礼拝、説教

主日礼拝 2021年 10月24日

降誕節 第9主日  

  

招き   前奏

招詞   詩編122編 1節~24節

頌栄   544

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  Ⅱ-192

交読文  39 箴言8章

旧約聖書  イザヤ書35章1節~10節(P.1116)
新約聖書  ルカによる福音書 7章18節~22節(p.115)

 

祈祷

賛美歌  151

説教   「主に贖われた人々は帰って来る」

               小河 信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  488

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   545

祝祷 

後奏

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2021年10月24日「主に贖われた人々は帰って来る」
イザヤ書35章1節~10節
ルカによる福音書 7章18節~22節
211024_0102.MP3
MP3 オーディオファイル 30.1 MB
2021年10月17日「あなたがたを導いて真理を悟らせる霊」
詩編78章32節~33節
ヨハネによる福音書16章1節~15節
211017_0101.MP3
MP3 オーディオファイル 23.5 MB
2021年10月10日「教会でのクリスチャンの生き様」
箴言3章27節
ガラテヤの信徒への手紙6章1節~10節
20211010_0435.MP3
MP3 オーディオファイル 29.9 MB
2021年10月3日「互いに相手を優れた者と思いなさい」
ヨブ記31章32節
ローマの信徒への手紙12章9節~13節
211017_0101.MP3
MP3 オーディオファイル 23.5 MB
2021年9月24日「立ち上がりなさい、光を照らしなさい」
イザヤ書 60章1節~13節
エフェソの信徒への手紙 5章13節~14節
210926_0099.MP3
MP3 オーディオファイル 29.2 MB

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〈説教の要約〉

2021年 10月24日                            

旧約聖書 イザヤ書 35章1節~10節

新約聖書 ルカによる福音書 7章18節~22節

      「主に(あがな)われた人々は帰って来る

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び(おど)れ        ……イザヤ書35:1-2             

Ⅱ 手が弱り、(ひざ)がよろめいて、心おののく      ……イザヤ書35:3-4

Ⅲ 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる        ……イザヤ書35:5-7  

Ⅳ 主に贖われた人々は帰って来る          ……イザヤ書35:8-10          

Ⅴ 行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい ……ルカ7:18-22 

 

この度のイザヤ書講解説教の最終回となります。最後にふさわしく、旧約の中でも最も美しい詩の一つと言われているイザヤ書35章を取り上げます。この章は全体66章のイザヤ書の中で、最も後の時代(いわゆるペルシア時代 524年以降)に書かれたものです。言い換えれば、年代的に新約により近い時代に成立したものと見なされます。

イザヤ書35章のメッセージは、前回説教したイザヤ書60章の「立ち上がりなさい、光を照らしなさい」との主題を受けるかのように、希望に満ちたものになっています。35章内の勢いある展開は、わたしたちの信仰を、主イエス・キリストの救いの御業へと架け渡すものとなっています。

前6世紀末に書かれたイザヤ書60章に関して、時代背景を踏まえながら、わたしは次のように述べました(説教要約 参照)。

〈およそ2600年~2500年前にユダヤ民族を見舞った「大災難」(前587 ユダ王国崩壊とバビロンへの強制移住)においても、神の導きのもとに「復興計画」が立てられると同時に、郷里への「帰還困難」が生じました。

第三イザヤの御言葉によって、ユダヤの民と国々は、主の先導する「復興計画」を柱とし、この地の「帰還困難」という試練に向き合いました。

「大災難」の(けい)()する現代の世の中に生きるキリスト者としてわたしたちは、苦難を乗り越える、希望と救いの聖書メッセージを語り継ぐ使命を持っています。

イザヤ書60章と並んで35章は、そのように御言葉を語り継ぐ使命を持っているわたしたちに、力と勇気を与えます。とりわけ、イザヤ書35章や60章が説いている、郷里への「帰還困難」は現代においても、光を当てるべき問題です。それは、日本の一部で特定の人々の間に起こっている問題ではありません。我が事として受け止めるように、聖書はわたしたちを導きます。

ユダヤの民は、前587年の「大災難」以来、郷里への「帰還困難」と向き合ってきました。「離散(ディアスポラ)の民」という呼称は、ユダヤ民族の特質を表しています。彼らは現実的な試練として、聖地に「帰る」こと、また、信仰的な課題として、神に「立ち帰る」ことを希求し思索し続けてきました。

ちなみに、現代のイスラエル国歌「ハティクヴァ」(希望)にも、祖国の都への帰還が高らかに歌われています。すでにイスラエルに定住している人々も愛唱しています。

二千年(いだ)かれ続けた その希望とは 

われらの土地で 自由の民として生きること

シオンの地よ エルサレムよ〉 (私訳) 

この世で各地に生じている、郷里への「帰還困難」に、我が事として立ち向かう者は、信仰によって希望が与えられます。御霊が注がれて、困難に挑む態勢が整えられます。そこでの重要なメッセージは、郷里への帰還困難を乗り越える知恵と忍耐を備えている者は、神の国への帰還困難()っても、くじけることがないということです

世の誤り」や「この世の支配者」(ヨハネ16:9,11)によって、打ち倒されたり、道を迷わせられたりしても、神の民は希望を失うことがありません。「ある時は雨で ある時は風で 困難はするけれど 何とも思いません」(新聖歌474番「主がわたしの手を」)。なぜなら、「そこに大路が敷かれている」からです(イザヤ書35:8)。その「聖なる道」は、主イエス・キリストの救いの御業によって整えられ、神の国へ通じるものとなりました。

神の民が歩む「大路」から、罪と死というつまずきの石が取り除かれました。「聖なる道」を(まも)ために、今も、神の(しもべ)たちが「新しく、鋭く、多くの()をつけた()(こっ)()」とされて、山々や丘を踏み砕いています(イザヤ書41:15)。あとのに登場する洗礼者ヨハネは、その(しもべ)たちの系譜に連なる、際立った人物でありました。ヨハネは荒れ野で、主の道を整え、その道筋をまっすぐにせよ」(イザヤ書40:3、マルコ1:3)と叫んで、神に「立ち帰る」よう訴えました。

それでは、郷里への「帰還困難」の前に心が沈み込んでいる人々に、どのような形で、主の先導する「復興計画」の〈(まぼろし)・ヴィジョン〉が示されたのか、読んでいきましょう。

 

Ⅰ 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び(おど)れ                   

イザヤ書35:1-2―― 

1 荒れ野よ、荒れ地よ、喜び躍れ

砂漠よ、喜び、花を咲かせよ

野ばらの花を一面に咲かせよ。

2 花を咲かせ

大いに喜んで、声をあげよ。

砂漠はレバノンの栄光を与えられ

カルメルとシャロンの輝きに飾られる。

人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る。

一読して、聖書中に類を見ないような原詩の美しさが伝わって来ます。類音や同義語がペアになって、口ずさみやすくなっています。荒れ野砂漠を通り抜け、都シオンを目指して旅を続ける巡礼者の「こころの歌」と言えましょう。

ここで、自然の変貌(へんぼう)ぶりに驚かされます。しかし、ほんとうに注目すべきは、天地創造の際、「光あれ」と言って(創世記1:3)、もろもろの被造物を造られた神の御業とその栄光であります。()めくくりに、「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る」とあります。造られたものは、造り主をほめたたえます。

神は人々の耳に聞こえるように、「花を咲かせ 大いに喜んで、声をあげよ」との御声を上げられます。それから実際に、「野ばらの花を一面に咲かせ」られます。まさに「万物は(ことば)によって成った(造られた)」(ヨハネ1:3)ということが、イザヤ書35章の序曲には描き出されています。

この詩の序曲は、単なる自然賛歌ではありません。自然全体が造り変えられることが、被造物の代表としての人間に対し、どのような関わりがあるのか、次第に明らかにされます。

 

Ⅱ 手が弱り、(ひざ)がよろめいて、心おののく                     

イザヤ書35:3-4―― 

3 弱った手に力を込め

よろめく(ひざ)を強くせよ。

4 心おののく人々に言え。

雄々(おお)しくあれ、恐れるな。

見よ、あなたたちの神を。

敵を打ち、悪に報いる神が来られる。

神は来て、あなたたちを救われる。」

自然の変貌に(いざ)われるように、人間とそれを取り巻くの回復が始まります。神は、回復がまことの回復となるように、の暗い部分に手を着けられます。

預言者イザヤに、「弱った手」、「よろめく(ひざ)」、そして「心おののく人々」の三つ組みを取り上げるように、神の啓示が(くだ)りました。いずれも人間の目には、「変わりようがない」と見られる厄介(やっかい)なものです。

弱った手」の回復から着手しているのは、的確です。主イエスも、片手の()えている人を癒やすときに、「手を伸ばしなさい」と言われました(マルコ3:5)。「手を挙げて私たちの心を引き上げよう 天にいます神に向かって」(哀歌3:41 私訳)と祈るようなときにも、手の働きが欠かせません。

詩編詩人は、神の憐れみが信仰者の「」に行き届くように、と祈りをささげています。

詩編90:17――

わたしたちの神、主の喜びが

わたしたちの上にありますように。

わたしたちの手の働きを

わたしたちのために確かなものとし

わたしたちの手の働きを

どうか確かなものにしてください。

なぜここに、「よろめく(ひざ)」が話題にされているかは、イザヤ書35章で取り扱われている主題に照らせば、すぐに分かるでしょう。「よろめく(ひざ)」のままでは、「帰還困難」の課題を克服することができません。一人ひとり、「よろめく膝を強く」されてこそ、巡礼の行進に加わることができます。

」は、身体の重要な基軸となっています。突然、神の御手が触れたとき、倒れ伏していたダニエルは、「手と膝をついて」、御前に姿勢を整えました(ダニエル書10:10)。

さて、当然触れるべき、世との暗い部分に関して、「見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる」と述べられています。

文中では、「復讐」または「報復」を意味する二つの語(ヘブライ語でナカムゲムール)が、「敵を打つ」、そして「悪に報いる」と分かりやすく意訳されています。「心おののく人々」を守り導くために、神が「敵を打ち、悪に報いる(であろう)」、それ故に、希望をもって待て、ということです。

(くす)しくも、次の主日には、「復讐」が鍵語になっているローマの信徒への手紙12:14-21を取り上げます。

自分が人や世の「」になっていなかったとしても、省みるべきことがあります。それは、相手への「復讐(心)」は罪を引き起こしやすいということです。

」は、神や隣り人を裏切るような「」を(おこな)っています。そこで、わたしたちがその人への罰として「」を行うなら、今度はわたしたちが罪を犯して、「復讐」の連鎖を生み出してしまいます。

そこで、「」を積み重ねている「」の力を押さえ込むには、どうすればよいのか、という難題が浮かび上がってきます。その点で、イザヤのメッセージはシンプルでありました。彼は力強く、その難題に立ち向かわれる神の到来を告げました――「見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる。

神の憐れみを受けて、「弱った手に力を込め よろめく(ひざ)を強く」したならば、ダニエルのように礼拝の姿勢をつくることです。「復讐」は、神にゆだねましょう。主イエスは、聖霊降臨後の「教会の時」には、「弁護者」なる聖霊が「世の誤りを明らかにする」、「この世と支配者が断罪される」と予告されました(ヨハネ16:7-11)。

神が敵を打ち、悪に報いる」ような裁きの時、暗黒の時代にも、「真理の霊」が、主イエス・キリストへのわたしたちの信仰を守ってくださいます。「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)。

 

Ⅲ 歩けなかった人が鹿のように躍り上がる        

イザヤ書35:5-7――

5 そのとき、見えない人の目が開き

聞こえない人の耳が開く。

6 そのとき

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。

口の()けなかった人が喜び歌う。

荒れ野に水が湧きいで

荒れ地に川が流れる。

7 熱した砂地は湖となり

乾いた地は水の湧くところとなる。

山犬(やまいぬ)がうずくまるところは

(あし)やパピルスの(しげ)るところとなる。

自然全体が造り変えられることが、被造物の代表としての人間に対し、どのような関わりがあるのか、ここで一挙に明らかにされます。

歩けなかった人が鹿のように躍り上がる」というように、健やかさを回復した人が神を見上げて、巡礼の備えをします。その準備を祝福するかのように、「荒れ野に水が湧きいで 荒れ地に川が流れる」というのです。「熱した砂地」や「山犬(やまいぬ)」のために、旅人が死の恐怖を感じることも、もはやありません。

神による御業、「見えない人の目が開き」、「聞こえない人の耳が開く」、そして「口の()けなかった人が喜び歌う」という霊的な回復については、あとの(並行する新約聖書箇所)で(とら)えることにしましょう。

 

Ⅳ 主に贖われた人々は帰って来る        

イザヤ書35:8-10――

8 そこに大路が敷かれる。

その道は聖なる道と呼ばれ

(けが)れた者がその道を通ることはない。

主御自身がその民に先立って歩まれ

愚か者がそこに迷い入ることはない。

9 そこに、獅子はおらず

(けもの)が上って来て襲いかかることもない。

解き放たれた人々がそこを進み

10 主に(あがな)われた人々は帰って来る。

とこしえの喜びを先頭に立てて

喜び歌いつつシオンに帰り着く。

喜びと楽しみが彼らを迎え

嘆きと悲しみは逃げ去る。

見よ、あなたたちの神を。神は来て、あなたたちを救われる」(イザヤ書35:4)との号令のもと、弱く貧しい者、倒れ伏している者、そして復讐」の連鎖に巻き込まれそうになっていた者が呼び集められました。

そこで、人々が巡礼者として、どのような道を進み、どこを目指すのか、が示されます。今から将来に向けてのことは、「見よ、ここに神がおられる」、そして、「神が来られる(であろう)」という神が巡礼者に寄り添っているので、何も心配ありません。「主御自身がその民に先立って歩まれ」ます。

自然が変貌するうちに、大地の真ん中に、都に通じる道が造り上げられました――「そこに大路が敷かれる」。「そこに」に、待ち伏せしている「獅子」や「(けもの)」はいません。道中、「雄々(おお)しくあれ、恐れるな」(イザヤ書35:4)との天からの呼びかけがこだまします。人を(おお)っていた嘆きと悲しみは逃げ去り」ます。

旅する者たちに、「喜び歌いつつシオンに帰り着く」と目的地が告げられています。エルサレムの丘、シオンを、神殿のある都を、目指します。

主の栄光に輝く都に帰り着いて、人々は何をするのでしょうか? 

そこで、主イエス・キリストを礼拝することです。イザヤは、苦難を越えて、弱く貧しい者をはじめ、多くの人々が、「あなたたちを救われる」神に出会うことを預言しています。主イエス・キリストこそ、人々の罪を背負い、死んでよみがえられた救い主であります。

喜び歌いつつシオンに帰り着く」人々が、「解き放たれた人々」または「主に(あがな)われた人々」と呼ばれています。それはまさに、主イエス・キリストの御前に進み出る準備ができていることを告げています。

先駆者たちにより主の御前に進み出る準備がなされたことを受けて、主イエスがこの世に現れました。そして、主イエスはイザヤ書35章の巡礼者たちを、ほんとうの意味で、「解き放たれた人々」または「主に(あがな)われた人々」に変えてくださいました。というのも、主イエスは、わたしたちを罪と死から解き放ち、わたしたちの罪の代価を無償で支払ってくださったからです。それは、神の恵みにより、イザヤが預言していたこと以上の執り成しを受けたということであります。

感謝をもってわたしたちは、主イエス・キリストの御前に、罪と死から解放され、何の善行もなく救われていることを告白します。たとえわたしたちが、暗闇と死の陰に座していた(ルカ1:79)としても、「そのとき」、「そこで」(イザヤ書35:5,6,8,9)、礼拝への道が開かれます。なぜなら、主イエス・キリストによって、「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見る(であろう)」(イザヤ書35:2)との預言が成し遂げられているからです。

 

Ⅴ 行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい 

ルカ福音書7:18-22――

18 ヨハネの弟子たちが、これらすべてのことについてヨハネに知らせた。そこで、ヨハネは弟子の中から二人を呼んで、19 主のもとに送り、こう言わせた。「来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか。」 20 二人はイエスのもとに来て言った。「わたしたちは洗礼者ヨハネからの使いの者ですが、『来るべき方は、あなたでしょうか。それとも、ほかの方を待たなければなりませんか』とお尋ねするようにとのことです。」 21 そのとき、イエスは病気や苦しみや悪霊に悩んでいる多くの人々をいやし、大勢の盲人を見えるようにしておられた。22 それで、二人にこうお答えになった。「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい。目の見えない人は見え足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を(わずら)っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。」

 洗礼者ヨハネは、領主ヘロデ(ヘロデ・アンティパス 434年)の陰謀によって投獄されました。ヨハネは、「これらすべてのこと」、すなわち、人を癒やしたり生き返らせたりしたこと(ルカ7:1-17)を聞いて、心が騒ぎ立ちました。そこで、弟子二人を主イエスのもとに遣わしました――「来るべき方は、あなたでしょうか」。

 それに対し主イエスは、獄中のヨハネに伝達するよう、使者に回答されました――「行って、見聞きしたことをヨハネに伝えなさい」。

ヨハネの弟子二人(証人として)は、「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き……耳の聞こえない人は聞こえ……」ということを目撃しました。それと共に重要なのは、イザヤ書35:5-6の預言が主イエス・キリストの御業によって成就していることでありました。すなわち、神の救いの計画の中で、主イエスが神の言葉を実現していたということです。

ついでに言えば、主イエス・キリストの御業はしばしば、旧約の預言をはるかに超えています。ここでは、ヨハネに伝達することとして、「死人たちが生き返らされている」(ルカ7:22 直訳)ことが付け加えられています。これは、イザヤ書35章には記されていなかった、新しいことです。この主イエスの御業は明らかに、主ご自身が「死んでよみがえられた」メシアであることを指し示しています。

今、ヨハネの弟子たちは問いかけられています――「あなたがたは、来るべき方が主イエス・キリストであると証言するか、イエスがメシア・救い主であると信じるか」と。弟子たちが「見聞きしたこと」をヨハネに伝えると同時に、「わたしたちはメシアの御業を証しします。わたしたちはイエスが救い主であると告白します」と公に言い表すかどうかが問われています。

もし、獄中にいるヨハネが、弟子たちから主イエス・キリストについての信仰告白と証言を聞かされるならば、それはまさに、「貧しい人(陰謀により人生を台無しにされた(みじ)めなヨハネ)は福音を告げ知らされている」ことが実現したことになります。神の国への「帰還困難」に陥っている捕囚の民にも、人(預言者・弟子)を介して、福音は宣べ伝えられます。

恐らく、洗礼者ヨハネはただちに、「それとも、ほかの方を待たなければなりませんか」という不安と、領主ヘロデへの復讐心から解き放たれたことでしょう。ヨハネの抱え込んでいた闇の部分にも、光が()し込みました。

弟子たちはヨハネの前で証しし、伝えました。ヨハネは伝えられたことを、信仰をもって受け取りました(Ⅰコリント11:23)。弟子たちの語った、彼らが「見聞きしたこと」は、「聖書に書いてあるとおり」(Ⅰコリント15:3)のことでありました。

自分は常に「主のもとに」(ルカ7:19)置かれているという洗礼者ヨハネの確信は、誤りではありませんでした。この地上で、郷里(ユダの山里 ルカ1:39)へも、また神の国へも、最も「帰還困難」だったその一人、洗礼者ヨハネ、メシアのための道備えに生涯をささげたヨハネ、彼は「そこに大路が敷かれる」(イザヤ書35:8)という驚くべき恵みにあずかりました。            Ψ

 

 

 

 

 

 

 

今日のひと言

 

イザヤ書35章は、とても美しい詩です。

一面に咲いている野ばらの花やシャロンの輝きに、心が癒やされます。

加えて、主イエス・キリストの福音に照らすと、

イザヤ書35章の一つ一つの言葉の奥深さが味わえます。

一週間の旅路を終え、礼拝に「帰って行く」とき、読むことをお勧めします。

帰って行くところが備えられているのは、なんと幸いなことでしょう。

 

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〈説教の要約〉

2021年 10月17日                            

旧約聖書 詩編78編 32節~33節

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章1節~15節

     「あなたがたを導いて真理を悟らせる霊」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あなたがたをつまずかせないために   ……ヨハネ16:1-4a             

Ⅱ あなたがたの心は悲しみで満たされている 

                       ……ヨハネ16:4b-6

Ⅲ わたしを信じないことが罪である      

              ……ヨハネ16:7-11 詩編78:32-33   

Ⅳ 真理の霊が来る           ……ヨハネ16:12-15         

 

主イエスは訣別(けつべつ)説教を通して弟子たちに闇の支配が次第に増していくということを予告されました。暗い()く末の中に、くっきりと主イエスの十字架の道が浮かび上がって来ました。同時に、弟子たちの上にも艱難(かんなん)が降りかかって来るということが明らかにされました。

問題は、弟子たちはじめ主イエスにつき従っている人々が、迫り来る艱難に対し、覚悟を決めることでありました。それは、勇気を振り(しぼ)って頑張りなさいということではありません。

大切なのは、主イエスを十字架につけようとする人間の(あく)(ぎょう)とその罪深さから目を()らさないようにすることです。つまり、主イエス・キリストの十字架の前に、(あら)わになる人間の姿を見届けるということです。闇の支配に中に置かれている信仰者、主イエスに従う者に求められているのは、そのことです。

言い換えれば、十字架の(もと)で、神と人間の関係を考えよ、ということです。罪を悔い改める者に、神は無償で愛を差し出されます。立ち帰ってくる者を、神は赦されます。

そうなるように、次第にエスカレートしていく神の敵による妨害、すなわち、❶憎悪❷迫害❸会堂追放❹殺害という困難を乗り越えてゆかねばなりません。勇敢に立ち向かうのではありません。主イエスの訣別説教で予告された神の計画が今や実行に移されていることを、見て信じることです。主イエスの(かたわ)らにいた弟子たちや女性たちは、どのように振る舞ったのでしょうか。わたしたちの立場からすれば、実際のところ、彼らがどうなったかを知ることです。

そこでまずは、十字架直前から聖霊降臨へと至る中で、何が起こるのか、予告してくださった主イエスの御言葉に耳を傾けましょう。主イエスは、弟子たちと共にわたしたちが心備えをして、闇の現実を()(とお)し、まことの光を(あお)ぎ見ることができるように導かれます。 

 

Ⅰ あなたがたをつまずかせないために 

ヨハネ福音書16:1-4a――

1 「これらのことを話したのは、あなたがたをつまずかせないためである。2 人々はあなたがたを会堂から追放するだろう。しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る。3 彼らがこういうことをするのは、父をもわたしをも知らないからである。4a しかし、これらのことを話したのは、その時が来たときに、わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである。」

これらのことを話した」とは、主イエスと共に「あなたがた」が、一部のユダヤ人はじめ世の人によって❶憎まれ❷迫害される(ヨハネ15:18,20)ということを指しています。いわば、「あなたがた」が主イエスの巻き添えを食うということですから、(面食らわないように)主イエスより情況説明が加えられたのです。しかし、それは単なる「()(なぐさ)み」ではありません。

闇の勢力の反抗は、❶憎悪⇒❷迫害に引き続いて❸会堂追放⇒❹殺害へと突き進むということが明らかにされます。主イエスはそのように御自分が真実を語るのは、「あなたがたをつまずかせないためである」と、その目的を示されました。

あなたがたを会堂から追放する」とは、ヨハネの礼拝共同体はじめ、初代教会の信仰者にとって過酷なことでありました。ユダヤ教の「会堂」は地域社会の中で、宗教ならびに日常生活の中心でありました。キリストの教会に属する人々がその信仰告白の故に「会堂」に立ち入り禁止になることは、その地域社会での暮らしが極めて困難になることを意味していました。「迫害」の実態とは、このようなものでした。

そして、息つく(ひま)もなく主イエスは、「しかも、あなたがたを殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」と語られました。「殺す者が皆(すべて)」というのは、恐ろしい言葉です。つまり、「あなたがた」の命を(ねら)っているのは、そこかしこに(ひそ)んでいるということです。

しかも、(誰がそうなのか正体不明の)彼らは、「自分は神に奉仕している」と勘違いしていました。それだけに、彼らは「迫害」に熱心になります。獲物を()るかのように、キリストの教会の人々を追及し排除しようとします。パウロは、哀れな彼らの姿を、しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」(ローマ9:31)と描き出しています。

前述の通り、闇の勢力反抗の全体像を表した主イエスの意図は、「あなたがたをつまずかせないためである」と言います。わたしたちには、罪に誘惑され、つまずいてしまう弱さがあります。迫害の激しい時代には、尚更(なおさら)のことでしょう。

そのつまずいてしまう人間の弱さを見据えたうえで、「つまずかせないため」と、主イエスがおっしゃられるところに、限りない神の愛(ヨハネ13:1)と忍耐があらわされています。十字架を担っておられる道行きにおいても、主イエスはわたしたちがつまずかないよう見守っておられます。

決してつまずかないという完璧(かんぺき)さを求めるのではありません。むしろ、つまずきは避けられない」(マタイ18:7)との教えを受け入れるのです。大切なのは、主イエス・キリストの御言葉と御業を信じることです。「わたしが語ったということをあなたがたに思い出させるためである」というように、キリストの言葉を想起し、そこに立ち帰るのです。

そうすれば、堅く信仰が保たれます。そこには、弱く貧しい者同士が「わたしを信じるこれらの小さな者の一人がつまずかないように(マタイ18:6)、真剣に祈り合う交わりが生まれます。訣別説教が行われているのは、共同の食卓です(ヨハネ13:2)。

 

Ⅱ あなたがたの心は悲しみで満たされている

ヨハネ福音書16:4b-6 主イエスの言葉――

4b 「初めからこれらのことを言わなかったのは、わたしがあなたがたと一緒にいたからである。5 今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしているが、あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない。6 むしろ、わたしがこれらのことを話したので、あなたがたの心は悲しみで満たされている。」

今語られるべきこととして、〈主イエス〉ならびに〈弟子たち〉に関わることが挙げられています。

今わたしは、わたしをお遣わしになった方のもとに行こうとしている。〈主イエス〉

あなたがたの心は悲しみで満たされている。〈弟子たち〉

①と②による構成・内容からも、「十字架の(もと)で、神と人間の関係を考えよ」ということが分かります。

一方、「あなたがたはだれも、『どこへ行くのか』と尋ねない」とありますが、他方、主イエスは「この世から父のもとへ移る御自分の時が来たこと」(ヨハネ13:1)を悟っておられました。後でまた、「今、わたしは世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)と語られました。〈主イエス〉の御言葉に、〈弟子たち〉が耳を傾けるというのは、神と人間との関係の基本です。

最初に、①について――

御子イエス・キリストは父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来られました。そして御子は、十字架・復活・昇天を通じて、父なる神の栄光を現されました。そうしてやがて、父のもとへ戻って行かれます。その大きな輪の中に、「わたしは道である」(ヨハネ14:6)というキリストの「」が描かれています。

これに対して、弟子たちは、主イエスがもはや自分たちと一緒にいなくなるということから、主イエスが捕らえられて殺されるということは、次第に分かってきたと思われます。

しかし、十字架→死に打ち勝つ→復活→神のみもとへという大きな輪の中で、ここら(あた)が、まだピンと来ていなかったようです(熊澤義宣)。神の大いなる計画を信じる、()んだ「霊的な目」を、弟子たちはまだ持ち合わせていなかったのです。

次に、②について――

ここら(あた)までの弟子たちの理解では、不十分です。十字架で死んだ後に、「父のもとに行かれる」お方、すなわち、栄光に輝く救い主として、彼らはイエスを信じてはいません。薄暗がりにたたずんでいる弟子たちには当然、「悲しみ」が押し寄せて来ます。

問題は、「あなたがたの心が(さわ)がされる」(参照:ヨハネ14:1,27)ような状況と(あい)()って、「あなたがたの心は悲しみで満たされている」となると、まさに主イエスとの関係が(こわ)れかねないということです。自分が否定されているという思いが強いと、立ち直りのきっかけを失います。(くじ)けてなりません。

悲しんでいても、神からの慰めを待ち望むことです。そうすれば、「あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる」(ヨハネ16:20)という大転換を告げる、主イエスのメッセージが、すっと心に入って来ることでしょう。

 

Ⅲ わたしを信じないことが罪である          

ヨハネ福音書16:7-11 主イエスの言葉――

7 「しかし、実を言うと、わたしが去って行くのは、あなたがたのためになる。わたしが去って行かなければ、弁護者はあなたがたのところに来ないからである。わたしが行けば、弁護者をあなたがたのところに送る。8 その方が来れば、罪について、義について、また、裁きについて、世の(あやま)りを明らかにする。9 罪についてとは、彼らがわたしを信じないこと、10 義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること、11 また、裁きについてとは、この世の支配者が断罪されることである。」

ここで、主イエスは、弟子たちがつまずかないように、そして、「その悲しみは喜びに変わる」という希望を持って前進できるように、再び聖霊について説き明かされました(ヨハネ14:15-17,2615:26)。主イエスが御父のもとに去って行かれても、聖霊、すなわち、「弁護者」(パラクレートス 原意は「(かたわ)らに呼び寄せる」)が信仰者のところに遣わされます。「わたしが行けば」と、主イエスは「弁護者」による大いなる慰めを保証してくださっています(他にヨハネ15:26)。

信仰の道を照らし出す聖霊

信仰の観点から、聖霊の働きを、大きく二つに分けて言うと、下記の通りになります。

一つは、御子イエス・キリストは父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来て、父のもとへ戻って行かれるという大きな輪が作られる中で、聖霊がこの世に遣わされ、終末に向けての歩みが始まったということです。つまり、終わりの時の到来に向けて、聖霊の導きのうちに教会が形成され、神の民が御国をめざすようになりました。

もう一つは、「そして、(ほのお)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」(使徒2:2)との記述にあるような、個々人への聖霊の働きかけであります。聖霊はまさに、わたしたちを「傍らに呼び寄せ」、各自に「それぞれ異なった賜物」(ローマ12:6)を分け与えます。そうして、一人ひとりに内在する恵みの賜物が共に働いて、一つの体なる教会が建てられていくのです。

世の不信仰を暴き出す聖霊

さてここで、主イエスは……信仰者ではなく……」(ヨハネ16:8,11)との関係で、聖霊・「弁護者」が将来、どのような役割を果たすのか、示しておられます。信仰者は、この世の中を歩んで行きます。わたしたちが神の敵について知っておくことは、「」がもたらす苦難や迫害を乗り越えていく上で大切です。

そして最も重要なのは、聖霊の働きによる、①と②と③裁きという「三面鏡」を通じて、主イエス・キリストの御業の勝利が写し出されるということです。憎悪⇒迫害⇒会堂追放⇒殺害へと突き進んだ闇の勢力の反抗に、終止符が打たれます。それは、終わりの時が満ちて、主イエスがわたしたちと出会うために再び来られるというしるしとなります。

理解の(うと)いわたしたちに、「弁護者」なる聖霊は、何が①であり、②であり、③裁きであるのかを教えてくださいます。

 

罪についてとは、彼ら(迫害者・世の人々)がわたしを信じないこと ヨハネ16:9 

義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること ヨハネ16:10 

裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること ヨハネ16:11 

 

罪についてとは、彼ら(迫害者・世の人々)がわたしを信じないこと ヨハネ16:9 

これが、第一に挙げられているのは当然でありましょう。というのは、聖霊は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を思い起こさせることを本分(ほんぶん)としているからです。

偽の信仰はメッキがはがされます。「」(アガペー 神のを源泉とするわたしたちの)において偽りがあるかどうか(ローマ12:9)も、聖霊から教えられようとする人は健全です。自己評価は「過大」になりがちです。

詩編78:32-33――  

32 それにもかかわらず、彼らはなお罪を犯し

驚くべき()(わざ)を信じなかったので

33 神は彼らの生涯をひと息のうちに

彼らの年月を恐怖のうちに()とうとされた。

憐れみ深く、罪を(あがな)われる」神(詩編78:38)から離れていく人々の姿が、「彼らはなお罪を犯し 驚くべき()(わざ)を信じなかった」というように描かれています。聖霊は、そのような人の上に神の怒りの炎が燃え(さか)っていることを明らかにします。

義についてとは、

わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなること ヨハネ16:10 

キリストが見えなくなることが、どうして「」であるのか、分かりにくいことでしょう。

ローマの信徒への手紙4:25――

イエスは、わたしたちの罪のために死に渡され、わたしたちが義とされるために復活させられたのです。

イエスは復活させられた」ことに伴って、「わたしたちが義とされる」と記されています。

 

主イエス・キリストが死んで、陰府に下って、「見なくなる」で、終わりではありません。「イエスは復活させられた」のです。主イエス・キリストが罪と死に打ち勝たれたことによって、神が勝利したことが現されました。御子の御業によって、神の栄光が輝きました。それはまことに「(ただ)しい」ことでありました。

聖霊はわたしたちに、キリストの勝利に基づく神の「」を教えます。わたしたちに、この世の不義や偽善と戦う力を与えます。

裁きについてとは、この世の支配者が断罪されること

ここできちんと、なぜ、「この世の支配者が断罪される」のか、理解することです。そのために、信仰者が助力することがあるのか、ないのか、不明では困ります。

ここで言わんとしていることは、聖霊が、十字架の死を()げられ、罪と死を滅ぼされた主イエス・キリストを、わたしたちに余すところなく、伝えるということです。それだけで、「この世の支配者が断罪される」のか、と不安を覚えられるでしょうか。

主イエスが、「弁護者」なる聖霊の働きによって、そうなると宣言されているのですから、聖霊に依り頼むことです。聖霊から、わたしたちの行いについて指示があれば、信仰をもってそれに従えばよいのです。その時その時、聖霊が「この世の支配者」への対応を示してくださることでしょう。

 

Ⅳ 真理の霊が来る                      

ヨハネ福音書16:12-15 主イエスの言葉――  

12 「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなたがたには理解できない。13 しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。14 その方はわたしに栄光を与える。わたしのものを受けて、あなたがたに告げるからである。15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものである。だから、わたしは、『その方がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる』と言ったのである。」

主イエスは聖霊の働きを的確にまとめておられます。今から将来へという流れが強調されています。

〈片や、神の敵によって、憎悪迫害会堂追放殺害という困難が大波のようにいや増して来るであろう。

片や、「わたしのものを受けて、あなたがたに告げる」という務めを担った「真理の霊が来る」であろう。〉

あなたは、わたし〈主イエス・キリスト〉を信じるか、たとえ迫害によってつまずきそうになっても、弱さを隠さないで、あなたはわたしに助けを求めるか、ということです。

神の敵の作戦は見え()いています。「真理の霊が来るのが、ちょっと遅くはありませんか」と、信仰者の心を()さ振ってきます。しかし、忍耐して動じなければ、世の(あやま)りは明らかになります(ヨハネ16:8)。

その方真理の霊・聖霊)がわたしのものを受けて、あなたがたに告げる」と、主イエスが繰り返されているように、主イエスと聖霊との密接な連係が、ここでの要点となります。主イエスは「語る」または「告げる」(ヨハネ16:13,14,15)という告知の役割を聖霊に託されました。そして、聖霊は「真理」を告げる務めを通して、「わたし〈主イエス・キリスト〉に栄光を与え」ます。わたしたちは、神の敵の偽りの光ではなく、聖霊が輝かせるという主イエス・キリストの「栄光」を待ち望むのです。

今から将来へと向けて、わたしたちが信仰をもって、聖霊に期待を寄せるべき点、二つを挙げましょう。

わたしたちに寄り添ってくださる聖霊なる神への期待①――

あなたがた(弟子たち)を導いて真理をことごとく悟らせる。ヨハネ16:13

もともと、わたしたちの内に「真理」があるのではありません(Ⅰヨハネ2:4)。混沌(こんとん)とし時代にあって、エレミヤは主は真理の神」(エレミヤ書10:10)と宣言しました。わたしたちは神から「真理」を教えていただく者であります。「真理の霊」がわたしたちに勧められることを通して、わたしたちは(きよ)められた、正しい生活を送るようにしなければなりません(エフェソ4:24)。

真理の霊」なる聖霊は、「何一つ加えることも、減らすこともなく」(申命記4:2、ヨハネ黙示録22:18-19)、ひたすら「わたし〈主イエス・キリスト〉のものを受けて」、宣べ伝えます。わたしたちに求められているのは、「霊に燃えて」(ローマ12:11)、飢え渇いたように、御言葉を受け取ることです。「真理の霊」がわたしたちに伝えることを、そのまま受けるのです(Ⅰコリント11:23)。「悟る」コツは、自分の賢さにではなく、飢え渇きとへりくだりにあります。

わたしたちに寄り添ってくださる聖霊なる神への期待②――

これから起こること(複数形)をあなたがたに告げる。ヨハネ16:13

弟子たちの、今から将来へは、「真理の霊」の到来と臨在に掛かっています。終わりの時に向けて、もろもろの「これから起こること」が聖霊によって告げられます。

語る」または「告げる」聖霊が、主イエスと密接な連係を取りながら、わたしたちに「これから起こること」を告げます。その目的は、将来を安心して待つというよりも、むしろ、わたしたちがつまずかないで、主イエスの教えられた道を歩むということです。

そしてまた、ある信仰者が聖霊に満たされるならば、預言の賜物を受ける(ローマ12:6)こともあり得ます。そうして、信仰に応じて預言するならば、「キリストの体」(ローマ7:4)全体に益するものとなります。一つの枝に「預言」という実が結ばれて、ぶどうの木は熟成します。「キリストの体」が造り上げられます。

十字架の道を見据(みす)えながら、主イエスは弟子たちに、憎悪⇒迫害⇒会堂追放⇒殺害の嵐が巻き起こると予告されました。そして、主イエスから「聞いた」ことを、聖霊がわたしたちに語り、「これから起こること」を告げます。天からわたしたちのもとに、御子が遣わされ、その後、聖霊が遣わされました。

真理の霊はあなたがたを導くであろう。ヨハネ16:13 直訳――

主イエス・キリストから聖霊へのバトンタッチは、完璧(かんぺき)になされています。聖霊に案内されながら一つの道」(エレミヤ書32:39)を進んで行きましょう。聖霊によって、神の国に向けて、あなたがたの「」は整えられ()かれています。

Ψ

 

 

 

 

 

今日のまとめ

 

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。ヨハネ14:18

           *

――主イエス・キリストから聖霊へのバトンタッチのあざやかさ――

その連係が、速やか(実質、復活日から聖霊降臨日まで50日)で、親しみに満ちているのは、

困難に遭っても、救われた者の信仰が健やかに保たれるためでありました。

御父・御子・御霊の交わりによって、信仰は守られています。

そして、救われた者が共に働き、多くの実を結んで、教会を造り上げるように導かれます。

そこで、まだ救われていない人々のために、聖霊に導かれて、伝道に励むのです。

           *

この世には、罪と死というつまずきの石が潜んでいます。

主イエスは聖霊と共に、人々がつまずかないように正しい道を教え、

そして、迷っている者や倒れている者を助けてくださいます。

 

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202年 10月10日 

旧約聖書 箴言 3章27節

新約聖書 ガラテヤの信徒への手紙 6章1節~10節  

    「教会でのクリスチャンの生き様」 

                  三浦久光役員

 

本日は、ガラテヤの信徒への手紙6章から御言葉を取りつがせていただきます。

ガラテヤの信徒の手紙最終章で説かれているのはわれわれクリスチャンの生き様であるように感じます。我々が生きる上で特徴的な事象について考察したいと思います。

まずはガラテヤ61節から10節で説かれてるのは、5章からの続きで、5章で使徒パウロは、「愛をもって互いに支え合うことによって、律法全体は全うされる」(ガラテヤ513節-14節)と説いています。そして、御霊によって歩みなさい(ガラテヤ518節、25節)とも説いています。

つまりは、イエス・キリストの神が、罪に陥ってしまった人を、柔和な清い心で(ただ)していき、互いに愛をもって仕えるというキリストの律法を成就させるということであると私は考えます。

 

このガラテヤ6章で問われているのは、我々クリスチャンがあやまって罪に陥ってしまった兄弟姉妹にどのように接していけばいいのか、まさにここ茅ヶ崎香川教会に私がきてからずっと続いている問題に目を向けさせるような聖書箇所であると私は捉えています。すでに罪の意識にさいなまれている兄弟姉妹にはキリストの愛をもって接していくことは、使徒パウロが聖書で説いているとおりで何ら問題もないでしょう。

しかしながら、自らが罪に陥ってしまった意識もなく、更には、牧師兄弟姉妹批判を無意識無自覚で繰り返す兄弟姉妹に、必要なものは何でしょうか? 

罪に陥ってしまって罪意識にさいなまれている兄弟姉妹には、言葉を選び、さらに負担となるような言葉を避けながら主の励ましと戒めの中、兄弟姉妹の立ち直りを教会員全員で祈り合うことが肝要であることに間違いはないでしょう。

しかしながら、前述したように罪意識のないあるいは希薄な兄弟姉妹に対して、共に祈るだけでは、その兄弟姉妹のもつ罪意識を取り去ることはは、はなはだ難しいことではないでしょうか?

使徒パウロは、自分自身も誘惑に陥らないように気をつけなさい(ガラテヤ61節)と言っています。誰かが罪を犯したときにその人を見下し、ののしるのではなく、むしろ自分を同じような罪に陥るような罪人であると認識しながら神への畏敬の念を忘れることのないように努めなければなりません。そして、「互いに重荷を負いなさい」(ガラテヤ62節)とも言っています。

箴言 3章27節には、次のように書かれています。

施すべき相手に善行を拒むな

あなたの手にその力があるなら。

一匹狼のような存在では主キリストの体である教会での信仰生活は、そもそも成り立ちません。自分自身の悩みや苦悩を教会員ともども解決していける組織こそ、教会なのではないでしょうか。一人で孤立するのでもなく誰かに依存するのでもなく、「互いに重荷を負い合う」……そういう関係性にあるのが、我々が所属している教会なのではないでしょうか?

私たちは非常に自分勝手でうぬぼれに満ちています。このような優越感とも偉ぶる高まりともいえるものが、私たちを教会から孤立させ教会から離れさせる要因になるのではないでしょうか? ですから、教会を離れてしまっている兄弟姉妹に問いたいのは、あなたは本当に主イエス・キリストの福音に触れて神に導かれたのか、それとも、ファッションのように一時の熱病のような状態で洗礼を受けてしまったのか、ということです。そのことを今一度、自分自身で振り返ってもらいたいのです。

自ら過ちに気づき、教会へ戻る決断をした兄弟姉妹を責めるような人は、少なくともここ茅ヶ崎香川教会にはいません。ただ自らの過ちに気づきながらも教会へ帰ることのない偽クリスチャン、あえて言わせてもらいますが、偽クリスチャンには天からの業火が待っているだけだと聖書を読んでいる人ならばすぐに分かるはずです(参照:ガラテヤ68節、Ⅱコリント1115節)。

今日のキリスト教会が少なからず教会員の減少などに落ち入るのは、偽クリスチャンでしかない教会員を正当なクリスチャンとして扱ってしまった教会も機能不全な状態が少なからずあるのではないでしょうか? 

個々様々な賜物が主から与えられております。それをしっかり生かす、あるいは、腐らせる、どれも人間の所行でしかありません。御霊によってあたえられた賜物を生かしながら、「愛をもって互いに支え合う」……こういうクリスチャンに、今こそ立ち返るべきなのです。

 また、ガラテヤ66節以降においては、パウロは信仰を持っている人たちに対して、つまりは、洗礼を受けた今を生きる我々に対しては、物質的にも善を行って生きるように説いています。御言葉を教えられる人は、教える人と全ての良いものを分かち合いなさいとも言っています。御言葉の教えに専念している者というのはこの教会で言えば間違いなく牧師でしょう。パウロはコリントの信徒への手紙においても何回かにわたって聖書を解き明かす者、すなわち、今で言う牧師に対し、会堂で語る者の支えるのが共同体である教会員であると説いているのです(Ⅰコリント91節-12節)。であるならば、昨今「今日の説教はよかった。いや、いまいち、よろしくなかった。僕はこう考えるが、牧師の話は違う気がする。」などと言っている教会員は、本当にクリスチャンなのでしょうか? そういう人が、主イエス・キリストによって救われ、今を生きる希望に満ちたクリスチャンと言えるのでしょうか? 私はそう思うことはできません。

牧師を人間的に批判すること、それ自体はあえて構わないと言いますが、説教後において牧師の語り口あるいは聖書解釈を批判すること、こういった暴挙をあえて受け入れていたがために、茅ヶ崎香川教会では何度も繰り返し牧師を悲観し教会を離れるといった、偽クリスチャン(あえて言いますけれども)を増長させてしまったのではないか、と私は推察いたします。

 また言えることは、御言葉を教えている人は、この世的にはむしろ弱い立場にあるのではないかと言うことです。アメリカなど多くの信徒を抱える教会の牧師はものすごく大きな政治的影響力や金銭的なパワーを持つ人が少なくありません。しかしながら、政教分離の世を馬鹿正直なまでに徹底している今の日本社会において聖書の教えを説くことを生業としている人々、牧師や神父は非常に立場の弱い存在であることを、どれくらいの人々やクリスチャンが理解しているのでしょうか? キリストの福音をのべ伝えることで多くの富があつまるでしょうか? あるいは大きな権力を得ることができうるでしょうか? 答えはいずれもいずれも否です。むしろ、この世の中ではキリストの福音を伝えれば伝えるほど貧しくなっていくのではないでしょうか?

だからこそ、キリストの福音を伝え、教えを説く者を支えるのが、クリスチャンなのではないでしょうか? 聖書(ガラテヤ67節)にこうあります。

「思い違いをしてはいけません。神は、人から侮られることはありません。人は、自分の蒔いたものを、また刈り取ることになるのです」。

パウロは分け合う行為のことを「種を蒔く」ということに置き換えているのです。また聖書(ガラテヤ68節)の中で、

「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取り、霊に蒔く者は、霊から永遠の命を刈り取ります。」

と、言っているのです。私たちが自分のことしか考えずに、自分のためだけに財を用いるのであれば、それにふさわしい報い・裁きを受けます。

しかし、御霊についての事柄について自分自身や自分の宝を費やせば、永遠の命を刈り取ることが約束されています。

「たゆまず善を行いましょう。飽きずに励んでいれば、時が来て、実を刈り取ることになります。」

(ガラテヤ69節)

御霊のために蒔いても、その結果がすぐに見いだせるとはかぎりません。勿論すぐに実感できるようなこともあるでしょうが、期間がかかることがほとんど全てといえるかもしれません。だからこそパウロは忍耐が必要だと説いているのです。失敗をおそれずに失望することなく行いなさい。善を行い続ける者には、遅くても必ず刈り入れの時は来るのです。特に今の日本社会を生きる我々にとっては、なんとも慰みと慈愛に満ちた神からの教えを、パウロは2000年も前に説いているのです。

ですから、私たちは機会あるごとに教会の全ての人たちに対して、特に信仰上の家族である兄弟姉妹に対して善を行うことに専念しなければなりません(ガラテヤ610節)。お互いに重荷を負い、互いに愛を持って支え合い、そして善を行うことが必要なのです。社会正義や多くの難民のために労力を強いるのではありません。

 

お互いにキリストの福音に目覚めさせられ、互いに助け合う家族、まずは、教会の中で生きる我々クリスチャン同士が支え合うことの本質が、パウロによって説かれているのです。

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〈説教の要約〉

2021年 10月3日                             

旧約聖書 ヨブ記 31章32節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章9節~13節

      「互いに相手を優れた者と思いなさい」  

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 愛には偽りがあってはなりません ……ローマ12:9-10            

Ⅱ 霊によって熱心に、怠らず     ……ローマ12:11

Ⅲ 喜べ、耐えよ、祈れ              ……ローマ12:12  

Ⅳ 貧しさを自分のものとして        

                ……ローマ12:13 ヨブ記31:32          

結 

 

ローマの信徒への手紙12章-15章、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、の第三回目です。

わたしたちの教会には、「新たに造りかえる洗い」(テトス3:5)、すなわち、洗礼を受けた信仰者が()し集められています。そして、わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ローマ12:6)という一人ひとりが、各自の働きをしています。そうして、わたしたちの教会は、多くの部分がつながり一つの「キリストの体」(ローマ7:4)となって形成されています。

パウロは、「わたしたちの一つの体」(ローマ12:4)において、わたしたちが「慎み深く」自己評価しながら(同上12:3)生活していくよう勧めています。そのために、ひたすらに「神の憐れみによって」(同上12:1)、わたしたちが導かれるというのが、基本です。とは言っても、時に、「自分を過大に評価して」(同上12:3)というように、自分に(すき)が生じ、高ぶって人を見下すことが起こります。兄弟姉妹の間に、争い対立無関心などが生まれます。また自分自身も気が(ゆる)み、神の憐れみによる勧めをおろそかにしてしまいます

そこで、立ち帰るべきは、主イエス・キリストの十字架にあらわされた神の「」(アガペー ローマ5:5,88:35,39)であります。それによって、死の恐れと罪の誘惑に打ち負かされた人々が助け出されました。

主イエス・キリストの「」を信じ、それによって善い行いに励むとき、この世を生きる困難さや自分を過大評価する尊大さは克服されます。それらの悪が完全に消え去らないとしても、新たに造りかえる洗い」によって日々(きよ)められ、神の国に向かって進んでゆくことができます。

ひたすらに慎み深く生きることから始まって、救われた者の生活についての勧めが展開されてゆきます。どうか、一人ひとりの罪深さや人間同士のいさかいを乗り越えて、枝々の連なるまことのぶどうの木、健やかな「キリストの体」が造られていきますように

 

Ⅰ 愛には偽りがあってはなりません           

ローマの信徒への手紙12:9-10――

9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善から離れず、10 兄弟愛をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい。

 「愛には偽りがあってはなりません」……主イエス・キリストの十字架にあらわされた神の「」(アガペー)から、それを信じ受け容れるわたしたちの「」(アガペー)へと展開されています。わたしたちも「」の人として立ち上がらねばなりません。「」をもって、他者が(かか)えている困難のために、祈りましょう

」がキリスト者の生活の規範であることは、誰しも知っているでありましょう。問題は、どのようにその「」をわたしたちが、この世や隣り人の間で実践していくか、です。そこでパウロは、「善から離れ」ないように、人を「愛する」ことであると、助言しています。

」(アガペー)を実践する人は、見返りを求めません。無償でその「」を、出会った人に差し出します。相手を()り好みしてはなりません。主イエス・キリストが「貧しい人、体の不自由な人、足の不自由な人、目の見えない人」(ルカ14:13)への伝道を重んじられたことに(なら)です。

その人たちが(あなたに)お返しができないことは、終わりの時に、あなたが報われる」(直訳:あなたにお返しされるであろう)こと(ルカ14:14)によって、大転換が起こります。その人たち」に恵みが、将来あなた」にも恵みが……これぞまさに、「ウィンウィン」(Win-Win)の関係です。神の恵みによって、「あなた」と、出会った「その人たち」との間に、」(アガペー)の関係が築かれます。

愛には偽りがあってはなりません」とは文字通りには、「は仮面をかぶったようなものであってはならない」ということです。うわべの愛やつかの()の愛と、まことの」(アガペー)とは異なります。もし人が偽りの愛をもって隣り人に接するならば、結局、その相手の人は裏切られる羽目(はめ)(おちい)でしょう。

ここでパウロが最初に勧めた通り、わたしたちの「」の源泉が、主イエス・キリストの十字架の「」(アガペー)になっているか、慎み深く」自己評価する人は幸いです。そのようにへりくだる人には、主イエス・キリストの御言葉と御業をすべて思い起こさせ、悟らせる(ヨハネ14:2616:13)という聖霊の助けが与えられます。

悪を憎み、善から離れず」……先に語られた「」に続いて、「」と「」とが挙げられています。愛が偽りのものとならないように、「悪を憎み、善から離れ」ないようにしなさい、ということです。逆に言えば、「愛に偽りがある」と感じるとき、「」から引き離され、「」に引きずり回されていないかどうか、(かえり)みるということになります。

例えば、誰かを「愛する」ことに伴って、周りの人(例えば誰かと親しい人)への「(しっ)()心」が芽生えることは、よくある事です。そして、「(しっ)()心」の対象となる人に、()われのない「意」が向けられます。その人が困っていたとしても、「行」を為し得ません。事ほど()(よう)に、人間関係は厄介(やっかい)もので、」(アガペー)の交わりを築こうとするキリスト者の心を(くじ)きます。そこで、パウロは、」とを基とする、あるべき人間関係について、「勧め」を加えています。

兄弟愛フィラデルフィアフィリア アデルフォス 兄弟をもって互いに愛し、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」……ここには、具体的な「」の実践が示されています。注意すべきは、主イエス・キリストの十字架の」(アガペーから兄弟同士の」(フィリアへと転じているということです。

ちなみに、「兄弟愛フィラデルフィア)」という語は、四福音書(主イエスの言葉)には見られません。「兄弟愛」が出てくるのは、書簡(手紙)だけです(Ⅰテサロニケ4:9、ヘブライ13:1他)。これは正しく初代教会が、殊に主にある交わりが「成長した」という証しではないでしょうか。

新約聖書においては、「」(アガペー)と「」(フィリア)との違いが強調されているわけではありません。そうではなく、主イエス・キリストの救いの御業によってあらわされた神の」(アガペーは、信仰者の間において兄弟愛をつくり出し(はぐく)というのが、新約聖書の主旨です。

よみがえられた主イエス・キリストはガリラヤ湖畔で、食事の後に、ペトロに問い尋ねられました。

ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しているか。」(ヨハネ21:15,16,17

3度の繰り返しのうち、一回目と二回目が」(アガペー)をもって愛するアガパオー)か、そして、三回目が」(フィリア)をもって愛するフィレオー)か、になっています。「」(アガペー)と「」(フィリア)、両者の密接な連関を通して、わたしたちは、主イエス・キリストの御心を知らされます。

復活の主、イエス・キリストは、「」(アガペー)によってシモン・ペトロを復活の命にあずからせ、彼を「新たに造りかえ」られました。」(アガペー)によって、主を否認したペトロの罪を(ちょう)()しにし、彼を赦されました。

そして主イエスは、ペトロが率先してこの世に伝道するよう、「」(フィリア)を示されました。弟子たちや女性たちが再結集され、「」(フィリア)の通い合う教会が建てられるよう、ペトロを派遣されました。

実際にガリラヤ湖畔で、気落ちしていた弟子のペトロに対し、()である主イエスは、相手(ペトロ)を優れた者(原意:より高く評価された者)として」用いるという手本を示されました。謙虚さの(かがみ)である主イエスご自身がわたしたちに、尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」と呼びかけておられるのではないでしょうか。

わたしたちは、神の「」(アガペー)を土台とする人への「」(フィリア)を通じてはじめて、隣り人を受け入れることができます。元来、「尊敬をもって」というのは、「価値をもって」という意味です。相手の「価値」を認めるということです。これは、人間的な判断によって決められるものではありません。

イザヤ書43:4――

わたしの目にあなたは(あたい)高く、(とうと)

わたしはあなたを愛し

あなたの身代わりとして人を与え

国々をあなたの魂の代わりとする。

あなたの「価値」を定めるお方は、ただひとり、「あなたを創造された主」(イザヤ書43:1)であります。神は、「わたしの目に(あたい)高く、(とうと)」あなたを、「愛し」ておられます。

聖書に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)、また、「食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15)と書かれています。

主イエス・キリストが十字架の死をもって、「その兄弟」を「価値ある者神の愛が満たされた人に造りかえられました。信仰者が、神の目から見た、その人独自の「価値」を大切にするように、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」との勧めがなされています。

 

Ⅱ 霊によって熱心に、怠らず    

ローマの信徒への手紙12: 11――

怠らず励み、霊に燃えて、主に仕えなさい。

ここでは、終わりの時に至る、わたしたちの信仰生活全体が見通されています。いつ終わりの時が来てもよいように、備えを怠るな、ということです(マタイ25:1-13)。

偽りの愛は、たちまちのうちに燃え尽きてしまいます。しかし、神の「」(アガペー)を(あま)すところなく、わたしたちに伝えてくださるなる神〈聖霊〉に寄り頼むならば、わたしたちの愛の炎(雅歌8:6)が消え去ることはありません。

主に仕えなさい」というのは、尊い教えです。ただそこには、困難が伴います。見返りを求めず、「」を出会った人に差し出すという伝道を続けるのは、(なま)(やさ)しいことではありません。そもそも、愛の(おきて)はじめ数々の「勧め」に取り囲まれて、信仰生活が息苦しくなってくるかも知れません。

ここで思い起こすべきことは、「主に仕えることには、明確な目標があるということです。それは、わたしたちが再び主イエス・キリストに会う(Ⅰテサロニケ4:17)ということです。そのように、「主に仕える」ことには、「忠実な良い(しもべ)」(マタイ25:21,23)と、主に呼びかけられる最後・目標end)があります。

パウロは、再臨の主に出会うまで走り抜いた者は、「()ちない(かんむり)を得る」と言い表しています(Ⅰコリント9:25)。わたしたちもまた、その「賞を得るように走り」たいと願います。次節の言葉は、そのような、神からの栄誉をめざす「長距離ランナー」にふさわしい勧めです。

 

Ⅲ 喜べ、耐えよ、祈れ                

ローマの信徒への手紙12: 12――

希望をもって喜び、苦難を耐え忍び、たゆまず祈りなさい。

ここに、「美しい三和音が響き出ている」(P. アルトハウス)と称されています。直前の「主に仕えなさい」(ローマ12:11)の説き明かしに添うならば、①②③の「三和音」いずれも、今から将来へ、終わりの時へと至る、信仰者の姿勢を表していると言えるでしょう。

わたしたち・信仰者の生活には、順調な時も不調な時も、富んでいる時も貧しい時もあります。「①希望をもって喜び、苦難を耐え忍び」続けるというのは、言い換えれば、わたしは「いついかなる場合にも対処する秘訣を(さず)かっている」(フィリピ4:12)と、心得ていることです。

その人は「慎み深く」、自分を(から)にして、自分の人生を主イエス・キリストに明け渡しています。その人には夕立のように、神の」(アガペー()り注ぎ、そしてまた、その人から」(フィリアが流れ出していきます。その人は「希望」をもって、「苦難」に立ち向かい、キリストとの再会をめざして神の国へと歩んで行きます。

「③たゆまず祈りなさい」と勧めるパウロは、自分の願い求め以上に、感謝にあふれる祈りを体験しているに違いありません。さらに、わたしたちが日毎に(きよ)められるならばその祈り何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」(ローマ12:2)、と、「神の御心」を熱心に問い尋ねるものとなることでしょう。自分の祈りが神に支配されたものとなります。

 

Ⅳ 貧しさを自分のものとして                

ローマの信徒への手紙12: 13――

聖なる者たちの貧しさを自分のものとして彼らを助け、旅人をもてなすよう努めなさい。

わたしたち・信仰者には、神の国に住む所がたくさん用意されています(ヨハネ14:2)。従って、私たちは皆、この地上に仮住まいしている「旅人」です(Ⅰペトロ2:11)。今もし、自分が定住の恵みにあずかっているならば、疲れた「旅人」を、「そこで出される物を食べ、また飲む」(ルカ10:7)という団欒(だんらん)(しょう)じ入れるべきでありましょう。

ヨブ記31:32―― 

見知らぬ人さえ野宿させたことはない。

わが家の(とびら)はいつも旅人に開かれていた。

ヨブは()(らん)(ばん)(じょう)の人生を送った人です。貧しい時も富んでいる時もありました。その中でヨブは、「見知らぬ人」・異邦人や「旅人」に宿を提供するという温かい「おもてなし」の姿勢を貫きました。

宿を貸すこと以上に重要であったのは、「聖なる者たちの貧しさを自分のものとして」という信仰のあり方です。すぐに察知されるように、これは、「尊敬をもって互いに相手を優れた者と思いなさい」(ローマ12:10)との勧めと響き合っています。

相手」は、「聖なる者」であり、「(より高く評価すべき)優れた者」であります。神の豊かな憐れみを受けている人です。信仰の目をもって見るならば、その人の「価値」が十二分に認められます。「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」(ローマ14:15)。

 

結 

コロサイの信徒への手紙3:14――

これらすべてに加えて、愛アガペーを身に着けなさい。

アガペーは、すべてを完成させるきずなです。

パウロは本日のテキストで、「主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか」という主題に関し、第一に「」を挙げました。「主に仕えなさい」(ローマ12:11)というわたしたちの生活の(かなめ)は、「」(アガペー)であるということです。

同様にパウロは、コロサイの信徒への手紙3:14-17のテキストにおいても、①「」、②「平和」、③「感謝」、④「知恵」、⑤「賛歌」(讃美)を列挙しています。常に①「」を源泉とすることによって、キリスト者の生活が秩序正しく守られるということです。

神の大いなる救いの出来事、主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちは神の「」(アガペー)を(たまわ)りました。神は、」に価しない罪人に、()しみなく「」をお与えになりました。

」(アガペー)によって、わたしたちは新たに造りかえ」られました(テトス3:5。そして、その「」(アガペー)はわたしたちの教会と信仰生活の基盤となっています。

今度は、わたしの番です 神から賜り託されている、その「」を自分の奉仕によって増やしていくのです(マタイ25:14-30)。感謝と讃美をもって働くのですから、困難はあっても、喜びがまさります(ローマ12:12、ヨハネ15:11)。

わたしたちがほんとうに目覚めて、驚くべき「」を、出会った人々に分かち与えていくように、パウロはこう告げました。同時に、それは初代教会が掲げた、新しい教えであります。

兄弟愛(フィラデルフィア)をもって互いに愛しなさい。」(ローマ12:10

 

」(フィリア)をもって互いに愛し合いなさい。

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〈説教の要約〉

2021年 9月26日                                 

旧約聖書 イザヤ書 60章1節~13節

新約聖書 エフェソの信徒への手紙 5章13節~14節

     「立ち上がりなさい、光を照らしなさい」

                      小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 立ち上がりなさい、光を照らしなさい  ……イザヤ書60:1-3           

Ⅱ わたしはわが家の輝きに、輝きを加える  ……イザヤ書60:4-7

Ⅲ 今、わたしはあなたを憐れむことを喜ぶ  ……イザヤ書60:8-13  

Ⅳ 起きなさい、立ち上がりなさい    ……エフェソ5:13-14          

 

今回のイザヤ書の講解説教において、初めて第三イザヤ(イザヤ書5666章)を取り上げます。この文書の時代背景の鍵語は、「復興」であり「帰還」です。そうです、「復興計画」や「帰還困難」という言葉との連関から、現代日本で起こった大災難」を思い起こされることでしょう。およそ2600年~2500年前にユダヤ民族を見舞った「大災難」(前587 ユダ王国崩壊とバビロンへの強制移住)においても、神の導きのもとに「復興計画」が立てられると同時に、郷里への「帰還困難」が生じました。

もちろん、大きく時代の隔たったこの二つの「大災難」は、個別に問題点や解決法が論じられねばなりません。しかし、人間はじめ被造物がそれに巻き込まれ、うめき苦しんでいる点では共通するところがあります。つまり、絶望、自己主張、敵対、差別、あきらめ……混沌たる嵐が巻き起こります。被害や再建に関して人々の態度に「温度差」が生じます。それは、古代でも現代でも変わりありません。

第三イザヤの言葉は、いわば「新聞」でも「歴史書」でもありませんが、ユダヤ人や異邦人の混乱を示唆する記述が随所に見られます。「大災難」の(けい)()する現代の世の中に生きるキリスト者としてわたしたちは、苦難を乗り越える、希望と救いの聖書メッセージを語り継ぐ使命を持っています。

本日のテキスト、イザヤ書60:1-13の時代状況をもう少し詳しく説明しましょう。

538年 ユダヤ人の祖国帰還と神殿再建を許可するペリシアの王キ  

     ュロスの勅令が出された。捕囚民の第一波がエルサレムに

     到着した。しかし、いわゆる帰還事業は、ユダヤ残留民と

     の対立やサマリア人による妨害によって中断された。

 前520年 総督ゼルバベルと大祭司ヨシュアによって神殿建設が再開

      された。

 前519515年〈イザヤ書60:1-13が書かれた。

515年 第二神殿が完成した。

     *第一神殿はソロモン王の主導のもとに、前962955年に

     建設された。

上のような時代状況に照らしてみると、預言者・第三イザヤのメッセージを聞いている人々の様子が浮かんできます。

519515年・当時というのは、大災難」(前587 王国崩壊と強制移住)から、およそ70年の歳月が過ぎていました。ユダヤ人はエレミヤの嘆き(エレミヤ書3:2122章)や哀歌を歌い、古老の「戦争体験」に耳を傾けていたと思われます。「大災難」に見舞われて、バビロンに残った人々も、ユダヤに戻った人々も、本当に()り頼めるものを求めていました。「平和がないのに『平和、平和』と言う」、「わが民の破滅に対する手軽な治療(エレミヤ書6:148:11)には疑い深くなっていたことでしょう。

大災難」のもたらした「暗黒」は、捕囚の地ならびに都エルサレムを包んでいました。そうした中に現れたのが、預言者・第三イザヤです。中断と挫折からの転回・脱却が告げられます。

 

Ⅰ 立ち上がりなさい、光を照らしなさい         

イザヤ書60:1―― 

起きよ、光を放て。

あなたを照らす光は昇り昇った 完了形)

主の栄光はあなたの上に輝く輝いた 完了形)

起きよ、光を放て」(新共同訳)の二つの命令形を、表題のように、「立ち上がりなさい、光を照らしなさい」と私訳しました。「あなたを」または「あなたの上に」の「あなた」は、いずれも女性単数形です。この場合、「あなた」は、「シオン / エルサレム」を指しています(イザヤ書52:1,2)。

近接する時代の詩文には、この女性形の「あなた」が多用されています(エレミヤ書2:2、哀歌2:13他)。嘆き苦しんでいる「あなた」への(ねんご)語りかけを表出するという文学的な効果があります。元々は、ユダヤの民に対する神の憐れみ深さの故に、親しく(女性に接するように)「あなた」と呼んでいるということです。

立ち上がりなさい、光を照らしなさい」との命令の内にも、神の憐れみが込められています。「わたし(主)があなたを見守っている、大丈夫、起きてごらん」ということです。悲しみ疲れ果てている人々を、「目覚めさせる」ことができるのは、主なる神おひとりです。

時代状況的には、520年に神殿建設が再開され、前515年に完成に至るその中間期に、イザヤ書60:1-13は告知されたと見なされます。第二神殿が無事に落成するかどうか、人々は半信半疑だったかも知れません。そのような折、神の霊が第三イザヤに(くだ)(イザヤ書59:21)、彼は「あなたを照らす光は昇り昇った 主の栄光はあなたの上に輝く輝いた)」と言い広めました。

この冒頭の言葉は、間近な第二神殿の完成を示唆しているというよりも、神の救いの光が昇り輝いた、と新しい時代の始まりを宣言しています。「主の栄光」が照りわたる時には、「暗黒」の存在が(あば)き出されます。

イザヤ書60:2―― 

見よ、闇は地を(おお)

暗黒が国々を包んでいる。

しかし、あなたの上には主が輝き()

主の栄光があなたの上に現れる。

」には、捕囚の地も都エルサレムも含めて、「」が覆い尽くしています。ユダヤ民族のみならず、諸国(国々)の民が「暗黒」によって、「」を見失っています。それに対抗するかのように、神の救いがともし火のように、「あなたの上に」(イザヤ書60:1 1回;60:2 2回)取り巻いています。

やがて神の御業によって、全「」、全被造物は、うめきや産みの苦しみから解放されます。しかし、「あなた」と呼ばれるおとめエルサレムが()やされ救われることが、その(さき)()けとなります。暗くなっていく灯心(とうしん)が消えることなく(イザヤ書42:3)、病める娘シオンの上に、「あなたの上に」輝いています。まさに、主イエスがサマリアの女に語りかけられたように、「救いはユダヤ人から来るからだ」(ヨハネ4:22)ということです。

ただし、上の主イエスの言葉は、選民ユダヤ人から外国人を除外しようとするものではありません。むしろ、「救い」は「エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで」(使徒1:8(ひろ)がりゆくものであります。イザヤ書60:1主の栄光は輝く」と60:2主は輝き出でる」には元来、「(太陽が)昇る」という語が使われています。太陽が東から西へと巡るように、「主の栄光」は全地をくまなく照らし出します。第三イザヤはそのことを証ししています。

イザヤ書60:3―― 

国々はあなたを照らす光に向かい

王たちは射し出でるその輝きに向かって歩む。

ここでは、全「」から「国々」と「王たち」とが、「あなた」のもとに呼び集められるという形で、救いが拡がります。「復興」は被災した現地のみならず、全「」の課題であると教えられます。「国々」と「王たち」が、聖なる都の礼拝や神殿再建のために、何を()したか、はイザヤ書60:4以下に描き出されています。

 

Ⅱ わたしはわが家の輝きに、輝きを加える

イザヤ書60:4―― 

目を上げて、見渡すがよい。

みな(つど)い、あなたのもとに来る。

(あなた〔女性形〕の)息子たちは遠くから

(あなた〔女性形〕の)娘たちは(いだ)かれて、進んで来る。

国々」や「島々」がシオンの「息子たち」と「娘たち」、すなわち、「復興」の中心となる若い世代を運んで来ます(イザヤ書60:4,9)。「あなたを照らす光」のもとに、「遠くから」の道が(そな)えられ平らにされます(イザヤ書40:3)。圧倒的多数が、捕囚の地からまだ「帰還」できない中で、諸国民から支援が寄せられます。貧しく弱い「娘たち」も、異国の隣り人によって「(いだ)かれて、進んで来る」道が開かれます。

また、「シェバの人々は皆、黄金と乳香を(たずさ)えて来る」(イザヤ書60:6)とあるように、財宝は「主の栄誉」のために礼拝でささげられるものです。ユダヤ人のみならず、異邦の人々が神礼拝のために都エルサレムをめざしたことが、主の栄光による新しい夜明けでありました。

ついでながら、「ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者(つまり元は外国人)もおり、クレタ、アラビアから来た者もいる」(使徒2:11)という()(じゅん)(さい)に、聖霊が(くだ)って来ました。悲しみに沈んでいた都エルサレムに突如天からの光が射しました。の聖霊降臨日の礼拝は、イザヤ書60:1-13で預言されたユダヤ人と異邦人による礼拝が成就したものと言えるでしょう。

イザヤ書60:7―― 

ケダルの羊の群れはすべて集められ

ネバヨトの()(ひつじ)もあなたに用いられ

わたしの祭壇にささげられ、受け入れられる。

わたしはわが家の輝きに、輝きを加える。

聖なる都の礼拝や神殿再建に際して、遠くから「息子たち」と「娘たち」が、そして献げものを持つ「国々」と「王たち」が呼び集められます。ここで大切なことを見通さないように、第三イザヤは的確に言葉を選んでいます。

「(高価な動物の犠牲が)受け入れられる」との語(ラツォン)の原意は、「主が喜んで受け入れる」ということです。つまり、礼拝で重んじられるべきは、主なる神が喜ばれるものとなっているか、どうかです。神の御心に(かな)っているか、どうかです。その預言の内に、第三イザヤが望み見た礼拝は、主の喜びが満ち溢れているものでありました。

このことは、イザヤ書60:7最終の句「わたし(主)はわが家の輝きに、輝きを加える」からも知り得ます。「わが家」は「わたしの祭壇」に並行していますので、再建間近の神殿を指しています。

動物犠牲はじめ、諸国からの「」や「」(イザヤ書60:5)が神殿に持ち込まれるのは、ひとえに「わたし(主)はわが家の輝きに、輝きを加える」ことに、会衆が参与するためであります。神ご自身の栄光が輝くということが第一に置かれるとき、そのもとに「あなた(悲しんでいる人・弱く貧しい人)を照らす」(イザヤ書60:1,3)という恵みが与えられるのです。わたしたちは、「あなたに輝きを与える イスラエルの聖なる神のために」(イザヤ書60:9)という伝統を受け継いで礼拝しています。

 

Ⅲ 今、わたしはあなたを憐れむことを喜ぶ

イザヤ書60:10―― 

異邦の人々があなたの城壁を築き

その王たちはあなたに仕える。

わたしは怒ってあなたを打ったが

今、(わたし〔主〕は)あなたを憐れむことを喜ぶ

この節に再び、のイザヤ書60:7の箇所で説き明かした「喜ぶ」という語(ラツォン)が出てきます。原意は、「主が喜んで受け入れる」ということです。中断と挫折からの転回・脱却において、わたしたちが留意しなければならないことは、どんなことでしょうか。それは、喜びに舞い上がってしまうこと、神への感謝と讃美を忘れて、自分の知恵や努力を誇るようになることです。

主なる神に焦点を合わせるならば、ここに、怒りから憐れみへの転回(イザヤ書57:17-18、詩編119:75-77)が現れ出てきます。怒りから憐れみへというのが、神の喜びであります。神の御心によって、そのように方向転換したということです。神の怒りをこうむった邪悪(じゃあく)人々の末路は、イザヤ書60:12に表されています。

それでは、わたしたち・人間の側は、どのようにすればよいのでしょうか。浮かれて自信過剰にならないというだけでは、当然、不十分です。

まず、「わたし(主)は怒ってあなたを打った」という点で、主によって自分が卑しめられ、 苦しめられている」(詩編119:67,71,75)ことを認めることです。そこで、自分が(ただ)しい道から迷い出して、罪を犯したことを告白します。主の前に悔い改める・回心するということです。先行して、神はあなたを「喜んで受け入れて」おられます。それに応答して、あなたも「アーメン、感謝します。(しもべ)主を受け入れます。神を信じます」と自分の口で言い表します。

難しいことと思われるでしょうか。神の憐れみが明白でさえあれば、神に立ち帰るよう導かれます。そのために、あなたを照らす光は昇った」(イザヤ書60:1のです。

 

Ⅳ 起きなさい、立ち上がりなさい               

旧約から新約へ、初めにその強固な連関を掲げておきましょう。

 

人を明るみに導かれる神――

イザヤ書60:9「神はあなたに輝きを与えた」〈過去・預言〉

エフェソ5:14キリストはあなたを照らされる

                     〈将来・成就〉

人に呼びかける神――

イザヤ書60:1起きよ」 ヘブライ語:クーミ

〈真の神の民につくり変えられる〉

マルコ5:41  起きよ」 

アラム語:クム / ヘブライ語:クミ

〈イエス・キリストによって新たにされる〉

 

エフェソの信徒への手紙5:13-14――

13 しかし、すべてのものは光にさらされて、明らかにされます。14 明らかにされるものはみな、光となるのです。それで、こう言われています。「眠りについている者、起きよ。死者の中から立ち上がれ。そうすれば、キリストはあなたを照らされる。」

(くす)しくも、そうすれば、キリストはあなたを照らされる」を預言するような言葉が、イザヤ書60:9に出ています。

イザヤ書60:9最終の行―― 

あなたの神、主の御名のため

あなたに輝きを与える(原文:与えた)

イスラエルの聖なる神のために。

両者 下線部)が並行していることを原文の即して分かりやすくすると、「なぜなら、イスラエルの聖なる神あなたに輝きを与えたからである」となります。この第三イザヤの文言は、手紙の著者パウロの「そうすれば、キリストはあなたを照らされる」との言葉と響き合っています。これらの旧新約聖書は、聖なる神またはキリストが人々を光にさらされ、人々を神殿または教会に招き入れられるということを物語っています。

旧約の時代の「神はあなたに輝きを与えた」という宣言は、「キリストはあなたを照らされる(であろう)」との将来にわたる約束によって引き継がれました。それによって、現代社会の闇に対しても、また終わりの時の暗黒に対しても、わたしたちには恐れがありません。具体的には、「キリストはあなたを照らされる(であろう)」というのは、洗礼によってキリストと共に死に、キリストと共によみがえらされた人(ローマ6:414:8)が今日も、明日も、復活の光に照らされ続けるということです。

エフェソの信徒への手紙の著者パウロが引用している詩文冒頭の「起きよ」(原文では「眠りについている者」の方が後)は、イザヤ書60:1冒頭の「起きよ」と同一です。初代教会でも用いられていたこの一句が重い意味を持つのは、主イエスご自身が実際に使われたからです。

マルコ福音書5:35,41-42――

35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 ……(中略)…… 41 そして、(イエスは)子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。

起きよ。主の栄光があなた(女性形)の上に輝いた」(イザヤ書60:1)――主イエスよ、感謝します、一人の少女の上に、御言葉が成し遂げられました。

起きよ」との御声を聞いて、少女は立ち上がり、歩きだしました。礼拝者となること、四方から集う諸国民を神礼拝に招くことが、これからの「あなた」の務めであります。死と罪の暗闇に座していた「あなたの上に」、消えることのない光が輝いています。「あなた」自身もまた、「光を照らしなさい」。

 

第三イザヤの御言葉によって、ユダヤの民と国々は、主の先導する「復興計画」を柱とし、この地の「帰還困難」という試練に向き合いました。その御言葉は、主イエスとパウロが復唱するほどに、力と霊にあふれています。主イエス・キリストに照らされて、主を信じ、御言葉を行う者とならせてください

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〈説教の要約〉

2021年 9月19日                         

旧約聖書 詩編69編 5節

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章18節~27節

     「わたしがあなたがたを世から選び出した」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしがあなたがたを世から選び出した …ヨハネ15:18-19             

Ⅱ あなたがたをも迫害するだろう         …ヨハネ15:20-21

Ⅲ 自分の罪について弁解の余地がない     …ヨハネ15:22-24  

Ⅳ 人々は理由もなく、わたしを憎んだ 

                 ……ヨハネ15:25 詩編69:5           

Ⅴ 聖霊と弟子たちによる(あか)              …ヨハネ15:26-27

結 

 

ヨハネ福音書13章-17章という枠組の中に、主イエスの訣別(けつべつ)説教は置かれていますより大きな観点からは、ヨハネ福音書1章-12章では、光と闇とがせめぎ合っており、それに対し、13章-19章では、闇の支配が次第に増していっているということになります。

闇の支配が次第に増していく、その発端(ほったん)のヨハネ福音書13章では、❶イスカリオテのユダの裏切りペトロの否認とが予告されました(13:21-30,36-38)。それと通底する形で15章の後半では、弟子たちはじめ信仰者が(こうむ)迫害が予告されています。それらによって、弟子たちの内部にある罪と、弟子たちを取り巻いている人々の罪とがあぶり出されています。

過越祭前の「夕食」(ヨハネ13:2,4 主の晩餐)において、主イエスは弟子たちに親しく御言葉を語っておられます。時は「しかし、夜であった」(同上13:30)と記されているように、暗闇の支配が忍び寄って来ていました。そこで、おのずと主イエスの十字架の道が浮かび上がってくるのでありました。それに伴い、弟子たちの上にも艱難(かんなん)が降りかかって来るということが表明されました。彼らの気が動転するのではないか、と案じられます。

しかし、忠実な弟子たちを「わたしの友」(ヨハネ15:14-15)と呼ばれる主イエスが彼らに寄り添っておられました。混沌とした状況のもと、主イエスはどのような慰めと励ましを、わたしたちに残されたのでしょうか。

 

Ⅰ わたしがあなたがたを世から選び出した

ヨハネ福音書15:18-19 主イエスの言葉――

18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

この二節には、「」と「あなたがた」との違いが鮮明にされています。ここでは、主イエスに反抗する「ユダヤ人たち」(ヨハネ1:1912:11)のことが、「」と言い換えられています。「」とは、神の御心に(そむ)いている人、「神の霊によって生まれ変わらされていない人たちすべて」(カルヴァン)を指しています。「」は「あなたがた」の「身内」ではありません。この手の自称、「身内」とは(いさぎよ)く決別することです。

パウロが「あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません」(ローマ12:2)と戒めたように、この世のスタイル・型に魅惑され、罪の誘惑に引きずり込まれてはなりません。それに「あなたがた」が引きずり込まれないようにする、その最善の防御壁となるのが、「わたしがあなたがたを世から選び出した」との主イエスの宣告です。

わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と説明されていますので、まずは、世が主イエスと弟子たちとを「憎む」ということについて確認しましょう。

冒頭に、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と、弟子たちが心に刻むべきことが示されています。その中の、「前に」という一句が重要です。この語は、「~に先んじて先行して」という意味です。

すなわち、あなたがたは世から憎まれることがあるかも知れないが、それより先に、主イエスが世に憎まれ迫害を受けていたことを忘れてはならない、ということです。主イエスに対するこの世の憎悪は(こう)じて、主を十字架につけるに至りました。言い換えれば、「十字架につけて処刑するほどに、世がわたしを憎んでいる。あなたがたが受けている憎しみに打ち負かされてはならない。苦難を受けて立つイエス・キリストを見上げよ」ということです。

わたしたちの苦難に、主イエス・キリストの苦難が「先行して」いる――闇の支配が次第に増していく中で知るべきは、この事なのです。従って、わたしがあなたがたを世から選び出した」とは単に、永遠のむかし、神があなたがたに信仰を与えると決めたということを表しているだけではありません。そこには、世の憎しみに耐えうる者として、あなたがたを憐れみ、あなたがたの信仰を見守ることにしたという深い意味があります。

父なる神とキリストによって選び出された人にとって、世からの憎しみは、心労になる以上に、自分たちが神の属していることを確認させるものなのです。この世において困難が起ころうとも、枝々(えだえだ)としてまことのぶどうの木である主イエスに結びつき、命の養いを受けていることが確信させられます。

暗闇の中でも、あなたがたの「前に」立っているわたしから目を離すな、という戒めをもって、主イエスは話を進められます。

 

Ⅱ あなたがたをも迫害するだろう        

ヨハネ福音書15:20-21 主イエスの言葉――

20 「『(しもべ)は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」

主イエスが「だから、世はあなたがたを憎むのである」と宣告された、その憎しみが「迫害」の形で実行されます。

ここでは、憎しみにおいて、「弟子たちに先行する主イエス」から、迫害において、「(しもべ)まさる主人」へと拡張されています。つまり、「人々はあなたがたをも迫害するだろう」が、その「前に」、それ以上に()(れつ)に「人々がわたしを迫害した」ということです。主イエスは、「(しもべ)は主人にまさりはしない」と言って、弟子たちにへりくだりを(うなが)されました。これは、()を越えようとするなかれ、師につき従え、という力強いメッセージです。

弟子たちにとっての気がかりが、「人々はあなたがたをも迫害するだろう」ということにあるのは事実です。しかし、より大切なのはで記したとおり、主イエスが世に憎まれ迫害を受け、最終的に主が十字架につけられた、救いの出来事を「覚えなさい」(ヨハネ15:18)ということです。自分が迫害されるという試練によって、主イエスとのつながりが深められる人は幸いです(マタイ5:10-12)。

次の言葉、「わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」には、主の弟子、信仰者とは、どのような人であるか、が明示されています。

信仰者とは、「わたしの言葉を守った」、そして、その言葉を(おこな)った、というように、主イエス・キリストの言葉と(わざ)を、自分の存在の根拠にしている人であります。従順に御言葉に耳を傾け、それを実践するのが、キリスト者なのです。その人たちの日常生活の方針は、「わたしの言葉」に基づいて定められます。「わたしの言葉」を聞き、それを伝えている「あなたがた」を拒絶する人は、神と結ばれません。そのような人たちの人生は、主イエス・キリストの言葉と(わざ)土台が()えられていないので、とても不安定になります(マタイ7:24-27)。

主イエスはさらに、弟子たちを憎み迫害する「世に属している」人々を問い()めてゆかれます。世に属している」人々を裁かれます。ただしその背後には、そのような人々を、罪と(あやま)ちの(なわ)()から解き放とう主イエス・キリストの愛があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という愛をもって、主イエスは「世に属している」人々に相対(あいたい)しておられます。弟子たちにも、彼らに証しし、伝道してほしいと願っておられます(ヨハネ15:27)。

 

Ⅲ 自分の罪について弁解の余地がない    

ヨハネ福音書15:22-24 主イエスの言葉――

22 「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24 だれも行ったことのない(わざ)を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」

この箇所には、「世に属している」人々の罪が(あば)き出されています。主イエスによる、罪の追及はきわめて論理的で厳正です。整理してみましょう

ヨハネ福音書15:22-23 罪の追及〈第一弾〉――

わたしが来て彼らに話した。            〈主イエス・キリストの言葉〉の啓示

だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

      

ヨハネ福音書15:24 罪の追及〈第二弾〉――

だれも行ったことのない(わざ)をわたしが彼らの間で行った。〈主イエス・キリストの(わざ)〉の啓示

②    な し

だが今は、わたしとわたしの父を憎んでいる。

流暢(りゅうちょう)な語り口です。主イエスは「だが、今は、彼らは……」と繰り返して、「世に属している」人々に(せま)っています。主イエスはすでに、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すること」(マタイ16:21、ヨハネ2:19-22)を示されました。主イエス・キリストの言葉と(わざ)が十分にあらわされました。

主イエスは、「だれも行ったことのない(もろもろの)(わざ)を彼らの間で」行われました。五千人の給食や盲人の癒やしなど、大勢の人々が主イエスの行われた「しるし」(奇跡)を見ました(ヨハネ6:149:16)。そのような多くの「しるし」を通して、主イエスこそ、人々を罪と死から救い出すお方であることが宣べ伝えられました。

だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」と、人が追い()められたところで、罪を悔い改めるなら、幸いです。十字架の主イエス・キリストが、「自分の罪」を赦してくださいます。

罪の追及③「わたしとわたしの父を憎んでいる」に関して、主イエスは旧約聖書(詩編)を引用されました。「ユダヤ人たち」はもはや責任(のが)できません。

 

Ⅳ 人々は理由もなく、わたしを憎んだ  

ヨハネ福音書15:25 主イエスの言葉――

「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」

詩編(35:19または69:5)を(こと)(さら)彼らの律法」と呼んでいるのは、彼らの罪を追及するためでありましょう。ユダヤ人たち」は彼らの行いによって「律法」が達成されるように(ローマ3:289:30-31)励んでいますが、旧約聖書に記されている愛と正義を成し遂げられる主イエス・キリストからは目を()らしています。そこで、主イエスは、罪の追及③を論証すべく、ユダヤ人たちに「彼らの律法」を()きつけました。人々は理由もなく、わたしを憎んだ」ということが、彼らに当てはまることを知らしめるためでありました。

詩編69:5―― 

理由もなくわたしを憎む者は

この(あたま)の髪よりも数多く

いわれなくわたしに敵意を(いだ)く者

滅ぼそうとする者は力を増して行きます。

わたしは自分が奪わなかったものすら

(つぐな)わねばなりません。

この場合、「わたし」というのは、信仰者である詩人を指しています。「理由もなくわたしを憎む者」は「数多く」、「力を増して行く」というのが特徴です。

」のユダヤ人たち」はじめ、神に(そむ)く人々が数多く」なり「力を増して」、挙げ句の果てに、主イエス・キリストを十字架につけたのです。その点では、「人々〈長老、祭司長、律法学者、ピラト、兵士たち〉は理由もなく、わたし〈イエス・キリスト〉を憎んだ」との聖書の言葉は、主イエス・キリストの十字架の出来事において「実現した」と言えます。「人々」の側から見るならば、「弁解の余地がない」彼らの罪に対する神の怒りは、身代わりとなられた主イエス・キリストの上に(くだ)りました。それが、「わたしの父」(ヨハネ15:23,24)、父なる神の御心でありました。

弁解の余地がない」罪を(かか)えた人、今なお「わたし〈イエス・キリスト〉を憎む者」の救出に関わるメッセージで、今回のテキストは閉じられています。闇の支配が次第に増していく中にも、「ほのぐらい灯心(とうしん)を消すこと」がないように(イザヤ書42:3)、主イエスは慰めと励ましを与えられます。

 

Ⅴ 聖霊と弟子たちによる(あか)    

ヨハネ福音書15:26-27 主イエスの言葉――

26 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

主イエスはこの訣別(けつべつ)説教で以前、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)と、弟子たちに語られました。ここでは、その「弁護者」なる聖霊について、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている」と述べられています。要は、聖霊は父なる神と御子イエス・キリストとのもとから(はっ)(しゅつ)されているということです。

その方(聖霊)がわたしについて証しをなさる」というその証しの内容は、どんなことでしょうか?

それは、罪の追及①で触れた、「わたしが来て彼らに話した」と「だれも行ったことのない(わざ)をわたしが彼らの間で行った」との言葉に示唆されているように、主イエス・キリストの言葉と(わざ)にほかなりません。従って、聖霊による「わたし〈イエス・キリスト〉について」の証しの核心は、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すること」(マタイ16:21)ということになります。

そうして弟子たちも、「初めからわたしと一緒にいた」者として、主イエス・キリストの十字架と復活について「証しをする」のであります。

ヨハネの手紙 1:1-2――

1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

ヨハネの教会に属する著者は当然のように、「証しし伝えるのです」と書いています。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」との主イエスの勧めが受け継がれているのが分かります。

初めからわたし〈イエス・キリスト〉と一緒にいた」のではないわたしたちは、その初代教会の人々の「証しし、伝える」文書(新約聖書)を読むことができます。説教により、その御言葉を聞くことができます。

その上、今、ペトロやヨハネのような目撃(もくげき)証人に会えないわたしたちのために聖霊なる神が〈イエス・キリスト〉について証しをしてくださいます。主イエスご自身、聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)と約束しておられます。

 

ヨハネ福音書15:1615:19に、「だが、わたしがあなたがたを選んだ」という主イエスによる同一の宣言が出てきます。わたしたちの前におられ、わたしたちにまさるお方が、わたしたちの「主人」であります。

確かに、わたしたちは世に属していません。それ故、わたしたち・信仰者とこの世の間には、価値観において隔たりがあります。時に、自分の「流行遅れ」を()じたり、「同調圧力」に苦しんだりすることがあるかも知れません。

しかし、動揺することはありません。主イエス・キリストはわたしたちを、この世から(こうむ)る憎しみと迫害から守ってくださいます。なぜなら、主イエス・キリストは、十字架と復活によって、世の憎しみと迫害に勝利されたお方だからです。

前回(ヨハネ福音書15:9-17 説教要約)も述べたように、「わたしがあなたがたを選んだ」との御言葉は、わたしたちの信仰者のあり方を(けっ)するものです。信仰の根本において、神の選びと招きがわたしたちを導き、支配しているということです。それ故に、逆境の時にも、わたしたちの存在基盤がゆり動かされることはありません。

 

この世にあっても、喜びに満たされ(ヨハネ15:11)、憎しみに耐えうるように、そして、主イエス・キリストについて証しをすることができるようお祈りしましょう。

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〈説教の要約〉

2021年 9月12日                        

旧約聖書 歴代誌上 28章20節~21節

新約聖書 ルカによる福音書 10章1節~12節

       「収穫の主に願いなさい」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した  ……ルカ10:1               

Ⅱ 収穫の主に願いなさい    ……ルカ10:2 歴代誌上28:20-21 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ  ……ルカ10:3-4   

Ⅳ この家に平和があるように               ……ルカ10:5-7         

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           ……ルカ10:8-12

  結

 

2021年度のほぼ(なか)ばにあたり、説教のテキストとして、年間聖句(ルカ10:2)を取り上げます。この聖句は、二年連続の教会標語「主の()しに応えて伝道する」に添ったものです。去年度はルカに並行するマタイ9:37-38を読みました。新感染症拡大の中で、わたしたちの出来ることは限られているという現実に直面しています。今出来ること、()し続けることで、最重要なのは、伝道に向けての態勢を整えておくということです。主イエス・キリストはわたしたちを通して、神の愛がこの世に伝えられるよう、その計画を進めておられます。

主イエス・キリストによってあらわされた神の愛を信じる、そして、この世に遣わされて、人に愛を伝える――それが、神の憐れみによって勧められているわたしたちの信仰生活です(ローマ12:1)。

 

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した

ルカ福音書10:1――

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

その後、主はほかに……」との告知は、「働き手」・伝道者を(あと)()しする主イエス・キリストの愛の大きさをあらわしています。「その後、ほかに」の前に、主イエスは「十二人」を呼び集め、権能を授けて、派遣されました。それに続いて、「七十二人」が選び出されたのです。主イエスによって、新しい局面が開かれたということです。

初めに、十二人が、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」(ルカ9:2)、町や村へ送り出されました。福音宣教が順調に進んだわけではありません。彼らは、悪霊に取りつかれ苦しんでいる子どもをいやせず(ルカ9:27-43)、挫折を味わったこともありました。

主イエスは先手を打たれ、また、忍耐強く後押しされるお方です。そこで「ほかに」、6倍の数の「七十二人」を任命されました。

その後、主はほかに……」というお方が、「十二人」や「七十二人」の背後に立っていることを忘れてはなりません。教会において、自分の恵みの賜物を最大限に生かすのみならず、教会員すべての「それぞれ異なった賜物」を(あい)(はたら)かせるというのが、礼拝であり伝道です。

ルカ福音書・使徒言行録という一連の文書は、エルサレムの神殿での儀式から始まり、ローマの借り家での礼拝・伝道で終わっています(ルカ1:5-25、使徒28:30-31)。およそ60年かけて、祭司ザカリアから、使徒パウロへと至ります。忠実に礼拝者としての務めを行う両者の連関において、格段の霊的な伸展がありました。

その背景には、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」という、主イエスご自身による伝道の〈ビジョン・(まぼろし)〉があります(使徒1:8)。その意味で、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。

そのザカリアとパウロの間で、「十二人」⇒「七十二人」、または、「十二人」⇒「百二十人」(聖霊降臨前 使徒1:15)という「働き手」の増強が起こりました。それは、主イエスが「働き手が少ない」という諸教会の困難を見守っておられるという証しであります。

働き手が少ない」ことを身に()みて感じる二人組二人ずつ)の者が歌うのにふさわしい讃美歌として、わたしは次の曲を思い起こしました。

讃美歌Ⅰ-234番 1節――

(むかし)主イェスの ()きたまいし、

いとも小さき いのちの(たね)

芽生(めば)え育ちて 地の果てまで、

 その枝を張る ()とはなりぬ。

 

Ⅱ 収穫の主に願いなさい                  

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

七十二人」がこれから主イエスより先に、町や村へ出かけて行こうとしています。その時、主イエスは「十二人」が派遣された際のことを思い起こされていたと見られます。

使徒「十二人」の目の前には、突然叫びだし、けいれんを起こし、(あわ)を吹いている子どもがいました(ルカ9:37-43)。そこで、彼らは自分の信仰上の「どん底」、力の無さに気づかされました。そのことを、主イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(ルカ9:40)との嘆きをもって(あば)き出されました

そうした失敗例を踏まえて、あるべき信仰というものを、どのように告白すべきなのか、主イエスは「七十二人」に語られました。それが、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という祈りの勧めでありました。

主イエスのガリラヤ・サマリア伝道に同伴している「七十二人」にとって、主の十字架と復活の御業はこれから起こることでありました。そこで今、イエス・キリストを信じていることを言い表す、一つの祈りが示されたのです。確かにこれは、()()ない町や村へ派遣される者たちにとって、切実な願いでありました。またそれは、「収穫」を自分の成果と捉え、その多い少ないに心を寄せがちなわたしたちに対する警告でもありました。

霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう」(Ⅰコリント14:15)とのパウロの言葉を借りるならば、霊で主イエスの臨在……我々と共におられる神……を信じ理性で働き手の必要性を認識するということになるでしょう。

歴代誌上28:20-21―― 

20 こうしてダビデはその子ソロモンに言った。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に()こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」

これは、ダビデ王からその子ソロモンへの惜別(せきべつ)の言葉です。ソロモンが即位する(歴代誌上29:22-23)直前のことです。

この場面でダビデの最も伝えたいのは、「わたしの神、神なる主はあなたと共にいて」という神を信じること、また、新しい神殿でその神を礼拝することであるのは、一目(りょう)(ぜん)です。なおかつ、「理性で働き手の必要性を認識する」ことに関しても、「あらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており」と述べられています。ソロモンは為すべきことは、「御心のままに」(マタイ26:39)、と祈ることであります。そのように、これから派遣される七十二人も、昼も夜も主イエスに向かって叫び求めることが大切なのです

主イエスの言われた「収穫は多い」という「収穫」とは、神の民が集められ、神の栄光があらわされるということです。自分が独占できるような成果ではありません。「もっと欲しい」という自分の欲望を打ち砕く主イエスの言葉が続きます。

 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ   

ルカ福音書10:3-4 主イエスの言葉――

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、(おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな。途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな。」

途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな」との命令は少し奇妙ですが、前例があります。

列王記下4:29 シュネムの婦人の男の子が急死したとき―― 

そこでエリシャはゲハジに命じた。「腰に帯を締め、わたしの(つえ)を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならないまただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその子供の顔の上に置きなさい。」

(しもべ)ゲハジはエリシャから子どもを生き返らせるという務めを託されました。彼はカルメル山からシュネムへ(約30㎞)、寝台に横たわっている子どもの家へ駆け付けます。事情は異なりますが、「七十二人」はそれぞれの招き入れられる家をめがけて道を急ぎます。

主イエスによって託された使命に専心すべき理由は、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」との言葉の内に明らかにされています。

七十二人」には、自分たちが弱く乏しい者であることを認める謙遜さが必要でした。なぜなら、主イエスはその弱く乏しい者を、罪と死の縄目から解き放ってくださったからです。神の憐れみによって、人の弱さ・乏しさが(かえり)みられたことを忘れてはなりません。

主イエスは、「七十二人」が遣わされるのは、「小羊を送り込むようなものだ」と(たと)えられています。この世では、「小羊」がこうむるような苦難が彼らに襲って来ます。その究極の苦難こそが、「(すぎ)(こし)の小羊」なるイエス・キリストが(ほふ)られた十字架の出来事でありました(ルカ22:7、ヨハネ1:29)。

主イエスはご自身の苦難〈十字架〉と神の勝利〈復活〉を見据(みす)えたうえで、「(おおかみ)の群れ」の中へ「七十二人」を送り出されたのです。彼らは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)というこの世で伝道すると同時に、苦難を通してキリストにつき従う(しもべ)として成長してゆきます。

主イエスの「行きなさい」との命令が高らかに響いています。かつて、神はアブラハムに「(あなたが)行きなさい」と命じられました(創世記12:1)。アブラハムはこの突然の呼びかけを、神からの()し出し受け止め、行き先も知らずに出発しました(ヘブライ11:8)。父祖アブラハムは、「七十二人」にとっての先駆者であります。

 

Ⅳ この家に平和があるように                     

ルカ福音書10:5-7 主イエスの言葉――

5 「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。」

ある家を訪ねて、「この家に平和があるように」と挨拶するのは、ごく自然なことです。この地域の慣習です。問題はここからで、二人一組の者が一つの家に結びつくかどうか、が分かれ目になります。

相手への「平和」の挨拶から、相手が「平和の子」かどうかという話に伸展しています。さらには、「あなたがたの願う平和はその人にとどまる(であろう)」というように、その相手の将来が見渡されています。そう考えると、遣われた者の使命は、主イエス・キリストの「平和」を伝え、その喜びの知らせを聞いた人を「平和の子」につくり変えることだ、と分かります。

主イエス・キリストは、神とわたしたちの間の「平和」を回復されました。主が十字架にかかることよって、わたしたちの罪と死を滅ぼし、「平和」を打ち立てたのです(コロサイ1:20)。主イエスがザアカイの家に泊まられたように、伝道者も、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」との勧めを実践するのです。それによって、その人と家族の者すべてに、主イエス・キリストの「平和」が伝えられます。

 

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           

ルカ福音書10: 8-12 主イエスの言葉――

8 「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

主イエス・キリストの「平和」が宣べ伝えられました。主イエスを受け容れるか否かによって、二分されます。一方、「平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。他方、闇の中を歩み続ける人には、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言われます。

神の国は近づいた」というメッセージは、宣教の初め(マルコ1:15)から終わりまで、一貫しています。たとえ、人がかたくなに耳を閉ざそうとも、神の真実を知らせるのです。「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)の中から、善い「働き手」が現れ出るかも知れません。

先に述べたとおり、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。ユダヤ人と異邦人が相接(あいせっ)して住んでいる地域で、その(くわだ)てが始まりました。その点で、「七十二人」の宣教において、その中心メッセージが「神の国は近づいた」であるのは、神の御心に添っています。

闇の中を歩み続ける人にもなお、悔い改める機会(ルカ5:3210:13)が残されています。主イエスご自身が伝道されているうえに、「十二人」が、そして、「七十二人」が加えられました。「神の国は近づいた」――主イエスは、神の支配がもう地上にすべての人のために来ている、と語られました。

神の国は近づいた」ことを知らせた主イエス・キリストは十字架について死なれ、復活されました。罪人たちが主イエスを十字架にかけ処刑しましたが、「神の国」の接近は妨げられませんでした。むしろ、「神の国」は、死を超え、死にも打ち勝つものであることが明らかにされました。

平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。「神の国」は自分の目で見えないと言って、失望することはありません。大切なのは、わたしたちを罪と死から救い出されたイエス・キリストを信じること、そして、主イエスの再臨を待望することです。

ヨハネ黙示録22:20――

アーメン、主イエスよ、来てください。

再び、主イエスが来られる時、主は、わたしたちに、収穫・刈り入れの完了の宣言してくださいます。わたしたちは、「収穫が多い」という神の恵みの豊かさに驚かされることでしょう。

わたしたちが再臨される神の御子に出会うということは、わたしたちの国籍が「神の国」にあることの現れです。地の産物の中から「初穂」を選んで神に献げる(レビ記2:14)のは、わたしたちが「神の国」に帰属しているという証しであります。「富は、天に()みなさい」(マタイ6:20)との(おきて)実行によって、わたしたちは天に国籍がある(フィリピ3:20)ことを確認しています。

そして最後の審判を経て、わたしたちは、地上の家ではなく、「神の国」において、「出される物を食べ、また飲む」(ルカ10:7)ことが許されます。讃美が絶えることなく、祝宴が続きます。そこには、主の(しもべ)・「働き手」から教えられて、主イエス・キリストの愛を信じるようになった人々が集っています。

 

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫は多い ……終わりの時に、満ち満ちる神の恵みの豊かさ

働 き 手」 ……終わりの時までに、救われるべき自分の隣人

収穫の主  ……終わりの時に、再び来られる主イエス・キリスト

収穫の主に願いなさい」とは、「主イエス・キリストに祈る」ということです。今から終わりの時に向けて、「働き手」(わたしの隣人)が増し加えられるよう、神の右に座っておられる主イエス・キリストに執り成していただくのです(ローマ8:34)。このように考えると、「七十二人」の出発にあたり、主イエスが彼らに教えようとされたのは、最も重要な(おきて)であったと分かります。

ルカ福音書10:27――

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。

主イエス・キリストが愛によって、神と隣人(やがて教会において兄弟姉妹となる人々)とに結ばれるよう、教えられました。「収穫の主に願いなさいとは、「愛しなさいという命令が実行できるように、主イエス・キリストにすべてを任せなさいということです

主イエス・キリストの愛を注がれ、死を超える永遠の命にあずかっている人、「七十二人」がつくり出されました。「愛しなさい」との(おきて)を受けて、彼らがこの世に遣わされました。あなたがたもまた、信仰者の群れの中に入られますようお祈りいたします。

 

Ω

月報9月号

 

 

 説教 自分を造り変えていただく

     ローマの信徒への手紙 12章1節~2節         小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神の憐れみによって勧めます            ……ローマ12:1             

Ⅱ 自分の体をいけにえとして献げなさい     ……ローマ12:1

Ⅲ これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です 

             ……ローマ12:1 出エジプト記3:1-6  

Ⅳ 自分を変えていただきなさい        ……ローマ12:2           

Ⅴ 何が神の御心であるか、わきまえるように  ……ローマ12:2  

 

ローマの信徒への手紙12章-15章には、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、ということが書かれています。救いにあずかった者の生き方は当然、変わってきます。なぜなら、神への奉仕、礼拝の恵みが、信仰者の生活全体にゆき渡るからです。

神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)によって、その生活は神の訓練のもとに置かれ、(ゆる)むことがありません。また、讃美すること(ローマ11:33-36)によって、哀しみが乗り越えられ、喜びが湧き上がってきます。章を改め、そのようなかたちで救われた者に対して、パウロは助言を送ります。

ローマの信徒への手紙12章冒頭の二節は、次のように五つ(Ⅰ~Ⅴ)に分けられます。

ローマの信徒への手紙12:1-2―― 

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき(なさい)何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

順を追って、読んでいきましょう。

 

Ⅰ 神の憐れみによって勧めます                       

ローマの信徒への手紙12:1―― 

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

「わたし・パウロは勧めます」という言葉から始まっています。ここで、現代の生活を顧みると、わたしたちは「お勧め」に最大の注意を払っています。簡単に「お勧め」に乗るものかと警戒しています。

日常、多種多様な「お勧め」を十分吟味したうえで、ようやく「お勧めされる」に至るということがあります。けれども、わたしたちは「お勧め」を、簡単には受け入れません。「お勧めされる」のではなく、自らが「探し出し選ぶ」、または、自分で新しいものを「造り出す」ことの方が好ましいと考える人も少なからずいるようです。

しかし、ここでローマの教会の信徒は、パウロから「お勧めされて」います。このパウロを「勧め」を喜んで受けるべきでしょうか。少しでも疑念を()(はさ)んだ方がよいのでしょうか。

このことを解明する鍵は、パウロが「神の憐れみによってあなたがたに」と語っていることにあります。すなわち、「わたしはあなたがたに勧めます」ということの土台は、パウロ先生の(たい)()(ばん)にではなく、「神の憐れみ」にあるのです。

これに関して以前、ローマの信徒への手紙11:25-32の説教要約で、以下のように述べました。

〈「憐れみを受けた / 憐れみを受ける」(ローマ11:30,31

……受動態であるので、「主イエス・キリストによって」が想定される。

イザヤ書59:20で預言されていた「救う方」は、主イエス・キリストです。なぜなら、罪人を無償の愛で助け出し、復活の信仰にあずからせたお方こそ、主イエス・キリストだからです。わたしたちに求められているのは、主の尊い憐れみを、感謝をもって、ただ「受ける」ことであります

それは、すべての人を憐れむためだったのです」――これが、ローマの信徒への手紙9章-11章の一連の議論の頂点です。「どうしたらユダヤ人・イスラエル人が救われるか」という難題への回答は、神からの「憐れみを受ける」ことです

神と出会えば、「すべての人」が「憐れみを受ける」と、パウロは確信しています。神の憐れみが憐れみとしてあらわされるように、キリスト者の信仰生活がととのえられること(ローマ12章-15章)を、そして、自分自身の実践としてローマに旅立つことを、今パウロは祈っています。〉

すなわち、信仰者は全心全霊に神の「憐れみを受けて」います。神に感謝し喜んでいます。そのことを土台として、「こういうわけでわたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます」というのです。

仮に人間パウロの「太鼓判」による文書ならば、その内容を精査する必要があるかも知れません。しかし、神の「憐れみを受けた」人へ、信仰生活がととのえられるよう、「神の憐れみによって」勧めが与えられるのですから、警戒することはありません。

少し長く説明しましたが、この基本スタンス(姿勢)をもって、ローマの信徒への手紙12章-15章を読み通すことが大切です。「勧め」が多すぎると愚痴をこぼさないことです。とにもかくにも、わたしたちの礼拝を中心とする生活が確立されるためなのです。

パウロが語っているにもかかわらず、「神の憐れみによって」に基軸が置かれていることは、「勧める」の原意からも分かります。すなわち、「勧める」とは、「(かたわ)らに招く」、すなわち、「慰める」(マタイ5:4)というのが元々の意味です。わたしたちが「勧め」を聞き入れ実行できるように、主イエスが寄り添っておられます。主イエスはあらゆる苦難に際して、わたしたちを「慰めて」くださいます(Ⅱコリント1:4)。

勧める」パウロと「勧められる」ローマの信徒とは、互いに励まし合い祈っています。一人ひとりが一つになって、神から示される「勧め」を聞いて行うときに、信仰は生活の中で大きな実を結びます。そこには、「神の憐れみ」による永遠の支えがあります。その時々、適確な「勧め」によって、わたしたちの生活は(きよ)められ続けます。

スムーズな導入によって、第一の「勧め」が切り出されます。

 

Ⅱ 自分の体をいけにえとして献げなさい    

ローマの信徒への手紙12:1―― 

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

いけにえ(犠牲)として」との句によって、わたちたちの内に衝撃が走るかも知れません。聖霊の導きを求めながら、冷静に読んでみましょう。

肝心(かんじん)なのは、いつも、先行する神の恵みを思い起こすことです。

父なる神は、御子イエス・キリストを、私たちの罪のための(あがな)いのいけにえとされました(Ⅰヨハネ2:24:10)。イエス・キリストは動物(過越の小羊)の犠牲のように、ほふられました。動物の犠牲が殺されたと同様に、イエス・キリストも死を全うされました。それによって流されたキリストの血はいつまでも、わたしたちの罪を取り除き、わたしたちを潔める力を持っています。

信仰者にとっては、「いけにえはだた一つ、主イエス・キリストの十字架の犠牲のみであります(ヘブライ7:27)。従って、「自分の体をいけにえとして献げなさい」というのは、わたしたちの罪を償ってくださった十字架の主、イエス・キリストへの感謝と証しとして献げよ、ということになります。このように、キリスト者の生活は、まことの「いけにえ」なるイエス・キリストを信じ、愛することから始まります。

神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」ということも、高い理想を(かか)げる決意や努力を求めるものではありません。主の十字架によって罪赦されたという神の恵みにあずかった、そのままの「自分の体」で御前に進み出よ、ということです。「生ける」ということも、「いけにえとして」死んでよみがえられたイエス・キリストの命の力によって保証されています。あなたが「生き生き、活発になる」ように努めるのではありません。

そこで、パウロは段取りよく、「自分の体をいけにえとして献げる」という場所(トポス)を示します。そのところでこそ、わたしたちが、キリストに(なら)って、「神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」となるということが起こります。

 

Ⅲ これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です   

ローマの信徒への手紙12:1―― 

これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

これは、「勧め」ではなく、パウロの口を通しての神の「宣言」です。神は、信仰者に「なすべき」ことを教えられました。それが、「礼拝」、神への奉仕であります。礼拝に招かれた者は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ように、聖霊の導きを祈ります。

なすべき礼拝」は、「()にかなった礼拝」と言い換えられます。「いけにえ」を献げようとして……献身(けんしん)するぞと意気込み……熱狂するのは間違いです。イエス・キリストを通して、告白・感謝・賛美という霊的な「いけにえ」を献げるのが、神に喜ばれる「礼拝」です(ヘブライ13:15-16、詩編69:31)。

ここで旧約聖書から、モーセが神によって礼拝の場所(トポス)に招き入れられた様子を見てみましょう。

当時、モーセはまことの神礼拝をしたことのない、「口の重い人」(出エジプト記4:10)でありました。神はそのような人物に親しく(のぞ)まれ、「神の顕現(けんげん)ならびに神とモーセとの会話」という出来事を起こされました。