礼拝、説教

主日礼拝                                                                                              2024年 6月2日〈10時15分~11時30分〉

聖霊降臨節第3主日

 

招き   前奏

招詞   詩編96編 1節~3節

頌栄   539

主の祈り  (交読文 表紙裏)

讃美歌  122

交読文  18 詩編57編

旧約聖書 イザヤ書6章9節~10節(P.1070)

新約聖書 マルコによる福音書 4章10節~20節(P.67)

説教 「御言葉を聞いて受け入れる人たち」

祈祷

讃美歌  Ⅱー24

奨励   

                        小河信一牧師

                      (※下記に録音したものを掲載しています)

祈祷             

讃美歌  172

日本基督教団信仰告白 

聖餐式

献金 

報告

讃詠   546

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2024年5月26日「先走って、裁いてはならない」
詩編143編 2節
コリントの信徒への手紙一 4章1節~5節
240526_0238.MP3
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・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

5月号月報

説教 わたしの兄弟、姉妹

マルコによる福音書 3章31~35節   小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹

                   ……エレミヤ書22:18             

Ⅱ イエスを(さが)す母と兄弟姉妹       ……マルコ3:31-32

Ⅲ 見よ、わたしの兄弟が            ……マルコ3:33-34  

Ⅳ 神の()(こころ)を行う人                  ……マルコ3:35          

結 

 

ガリラヤの湖や山を舞台に、主イエスの伝道が進められています。

大きな流れを整理しましょう。主イエスは或る家に入られました。すると、そこに、身内の人たちはイエスのことを聞いて取り押さえに来ました(マルコ3:21)。それから今度は律法学者たちがエルサレムから下って来ました。そして今回の場面になりますが、イエスの母や兄弟姉妹がその家を訪ねてきました。

そうです(あなたの感じ取られたように)、マルコ福音書記者は、「なんだか、うるさい人々がまとわりついているなぁ」という状況を(うつ)し出そうとしています。主イエスを中心に、内側と外側、二つの円を思い描いてみましょう。

その外側の円周上を(めぐ)っているのが、身内の人たち律法学者たちイエスの母や兄弟姉妹です。彼らは彼らなりの言い分をもって、主イエスから距離をとっています。だから、家の中で伝道しておられる主イエスに近づこうとしません。

マルコ福音書記者が、主イエスの「(まわ)」を描き出すのに()けていることは、本文で説明します。その(こう)()な筆遣いをもって、神の家族」という主題を展開しています。見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133:1……古くて新しい、その主題が、主イエス・キリストを中心に()えることによって(とら)え直されています。

 

Ⅰ ああ、わたしの兄弟、ああ、わたしの姉妹 

エレミヤ書22:18――   

それゆえ、ユダの王、ヨシヤの子ヨヤキムについて

主はこう言われる。

だれひとり、「ああ、わたしの兄弟

ああ、わたしの姉妹」と言って彼の死を(いた)

ああ、主よ、ああ(へい)()」と言って、悼む者はない。

これは、ユダ王国の終わりから三番目の王、ヨヤキム在位:前608598)が死んで葬られる時についての預言です。バビロンの王ネブカドレツァルからの圧迫が強まる中、ヨヤキムは衰退していく国の(かじ)取りをしなければなりませんでした。

預言者エレミヤは、神礼拝をおろそかにしているヨヤキムに鋭い批判を向けました。ヨヤキムの不信仰は民衆への横暴に及んでいました……「あなたの目も心も不当な利益を追い求め 無実の人の血を流し、(しいた)げと圧制を行っている」(エレミヤ書22:17)。

ヨヤキム父王ヨシヤの信仰深さも、質素な生活も受け継ぐことがありませんでした(エレミヤ書22:15)。その上、エジプトのファラオから威圧され、ヨヤキムは国に重税を課し、民から厳しく税を取り立てました(列王記下23:35)。

神に(そむ)き、民から嫌われました。()(ごう)()(とく)とは言え、ヨヤキムは哀れな最期を迎えます。

ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹というのは、愛していた者が死んだ際の嘆きです。魂からの慟哭(どうこく)です。しかし、ヨヤキムの葬儀では、そのような嘆きの声は聞かれません。

 ユダ王国の歴代の王の中で、ヨヤキムは最も評価が低いと言えます。エレミヤはその王の葬儀を例示して何を訴えているのでしょうか?

 それは、ヨヤキム神の御心に(かな)わなかった、反逆者であったと共に、人々との交わりにおいて思いやりの全く無い人であったということです。「無実の人の血を流した」、その罪を悔い改めなかったのです。要するに、神の光のもとで、人々と互いに交わりを持つ(Ⅰヨハネ1:7)のと、ほど遠い人生を送ることになりました。

 その結果、「ああ、主(=ご主人様)よ、ああ(へい)()」と敬われることも、「ああ、わたしの兄弟」と親しまれることもなかったのであります。それが、その人物の最期だったのです。悲惨なことであります。

 しかし、これは単に、主の目に悪とされることを行った、冷酷な人物の例外的な逸話(エピソード)ではありません。隣人から、その時、「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」と嘆かれるかどうか、大概(たいがい)は確証など持てません。いや、人生のを生きることに精一杯なのだから、と言われることでしょう。

 エレミヤのヨヤキムの預言を通して、次のことが明らかにされました。すなわち、礼拝共同体の中で、神の愛に基づいて、「互いに交わりを持つ」ことが大切だということです。

 不幸にも、ヨヤキムは、より権力のある人間(ネブカドレツァルやエジプトのファラオ)に支配され、また、経済的な混乱(民への重税や国家財宝の収奪 歴代誌下36:7)に(おちい)りました。しかし、ヨヤキム王の生きた紀元前七世紀末のみならず、そのような災いは、今日でもわたしたちを見舞うことがあります。

主イエス・キリストは、わたしたちがこの世で生きる困難をご覧になっておられます。主イエスは「世の光」(ヨハネ8:12)として、罪の誘惑の恐ろしさを照らし出してくださいます。それに加えて、主イエスは、兄弟姉妹が互いに交わりを持つ」家なる教会を建てるようにと導かれました。そこに、血縁を越えた形で、「神の家族」が作られるよう、聖霊による励ましと慰めが注ぎ込まれています。

それでは、「神の家族」という主題について、主イエスがその行いと言葉をもって教えておられる場面を読んでみましょう。

 

Ⅱ イエスを(さが)す母と兄弟姉妹                

マルコ福音書3:31-32――

31 イエスの母と兄弟たちが来て外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。32 大勢の人が、イエスの周りに座っていた御覧なさい。母上と兄弟姉妹がたが外であなたを(さが)しておられます」と知らされると、

:31,32 2回)と〈イエスの周り〉という二重の円をもって、当時の状況が表されています。反感を(いだ)いているが無理やり、内側に押し迫っています。「外に立っている」人々が、御言葉に耳を傾けている平和な場所、食事をしている可能性のある(マルコ2:15,16)なごやかな家を打ち壊そうとしていました。

イエスの母や兄弟姉妹(例えばイエスの兄弟ヤコブ マタイ13:55、ガラテヤ1:19)は同じように、〈〉周上にいた身内の人たち律法学者たちに感化されていました。すなわち、あの男は気が変になっている」(マルコ3:21)とのうわさや「あの男はベルゼブルに取りつかれている」(同上3:22)との独断を鵜呑(うの)みにしてしまいました。だから、気が変でない自分たちの方が正しいという、負のスパイラル(()(せん))から抜け出せなくなりました。

人をやってイエスを呼ばせた」……それが当然あるかのように、母や兄弟姉妹イエスを〈〉へ引きずり出そうしました。この尊大さは、神の人エリシャ(列王記下5:8)に対する、アラムの軍司令官ナアマンの態度を思い起こさせます。

家の〈〉から出て来ず、命令を(くだ)したエリシャに対して……

列王記下5:11――

ナアマンは怒ってそこを去り、こう言った。「彼エリシャ)が自ら出て来て、わたしの前に立ち、彼の神、主の名を呼び、患部の上で手を動かし、皮膚病をいやしてくれるものと思っていた。」

儀礼的・慣習的には、エリシャは戸を開いて、外に出て、ナアマンを迎えるべきだったかも知れません。しかしその時、問題になっていたのは、どのように神の()やしの御手にあずかるか、ということでありました。救いを求めているとき、常識にこだわっている人には、神の大いなる御業が見えません。

であなた(イエス)(さが)しておられます」との言葉には、〉のわたしたちがあなたを正しい位置に()え直すとの意図が隠されています。それはある意味、「(さが)」出して、()らしめるということでありました。のわたしたちがあなたの性根を入れかえさせてやる、との意気込みです。

(はた)で、イエスの母や兄弟姉妹(ぎょう)(そう)を見ていた人は(こわ)かったに違いありません。彼らのことはすぐに主イエスに伝達されました。

 

Ⅲ 見よ、わたしの兄弟が                    

マルコ福音書3:33-34――  

33 イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」と答え、34 周りに座っている人々を見回して言われた。「見なさい。ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。」

神の人エリシャと同様に、主イエスは家の中におられて、〉に出て行くことはありませんでした。ここでは、マルコの(こう)()な筆遣いによって、主イエスの(まわ)が描き出されています。それによって、主イエスがたとえを用いて語られ、そして食事をされる家の中のたたずまいが伝わって来ます。

わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」……主イエスは周りに座っている人々に問いを出されました(他にマルコ2:93:4)。それによって、「周り」の人々とのより親しい関係が築かれます。

(かたわ)らにいる人々への主イエスの気配りは、周りに座っている人々を見回して」との動作からも分かります。「彼の〈回りにまるくなって座っている人々を見回して〉」というように、(まわ)」の類語が3回強調されています。さらに、次の32節に「大勢の人が、イエスの周りに座っていた」と記述されています。もはや、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との問いの答えが出されているではありませんか。

主イエス・キリストを中心に、〈まるくなって〉座っている「兄弟姉妹」、その姿にこそ、「わたしの兄弟」と「わたしの姉妹」の出発点があるということです。この光景こそ、主イエスが「見なさい」、心に刻みつけなさい、と言われているものです。

お気づきのように、この主イエスの言葉は、「見よ、兄弟が共に座っている」との詩編(133:1)にさかのぼります。この一節を会堂の礼拝や家での食事の際にユダヤの民は歌ってきました。それによって、苦難をくぐり抜け、血縁を乗り越えて、異邦人を含め、「兄弟姉妹」の(つど)う礼拝共同体を作り上げました。

ユダヤの民は自分たちの王(ヨヤキム)を葬るとき、「ああ、わたしの兄弟 ああ、わたしの姉妹」と言って嘆きえないような(しん)()を味わいました。「神と隣人を愛せよ」(申命記6:5、レビ記19:18)との最も重要な教えが()らがされるような出来事もありました。

罪の闇を引き込まれそうなとき、神は「見よ / 見なさい」(ヘブライ語 ヒネー / ギリシア語 イデ)とわたしたちに呼びかけてくださいます。主イエスと周りに座っている人々……「」の形が、「見よ」、ここにあります  神はこの世の闇が押し迫る中で、御子、イエス・キリストを遣わされました。御子はわたしたちの間に、「見よここに」との言葉をもって愛の交わりを作ってくださいます。

 

Ⅳ 神の()(こころ)を行う人                        

マルコ福音書3:35 主イエスの言葉―― 

神の御心を行うこそわたしの兄弟、姉妹、また母なのだ。」

最後に主イエスは、「わたしの母、わたしの兄弟とはだれか」との問いに自ら答えられます。その答えの力点は、「だれ」ということよりも、むしろ、「わたしの母、わたしの兄弟」はどのようなことを「行う」のか、という点に置かれています。

神の御心を行うは「だれでも」、「わたしの兄弟」となり得るということです。ここで間違えてはならないのは、「神の御心を行う」ことが、主イエスに「わたしの兄弟」として認められる条件では決してない、ということです。

今まさに主イエスは、(くるま)()になっている一同に向かって、「見よ、兄弟が共に座っている」と告げておられます。すでに述べた通り、「見よ」は単に「見てください」という意味ではありません。神の愛の力において、個性や生活の相異なる兄弟姉妹が一つになっているのを、見よと言っているのです。

言い換えれば、通常わたしたちの見いだし難い神の臨在が、一つの家の場で現出しているのを「見よ」と命じているのです。主イエスが真ん中に座って、神の国について語っておられます。謙遜な()(じん)(きょう)する食事の席で、主イエスはパンを裂き、(さかずき)を祝しておられます。その出来事を通して、神の「」が現れているということです。

神の御心を行う」というのは、「わたしの兄弟」となる条件ではなく、神からの招きです。主イエスは、「神の御心を行う」ことに怠慢になる人間の弱さを見抜いておられます。同時に、「自分の計画を成し遂げる」人間の強さをご存じです。

主イエスは今、或る家の〈から、内外に向けて、「神の御心を行う人こそ……」と呼びかけておられます。すべての人間が、その「弱さ」と「強さ」をかなぐり捨てて、家の〈〉に入って来るよう招いておられます……「だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(マタイ11:28)。

主イエス・キリストは、神の御心を行うはじめのひとありました。実はマルコ福音書において、「神の御心を行う」との表現は、もう一回しか出てきません。

マルコ福音書14:36――

(イエスは)こう言われた。「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に(かな)うことが行われますように。」

これが、ゲツセマネの祈りです。「(神の)御心に(かな)うことが行われますようにと、もだえ苦しみながら祈られました。マルコ福音書は、「神の御心を行う人」すべてが、十字架につけられる直前の、この祈りに立ち返らねばならないことを指し示しています。

そのためにまず、「わたしが願うこと」を捨て去らねばなりません。そのために、「この二人(ヤコブとヨハネ)も父ゼベダイを雇い人たちと一緒に舟に残して、イエスの後について行った」(マルコ1:20)と告知されているように、ひとたび肉の思いを断ち切ることです。

そうして一人ひとりが、神の国をめざし、励まし合うわたしの兄弟、わたしの姉妹につながれます。そこに、血縁を越えて、「互いに交わりを持つ」家なる教会が建てられます。

まず第一に神の御心を行う人に問われているのは、「(神の)御心に(かな)うことが行われますように」と祈られた主イエス・キリストに、すべてゆだねますか、服従しますか、ということです。「自分の計画」や肉親とのつながりを、神にあずけるのです。

主イエス・キリストは「神の御心」に添って、十字架の苦難を耐え忍ばれ、死んで葬られて、よみがえらされました。そこに、「神の御心を行った」はじめのひとの御姿があります。そのお方につき従ってゆくのが、「神の御心を行う人」であります。

 

結 

十二使徒の召集(マルコ3:13-19)に続いて、主イエスのもとに、わたしの兄弟、わたしの姉妹が招き入れられました。そこに、神の広い愛があらわされています。コリント教会においても、まず土台を()える人やそれを建てつぐ人などの指導者が立てられ、ついで、神の賜物を生かすよう多くの人々が呼び出されました(Ⅰコリント3:9-1012:28)。

主イエスは祈りをもって、「(神の)御心に(かな)うことが行われるように」、と立ち向かわれました。それが、「汗が血の(したた)るように流れ落ちる」切なる祈りでありました(ルカ22:44)。その時、「わたしの兄弟」たるべき、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの弟子たちは眠っていました。主イエスの祈りに心を合わせることができなかったのです。十字架につけられる直前に、主イエスはひとり取り残される悲しみを経験されました。

しかし、主イエスは父なる神の「御心に(かな)うこと」を成し遂げられました。十字架上で流された(あがな)いの血によって、「わたしの兄弟、わたしの姉妹」の罪を清められました。主イエスは十字架上から、母マリアの行く末を案じて、彼女に呼びかけられました。そのマリアは、キリストの愛によって「わたしの兄弟」として立ち直った、一人の弟子に引き取られました(ヨハネ19:25-27)。

はじめのひと、主イエス・キリストによって、神の家族が基礎づけられました。「神の家族」の(つど)う教会は将来に向かって成長していきます。だから、将来を(たく)すべき子どもたちが、真ん中に立たされるよう招き入れられています(マタイ18:2

2024年5月19日「皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした」
詩編2編1節~2節
使徒言行録 4章23節~31節
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2024年5月12日「あなたはしっかり守られている」
詩編91編11~12節
ルカによる福音書4章1節~13節
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2024年5月5日「芽生え、育って実を結ぶ種」
エレミヤ書4章3節
マルコによる福音書4章1節~9節
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2024年4月28日「わたしは主に向かって声をあげる」
詩編142編1節~8節
ヘブライ人への手紙5章7節
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2024年4月21日「わたしの兄弟、姉妹」
エレミヤ書22章18節
マルコによる福音書3章31節~35節
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2024年4月14日「イエスと使徒たちの宣教が始まる」
イザヤ書49章24節~25節
マルコによる福音書3章13節~30節
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2024 年4月7日「あなたがたはキリストのものなのです」
ヨブ記5章13節
コリントの信徒への手紙一
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2024年3月31日「白い衣を着た天使の御告げ」
旧約聖書 ダニエル書 7章9節~10節
新約聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節
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2024年3月24日「通りかかった人々から嘲(あざけ)られるイエス」
旧約聖書 エレミヤ書 18章16節
新約聖書 マタイによる福音書 27章32節~44節
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2024年3月17日「わたしに従いなさい」
旧約聖書 詩編79編 9節
新約聖書 マルコによる福音書 2章13節~17節
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2024年3月10日「赤ちゃんイエスが神にささげられる」
ルカによる福音書 2章25節~38節
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2024年3月3日「栄光の王が入って来られる」
旧約聖書 詩編24編 1節~10節
新約聖書 ルカによる福音書19章37節~40節
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2024年2月25日「恵みの業(わざ)を川のように流れさせよ」
旧約聖書 アモス書 5章16節~27節
新約聖書 使徒言行録 7章42節~43節
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2024年2月18日「あなたがたはその神殿なのです」
旧約聖書 ゼカリヤ書 14章20節~21節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 3章16~17節
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2024年2月11日「イエス・キリストという土台」
詩編66編10節~12節
コリントの信徒への手紙一3章10節~15節
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2024年2月4日「あなたは神の子だ」と、叫び声があがった
ダニエル書3章25節
マルコによる福音書3章7節~12節
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〈説教の要約〉

2024年 5月26日       日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

聖霊降臨節 第2主日

旧約聖書 詩編143編 2節(P.983

新約聖書 コリントの信徒への手紙 4章1節~5節P.303

説  教「先走って、裁いてはならない」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしたちは仕える者であり、また管理者です ……Ⅰコリント4:1-2             

Ⅱ わたしは、自分で自分を裁くことすらしません 

                                      ……Ⅰコリント4:3

Ⅲ 御前に正しいと認められる者はいません     ……詩編143:2 

Ⅳ わたしを裁くのは主なのです       ……Ⅰコリント4:4          

Ⅴ 先走って何も裁いてはいけません       ……Ⅰコリント4:5

 結

 

今、パウロは神から自分に(さず)けられた務めや立場を説明しようとしています。それによって、わたしたちはキリスト者のあるべき姿や、神と隣人との関係について教えられます。ただしそれは、いわば白紙状態からの議論ではありません。

というのも、一部ながらもコリントの人の心には、パウロへの誤解や非難がぎっしり()め込まれているからです。そのことを踏まえて、神の知恵を通して、一体使徒パウロとは何者なのか、明るみに出されます。それが正しく受け止められるために、古い人の固定観念は打ち砕かれなければなりません。

パウロは説き明かしの鍵語として「裁く」または「裁かれる」(Ⅰコリント4:3,3,4,5を活用しています。“霊”に導かれながら、舌鋒(ぜっぽう)鋭く論じていることが分かります。パウロはこの箇所でも確かめられるように、(えん)(きょく)語り方(例:Ⅰコリント2:6)も、厳しく率直な言い回しもわきまえています。

このような巧みさや賢さは、「わたしたちがこれについて語るのも、人の知恵に教えられた言葉によるのではなく、“霊”に教えられた言葉によっています」(同上2:13)との事に由来しているのでありましょう。その意味で、パウロは自己抑制のできた人です。教会の指導者として、それにふさわしい賜物を持っています。

 

Ⅰ わたしたちは仕える者であり、また管理者です 

コリントの信徒への手紙 4:1-2――             

1 こういうわけですから、人はわたしたちをキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者考えるべきです2 この場合、管理者に要求されるのは忠実であることです

こういうわけですから、人は……考えるべきです」……理路整然として第三者的(一般論的)な言い方が()られています。まるで学校の教壇に立って生徒たちに、教会の指導者の「定義」を教えているかのようです。この「考えるべきです」には、「正しい教えとしてきっぱり決める」という意味合いがあります(C.ワルケンホースト)。

ここで、やや(えん)(きょく)な語り方で始めているパウロの本音は、わたしキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者であるということです。もう彼の巧みさにお気づきでしょう。もし、そんなあけすけな物言いをすれば、「わたし」に向かって、ただの肉の人(Ⅰコリント3:1,3)からブーイング(野次)が浴びせられるかも知れません。「わたしが管理者だと、あんたなんかに、管理される筋合いはない」と……。

そのような(かたく)なな人間の反抗は脇に置き、「信仰に成熟した人」として文意を読み取りましょう。

まず、どのように、教会の指導者または信徒を「定義」するにせよ、大前提として、キリスト者は神に選び、()されていることを認めねばなりません。そのことに、わたしたちは畏れを抱かなければなりません。神の計画に従って、罪人の(かしら)(Ⅰテモテ1:15)である「わたし」のような者が召し出されたということです。

預言者イザヤは天の御使いによって、「見よ、これ(すみ)()があなたの(くちびる)()れたので あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された」(イザヤ書6:7)と宣告されました。それは、イザヤの召命の時のことでありました。こうしてイザヤは聖別され、この世に(つか)わされました(同上6:8)。パウロもまた、神の力に押し出されて、教会を建てたり、建てつぐ務めにつきました。

そこで、わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者であるとのパウロの告白に立ち戻りましょう。この一文は、パウロが“霊”に導かれ、神の知恵が凝縮される形でつづられています。

仕える者から管理者という順こそが、パウロの(しん)(こっ)(ちょう)です。わたしたちが()(なら)うべき点です。が先に置かれているのが、肝要です。仕える者の原意は、の「()ぎ手」です。元来、船の下層部に座って()いでい奴隷を指す言葉です。

パウロはその「仕える者」との言葉をもって、自分が〈〉にぬかずくように、へりくだっていることを表明しました。それが重大な信仰告白であることは、パウロ自身の手による、有名なキリスト賛歌を読めば分かります。

フィリピの信徒への手紙2:6-8――

6 キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに()(しつ)しようとは思わず、

7 かえって自分を無にして、(しもべ)の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、8 へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。

要するにパウロは、主イエス・キリストの「従順」に照らして、自分の務めと立場を「考えるべき」と言っています。それがまず先に、〈〉を象徴する「仕える者」との用語に表れています。

そして次に、「わたしは神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」と述べています。「管理者」の原意は、「家を管理する」ということです。言い換えれば、「家」、すなわち、神の聖なる神殿(Ⅰコリント3:16-17)としての「教会」のことを取り仕切っている人物を指しています。

キリストに仕える者」と「管理者」との()ね合いで言えば、キリスト教の指導者には、〈〉から〈〉まで、全体を注視している、バランス感覚が大切だと分かります(マタイ20:26)。

さて、「管理者に要求されるのは忠実であること」について、主イエスご自身の「管理者」論に立ち返って(とら)えることにしましょう。主イエスは「目を覚ましている(しもべ)」のたとえの中で、管理者オイコノモス 家を管理する者)という同一の用語を使っておられます。

ルカ福音書12:42―― 

主は言われた。「主人が召し使いたちの上に立てて、時間どおりに食べ物を分配させることにした忠実で賢い管理人は、いったいだれであろうか。」

忠実で」(ピストスもパウロの用語と同じです。では、〈〉に立つ「管理者」とは、どんな人物なのか、主イエスのたとえを踏まえて掘り下げてみましょう。

一体、〈〉に立って見張る管理者とは、どんな人物なのでしょうか?

神または主イエスなる主人によって、召し使いたちの中から管理者が選ばれました。「管理者」は神の愛と正義をもって「召し使いたち」を見守り指導します。

その管理者が、この世の「管理者」と異なる点は、何なのでしょう。パウロは明解に、彼らには「神の秘められた計画をゆだねられている」と答えています。先に「見張る」と言ったのは、このことです。忠実な管理人は、「召し使いたち」を見守る以上に、神の秘められた計画を注視しています。

では、「忠実に神の秘められた計画」を見張っているためには、何が必要でしょうか?

それは、忠実な」(ピストス)という用語が指し示しているように、信仰ピスティスにほかなりません。だから、忠実な管理人」は、聖霊によって、主イエスをメシア・「主人」だと「信じて」います。

これも先に強調して行ったことですが、管理者に立って見張っています。城壁に立つ見張り人が全地の新たな動きに機敏なように(イザヤ書21:11-12)、「管理者」は「神の秘められた計画」のしるし・()(ちょう)素早く対応します。ただちに彼は、それを「召し使いたち」、すなわち、教会員に伝達します。

管理者」は〈〉に立って、を見ています。「管理者」なるパウロがそのことを実証しています……「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」と(Ⅰコリント4:5)。このように、「神の秘められた計画」に(りっ)(きゃく)して、〈〉なるもの、真の希望を明示することは、「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)にはできません。

これで、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」とのパウロの告白の重さをご理解していただけたでしょうか。「罪人の(かしら)」なるパウロを、教会の指導者に任じた神の知恵は、まことに測り知れないものであります。もちろん、「人はわたしたちを……と考えるべきです」と遠回しながら述べているように、パウロの周りには「キリストに仕える管理者たち」がいます。パウロは、アポロやペトロの消息を伝え聞いたこともありました(Ⅰコリント1:129:5)。ですから、パウロは決して孤立していたわけではありません。

 

Ⅱ わたしは、自分で自分を裁くことすらしません 

コリントの信徒への手紙 4:3――

わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません

今パウロは、自分の開拓伝道したコリント教会との関わりの中で、その務めや立場を説明しようとしています。

①「裁かれようと、少しも問題ではありません②「わたしは、自分で自分を裁くことすらしませんとの二つの文に分けて説き明かしましょう。これらは、皆さんの日頃の悩みや思い(わずら)いに答える内容になっています。

①「裁かれようと、少しも問題ではありません

教会の指導者は、大勢の兄弟姉妹の評価や判断のもとに置かれています。時に、めいめい、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」……裏を返せばあなたにはついていない……などと言い合う(Ⅰコリント1:123:4,21)ことが起こり得ます。実際、パウロはこのような問題を背景にしながら語っています。「気に()み始めるとつらい」ので、「少しも問題ではありません」と言い切っている(ふし)があります。

ここで「裁かれる」というのは、「評価・判断される」との意味です。「良い評価」ですら、自分に意外なものであれば、うれしいとは限らず(こわ)くなることもあります。まして、「悪い評価」、非難や誤解であれば……。

それほどまでに、わたしたちは回りの目によってがんじがらめになっています。パソコンや携帯で「エゴサーチ(エゴサ)自分自身や自分に関わりのあるものが、どのように思われているのか検索することするのも、その一端でありましょう。

ここで留意すべきは、「少しも問題ではない」と言っているのであって、「全く問題ではない」というのとは異なっている点です。すなわち、「少しも」の原意は最も小さいすから、「あなたがた」や「人間の法廷」での「裁き」や「評価・判断」は一考に値するかも知れません。

しかし結局、「あなたがた」・「人間」から裁かれることは、()(さい)・「最も小さい」ことと見なされます(R.B. ヘイズ)。

②「わたしは、自分で自分を裁くことすらしません

ここでは反対言葉として、自責の念、あるいは、自己責任という言葉が想起されます。「自分で自分を裁け」、人間は傲慢(ごうまん)になりやすいのだから、というのは一見正しい勧めのように思われます。

しかし、「わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者である」(Ⅰコリント4:1)との信仰的な立場によって、自分で自分を裁くことを熟考してみましょう。

そこで思い当たるのは、「自分で自分を裁くこと」には限界があるということです。わたしたちは「自分」を知り尽くしているわけではありません。その上、うぬぼれや卑下(ひげ)・謙遜というものが、「正しい自己評価」に混じってきます。

むしろ、「自分で自分を裁くこと」から解放され、自分の内に平安が保たれているというのが、パウロの教えるところでないでしょうか。すでにパウロは、霊的なものによって霊的なことを説明する」(Ⅰコリント2:13)との真理に立ち帰ることを提唱しました。神につき、隣人につき、そして自分自身について、「“霊”によって明らかに示される」(同上2:10)ことにゆだねましょう。

そのことに関して、旧約の詩人はわたしたちの先達でありました。

 

Ⅲ 御前に正しいと認められる者はいません        

詩編143:2――

あなたの(しもべ)裁きにかけないでください。

御前に正しいと認められる者は

命あるものの中にはいません

これは、「悔い改めの七つの詩編」中の一節ですから、ある意味では、信仰上の裁き」に係わりがあります。三つのことを読み取りましょう。

①「あなたの(しもべ)」としての願い求め

②「裁きにかけないでください」という神への畏れ

御前に正しいと認められるかどうかが(ぶん)()点〈祈りの課題

①「あなたの(しもべ)」としての願い求め――

 詩人は主なる神によって造られ、支え、保たれているです。自分は召し使い」であり、神が「忠実な管理者」として立てられるのに備えています。このは、あなたがた」や「人間の法廷」での裁きに動じることはありません。なぜなら、そのような「裁き」や「評価・判断」は」の人生において最も小さい」ことだからです。

②「裁きにかけないでください」という神への畏れ――

 ここで詩人は、裁き(ぬし)なる神を認めています。詩人は、「わたしを裁くのは主なのです」(Ⅰコリント4:4)というパウロの信仰を先取りしています。

 ただ今は、「裁かれる」神に赦しを()うています。同時に、「わたしの霊がなえ果てている」(詩編143:4)ために、神の求めておられる「行くべき道」(同上143:8)から(はず)れてしまっています。それほどまでに、弱く貧しい者が救われるかどうか(同上143:9)が課題なのです。

③「御前に正しいと認められる」かどうかが(ぶん)()点〈祈りの課題――

詩人は、「裁きにかけないでください」と、神に「裁き」の留保を願いました。しかし結局のところ、神がすべての人、その(つみ)(とが)を「裁く」お方であると信じています。「願わくは、御前に立てるように、“霊”によって清めてください」と祈っていることでしょう。

わたしたちにとって大切なのは、神の御手が届き、(つみ)(とが)を背負っている詩人が助け出されるのを待っているということです。神が詩人を「御前に正しいと認められる」日は必ず訪れることでしょう。というのも、「打ち砕かれ()いる心」(詩編51:19)をもって、嘆き祈り続けているのですから(同上143:1)。

神はその詩人の祈りを聞かれました。神の一方的な恵みの業によって、不信心な者が「義とされ」ました(ローマ4:3,5。パウロの説き明かしに耳を傾けましょう。

 

Ⅳ わたしを裁くのは主なのです         

コリントの信徒への手紙 4:4――  

自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。しかしわたしを裁くのは主なのです

自分には何もやましいところはない」とは、「神の御前に自分には罪悪がない」という意味ではなりません。そうではなく、「自分の良心に照らし、やましいところは見出せない」という意味です。つまり、「自分の良心」の限界を語っています。

次に、「それでわたしが義とされているわけではありません」と順接でつながり、最後に、「しかし、わたしは……」と逆転されています。〈Not〉人間の良心ではなく、But裁き(ぬし)なる神、自分が「やましい」かどうかをゆだねるということです。

自分には何もやましいところはない」……世間では、この文句がまことしやかな言い訳として用いられる風潮があります。But〉、キリスト者はこの文句のうさんくささ(疑わしいこと)を見抜くべきであります。わたしたちは、裁き(ぬし)なる神の御前において、「義とされている」かどうかが問題なのです。

自分には何もやましいところはない」との自己弁護は、即刻捨て去りましょう。うぬぼれは、つまずきの元です。

 

Ⅴ 先走って何も裁いてはいけません           

コリントの信徒への手紙 4:5――

ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の(くわだ)をも明らかにされますそのとき、おのおのは神からおほめにあずかります。

この最後の警告で注目したいのは、「(イエス・キリスト)が来られるまで」と「神からおほめにあずかります」との二つの句であります。.で述べたように、教会の指導者を「定義」する場合、キリスト者は神に選び、()されているということが大前提になります。従って、神と御子イエス・キリストによって、パウルの務めや立場は定められます。この警告に表れているように、パウロはいつも自分が、神と御子イエス・キリストにつながっていることを重んじています。

先走って何も裁いてはいけません」……鍵語・「裁く」または「裁かれる」(Ⅰコリント4:3,3,4,5)は、4回中、3回が否定的な文脈で出てきました(新共同訳の4:3に3回「裁く」がありますが、原文では2回です)。こうして、肯定文の「しかし、わたしを裁くのは主なのです」(同上4:4)との信仰告白が光を(はな)っています。

忠実なピストス管理人信仰ピスティス)」によって召され立たされています。その「信仰」の核心は、ただキリスト・イエスによる(あがな)いの(わざ)を通して、神の恵みにより無償で義とされる」(ローマ3:24)ということです。忠実な管理人」の(つみ)(とが)は、主イエスの十字架に血によって洗い清められました。

地上の命の終わりまで、再臨の主との出会いまで、「義とされた」、すなわち、神の御前に正しいと認められる」状態が保持できるのか、と心配になるでしょうか。そのために、パウロは「先走って何も裁いてはいけません」と、(くぎ)しました。あわてることはありません。自分には何もやましいところはない」と、自己弁護するのも(むな)しいことです。

主は闇の中に隠されている秘密明るみに出し、人の心の(くわだ)てをも明らかにされます」……ここにも、「先走って何も裁いてはいけない」との理由が記されています。その「隠されている秘密」が、災いなのか幸いなのか、あるいは、(つみ)(とが)なのか善行なのか、わたしたちの知る(よし)もありません。

いずれにせよ、わたしたちは、「主は……明るみに出し……明らかにされます」という主の御前に出ることになります。わたしたちが聖なる神と出会ったときに、自分の(あやま)ちや(みにく)さが(あば)き出されます。その中には、それまで自分が気づいていなかった()しき心の(くわだ)」もあり得るでしょう。

大切なのは、そこで神の御前にひれ伏し、悔い改めることです。その時、わたしたちは、ただ肉の人なる「あなたがた」や「人間の法廷」による「裁き」から解放されます。そして、「何もやましいところはないが……」との不安も消え去ります。

さて、神から自分に(さず)けられた務めや立場についてのパウロの弁明は初めに帰ります。すなわち、わたしはキリストに仕える者、神の秘められた計画をゆだねられた管理者であるとのアイデンティティに基づいて語っています。一部のコリント教会の人々の非難や不信感は、最後の段になって(ふっ)(しょく)されるのでしょうか。

そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」……〉に立つ忠実な管理人」は、見張り人のようにを望み見ています。

この「おほめ」(賞賛)というのは、父・子・御霊による洗礼を(さず)けられ、主イエス・キリストを信じるようになった者が、最後の審判の日に与えられるものです。その「おほめ」は、(あたい)のつけられない尊いものです。それは、「目標を目指してひたすら走った」人が獲得する「」であります(フィリピ3:14)。

忘れてはならないのは、次のことです。もし、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」との〈〉にある期待によって、コリントの人たちの間に、慢心(まんしん)や思い上がりが呼び起こされるとしたら、それはパウロの意図ではありません。

なぜなら、主イエス・キリストを信じて義とされた」、その時から、神の力を受ける者となったということだからです。それによって、わたしたちの「行くべき道」(詩編143:8)は、聖霊の導きにより神の正義と愛が支配するものとなりました。そこには、困難を乗り越える道や逃れる道も備えられています(出エジプト記14:29、Ⅰコリント10:13)。

 

パウロは、澄んだ目をもって、〈〉から〈〉まで見渡している、「キリストに仕える者」かつ「管理者」でありました。「神の秘められた計画」によって広大な地中海世界の伝道を展開しました。しかし、「意に介することはない」(少しも問題ではない Ⅰコリント4:3)とは言え、さまざまな非難や中傷を浴びてきました。わたしには到底()えられない、と多くの人が思うのではないでしょうか。

本日のテキストの最後のところで、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」ということが打ち明けられました。それは、霊の人なるパウロが「明るみに出した、神の秘められた計画」(Ⅰコリント4:1,5)であり、その「計画」のすばらしい将来・最高潮であります。

使徒言行録28:30-31――

30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。

これが、パウロの、地上の生涯の終わりを告げるものです。これは、パウロ本人の筆によるものではなく、新約聖書の一人の著者によるものです。しかし、この報告は間違いなく、パウロの信仰と生涯を代弁しています。

というのも、「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかる」との将来への見通しが、彼の生涯の終わりを支えるものとなっているからです。だからこそ、パウロはローマで平安な暮らしを送ることができたのです。

 

このような広い観点から、パウロの神から(さず)けられた務めや立場、その人生行路を理解すべきでありましょう。わたしたちが“霊”に導かれるならば、新約の代表的人物から、尽きることのない井戸から()み出すように、神の恵みと人生の指針を受け取ることができるでしょう。        W

〈説教の要約〉

2024年 5月19日           日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

聖霊降臨日(ペンテコステ) 聖霊降臨節 第1主日

旧約聖書 詩編2編 1節~2節(P.835

新約聖書 使徒言行録 4章23節~31節P.220

説  教「皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 心を一つにし、声をあげた             ……使徒4:23-24             

Ⅱ あなたは聖霊によってお告げになった         ……使徒4:25-26 詩編2:1-2 

Ⅲ 御手と御心によってあらかじめ定められていた ……使徒4:27-28  

Ⅳ 大胆に御言葉を語ることができるように        ……使徒4:29-30          

Ⅴ 皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした  ……使徒4:31 

 

本日、「聖霊降臨日」(ペンテコステ)に取り上げたテキストは、()(じゅん)(さい)(使徒2:1、Ⅰコリント16:8の恵みは繰り返されることを証ししています。「恵みを超えて恵みを(私訳 ヨハネ1:16)というのは、このような出来事を指すのでありましょう。

()(じゅん)(さい)マカバイ記 12:32)は元来、ユダヤ教の三大祭の一つであります。その名称の通りに、「(すぎ)(こし)(さい)」から50日を数えた日に催されます。「(なな)(しゅう)(さい)」(出エジプト記34:22)あるいは「刈り入れの祭り同上23:16とも呼ばれます。当地で小麦の初穂が収穫される頃、56月に祝われます。

初めて「聖霊降臨日」として()(じゅん)(さい)を迎えた直後に、エルサレムの教会は大きな苦難に出()いました。こんなにも早く迫害を受けるのか、と愕然(がくぜん)とします。

十二弟子のうちのペトロとヨハネが、エルサレム神殿の門のところで、足の不自由な男をいやしました(使徒3:1-10)。なお、二人が民衆と話をしていると、「祭司たち、神殿守衛長、サドカイ派の人々が近づいて来て」、「二人を捕らえて(ろう)に入れ」ました(同上4:1-3)。というのも彼らは、ペトロとヨハネが「死者の中からの復活」を宣べ伝えているのを聞き、「いらだった」からです(同上4:2)。興奮していらいらしている人々の存在は、初代教会にとっての脅威です。いわば制御不能の状態だからです。

エルサレムの礼拝共同体はまだ教会として建てられたばかりです。イエス・キリストという土台が()えられ、一同が一つになり、聖霊に満たされました。しかし、教会がその土台の上にどのように建てつがれていくのか、あるいは、神によって成長されられてゆくのかは、まだこれからのことです(Ⅰコリント3:6-13)。

パウロは、「わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)と述べています。これは、フィリピやコリントで教会を建てた経験を持つ人の言葉です。「苦難」は、個人的のみならず、教会の上に(おそ)いかかってきます。しかし、キリスト者は「苦難」を「忍耐」することにより、「るつぼで精錬(せいれん)される」ようにして、「練達」させられました。エルサレムの初代教会が、どのように苦難を乗り越えていったのか、読んでみましょう。

 

Ⅰ 心を一つにし、声をあげた            

使徒言行録4:23-24――             

23 さて二人(弟子のペトロとヨハネは、釈放されると仲間のところへ行き、祭司長たちや長老たちの言ったことを残らず話した。24 これを聞いた人たちは心を一つにし、神に向かって声をあげて言った。「主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です。」

ペトロとヨハネ仲間のところへ」直行しました。「仲間」の原意は「自分たちのもの・彼らのもの」ということで、「すべての物を共有し分け合っていた」兄弟姉妹の交わり(使徒2:44-45)が背景にあります。

そうしてペトロとヨハネは、自分たちにふりかかった逮捕・投獄の一件を報告しました。迫害された者たちの痛みが、皆で共有されました。そのことが、「これを聞いた人たちは心を一つにし」との一句のうちに表れています。一時孤立していたペトロとヨハネは「仲間」のうちに迎え入れられました。

実はこれ以前にも、「聖霊降臨日」の前後に、信者の兄弟姉妹が心を一つにしていたことが証言されています。

使徒言行録1:14 マティアが選出される時に――

彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

使徒言行録2:46 ペトロが説教した後に――

そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していた

なぜ、「天下のあらゆる国から帰って来た」人々(使徒2:5)が、さまざまな違いを越えて一致することができたのでしょうか? 

ネヘミヤ記8:1-2――

1 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。2 祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。

初代教会の時代からさかのぼること、およそ500年前に、エルサレムの「水の門の前にある広場」で礼拝が執り行われました。「()(なら)ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者たちが一人の人のようになった」ということです(ネヘミヤ記8:3)。水を打ったように静まるとは、まさにこのことです。

これは、都の城壁修築(ネヘミヤ記7:1)を記念する、新年(第七の月の一日)の礼拝でありました。さらに、その月の15日には、秋の収穫を祝う仮庵の祭りが始まります(同上8:17)。その光景を、総督ネヘミヤと書記官エズラが、祭司、レビ人、門衛、詠唱者、神殿の使用人などと共に見守っていました(同上7:728:9)。

帰還した捕囚の民と都にとどまっていた人々とが、「集まって一人の人のようになった」ということです。それは、「神の律法の書を朗読し」、「主を喜び祝う」礼拝(ネヘミヤ記8:8,10)がささげられたからです。

今日は聖なる日だ」(ネヘミヤ記8:11)という礼拝の力と恵みが、500年の隔たりを超えて、誕生したばかりのエルサレム教会に伝えられました。それは確かに“霊”の働きによるものでした。だから、聖霊(くだ)って来た日を中心に、信徒が心を一つにして」集まることが繰り返されたのでしょう。そのようにして、主イエス・キリストを信じる群れは、週の初めの日に礼拝するようになりました。

実のところ、そのキリスト教徒の一致こそが、団結し」・「一緒になる」敵対者(使徒4:26,27への堅固な(とりで)となりました。というのも、神に逆らう者たちの迫害、キリスト教の芽生えを(たた)きつぶすというほどに(おそ)ろしいものだったからです。それは、それまで敵だったものが味方同士になって、結託するという異様なものでありました。

主よ、あなたは天と地と海と、そして、そこにあるすべてのものを造られた方です」……そうした中、ペトロとヨハネから報告を聞いた人たちは、「力を捨て、神をあがめる」(詩編46:11)ことに傾注していました。

このように、初代教会の人々は天地の造り主」なる神への信仰(創世記1:12:4)を重んじました。創造神をあがめることは、聖霊によって主イエス・キリストの行いと言葉を思い起こすという観点からも大切です。

エフェソの信徒への手紙2:10――

なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。

この一節を説き明かしましょう。元々「わたしたちは神に造られたもの」ですが、「以前は肉の欲望の赴くままに生活し、肉や心の欲するままに行動していた」(エフェソ2:3)という罪深い状態に(おちい)りました。その結果、神に喜ばれる「善い業を行って歩む」ことができなくなりました。

そのために、わたしたちは「キリスト・イエスにおいて造られ」ました。正確に言うと、わたしたちは「造り直され」ました。それを記念して、キリストを信じる者は、洗礼という父・御子・御霊なる神の御業にあずかっています。

ペトロとヨハネの帰還を受けて、「仲間たち」(彼らの者たち)はまず、天地の造り主」なる神への信仰を言い表しました。なぜなら、「キリスト・イエスにおいて造り直された」という信仰によって歩む者となったからです。善い業を行うことこそが、敵対者の陰謀や結託を打ち破る力の源泉になります。

 

Ⅱ あなたは聖霊によってお告げになった        

使徒言行録4:25-26―― 

25 あなたの(しもべ)であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました

『なぜ、異邦人は騒ぎ立ち、

諸国の民はむなしいことを(くわだ)てるのか。

26 地上の王たちはこぞって立ち上がり、

指導者たちは団結して、

主とそのメシア(さか)らう

*使徒言行録4:25-26(ギリシア語)は元の詩編2:1-2(ヘブライ語)を忠実に訳しています。

今、キリスト者の兄弟姉妹が聖霊の臨在のもとに、「心を一つにして」います。教会の中に、堅い(とりで)のように、一致があります。すると、神に逆らう者たちが「団結し」・「一緒になって」いる(使徒4:26,27)様子が見えてきました。それは、神がキリスト者を、全力を尽くして、「善い業を行う」ように導くためです。

ただし、いざ善行(ぜんこう)に励もうとする前に、エルサレムの初代教会が受けた、神の御言葉に耳を傾けましょう。人間的には知恵がなく、弱く貧しい者にとっても、「あなたの御言葉は、わたしの歩みを照らす(ともしび)」(詩編119:105)となります。

そこで、旧約の時キリストの時⇒〈教会の時という三つの時の流れに即して(とら)えましょう。というのも、エルサレムの信仰者たちは、自分たちの教会の時というものを神の大いなる救いの歴史に従って見ていたからです。特に、自分たちの〈教会の時〉を〈キリストの時〉と重ね合わせて、現在の苦難を乗り越えようとしていたのです。それこそ、「“霊”に教えられた言葉によって」、まっすぐに歩んで行く「神の知恵」でありました(Ⅰコリント2:4,13)。何もわたしが(かしこ)ぶることはありません。

詩編2:1-2――

1 なにゆえ、国々は騒ぎ立ち

人々はむなしく声をあげるのか。

2 なにゆえ、地上の王は構え、支配者は結束して

主に逆らい、主の油注がれた方に(さか)らうのか

初代教会の人たちは謙虚に、〈旧約の時〉の御言葉に耳を傾けました。それは、打ちのめされて帰って来たペトロとヤコブと仲間たちが再会する場面です。天地の造り主」なる神(使徒4:24)から、「主の油注がれた方」を取り巻いて反抗している「地上の王」へと焦点が移りました。それは、天を見上げたのちに、現実を直視するということです。

エルサレムの議員、長老、律法学者、祭司(使徒4:5-6)が「結束して」、ペトロとヨハネを投獄し尋問したばかりです。今読み直すにふさわしい御言葉と言えましょう。

詩編2:1-2の引用の前に、あなたの(しもべ)であり、また、わたしたちの父であるダビデの口を通し、あなたは聖霊によってこうお告げになりました」と記されています。「あなた(神)は聖霊によって」と言うところに、「()(じゅん)(さい)」の恵みにあずかっているのがにじみ出ています。

旧約の時〉にも、厳しい迫害があったということで、〈教会の時〉を生きるペトロやヨハネは、冷静に事態を受け止めることができました。さらに重要なことは、先に述べた通り、主イエスの弟子たちはじめ初代のキリスト者が〈キリストの時〉に照らしつつ、自分たちの〈教会の時〉を把握しようとしたことです。

彼らは、主イエス・キリストは十字架につけられ、三日目によみがえられたことを信仰の中心に()えていました。それと同時に、「主イエスがわたしたちと共に生活されていた間」(使徒1:21)のすべてのことを信仰と生活とを規範として、教会を建てようとしていたのです。

そのように、信仰者はキリストに(なら)い、その生活において善い業を行って歩もう」(エフェソ2:10)としていたとき、まさにその時に、彼らは聖霊に満たされました。

地上の王」や「支配者」(使徒4:26)が彼らを(おど)したり誘惑しようとしても、忍耐して災いが過ぎ去るのを待ちました。なぜなら、初代のキリスト者は、「メシア」預言(詩編2:2 / 使徒4:26)が「油を注がれた聖なる(しもべ)イエス」(使徒4:27)によって成就したことを確信していたからです。主によって救われた彼らには、嵐の中でも平安がありました。

 

Ⅲ 御手と御心によってあらかじめ定められていた 

使徒言行録4:27-28 ペトロとヨハネの報告を聞いた人たちの言葉――

27 「事実、この都でヘロデとポンティオ・ピラトは、異邦人やイスラエルの民と一緒になって、あなたが油を注がれた聖なる(しもべ)イエス(さか)らいました。28 そして、実現するようにと御手と御心によってあらかじめ定められていたことを、すべて行ったのです。」

天地の造り主」なる神(使徒4:24)から、旧約の時代から反抗し続けている「地上の王」へと焦点が移り、そして最後に「あなた(神)が油を注がれた聖なる(しもべ)イエス」が登場しました。

まず、迫害の観点から、旧約の時〉と〈キリストの時とが重ね合わされているのを確認しましょう。ルカ福音書・使徒言行録の著者は、「すべての事を初めから詳しく調べて、順序正しく書いている」(ルカ1:3)ので、彼が総括している歴史は信頼できます。

地上の王(詩編2:1には「ガリラヤとペレアのヘロデ・アンティパス」が、また、「支配者」(詩編2:2)には「ローマ総督のポンティオピラト」が例示されています。さらに、「ヘロデとポンティオ・ピラトは一緒になって」という点については、次の聖書の言葉がその事実を裏づけています。

ルカ福音書23:12――

この日(イエスを尋問した日)、ヘロデとピラトは仲がよくなった。それまでは互いに敵対していたのである。

災いが自分にふりかかって来るとき、その災いが思いがけない形で増大することがあります。ここでは、その最悪の事態が、主イエスに反逆する、敵と敵との結託によって生じたことが分かります。“霊”的な支えが無ければ、心が折れてしまうほどのことです。

エルサレムの初代教会の人たちは、礼拝で旧約聖書を読み、「主の復活の証人」(使徒1:22)から御言葉を聞きました。それは要するに、「実現するようにと(神の)御手と御心によってあらかじめ定められていたこと」でありました。それによって、「メシア」預言とその成就について教えられ、信仰が深められました。

そうして、彼らは、〈旧約の時〉⇒キリストの時〉⇒教会の時という神の大いなる救いの歴史を把握するようになりました。それは、「人の知恵」には測り知り得ない真理ですが、聖霊が「神の知恵」をもって説き明かしました(Ⅰコリント2:7,13)。

 

Ⅳ 大胆に御言葉を語ることができるように      

使徒言行録4:29-30 ペトロとヨハネの報告を聞いた人たちの言葉――

29 主よ、今こそ彼らの(おど)しに目を留め、あなたの(しもべ)が、思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください30 どうか、御手を伸ばし聖なる(しもべ)イエスの名によって、病気がいやされ、しるしと不思議な(わざ)が行われるようにしてください。」

いよいよ、〈教会の時〉に突入して来ました。教会を堅固な(とりで)して、団結し」・「一緒になって」(使徒4:26,27)襲いかかって来る敵対者に立ち向かうことになりました。教会が「心を一つに」する(同上4:24)というのが、頼みの(つな)です。

最後の文章はいみじくも、「主よ、①……ようにしてくださいどうか、②……ようにしてください」との「祈り」(使徒4:31)になっています。主よ」の語彙は別ですが、迫害の報告を聞いた人たちが最初に叫んだ言葉(同上4:24)の繰り返しになります。

すなわち、それは「主よ、あなたこそがわたしたちを守ってくださるお方です」との信仰告白にほかなりません。祈る人は、「あなたの(しもべ)たち」と言って、御前にへりくだっています。聖霊なる神は、そのように祈りを大切にする信仰を支え見守っておられます。

祈り」の内容を確認しておきましょう。

主よ①……ようにしてください」――「思い切って大胆に御言葉を語る

どうか、②……ようにしてください」――「病気がいやされ、しるしと不思議な(わざ)が行われる

初代教会のキリスト者は、「主よ」と呼びかけて、①御言葉の宣教と②いやしなどの業とが行えるようにと願い求めました。

使徒言行録4:29-30の「祈り」はとっさのうちにささげられたものです。しかしこれは、「①罪の赦しを教える⇒②病気を(いや)」(マルコ2:1-12ルカ5:17)という主イエスの伝道と()(いつ)にしています。まさに、聖霊の息吹のうちに、キリストの時〉から〈教会の時〉へと行き巡っています。

こうして、初代のキリスト教会の伝道が進められました。「しかし、このことがこれ以上民衆の間に広まらないように、今後あの名によってだれにも話すなと(ペトロとヨハネを)(おど)しておこう」(使徒使徒4:17)との妨害に屈することはありませんでした。

なぜなら、キリスト者は、「思い切って大胆に御言葉を語った」からです。彼らは、()(じゅん)(さい)の恵みを繰り返し証ししました。彼ら自身が「恵みを超えて恵みを」という出来事に驚かされながら、堂々と自分たちの信仰を告げ知らせました。

        

Ⅴ 皆、聖霊に満たされて、神の言葉を語りだした 

使徒言行録4:31―― 

祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。

自然現象を包み込んで異変が起こりました。これはまさしく、主の復活祭から数えて50日目の「聖霊降臨日」の出来事(使徒2:1-4)を想起させます。その日と同様に、兄弟姉妹は聖霊に満たされました。

その上、「主よ、…… 思い切って大胆に御言葉を語ることができるようにしてください」との祈りが聞かれて、「皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだし」ました。このこともまた、「祈り」のための証しになるに違いありません。

このようにして、ユダヤ民族が伝統的に遵守してきた()(じゅん)(さい)は、キリスト教の信者によって受け継がれていきました。その日に「一同、聖霊に満たされた」のですから、「聖霊降臨日」という呼称は的確です。そうして、「聖霊」の導きのもとに、「説教」(使徒2:14-36)が語られる礼拝共同体、最初の教会が誕生しました。

願わくは、茅ヶ崎香川教会において、「聖霊降臨日」の恵みが再現されますように

 

 

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〈説教の要約〉

2024年 5月12日    日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

復活節 第7主日 

旧約聖書 詩編91編 11節~12節(P.930

新約聖書 ルカによる福音書 4章1節~13節P.107

説  教「あなたはしっかり守られている」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 四十日間、イエスは悪魔から誘惑を受けられた 

                                             ……ルカ4:1-2             

Ⅱ この石にパンになるように命じたらどうだ   ……ルカ4:3-4

Ⅲ この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう   ……ルカ4:5-8 

Ⅳ 神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ  

                            ……ルカ4:9-12 詩編91:11-12          

Ⅴ 悪魔は、時が来るまでイエスを離れた       ……ルカ4:13

 

来週、ペンテコステ・聖霊降臨日を迎えます。そこで本日は、主イエスが“霊”の導きのもとに、悪魔の誘惑に打ち勝たれた出来事を読みましょう。そこでは、神の道から離れさせようとする(こころ)みに対して、どのように対応するのか、が明瞭に描き出されています。ガリラヤ伝道の始まりにあたって、誘惑に負けなかった主イエスを通し、弟子たちはじめ人間に歩むべき道示されました。

わたしたちにとって大切なのは、そのように誘惑をことごとく退(しりぞ)けられた主イエス・キリストによって救われているということです。有名なヨハネ福音書3:17を借りて言えば、「神が御子を世に遣わされたのは、わたしたちを誘惑に()わせないためではなく……誘惑への不手際な対応がいちいち裁かれることなく……、御子によってわたしたちが救われるためである」ということなのです。

そのため、わたしたちは誘惑の嵐の吹きすさぶこの世の中にあっても、救い主を遣わしてくださった父なる神を礼拝し続けます。なぜなら、わたしたちはイエス・キリストを信じることによって、罪と死から解放され、永遠の命を得ることができるからです。

悪魔からの誘惑に勝利された主イエス・キリストの出来事を想起して、思い(わずら)うことなく、日々過ごしていきましょう。四十日間」の荒れ野の誘惑に(あか)されているように、聖霊なる神はわたしたちに知恵忍耐を与えて助けてくださいます。自分の力に頼ってはなりません。救われていることを尊ぶ信仰者は、自分で誘惑を退けようとはしません。

 

Ⅰ 四十日間、イエスは悪魔から誘惑を受けられた 

ルカ福音書4:1-2――  

1 さて、イエスは聖霊に満ちて、ヨルダン川からお帰りになった。そして、荒れ野の中をによって引き回され、2 四十日間、悪魔から誘惑を受けられその間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた

.で、主イエスの出来事における聖霊の導きについて触れました。ここで、ルカ福音書における、荒れ野の誘惑の前後関係を調べてみましょう。

イエス、洗礼を受ける ルカ3:21-22 イエスの系図 3:23-38 荒れ野の誘惑 4:1-13

ガリラヤでの伝道 4:169:15

このような展開を見渡すならば、主イエスの受洗の際に、「聖霊が鳩のように目に見える姿でイエスの上に(くだ)って来た」(ルカ3:22)ことが大きな意味を持っているのが分かります。その「聖霊が」イエスを荒れ野の誘惑へと導き入れたのであります。そこで、「聖霊に満ちて」おられる主イエスと悪魔とが(たい)()します。

三つの誘惑、その一つ一つの戦いにおいて、が主イエスを包み込んでいます。わたしたちが、そのの働きを認めなければ、主イエスが試みられる物語を読んだことにはなりません。それでは、自分も主イエスのように、数々の誘惑を退け勝利できると、勘違いすることになります。

死と隣り合わせの「荒れ野」……そこで、が「神の御心に(かな)った者」(ルカ3:22)に充満していました。「四十日間、何も食べず」という極限状態の中で、主イエスは「悪魔から誘惑を受けられ」ました。そこで、十字架の丘での終わりに向けて、第一歩を刻まれました。実際、第三の誘惑においては、エルサレムの神殿が出てきます(同上4:9)。全地の「」(同上19:12,2723:38)なる御子の旅の始まりです。

主イエスが三度も誘惑に遭うというのは、神の栄光を奪い去ろうとする悪魔の(たくら)みです。主イエスの側に落ち度があるわけではありません。高潔さや義しさというものは、それらを(けむ)たがるこの世にあってしばしば(ひょう)(てき)されます

一例を挙げましょう。父祖アブラハムは神から、独り子イサクを献げるよう(こころ)みを受けました。アブラハムは神の愛を信じ、従順にこの試みに立ち向かいました。その結果、アブラハムはこの試練によって神からの祝福を与えられました。神への(まった)き信頼が、彼を救い出しました。そうしてアブラハムは、主イエス・キリストを通して「彼の信仰に従う者」にとっての信仰の「」となりました(ローマ4:16)。

悪魔は、アブラハムのように愛の豊かな人を、うそ(いつわ)裏切りもって()(せつ)させようとします。悪魔は、そういう人々がつまずけば、世の中全体が退廃(たいはい)してゆくことを見抜いています。

確かに、アブラハムはイサク奉献という最大の試みをくぐり抜けました。しかし、()(きん)のためエジプト(くだ)った時アブラハムは自分の妻サラのことを「わたしの妹です」と(うそ)をつき、エジプト人をだましました(創世記12:10-20)。その結果、ファラオからエジプトから立ち去るよう命じられました。ささいな誘惑をあなどるな、それが、信仰の「」からの教訓ではないでしょうか。

人間誰しも、試練によって(きた)えられ、“霊”的に成長していくものです。自分は誘惑の(わな)に落ちないという自信など、やがて打ち砕かれるに違いありません。

それでは、主イエスがどのように巧みな誘惑に対処されたのか、見てみることにしましょう。

 

Ⅱ この石にパンになるように命じたらどうだ     

ルカ福音書4:3-4――

3 そこで、悪魔はイエスに言った。「神の子なら、この石にパンになるように命じたらどうだ。」4 イエスは、「『人はパンだけで生きるものではない』と書いてある」とお答えになった。

第一の誘惑が襲って来たのは、「(イエスが)その間、何も食べず、その期間が終わると空腹を覚えられた」(ルカ4:2)という時でありました。敬虔な人であっても、タイミングさえ合えば、ささいな誘惑でつまずいてしまうというのは、その通りです。そんな時、「魔がさす」のを、悪魔はねらっています。人の子イエスの弱みにつけいる策略です。

ところで、よく聖書を読んでいる人で、こんな疑問を(いだ)く方はいないでしょうか?

主イエスは、五つのパンと二匹の魚」(ルカ9:16)を増加させて、五千人を満腹させる(同上9:17)という御業を行われるお方です。だからここで、「この石にパンになるように命じたら」と言うのは、意味がないのでは、との疑問です。つまり、悪魔は、主イエスが石をパンに変える御力を持っているのを、知らないのですか、ということです。そんな悪魔のことなんか、(ほう)っておきましょう……

しかし、ここで一体何が、問題となっているのかが(とら)えられれば、その疑問は解消されます。要するに、ここでは、人の子イエスが「空腹を覚える」時に……まさにそれがしばしば人間世界で起こる……、導かれている主イエスがどのように振る舞うか、が中心なのです。

その上で、主イエスの示される行いと言葉によって、わたしたちが救われるということに、わたしたちは全神経を集中しなければなりません。主イエスはすべての人に、神の大いなる救いをあずからせようと伝道を始められます。今はまだ、目撃者のいない「荒れ野の中」ではありますが……。

主イエスは、信仰者が神の国をめざす中で、「五つのパンと二匹の魚」の増加の奇跡を起こし得るお方です。しかし、人が神を信じるようにをもって導くお方、イエス・キリストが示されたのは、以下の聖句でありました。

申命記8:3――

主はあなた(イスラエルの民)を苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。

主イエスは上の文から「人はパンだけで生きるものではない」と引用して、悪魔に答えられました。主イエスは神の御心が開示されている聖書の言葉を返されたのです。その後の「人は主の口から出るすべての言葉によって生きる」との文中の「主の口から出る」との一句、換言すれば、「神の豊かさを信じて受ける」ということこそが肝要なのでありました。

神はわたしたちと「」(申命記8:1)ある交わりを結ばれるために、わたしたちに神の「言葉」を与えてくださいます。神の備えられる「すべての言葉によって」、わたしたちは神を信じるよう導かれます。主イエスはそのようなわたしたちのために……パンマナの現物支給の形ではなく……、わたしたちに必要な糧を毎日与えてください」(ルカ11:3)と祈ることを教えてくださいました。

 

Ⅲ この国々の一切の権力と繁栄とを与えよう      

ルカ福音書4:5-8―― 

5 更に、悪魔はイエスを高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せた。6 そして悪魔は言った。「わたしはあなたにこの国々の一切の権力と繁栄とを与えよう。それはわたしに任されていて、これと思う人に与えることができるからだ。7 だから、もしあなたがわたしを拝むなら、みんなあなたのものになる。」 8 イエスはお答えになった。

「『あなたの神である主を(おが)み、

ただ主に仕えよ』

と書いてある。」

物質的欲求から精神的欲望へ……悪魔は手を替え品を替え、誘惑に(おとしい)れようとします。そして第一の失敗を省みて、わたし〉は〈あなた〉ににじり寄ってきます。

悪魔は相手を幻惑させる思惑(おもわく)で、「高く引き上げ、一瞬のうちに世界のすべての国々を見せ」ます。その高い所から「国々の一切の権力と繁栄」が一望できます。これは、他の人よりも「高く引き上げられている」、つまり、「マウントをとる(人を見下し自分の優位を誇示する)という欲望をかき立てるものです。

その欲望に付け入ろうとする悪魔は、「だから、もしあなたわたしを拝むなら」との交換条件を出しています。これは第二の誘惑が、自分〈わたし〉と相手〈あなた〉との関係の問題であることを表しています。

日頃わたしたちは、対人関係に悩ませられることがあります。ここで、「わたしを拝むなら」を、「わたしの一つの願いを聞いてくれるなら」または「わたしの顔を立てくれるなら」と言い換えてみましょう。すると、ちょっとした誘いかけを(ことわ)れないで失敗した経験を思い起こすのではないでしょうか

主イエスが、自分〈わたしと相手あなたとの関係の問題に、どのように対応されたかは、悪魔への答えに明解です。引用元の旧約聖書を掲げましょう。

申命記6:13-14――

13 あなたの神、主を(おそ)れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。

ここに、自分わたしあなたなるを畏れて(おが)むという関係性の基本が提示されています。まず、〈あなた〉なる神を愛することが初めで、それに、〈あなたたち〉なる隣人を愛することが続きます(マタイ22:34-40)。〈わたし〉はこれを最も重要な(おきて)としなければなりません。主イエス・キリストは御自身の命をかけて、これを成し遂げられました。

第二の誘惑の際に、「最も重要な(おきて)」が明るみに出されました。このこともまた、荒れ野での出来事が、主イエスと共なるによって支配されていたことを物語っています。

 

Ⅳ 神の子なら、ここから飛び()りたらどうだ      

ルカ福音書4:9-12――          

9 こで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き神殿の屋根の(はし)に立たせて言った。「神の子なら、ここから飛び降りたらどうだ。10 というのは、こう書いてあるからだ。

『神はあなたのために天使たちに命じて、

あなたをしっかり守らせる。』

11 た、

『あなたの足が石に打ち当たることのないように、

天使たちは手であなたを支える。』」

12 イエスは、「『あなたの神である主を(ため)してはならない』と言われている」とお答えになった。

第三の誘惑は、「悪魔がイエスをエルサレムに連れて行った」ということで、場面が主イエスの十字架と復活の地に移り変わりました。ガリラヤ伝道の直前のことですが、悪魔は主イエスの公生涯の終わりに光を当ててくれています。

しかも、悪魔からの要求は、「神の子ならここ神殿の屋根の(はし)から飛び降りたらどうだ」ということで、要するに、「奇跡を起こして自分を示せ」、「一体あなたは何者なのか?」というものでありました。一見「ここから飛び降りたらどうだ」は無茶な要求と思われますが、結局、福音書の読者に、「イエス・キリストがどのようなお方であるのか」を考えさせる糸口になっています。

ところで、ここで悪魔の誘惑の鍵になっているのは、「神の子なら」とのセリフで、第一の誘惑の時(ルカ4:3)に続いて用いられています。これは単に、相手にお世辞を言っているのではありません。そうではなく、大局的に荒れ野の誘惑を見たときに、主イエスが「神の子」かどうか、また、どのような「神の子」なのか、が主題だからです。

次の言葉からも、それは証言されます。「祭司長たちも律法学者たちや長老たち(まさに悪魔の手先

と一緒に」口をそろえて、「今すぐ十字架から降りるがいい……『わたしは神の子だ』と言っていたのだから」と叫びました(マタイ27:41-43)。主イエスが十字架に上げられている場面でのことです。この「()りるがいい」は、荒れ野の(こころ)みの飛び降りたらどうだ」と符合しています。

 「今すぐ十字架から降りるがいい」との言葉の真意は、「死の苦難から(のが)れる力があるか見せてみよ」ということです。祭司長たちは、主イエスが行動を起こして、「十字架から降りて」、(自分に対しての救いを実証してみせよ(マタイ27:42,43)、と迫っています。

主イエスはそのような奇跡をもって、自分が神の子であるのを立証しようとはなさいませんでした。そうではなく、「神の子」、イエス・キリストが十字架と復活の御業によって、罪と死からわたしたちを助け出すことを、主イエスは伝道の初期から見()えておられたのであります。だからこの(たび)、主イエスは「飛び降りる」ことなどなさいません。

 今回悪魔は執拗(しつよう)にも、旧約聖書を使って食い下がりました。

詩編91:11-12―― 

11 主はあなたのために、()使(つか)いに命じて

あなたの道のどこにおいても守らせてくださる。

12 彼らはあなたをその手にのせて運び

足が石に当たらないように守る。

それは、聖書の或る一節を抜き出して、或る場面に適用するという(たくら)みでありました。それは、の導きをもとに、御言葉が与えられ、自分の生活の指針にするというのと、正反対のものでした。要は、祈りをもって、聖書全体によって、神の御心を問い尋ねるという忍耐強さと謙虚さが皆無でありました。

あなたの神である主を(ため)してはならない」……主イエスは、「神の秘められた計画」全体(Ⅰコリント2:1)を熟慮されたうえで、悪魔の誘惑を退けられました。

申命記6:16――

あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を(ため)してはならない

ここで、主イエスは、失敗など(おか)さない方であるにもかかわらず、荒れ野放浪中の、イスラエルの民の失態を思い起こされました。それはまさに、イスラエルの民が飢え渇いていた時のことでありました。

出エジプト記17:1-2――

1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。2 民がモーセと争い、「我々に飲み水を与えよ」と言うと、モーセは言った。「なぜ、わたしと争うのか。なぜ、主を(ため)すのか。」

荒れ野での、舌の焼け付くような渇きについては同情したいところですが、根本の問題は、「果たして、主は我々の間におられるのかどうか」(出エジプト記17:7)というように、確信を持てない、民の不信仰にありました。

片や、イスラエルの民は臨在する神を信じきれなかった(民数記20:12)ことが、マサ(ため)し)という場所の命名と共に、その歴史の中に刻まれたのであります。片や、主イエスは「荒れ野の中」で、聖書全体から、「あなたの神である主を(ため)してはならない」との教えを導き出されました。御子イエスは忍従しつつ、「あなたの神」なる父の栄光を現す(ヨハネ17:4)ことに全身全霊を注ぎ込まれました。

なお、悪魔が部分引用した詩編91編には、試練の時にも、「神を慕い、神の名を知る」者と「共にいて、助けて」くださる神が描き出されています(91:14-15)。「(はね)をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる」神(91:4)は、死の淵からわたしたちの魂を引き上げてくださいます。自ら「飛び降りる」危険をつくり出すことは、神の御心に添うものではありません。

 

Ⅴ 悪魔は、時が来るまでイエスを離れた          

ルカ福音書4:13――

悪魔はあらゆる誘惑を終えて、時が来るまでイエスを離れた

イスカリオテのユダに「サタンが入った」時(ルカ22:3)、そして「闇が力を振るう」時(同上22:53)まで「悪魔は離れ」ました。そうして、イエスは“霊”の力に満ちてガリラヤに帰られた」(ルカ4:14)ように、ガリラヤ伝道への準備がなされました。何よりも、三つの誘惑への対応を通じて、「イエス・キリストがどのようなお方であるのか」が指し示されました。

主イエスは弟子に、「わたしたちを誘惑()わせないでください」(ルカ11:4)と祈ることを教えられました。わたしたちは自分の人生で、どんな誘惑が襲って来るのか、分かりません。それ故に大切なのは、祈りの中で、弱い自分を認め、神に助けを願い求めることです。

わたしは、「誘惑」に打ち勝たれた主イエス・キリストを心から信じます。

どうか、わたしを誘惑に()わせないでください」。

イエス・キリストを遣わし、そして聖霊を遣わしてくださる主なる神によって、わたしはしっかり守られています。 

神こそが「わたし()けどころ、(とりで)」(詩編91:2)ですから。 

              

 

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〈説教の要約〉

2024年 5月5日     日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

復活節 第6主日

旧約聖書 エレミヤ書 4章3節(P.1181

新約聖書 マルコによる福音書 4章1節~9節P.66

説  教「芽生(めば)え、育って実を結ぶ(たね)  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた       ……マルコ4:1-2             

Ⅱ 種を()く人が種蒔きに出て行った          ……マルコ4:3-7

Ⅲ (いばら)の中に(たね)を蒔くな                    ……エレミヤ書4:3 

Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった  ……マルコ4:8          

Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい                ……マルコ4:9 

 

ガリラヤの湖や山を舞台に、主イエスの伝道が進められています。主イエスは家の中から湖のほとりに出て行かれました。これから、夕方に至るまで(マルコ4:35)、主イエスは群衆にいろいろなたとえを話されます。

わたしたちには通常、家の内と家の外との生活があります。その二つは車の両輪の関係にあります。家での平穏と外での活動、双方があってより人間らしく生きてゆくことができます。

この世の中で、不慣れな人間関係において心身がたくましくなり、自立の意識が芽生えることもあるでしょう。あるいは、屋外で動植物や自然などの被造物に親しく接する中で、知恵や愛情が(はぐく)まれることもあるでしょう。

さあ、主イエスは(舟に乗って)湖の中、群衆はそのほとりという状況での、「たとえ話の集会」に参加してみることにしましょう。主イエスはその一番目として、野外で語るにふさわしいたとえを取り上げられました。これは、広い観点から「神の国」のたとえ話に属します(マルコ1:154:11)。ですから、パレスチナや日本の農業のやり方から観て、非常識であるとの現世的思考にこだわり過ぎないようにしましょう。湖の上という異空間におられる主イエスをしっかりと見つめましょう。言うまでもなく、神を拝む礼拝は、天空の見わたせる野外でも可能です。

中心点はここでも、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということです。そして、あなたが御言葉を聞き入れて、救われるかどうか、が問われています。

 

 

 

 

Ⅰ イエスはたとえでいろいろと教えた        

マルコ福音書4:1-2――             

1 イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。おびただしい群衆が、そばに集まって来た。そこで、イエスは舟に乗って腰を下ろし、湖の上におられたが、群衆は皆、湖畔にいた。2 イエスはたとえでいろいろと教えられ、その中で次のように言われた。

ここで主イエスは、わたしたちの手本となる伝道の基本を実践されています。

イエスは、再び湖のほとりに出て行かれた。

群衆が皆そばに集まって来たので、イエスは教えられた。」(マルコ2:13

        ↓    ↓

イエスは、再び湖のほとりで教え始められた。

おびただしい群衆が、そばに集まって来た。」(マルコ4:1

繰り返し出かけて行く、繰り返し語る、そうしてイエス・キリストの御姿を人々の心に焼き付けるということです。それは、都のように家が密集しておらず、視界をさえぎる山もない、ガリラヤ湖畔では格好のやり方でありました。

主イエスの巡回によって、カファルナウムからベトサイダやコラジンへ(マルコ1:216:45、マタイ11:21)、点から線へ、線から面へと伝道が展開されていきます。それは、「群衆」が「おびただしい群衆」に(ふく)らんでいるこからも分かります(マルコ3:74:1)。ユダヤ民族の(かき)()を飛び越えて、イドマヤ(エドム、ティルスやシドンの辺り」(同上3:8)など、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。

さて、「イエスはたとえでいろいろと教えられた」ということを説き明かしましょう。

まず、「いろいろと教えられた」との句には、ずっと継続して忍耐強く教えたとのニュアンスが含まれています。先取りして言えば、主イエスは挫折に屈せず、「種を()」(マルコ4:3)として御言葉を蒔き続けられます。その点については、.で詳しく述べます。

そして、なぜたとえを用いて話すのか、との疑問にお答えましょう。すでにお話しした通り、「たとえ」は大概、日常生活から題材……種蒔きの他、ともし火(はかり)など(マルコ4:21-25)……が採られています。しかしながら、主イエスのたとえは明確に神の国を指し示しています。「神の国」は、わたしたちの生きている「命あるものの地」(詩編142:6)とつながりつつも、そこは神の栄光と恵みが満ち満ちているところです。

従って、わたしたちの日常生活の知恵や経験をもってすれば、主イエスの「たとえ」がすぐに分かるというのではありません。むしろ、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態 マルコ4:11)のを、受け止める受容することが重要になります。「神の国の秘密」というのは、「の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)と言い換えられます。

だからこそ、「たとえでいろいろと教えられ」、その「計画」の全体像を(とら)えねばなりません。主イエスにつき従う者が打ち明けられ、教えられるコツとして、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)と勧告されています。これも、あと(.)で吟味することにします。それでは、「聞くに早く」(ヤコブ1:19)との教えに従って、さっそく「たとえ」の本文に耳を傾けましょう。

 

Ⅱ 種を()く人が種蒔きに出て行った            

マルコ福音書4:3-7――

3 「よく聞きなさい。種を()く人種蒔きに出て行った。4 蒔いている間に、ある(たね)道端(みちばた)落ち、鳥が来て食べてしまった。5 ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。6 しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。

7 ほかの種は(いばら)の中に落ちた。すると茨が伸びて(おお)いふさいだので、実を結ばなかった。」

整理すれば、ある(たね)は「道端(みちばた)」、ほかの種は「石だらけで土の少ない所に」、そして③「ほかの種は「(いばら)の中に」、それぞれ「落ちた」ということです。①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつです。

あまり実際の農業に結びつけないように、と言った理由がもうお分かりでしょう。いくら実証しようとしても、このような「種蒔き」の仕方は普通ではありません。ここで付け加えますが、「種を()く人のたとえ」は、主イエスにさかのぼる真正なものだと言われています。裏を返せば、このたとえには、主イエスによって独特のアレンジが(ほどこ)されているということになります。

では、①~③の例示によって、主イエスは何を言わんとしているのでしょうか。

①「道端(みちばた)

……御言葉を聞いても悟らずに、それを捨ててしまう人 マタイ13:19

②「石だらけで土の少ない所に

……しばらくは続いても、困難や迫害に()うとつまずいてしまう人 マルコ4:17

③「(いばら)の中に

……この世の思い(わずら)いや誘惑によって実を結ぶに至らない人 マルコ4:19

これは冷静に考えると、種の蒔かれた土地の問題であると同時に、その後の種・芽・葉・実など育成・育て方の問題であると言えましょう。つまり、御言葉を植え付けられた人自身の問題であると同時に、いかに御言葉と格闘(学び・反復・助言・説き明かし〔使徒8:34-35〕など)するかという問題であります。

次の点に注意しましょう。④の「良い土地に」と合わせて、「あなたは①~④のどれに当てはまりますか」と問われて内省すること自体は良いことです。①から③には、途中で放棄してしまうことなど、それなりのリアリティがあります。しかし、そこで終わるならば、このたとえは、四種類の「人間論」を物語っているというだけの話になります。

大切なことは、「たとえ」の中の①~④の細目(さいもく)によって自らを省みつつ、神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態 マルコ4:11)に至るということです。そこに、「種を()く人のたとえ」の核心があります。

これと並行する形で、「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)がわたしたちを正しい信仰へと導きます。すなわち、弟・息子は「高い勉強代」を払って、ついに、「ここをたち、父のところに行って言おう。『「お父さん、わたしは天に対しても、またお父さんに対しても罪を犯しました』」(同上15:18)というように決心しました。

言い換えれば、「神の秘められた計画」のもとに、ひとりの人間が我が身の程を知ったということです。これは、①・②・③の「種の蒔かれた土地」を巡った放浪の旅でありました。

しかし、放蕩息子の内省以上に大切なことは、父のもとへの帰還でありました……「ところが、まだ遠く離れていたのに、父親は息子を見つけて、憐れに思い、走り寄って首を()き、接吻(せっぷん)した」(ルカ15:20)。

この父親との出会いによって、息子の内省は真の悔い改めになったのではないでしょうか。父なる神との出会い、神への信仰、これがまさに、「取り消されることのない救いに通じる悔い改めを生じさせた」(Ⅰコリント7:10)のであります。

さて、主イエス・キリストなる種を()く人のたとえ」の結びを読む前に、旧約をひもといてみましょう。エレミヤは、神が聖別し立てた「諸国民の預言者」です(エレミヤ書1:5)。神はエレミヤに「わたしの言葉を(さず)」られました(同上1:9)。従って、彼は「種を()く人」のプロフェッショナル(職業専門家)です。エレミヤの信仰が凝縮された名言(めいげん)を紹介しましょう。

 

Ⅲ (いばら)の中に(たね)を蒔くな                        

エレミヤ書4:3―― 

まことに、主はユダの人、エルサレムの人に

向かって、こう言われる。

あなたたちの耕作地を開拓せよ

(いばら)の中に(たね)()。」

Ⅱ.で種の蒔き方の例③として「ほかの種は(いばら)の中に落ちた」と述べられていました。そしてそれは、「この世の思い(わずら)いや誘惑によって実を結ぶに至らない人」(マルコ4:19)を指し示しているとのことでした。

 ではエレミヤは、「(いばら)の中に(たね)()くな」との勧告によって何を言おうとしているのでしょうか。「落ちる」前に、上のような無残な結果に至る前に、「蒔くな」と禁止している理由は、なぜなのでしょう。無残な結果を見越しているから……それはそうなのですが……

 エレミヤ独自の理由は、すぐ見つけられます。すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」、これを第一の勧告とするということです。しっかりと耕された所を造り、そこに種を蒔くのです。だから、決して「(いばら)の中に(たね)()いて」はなりません。

ここで問題は、これは「ユダの人、エルサレムの人に向かって」語られたたとえであるということです。この「たとえ」を用いた勧告の真意を「説明する」必要があります(マルコ4:34)。

こういう場合には、直近のエレミヤ自身の言葉をよく把握して、「説明する」のが正当です。そこで、すぐ後の節を掲げましょう。

エレミヤ書4:4――

ユダの人、エルサレムに住む人々よ

割礼を受けて主のものとなり

あなたたちの心の(ほう)()を取り去れ

さもなければ、あなたたちの(あく)(ぎょう)のゆえに

わたしの怒りは火のように発して燃え広がり

消す者はないであろう。」

内容的に、エレミヤ書4章の3 勧告から4 警告(特に さもなければ 以下)へという流れになっています(C.ヴェスターマン)。この二節は、前後の章句を総括(そうかつ)しています。

そこで気づかされるのは、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」は、「あなたたちの心の(ほう)()を取り去れ」という言葉への比喩(ひゆ)・たとえであったということです。

すなわち、「あなたたちの耕作地を開拓せよ」とは、或る農業公社のスローガンなどではなく、信仰的に刷新されよ、との励ましなのであります。従って、「(いばら)の中に(たね)()くな」とは、律法上の「割礼(かつれい)」(すなわち男子の包皮を取ること 創世記17:10-12)に()(しつ)するな、神信仰をないがしろにするな、と命じているものなのです。

あなたたちの心の(ほう)()を取り去れ」もまた、「種を()く人」エレミヤの名言でありました。使徒パウロはそれを下敷きにして、「内面がユダヤ人である者こそユダヤ人であり、文字ではなくによって心に(ほどこ)された割礼こそ割礼なのです。その誉れは人からではなく、神から来るのです」(ローマ2:29)と述べています。

エレミヤは、民衆に広くアピールする力を持つ「あなたたちの耕作地を開拓せよ」との勧告によって、一人ひとりを真の悔い改めによる的な新生へと導きました。そのようなエレミヤは確かに神から「言葉を(さず)けられた」人(エレミヤ書1:9)に違いありません。

茨の中に種を()くな(主イエスのたとえの例③)、そうではなく、「あなたたちが開拓した耕作地に種を蒔け」(主イエスのたとえの例④)ということです。エレミヤの勧告はおよそ600年の時を経て、主イエスによって引き継がれました。

 

Ⅳ 実を結び、三十倍、六十倍、百倍にもなった  

マルコ福音書4:8――   

「また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」

種の蒔き方の例④として、「ほかの種は良い土地に落ちた」が出てきました。

①・②・③が「闇」で、④に「光」が出てくるような語りは、「民話風」です。少年サムエルへの神のよびかけ(サムエル記上3:1-10)や三度(いな)んだ後の弟子ペトロ主イエスとの出会い(ヨハネ18:15-2721:15-19)などは、「民話風」の語りとも(あい)()って、わたしたちの脳裏から離れません。

 また、①「ある種」、②「ほかの種」、そして③「ほかの種」、すべて一粒ずつ(単数形)でしたが、「ほかの種は良い土地に落ちた」という④「ほかの種」は複数形(英語 some seeds)になっています。たとえのクライマックスで、その言葉遣いからも「豊作」が内示されています。

さらに、「育って実を結び……あるものは百倍にもなった」の文を直訳すると、「(ほかの種増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」となります。つまり、複数の「ほかの種」がさらに増加して実を結ぶという「豊作」が継続していくと述べられています。

なぜ、最後にこんなどんでん返しが起こるのでしょうか? わたしたちは、①・②・③の現実的な不毛と過酷の果てに、④で一挙に神の国」が到来したような結末に驚かされます。そこで、わたしたち・教会員が④の「ほかの種」になり、教会を「良い土地」にしようと、(あせ)ってはなりません。それでは、始めに「種を蒔く人」(マルコ4:3)が登場し、終わりに「神の国」の到来が恵み豊かに描かれている、「たとえ」を理解し(そこ)ねることになります。

理解の鍵は、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態 マルコ4:11)ということにあります。それは、わたしたちが、たとえの中の種を蒔く人」(同上4:3)が主イエス・キリストであると、「教えられる」(同上4:2)ことです。そのように信じることです。重箱の隅をつつくように、たとえ中の不合理な点(種の蒔き方など)にツッコミを入れるは()めましょう

ガリラヤ湖畔での伝道において、主イエスはさまざまな無駄と失敗などの困難を乗り越えられました。「おびただしい群衆」、一人ひとりと向き合って、信仰を(さず)けられました。主イエスは、「たとえ」中の①・②・③に例示されているような、不毛な土地をも行き巡られました。それは決して無駄なことではなかったのです。

 

Ⅴ 聞く耳のある者は聞きなさい           

マルコ福音書4:9―― 

そして(イエスは)聞く耳のある者は聞きなさい」と言われた。

この「たとえ」は、わたしたちの心に思い浮かびもしなかった「豊作」で結ばれています。複数の「ほかの種がさらに増加して実を結び、それが継続していくということです。従って、「聞く耳のある者」は「聞くこと」を持続していかなければなりません。そうしないと、神の恵みの豊かさ、神の寛大さを十分に()み取ることができなくなります。

人生の中で、①「道端(みちばた)」、②「石だらけで土の少ない所に」、③「(いばら)の中に遭遇(そうぐう)することもあるでしょう。孤独を泣き悲しんだり、都会「砂漠」の中でもがき苦しんだりしているとき、誘惑の声に誘われそうになります。その声を断ち切っても断ち切っても、心に(むな)しさが押し寄せてきます。

そのような時にこそ、「種を蒔く人のたとえ」の①・②・③の箇所を謙虚に黙想しましょう。荒れ地を行き巡られる主イエスがあなたのそばにおられます。「そういう人ならば、イエスの十字架やその復活に直面しても、(ぼう)(ぜん)()(しつ)してこれに対することはないであろう」(E. シュヴァイツァー)との指摘は、言い得て(みょう)であります。

聞く耳のある者は聞きなさい」……聖霊なる神が、この「たとえ」のすべてを、その中心を教えてくださるのを静かに待ちましょう。

W

 

 

 

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〈説教の要約〉

2024年 4月28日         

復活節 第5主日

旧約聖書 詩編142編 1節~8節P.982

新約聖書 ヘブライ人への手紙 5章7節(P.406

説  教「わたしは主に向かって声をあげる」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 声をあげ、主に向かって叫べ       ……詩編142:1-3             

Ⅱ わたしの霊がなえ果てているとき         ……詩編142:4-5

Ⅲ あなたはわたしの避けどころ               ……詩編142:6  

Ⅳ 主に従う人々がわたしを(かんむり)としますように  ……詩編142:7-8          

Ⅴ 激しい叫び声をあげ、涙を流しながら     ……ヘブライ5:7

 

本日は旧約から、ダビデ(詩編142:1 表題と関連箇所)、エリヤ(列王記上19章)、そして詩編詩人(詩編142:2-8 本文)の「洞穴(ほらあな)」体験と祈りを取り上げます。最後に新約から、主イエスの祈りを読みます。

まず、詩編142編の特徴を要約してみましょう。

ひたすら自分の悩みや苦しみを神に訴えています。しかし、敵対者や迫害者へ(うら)みつらみをまくし立てているのではありません。「罪」という言葉は出てきませんが、自分自身またはその境遇を内省しています。深い嘆きの(ふち)にありながらも、神による救出を待ち望んでいます。

独特な人生経験を背景とする個性的な詩であると言えましょう。わたしたちには思いも寄らない祈りである、それだからこそ、この詩編の言葉は新鮮なものとして心に()み込んでくるのではないでしょうか。

 

Ⅰ 声をあげ、主に向かって叫べ       

詩編142:1-3――             

1 マスキール。ダビデの詩。ダビデが洞穴(ほらあな)にいたとき。祈り。

2 声をあげ、主に向かって叫び

声をあげ、主に向かって憐れみを求めよう

3 ()(まえ)わたしの悩みを注ぎ出し

御前に(わたしの)苦しみを訴えよう

ダビデが洞穴(ほらあな)にいたときとの表題には興味がそそられます。というのも、多くの人は心理的に、「洞穴」に投げ込まれたり、洞穴から抜け出せなくっているような経験を持っているからです。夢で「」への落下体験をした人もいることでしょう。実際には現代社会においては、危険な「洞穴」は大概(たいがい)封鎖されています。しかし、「昭和の少年」なら、今はもう時効の、防空(ぼうくう)(ごう)冒険話を聞かせてくれるかも知れません。

いやむしろ、聖書の「洞窟(どうくつ)」体験が衝撃的過ぎて、頭から離れないという方もおられるのではないでしょうか。この表題の通り、サウルのもとから逃亡している時、ダビデは「アドラムサムエル記上22:1や「エン・ゲディ」(死海沿岸 サムエル記上24:3-4)で洞窟に隠れました。西はペリシテ地方から東は死海沿岸まで、ダビデは荒れ野をさ迷っていました。殺意をもった人間の目をくらますため、「洞窟」の暗闇に入るのは恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。

さらに聖書中、極めつけの(あな)落下と言えば、ヤコブの子ヨセフの物語が挙げられるに違いありません(創世記37:12-36)。それが悲惨なのは、血を分けた兄弟たちが、「」に投げ込んだということです。

或る日、父ヤコブは、息子たちや羊の群れの安否を知るために、ヨセフを送り出しました。それからヨセフは、「ドタン」(創世記37:17)で兄たちの一行(いっこう)を見つけました。その()(たん)、兄たちは何を血迷ったか、日頃のねたみに駆られて、弟ヨセフをの中に(ほう)り入れました。

それは、ヨセフの人生を大転換させる出来事でした。幸いにも、ヨセフはミディアン人の商人によってから引き上げられました(創世記37:28)。ヨセフは父や兄たちと生き別れになりました。しかし、神の御手が働いて、ヨセフはエジプトの役人の家に()し入れられることになりました(創世記39:1)。

わたしたちは聖書によって、いろいろな人の「洞穴(ほらあな)」体験を振り返ることができます。そこで、「声をあげ、主に向かって叫べ」との命令に耳を傾けると、その重みが存分に味わえるでしょう。

声をあげ」は原文に即せば、わたしの声でとなります。逃亡している人は孤独です。寄り頼めるのは、「わたしの声」しかありません。だから、「わたしの声」が2回繰り返されています。「洞穴」の奥から、「」の底から、気持ちが折れそうになりながらも、詩人は「わたしの声で」叫び続けました。

もはやもがいても誰も助けに来ない、とわたしたちは思います。しかし、詩人は「主に向かって」(これも2回)声をあげています。これこそ、祈りです。神が聞き届けてくださる、あるいは、神がそばにいてくださる、と信じて祈っています。

その信仰の姿勢には確固たるものがあります。というのも、「()(まえ)にわたしの悩みを注ぎ出し 御前にわたしの苦しみを訴えよう」と、神の御前にあることが言明されているからです。

実は、神の人エリヤ(列王記上17:18)もまた、命からがら、「洞穴(ほらあな)」に逃げ込んだ経験がありました。エリヤの場合、思いがけない所にあった洞穴(同上19:9)に、神の御手の働きがありました。

北イスラエル王国で預言者活動していたエリヤは、(おう)()イゼベルに「命をとる」と恫喝(どうかつ)されて、ベエル・シェバの南方に逃走しました(列王記上19:1-8)。

列王記上19:8-9――

8 エリヤは起きて(主の天使が用意したパン菓子と水を)食べ、飲んだ。その食べ物に力づけられた彼は、四十日四十夜歩き続け、ついに神の山ホレブに着いた。9 エリヤはそこにあった洞穴(ほらあな)に入り、夜を過ごした。見よ、そのとき、主の言葉があった。「エリヤよ、ここで何をしているのか。」

エリヤはあてどなく、荒れ野をさ迷っていました。「ついに神の山ホレブに着いた」のも、「主の天使」の励ましによるものでした。モーセのように「神の山」へ登る気力(出エジプト記24:13-15)はなく、エリヤは「そこにあった洞穴に入り」、倒れ伏しました。

ではでは、「洞穴」のエリヤさん、エリヤさん、「声をあげ、主に向かって叫び」ましょう。その応えは、「見よ、そのとき、主の言葉があった」でありました。旅の疲れで昏睡(こんすい)状態であったためでしょうか、聖書本文には、エリヤが「声をあげ」祈ったとは書かれていません。しかし、「洞穴」にいたエリヤが、神の「()(まえ)」あったことは真実でありました。なぜなら、エリヤの逃亡劇において、神が「神の山ホレブ」に来るように、シナリオを作っていたからです。

わたしの悩みを注ぎ出し 御前にわたしの苦しみを訴えよう」との詩編詩人の呼びかけに応じるかのように、エリヤはその洞穴」の中から、死の恐れや職務(預言活動)上の疲れなどを、神に告白しました(列王記上19:10)。主なる神は、「洞穴」にひそんでいる人間の「訴え」を聞き届けられました。そして実際、「主に向かって憐れみを求めよう」との叫びは聞かれ、エリヤに、道を引き返して困難に立ち向かう力が与えられました(同上19:15-17)。

 

Ⅱ わたしの霊がなえ果てているとき           

詩編142:4-5――

4 わたしの霊がなえ果てているとき

わたしがどのような道に行こうとするか

あなたはご存じです

その道を行けば

そこには(わな)が仕掛けられています

5 目を注いで御覧ください。

右に立ってくれる友もなく

(のが)れ場は失われ

命を助けようとしてくれる人もありません

洞穴(ほらあな)」の奥底体験、つまり、()()まった状態の中で、詩人の祈りが続いています。一見、まとまりのない段落のように思われますが、4節の初行に重心を置いて読むと分かりやすいでしょう。「声をあげ、主に向かって叫ぶ」との神への(まった)き信頼によって、闇の中に座している人は神の光に包まれています。

4節の初行前半は、「洞穴」の奥深くに隠れ、「わたしの霊がなえ果てているとき」ということです。闇に封じ込められて、「わたしの霊」が(せい)()を失っている状態です。また、この聖句はわたしが(いき)()えようとするときとも訳されます(参照:ヨナ書2:8)。

このままでは、命そのものが衰え果ててしまいそうですが、このような(きゅう)()において、信仰告白がなされます……あなたは わたしがどのような道に行こうとするか ご存じです」(4節の初行後半)。このような真実な信仰に至らしめるために、神は試練のうちに人を洞穴に追い込んだのかも知れません。

あなた(主なる神)わたしの小道を知っている」というのは、まことに驚くべきことであり感謝なことであります。これは、詩人の実体験と祈りに基づくものでありましょう。神はイスラエルの北の山々から南の荒れ野に至るまで、「洞穴(ほらあな)」や「小道」すべてをご存じなのです。

そのような神への信頼に支えられて、詩人は「()(まえ)にわたしの悩みを注ぎ出し」ています。神に打ち明けること、また、そのような時を持つことが重要なのだ、と教えられます。思いの(たけ)、泣いていいし、不安になっている自分をさらけ出していいのです。

そこには(わな)が仕掛けられています……右に立ってくれる友もなく (のが)れ場は失われ 命を助けようとしてくれる人もありません」……これは、「」に(おちい)り、死線をさ迷っている人の(ばん)()になっています。悲しい調べが(かな)でられています。ただ今、「(ばん)()」と評したように、神への祈りの品位(美しいヘブライ語の詩)は保たれています。

命を助けようとしてくれる人」とは、「わたしの魂に配慮してくれる人」との意味で、牧会的なケアをする人とも言い換えられます。その人は、わたしが苦しんでいる時に「右に立ってくれる友」です。その右側の人は神の祝福をわたしに分かち与えてくれます(詩編109:31、マタイ25:34)。

洞穴」の奥底にいる詩人に、「わたしの魂に配慮してくださる」神が立ち現れました。わたしたちの救いは、その一点にあります。

 

Ⅲ あなたはわたしの避けどころ               

詩編142:6――  

主よ、あなたに向かって叫び、申します

あなたはわたしの避けどころ

あるものの地

わたしの(ぶん)となってくださる方」と。

個人の嘆きの歌A.B.ローズ他)と称されることの多い詩編142編ですが、4節と共に6節は、なだらかな(ふた)()(やま)頂上(ピーク)を成しています。つまり、神への信頼の告白のもとに、「わたしの悩み」や「わたしの苦しみ」は置かれています。神の栄光に満ちた、この山頂から、「命あるものの地」が、ダビデやエリヤが隠れていた小さな「洞穴(ほらあな)」までもが見渡せます。

わたしの霊がなえ果てているとき」、神より「」の回復が指し示されました。「あなたはわたしの避けどころ」……そうして、ダビデやエリヤは、自分のそばに臨在しておられる主なる神が、「避けどころ」であると知りました。神のささやく声を聞き、エリヤは「出て来て、洞穴の入り口に立ちました」(列王記上19:12-13)。

詩人は、「あなたはわたしの(ぶん)」であると告白しています。「わたしの分」は、神御自身です。言い換えれば、信仰によって神に結びついているかぎり、「わたしの分」は()ちることなく(詩編73:26)、増し加えられていきます。

聖書的な意味では、「(ぶん)」は、一部分の(ぶん)ではありません。そうではなく、神から与えられた「分け前」です。十二分な「(ぶん)」です

それは、その人が「命あるものの地で」生きていくための、豊かな分け前であり、恵みであります。それ故に、自分の(さず)かった分け前」はその名称の通り、隣人に分け与えるべきものです。

主なる神を「わたしの分」とする詩人と隣人たちとのつながりは、最終段落に美しく描き出されています。

 

Ⅳ 主に従う人々がわたしを(かんむり)としますように  

詩編142:7-8―― 

7 わたしの叫びに耳を傾けてください

わたしは(はなは)だしく(いや)しめられています

迫害する者から助け出してください

彼らはわたしよりも強いのです。

8 わたしの魂を(かせ)から引き出してください

あなたの御名に感謝することができますように。

主に従う人々がわたしを(かんむり)としますように

あなたがわたしに報いてくださいますように。

この詩編の冒頭と同様に、詩人は「わたしの叫びに耳を傾けてください」と、神に祈り求めています。わたしの声」(詩編142:2)が「わたしの叫び」となって強められています。そして何よりも際立たされているのは、救い主なる神す。この父なる神こそが、わたしたちを死と罪の縄目から解放するために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされました。

またこの詩編では、「あなたはわたしの避けどころ」ならびに「あなたはわたしの(ぶん)」であるとの告白文が表されました(詩編142:4,6)。ところが、ここでは躍動する神が叙述されています。すなわち、そのお方は、「迫害する者から助け出す」神であり、「わたしの魂を(かせ)から引き出す」神であります。

救い主なる神に祈り求める「わたしは(はなは)だしく(いや)しめられています」とあります。この句は、「わたしは甚だしく弱められている」と意訳できます。そうだとすれば、詩人は「わたし(主)の恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9