礼拝、説教

主日礼拝                                                                                                2022年 5月22日  

復活節第6主日 

  

招き   前奏

招詞   詩編2編 7節~8節

頌栄   544

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  90

交読文  17 詩編51編 

旧約聖書  イザヤ書60章17節(p1161)
新約聖書  ローマの信徒への手紙14章17節~18節(p.294)

賛美歌  433

説教   「神の国は義と平和と喜びであある」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

                 小河信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  228

使徒信条 (交読文 1頁) 

聖餐式

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2022年5月22日「神の国は義と平和と喜びである」
イザヤ書60章17節
ローマの信徒への手紙14章17節~18節
220522_0135.MP3
MP3 オーディオファイル 27.1 MB
2022年5月15日「信仰のあつい、アテネの皆さん」
使徒言行録17章22節~31節
220515_0134.MP3
MP3 オーディオファイル 26.7 MB
2022年5月8日「キリストはその兄弟のためにも」
創世記7章1節~2節
ローマの信徒への手紙14章13節~16節
220508_0132.MP3
MP3 オーディオファイル 31.4 MB
2022年5月1日「私はそうではないと言ったペトロ」
エレミヤ書18章18節~20節
ヨハネによる福音書18章12節~18節
220501_0131.MP3
MP3 オーディオファイル 31.7 MB
2022年4月24日「キリストにおいて一つとなる」
エズラ記3章8節~13節
エフェソの信徒への手紙2章11節~22節
220424_0467.MP3
MP3 オーディオファイル 30.5 MB

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2022年 5月22日                             

旧約聖書 イザヤ書 60章17節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章17節~18節

      「神の国は義と平和と喜びである」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神の国は、飲み食いではない     ……ローマ14:17前半           

Ⅱ 聖霊によって与えられる義と平和と喜び……ローマ14:17後半 

Ⅲ 平和と義を確立される神             ……イザヤ書60:17  

Ⅳ キリストに仕える人          ……ローマ14:18前半           

Ⅴ 神に喜ばれ、人々に信頼される         ……ローマ14:18後半  

 

パウロの牧会についての説教は、いよいよ()(きょう)に入って行きますローマの信徒への手紙14:13-23のまとまりに関して言えば、14:15-18あたりが山場になっています。一言一句、聞き逃してはなりません。

ここに、ローマ教会の「特殊な」問題を解決する鍵があります。というのも、「軽蔑」と「裁き」(ローマ14:3)に(おお)われている強い人」(同上15:1)と「弱い人」(同上14:1,2)、双方が立ち帰るべき、福音の根幹が示されているからです。感情的には乗り越えられないような問題も、「」と「」に満ちた福音理解に沿って、考え直せば、光が見えてきます。そうして対立している信徒たちが垣根を越えて認め合うならば、そこに、教会のまことの成長がもたらされます。

その点で、茅ヶ崎香川教会の「特殊な」問題にも、適用が可能となります。「」と「」に満ちた福音理解に沿って、「強い人」と「弱い人」、双方が相手の立場を受け入れ、具体的状況の改善を図ればよいのです。

その際、大切なことは、(あせ)らない、いらつかないことです。疲れたら、一息つきましょう。前回見た通り、パウロは、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています」(ローマ14:14)と、文脈を中断するような一句を入れました。「主イエスによって」、わたしに悟りが与えられ、解決策が見出されるのを待つということです。即断・即決するなどと、自分の正しさを(ふい)(ちょう)してはなりません。

それでは、飲食に関する論争テーマに関連させつつ、パウロがどのような福音理解を教えようとしているのか、見ることにしましょう。ローマの信徒への手紙14:15-18あたりが山場と述べた、前半・14:15-16には、主に個人……あなたの兄弟(単数形)……の救いの観点から論じられていました。すなわち、キリストはその兄弟のために死なれ、神の愛をあらわしてくださった、という福音に基づいて、「強い人」も「弱い人」も、自分ならびに隣人を顧みなさいということでありました。

そして、今回の後半・ローマ14:17-18では、被造世界の行く末を視野に収めつつ、神の支配されるキリスト者の生き方が示されます。救われたその兄弟は、共々に、どこを目指(めざ)してゆくのか、ということです。飲食のいさかいが(たな)()げされるわけではありません。なぜなら、神の国」の豊かさを味わい知る中で、個々人の飲食・生活習慣の仕方の違いを超えて、「愛に従って歩む」(同上14:15)ことが何よりも大切だからです。

 

Ⅰ 神の国は、飲み食いではない               

ローマの信徒への手紙14:17前半――

神の国は、飲み食いではなく、(聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。)

冒頭の否定文は、強い警告の調子を帯びています。

「なぜなら、神の国は、飲み食いではないからです」……食べるか食べないかで、対立し続けている教会員を一喝(いっかつ)するような言葉です。彼らの目を覚まさせようとしています。

文脈をたどると、「ですから、あなたがたにとって善いことがそしりの種にならないようにしなさい」(ローマ14:16)⇒「なぜなら、神の国は、飲み食いではないからです」となっています。つまり、これ見よがしに、何でも食べるな、あるいは、自分の健康に並べ立てて菜食主義をひけらかすな、それでは、「善いこと」が(ねた)みや批判の材料になるではないか、とパウロが論じている、その理由づけが、ここで提示されました。

神の国は、飲み食いではない」というのは、いかにも唐突な物言いです。一瞬、「神の国」では、飲むことも食べることも無いのか、と早とちりしそうです。恐らく、「神の国」の祝宴(マタイ8:11、ルカ13:29)は中止されたりしないでしょう。なぜなら、その宴会は、主イエスによる最後の晩餐、そして、礼拝の聖餐式の系譜に連なる、永遠の交わりの儀式だからです。

それでは、「神の国は、飲み食いではない」とは、どういう意味なのでしょうか?

ヒントは、パウロがここまで、「食べることと飲むこと」(原文)について、どのように論じたかを振り返ってみることにあります。

具体的に描くと、こうなります。世のキリスト者の中には、菜食主義や酒飲の節制など良質の「手すり」(K.バルト)を保持している人がいます。彼らが、その「善いこと」を、「強い人」にひけらかすならば、どうなるでしょう。それは、「つまずきとなるものを、兄弟の前に置く」(ローマ14:13)ことになるのではないでしょうか。兄弟である「強い人」の心を痛めることになります。結果として、自分の飲食の「正しい姿勢」によって、罪を犯すことになります。

そのような、「愛に従って歩んでいない」人(同上14:15)から、「神の国」は離れてゆけども、近づいては来ないでしょう。「なぜなら、神の国は、飲み食いではないからです」。

パウロは以前、コリントの信徒への手紙 15:50で、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、()ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」と述べました。「肉と血」によって、この世的に生きる人には、神の恵みは分からないということです。「神の国を受け継ぐこと」は、主イエス・キリストによって救われ、ひたすら主を信じ続けることに掛かっています。信仰者は、神の大いなる恵みにあずかります。それが、「神の国を受け継ぐこと」なのです。

自分の飲食の「正しい姿勢」によって、「神の国」に入るではありません。「食べることと飲むこと」、その他すべてのことが、「聖霊によって」導かれて、神の支配のもとに、わたしたちの信仰生活が整えられるのが、第一に大切なのです。

 

Ⅱ 聖霊によって与えられる義と平和と喜び 

ローマの信徒への手紙14:17後半―― 

(神の国は、飲み食いではなく)、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです。

否定から肯定へと鮮やかに転じて、聴衆を引きつけるというのは、説教の王道です。付け加えると、この否定から肯定への転換には、〈かつて〉の生活から〈洗礼後〉の生活へという移行が内示されています。すなわち、これからは、救われた者として、主イエス・キリストの恵みにふさわしく歩んでいくということです。以前の、罪深く、争いの多い生活に戻らないように、心に堅く信ずべきことが、「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」との教えです。今、わたしが熱心に求めるのは、そのためです。

これは単に、将来に向けてのスローガンではありません。「神の国が、今の教会によって現れることは、神の国の出現の初めである」(K.ワルケンホースト)と言われます。完全な形で「神の国」が到来するまで、わたしたちはなお待たなければなりません。「神の国を受け継ぐ」のは、将来のことです。

しかし、「神の国」が大いなるものであるならば、信仰者は心が()かれることでしょう。わたしたちの国籍は天にある」(フィリピ3:20 口語訳)との希望を抱きながら、旅人としてこの世を歩んでいます。地上の労苦……強い人」の生活スタイルであれ、「弱い人」のそれであれ……が報われるかどうか、小さなことです。なぜなら、「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」という「神の国」に入れられることこそが、何ものにも(まさ)る、神からの賜物なのですから。

ここで、パウロはローマ教会の人々に伝えるべく、「神の国」を「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」という言葉をもって描き出しています。

この「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」との言葉を正しく理解する際には、「聖霊によって」(原文:聖霊の中にあって)との句が鍵語になります。すなわち、「聖霊」は、神からの賜物です(使徒2:38、ローマ1:11)から、自分へのこだわりを捨て、それを熱心に求めねばなりません(Ⅰコリント14:1,12)。

そのようにして、わたしたちは、「真理の霊」(ヨハネ16:13)なる「聖霊によって」、主イエス・キリストの御業と御言葉を思い起こさせられます(ヨハネ14:26)。そこで、先の言葉を言い直すならば、「聖霊によって(想起させられる、主イエス・キリストの)与えられる義と平和と喜び」となります。つまり、わたしたちが、「主イエス・キリストがどのようして平和喜びを与えられたのか」を聖霊によって教えられるように、ということなのです。何よりも、「聖霊によって」という導きにあずかることです。

ローマの信徒への手紙3:26――

このように神は忍耐してこられたが、今この時にを示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者をとなさるためです。

平和

ルカ福音書24:36 よみがえられたイエスが弟子たちに現れ――

こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和が あるように」と言われた。

喜び

ヨハネ福音書20:20――

(イエスは)そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ

このように、主イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちに、「義と平和と喜び」が与えられました。「聖霊によって」、わたしたちが主を信じるならば、「義と平和と喜び」に満たされます。福音書に見るとおり、すでにそのことを、初代教会の弟子や使徒が証ししています。今、茅ヶ崎香川教会が、「聖霊によって(想起させられる、主イエス・キリストの)与えられる義と平和と喜び」に満ちあふれるならば、「神の国を受け継ぐこと」に向かって、着実に前進しているのです。

先の引用文中に、「このように神は忍耐してこられた」(ローマ3:26)と書かれていました。なぜ、神がそうされたのかと言えば、「人は皆、罪を犯して神の栄光を受けられなくなっていた」(同上3:21)からです。神は耐え忍ぶばかりで、何も為されなかったのでしょうか。否、神は幾度も、民のもとに預言者を遣わされました。時満ちて、主イエス・キリストによって啓示される「義と平和と喜び」を予告されたのです。その中の一人の預言を読んでみましょう。

 

Ⅲ 平和と義を確立される神           

第三イザヤの時代(前519510年頃)の最も大きな出来事は、前515年、第二神殿が完成されたことでありました(歴代誌下36:22、エズラ記6:15-16 参照:第一神殿はソロモンによって建てられました)。ユダヤの民は、シオンに礼拝共同体を再建し、神の栄光を現すという希望を(いだ)いていました。

主なる神が預言者に、「立ち上がりなさい、光を照らしなさい」(イザヤ書60:1 私訳)と告げられたのは、まことに時宜(じぎ)(かな)ったことでりました。イザヤ書60:17の預言では、王不在の中で、バビロンから帰還して来た人々と、エルサレムに残留していた人々とが、どのように「治められ、導かれる」が示されました。

イザヤ書60:17 第12詩行―― 

わたしは青銅(せいどう)の代わりに金を

鉄の代わりに銀をもたらし

木の代わりに青銅を

石の代わりに鉄をもたらす。 (新共同訳)

時代の大きな転換を、短い詩で表現しています。その(こう)()さが際立っていると思ったのは、新しく入って来るもの、再び入って来るもの、捨て去られるもの、の種のものが、リズミカルに歌われていることです。

①新しく入って来るもの……より高価なもの

 「」と「

②再び入って来るもの……代替えされた後、再登場するもの

 「青銅(せいどう)」と「

③捨て去られるもの……より安価なもの

 「」と「

神が第三イザヤに啓示した、新しい世界像が物質的素材をもって描かれています。まるで、人生模様になっています。「青銅(せいどう)」と「」とはひと(たび)消え去っても、再チャレンジ・再利用の機会が与えられています。詩文上、「」と「」は隅に追いやられていますが、新しい世界で持ち場・役割が無いということではないでしょう。人々の予想もしない変化が起こることが、三種のものの興隆と没落によって打ち出されています。

イザヤ書60:17 3詩行―― 

わたしがあなたに与える命令は平和

あなたを支配するものは恵みの(わざ)(新共同訳)

この第三詩行は、ヘブライ語・原文が難解です。参考までに、私訳を掲げます。

わたしはあなたを治めるものとして平和を

また、あなたを導くものとして義をつくり出した。

前置された、物質的素材による描写から一転して、霊的なメシア預言が現れ出ます。さまざまな困難を打ち破る、新しい時代の幕開けです。将来、イエス(救い)なるキリスト(油注がれた者)によって、神の民に、大いなる祝福が(さず)けられます。「平和」(シャローム)と「」(ツェダカー 恵みの(わざ))は、「(主イエス・キリストの)与えられる義と平和と喜び」のうちの二つと合致しています。

このように旧約聖書を読むことによって、主イエス・キリストについての福音理解が深められます。

 

Ⅳ キリストに仕える人                     

 ローマの信徒への手紙14:18前半――

このようにしてキリストに仕える人は、(神に喜ばれ、人々に信頼されます。)

このようにして」と、前節と滑らかにつながっています。「聖霊」(前節 :17にありこの節 :18には無い)を鍵語として、文脈を整理しておきましょう(もう2週間後に、聖霊降臨日を迎えます 心備えをしましょう)。

神の国は、聖霊によって(想起させられる、主イエス・キリストの)与えられる義と平和と喜びなのです」(ローマ14:17)⇒「このようにして」と受けています。何を受け取ったかと言えば、「神の国」の到来とその内容についてのメッセージであります。「神の国」を待ち望み、「神の国を受け継ぐこと」を人生の一大目的とする信仰者は、その生き方に変化がもたらされます。

もうお分かりでしょうか。それが、「このようにして」なのです。U.ヴィルケンス訳では、「だから、聖霊によってキリストに仕える者は……」と、「聖霊」を補足していますが、これは()(ごく)的確です。

なぜなら、「このようにして」、「聖霊」が働かなければ、何も人間の上に起こらないからです。「聖霊」の注ぎと働きを祈り求める人こそが、「キリストに仕える人」なのです。

キリストに仕える人」を原文に即して言い換えると、「キリストの奴隷」(エフェソ6:6)となります。「キリストの奴隷」として生きることに徹するならば、何でも食べる生き方も、肉や酒を飲食しない生き方も、最重要なことでない、と気づかされます。

教会の兄弟姉妹すべてが、「聖霊」に導かれて「キリストの奴隷」として生きる中で、「何でも食べる」ことを選び取るわけではありません。同じ「キリストの奴隷」として、自分の異なる生活習慣を持っている人をつまずかせてはなりません。むしろ、自分と違ったやり方をしている人の「霊的な賜物」(Ⅰコリント12:1)がより豊かに用いられるように、寛容になることです。

 

Ⅴ 神に喜ばれ、人々に信頼される            

 ローマの信徒への手紙14:18後半――

(このようにしてキリストに仕える人は)、神に喜ばれ、人々に信頼されます。

キリストに仕える人」が「聖霊によって」、この世の束縛から解放されて、どのようになるのか、その回答が示されています……「神に喜ばれ、人々に信頼されます」。どこか、福音書で、類似した言葉を聞いたような……??

マルコ福音書12:33 律法学者はイエスに言った――

「そして、『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛し、また隣人を自分のように愛する』ということは、どんな焼き尽くす献げ物やいけにえよりも優れています。」

なぜ、「神に喜ばれ、人々に信頼される」かと言えば、その人が「神を愛し、また隣人を自分のように愛する」から、であります。言い換えれば、信じる者が神を「愛し」、そして、神が信じる者を「喜ぶ」というところに、神と人との、まことの交わりがあります。

マルコ福音書12:34――

 イエスは律法学者が適切な答えをしたのを見て、「あなたは、神の国から遠くない」と言われた。もはや、あえて質問する者はなかった。

罪深く、自分のことばかり考えていた者が、「このようにして」・「だから、聖霊によって」、「神に喜ばれ、人々に信頼される」人に変えられます。「あなたは、神の国から遠くない」……なぜなら、「神の国は、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」ということを信じ、それに伴う行いをしているからです。

聖霊」の助けにより、「神に喜ばれ、人々に信頼される」というのは、キリスト教倫理の根幹です。それにふさわしく生きるという倫理的な目標です。サタンは、わたしたちの熱心な求めを(くじ)こうと、(すき)()っています。「わが主イェスに従いゆき、こころ低く 目あては高く」(讃美歌Ⅱ-59番)、われら共々、「神の国」を目指しましょう。

今こそ、わたしたちは、パウロが新しい時代の生活、その倫理の初めに語ったことを思い起こしましょう。

ローマの信徒への手紙12:1―― 

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

ここには、「兄弟たち」がどのようにすれば、「神に喜ばれる」か、が明示されています。

キリスト者の生活は、まことの「いけにえ」なるイエス・キリストを信じ、愛することから始まります。わたしたちの罪を償ってくださった十字架の主、イエス・キリストへの感謝と証しとして献げる「礼拝」が、あらゆるキリスト教倫理の出発点となります。主イエス・キリストを通して、告白・感謝・賛美という霊的な「いけにえ」を献げる神礼拝が、わたしたちの生活の中心であると「わきまえる」(ローマ12:2)ことです。

闇の底に張り付いたような、感情的に乗り越えられない問題も、正しい福音理解に沿って、解決への光が見えてくるのではないでしょうか。

 

Ω

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

説教の要約〉

2022年 5月15日 大人と子どもの合同礼拝                 

新約聖書 使徒言行録 17章22節~31節

       「信仰のあつい、アテネの皆さん」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あなたがたが知らずに(おが)んでいるもの ……使徒17:22-23             

Ⅱ すべてのものを与えてくださる      ……使徒17:24-25 

Ⅲ 人に神を求めさせるため              ……使徒17:26-27   

Ⅳ わたしたちは神の子孫なのです    ……使徒17:28-29           

Ⅴ 神はこの方を死者の中から復活させた ……使徒17:30-31  

 

第2回伝道旅行(紀元49-52年頃)の際、パウロはじめ「わたしたち」(使徒16:1017:27,29)はアジアからヨーロッパに渡りました。「わたしたち」は、ギリシアを東から西へ、それから南へと、イエス・キリストについて教えながら、各地を巡り歩いていきました。

当時、ギリシアでは4年に一度、古代オリンピックが開催されていました。中でもマラソンは、マラトンという町からアテネまで伝令(でんれい)(兵士)走ったことを記念して、競技に取り入れられました。パウロが旅していた、紀元後1世紀においても、アテネは自由都市として活気に満ちあふれていました。

小アジア・タルソスで生まれ、エルサレムで律法を学んだユダヤ人のパウロにとって、見るもの聞くものすべてが新鮮に映ったのではないかと思われます。そんな異教の世界・真っただ中のアテネで、パウロは説教することになりました。それは、有名なパルテノン神殿にほど近い、アレオパゴスの丘で行われました。そこには、ギリシア語で本日のテキスト・使徒言行録17:22-33の刻まれた石碑が建っています。この丘からは一望の下に、アテネの町と海岸を見ることができます。

さて、そんなアテネの様子と、少し緊張していたかも知れないパウロを思い浮かべながら、説教することにしましょう。

アテネの人々の中には土地柄もあって、哲学的な論議を得意とする人が多くいます。そのことを踏まえ、パウロの説教は、Ⅰ 現状について 神について 神と被造物について 人間について 主イエス・キリストについて、というように(なめ)らかに展開されています。

 

Ⅰ あなたがたが知らずに(おが)んでいるもの 

使徒言行録17:22-23―― 

22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」

パウロは会堂の説教壇に立つ(ルカ4:16)ように、「アレオパゴスの真ん中に立って」語り始めました。「アテネの皆さん」との晴れやかな呼びかけが、丘にこだましました。この町(アテネ)の至るところに偶像があるのを見て憤慨(ふんがい)した」(使徒17:16)との思いは、心の内に押さえていました。

説教においては何よりも、会衆に耳を傾けさせることが大切です。そこでパウロは、「信仰のあつい」というアテネ人の特質に言及しました。ここで、「信仰のあつい」とは、被造物やこの世の背後にある何かの力を感じ取ることに()けているという意味でしょうか。確かにギリシア人は、人間を超えたところにある美や知恵について考えたり、それを造型したりするという点で、目を見張るものがありました。

偶像を造り拝むことに走りがちという点では、イスラエルの民はギリシア人に引けを取らないということを、パウロは(しん)()考えていたのではないでしょうか。例えば、イスラエルの民がパルテノン神殿ある場所に、聖なる高台を築き(列王記上3:2-4)、金の子牛を供える(出エジプト記32:1-4)ような罪など犯さないとは、誰も保証できません。

問題は、被造物やこの世の背後にある何かの力を感じ取ることが、人間中心に行われるか、それとも、神の御心に添って行われるか、にあります。正しい意味で、「信仰のあつい」とは、神とわたしたちの緊密な関係の中で、「神とは何か」を、神の臨在と御言葉(イザヤ書40:8)によって知らされる人を指しています。

被造世界の中で生活しているわたしたちが神を認識することに関して、K.バルトはこのように述べています。

 そこで、われわれはノアが箱舟から(からす)や鳩を放ったように(創世記8:6以下)、われわれの思想をいわば飛び立たせなければならない。できれば、われわれの思想が、神のいる彼岸に、向こう側に、未知なるところに到達するためである。

ひと(たび)、自分の考えること、行うこと、そして造り出すことを捨て去って、神が与えてくださるものに心を開き、受け止め、そして信じるときに、その人は、「信仰のあつい」人に変えられます。パウロは即座に偶像崇拝している人々を切り捨てたりしません。イスラエルの王や預言者の中にも、そのような人々がいました(サムエル記上15:23、ゼカリヤ書13:2)。パウロは、罪深い者を、「信仰のあつい」人へと導く、神の忍耐と憐れみを確信しています。

それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう」……ここに、説教の本論が始まります。アテネの人々に伝道するという、パウロの固い決意がうかがわれます。パウロは何とかして、『知られざる神に』という祭壇を()(しょう)(だい)()し、「知らずに拝んでいる」人々を救いたいと願っています。

「ジュネーヴ教会信仰問答」(カルヴァン著)の問1は、「人生の主な目的は何ですか」で、その答えは、「神を知ることであります」(ローマ1:20,21)となっています。わたしたちの第一の幸いは、「神を知ること」にあります。無知な聴衆を信仰入門させるべく、パウロの説教は、「Ⅱ 神について」へと移行します。

 

Ⅱ すべてのものを与えてくださる    

使徒言行録17: 24-25 パウロの説教――

24 「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。25 また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです。」

パウロは、指呼(しこ)(かん)にパルテノン神殿を望みながら、この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません」と述べました。

聖書の最初に「創世記」が置かれているように、パウロは、神が造り主であることから説き始めました。というのも、「世界とその中の万物とを造られた」という中でも、「神が自分を造った」ことが基本になるからです。「神が造り主である」ことによって、神は人間と深い関わりを持っておられます。人間は神にかたどって創造されたものであり(創世記1:26-27)、その全生活において神の栄光を現すように、神から祝福されています(同上1:28)。このように、「それをわたしはお知らせしましょう」という、その内容は、まさに喜びの知らせ・福音でありました。

ここで、パウロは、世の人の愚痴(ぐち)をあぶり出すかのように、「何か足りないことでもあるかのように」との決まり文句を(かか)げています(ヨハネ6:7)。神によって満たされることを知らない人は、自分で不足を埋め合わせようとします。それによって、いつも周りに、「何か足りない」とこぼすことになります(比較:エフェソ4:11-19)。これが、人間の欲望の実体です。

そのような不安に取り()かれた人をなだめるかのように、パウロは「すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」と告げました。神は人を造られたのみならず、人を守り、人を生かしてくださいます。人間が罪に陥っても、そこから救い出してくださいます。そのような神と人の関係が強固になり、人が神を信じるとき、人は「人らしく生きる」ようになります。

 

Ⅲ 人に神を求めさせるため               

使徒言行録17: 26-27 パウロの説教―― 

26 「神は、一人の人からすべての民族を造り出して、地上の至るところに住まわせ、季節を決め、彼らの居住地の境界をお決めになりました。27 これは、人に神を求めさせるためであり、また、彼らが探し求めさえすれば、神を見いだすことができるようにということなのです。実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません。」

ここでは、新しい角度から、神と人間とのつながりが物語られます。まず、人が人らしく生きられるように、神が時空間を保持し支配していることが表されています。

パレスチナの地においては、「季節」は、冬と夏、二季を指しています。この「季節」の中に、過越祭・(なな)(しゅう)(さい)・仮庵祭などの祭日が配置されています。また、「境界」は、民族などの「居住地の境界」と同時に、海と陸地の「境界」を表しています。神は水が岸を越えないように見張っておられます(詩編104:9)。

神によって定められた「季節」と「境界」のもとで、わたしたちは生活しています。何より大切なことは、今自分が生きている時と場所において、神に感謝し、神を讃美するということです。言い換えれば、それは、人がいつでも、どこでも、「神を求め」、「神を見いだす」ということであります。そうだとすれば、日々の暮らしに追われながらも、わたしたちの生活は神中心となるに違いありません。

「〈問いをもって彼らが探し求めさえすれば、その答えとして神を見いだすことができる」というのは、「ジュネーヴ教会信仰問答」の1と並行しています。すなわち、「神とは何か」のと問いを掲げ、神を知ること」に心を傾けることにほかなりません。宗教改革者は、無知な「人に神を求めさせる」とのアレオパゴスの説教の主旨を汲み取ったかのように、そのことを信仰問答の起点にしています。

パウロは、季節」や地の「境界」において神が見いだされる以上、実際、神はわたしたち一人一人から遠く離れてはおられません」と言います。悩み深くまた繊細なエレミヤは、「①わたしはただ近くにいる神なのか、と主は言われる。わたしは遠くからの神ではないのか」(エレミヤ書23:23)との問いかけを書き留めています。

端的に神からエレミヤへの答えを示すならば、②神は人の思いをはるかに超えて高い(イザヤ書55:9)が、①神は限りなく人に近づいて来られるということです。神が人に寄り添っていることの(きわ)みは、「キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)との一句に証言されています。御子、イエス・キリストは御父によってこの世に遣わされ、わたしたちの間に宿られました(ヨハネ1:14)。

パウロの説教では、Ⅲ 神と被造物について 人間について というように、神の御手の内にある人間の姿が掘り下げてゆかれます。

 

Ⅳ わたしたちは神の子孫なのです             

使徒言行録17:28-29 パウロの説教―― 

28 「皆さんのうちのある詩人たちも、

『我らは神の中に生き、動き、存在する』

『我らもその子孫である』と、

言っているとおりです。29 わたしたちは神の子孫なのですから、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません。」

ユダヤ人はしるしを求め、ギリシア人は知恵を探します」(Ⅰコリント1:22)とのパウロ自身の言葉を想起させるかのように、ここに、ギリシア詩人の言葉(紀元前270年頃のギリシア詩人・アラトスのゼウス賛歌『フェノメナ』)が引用されています。パウロは、最後まで説教を聞かせようと企図しています。

我らは神の中に生き(原文:ザオー、動き、存在する」という詩句は、神は「すべての人に(原文:ゾーエーと息を与えてくださる」(使徒17:26)と響き合っています。ここでは、わたしたちは、「神の中に」あって、人らしく生きるのであると強調されています。わたしたちの「」は「神の中に」宿っていると言うほどに、神とわたしたちとは深くつながれています。

人間の創造について、「主なる神は、その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)と描かれています。人間の「」は単に生きる力というのではなく、そこに「」、すなわち、「」が吹き入れられたものです。わたしの内に「命の息」が吹き巡るとき、わたしの「」の力によって(ヨブ記10:12)、わたしは自由に、また、さらなる高みをめざして生きていくのです。

わたしたちの内に「命の息」があるが故に、わたしたちは神を「知っている」のであります。「わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている」(ヨハネ10:14)との主イエスの御言葉の通りです。もっともっと「神を知りたい」……自分の内に、そして、ギリシア人の中に働いている神を見いだしたい、説教者・パウロはそのように願っているのではないでしょうか。

すでに見たように、「パウロはアテネで二人を待っている間に、この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨(ふんがい)した」(使徒17:16)と報じられています。今、アレオパゴスの丘で、パウロはギリシア人に語りかけています。人前で激怒してはなりませんが、やはり、(しか)るべきことがあれば、当然見過ごしてはなりません。そこでパウロは、神である方を、人間の技や考えで造った金、銀、石などの像と同じものと考えてはなりません」と(いまし)めました。

「Ⅳ 人間について」の総括として、わたしたちは神の子孫なのです」、ならびに、「我らもその子孫である」と述べられています。最後の「 主イエス・キリストについて」を視野に入れながら、説明しましょう。

パウロは、神を信じる者が「神の子孫」ということで、人間を神格化しようとしているのではありません。人間は神によって造られたものであり、神そのものではありません。また、子どもが産まれたら、自動的に「神の子孫」となるということでもありません。

あくまでも、神との人格的な関係において、「我らもその子孫である」ことが成り立つということです。神の一方的な恵みに、神を信じる者があずかってはじめて、「神の子孫」にされるのです。言い換えれば、何の(いさお)も無い者が、神の招きに応えて、「神の子孫」として、愛と義をもって生きていくことが、キリスト者の使命なのであります。わたしたちの持てる能力ではなく、主イエス・キリストによって、わたしたちはその使命を全うできるよう導かれます。

 

Ⅴ 神はこの方を死者の中から復活させた 

使徒言行録17: 30-31 パウロの説教―― 

30 「さて、神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいましたが、今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、命じておられます。31 それは、先にお選びになった一人の方によって、この世を正しく裁く日をお決めになったからです。神はこの方を死者の中から復活させて、すべての人にそのことの確証をお与えになったのです。」

説教者は、「さて」との句をもって結論を語り出します。「この方」は、主イエス・キリストを昭示しています。

悔い改めるように」勧める際に、パウロは、大きな時代区分を指し示しました。

過去〉「神はこのような無知な時代を、大目に見てくださいました

↓       ↓

現在将来〉「今はどこにいる人でも皆悔い改めるようにと、神は命じておられます

これが、「神の計画なのだ」ということです。パウロがアレオパゴスの丘でギリシア人に向けて説教しているのも、「神の計画」の一端なのです。聴衆のギリシア人は、「無知な時代」に居座り続けるのか、それとも、「悔い改め」て、新しい時代に入って行くのか、が問われています。「この世を正しく裁く日」が到来する前に、一人ひとりが決断しなければなりません。

最後の最後に、パウロは、聴衆が「皆悔い改めるように」、主イエス・キリストの御前において、ということを明らかにします。なぜなら、主の御前に立ったとき、人は自分を真っ直ぐに見つめられるからです。

最重要なことが、主イエス・キリストの御業について語られます……「神はこの方を死者の中から復活させた」。これこそまさに、喜びの知らせ・福音です。説教の冒頭で、それをわたし(パウロ)はお知らせしましょう」と言った、その内容の力点が、ここに表されました。

悔い改め」て、「神はこの方を死者の中から復活させた」という主イエス・キリストを信じなさい、ということです。パウロの説教はまことに簡にして要を得たものでありました。哲学者(ぜん)とした強者(つわもの)に動じることはありませんでした。聖霊に導かれ、冷静でした。何よりも、神がパウロはじめ「わたしたち」の味方でありました(ローマ8:13)。

 

Ω

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〈説教の要約〉

2022年 5月8日                           

旧約聖書 創世記 7章1節~2節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 14章13節~16節

             「キリストはその兄弟のためにも」

                                                        小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 清い動物も、清くない動物も       ……創世記7:1-2             

Ⅱ 互いに裁き合わないようにしよう         ……ローマ14:13

Ⅲ わたしは主イエスにあって知り、確信している 

                                               ……ローマ14:14  

Ⅳ キリストはその兄弟のために死んでくださった

                                          ……ローマ14:15          

Ⅴ あなたがたにとって()いこととは        ……ローマ14:16 

Ⅵ わたしはあなたを(ただ)しい人と認めた      ……創世記7:1-2

結 

 

今、パウロは小アジアのエフェソから、ローマの教会に手紙を書いています。ローマの信徒への手紙14:115:13では、キリスト教倫理を踏まえ、牧会的な問題について指導を試みています。リモート(remote)での牧会が苦労の多いものであったということは容易に想像できます。情報不足による行き違いがあったことでしょう。そこで、主の導きを祈りつつ、パウロはますます知恵と熱意を込めて手紙を書いたことでしょう。

ローマ教会内には、野菜を食べるか食べないか、ぶどう酒を飲むか飲まないか、そして、特定の日を重んじるか重んじないか(ローマ14:4,6,21)、について異なる意見または生活慣習がありました。そのため、教会に亀裂が生じ、多数派・「強い人」(ローマ15:1)と少数派・「弱い人」(同上14:1,2)との間には、「軽蔑」と「裁き」が渦巻いていました(同上14:3)。

パウロは、「信仰のみによって生きよ、汝の敵を愛せよ」(ガラテヤ2:16、マタイ5:44)と、一喝(いっかつ)して、「はい、仲直り」とは言いませんでした。パウロは主イエス・キリストに依り頼みながら、「強い人」と「弱い人」とが互いに受け入れる(ローマ14:1,3)道を探っていきました。対立しているような信徒たちが垣根を越えて認め合うところに、教会のまことの成長と交わりがあったからです(E.ケーゼマン)。

ローマの信徒への手紙14:115:13には、ローマの教会の現状に合わせて使徒からの勧告が明示されています。そこには、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者とが集う「国際的・民族的」な背景があります。皆さんは、教会内に時に波風が立つことについては真剣に耳を傾けなければと思う一方で、菜食主義者(ベジタリアン)や祭日に関する教会暦については、「特殊な」問題と見なされるでしょうか。

確かに、その「特殊な」問題それ自体は、多くの日本の教会において、今取り組まなければならないというものではないでしょう。しかし、わたしたちの教会に人が集っている以上、そこには、「強い人」と「弱い人」の争い、また、「軽蔑」や「裁き」の悪感情が全く無いとは言えないでしょう。仮に、教会が「健全」であったとしても、ローマの「特殊な」問題とそれに対する勧告は、信仰者が自分の教会に適用して習得すべきものだと思います。何よりも、信仰者の間に看過できない「つまずきとなるもの」が生じているとき、愛と知恵に満ちたパウロの勧告は「普遍的」に、どの教会においても役立つに違いありません。

パウロが牧会的な問題に対処する際によりどころにしたのは、旧約聖書であります。わたしは……イスラエルの民に属し……ヘブライ人の中のヘブライ人で……律法に関してはファリサイ派の一員」ということですから、勧告の背後にある「律法」を見ておくことにしましょう。

 

Ⅰ 清い動物も、清くない動物も                    

創世記7:1-2――

1 主はノアに言われた。

 

「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。」

ここには、ノアが箱舟に入る際のいきさつが描かれています。主なる神は、迫り来る洪水からノアを守るべく、命令を下されました。同時にこれは、洪水後の、新しい世界に向けての約束になっています。全世界を(おお)う神の裁きの中で、ノアに逃れる道」(Ⅰコリント10:13)が示されます。果たして、ノアは神の命令に従って行動するのでしょうか?

ところで、箱舟に入れられるべきものとして、「清い動物」と「清くない動物」とが出て来ます。箱舟物語の他の箇所で、「(けもの)」・「家畜」・「地を()うもの」・「」などと表記されている(創世記7:14)ものの、具体的な動物名は見当たりません。

恐らくは、「清い動物」と「清くない動物」との区別は、「食べてはならない」または「食べてよい」という食物規定(レビ記11:1-23、申命記14:3-20)と関係しています。その動物が食べられるかどうかは、宗教上のみならず医学上においても、喫緊(きっきん)の要事でありました。その点で、極めて厳格な立場を取っていたのが、ローマ教会に存在した菜食主義者(ベジタリアン)でありました。

それでは、創世記7:1-2の命令を通じて、いったい何が物語られているのでしょうか?

端的に言えば、ノア、「清い動物」、そして「清くない動物」は箱舟に入ることを許され、洪水後の新しい世界においても、それらのものが生存し続けるということです。(ただ)しい人ノアを取り囲むように、「清い動物」と「清くない動物」とが生きている被造世界が保たれるということです。

確かに、「清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取り」という不均衡(アンバランス)はありますが、「清くない動物」も、洪水、すなわち、神の裁きによって滅ぼされることはありませんでした。地上の肉なるものとして、ノアとその家族と共に、神の救いにあずかっています(創世記9:15-17)。

旧約の「律法」を要約すると、その動物が食べられるかどうかについては、ユダヤ教独自の見解があった、なぜなら、古来より「清い動物」と「清くない動物」との区別が尊重されてきたから、ということです。さらに、「清くない動物」に関してユダヤ社会に禁忌(タブー)があるとはいえ清くない動物もまた被造世界の一員であり、神の憐れみのもとに置かれている、ということです。

この後半のメッセージこそ、パウロに感化を及ぼしていたのです。律法に関してはファリサイ派の一員」というパウロは受けた教育の恩恵は、キリストの教会を牧会するときにも役立てられています。もし、あなたが或る人々の禁忌(タブー)になっている「清くない動物」を食べているとしても、あなたはパウロにとって、神の憐れみのもとにある教会員であることに変わりありません。

 

Ⅱ 互いに裁き合わないようにしよう             

ヨハネ福音書14:13――

従って、もう互いに裁き合わないようにしよう。むしろ、つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい。

パウロは明らかに前節(ローマ14:12)の、「一人一人、自分のことについて神に申し述べることになる」という最後の審判を見通しながら、「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と命じています。日頃、兄弟姉妹として互いに「魂への配慮」を心掛けなければならないのは、終わりの時に、「隠れたこともすべて 裁きの座に引き出される」(コヘレト12:14、ローマ14:10)からです。パウロのまなざしは、諸教会の信仰者が平和のうちに、神の国に入って行くということに向けられています。ここに、彼の忍耐強さの源があります。

また、前段(ローマ14:1-12)の結論としてパウロは、神と人との結びつきの再確認または修復が、人と人との間の問題を解決する(もとい)となると述べました。「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との言葉は、わたしたちが何を見なければならないのか、また、どこをめざしているか、を指し示しています。わたしたちが「主のために生き、死ぬ」とき、わたしたち一人ひとりに賜物が与えられ、なおかつ、わたしたち皆、手を携えて神の国に向かって歩んでいます。

という結論を受けて、パウロは「従って、もう互いに裁き合わないようにしよう」と命じています。「互いに」とは、「弱い人」(ローマ14:1,2)と「強い者」(ローマ15:1)、両グループを指しています。先に、片や、強い人」(食べる人)が「弱い人」(食べない人)を軽蔑し、片や、「弱い人」が「強い人」を裁いているということが指摘されていました(ローマ14:3)。別の手紙でも、パウロは「先走って何も裁いてはいけません」(Ⅰコリント4:5)と命じています。

主イエスが関わられた「姦通(かんつう)の女」の出来事(ヨハネ8:1-11)を見れば、先走って裁きがちなわたしたちの性向と神の寛容とを感得することができます。「こういう女は石で打ち殺せ」(同上8:5)、自分の正しさを振りかざすとき、そこにがあるかどうかが問われています。

ここでパウロは、即時に裁いたりしないように、まずは「つまずきとなるものを、兄弟の前に置かないように」努めなさいと言っています。

例えば、「強い人」(食べる人)が「弱い人」(食べない人)に対し、「つまずきとなるものを置かないように」するには、どうすればよいのでしょう? 一つの回答は、「強い人」はこれ見よがしに、「弱い人」の前で、何でも食べるな、ということです。どうして??

そういうふうに「強い人」が振る舞うと、「弱い人」が「心を痛める」(ローマ14:15)ことになるからです(後ので詳述します)。確かに人には影響を受けやすいところがありますので、菜食主義者(ベジタリアン)弱い人」は自分の食習慣を放棄するか、あるいは逆に、ますます意固地(いこじ)になって自分のやり方を貫くでありましょう。

面倒くさい、ささいなことかも知れませんが、問題は、「強い人」が存在すること自体において(K.バルト)、「弱い人」が自ら不安になってしまうことにあります。深刻な事態を招きかねません。信仰が揺さぶられることになります。

世のキリスト者の中には、菜食主義者(ベジタリアン)酒飲の節制など良質の「手すり」(K.バルト)を保持している人がいます。「弱い人」がそれを喧伝(けんでん)することもまた、「つまずきとなるものを、兄弟の前に置く」ことになります。というのも、納得できず訳も分からないままに、強い人」が厳格な食習慣に縛られることになるからです。ともかくも初代教会において、折々に「愛餐会」が催されたとすれば、これは教会内、主にある交わりにおいて看過できないことでありました。

 

Ⅲ わたしは主イエスにあって知り、確信している   

ヨハネ福音書14:14――

それ自体で(けが)れたものは何もないと、わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。汚れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです。

ここで、前後の節につながりを裂く形で、補足的なことが書かれています。飲食に関わる牧会指導に関する、パウロの基本姿勢が紹介されています。

伝道者は、キリスト教倫理を踏まえて、牧会的な問題について指導しています。しかし、強い人」と「弱い人」との対立が苛烈になったり、問題が複雑になったりすると、自分の考えで事を片づけてしまう恐れが出て来ます。(かか)えている懸案(けんあん)が、近現代の社会を背景にしており、「聖書」に範例が見出せないことがあります。いな、それ以前に、伝道者が「強い人」・「弱い人」、いずれかを裁いてしまうことも起こりかねません。

さすがに、パウロは一呼吸つくように、キリスト教倫理の原点に立ち帰り、聖書」をひもといています。

わたしは主イエスによって知り、そして確信しています。

主イエスによって」(主イエスにあって / 主イエスの中で)との句が鍵になります。パウロに強い確信をもたらしているのは、十字架と復活の主イエス・キリストです。実際、パウロはここで、「外から人の体に入るもので人を(けが)すことができるものは何もなく、人の中から出て来るものが、人を汚すのである」(マルコ7:15)との主イエスの教えを想起しています。それに従って、「それ自体で(けが)れたものは何もない」と、パウロは述べたのです。

主イエスは弟子たちに、人間の心から出て来る、悪い思いが人を(けが)す、しかし、人間の腹に入り外へ出される、すべての食べ物は清められる(マルコ7:18-23)と教えられました。要は、神を信じ、罪を犯さないよう心掛けなさいということです。ファリサイ派など律法学者たちは、「昔の人の言い伝え」(同上7:5)、食物規定に従って歩むことに縛られ過ぎていたのです。

信仰的な「律法学者」とも称呼できる菜食主義者(ベジタリアン)への配慮からでしょうか、(けが)れたものだと思うならば、それは、その人にだけ汚れたものです」とパウロは彼らに理解を示しています。「それ自体で(けが)れたものは何もない」のだから、食べ物について「(けが)れた」と考えるのは間違いだとは言っていません。

いずれにせよ、「それ自体で(けが)れたものは何もない」とのパウロは普遍的な〈神に全幅の信頼を置いている〉思考は、「清くない動物もまた被造世界の一員であり、神の憐れみのもとに置かれている、とのノア物語のメッセージと響き合っているように思われます。パウロは、人間を取り囲むように、「清い動物」と「清くない動物」とが生きている被造世界の一員として、神への感謝に満ちあふれていたのです。それ故にまた、パウロは、「清い動物」と「清くない動物」との区別、或る物を食べないということを生活習慣に取り入れている人々を優しい目で見守っていました。

 

Ⅳ キリストはその兄弟のために死んでくださった        

ヨハネ福音書14:15――

あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば、あなたはもはや愛に従って歩んでいません。食べ物のことで兄弟を滅ぼしてはなりません。キリストはその兄弟のために死んでくださったのです。

主イエスにあって」、一呼吸ついたパウロは、先の「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように」、との議論を展開していきます。ローマ教会の人々が、隣人の前につまずきを置かないと「決心」できるように、説得しています。

ここで、聖霊が宿ったかのごとく、パウロは鋭い勧告を発しています。

あなたの食べ物について兄弟が心を痛めるならば」という言葉には、「魂への配慮」がにじみ出しています。「心を痛める」というのは、「圧迫される」・「苦しむ」という意味です。パウロは相手に同情し、相手の琴線に触れています。

具体的に言うと先述の通り、「強い人」がこれ見よがしに、「弱い人」の前で、何でも食べ、そうして、「弱い人」は自ら不安に陥るという情況が想定されます。そんな「強い人」の顔を見たくもないのですが、「弱い人」の心の内では、「強い人」の存在が肥大化し、圧迫されることになります。

もし牧会者が、それを過敏だ、被害妄想だといって、相手にしないならば、教会の中に「心を痛める」信徒が増えていくことにもなりかねません。どのように、「兄弟が心を痛める」ことを受け止めればよいのか、というところで、パウロは最も大切なことをもって語りかけます。

それが、「あなたは愛に従って歩んでいる」かどうか、しっかりと考えてみなさい、ということです。

自分にだって、飲食についてのやり方・考え方がある、人に迷惑かけない範囲で自由に振る舞って何が悪い、菜食・禁酒の「弱い人」に圧迫されているのは、こっちの方だと、言い返したいところです。がまさに一息ついて、自分が「愛に従って歩んでいる」か、問い直してみることです。「食べ物のことで兄弟を滅ぼす」というのは決してあってはならないことです。

愛に従って」との句に明示されているように、わたしたちは「主イエス・キリストの愛に従って」ということを人生の基軸にしています。わたしたちの内に、心を痛めている「弱い人」に同情する力、豊かな愛があるとは書かれていません。わたしたちが「主イエス・キリストの愛に従って」歩んでいるときに、「弱い人」を憐れみ愛するようになるのです。自分の「水がめ」(ヨハネ4:28)や「香料」(ルカ234:1)をそこに置いたまま、「愛に従って」、助けを必要としている人のところへ駆けて行き、その人に語りかけるということです。

ローマ教会の人々がこの「」(アガペー)を確実に想起するように、パウロは、「キリストはその兄弟のために死んでくださったのです」と告げました。キリストは、神の御前で裁かれるべき……人が先走って裁いてはなりません……「弱い人」のためにも、死んでくださいました。

キリストはその兄弟のために死んでくださった」ことによって、「神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)。「弱い人」も「強い人」も、キリストという代価を払って買い取られた者であります。神の愛によって救われた一人ひとりは、神の栄光を現す使命を帯びています。

 

Ⅴ あなたがたにとって()いこととは             

ヨハネ福音書14:16――

ですから、あなたがたにとって()いことがそしりの(たね)にならないようにしなさい。

ここでは、「あなたがた」が何でも食べる「強い人」だとして、説き明かしましょう。

あなたがたは、「清い動物」と「清くない動物」を区別するような「律法」から解放されて、ただ信仰のみによって生きるようになりました。あなたがたは毎日、何を食べるのか、何を飲むのか、自由に振る舞っています。それは、「あなたがたにとって()いこと」です。

しかし、最も重要なことは、「キリストはその兄弟のために死んでくださった」という福音に基づいて、神の愛を信じ、神と隣人に仕えることです。時には、自分の自由を脇に置いて、「弱い人」がつまずかないように、「」(アガペー)をもって支えなければなりません。重荷を負って労苦するとき、神があなたがたの信仰を守り導いてくださると信じましょう。

コリントの信徒への手紙 9:22――

弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。

あなたがたにとって()いこと」を、自分であまりにも強く握り締めると、生気を失います。聖霊の注ぎが()まってしまいます。霊的に枯れ果てていれば、周りから非難を受けやすくもなります。そしりの(たね)になる」というように、あなたがたは悪しざまに言われかねません。

あなたがたにとって()いこと」を「強い人」同士で守ろうとするところに、教会の成長はありません。むしろ、教会の中に、「強い人」と「弱い人」がいて、忍耐強く軽蔑」や「裁き」の悪感情を取り払い、平和をつくり出していくところに、教会の大いなる成長がもたらされるでしょう。

 

Ⅵ わたしはあなたを(ただ)しい人と認めた          

創世記7:1-2――

1 主はノアに言われた。

「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。2 あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい。」

神からの賜物として「()いこと」をさずかり、その「()いこと」をこの世で活用し、増やしている人は、「(ただ)しい人」であるに違いありません。

ノアの家族と並んで、「清い動物のつがい」と「清くない動物のつがい」が箱舟に入って行きました。ここには、神の創られた被造世界の原像が示されています。そして洪水後、神から「(ただ)しい人」と認められたノアに、新しい世界での再出発が託されます。「強い人」と「弱い人」とが寄り合っているこの世界で、人々が神の喜ばれる「()いこと」を尊び、信仰を基とする人生を送っていく、その中心に「(ただ)しい人」ノアが立っています。主イエス・キリストの啓示を知らないノアに限界があるのは、言うまでもありませんが……。

そこで、ノアの後継者としてわたしたちは、どのようにして神に「(ただ)しい人」と認められるのか、確かめることにしましょう。主イエス・キリストの啓示を表している神の御言葉を読みましょう。

そこには、「強い人」も「弱い人」も、信じる者は、神によって「(ただ)しい人」とされること、また、神への感謝・応答をもって生きていくことが宣べ伝えられています。神の国をめざして、一緒に歩んで行くというところに、「強い人」と「弱い人」との真の和解があります。

 

結 

本日のテキストでパウロがローマ教会に示した福音メッセージの中心は、「キリストはその兄弟のために死んでくださった」(ローマ14:15)ことによって、「神はわたしたちに対する愛を示されました」(同上5:8)ということでありました。このことは、ローマの信徒への手紙の前半で、集中的に説き明かされています。

ローマの信徒への手紙3:25-26――

25 神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を(つぐな)う供え物となさいました。それは、今まで人が犯した罪を見逃して、神の義をお示しになるためです。26 このように神は忍耐してこられたが、今この時に義を示されたのは、御自分が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさるためです。

上の「神はこのキリストを立て、その血によって信じる者のために罪を(つぐな)う供え物となさいました」を、簡潔にしたのが、「キリストはその兄弟のために死んでくださった」との言葉になります。いずれも、主イエス・キリストによる十字架と復活による救いを言い表し、「福音」(喜びの知らせ)と呼ばれています。

神は正義によって、十字架上の主イエス・キリストに怒りを下し、罪を裁かれました。この時には、罪を見過ごしにされないで、主の十字架においてまさしく罪を裁かれました。そうして、私たち・人間の罪は赦されました。そして、この「福音」の「福音」たるゆえんは、神が御子によって成し遂げられた出来事において、「神はわたしたちに対する愛を示された」(ローマ5:8)という点にあります。

わたしたちは、神がこれほどまでに、信じる者を愛しておられるということを知ったのであります。それのみならず、「御自分(神)が正しい方であることを明らかにし、イエスを信じる者を義となさる」(ローマ3:26)ということが示されました。

ノアは、洪水という大災難を乗り越えて、礼拝共同体の中心人物(創世記8:20-22)として生きていくように、神から選ばれました。それが、「わたしはあなたを(ただ)しい人と認めた」(同上7:1 私訳)という神の宣言であります。そして、このことがまさに、主イエス・キリストの救いにあずかる人々に関わる預言となっています。すなわち、ノアが神によって義と認められたように、「イエスを信じる者」は「神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)のであります。

教会の中に、対立するグループが存在したり、打開策が見当たらないようなとき、信仰者にとって大切なことは、揺らぐことのない土台に立ち続けることでありましょう。それが、主イエス・キリストの「福音」によって現された神のであります。神は無償で、そのをわたしたちに分かち与えておられます。

強い人」から再三、意見表明されても、あるいは、「弱い人」から長話を聞かされても、一呼吸つくように、イエス・キリストなる土台に立ち戻りましょう。「ひかりをたまいし」今日(讃美歌-55番)は、その時であります。

Ψ

 

 

 

最 重 要 点

パウロによる、ローマ教会の牧会

 

あなたは、どのような心をもって、(かたわ)らにいる人と接していますか

キリストがその兄弟のために死んでくださった」ことによって、

神はわたしたちに対する愛を示された」。

イエスを信じる者」は「神の恵みにより無償で義とされる」。

神から賜っている「」と「」(両方です)に、自分がいつも満たされているように

(神の「」を自分の正しさと勘違いしないように ノア物語参照)

兄弟姉妹との交わりや日常生活で疲れを覚えたら、一息つきましょう。

 

 

 

 

Ω

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〈説教の要約〉

2022年 5月1日                              

旧約聖書 エレミヤ書 18章18節~20節

新約聖書 ヨハネによる福音書 18章12節~18節

       「私はそうではないと言ったペトロ」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスを()らえて(しば)り、連れて行った  ……ヨハネ18:12-13             

Ⅱ 一人の人間が民の代わりに死ぬ           ……ヨハネ18:14

Ⅲ もう一人の弟子は、ペトロを中に入れた 

                       ……ヨハネ18:15-16  

Ⅳ ペトロは、「違う」と言った          ……ヨハネ18:17-18          

Ⅴ 悪をもって善に報いてもよいでしょうか

                   ……エレミヤ書18:18-20

 

「主の晩餐」(ヨハネ13:2)を終えた後、主イエスは弟子たちと共に、キドロンの谷の向こうへ出て行かれました。そして、ゲツセマネの園で、イスカリオテのユダはじめ敵対者たちと(たい)()することになりました(ヨハネ18:1)。逮捕、裁判、そして刑の執行、と事態は、まさに急転直下していきます。

(にわとり)はまだ朝を告げていません。「」(ヨハネ13:30)が()けると共に、陰謀(いんぼう)はじめ人間の罪深い行いが駆け巡りました。

過越祭が近づいて、満月が輝いていたことでしょう。その光が罪人たちの(あく)(ぎょう)を照らし出していました。人々は勝手気ままな全会衆」(ルカ23:1)と()してこの世の暗さや陰に吸い込まれていくのでしょうか。それとも、荒れ野や砂漠に囲まれた中で、「人々は主の栄光と我らの神の輝きを見るであろう」(イザヤ書35:2)との預言が成就するのを忍耐強く待っているのでしょうか。キドロンの谷(薄暗い場所)の向こうに、主の栄光を見る者となるのでしょうか。

ここでは、大祭司とペトロの言動に焦点を合わせて、テキストを読み取りましょう。エレミヤの言葉(18:20)を借りるなら、彼らは悪をもって善に報いようとしています。

それに打ち負かされないように、わたしたちは、彼らのような罪人をも救い出すために成し遂げられた、主イエス・キリストの十字架と復活の業を思い起こしましょう(ルカ24:6,8)。わたしたちの目の前に、善をもって悪に勝たれた十字架の主イエス・キリストの姿がはっきりと示されますように

 

Ⅰ イエスを()らえて(しば)り、連れて行った            

ヨハネ福音書18:12-13―― 

12 そこで一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たちは、イエスを()らえて(しば)り、

13 まず、アンナスのところへ連れて行った。彼が、その年の大祭司カイアファのしゅうとだったからである。

一方、主イエスはその身を隠すことなく、堂々と前に「進み出て」ゆかれます(ヨハネ18:4)。主イエスにとって大切なのは、父なる神の御計画に従って歩んで行くということでありました。正面から、「御自分の身に起こること」(ヨハネ18:4)を受け止めておられます。

他方、「神に逆らう者たちの(さし)()」(箴言12:5)のもとに、「一隊の兵士と千人隊長、およびユダヤ人の下役たち」がやって来ました。そうして、彼らは「イエスを()らえて(しば)り、連れて行った」のです。

本日の短いテキストの中で際立っているのは、「神に逆らう者たち」が皆、つるんでいるということです。この(たび)互いに敵対していた」二人が「仲がよくなった」(ルカ23:12)というほどに、ぐるになっています。

人間同士の連携――

①ローマ帝国の一隊の兵士ならびに千人隊長ユダヤ人の下役たち(ルカ18:12

大祭司カイアファしゅうとアンナス(ルカ18:13-14

もう一人の弟子門番の女中(ルカ18:16

人間はまことに(じょう)(ぜつ)であり、よく話し合っています。沈黙しておられる主イエス(ヨハネ19:9)とは対照的です。そうして、人間は自分たちの計略に熱中するあまり、神の御心を尋ねようとしていません。

ここで、大祭司カイアファ(在職:紀元後18年-30年)がいるにもかかわらず、しゅうとアンナス(在職:紀元後6年-15年)が登場しているのは、なぜでしょうか? 

それは、陰の立役者、しゅうとアンナスによってユダヤ人社会全体が(あやつ)られていたことを表しているのではないでしょうか。これによって、「神に従う人の正義」(箴言12:5)は押し(つぶ)されてしまいます。彼は何かと口出しするやっかいな存在でありました。

恐らく、アンナスは抵抗勢力を弱めるために、ローマ帝国に取り入り、(わい)()を送ることもあったでありましょう。自分たちの都合の良いように、ユダヤ人社会治める、そのために、(むすめ)婿(むこ)カイアファを育てるのも、アンナスの仕事でありました。

その甲斐(かい)あってか、カイアファはこんなことを言いました。

 

Ⅱ 一人の人間が民の代わりに死ぬ        

ヨハネ福音書18:14―― 

一人の人間が民の代わりに死ぬ方が好都合だと、ユダヤ人たちに助言したのは、このカイアファであった。

文脈に即して言えば、イエスの逮捕は、「一人の人間が民の代わりに死ぬ」ことの実現に向けての()(せき)でありました

大祭司カイアファならびにしゅうとアンナスが考えているのは、あくまでも自分たちの利益であります。自分たちの地位を守るということです。そのために、大祭司は、支配者なるローマ帝国の側にも、ユダヤ人社会全体にも、「平和」を保っているように見せかけました(エレミヤ書14:13)。

ただし、それは、民衆の中に騒ぎが起こるといけない」(マタイ26:6)と気を配るばかりで、ほんとうに「平和」を願っているのとは違いました。心の内には、ローマ軍が民衆の騒乱を鎮圧するために、神殿などに攻撃を仕掛けてきたら、大変だという自己本位がありました。結局、〈パックス・ロマーナ〉(ローマの平和)の(かさ)のもとにいれば、安全だと考えたのです。

そのようにして、ローマとユダヤ、双方から反感を買わないようにするのが、「大祭司」にとっての「好都合」でありました。さらに、「一人の人間が民の代わりに死ぬ」との言葉が、初めに表明された場面を振り返ると、この世の権力者たちが、如何に自分たちの「好都合」に固執しているか、が分かります。

ヨハネ福音書11:46-50 イエスを殺す計画――

46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。……中略……

49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」

祭司長たちとファリサイ派の人々」は、ラザロを生き返らせたこと(ヨハネ11:38-44)、つまり、「イエスのなさったこと」に関心を持っていません。彼らの関心は、自分たちにとって「好都合」なことにしか向けられていません。

思いがけず、大祭司カイアファはイエスの死を口にしました。「殺してはならない」(出エジプト記20:13)との十戒があり、まだ裁判前ですので、「あなたがたは~とは考えないのか」と、ある意味、慎重な言い方になっています。自分はその殺害に手を染めず、誰かが実行するようにそそのかしている点で、かえってカイアファの陰湿さが現れています。

同時に、カイアファは仲間たちに公言してしまいましたので、後に引けなくなりました。「一人の人間が民の代わりに死ぬ」ということを先刻決めておいてから、おざなりの「裁判」に臨んだということです。「結論ありき」だったのです。

しかしながら、カイアファの言葉は、図らずも、主イエス・キリストの十字架による救いの御業を指し示しています。「一人の人間が民の代わりに死ぬ」、言い換えれば、「主イエスが罪深いわたしたちの身代わりになって、死んでくださった。それによって、わたしたちの罪は清められ、永遠の命を得るようになった」という十字架の出来事を言い表しています。

神は、「神に逆らう者・カイアファ」をも、御手の内に置かれ、その口を用い、福音を告げ広められたのです。

 

Ⅲ もう一人の弟子は、ペトロを中に入れた

ヨハネ福音書18:15-16―― 

15 シモン・ペトロともう一人の弟子は、イエスに従った。この弟子は大祭司の知り合いだったので、イエスと一緒に大祭司の屋敷の中庭に入ったが、16 ペトロは門の外に立っていた。大祭司の知り合いである、そのもう一人の弟子は、出て来て門番の女に話し、ペトロを中に入れた。

ヨハネ福音書18:12-27では、元大祭司・アンナスによる裁判とシモン・ペトロの否認は、①アンナス裁判⇒②ペトロ否認ⅰ⇒③アンナス裁判⇒④ペトロ否認ⅱⅲのように交互になっています。主イエスに敵対している人と主イエスにつき従っている人が入れ替わるように登場しています。まさにはらはらする劇的な展開になっています。

これは、すべてアンナスの屋敷で起こっていることです。大局的に、①~④を眺めるならば、「つき従っている人」が「敵対している人」の陰謀に巻き込まれていったということになります。主イエスの弟子たちは、天に国籍を持ちながらも、この世に生きていかなければなりません。「神に逆らう者たち」に対処する(すべ)を身につけねばなりません。

ローマの信徒への手紙13:12――

夜は()け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。

果たして、ペトロは「光の武具」をまとって、最後まで主につき従うことができるのでしょうか。

 さて、これは、悪意ある取り計らいではありませんが、もう一人の弟子門番の女中との連携によって、シモン・ペトロの前に道が開かれました。

もう一人の弟子が間に立ってくれたので、ペトロはこれから裁判が開かれようとしている屋敷の中に入ることができました。緊迫していた雰囲気の中に飛び込んでいきました。

ところが、この弟子と女中による親切によって、ペトロは自分をさらけ出すことになりました。二人の人間の仲介は、実際には、神の手引きであったのでありましょう。

大祭司のアンナスの邸内に追い込まれて、ペトロは自分の本性が(あば)かれることになりました。ペトロは、神の御前に裁かれました。今後とも、取り消しようのない自分の姿に向き合うことになりました。キリスト裁判に並行して、自分の罪が裁かれというのは、神の御計画にほかなりません。人間の罪が見逃されることはありません。

 

Ⅳ ペトロは、「違う」と言った                     

ヨハネ福音書18:17-18―― 

17 門番の女中はペトロに言った。「あなたも、あの人の弟子の一人ではありませんか。」ペトロは、「違う」と言った。18 (しもべ)下役(したやく)たちは、寒かったので炭火をおこし、そこに立って火にあたっていた。ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。

ペトロが屋敷に入ったとたんに、質問による攻撃を受けました。門番の女中によるチェックが入りました。実はその「」に、ペトロは主イエスから次のような予告を聞かされていました。

 ヨハネ福音書13:38――

イエスは答えられた。「わたしのために命を捨てると言うのか。はっきり言っておく。(にわとり)が鳴くまでに、あなたは三度わたしのことを知らないと言うだろう。」

 アンナスによる裁判を受けておられる主イエスから、そんなに遠くない所で、門番の女中に向かってペトロは、「わたし(イエス)のことを知らない」と言ってしまいました。同じ「」に主イエスから警告されていたのですから、ペトロは警戒していたはずです。面識のない女中によって、不意を打たれたということなのでしょうか。しかし、どんな弁解も通用しないことは、誰の目にも明らかです。

ペトロが「わたしはあの人の弟子ではない」と語ったのは、真実であります。ペトロ自身、そのことを認めねばなりません。彼が立ち直っていくのは、ただそこからだけ、です。

そこで、主イエスの言葉との対比を通じて、ペトロが言い放った「違う」(原文:ウーク エイミ わたしではない)の卑劣さを顧みることにしましょう。

ヨハネ福音書18:4-6――

4 イエスは御自分の身に起こることを何もかも知っておられ、進み出て、「だれを(さが)しているのか」と言われた。5 彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。6 イエスが「わたしである」と言われたとき、彼らは後ずさりして、地に倒れた。

主イエスはわたしである」(エゴー エイミと言ったと、繰り返されています。わたしはある。わたしはあるという者だ出エジプト記3:14との神の名をもって、自らを現しておられます。逃げも隠れもしておられません。ゲツセマネの園で、主イエスは不意打ちを食らうはめになりましたが、正々堂々としておられます。

ところで、「違う」あるいは「わたし(は弟子)ではない」と否認した人間が立ち直るには、どうすればよいのでしょうか? 二度とそう言わないと決心することでしょうか、それとも、(きょ)を突かれないように心備えすることでしょうか。

答えは、すでに示されています。神の御前に、「違う」と言ってしまう自分の卑劣さや自己中心を告白することです。その悔い改めをもって、「わたしであるエゴー エイミ)お方の前に立ち、「イエスよ、わたしを憐れんでください(マルコ10:47)と叫んで、そのお方に寄り頼むことです。

礼拝の中で、「わたし(は弟子)ではない」と否認したことを悔い改め、主イエス・キリストこそが「わたしであるエゴー エイミ)という御名の神であると告白する……このことを踏まえると、他人の屋敷に追い込まれて、人目にさらしてしまったペトロの失態も、無駄ではなかったと言えましょう。神は、人が中途で挫折したり反逆したりしようとも、その人の人生全体を見守っておられます。

ペトロも彼らと一緒に立って、火にあたっていた。」……これは、礼拝において、「わたしが兄弟姉妹と共に立ち上がる」という姿勢と対極にあるものです。なぜなら、第一回目の否認の後、ペトロは、「彼ら(神を信じていない人々)と一緒に」(原文:メタ アウトーン)立ち振る舞っているからです。すなわち、ペトロは急いで、「彼ら(神を信じていない人々)」の中にまぎれ込みました。

ここに、再び現れたペトロの卑劣さは、イスカリオテのユダと共通していることからも裏づけられます。先に引用した、ゲツセマネの園の場面から……

ヨハネ福音書18:5――

彼らが「ナザレのイエスだ」と答えると、イエスは「わたしである」と言われた。

イエスを裏切ろうとしていたユダも彼らと一緒にいた。

ユダも彼らと一緒にいた(原文:立っていた)」とあるように、ユダはペトロと同じ立ち振る舞いをしていました。「彼らと一緒に」(メタ アウトーン)……類は友を呼ぶ……ユダもペトロも「全会衆」の中に()み込まれていきました

今、ペトロは「彼ら(しもべ)下役(したやく)たち)」の間に、身を潜ませています。「火にあたって」、心地よさそうです。そうしながら、自分の心の内に、大きな罪を宿しています。

そこで、今回は最後に、罪人を救い出すために成し遂げられた、主イエス・キリストの十字架と復活の業を指し示しているエレミヤの預言を見てみましょう。

 

Ⅴ 悪をもって善に報いてもよいでしょうか  

エレミヤ書18:18-20―― 

18 彼らは言う。「我々はエレミヤに対して計略をめぐらそう。祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない。舌をもって彼を打とう。彼の告げる言葉には全く耳を傾けまい。」

19 主よ、わたしに耳を傾け

わたしと争う者の声を聞いてください。

20 悪をもって善に報いてもよいでしょうか。

彼らはわたしの命を奪おうとして

落とし穴を掘りました。

()(まえ)にわたしが立ち、彼らをかばい

あなたの怒りをなだめようとしたことを

御心に留めてください。

エレミヤの告白」の重要な部分からの引用です。ここでは、紀元前7世紀頃に生きたエレミヤ自身が、主イエス・キリストの先駆者の様相を(てい)しています。ペトロは、〈まことの弟子〉になることにおいて途中で挫折しました。しかし、預言者エレミヤは幾多の困難に遭いながらも、〈まことの弟子〉として、神に従っています。

苦難をこうむっているエレミヤが、十字架の道行きにある主イエス・キリストと似ている点を、引用テキストに沿って挙げると、以下のようになります。エレミヤは……

①〈伝道をめぐって〉

神の言葉を取りつぐが、人々は耳を傾けない。

 神の御心を顧みない祭司・賢者・預言者が権威を振りかざしている。

②〈悲しみの道へ〉

陰謀をもって、()き者とされようとしている。

祭司・賢者・預言者の反発を受け、復讐の(まと)にされる。

③〈罪人を救うために〉

神の御心を問い尋ね、祈っている。

神の怒りをなだめるというほどに、神と民の間に立って執り成している。

エレミヤは、まさに義人の苦難をこうむっています。

祭司から律法が、賢者から助言が、預言者から御言葉が失われることはない」というのは、祭司・賢者・預言者、本人たちの自己宣伝(プロパガンダ)です。彼らが職責を果たしていないのではないか、と告発するエレミヤへの反論です(参照:哀歌2:9「王と君侯たちは律法を手放した」私訳)。

この反論から、祭司・賢者・預言者が如何にかたくなになっているか、が明らかです。自分たちは、律法・助言・御言葉に恵まれていると、自画自賛する一方で、「(エレミヤ)の告げる言葉には全く耳を傾けまい」と、心を閉ざしています。

自分たちの権威を維持することを最優先にする祭司・賢者・預言者は、神の御旨を聞くことなく、エレミヤを(つぶ)しにかかります。彼らは一団となり、その憎悪は殺意へとエスカレートしていきます。

舌をもって彼を打とう(原文:()ち殺そう)」

⇒「彼らはわたしの命を奪おうとして 落とし穴を掘りました」

最後に、主イエス・キリストの十字架の御業と響き合っているエレミヤの言葉を確認しましょう。

エレミヤ書18:20―― 

悪をもって善に報いてもよいでしょうか。

これは、修辞疑問ですから、その意味は、「いや、決して悪をもって善に報いてはならない」となります。使徒パウロは、この否定的ニュアンスを持つ言葉を反転させて、信仰的な勧めを表しました。

ローマの信徒への手紙12:21―― 

悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい。

この言葉を説き明かす前に、エレミヤに関する③〈罪人を救うために〉を補足しておきましょう。

エレミヤは、彼の告げる言葉には全く耳を傾けず、彼に対して計略をめぐらし、命を奪おうとするような(にせ)祭司・賢者・預言者に囲まれていました。ところが、エレミヤは、自分を憎み迫害する者に対して、神の()(まえ)に立ち、彼らをかばい、神の怒りをなだめようとしました。

人生の土台が揺さぶられる中で、エレミヤは、わたしはある。わたしはあるという者だ出エジプト記3:14)というお方、主なる神に寄り頼みました。それによって、悪に負けることがありませんでした。エレミヤは復讐の(まと)にされましたが、「敵」を呪うことなく、主よ、わたしに耳を傾け わたしと争う者の声を聞いてください」と祈り続けました。そこには、ぎりぎりまで追い込まれても、神と罪深い人々の間に立って、執り成しを行う(エレミヤ書15:11)、主イエスの先駆者の姿がありました。

パウロは、「をもって悪に」ではなく、「をもって悪に」ということを明確に打ち出しました。「善をもって悪に勝ちなさい」と、この信仰的な勧めが、キリスト者の生活の根本に()えられるよう訴えました。

どうして、わたしたち・信仰者は、誰に対しても(キリスト教の尊さの一つ)、「善をもって悪に勝つ」という姿勢を手放してはならないのでしょうか?

それは、わたしたちが、主イエス・キリストが十字架と復活の御業をもってあらわされた神の「」(アガペー)を信じる者だからです。その大いなる救いの御業によって、わたしたちの罪科の数々が赦されたからです。

主イエス・キリストが十字架に上げられ、三日後によみがえられたことによって、善をもって悪に勝つことが実証されました。主イエスが成し遂げられた、この驚くべき「」は神の愛を基としています。

ペトロや大祭司たちの前に、再起の道が開かれています。「」によって挫折してしまった人々も、悔い改めをもって立ち直ることができます。なぜなら、主イエス・キリストとその(もべ)たちによって、愛豊かに宿った」が信じる人々、憐れみを()う人々向かって宣べ伝えられているからです。

善をもって悪に勝つというのは、主イエス・キリストにあって、永遠の真理です。大祭司の高慢さやいい加減さ、また、弟子のひ弱さや不信仰というものが最終的に、世を支配したり、世に蔓延(まんえん)したりすることはありません。

使徒パウロの発した言葉でありますが、十字架の道を行かれる主イエスの教えにさかのぼると(とら)えるならば、よりいっそうわたしたちの胸に迫って来ます……「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」。

 

 

Ω

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<説教要約>

2022424日 

  旧約聖書  エズラ記 第3章8~13節

  新約聖書  エフェソの信徒への手紙 第2章1122

 

      「キリストにおいて一つとなる」

                 浅田 英幸役員

  

   使徒言行録にみるエフェソ

復活節に入りました。キリストの十字架と復活を目の当たりにした弟子たちが、聖霊に満たされ使徒として立てられ、やがて異邦世界の伝道へと歩み出していくことになります。本日は一足先に、「エフェソの信徒への手紙;第2章1122節」を通して、使徒パウロの異邦人への宣教の軌跡を、そして聖書がわたしたちに語りかける御言葉について学んでいきたいと思います。

みなさんは、新約聖書の書簡に出てくるエフェソという都市をご存じでしょうか。現在のトルコ西部の小アジア半島の古代都市で、世界最大級の大規模な古代都市遺跡の他に、アルテミス神殿の遺跡、主イエスの母マリアが晩年を過ごしたといわれる地に建てられた礼拝堂も存在し、世界文化遺産に登録された観光都市だそうです。古典ギリシャ語読みではエフェソの他にエペソス、エペソとも表記され、現在はトルコ語でエフェス(Efes)とも呼ばれています。ギリシャ神話に登場する女神アルテミスの崇拝で知られたギリシャ人都市でしたから、福音宣教を進めるパウロたち使徒にとっては、まさに異邦人・異教徒の町であったと言えます。

西暦52年頃、「使徒言行録」(18:1921)にはパウロが第2回宣教旅行で初めてエフェソを訪れたことが書かれています。パウロがエフェソにつくった共同体は、後にアポロ、プリスキラ、アキラといった人々が引き継ぎました。翌年、パウロが第3回宣教旅行で2度目にエフェソを訪ねたとき、彼はエフェソが小アジア西部における重要な信仰共同体であると考え、同地に3年間滞在したとい言われています。パウロはエフェソの共同体について「大きな門が開かれている」(一コリ16:9)というほど重視し、パウロやその仲間たちの熱心な働き(使徒20:20および20:31)によってこの共同体は発展しました。エフェソから「アジア州の全地域に」(使徒19:26)福音が伝わったと聖書は記しています。

パウロは最後のエルサレム訪問の途上でミレトスに立ち寄った折にエフェソの共同体の指導者たちを招いています。そこでもうエフェソを訪れることはできないだろうと考えたパウロが、指導者たちに最後の挨拶を送っています(使徒20:18-35)。中でも、「そして今、神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。この言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです。」(使徒20:32)との語りかけには、エフェソでの宣教を赦された神への感謝と、この異教の地で主キリストを受け入れた信徒たちへのパウロの深い信頼と期待が表れています。

 

   神の恵みにより救われる

さて、本日の聖書箇所は「だから、心に留めておきなさい。」(11節)という言葉で新しい話が始まっています。「だから」とありますので、その直前に書かれていることを受けています。直前の810節にはこのようにあります。「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(8~10節)

エフェソの人々に与えられた神様の救いは、救われるというのは、自分の力、人間の行いによってではなく、神様の恵みによって、神の恵みを信じるという信仰によって与えられる、と言うのです。この場合の、救われるということは、神の民の中に加えられる、ということです。それは即ち教会に加えられるということです。当時のエフェソの教会の人々は大多数が異邦人、外国人でした。その異邦人たちが、キリストを頭とする神の民の中に、教会に加えられるとはどういうことでしょうか。そのような問題が、本日の箇所第211節以下で取り上げられていきます。

 

   ユダヤ人と異邦人

最初の頃の教会の信者たちは皆ユダヤ人でした。主イエス・キリストの福音を伝えた人たち、つまりペトロやヤコブ、ヨハネもユダヤ人でした。そして、彼らが伝道をした相手もユダヤ人でした。ナザレのイエスをキリスト、メシア、救い主と信じるユダヤ人の集まり、そこから教会が誕生しました。教会にはやがてユダヤ人から見て外国人である異邦人が次第に加わるようになります。主イエス・キリストの福音が使徒たちのはたらきによりユダヤを超えて伝道され、小アジアから地中海全体に広がっていったということがその大きな理由です。主イエス・キリストの福音がユダヤの外に向けて広がっていったということです。そして、ユダヤ人ではない、異邦人の中においても主イエス・キリストを信じる人が起され、そのような人たちが多くなっていきました。教会には多くの異邦人が加えられていったのです。やがて、時間が経つにつれて教会のメンバーのほとんどがユダヤ人ではなくなります。そこに至る過程において、ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者との間には様々な対立や軋轢が起こっていきました。激しい対立があったと言われております。ユダヤ人にとって、異邦人は救われるはずのない存在でした。ユダヤ人の考えでは、ユダヤ人だけがアブラハム以来の神の民であります。ユダヤ人以外の民、異邦人が救われるなどということは考えられないのです。逆に、ユダヤ人以外の人にしてみれば、それまで聖書の神様というのは自分達とは関係ないユダヤ人の神でしかありませんでした。しかし、今や福音によって、神様は全ての者を造られた神であることが知らされました。そして、すべての民を救いに与らせるために、アブラハムを選び、神の民イスラエルを導き、自らが真の神であることをお示しになりました。そして神様は独り子、救い主イエス・キリストをこの世に与え、その十字架の死をもって罪を滅ぼされました。主イエスによって、全ての民を神の民とされ、新しいイスラエルとして、神の家族として招いて下さったのです。そこに誕生したのが「教会」です。

 

   今も続く問題

ユダヤ人は神様の言葉である律法を大事にしておりました。特に元々の神の民でユダヤ人には、これまで自分が守ってきたもの、大切にしてきたもの、つまり伝統がありました。神の言葉である律法を大事にし、伝統として大切に守ってきたのです。その律法の理解や解釈、信仰における律法の位置づけが問題となりました。律法に対する理解が異なり、対立が起きていったのです。そこには大きな壁が立ちはだかっていたのです。このような対立は、異邦人が教会のほとんどを占めるようになれば、最終的にはなくなってしまう問題なのでしょうか。一方でそう言うこともできると思います。しかし、他方ではどうでしょうか。先ほども申しましたが「救われる」ということは、神の民、教会に加えられるということです。つまり、それはこの世の中で希望を持たず、真の神を知らずに生きてきた異邦人が福音によって、イエス・キリストによって、彼らに本来疎遠であったイスラエルへの神の救いの「約束」にあずかる者となるということです。この問題は歴史的に終わった問題ではありません。「教会」について考えても同様です。様々な対立や軋轢は形を変えて続いております。今もなお続いているのです。

 

   思い起こしなさい

「だから、心に留めておきなさい」(11節)と始まる本日の聖書箇所は、以前の口語訳聖書では「記憶しておきなさい」となっています。最初に申し上げたことに照らして言いますと、この言葉は自分たちがユダヤ人から見て異邦人であるということを、もう既に忘れ始めている、というよりも教会のほとんどすべてが異邦人なので、ユダヤ人と異邦人との関係にまつわる問題など、ほとんど問題にならなくなっていた、エフェソの教会がそういう段階にあることを示唆しています。使徒パウロにとって、エフェソの信徒たちがしっかり記憶して、思い起こさなければならないこととは、何だったのでしょうか。聖書は今自分に何を語りかけているのか、きちんと聞かなければなりません。それは、自分たちがどこから救い出されたかということです。どこから、どこへと救われたのか記憶しておくことということです。

「そのころは、キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きていました。」(12節)異邦人はかつてこのような状況だったのです。大切なことは過去の自分たちの記憶だけではありません。「今、自分たちはどこにいるのか、どこに立っているのか」ということです。

パウロは続けて言います。「しかしあなたがたは、以前は遠く離れていたが、今やキリスト・イエスにおいて、キリストの血によって近い者となったのです。」(13節)「以前は遠く離れていたが」、今や「近い者となった」、神に近い者、その救いに近い者となったと記されています。遠く離れていたが、近い者とされた。「キリスト・イエスにおいて、キリストの血によって」と2度強調されています。

あなたが神なきところから救われるために、それはあなたのために、わたしたち一人ひとりのために、主イエス・キリストが死なれたということです。異邦人は、自分のために何かをしてくれる、命も惜しまずにしてくれる、そんな人は世の中にいないと思っておりました。けれども、聖書は語ります。わたしたちのために一人の咎なき人が死なれたのです。イエス・キリストは自分の命を惜しまずに献げて下さった。わたしたちのためにです。そのお方は神の子です。命を献げるほどに、わたしたちを愛しておられる神がおられるということです。その愛と恵みをいつまでも忘れないように、どこから救い出されたか、どのようにして、どこへと救われたのか、それを心に留めて、記憶して、思い起こさなければならないのです。

 

   平和の実現

イエス・キリストによってどこへと救われたのでしょうか。それが次に「平和」という言葉で語られていきます1418節です。

「実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」(1418節)

1113節までは、「あなたがた」と呼びかけられていた異邦人キリスト者が、1418節では、「わたしたち」と一人称複数形で記されています。キリストにあってユダヤ人も異邦人も一つにされていることが人称変化において明らかにされています。キリストにあって、「わたしたち」は「一つに」されます。「平和」というのは、「二つのものを一つにする」と書いてあります。この箇所での二つのものとは、具体的にはユダヤのキリスト者と異邦人のキリスト者です。これらの人たちが一つの霊によって結び付けられて、共に神に近づく、それが可能になるということ、それが「平和」です。ですからそれは、自分の考えを無理矢理合わせる、妥協して平和が生まれるということではありません。また自分の考えに賛同する者を増やして、全体を支配することが平和でもありません。ユダヤ人のキリスト者と異邦人のキリスト者と対立している「二つのものを一つにする」という平和は、イエス・キリストがその十字架の死によってすべての者の罪を贖い、父なる神とわたしたち人間との間にある「敵意」を取り除き、和解をもたらしてくださったものです。主イエス・キリストによる神との和解を受け入れるとき、ユダヤ人であれ、異邦人であれ、同じ信仰の仲間として、平和の交わりに置かれることになるのです。

 

   敵意を引き受けて下さった主イエス

主イエス・キリストによる平和ではない状態、平和以前の状態が、ここでは「敵意という隔ての壁」というような言葉で表現されています。「隔て」と訳されている言葉は「垣根」や「壁」のことです。ユダヤ人たちが神の民として自分たちを異教徒、異邦人から純粋に守り続けるための律法、あるいはその律法を守るための規則のことを指しています。実際にエルサレム神殿の中庭には、1.5mほどの高さの壁が巡らされていました。その外側には、「異邦人の庭」があり、異邦人はその内側には入れませんでした。律法において、異邦人が神殿に入る自由が制限され、神と交わる自由が異邦人に制限されていたのです。

しかし、キリストの十字架は、異邦人も一緒に神を礼拝できる救いを実現するものでした。「イエス・キリストにあって、ユダヤ人もギリシャ人もない、奴隷も自由人もない、男も女もない、キリスト・イエスにおいて一つだ」とガラテヤ書328節において記されています。

現代のわたしたちの生活はそのような律法、また律法を守るための規則はありません。けれども、律法が意味を持たない今のわたしたちの生活でも「敵意」は存在します。敵意は色々な形で現れます。人種や民族の問題、国家の問題、経済的な格差の問題、身分、また身近なところで言えば男か女かということでも隔ての壁があります。現実のわたしたちの姿はいまだに隔ての壁を完全に取り壊し切れていません。その根本に人間の心の問題があるからです。人間の罪が存在します。敵対する心です。エフェソの教会の場合は、ユダヤ人のキリスト者が異邦人キリスト者のことを快く思わず、また異邦人のキリスト者もユダヤ人のキリスト者を快く思っていません。しかし、そのような敵対する心そのものが取り除かれない限り、平和は決して訪れません。二つのものが一つになるということは決してないのです。主イエス・キリストはそうした敵対する心、敵意そのものを滅ぼされました。自らの死によって、その隔ての壁を取り壊されたのです。人間の敵意、憎しみ、それらを自らの身に引き受けて下さったのです

 

   わたしたちの平和

「実にキリストは私たちの平和であります。」(14節)この平和は誰かが妥協したり、譲歩したりして成り立つものではありません。そうではなく、「一つの体」のようにして「一人の新しい人」となることです。敵意、隔て、垣根を超えて一つとされる、それが平和です。それが教会です。主イエス・キリストにあって、一つの共同体とされる。この世におけるキリストの体としての教会です。教会は、その存在において平和の実現そのものです。教会の存在そのものが平和を証ししているのではないでしょうか。

18節には「それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。」とあります。教会という存在は主イエス・キリストの体ですが、それは互いに敵対していた者を一つに結び合わせて、互いに一つの霊、キリストの霊によって結ばれて、共に父なる神様に近づき、共に礼拝し、キリストの人格を表すものとされているということなのであります。つまり、ユダヤ人も異邦人も、隔ての壁を壊され、キリストの霊によって結ばれて、一つにされて、キリストのご人格を顕す一人の新しい人、キリストの体である教会を形作るようになるということなのです。

 

   キリストにおいて共に建てられる

パウロは「主イエス・キリストの平和」を語りながら19節から教会について語っていきます。「従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であり、キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。」(1922節)

パウロは本日の箇所の始めに「心に留めておきなさい」と語りました。エフェソの教会のメンバーたちに、自分たちが異邦人であったこと、自分の行いではなく、ただ神の恵みによって救われたこと、神の民に加えられたことを忘れないようにと勧めました。その者たちが今は主イエス・キリストにおいて確かに一つとなっています。ユダヤ人であるか、異邦人であるかということは、教会においては問題にはならないのです。そこは敵意が支配し、差別があってはならないのです。

 

   神の家族

「教会」を表すのに、19節以下ではいろんな比喩が使われています。教会は「聖なる民」と言われています。教会は、そこに市民権を持つ一人ひとりからなる一つの共同体として描かれています。そこでは、異邦人、外国人ということは問題にはなりません。この世の様々な人間的な違い、相違を乗り越えて、教会は神の召し、神様の招きに基づく一つの体、共同体です。19節では「神の家族」とも言い換えられています。教会は神様をまことの父とする家族なのです。わたしたちは神様を父とする兄弟姉妹なのです。教会が「神の家族」とされるのは、生まれや育った環境の違いを克服しようとする人間の努力ではなく、「ただ神の恵み」によるという事実だけがここには示されています。人間の努力や団結心でその組織ができ、一致が保たれたというのではない。「キリストはわたしたちの平和であります」と14節において述べられている通り、人間同士が互いに作っている一致を損なう「壁」を、キリストが取り除き、平和を実現し、互いが互いを思い合う心を与えてくださることによって、教会の一致が保たれるというのです。18節で「一つの霊に結ばれて」といわれている言葉に目を留めることが大切です。

更にここでは、建物の比喩が使われています。教会が一つの建造物に例えられています。「聖なる神殿」です。今日取り上げた旧約聖書のエズラ記3813節では、バビロン捕囚から帰還したユダヤの民が、エルサレム神殿の建築に着手したことが記されています。手始めに神殿の基礎が据えられると、レビ人、祭司たちは祭服を身に着けて、主を賛美しました。民も「主は恵み深く、イスラエルに対する慈しみはとこしえに」と唱和し、大きな賛美の叫び声となりました(11節)。

わたしたちは神殿と聞きますと、堅固で立派な建築物を思い起こしますが、旧約においては神様がおられる場所、神様の住まいです。神がそこにおられる、神様が現実に働いておられるということです。エルサレム神殿を建築した人々は、自分たちが建てようとしている建物が神殿となるために、その基礎を据えるところから、神を迎えようとして賛美しているのです。賛美は主の住まい、または主の椅子であると言われます(口語訳 詩編22:3参照)。それは神が、賛美を最高の喜びとされるということです。

そして、新約の時代における神殿、すなわち教会の「かなめ石はキリスト・イエスご自身」です。また、教会の土台は「使徒と預言者」である彼らの語った言葉、したがって聖書、そしてそれに基づく神の御言葉と言って良いと思います。そして、教会には「聖霊の風」が吹いています。目には見えないけれども、神の「霊の働き」がなければ、教会は存在しません。

今わたしたちがいる、ここ茅ヶ崎香川教会にも神の霊は働いています。この神の霊の働きによって、わたしたち一人ひとりが組み合わされ、キリストと結び合わされるのです。聖霊の風が吹き、キリスト者として成長するのです。一人ひとりが神様の霊によって、豊かに前進するのです。つまり、それぞれが与えられた場所で、互いに協力し合って教会は建て上げられていくのです。ここに大きな教会の希望と慰めが与えられていると信じたいと思います。

 

 

アーメン

 

月報4月号

 

説教 神を信じる者になったことを喜ぶ

大人と子どもの合同礼拝

 使徒言行録 1625節~34節 

小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 賛美の歌をうたい、神に祈る ……使徒16:25-26             

Ⅱ ()(がい)してはいけない          ……使徒16:27-28

Ⅲ 救われるためには            ……使徒16:29-31 

Ⅳ 自分も家族の者も皆すぐに   ……使徒16:32-34          

 

「草木も眠る(うし)()(どき)」……「真夜中」に、子どもが高熱を出したり、高齢の方がトイレで失神して、緊急事態が発生することがあります。どちらかと言えば、多くの人が眠りについている「真夜中」に突発的な事が起こることは少ないとも言えますが、自然災害は時間を選びません。それだけに、いざ深夜に事が起こった場合、緊急の対応に冷静さを欠いてしまうことになりかねません。

その上、家族が急病になった時にも、「真夜中」に病院へ駆けつけるのか、あるいは、自宅で「」まで待つのか、判断に悩んで悶々(もんもん)と過ごすこともあります。

本日取り上げたのは、「看守とその家族が救われた」という出来事です。それが「真夜中」に起こりました。めずらしい事であります。それ故に、聖書は、「真夜中」に、看守と家族の者が皆救われたと明言しています。

わざわざ、次の段落に「朝になると」(使徒16:35)と表記されていますが、彼らが神を信じて洗礼を受けたのは、あくまでも夜のことです。闇の中に、天よりの光が輝き、神の愛の御業が成し遂げられました。

このように、ひと日の時間経過を確認することから、一つのメッセージが浮かび上がって来ます。

すなわち、神の愛の御業は、いつ、どこでも、起こるということです。

聖礼典としての洗礼式は基本的に、「主日午前の教会での礼拝中」に行われます。しかし、神が危機介入を決意された時、たとえ「真夜中」であっても、御力により信仰に目覚め洗礼を志願する人が立てられます。その時、周りの者が、「ひどく(ねむ)かった」(ルカ9:34)とか、「面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています」(同上11:7)と言うのは、(なさ)けないことです。「その夜、主は、彼らをエジプトの国から導き出すために()ずの番をされた」(出エジプト記12:42)ということを心に刻みましょう。

その点で、パウロとシラスは見事に、神の危機介入により召集された「救急隊員」としての役割を果たしました。同時に、「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)ことの目撃証人となりました。

さあ、すべてのことが凝縮されている、驚くべき救いのドラマを読んでみましょう。

 

Ⅰ 賛美の歌をうたい、神に祈る            

使徒言行録16:25-26――

25 真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの(しゅう)(じん)たちはこれに聞き入っていた。26 突然、大地震が起こり、(ろう)の土台が揺れ動いた。たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の(くさり)(はず)れてしまった。

パウロの第2回伝道旅行中(紀元4952年頃)の出来事です。初めてヨーロッパの地を踏み、拠点都市・フィリピで伝道しようともくろんでいた矢先でした。いわれのない(うった)(使徒16:19-21)により、パウロとシラスは投獄されました。シラスは、エルサレムにおける初代キリスト教共同体の指導的なメンバーで、預言の賜物を持つ「忠実な兄弟」でありました(使徒15:22, 32、Ⅰペトロ5:12)。

数々の苦難を乗り越えてきたパウロはさも当然のごとく、「真夜中ごろ、賛美の歌をうたって神に祈って」いました。神殿や会堂でも、また牢獄(ろうごく)でも、悩みの時に、ただひたすら神に寄り頼んでいます(讃美歌Ⅱ-232番)。「真夜中」だから心細くなり、やる気が出ないというのではなく、「いつものとおり」、賛美と祈りの時を守りました(ダニエル書6:11)。幸い、パウロの(かたわ)らには、同労者のシラスがいました。二人は、主が必ず守ってくださると信じていました。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(マタイ18:20)との主イエスの言葉が支えとなったことでしょう。

ほかの(しゅう)(じん)たちはこれに聞き入っていた」というのは、真夜中の賛美と祈りの成果であります。閉ざされた空間の中で、()(しゅく)していた囚人たちの心が解き放たれました。このことは、突発する(さい)()への彼らの平静な対応にも影響を与えたのではないでしょうか。

突然、大地震が起こり、(ろう)の土台が揺れ動いた」……恐ろしくも、悪意による投獄という人災に加えて、パウロとシラスに天災が()りかかるということなのでしょうか。しかし、投獄と「大地震」とを貫いて、神の伝道の計画が進められていました。「たちまち牢の戸がみな開き、すべての囚人の(くさり)(はず)れてしまった」というのは、単に奇跡を指し示しているのではなく、神がそこにおられたということでありましょう。わたしはある。わたしはあるという者だ出エジプト記3:14ヨハネ18:5,6,8)というお方、主イエス・キリストが臨在されていたということです。実際、主イエス・キリストは十字架の贖いによって、死と罪の「(くさり)」に縛られているわたしたちを解放してくださいました。

後のことになりますが、伝道者の心を折ってしまうような人災や天災に(から)めて、パウロは次のように総括(そうかつ)しています。

フィリピの信徒への手紙1:12――

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。

パウロは、「わたしの身に起こったことを熟知しているフィリピ教会の信徒に語りかけています。(むち)()ち(使徒16:22)や監禁の際、「あなたがたは助けてくれなった」などという(うら)(ぶし)はありません。フィリピでの伝道を思い起こしつつ、総括するポイントは、「福音の前進に役立った」かどうかに置かれています。その意味では、パウロは「わたしの身に起こったこと」を、すなわち、自分自身の苦しみを悟り、心の()みきった状態に置かれています(松永希久夫)。

 

Ⅱ ()(がい)してはいけない        

使徒言行録16:27-28――

27 目を覚ました看守(かんしゅ)は、牢の戸が開いているのを見て、囚人たちが逃げてしまったと思い込み、(つるぎ)を抜いて自殺しようとした。28 パウロは大声で叫んだ。「自害してはいけない。わたしたちは皆ここにいる。」

看守は、昼夜輪番で奥深い牢を巡回していました。人目に触れない閉鎖された場所が彼の仕事場でした。この夜も、看守は「囚人たち」を見張ることに集中していたでありましょう。「パウロとシラスが賛美の歌をうたって」いるのに、耳を傾ける(いと)もなかったでありましょう。ただし、地震の発生時に、看守は夢見ごこちだったようです(使徒16:27)。ところが、大きな揺れに、目を覚まされて……

囚人たちが逃げてしまったと思い込み、(つるぎ)を抜いて自殺しようとした……厳重に囚人を見張る責務を担っていた看守は、「大地震」によって動揺しました。実際には、絶望的な状況ではないにもかかわらず、看守は「絶望」してしまいました。直前までの賛美による鎮静効果かどうかは分かりませんが、囚人たちは「皆ここに」いました。

パウロは大声で叫んだ」……看守はまるで細い糸で結ばれ、手繰(たぐ)り寄せられるようにして、パウロに出会いました。パウロの一声によって、窮地を救われました。

看守は、二人をいちばん奥の牢に入れて、足には木の足枷(あしかせ)をはめておいた(使徒16:24)……高官(こうかん)ちの命令に従ったまでとはいえ、看守はパウロとシラスにむごい仕打ちを加えました。何度も鞭で打たれた彼らを介抱したとは書いてありません。要するに、看守はパウロとシラスに対し、のような振る舞いをしたということです。

ところが、パウロは敵であり加害者である看守を憐れみました。わたしたちは皆ここにいる」……看守の(かたわ)らにいて、彼を慰めました。

 

Ⅲ 救われるためには          

使徒言行録16:29-31――

29 看守は、明かりを持って来させて牢の中に飛び込み、パウロとシラスの前に(ふる)えながらひれ伏し、30 二人を外へ連れ出して言った。「先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか。」

31 二人は言った。「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます。」

で、「すべてのことが凝縮されている、驚くべき救いのドラマであると紹介しましたが、まさにワンシーンごとに食い入らせる映画のようです。

殊に、「看守は、明かりを持って来させて」という行為は見逃せません。直訳すると、「しかし、彼は光を()い求めて」となります。絶望の(ふち)にあって暗黒に包まれていた看守が今や、光を()(きゅう)する者となったことが鮮明に現れています。この願い求めが、地震にさらされた牢獄で、この人の中に芽生え、それが一つの形になりました。

「彼はパウロとシラスの前に震えながらひれ伏しという様子からも、神の遣わした(しもべ)に対し、看守が謙遜さを示していることが分かります。伝道者に、教えを()う姿勢が整っています。

先生方、救われるためにはどうすべきでしょうか」……なぜ、看守はこの問いを発したのでしょうか?

それは、自分が、暗闇から光の世界に移され、今や光の子として生きたいと切望したからです。「二人を外へ連れ出して」、自分の疑問を伝道者に差し出しました。看守が自らの口で尋ねたことは、大きな前進でありました。神がそのように問わしめたのであります。

主イエスを信じなさい」……神が看守に問わせたことに対し、伝道者の口を通じて、神の答えが下りました。「先生方」(キュリオイ ギリシア語:「主」の複数形)ではなく、「」(キュリオス 単数形)なるイエス(原意:救い)こそが、あなたを救う神であるということです。

主イエスを信じる」とは、「イエスが主となられる。そして、自分が主のものになる」ということです。主のものになった者はもはや、絶望の淵に沈んでいくことはなくなります。日々、自分の罪科を悔い改め、御前に立って、「わたしは主イエスを信じる」と告白することです。その時、看守にはパウロ・シラスとの間に、「先生方」ではなく、「忠実な兄弟」同士の関係が築かれます。

 

Ⅳ 自分も家族の者も皆すぐに           

使徒言行録16:32-34――

32 そして、看守とその家の人たち全部に主の言葉を語った。33 まだ真夜中であったが、看守は二人を連れて行って打ち傷を洗ってやり、自分も家族の者も皆すぐに洗礼を受けた。34 この後、二人を自分の家に案内して食事を出し、神を信じる者になったことを家族ともども喜んだ。

大団円(だいだんえん)に向けて、救いのドラマが展開していきます。

信仰は、「主の言葉」を聞くところから始まります(ローマ10:17)。そして、「主の言葉」によって、その人の品性が養われ、信仰の成長を遂げていきます。そして、聖霊がパウロとシラスに語らしめた言葉、「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたも家族も救われます」(使徒16:31)が成し遂げられていきます。

信じて洗礼を受ける者は救われる」(マルコ16:16)との、復活の主イエス・キリストの言葉に招かれるようにして、看守とその家族の者は洗礼を受けました。

これは唐突な事のように思われますが、ヨーロッパ伝道の初穂として、同じフィリピに住むリディアという婦人とその家族が洗礼を受けていました(使徒16:13-15)。パウロとシラスが投獄される直前の、幸いなる出来事です。つまり、フィリピにおいて、信仰が一人の者から家族全体へと広がっていくという神の奇跡が、すでに起こり始めていたのです。そうして、それらの家族が中心となって、〈家の教会〉が形成され、やがて、〈フィリピの教会〉が設立されるのです。

最後には、看守の家で、喜びに満ちた食事の時が持たれます。信じて洗礼を受ける者は救われて、外の者(来訪者)も内の者も、一つの食卓に(つど)いました。

愛餐食事会 聖礼典としての聖餐式 神の国の祝宴

①・②・③は、別々の機会に催されるものでありながら、キリスト者にとって共通する点があります。

一つは、主イエス・キリストが聖霊の力により臨在されているということです。主イエスが食卓の真ん中におられます。目に見えない形ではありますが、主イエスの席が設けられています。

もう一つは、その食事の時には、感謝と賛美が満ちあふれているということです。ローマの教会では野菜を食べるか食べないかの違いを超えて、「神に感謝する」(ローマ14:6)という一点において、皆の心は一つになります。その重要性を認識していた初代教会の人々は②について、「感謝」との意味を持つ「聖餐」(ギリシア語:エウカリスト)という呼び名を付けました。

食卓の団欒(だんらん)または交わりが大切であることは、強調してもしきれません。元より、「日用の糧」が与えられているのは、大きな恵みであり、喜びです。「わたしを苦しめる者を前にしても あなたはわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)との御言葉のもとに、①の食事と②の聖餐にあずかり続けたいと願います。と同時に、今、戦争下にあって「日用の糧」が不足して苦しんでいる人々に、援助の手が差し伸べられますようにと祈ります。

①の食事と②の聖餐は、神の国の祝宴へと至ります(ルカ15:24,32)。初めからから終わりまで、とこしえの恵みが貫かれています。その象徴が、食卓の主が聖別して配られる、永遠の命に至る食べ物です(ヨハネ6:27)。

の祝宴の際、神の右の席には、主イエス・キリストが座っておられます。その主が手ずからパンと(さかずき)を取って、天の門を通ってきた者に与えてくださいます。その光景を()の当たりにし、パンと(さかずき)を受け取るように、看守とその家族は招かれています。

獄屋から解放されたパウロとシラスは(ただ)ちに、リディアの家に挨拶に行きました。きっと、リディアとその家族から勧められて、一緒に食事をしたことでしょう。そこで、看守とその家族が救われたことを報告したはずです。

パウロとシラスはリディアたちを励ましてから、次の町・テサロニケをめざして出発しました(使徒16:40)。牢獄(ろうごく)へ投げ込まれるような悩みの時にも、主が守ってくださったとの経験を携えて、足取りは軽やかだったことでしょう。

 

Ω


      

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