礼拝、説教

主日礼拝                                                                                                2022年 12月4日  

    待降節 第2主日(降誕前第3主日)    

  

招き   前奏

招詞   詩編30編 2節~3節

頌栄   539

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  94

交読文  43 イザヤ書53章

旧約聖書  創世記 7章1節(p.9)
新約聖書  ルカによる福音書 1章1節~10節(p.99)

賛美歌   129

説教   「  神の御前に正しい夫婦 」                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                 

                 小河信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  Ⅱー157

使徒信条    

聖餐式     

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2022年12月4日「神の御前に正しい夫婦」
創世記7章1節
ルカによる福音書1章1節~10節
221204_0179.MP3
MP3 オーディオファイル 32.3 MB
2022年11月27日「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」
詩編105編1節~6節
コリントの信徒への手紙二 13章11節~13節
221127_0177.MP3
MP3 オーディオファイル 28.1 MB
2022年11月20日「イエスの十字架のそばには、その母が立っていた」
詩編22編19節
ヨハネによる福音書 19章16節後半~27節
221120_0175.MP3
MP3 オーディオファイル 26.4 MB
2022年11月13日「わたしの最上の喜び」
詩編137章1節~9節
ルカによる福音書6章21節
221113_0174.MP3
MP3 オーディオファイル 30.9 MB
2022年11月6日「聖なる者たちに歓迎されるように」
エズラ記6章18節
ローマの信徒への手紙15章30節~33節
221106_0173.MP3
MP3 オーディオファイル 25.4 MB

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〈説教の要約〉

2022年 12月4日                             

待降節第2主日(降誕前第3主日) 

旧約聖書 創世記 7章1節

新約聖書 ルカによる福音書 1章1節~10節

        「神の()(まえ)に正しい夫妻

           小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 人々が伝えたとおりに         ……ルカ1:1-2             

Ⅱ すでに教えを受けられた事柄について  ……ルカ1:3-4  

Ⅲ 神の御前に正しい夫妻                  ……ルカ1:5-6    

Ⅳ 不妊と高齢に直面する夫妻        ……ルカ1:7-10            

Ⅴ 正しいノアと救いの計画を立てられる神  ……創世記7:1   

結 

 

主イエス・キリストの言行を伝える四つ福音書の中で、その誕生物語において、ルカ福音書には際だった特徴があります。それは、主イエスの誕生の前に、洗礼者ヨハネの誕生が記されているということです。

すなわち、ヨハネは主イエスの先駆者として、これから起こることを告知しています。それを、旧新約聖書の大きな観点から言い直すと、こうなりますザカリアエリサベト夫妻とその子ヨハネの出来事において、旧約の〈約束〉が回想され、それが、ヨセフマリアの夫妻とその子イエスの出来事によって〈成就〉するということです。

その意味で、主イエス・キリストの降誕は、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という出来事であったと確認されます。神が、人間の「」の中に乗り込んで来られました。これに先駆けて、ひっそりと山里に暮らしていたザカリアエリサベトの人生が大きく変えられました。

わたしたちは、順序正しく書いて」(ルカ1:3というルカ福音書の特徴に関して、約束成就という順序正しさを見逃してはなりません。この第一巻(=ルカ福音書 使徒1:1)の「順序正しさ」には、何よりも神の救いの計画と実現、その「驚くべき御業と奇跡」(詩編105:5)が映し出されています。そのように、「第一巻」が整序された形で書き上げられたので、そこに聖霊が働いて、「第二巻」なる使徒言行録が()まれることになりました。

その「物語(ルカ1:1一つひとつが、わたしたちの思いを超えた、驚くべき出来事だからこそ、正しい道案内が必要なのです。著者はその期待に応えて、「敬愛するテオフィロさま」(同上1:3)はじめ信仰者または求道者に向けてガイダンスを書きました。

ルカ福音書1:1-4プロローグ(序文)になります。に分けて読みましょう。

 

Ⅰ 人々が伝えたとおりに         

ルカ福音書1:1-2――             

1-2 わたしたちの間で実現した事柄について最初から目撃して御言葉のために働いた人々がわたしたちに伝えたとおりに、物語を書き連ねようと、多くの人々が(すで)に手を着けています。

自分の福音書の書き方を論じる前に、ルカは、どのように「多くの人々(すで)に手を着けた」のか、簡明に記しています。信仰の先達を尊ぶ、著者の謙虚さがうかがわれます。そうして、先行例を探究することが、新しいものをつくり出す(もとい)となります。

ルカが汲み取っている、「多くの人々」が著したものの特徴を、原文の順に沿って、三つ挙げましょう。

    わたしたちの間で実現した事柄について――

ヨハネ福音書1:14と響き合うように、ここにまた、わたしたちの間でとの句が出てきました。十字架の死と復活は、わたしたちの間で起こったものであり、わたしたち罪人を救うための御業でありました。それは、まさに「わたしたち」が信ずべきことの核心です。ルカ福音書においても、ヨセフマリアの夫妻とその子イエスの出来事によって〈成就〉したことに光が当てられます。そこで、わたしたちは「わたしたちの間で実現した事柄について」、十分に理解することが求められます。

一方、神が御子イエス・キリストを遣わして、これらの事柄(複数形)を「実現した」、他方、その神の愛と正義の御業が「わたしたちの間で」起こり、「わたしたち」の信仰を揺るぎないものとした、ということです。殊に(あと)の点敬愛するテオフィロさま」(同上1:3)はじめ信仰者にとって、主イエス・キリストによって成し遂げられた「事柄」が、信仰の核心に置かれていないならば、一日も早く悔い改めねばなりません。

そのために、あなたのそばに、「順序正しく書かれた」ルカ福音書があります。これは、その続編・使徒言行録と共に、「終わりの日」に至るまで、あなたにとって座右の書となります。

わたしたちに伝えたとおりに――

さりげなく書かれていますが、これは、わたしたちの信仰の基本姿勢に関し、とても大切なことです。パウロの、聖餐式にまつわる有名な言葉、「わたしがあなたがたに伝えたことは、わたし自身、主から受けたものです」(Ⅰコリント11:23)を思い出されることでしょう。パウロがコリント教会の人々に「伝えた」ことは、元々、「主から受けたもの」でありました。そのようにして、伝えられたものの中に、神の御心があらわされていました。だからこそ、「伝えられたもの」に、何か付け加えることもなく、何か取り去ることもなく、そのまま「受け」ねばなりません(ヨハネ黙示録22:18-19)。

なおかつ、「(伝道者が)わたしたちに伝えたとおりに」との基本線は、これから福音書を書こうとしているルカにとっても、(テオフィロさまが)お受けになった教え(ルカ1:4 新共同訳)すでに教えを受けられた事がら(新改訳)を重んじる態度によって継承されました。

    最初から目撃して――

さらに、この③からも、「(福音的な)事柄」または「物語においては、信仰者の見て聞いて信じたことが土台になっていることが分かります。

直訳すると、「最初からの目撃者たち……わたしたちに伝えたとおりに」となります。

では、「最初からの目撃者たち」とは一体、どのような人々を指すのでしょうか?

目撃者」として、代表的なのは、「使徒」でありましょう。元々、使徒とは、「神から遣わされた者」の意です。いつも主イエスに結び付いて、神と人とに仕えている者が、「使徒」なのです(ルカ福音書ならびに使徒言行録に「使徒」という用語は34回というように頻出しています)。

また、使徒たちと共に、多くの女性たちが、主イエス・キリストによって生かされていました(ルカ24:10、使徒1:14)。彼女たちがそのように生かされているのは、「生き、十字架につけられて死に、よみがえり、天に昇って行かれた」主イエス・キリストを、救い主と信じていたからです。自分たちに与えられた救いは、神の恵みにほかならない、と「伝える」ことが、彼女たちの使命でありました。

要するに、「最初からの目撃者たち」とは、「主の復活の証人」として立たされた者でありました(使徒1:22)。プロローグ見るように、ルカは「わたしもまた……書くのがよいと思います」(ルカ1:3)と宣告していますが、先行する「最初からの目撃者たち」または「多くの人々」が書いて「伝えた」ことを受け止めることのできる人でありました。

順序正しく書いて」(ルカ1:3)というのは、「順序」(歴史または論理展開)を最優先にして、他の人が「わたしたちに伝えた」ことは、どんどん(けず)っていったということではないでしょう。むしろ、ルカは、聖霊の力によってへりくだり、伝えられたものを土台とし、「(福音的な)事柄」または「物語」を編み上げていったに違いありません。主にあって、ルカの正確を期す賜物が用いられ、多くの証人によって「伝えられたもの」が一つにされてゆきました。

 

Ⅱ すでに教えを受けられた事柄について  

ルカ福音書1:3-4――  

3 そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈するのがよいと思いました。4 お受けになった教えが確実なものであることを、よく分かっていただきたいのであります。

このプロローグでは、福音記者ルカとしての独自性を(かい)()()ることができます。それは、彼の人格や経歴によるというよりも、聖霊に満たされていた彼の信仰によるものでありましょう。

ここで、「敬愛するテオフィロさま」への「献呈」という個別の事情が明らかにされます。結論的に言えば、「テオフィロ」は、実在の人物かどうか、信仰者か求道者か、など詳しくは分かりません。一つの推測として、「神の愛する者」という名(テオフィロ)を持つローマの役人らしき人が、読者として念頭に置かれていたのではないか、ということです。

さて、第一巻」(=ルカ福音書)の冒頭に立っているルカにはすでに、書物全体の企画が手元に置かれていました。それは、次の一句から推し量られます……「わたしもすべての事を初めから詳しく調べています調査済みです)」。

注目すべきは、すべての事という言葉です。それは、主イエス・キリストが「生き、十字架につけられて死に、よみがえり、天に昇って行かれた(使徒1:9)」という出来事の「すべて」であります。さらに言えば、「わたしたちの間(主イエス・キリストの言動によって)実現した事柄について」という観点からの「すべての事」になります。従って、弱く貧しい者または罪深い者が、主イエス・キリストの愛を信じて救い出されたという、「わたしたちの間」の物語が選び取られることになるでしょう。

福音の伝達という立場から、すでにで、「(テオフィロさまが)お受けになった教え(ルカ1:4 新共同訳)すでに教えを受けられた事がら(新改訳)の句に留意すべきであると指摘しました。

分かりやすく言えば、「敬愛するテオフィロさま」は、カテキズム(教理問答)によって、信仰の手ほどきを受けていたということです。今、ルカは献呈本によって、テオフィロさまの「お受けになった教え」を「確実なもの」にしようとしています。

ルカは良い農夫のように、「テオフィロさま」には、福音の種が()かれており、(いばら)に妨げられず、(みず)()が与えられて成長していることを()でています。だからこそルカは、「わたしもまた……書くのがよいと思います」と、著作の労を(にな)おうとしています。

そうしてここで、「ザカリアエリサベトの夫妻とその子ヨハネの出来事において、旧約の〈約束〉が回想され、それが、ヨセフマリアの夫妻とその子イエスの出来事によって〈成就〉する」という物語の第一幕が開かれます。

 

Ⅲ 神の御前に正しい夫妻                  

ルカ福音書1:5-6――    

5 ユダヤの王ヘロデの時代アビヤ組の祭司にザカリアという人がいた。その妻はアロン家の娘の一人で、名をエリサベトといった。6 二人とも神の前に正しい人で、主の(おきて)と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった。

大きなまとまりとしては、ルカ福音書1:5-25には、天使ガブリエルによるザカリアに対するヨハネ誕生の告知が書かれています。その次、同書1:26-38には、「マリアへの受胎告知」が配置されています。

従って、ルカ福音書1:5-10は、聖所でザカリアに天使ガブリエルが現れる、その前段ということになります。そこで、その「時代」や登場人物について説明されています。ただし、単なる事実関係の確認というよりも、どのように神の救いの計画が打ち開かれていくのか、という点において深いメッセージが込められています。

ユダヤの王ヘロデの時代」とは、世界史との連関で、404年のヘロデ大王の在位中に当たると確定されます。ついでに言えば、一般的に、前6 / 4 イエス・キリストは生まれたと見られています。

ヘロデ大王は、ユダヤを含めパレスチナ全体に君臨していました(マタイ2:1,16)。その上、ユダヤは属国として、ローマ帝国の皇帝アウグストゥス(在位:前27-後14年)による圧政の下にありました(ルカ2:1)。

この「ユダヤの王ヘロデの時代」という設定は、主イエス降誕の「そのころ」(ルカ2:1)と連動して、この世の暗さを(うつ)しています。そうしてザカリアエリサベト夫妻」にスポットライトが当たります。

ザカリア……「アロン」の家系に属するアビヤ組の祭司

エリサベト……アロン家の娘の一人

つまり、ザカリアエリサベト、いずれも祭司「アロン」の系譜を引く人物でありました。成人男子が祭司を努める集団の中で、二人は生まれ、知り合い、結婚したということになります。二人が「聖書」を読み、それに従って暮らし祈っていたことは、明白です。ルカは「順序正しく」筆を進めます。

二人とも神の前に正しい人で、主の(おきて)と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」……これって、ほめたたえ過ぎ、盛り過ぎでしょうか。二人は、人間です。祭司「アロン」の集団に属するからと言って、信仰深いとは限りません。聖所で私腹を肥やす大罪を犯して、戦死した、祭司エリの息子ホフニとピネハスは、そのことを実証しています(サムエル記上2:294:11)。

もちろん、ルカが信仰をもって、ザカリアエリサベトについて、「二人とも神の前に正しい人であった」と記したことは確かです。というのも、神が新たに救いの計画に取りかかるという視点から、ザカリアエリサベトの先駆者として、ノアが浮かび上がって来るからです。ノアは、神の御前に「正しい人」と認められました。迫り来る危難に際して、ノアの妻子や嫁たちも、彼を通じて、神の恩恵にあずかることになりました(創世記7:7)。

このように暗黒の時代に、ノアとその家族、そして、ザカリアエリサベトように、神が人を召し出し、「正しい人」として立てられるのが、神の大いなる救いの歴史にほかなりません。聖なる御心によって、ザカリアエリサベトに、特別な使命が与えられます。ノアの洪水物語とのつながりについては、で取り上げることにしましょう。

 

Ⅳ 不妊と高齢に直面する夫妻       

ルカ福音書1:7-10――   

7 しかし、エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた。8 さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき9 祭司職のしきたりによってくじを引いたところ、主の聖所に入って(こう)をたくことになった。10 香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた

ここで突如、ザカリアエリサベト人物紹介に関して、暗転が生じます。そこに、「聖書」に予示されていた、人の苦悩が現れ出てきます。なぜ、「正しい人」がいわれない苦難をこうむらなければならないのか、という問題が示されます。

エリサベトは不妊の女だったので、彼らには、子供がなく、二人とも既に年をとっていた」……これは、わたしたちが旧約聖書において何度も聞かされてきた、イスラエル人・夫妻の状況です。アブラハムとサラ(創世記11:30)、ヤコブとラケル(同上29:31)、マノアとその妻(士師記13:2)、エルカナとハンナ(サムエル記上1:2)などの例が挙げられます。加えて、一夫多妻制であり女召し使いが雇い入れられているという当時の慣習によって、「不妊」の問題はさらにこじらせられます。絶望、ねたみ、軽蔑などの悪感情がからんできます(創世記16:430:1、サムエル記1:6)。

恐らく、ユダの山里に住んでいた(ルカ1:29)というザカリアエリサベトも、絶望、ねたみ、軽蔑などの悪感情と無縁ではなかったでしょう(同上1:25)。わが「アビヤ組」、「祭司」集団にとって、跡継ぎの誕生は喫緊(きっきん)の課題なのだと……。それにもかかわらず、「非のうちどころがなかった」、その夫妻は苦悩を身に背負い、神と人を愛する誠実な生き方を守り続けました。

さて、ザカリアは自分の組が当番で、神の御前で祭司の務めをしていたとき」……聖なるルーティンワーク(聖務日課)、エルサレムの聖所での勤めによって、ザカリアの全生活が整えられました。「香をたいている間、大勢の民衆が皆外で祈っていた」ことにも、慰められたことでしょう。

「ユダヤ人が安息日(シャバット)を守ってきた」のではなく、「安息日(シャバット)こそユダヤ人を守ってきた」のであるという(ことわざ)は、ザカリアと「神の御前での祭司の務め」との関係にも当てはまることでしょう。こうして、ザカリアエリサベトの夫妻は、神の憐れみのもと、祈りの生活を送っていました。

著者ルカが開巻の登場人物を通して、読み手に伝えたかったのは、次のようなことでしょう。

すなわち、驚くべき御業と奇跡は「わたしたちの間で」起ころうとしています。そこに、その「御業と奇跡」を、信仰をもって「受ける」・「経験する」夫妻がおりました。彼らは「聖書」をよく知っており、なおかつ、アブラハムとサラはじめ、ユダヤ民族が担ってきた深い苦悩を担っていました。彼らは、神の前に正しい人という点に、人間の(とうと)さを見いだしていました。

 

Ⅴ 正しい人・ノアと救いの計画を立てられる神 

創世記7:1――   

主はノアに言われた。「さあ、あなたとあなたの家族は皆、箱舟(はこぶね)に入りなさい。この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている。」

最後のでは、「ザカリアエリサベトの夫妻とその子ヨハネの出来事において、旧約の〈約束〉が回想される」ことを掘り下げるべく、ノアの洪水物語を取り上げます。「正しい人・ノア」が召し出されて、神の救いの計画が実行されるという点で、「正しい人・ザカリアへの御告げとヨハネの誕生」とは一脈相通ずるものがあります。

この世代の中であなただけはわたしに従う人だと、わたしは認めている(新共同訳)……文中の「従う人」は正しい人とも訳せます。このノアの特性については、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢(むく)な人であった」(創世記6:9)との記述もあり、何らかの力点が置かれていることが分かります。

ただし、読み手としては、ノアの善行など証拠立てがなく、(しょ)(ぱな)から、「正しい人」です、と宣言されても、いぶかしい気がします。

注視すべきは、神とノアとの関係でありましょう。これについては、「しかし、ノアは主の好意を得た」(直訳:神の目の中に恵みを見いだした)ならびに「ノアは神と共に歩んだ」(創世記6:8,10)というように、深い交わりが明示されています。神が先行する愛をもって、正しい人・ノアを導いておられます。そしてこれから、神は彼を通して、「驚くべき御業と奇跡」を成し遂げられます。

救いの計画実行前に、ノアザカリアのように神の前に正しい人が立てられることを、裏側から見ると、こう言えます。

すなわち、「神の前に正しい人」の存在や彼らの現す神の栄光によって、神に(そむ)く者の罪が定められるということです(ヘブライ11:7)。ノアの時代も、肉なる者・人が地に不法を満たし、悪を重ねていました(創世記6:5,11-12)。神は正しい人・ノア」に恵みを与えられると同時に、人の悪を増す「肉なる者」すべてを滅ぼすと宣告されました(同上6:13)。

神が「正しい人・ノア」にあらわされた恵み深さによって、その妻子や嫁たちも救いにあずかりました。また、「あなたは清い動物をすべて七つがいずつ取り、また、清くない動物をすべて一つがいずつ取りなさい」(創世記7:2)というように、儀式上、不必要な動物も箱舟の中に入れられました。清くない動物」に関してユダヤ社会に禁忌(タブー)がある((レビ記11:1-23、申命記14:3-20))とはいえ、「清くない動物もまた被造世界の一員であり、神の憐れみのもとに置かれていることが示されました。

神の救いの計画の大きな目標は、人を罪から清めて、新たなる被造世界をつくり出すことにあります。

 

ルカ福音書のプロローグでは、その書き方についての説明がありました。

すなわち、「わたしたちに伝えられた」ものを尊重しつつ、「初めから詳しく調べた」ことを「順序正しく書く」ということです。それが実って、読み手が「よく分かるように」なればと願っています。ルカは、敬愛するテオフィロさま」の信仰が「確実なもの」(原意:よろめかないもの)となるように、と祈っています。

 次に、物語の冒頭には、ザカリアエリサベトいう正しい」夫妻が登場しました。正しい人ザカリアは、ノアを、また、「不妊の女エリサベトは、サラハンナを思い起こさせます。

 人間の苦悩や無関心のただ中に、神からの救いの御手が伸ばされようとしています。

その神の救いがどのようなものであるかは、やがて、「正しい人」にして神の子なるイエス・キリストによってあらわされます。罪を犯されなかった主イエス・キリスト(ヘブライ4:15)が、「清くない」人間、すなわち、罪人を洗い清めてくださいます。

ルカ福音書を聖書日課として、光めがけて重荷を負うザカリアエリサベトと共に、御子イエス・キリストのご降誕を待ち望みましょう。

 

Ω

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2022年 11月27日                        

旧約聖書 詩編105編 1節~6節(P.943

新約聖書 コリントの信徒への手紙 13章11節~13節P.341

      「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」  

              小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 終わりに、兄弟たち、喜びなさい      ……Ⅱコリント13:11           

Ⅱ 主を求める人よ、心に喜びを(いだ)きなさい   ……詩編105:1-6 

Ⅲ 聖なる口づけによって互いに挨拶を()わしなさい   

                      ……Ⅱコリント13:12   

Ⅳ 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり 

                      ……Ⅱコリント13:13           

 結

 

今日からアドベント(待降節)に入ります。そこで、終わりに、兄弟たち、喜びなさい」(Ⅱコリント13:11)とのパウロの勧めを取り上げることにしました。

この句は、わたしたちの教会の年度標語「主において常に喜びなさい。重ねて言います。喜びなさい」(フィリピ4:4)と響き合っています。さらに加えて、同一の用語(「喜ぶ」・「おめでとう」ギリシア語:カイロー)は福音書の初めにも出ています。すなわち、御子の降誕にまつわる「喜び」の内に、エリサベト、マリア、そして占星術の学者たちが招き入れられています(ルカ1:14,28、マタイ2:10)。彼らは、人生の()(もう)や不安や節目において、「喜びなさい」との(いざな)を受けました。

ルカ福音書1:28――

天使(ガブリエル)は、彼女(マリア)のところに来て言った。「おめでとう(=喜びなさい)、恵まれた方。主があなたと共におられる。」

このように、降誕物語において、天からの「喜びなさい」との御告げがあったことを知ると、「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」との勧めがよりいっそう心に迫って来ます。すわなち、主なる神はあらかじめ、わたしたちが喜び」から(えん)遠くなるような時を見通して、初めから終わりまで喜びの源となっておられるということです。神は、そのために、御子イエス・キリストをこの世に遣わして、まことの「喜び」をあらわされました。「いつも喜んでいなさい。……これこそ、キリスト・イエスにおいて、神があなたがたに望んでおられることです」(Ⅰテサロニケ5:16,18)。

パウロは親しみを込めて、コリント教会の人々に「兄弟たち、喜びなさい」と呼びかけています。実は、この手紙執筆の当時、パウロとコリント教会の関係は思わしくありませんでした。パウロは少なくとも3回はコリント教会に滞在したことがあり、その実情を知っていました。

手紙特有の(えん)(きょく)な表現ながらパウロが怒りをもって不品行な者を罰する(Ⅱコリント10:612:20)ようなこともありました。「喜び」から(えん)遠かったとは、まさにこのとです。「わたしは、悩みと(うれ)いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」(Ⅱコリント2:4)というのが、率直なパウロの気持ちでありました。「キリストに敵対して歩いている者が多く、キリストの十字架が信仰生活の中心であることを忘れている」(フィリピ3:18)ということを真剣に考えれば考えるほど、パウロの心は沈んでいったことでありましょう。

しかし、パウロは天の神にすべてをゆだねていました。「あなたの(かわ)(ぶくろ)にわたしの涙を(たくわ)えてください」(詩56:9)との神への祈りをもって、「終わりに……」の文章をつづりました。悲しみが喜びに変えられる(エレミヤ書31:13)ことを信じていたのです。そして、パウロが「兄弟たち、喜びなさい」と呼びかけている、その背後には、エリサベト、マリア、そして占星術の学者たちがおりました。すでに「主において常に喜ぶ」という恵みにあずかっていた人々との霊の交わりが、今闇に()み込まれそうパウロを支えていたのです。

(がけ)っぷちに立たされているようなパウロですが、しっかりと信仰を土台としています。それでは、コリントの信徒への手紙 の結びを読みましょう。

 

Ⅰ 終わりに、兄弟たち、喜びなさい              

コリントの信徒への手紙 13:11――           

終わりに、兄弟たち、喜びなさい完全な者になりなさい励まし合いなさい。思いを一つにしなさい。平和を保ちなさいそうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます。

この一節の中に、五つの命令形が並んでいます。これを受けるコリント教会側は、パウロの愛や謙虚が分かっているとはいえ、いやな気分になったかも知れません。速射砲(そくしゃほう)()びせられているよう……

その背景には、なんとかして、コリント教会の現状を修復したいとのパウロの願いがあります。このような場合、指導する側が信仰の支配者になってしまっていることがあります。しかし、パウロはそうではありませんでした。

コリントの信徒への手紙 1:24――           

わたしたちは、あなたがたの信仰を支配するつもりはなく、むしろ、あなたがたの喜びのために協力する者です。あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っているからです。

あなたがたの喜びのために協力する者」というのは、印象深いものです。使徒あるいは牧師ならば、是非ともこうありたいと思うものです。あなたがたがいつも喜んでいられるように、わたしは一緒にいます、そのために全力を尽くします、という使徒の使命が言い表されています。

それ故に、「喜びなさい。完全な者になりなさい」との勧めの内に、叱責(しっせき)はまったく含まれていません。パウロにできるのは、あなたがた」と一緒にいて、信仰に基づいてしっかり立っているように導き祈ることです。

五つの勧めの中から、①、②、そして④と⑤について補足します。

喜びなさい――

主イエス・キリストによって救われたというところに、わたしたちの新しい人としての出発点であります。今や、神にかたどって造られた新しい人」(エフェソ4:24)は、神との親しい交わりを回復させられました。その人は主イエス・キリストのおかげで生きているのですから、「主において常に喜びなさい」というのは、きわめて自然です。苦難や障壁にぶつかる時にも、主イエスが助けてくださいます。

もし、わたしたちが死や罪に直面して打ち勝てるとしたら、それは、主イエス・キリストの救いに()以外にありません。「その名はインマヌエルと呼ばれる」お方が、「我々と共におられる」(マタイ1:23)、だから、わたしたちは常に喜びます。

完全な者になりなさい――

このような福音理解に立って、「喜び」を身に着けるとき、或る意味、最も厳しそうに聞こえる勧めが、わたしたちの心に届くようになります。

言われてみれば分かるように、今「完全な」人に、こう命じられるわけがありません。誰しも、欠点や弱さを抱えています。信仰者も例外ではありません。

完全な者になる」とは、破れを(つくろ)って修復するというのが原義です。では、だれが「修復する」のか、心配ご無用、あなた一人ではありません。

そこで思い起こしたいのが、②の前におかれている①喜びなさいとの勧めです。その説き明かしで、神にかたどって造られた新しい人」(エフェソ4:24)は、神との親しい交わりを回復させられていると言いました。「神にかたどって造られた」という「完全な」修復は、主イエス・キリストによって成し遂げられます(エフェソ2:15)。自分が新しい人に造り上げられるのが、どんなに困難に思われたとしても、神はこの世の思い煩いに勝利されます。

そこで、完全な者になりなさい」と命じられるとき、あなたに求められているのは、「信仰に基づいてしっかり立っている」ということです。神に、自分の罪、欠点、弱さなどを打ち明けます。御父は御子イエス・キリストを通して、わたしたちを助けてくださいます。決して、自分で「完全な者」になろうとしてはなりません。

主イエスご自身、「だから、あなたがたの天の父が完全であられるように、あなたがたも完全な者となりなさい」(マタイ5:48)と言われています。「あなたがたの天の父が完全である」のを信じ、神につき従うことが、すべての始まりです。そうして、信仰によって、神とわたしの関係が修復されるとき、わたしが神の御前に「しっかり立っているということが起こります。そこに、罪や(けが)れが入り込む余地はありません。御前に「しっかり立っている」ことが持続するかぎり、わたしは、「喜び」の内に、「完全な者となるでしょう」。

思いを一つにしなさい 平和を保ちなさい――

これは、実践的な勧めです。パウロと論争しているコリント教会の人々、また、コリント教会内部で批難し合っている人々が力を振るっているかぎり、希望はありません。「信仰に基づいてしっかり立っている」こと、それ自体が(あや)うくなってきます。当然、教会員の顔からは、「喜び」が消えてゆきます。

では、「思いを一つになさい」とは、一体何に関して、「一つに」と言っているのでしょうか。人の習慣や好みの多様性が混乱を招いているということなのでしょうか。

思いを一つにする」、その原点は、「主は一人、信仰は一つ、洗礼は一つ」(エフェソ4:5)というところにあります。コリント教会の人々が、信仰による一致を重んじるかどうかが問われています。

難しそうだと言われるでしょうか。信仰を告白するという語(ヨハネ1:20、ローマ10:9)は、本来、「同じことを言う」という意味です。神がお示しくださったことを、そのまま受け入れて、そのまま信じて、言い表すのが、「告白」です。わたしたちは礼拝で、口をそろえて使徒信条を告白し、信仰による一致を確認しています。公に「信仰」を言い表すことによって、会衆の「思いを一つにする」ことが実現します。

大切なのは、主イエス・キリストにおいて、「一つ」になっているということです。わたしたち・信仰者には、「異なった賜物」が与えられています(ローマ12:6)。一致していないことをかこつのではなく、(えだ)(えだ)組み合せ」・「修復して」、教会を成長させられる主イエス・キリスト(エフェソ2:21)に、すべてをおゆだねしましょう。

最後に置かれた⑤平和を保ちなさいは、明白に「そうすれば愛と平和の神があなたがたと共にいてくださいます(未来形:くださるでしょう)」につなげられています。

そうすれば」(接続詞)というのは、コリント教会の人々が、五つの勧めを厳守するようになったら、と言うことではありません。条件を付けているのとは、違います。

そうではなく、信仰者が①~⑤の勧めに励んでいるとき、「愛と平和の神があなたがたと共にいてくださるでしょう」との希望を持っているのを忘れるなということです。従って、「愛と平和の神……」との言葉は、わたしたちが繰り返すべき祈りにほかなりません。

また、わたしたちが祈りをささげるという以上に、「信仰に基づいてしっかり立っている」ならば、主イエス・キリストが「愛と平和の神」を告げ知らせてくださいます。それによって、「愛と平和」による神の支配が強められることでしょう。

では、降誕物語よりもさらにさかのぼって、「主において常に喜ぶ」ことを基本信条とした、信仰の先達の様子を見てみましょう。

 

Ⅱ 主を求める人よ、心に喜びを(いだ)きなさい           

詩編105:1-6―― 

1 主に感謝をささげて御名を呼べ。

諸国の民に御業を示せ。

2 主に向かって歌い、ほめ歌をうたい

驚くべき御業をことごとく歌え。

3 聖なる御名を誇りとせよ。

主を求める人よ、心に喜びを(いだ)(なさい)

4 主を、主の御力を尋ね求め

常に御顔を求めよ。

5 主の成し遂げられた驚くべき御業と奇跡を

主の口から出る裁きを心に留めよ。

6 主の(しもべ)アブラハムの子孫よ

ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。

これと同一の詩が採録されている歴代誌上16章は読むと、その背景が分かります。すなわち、「ダビデはその日その時、初めてアサフとその兄弟たちに、主に感謝をささげる務めを託した」(同上16:7)とありますので、「アサフとその兄弟たち」が作った詩ということになります。「その日その時」に、エルサレムで、天幕の中に神の箱が運び入れられました。この出来事そのものが、讃美への力強い招きになっています。

ただ詩編105編全体を見渡せば分かるように、祝祭的な気分にうかれているわけではありません。むしろ、まだ数少なく 寄留の民の小さな群れ(同上105:12)のイスラエルが、エジプト脱出や荒れ野放浪の苦難に遭い、主によって救い出されたことを回想しています。

祝祭では、神をたたえて感謝をささげると同時に、イスラエルの民のアイデンティティが確認されます。それが、国中から人々が都に(のぼ)って来る目的の一つです。自分を知る……元来、祭りの本分はそこにあります。礼拝という主イエス・キリストをたたえる祭りにおいても、忘れてはならないことです。

それでは、イスラエルの民のアイデンティティとは、どのようなものなのでしょうか。先の詩編の引用中に明示されています。

詩編105:6―― 

主の(しもべ)ブラハムの子孫

ヤコブの子ら、主に選ばれた人々よ。

彼らのアイデンティティとは、「アブラハム」が「主の(しもべ)」であったように、自分たちもまた、「主の(しもべ)」である、そして、「アブラハム」が「主に選ばれた」ように、自分たちもまた、主に選ばれたということです(J.L.メイズ)。

あなたがたは信仰に基づいてしっかり立っている」(Ⅱコリント1:24)という句を引いて、そのアイデンティティを要約しましょう。イスラエルは自分たちが寄留の民の小さな群れ」であるのを自覚し、そのような民を「主が選ばれた」ことを「信じています」。そして、イスラエルは、「主の(しもべ)アブラハム」の「信仰に基づいてしっかり立っています」。

わたしたち・キリスト者は、主イエス・キリストによって救われ、「神にかたどって造られた新しい人」を身に着けました(エフェソ4:24)。そうして、わたしたちが「真理に基づいた正しく清い生活を送る」際に(同上4:24)、わたしたちもまた、「主の(しもべ)アブラハムの子孫」であることを銘記すべきです。なぜなら、わたしたちはアブラハムを「信仰の父」として(ローマ4:12)、この世の旅路を歩んでいるからです。アブラハムの「信仰の足跡(あしあと)を踏む」という点で、わたしたちはイスラエルの父祖と霊的なつながりがあり、それ故に、「主に選ばれた」ユダヤ人たちとは「兄弟」なのです。

さて、お待たせしました、主において常に喜ぶの関連聖句を読みましょう。

詩編105:3―― 

聖なる御名を誇りとせよ。

主を求める人よ、心に喜びを(いだ)きなさい。

約言すると、「聖なる御名」によって心を()げ、「喜び」をもって心を豊かにしなさい、となるでしょう。

主を求める人」とは、「主に選ばれた」ことを信じ、感謝・応答する人を指しています。「主の(しもべ)アブラハムの子孫」として苦難に向き合い、忍耐をもって謙虚に生きている人です。

わたしたちにとって、「聖なる御名」とは端的に、イエスキリストにほかなりません。主の祈りの一節に、「願わくは御名をあがめさせたまえ」とあります(マタイ6:9)。わたしたちはその祈りの内に、「イエスキリスト」と唱えるとき、主からの憐れみと主への畏れによって心が満たされます(ルカ1:50,54)。まさしく、「主のはしため」として(同上1:48)、自分の小ささや(いや)しさを認めたマリアが、そうでありました。

以上、「聖なる御名」をあがめることによって、喜びをもってわたしたちの心が豊かされる、と詩編から教えられました。裏を返せば、わたしたちの側に、喜び」の材料があるかどうか、案じることはないということです。

想定問答――

「今、わたしの心の内に「悲しみ」の材料(心配事)ばかりですか、『主において常に喜ぶ』ことができるでしょうか。」

「はい、できます。『聖なる御名を誇り』としたダビデ、アサフとその兄弟たち、詩編詩人、そしてマリアが証人です」 

この辺で、「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」と勧めている、コリント教会宛ての手紙に戻ることにしましょう。

 

Ⅲ 聖なる口づけによって互いに挨拶を()わしなさい       

コリントの信徒への手紙 13:12――

聖なる口づけによって互いに挨拶を交わしなさい。すべての聖なる者があなたがたによろしくとのことです。

少しうがった見方かも知れませんが、ここでパウロは人間の身体性を活用しながら、コリント教会に「平和」をつくり出そうとしています。

確かに、パウロ書簡の末尾で、聖なる口づけによる挨拶が勧められるのは珍しいことではありません(ローマ16:16、Ⅰコリント16:20)。しかし、「平和を保ちなさい」との勧めを実践する上で、互いに心と体の面で「一つ」であると確認することが必要です。なぜなら、「平和」というのは、身体性を伴う暴力により揺さぶられることから完全には(まぬか)れられないからです。

さらに、巧みにもパウロは、「平和」の観点から、コリント教会の信徒の目を内と外とに向けさせています。コリント教会内において、「聖なる口づけによる挨拶」がさかんになるよう祈ってますよ、それから、外の教会からコリント教会へ挨拶が来ていますよ、ということです。

要約すると、「愛と平和の神」がコリント教会をご支配してくださり、信徒が聖なる御名」をあがめて心を()げ、「喜び」をもって心を豊かにするということが、その名も高い祝禱の前段に記されていました。

 

Ⅳ 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり   

コリントの信徒への手紙 13:13――

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わりが、あなたがた一同と共にあるように

主イエスキリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり」……これらを神が与えてくださると信じ、牧師は媒介(ばいかい)者として、その言葉を発します。れが、祝禱と呼ばれるものです。この他、民数記6:22-27には祭司アロンの「祝禱」があります。

主日礼拝の式次第に即すると、こう言えます。すなわち、礼拝の最後に、「主に選ばれた人々」として、また、職場・学校・家庭などに遣わされる者として、この祝禱の中に、伝道に励む、ひと(めぐ)りの旅路に出て行くということです。

当然のことながら、パウロはこの一文を、将来、プロテスタント教会で礼拝の祝禱に用いられるのをねらって書いたのではないでしょう。ただ興味深いのは、怒りをもって不品行な者を罰するような、激しい論争を含む内容の手紙が、類のない、入念な祝福の言葉で終えられていることです(E.ベスト)。パウロとコリント教会の間に問題を(かか)えているような状況では、とても、「(ちょう)()を飾る」(物事の最後を立派に締めくくる)ことなどできません。

このように考えると、これはまさに、上から(くだ)って来た御言葉、あるいは、聖霊がパウロにつづらしめた最後の一句です。「闇から光が輝き出よ」と命じられた神(Ⅱコリント4:6、創世記1:3)の御力が、この一文に表されています。

そこで、パウロの「祝禱」の内容を(とら)えましょう。

文の構造は、三つの名詞句と一つの前置詞句から成っている、シンプルなものです。動詞はありません。「あるように」は補足です。

主イエスキリスト恵み

 三位一体論の視点から、主イエスキリストと「」の順が逆になっていると指摘されることがあります。しかし、むしろ、パウロがコリントにて伝道・牧会し教会を建ててきた経緯からすれば、「主イエス・キリスト」が前に来ているのは自然であります。

 というのも、パウロは、イエス・キリストによる十字架と復活の信仰を宣べ伝えてきたからです。パウロは、イエス・キリストのために、コリントの人々に「(しもべ)」のように仕えてきました。

 「恵み」というのは、神からわたしたちに無償で」与えられるものです。わたしたちの功績と関わりなく、与えられます。神はこの高価な「恵み」を、「ただキリストイエスによる(あがな)いの(わざ)を通して」(ローマ3:24)、わたしたち・罪人の前にあらわされました。罪なしに、十字架を負い、苦しまれたキリストの「恵み」は、わたしたちの人生を一変させます。わたしたちは神の御前に悔い改めることによって、恵みにあずかれます。

このように、信仰者の生活において最も大切なことが、「祝禱」の初めに置かれています。

の愛

神の愛の支配のもとに、私たちの間に隣人愛が全うされます。また、「神の愛」は、〈初め〉から〈終わり〉まで全うされる愛、永遠の愛です。こう見ると、「神の愛」は、わたしたち・信仰者の実践的課題であり、また、将来に向けての(いしずえ)である、と分かります。①と②との結びつきが、次の聖句によって照らし出されています。

ヨハネの手紙 4:9――

神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。

神の愛」は、人間の歴史の中に待望され、イエス・キリスト……その十字架の恵み……によって、成就しました。それによって、わたしたちは、神と人とを愛するように、新しく生き始めました。そこで、わたしたちの助けとなるのが……

聖霊の交わり

ここでまず、問われるのは、「主イエスキリスト恵みを与えた」、そして、「愛した」と、同列に、「聖霊の交わり」を理解してよいか、ということです。つまり、「聖霊交わりをもたらす」とは異なる、福音的な理解があるかどうか、になります。

すわっ、ここで後世を揺るがす「聖霊」論争が起こっているのか、と身構えることはありません。

聖霊の交わり

聖霊交わりをもたらす

すべての聖なる者(Ⅱコリント13:12)の、聖霊の交わり

すべての聖なる者聖霊の交わりを信じて、一つの体なる教会を建てていく

要するに、ⅰ 父と子から聖霊が(はっ)(しゅつ)される面から見るのか、それとも、ⅱ 人が聖霊によって生かされている面から見るのか、という違いになります。

ⅰの「聖霊交わりをもたらす」との解釈は、主の晩餐における、主イエスの宣言にさかのぼります。

ヨハネ福音書14:26 主イエス→弟子たち―― 

「しかし、弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる。」

この聖句には、「」と「わたし」(イエスキリスト)との堅い交わりの中で「聖霊」が遣わされる、と明記されています。まさに、父、子、聖霊〉による働きのもとに、信仰者はこれからも、イエス・キリストの力と言葉にあずかることになります。

その上で、福音的な理解を進めると、こうなります。

聖霊の交わり」の力が、「天下のあらゆる国」に(使徒2:5)、そして、その地の諸教会に激しく下ります。そこで、「父は子と、子は父と、母は娘と、娘は母と、しゅうとめは嫁と、嫁はしゅうとめと、対立して分かれる」(ルカ12:53)というように、分裂が見られるかも知れません。

 しかし、恐れてはなりません。そこで、神の国の到来に備えて、パウロが書き添えていた勧めを思い起こしましょう。

完全な者になりなさい」(Ⅱコリント13:12)……神に、自分の罪、欠点、弱さなどを打ち明けます。御父は御子イエス・キリストを通して、わたしたちを助けてくださいます。決して、自分で「完全な者」になろうとしてはなりません。そうすれば、愛と平和の神があなたがたと共にいてくださるでしょう来形)」(同上13:12)とのメッセージは、終わりの時を生きる、すべてのキリスト者を励まし続けています。

あなたがた一同と共にあるように

 (おごそ)かな祝禱」を象徴するかのように、きりりと()めくくられています。「父よ、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)との、主イエスの祈りに(なら)いたいものです。

自分の耳で聞いた「あなたがた一同」が、この「祝禱」を心に納めます。そこで、後奏によって礼拝が終わりとなります。

 

恵み深い「祝禱」が、「終わりに、兄弟たち、喜びなさい」との勧めを(あと)押ししています。わたしたちは、礼拝の終わりの御言葉を心に刻み、神の国をめざして歩んで行きます。

労苦している、世の「兄弟姉妹たちよ」、この「喜び」の輪の中に入って来なさい。みなが「一つ」になれますように

 代々の教会で、「あなたがたの喜びのために協力する者」・牧師が、この豊かな内容を持つ「祝禱」を、「一つ一つ()()めるように唱えます、今日もまた……        

 

 

Ω

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2022年 11月20日                             

旧約聖書 詩編22編 19節

新約聖書 ヨハネによる福音書 19章16節後半~27節

   「イエスの十字架のそばには、その母が立っていた」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスは自ら十字架を背負って行かれた 

                    ……ヨハネ19:16後半-18       

Ⅱ「ユダヤ人の王」と書いてあった    ……ヨハネ19:19-22 

Ⅲ 聖書の言葉が実現するため  

              ……ヨハネ19:23-24 詩編22:19   

Ⅳ イエスは母に「婦人よ」と言われた ……ヨハネ19:25-27          

 

主イエスはローマの兵士とユダヤ人の下役によって()らえられ(しば)られました(ヨハネ18:12)。それから、主イエスは大祭司カイアファのところから総督ピラトの官邸に連れて行かれました。そしてその朝方(同上18:27-28)、ピラトによる裁判が開かれました。裁判が終わる前に、見せしめのため、主イエスは(むち)打たれました(同上19:1)。疲労困憊(こんぱい)の状態になりました。それを取り囲む群衆全体が、自己中心と興奮に取り()かれていました。

一方、主イエスの聖なる御言葉によって、人間の罪性がえぐり出されました。わたしたちは、裏切りや引き渡しなどの「もっと重い」罪や、人から(さと)されても重ねてしまう(あやま)ちに向き合わせられます。

他方、主イエスは、傷のない小羊」として、すなわち、罪を犯されなかった苦難の(しもべ)(ヘブライ4:15)として(もく)(じゅう)の姿勢を貫かれました。イエス・キリストが十字架に上げられるは、まぎれもなく神の救いの計画のもとにあることでしたそのために、御子は神の栄光を現すことに集中しておられました。

ニサン(3 / 4月)の14日、「過越祭の準備の日」(ヨハネ19:14)、御子イエス・キリストは十字架につけられることになりました。総督官邸の「」には(同上19:13)、十字架の道(ヴィア・ドロローサ)がゴルゴタに向かって()びています。

いよいよ十字架の道行きのスタートとなります。わたしたちもまた同行者として歩み始めましょう。

 

Ⅰ イエスは自ら十字架を背負って行かれた

ヨハネ福音書19:16後半-18――  

16 こうして、彼らはイエスを引き取った。17 イエスは、自ら十字架を背負い、いわゆる「されこうべの場所」、すなわちヘブライ語でゴルゴタという所へ向かわれた18 そこで、彼らはイエスを十字架につけた。また、イエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして両側に、十字架につけた

人の罪と罪とが連結して、主イエスを「十字架につける」ことへと至ります。すなわち、ピラトが引き渡した」(19:16前半)、そしてユダヤ人たちが「引き取った」というところに、罪なる行為の連鎖が見られます。

まず、「引き渡す」という動詞は、裏切る」とも意訳されます。他者に敵対者を「引き渡し」、自分は手を洗い(マタイ27:24)、最終的な(あく)(ぎょう)を誰かに押しつけるという結末に至ります。

次に、「引き取る」という動詞には、温かく迎え入れるというニュアンスがあります。しかし、この場合には、主イエスはまるで荷物のように扱われています。官邸前で、人からむしり取って、即刻、刑場送りするところには、血も涙もありません。

今回の段落(ヨハネ19:16後半-27)には、「十字架」または「十字架につけた」という用語が、合計6回出てきます。それだけでも、暗い雰囲気が漂います。しかし、わたしたちが心に留めるべきは、今日の冒頭の文章です……イエスは、自ら十字架を背負い……へ向かわれた」(表題:イエスは自ら十字架を背負って行かれた)。

というのも、この光景こそが,主イエス・キリストの救いの御業を理解する鍵だからです。そこには、最初から最後まで、ひとりでゴルゴタの丘まで歩ききるという主イエスの決然たる態度が()み取られます。たとえ、「十字架を背負って」、つまずき(ころ)んでも、立ち上って前へということです。

ピラト官邸前に荷物のように(ほう)り出された主イエスが、そのスタート地点で、自ら十字架を背負って行くとの意志を固められました。

ところで、共観福音書(マルコ15:21他)には、「そこへ、アレクサンドロとルフォスとの父でシモンというキレネ人が、田舎から出て来て通りかかったので、兵士たちはイエスの十字架を無理に(かつ)がせた」という記事があります。これを勘案すると、「自ら十字架を背負って行く」、その道中で、主イエスは「シモンというキレネ人」によって助けられたので、決してひとりで全うしたのではない、と言われるかも知れません。

しかし、冷静に考えてみると、「イエスは自ら十字架を背負って行かれた」ことと、「シモンが十字架を無理に(かつ)がせられた」こととは、矛盾しません。むしろ、主イエスの自発性と、人間の側の無理強(むりじ)押しつけとが対比されています。そこには、神の救いの計画のもとに十字架につけられる」ことを知っておられる主イエスと、自分の罪のためにその御業が為されることを知らない人間の違いがあります。幸いにも、キレネ人シモンは、主イエスを助けた人ではなく、十字架による罪からの救いに目覚めさせられた、最初の人になりました。

いずれにしても、表題の イエスは自ら十字架を背負って行かれた から、 イエスは母に婦人よと言われた まで、人間のさまざまな(あく)(ぎょう)の中で、主イエスは主導権を取っておられます。十字架の道行きは、主イエス自らが選び取られたものです。そうして主イエスは残酷な刑に対する恐れや、不眠不休の疲れを克服されました。

主イエスは自分が巻き込まれた最大の苦難の中に、神の御心を見いだされました。それ故に、群衆の嘲笑や無関心にさらされながらも、「自ら十字架を背負って」という姿勢を崩されませんでした。それは、後に続く者に対する消し去ることのできない模範でありましたS.シュルツ)

マタイ福音書16:24 死と復活を予告する――

それから、(イエスは)弟子たちに言われた。「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。」

わたしたちもまた喜んで、「自分の十字架を背負って進み出ましょう(ヨハネ18:1,4)。その(かたわ)らには、「わたしの(くびき)は負いやすく、わたしの荷は軽い」(マタイ11:30)と言われる慰め主がおられます。

 

Ⅱ「ユダヤ人の王」と書いてあった          

ヨハネ福音書19:19-22――  

19 ピラトは罪状書きを書いて、十字架の上に掛けた。それには、「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書いてあった。20 イエスが十字架につけられた場所は都に近かったので、多くのユダヤ人がその罪状書きを読んだ。それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。21 ユダヤ人の祭司長たちがピラトに、「『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と言った。22 しかし、ピラトは、「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」と答えた。

不名誉で、おざなりな裁判であったにもかかわらず、真実を告げる「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」との掲示が出されました。一説によると、処刑場へと罪人が向かう、その先頭に罪状書きを持った人がいて、彼らを好奇の目にさらしたということです。

この「罪状書き」は、これからキリスト教が世界に広まっていく、小さな種のような役割を果たしました(参照:讃美歌Ⅰ-234番「昔主イエスの ()きたまいし」)

それは、ヘブライ語、ラテン語、ギリシア語で書かれていた。

ヘブライ語――

ユダヤ人に分かる言葉。実際には、当時の土地の言葉であるアラム語と考えられます。

ラテン語――

ローマ帝国の言葉。元々、この「罪状書き」はピラトが書いたものです。

ギリシア語――

  当時の文化や通商の面で欠かせない言葉。ヘレニズム(ギリシア文化)が地中海世界に影響を及ぼしていました。

このように、三通りの言語で書かれていたのは、罪状書きを通して、全世界の人々に告げ広められたということです。つまり、この「罪状書き」は、「十字架につけられた」主イエス・キリストが、ユダヤから地中海世界の隅々にまで伝達される、その先駆けとなりました。

イエスを「()き者」にしようとしたユダヤ人たちの思惑は粉々に打ち砕かれました。ユダヤ人たちは思わぬ展開を()(ねん)して、『ユダヤ人の王』と書かず、『この男は「ユダヤ人の王」と自称した』と書いてください」と、ピラトに申し出ました。

それに対し、(ピラトが)「引き渡した」⇒(ユダヤ人が)「引き取った」という罪なる行為の連鎖では、(あやつ)り人形になったピラトが、改竄(かいざん)に加担することはありませんでした。

ところで、総督ポンテオ・ピラトは裁判中から、イエス・キリストの「」としての身分について、何かしらのこだわりを持っていました。ピラトはローマ皇帝(ティベリウス 在位 紀元後14-37年)の忠実な臣下という立場から、「ユダヤ人の王」のことが気がかりだったのでしょうか。

ピラトは疑念にかられて、主イエスに、お前がユダヤ人の王なのか」(ヨハネ18:33)と問い尋ねたり、また、ユダヤ人たちに、「あのユダヤ人の王を釈放してほしいか」(同上18:39)と誘いかけたりしました。

そして、裁判の最終場面では、「外に」出て、ピラトはユダヤ人たちに向かって、「見よ、あなたたちの王だ」(ヨハネ19:14)と言いました。死刑判決に関わりたくないという苦しまぎれの叫びにも聞こえますが、これはまさに信仰告白でありました。八方(ふさ)がりになって追い込まれたところで、聖霊なる神がピラトに宿り、言うべきことが示されたということなのでしょうか(ルカ12:12)。

当該テキストの説教要約(ヨハネ19:13-16前半)には、次のように記しました。

〈主イエスは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)であり、「ユダヤ人の王」としてこの地上の生涯を終えられました。その間に、御子は神に遣わされた者として、御父の持っておられる「権限権威」を現されました。十字架の道行きにおいても、「あなたたちの王」なるイエス・キリストは、神こそがまことの支配者であることを示されます。イエス・キリストは神への(もく)(じゅう)を貫かれ、へりくだり、そして高く上げられるという形で、まことの「」となられました。

ピラトの「見よ、あなたたちの王だ」との一声は、十字架上で死を遂げられるイエス・キリストに向けられたものであります。時宜(じぎ)にかなった告知です。〉

口でイエスは「」であると公に言い表したピラトがこの(たび)は、罪状書き」に「ナザレのイエス、ユダヤ人の王」と書きました。もはやピラトは、イエスは「」であると確信しています。

もちろん、イエスがどのような「」であるのか、知ることが重要になります。(いばら)(ヨハネ19:1)の王冠をつけた「ナザレのイエス」こそが、久しくイスラエル民族が待ち望んできた、油注がれたメシア・救い主(同上1:41)なのであります。同時に、「あなたがたは、神と富とに仕えることはできない」(マタイ6:24)と戒められているように、ピラトには皇帝崇拝を()める必要がありました。そのために最善なのは、ピラトが、十字架の道を進もうとされている主イエスの同行者となることでありました。でき()れば、「聖書」を片手に……。

 

Ⅲ 聖書の言葉が実現するため             

ヨハネ福音書19:23-24――  

23 兵士たちは、イエスを十字架につけてから、その服を取り、四つに分け、各自に一つずつ渡るようにした。下着も取ってみたが、それには()い目がなく、上から下まで一枚織りであった24 そこで、「これは裂かないで、だれのものになるか、くじ引きで決めよう」と話し合った。それは、

「彼らはわたしの服を分け合い、

わたしの衣服のことでくじを引いた」

という聖書の言葉が実現するためであった。兵士たちはこのとおりにしたのである。

今、同行者なるわたしたちは、十字架への途上で、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、教えられています。さらに、「聖書」の約束または預言が、十字架の出来事において成就するという観点からも、主イエスの御姿が明らかになってきます。そうして、わたしたちの模範となる主イエス・キリストについて深く知るほどに、冷静に自分自身の言動を省みることができます。

ローマの兵士たち(四人?)による、イエスの「」(上着)と「下着」の分配について、整理してみましょう。合わせて、「聖書の言葉が実現するためであった」という、その元の詩編22:19も見ておきましょう。

詩編22:19――

(彼らが)わたしの着物を分け

(彼らが)(ころも)を取ろうとしてくじを引く。

彼ら」とは、「わたしを取り囲み さいなむ者」(詩編22:17)、すなわち、悪を行い、神に敵対している人々を指しています。旧新約、預言と成就の観点から、出てくる衣類を仕分けすると……

元の詩編22:19――着物ベゲッド 複数形)(ころも)レヴシュ 単数形)

*ヘブライ語の レヴーシュ には、「下着」という意味はありません。

一方、彼らは「着物」(ベゲッド)を「分ける」。 

*「分ける」の意味は、「(衣服を)裂く」ではなく、「分け前として取る」ということです。

他方、彼らは「(ころも)」(レヴーシュ)を「取ろうとしてくじを引く」。

ヨハネ福音書19:23-24――ヒマティオ 複数形と「下着キトーン 単数形

一方、兵士たちは「」(ヒマティオン)を「四つに分けた」。

他方、「下着」(キトーン)は「縫い目がなく、上から下まで一枚織りであった」ので、

裂かれなかった」。

  *後に書いてある「(下着は裂かないで」という言葉からすると、

」は「裂いて」四つにしたと考えられますが、何か釈然としません。

少し綿密に語彙にあたりながら、整理してみました。

預言の成就として、ヨハネ福音書19:23-24で強調されているのは、次の点です。

 ①「下着には()い目がなく、上から下まで一枚織りであった」ので、「裂かない」でおかれた。

 ②そのような「下着」が「くじ引き」で「だれかのもの」になった。

①に関しては先述の通り、詩編22:19には、衣類が裂かれた・裂かれない云々(うんぬん)いう記述はありません。先回りして言うと、①「引き裂かれない」モティーフは、次の イエスは母に婦人よと言われたヨハネ19:25-27)に引き継がれます。

さて、①と②によって、主イエス・キリストと兵士たちについて注目すべきことが対照的に描き出されています。

〈主イエス・キリスト〉――十字架の上

①「下着には()い目がなく、上から下まで一枚織りであった」ので、「裂かない」でおかれた。

まず、兵士たちが奪い合おうとした「下着」は大祭司が身に着けているものとして理解されます。

というのも、詩編22:19の「言葉が実現する」形で、「くじが引かれた」のは、その衣の(とうと)さを指し示しているからです。過越祭で用意された「傷のない小羊」(出エジプト記12:5)のように、「()い目がなく、上から下まで一枚織り」の「下着は、神に捧げられるものの完璧さを表していました。

さらに、主イエス・キリストは、「聖であり、罪なく、汚れなく、罪人から離され、もろもろの天よりも高くされている大祭司(ヘブライ7:26)として十字架に上げられました。御自身を犠牲として献げ(同上7:27)、わたしたちの罪の赦しのために(あがな)なられました(ローマ3:24)。

最後には、その「一枚織り」の「下着」もはがされてしまいましたが、ヨハネ福音書記者はそのような衣服を身に着けていた、聖なる大祭司なる主イエス・キリストに畏れを(いだ)いていたのです。

〈兵士たち〉――十字架の下

②そのような「下着」がくじ引き」で「だれかのものになった。

兵士たちは()け事に夢中ですだれも、十字架手足を(くぎ)()けにされ苦痛に耐えかねている人物のことなど、真剣に考えようとしていません。

救われる前の人の特徴とも言えますが、神の存在を軽んじる罪はわたしたちに無関係ではありません。

くじ」の当たった「だれか」は往々(おうおう)にして、興奮して自身の貪欲(どんよく)さが助長されることになります。

以上のように、十字架の上と下、〈主イエス・キリスト〉と〈兵士たち〉とが鮮やかに対比されました。両者は至近距離にいながらも、その関係性からは最も遠い存在でありました。

ふだん「()い目がなく、上から下まで一枚織り」のものを身に着けられていたお方、〈主イエス・キリスト〉によって、今まさに、破れかかっていた、神と人間との関係が回復されます。端布(はぎれ)を「一枚」に(つくろ)うかのように、交わりが修復されます。

 

Ⅳ イエスは母に「婦人よ」と言われた          

ヨハネ福音書19:25-27――  

25 イエスの十字架のそばには、その母と母の姉妹、クロパの妻マリアとマグダラのマリアとが立っていた。26 イエスは、母とそのそばにいる愛する弟子とを見て、母に、「婦人よ、御覧なさい。あなたの子です」と言われた。27 それから弟子に言われた。「見なさい。あなたの母です。」そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った。

冒頭で記したこと……いずれにしても、表題の イエスは自ら十字架を背負って行かれた から、 イエスは母に婦人よと言われた まで、人間のさまざまな(あく)(ぎょう)の中で、主イエスは主導権を取っておられます……の確認から始めましょう。

表題 イエスは母に婦人よと言われた 明示したように、ここで、主イエスはわたしたちの先回りをしておられます。

なぜ、主イエスは、母マリアのことを、「婦人」と呼んだのでしょうか? 実はこの問題は、主イエスの宣教開始以来、当のマリアはじめわたしたちが引きずってきた問題です。

ヨハネ福音書2:4――

イエスは母に言われた。「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです。わたしの時はまだ来ていません。」

主イエスがペトロやフィリポなどの弟子を召し出した後、ガリラヤのカナでの婚礼に招かれた時のことです。「ぶどう酒がなくなりました」(ヨハネ2:3)と告げるマリアに対し、主イエスは「婦人よ……」と答えられました。「お母さん、分かりました」と答えるでもなく、何かそっけない言葉を返しています。晴れやかな場で、そんなによそよそしく振る舞わなくも、と思います。

ちなみに、主イエスが「婦人よ」(ギリシア語:グナイ)という呼び方をしている事例は、以下の通りです。サマリアの女、姦通(かんつう)の現場で捕らえられた女、そして、マグダラのマリアヨハネ4:218:1020:13,15)というように、ヨハネ福音書の物語を代表するような女性たちです。逆に言えば、彼女たちと母マリアの間に何らの区別もしていないということです。

さて、主イエスは、福音書の初めと終わりで、母マリアに向かって、「婦人よ」と呼びかけられました。少なくとも呼称の上で、一貫した姿勢を取っています。

何気ない呼び名を通して、主イエスがわたしたちの先回りをしている点について、A.シュラッターが明快に注解しています。

〈今また再び、カナにおけると同じく、イエスは母を、「婦人よ」と呼びかけている。当時とは様子は違っているが、しかし、やはり似ている点もある。今もまた、この呼び名(婦人よ)は、イエスと母とを結ぶ地上の結びつきが解かれたことをはっきりと言い表している。しかし、今もまた(カナでの婚礼の時の同様に)、イエスはあたかも彼にとって、このような地上の関係は全く意味のないかのように、母を低く評価して自分から引き裂くのではない。むしろ、イエスは、母の苦しみと別離とを考えておられる。イエスは、彼女に慰めと励ましと配慮とが必要であることをおもんぱかり、ご自分の代わりに、自分の最も密接に結びついていた弟子を息子として与えることによって、母への配慮をしているのである。〉 ( )内は引用者の補足。

要するに、この世的には当たり前の「母よ」との呼びかけから「婦人よ」へと転換が図られているのは、「イエスと母を結ぶ地上の結びつきが解かれ」、「自分の最も密接に結びついていた弟子を息子として与える」ためであったということです。つまり、神のもとにある人間関係において、母も、婦人たちも、そして弟子たちも、一つの家族となるように、主イエス・キリストは……マリアの(かたわ)らの「愛する弟子」を通しても……をあらわされました。

主イエス・キリストは、水をぶどう酒に変えた最初のしるし、そして、唯一無二の最高のしるしである十字架の御業を通して、わたしたちにまことの「」なる教会を備えられました。「そのときから、この弟子はイエスの母を自分の家に引き取った」とは、二人が、エルサレムの初代教会の(いしずえ)となるのを、見通してのことでありました。

主イエスの愛する弟子の家に、マリアがいる……これもまた、愛唱され続けている「聖書の言葉が実現するため」でありました。

詩編133:1――

都に上る歌。ダビデの詩。

見よ、兄弟が共に座っている。

なんという恵み、なんという喜び

イエスの十字架のそばには、その母が立っていた」との描写(ヨハネ19:25)は、わたしたちに、母のふところに(いだ)かれた幼子イエスの誕生(マタイ2:11)の時のことを回想させます。そこで、主イエスは地上の(きずな)にまさる、永遠に続く愛の交わりを造ってくださいました。母マリアと愛する弟子家の教会を(しの)び、わたしたちの教会で、見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」との詩編をうたい()いでゆきましょう

 

Ω

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2022年 11月13日                         

旧約聖書 詩編137編 1節~9節

新約聖書 ルカによる福音書 6章21節

         「わたしの最上の喜び」

                  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ バビロンの流れのほとりに、わたしたちは座った                      

                      ……詩編137:1            

Ⅱ ああどうして、わたしたちは歌うことができようか

                            ……詩編137:2-4

Ⅲ もしも、わたしがエルサレムをわたしの最大の喜びとしない

  なら                 ……詩編137:5-6  

Ⅳ 主よ、エルサレムの日を覚えていてください                                ……詩編137:7-9          

Ⅴ 今泣いている人々は、幸いである    ……ルカ6:21 

 

詩編137編は、嘆きの歌として、とても印象深いものです。例えば、讃美歌Ⅰ-283番の歌詞「河べの() かけし()(ごと)この詩編から採られています。

この詩編が書かれた時代背景については、さまざまな説があります。ここでは、バビロン捕囚から帰って来たユダヤの民が、都エルサレムで歌っているものと理解します。

すなわち、前538年、ペルシア王キュロス(ちょく)(れい)によってユダヤ人に対し祖国帰還が許されるようになりました。都エルサレムで幼児期を送ったことのある高齢・壮年の人々はじめ、多くの民が懐かしい故郷をめざし旅に出ました。

民が故郷に到着すると、荒廃した都に神殿を再建するという願いが高まりました(エズラ記5:1-2)。ソロモン王の建てたものに()ぐということで「第二神殿」と呼ばれる、礼拝所の工事が始まりました指導者としてゼルバベルとイエシュアが立てられ、預言者や祭司がその賜物によって彼らを助けました。

捕囚解放から帰還、そして神殿再建という急展開があった、およそ20年あまりは、ユダヤ人の長い歴史の中でも特筆に価します。めざましい復興に関して、ユダの地に残っていた人々(列王記下25:22)よりもむしろ、捕囚の子らエズラ記6:16)、すなわち、捕囚から帰って来た人々の働きぶりが注目されています。

捕囚の子らは、沙漠や丘を越えての長旅で疲れきっていました。同時に、彼らはバビロニア人はじめ、多くの異邦人と接する中で、世界の実情を知り、その文明や技術の高度なことを経験していました。そして、何よりも、神礼拝を自分たちの生活の中心に置き、聖書を基づいて共同体を建てることに努めました。

捕囚の子らは前代未聞の大惨事に()いました。王を冠に(いただ)く南ユダ王国の滅亡、また、異教に取り囲まれたバビロンでの生活は思い起こすたびに、胸が痛んだことでありしょう。しかし、この苦境の中でも、捕囚の子ら」は希望を(いだ)き、聖なるシオンの丘を望み見たのであります。まさにそこに、復興の原動力がありました。

大惨事のただ中から、神の選民としての生活が建て直されます。本日はその期間の、信仰者の日常と心情を知るよすがとなる詩編を読むことにします。

 

Ⅰ バビロンの流れのほとりに、わたしたちは座った                 

詩編137:1――

1 バビロンの流れのほとりわたしたちは そこに座り

シオンを思ってわたしたちは泣いた

あたかも、ユダヤ民族の「共同体験」を物語るかのように、「わたしたち」が前面に出ています。その「わたしたち」が「座った」・「泣いた」と、単純明快に描かれています。捕囚の子らはこのような苦しみを味わいました。

流れ」(水路)はパレスチナに無くはありませんが、その規模や風土からして、「バビロンの流れ」は異国情緒にあふれています。そよ風吹く夕暮れ時など、現地の人々にとっては、憩いの場であったに違いありません。

わたしたちは そこに座ったというのは、旅路の果てのユダヤの民の姿を(かい)()見せています。深い嘆きの中で、「そこに」へたり込んでいるようにも思われます。いわば(ぼう)(ぜん)()(しつ)の状態です。

捕囚の子らの心が()き乱されている中で、一つ集中していたのは、シオンを思って(回想して)」ということでありました。エルサレムの丘の一つなるシオン、ダビデの町の一角を指す、その呼称は、深い含蓄をたたえています。つまり、神が日夜臨在し、その弱く貧しい民を見守っている、その土地・「シオン」ということです。この丘から、神を讃美する歌がこだまし、この丘に、神の祝福ととこしえの命が下って来ます(詩編102:22133:3)。

捕囚の子ら」はいまだ慣れ親しめない環境の中で、シオンを思って(回想して)」ということに集中しました。これは、「心の内に ユダヤの魂が()き上がり 東方を、前方をめざす間も 目はシオンを望み見ている」という現代イスラエルの国歌の通り、いついかなる時にも、その民が堅持すべき、霊的な姿勢でありました。

そのように、霊的な姿勢を貫こうとする捕囚の子らに忍び寄る影がありました。悲惨のあまりの甚大(じんだい)さが、彼らの信仰を()さぶったのです。

哀歌5:20,22――

20 なぜ、いつまでもわたしたちを忘れ

果てしなく見捨てておかれるのですか。

22 あなたは激しく憤り

わたしたちをまったく見捨てられました。

捕囚の子らが、神の(いきどお)りのもとに、わたしたちは裁かれたと考えるのは、当然でありましょう。神とわたしたちとの関係はもはや断絶してしまったのではないか、との思いに駆られました。

礼拝所も無く、偶像を崇拝する異邦人に囲まれている「わたしたち」の描写が続きます。

 

Ⅱ ああどうして、わたしたちは歌うことができようか

 詩編137:2-4―― 

2 竪琴(たてごと)は、ほとりの柳の木々に掛けた

3 わたしたちを捕囚にした民が

歌をうたえと言うから

わたしたちを(あざけ)る民が、楽しもうとして

「歌って聞かせよ、シオンの歌を」と言うから。

4 どうして歌うことができようか

主のための歌を、異教の地で。

竪琴(たてごと)は、ほとりの柳の木々にわたしたち掛けた」というのは、竪琴」(複数形)を(そう)する者すべてが、何かストライキでもしているかのようです。今は竪琴をもって神を讃美しないとの、拒絶の意志が明示されています。「ほとりの柳の木々」に、多数の「竪琴」が掛けられているのは、壮観であると同時に、恐ろしくも異様です。

人によっては、「ほとりの柳の木々」を眺めて、わたしたちが休んでいただけ、と解釈されるでしょう。しかし、一時的にせよ、「竪琴」を手放したのは、「わたしたちを捕囚にした」上に「わたしたちを(あざけ)」民を寄せつけない手立てとなりました。

シオンの歌」というのは、神に向けて歌われ、それによって、会衆が一つとなるものでありました。主のための歌とは、そういう意味です。異教」の人々が信仰者に()いる形で、異教の地で讃美させるようなものではありません。

詩編137編は、「異教の地」(バビロニア)で書かれたものではない、とわたしは解釈しました。ただし、ユダヤの一人の詩人が、「異教の地」での生活を振り返って、詩を編んだことには大きな意義がありました。というのも、わたしたちの口と竪琴をもって「主のための歌」がうたえないような逆境が、人生にはあるのだ、ということが示されているからです。

それは、「異教の地」で、一般に神礼拝を為すことが可能かどうかという問題ではありません。あの「捕囚」の時に、「バビロンの流れのほとり」で、「異教」の人々の前で、「竪琴」を(かな)でて礼拝することができなかったということが、(くち)()しい問題なのです。そこには、深い痛みがあります。なぜ、川のほとりの美しい景観の中で、異邦人との垣根を越えて、「わたしたち」は神礼拝ができなかったのか、と。その痛みを表しているのが、哀歌調の「ああどうして、わたしたちは歌うことができようか」という嘆きなのです。

 

Ⅲ もしも、わたしがエルサレムをわたしの最大の喜びとしないなら 

詩編137:5-6――  

5 エルサレム

もしも、わたしがあなたを忘れるなら

わたしの右手はなえるがよい。

6 わたしの舌は上顎(うわあご)にはり付くがよい

もしも、あなたを思わぬときがあるなら

もしも、エルサレムを

わたしの最大の喜びとしないなら

この詩編前半において、民族の信仰的遺産とも言うべきわたしたちの共同体験が回顧され確認されました。ここからは、わたしが語り始めます。

神への絶望(寸前)や人々からの嘲笑によって、「わたしたち」の魂が弱り果てようとしています。それは、「バビロンの流れのほとり」の遠い日の記憶かも知れません。しかし、それは、思い起こすに足る日々でありました。

ここで、預言書を引き合いに出しましょう。

エゼキエル書3:10-11――――

10 更に主は言われた。「人の子よ、わたしがあなたに語るすべての言葉を心におさめ、耳に入れておきなさい。11 そして捕囚となっている同胞のもとに行き、たとえ彼らが聞き入れようと(こば)もうと、『主なる神はこう言われる』と言いなさい。」

主なる神は、「ケバル川の()(はん)」(エゼキエル書3:15)で新しい生活を送っている捕囚の子ら」のもとに、エゼキエルを遣わされました。自分の国と自分自身の崩壊、それに伴う信仰と礼拝の危機において、「そこに」、「哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉」を語り伝えるエゼキエルが立てられました(同上2:9)。エゼキエルは、捕囚の民の間に住み(エゼキエル書2:5)、「わたしたち」と共に、苦難の先にある希望を見渡したのです。

さて、わたしは、「シオンを思って」いた「捕囚の子ら」の(あこが)れを受け止めつつ、「シオン」の丘がある「エルサレム」に呼びかけています。その中で、「わたし」は、「異教の地でああどうして、わたしたちは歌うことができようか」(詩編137:4)との弱く貧しい者の嘆きに応えています。

すなわち、「もしも、わたしがあなたを忘れるなら わたしの右手はなえるがよい。わたしの舌は上顎(うわあご)にはり付くがよい」との詩句には、「わたしたちは歌えますように」との願いが込められています。「わたしの右手はなえる」、また、「わたしの舌上顎(うわあご)にはり付く」というのは言外に、「決してそうならないように」と、神の執り成しを願っています。というのも、わたしの右手」(参照:「」で琴をひくダビデ 列王記上16:16)は竪琴を(かな)でるように、また、わたしの舌は神をほめたたえるように、造られたものだからです。元来、人間という神の作品は、その創造主をほめたたえるものなのです。

その観点に立って、「もしも、わたしがエルサレムを わたしの最大の喜びとしないなら」との詩句を読み取りましょう。これも、神に対する「わたし」の誓いであり、「喜びとしない」ことのないよう、神の執り成しを願っています。

そして、神がその「わたし」の願い求めに応じられるならば、「わたしはエルサレムを わたしの最大の喜びとする」という道が開かれます。どのような形で、わたしの喜びが「わたしの最大の喜び」と言い得るものになるのでしょうか? すでに、答えが出されています。

わたし」が「あなた」(女性形)なる「エルサレム」に心を傾けて、「わたしの右手」で竪琴を奏で、「わたしの舌」で神をほめたたえるとき、「わたしの喜び」は頂点に達します。その時、「バビロンの流れのほとりに座り シオンを思って、わたしたちは泣いた」という悲しみは消え去るでありましょう。

信仰者がそれぞれに、「わたしの最大の喜び」をもって、礼拝に(つど)います。そのために、聖なる都「エルサレム」が破壊のただ中から再建されました。

ところで、そのように日常生活の中心が、神礼拝に置かれているからこそ、「わたしたち」が向き合わなければならないものがあります。この詩編の終わりでは、「異教の地」での隣人(バビロニア人)の無慈悲な振る舞いに続いて、「エルサレム」での血を分けた隣人の罪深い行いが取り上げられます。

 

Ⅳ 主よ、エルサレムの日を覚えていてください         

詩編137:7-9――

7 主よ、覚えていてください

エドムの子ら

エルサレムのあの日

彼らがこう言ったのを

「裸にせよ、裸にせよ、この都の(もとい)まで。」

8 娘バビロンよ、破壊者

いかに幸いなことか

お前がわたしたちにした仕打ちを

お前に仕返す者

9 お前の(おさな)()(とら)えて岩にたたきつける者は。

ここで、詩編冒頭に「シオンを思って、わたしたちは泣いた」と書かれていた、その大きな理由が明らかになります。単に望郷の念にかられて、涙を流していたのではありません。

伝承によれば、「エドムの子ら」は、族長ヤコブの兄エサウの末裔(まつえい)です(創世記25:19-26,30)。ユダヤの民にとって、「エドム」は血を分けた隣人です。

彼らがこう言ったのを「裸にせよ、裸にせよ、この都の(もとい)まで」……詩人はエドムに関して、前587年、エルサレム陥落の際の悪行を証言しています。バビロニア軍にエドム人が加担して、不法を働いたというのは、事実と見られています。

破壊者」と共に、エドムはエルサレムの財宝を略奪し、ユダヤの民が不幸に見舞われるのを眺めていました(オバデヤ書1:10-12、哀歌4:21-22)。文学的に「おとめ」や「」になぞらえられる「エルサレム」(女性形 哀歌2:10,13)が「裸にされる」ほど、耐え難い屈辱はありません。

エドムの、そのように罪深い行いは、「バビロンの流れのほとりに」おいても忘れられるものではありません。なぜなら、自分たちがそのために遠い異国に連行されているのですから。

その上さらに、捕囚の子らが、憧れの都に帰って来たとき、エドムへの憎悪は燃え上がりました。「夏草やつはものどもが夢の跡」(芭蕉)……「エルサレム」の城門は焼け落ちたままでありました(ネヘミヤ記2:17)。それのみならず、捕囚の子らは、親族や友人の死去あるいは彼らとの離別という()き目に()った人々でありました。それらの人々には、親愛の情を抱いていました。しかし、ほんの一部であれ、親しい人から「助けられなかった」または「裏切られた」という失望(哀歌1:2,16)が、捕囚の子らの上に重くのしかかっていました。

捕囚の子ら」は今、荒廃したシオンの丘を眺めやりながら、エルサレムのあの……都の崩壊と祖国の滅亡……を思い起こしています。その「」から、彼らの日常は激変しました。艱難辛苦の日々が始まりました。彼らの人生は、荒海を漂う小舟のように翻弄(ほんろう)させられました。

人生を振り返れば、涙が止まらない中で、ふと、娘バビロン・「破壊者」に対して、「いかに幸いなことか お前の(おさな)()(とら)えて岩にたたきつける者は」との言葉が発せられました。

これは、わたしたちの道徳・倫理を吹き飛ばす言葉です。「やさしい心で、良い行いをしましょう」との勧めをはねつける叫びです。

エルサレムのあの日」に、ユダヤの民が(こうむ)った大惨事から、次のことがうかがえます。すなわち、「彼ら(偽りの預言をする者)が預言を聞かせている民(ユダヤ人)は、飢饉と(つるぎ)に遭い、(ほうむ)る者もなくエルサレムの(ちまた)に投げ捨てられる、彼らも、その妻、息子、娘もすべて」(エレミヤ書14:16)はじめとする預言から、「乳飲み子すら、すべての街角で投げ捨てられた」(ナホム書3:10 他にホセア書14:1)ということが、バビロニアとエドムの連合軍によってユダヤ人に対し実行されたのではないか、ということです。

それでも、わたしたちは、キリスト教倫理に従うべきだとおっしゃられるでしょう。

ローマの信徒への手紙12:19―― 

愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』(申命記32:35と主は言われる」と書いてあります。

周りの人を震撼(しんかん)させるように、復讐心を表出したとしても、「復讐」は神にゆだねなさいということです。使徒パウロは、自分で復讐しないで、神の怒りに任せなさい、と教えています。

その際、大切なのは、わたしたちと敵(復讐したい相手)との問題を、神の前に持ち出すということです。そこで、わたしたちの怒りを、神の怒りにゆだねます。「」をもって、「」に報いてはなりません(Ⅰテサロニケ5:15)。それでは、自滅の道を走ることになります。「わたしの右手はなえ、わたしの舌上顎(うわあご)にはり付いて」しまいます。

主よ覚えていてください」……詩人は見る影もないエルサレム神殿を見上げて、「主よ」と叫んでいます(フィリピ4:6)。が「エルサレムのあの日」を覚えていてくださるように嘆願しています。

古いエルサレムの日はやがて、新しい「エルサレムの日によって、聖別されます。主イエス・キリストが都の外、ゴルゴタの丘で肉を裂かれ血を流されることによって、古い「エルサレムの日」に人間の犯した罪が洗い清められます。

神は、過越祭に、御子イエス・キリストを(あがな)いの犠牲としてささげられた、それが、新しい「エルサレムの日」であります。いにしえの詩人の「主よ、覚えていてください エルサレムのあの日を」との祈りは確かに聞かれました。

主よ、いかに幸いなことか」(詩編137:8,9 新共同訳では:9の方は訳出されていません)との詩編の締めくくりの句において、詩人の信仰が保たれていることが分かります。「いかに幸いなことか」(ヘブライ語 アシュレー)というのは、神の「恵み」を受けるにふさわしい振る舞いと性格とを(信仰者に)指し示し、勧めるのである(J.L.メイズ 詩編1:1の注解より)、という通りです。

わたしたちは そこに座った。わたしたちは泣いた」(詩編137:1)……詩人は、「わたしの右手」で琴を(かな)で、「わたしの舌」は神をほめたたえる日を待ち望みました。希望をもって、バビロニアからエルサレムに(のぼ)る人々の輪に加わりました。

 

Ⅴ 今泣いている人々は、幸いである                      

ルカ福音書6:21 イエスは弟子たちを見て言われた――

今飢えている人々は、幸いである、

あなたがたは満たされる。

今泣いている人々は、幸いである、

あなたがたは笑うようになる

今飢えている人々や「今泣いている人々が「幸いであるというのは、「終わりの日」(ヨハネ6:39)が来るからです。そして、終わりの日が来ることは、主イエス・キリストの十字架と復活による罪人に対する救いが成し遂げられたことによって約束されています。

今から「終わりの日」までの間にも、わたしたちは そこに座った。わたしたちは泣いた」という日々が続くこともあるでしょう。「エドム」や「バビロン」が「わたしたちにした仕打ち」に仕返そうとする思いが湧き上がって来ることもあるでしょう。

わたしたちの日常は、飢えたり満たされたり、あるいは、泣いたり笑ったり、めまぐるしく変化していきます。その中にあって、「幸いである」との主イエス・キリストの宣言は、変わることなく鳴り響いています。わたしたちが再び主イエス・キリストにお会いして、「わたしたちが笑うようになる」日が来ます。

竪琴(たてごと)は、ほとりの柳の木々に掛けた」というひとときも、神がわたしたちに与えられた休息の時かも知れません。どうか、飢えている、泣いている日々にも、手と心を挙げて(哀歌3:41)、神を讃美することができますように

 

Ω

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〈説教の要約〉

2022年  11月6日   召天者記念礼拝 

旧約聖書 エズラ記 6章18節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 15章30節~33節

      「聖なる者たちに歓迎されるように」

           小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしと一緒に神に熱心に祈ってください ……ローマ15:30          

Ⅱ 不信の者たちから守られるように          ……ローマ15:31

Ⅲ エルサレムにおける神への奉仕のために    ……エズラ記6:18  

Ⅳ 喜びのうちにあなたがたのところへ     ……ローマ15:32          

Ⅴ 平和の源である神が共におられるように    ……ローマ15:33

 

大きな枠組み(ローマ12:115:33としてこれまで、パウロは自分の信仰に基づきながら、キリスト者の生活とその倫理について説き明かしました。そして、パウロは後書きとして身辺事情等を(しる)しました(ローマ15:14-33)。今日は、その箇所を3回に分けて読む3回目になります。

なお、ローマの信徒への手紙16章には、個人的な紹介・推薦・挨拶ならびに結びの頌栄がつづられ、前章までと区分される内容になっています。

端的に言えば、ローマの信徒への手紙15:30-33には、パウロの嘆願および祝禱が表されています(おごそ)かに、(なめ)らかに、“霊”の力によって仕上げられています。主語と人称代名詞に着目して、四つの節のテキストを整理すると、以下のようになります。

ローマ15:30

 わたしはあなたがたに願う。

ローマ15:31

  わたしが守られ、わたしの奉仕が歓迎されるように

ローマ15:32

わたしがそちらへ行き、あなたがたのもとで(いこ)うことができるように

ローマ15:33

 の平和があなたがたと共に。

わたしあなたがたの親密な関係を踏まえ、簡にして要を得た結びになっています。しかも、文章・真ん中のローマ15:31-32は、前の段落の「これからの旅行(同上15:22-29を振り返りながら、「わたしのために祈ってください」(同上15:30)という、その課題を打ち明けています。

それでは、手紙の末尾として形式上整えられている、豊かな内容を読み取ることにしましょう。

 

Ⅰ わたしと一緒に神に熱心に祈ってください 

ローマの信徒への手紙15:30――          

兄弟たち、わたしたちの主イエス・キリストによって、また、“霊”が与えてくださる愛によってお願いします。どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください、

先に言及した大きな枠組み(ローマ12:115:33)は、「わたしはあなたがたにお願いします」(同上12:115:30)という勧めの文句で(くく)られています。これまでローマ教会の人々に、いろいろ語ってきたけれども、この短い勧めを心に留めましょう、ということです。それは、まことに個人的・具体的な勧めでありました。

パウロは今や旅立とうとしている状況の中で、へりくだり、ローマ教会の人々に「祈ってください」と懇願(こんがん)しています。実際、エルサレムへの旅に関して、パウロの同行者が何人いたのかは分かりません。何しろ、ギリシアの諸教会によって献げられた「募金の成果」(ローマ15:28)を(たずさ)えているのですから、パウロ一人ではなかったでしょう(使徒21:15)。それでも、盗賊の難、荒れ野での難」によって、「死ぬような目に()」かも知れません(Ⅱコリント11:23,26)。

そのような心配事が尽きない中で、パウロが祈りにおいて同行者となるようローマ教会の人々に願い求めました。霊的な祈り」の交わりにおいて、あなたがたがわたしの(かたわ)らにいる、それこそが、(みやこ)(のぼ)の力となる、とパウロは考えていたのです。

わたしと一緒に神に熱心に祈ってくださいとの句中の「一緒に熱心に(する)」には、特別の動詞が使われています。その原意は「共に競う闘う」で、死力を尽くしてというニュアンスが込められています。それは、ギリシア語の「競う闘う」から、英語の agony 苦悩死の苦しみという語が派生していることから推察されます。要するに、「死の苦しみ」を覚悟して「一緒に熱心に祈ってくださいということです。

主イエスが、十字架刑の前、ゲツセマネの園で祈られたことがありました。その際の主イエスの内面が、「そのとき、悲しみもだえ始められた」(マタイ26:37)というように写し出されています。まさに「わたしは死ぬばかりに悲しい」(同上26:38)との agony 苦悩」において、祈り続けられました。

ゲツセマネの園では、三人の弟子(ペトロ、ヨハネ、ヤコブ)は、「わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」との勧めに従い得ませんでした(竹森満佐一)。まだ彼らには、「祈り」とは、「死力を尽くして」の闘いだということが見えていなかったのです。

パウロは、ローマ教会の「あなたがたの広い心」(寛大さ フィリピ4:4)を信頼していました。「キリストの満ちあふれる祝福」という霊的なものに、共にあずかっていました(ローマ15:27,29)。使徒パウロは、そのような交わり」(コイノーニア 同上15:26)に基づいて、祈り」の「援助」を要請しました。もちろん、パウロも「これからの旅行」の道中で、ローマ教会のために執り成しの祈りをささげたことでしょう。

 

Ⅱ 不信の者たちから守られるように          

ローマの信徒への手紙15:31――

わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られエルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように、

ここで、パウロが出した祈りの課題に入ります。共に「死力を尽くして祈ってくださいという、その内容が以下の2節にわたって展開されます。

①「不信の者たち②「聖なる者たちと明暗が描き出されていますので、それぞれどのような人々を指しているのか、確かめましょう。両者に共通しているのは、これからパウロが「募金」を持って行く「エルサレム」およびその近郊に住んでいる人々だということです。それら二つの群像がはっきりすることによって、パウロの(みやこ)(のぼ)りのために、何を祈ればよいのか、明瞭になります。

ユダヤにいる不信の者たち――

これに関しては、二通りの不信の者たちが想定されます。一つは、ユダヤ教徒で、もう一つは、エルサレム教会のキリスト者です。

パウロは元来、熱心なユダヤ教徒であり、キリスト者を迫害した人です(フィリピ3:6、使徒9:4-5)。しかし、まさにキリスト者を滅ぼそうともくろんでいる最中に、主イエス・キリストに出会い、回心しました。ユダヤ教の「仲間」を裏切ったということで、パウロは反感を買いました。彼の殺害を企てる過激な者がユダヤにはたむろしていました(使徒23:12-15)。

そのために、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られ」と、パウロは自分の命が「救われる」ことを願って、そう言いました。自分は身の危険を感じているので、ぜひとも、悪いことが起こらないよう、祈っていてくださいということなのです。

そのことは理解できるにしても、エルサレム教会のキリスト者の中に「不信の者たち」いるというのは、釈然としないかも知れません。

しかし、パウロはこれまでに、聖霊やイエスの霊に伝道を禁じられたり妨げられたりする経験をしてきました(使徒16:6-7)。「キリストの祝福をあふれるほど持って、あなたがたのところに行く」奉仕者(ローマ15:29)が、どれほど苦労し、どれだけ()()(きょく)(せつ)をたどるのか、パウロ自身、よく知っています。

かつて、エルサレムで使徒会議が開かれたことがありました(使徒15:1-21)。その詳細は省きますが、その会議では、食物規定や割礼など、ユダヤ教の伝統に由来する生活習慣について話し合われました。そして、神に立ち帰る異邦人をむやみに悩ませないよう、配慮がなされることになりました。

その会議に出席していたパウロも、そのような合意に安堵したに違いありません。しかし同時に、パウロは、「聖書」に定められている「律法」からユダヤ人キリスト者が解放されることは、とても難しいと見抜いていました。()いては、それが()(だね)のように燃えさかり、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者の間に溝ができるのを案じていました。

さすがに、エルサレム教会のキリスト者のために、パウロの身が(あや)うくなることはなかったでありましょう。けれども、せっかくの主にある恵みの献げ物、諸教会による「募金」を、「不信の者たち」から拒否される可能性はありました。もし、そうなれば、異邦人キリスト者の好意を知るパウロにとって、魂の打ちのめされるような悲惨な出来事になりました。それ故に、「わたしがユダヤにいる不信の者たちから守られるように」祈ってくださいと、訴えたのであります。

エルサレムの聖なる者たち――

パウロはこの世の旅人として明暗の「明」を見失うことなく、それによって苦難を乗り越えていきました。具体的には、パウロは、エルサレムの聖なる者たちに希望の光を見いだし、彼らの中にいる貧しい人々を援助することに努めました。

エルサレムの聖なる者たち」とは、主に初代のキリスト教会に属する人々で、その中には、貧しい人々がいました。彼らを支援するためにも、初めの教会の信者たちは、「皆一つになって、すべての物を共有にし、財産や持ち物を売り、おのおのの必要に応じて、皆がそれを分け合った」(使徒2:44-45)ということです。それ故に、「肉なるもの」(ローマ15:27)、すなわち、献金は、「貧しい人々」を苦境から救い出す一助となりました。

パウロは、「募金」を献げたギリシアの諸教会の祈りと期待を(にな)って、エルサレムへ旅立とうとしています。その際、彼は慎重にも、「ユダヤにいる不信の者たち」による妨害に心を配っていました。「募金」は尊いものですが、ユダヤ人と異邦人の交わりに、あるいは、エルサレム教会内部に、分断を引き起こしかねないものであります。

そこで、「エルサレムに対するわたしの奉仕が聖なる者たちに歓迎されるように」、わたしのために()()してほしいと、手紙に書き添えました。

ところで、なぜ、パウロは、エルサレムに(のぼ)って、「募金の成果を確実に手渡す」(ローマ15:28)という重い任務を引き受けたのでしょうか。「こうしてわたしは、エルサレムからイリリコン州まで巡って、キリストの福音をあまねく宣べ伝えました」(ローマ15:19)と述べているので、都での伝道を考えているのではなさそうです。もはや真実は闇の中ですが、神の壮大な救済の計画のもとで、パウロが、「エルサレムに対するわたしの奉仕」に大きな意義を見いだしたのは確かなことでありましょう。

ここで、パウロが「聖書」を通して覚えていたかも知れない、神の都での奉仕の先例を取り上げてみましょう。聖なる業が、神の力強い導きと、信仰者の従順によって基礎づけられました。

 

Ⅲ エルサレムにおける神への奉仕のために   

エズラ記6:18――  

そしてモーセの書に書き記されているとおり、エルサレムにおける神への奉仕のために、祭司たちをその担当の務めによって、レビ人をその組分けによって任務に()かせた。

まず、時代背景を説明しましょう。

587年、バビロニアの攻撃によって、神殿はじめ都エルサレムは破壊されました。これによって、ユダ王国は滅亡しました。それから、前539年、ペルシアがバビロニアを征服しました。前538年、ペルシア王キュロスの(ちょく)(れい)によって、ユダヤ人の、捕囚地から祖国への帰還と神殿再建の許可が出されました。 

520年、ゼルバベルとイエシュアが神殿再建を指導することになりました(エズラ記5:1-2)。515年、無事、第二神殿が完成しました(同上6:15。さっそく、神殿の奉献の式が執り行われました(同上6:16-18。祝祭の喜びのうちに、700頭を越える動物がいけにえとして(ささ)げられたという記事のあとに、載っているのが先の一節です。

破壊された神殿が再建された、そして、捕囚から帰還した「祭司」と「レビ人が聖務に就いたというのですから、その喜びは想像を絶するものでありましょう。霊的な指導者、預言者ハガイとゼカリヤやユダの長老たち(エズラ記6:13も、その喜びの輪の中にありました。 

捕囚から帰還した祭司」と「レビ人と言ったのは、彼らが捕囚の子らエズラ記6:16)に属するからです。彼らは捕囚の身だったとはいえ、住み慣れた土地を離れ、困難な旅を経て、故郷に帰って来た人々です。都と神殿の再建にあたっては、さまざまな妨害がありました(エズラ記6:6、ネヘミヤ記3:33-35)。

しかしながら、きょうという日に、「捕囚の子ら」なる「祭司」と「レビ人」は、「エルサレムにおける神への奉仕のために」働き始めました。

やがて、奉仕者たちの「担当の務め」や「組分け」が潤滑に機能するようになりました。それに加えて、(えい)(しょう)者や琴を(かな)でるなどが選び分けられ、奉仕に従事しました歴代誌上25。そうして、神殿では三大祭など、讃美のうちに主を礼拝するようになりましネヘミヤ記8:6

大惨事の絶望の中から救い出された人々は、エルサレムにおける神への奉仕」に(たずさ)わり、最上の喜びに満たされたに違いありません。

 

Ⅳ 喜びのうちにあなたがたのところへ     

ローマの信徒への手紙15:32――          

こうして、神の御心によって喜びのうちにそちらへ行き、あなたがたのもとで(いこ)うことができるように。

さて、共に「死力を尽くして祈ってくださいと願っている、その内容の後半を見てみましょう。背景となる場面が、エルサレムの旅からローマの旅へと転じています。とは言っても、双方の旅路はパウロの人生においてつながっています。そこでまず、先行する旅で、パウロはどのような「喜び」を体験していたのか(正確にはこれからの事になりますが……)、振り返りましょう。

パウロのエルサレムの旅というのは、その都の教会に属する「貧しい人々」のために、「募金の成果」を送り届けることが目的です。「募金」を献げたのは、マケドニア州とアカイア州……フィリピ、テサロニケ、コリントなど……のキリスト者です。パウロはその人々について、次のように語っています。

ローマ15:26人々が援助することに喜んで同意したからです

ローマ15:27人々肉のもので彼らを助けることに喜んで同意しました

パウロは重ねて、「募金」を献げた人々の喜びを描き出しています。パウロはほんとうに異邦人たちがユダヤ人の教会を援助してくれたことがうれしかったのでしょう。そして、さらに異邦人の執り成しの祈りがあれば、ユダヤにいる不信の者たち」とも忍耐強く向き合えると覚悟を決めたのでありましょう。

そのようにして、パウロは、悲しみを消し去る喜び(イザヤ書51:11)をもって、地中海圏・西方の伝道に向かうという幻を(いだ)いたのであります。それ故に、神の御心によって喜びのうちに」あなたがたのところへ行くことができるように、わたしと共に祈ってほしいと願い出たのです。

たとい、「エルサレムにおける神への奉仕」によって疲れきっていたとしても、「主において喜んで」いれば、「あなたがたのもとで(いこ)うことができる」でしょう。

 

Ⅴ 平和の源である神が共におられるように  

ローマの信徒への手紙15:33――

平和の源である神(原文:平和の神があなたがた一同と共におられるように、アーメン。

後書きが、「アーメン」を伴う祝禱によって、厳かに閉じられています。パウロがあたかも、ローマ教会の講壇に立ち、会衆を見わたして宣言しているかのようです。

同時に、わたしのこれからの旅行(ローマ15:22-29)について、ローマ教会の人々に「祈ってください」と懇願(こんがん)した文脈からすると、わたしのために常に神の「平和」を覚えてほしいということです。

これは、いわゆるパウロ書簡でよく用いられている祝禱です(ローマ1:715:13、ガラテヤ6:16、フィリピ4:9)。終わりにふさわしい、わたしあなたがたの親密な交わりを踏まえた挨拶です。

ただしここでは、なぜ、神の「平和パウロの身辺事情、殊に、これからの旅行」のために祈られねばならなかったのか、(とら)えることにしましょう。(なに)(ゆえ)パウロ神の「平和」を切望していたのでしょうか。

パウロは今、聖霊行伝」(使徒言行録の別称:聖霊の働きを記した書物)の主要人物として、神の支配のもとにある壮大な計画を遂行(すいこう)しています。さまざまな困難の中で、日々、不安や(しょう)(そう)に取り巻かれていました。常に自分の心が「平安」に満たされて、悪感情が消え去るように願っていたことでしょう。

パウロのこれからの旅行における不安材料または課題――

ユダヤにいる不信の者たち」から受ける迫害または拒絶 ローマ15:31

エルサレム教会への援助を契機とするユダヤ人と異邦人との和解 ローマ15:31

地中海圏の西方へと方向変換された伝道計画についてのローマ教会の人々の理解 ローマ15:32

  ローマのキリスト者はパウロの来訪によって絶大な協力を得ると共に、彼らもまた、イスパニア伝道を支援しなければなりません。

本日のテキストに限定しただけでも、上述のように、神の「平和」を()い願わなければならない祈り」の課題があります。

人間の心は自分の道を計画する」という段階で、心が千々(ちぢ)に乱れても、「主が一歩一歩を備えてくださる」(私訳:主が人の歩みを確かなものとしてくださる)と確信できれば幸いです(箴言16:9)。というのも、神の御心に添って立てられた「計画」が将来、豊かな実を結ぶ、と待つことができるからです。わたしたちは、見果てぬ(ただ神の啓示によって知られる)ところを望み見ること自体が、伝道の一環であると教えられます。

復活された主イエス・キリストは、疑い深いトマスはじめ弟子たちに、「あなたがたに平和があるように」と語りかけられました(ヨハネ20:26)。

平和の神が、十字架と復活の主、イエス・キリストにあって、

あなたがた一同と共におられるように、アーメン。

平和の神」に、わたしたちもまた、「アーメン」(真実)なるお方、主イエス・キリストの御名によって祈りましょう。

 

Ω

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月報10月号

      

  説教 イエスを裁判の席に座らせた

     ヨハネによる福音書 19章13節~16節前半      小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ピラトがイエスを裁判の席に着かせた          ……ヨハネ19:13             

Ⅱ 見よ、あなたたちの王だ                      ……ヨハネ19:14 

Ⅲ わたしたちには、皇帝のほかに王はありません  ……ヨハネ19:15   

Ⅳ 主は永遠の王                                ……エレミヤ書10:10           

Ⅴ ピラトはイエスを彼らに引き渡した            ……ヨハネ19:16  

結 

 

いよいよ、ローマ総督ピラトによる主イエスの裁判(ヨハネ18:2819:16)の最終場面を迎えました。

初めに、主イエスは大祭司カイアファのところから総督官邸に連れて行かれました。そしてその朝方(同上18:27-28)、ピラトによる裁判が開かれました。その後、主イエスは官邸の外に出され、自ら十字架を背負い、ゴルゴタへ向かわれました(同上19:17)。

本日のテキストには、とうとう主イエスが官邸の外に連れ出され、皆に取り巻かれて、ピラトとユダヤ人たちとが問答する様子が描かれています。主イエスの裁判の終局に当たり、人間が神の子を裁くとは一体どういうことなのか、その真相を探ることにします。というのは、なぜ、また、どういう経緯で、主イエス・キリストが十字架につけられたのか、を知り思い起こすのは、わたしたちの信仰の(もとい)となることだからです。

わたしたちにも内在する自己本位の思惑(おもわく)と罪深さを見つめ、その背後にある神の救いの計画を(とら)えましょう。ニサン(3 / 4月)の14、「過越祭の準備の日(ヨハネ19:14)、御子イエス・キリストの十字架刑に関わる出来事が白日の下にさらされます。

 

Ⅰ ピラトがイエスを裁判の席に着かせた

ヨハネ福音書19:13――

ピラトは、これらの言葉を聞くと、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石(しきいし)」という場所で、裁判の席に着かせた。

なんだか取って付けの(しつら)いに見えますが、「ヘブライ語でガバタ、すなわち敷石(しきいし)』という場所」に裁判が用意されました。驚くべきは、大祭司アンナスならびにカイアファ、そしてピラトの尋問(じんもん)(ヨハネ18:2819:16)を通じて、ここではじめて、裁判・「」という用語が出てきたことです。

それが意味するのは、まともな取り調べがこれまで全く行われなかったということです。同時にここで、神の支配の下に、主イエス・キリストの裁判があったのを確認したことになります。この「裁判」では真実のところ、一体誰が裁かれているのか、わたしたちは裁判陪席(ばいせき)()(きわ)めねばなりません。さあ、「裁判の席」に着いている主イエスを想像してみましょう。

ピラトは、これらの言葉を聞くと」というのは、かいつまんで言うと、次のようなことです。

官邸内でピラトは沈黙し続ける主イエスに対し、「わたしに答えないのか。お前を釈放する権限も、十字架につける権限も、このわたしにあることを知らないのか」(ヨハネ19:10)と(おど)しました。「わたしはこの男に罪を見いだせない」(ヨハネ18:3819:4,6)ことを、主イエスとの会話で確かめたかったのかも知れません。しかし、それならば、高飛車に出ないで、弟子たちや女性たちを証人に()ぶべきでありました。

誰も聞いていないと思って言い放った自分の「権限」が、ブーメラン現象を引き起こしました。まるでユダヤ人たちが盗聴していたかのように、彼らからしっぺ返しを食らうことになりました。

ユダヤ人たちは叫びました、「もし、この男を釈放するなら、あなたは皇帝の友ではない。王と自称する者は皆、帝に(そむ)いています」(ヨハネ19:12)。「皇帝に(そむ)いています」と、皇帝」の「権限がピラトの面前に持ち出されました。主イエスに対し「権限」を振りかざしていたピラトも形無しです。

従って、前掲の句は、ピラトは、皇帝の権限はじめ、彼を打ちのめす言葉を聞くと」と言い換えられます。もはや、ピラトはユダヤ人たちのあやつり人形で、裁判」長の「権限」など持ち合わせていません。善悪の判断すらつかなくなっています。そういう状態で、結審が告げられようとしています。

ピラトは、イエスを外に連れ出し、ヘブライ語でガバタ、すなわち『敷石(しきいし)』という場所で、裁判の席に着かせた。」……敷石(しきいし)』という場所という現場が、この出来事が事実であることを物語っています。「イエスを外に連れ出し」たということで、ローマ人とユダヤ人が参集した公開の「裁判」が開かれました。ピラトはもはや官邸内に逃げ込めません。

 

Ⅱ 見よ、あなたたちの王だ                      

ヨハネ福音書19:14―― 

それは過越祭の準備の日の、正午ごろであった。ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと、

前節では、主イエスの裁判場所が明らかにされました。すなわち、ピラトの官邸の外の「敷石(しきいし)」に最終審議の場所が設けられました。そこで、主イエスを十字架につけるかどうか、結論が出されます。今日、そこは悲しみの道(ヴィア・ドロローサ)の起点になっています。

そしてこの節では、その「裁判」の日時が示されます。主イエス・キリストの十字架刑に関わる「時空間」が事実として確認されているということは、或る真実を現しています。すなわち、この「裁判」を本当のところ導き支配しておられるのは、神であるということです。

それでは、それは過越祭の準備の日の、正午ごろであったとの時間設定に、どのような神の御心が隠されているのでしょうか。歴史的事実が指し示している真実とは、一体何なのでしょうか。

その問いに答える前に、日付について基本的なことを説明します。

一方、マルコ福音書では、主イエスが十字架につけられ、その後埋葬されたのは、ニサン(3 / 4月)の15日と考えられます(15:42)。他方、ヨハネ福音書では、それがニサンの14日(過越祭準備の日)と思われます。つまり、過越祭の最中(第1日目)なのか、それとも、その「準備の日」(祭りの前日)なのか、二つに伝承が分かれています。

いずれにしても、重要なのは、主イエスの十字架刑が「過越祭」と堅く結びついていたということです。すなわち、聖書(出エジプト記12:1-14)に()れば、主イエスが十字架に上げられるのは、「傷のない小羊」が犠牲として(ほふ)られることの最終的な成就であると言えます。その理解を補強するかのように、洗礼者ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と、自分の方へイエスが来られるのを見て叫びました(ヨハネ1:29)。

最初に祝われた「主の(すぎ)(こし)」において、滅ぼす者の災いは、犠牲の「小羊」の血に塗られた家を過ぎ越したと伝えられています。その時以来、イスラエルの民が祝い、守ってきた「過越祭」で、主イエスが十字架に上げられました。それはまさに、「世の罪を取り除く神の小羊」として(ささ)げられたということです。

過越祭の準備の日の、正午ごろ」というさりげない時間の標示は、わたしたちの罪が「傷のない小羊」、すなわち、罪を犯されなかった主イエス・キリストによって(あがな)われたという信仰の告白につながっています。人の手によっては救われようのない弱く貧しい者の前に、新しい人間とされる道が開かれました。

このように、十字架刑の裁判と十字架の道(ヴィア・ドロローサ)との節目において、主イエス・キリストの置かれている「時空間」が明らかにされました。それによって、主イエスが十字架に上げられるという出来事全体が、まぎれもなく神の救いの計画の中にあったと知らされます。

日付の標示の後に、ピラトがユダヤ人たちに、「見よ、あなたたちの王だ」と言うと続きます。今しがた、ピラトは、「皇帝の権限」の矢によって自分の「権限」を刺し貫かれました。もはや自分を見失っています。そこで発したピラトの言葉も、なるイエスを釈放しようとしているのか、それとも、あなたたちと自称している者をまかせようとしているのか、意味不明です。苦しまぎれの叫びにも聞こえます。

しかし、この場のユダヤ人たちのように怒り狂うのではなく、霊的な理解をもって、見よ、あなたたちの王だとの宣言を受け止めることにしましょう。

参照すべき先行例がありますので、みなさんに思い起こしていただきましょう。

ヨハネ福音書19:4-5――    

4 ピラトはまた出て来て、言った。「見よ、あの男をあなたたちのところへ引き出そう。そうすれば、わたしが彼に何の罪も見いだせないわけが分かるだろう。」 5 イエスは茨の冠をかぶり、紫の服を着けて出て来られた。ピラトは、「見よ、この男だ」と言った。

この箇所の説教で、神がピラトの口に乗せた、信仰告白(の一部)として、「見よ、この男だ」(見よ、この人を)との句を読み取るという話をしました。それと言うのも、「この人」(ホ アンスローポス / The Man)というのが、イエス・キリストの称号を表しているからです。イエス・キリストにこの人という言葉を重ねることによって、「この人」は「人となりたる ()ける神」であると教えられます(讃美歌Ⅰ-121番)。「この人」はわたしたちに寄り添い、「命を与える霊」をもって(Ⅰコリント15:45)、わたしたち・罪人を立ち上がらせてくださいます。

見よ、あなたたちの王だ」……これは、ピラトの信仰告白です。罪人を(きよ)める御言葉です。

マタイ福音書27:37――

イエスの頭の上には、「これはユダヤ人の王イエスである」と書いた罪状書きを(かか)げた。

主イエスは、「ユダヤ人の王としてお生まれになった方」(マタイ2:2)であり、ユダヤ人の王としてこの地上の生涯を終えられました。その間に、御子は神に遣わされた者として、御父の持っておられる「権限権威」を現されました。十字架の道行きにおいても、「あなたたちの」なるイエス・キリストは、神こそがまことの支配者であることを示されます。イエス・キリストは神への(もく)(じゅう)を貫かれ、へりくだり、そして高く上げられるという形で、まことの「」となられました。

ピラトの「見よ、あなたたちの王だ」との一声は、十字架上で死を遂げられるイエス・キリストに向けられたものであります。時宜(じぎ)にかなった告知です。すると、この「に、群衆の視線が注がれました。

 

Ⅲ わたしたちには、皇帝のほかに王はありません  

ヨハネ福音書19:15――

 彼らは叫んだ。「殺せ。殺せ。十字架につけろ。」ピラトが、「あなたたちの王をわたしが十字架につけるのか」と言うと、祭司長たちは、「わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と答えた。

神がピラトの口に言葉を入れ、「見よ、この人を」ならびに「見よ、あなたたちの王だ」との信仰告白(の一部)が「」で表明されました。すると、祭司長・下役・群衆は、十字架につけろ」と叫びました(ヨハネ19:4-5,13-14。聖なる御言葉によって、人間の罪性がえぐり出されたと言えましょう。群衆全体が、自己中心と興奮に取り()かれています。主イエスがユダヤ人の王」であるかどうか、一人ひとりが内省しようとはしません。

わたしたちには、皇帝のほかに王はありません……これは、ユダヤ人たち(ヨハネ19:14)の発言です。当時、ユダヤ人たちは、ローマ帝国の被征服民でありました。弱い立場に置かれながらも、敬虔なユダヤ人たちは聖書を読み、信仰を守り通そうとしました。エルサレム神殿が外敵によって破壊された時(紀元前169年、紀元後70年など)には、ユダヤの魂が燃え上がり、独立の機運が高まりました。

しかし、今何ということでしょうか、ユダヤ人が自分たちの「」はローマ皇帝(ティベリウス 在位 紀元後14-37年)だと叫んでいます。何という()(まん)なのでしょう。相手を論破するためには、虚言をも(いと)いません。この発言の不信仰さについては、で「聖書」に照らして説き明かします。

とにもかくにも、主イエスを十字架刑にしたいと、ユダヤ人たちは手段を選びません。すでにユダヤ人たちのあやつり人形で、「裁判」長の「権限」など持ち合わせていないピラトが、彼らの言いなりになるのは目に見えています。

ユダヤ人たちは人間を「」に祭り上げることによって、信仰の危機に陥りました。彼らは先祖であり預言者であるサムエルが主なる神から聞いた言葉を思い起こすべきでありました……「彼ら(イスラエルの民)の上にわたし(神)王として君臨することを退けているのだ」(サムエル記上8:7)。

歴史的・政治的経緯の中で、イスラエルにも、一人の人物が選ばれ、「」として立てられることがありました(サムエル記上8:22)。そこで大切なのは、その権能が神から委託されたものであり(同上8:9,11)、「」自らがへりくだって、民と共に信仰を継承していくことでありました。

ここで、「主は永遠の王」との句を含む「聖書」を読むことにしましょう。わたしたちには、皇帝のほかに王はありません」と、わめき立てたユダヤ人の愚かさが浮き彫りにされます。

 

Ⅳ 主は永遠の王                                          

エレミヤ書10:10―― 

主は真理の神、

命の神、永遠を支配する王(直訳 永遠の

その(いか)りに大地は震え

その(いきどお)りに諸国の民は耐ええない

主は真理の神、命の神、永遠の王」……このように、「聖書」に照らすと、ピラトによる主イエスの裁判の終局で、ユダヤ人たちが最も基本的な信仰告白を放棄したことが分かります。群衆の周りには、大祭司や律法学者がいたはずですが、どうしたことでしょう。これによって、預言者サムエルやエレミヤと異なり、彼らはまことの「」なる「メシア」(救い主 ヨハネ1:41)を待望することがなくなりました。一時的な自己中心と興奮状態から言い放った神冒瀆によって、ユダヤ人たちの将来は、闇と化してしまいました。

以下、「主は永遠の王」と明言しているエレミヤ書10:10に、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事と重ね合わせて捉えることにしましょう(参照:テモテへの手紙 1:12-17 小河信一・説教要約 20211219日)。

その(いか)りに大地は震え その(いきどお)りに諸国の民は耐ええない」……主イエス・キリストがわたしたちの間に降誕し、十字架と復活による救いの御業を成し遂げられました。その際、神の「(いか)」が十字架の上に(くだ)って来ました。エレミヤが預言した「諸国の民は耐ええない(いきどお)」もろともに……。主イエスは、「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」、怒りの(さかずき)を飲み干されました(マタイ26:39、エレミヤ書49:12)。

大勢の婦人たちが見守る中(マタイ27:55)、「このイエスは、御自身の前にある喜びを捨て、恥をもいとわないで十字架の死を耐え忍ばれました」(ヘブライ12:2)。「そうならないように」、御怒りによって諸国の民が()(つぶ)されないように、というエレミヤの祈りを神は聞き届けられました

こうして、父なる神は十字架に上げられた御子によって栄光をお受けになりました(ヨハネ14:1317:1)。古来よりの約束を果たされる神、「命の神、永遠の王」は、主イエス・キリストを通して、わたしたちを永遠の命に導いてくださいます(ローマ5:21)。

このように、エレミヤ書10:10に基づいて、主イエス・キリストこそ、永遠の王と告白することが、わたしたちに求められています。わたしたちの上に主イエス・キリストが「永遠の王」として君臨してくださっています。一部のユダヤ人たちの神冒瀆に(まど)わされてはなりません。

 

Ⅴ ピラトはイエスを彼らに引き渡した           

ヨハネ福音書19:16――  

そこで、ピラトは、十字架につけるために、イエスを彼らに引き渡した。

罪深い人間によって(しつら)えられた裁判でありますが、冷厳なる雰囲気のうちに幕を閉じています。総督官邸の「」には、十字架の道(ヴィア・ドロローサ)がゴルゴタに向かって()びています。

すでに何度かお話しした通り、引き渡しは、わたしたちの犯す罪の中でも、最も深刻なものの一つです。おざなりな裁判」の最後に、その罪が挙げられているのは的確であり、わたしたちはその残忍性を(かえり)みるべきであります。

ここで言う引き渡し」は多岐(たき)にわたり、「知らぬ(ぞん)ぜぬ」の罪、「雲隠れ」の罪、そして「黒幕」の罪などと言い換えられます。というのも、主イエスを他者に「引き渡す」のは、()(そく)なやり方だからです。途中で自分は手を洗い(マタイ27:24)、最終的な(あく)(ぎょう)を誰かに押しつけ、自分は雲隠れしてしまいます。あなたに思い当たりがないというなら、幸いなのですが……

最後に明証されているピラトの「引き渡し」の罪については、前からの不穏な動きがありますので、見返しておきましょう。

ヨハネ福音書19:11――          

イエスは(ピラトに)答えられた。「神から与えられていなければ、わたしに対して何の権限もないはずだ。だから、わたしをあなたに引き渡した者の罪はもっと重い。」

善悪の判断の主であるイエス・キリストが、「引き渡し」の「罪は重い」と明言されています。その上で、ローマ人のピラトよりもユダヤ人たちの「罪はもっと重い」と述べられています。少なくとも、ピラトによる裁判の中盤では、ピラトの引き渡しの罪は問われていません。一方、ユダヤ人(ヨハネ18:12,31)に関しては、「人々は、イエスをカイアファのところから総督官邸に連れて行った」(同上18:28)と、「引き渡し」の罪が実証されています。

そこまでは、ピラト自身は「引き渡し」を免れているかも知れませんが、最後に、「ピラトは、イエスを彼らに引き渡した」と報告されています。ピラトもまた、十字架刑の結審付きでイエスをユダヤ人たちに「引き渡しました。主イエスを「裏切り」ました(参照:「引き渡す」は「裏切る」と意訳され得ます)。こうしてピラトは、「引き渡した者の罪はもっと重い」という(あく)(ぎょう)に巻き込まれてしまいました。主イエスは他の人の罪を指摘して、ピラトを(さと)されましたが、彼もまた同じ罪を犯してしまいました(エレミヤ書3:6-8)。ヨハネ福音書記者はこの事実を重く受け止め、教会内で語り伝えるようになりました

 

結 

長大なる十字架刑の裁判と十字架の道(ヴィア・ドロローサ)との節目において、どこで、いつということが明確にされました。それならば、わたしたちの信仰を基礎づけるこの出来事において、わたしたちはどこにいるのでしょうか?

主イエス・キリストが十字架に上げられることは、まぎれもなく神の救いの計画のもとにありました。その中で、わたしたちの数々の罪は、「傷のない小羊」、すなわち、罪を犯されなかった主イエス・キリストによって贖われ、大いなる救いが成し遂げられました。

そのことを顧みるとき、本来ならば、「ヘブライ語でガバタ、すなわち「敷石(しきいし)」という場所で、裁判の席に着かせ」られるのは、わたしたち・人間であります。自分の罪の故に、神の(いきどお)りもろともに裁かれるのが、当然でありました。

しかし、その「裁判の席」に座っておられたのは、主イエス・キリストでありました。そして、御子イエスが裁かれ、十字架刑につけることが決定されました。それは、父なる神が御子イエスを、裁判と十字架の死をもって裁くことにより、わたしたちを死と罪の縄目から解き放つためでありました。神の決断のもとに、その救いの計画が立てられ、時が満ちて、成就しました。

わたしたちは、ユダヤ人の大祭司や群衆ならびにローマ人の総督と同様に、罪深い者であり、自分の力では主イエスにつき従い得ない者であります。しかし、わたしたちは主の弟子たちのように、ピラトによる裁判の時にも、身を隠す者であります。しかし、神はそのような信仰の小さい者に立ち直る機会を与えてくださいました。わたしたちそれぞれに、主イエスがメシアであると告白する時が来るように導かれました。そのためにまず、自分の罪を(かえり)み、十字架の下に、あるいは、敷石(しきいし)という裁きの場所に立って、主イエス・キリストの救いの御業を見つめましょう。                 

Ω

 

  

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