ち砕かれた、青年「議員」は姿を消します。彼が十戒を基として、霊的な生活を立て直していったのかどうか、その後については、テキストは何も告げていません。入れ替わりに、テキスト後半・ルカ18:24-30では、「これ(イエスの説き明かし)を聞いた人々」や「ペトロ」に内示される弟子たちが前景に現れます。
しかし、青年「議員」の「人生オワコン」(絶望)ではありません。主イエスは、「非常に悲し」んでいる人に同情を寄せられるお方です。御子イエスは、私たちの企む悪をも「善」に変えられる「善いお方」、父なる神のように、罪人を憐れんでくださいます。主イエスは、青年「議員」に、時の猶予を与えられました。それによって彼は、「人里離れた所に退いて祈る」(ルカ5:16)暇を持つことができたのではないでしょうか。
一人から大勢へ、「これを聞いた人々」……ルカの伝道対象とする当時の地中海世界の人々……は、主イエスから、一体何を聴き取ったのでしょうか。「わたしはできる(有能な)人物である」と勘違いしていた者が立ち去ったのを受けて、主イエスは話を続けられます。
「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」……日頃、群衆は、らくだがエルサレムの城門を通り抜けるのを見ていました。その見識を前提として、「らくだが針の穴を通る」のは無理だと悟りました。それが、「どんなに困難なのか」、群衆にもよく分かりました。主イエスは、日常的光景を拠り所としつつ、「神の国に入る」という信仰の世界の出来事へと「これを聞いた人々」を誘いました。
これを聞いた人々が、「それでは、だれが救われるのだろうか」と言うと……主イエスのねらい通りに人々は導かれました。直訳だと、「だれが救われることができるのだろうか」となります。
「(わたしは)何をすれば永遠の命を受け継ぐ(奪い取る)ことができるでしょうか」(ルカ18:18)という議員の、要求の色濃い疑問と比べるならば、正しく問うことが大切であると分かります。
この設問の、信仰的な深さは、二つあります。
一つは、「だれが救われる」のかと、受け身で聞いている点です。「(わたしは)何をすれば(行えば)」と、自分に目を向けるのではなく、自分を救い出してくださるお方に目を注ぐことが大切です。
もう一つは、神の御顔の前に、「人間にはできないことも、神にはできる」と告白へと導かれている点です。主イエス・キリストは、「神にはできる」ということを成し遂げられます。「これを聞いた人々」は、誇り高い「議員」と異なり、主の前に傲り高ぶらず、へりくだります。
そうして、かつては「これ(主イエスの説教)を聞いた人々」の一人であり、今は「弟子」として召し出されたペトロが登場します。
Ⅴ 主イエスに従う弟子の道
ルカ福音書18:28-30〈ペトロに向かって〉――
28 するとペトロが、「このとおり、わたしたちは自分の物を捨ててあなたに従って参りました」と言った。29 イエスは言われた。「はっきり言っておく。神の国のために、家、妻、兄弟、両親、子供を捨てた者はだれでも、30 この世ではその何倍もの報いを受け、後の世では永遠の命を受ける。」
ここでも、大切な点を二つ、挙げましょう。
一つは、主イエスに従う者と富との関係です。もう一つは、主イエスがそのような人々に、「永遠の命を受ける」ことを約束している点です。その二点がより鮮明になるように、群衆にとって身近な、ペトロをはじめとする弟子たちが登場します。
古典名作・「らくだ針」の読み手は、最初の青年・議員から、最後の弟子・ペトロへと視点を移すことになります。
一つ目は、地では、十戒の第十戒が示す貪りの罪に留意しつつ、より積極的に、人々に分かち与えるということです。必ずしも、信仰者が金持ちになってはいけないと言うのではありません。神と隣人を愛し、「天に富を積む」(ルカ18:22)のです。主イエスに「従い」、「神の国に入る」ことができるように、まずは、弟子たちのように、主イエスによって、「救われること」です。
二つ目は、「(わたしは)何をすれば永遠の命を受け継ぐ(奪い取る)ことができるでしょうか」(ルカ18:18)への、正しい答えとも言えるでしょう。
「①来て、わたしに②従いなさい(ルカ18:22)。家、妻、兄弟、両親、子供を③捨てなさい〈移住〉」、そうすれば、「後の世では永遠の命を④受ける〈安住〉」というように、主イエスの力強い召しは、四つの動詞に凝縮されています。最後の④、弟子が「受ける」は、神から賜物として与えられるというニュアンスになっています。地における〈移住〉(ルカ4:43)と天における〈安住〉、それは、聖書の旅の原型(創世記12:1-8)を指し示しています。
ここに、主の弟子が歩むべき、ひと筋の道が示されました。
結
あなたは今や、「これ(主イエスの説教)を聞いた人々」の一員となりました。片や、青年「議員」の悩みや不安に満ちた迷路が広がっています。片や、主イエス・キリストと共に十字架の丘へと向かう道が伸びています。「来て、わたしに従いなさい」との呼び声に耳を傾けましょう!
2023年 9月3日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第15主日
旧約聖書 エレミヤ書 9章22節~23節(P.1194)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 1章26節~31節(P.300)
説 教「誇る者は主を誇れ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 兄弟たちよ、思い起こしなさい ……Ⅰコリント1:26〈起〉
Ⅱ 神はあなたがたを選ばれた ……Ⅰコリント1:27-38〈承〉
Ⅲ キリスト・イエスの中にあって ……Ⅰコリント1:29-30〈転〉
Ⅳ 誇る者は主を誇れ ……Ⅰコリント1:31、
エレミヤ書9:22-23〈結
結
序
本日は、二つに分かれている、コリントの信徒への手紙 一 と 二 との、重要な聖書箇所を取り扱います。単に、二つが個別に重要ということではなく、むしろ、相響き、相深めているという点で、より豊かなメッセージを汲み取ることができるということです。
コリントの信徒への手紙 二 で共鳴しているというのは、次の箇所です。
9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。10 それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
コリントの信徒への手紙 一 1:26-31の使信と照合するならば二つの文により、その対象が鮮明になります。
①もし、あなたが「強い」(Ⅰ,Ⅱコリント)ならば、自分自身を誇る(Ⅰコリント)。
結局、あなたの周りから人は去って行く。
②もし、あなたが「弱い」(Ⅰ,Ⅱコリント)ならば、神によって恵まれる(Ⅱコリント)。
あなたの「自分の弱さ」を誇るべきである。
以上の要約から観ても、同様の内容……「強さ」と「弱さ」の裏表から……が取り扱われていることは明白です。それは、パウロが少なくも二度繰り返すほどに、重視したメッセージであります。
①自分の「強さ」を誇って、人生から脱落していくのか、それとも、②自分の「弱さ」を受け入れて、主イエス・キリストの恵みをあらわすのか、パウロは問い直しています。今日は、コリントの信徒への手紙 一 1:26-31によって、主に前者(①)について説き明かしましょう。
コリントの信徒への手紙 一 が書かれた経緯は、以下の通りです。
パウロは第2回目伝道旅行の折、紀元後52年前後に、一年六か月の間、コリントにとどまりました。(使徒18:11)。その後、第3回目伝道旅行の際、エフェソからコリントへ手紙を書き送りました。およそ2年の時を隔てて、小アジア(トルコ)からギリシアへ発信したということになります。
コリントでの一時滞在(Ⅱコリント13:1-2)を含めて、伝道・牧会の実体験と神学的な思索の両面から、手紙を書く機が熟していたと言えましょう。
Ⅰ 兄弟たちよ、思い起こしなさい
コリントの信徒への手紙 一 1:26〈起〉――
兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい。人間的に見て知恵のある者が多かったわけではなく、能力のある者や、家柄のよい者が多かったわけでもありません。
パウロは「兄弟たち(よ)」と、親しく語りかけています。その上で、「知恵」・「能力」・「家柄」という具体的な事例を挙げて、読み手の注意を呼び起こしています。
その背景には、コリント教会の「兄弟たち」の間の分争がありました。しかし、パウロはその分争をいたずらに掻き立てるようなことはしていません。なぜなら、教会の「兄弟たち」全員が、パウロの勧告に耳を傾けなければならないからです。
今、一致を求めているパウロがコリント教会の分裂を見抜いていることは、次の表現から分かります。
「~が多かったわけではなく、~が多かったわけでもありません」との繰り返しに注目しましょう。遠回しの言い方になっていますが、「知恵のある者」や「能力のある者や、家柄のよい者」の少数派と、そうでない「世の無学な者」(Ⅰコリント1:27)の多数派との二分されていたことを物語っています。これは、教会の根幹を揺るがす根深い問題でありました。
当時、コリントはローマの植民都市で、貿易を通じ商業の盛んな町でありました。コリントの東 11km には、海港・「ケンクレアイ」がありました。そこにもまた、教会がありました(ローマ16:2)。要するに、コリント教会には、「ユダヤ人」・「ギリシア人」・「奴隷」・「自由な身分の者」(Ⅰコリント12:13)など、さまざまな人がいたということです。
人々の往来が盛んであるのは、一面では好ましいことですが、また、それだけ個々人の意見が噴出し、まとまりがつかなくこともあります。パウロは、その一例として、「知恵のある者」と「世の無学な者」との問題を取り上げています。確かに、旧約聖書に詳しい、改宗した「ユダヤ人」と、貿易船で働いてきた「奴隷」とが一つになるのは、難しいようにも思われます。
この世的な視点からは乗り越えがたい壁があります。ところが、パウロは別の見方において、コリント教会の人々に勧告しています。
「あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」……神は公正なお方です。多数派の「世の無学な者」も、少数派の「知恵のある者」も、神の大いなる救いの御業にあずかるよう召し出されました。「召されたとき」、すなわち、自分が洗礼を受けてキリスト者となったとき、コリント教会の人は皆、兄弟・姉妹であったはずです。そこには、公正なる神のもとに、キリスト者の集う教会生活がありました。この世的な視点からは、人々は無条件に、この生活に招き入れられいました。しかし今や、それがコリント教会においては崩れてしまっています。
パウロはこの問題を掘り下げていきます。
Ⅱ 神はあなたがたを選ばれた
コリントの信徒への手紙 一 1:27-38〈承〉――
27 ところが、神は知恵ある者に恥をかかせるため、世の無学な者を選び、力ある者に恥をかかせるため、世の無力な者を選ばれました。28 また、神は地位のある者を無力な者とするため、世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです。
パウロは徹頭徹尾、神の大いなる救いの御業の観点から、福音を語っています。それは、人間の間に席捲している分裂や差別の嵐から、人々を解放するためでありました。
「ところが、神は、世の無学な者を選び……世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれたのです」……パウロはいわば「弱い人」(ローマ14:2、箴言22:22)の側についています。なぜなら、神ご自身が「弱い人」や「貧しい人」に寄り添い、彼らを弁護されるお方だからです(箴言22:23)。
かつて、「弱い人」や「貧しい人」は、「不信心な人」(ローマ4:5)でありました。しかし、神は彼らの「働きがなくても」、彼らを義と認められました(同上4:5)。というのは、「弱い人」がひたすらに神を信じたからです。それと重なり合うのが、「神は世の無力な者を選ばれました」との一文であります。神は「弱い人」を選ばれるところから、宣教を初め、「弱い人」を用いて教会を建てられました。
今、パウロは「あなたがた」、すなわち、コリント教会すべての人に、正しく「思い起こす」よう求めています。皆が聖霊に導かれて、神が自分を選んだこと、そして、神の召しの中で自分が新しい人生を歩んでいることを「思い起こす」ならばよいのですが、そうはいきません。
正しく「思い起こす」ために、「知恵のある者」も「世の無学な者」も向き合わなければならない、典型的な問題がありました。パウロはそれを具体的に、「神は知恵ある者に恥をかかせる……力ある者に恥をかかせる……」と述べています。説明する前にひと言いえば、これは、「世の無学な者」も傍観者としてではなく、むしろ当事者として受け止めるべき事柄でありました。なぜなら、パウロは、知恵ある者が恥をかくということを説いていたからです。「世の無学な者」も「知恵」を会得すれば、恥をかかされることもあり得ます。
それでは、信仰の観点から、「知恵のある者」や「能力のある者や、家柄のよい者」が神の御前に恥をかかせられる、その根本原因は、いったい何なのでしょうか? それは、自分は「家柄のよい者」だと思っていたら、超名門の「家柄のよい者」が出て来て、自尊心が傷つけられたというような、世の大多数の者にとって、どうでもよい、些末な事柄ではありません。
神は、御心から離れかけている「知恵のある者」が悔い改めて、真に救われるように、と願っておられます。Ⅲで、パウロが「神は知恵ある者に恥をかかせる……力ある者に恥をかかせる……」のは、なぜか、簡潔に説き明かしています。ことさらに、「知恵ある者」や「力ある者」が名指しされて、「恥をかくぞ」と迫られている、その理由が氷解します。
そのようにⅢでは、Ⅰ・Ⅱ〈起・承〉をステップボードとして、議論が〈転〉回されています。要は、パウロの勧告によって、自己中心から神中心へと、兄弟姉妹、とりわけ、知恵ある者たちが変えられるかどうか、です。
Ⅲ キリスト・イエスの中にあって
コリントの信徒への手紙 一 1:29-30〈転〉――
29 それは、だれ一人、神の前で誇ることがないようにするためです。30 神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれ、このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられたのです。
「それは、だれ一人……にするためです」……冒頭から、「弱い人」と「知恵のある者」との区別を超えて、パウロの語りかけが始まっていることに気づかされます。「だれ一人」というのは、「すべての肉なる者」からの意訳です。
「すべての肉なる者」とは、創造主である神から背き去って、神と隣り人を憎もうとする罪を帯びた人間を指しています。その点では、「弱い人」も「知恵のある者」も、すべて、神の似姿を見失った罪人なのです。
ただし、パウロが真剣な視線を注いでいた、「知恵のある者」や「能力のある者や、家柄のよい者」の抱える問題が見過ごされたではありません。なぜなら、自分自身を「神の前で誇る」ことが明らかに、「弱い人」たちよりも、「知恵のある者」に深く関わる問題であったからです。「弱い人」たちが自分の知恵・能力・財産など誇る機会は少ないに違いありません。
では、「知恵のある者」や「能力のある者や、家柄のよい者」が、彼らの持っている知恵・能力・財産(エレミヤ書9:22)などの面で、「恥をかく」とは、一体どういうことなのでしょうか? 極端な話かも知れませんが、世界有数の大金持ちが「恥をかいている」場面というのは、あまり想像できません。
しかし、Ⅰ・Ⅱで、「知恵のある者」が矢面に立たされたのは、彼らが裸で、「神の前」に出ることを、パウロが求めていたからです。「恥を被ったことなど、生涯一度もない!」という高慢ちきを、神の面前に引きずり出したかったのです。
パウロの霊的な洞察では、コリント教会の中で、そのような「知恵のある者」が幅を利かせているようでありました。
「だれ一人、神の前で誇ることがないように」……これが、高ぶっている「知恵のある者」へのメッセージです。神は、彼らの「弱さ」(Ⅱコリント11:30)、「愚かさ」(Ⅰコリント1:20)、そして「貧しさ」(ローマ12:13)をあぶり出すために、神と群衆が見守る中で、彼らが「恥をかく」という一種のショック療法を用いられるのです。
パウロは、「知恵のある者」が反論してくる前に、議論を拡張しています。
「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれています」……この重要聖句は、最終のⅣでも繰り返されています。
Ⅰコリント1:30「キリスト・イエスの中にあって」=「キリスト・イエスに結ばれ」
Ⅰコリント1:31「主の中にあって」=「主を」
パウロのこの句を援用した意図は、明確です。つまり、「すべての肉なる者」を「キリスト・イエスの中へ」引きずり込み、「キリスト・イエスの中に」おいて、すべての人を新生させるということです。
ここには、わたしたちが主イエス・キリストを信じるという福音の基本についての重要な理解が示されているので読んでいきましょう。
まず、「兄弟たち、あなたがたが召されたときのことを、思い起こしてみなさい」(Ⅰコリント1:26)という導入句を言い換えるならば、「神によってあなたがたはキリスト・イエスに結ばれていた」となるということです。「あなたがたが召された」のは、「神によって」です。自分の知恵・能力・財産などではなく、神の赦しの愛が先行しています。
次に、「あなたがた」は、一人ひとりが「神によって」選ばれ召されたのですが、それは「あなたがた」が一つとなるためでした。すなわち、「キリスト・イエスに結ばれ」、その「キリスト・イエスの中にあって」、教会を建てていくためであります。
そうして、神に招かれた「知恵のある者」や「世の無学な者」が信ずべきことが、「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」という喜びの知らせなのです。
父なる神のご計画に従い、主イエス・キリストによって、大いなる贈りものがわたしたちにさずけられました。この豊かさには、この世でいちばんの「知恵のある者」や「能力のある者」をも畏れひれ伏させる力があります。そこで、「だれ一人、神の前で誇ることがない」ことが実現し、他者を押しのけ、自力で「強く」(Ⅰコリント4:10、ローマ15:1)生きようとした道が閉ざされるのです。
「このキリストは、わたしたちにとって神の知恵となり、義と聖と贖いとなられた」……教会は尽きることのない宝箱のように、わたしたち・信仰者に神の国をめざす、新しい生き方を教え示しています。
神によって義と宣告され、わたしたちは罪から解放され、救いに入れられました。
また、わたしたちが神によって「聖」なる者とされることにより、神の国にふさわしい、教会をこの世のただ中に建てていく忍耐が与えられました。
そして、わたしたちがどんなに罪の嵐に巻き込まれようとも、今も、そして将来も「贖いとなられた」キリストがわたしたちを助けるという信頼と希望が与えられました。
Ⅳ 誇る者は主を誇れ
「誇る者は主を(主の中で / エン クリオー)誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
22 主はこう言われる。
知恵ある者は、その知恵を誇るな。
力ある者は、その力を誇るな。
富ある者は、その富を誇るな。
その事をわたしは喜ぶ、と主は言われる。
パウロは、「あなたがた」・「兄弟たち」と共に、神の言葉を傾聴しています。すなわち、旧約聖書からの引用によって、この段落を〈結〉んでいます(他にローマ14:11、フィリピ2:11)。具体的には、コリントの信徒への手紙 一 1:31「誇る者は主を誇れ」は、「誇る者は、この事を誇るがよい 目覚めてわたしを知ることを。わたしこそ主」を下敷きにしています。鍵語は当然、「(あなたは)誇れ」・「誇るがよい」です。Ⅲ→Ⅳの段落構成からは、「だれ一人、神の前で誇ることがないように」→「誇る者は主を誇れ」という滑らかな流れが確かめられます。
ヘブライ語の「誇るがよい」には、「ぱっと輝かせる」または「ほめたたえる」というニュアンスがあります。ここで、パウロがこれぞまさに御言葉にあると見出した、エレミヤ書9:23前半とコリントの信徒への手紙 一 1:31とのつながりを解説しましょう。
そこで、丁寧に旧約を読みます。
「誇る者は、この事を誇るがよい」の「この事」とは、「わたしを知ること」を指しています。そして、「わたし」とは後続の「わたしこそ主」から、「主」であると分かります。従って、文脈上で、「この事を誇るがよい」は「〈主を知ること〉または〈主〉を誇るがよい」となります。これが、パウロの読みです。
そして、最大の問題は、「主」とは、一体だれなのか、ということです。皆さんはどのように考えられるでしょうか? 「主」とは、父なる神か、それとも、主イエス・キリストか……これを正しく理解する鍵は、エレミヤ書9:22-23を熟知するパウロが結語として何を、新約・コリントの信徒への手紙で、コリント教会の人々に向けて語っているのか、ということにあります。
わたしなりに無理のない解釈をすると、こうなります。〈主を知ること〉というのは、そもそも〈父なる神を知ること〉であります。そうは言っても、わたしたちは、世の卓越した「知恵のある者」でさえ、〈主〉として、父なる神がわたしたちを創造し、導き、救ってくださる「この地に慈しみと正義と恵みの業を行う」お方であることを知りません。なぜなら、わたしたちは、「知恵」・「力」・「富」を誇るばかりで、霊的に「目覚めて」いないからです。
そこで父なる神は「知恵ある者に恥をかかせる……力ある者に恥をかかせる」(Ⅰコリント1:27)ことを告知する使徒を派遣されました。目覚めていない「知恵のある者」に対し、「神は世の無に等しい者、身分の卑しい者や見下げられている者を選ばれた」こと、コリント教会が「慈しみと正義と恵みの業」(エレミヤ書9:23)に満ちあふれていることを昭示されました。
「主」(エレミヤ書9:22-23)とは、父なる神か、それとも、主イエス・キリストか……これについてのパウロの福音的理解はもはや、明らかでありましょう。
すなわち、父なる神はご自身が〈主〉であることを、「キリスト・イエスの中にあって」啓示されたということです。わたしたちは、「キリスト・イエスに結ばれて」はじめて、神の栄光を「ぱっと輝かせる」または「ほめたたえる」ようにと導かれます。
「兄弟たち、あなたがたが召されたとき」、あなたがたは「キリスト・イエスの中に」あった、初心を忘れるな、「誇る者は〈キリスト・イエス〉を誇れ」……これが今日の使徒・パウロのメッセージです。
2023 年7 月9 日 聖霊降臨節 第7 主日
大人と子どもの合同礼拝② 説教概要
・ 新約聖書: マタイによる福音書13 章31~35 節
・ 説 教: 「天の国はからし種とパン種」
教会役員 浅田 英幸
■ 天の国のイメージ
聖霊降臨節第7 主日の朝を迎えました。茅ヶ崎香川教会、2023 年度2 回目の「大人と子どもの合同礼拝」において、大人と子どもが一緒に礼拝をささげ、御言葉を聞く恵みの時を与えて下さいました父なる神様に心から感謝致します。本日は、マタイによる福音書13 章31~35 節の御言葉を通して、イエス様が教えて下さっている「天の国」とはどのような場所なのかを確認していきたいと思います。
皆さんは、「天の国」=「神の国」についてどのようなイメージをもっていますか。遠い空の向こうにある神様が住まわれる国?エデンの園があるところ?イエス様が父なる神様とともに居まして、終わりの日に祝宴が開かれる輝かしい場所?地上の生涯を終えた兄弟姉妹がイエス様に伴われて招き入れられる世界?
聖書に記されている「天の国」に関する記述から、「こんな感じかな?」と想像はできますが、この地上で暮らす人間は、結局のところ誰一人として「天の国」をその目に見たことがないので、本当のところは良く分かりません。そのように地上に暮らす人間には、決して目に見ることができない「天の国」のことを、イエス様は“たとえ”を用いて、人々に語ります。ちなみに、マタイ福音書13 章では、本日取り上げる「からし種」と「パン種」以外にも、「種を蒔く人」や「毒麦」など、イエス様による5 つの“たとえ”によって「天の国」の秘密が記されています。お家に帰ってから、本日の聖書箇所と合わせ、ぜひ一度目を通してみて下さい。
■ からし種とパン種のたとえ
さて、本日の聖書箇所31 節は、「イエスは、別のたとえを持ち出して、彼らに言われた。」と始まります。まず、イエス様は、「天の国」のたとえ話を誰に向かって語っているのでしょうか。「彼ら」と少し“あいまい”な表現で書かれています。彼らとは、“ご自分の弟子たち”でしょうか、それとも13 章の冒頭にあるように“大勢の群衆”に対してでしょうか。
この点については、本日のお話の最後の方で改めて考えることにします。
イエス様は、“彼ら”(=イエス様の話を聞こうとしている人たち)に向けて、次のようなたとえを語られました。31 節~32 節:「天の国はからし種に似ている。人がこれを取って畑に蒔けば、どんな種よりも小さいのに、成長するとどの野菜よりも大きくなり、空の鳥が来て枝に巣を作るほどの木になる。」
「天の国はからし種に似ている」「大きくなると空の鳥が巣を作るまでになる」とイエス様は言われます。「からし種」って分かりますか。ここに出てくる「からし種」は、黒からし(=ブラックマスタード)という種類で、種は直径1~2mm 程度の小さいものです。
すり潰して“からし”(=マスタード)にするだけではなく、食用や灯りに用いる種油の原料にもなったと伝えられています。「成長すると空の鳥がきて巣をつくるほどになる」と言われています。からし種は成長すると高さが最大で3~4m、秋には太い茎や枝は固くなり、小鳥の重さに耐えられる程になるそうです[p.5 からし種参照]。
続いて33 節では、イエス様は別のたとえをお話になりました。「天の国はパン種に似ている。女がこれを取って三サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」「パン種」というのは、前回パンを作ったときの小麦粉で練ったパン生地を取っておいたものです。当時は、現代のドライイーストというような便利なものはありませんでしたから、小麦粉を発酵させるためにそのようにしたのです。ですから新しくパンを作るときに、その小さなパン種を小麦粉に混ぜて練る、そうすると発酵して生地が膨らむわけです。「サトン」というのは容量の単位で、聖書の後ろの方についている度量衡の付録に依りますと約12.8リットルですから、三サトンとは38.4 リットル(=バケツ2 杯分)位ということになります[p.5 パン種参照]。
一般家庭でパンを焼くことを考えると、バケツ2 杯は少し多いような気もしますが、これも全体が大きくなることにたとえています。しかし、先の「からし種」と比べて明らかな違いがあります。それは、「からし種」のほうは自分自身が成長して大きな草木になるのですが、「パン種」のほうは新しい生地の中に溶け込んでしまって見えないということです。パン生地は確かにふくらみますが、「パン種」はその中に混ざっていて、「パン種」があることすら分かりません。しかし、「パン種」は確かに全体を膨らませます。
■ 天の国の真実
さて、イエス様はこのように「天の国」を「からし種」や「パン種」にたとえることで、ご自分の周りに集まった人たちに何を伝えようとしたのでしょうか。吹けば飛んでしまうようなちっぽけな「からし種」が、地に蒔かれるとその形を変えて生長し、やがて鳥が巣を作るほどの大きな草木になる。
二千年の昔、神の子であるイエス様も小さな赤ちゃんとしてこの地上(ユダヤのベツレヘム)に来てくださり、やがて人の子として成長し、弟子たちに御言葉を授けてくださいました。まさに、この地上に御救の種が蒔かれ、神様のご支配される「天の国」が到来したということです。「天の国」=「神の国」とは、遠い空の向こうにあるとか、生きている人間には決して行けない所ということではなく、神様がご支配され御言葉を信じる者たちがいる場所ということです。最初は12 使徒から始まったこの地上の「天の国」は、イエス様の昇天後、ペンテコステの聖霊降臨の時には120 人程になっていました(使徒言行録1:15)。それから二千年。世界の人口は、今や約80 億人だそうです。そして、そのうちキリスト教徒の人口は約3 分の1、約27 億人ということになります。日本のクリスチャンは、世界平均と比べれれば、それ程多くはありませんが、たった12 人で始まった地上の「天の国」が、今や27 億人です。確かに小さな小さな「からし種」が、大きく成長しているのを知ることができます。
一方の「パン種」はどうでしょう。この「パン種」というのは当時、一般には良くないことをさすたとえとして用いられていました。発酵が腐敗(=腐ること)を連想させるからです。したがって、「パン種」を入れないパンは「過越しの祭り」などに用いられる清らかなパンでした。また、イエス様ご自身も「ファリサイ派とサドカイ派の人々のパン種に注意しなさい」(マタイ16:5-12)と繰り返し良くいない意味で言っています。このように一般的には悪い意味で用いられる「パン種」のたとえを、イエス様はここでいわば逆手にとって、
積極的に良い意味で使っておられます。
「パン種」も小さいものですけど、その特徴は、小麦粉に混ぜるとパン生地の中に溶け込んで「パン種」自身は見えなくなってしまうことだと先程述べました。ちっぽけで目立たない「パン種」は、生地の中に隠れてしまうけれど、それによってパン生地が大きく膨らみ、かまど(今はオーブン?)で焼けば、柔らかくおいしいパンができあがります。イエス様は、「パン種」を「地上における神様のご支配」にたとえたのだと思います。神様のご支配は、この地上では隠されていて、わたしたちは直接見ることができません。でも、イエス様の御言葉(聖書)を信じて受け入れることによって、わたしたちの内に聖霊がはたらき、新しい人間(=クリスチャン)へと創り変えてくださいます。そして、イエス様の愛に捉えられた人が、また隣人に御言葉を宣べ伝えていく。そのようにして、目には見えない神様のご支配が、絶えることなく確実に世界中へと広がっていく。これこそが、イエス様が「パン種」のたとえを用いて、周りの人たちに伝えたかった「天の国」の真実であると思います。
■ 隠されている
34 節に移ります。「イエスはこれらのことをみな、たとえを用いて群衆に語られ、たとえを用いないでは何も語られなかった。」と書いてあります。33 節までの“たとえ話”を受けて、こう書かれていますので、冒頭でお話した31 節の「彼ら」とは、「群衆」を指し示していると考えることができます。
それでは、なぜイエス様は、「たとえ」を用いて群衆に「天の国」のことを語ったのでしょうか。普通「たとえ」とは、話を分かりやすく、理解しやすくするための手段です。本日の箇所の少し前の第13 章10 節には、イエス様が「たとえを用いて話す理由」が記されています。弟子たちに、「なぜ、たとえを用いてお話になるのですか」と問われた時のその答えが11 節にあります。イエス様は、「あなたがた(=弟子)には天の国の秘密を悟ることが許されているが、あの人たち(=群衆)には許されていないからである。持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる。だから、彼ら(=群衆)にはたとえを用いて話すのだ。見ても見ず、聞いても聞かず、理解できないからである」と答えられました。
ここでは、「たとえ」で語るのは、難しいことを分かりやすく説明するためではないと言われています。イエス様の「たとえ話」は分かる人には分かるが、分からない人にはますます分からなくなるということです。そこには隠された答えがあるということです。そのように「たとえ話」自体が、物事を明らかにする働きと同時に隠す働きを持っています。「天の国」の真実がそのような「たとえ話」によって語られるのは「天の国」それ自体が、わたしたちの目に見えず隠されているものだからです。35 節でイエス様が述べられているとおり、「天の国」の真実は、“天地創造”の時から隠されているのです。
■ 群衆と弟子を分けるもの
それでは、「彼ら」の中の「群衆」と「弟子」とを分ける境界線は何なのでしょうか。それは、彼らの地位や身分、どれだけ財産を持っているかではなく、またこれまでの人生においてどのような行い(善悪)を積んできたかでもありません。それは、イエス様の御言葉を聞いて信じ受け入れるか、そうでないかだけの違いです。御言葉を信じ、「天の国」の秘密を聞き取れた者が、“弟子であり信仰者”(=クリスチャン)ということです。イエス様に依り頼まず、自らの力だけに頼り、それを信じようとするなら、「天の国」の真実はいつまで経っても聞き取ることができず、その人は“群衆”のままです。
■ 天の国を信じて祈る
幸いにも、教会に招かれている大人とこども(=兄弟姉妹)の皆さんは、イエス様の愛に捉えられ、父なる神様を賛美し、御言葉を聞いて「天の国」の秘密を聞き取ろうとしているイエス様の弟子たちです。神様は、イエス様の十字架の死と復活によりわたしたちの罪を赦し、ご自身を“父”と呼ぶことを認めてくださいました。何の功(=神様から見て優れた仕事)もないわたしたちを、御国(=天の国)の世継ぎとして下さました。イエス様の弟子となったわたしたちは、既に「天の国」に入れることが約束されているのです。
確かに、聖書に記された御言葉は膨大で、理解しにくい難しい話もたくさん出てきます。それでも、日曜ごとに教会で礼拝を捧げ、日々御言葉に触れ、神様に祈る生活を続ければ、イエス様がわたしたちの心の目をしっかりと開いてくださいます。おぼろげにしか捉えることのできなかった「天の国」の真実が、今よりはっきりと見えるようになると、心から信じたいと思います。
アーメン
◎ からし(クロガラシ)
[アブラナ科 アブラナ属 (Brassica nigra)]
高さ2m 以上になる分枝性の1 年草。北米、中東、地中海に生育し、エジプト時代から香辛料や薬草、あるいは防腐剤としても使われた。葉は長さ16cm 程になり、羽状に分裂し、表裏両面に粗い毛が生える。花をつける茎の葉は分裂しない。黄色い4 弁花が総状花序につき、花弁は長さ7~9mm。花後は4稜のある細長い果実(長角果)を結び、なかに暗褐色の種子がある。
若葉や花はサラダに刺激的な風味をもたらし、種子は洋ガラシの原料となるほか、カレー料理や漬物、ソーセージなどの香辛料として利用される。薬用として種子はパップ剤となるほか、筋肉痛、リューマチ、霜焼けの浴剤になり、芥子(からし)の足湯は風邪や頭痛に効く伝統療法といわれる。
聖書の「からし種一粒ほどの信仰があれば」(マタイ17:20)に出てくるものは本種を指すようである。