9次週主日礼拝 2025年1月19日
(午前10時15分~11時20分)
降誕節 第4主日
招き 前奏
招詞 詩編129編 4節~5節
頌栄 539
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 88
交読文 50 黙示録21章
旧約聖書 ゼカリヤ書 10章2節 (p.1490)
新約聖書 マルコによる福音書 6章30節~44節 (P.72)
祈祷
讃美歌 164
説教
「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」
小河信一牧師
祈祷
讃美歌 Ⅱー41
使徒信条
献金
報告
讃詠 546
祝祷
後奏
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2024年7月21日「永遠の命に至る食べ物のために」
列王記上17章8節~16節
ヨハネによる福音書6章22節~27節
※今回はレコーダーの不具合により説教音声はありません。申し訳ありません。
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月報12月号
説教 『 主は人の歩みを堅くされる 』
箴言 16章1節~9節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い ……箴言16:8
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて
出発することにした ……使徒言行録16:10
結
序
キリスト者は、自分の人生が主の御心によって変えられ整えられていくのを願っています。しかししばしば、人の思う計画と、その人に神の用意しておられる計画との間に葛藤が起こります。
たとえば、自分の願いが強過ぎて、神の御旨に思いが及ばないこと、あるいは、人生に挫折して、神の計画に信頼が置けなくなることが、神と人との間に溝を造り出します。
人生には山もあれば谷もあります。そこで大事なのは、人間の歩む道が神の計画に従って固められてゆくことです。逆に言えば、主の御心に背いて迷い出ないことです(マタイ18:12)。人生上の分岐点で、どちらに行けばよいのか、迷うこともあるでしょう。また、確信が持てるまで、その場に留まっていようとするかも知れません。
一つの失敗は決して最終的な失敗ではありません。今つまずいているからと言って、「神の国」を目指す旅路を見失わないことです。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)という御言葉があります。神からの「御計画」を受け容れられるように、自分の心を拡げ柔らかくしておきましょう。
Ⅰ 主は人間の精神を測られる
箴言16:1-3――
箴言のこの箇所では特に、“ 霊 ” 的に深い人間観察がなされています。その理由の一つは、箴言16:1-9に連続して、「主」(ヤハウェ)が登場している(ただし:8には無い)ということにあります。すなわち、人の思いを超えたところにある神の計画や御旨に立脚して、信仰者が人生上、学ぶべきことが並べられています。
このように大所高所の視点から、自分の人生を捉えられれば、日々の一歩一歩も揺るぎないものとなるでしょう。そこで、三つの節で何が説かれているのか、見てみましょう。
まず気づくのは、「人間は心構えをする」、しかし、「人間の道は自分の目に清く見える」ことに危うさがあると、人間が洞察されていることです。
言い換えれば、人間はさまざまな企てをする、しかし、人間の持つ罪性、高ぶり・ねたみ・争い等によって、「人間の道」はいわば「白く塗った墓」になっているということです。つまり、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)のです。
本来、人間の「心構え」は、罪を繰り返さないこと、そして、神に立ち帰ることに向けるべきものです。しかし、その「心構え」や企ては、自らの名誉心や幸福欲を満たすことを優先しています。それが、「自分の目に清く見える」以上、欲望の充足に歯止めがかけられません。自分では良いことをしていると思い込んでいるのですから。
それ故に、信仰的に大所高所から語られているのは、「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」または「主はその精神を調べられる」ということです。
冒頭で強調されているのは、「主」(ヤハウェ)と「人間」(アダム)との関係において、「主」から「人間」へを基軸にしなさい、ということです。その強固な主従関係を差し置いて、「人間」が自分の計画を見栄え良くして、人からの賛同を得ようとするのは、本末転倒です。
神の目には隠れているからと言い逃れようとする人に、「主はその精神を調べられる」と警告されています。仮に、今神が見過ごされているように思われても、終わりの日には、「人間の精神」の中身、その善と悪とが精算されます。神の正しい秤によって、この世で為した罪咎すべてが量られます。
では、どうすればよいのでしょうか? 「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ」というのが、その答えです。
あなたが “ 霊 ” の導きにより「心構えをし」、そして「あなたの業」に取りかかるとき、そのこと全体を「主にゆだねなさい」と言うのです。詩編詩人も、「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる」(55:23)と告げています。
それが、「主」から「人間」へを基軸とするということです。「あなたの重荷」を「主」にあずけましょう。もしも、「人間」関係に紛糾して打つ手が無くなるようなときにも、「主が舌に答えるべきことを与えてくださいます」。
忍耐して待たねばならない時もあります。しかし、「計らうことは固く立つ」のですから、動揺することはありません。
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである
箴言16:4-7――
ここでは、「主はその精神を調べられる」との観点から、信仰生活を妨げる諸問題がえぐり出されています。「逆らう者をも災いの日のために」から始まって、「高慢な心」、「罪」、「悪」、「敵」へと巡っていきます。わたしたちに求められているのは、「人間が心構えをする」ときに、これらの「災い」への「心構え」を怠るなということです。
人間が “ 霊 ” の導きによって計画や企てを造り上げるのに、時間がかかることもあります。先を急いではなりません。なぜなら、主が、「計らうこと(=あなたの計画・考え)は固く立つであろう」(箴言16:3)と約束してくださっているのですから。
ただしそれは、「人の道」(箴言16:7)が自分の思い通りになるということではありません。たとえば、「逆らう者」が道を塞いで、あなたの人生を「災いの日」の暗雲で覆うことがあります。しかしここで忘れてはならないのは、主なる神が「逆らう者をも災いの日のために造られる」ということです。苦難を見た哀歌詩人が「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(3:38)と述べています。
人生に波風が立つことを踏まえつつ、「主」から「人間」へという基軸がますます明らかにされます。それが、主なる神が「慈しみとまことをもって(自分の)罪を贖う」こと、そして、「主は敵(なる自分)と和解させてくださる」ことです。自分こそが「高慢な心」を持ち、「逆らう者」であると告白して、「主」の御前に出ることです。
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い
箴言16:8――
この詩行は例外的に、「主」(ヤハウェ)が出てきません。しかしこの箴言には、「主」から「人間」へという基軸が日常生活に浸透するように、との願いが込められています。
日常において実践されるのが求められている、この文の骨格は、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」となっています。この逆転の発想こそが、神の知恵なのです。
一般に正しく思える前提と理論に反する言説を、パラドックス(逆説)と言います。たとえば、「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)との山上の説教の一節は、主イエスの語られた一種のパラドックスだと言えます。このように信仰の世界では、何が「幸い」なのかを物語る、人知を超えたパラドックスに注目することです。
詩編84:11――
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
前半を直訳すると、「千日よりも、あなたの庭で過ごす一日の方が幸いである」となります。その意味は、無為に千日を送っている人よりも、「あなたの庭で過ごす一日」を持っている人の方が良いということです。なぜなら、この「一日」の中に人生全体の「幸い」が凝縮しているからです。その「一日の幸い」によって試練を耐え忍ぶ人は、永遠の命に導かれる(ヤコブ1:12)という点でも、「千日」の長さを超越しています。
この「あなたの庭で過ごす一日」には、「わたしの神の家の門口に立っている」とのヒントが与えられています。ただし具体的に、ユダヤ人にとっての三大祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)のような日なのか、巡礼者が都にたどり着いた日なのか、それとも、神の臨在に触れた日なのか、は不明です。いずれにしても、これまでの人生が真っ暗闇だったという人々もまた、この「一日の方が幸い」という大逆転に招かれているのです。
この世の論理や慣習を打ち破って、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」というパラドックスを成り立たせているのが、「主」(ヤハウェ)なる神であります。「正義に反する」ことなく、「恵みの業をする」人は、生涯の中でこの「一日」、唯一無二の日を獲得するに違いありません。というのも、「主」がその人を顧みて、神の栄光を仰ぐ日を造られるからです。
Ⅳ 主は人の歩みを堅くされる
この段落の掉尾を飾るにふさわしい箴言です。「人間」(アダム)と「主」(ヤハウェ)とが登場して、「主」から「人間」へという基軸が再現されています。同時に、「人の道」(箴言16:2,7,9)との鍵語によって、人生のガイドラインが示されています。
では、「人間(アダム)は自らの道について何を理解していようか」(箴言20:24)との問いかけをもって始めましょう。
「人の道」は言うまでもなく、無くてはならず大切なものです。それは、「人間(アダム)」が見極めよう・理解しようとして、「自分の道を計画する」ところに現れています。
それならば、「自分の道を計画する人」は「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)と同一視されるのでしょうか? この箴言は単に、「自分の道を計画する」ことを奨励しているのでしょうか?
断じてそうではありません。それだと、「主」から「人間」へということにはなりません。「人の道」において最重要なのは、「主が(人の)一歩一歩を備えてくださる」ということです。その「主」への信頼に基づいて、「自分の道を計画する」ことに取りかかるのです。
この箴言において、「あなたの業を主にゆだねれば あなたの計らうこと(計画)は固く立つであろう」(16:3)との神の約束がなされました。あなたは、「主が一歩一歩を備え、固く立てられる」という道を行きますか、問われています。それは確かに、ただ一つの道であります。
或る人は、「自分の道」でつまずき倒れて、主の備えられた道にたどり着きます。また、他の人は、脇目も振らずに「自分の道」を突っ走ろうとしています。全く対照的な人の生涯です。
「主」なる神は、そのような人々の入り交じるただ中に、御子、イエス・キリストを遣わされました。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。
こうして人々は、ただ一つの道を見出せるようになりました。詩編詩人は、「あなたの道を主にまかせよ」(37:5)、あなたはその道をごろごろと転がっていきなさい、と勧めました。
今や、「あなたの道」・「人の道」は、「わたしは道である」という主イエス・キリストと交わりました。主イエスが愛と正義をもって、「(人の)一歩一歩を備えてくださいます」。
最後にそのようにして、広く地中海圏に足跡を残したパウロの人生の一場面を見てみることにしましょう。
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした
使徒言行録16:10――
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
結論的に言えば、パウロの第二回目の伝道旅行中、この場面で箴言16:9の預言が鮮やかに成就します。すなわち、パウロは身をもって、「人間の心は自分の道を計画するが、しかし、主が人の一歩一歩を備えてくださるであろう」(直訳)との御言葉を体験することになりました。この「しかし」の一句に象徴される神の御心の偉大さと神秘とを知らしめられたのです。
パウロは今、小アジア西端の港町トロアスに下って来たところでありました。しばらくぶりに地中海の海原を見て、パウロは何を想っていたのでしょうか。
この直前にパウロは、アジア州やミシア地方で御言葉を語ることが、聖霊またはイエスの霊によって阻まれるという経験をしています(使徒16:6-7)。傷心のパウロにとって、眼前の大海は障壁を意味していたのでありましょうか。ここで撤退してイスラエルに帰るというのも、一案だったでしょう。伝道はまさに瀬戸際にありました。
使徒言行録16:9――
(そして)その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
「そしてその夜、幻がパウロに現れた」(直訳)ということです。神の御旨が「幻」により、「一人のマケドニア人」の口を通じて開示されました。小アジアで行き詰まった伝道に対し、「そして」と共に、次への転回が起こされました。問題は、この出来事を上からの啓示として、パウロが “ 霊 ” 的に受け止められるかどうかです。
この第二回目の伝道旅行は、「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(使徒15:40)との証言をもって始められました。パウロは「主の恵みにゆだねられて」との言葉の重さを知る人でありました。その下地には、「あなたの業を主にゆだねれば 計らうこと(あなたの計画)は固く立つであろう」(箴言16:3)との御言葉を、教師ガマリエルから学んでいた(使徒22:3)ということがあったかも知れません。
パウロは「主の恵み」のうちに、「すぐにマケドニアへ向けて出発することにしました」。まことに、「人の道」はさまざまですが、パウロたち一行は海上の道を進むことなりました。それは単なる海路ではなく、キリスト教が初めてヨーロッパで宣べ伝えられる、その出立の道でありました。何よりも、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」ということが原動力でありました。
この箇所が初出となる「わたしたちは」(一人称複数・主格)の中に、パウロの喜びが表されています。瀬戸際に追い込まれた一行はここで、「わたしたち」として一つになりました。というのも、「神の召し」において、パウロたちは神に結び合わされ、互いに「兄弟」と呼びようになったからです(Ⅱコリント1:1、2:13)。その点で、トロアス港を出航した船内に、小さいながらも一つの教会ができていたのであります。
結
2024年も残り一ヵ月ばかりとなりました。皆さんにとって、この一年の歩みはどのようなものだったでしょうか。自分が企てて進んで来た道は、神の計画に従って固められたでしょうか。新しい年の「わたしたちの道」が主によって「一歩一歩を備えられる」ようお祈りしましょう。
〈説教の要約〉
2025年 1月12日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第3主日
旧約聖書 レビ記 18章16節(P.190)
新約聖書 マルコによる福音書 6章14節~29節(P.71)
説 教「イエスの名が知れ渡ったので」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
結
序
ここには、民話的な味わいを持つ洗礼者ヨハネの死の物語(マルコ6:14-29)が収められています。前後関係に注目すると、このヨハネの出来事は、十二弟子の派遣(同上6:7-13)と帰還(同上6:30)を中断する形で挿入されていることが分かります。
なぜ、そのようなサンドウィッチ形式になっているのでしょうか? 直前には、ヤイロの娘と主イエスの服に触れる女のいやしの物語が、同様の形式で構成されていました(マルコ5:21-43)。明らかに「正しい聖なる人」ヨハネ(マルコ6:20)の殉教は、主イエスと弟子たちの伝道に影を落としています。
先駆者ヨハネの身に降りかかった罪深い者たちの反抗と陰謀はまさに、福音宣教についての先駆的出来事、予兆でありました。このヨハネこそが、主イエスに弟子として仕える模範となったのです。本日は、パン生地にはさまれたサンドウィッチの具材をしっかりと味わいましょう。
王の誕生日の祝宴において、ヨハネの虐殺が敢行されます。その祝宴で多用される「盆」の一つが持ち運んで来たものとは……?
Ⅰ イエスの名が知れ渡ったので
マルコ福音書6:14-16――
14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
最初に、ヨハネの虐殺を伝えるテキスト内の構成についてお話しします。それは、マルコ6:14-16(Ⅰ)だけが〈今〉のことで、あと(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)は、〈回想〉になっているということです。すなわち、ヨハネがどういう訳で、どのように殺されたのかが、〈回想〉の形で伝達されています。
ヨハネの虐殺は、まるで昨日の出来事のようにリアルに描き出されています。しかし、血を見るような内容が内容だけに、読み手にショックを与え過ぎるということもあるでしょう。その点で、〈回想〉による語りは一種の緩衝装置の役割を果たしています。〈今〉から見れば、もう過ぎ去った事なのですよ、ということです。
ただし、多少ショックがやわらげられたとしても、わたしたちは罪過に染まった人間模様とその陰謀の結末とを見届けなければなりません。まずは、〈回想〉への導入を成す〈今〉の前置きを読んで、心の準備をしましょう。
そこで〈今〉、弟子たち、ならびに、わたしたちがわきまえ知るべきことの要点を示しましょう。それは、ひと言でいえば、「イエスの名が知れ渡ったので」、つき従う者はますます増えると共に、敵意を抱く者たちが画策し始める、ということです。
信仰者が〈今〉、そのような事の成り行きをしっかり受け止めるならば、〈これから〉の光と闇との戦いに向き合えます。その上、〈回想〉して思い起こす過去は、信仰者自身の経験として蓄えられます。誘惑を退ける知恵となり、患難を忍耐する力となることでしょう。
というのも、わたしたちの先達の信仰者は、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認して」、約束は必ず成就するという信仰に生きていたからです(ヘブライ11:1,13)。まさに〈回想〉によって、彼らの信仰を受け継ぐことが求められています。
「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」……主イエスがたとえで語られたように、御言葉の種は、良い土地のみならず、道端、石地、茨の生い茂る地にも蒔かれます(マルコ4:1-9)。忍耐して収穫の時を待ち望みつつ、「蛇のように賢く」(マタイ10:16)、害敵の妨害を退けねばなりません。
ヘロデ王は主イエスのまつわる情報に耳をそばだてました。何しろ、王は自分の地位を守るのに必死でしたから、世間で人気を集めている人の動きには敏感でありました。結局のところ、ヘロデは単純にイエスを恐れていたのです(マルコ6:20)。びくびくしている人物が主イエスを正しく評価できるわけがありません。
そして、「だから、奇跡を行う力が彼(イエス)に働いている」との情報は、「十二人は出かけて行って……多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)との別方面からの情報とも符合するものでした。すなわち、弟子たちの持つ「奇跡を行う力」は、彼らを派遣したイエス・キリストに由来していたということです。
このようなサンドウィッチのパン生地からの証言は、中身の具材においても通用することが示唆されています。具体的に言えば、洗礼者ヨハネは生前に「奇跡を行う力」を現しつつ、その神の「力」によって「死者の中から生き返る」イエス・キリストについて証ししていたということです。言い換えれば、そのような神に仕える者を殺した、人の罪深さを嘆け、ということです。
〈今〉のことを伝える前書きを総括しましょう。それは要するに、「イエスの名が知れ渡った」との福音宣教の前進の観点から、ヨハネの虐殺を振り返る〈回想〉に向き合いなさい、ということです。そこには、〈これから〉、まことの光なるイエス・キリストにつき従いなさい、暗闇の中で悪事に走ったり絶望したりすることのないように、との教えが込められています。
「イエスの名が知れ渡った」……この言葉が掲げられているのは、ヨハネ惨殺の出来事への痛烈なアイロニー(皮肉)になっています。というのも、「イエス」というのは、「罪からの救い」を意味しているからです。
ヘロデ王、妻のヘロディア、その娘(伝承ではサロメという)、その場にいた高官や将校、そしてヨハネの首をはねた衛兵、彼らにも「罪からの救い」はあるのでしょうか。それとも、彼らはあくまでも、「イエスの名」を信じて救われることのなかった人の代表ということなのでしょうか。
神の御子は、この地上で「イエス」との「名」によって呼ばれました。「イエスの名」を信じるとは言い換えれば、そのお方が「インマヌエル」(神は我々と共におられる マタイ1:23)の神であり、この神によって自分が救われたと信じるということです。
わたしたちが罪に誘惑され、自分の弱さを嘆くとき、主イエスはわたしたちに寄り添い、共に苦しんでくださいます。そこからわたしたちが、神の御前に出で、悔い改めて立ち直る力を与えてくださいます。
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
マルコ福音書6:17-20――
17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。
マルコ6:17は意訳すれば、「実は過去にヘロデは~したことがあった」となります。そして、ヘロデが「ヨハネを恐れていた」理由が開示されて、〈回想〉シーンに入っていきます。別言すれば、話題が主イエスのうわさからヨハネの虐殺に移行します。
しかし話題が転換しつつも、ヨハネの死を主イエスの十字架の死に重ね合わさせるという文学的技巧が施されています。ヨハネと主イエス、両者の公生涯が連動していることは、すでにマルコ福音書の冒頭に示されています……「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行った」(1:14)。
ヘロデがヨハネを「牢につないでいた」ということで、両者の敵対関係が暗示されています。読み手に、これからどうなるのだろうというサスペンス(緊張と興奮)を呼び覚まします。その効果を高めるために、〈回想〉にもかかわらず、あたかも〈今〉起こっているかのような語りになっています。
「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており」……この一文をより深く理解するには、当時の王族の結婚事情についての知識が必要です。要は、外交などの政略や性的な欲情によって恣意的な結婚や離縁が繰り返されていたということです。
「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)と「ヘロディア」とは、元々姻戚関係がありました。というのも、「ヘロデ・アンティパス」と「フィリポ」とは、共通の父「ヘロデ大王」(マタイ2:1,16)を持つ、腹違い(異母)の「兄弟」だったからです。
ありていに言えば、「ヘロディア」は夫「フィリポ」を見捨てて、「ヘロデ」と再婚することになりました。「ヘロディア」の思惑というよりも、「ヘロデ」からの求愛が強かったのかも知れません。いずれにしても、元夫が存命している中での、その「兄弟」との結婚は許されませんでした。
そういうわけで、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言った」のです。
「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」(レビ記18:16)……この旧約律法が洗礼者ヨハネからヘロデに伝達されました。
当時、「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)は、ガリラヤとぺレア(ヨルダン川の東)の分封領主でありました(在位:前4-後39年)。領主と言ったのは、パレスチナ全体がローマ帝国の支配下に置かれていたからです。「ヘロデ王」(マルコ6:14)というのは彼の尊大さを表す僭称に過ぎません。ヘロデの居住地は、ガリラヤ湖西岸のテベリヤ(ティベリアス)でしたから、ヨハネの直言は確かにヘロデの耳に入ったのでありましょう。
ついでに言えば、レビ記18:16の直訳は、「あなたの兄弟の妻の恥部を曝させるようなことをあなたはしてはならない。彼女はあなたの兄弟の恥部である」(M.ノート)となります。
「恥部を曝させる」または「裸の覆いを取る」との言い回しが、厭うべき性的関係が規定されているレビ記18章には反復されています(18:6,7,11,15,17,18,19)。律法において、「恥ずべき行為」(18:17)を確認しつつ、血縁の有無にかかわらず大家族の中での健全な交わりが模索されています。
ユダヤ人の信仰を顧みず、ローマ帝国寄りだったヘロデはどのように、ヨハネからの直言を受け止めたのでしょうか? 「ヨハネを恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とある通り、ヘロデは矛盾に満ちた心境に追い込まれました。「ヨハネを捕らえて、牢につないだ」ヘロデではありましたが、がんじがらめになったのはむしろ、ヘロデの方でありました。
夫の心に矛盾が渦巻いて弱気になっているときに、つけ込もうとしたのが、サタンならぬ妻のヘロディアでありました。部外者が自分の結婚について、取り沙汰するのは何事か、と彼女は激昂しました……「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」。ヘロディアの憤りと憎しみの行き着く果てや如何に……。
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
マルコ福音書6:21-25――
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
この場面の、優柔不断なヘロデと速戦即決のヘロディアの様子から、主イエスの尋問・裁判を思い起こされる方も多いことでしょう。すなわち、一方では、主イエスから聴き取りしながらも右往左往するピラト(ルカ23:4,14)、他方では、神冒瀆の罪によって裁こうとはやる大祭司や群衆たち(同上22:71、23:21)という対照的な姿のうちに、人間の罪深さと残忍さが活写されています。
ヘロディアは夫の「誕生日の祝い」の「宴会」という「良い機会」を見逃しませんでした。この時既に、自分の娘を仲間に引き入れる目算を立てていたのかも知れません。サタンの入った母ヘロディアにとって、娘はまるで操り人形でありました。夫の「誕生日の祝い」を台無しにする冷酷さ、ほろ酔い気分の「高官や将校、ガリラヤの有力者など」を証人(参照:マルコ6:26 客の手前)として利用する悪賢さなど、「宴会」を支配していたのは、ヘロディアでありました。
「そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう……お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った」……民話のような味わいが、王の気前の良い言葉ににじみ出ています(参照:ロシアの昔話「魔法の本」)。「少女」はヘロディアの娘であり、ヘロデからすれば妻の連れ子でありました。王女なる「少女」が恥じらいを打ち捨てて、宴席で「踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」ごほうびにということです。彼女への愛情もあることでしょうから、ヘロデはもう後に引けなくなりました。
母親の目算どおり、娘が「何を願いましょうか」と尋ねると、母親は言下に「洗礼者ヨハネの首を」と答えました。娘は王であり父親であるヘロデのもとに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と言いました。
ここで頭がくらっと来るのは、わたし一人ではありますまい! 「盆に載せて」って、さっきまでご馳走を運んでいた「盆」でしょう。あたかもこれが「本日のメインディッシュ」であるかの如くに……。まことにおぞましいことです。飲食したものが逆流して来そうです。
Ⅳ 非常に心を痛めたヘロデ
マルコ6:26-29――
26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
皮肉にも、王妃によって王手がかけられました。後は、事の成り行きを見守るだけです。
ヘロデは「非常に心を痛めた」自分の意思ではなく、「客の手前、少女の願い」によって誘導されます。もはやヘロディアとの結婚は律法違犯だと言って、自分を責め立てる者はいなくなります。
しかし、ヨハネの「教えに喜んで耳を傾ける」機会(マルコ6:20)がヘロデにはなくなります。たとえ一時期であれ、王はじめ支配者の一族やその仲間たちは、「悔い改めさせるための宣教」(同上6:12)から遠ざかります。これが、「暗闇に光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)という現実でありましょう。
今、中断されている十二弟子の派遣から帰還への物語に関して、メッセージが残されているとすれば、このことではないでしょうか。すなわち、伝道者が闇に葬り去られ、御言葉に耳を傾けない人々が増えていくように見えても、恐れるな、宣教の旅を続けなさい、ということです。
「ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた」……ヘロデの「誕生日」が「逝去日」、すなわち、ヨハネを埋葬する日に取って替わられました。
漆黒の闇を縫うようにして、「ヨハネの弟子たち」が現れました。彼らは勇気をもって、師への信従の姿勢を見せました。彼らが、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」(ヨハネ1:15)とのヨハネの教えを信じているならば、彼らは希望を失わないことでしょう。主イエスとヨハネを遣わした神(ヨハネ1:6、4:34)から、師の衝撃的な死を耐え忍ぶ力が、「ヨハネの弟子たち」に注ぎ込まれています。
そうだとすれば、懇ろにヨハネを葬る弟子たちの姿は、「イエスの弟子たち」、十二人へのメッセージになっています。それこそが、まさに弟子訓練の肝心要です。実際、都エルサレムで「イエスの弟子たち」もまた、テベリヤ(ティベリアス)での「ヨハネの弟子たち」の経験を〈回想〉せねばならない時が来ます。カルバリ(髑髏の意)の丘で、彼らは逃げ隠れしたりしないでしょうか。そして、主イエスの遺体を墓に納めることができるでしょうか。
結
マルコ福音書の展開を中断するかのように、洗礼者ヨハネの死が〈回想〉されました。彼は「正しい聖なる人」であり、殉教者として死を遂げました。これは、主イエス・キリストにあって〈これから〉起こる出来事を予告しています。
もちろん、主イエス・キリストの十字架による死は、罪人を贖い出すためのもので、一度限りの救いの御業であります。ただ、わたしたちの大部分はすぐに、真の「イエスの弟子」になれるわけではありません。主イエス・キリストの死の苦しみを見続けたのは、わずかの女性たちだけでありました。
ですからわたしたちには、洗礼者ヨハネの言葉と行い、そして、ヨハネとその弟子たちの関係から学び取ることが少なからずあります。その上、「ともし火」(ヨハネ5:35)なるヨハネは短い生涯を終える中で、罪深い人々の姿を内面に至るまで照らし出しました。罪からの救いを伝える働きは、ヨハネとその弟子を経て、わたしたちに託されています。
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真の弟子として神に仕えること、
ヨハネならびに主イエスの死によって福音宣教が拡大していくこと、
そして、イエス・キリストの十字架の死を、自分の救いとして受け止めること、
が教えられます。
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2025年 1月5日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章1節~7節(P.306)
説 教「一人ひとり神からの賜物を持っている」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
……ゼカリヤ書12:12-14
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
……Ⅰコリント7:5-6
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
……Ⅰコリント7:7
序
コリントの信徒への手紙 一 6章まで、パウロは “ 霊 ” に導かれ、神の知恵をもって、福音をコリント教会の人々に指し示してきました。そして、7章から新しい単元(7:1-11:1)に移ります。そこでは、結婚と性生活、偶像の供え物、そして使徒の権利など個別の問題が取り上げられます。
パウロが誠実で忍耐強い人であることは、相手の意見によく耳を傾けている点に現れています。なにしろ、主イエスの死後、およそ20年後の初代教会とその信仰者たちの話ですから、前例も何もありません。パウロはじめ自分たちで神学し、自分たちで福音の土台固めをしなければならない時代のことです。アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなど教父たちが登場し活躍するのも、およそ150年後のことでした。
こんなことまで教会内で問題になっていたのか、と思われるかも知れませんが、当時のキリスト者にとっては、信仰の基盤に関わる大事な問題でありました。幸いだったのは、個別の問題を聴き取り、それに霊的な説明を加え、正しい方向に導く伝道者・パウロがいたということです。その上、パウロは悩み苦しんでいる人々の魂への配慮を心がける牧会者でありました。
これまでにパウロが傾聴してきたコリント教会の一部の人々の主張を、以下に挙げましょう。
「わたしには、すべてのことが許されている。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:12
「食物は腹のため、腹は食物のためにある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:13
「人が犯す罪はすべて体の外にある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:18
そして、本日のテキストで出てくるのが……
「男は女に触れない方がよい。」⇒「しかし」 Ⅰコリント7:1
以上、四つの例文すべての後に、「しかし」(ギリシア語:デ)が接続しています。つまり、「コリントびとよ、あなたは……とおっしゃるが、しかし、……」というように、パウロは持論を展開しています。相手の言い分を引用した上で、霊的な説明をもって応じているというのは、信頼できる姿勢に違いありません。
海図を持たない航海のようなおぼつかなさを感じられるかも知れません。だからこそ、キリスト教倫理を構築している最中の水先案内人パウロに従っていくことにしましょう。パウロは、歴史、文化、そして慣習の異なるキリスト者の考え方を受け容れる心の広い人です。神に喜ばれる信仰者の倫理観とはどのようなものか、読み取りましょう。
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
コリントの信徒への手紙 一 7:1-2――
そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
心をざわつかせるような言葉がいきなり出てきました。序.で解説したように、「男は女に触れない方がよい」というのは、元々はコリント教会の一部の人々の見解です。では、パウロはこの見解について、どのように考えているのか、知りたいことでしょう。
詳しくは、Ⅳ.で説き明かしますが、パウロは例外として「男は女に触れない方がよい」と勧めることがあると言います。しかし、コリントの一部の人のように、これを律法として絶対視するとは考えていません。その人たちから見れば、パウロは中途半端だと感じたかも知れませんが……。
「そちらから書いてよこしたことについて言えば」……パウロは今、結婚と性生活「について」助言しようとしています。そこで、それを「書いてよこしたそちら」の事情を知ることから始めねばなりません。頭から、「男は女に触れない方がよい」との断言は間違っていると決めてかかってはなりません。
ただ残念ながら、コリントの信徒への手紙の本文に、その事情が打ち明けられているわけではありません。従って、当時コリントの町ならびに教会を取り巻いていた状況から、推論してみましょう。
一つは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景に、禁欲主義があるということです。「みだらな行いを避ける」(Ⅰコリント7:2)ことを金科玉条としている人々がいました。そこからさらに、性的な欲望を抑えるために独身を貫こうとする人々が現れました。
その背景には、ケンクレアイという外港(ローマ16:1)を持つコリントの繁栄により物欲に走り自由を謳歌していた多数の人々の存在があります。そして、町全体の風紀が乱れていたことへの反動として、禁欲主義や独身主義を是とする人々が生まれました。
また、信仰的に見逃せないこととして、終わりの日が近いという終末論の広まりが考えられます。これに従えば、終わりの日を迎えるのにふさわしく、身を清め、節度ある生活を保つのを第一とする考え方になります。極力今の状態のままで、終末の到来に、つまり、再臨のイエス・キリストをお迎えすることに集中するということです。独身者はそのまま結婚しないこと、また、既婚者は性生活を抑制することが推奨されることになります。
禁欲や独身などの主義主張、また、終末論の影響が大波のようにコリント教会に流入しています。まさに混沌とした状態です。その上、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていれば(Ⅰコリント1:12)、収拾がつかなくなります。
パウロは「頭ごなしに、あなたがたの主張を切り捨てたりしませんよ」との寛容な姿勢を言い表しました。それから、「しかし」との逆接の詞と共に、「男は女に触れない方がよい」と主張する人々への回答が示されます。
Ⅱ 夫は妻に、その務めを果たしなさい
コリントの信徒への手紙 一 7:3-4――
2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
パウロは、「男は女に触れない方がよい」との一つに意見に対し、広い見地から回答しています。すなわち、「男と女」に対し、結婚の幸いとその義務について説いています。
確かに、「男は女に触れない方がよい」かどうかは、男性のみならず女性の思いにも配慮すべき事柄です。いわば男女の関係性が問われています。男女いずれにせよ、一方的な力による支配は許されません。
「みだらな行いを避けるために」結婚しましょう、と言うことに違和感を覚えるという人がいるでしょうか? 神の祝福のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という結婚が成し遂げられます。従って、神の恵みによる出来事を越えて、「~するため」という人間の目的を第一にすべきではありません。
幸いな時も災いの時も、神の祝福にあずかるとの信仰を尊ぶ中で、「しかし」、夫と妻が「~するため」という目的を設定し力を合わせる、ということをパウロは述べたいのでしょう。
さらにパウロは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景を見通していました。それは、性について放縦な者たち(Ⅰコリント5:1)への反動として、禁欲や独身に関わる主義主張が蔓延していたということです。
それら両者はいずれも、「キリスト者の自由」を勘違いしていました。すなわち、一方は、より緩やかな方へ、他方は、より厳しい方へ、と両極端な態度をとっていました。自分たちの判断で、奔放と厳格、その一方向のみに舵を切っていたのです。
その結果として、神から自由が与えられていると同時に、神から「務め」が託されていることを顧みなくなりました。パウロが、「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と諭しているのは、そのためです。ここで言う「務め」とは、「義務」あるいは「支払うべき善意」(F.F. ブルース)と言い替えられるほど、強いニュアンスを含んでいます。
結婚生活において、夫婦互いに「自由」があるとすれば、当然果たすべき「義務」もあるはずです。いずれにせよ、キリスト者の結婚は神の祝福のもとに置かれています。神は、わたしたちが「自由」を享受し、感謝して「義務」を果たす、その全体を見守っておられます。
パウロは、夫婦間における「自由」と「義務」との子細には触れずに、それぞれに「その務めを果たしなさい」との原則を示しています。そうして、夫婦が協働して、神の栄光を現すならば、自ずから「みだらな行いを避けられる」ことでしょう。
ここで旧約聖書から、男たちと女たちが信仰的に「自由」と「義務」を体現している或る出来事を取り上げましょう。
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
12 大地は嘆く。各氏族は各氏族だけで、ダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、13 レビの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、シムイの氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、14 その他の氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。
ゼカリヤ書12章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような信仰をもって生きていたのかを知ることができます。
主イエス・キリストのエルサレム入城を預言している言葉、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)が、この文書の中にあります。
またゼカリヤ書には、主イエス・キリストの十字架の死を預言する言葉、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(12:10)もあります。
すなわち、初代教会の人々は、カルバリの十字架の丘で、ゼカリヤの預言が神の計画通りに成就した、と信じた(ヨハネ19:37)ということです。主イエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られた」(使徒信条)のを「目撃した」(同上19:35)というのは、わたしたちの信仰の礎となりました。
さて、「独り子を失ったように嘆く」というエルサレムの住民の様子が、上記のゼカリヤ書12:12-14に描かれています。一人ひとり、その大いなる悲しみに連なるかが問われている厳粛な場面になります。これこそ、どのように男たちと女たちとが信仰的に「自由」と「義務」を体現しているのか、注目に価するものになっています。
「その日」(ゼカリヤ書12:9,11)というは、終わりの日を指し示しています。いわば聖なる祭日です。福音書には、主イエスが十字架の死を遂げられた「その日」に、主イエスとその状況を「見つめていた」女性たちが登場します(マルコ15:40,47)。彼女たちの真剣な目は、主イエスの死と葬りに対する畏れ、神の大いなる御業に対する畏れを現しています。
「大地は嘆く …… 氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。」……ここに、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメ」の先駆者とも言うべき、「女たち」がおりました。
「女たち」は男たちとは別に喪の作業を行いました。「氏族はそれぞれの氏族だけで」との言い回しから、強制されたのではないことがうかがわれます。王や祭司からの命令に従ったのではありません。「女たち」は「ダビデの家の氏族」はじめ嘆く者たち全体に連帯しつつも、個別に嘆き悲しみました。
そこで、都エルサレムの「女たち」は「彼ら自らが刺し貫いた者を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しみ」ました。都中が喪に服す中で、「シオンの娘」(ゼカリヤ書9:9)の存在は、さぞや際立っていたことでしょう。
こうして、「女たち」はやがて来たる救い主を待ち望むようになりました。男性たちとは別に、一人ひとりが、「独り子」の証言者として生きる者となりました。彼女たちは神の与えてくださる「自由」を受け止め、感謝して「義務」(務め)を果たす先駆けとなったのです。「マグダラのマリア」たちに受け継がれました。
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
コリントの信徒への手紙 一 7:5-6――
5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
冒頭の「男は女に触れない方がよい」との主張に対し、熟慮の上でのパウロの回答が示されます。「互いに相手を拒んではいけません」というのは、必ずしも「男は女に触れない方がよい」とは言えないということです。つまりは、当事者の「男と女」の同意なしに、禁欲主義を持ち込むなということです。神の祝福によって解き放たれた結婚生活は、原理原則または固定観念とは相容れないものです。
それでは、元より夫婦が協働し家庭を造り上げていく、その成長を、外から阻んでしまうことになります。「ただ、納得しあったうえで」と言うパウロのように、実情を見据えて助言することが求められます。しかも、その夫婦には、キリストの土台の上に家を建てる(Ⅰコリント3:10)という「務め」があります。
「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」……先に、「必ずしも『男は女に触れない方がよい』とは言えない」と述べましたが、ここでは、「男は女に触れない方がよい」ことが当てはまる例外が示されています。
この点に限って言えば、パウロはコリント教会の一部の人々の禁欲主義を認めています。というのも、パウロの目的は、考えの異なる人々を論破することではなく、多くのキリスト者から承認される倫理を確立することにあるからです。
元々、「専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ……」というのは、例外的な出来事ではありません。というのも、主イエスご自身がしばしばひとりで祈っておられたからです(マタイ14:1、ヨハネ6:15)。そのようなひとりで行う密室の祈りは、夫婦生活の中でも推奨すべきものであります。
「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」……確かに、「男は女に触れない方がよい」との主張は極端であり、禁欲主義はキリスト教倫理と相容れないところがあります。なぜなら、キリスト者の自由のもとにある男女の関係を束縛することになるからです。
しかし同時に、パウロは、「自分を抑制する力がない」人間の弱さをしっかりと把握しています。「サタンの誘惑」に乗せられるならば、「男が女に触れる」という性行動が制御できなくなることを、彼は懸念しています。
性欲にせよ、食欲にせよ、自分が自分を律するというのでは立ち行かなくなる(箴言6:29,32、創世記25:33-34)のは、自明です。だからこそ、夫婦共々に、ひとりで「専ら祈りに時を過ごす」ことが大切なのです。それは、神の喜ばれる節制であって、いわゆる禁欲主義ではありません。
ここで皆さんは、このように助言するパウロは結婚した経験があるのか、と問われるでしょうか? 少なくとも、パウロは現在、独身です(Ⅰコリント7:8,9)。ただし、キリスト教に回心する以前に、パウロが結婚していたかどうかについて、何も情報がありません。結婚の経験の有無で、わたしはパウロの助言を評価するつもりはありません。むしろ、パウロは夫婦が喜びも悲しみも分かち合って暮らしている、その実情に寄り添っている、ということを指摘したいのです。それが、パウロの繊細な言葉遣いに表れています。
「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」……5節の「ただ、納得しあったうえで」、そして6節の「そうしても差し支えない」との言い回しによって、波風の立つことが無いとは言えない結婚生活へのパウロの洞察が表されています。すなわち、「納得する」ならびに「差し支えない」(譲歩・容認する)というギリシア語には、「シン」(シンクロナイズ〔同調・同時化〕のシン)がさりげなく使われています。パウロはデリケートな夫婦の生活を知悉しています。
このような言葉遣いの内に、「共に(シン)生きる」夫婦の結婚生活が表明されています。実際、場面場面で夫婦が互いに……場合によっては時間をかけて……「納得したり譲歩したり」する中で、結婚は成り立つものではないでしょうか。
「命じるつもりはありません」という、やや謙虚なパウロの姿勢には、段落の結びを際立たせる効果があります。コリント教会の「父」(設立者 Ⅰコリント4:15)と自認するパウロ以上に、その信徒一人ひとりを守り支えているのは……。
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
コリントの信徒への手紙 一 7:7――
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
序.で、コリント教会の一部の人々の主張を引用した上で、「しかし」(デ)と切り返すパウロの論法を紹介しました。ここでは、より強い反意を示す「しかし」(アッラ)が使われています。
すなわち、自分自身の願いを、「しかし」(アッラ)によって切り返して、神の御業を指し示しています。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」……パウロは「神からの賜物」として、独身で伝道する生活を受け取っています。「わたしのように……してほしい」と言って、自分の願いが神に由来していることをほのめかしています。もちろん、皆に「そうしなさい、と命じるつもり」で言っているのではありません。
図らずもパウロは独身者として、神の喜ばれる節制を選び取っています。それは決して禁欲主義ではありません。そのことはパウロの姿勢が、「共に(シン)生きる」夫婦たちの結婚生活、その喜びや悲しみと「共に・一緒に」あることからも分かります。
「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」……パウロは、一つの生き方に縛られるような人ではありません。「人によって生き方が違う」ことを認めていました。というのも、キリスト者一人ひとりが「それぞれの神からの賜物」を携えて、人の思いをはるかに超えた終わりの日を迎えることが第一だったからです。
再臨の主イエス・キリストにお会いすることをめざして、パウロは “ 霊 ” の導きによって自分の生活を整えようとしていました。それ故に彼には、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授けられて」いました(フィリピ4:12)。だからパウロは、当代屈指の人生相談の名回答者でありました。
結
パウロは、コリントの信徒への手紙 一 7章の新しい単元の冒頭で、結婚と性生活の問題を取り上げました。彼はキリスト教倫理の確立に取りかかっています。7節の短い段落ながら、そこには、倫理の全体像が見通せるような、霊的な説明が展開されていました。このようなパウロ書簡を参照されるならば、きっと善い倫理・集成がつくられるに違いありません。そうすれば、各教会において、「それぞれの神からの賜物」が十分に活用されることでしょう。
何より、パウロは「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)でありました。彼は、神からの祝福と恵みを豊かに受けていました。だからこそ、彼自身は独身の「賜物」にあずかりながら、彼とは異なる生き方をしているさまざまなキリスト者を思いやり助言することができました。
夫婦が難題を抱えているときにも、時間をかけて「納得したり譲歩したり」しながら、神の栄光を現すように、パウロは見守っています。
パウロは、「自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑する」という人間の負の側面を把握しています。そこで、すでに誘惑されてしまった人、みだらな行いを犯した人(Ⅰコリント5:1)を見捨てたりしません。なぜなら、パウロは忍耐と希望をもって、終わりの時の到来を待ち望んでいるからです。
主イエスが見失われた羊を捜し回っておられます(ルカ15:5)。日夜、神の救いの御手が小暗き世に差し伸べられています(ローマ10:21)。その間にも、わたしたちにはこの世で、さまざまな人間関係の中で、隣人への「果たすべき務め」があります(Ⅰコリント7:3)。
現代にふさわしいキリスト教倫理を建て上げること、その大事な「務め」がパウロからわたしたちに譲り渡されています。
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* 要 点 *
パウロは性に関する諸問題について、率直に意見を述べています。
注目すべきは、その内容以上に、パウロの回答の出し方です。
パウロは結婚している人、独身の人、放縦な人、そして禁欲主義的な人などの考え方や背景を把握しようと努めています。「納得する」や「譲歩する」など、人の気持ちの側面も見逃していません。夫婦の関係が「祈り」によって成長するのを見守っています。
パウロは “ 霊 ” の導きを通して、性に関する問い尋ねに答えています。個別の問題を検討するとき、パウロは終わりの日を待ち望み、今は「神からの賜物」あふれる教会の建設と伝道に励んでいます。
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〈説教の要約〉
2024年 12月29日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第1主日
旧約聖書 創世記 2章24節(P.3)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章15節~20節(P.306)
説 教「あなたがたの体は聖霊が宿ってくださる神殿である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である ……Ⅰコリント6:15
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
……Ⅰコリント6:16-17 + 創世記2:24
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
……Ⅰコリント6:18-19
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
……Ⅰコリント6:20
序
使徒パウロは今、地中海世界の諸教会を巡回伝道しています。さまざまな民族や文化・慣習に出合う中で、キリスト教倫理を確立しようとしています。その際、旧約聖書に記載されているユダヤ人の律法や倫理観も一助となりました。そこには、およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範と知恵が収められています。
さて、キリスト教倫理を確立していくときに、最も丁寧に考察しなければならないのは、一体何でしょうか? それこそ、コリントの信徒への手紙 一 1:10-6:20の内容や展開が参考になります。
それは、神の御前にあって、主イエス・キリストとの関係において、人間とはどのような者なのか、ということです。パウロはコリント教会の人々と向き合う議論の端々で、その点について言及しています。
後で、本日のテキストに従ってその要諦を提示しましょう。ただし、キリスト教の観点から人間とはどのような者なのかを知ること、つまり、この世にある信仰者の実体をつまびらかにしていくことには、痛みが伴います。悔い改めるべき問題が暴き出されます。すでにパウロは、ねたみ、争い、裁判ざた、高慢、偶像崇拝、姦淫、貪欲、窃盗、泥酔、陰口(Ⅰコリント3:3、6:7-10)などの罪咎を列挙しています。
しかも当然、どんな罪を悔い改めるのか、は人によって異なります。ということは、キリスト者同士でも、自分と他の人との比較や批判が生じかねないということです。自分と他の人の間で、ねたみや争いがわき起こって、罪咎がいや増すことほど、神を悲しませることはありません。ましてや、無垢で無実な人の献身的な行為が、中傷され罪ありとされるならば……。
パウロは決して規則作りを急いではいません。旧約律法に勝る、主イエス・キリストの掟を差し出して、コリントの人々を論破しようとはしていません。そうではなく、まず、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、という中心命題を掘り下げています。
わたしたち・信仰者は「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:17)と言われるほどに、主イエス・キリストの恵みにあずかっています。わたしたちがその「一部」(肢体・肢)であるとは、「体」を持つ人格的存在であるということです。
言い換えれば、わたしたちは神のかたちに似せて造られ、キリストの兄弟とされている(創世記1:27、マルコ3:24、ヘブライ2:11-12)ということです。そのように、神は人間を造り、守り、支えてくださっています。それ故に、わたしたち・キリスト者の最も大きな目的は、「神の栄光を現す」ということです。
わたしたちは皆、「キリストの体」全体の「一部」であります。その一人ひとりが、神から賜物が与えられ、独立した意志をもって生きています。そうして、「神の栄光」を映し出しながら、キリスト者としての個性を輝かせています。
そのようなキリスト者がこの世で生きていくとき、大切な課題は何でありましょうか?
パウロによれば、それは、罪を避けることとキリスト者の自由(Ⅰコリント6:12-14)を享受することです。そこに、人生における闇と光との闘いがあります。だからこそ、パウロは時に、厳しく禁止の命令を出し、時に、「すでに自由にされた」(ローマ6:18)人生の豊かさを教えようとしています。
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である
コリントの信徒への手紙 一 6:15――
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
パウロは、どのように「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1,9-10、6:9,18)に対処するのか、という課題に切り込んでいます。これは現代人にもよく分かることですが、男女の性に関わる振る舞いというのは、人間の自由と罪の回避とがせめぎ合っているデリケートな問題です。
具体的に言えば、「わたしには、すべてのことが許されている」(わたしは何をするのも自由である Ⅰコリント6:12)とのコリント教会の一部の人々の主張によれば、自ずから性道徳の規範は緩やかになります。近親相姦のような「みだらな行い」は律法に照らして違犯している(レビ記18:8、申命記23:1)と諫めても、「あなたは古い」、「個人の自由を侵害するな」と反論されかねない状況にありました。
パウロは性道徳の向上を見据えながら、ここで、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、との中心命題を明示しています。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」……「体」(ギリシア語:ソーマ)というのは、この段落の鍵語であります(Ⅰコリント6:15,16,18,18,19,20)。この用語によってパウロは、心や魂と「体」とを区分しているのではありません。
そうではなく、「体」というのは、身体的・人格的存在としての人間を指し示しています。つまり、人間の生きていること全体、人の人格全体に関わる観点から、キリスト者とは何かを捉えようとしています。言い換えれば、「体」という実体……性欲や食欲などを含む……に則して、キリスト教倫理を掘り下げようとしているのです。それはまことに理に適っているに違いありません。
わたしたち・信仰者は、「キリストの体」なる教会に属しています。一人ひとりは、その「一部」であります。そのことを、主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とのやさしい譬えで教えてくださいました。確かに、「枝」と呼ばれた方が、「一部」と言うより実感できるでしょう。
冒頭で聖なる「キリストの体」を持ち出して、次節以下で、その「一部」であるキリスト者の「体」を取り上げるという運びになっています。心憎いまでの巧みさです。裏を返せば、「みだらな行い」に浸っている者を、「娼婦の体の一部」の状態から、聖別された「キリストの体の一部」へと回復するのは難しいということなのです。
原文に即すると、「キリストの体の一部を取り去って、娼婦の体の一部と成す」という強意的表現になっています。「取り去って……成す」という過程には、サタンの誘惑と人間の堕落が内在しています。「決してそうではない」(断じてそうあってはならない)とのパウロの叱責以上に、父・子・聖霊の御力による奪還・救出を祈り求めねばなりません。
パウロは旧約聖書を援用しつつ、慎重に議論を進めていきます。
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
コリントの信徒への手紙 一 6:16-17――
16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体(=一つの肉)となる」と言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
創世記2:24――
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
パウロはここで、アダムとエバという最も原初的な人間関係、すなわち、男女の結婚、夫婦の結びつきから、「みだらな行い」に伴う人間関係の問題を解きほぐそうとしています。
およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範を視野に入れていることからも、より良いキリスト教倫理を確立しようとしているパウロの意気込みが伝わって来ます。カインとアベル(兄弟)、サラとハガル(女性)、ヤコブとヨセフ(親子)などの創世記の物語に表されている確執と和解とは、今日のわたしたちの交わりの鑑となっています。
確かに、「娼婦と交わる者」と「娼婦」との戯れの交わりは、「男」と「女」との結婚と同列に論じられるものではありません。一方では、神の災いが下り、他方では、神の幸いが与えられます。個別の問題としては、「みだらな行い」と結婚とでは、語るべき戒めや教えの内容も異なります。
しかしそれならば、パウロは旧約聖書まで引用して、何を訴えようとしているのでしょうか?
17節の「しかし」の前後に分けて、二つ指摘しましょう。
一つ目は、「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」という関係の根深さが、「二人は一体となる」との結婚による絆に類比されうるということです。もちろん、前者は一刻も早く解消すべき関係であり、後者は神の永久の祝福のもとにある関係である、という違いがあります。しかし、「娼婦と交わる者」と「娼婦」の交わりは「体」を「一つ」にするという点は、「男」と「女」との結婚も同様です。
そのような論理飛躍のやや大きい内容において、パウロの強調点は、「みだらな行い」を為す「二人は一体となる」、すなわち、「二人は一つの肉となる」〔直訳〕という点に置かれています。
「体」という用語がさらに、生々しい「肉」(ヘブライ語 バサル;ギリシア語 サルクス)という言葉に言い替えられています。パウロの真意は、「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(ローマ7:14)との一句を引用すれば、氷解することでしょう。「肉の人」は「霊の人」または「信仰に成熟した人」と対極にあります(Ⅰコリント2:6,15)。「肉の人」は「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)と一体化するような、抜き差しならぬ「肉」の関係を結んでいます。
要するに、「娼婦と交わる者とその女」は「一つの肉」となって、「罪に売り渡される」というのが、パウロの訴えたかった点です。「一つの体」ならぬ「一つの肉」が密着した状態から、「キリストの体の一部」に回復される道筋を、パウロは「しかし」以下で示しています。
二つ目の主張は、「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となる」との一文に明快です。
「一つの肉」から「一つの霊」へ……筆の運びが冴えわたっています。片や、腐りかけている「一つの肉」、片や、新鮮な息吹の吹きめぐる「一つの霊」、どちらを選び取るべきか、が明瞭になっています。
「しかし」以下の文に、「娼婦と交わる者とその女」や「男と女」という関係が直接的に出てこないのは、なぜ、というのは良い質問です。それは、わたしたち・信仰者は、一つの「体」として「キリストの体の一部」とされている、そこにわたしたちの存在の根拠があるからです。
分かりやすく言えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」との信仰告白が第一で、その後に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)との善い行いが続きます。信仰告白と愛の実践が一つとなっているところに、キリスト者の存在の根拠が在ります。
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
コリントの信徒への手紙 一 6:18-19――
18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
パウロは健全にも、キリスト教の中心命題を軸として、各論に立ち寄りつつ、新しい倫理を打ち建てようとしています。18節-19節の文脈では、「みだらな行い」の罪についての説き明かしから、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との命題へと転じています。
まず、「みだらな行い」の罪についての説き明かしの箇所を読んでみましょう。ここでパウロは、「みだらな行い」の罪を深く認識するために、「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」との類別を試みています。或る事柄を理解するために、対象になっているものを細分化するというのは、意義あることです。
旧約聖書において例えば、敵意を抱き憎しみを込めて人に危害を加えた場合と、故意にではなく思わず激昂して人に危害を与えた場合とを峻別したうえで、刑罰の重さが決められています(民数記35:20-22、申命記19:4-6)。それが、犯行への予防効果になることもあるでしょう。いずれにしても、パウロによる罪の類別は、わたしたちが罪を深く悔い改めるきっかけとなります。
「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」……一体どういうことなのだろうと思われることでしょう。論拠となる文を読み返してみましょう。
「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」……「人が犯す罪はすべて」というのは言い過ぎのようにも思われますが、パウロの意図は、「みだらな行い」の罪を特徴づけることにあります。それほど、「みだらな行い」はこれ以外「すべての罪」と比べて、深刻な問題を孕んでいると、パウロは見ています。
ガラテヤの信徒への手紙5:19-21で、15の罪のカタログが列挙されている、その冒頭には、「姦淫、わいせつ、好色」の三つが置かれています。「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」とのパウロの憂慮が背景にあるのは間違いないでしょう。「仲間争い」や「泥酔」も、「自分の体の中に向かって犯す罪」で、罪人の身心を疲弊させる(参照:H.-D.ヴェントラント)のでは、という反論はさておくことにしましょう。というのも、喫緊の課題は、「みだらな行い」という罪の本性を見極めることにあるからです。
パウロの生きていた時代に勝って、「みだらな行い」が「自分の体の中に向かって」、どれほど大きな悪影響を及ぼすのかについて、今日わたしたちは痛感させられています。性暴力の被害によって、パウロが「体」と称している、身体的・人格的存在としての人間がどれほど傷つけられるのかについて、強い関心が寄せられています。
この点では、ギリシアの町コリントの教会における「みだらな行い」の問題を取り上げ、キリスト教的観点からその罪性を訴えたパウロには、先見の明があったと言えましょう。
「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)なるパウロによって、「みだらな行い」というのは、いわば筆頭格なる罪であることが喝破されました。それは、「体」を汚し、その共犯者または被害者をも「肉」の一体化によって巻き添えにしてしまいます。そうして、「キリストの体」なるコリント教会の「一部」(枝・肢体)の闇を白日のもとにさらけ出しました。
それは、コリント教会の大部分の人々にとって、知りたくもない事実だったかも知れません。しかし、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との中心命題を論じるためには、必要なことでありました。それによって、“ 霊 ” に導かれ畏れをもって、神の言葉を聴き取る姿勢が整えられました。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」……肯定文と否定文による対照によって、主旨が明瞭にされています。主文とその但し書きという構成になっています。
重要なのは、「あなたがたの体」は「聖霊」の住まう「神殿」であるということです。すでに述べたとおり、「あなたがたの体」とは、信仰者の身体的・人格的な存在を指しています。
いちばんの注目点は、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(Ⅰコリント3:17)との教会論を基盤として、個々人のキリスト者が「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」と言われている点です。
コリントの信徒への手紙 一 3章では、パウロは彼が土台を据えた神の建物なる家、すなわち、教会について論じていました。その中で、パウロは「あなたがた」が集って礼拝している所が「聖なる神殿」であると宣言しました。ところが6章の最後に、パウロは教会が「神殿」であると共に、信仰者一人ひとりが「神殿」であると告知しました。
一方、教会が「神殿」であるのは、「イエス・キリストという土台が既に据えられている」(3:11)からです。他方、信仰者が「神殿」であるのは、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる」からです。双方合わせれば、教会とその「体」である信仰者には、「イエス・キリスト」・「神」・「聖霊」によって、聖性が保たれているということになります。それによって、俗なる汚れと罪から切り離されているのです。
そのように、三位一体の神の御力によって罪人が聖別されているわけですから、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」というのは当然の帰結になります。
キリスト讃歌の中に、洗礼者ヨハネについて、「彼は光ではない」(ヨハネ1:7)との但し書きが出てきます。ここで大切なのは、わたしたち・信仰者は、イエス・キリストの光に照らし出されて、自分は何者なのか、理解するということです。この種の自己否定は、いわゆる自己肯定感を低めることにはなりません。むしろ、主イエスに自分が愛されているという信仰により、「キリストの体の一部」として確固たる自己が築かれます。
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
コリントの信徒への手紙 一 6:20――
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
前節を受けて、なぜ「あなたがたはもはや自分自身のものではない」のか、の理由が昭示されます。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」が、その答えになります。
「代価を払って」というのは、端的にはイエス・キリストの十字架と復活の御業を指し示しています。より正確には、主イエスが罪を犯し続けている人間を救うために、十字架上で血を流し犠牲になられたということです。罪の奴隷だった者(ローマ6:17)が、十字架の血という身代金によって、「買い取られ」、新しい主人に結びつけられました。
その点で、わたしたちが「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:15)とされているのは、神の無償の恵みによるものです。今や、一羽の雀ほど(ルカ12:6)に小さき「一部」(枝・肢体)は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とされています。
そこで、「あなたがたは」何を為すべきなのか、ということで、パウロは次のように結びました。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」……文脈に即せば、「自分の体」というのは、ひと度、娼婦の「体」と交わって、「一つの肉」となってしまったものです。罪と死の縄目にがんじがらめになったものです。汚れが染みついて、見るも無惨な状態になってしまいました。
しかし、神はこの世に、イエス・キリストを遣わし、そのような罪人を「代価を払って買い取られ」ました。救われた罪人の「体」は、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」に変えられました。今や「まこと光」(ヨハネ1:9)なるイエス・キリストが、ヨハネのように、わたしたちを「ともし火」あるいは「世の光」として用いてくださいます(ヨハネ5:35、マタイ5:14、Ⅱペトロ1:19)。
さあ、「自分の体で神の栄光を現そう」ではありませんか!
結
「自分の体で神の栄光を現しなさい」……これが、わたしたちのキリスト教倫理において掲げるべき目的です。そこに、キリスト者のほんとうの自由があるのではないでしょうか。というのも、わたしたちは「一つの肉」の塊状態……罪咎の連鎖……から、個性を持つ「一つの体」として解放されたのですから。
この「神の栄光」のもとで、隣人を心から愛することを第一とするキリスト教倫理が確立されることでしょう。暗がりと不条理に満ちた、この世を生きるしるべとして、わたしたちの新しい倫理・道徳が示されますように!
〈説教の要約〉
2024年 12月22日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
待降節 第4主日(降誕前第1主日) クリスマス礼拝
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節(P.164)
説 教「この方こそ神の子である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……ヨハネ1:29
……ヨハネ1:32-33
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
……ダニエル書3:25
Ⅴ この方こそ神の子である
……ヨハネ1:34
結
序
今年は、待降節、そしてこの降誕日の礼拝を通じて、ヨハネ福音書1章を読んできました。
一方、マタイ福音書とルカ福音書では、占星術の学者や羊飼いたちが、赤ちゃん・乳飲み子としてお生まれになった主イエスに出会い、御子を拝むという形で、その降誕が祝われています。他方、ヨハネ福音書では初めに、キリスト讃歌(1:1-16)がうたわれる中で、主イエスの受肉と栄光(1:14)とが闇の世に映し出されています。人物として登場するのは、イエス・キリスト、ヨハネ、そしてモーセ(律法制定者 1:17)の三者のみです。
ヨハネの教会は、1章の神学的または歴史的プロローグ(序文)によって、初めに、イエス・キリストがどんなお方であるか、見て知って信じたのであります。彼らはこのプロローグを通して、信仰を再確認しました。
その点でヨハネ福音書・冒頭の言葉は、新しい時代を開く「初めての子」(ルカ2:6)を囲んで読むにふさわしいものであります。その賛歌によって、御子から人々に恵みが分かち与えられます。
では、本日のクリスマス礼拝において、その歴史的プロローグ(ヨハネ1:19-51)から一つの段落を取り上げましょう。
Ⅰ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
ヨハネ福音書1:29――
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
「その翌日」とは具体的には、ヨルダン川の向こう側・ベタニヤで、ヨハネが祭司とレビ人から尋問された(ヨハネ1:19-28)、次の日ということです。その「日」がケ(日常)だとすれば、「その翌日」はハレ、すなわち、ヨハネが神によって慰められた特別な「日」でありました。
「その翌日」は、ヨハネにとってはクリスマスに相当する「日」でありました。というのも、この世に誕生された主イエスを初めて「見た」からです。これ以前に、主なる神からイエス・キリストについて告げ知らされていた(ヨハネ1:15,30)かも知れませんが、現実にヨハネが主イエスに出会ったのは、この場面が最初になります。
野宿していた羊飼いたちが天使に呼び出されて、主イエスを「見た」(ルカ2:17)ように、ヨハネもまた、荒れ野から引き出されて、御子を目撃することになりました。しかも、「自分の方へイエスが来られた」、すなわち、主イエスの側からヨハネに近づいていったということです。この「日」に、先駆者と来たるべきお方との人生が交わったのです。「まことの光」(ヨハネ1:9)なる主イエスがヨハネと共におられることによって、ヨハネは「光の中を歩む」者となりました(Ⅰヨハネ1:7)。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」……ヨハネはそのような霊的な交わりのもとに、「言」なる主イエスについて証ししました。この重厚な言葉には、主イエスがどのようなお方であるのか、また、福音とは何か、との問いへの答えが含まれています。
そこで、主イエスについてと信仰者についてとの二つの視点から説き明かしましょう。
① 主イエスについて――
「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)……ユダヤ人の過越祭で用いられる「小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない」(出エジプト記12:5)と定められています。従って、「神の小羊」との呼称をもって、主イエスが無垢であり無実のお方であることが宣言されています。主イエスは「罪を犯されなかった」(ヘブライ4:15)にもかかわらず、罪状書きの掲げられた十字架につけられました(マタイ27:35-37)。
しかしなぜ、無実の主イエスが、十字架刑に処せられたのでしょうか? 苦難の僕の詩に、「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:5)というように、その答えが明示されています。
つまり、主イエスは僕の詩の預言の通りに、「わたしたちの罪」のために、嘲りと傷を被り、命を断たれたのであります(イザヤ書53:6,8)。このように、主イエス自らがすべての人の「罪を負った」(イザヤ書53:6,11)のは、人々を罪から助け出すためでありました。主イエスは神の御心により人間に寄り添われました。
「神の小羊」との称号には、そのような深いメッセージが込められていました。それは、ヨハネが「見よ」と呼びかけるに価する、神からの啓示でありました。では、「人の心に思い浮かびもしなかった」(Ⅰコリント2:9)ような啓示を受けて、わたしたちはどのように応答すればよいのでしょうか。
② 信仰者について――
「世の罪を取り除く」……ここで、「世」という言葉を聞き逃してはなりません。すなわち、わたしたちは神に背いて、隣人を裏切り、そうして罪を積み重ねるようになりました。
こうして、多くの人々は “ 霊 ” 的な神の知識に見向きもしなくなり、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)に洗脳されるようになります。自分は罪を犯すまいと決心しても、この世に生きている以上、罪への誘惑は大波のように自分に押し寄せて来ます。
「世の罪を取り除く」……これは単に、人々の眼前から「世の罪」が消え去るという意味ではありません。「恵みの上に、更に恵みを」(ヨハネ1:16)というように、「取り除く」イエス・キリストは大いなる救いの御業を現されます。これはまさに、わたしたちにとっての福音、喜びの知らせです。
主イエスはわたしたちに代わって、罪の重荷を担われます。このようにして、罪の染みついたわたしたちの汚れが清められます。というのも、過越祭において「小羊」が犠牲として屠られたように、十字架につけられて殺されたイエス・キリストがわたしたちの罪すべてを贖ってくださったからです。御子が御自身の命をもって、わたしたちの罪の代価を支払われたのです(Ⅱコリント6:20)。
主イエスは、「世の罪を取り除く」ために、十字架の死を遂げられ、三日後によみがえらされました。それをわたしたちの側から見るならば、自分の罪が無償で赦されたということになります。まことの救い主によって、わたしたちは救い出されました。そのような罪の贖いと赦しが、わたしたちに「恵み」として与えられています。それが福音です。神の御前にひれ伏し悔い改めをもって、喜んで受け取りましょう。
このように、ヨハネが宣教の最初に神より啓示された御言葉は、イエス・キリストの最後を予告するものとなりました。十字架の苦難を超えて三日後に復活されたイエス・キリストは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と呼ぶにふさわしいお方であります。
Ⅱ わたしはこの方を知らなかった
ヨハネ福音書1:30-31 洗礼者ヨハネの言葉――
30「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
キリスト讃歌中のヨハネの証言(1:15)と重ねて、現実に何が起ころうとしているのか、が浮き彫りにされています。特に、ヨハネ自身とイエス・キリストとの関係が、ヨハネのへりくだりのうちに述べられています。
「わたしの後から一人の人が来られる」……わたしたちすべて、天地万物が造られる「よりも先におられた」お方が今、この世に突入して来られました。すなわち、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という「受肉」の出来事をもって、イエス・キリストがわたしたちの前に現れました。
それは、主イエスがわたしたちとまったく同じ人間として生まれ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担われたということを意味しています。「わたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」というほどに、わたしたちの日常生活、喜怒哀楽のただ中に入って来られました。人類の歴史の中に誕生の日が刻まれたことによって、わたしたちは毎年クリスマスを迎えられ、深い慰めと大きな喜びを与えられるようになりました。
「わたしはこの方を知らなかった」……不思議にもこの句が3回も、ヨハネの証しの中に繰り返されています(1:26,31,33)。ここには明らかに、ヨハネの特別な意図が隠されています。しかしなぜ、「知らなかった」というような否定的な言辞を弄する必要があったのでしょうか。
これは、「彼(ヨハネ)は光ではなく」(ヨハネ1:8)との否定による宣言で確認したとおりに、自分の分を越えて過大評価してはならないという戒めです。実際に「知らない」以上、「知っている」と言うのは、欺瞞です。真の証言者の言うことではありません。
それに加えて、ヨハネが3回「この方を知らなかった」と強調しているより大きな理由があります。それが、人間にとって全く未知の方、「新しいお方」が来たことを訴えるためです(松永希久夫)。これによって、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉1:9)との嘆息は、「見よ、これは新しいものだ」との歓喜に変えられました。
それ故に、誰しも「この方を知らなかった」ことを恥じることはありません。むしろ、イエス・キリストに出会って、「知る」機会に恵まれたことを感謝すべきなのです。その「新しいお方」によって、わたしたち一人ひとりに新しい人生が切り開かれます。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。この約束によって、わたしたちは人生の最後まで、安んじて主イエスにゆだねることができます。
「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」……ヨハネの証しはイエス・キリストの到来と共に、現実のものとなっていきます。そして、ヨハネが「水で洗礼を授ける」ヨハネは、「聖霊によって洗礼を授ける」イエスの露払いとなっています。イエス・キリストの “ 霊 ” 性が際立たされています。
「わたしは、水で洗礼を授けに来た」⇒「この方がイスラエルに現れる」との流れ、すなわち、歴史的展開が確認されているのが、最も重要なことです。ヨハネの奉仕全体が、イエス・キリストのために捧げられています。ヨハネ自身が主イエスの到来を待望しています。だから、彼は「主の道を整える」先駆者と呼ばれているのです(マルコ1:3)。
Ⅲ その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である
ヨハネ福音書1:32-33――
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」
ヨハネが主イエスの洗礼について証ししています。文章上やや分かりにくくなっているのは、①主イエスの受けた洗礼と②主イエスの授ける洗礼のことが混ざっているからです。整理してみましょう。
「ヨハネは証しした」という内容においては、①主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことが物語られています。そして、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と証言しています。
ここで皆さんは、①主イエスの受けた洗礼に何の意味があるか、と思われることでしょう。まさにその意義を、ヨハネが伝えてくれています。
その中心点は、「鳩のように天から降って、この方の上にとどまった“霊”」とイエス・キリストとのつながりにあります。それは、主イエスの公生涯全体を見渡せば、分かります。“霊”、すなわち、聖霊がとどまる中で、神から遣わされたイエス・キリストは、十字架と復活の御業を成し遂げられました。
ここで、“霊”が宿らずとも、人を罪から救い出す御業は、神と御子によって遂行されたであろうと、反問されるでしょうか。
しかし、つぶさに見れば、主イエスの公生涯、つまり、降誕から十字架の死に至るまで(ルカ1:47、4:1、23:46)は、“霊”に導かれていることは自明です。その上、キリスト者もまた、“霊”が「天から降って(自分に!)とどまれば」こそ、イエス・キリストの奇しき御業を見て知って信じることができるのです。さらに、わたしたちがいつも主イエスの言葉と行いを思い起こせるように、わたしたちの助け主なる聖霊が教えてくださいます(ヨハネ14:26)。
従って、わたしたちが聖霊信仰の原点に立ち返ろうとするときには、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とのヨハネの証言に戻ればよいのです。それは、“霊”とイエス・キリストとの強固なつながりに倣うということです。
次に、②主イエスの授ける洗礼について理解を深めましょう。
「その人(イエス・キリスト)が、聖霊によって洗礼を授ける人である」……ヨハネはこの言葉を「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、「神」! から聞かされました。ということは、「イエス・キリスト」が「聖霊によって洗礼を授ける」ことの背景に、「神」がおられるということです。
まさにここに、「洗礼は父・子・聖霊なる三位一体の神が執り行われる聖礼典である」、と規定される根拠があります。洗礼者ヨハネは、「神」・「イエス・キリスト」・「聖霊」による聖礼典を信じる人として召し出されました。こうしてヨハネは、「この方を知らなかった」との三重の縛りから解放されました。人から①洗礼を受けるほどの主イエスの謙遜を学んで、ヨハネはへりくだり、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)としての務めを全うしました。
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
ダニエル書3:25――
王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
待降節から降誕日に至ることを覚えつつ、ヨハネの証しの締めくくり(Ⅴ)の前に、関連する旧約聖書を読むことにしましょう。
紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。新バビロニア帝国の王ネブカドネツァル(在位:前604-562年)は、ユダヤ人の若者たちを召し入れ、行政を任せていました。というのも、彼らは神から知識と才能に恵まれ、夢を解く能力を持っていたからです(ダニエル書1:17)。
しかし彼らは、王の側近たちのねたみを買い、王に中傷されてしまいました。そして、だまされた王は激昂して、ユダヤの若者三人、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」を縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込むように命じました(ダニエル書3:8,13,20)。
ところが、炉をのぞき込んだネブカドネツァル王は驚いて言いました……「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える」と。王は、三人が「何の害も受けず」に無事だったうえに、四人目の人物が見えると証言しています。
この「神の子のような姿をしている」者とは、いったい誰だったのでしょうか? 場面状況から言えることは、この人物がユダヤの若者たちに寄り添い、彼らを救出する役割を果たしたということです。信仰深い者たちが危難から脱出できたのは、神が「神の子のような姿をしている」者を遣わしたからです。
こうして、苦しみ悩んでいる時にも「神の子」を待望する信仰が、ユダヤ人共同体の中で受け継がれていきました。およそ600年後に、真の救い主を待ち望んでいる人として、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れました。
Ⅴ この方こそ神の子である
ヨハネ福音書1:34 洗礼者ヨハネの言葉――
「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ここに、わたしたちの間に受肉されたお方が、「神の子である」と証言されています。まことの神でありまことの人であるということが、「神の子」との言葉の内に凝縮されています。神の大いなる救いの歴史において、イエス・キリストが降誕されました。そうして現実に、歴史が「まことの光」に照らされて動き始めました。
Ⅰ.で「その翌日」というのは、洗礼者ヨハネにとってのクリスマスであると述べました。それは、「神の子」の預言が成就した「日」であり、光の降誕祭としてキリスト者によって引き継がれました。
その「日」に、ヨハネは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり「神の子」である目撃しました。「見よ」や「わたしは見た」(ヨハネ1:29,32,34)との句には、神によって見せられたのと意味合いが込められています。
言い換えれば、ヨハネは先駆者として、主イエスの受肉から十字架の死、そして復活までを見せられたのであります。神はヨハネに、クリスマスからイースターに至るまで全体を啓示されたのです。というのも、イエス・キリストは「神の子」としてお生まれになり、「神の子」として十字架の死を遂げられたからです。
マタイ福音書27:54――
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
「見た」という証言者は、ヨハネから「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」に引き継がれました。民族の垣根を越えて、証言者の輪が拡げられました。このように、イエス・キリストは「神の子」として、ヨハネの整えた道を、全生涯を歩まれました。
神の遣わされた御子イエス・キリストが「聖霊によって洗礼を授ける」と、ヨハネは神から告げられました。ということは、この時すでに聖礼典を執り行う教会の基礎が据えられたのであります。その後、イエス・キリストは弟子たちを招いて主の晩餐を催し、パンと杯を分かち与えられました(マタイ26:26-29、Ⅰコリント11:23-26)。ここにまた、もう一つの聖礼典である聖餐の式が「神の子」によって定められました。
洗礼と聖餐とは、終わりの時が来るまで、教会が守り行うべきものであります。何よりもそれらを執り行ってくださるのは、「神の子」、イエス・キリストであるとの信仰が大切です。ヨハネはそのような信仰を持った、最初の人であります。
結
「まことの光」(ヨハネ1:9)のもとに、一人ひとりが「ともし火」(同上5:35)として集められる……それはなんと美しいクリスマスでありましょう。静けさの内に幕開けし、「ともし火」の一つひとつによって、御子降誕の喜びが証しされ物語られます。そうして、「まことの光」が照り輝き、そのもとで皆が賛美のうちに一つにされるのは、何と幸いなことでしょう。
メリー・クリスマス、皆さんに、神の祝福がありますように!
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〈説教の要約〉
2024年 12月15日
旧約聖書 出エジプト記 33章20節(P.150)
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章14節~18節(P.163)
説 教「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
……ヨハネ1:14
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
……ヨハネ1:15
Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
……ヨハネ1:16
Ⅴ 父のふところにいる独り子である神
……ヨハネ1:17-18
序
アドベント・待降節の第3主日を迎えました。来たる主日には、クリスマス礼拝が行われます。
本日は、ヨハネ福音書の神学的プロローグ(序文)の最終部分を読みます。一つの讃美として、イエス・キリストの誕生・受肉の意味が書き表されています。キリストの誕生について知れば知るほど、自分の信じているキリストがどういうお方なのか、がしっかりと捉えられます。
改めて言うまでもありませんが、受洗すると、人はキリスト者と呼ばれるようになります。それほどまでに、主イエス・キリストとわたしたちの関係には深いものがあります。
受洗の日からキリストに倣う生活が始まります(ローマ15:5)。キリストの言葉と行いにふさわしく生きてゆこうとの思いが、キリスト者の生活を造り上げます。キリストがいつもその生活の根底を支えてくださいます。
キリスト者は独りではありません。というのも、イエス・キリストという土台の据えられた教会(Ⅰコリント3:11)で、礼拝を行うと同時に信徒の交わりが深められるからです。そうして、わたしたちは皆、ますますキリストに似せられた者となります。
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
ヨハネ福音書1:14――
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
この一節には、主イエス・キリストの降誕のメッセージが集約されています。
主の降誕を、「誕生」と言えば、人間の出生と何ら変わらないものとなります。しかし、主の降誕は、単なる「誕生」ではなく、「受肉」として受け止めるべきものであります。
その「受肉」のことが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書き表されています。ここで、「言」は「イエス・キリスト」(ヨハネ1:17)を指しており、「言は神であった」(同上1:1)と明示されています。
すなわち、まことの神が、「肉となって」まことの人として誕生したことを、信仰上忘れてはならないこととして、「受肉」と呼んでいるのです。主イエスはわたしたちとまったく同じ人間になられ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担う者としてお生まれになりました。
それがいかに特別なことであるか、あるいは、それがいかに神の救いの計画にふさわしいものであるか、「わたしたちの間に宿られた」以下の文章に表されています。
「わたしたちの間に宿られた」……御子イエス・キリストが天の栄光の座からこの地へと降って来られたということが、独特な言葉で表されています。すなわち、イスラエルの民の荒れ野放浪をしのばせるかのように、「言はわたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」と告げられています。
旧約聖書によれば、40年間の荒れ野放浪というのは、民が不平をつぶやくことが多く、罪と汚れに満ちていました(出エジプト記16:35、民数記14:33)。モーセが繰り返し、乳と蜜の流れる地に導かれるという主の託宣を取り次ぎましたが(出エジプト記3:8、申命記31:20)、民の大多数はその希望に依り頼むことはありませんでした。偶像崇拝に傾いて、ただ生き延びることしか考えなくなりました。
従って、「言はわたしたちの間に天幕を張った」というのは、荒れ野放浪における民の罪科や背信を打ち破るような新たな告知でありました。主イエス・キリストが「わたしたちの間に天幕を張った」ことによって、かつての天幕生活の失態が払拭され、ここに新しい時代が始まりました。「それゆえ」(イザヤ書7:14)、主キリストが先手を打って、民の頑なさと背きを打開されたということです。
もともと、この「天幕」または「幕屋」(ヨハネ黙示録7:15)は移動生活の中で使われるものです。主イエス・キリストがこの地上に「天幕を張った」と言うことによって、主イエスがわたしたちの人生の旅路に同伴してくださることが内示されています。まことに主イエスはいつも「わたしたちの間に」におられます(マタイ28:20)。
「わたしたちはその栄光を見た」……これぞまさに、クリスマスの出来事そのものです。本来、天の父なる神のものである「栄光」が「わたしたち」の眼前に現れ出てきました。御子イエス・キリストの「受肉」によって、「主の栄光」が「わたしたち」の周りを照らしました(ルカ2:9)。
ルカ福音書には、羊飼いたちが、ベツレヘムに生まれた乳飲み子を「見た」ということが、以下のように強調されています。
ルカ福音書2:12,15,16,20――
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。…… 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…… 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
羊飼いたちは、「主の栄光」の輝いている幼子を目撃しました。主イエスの降誕を「見た」ことによって、羊飼いたちは証言者となり、それがまた、彼らの信仰への導きとなりました。
「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」……これはまさに、主イエスの「受肉」に伴って歌われた讃美であります。「父の独り子」としてこの世に遣わされたお方が、わたしたちに「恵みと真理」を与えてくださいます。
この「真理」こそが、わたしたちを偽善や偏見から解放します(ヨハネ8:32)。こうしてわたしたちは、「主の栄光」に照らされ、この「真理」を杖として自分の足でしっかりと立つことができるようになります。
なお、「恵み」については、後の節で重ねて出て来ますので、Ⅳ.で説き明かします。
ここで、「わたしたちはその栄光を見た」との文に関連して、果たして神を見ることができるのか否かという問いと答えを確認しておきましょう。
Ⅱ あなたは神の顔を見ることはできない
出エジプト記33:20――
また(主はモーセに)言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
これはあくまでも、主なる神とモーセとが言葉を交わしているこの場面での話ということになりますが、モーセは「神を見ることはできません」。“ 霊 ” に導かれた「神の人」モーセ(申命記33:1)において、「神を見る」ことが許されないならば、当然イスラエルの民もまた、「神を見ることはできない」と類推されます。
しかし、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との厳格な託宣が置かれている文脈を見誤ってはなりません。確かに、神は、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う」(出エジプト記33:22)との具体的な説明と共に、「神を見ることはできない」と告げられています。
しかし、「神を見ることはできない」が、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、神は執り成してくださっています。
一つは、神がモーセに「臨在の幕屋」を造るように指示されたことです。これは、宿営の外に張られた一つの天幕であります。モーセがこの幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て、主はモーセと語られました(出エジプト記33:7-11)。
もう一つは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト記33:19)との御言葉によって、「主の栄光」を現す(同上33:18 他に同上24:16、40:34)ことを約束されたことです。
「金の子牛」を造って偶像崇拝に浸ったばかりの民(出エジプト記32:1-6)、悔い改めの不十分な民、あるいは、神を畏れることを知らない民にとっては、神からのあり余る「恵みと憐れみ」ではないでしょうか。「神を見ることはできません」が、「臨在の幕屋」と御言葉を通して、罪深い民は神の臨在に触れることが許されました。
この場面では、民の指導者モーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との裁きの言葉が下りました。しかし、モーセが民の罪に絶望しそうになる中で、主イエス・キリストの降誕に係わる預言が示されました。すなわち、「臨在の幕屋」を造れとの指示が預言として、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との成就につながっていくということです。そこで、神と人間と親しい交わりが築かれます。
主なる神は、神のいますことを告げたモーセの後継者として、洗礼者ヨハネを遣わされました(ヨハネ1:6)。
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
ヨハネ福音書1:15――
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
神学的プロローグ、キリスト讃歌の中に、二度にわたり洗礼者ヨハネについて言及されています。ヨハネは、人々を悔い改めに導くために(マルコ1:4)、人間の心の闇へと分け入っていきました。主イエスはヨハネの働きを、「