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                                                   礼   拝

 

礼拝は、神と人との交わりの場、出会いの時です。み言と聖餐を通してキリストを受け、祈り、讃美、信仰告白、献金などを通して、みずからを神に献げます。私達の信仰と生活の原点がここにあります。

 

次週の礼拝 
              聖霊降臨節第2主日礼拝

                 

                                

               

  

    2018・5・27(午前10時15分~11時30分)

 (*支障のない方はお立ち下さい)
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      * 交読文      24 詩編95編

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                     祈祷           
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礼拝説教

 

「神の霊によって神を信じ、告白する」
コリントの信徒への手紙一12章1節~11節
ハバクク書2章18節~20節
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「聖書を開いて読むイエスさま」大人と子どもの合同礼拝
ルカによる福音書4章16節~30節
イザヤ書61章1節~3節
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「聖書はイエスについて証しをする」
ヨハネによる福音書5章31節~47節
申命記18章15節
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「山の麓に連れて来られた民」
出エジプト記19章1節~25節
ペトロの手紙一2章9節
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説  教 (月報より)

  

 

4月説教

あなたがたの不平を主が聞かれた  

 

出エジプト記 16章1節~12節 

            小河信一 牧師

 

 

 

先週の説教、出エジプト記14:15-31「海の中を通り抜ける民」に引き続きまして、今日も出エジプト記の講解説教を致します。

 

前回は、イスラエルの民が、(たぐ)(まれ)なる神の救いの力にあずかったという場面でした。そこで私たちは、(あし)の海の水が分かれ、荒れ野の逃れ道に導かれるということは、洗礼を(さず)けられ、聖餐のパンと杯を備えられることと福音的につながっているのだ、と教えられました(Ⅰコリント10:1-4参照)。

 

しかし、そのような神の大きな救いを経験しながらも、イスラエルの民はすぐに罪の誘惑に引かれてしまいました。私たちは今、十字架の主の御前に、深く罪を(ざん)()する受難節の時を過ごしています。神に救われながらも、なぜ人は罪を犯すのか、イスラエルの民の出来事を知り、私たち信仰者の歩みを省みたいと思います。

 

人間の罪にはさまざまありますが、出エジプト記16章(:2-3)には、不平を述べ立てることが挙げられています。私たちは、不平を言ってはいないでしょうか、あるいは、心に不平不満を()め込んではいないでしょうか。イスラエルの民が不平を鳴らしたのは、ひと筋の逃れの道(Ⅰコリント10:13参照)である荒れ野の旅路でした。どのような旅だったのでしょうか?

 

出エジプト記16:1――

 

イスラエルの人々の共同体全体はエリムを出発し、エリムとシナイとの間にあるシンの荒れ野に向かった。それはエジプトの国を出た年の第二の月の十五日であった。

 

「エジプトの国を出た年の第二の月の十五日」と言いますから、この出来事は、出エジプトから45日目だと分かります。イスラエルの民が、旧約聖書中の、神の最大の奇跡の一つ、紅海()(しょう)を経験して、まだ日が浅いのです。

 

この45日目に、エリムからシンの荒れ野に入りました。これは例えるなら、前日・高級リゾートホテルから本日・民宿へと宿替えしたようなものです。神のユーモアすら感じさせる()(ぜん)とする落差ですが、私たちの人生には、時にこのようなことが起こります。

 

エリムは、約束の地に至る行程の第2の宿営地(第1はマラ)で、「そこには十二の泉があり、七十本のなつめやしが茂っていた」(出エジプト記15:27)という砂漠の中のオアシスです。

 

それに対し、シンはシナイ半島の広大な荒れ野です。米国の注解者、T.E.フレットハイムは、「シン(ヘブライ語では原意不明)は英語の Sin「罪」ではない、だが、ここではそれが適切だ」と述べています。野宿など環境の劣悪さか、人間そのものか、という原因追及はともかくも、確かに民は、Sin「罪」の荒れ野をさ迷うことになりました。

 

金の子牛を崇拝した事件(出エジプト記32章、申命記9章)、カナン偵察における弱気の報告(民数記13章-14章)などを見渡すならば、零年の45日目から40年の時が満ちるまで、民の不満やつぶやきは解消されなかったようです。初めから終わりに至るまで、荒れ野放浪において、民は情けない姿(大多数のユダヤ人が出席する過越祭で朗読される)をさらけ出しています。

 

そうした中で大切なことは、忍耐をもって罪深い人間を救い出してくださった神の救いの御手(出エジプト記14:31)、神の恵みに目を向けることではないでしょうか。私たちの罪や弱さに向き合った上で、ほんとうに光が当てられなければならないのは、神の偉大さだということです。

 

さて、イスラエルの民が不平を述べ立てたとき、誰に向かって、また、何について、そうしたのか、見てみましょう。

 

出エジプト記16:2-3――

 

2 荒れ野に入ると、イスラエルの人々の共同体全体はモーセとアロンに向かって不平を述べ立てた。3 イスラエルの人々は彼らに言った。

 

「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った(なべ)の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を()え死にさせようとしている。」

 

民は神に向かって叫びを上げる(出エジプト記14:10,1516:8,9)こともありますが、しばしばモーセやアロンがその矢面に立たされています(出エジプト記15:2416:217:3)。つまり、人は目の前にいる「責任者」を標的にするということです。そして、人間はさまざまな問題についてつぶやきますが、ここで食糧・パンへの欲求が露わになっています。

 

イスラエルの民はエジプトでは奴隷でした。ですから、「あのときは肉のたくさん入った(なべ)の前に座り、パンを腹いっぱい食べられた」というのは、誇張です。「肉のたくさん入った(なべ)」が日常食であったとは考えられません。あまりにもエジプトの生活を美化し過ぎています。

 

ここに、人が不満を述べるきっかけを見て取ることができます。すなわち、過去の生活を異常に美化してしまうということです。すると、今の生活に対する不満足が湧き上がって来ます。

 

エジプトへ帰ろうとすることは、何よりも、旅の前進を(はば)むものとなり、また、同行者の間に分裂を引き起こす()(だね)となりました。

 

その様子を心に留められた神は、日常生活の中にある神の賜物を指し示すかのように、「夕暮れに…朝に…」食べ物を与えられました。

 

出エジプト記16:6-7,8――

 

6 モーセとアロンはすべてのイスラエルの人々に向かって言った。「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り、7 朝に、主の栄光を見る。」

 

8 モーセは更に言った。「主は夕暮れに、あなたたちに肉を与えて食べさせ、朝にパンを与えて満腹にさせられる。」 他に、出エジプト記16:12

 

主なる神は、第一日目から第六日目まで、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5他)との繰り返しのうちに、天地創造を成し遂げられました。その神が、荒れ野を行く民に、「夕暮れに…朝に…」、食べ物を与え満腹させるというのです。見よ、天地創造の一週間を全うされた神が、あなたの七日の旅路を守るというのです。()(よく)なエジプトに、ではなく、神にこそ、依り頼むべきです。

 

出エジプト記16:6の言葉の冒頭に、「夕暮れに、あなたたちは、主があなたたちをエジプトの国から導き出されたことを知り」と告げられているのは、大切です。私たちに、パンは日用の糧として必須ですが、それ故にこそ、まず私たちに求められているのは、「主があなたたちをエジプトの国から導き出された」と宣言されている主なる神を信じることです。この句は、十戒の前文(出エジプト記20:2)にも記載されています。

 

難しいことではありません。夕べの食卓で、神に感謝の祈りをささげ、それから食事をいただくという私たちの日常の中に、神信仰を宿すのです。いつ私たちに忍び寄って来るかもしれない疲労と空腹は、まさに悪魔の手先です。天地創造以来、神が、「夕暮れに…朝に…」私たちを見守っていてくださる(列王記上17:6)ことを覚えたいと思います。それによって、私たちの不平不満(殊に英語で言うところの murmur「ぶつぶつ不平をもらす」こと)は、神への感謝と喜びへと変えられることでしょう。

 

ところで、昨日私は自分の聖書通読で、マタイ福音書20章を読みました。

 

マタイ福音書20:11-12 ぶどう園の労働者のたとえ――

 

11 それで、(夜明け〔最初〕に雇われた人たちは1デナリオンを)受け取ると、主人に不平を言った。12 「最後に来たこの連中は、一時間しか働きませんでした。まる一日、暑い中を(しん)(ぼう)して働いたわたしたちと、この連中とを同じ扱いにするとは。」 

 

自分たちは暑い日中、汗水()らして働いたのに、この連中は夕方涼しくなって一時間しか働かなかった、というある意味、真っ当な不平です(こちらは英語で言えば complain「文句を言う・訴える」でしょうか)。しかし、自己中心に変わりなく、神の恵みの大きさに気づいていません。

 

マタイ福音書20:20-21 ヤコブとヨハネの母の願い――

 

20 そのとき、ゼベダイの息子たちの母が、その二人の息子と一緒にイエスのところに来て、ひれ伏し、何かを願おうとした。21 イエスが、「何が望みか」と言われると、彼女は言った。「王座にお着きになるとき、この二人の息子が、一人はあなたの右に、もう一人は左に座れるとおっしゃってください。」

 

我が子を愛する母の愛です。誰も制止できません(主イエス以外には 20:22以下参照)。しかし、将来の不安にかられていないでしょうか。とりわけ、今私たちの知り得ない天国のことですから、神のとりなしをゆだねるべきでしょう(新約に出ている不平の例:ルカ15:29-30)。

 

では、私たちはどうすれば、つぶやきや不平に打ち勝つことができるのでしょうか? どうすれば、自己中心の自分から繰り出される不平という難敵を打ち払うことができるのでしょうか?

 

テサロニケの信徒への手紙 5:16-18――

 

16 いつも喜んでいなさい。17 絶えず祈りなさい。18 どんなことにも感謝しなさい。これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです。

 

それは、不平と闘うことではありません。つぶやくまいと頑張ることではありません。不満を訴えた自分を責めることもありません。

 

「あなたがたの不平を主が聞かれた」(出エジプト記16:7,8、民数記14:27)のですから、「今日」(ヘブライ3:7,13,15)は、主にあって喜び、祈り、感謝するのです。「今や、恵みの時、今こそ、救いの日」です(Ⅱコリント6:2)。

 

シンの荒れ野で、朝にパン……すなわち、マナという霊的なパン……が与えられた(出エジプト記16:8,12)ということとの対応で、新約から次の箇所を選びました。

 

ヨハネ福音書6:48-51 主イエスの言葉――

 

48「わたしは命のパンである。49 あなたたちの先祖は荒れ野でマンナを食べたが、死んでしまった。50 しかし、これは、天から降って来たパンであり、これを食べる者は死なない。51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」

 

この箇所を説き明かす前に、確認しておきたいことがあります。それは、(出エジプト記16章との連関で)非常に興味深いというか、情けないというか、霊的な食べ物であるパンのことについて、ユダヤ人たちが「つぶやき始め」、「つぶやき合う」ということが描出されています。このつぶやきは、主イエスが私たちに分かち与えてくださる「命のパン」に関わるものであり、私たちの信仰の問題そのものですから、深刻です。

 

ヨハネ福音書6:41-43 主イエスの言葉――

 

41 ユダヤ人たちは、イエスが「わたしは天から降って来たパンである」と言われたので、イエスのことでつぶやき始め42 こう言った。「これはヨセフの息子のイエスではないか。我々はその父も母も知っている。どうして今、『わたしは天から降って来た』などと言うのか。」 43 イエスは答えて言われた。「つぶやき合うのはやめなさい。」

 

「つぶやき合う」の原文は、「互いにつぶやく」です。つぶやきとつぶやきとがぶつかり合います。そうして、人々の間に不平が増幅してゆき、騒然(そうぜん)とした事態に陥ります。

 

ところで、このように旧新約聖書が描写している人間の不平やつぶやきというのは、一体、何が問題なのでしょう。

 

コリントの信徒への手紙 10:10:14 先祖の荒れ野放浪を回顧しつつ――

 

10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。

 

14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。

 

パウロは、不平を述べ立てることと偶像を拝むことを、並行して言及しています。不平を言った者が滅ぼされたというのは、結局、その人が神を信頼しなかったからです。神は、私たちの体の命を支配しておられます。それが分かるように、生ける神のしるし(奇跡)を与えてくださいと、或る人は言います。しかし、すでに神がしるしを与えておられるにもかかわらず、その人は神を信頼しようとしません。そうなると、「もっと欲しい」という貪欲(どんよく)(出エジプト記16:19-2020:17)は際限なくなり、つぶやきだけが積み上げられていきます。

 

主イエス・キリストにあって「満ち足りている」(Ⅰテモテ6:8)ならば、主イエスに結び付いているならば、私たちはそんなにつぶやくことはないでしょう。

 

出エジプト記16:15――

 

イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろう(ヘブライ語原文:マン フー)と、口々(くちぐち)に言った。彼らはそれが何であるか(同上:マ フー)知らなかったからである。モーセは彼らに言った。

 

「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」

 

ここには、「マナ」というパンについて、名前の由来が明かされています。つまり、「マナ」とは本来、「これは何」という物だったというのです(言語学上ではなく民話的説明・()(らい)(たん)です)。荒れ野で突然、天から降って来て、自分たちの腹を満たした物に対する驚きと不可思議さが、「これは何」という言葉に込められています。大切なことは、イスラエルの民が「これは何」と叫びつつ、マナを集めて、このようなしるし(奇跡)を与えてくださった神に感謝したということです。神の民はその感謝を日々、新たにするために、「これは一体何」という神への驚きを反芻(はんすう)するのです。

 

このマナにまつわる疑問は、私たちにとっても重要です。すなわち、神が与えてくださる日毎の糧を、人々は「これはパンだ」と何の疑問もなく食べ続けたというのではないのです。「見よ、わたし(主)はあなたたちのために、天からパンを降らせる」(出エジプト記16:4)というパンについて、人々は口々(くちぐち)に「これは一体何」と驚きの声を上げたのです。さらに言えば、6日目には、それを二倍の量集めることができ(出エジプト記16:22)、また、7日目には降って来なかったというのも不思議です。

 

パウロは、荒れ野の民を導いた神の偉大なる奇跡を、福音的・救済論的に、聖餐論に結び付けています。

 

コリントの信徒への手紙 10:1-4――

 

1 皆わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられ、3 皆、同じ霊的な食物を食べ4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。

 

コリントの信徒への手紙 10:16――

 

わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。

 

この(くだり)は、主イエスがパンと(さかずき)を取って宣言される「主の晩餐の制定」へと至ります(Ⅰコリント11:23-26)。つまりパウロは、イスラエルの民の紅海渡渉と荒れ野放浪……「海を通り抜け、霊的な食物を食べ」……から説き起こして、洗礼と共に聖餐の深意を語っているのです。そうでなければ、パンと(さかずき)の霊的な意味、ありがたさが分からないと言うのです。

 

霊的な食物」というのは、目で見、食してすぐ分かるような食べ物ではないということでしょう。パウロがその霊的な意味を、「パンは、キリストの体にあずかること」、と説き明かしました。信仰をもって、聖餐のパンを受け取り、「これはキリストの体である」と信じて食するのです。まさに、「わたしは命のパンである」(ヨハネ福音書6:48)との御言葉を信じて……

 

そうだとすれば、私たちが聖餐のパンをさずかる前に、いったん立ち止まって、「これは一体何」と(おも)うのは、意義あることでしょう。「これは一体何ですか」、主よ、お教えください、との姿勢が大切なのです。

 

この説教後に、聖餐式が執り行われます。その時、配られる均一の大きさのパン(元は食パン)、洗礼者に公平に配られるひとかけらのパン、「これは一体何ですか」と問いかけていただきたい。荒れ野を行くイスラエルの民は、そういう思いの中で、マナを受け取り続けたのです。

 

私たちは、「主イエス・キリストが命のパンである」と信じて、聖餐にあずかります。そこで私たちは、十字架にかかり、罪を贖い、そしてよみがえられた主イエス・キリストが取って、私たちに分けてくださるパンを味わい食べます。毎月、新鮮な驚きをもって、これはどんなにすばらしい食べ物であることか、と感謝し噛み締めたいと願います。

 

荒れ野放浪の40年の間、指導者・モーセを含めて(民数記20:12、申命記4:21)、イスラエルの民は情けない姿をさらし続けてきました。御言葉を聞いても、人々の心がかたくなで(原意:()からびていて)、生ける神から離れそうになっていました(ヘブライ3:9-10,12)。実際に、コラ、ダタン、アビラムは徒党を組んで、モーセとアロンに反逆しました(民数記16:1-3)。約束の地をめざしているモーセに、「我々は行かない」と反旗を翻しました(民数記16:14)。彼らは荒れ野の旅から脱落し、裁きを受けて滅ぼされました。

 

主イエス・キリストは、シン(Sin「罪」)の荒れ野を旅した先達たち及び私たちに寄り添うかのように、40日間の「荒れ野の(こころ)み」を経験されました。

 

おそらくイスラエルの民は、(聖書の証言は飛び飛びですが)45日目から40年が満ちるまで、不平を述べ立てることを止めなかったでありましょう。しかし、主イエスは、そのような人間の弱さや罪深さに手を差し伸べてくださいました。疲労や空腹が罪への(わな)となる荒れ野を体験してくださいました。それは、主イエスがガリラヤ伝道に入る前のことであり、自分は罪人に寄り添い、罪人を救い出すのだという宣言ではなかったでしょうか。

 

見事に、エジプト脱出後の40年の荒れ野の放浪と、主イエス40日の荒れ野の誘惑とは並行しています。

 

マタイ福音書に()れば、主イエスが“霊”に導かれて受けられた誘惑は、次のようなものでありました。

 

①食欲を満たしてみないか。マタイ4:3-4

 

イスラエルの民は飢え渇いた時、モーセに不平を述べ立てました。

 

出エジプト記15:2416:2-3

 

②父なる神を(ため)してみないか。マタイ4:6-7

 

イスラエルの民は荒れ野で水を求め、主に(いど)みかかりました。

 

出エジプト記17:2、詩編95:9

 

③神以外のものに寄り頼み、この世の繁栄を手に入れてみないか。マタイ4:9-10

 

イスラエルの民は山のふもとで金の子牛を拝みました。出エジプト記32:1-6 

 

このように、荒れ野放浪においてイスラエルの民が陥ってしまった誘惑を、主イエスも経験されています。もちろん双方には、大きな違いがあります。イスラエルの民はそこで罪を犯してしまいましたが、主イエスが御言葉をもって、三つの誘惑を退(しりぞ)けられました。主イエスは悪魔の誘惑に打ち勝たれたのです。

 

それは、神、主キリストは、大きな罪、何重もの罪を犯してしまう人間を見捨てておられないということを現しているのではないでしょうか。同時に、私たちに向かって、罪に打ち勝つ道をお示しになったのです。

 

その意味では、いつも私たちと共におられる神として、主イエスは「あなたがたの不平を主が聞かれた」、つまり、私たちのうめき・つぶやき・不満を主イエスは受け止めてくださったのです。

 

マタイ福音書6:34 主イエスの言葉――

 

「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。」

 

 

 

 

 

 

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