礼拝、説教

主日礼拝 2020年 11月22日  

降誕前 第5主日 講壇交換

  

 

招き   前奏

招詞   詩編74編 1節~2節

 

主の祈り  (交読文 表紙裏)

 

 

旧約聖書 申命記5章12節~15節(p.289) 

新約聖書 ヨハネによる福音書14章25節~27節(P.197)

 

祈祷

 

説教   「神様を思い起こす安息日」

          茅ヶ崎南湖教会 秋間文子牧師 (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  385

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2020年11月22日「神様を思い起こす安息日」
茅ヶ崎南湖教会 秋間文子牧師
申命記 5章12節~15節
20201122.mp3
MP3 オーディオファイル 29.0 MB
2020年11月15日「ご主人様、まだ席があります」
ルカによる福音書14章15節~24節
201115_0050.MP3
MP3 オーディオファイル 22.4 MB
2020年11月8日 「光のあるうちに歩きなさい」
詩編89編4節~5節
ヨハネによる福音書12章27節~36節前半
201108_0049.MP3
MP3 オーディオファイル 31.1 MB
2020年11月1日「神がイエスを復活させられた」
申命記30章11節~14節
ローマの信徒への手紙10章5節~13節
201101_0048.MP3
MP3 オーディオファイル 18.1 MB
2020年9月6日 「収穫は多いが、働き手が少ない」
民数記27章15節~17節
マタイによる福音書9章35節~38節
200906_0040.MP3
MP3 オーディオファイル 29.6 MB

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〈説教要約〉 

2020年11月22日講壇交換 

旧約聖書 申命記5章12~15節

              「神様を思い起こす安息日」   

                               茅ヶ崎南湖教会 秋間文子牧師 

 

 序

 茅ヶ崎南湖教会の秋間と申します。三教会の講壇交換は、三つの教会の交わりを肌で感じる機会でありまして、今日は礼拝をご一緒できますことを嬉しく思っております。

 

 1 礼拝

 教会というのは、集まって礼拝することを中心にしてまいりまして、旧約聖書の時代から、共に生活する中で神様を信じ、礼拝してきたことを受け継いできたのですが、この冬以来のコロナ禍において、礼拝の仕方を様々検討する中で、礼拝の意味を今まで以上に考えさせられてまいりました。

 私たちは礼拝において何をしているかというと、式次第としては、讃美歌、祈祷、説教などがありますが、それによって「思い起こす」ということをしているのだと今日の箇所は伝えています。「祈る」、「讃美する」というのは、そういう思いにならなければ中身のないものになってしまうもので、他の「食べる」とか「寝る」という動作とは違い、思いと動作が自然と結びつくというのではありません。何かを思い起こすことによって意味を持ち、深まるものです。私たちも、例えば、病気が治ったり困った時に助けられたりということがありますと、感謝して祈りをささげます。旧約聖書のアブラハムも、あちらこちらに行く度に、そこに祭壇を築いて、ここまで導かれてきたことに感謝して礼拝をしてきました。

 

 しかし、礼拝で思い起こすようにと言われているのは、今の自分のことだけではありません。この1週間のこと、自分の人生の数十年のことだけではなく、さらに大きな神様の業でありまして、自分が直接は経験していない民族の歴史です。

 今日の箇所、申命記5章15節には、「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出された」とありますが、これは、出エジプトのことです。エジプトがピラミッドに代表されるような巨大建築をしていた時代、外国から来た者は奴隷のように扱われまして、イスラエルの民にも過酷な労働が強いられました。礼拝をすることも許されなかったのですが、その嘆きを聞いた神様が様々な奇蹟をもって導き出してくださったのでした。モーセを通して、10の災いがなされるのですが、いつもその前に神の言葉が伝えられまして、例えば、「明日、激しい雹が降るから、避難させなさい。連れ戻されない家畜は、雹に打たれて死ぬだろう。」と伝えられるのです。それを信じた人は、家畜を家の中にいれますし、信じない人は、被害に遭うということがありました。神様の言葉を信じる者とそうでない者が分けられていきまして、最後の災いの時に、モーセが「さあ、行くぞ」という声を信じた者がエジプトを出ることとなります。この時に、イスラエルというのは、単なる血縁者の集まりというのではなく、神様を信じる者の群れとなったのです。その後も、荒れ野で「水がない」、「食べ物がない」という度に不平を言い、モーセが祈っては神様の恵みをいただいてきました。荒れ野の旅ですから、移動していくときに、自分はモーセについていくのか、そうしないのか、決断しなくてはなりません。神様を信じた者は、ついていきますが、そうでない者は離れていったでしょう。ですから、出エジプトというのは、イスラエルが信仰によって結ばれた群れとなる大切な出来事でした。

 それを思い起こすというのは、自分たちの基を思い出すという作業でした。今日あるのは、自分たちの力によるのではなく、偶然こうなったというのでもなく、神様が導いてくださったからだということを、心に刻んだのでした。

 

 2 教会は神様を思い起す群れ

 そのように思い起こす礼拝をなしていくことが、教会の中心にあるのでありまして、言い換えれば、思い起こすことを共有しているのが、教会と言えます。現在、ウイルス感染の予防のために会堂に来られない方がいると思いますが、一堂に会することができなくても、自分たちの基が神様にあるということを思い起すことによって、一つの群れなるのです。

 

 ある方は高齢者施設に入っているために、今までも礼拝出席はままならず、コロナ禍では牧師の面会もできませんから、それまで以上に、教会との繋がりが薄くなっていました。先日、久しぶりに連絡をくれましたので、玄関口まで会いに行きますと、「このような中での生活は、精神性がより大切になる」ということを話してくれました。コロナ禍にあって、誰もが人との関わりが薄くなり、人と話をする機会さえない、というときに、教会では変わらずに礼拝がなされ、週報・月報が届けられる、交わりの葉書が届く、という中で、自分は教会の一員なのだというところに、基を見出したのでしょう。当分、教会に来られないことに変わりないのですが、同じ信仰を基とした交わりの意味を改めて思われたようでした。

 

 今日の箇所のいう「あなたを導き出されたことを思い起さねばならない」というのは、単に、出エジプトのことを思いなさいということに終わらず、自分という存在の基となるものを思い起こすということなのです。

 今日の箇所は、十戒と呼ばれた言葉の一つで、「安息日」という礼拝の日を定めたものですが、「7日目」が安息日とされたのは、神様が天地を創造されたときに、7日目に休まれたからです。神様がこの世界を創り、私たちの命を創られたということが基となって、礼拝の日が定められたのですから、そこで思い起こすのは、自分がそうやって造られたということです。私たちは、1週間、それぞれなすべきことと役割がありますから、心身共に苦労させられたり、時には人間関係においても悩んだりいたしまして、自分を見失ってしまうということも起こります。そういう私たちが「神様に創っていただいた者なのだ」と思い起こすのが、礼拝の時間なのです。

 その人間というのは、聖書を見れば、蛇にそそのかされて神様を裏切るものであり、さらには、兄は弟に嫉妬し殺してしまうというカインとアベルの話、また、ノアの箱舟やバベルの塔の話などに見るように、神様に憐れんでいただかなくてはならない者、神様に赦していただき生かされている者なのです。そういうことも、私たちは普段忘れていまして、自分を過信したり、人を裏切ったりする中で、日曜日の礼拝を迎えるのです。そういう私たち人間が神様に導き出されたことを思い起こす、というのが、礼拝の時なのですが、もはや思い起こすというよりも、新たに気づかされるといった方がいいかもしれません。今日の箇所の「思い起さねばならない」という言葉は、「語り伝える、記憶に留めさせる」という意味もありまして、「それら人間の姿を語り継ぐことによって、教える、記憶に留める」ということも含んでいたのでしょう。

 

 3 主イエスの言葉を思い起こす

 ですから、それら、人間の罪を思い起こす礼拝というのは、主イエス・キリストによって方向付けられるものです。今日の新約聖書の箇所を見ますと、聖霊が主イエスの言葉を思い起こさせてくださると言います。この箇所は「告別説教」とも言われまして、主イエスが十字架に架かられる直前、死なれる前に語ったものです。弟子たちからしたら、「主イエスがいなくなられたら自分たちはどうなるのか」、不安だったと思いますが、主イエスご自身に代わって「聖霊」という見えない神様の霊が遣わされるといいます。「主イエスご自身が霊となって来られる」と言った方が分かりやすいと思います。その聖霊が「主イエスの話したことを思い起こさせてくださる」というのです。主イエスがおられなくても、かつて言われた言葉を、今の自分に向けての言葉として思い起こさせてくれるのです。「わたしについて来なさい」と呼んでくださったこと、「明日のことまで思い悩むな」と言ってくださったこと、「人を裁くな」と戒められたこと、「世の終りまで、いつもあなたがたと共にいる」と言って昇天されたこと。それぞれの場面で、そのときの弟子たちに言われた言葉ですが、それを聖霊が思い起こさせるというのは、その事情を越えて、普遍的な言葉として響かせるということです。私たちは2000年前のその場にいなかった者で、さらにいえば、弟子たちのように熱心に従ってきたというわけではないのですが、それでも、私たちへの言葉となっていくというのは、主イエスが私たち罪あるもののために来られたからです。主イエスと出会った弟子たちというのは、私たち人間の代表です。だから、裏切る者もあり、去って行く者がいるのですが、それにもかかわらず、主イエスが弟子を切り捨てなかったのは、私たち人間を誰一人見捨てないということのしるしです。十字架の上で、主イエスは「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」と祈ってくださったのですが、その「彼ら」の中に、全ての人が含まれています。私たちのためにも「赦してください」と祈ってくださったのです。

 

 このように、主イエスの言葉、聖書の言葉を聞いていくということが、礼拝の中で起こるのです。もはや、「思い起こす」ということを超えて、「語り掛けてくださる」ものです。神様の赦し、導きというものが、自分の中で具体的なものとなっていくのでありまして、そのために思い起こすと言えます。歴史を通して、神様の導きを自分に関わりのあるものとしていくのです。その神様は、今、同じように困難を抱えている自分たちを導いておられると信じて礼拝していく、そのための想起なのです。ですから、出エジプトを体験しなかった者に対しても、「思い起さねばならない」と言って、その歴史に触れるようにと促すのです。そして、出エジプトに匹敵する自分たちの信仰の歴史を綴っていくのだと励ましているのです。

 

 4 私たちが思い起す歴史

 ですから、私たちが礼拝の中で触れるのは、旧約聖書に書かれている歴史のみならず、神様の言葉を聞いてきた教会という群れの歴史でもあります。茅ヶ崎香川教会もまた南湖教会も、茅ヶ崎教会を親教会として建てられまして、私たちの思いを越えたところで、親教会の祈りと準備がありました。それに基づいて、教会の基が据えられてまいりまして、教会を建てていく気概のようなものを私は感じてきました。

 

 茅ヶ崎教会の本質を決定的にした出来事は、今から70年前、それまで礼拝していた会堂を出ることになったところから始まります。個人が持っていた土地と建物を借りて礼拝をしてきましたが、返してほしいということになり、そこを出ることとなったのでした。その1年後、今の中海岸の土地に、自分たちの手でブロックを積んで、会堂を建て始めたのですが、そこには、戦地から帰った木下芳次牧師の姿勢というものが背景にありました。先の戦争で、木下牧師は中国に行き、人の罪、人間の本性というものがあらわになるのを目の当たりにしまして、福音というのは、そこに向かって語られるべきであることを痛感しました。それらの罪を打ち破る神様の義と愛を語る、そのような教会を建てたいと願ったのです。

 木下牧師は南湖教会の前任牧師でもありますので、私も当時の話をお聞きしましたが、会堂から出るにあたっては「献げたもの」と「私のもの」を厳重に分けたと言います。それまで使っていた会堂は献げられたものと思っていたのですが、そうではなく返してほしいということになったのですから、同じように、教会に貸していたというものはその人に返し、献金で買ったものは会計の帳簿を見ればわかりますから、スリッパの片方でも持って出たと言います。この出来事が後の教会形成に影響を与えてまいります。自分の持てるものを教会に献げるという信仰なしには、教会は建たないのでありまして、その信仰のみによって教会を建てることを志しました。献金と労働奉仕だけでまかなうこととして、献金で買ったブロックを一つ一つ積んでいきました。戦後はアメリカからの物資が多く入ってきましたが、国が破れて国民が飢えているのに、教会だけ援助を受けていてはいけないと考え、汗水たらして会堂を建てていきました。信仰によって生きる者の礼拝の場所ですから、信仰だけによって作り、献げるということを正直に行いたかったと言います。

 

 当時、信徒であった岡崎晃牧師によれば、これは、まさに「茅ヶ崎教会にとって、出エジプトであった」と言いました(60年史)。エジプトを出たイスラエルの民が荒れ野で苦労する中で信仰が鍛えられていったのと同じだというのでしょう。「大事なのは、一同が本当に悔い改めて、真実のキリストの教会を造っていくことであって、会堂を建てるというのはその一環に過ぎない」と考えました。この「悔改め」という言葉には、戦争への深い懺悔も込められていたものと思います。浮足立つことのない、信仰によって立つ教会を建てたいとの強い思いがありました。会堂を出てから3年後(1954年)、新会堂で最初の礼拝をしましたが、そのときの説教は厳しいものであったと言います。作業が半ば終わった喜びと自分達の手でやり遂げたという自負心を打ち砕いて、神の前に恐れとおののきを持って膝まずかせたというのです。「この牧師がいなかったら、みんなもっとご機嫌で、自分の業によったことであろう」と言われます(60年史)。会堂建築を志してから13年、教団借入金を返済し、献堂式をするに至りました(1964年)。

 その志を受け継いで、茅ヶ崎香川教会、そして、南湖教会が建てられてきました。

私を含め二教会にいる多くの人は、あのブロック積みに立ち会ったわけではありませんし、再びあのような建築をすることはないでしょうが、しかし、真の教会を建てようとしてきた歴史を土台として、今日の教会を建ててきたのです。

 

 その歴史は、罪ある者が許されて、新たにされて、神様の導きをいただいた、ということの証しです。それを思い起こすことは、希望を受け継ぎ、語り継ぐことなのです。自分を見て、嘆くことはない、絶望することはない、とその歴史が私たちに語り掛けるのです。神様が導いてきた歴史だからです。今日の新約聖書は、「心を騒がせるな。おびえるな。」と呼びかけます。私たちが歴史という土台の上に、新たな教会を建てていく、信仰をもって突き進んでいくよう促すのです。

 毎週の礼拝は、それを思い起こさせ、私たちを励まします。一堂に会しての礼拝ができない今こそ、神様が見えない御手をもって、私たちを導いておられることを共に信じてまいりたいと思います。場所は異なっても、共に神様の言葉を聞きながら、導きを思い起しながら、礼拝をしてまいりたいと思います。

 

 

 祈祷いたします。

 

主イエス・キリストの父なる神様。

講壇交換により、三教会の礼拝での交わりがなされます幸いを感謝いたします。

 神様は礼拝の時と場所を定めてくださり、このように会堂を備えてくださいました。ここに私たちを招き、神様の御愛の中にあることを教えてくださいますことを思い、感謝いたします。

 1週間の、そして、これまでの重荷をご存じの神様が労い、必要な慰めと励ましを送っていてくださることを思い起させてください。

これから先の歩みも、導きの中にある事を信じさせてください。

 毎週の礼拝が祝されますように。コロナ禍にあって悩みつつ歩む全て教会の上に主の御導きを切に希います。

 自宅で礼拝をしている友らの上にも、御顧みがありますように。

 

 主イエス・キリストの御名によってお祈りいたします。アーメン

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〈説教の要約〉

2020年 11月15日                          

新約聖書 ルカによる福音書 14章15節~24節

         「御主人様、まだ席があります」  

                                  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ すると皆、次々に(ことわ)った

Ⅱ 貧しい人、体の不自由な人を連れて来なさい

Ⅲ 御主人様、まだ席があります  

結 び

 

安息日に主イエスは、ファリサイ派のある議員の家に入り、食事をしておられました。聖日の食事中にもかかわらず、くつろいだ雰囲気ではありませんでした。「人々はイエスの様子をうかがっていた(観察していた)」(ルカ14:1)というように、不穏な空気が漂っていました。

しかし、主イエスはこれを好機と捉えて、(たく)()(テーブルスピーチ)をなされました。そのたとえ話の主題は、「正しい者たちが復活し、神の国で食事をする」というものでした。

果たして、食卓の面々(めんめん)はじめ、私たちは「復活し、神の国で食事をする」という恵みにあずかれるのでしょうか。「わたしは? あなたは? あの人は?」、どうなるのでしょうか。主イエスは三つのグループに分けて、たとえ話を語られました。

招かれた三つのグループ――

 ①あらかじめ招待を受けていたが、あとで断った三人。ルカ14:18-20

 ②貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人。ルカ14:21

   社会から疎外された人々。神が心に留めている、この世または教会の周縁の人々。

 ③通りや小道にいる者。無理やりに連れて来られた人々。ルカ14:23 

   残りのすべての人。異邦人を含む。

 

Ⅰ すると皆、次々に(ことわ)った

それでは、たとえ話「神の国の食事(大宴会)」を読んでいきましょう。

ルカ福音書14:15-17――

15 食事を共にしていた客の一人は、これを聞いてイエスに、「神の国で食事をする人は、なんと幸いなことでしょう」と言った。16 そこで、イエスは言われた。「ある人が盛大な宴会を催そうとして、大勢の人を招き、17 宴会の時刻になったので、(しもべ)を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。」

食事を共にしていた客の一人」は、ファリサイ派に属するかどうかは不明ですが、不穏な空気を(かも)し出していた人のひとりです。従って、「……なんと幸いなことでしょう」という文句は、上滑(うわすべ)りした美辞麗句です。この人は恐らく、イエス・キリストを信じて、「神の国で食事をする人」となることを、本心から願ってはいません。

イエス・キリストを信じていないということは結局、神ではなく、この世に重きを置いているということです。

ルカ福音書14:18-20――

18 すると皆、次々に断った。最初の人は、『畑を買ったので、見に行かねばなりません。どうか、失礼させてください』と言った。19 ほかの人は、『牛を二頭ずつ五組買ったので、それを調べに行くところです。どうか、失礼させてください』と言った。20 また別の人は、『妻を迎えたばかりなので、行くことができません』と言った。

この世の富や家族の(きずな)の方を優先した人が、三人出て来ました。それは、神ではなく、この世に重きを置く人が「確実に」いることを示しています。そしてこの時点で、実在する食事を共にしていた客の一人」は「確実に」、グループ①に入るということが、主イエスによって宣告されています。主イエスの巧みな語り口によって、彼は心打ち砕かれるべきでありましたが、彼はそれに気づいたでしょうか。

たとえ話中の三人(❶❷❸)に関して言えば、当初招きを受けながらも、間際になって、それを反古(ほご)にしてしまいました(いわゆるドタキャン)。彼らはまるで、(いばら)の中に()かれた種のようです。

マルコ福音書4:18-19 種を蒔く人のたとえ――

18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、

19 この世の思い(わずら)いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を(おお)いふさいで実らない。

いろいろな欲望」が、人の信仰の成長を妨げてしまいます。❸の人の場合、「どうか、失礼させてください」という()びもなく、「行くことができません」と無碍(むげ)に断っています。

 

Ⅱ 貧しい人、体の不自由な人を連れて来なさい

たとえ話は、グループ①からグループ②へと展開していきます。ここで、グループ①とグループ②との対照が明示されている、別のたとえ話がありますので、読んでみましょう。

マタイ福音書21:28-31 「二人の息子」のたとえ――

28 (イエスは言われた)「ところで、あなたたちはどう思うか。ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。29 兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。30 弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。31 この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと、イエスは言われた。「はっきり言っておく。(ちょう)(ぜい)(じん)(しょう)()たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう。」

この話の、兄弟のうち弟は初め、「お父さん、承知しました」と答えました。しかし、あとで実際にぶどう園へ行くことはありませんでした。従って、この弟は、初め招待を受けた時点では断らなかったけれど、現実に宴会へ行く段になって断ったグループ①と同列です。

そして、「後で考え直して出かけた」兄ならびに、主イエスにより「(ちょう)(ぜい)(じん)(しょう)()たちの方が、あなたたちより先に神の国に入るだろう」と告げられた人々は、グループ②に入れられます。今日のテキストに戻って確かめてみましょう。

ルカ福音書14:21――

(しもべ)は帰って、このことを主人に報告した。すると、家の主人は怒って、僕に言った。『急いで町の広場や路地へ出て行き、貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人をここに連れて来なさい。』」

先のマタイ福音書のたとえ話と合わせると、「徴税人や娼婦たち」、そして、「貧しい人、体の不自由な人、目の見えない人、足の不自由な人」が神の国の食事に招かれているということです。

グループ①の人々は、この世に、闇あるいは偽りの光を造り出しています。ただ信じることによって救われるという主イエスの福音宣教を妨げています。しかし、「(しもべ)」がグループ①へ、それからグループ②へ、重ねて派遣されたように、闇の勢力に屈することなく、福音宣教は続けられます。

そうです、父なる神の御子、「(しもべ)」なるイエス・キリストが伝道を続けられます(⇒父なる神は「主人」または「御主人様」)。

グループ②に属する人々は、社会から疎外された人々であり、身体的な不自由を持つ人々です。弱く貧しい者に寄り添われるところに、イエス・キリストの愛があらわされています。主イエスは、「心の貧しい人」や「悲しむ人」に「なんと幸いなことでしょう」(幸いなるかな:原語 マカリオイ)との祝福を与えるお方です(マタイ5:3-11)。その祝福のありあまる豊かさを告知すべく、たとえ話は、グループ③へと移ります。

 

Ⅲ 御主人様、まだ席があります  

ルカ福音書14:22-23――

22 やがて、(しもべ)が、『御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります』と言うと、23 主人は言った。『通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ。』

通りや小道に出て行き」、だれかれとなく、というのですから、ここには身分や人数による制限はありません。つまり、イエス・キリストを「信じる」者すべてが、家の中へ、神の国へ招かれているということです。「(教会)をいっぱいに」しようと、主イエスの呼び声が響きわたります。

ルカ福音書14:24 主人の言葉――

『言っておくが、あの招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない。』

あの招かれた人たち」とは、グループ①の人々を指しています。すなわち、主イエスによる、この「神の国のたとえ」は、グループ①の不信仰な()(ぐさ)と、グループ①への神の警告とによって枠づけられていると分かります。ある意味では、主イエスは彼らが悔い改めることを、心から願っておられたと言えましょう。その主に(なら)うかのように、パウロ、同胞イスラエル、心のかたくななユダヤ人の回心のために祈りをささげていました(ローマ10:1)。

主人の言葉の中に、わたしの食事」とあります。言うまでもなく、神の国の食事は、神が整えられるものであり(詩編23:5)、その中心に神が座しておられます。父なる神は、その「わたしの食事」を、御子、イエス・キリストの御業によって霊的であり具体的なものとしてくださいました。使徒パウロが私たちに、安息日の食事、最後の晩餐、そして神の国の食事における、最も重要な(たく)()(テーブルスピーチ)を伝えています。主イエスの呼び声とは、このようなものです。

私たちはこれを傾聴すべきです。そして、このようにして、現実に「わたしの食事」が行われることに感謝します。この聖餐の言葉を「主から受ける」ことが、本当の意味で、神の招待状を「受ける」ということではないでしょうか。

コリントの信徒への手紙 11:23-26――

23 わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです。すなわち、主イエスは、引き渡される夜、パンを取り、24 感謝の祈りをささげてそれを裂き、「これは、あなたがたのためのわたしの体である。わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。25 また、食事の後で、杯も同じようにして、「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」と言われました。26 だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです。

これは、この世にあって、教会で信じる者が「わたしの食事」、聖餐に、あずかることの勧めです。

と同時に、「主が再びお出でになるまで」とあるように、イエス・キリストの再臨を心から待ち望んでいることの表明です。

主の死」で、決して終わりではなかったということが、再臨の主との出会いによって、信じる者に示されます。そしてその時、信じる者はイエス・キリストに似た者に変えられます(Ⅰヨハネ3:2)。死人の中からよみがえられた、主イエスの復活の力にあずかり、私たちもまたよみがえります。

そのようにして終わりの時に、イエス・キリストを信じる者には、「復活し、神の国で食事をする」という道が切り開かれます。神から受け取った招待状をもって、言い換えれば、神から(さず)けられた「信仰」(ローマ5:2)をもって、神にお会いするのです。

神を信じることの最も大きな幸いは、神の国の食事に、あなたの「」が用意されているということです。あなたがよみがえらされて、聖徒らの大宴会に連なる……これこそ、キリスト者が抱いている希望です。

 

結 び

ルカ福音書14:17――   

宴会の時刻になったので、(しもべ)を送り、招いておいた人々に、『もう用意ができましたから、おいでください』と言わせた。

主イエスは「(しもべ)」のように、へりくだって、私たちに、「もう用意ができました」と言い、パンと杯を差し出してくださいます。主イエスは、私たちの魂の飢え渇きを知っておられます。そうして、私たちが神の国へ向かって進むのを支えていてくださいます。

さらに、主イエスは「まだ席があります」(ルカ14:22)と言って、神の国の宴会が始まるまで、人々を招き続けておられます。主イエスは御父と共に、この世に聖霊を派遣して、各地に教会を建てられます。しかし、「まだ席があります」。教会を大きくしたり増やしたりする「余地」=・場所・地方・機会)があります。

 

世事に()かれているグループ①が増大しているように見えても、恐れることはありません。「収穫は多い」(マタイ9:37)、「まだ席があります」と言われるイエス・キリストを信頼して歩んで行きましょう。

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〈説教の要約〉

2020年 11月8日                    

旧約聖書 詩編89編 4節~5節(P.926

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章27節~36節前半P.192

       「光のあるうちに歩きなさい」

                      小河信一牧師

 

説教の構成――

Ⅰ 今、わたしは心(さわ)ぐ 

Ⅱ 父なる神は御子によって栄光を現す

Ⅲ 人の子は上げられなければならない  

Ⅳ 光のあるうちに歩きなさい 

 

まず、時と場面を振り返りましょう。

受難週の初め、主イエスが都エルサレムに入城されました。春の大祭・過越の祭りが近づいていました。主イエスは、巡礼中または都在住のユダヤ人たち、ギリシア人をはじめとする異邦人に取り囲まれていました。そこで、主イエスは群衆と対話しつつ、(おおやけ)の伝道を仕上げるかのごとく、メッセージを送られました。

前段のヨハネ福音書12:20-26と同様に、以下の二点が、イエス・キリストにより説き明かされます。

①イエス・キリストとは、だれか。

②イエス・キリストにつき従う者として、私たちはどのように歩んでいけばよいのか。

それでは、主イエス・キリストのメッセージを、しっかりと聴き取りましょう。対立し分断されている群衆(ヨハネ12:29)に()(まど)わされないように、聖霊の助けを祈り求めましょう。

 

Ⅰ 今、わたしは心(さわ)ぐ 

ヨハネ福音書12:27――

「今、わたしは心(さわ)ぐ。何と言おうか。『父よ、わたしをこの時から救ってください』と言おうか。しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ。」

ヨハネ福音書の「ゲツセマネ」と呼ばれている箇所です(比較:マルコ14:32-42)。わすか一節の中に、主イエスの苦しみや叫びが(あふ)れています。

今、わたしは心騒ぐ」は直訳すると、「今、わたしの魂はかき乱されている」となります。ここで、主イエスは(あわ)れとも言えるほどに、不安に()られています。まさに、人間と同じく、動揺し混乱しておられます。主イエスが「わたしたちの間に」・「あなたがたの間に」(ヨハネ1:1412:35)生きておられたことを証しするものとも言えましょう。

しかし、私たちが気づかねばならないのは、「今、わたしは心騒ぐ」ということが格別のものであったということです。すなわち、ここには「戦い」があったのです。だから、主イエスの「魂はかき乱されている」という事態に陥ったのです。

では、それはどういう「戦い」なのでしょうか?

その回答を(さぐ)るのに、ヒントとなるカルヴァンの注解を読んでみましょう。

「私たちは、罪の途方もなさがどんなに莫大(ばくだい)なものか、さらによく知ることができる。そのために、天の父は、その最愛の独り子(ヨハネ3:16)に、かくも(はなは)だしい苦痛を要求したのである。

要するに、これは、罪との「戦い」であったということです。すべての人間の罪を担うという苦闘があったのです。八方(はっぽう)(ふさ)がりになった人間を解放するために、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら……」(ヘブライ5:7)というように厳しい試練に()われたのです

たいがいの人間がうつむいてしまいそうな苦境で、主イエスは父なる神を見上げておられました。それを表しているのが、「父よ」との呼びかけです。ゲツセマネの園の祈りにおいても、主イエスは「アッバ、父よ」と語りかけ、御父の御心を尋ねられました(マルコ14:36)。何もできないように見える中で、「父よ」と、神に祈ることを、主イエスは身をもって私たちに教えられたのです。

そして、驚くべきことに、「父よ」との呼びかけが起点となって、新局面が現れ出てきました。

しかし、わたしはまさにこの時のために来たのだ」という主イエスの言葉の冒頭、「しかし」という一語によって、新しい時代の到来が告げられています。

わたしは「この時」に向かってやって来た、と書かれています。「この時」、すなわち、「十字架の時」に向かって、主イエスは入城し、その歩を進められています。主イエスにおいて、「この時のために」立ち上がることが、不安や動揺をぬぐい去る源でありました。

さらに、主イエスは、「この時」がどんな時であるのか、を指し示します。

 

Ⅱ 父なる神は御子によって栄光を現す

ヨハネ福音書12:28――

(主イエスの言葉)「父よ、御名の栄光を現してください。」

すると、天から声が聞こえた。「わたしは既に栄光を現した。(わたしは)再び栄光を現そう。」

栄光を現す」という語が3回使われています。それは何よりも、「この時」・「十字架の時」に、神は「栄光を現す」ということです。父なる神が、主イエスのこの世の生涯において「栄光を現した」ように、主イエスの十字架において「再び栄光を現そう」ということです。

私たち人間すべての罪が裁かれる時、まさにその時に、神の栄光が現されるというのは、私たちにとっての希望の光です。その希望は、イエス・キリストの十字架と復活によって実現されました。ただし、その希望の光を見つめ、信じることにおいて、人々の間に分裂が生じたことが報告されています。

ヨハネ福音書12:29――

そばにいた群衆は、これを聞いて、「(かみなり)が鳴った」と言い、ほかの者たちは「天使がこの人に話しかけたのだ」と言った。

一部の者が、神に結びつけることなく、「雷が鳴った」と言う一方、ほかの者は、「天から声」(ヨハネ12:28)が神の声であることを認めました。「天から声が聞こえた」のは、人々が「天から(くだ)って来た」主イエス(ヨハネ3:13)を、神の子として受け止め、信じるようになるためでした。「①イエス・キリストとは、だれか」をめぐっての、主イエスと群衆の対話が続きます。

 

Ⅲ 人の子は上げられなければならない  

ヨハネ福音書12:31-34――

31 (イエスは答えて言われた)「今こそ、この世が裁かれる時。今、この世の支配者が追放される。32 わたしは地上から上げられるとき、すべての人を自分のもとへ引き寄せよう。」 33 イエスは、御自分がどのような死を遂げるかを示そうとして、こう言われたのである。34 すると、群衆は言葉を返した。「わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。それなのに、人の子は上げられなければならない、とどうして言われるのですか。その『人の子』とはだれのことですか。」

整理して言えば、こうなります。天から(くだ)って来た」主イエスが、「この時」に、神の栄光を現し、「地上から上げられる」ということです。そして、罪の重荷によって八方(はっぽう)(ふさ)がりになっている人間に、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」と告げられています。

主イエスが「上げられる」(ヨハネ12:32,34 受動態)については、❶十字架に上げられる、並びに、❷死人の中から上げられ、天に上げられる、ということが重ね合わせられています(松永希久夫)。つまり、「上げられる」という一句に、十字架の死と死者の中からのよみがえりが含意されているということです。

従って、その中心に、「この時」・「十字架の時」があることが分かります。このようにして、神の御子、イエス・キリストによって新時代への突入が宣言されました。

罪と死のうごめく闇の中にいる者は、天からの声が響いても、「雷が鳴った」としか思いません。「十字架の時」も、自分の用にかまけて見逃してしまいそうです。「しかし」、父なる神は闇の底にいる私たちのもとに御子を遣わしてくださいました。神の律法・教えからほど遠い者になっていた人々の「間に」、御子は宿られました。

遠く及ばぬ」という私たちのいらだちを、神の御子が「ごく近くに」来られたという恵みによって一掃(いっそう)されました。()(かた)まった人間、あるいは、逃げようとする人間を、「自分のもとへ引き寄せられる」お方、それが主イエス・キリストです。この世の()(とく)にしがみついているような人にも(にこそ)、主イエスは「引き寄せる」力を発揮してくださいます(参照:マタイ9:10-11 徴税人と同席するイエス)。

それが、「人の子とはだれのことですか」という問いに対する答えです。そのお方が今、群衆の「ごく近くに」おられます。

興味深いことに、群衆は一つの疑問を(いだ)いていました。

わたしたちは律法によって、メシアは永遠にいつもおられると聞いていました。

一例として、旧約聖書にこう記されています。

詩編89:4-5――

4 「わたしが選んだ者とわたしは契約を結び

わたしの(しもべ)ダビデに誓った

5   あなたの子孫をとこしえに立て

あなたの王座を代々に備える、と。」    〔セラ

ここに、メシアの永遠性が告げられているのではありません。そうではなく、ダビデの王座が継承され、ダビデの子孫が途切(とぎ)れることなく続くと約束されているのです。ダビデの子孫からメシアが現れ出るという観点からすれば、「あなたの子孫をとこしえに立て」という句は、ユダヤ人にとって希望の()りどころであると言えましょう。

ここでの問題は、「人の子は上げられなければならない」ということを聞いた時に、群衆が「それでは、救い主メシアについて約束されている永遠性との間に食い違いが生じる」と考えた点にあります。つまり、十字架に「上げられ」、「死を()げる」(ヨハネ12:33)と言うなら、それは、ユダヤ人が考えている救い主メシアではないということです。

しかし、これは一部の群衆の早とちりでありました。すでに見たように、主イエスが「上げられる」については、❶十字架に上げられる、並びに、❷死人の中から上げられ、天に上げられる、ということが重ね合わせられています。主イエスは、死んでよみがえられた、永遠なる神であります。また、ダビデの子孫として誕生されたという点では、先の約束(詩編89:4-5)がイエス・キリストにおいて実現しました。

主イエスとの対話において、群衆の反発や無理解が(あら)わになりました。そうした情況の中で、(おおやけ)の伝道は終幕に近づきました。主イエスのメッセージはますます力強いものとなっていきます。

最後に、主イエスは、「あなたがたの間に」ある者として、人々に(てい)(ちょう)命令を下されました。神の栄光の現される時、十字架の時に向けて、一人でも多く人を「引き寄せよう」と、人の歩むべき道を教えられました。

 

Ⅳ 光のあるうちに歩きなさい 

ヨハネ福音書12:35-36――

35 イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。36 光の子となるために、光のあるうちに、光を信じなさい。」

「(あなたがたは)光のあるうちに歩きなさい」と、命じられています。あなたは、この命令を素直に受け止められるでしょうか? 闇や絶望の底に落ち込んでいる人、闇や欲望に()かれている人、あるいは、自分の栄誉などが光だと信じている人などのことを、主イエスはどのようにお考えになっているのか、とあなたは()(あん)されるでしょうか?

今回のテキストを振り返れば、まず父なる神が御子によって栄光を現すと、宣言されました。私たち人間すべての罪が裁かれる時、まさに「この時」に、イエス・キリストの十字架と復活によって神の栄光が照りわたります。

次に、この世が裁かれ分断されるような危急の時に、主イエスは御手を差し出され、「すべての人を自分のもとへ引き寄せよう」(ヨハネ12:32)と約束されました。私たちの側に、罪と死と戦う力、そして立ち上がる力が無いとしても、主イエスは信じる者を引き上げてくださいます。要は、主イエスに、身と魂をゆだねればよいのです。

そこで今、主イエスは「いましばらく」(もうほんのひと時:原語 ミクロン micro 微少)に、あなたがたに向かって応答するように求められています。それが、「(あなたがたは)光のあるうちに歩きなさい」という勧めなのです。主イエスは重ねて、「(あなたがたは)光のあるうちに、光を信じなさい」と呼びかけておられます。「」をとらえるチャンスを逃してはなりません。

主イエスは、闇の力が強大であり、偽りの光が暗躍していることをご存知のうえで、「もうほんのひと時」のうちに、人々を自分のもとに、まことの光のもとに招き入れようとされました。「暗闇に追いつかれないように」、主イエスの御翼の陰に入るのです。

光を信じなさい」……私たちに求められていることは、簡明です。信仰をもって、希望の光、福音の光を受け入れることです。

K.バルトは、「光のあるうちに歩きなさい」という命令に従って歩む人生について、次のように述べています。

信じる」ということは、目そのものが「」となるために、「」に対して目を広く開けることを意味する。

信じる」ということは、「」がわれわれに示す一切のものを進んで見ようとすることを意味する。

信じる」ということは、新しい道を喜びと信頼をもって歩むことを、古い闇によってわれわれに隠されていた新しい諸課題に着手することを意味する。

「新しい諸課題に着手する」というのは、幸いなる知らせです。暗い過去に、(いや)しの光が射し込みます。混沌としている現在に、正しく見る力が備えられます。その上で、自分たちの将来について、新しい諸課題が示され取り組むことが出来るというのですから、それは本当に幸いな人生の(かど)()となることでしょう。

 

私たちは、イエス・キリストを信じることにより、新しい世界に属する「光の子」となるのです。受難週という最も深い闇の中で、主イエスご自身、心騒ぐ中で、「(あなたがたは)光のあるうちに歩きなさい」と命じられました。十字架の丘を(おお)い尽くす暗闇の中で(マタイ27:45)、「光を信じなさい」……イエス・キリストは信頼し、つき従うに足るお方です。

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〈説教の要約〉

2020年 11月1日  召天者記念礼拝           

旧約聖書 申命記30章11節~14節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章5節~13節

     「神がイエスを復活させられた」  

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

Ⅰ 律法による義から信仰による義へ  

Ⅱ あなたの近くに、あなたの口に、そしてあなたの心に

Ⅲ 神がイエスを復活させられた

Ⅳ ユダヤ人とギリシア人の区別はなく

 

本日は、召天者を記念し、礼拝を守っております。

神がイエスを死者の中から復活させられた」(ローマ10:9)という御父による御子の御業〈十字架と復活〉に、召天者ならびに私たち・信仰者があずかっていることを覚え、感謝を新たにしたいと願います。

今年322日の説教で、ローマの信徒への手紙10:9-13を取り上げました。去年度の教会標語「信仰告白と讃美により建つ教会」に添って選んだ聖句(ローマ10:9)が、その中に含まれていました。今回は、その前段の部分(ローマ10:5-8)と合わせて読んでいきます。

大きな枠組みとして、パウロは「イスラエルの反論・拒絶」に向かい合いつつ、真の神告白へと至る「信仰による義」(ローマ10:6)を説き明かしています。

 内容的に難しいのは、パウロが「イスラエルの反論・拒絶」を見据(みす)えつつ、「どうしたらユダヤ人・イスラエル人が救われるか」という主題に取り組んでいるからです。キリスト者パウロが今、ユダヤ教徒に戻ることはないにしても、距離を置いている相手(イスラエル人・ユダヤ人)の立場や考えに、耳を開いておくことは大切です。私たちにおいても、もっぱらキリスト者と「距離の近い人」または「好感を持っている人」のみを伝道の対象にするというのでは、「多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)ことなど期待できません。

 パウロは、距離を置いているイスラエル人・ユダヤ人のことを念頭に置いて、旧約聖書をふんだんに引用しています。引用元の聖句の文意をたどらなければなりませんので、議論がやや繁雑になっているかも知れません。しかし、近寄りがたい相手、いな、拒否の態勢をとっている人に、人間のこざかしい知恵や善意で接しても、多分、不成功に終わることでしょう。神の知恵と愛の源泉であり、神の御心の表されている旧約聖書を前面に打ち出すのが、イスラエル人・ユダヤ人と「対話」するのに最善の方法なのです。

  そういうわけで、パウロは彼らの関心を引く「律法」を鍵語として、巧みに議論を展開していきます。

 

Ⅰ 律法による義から信仰による義へ 

キリストは律法の目標であります」(ローマ10:4)というのは、イスラエルの達し得なかった「律法の目標」がキリストによって達成されたという意味です。今回のテキストの冒頭で、「律法の目標」に、イスラエルのやり方では「達し得なかった」ことを、パウロは旧約に基づいて論証しています。

ローマの信徒への手紙10:5――

モーセは、律法による義について、「(おきて)守る(原文:行う人は掟によって生きる」と(しる)しています。

この前置きは、ただ一般論を物語っているように聞こえるかも知れません。がしかし、ニュアンスとしては、「このやり方では目標に到達できないでしょう、イスラエルの皆さん」というパウロの皮肉が込められています。

掟を守る人は掟によって生きる」という句はレビ記18:5()るもので、主なる神が民に伝達するように、モーセを通し教えられたものです。この句自体は、神の御心が反映されており、言うまでもなく「(ただ)しい教え」です。パウロが「律法による義について」と、説明している通りです。しかし、大きな問題が、「掟を守る人」それ自体、つまり、人間の本性にありました。

以下、ローマの信徒への手紙10:1-4 説教 要約 からの引用―― 

「アブラハムはじめ先祖伝来の信仰が(あやま)っていたわけではないでしょう。ユダヤ人は、神と隣人に喜ばれるように、モーセの『十戒』を守ろうとしていたことでしょう。ところが、モーセの『十戒』を中心とする生活の中で、神に栄光を帰するのではなく、自分の()えや誇りに重きを置くようになりましたそして、他の人と競争するかのように、自分の正しさや(きよ)さを追い求めていたのです。」

当初、ユダヤ人たちは律法を「守る」というのは、それを「行う」ことにほかならないと考えていました。そこで、礼拝を「守る」・「行う」ことを中心に、「律法」を全うしようとしました。しかし次第に、自分たちの「()えや誇り」または「正しさや(きよ)」によって、神に栄光を帰すべき「礼拝」と日常生活とが、ぎくしゃくし始めました。

異邦人を含め、すべての民が「主の御名を呼ぶ」(ヨエル書3:5)ように、ユダヤ人たちは祈りをささげ待望していましたが、実際には「ユダヤ人とギリシア人の区別」を造り出してしまいました(比較:ローマ10:12)。

(おきて)を守る人は掟によって生きる」との言葉を(はた)(じるし)とする律法による義」では、めざす目標に達し得ないことが、明らかになりました。「ユダヤ人たちよ、レビ記18:5(∥ローマ10:5)の教えを守る者たちよ、自らの罪、高慢さ、努力の(むな)しさを認めなさい」と、パウロは彼らに()(こう)から迫っています。

ただ、パウロはいたずらに、ユダヤ人たちを追い込もうとしているのではありません。一筋(ひとすじ)(のが)れの道を指し示しています。

ローマの信徒への手紙10:6-7――

6 しかし、信仰による義については、こう述べられています。「心の中で『だれが天に上るか』と言ってはならない。」これは、キリストを引き降ろすことにほかなりません。7 また、「『だれが底なしの(ふち)に下るか』と言ってもならない。」これは、キリストを死者の中から引き上げることになります。

パウロは、行き詰まってしまった同胞(どうほう)・イスラエルを見下すようなことはしません。「しかしというように、新局面が開かれていることを提示します。それも、心憎いことに、ユダヤ人たちの知っている(否定し得ない)旧約聖書に基づいて、一筋の逃れの道があることを告知しています。

論理展開は、「律法による義」から「信仰による義」へということで、まことに明快です。というのも、永遠のむかしから神は、そのように迷える羊を、罪に陥った人間を、助け出し導こうと計画されていたからであります。暗黒の世に、大いなる「しかし」という(くさび)が神によって打ち込まれました。

今、二つのものをつなぎ合わせるという意味で、「(くさび)」という言葉を使いました。それは、「律法による義」と「信仰による義」とは互いに退(しりぞ)け合うようなものではなく、神の支配される歴史の中で、それぞれの役割を(にな)っているものだからです。信仰による義」が新しい時代の幕開けを指すものだとすれば、「律法による義」の下にあった古い時代も、神の忍耐の時、預言活動の時として意味づけられるでしょう。

(まん)()して、パウロはキリスト(ローマ10:6,7を前面に打ち出しました

キリストは律法の目標であります」(ローマ10:4)……だから、律法による義」から「信仰による義」へという展開が切り開かれたのであります。ここで、モーセの取りついだ主の言葉を参照しましょう。

申命記30:11――

「わたしが今日あなたに命じるこの(いまし)めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない。」

なぜ、私たちが守り行うように命じられた「この戒めは難しすぎるものでもなく、遠く及ばぬものでもない」と言えるのでしょうか?

 それは今や、私たちが律法や戒めを守り行うときに、キリストがその労苦や奉仕を支えてくださるからです(マタイ11:28-30)。神を愛し隣人を愛しなさいと命じられるとき、自分の「()えや誇り」または「正しさや(きよ)」という脇道(わきみち)()れないよう、キリストが歩むべき道を教えてくださるからです。

自分の力によって〈聖なる〉律法を「引き()ろすこと」(ローマ10:6)、または、「引き上げること」(同上10:7)ことは不要です。「キリストは律法の目標であります」というそのお方が、私たちに備えてくださる上よりの力にあずかることが大切です。私たちが「天に(のぼ)」のではなく、(くだ)って来る神の力に生かされるのです。そうすれば、この世にあってキリストにふさわしい弟子として、主に従うことができるでしょう。

信仰による義」が、主イエス・キリストによってあらわされたことを論証するために、パウロは申命記30:12-13(∥ローマ10:6-7)を引用しました。そこでは、「だれが天に上るか」、「だれが底なしの(ふち)(くだ)るか」という疑問が出されています。それが解決しないと、律法を守り行うことが、「遠く及ばぬもの」になってしまうという「真面目な」ユダヤ人の不安が解消されないからです。

その不安をも一掃(いっそう)する形で、主イエス・キリストによる救い、すなわち、十字架と復活の御業は成し遂げられました。

使徒信条に照らすと、こうなります。

だれが天に上るか

イエス・キリストは……三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り

だれが底なしの(ふち)(くだ)るか

イエス・キリストは……十字架につけられ、死にて(ほうむ)られ、陰府(よみ)にくだり

人には不可能であったことが、キリストによって実現されました。自分たちの見立ての中で、それは、「難しすぎる」とか、「遠く及ばぬもの」とか(申命記30:11)、言ってはなりません。それでは、キリストを天から引き()ろしたり、キリストを死者の中から引き上げることになります。キリストは、「陰府(よみ)にくだり、天に昇り」、そうして、私たちを罪と死から救い出してくださいました。また、永遠の命を信じる者が御国に招き入れられるという希望を与えてくださいました。

それでは、新しい時代の幕開けを指す「信仰による義」とは、いったい、どういうものなのでしょうか? パウロの説き明かしに耳を傾けてみましょう。

 

Ⅱ あなたの近くに、あなたの口に、そしてあなたの心に 

ローマの信徒への手紙10:8――

では、何と言われているのだろうか。

「御言葉はあなたの近くにあり、

あなたの口、あなたの心にある。」

これは、わたしたちが()べ伝えている信仰の言葉なのです。

パウロは、キリスト教の核心である「信仰による義」への導入として、旧約聖書(申命記30:14)を活用しています。

申命記30:12-13(∥ローマ10:6-7)の主旋律が「あなたの遠く及ばぬ」であったとすれば、この申命記30:14(∥ローマ10:8)のそれは「あなたのごく近くに」と言えるでしょう。何が? 

言うまでもなく、御言葉が、です。さらに言えば、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた私たちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)というお方、イエス・キリストが「あなたのごく近くに」おられるということです。それにしても、「あなたの遠く及ばぬという歯がゆさ・いらだちを際立たせておいて、いや実は、「あなたのごく近くにとひっくり返す……パウロはやはり名説教家です。パウロ自身、「遠くから近く(申命記30:11:14、迫害者から伝道者へ、大転換させられた人ですから、真に迫るものがあります。

三重の形での、「❶近くに、❷口の中に、❸心の中に」という人への接近によって、自ずから、「我々と共におられる」(マタイ1:23)、イエス・キリストの御姿が立ち現れてきます。逆に言えば、自分で背伸びするな、努力してつかみ取るものではない、というメッセージが込められています。

信仰の言葉」(ローマ10:8)は、イエス・キリストによって「あなたのごく近くに」差し出されているので、それをただ「受け取りなさい」ということです。感謝をもって受ければ、よいのです。

 

Ⅲ 神がイエスを復活させられた

ローマの信徒への手紙10:9-10――

9 口でイエスは主であると公に言い表し、心で神がイエスを死者の中から復活させられたと信じるなら、あなたは救われるからです。10 実に、人は心で信じて義とされ、口で公に言い表して救われるのです。

ここには、私たちに与えられた信仰告白の内容が、二点に凝縮されています。

①御父のもとから遣わされ、私たちに近づき、共にいてくださるイエスを主と呼ぶ。

②御父がイエスを死者の中から復活させられたと信じる。

イエス・キリストはその復活によって主となりたもうたのであります。その点で、①と②はつながっています。という体の重要な部分が一体であればこそ、信仰の健やかさが保たれるのでありましょう。

 

Ⅳ ユダヤ人とギリシア人の区別はなく

ローマの信徒への手紙10:11-13――

11 聖書にも、「主を信じる者は、だれも失望することがない」と書いてあります。12 ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ、御自分を呼び求めるすべての人を豊かにお恵みになるからです。13 「主の名を呼び求める者はだれでも救われる」のです。

ユダヤ人たちは、「律法による義」を追い求めていましたが、めざす目標には到達しませんでした。神の御心から離れ、御言葉は「あなたの遠く及ばぬもの」となりました。そのようなユダヤ人に対し、神は憐れみをもって、信仰の言葉を「あなたのごく近くに」、彼らの心の中に現されました。御子イエスが、ユダヤ人として受肉されたのは、その「近さ」を象徴するものです。

ところで、ユダヤ人とは別の意味で、御言葉が「あなたの遠く及ばぬもの」となっていた人々がおりました。その人々にも、信仰の言葉が「あなたのごく近くに」差し出されるべきでありましょう。それがまさに、「ユダヤ人とギリシア人の区別はなく、すべての人に同じ主がおられ……」というメッセージであります。福音への招きは、ユダヤ人とギリシア人との垣根を越えて、全世界へ広がってゆきます。

主を信じる者は、だれも失望することがない」、すなわち、だれも(あわ)てることはない、しっかりと「信仰の言葉」を聞いて、信じなさいということです。口と心で、二つに凝縮される信仰告白をなすこと……そのことにより、誰に対しても信仰の門は開かれています。

パウロは自分が「主を信じる者」となった今、「あなたのごく近くに」・「あなたと共に」イエス・キリストがおられるということを宣べ伝えています。「あなたのごく近くに」・「あなたと共に」おられる神、イエス・キリストは、ユダヤ人と異邦人、すべての人に、豊かに恵みをお与えになります。

ユダヤ人伝道という困難に出遭いながらも、パウロはいつも前向きに、将来を見据えています。異邦人の中に、ユダヤ人が組み合わされて、ローマの教会が形成されていきます。

エフェソの信徒への手紙2:17――

 

キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。

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〈説教の要約〉

2020年 9月6日                                         

旧約聖書 民数記 27章15節~17節

新約聖書 マタイによる福音書 9章35節~38節

     「収穫は多いが、働き手が少ない」 小河信一牧師

 

説教の構成――

   序

Ⅰ 主イエスの伝道

Ⅱ 深く(あわ)れまれた主イエス

収穫は多いが、働き手が少ない

収穫の主に願いなさい

Ⅴ 伝道――私たちの祈りの課題

結 び

 

 序

2020年度のほぼ(なか)ばにあたり、説教のテキストとして、年間聖句(マタイ9:37-38)を取り上げます。

御言葉により心を新たにして、その聖句に基づく教会標語「主の召しに応えて伝道する」を受け止めましょう。

2020年2月末に承認された「茅ヶ崎香川教会 定期総会資料」には、次のように書かれています。

「礼拝における霊的な満たしは、教会内の求道者・家族・子どもたちや地域の人びとを、私たちの信仰と讃美の中へと招き入れるよう働く。私たちの目に見える現実のさまざまな困難にもかかわらず、私たちは礼拝において『収穫は多い』と宣言される主イエス・キリストの豊かさに出会っている。そのことを私たちは確信し、そこに希望をかけなければばらない。」

「私たちの目に見える現実のさまざまな困難にもかかわらず」という箇所で、今私たちは深い嘆息をつくでしょうか。あるいは、全く状況が違ってきたけれど、すでに「現実のさまざまな困難」は覚悟していたはずではないか、と思うでしょうか。

3月、4月、5月と、私たちはまさに「弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)という状況にさらされました。継承すべき古代ヨハネ教会の標語「散らされている神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11:52)の前に、「緊急事態」が立ちはだかりました。そして、「コロナ後」の生活様式が取り沙汰(ざた)される一方、私たちの人知では先を見通せないという不安と恐れがつきまとっています。

そのような中にあって例えば、ホームページや電話連絡等を通じて、家庭礼拝を守っている方々を支えることの大切さに気づかされました。茅ヶ崎香川教会がこれまでと同じように守るべきものは何か、また、これから変えてゆくものは何か、皆さんと共に語り合っていきたいと願います。その際、ラインホールド・ニーバーの有名な祈りは、繰り返して唱えるに(あたい)することでしょう

神よ

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 

Ⅰ 主イエスの伝道

マタイ福音書9:35――

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や(わずら)いをいやされた。

この節の主眼(しゅがん)と内容は、マタイ福音書4:239:35に二度繰り返されている通り、重要です。

私たちは、「私たちの伝道」をするのではありません。いわば、「主イエスの 主イエスによる 主イエスのための伝道」が、取り組むべき課題です。「主イエスのための」というのは、主イエスの御業と御言葉によって、栄光が御父と御子に帰されること(ヨハネ11:4)を目的とするということです。

私たちはその主イエスのもとで働き、祈ることに(てっ)すべきです。伝道の第一歩は、主から私たち使命を託されこと、そして、「弱り果て、打ちひしがれている」隣人のために遣わされることから始まります。ひと言でいえば、主イエスに「従う」こと(マタイ4:259:9)に尽きます。

主イエスの伝道は内容的に、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた」と「ありとあらゆる病気や(わずら)いをいやされた」ということに集約されます。御言葉を与える、そこに、奇跡・しるしが伴ったということです。「主イエスの伝道」において、私たちは私たちの予想を超える出来事が起こるのを、信じていますし、また時に見て体験しています。

イエスは町や村を残らず回って(原意:まわり+連れて行く)」、または、「イエスはガリラヤ中を回って」という句(マタイ9:354:23)には、日夜伝道を続ける主イエスの姿があります。「(きつね)には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には(まくら)する所もない」(マタイ8:20)というのは、主イエスがこのような巡回伝道に公生涯の大部分を捧げられたからでありましょう。自らの労苦を(かえり)みず、弟子たちを「引きづり回す」というほどに、ガリラヤ湖畔の町や村を(めぐ)られたのです

 

Ⅱ 深く(あわ)れまれた主イエス

マタイ福音書9:36――

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを(イエスは)見て、深く憐れまれた。

前節の「主イエスの伝道」に接続して、冒頭に「(イエスは)見て、深く憐れまれた」とあります。ここには、主イエスは伝道する相手を、どんなふうに見ておられ、どのように思っておられるか、が描かれています。

主イエスは、「弱り果て、打ちひしがれている」人をそのまま受け入れておられます。なぜ、その人が「弱り果て、打ちひしがれている」ようなことになったのか、という事情の解明が先ではありません。主イエスは「群衆」一人ひとりをご覧になってから、物事を始められます。伝道する側が相手に寄り添っているか、話を聞く用意があるか、が大切です。それが踏まえられれば、相手は自分を信頼して、話を打ち明けもし、話を聞いてもくれることでしょう。

相手に寄り添うということについて、「(イエスは)見て、深く憐れまれた」を書かれています。これは、はらわたを揺るがすような憐れみであり、まことの愛を示しています。他者を愛し抜く愛であります。

御父は御子を十字架につけ、罪人を救い出すという出来事において、この愛をあらわされました。主イエス・キリストの深い憐れみは、十字架上の苦しみと死によって、私たちの内に記憶されるべきものとなりました。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイ5:7)との御言葉は、「憐れみ深い主イエスに(なら)って生きよとの招きでありましょう

飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆の前に、羊飼いなる主イエス・キリストが立たれました。そして、主は彼らを憐れみ愛されました。今度は、憐れみを受けた人々が立ち上がり、遣わされる番です。そこで、為すべきことが、主イエスに助け起こされた者に示されます。

 

収穫は多いが、働き手が少ない

マタイ福音書9:37――

そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

 先週の説教で、預言者イザヤが遣わされるとき、神からの問いかけがあったことを説き明かしました。

イザヤ書6:8――

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を(つか)わすべきか。

誰が我々に代わって行くだろうか。」

〔以下、問い明かし〕この「入学式」(=イザヤの召命)は、主なる神の先導によって行われていることが、「誰を(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との初めに出された問いかけから分かります。「それがどれほど小さなささやきであったとしても」、自分自身の内に、「自分は神に愛されている」、または、「自分は神によって必要とされている」という喜びが()いて来る人は幸いです。

主イエスは、「働き手が少ない」という状況の中で、弟子たちや群衆すべてに対し、立ち上がる人を求めておらわれます。神が「働き手」を造られるのは容易でしょうが、神の声を聴いて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ書6:8)と応える人を、神は待ち望んでおられるのです。

今、主のご用のために招き入れられている私たち・信仰者は、労苦しなければなりません。喜びに包まれてのことですが、忍耐が欠かせません。なぜなら、「収穫は多く。働き手も多い」ではなく、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われているからです。「散らされている神の子たちを一つに集める」ために、神の伝道計画のご用のために、「引きづり回される」(=この地を巡回させられる)覚悟が()ります。

 

収穫の主に願いなさい

マタイ福音書9:37 イエスは弟子たちに言われた――

「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫の主に願いなさい」というのは、「あなたがたは収穫の主に祈りなさい」という意味です。

なぜなら、「収穫」、すなわち、伝道は、自分のためのものではなく、神の栄光をあらわし、「弱り果て、打ちひしがれている」隣人を助け起こすためのものだからです。祈りなくしては、結局、自分が先立ち、自分が目立ってしまいます。

自分自身の罪に加えて、祈りが大切なのは、イザヤの派遣の際、主なる神が告げられたように、人の心のかたくなさという堅い壁があるからです。これは、預言者が「よく聞け、よく見よ」(イザヤ書6:9)と言えば言うほど、かたくなさの()(あい)を増していくものなのです。

モーセが「働き手を送ってくださるように」と、神に祈ったという出来事を読んでみましょう。

民数記27:15-17――

15 モーセは主に言った。16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋(がいせん)し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

この時、モーセはただ単に、次に「指揮する人」をではなく、自分はまもなく死ぬ(民数記27:12-14)ので、その後を任せられる「指揮する人」を、願い求めていました。そこでモーセは、自分が後継者を指名・決定するのではなく、祈りをもってその選びを神にゆだねました。そこには、自分が為してきたこと(紅海()(しょう))への誇りも、やり残したこと(ヨルダン渡河(とか))への無念さもありません。

モーセは、新しい「働き手を送ってくださる」神によって、新しい土地での、礼拝を中心とする生活が作られていくとの希望を抱いていたことでありましょう。イスラエルの民を「進ませ、また連れ戻す」、モーセの後継者が受け継ぐのは、「あなたの()で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように」(詩編121:8という信仰にほかなりませんでした

収穫の主」が必ず聞き届けてくださるとの信仰をもって、祈りましょう。

 

結 び

前主日には、 オープンチャーチfor high school 〉の二回の礼拝を行いました。中高生はじめ若者への伝道について、または、新しい世代の導き手について、考える機会が与えられました。感謝します。

私たちはすでに、「収穫は多い」と宣言される主イエス・キリストの豊かさに出会っています。若者への伝道についても、「主よ、あなたの豊かさをあらわしてください。次なる世代を育ててください」と、神に祈りをささげます。

今、茅ヶ崎香川教会に求められているのは、中高生はじめ若者を「育てる」ことではないかと思います。特別な企画をして「集める」ことも重要ですが、私たちの教会には中高生がすでに来ています。天から与えられた子どもたちが、ここにいます。

彼らはどんどん成長していく過程にありますので、それに応じて、信仰的な「育て方」にも工夫が必要でしょう。そのために、いろいろな形で奉仕する場をととのえることです。また、「育てる」ことには失敗が付きものですから、若者を見守る奉仕者相互のフォローが欠かせません。落胆や後悔を引きずり過ぎないように、ということです。

働き手が少ない」ことを率直に認めて、若者への伝道を「指揮する人」や世話する人が与えられるように祈り、そのような人を育てたいと思います。

最後に、若者を含む未信者が教会に来る理由のトップは……

神を礼拝できるから」ということです。茅ヶ崎香川教会の方向性は間違っていません。

これからも、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝える」ことを主眼として歩んでゆけますように。

ご高齢の方々の伝道牧会についても、主の愛が増し加えられ、困難を好機とする知恵が与えられますようにとお祈りいたします。アーメン

 

参考図書:

 

川口竜太郎著『中高生に信仰を伝えるために』、いのちのことば社、2020年

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月報 10月号

説教 私の埋葬(まいそう)の日のために

 

 ヨハネによる福音書 12章1節~8節 

              小河信一 牧師

 

説教の構成――

Ⅰ 過越祭の六日前、ベタニアで

Ⅱ 給仕をしていたマルタ……ほんとうに主に仕えていたのは

Ⅲ 金入れ箱から中身を抜き取っていたユダ

Ⅳ わたしの(ほうむ)りの日のために

Ⅴ わたしはいつも一緒にいるわけではない

 

Ⅰ 過越祭の六日前、ベタニアで

ヨハネ福音書12:1――

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。

物語として、今日のテキストを名付けるならば、「イエスに香油を塗ったマリア」となります。主イエス、そしてマリアが中心です。ただ、この物語は大変味わい深いものですから、時や場所の設定、また、ラザロ、マルタ、そしてイスカリオテのユダが果たしている役割や意味をしっかり汲み取りましょう。

具体的には、マリアとマルタ、また、マリアとユダ、それらの対照的関係を(とら)えます。それによって、物語「イエスに香油を塗ったマリア」の深さや豊かさに触れられることでしょう。

さっそく、時や場所の設定についてですが、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」というように描き出されています。

主イエスはおよそ3㎞離れた、エルサレムとベタニアを行き来されながら、最後にはエルサレムに(のぼ)ってゆかれます。「イエスは行かれた」という簡潔な一句に、受難の道を進みゆかれる御子の姿が(うつ)されています。それに符合して、時期を表す「過越祭の六日前」という句も、このイエスへの塗油(とゆ)の出来事が、主の受難に直結していることを示しています。

主イエスは受難週の金曜日に、十字架につけられて息を引き取られました。ヨハネ福音書によれば、その金曜日は、過越祭の「準備の日」(ヨハネ19:31)、祭りの前日でありました。過越祭の第1日・土曜日(安息日)を基点として逆算すると、「過越祭の六日前」、すなわち、日曜日にイエスへの塗油が行われたということになります((しゅ)()の主日 Palm Sunday に当たります。ただし、共観福音書では曜日の算定が異なります)。

ここで重要なのは、主イエスの語られた「わたしの葬りのために」(ヨハネ12:7)との言葉は、現実味(リアリティ)を帯びたものであったということです。精確には、それはイエスとマリアのみが気づいていた「埋葬準備」の現実味(リアリティ)であります。私たちはイエスとマリアの(がわ)に立ち、一つの緊迫した出来事に向き合いましょう。

そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」という記述は、さらに大きな文脈で、物語「イエスに香油を塗ったマリア」を、私たちが受け止めるように勧めています。つまり、ラザロがイエスと共に食事の席に着いている(ヨハネ福音書12:1,2)のは、「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)ということがラザロによって証しされているということです。確かにラザロは無言ですが、今夜の食事の中心人物、イエスはそのようなお方であることを、死から命へと救い出された彼の存在そのものが物語っています。

ラザロに関しては、マリアとマルタの対比の箇所で、再び言及します。

 

Ⅱ 給仕をしていたマルタ……ほんとうに主に仕えていたのは

ヨハネ福音書12:2-3――

2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

家の中の人物描写が、マルタからマリアへと移っていきます。マリアに焦点を合わせる前に、マルタとマリアの対照的関係を押さえておきしましょう。

家の中で動き回っている人として、「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」という女性の姿が捉えられています。ルカ福音書(10:38,40)においても、イエスを家に迎え入れたマルタという女が、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と記述されています。他方、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(ルカ10:39)と報告されています。

何かマルタと比べると、マリアの「働き」は少ないように、目立たないように思われます。しかし、本当の意味で、主イエスに「給仕する」・「仕える」とは、どういうことなのでしょうか? 言い換えれば、イエス・キリストを信じ、奉仕するということは、どのようになされるのでしょうか?

ある意味、これは難問なのですが、ここではマリアに焦点を合わせ、神に導かれているひとりの女の信仰と行いを見つめることにしましょう。

前段のラザロについての出来事の際に、「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し」(ヨハネ11:32)と書かれているように、マリアはイエスを心から信頼していました。彼女は、主イエスの御言葉を聞くことを第一とする信仰者でありました。そのようなマリアが、ここぞというタイミングでかけがえのない奉仕をしたのです。

信仰というものは、神への全身全霊の信頼を求めるものですが、マリアは今「イエスの前に、全心と全所有を(ささ)げきりました」(A.シュラッター)。神によって与えられ満たされた信仰が、見返りを求めない全き奉仕となってあらわされたのです。マリアは惜しげも無く、「三百デナリオン」(ヨハネ12:5 1日の賃金一万円として三百万円)の香油を、イエスのために使ったのです。

言うまでもなく、神と隣人への奉仕は強制されて行うものではありません。主イエスが自分たちのために「涙を流された」(ヨハネ11:35)というほどに、愛していてくださることへの、感謝・応答が、私たち信仰者の「行い」なのであります。そこで、マリアの献身的な「行い」(参照:ヨハネ12:7この人のするままに」)が、神のご計画と準備のもとにあることを見てみましょう。

ヨハネ福音書12:3――

家は香油の香りでいっぱいになった。

近頃、喪中となった家に、良い香りが充満しました。かぐわしい香りが、招待客すべての心に安らぎを与えたことでしょう。この「香油」は何よりも主イエスにささげられたものでありました。そのことは、「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」という、マリアのひた向きな行いによって印象づけられています。

雅歌4:14―― 

ナルドやサフラン、(しょう)()やシナモン

乳香の木、ミルラやアロエ

さまざまな、すばらしい香り草。

 ここには、花嫁の美しさを象徴する、良い香りの草木が並んでいます。

出エジプト記33:22-25によれば、聖別の油は、「菖蒲」、「シナモン」、「ミルラ」、「香り草」を材料にして作られました。その油は王が即位する際に用いられました。従って、「ナルドの香油」が主イエスに()られたということは、イエスがまことの王、メシアであることが、(にお)いとなり目に見える形となって現されたということです一介(いっかい)の女による聖別・油注ぎを、主が喜んで受けられたということなのです(参照:イエス誕生直後の聖別 ルカ2:23)。

以下に引用する雅歌の一節は、人目につかないマリアの行為を預言しているかのようです。

雅歌1:12 おとめの歌――

王様を(うたげ)の座にいざなうほど

わたし(=おとめ)のナルドは(かお)りました。

さらに、マルタとマリアとの相互関係から見ると、異臭に(ふた)をしようとしたことと、良い香りを放ったこととが対比されます。

ヨハネ福音書11:39――

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

もうにおいます」というのは、当然の事情説明です。しかしそれによって、マルタは「その石を取りのけなさい」との主イエスの命令を(こば)んでいます。言い換えれば、彼女は主イエスを墓から立ち去らせようとしています。

主イエスはその墓を開き、死んだラザロに出会われました。主が完全な死、(まった)き滅びの中に立たれたのです。そして主イエスは、御父に祈り、ラザロに向かって大声で叫ばれ、生き返らせました(ヨハネ11:41-44)。そのラザロが過越祭の六日前に催された食事の席に着いています。もはや、鼻に突くような(にお)いを消し去らせるかのように、姉妹マルタもまた、「家は香油の香りでいっぱいになった」という(こう)()に包まれたのです。台所でマルタが給仕していたとしても……。

 

Ⅲ 金入れ箱から中身を抜き取っていたユダ

ヨハネ福音書12:4-6――

4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

二人の人物の対比として次に、イスカリオテのユダとマリアを取り上げましょう。

ユダは、エルサレムでの最後の晩餐(過越祭の前日)にも、ベタニアでの六日前の食事にも同席していたことが分かります。言い換えれば、決定的な裏切り(ヨハネ13:21-30)の前に、それを()(ちょう)するような言動がユダに見られたということです。

このように克明な描写は、「ユダの転落していく様子を目に焼き付けよ、自らの罪過として(かえり)みよ」という私たちへのメッセージでありましょう。ヨハネ福音書は、「イエスを裏切る」(6:7112:413:218:2,5)という句を反復して、私たちにも脱落する危険があることを訴えています。

その中身をごまかしていたからである」(新共同訳)の箇所は、「(金入れ箱に)投げ込まれた金銭を抜き取っていたからである」と訳せます。ユダは厳正に金入れ箱を管理しているように(よそお)いつつ、こっそりと金銭を抜き取っていたのです。他の弟子たちには気づかれない、巧妙なやり方です。神への畏れなど、()(じん)もありません。

そのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12:5)というように、人聞きがよい発言をしているのです。このユダの発言について、主イエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と反論されています。詳細は後で説き明かします。ここでは、マリアとの対比の視点から言及します。

マリアは、「イエスの前に、全心と全所有を(ささ)げきりました」(A.シュラッター)。神の喜ばれることでありました(参照:創世記8:20-21)。なぜなら、主イエスが「わたしの葬りのために、(マリアは)それを取っておいた」(ヨハネ12:8)と言われた通り、それが神の御子に対する献身のしるしと認められているからです。

この見返りを求めないマリアの全き奉仕を目の前にしたとき、ユダのごまかしは言い訳のしようがなくなります。問題は、主人から託されたお金をどう維持するか(ごまかしなどとんでもない)ではなく、どのように活用し豊かなものとして使うかでありましょう(マタイ25:14-30)。

 

Ⅳ わたしの(ほうむ)りの日のために

ヨハネ福音書12:7――

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの(ほうむ)りの日のために、それを取って置いたのだから。」

葬り」の儀礼自体は数日かけることもありますので、特定された「私の埋葬(まいそう)の日」と訳したいところです。すなわち、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ19:40)という作法をもって、イエスの遺体が墓に納められる日が間もなく来ます。「ナルドの香油」の記念日(マルコ14:9)は「私の埋葬(まいそう)の日」につながっています。「ナルドの香油」の記念日も、イエスの埋葬の日(ユダヤ人の準備の日 ヨハネ19:42)も、神のご計画のもとにあるのです。そして、その計画が成し遂げられつつあることは、主イエスが周りの人々に、「この人のするままにさせておきなさい」と呼びかけられたことからも分かります。

たとえマリアというひとりの人であれ、イエスの埋葬を、すなわち、主イエス・キリストの十字架の死を直視し受け止める人物が現れたのです。ユダのように、「逃げて行く」人物も露わにされました。

 

Ⅴ わたしはいつも一緒にいるわけではない

ヨハネ福音書12:8 主イエスの言葉――

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

これは、キリスト者として今の時を生きる私たちへの重要メッセージと言えるでしょう。

すでに言及したように、イスカリオテのユダは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」という事実を前提として、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12:5)と反問しました。これは、一見正論です。

申命記15:11には、「七年目ごとに負債を免除しなさい」(申命記15:1)との律法の総括として、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と記述されています。「(あなたの)手を大きく開きなさい」という勧めのニュアンスの通り、貧しい人々への救済の輪を広げ助けることが、私たちに求められています。その手の開きを小さくしたり、閉じたりすることは、神の御心に添いません。

キリスト教倫理の基本、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18、マタイ22:39)に従う者は、見返りを求めない愛の「行い」を、より手を大きく開く善い(わざ)を為していきます。そこには内心、「貧しい人々のことを心にかけていない」(参照:ヨハネ12:6)という自分の欲望や罪との戦いがあります。

その戦いを克服する道は、ただ一つです。物語「イエスに香油を塗ったマリア」を例に取るならば、マリアに焦点を合わせ、神に導かれているひとりの女の信仰と行いを見つめることです。彼女の信仰は、行いへと直結していました。

マリアは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」との神の御子の声を聞いた者として、「過越祭の六日前に」、心から主イエスに仕え、自分から貴い献げものを差し出しました。彼女は、「イエスにではなく、貧しい者に手を開くべきだ」という誘いには乗りませんでした。なぜなら、マリアはその時、主イエスの「葬りの日」に、主の十字架による罪人の救いに、心を傾けていたからです。

主イエスが十字架につけられる直前に、ベタニアで、夕べの食卓の真ん中に主イエスが座っておられました。そこにひとりの女が近づいて、主の足に油を塗りました。それはまさに、メシアのご臨在をたたえる聖別の儀式でありました。すなわち、礼拝でありました。

私たちもまたマリアのように、主イエスの話に聞き入り、そして感謝をささげられるように、と願います。

 

主の食卓〈聖餐〉において、キリストの死による救いにあずかれますよう、その時が早く来ますように、と祈ります。

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