礼拝、説教

8礼拝  2025年5月18日 

           (午前10時15分~11時20分)                     

復活節 第5日  講壇交換  

 

招き   前奏

招詞   詩編146編 1節~2節

頌栄   

主の祈り  (交読文 表紙裏)

讃美歌    10

交読文  15 詩編46編

旧約聖書 エレミヤ書 20章7節~9節

新約聖書 マルコによる福音書 1章16節~20節

 

祈祷

讃美歌  27

説教   「神様に従うことで開く生活」 

      

                   小河信一牧師             祈祷             

讃美歌   338

使徒信条

 

献金 

報告

讃詠    545

祝祷

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2025年5月11日「主イエスが十二弟子を招く」小河信一牧師
ダニエル書1章3節~4節
ルカによる福音書6章12節~19節
250511_0279.MP3
MP3 オーディオファイル 28.1 MB
2025年5月4日「わたしは暁を目覚めさせよう」
詩編57編1~12節
ルカによる福音書6章35節
250504_0278.MP3
MP3 オーディオファイル 28.5 MB
2025年4月27日「天を引き裂き、降って来てください」小河信一牧師
イザヤ書63章15節~64章4節
コリントの信徒への手紙一2章8節~9節
250427_0277.MP3
MP3 オーディオファイル 26.4 MB
2025年4月20日「そこでわたしに会えるだろう」小河信一牧師
詩編16編10節~11節
マタイによる福音書28章1節~10節
250420_0276.MP3
MP3 オーディオファイル 26.3 MB
2025年4月13日「御子による過越の子羊~過越による永遠の命~」磯部理一郎牧師
出エジプト記12章1節~14節
マタイによる福音書26章17節~30節
250413_0713.MP3
MP3 オーディオファイル 41.8 MB
2025年4月6日「彼らに自分自身を捧げます~主の真理の霊による聖別~」磯部理一郎牧師
イザヤ書53章1節~12節
ヨハネによる福音書17章16節~26節
250406_0710.MP3
MP3 オーディオファイル 29.0 MB
2024年3月30日「荒れ狂う大嵐の中にあっても~栄光の神の原理~」磯部理一郎牧師
イザヤ書35章1節~10節
マタイによる福音書14章22節~33節
250330_0707.MP3
MP3 オーディオファイル 41.5 MB
2025年3月23日「今こそ、立ち上がる時~罪の病からの解放~」磯部理一郎師
詩編78編12節~29節
ヨハネによる福音書5章1節~18節
250323_0704.MP3
MP3 オーディオファイル 39.6 MB
2025年3月16日「今こそ、真の礼拝の時~神のメシアとの出会い~」磯部理一郎師
申命記6章4節~9節
ヨハネによる福音書4章1節~26節
250316_0701.MP3
MP3 オーディオファイル 41.7 MB
2025年3月9日「この岩の上に教会を ~真の教会を求めて~磯部理一郎牧師
詩編42編 1節~12節
マタイによる福音書16章13節~20節
250309_0698.MP3
MP3 オーディオファイル 42.3 MB
2025年3月2日「取って食べなさい、これはわたしの身体である」磯部理一郎牧師
ルカによる福音書22章14節~23節
コリントの信徒への手紙一11章23節~34節
250302_0695.MP3
MP3 オーディオファイル 40.8 MB
2025年2月23日「ニコデモの苦悶~聖霊による新生~」 磯部理一郎牧師
イザヤ書 40章1節~11節
ヨハネによる福音書3章1節~15節
250223_0692.MP3
MP3 オーディオファイル 42.4 MB
2025年2月16日「十字架につけられたキリスト以外は」
ミカ書3章8節
コリントの信徒への手紙一2章1節~5節
コリントの信徒への手紙 一 2:1-5 説教 2024年07月21日 講壇交換 
MP3 オーディオファイル 26.0 MB
2025年2月9日「その日には、夕暮れに光がある」
ゼカリヤ書14章6節~7節
マルコによる福音書16章1節~2節
ゼカリヤ書14:6-7 説教 2024年10月13日 於、藤沢教会 説教.MP3
MP3 オーディオファイル 27.4 MB
2025 年2月2日「聖なる者とされている」
マラキ書2章14節~16節
コリントの信徒への手紙一 7章8節~16節
250126_0274.MP3
MP3 オーディオファイル 30.3 MB
2025 年1月26日「主の御名は力の塔」
箴言18章1節~10節
マタイによる福音書6章9節
250126_0274.MP3
MP3 オーディオファイル 30.3 MB
2025 年1月19日「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」
ゼカリヤ書10章2節
マルコによる福音書6章30節~44節
250119_0273.MP3
MP3 オーディオファイル 29.9 MB
2025 年1月12日「イエスの名が知れ渡ったので」
レビ記18章16節
マルコによる福音書6章14節~29節
250112_0272.MP3
MP3 オーディオファイル 27.1 MB
2025年1月5日「一人ひとり神からの賜物を持っている」
ゼカリヤ書12章12節~14節
コリントの信徒への手紙一7章1節~7節
250105_0271.MP3
MP3 オーディオファイル 29.5 MB
2024 年12月29日「あたながたの体は聖霊が宿ってくださる神殿である」
創世記2章24節
コリントの信徒への手紙一6章15節~20節
241229_0270.MP3
MP3 オーディオファイル 27.5 MB
2024年12月22日「この方こそ神の子である」
ダニエル書3章25節
ヨハネによる福音書1章29節~34節
241222_0269.MP3
MP3 オーディオファイル 22.6 MB
2024年12月15日「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」
出エジプト記33章20節
ヨハネによる福音書1章14節~18節
241215_0268.MP3
MP3 オーディオファイル 28.8 MB
2024年12月8日「ここに、光について証しする人、現れり」
イザヤ書48章16節
ヨハネによる福音書1章6節~8節
241208_0267.MP3
MP3 オーディオファイル 29.2 MB
2024年11月24日「主は人の歩みを堅くされる」
箴言16章1節~9節
使徒言行録 16章10節
241124_0265.MP3
MP3 オーディオファイル 25.7 MB
2024年11月17日「兄弟を仲裁できるような知恵のある者は」
ダニエル書7章15節~22節
コリントの信徒への手紙一6章1節~8節
241117_0263.MP3
MP3 オーディオファイル 28.3 MB
2024年11月10日「預言者は故郷では敬われない」
エレミヤ書11章21節~23節
マルコによる福音書6章1節~6節a
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MP3 オーディオファイル 26.7 MB
2024年11月03日「その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」
旧約聖書 出エジプト記 16章12節~15節
新約聖書 コリントの信徒への手紙一 6章12節~14節
241103_0261.MP3
MP3 オーディオファイル 26.4 MB
2024年10月27日「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」t
イザヤ書4章2節~6節
コリントの信徒への手紙一 6章9節~11節
241027_0260.MP3
MP3 オーディオファイル 27.1 MB
2024年10月20日「主はうずくまっている人を起こされる」
詩編 146編 1節~10節
ペトロの手紙一 4章6節
241020_0259.MP3
MP3 オーディオファイル 27.7 MB
2024年10月13日「ペトロの信仰」神奈川教区・巡回牧師 貴田寛仁師
創世記1章27節~28節
マタイによる福音書14章22節~33節
241013_0671.MP3
MP3 オーディオファイル 21.1 MB
2024年10月6日「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」
エレミヤ書15章18節
マルコによる福音書5章21節~34節
241006_0257.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2024年9月29日「ああ、渇いている者は皆、来なさい」
イザヤ書 55章1節~5節
ヨハネによる福音書 4章13節~14節
240929_0256.MP3
MP3 オーディオファイル 28.2 MB
2024年9月22日「現代に通じる共感の教え」三浦久光役員
マタイによる福音書7章7節~12節
240922_0666.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2024年9月15日「大いに喜びて我が弱きを誇らん」
エゼキエル書28章24節
コリントの信徒への手紙二12章1節~10節
240915_0255.MP3
MP3 オーディオファイル 28.8 MB
2024年9月8日「少女よ、さあ、起きなさい」
イザヤ書52章2節
マルコによる福音書5章35節~43節
240908_0254.MP3
MP3 オーディオファイル 24.7 MB
2024年9月1日「主イエスはあなたを憐れんだ」
ヨブ記21章14節
マルコによる福音書5章11節~20節
240901_0253.MP3
MP3 オーディオファイル 22.4 MB
2024年8月25日「いと高き神の子イエスよ」
イザヤ書65章3節~5節
マルコによる福音書 5章1節~10節
240825_0252.MP3
MP3 オーディオファイル 30.8 MB
2024年8月18日「清さを保ち続ける」
申命記13章6節
コリントの信徒への手紙一5章9節~13節
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MP3 オーディオファイル 26.5 MB
2024年8月11日「兄弟たちを力づける」
哀歌2章14節
ルカによる福音書22章31節~34節
240811_0250.MP3
MP3 オーディオファイル 25.0 MB
2024年8月4日「風はやみ、すっかり凪になった」
詩編89編10節
マルコによる福音書4章35節~41節
240804_0249.MP3
MP3 オーディオファイル 26.8 MB
2024年7月28日「純粋で真実なパンで祭りを祝おう」
出エジプト記13章3節~7節
コリントの信徒への手紙一 5章1節~8節
240728_0248.MP3
MP3 オーディオファイル 28.3 MB

    2024年7月21日「永遠の命に至る食べ物のために」

      列王記上17章8節~16節

      ヨハネによる福音書6章22節~27節

    ※今回はレコーダーの不具合により説教音声はありません。申し訳ありません。

2024 年7月14日「その言葉には力があった」
エレミヤ書7章8節
ルカによる福音書4章31節~37節
240714_0246.MP3
MP3 オーディオファイル 22.6 MB
2024 年7月7日「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど成長する」
ダニエル書4章7節~9節
マルコによる福音書4章26節~34節
240707_0245.MP3
MP3 オーディオファイル 28.7 MB
2024年6月30日「あなたの前に正しい者はいない」
詩編143編1節~12節
ガラテヤの信徒への手紙2章16節
240630_0244.MP3
MP3 オーディオファイル 29.4 MB

マルコによる福音書1章16~20節        

                       2025年5月18日茅ヶ崎香川教会

エレミヤ書20章7~9節                     三教会講壇交換礼拝 説教担当:秋間文子

説教題「神様に従うことで開く活路」 

構成   序 

          1 弟子を召す

2 人間をとる漁師

3 網を捨てて、従う

4 弟子とされた私たち

 

序 

今日は礼拝をご一緒出来ますことを嬉しく思っております。講壇交換は、同じ信仰の基を持つ三教会の霊的な交わりですが、茅ヶ崎南湖教会は、茅ヶ崎香川教会と茅ヶ崎教会の祈りによって生み出された教会ですので、感謝をもって活動をご報告する日としてきました。南湖教会の設立は1993年ですから、歴史も短いのですが、二教会の歴史を私たちの基とできますことは、何よりと思っております。教会というのは、様々な考え方、やり方があるのですが、南湖教会が0から創っていくのではなく、二教会の毅然とした信仰を受け継ぎ、自らのものとして刻んでくることができました。

その信仰の特徴とは、「神様を礼拝し、従う」ということに徹することでありまして、それは、主イエスが弟子を召したことに繋がるものでした。

 

1 弟子を召す

今日の箇所は、主イエスの伝道が始まったばかりのことでした。ガリラヤ湖というのは、聖書の舞台としては北の方にあるとても大きな湖で、茅ヶ崎市と平塚、藤沢を合わせたくらいの大きさがありましたから、湖でありながら「海」と呼ばれることもありました。そこでの漁も盛んに行われていまして、「投網」と言って、網を頭上で振り回して浅瀬に投げての漁をしていたと言います。

その網を打っている漁師に、主イエスが声をかけました。シモンというのは、後に「ペトロ」と呼ばれる人で、ここではペトロと呼ぶことにします。ルカによる福音書では、夜通し働いて疲れたペトロに向かって、主イエスが「沖に出て、漁をしなさい」と言った話が書いてありますので、そちらでは、ペトロの心情を中心に読むのですが、今日の箇所は、そういうことは何も記さず、主イエスが声をかけたことに注目しています。「彼らが弟子になったのは、彼らの対応が良かったから」というのではなく、「主イエスがご自身の意志で、彼らを選び、弟子にした」ということに焦点をあてます。私たちの感覚ですと、普通は、「弟子になりたい人が熱心に頼み込んで、弟子入りするのではないか」とか、「師匠は、その人に筋があるか、確かめてから、弟子を取るのであろう」と思うのですが、ここでは違いました。弟子の熱意も、また素質も問われることなく、彼らをそばに引き寄せるように、弟子にしたのです。主イエスは、彼らの持っている何かに期待して、「この人を弟子にすると、自分にとって、また伝道にとってプラスになる」という風に、彼らを利用するのではなく、まず師匠と弟子という関係に招き入れたのでした。主イエスが得をするためではなく、楽をするためでもなく、彼らとの関係、師匠と弟子という関係を結ぶために、弟子にしたのです。

その弟子達が、この後、主イエスと共にいることで、大事な役目を果たすことになります。それは、どれほどの仕事をしたかという点ではなく、主イエスと共に居ること自体に意味がありました。弟子たちは、主イエスに従っていくのですが、人間的な思いも持っていますから、主イエスから怒られたり、弟子の中で自分が最も大事にされるようにと願ったり、さらには主イエスを裏切る者もありました。このペトロは、主イエスが捕らえられてしまうと、「そんな人のことは知らない」と3度も言ってしまいます。その主が十字架の上で、「彼らをお赦しください」と祈られるのですから、この弟子たちのことも含めて祈っていたのでした。

どうして、そんな人たちが弟子になったのかと思うのですが、この弟子たちがいることで、「主イエスが言われたこと、なさったことは、私達に深く関係すること」として響いてくるのです。主イエスの愛情の深さを、身をもって知らせたのが、弟子たちでありました。

2 人間をとる漁師

彼らは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。それまで魚をとっていたのに対して、今度は「人間をとる漁師」なのだというのです。「人間をとる」というのは、魂を捕らえ、その人の人生を捕らえることです。しかし、人間が相手の魂を捕らえるというのは、本来、出来ないことですから、ここでいう「人間をとる漁師」とは、主イエスのことなのです。「主イエスがなさることを、弟子達にもさせる」という、全く不思議なことが言われているのです。それは、弟子達に、主イエスと同じ力が与えられるということではなく、「主イエスの代わりに働きなさい」ということでもありません。この言葉の意味がわかるのは、もう少し先のことでした。先ほど申した通り、いざというときに逃げ出してしまう弟子たちでしたが、主イエスが昇天された後、聖霊を受けてからは、大きく変化しました。主イエスが天に昇られたら、もう主イエスの背中を見て、ついていくことはできないのですが、彼らの中に、主イエスは聖霊としてとどまってくださり、弟子達を突き動かしていきました。弟子達を通して、また、弟子たちの中で主イエスが働かれて、一人ひとりを捕らえるという、本来、主イエスがなさる業をなしていきます。

ここで「人間をとる漁師にしよう」と言われたのは、復活の後のことをはるかに見据えながら語ったのです。弟子達に神様の力が臨んで、主イエスの働きをなすようになるという預言だったのです。

ですから、弟子になるというのは、自分の伝えたいことを伝えていくのではなく、自分の理想を実現していくのでもなく、神の御心によって計り知れない者へと変えられていくことです。「主イエスの復活の命に与かるとき、新たにされて、内なる主イエスに動かされて、神様のために働く者となる、そのために召すのだ」と言われているのです。この4人は、多分、その意味深さも分からないまま従ったのでしょうが、弟子という関係の中に居続けることで、主イエスを宿す器として用いられていくのです。自分がどれほどのことが出来るか考えたら、誰もが「自分は弟子失格だ」というしかないのですが、その彼らを、また、私たちを、用いてくださるのです。師匠と弟子という関係においてでないと、神と人の関係がわからないから、私達人間を弟子にし、信じ従えと召したのです。

3 網を捨てて、従う

そのように主イエスに声をかけられたペトロとアンデレは、すぐに網を捨てて従い、また、ヤコブとヨハネも主に呼ばれて、舟と父を残して従っていきました。網があれば、いざというとき仕事ができますが、それを抱えてではなく、捨てて行ったところに、従うことの本質が表れています。「逃げ道を用意して、駄目だったら他に行こう」というのではなく、退路を絶ったのです。それは、そもそも適性があるからでもなく、今すぐに成果が出るからでもなく、ただ召されたことを信じて行くだけと分かっていたからです。

残した父親のことなどは、また負うことになる場合もあるでしょうし、御心ならば、家族という荷を背負うことになるのですが、しかし、肉親の情に信仰が負けてしまうのではないことをこの箇所は語っています。私達の体は一つしかありませんから、両方は負えないというとき、課題を残しておきつつ、主に従っていくということが、実際にはあります。家族のことを言い訳にせず、そこにも主の助けを頂きながら従う道を模索するというのも、弟子達に課せられたことでありました。

さらに、私たちのことを思うと、この4人のように、捨てるべきものが分かりやすいものとは限りません。それがうかがわれるのが、今日の旧約聖書のエレミヤです。彼は預言者として、神様に立てられた人でしたが、神の言葉を語ることで、大変な苦労を負っていきます。時代は、バビロン捕囚の直前で、「このままでは国が滅びる、神の罰を受ける」という神様の言葉を語っていました。日本で言えば、第二次大戦のさなかに、「このままでは、日本は滅ぼされる」と言っていたようなものです。当時の日本では、そんなことを言ったら、ただではすまされなかったことは、ご存じと思いますが、同じようにエレミヤも「非国民」とされ、友達の理解も得られず、親族にも裏切られて裁判にかけられ、命を狙われ、牢に入れられたこともありました。人から嘲られ、笑い者にされたと今日の箇所にありますが、それに疲れ果て、もう預言者として語ることを辞めようと思っていました。預言者にされたのも、神様に惑わされたようなもので、「もう神様の名前を口にすまい、神様の言葉を語るまい」と思うのですが、しかし、神の言葉を押さえつけておくことが出来ませんでした。主の言葉が自分の中で燃え上がってくる、「これを言わないではいられない」と思わされて、語り続けたのでした。自分の負けで、神様の力に屈服したと吐露したのが、今日の箇所でした。

このエレミヤは、預言者として召されたときに、主イエスと出会った漁師たちと同じく、仕事や立場を捨てて従ったのでしょうが、「それらを捨てれば、それでいい」というのではありませんでした。今日の20章を読みますと、「苦労する中で湧き上がって来る神様への恨みや、周囲の人への怒りを捨てる」という次の課題が強いられるのです。

それは、神の言葉を語ることにおいて、避けては通れないものでした。彼が語っていたのは、ユダの国の不信仰を突く神様の言葉でありまして、神を畏れる思いを忘れた人たちに対して、「それでは、私達に未来はない」と伝えていたのです。それは、他人事ではありません。エレミヤ自身、「自分こそ、神様を重んじなかったら、しっかりと生きていくことはできない」と気づかされたのでしょう。「苦労させられたことを恨んだままでは、活路が開けない」というところに追い込まれて、「自分の損得、国の損得を超えて、神の御心がなるよう願わなくてはならない」と思わされたのでしょう。「それが信仰者の生きる道なのだ」という思いで、語り出したのであろうと思うのです。それによって、彼は、困難な中を生きる力を得ていったのです。自分のこだわりを捨てることで、本当の支えを得ていくのでありまして、「そういう信仰をもって、共に生きていこう」ということを、身をもって伝えていったのです。網を捨てる弟子たちの姿を通して自分を捨てて主に従うという信仰の境地へと神様は私たちを導いておられるのです。

4 弟子とされた私たち

最後に、私達のことを考えてみたいと思います。私たちも、この4人と同じく、主イエスから「わたしについて来なさい」と呼ばれてここにいるのでありまして、弟子として召された者です。彼らのように、仕事や家族を残して従うということはなくても、「自分は、何も変わりなく、自分の持てる力で従っていく」というのではなく、「自分を捨てて従う」という課題があるのです。そうしないと、結局は、神様のことを「自分の人生に良いものをプラスしてくれる方」という程度にしか捉えていないということになってしまうからです。ですから、あのエレミヤのごとく、自分の中の絶望や怒りを捨てる、こだわりや自分の満足を得ようとする発想を捨てる、という課題が日々課されるのです。それらを捨てるというのは、誰しも十分にできるわけではなく、「捨てていないものに気付く」というのは、一生続きます。日々それぞれに召された場で、神に仕える道を探っていくのですが、それはこの世で完結するものではありません。終末のときに、私たちへの祝福を完成される、全てを捨てて主イエスと共に復活の命に与かるのですが、そこにつながる今の応答があるのです。

だからこそ、弟子達は、網を捨てることができたのではないかと思うのです。「最後の時には、網によってではなく、神様によって養われる、そういう時がくる」ということを、ここに先取りしているのです。ですから、私達に求められているのは、「網を捨てる勇気」というよりも、「全ては神様が統治される」という信仰です。ヤコブとヨハネは父と雇い人を残して、主イエスの後についていくのですが、私達の周りにいる人も最後は神の御手によって養われ、守られて行くと信じたのです。それは、私たちの家族も同じです。自分の力によって家族が生きているのではなく、一人ひとりが神様によって生かされているのです。その神様の慈しみがいかに深いかを思うからこそ、私達は神さまに仕えつつ家族を養うことに励むのです。

教会では、役員を始めとして様々な奉仕があります。また、実際には関わらなくても、祈りつつ支えるという、教会のことを思う信仰によって、教会は成り立っています。ですから、役職の有無に関わりなく、それぞれ神様から弟子として召されています。教会に来て、共に祈り、讃美すること、「神と人を愛しなさい」という御言葉に従うこと、相手のことを考えて良い交わりを作ること、奉仕者を労い、励ますこと、私たちの弟子としての歩みは、いかにでも展開していきます。共に神様に応えて、御心に適う教会を形成してまいりたいと思います。

 

祈祷いたします。

主イエス・キリストの父なる神様。

 

罪人であり、また心身共に限界のある私達を弟子とするという神様の計り知れない御心を思います。「人間をとる漁師にしよう」と言われた主の計画が、私達においてなされてまいりますように。主が一人一人を捕らえたように、私達も、一人一人を主に繋げていく働きをなすことが出来ますよう、導いてください。香川の地で伝道し、教会を建ててきた茅ヶ崎香川教会を祝してください。主の後に従いつつ、終わりの時に向かって、全力で従って行くことが出来ますように。終末の神の国を思いながら、この地にある教会を建てていくことを得させてください。三教会の交わりの上にも御導きを祈りつつ、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン

〈説教の原稿〉

2025年 5月11日         日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

復活節 第4主日

旧約聖書 ダニエル書 1章3節~4節(P.1379

新約聖書 ルカによる福音書 6章12節~19節P.112

説  教「主イエスが十二弟子を招く」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスは神に祈って夜を明かされた        

                     ……ルカ6:12-13            

Ⅱ (のち)に裏切り者となったイスカリオテのユダ

                           ……ルカ6:14-16

Ⅲ イエスは山から下りて、平らな所にお立ちになった 

                     ……ルカ6:17-18  

Ⅳ 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした      

                       ……ルカ6:19          

Ⅴ 容姿が美しく、何事にも才能と知恵がある少年たち 

                   ……ダニエル書1:3-4  

結 

 

竪琴(たてごと)のような形をしたガリラヤ湖を山や丘が取り巻いています。或る日、主イエスは山に(のぼ)って(よる)(じゅう)祈られました。そして朝になると、主イエスは弟子たちを山に呼ばれました。主イエスの祈りによって山は聖別されたと言えましょう辺りに(りん)とした霊気が漂っていたに違いありません。

夕方から始まったその或る日は、重要な時でありました。それは、「わたしの時が近づいている」(マタイ26:18、ヘブライ10:25)中での一里塚でありました。わたしたちはその日の出来事を通して、主イエスがどのようなお方であるのか、また、どのように伝道されるのか、について教えられます。

 

Ⅰ イエスは神に祈って夜を明かされた        

ルカ福音書6:12-13――            

12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。

主イエスによってガリラヤ地方での伝道が進められている時のことでありました。主イエスはたとえ話などによって御言葉を語り、病人をいやし、そして悪霊(ばら)いの御業を行っておられました。驚きをもって神を賛美し、主イエスにつき従う者たち(ルカ5:26)が大勢いる一方で、その教えに怒り狂い、反感を(いだ)き、どのようにイエスを殺そうかと相談する者たち(同上6:11、マルコ3:6)も現れました。

そのように混沌(こんとん)として、疲れを覚えさせられるような状況にあっても(ヨハネ4:6)、「(きつね)には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には(まくら)する所もない」(ルカ9:58)という主イエスの伝道の旅は続けられました。主イエスが或る日を選ばれ の力の回復を企図されました。ゲツセマネの祈り(ルカ22:39-40)がそうであるように、主イエスは祈るために静かな場所に行かれました。

夜ですから、ガリラヤ湖畔の町や村また舟などは見えません。闇の底に、人々は活動を止め、寝静まっています。まさに神の子、イエス・キリストおひとりが、神の国の到来に備えるために働いておられます。

神に祈って夜を明かされた」というように、主イエスは祈りに集中されました(ルカ3:215:16)。へりくだって「わたしの願い」を言い表し、父なる神の御心を問われたのです(ルカ22:42)。主なる神が(くだ)るという山頂(出エジプト記19:2024:17)に近づくように、山を登られたのは、祈りが聖なるものとされるのを願ってのことでありましょう。

朝、辺りが明るくなると共に、神の国建設の一つのプランが浮かび上がりました。それが、神の国をめざす信仰者の群れの中に「十二」という数字を刻むことでありました(ヨハネ黙示録21:12,14)。神の国には、十二」の門がある(同上21:21)ということですから、「十二人」の選びは、神の国の行進の(はた)(じるし)となるに違いありません。

この朝に、十二人」の使徒に先導されて、「十二」の門をくぐり抜けて、神の国へ入って行くという神の救いの計画が啓示されました。将来にわたる道筋が、秩序正しく整えられるというのは喫緊(きっきん)の課題でありました。というのも、主イエスと「十二」使徒が山から下りてくると、「大勢の弟子とおびただしい民衆がユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた」という雑然とした状態にあったからです。

主イエスは群衆が 的にまとめられ、グループを作って、御言葉を聞くことを求めておられます。その道筋が整えられていれば、主イエスが湖畔で群衆に押しつぶされそうになっても案じることはありません(マルコ3:9)。やがてメシアなるイエス・キリストと主に仕える「十二」使徒とによって、ガリラヤ地方の信仰者たちは、互いに手を携えて神の国をめざすように訓練されることでしょう。

きょう、「十二」使徒が選ばれた日に、神の国への大きな一歩が大地に刻まれました。

 

Ⅱ (のち)に裏切り者となったイスカリオテのユダ         

ルカ福音書6:14-16――

14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15 イマタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。

徹夜の祈りの後、「朝になると」、主イエスは「十二人を選んで使徒と名付けられ」ました。神の救いの計画に沿うことが重大事でしたので、主イエスと言えど、「大勢の弟子たち」の中からの選抜は難関でありました。御父の御心を問い尋ね、最後には御自身が「これと思う」人を任命されました(マルコ3:13)。朝方のガリラヤの光景のうちに、さぞや(あん)()されたことでしょう。

そこでわたしたちは、「使徒と名付けられた」という「十二人」の使命について(とら)えることにしましょう。ここでは、その使命を二つに(しぼ)ります。

  主イエス・キリストの十字架の死と復活の証人となること

今弟子たちが主イエスのたとえ話など御言葉を聞き、病人のいやしや悪霊祓いの御業を見ているのは、主イエスがどのようなお方であるのか、を知るためです。そして、主イエス・キリストがどのようなお方であるかと言えば、十字架につけられて、全人類の罪を(あがな)い、三日後によみがえられた救い主であるということです。

その信仰告白の核心は、「イスカリオテのユダ」脱落後の「使徒」一名の選抜においても継承されました(使徒1:22)。十一人の使徒は主に選びをゆだね、祈った上で、くじにより「マティア」を任命しました(同上1:24-26)。彼は主イエスの公生涯を知っており、「主の十字架の死と復活の証人」としてふさわしい人物でありました。

  主イエスの公生涯における教えや伝道を、初代教会の形成へとつないでいくこと

シリアのアンティオキア教会(使徒11:27、ガラテヤ2:11)と共に、エルサレム教会は初期のキリスト教伝道の拠点となりました。そのエルサレム教会の指導者が、イエスの兄弟ヤコブ(マルコ6:3、使徒12:17)ならびに十二使徒のペトロ(使徒3:18:14)でありました。

ペトロは、主イエスに呼び出されて、漁師の職を捨てて、主につき従いました(マタイ4:18-20)。いわば主イエスと寝食を共にした人です。ペトロはじめ、そのような「十二使徒」がいたのは、初代教会の大きな財産であったに違いありません。

それから、十二使徒と共に、聖霊なる神が、主イエス・キリストの臨在を保証するものとなりました(使徒2:1-4,23-24)。さらに、異邦人伝道の重荷を担ったパウロとバルナバもまた、「使徒」として任命されました(使徒14:14、ローマ1:1)。そうして、初代教会は、「十二使徒」の信仰と生活を土台としつつ、地中海世界全体に拡がっていきました。

さてここで、なぜ主イエスは、「(のち)に裏切り者となったイスカリオテのユダ」を使徒に選ばれたのかという難問に向き合うことにしましょう。

すでに述べたとおり、「十二使徒」の選びというのは、神の救いの計画に沿って行われたものです。その計画は、イスカリオテのユダのみならず、当初から主イエスに殺意を(いだ)いている律法学者や大祭司たち(マルコ3:614:15)の思惑や妨害を乗り越えて進められていきます。主イエス・キリストの御業がいつ、どこで現されるかは、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵(Ⅰコリント2:6ではなく、神の救いの計画に従うものです。

ですから、「イスカリオテのユダ」が十二使徒に加わっているのは、人の心に思い浮かびもしない「神の知恵」(Ⅰコリント2:7)なのです。そこで、十二人の結束とか悪影響とかを考えてしまうのは、肉の人の判断であり浅はかさにほかなりません。

それよりも重要なのは、きょう、主イエスは、やがてユダに裏切られ、罪人に引き渡され、十字架につけられるのを見通されていたということです。その意味では、「十二使徒」が選抜された日すでに、主イエスの十字架の道行きが始まっていたのです。

そう言えば、きょう選ばれ任命されたペトロは、主イエスの十字架の道行きに欠かせない人物でありました。わたしたちもまた、三度も主を(いな)んだペトロの姿を見て、悔い改めを迫られることでしょう。きょうの恵みをあす忘れることがある、これは大きな教訓であります。

 

Ⅲ イエスは山から下りて、平らな所にお立ちになった 

ルカ福音書6:17-18――  

17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。(けが)れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた

ユダヤの(こよみ)に従えば、夕暮れから始まったきょうの話の続きです。朝、十二使徒が任命されました。そうして、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を迎え入れる態勢が整えられました。その準備の隠れた土台には、主イエスの徹夜の祈りがありました。

太陽が空高く昇って来ました。これから、平地の説教(マタイでは山上の説教 5:1以下)によって、神の国の福音が告げ知らされます。その前に再び、主イエスがどのようなお方であるか、が簡潔に示されます()。

ティルスやシドンの海岸地方」というのは、イスラエルの辺境で、異邦人が住む地方を指しています。異邦人伝道のきざしがガリラヤ地方の出来事の中に現されています。ユダヤ人と異邦人が主イエスにおいて一つにされてゆきます。

平地の説教前の出来事として注目されるのは、主イエス・キリストの御言葉と御業とが提示されたことです。御言葉を語るのが第一で、それに続いて御業が現されています(マルコ2:1-12)。

まさしく「初めに(ことば)あった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)という通り、主イエスの御言葉をもっての宣教が行われていました。それが、いやしの(わざ)の前に「あった」のです。

大勢の弟子とおびただしい民衆が……病気をいやしていただくために来ていた。(けが)れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた」……群衆は「イエスの教えを聞く」ことを欲していました。その中には、病気のいやしと悪霊祓いを願い求めている人々がいました。

容易に想像できることですが、主イエスが御業を現されるとき、十二使徒との協働が必要でありました。例えば、主イエスが五千人に食べ物を与えられたとき、次のように記述されています。

マルコ福音書6:39-41――

39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。

まさに主イエスは弟子たちの手を借りて、大いなる御業を行われました。このようにして大勢の群衆が厳かに整然と、主イエス・キリストの御業にあずかることができました。「組分け」されたそれぞれの分団は、十二使徒の見守りのもとに、兄弟姉妹の交わりを深めたことでしょう。

主イエスは弟子たちの助けを通して、群衆の一人ひとりが、神に召し出され、そして神に遣わされる人間としてひとり立ちするよう祈り求めておられました。それは、主イエスの御言葉と御業による宣教の大きな目的は、神の恵みによって人を満ち足らせ、そして、人の人格を新たにすることにあるからです。主イエスは罪人が神に立ち帰るのを心から喜ばれます。そのことが次の一節によって証言されています。

 

Ⅳ 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした     

ルカ福音書6:19――

群衆は皆、何とかしてイエスに()れようとしたイエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

群衆は皆、何とかしてイエスに()ようとした」……「ようとした」との動詞には、極めて熱心に、忍耐強く探し求める・要求する」とのニュアンスがあります。その(たぐい)(まれ)熱心さや忍耐は、先行して現されている主イエスの教えに対する応答と言えるでしょう。それは、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな(もろ)()(つるぎ)よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」(ヘブライ4:12)、熱くも冷たくもない人(ヨハネ黙示録3:16)を目覚めさせ、(ふる)い立たせたことの証しにほかなりません。

もし、信仰の面から、「イエスに()れる」との直接行動の是非を問う人がいるならば、まずはその人自身の主に近づこうとする熱心さと忍耐とを省みるべきでありましょう。何よりも、主御自身、「イエス(の服)に触れる」(マルコ5:27)ことを禁じてはおられません。むしろ、「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回された」(同上5:32)ほどに、「~ようとした」という人の熱意を汲み取ってくださいます。

イエスから力が出てすべての人の病気をいやしていたからである」……「イエスから力が出た」ことから、「大勢の弟子とおびただしい民衆」に求められているのは、いったい何でしょうか?

この(イエスの)言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって(けが)れた霊に命じると、出て行くとは」(ルカ4:36)と言って、わたしたちが驚くということです。「権威と力」という言葉は、父なる神に由来しているのを表しています。実際、主イエスは徹夜の祈りをもって御父の執り成しを()い願われました。

ですから、「すべての人の病気をいやしていた」という主イエスの御言葉と御業には、神の栄光が現されていました。この神の栄光こそが、「イエスから力が出た」ものの源泉でありました。そのことを十二使徒はじめ群衆が受け入れ信じたときに、神の国到来への準備が始められます。

きょう、「十二」使徒が選ばれた日に、主イエスにつき従う大きな群れが、神の国への第一歩を刻むことになりました。

 

Ⅴ 容姿が美しく、何事にも才能と知恵がある少年たち 

ダニエル書1:3-4――  

3 さて、ネブカドネツァル王は()(じゅう)(ちょう)アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、4 体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。

ルカ6:12-19は、十二使徒の選抜をベースとしつつ、主イエス・キリストの真の弟子になることを教えるテキストでありました。そこで、旧約聖書によって改めて、神の(しもべ)・「弟子」となる苦難の道について学ぶことにしましょう。そうするならば、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)ことが昭示されることでしょう。

ダニエルはじめユダヤの四人の少年たちは、いったいどのようにして「生ける神の(しもべ)」(ダニエル書6:21)になったのでしょうか。彼らはただ単に、「容姿が美しく、何事にも才能と知恵があった」からなのでしょうか。

偽りの、しかし世の共感を得そうな教育が、バビロンの「ネブカドネツァル王が()(じゅう)(ちょう)アシュペナズに命じて」用意されました。なんと学費免除、王宮内の食事付きです(ダニエル書1:5 これなら生き別れになっていたかも知れない親も喜びそうです。

その一方で、選抜されたのは、「ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人」(ダニエル書1:6)で、彼らは「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある」少年たちでありました。皆さんも、そのコースから脱落することなく、「カルデア人(バビロニア人)の言葉と文書」を(おさ)めることが、如何に()(れつ)なことか、想像することができるでしょう。

以上、要約すれば、当時最高の水準の教育環境で、文武両道の鍛錬・養成が、「三年間」(ダニエル書1:6)ほどこされました。しかし先に「偽りの」と称したその教育の目的は、外国人枠によりバビロニア帝国の優秀な官吏に仕立て上げるためでありました。それはうわべ上、絵に描いたようなエリート教育でありました。

ということで、ここでの隠された主題は、恵まれた環境の中にあるユダヤの少年たちは、いったいどのようにして誘惑に打ち勝ち、生ける神の(しもべ)となったのか、ということになります。言い換えれば、彼らを(まも)り、彼らを真に教え導いたのは、誰かということです。

まず、歴史的な背景を確認しておきましょう。

紀元前587年、バビロニア帝国によってエルサレムは破壊され、ユダ王国は滅亡させられました。ネブカドネツァル王は、ゼデキヤ王はじめユダヤの多くの人々をバビロンへ連れ去りました(列王記下25:7)。その捕囚となった民の子どもに、「ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ」が含まれていました。彼ら四人は、バビロニア帝国官吏を養成する目的のもとに、「イスラエル人の王族と貴族の中から」選び出されました。

問題は、バビロニア帝国においては、王が神のような絶対的な存在として(たてまつ)られていたということです(ダニエル書2:376:8)。天の神が王に国と権威と威光を授けたと考えられていました。

当然、ダニエルたちの「教科書」には、「カルデア人の言葉と文書」が用いられました。バビロンの学問はじめ豪勢な食事や約束された将来の地位など、少年たちの心を揺さぶるものがたくさんありました。

しかも、「三年間の養成」コースでは、外部との接触が限られていたことでしょう。とても自分たちの(こころざし)だけで、ユダヤ人としての立場、なかんずく信仰を守ることはできなかったでしょう。彼ら(かたわ)らに、ユダヤ人の助言者(メンター)がいないという孤独な情況に置かれていましたもちろん、四人は互いに励まし合ったに違いありませんが(ダニエル書3:25)……。

ダニエル書の大きな特徴は、神の与えた(まぼろし)が記録されていることです(7章-12章)。ネブカドネツァル王が見た夢の中にも神の()(むね)が秘められています(2:294:22)。それらの幻や夢を通して、人間の王国を支配し、将来の計画を立てられているのは、主なる神、イスラエル人が信じている神であることが示されました。

ダニエルはしばしば、王により幻や夢を解くように召し出されました。しかし、絶対に失敗が許されない、その機会こそが、ダニエルを「神の(しもべ)」として成長させました。()(つぼ)で溶かされるような試練を経験するで、ダニエルは真の信仰者として立つ訓練を受けたのです。何よりも、彼には聖なる神の霊が宿っていました(ダニエル書4:5-6)。

顧みれば、人間なる神を(あが)めるように仕向ける「三年間の養成」コースは、ユダヤ人の少年たちにとって、百害あって一利なし、だったかも知れません。しかし、彼らがしばらくその地の平和を祈って生活したり(エレミヤ書29:7)、あるいは、王や貴族とつき合う上では、良い「教育」であったかも知れません。

十二使徒の召命を具体例とする、主イエス・キリストによる真の「弟子」訓練についての話に戻りましょう。そこで、〈外側から押し寄せる苦難〉から〈人の心に内在する危機〉に至るまで、あらゆる角度から襲いかかってくる「信仰者の試練」を見直しておきましょう。

捕囚の地で、ダニエルたちが「神の(しもべ)」として立てられ生き抜いていったという物語は、過酷の極みを示していました。苦難に()って、いつ信仰を捨てるのか、という危険を(はら)んでいました。しかし、ダニエルたちは神ならぬものを神とすることはありませんでした。

主イエスの弟子たちもまた自分の弱さを見つめつつ、そのような危機が起こることを覚悟しなければなりません。自分が失敗しないよう恐れるのではなく、主イエスが立ち直らせてくださるのを信じることです。サタンの誘惑や挫折のただ中にも、インマヌエルの神、イエス・キリストがわたしたちの側におられます。

 

主イエスによるガリラヤ伝道の或る日、十二人が使徒として任命されました。それから、主イエスがおびただしい民衆に教えを語り、病者のいやしを行われました。夕暮れから始まった一日の出来事です。夜の主イエスの()かな祈りが、一日全体を包んでいます。

まことに神の恵みが豊かで、平穏でありました。この或る日が、わたしのきょうになるように、祈りましょう。

W

 

 

〈説教の原稿〉

2025年 5月4日         日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

復活節第3主日

旧約聖書 詩編57編 1節~12節P.890

新約聖書 ルカによる福音書 6章35節(P.113

説  教「わたしは(あかつき)を目覚めさせよう」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ダビデがサウルを逃れて洞窟(どうくつ)にいたとき                                                                ……詩編57:1             

Ⅱ あなたの翼の陰を避けどころとします                                                                ……詩編57:2-4

Ⅲ わたしの魂は獅子(しし)の中に伏しています                                                                ……詩編57:5-7  

Ⅳ わたしは(あかつき)を目覚めさせよう                                                                        ……詩編57:8-9          

Ⅴ 神よ、天の上に高くいませ                                                                        ……詩編57:10-12 

Ⅵ いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い                                                  ……ルカ6:35 

結 

 

詩編詩人は、巧みな表現を用いながら、嘆きから賛美へと行き巡っています。〈神―わたし・詩人―敵対者・隣人〉の関係が明確に打ち出されています。

注目すべきは、詩的展開によって、サウルの迫害を恐れて、洞窟(どうくつ)」に逃げ込んだダビデの、夜から朝にかけての出来事が浮かび上がって来ることです(サムエル記上22:1-224:1-23)。これは、古代パレスチナの人知れない荒れ野で起こったことですが、わたしたちの心を()きつけるものがあります。それは、多くの現代人がストレスを(かか)え込み、洞窟」の奥で泣き叫んだり、あるいは、「洞窟の迷路から抜け出せなくなるような経験をしているからではないでしょうか。

それで、ダビデがどうなったのか、気にかかるのは当然です。詩編詩人によって案内してもらいましょう。個人的な興味で読むということを超えて、 の導きにより〈神―わたし・詩人―敵対者・隣人〉の関係に留意しましょう。

 

Ⅰ ダビデがサウルを逃れて洞窟(どうくつ)にいたとき              

詩編57:1――           

指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。

ダビデがサウルを逃れて洞窟(どうくつ)にいたとき

「あなたは滅ぼさないでください」との表題は、この詩編全体に暗い影を落としています。「滅ぼされ」れば、当然、命を失いかねません。そうした境遇の中で詩人は神に向かって、命の道を教えてください」(詩編16:11)と()い願っています。破滅寸前になっても、気が動転してはいません。

わたしたちは聖書によって、いろいろな人の洞窟(どうくつ)体験を振り返ることができます。

サウルのもとから逃亡している時、ダビデは「アドラムサムエル記上22:1や「エン・ゲディ」(サムエル記上24:3-4)で洞窟に隠れました。西はペリシテ地方から東は死海沿岸まで、ダビデは荒れ野をさ迷っていました。殺意をもった人間の目をくらますため、「洞窟」の暗闇に入るのは恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。

もはやもがいても誰も助けに来ない、とわたしたちは思います。しかし、詩人は「神よ」と声をあげています(詩編57:2)。これこそ、深い(ふち)の底からの祈りです。神がそばにいてくださる、あるいは、神が聞き届けてくださる、と信じて祈っています。

 

Ⅱ あなたの翼の陰を避けどころとします                  

詩編57:2-4――

2 憐れんでください

神よ、わたしを憐れんでください

わたしの魂はあなたを避けどころとし

災いの過ぎ去るまで

あなたの(つばさ)の陰を避けどころとします

3 いと高き神を呼びます

わたしのために何事も成し遂げてくださる神を

4 天から遣わしてください

神よ、遣わしてください、慈しみとまことを

わたしを踏みにじる者の嘲りから

わたしを救ってください。 

この詩編は、わたしを憐れんでください(ヘブライ語:ホネーニ 神よ、わたしを憐れんでくださいホネーニ)」の「わたし」の願いから始まっています。このホネーニは、ヘブライ語で「ここにわたしはおります」(イザヤ書6:8、エレミヤ書2:35)という意味のヒネニーと響き合っています。闇に埋没しないで、「神よ、わたしはここにおります。わたしを憐れんでください」と呼び求めています。二度のホネーニという句の中に、自分の存在が明確にされています。

(しょく)(だん)取るものがわずかな中で、「わたしの魂はあなたを避けどころとします」と、神によって安息を得ています。神が寄り添っていてくださることの確信は、次の言葉によって明瞭にされています。

災いの過ぎ去るまで あなたの(つばさ)の陰を避けどころとします」……ここには、天の神がわたしと共におられるという神の臨在が打ち出されています。というのも、「あなたの(つばさ)」との表象は、聖所にある(あがな)いの座を守っているケルビムの翼を指し示しているからです(出エジプト記25:18-20)。「(あがな)いの座」は聖所中の聖所である「()聖所(せいじょ)」の契約の箱の上に置かれているものです(出エジプト記26:34、レビ記16:2)。

ですから、詩人が単なる「鳥の翼」ではなく、「ケルビムの翼」を想起しているとすれば、この「洞窟」こそがまさに「至聖所」であると信じていることになります。「わたしはあなたの(つばさ)の陰を避けどころとします」というのは、一つの信仰告白に価します。それ故に、「災いの過ぎ去るまで」というように、「わたし」はやがて嵐の闇夜が終わるのを待ち望んでいます。

いと高き神を呼びます」……ここに、「いと高き神」という本日の旧新約を貫くキーワードが出てきます。同じ詩編の7節にも、「神よ、天の上に高くいましてください」(命令形)とあります。つまり、「いと高き」ところに神がおられることが、信仰者の励ましとなり慰めとなっていることが言い表されています。

そこで皆さんが気づかれるのは、次のことでしょう。

すでに見たとおり、詩人の「災いの過ぎ去るまで わたしはあなたの(つばさ)陰を避けどころとします」との言葉は、「洞窟(どうくつ)」の奥にいる詩人の状況を踏まえてのものであります。そこに、危険に満ちた「洞窟」が、神による堅固な「避けどころ」になっています。(ねた)みをもって執拗(しつよう)(さが)し出そうとするサウルなの迫害者から(まも)られています。というのも、「あなたの(つばさ)」が「」となり、「わたし」を包み込んでいるからです。

そのように、いと近きところにおられる神への信仰が言い表される中で、「神よ、天の上に高くいましてください」と呼びかけているのは、どういう意味でしょう、というのが多くの方が抱く疑問でありましょう。その回答については、しばらく、詩編57:7とルカ6:35ルカの説き明かしまでお待ちください。

ただ、「いと高き神を呼びます わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」との脈絡から分かるのは、詩人が「慈しみとまこと」に富みたもう神、わたしたちの思いを超えて「何事も成し遂げてくださる神」に向かって祈っているということです。それは、近くにおられる神に自分の都合通りに働いていただこうという信心とは正反対です。神が「天の上に高く」おられるからこそ、自分は見守られており、自分に必要なものを「天から遣わしてください」というのが、詩人の心からの願いなのです。

要するに、「わたしはあなたの(つばさ)の陰を避けどころとする」ことが成り立つのは、「いと高き神が慈しみとまことを遣わしてくださる」からです。この揺るぎなさの故に、詩人は「わたしを踏みにじる者の(あざけ)」を、神に洗いざらい打ち明けています。

 

Ⅲ わたしの魂は獅子(しし)の中に伏しています                  

詩編57:5-7――

5 わたしの魂は獅子(しし)の中に

火を()く人の子らの中に伏しています

彼らの歯は(やり)のように、矢のように

(つるぎ)のように、鋭いのです。

6   神よ、天の上に高くいまし

栄光を全地に輝かせてください

7 わたしの魂は(かが)み込んでいました

彼らはわたしの足もとに(あみ)を仕掛け

わたしの前に落とし穴を掘りましたが

その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。   

この箇所で、詩人は自分を、「洞窟(どうくつ)」に逃げ込んだダビデに重ねて、神に向かって嘆きの声をあげています。ダビデであり詩人である「わたし」を中心に、〈神―わたし―敵対者・隣人〉の関係が描き出されます。

わたしの魂は獅子(しし)の中に 火を()く人の子らの中に伏しています」……当時、ダビデが追っ手の目をくらまして遁走(とんそう)していたパレスチナの荒れ野には、「獅子」(ライオン)がいたと言われています。逃亡者の安全が「獅子」によって(おびや)かされたのは、言うまでもありません。夜にはその危険が高まります。

ここで、「わたしの魂(またはわたし伏しています」との表現は、寝床で眠っている場合にも用いられます。まさに逃亡者は「獅子」や「火を()く人の子ら」のただ中に「伏して寝て」、朝が来るのを待っていました。

何が実際に脅威であったのか、に注目しましょう……「彼らの歯は(やり)のように、矢のように 舌は(つるぎ)のように、鋭いのです」。それは、人を傷つける言葉であります(A.ヴァイザー)。「人から出て来るものこそ、人を(けが)」(マルコ7:20)との主イエスの言葉の通り、中傷や悪口(あっこう)が人の心を刺し貫きます。

詩人はただ、「獅子(しし)の中に」と「火を()く人の子らの中に」という八方(ふさ)がりに恐れをなしているのではありません。洞窟生活を愚痴(ぐち)、敵を(うら)んでいるのでもありません。

外に出られない「洞窟」の奥にあって、「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください」と祈っています。地の闇の底から「天の上に高くいます神」に声をあげるところに、信仰の壮大さが物語られています。祈り手は、伏して夜明けを待っていると同時に、神の「栄光」が全地に輝きわたる時を望み見ています。そのような人の嘆きは、歓喜の踊りに変えられるに違いありません(詩編30:20)。

天地の創り主を信じ、全被造物に囲まれて暮らす生活の豊かさを知ることは、小さなことにつまずいたり悔やんだりしがちな人間にとって大切なことでありましょう。どんな情況にあっても、「いと高き神を呼ぶ」ことを知る詩人は、「わたしの魂が(かが)み込んでいて」も、動じません。

そして、忍耐と謙虚さをもって、事態の推移を見守ることができます……「彼らはわたしの足もとに(あみ)を仕掛け わたしの前に落とし穴を掘りましたが その中に落ち込んだのは彼ら自身でした」。

悪意をもって「(あみ)を仕掛け 落とし穴を掘る」人たちが栄え続けることはありません。彼らはやがて、自分の掘った「穴の中に落ち込み」ます。それが、自ら高みに昇ろうとする者の行く末です。

ダビデに自分を重ねる詩人は、想像を絶する苦難の中で、〈神―わたし―敵対者・隣人〉の関係を築いていきました。その人は「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの(おきて)を学ぶようになりました。…… わたしを苦しめられたのは あなたのまことのゆえです」(詩編119:71,75)というように、苦難の深い意味を味わい知りました。

荒れ野の東の空が(しら)みはじめました。

 

Ⅳ わたしは(あかつき)を目覚めさせよう                         

詩編57:8-9――

8 わたしは心を確かにします

神よ、わたしは心を確かにして

あなたに賛美の歌をうたいます

9 目覚めよ、わたしの(ほま)

目覚めよ、竪琴よ、琴よ

わたしは(あけぼの)呼び覚まそう

2節の「わたしを憐れんでください(ヘブライ語:ホネーニ 神よ、わたしを憐れんでくださいホネーニ)」と並んで、節目となる8節にはリズムの良い句が出てきます……「わたしは心を確かにします(ヘブライ語:ナホン リビー。神よ、わたしは心を確かにしますナホン リビー)」。

わたしは心を確かにします」というのは、わたしの心が正しい位置に置かれた」という意味です。それは言い換えれば、〈神―わたし―隣人〉の関係性が、神に祝福されるものとなったということです。そこで、「わたし」に「あなたに賛美の歌をうたいます」という行動が起こされます。「わたしは歌い、楽器をもって賛美しよう」〔直訳〕という感謝の姿勢は、次へとつながります。

賛美」は「わたし」と隣人の喜びの輪を造り出し広げてゆきます。もはや自分を追跡・迫害する者たちへの恐れは消え去りました。これを受けて、9節では、「目覚める呼び覚ます」との用語が三連続で出てきます。

目覚めよ、わたしの(ほま)よ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ」……神は、「わたしの魂は(かが)み込んでいました」と証しした詩人に、「わたしの(ほま)」を(たまわ)りました。そこで、詩人は「わたしの(ほま)」の大切な一部である「竪琴」と「」を手に取りました。夜明けの大地に、賛美の歌声が竪琴の調べに乗って響きわたります。        

最後に、詩人は「わたしは(あかつき)を目覚めさせよう」〔私訳〕と語っています。これは決して神への専横(せんおう)などではありません。それほどまでに、神のもたらしてくださった「」・夜明けに喜びを(いだ)いているということなのでしょう。

 

Ⅴ 神よ、天の上に高くいませ                            

詩編57:10-12―― 

10 主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し

国々の中でほめ歌をうたいます

11 あなたの慈しみは大きく、天に満ち

あなたのまことは大きく、雲を覆います

12   神よ、天の上に高くいまし

栄光を全地に輝かせてください

的な高揚(こうよう)を示す聖句「わたしは(あかつき)を目覚めさせよう」は、「主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し わたしは国々の中でほめ歌をうたいます」というように波及しています。驚くべきは、その「感謝」と「ほめ歌」の輪が「諸国の民」や「国々」へと拡がっていることです。

そうして、「神よ、わたしを憐れんでください」との嘆願から始まった詩編は、ただ神にのみ「栄光」を帰して終えられます。衰えゆく「わたし」の小ささ(ヨハネ3:30)の中で、いかに「いと高き神」が偉大であるか、が浮き彫りにされています。

ところでここには、詩人は何をもって「天の上に高くいます神」(詩編57:6)の壮大さを知ったのか、が証言されています。どのように、神は「わたしはいと高き神を呼びます」(同上57:3)との詩人の求めに答えられたのか、が言い表されています。

あなたの慈しみは大きく、天に満ち あなたのまことは大きく、雲を覆います」……すなわち、詩人は「あなたの慈しみ」と「あなたのまこと」との「大きさ」を通して、人間の想像を超えた神の偉大さに触れたということです。神は「洞窟」に(ひそ)んでいるような者のもとへも、「慈しみとまことを遣わしてください」ました(詩編57:4)。そうして詩人は、深い淵の底からの叫びに答えられた神に畏れを(いだ)くようになりました。

今やわたしたちは、「ダビデがサウルを逃れて洞窟(どうくつ)にいたとき」という表題の重さを踏まえて、「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください」との懇願(こんがん)に向き合わされます。わたしがどんなに孤独で、自分の置かれた所が「全地」の片隅であっても、詩人の懇願に心を合わせることができます。「天の上に高くいます神」は、人里離れた所にいる「わたし」に目を留めてくださり、迫り来る苦難と危険から解き放ってくださいました。これから、「わたし」は「諸国の民」と共に、歌いつつ「命の道」(詩編16:11)を歩んで行きます。

新約聖書から、「いと高き神」への「遣わしてください、慈しみとまことを」との祈りが、主イエス・キリストによってどのように答えられたのか、その証しを引いてみましょう。確かに、神が悔い改める罪人に(たまわ)った「慈しみとまこと」は、大きな大きなものでありました。

 

Ⅵ いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い 

ルカ福音書6:35 主イエスの言葉―― 

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」

これは、主イエスによる平地の説教からの引用です。驚くべきこと、感謝すべきことに、この一節には、神なる「いと高き方」と信仰者なる「いと高き方の子」とがペアで出ています。人間までもが、「いと高き」のレベルにまで引き上げられるとは?!

この一節の文章構成は、以下の通りです。

初めに、キリスト教倫理に関わる三つの勧めが表され、次に「そうすれば」、信仰者がどのように変えられるのか、が示されています。最後に、その理由づけとして、信仰者の倫理的実践を支える神について説き明かされています。座右の聖句ともなり得るこの一節は、さすがに巧緻な形式になっています。

  あなたがたは敵を愛しなさい。

  人に善いことをしなさい。

  何も当てにしないで貸しなさい。

これらの命令は、主イエス・キリストに結ばれてはじめて(ローマ6:3)、実行できるものでありましょう。そうだとすれば、「自分を無にして、(しもべ)の身分になり、へりくだる」こと(フィリピ2:7-8)が(かなめ)になります。キリストに(なら)うこと(Ⅰコリント11:1)こそが、さまざまな迷いや誘惑を退けて、「敵を愛し、善いことをし、何も当てにしないで貸す」原動力となります。

そうして、キリストに従順であり続けた信仰者に、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」との将来への約束が為されています。この約束を見失わないための要が、へりくだっていると同時に、「天の上に高くいます神」を呼び、賛美の歌をうたうということです。

そのような信仰者の姿勢は、「悲しんでいるようで、常に喜び、(もの)()いのようで、多くの人を富ませ、()(いち)(ぶつ)のようで、すべてのものを所有しています」(Ⅱコリント6:10)とも言い換えられます。まさに、「無一物のようで、すべてのものを所有している」からこそ、寄り添う思いをもって「何も当てにしないで貸す」ことができるのでしょう。

神の国をめざして、「こころひくく目あてはたかく」(讃美歌Ⅱ-59番)と歌いつつ歩むことは、何よりも神の御心です。というのも、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いから」です。目あてはたかくいと高き方」に依り頼み、こころひくく恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」無償の愛を実践することが求められています。

 

屈辱とも言える、詩人の「洞窟(どうくつ)」体験は決して無駄ではありませんでした。「わたしは(あかつき)を目覚めさせよう」とする賛美の輪の中に、「諸国の民」が加わります。実は、大勢の人が暗闇にたたずんでいたはずです。彼らの中には、「恩を知らない者も悪人も」含まれています。なぜなら、「天の上に高くいます神」が彼らを招かれたからです。ですから、神の国をめざす信仰者は、「いと高き方が情け深い」ことを胸に刻んでいます。

神よ、天の上に高くいまし

栄光を全地に輝かせてください。

主イエス・キリストが十字架と復活の救いの御業によって、神の「栄光」を現してくださいますように

 

W

 

 

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〈説教の原稿〉

2025年 4月27日         

旧約聖書 イザヤ書 63章15節~64章4節P.1165

新約聖書 コリントの信徒への手紙 2章8節~9節(P.301

説  教「天を引き裂き、(くだ)って来てください  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あなたの(あわ)れみはわたしには(おさ)えられているのですか  

                                      ……イザヤ書63:15-16             

Ⅱ 天を引き裂き、(くだ)って来てください  

                                       ……イザヤ書63:17-19

Ⅲ 期待もしなかった恐るべきことをなさるとき     

                                        ……イザヤ書64:1-2

Ⅳ あなたを待つ者に(はか)らってくださる

                                         ……イザヤ書64:3-4         

Ⅴ 人の心に思い浮かびもしなかったことを準備された神 

                                       ……Ⅰコリント2:8-9 

結 

 

不安と期待、不信仰と信仰、帰還民と残留者、ユダヤ人と異邦人など、一筋(ひとすじ)(なわ)ではいかない問題が山積していました。まさに混沌(こんとん)とした時代でありました。それらの問題が、嘆きと讃美とが混じり合う詩文の中にすくい取られています。

紀元539年、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒し、ユダヤ人の捕囚民を解放しました。その後、紀元前515年、エルサレムに第二神殿が再建されます。第三イザヤと呼ばれる預言(イザヤ書56章-66章)が告知されたのは、この(かん)のことです。先の見えない時代だからこそ、信仰の真価が問われました。

幸いなのは、紀元前587年のユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の前後から、エレミヤ書、詩編、哀歌、第二イザヤなどの文書が(あらわ)されていたことです。それぞれの著者の間に接触・交流があったと思われます。とりわけ、預言者・第三イザヤは先達(せんだつ)たちより深い(ふち)の底から神に向かって叫び祈るという姿勢を受け継いでいます。

彼はその忍耐強い信仰によって、暗い世の中にともし火を(かか)げ続けています。そして、神の(しもべ)呼びかける声を聞いたユダヤ人と異邦人が神の国に向かって前進しています(イザヤ書56:360:10)。それは、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるわたしたちの教会の群れを励まします。それは、終わりの時に向けて、わたしたちの 的な手引きとなります。

 

Ⅰ あなたの(あわ)れみはわたしには(おさ)えられているのですか 

イザヤ書63:15-16――

15 どうか、天から見下ろし

輝かしく聖なる宮から御覧ください

どこにあるのですか

あなたの熱情と力強い御業は。

あなたのたぎる思いと(あわ)れみは

(おさ)えられていて、わたしに示されません

16 あなたはわたしたちの父です。

アブラハムがわたしたちを見知らず

イスラエルがわたしたちを認めなくても

主よ、あなたはわたしたちの父です。

わたしたちの(あがな)い主

これは永遠の昔からあなたの御名です。

第三イザヤの信仰の中心には、「わたし(神)救いが実現し わたしの恵みの(わざ)が現れるのは間近い」(イザヤ書56:1)との確信があります。ですから、(こうべ)()ことなく、「どうか、天から見下ろし 輝かしく聖なる宮から御覧ください」と、天を見上げています。

輝かしく聖なる宮から」というのは、意味深長です。というのも、地上の聖所は火に焼かれて廃墟(はいきょ)になっているからです(イザヤ書63:1864:10)。天から地へとゆき巡る「救いが実現する」のを祈っています。

どこにあるのですか あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと(あわ)れみは (おさ)えられていて、わたしに示されません」……神と預言者との対話はまるで、子どもが親に問いかけているように、素朴で明快です。「あなたの憐れみはわたしには抑えられているのですか」(私訳)と、親の(ふところ)に飛び込むようにして、親しく尋ねています。自分の小ささを認め、神に依り頼んでいます。困窮の中で、ひたすら神によって生かされることを()い願っている姿は、わたしたちも学ぶべきでありましょう。

あなた(神)はわたしたちの父です」……ここで、「どうか、天から見下ろし……」という切なる嘆願の基盤には、神との人格的関係があったことが分かります。

今、神を「」と呼ぶ子どもたちは、「アブラハム」や「イスラエル」(ヤコブ)からの信仰的遺産の継承が困難になっています。具体的には、「あなたの聖なる民が ()ぐべき土地を持ったのはわずかの間です(イザヤ書63:18というように、都エルサレムはじめ()(ぎょう)の土地が壊滅状態になっています。

そこからの回復は、あなた――わたしたち子らとの人格的関係の確認から始まります。「子ら」と呼ばれている、その「息子」と「」(イザヤ書60:462:11)は実際、復興の輪の中に招かれています。

イザヤ書60:4――

目を上げて、見渡すがよい。

みな集い、あなたのもとに来る。

息子たちは遠くから

娘たち(いだ)かれて、進んで来る。

」なる神は、「わたしたちの(あがな)い主」として、信仰を失いかけている民を、死から命へと助け出されます。神の都の礼拝共同体に、異邦人や「息子たち」・「娘たち」が増し加えられます。

 

Ⅱ 天を引き裂き、(くだ)って来てください                  

イザヤ書63:17-19――

17 なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを

あなたの道から迷い出させ

わたしたちの心をかたくなにして

あなたを(おそ)れないようにされるのですか

立ち帰ってください、あなたの(しもべ)たちのために

あなたの()(ぎょう)である部族のために。

18 あなたの聖なる民が

()ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。

間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。

19 あなたの統治を受けられなくなってから

あなたの御名で呼ばれない者となってから

わたしたちは久しい時を過ごしています

どうか、天を裂いて(くだ)ってください

御前に山々が揺れ動くように

ユダの民・「わたしたち」の状況が内省される中で、神に向かって嘆きと願いが表されています。最後には、神の介入を求める祈りに至ります。

なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを あなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか」……「子ら」として神に信頼する立場から、つまり、「あなた」なる〈〉の目線から「わたしたち」の問題を見返しています。そうありたいと願うほど、 的な謙虚さを示しています。

「(主よ立ち帰ってください」との一句には、「主よ、御もとに立ち帰らせてください わたしたちは立ち帰ります」という哀歌(5:21)の嘆願が反響しています。「主がわたしたちのために立ち帰る」という先行する神の愛と赦しのもとに、「わたしたちは立ち帰る」ということです。その時、わたしたちの(かたわ)らにおられる神によって、深い悔い改めによるわたしたちの立ち帰り」が(かえり)みられます。このように、神との人格的関係あなた――わたしたち子ら〉において、神に立ち帰らせていただくのであります。

主イエスが話された、再会の喜びを告げる「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」(ルカ15:11-32)は、まさにそのようなものでありましょう。

どうか、天を裂いて(くだ)ってください。御前に山々が揺れ動くように」……神の介入を求める祈りには、信仰者の熱情があふれ出しています。「山々が揺れ動く」のに(おび)えることのなく、神の顕現(けんげん)を叫び求めています。

このように詩的文章の願いがだんだんと高まっていったのには、明確な理由があります。それは先述した哀歌の嘆願への反響と同様に、第三イザヤが過去における神の大いなる救いの出来事に信頼を寄せ、想起しているからです。

出エジプト記19:17-20――

17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿(しゅく)(えい)から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。18 シナイ山は全山(ぜんざん)煙に包まれた。主が火の中を山の上に(くだ)られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく(ふる)えた19 角笛(つのぶえ)の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴(らいめい)をもって答えられた。

20 主はシナイ山の(いただき)に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。

これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した直後の出来事です。これによって、まことの礼拝場所は、ここだ ということが示されました。イスラエル民族は、荒れ野放浪40年の旅路のみならず、将来にわたり歴史上いつも、この礼拝体験を思い起こすことになります。

モーセが「神の山ホレブ」(出エジプト記17:618:5)に登ります。主がモーセを「呼び寄せられた」からです。すると、主が「山の頂に(くだ)」、モーセに語りかけられました。その主の言葉こそ、十戒でありました(同上20:2-21)。民はその光景を遠くから見守っていました。そして、モーセから「すべての言葉」を聞かせられました(同上20:1,21)。

この神の降臨は、「全山(ぜんざん)煙に包まれた」また「山全体が激しく(ふる)えた」という巨大な自然現象を伴っていました。神は、目に見えるしるしによって、神の山ホレブの経験を民の心に留めさせました。

ユダ王国崩壊とバビロン捕囚の大災難の後、第三イザヤは新たな出エジプト(イザヤ書43:19)を待ち望んでいました。それは、真の礼拝体験を基点として、暗黒の時代を乗り越えていくためでありました。

だからこそ、預言者は「主よ、どうか、天を裂いて(くだ)ってください」と叫び祈ったのです。民には、「御前に山々が揺れ動く」というしるしに警戒するように知らせました。

第三イザヤに(いざな)われて、民が神に向かって嘆きや願いを訴えていくうちに、 の導きによって、民は神に近づけられます。ただつぶやいていたような人の言葉が祈りに変えられます。そこには、神の山ホレブ」で実証された神の甚大(じんだい)な御力が働いています。

 

Ⅲ 期待もしなかった恐るべきことをなさるとき         

イザヤ書64:1-2――

1 (しば)が火に燃えれば、

湯が煮えたつように

あなたの御名敵に示されれば

国々は御前に(ふる)える

2 期待もしなかった恐るべき(わざ)と共に(くだ)られれば

あなたの御前山々は揺れ動く

(しば)が火に燃えれば、湯が煮えたつように あなたの御名が敵に示されれば 国々は御前に震える」……神の降臨に伴う巨大な自然現象の描写が続いています。第三イザヤの願いの通り、「あなたの御名」の力は、闇の支配のもとから、「敵ども」や信仰を持たない「国々」を引き出します。それどころか驚くべきことに、彼らを主なる神に「立ち帰らせます」(イザヤ書49:555:7)。ユダヤ人と異邦人が手を(たずさ)えて、「揺れ動く山々」を目指し、「あなたの御前」へと進んで行きます。

期待もしなかった恐るべき(わざ)と共に(くだ)られれば」……実はこれが、嘆きや願いが、祈りに変えられたことを(あか)しする言葉です。分かりやすく言うと、主が期待もしなかった恐るべきことをなさるとき」(私訳)となります。

使徒パウロはこの言葉を預言として聞き、主イエス・キリストの御業によって成就されたと信じました。後()で詳しく確かめることにしましょう。

その前に、第三イザヤの預言の鍵語となっている「恐るべき(わざ)」(ヘブライ語:ノラオット)について説明しておきましょう。これは、「聖なる神の介入のこと」(H.J. クラウス)との意で(詩編106:22139:14)、特定の何かというように限定されません。わたしたちは「期待もしなかった」ような、神の起こされる奇跡を、ただアーメン(その通り)と唱えて受けるだけです。裏を返せば、自分の知恵にこだわって、(かたく)なにならないことです。

自分の期待や予測を超えたところに立脚できるか、わたしたちの信仰の真価が問われています。それとも、そんな不確かなことには頼れない、と言って自分の土俵に撤退(てったい)しますか。

 

Ⅳ あなたを待つ者に(はか)らってくださる                  

イザヤ書64:3-4――         

3 あなたを待つ者に計らってくださる方は

神よ、あなたのほかにはありません

昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も

目に見た者もありません。

4 喜んで正しいことを行い

あなたの道に従って、あなたを心に留める者を

あなたは迎えてくださいます

あなたは(いきどお)られました

わたしたちが罪を犯したからです

しかし、あなたの御業によって

わたしたちはとこしえに救われます。

最初に、「あなたを待つ者に計らってくださる」ということで、「主よ、どうか、天を裂いて(くだ)ってください」との祈りは聞かれる、と第三イザヤが確信しているのが分かります。

そして、「神よ、あなたのほかにはありません …… あなたは迎えてくださいます」の部分には、讃美の声が上げられています。(しば)が火に燃えれば、湯が煮えたつように」、悪しき諸勢力は吹き払われました。神は焼き尽くす火」である(申命記4:24)という通り、「わたしたちの罪」は(きよ)められました。

あなたは(いきどお)られました わたしたちが罪を犯したからです」……神の山ホレブ」での民への十戒授与が礼拝であったように、今第三イザヤは神の降臨と共に、礼拝の幻を見ています。その幻は、わたし(神)の救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(イザヤ書56:1と信じているように、確かなものです。これこそ、「期待もしなかった恐るべき(わざ)」として執り行われる礼拝でありましょう。

その礼拝……まさに第二神殿の完成は「間近」です……の中で、「あなたは(いきどお)られました わたしたちが罪を犯したからです」との罪の告白がなされます。神は「御前に、わたしたちの(そむ)きの罪は重い」(イザヤ書59:12)と言い表す民を「迎えてくださいます」。なぜなら、「わたしたちの(あがな)い主」なる神は、「罪を悔いる者」(同上59:20)を赦されるからです。「あなたの憐れみがわたしには(おさ)えられていた」のは、ほんの「わずかの間」でありました。

時満ちて、「主が期待もしなかった恐るべきことをなさるとき」が到来します。「恐るべきこと」が、主イエス・キリストの救いの御業によって成し遂げられます。

 

Ⅴ 人の心に思い浮かびもしなかったことを準備された神 

コリントの信徒への手紙 2:8-9―― 

8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでしたもし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。

9 しかし、このことは、

目が見もせず、耳が聞きもせず、

人の心に思い浮かびもしなかったことを、

神は御自分を愛する者たちに準備された

と書いてあるとおりです。

この世の支配者たち」は「この世の知恵」に引きずられて、「神の知恵」を仰ぎ見る澄んだ目(マタイ6:22)を持っていません。そうした時に、主イエス・キリストが「十字架につけられる」という日が到来しました。わたしたちの罪に対して(いきどお)られた神は、「世界の始まる前から定めておられた」計画を実行に移されました。

一方〈罪の増殖〉、「この世の支配者たち」の陰謀が、御子を十字架に上げ、世から罪悪を一掃するという神の計画を遂行するために用いられました。他方〈罪の(あがな)〉、わたしたちの罪に対して(いきどお)られたわたしたちの(あがな)い主」なる神は、御子を十字架につけられました。そうして神は、「わたしたちの罪」を滅ぼし、わたしたちが主イエス・キリストによって神に立ち帰るよう導かれました。まさに、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)とのパウロの言葉の通りでありました。

目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」……まさに第三イザヤが預言した「人々が期待もしなかった恐るべき(わざ)」が、主イエス・キリストの救いの御業によって実現しました。それは、(かたく)なで(おご)っている人の心には「隠されて」いましたが(Ⅰコリント2:7)、「神は御自分を愛する者たちに準備されていた」ものでありました。闇から光へと神の民を導く使命を(にな)った第三イザヤのような預言者には、「準備」の一端が啓示されていたのです。

慟哭(どうこく)のような「主よ、どうか、天から見下ろしてご覧ください。どうか、天を裂いて(くだ)ってください」との預言者の叫びは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という喜びの知らせによって、讃美と感謝に変えられました。

 

結 

わたしたちが(さか)しらな人間の知恵から解放されるのは、とても難しいことです。第三イザヤのように、「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)にあずかるには、どうしたら良いのでしょうか?

ここに、「目が見もせず、耳が聞きもせず、心に思い浮かびもしなかった」という人間の知恵の限界を突破した人がいました。

その人こそ、パウロでありました。彼は、「突然、天からの光に照らされ……すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち……そこで、身を起こして洗礼を受けた」(使徒言行録9:3,18)という回心の体験をした人です。そうして彼は、聖霊に満たされて伝道しました。

そのパウロは、自分自身かつて知らなかった福音を宣べ伝えるために、しばしば旧約聖書を引用しました。それが重要なことなので、その間の事情を次のように説き明かしています……「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3:21)。

皆さんも、どうかそのような思いで、イザヤ書6315644を読み直してみませんか。目からうろこが落ちる」体験が、わたしたちの信仰を生き生きとさせることでしょう。

 

W

 

 

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月報4月号

説教 そこでわたしに会えるだろう

マタイによる福音書 28章1節~10節  小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ   ……マタイ28:1-6             

  あなたがたより先にガリラヤに行かれる              ……マタイ28:7

Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った  ……マタイ28:8-9  

Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい ……マタイ28:10             

Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う           ……詩編16:10-11

 結

 

去年の復活日礼拝(2024331日)で、マタイ福音書28:1-10を取り上げました。今年も同じ聖書箇所で説教いたします。ただし、去年と異なり、天使の「(あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる(マタイ28:7、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉を中心に語ることにします

 

Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ  

マタイ福音書28:1-6――             

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から(くだ)って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、(ころも)は雪のように白かった4 番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになった5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを(さが)しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

復活の朝、初めに起こった出来事として注目させられるのは、「主の天使」の降臨(こうりん)です。主イエスの墓に駆けつけたマグダラのマリアともう一人のマリアと天的な存在とが出会ったと証言されています。

婦人たちは、主の天使の行動を目撃し、その言葉に恐れを(いだ)きました。

主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」……ここで、映像を止めてみましょう。

というのも、「主の天使が石の上に座った」ことは、死に対する生の勝利宣言だからです。それは、旧約の預言によって根拠づけられます……「なお(ダニエルが)見ていると、王座が()えられ、『日の老いたる者』がそこに座した」(ダニエル書7:9)。四頭の(けもの)が猛威を振るっているような闇の中で、「日の老いたる者」、すなわち、天の父なる神が王座に着かれました。

その天の父なる神こそが、「主の天使」を、御子イエス・キリストのもとに遣わされました。神の「(ころも)は雪のように白く その(はく)(はつ)は清らかな羊の毛のようであった」(ダニエル書7:9)というように、「主の天使」も「雪のように白い(ころも)」を着ていました。

神に遣わされた「主の天使」による勝利宣言は同時に、神に敵対する者たちの敗北宣言でありました。それは、「番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになった」との描写に表されています。神の堅固な救いの計画の前に、「番兵たち」を遣わしたローマ総督ピラトはじめ大祭司たちや律法学者たちは敗北に追いやられました。

主の天使」が降臨し、婦人たちの前で座っている場所は、主イエスが死んでよみがえられたところです。墓の「石をわきへ転がした」というのは、死からの解放を意味しています。「」というのは、いわば主イエスの死の世界に封じ込めていた(おも)です。その「」が取り去られました。わたしたちの人生の将来を、暗い影で覆っていた、墓の「」をもはや恐れることはありません。

むしろそこには、天の王座に座しておられる神の栄光が映し出されています。そこは、御父が遣わされた御子イエス・キリストが死から復活を成し遂げられた、記念の場所なのです。

それから婦人たちに、「十字架につけられたあの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という福音の中心が示されました。その時、婦人たちには、新たな使命が「主の天使」から告げられました。おそらく、サマリアの女が「水がめをそこに置いたまま町に行った」(ヨハネ4:28)ように、「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、遺体に塗るために準備した香料と香油(ルカ23:56)を「そこに置いたまま」にして行ったのではないでしょうか。

 

  あなたがたより先にガリラヤに行かれる              

マタイ福音書28:7 主の天使の言葉――

「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

主の天使が、福音の中心を「あの方は死者の中から復活された」と要約してくれました。その主イエス・キリストによる救いの御業に押し出されて、「あなたがた」はこうしなさいと教えられています。つまり、弟子たちに「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれるそこでお目にかかれる」ということを伝えるということです。

今、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に(かぎ)をかけていた」(ヨハネ20:19)という情態に置かれています。彼らの心を解放し悔い改めに導くのは、あの方は死者の中から復活されたとの喜びの知らせ以外にありません。婦人たちは空の墓を見た者として、彼らにそのことを証しします。

そうして婦人たちは、「ガリラヤに行く」ように、と勧めます。その勧めは、弟子たちの心を動かしましました。なぜなら、「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と知らされたからです。

あなたがたがそこであの方にお目にかかれる」〔直訳〕……主イエス・キリストと出会うことが強調されています。主イエスを見捨てて逃げた「弟子たち」に向かって、必ず「お目にかかれる」(お会いできる)と告げられています。主イエスは人間よりも、ずっと先回りをしておられます。

 

Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った 

マタイ福音書28:8-9――  

8 人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが()く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を()き、その前にひれ伏した。

一方、主の天使が降臨して来た墓で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになり」ました。他方、同じ場所で、天使の姿を()の当たりにし、その御告げを心に納めた「マグダラのマリアともう一人のマリア」は「恐れながらも大いに喜び」ました。

婦人たちは、「死者の中から復活された」主イエス・キリストの御前にひれ伏し、悔い改め、罪の(なわ)()から解放されたことでしょう。一体自分たちは、何を恐れ、何を喜ぶのか、が明確にされました。

そうした婦人たちを見守っておられる主なる神は、「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせる」との使命を彼女たちに与えられました。そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と予告された主イエスは、婦人たちがエルサレムの空の墓から弟子の家へ行く途上でも、先回りしておられました。

すると、イエスが()く手に立っていて、「おはよう」と言われた ……婦人たちの「恐れ」を振り払うような言葉が投げかけられました。「おはよう」との原意は「あなたがたは喜びなさい」ですから、必ず恐れは喜びに変えられる、とのメッセージが込められています。またそこには、主イエスが「死者の中から復活された」朝の出来事を胸に刻みなさい、そして、主の日に真心から「おはよう」のと挨拶を()わしなさい、とのメッセージが含まれていることでしょう。

婦人たちは復活の証人として、神の()しを受けて立ち上がりました。彼女たちは「ガリラヤでわたしに会うであろう」という主イエスの約束を(たずさ)えて、打ちひしがれている弟子たちのもとへ走って行きました。

 

Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい 

マタイ福音書28:10――             

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

先取りして言えば、こういうことです。

主イエスはすでに、ペトロたち・弟子が自分の故郷に帰り、さらには漁師に戻ろうとする(ヨハネ21:1-3)ことを見抜いておられます。そこに、「先にガリラヤに行かれた」主イエスが現れます。主イエスの方から弟子たちに声をかけられます(ヨハネ21:4-5)。

弟子たちに求められているのは、空しさのどん底で、罪の苦しさの(きわ)みで、主イエスの招きに応答することです。彼らは見慣れたガリラヤ湖畔の風景の中で、人生の()()(ぎわ)に立たされます。その時こそ、主の方へ方向転換・回心するチャンスです。

ここで、一歩踏み出すのは、弟子たちの決断です。暗い夜が明けて、朝の光が()し込んで来ます。愛する婦人たちの告げてくれた「週の初めの日の明け方」の出来事を、自分たちの人生の(もとい)とするか否かです。わたしたちは、そのことを覚えて、復活の朝につながる主の日の朝に礼拝を守っています。

やり直すのに遅いということはありません。主イエスはあなたの貧しさやつまずきを見越して、先回りされるお方です。最もふさわしい時と場所に、突然、主イエスは現れます。そのような主イエスの執り成しが行われるように(ローマ8:34)、聖霊なる神がいつも、わたしたちの(かたわ)らにおられます。

主イエスはまさに「羊のために命を捨てる良い羊飼い」です(ヨハネ10:11)。主イエスは十字架につけられて死を()げ、わたしたちの罪を(あがな)ってくださいました。さらに主イエスはよみがえられて、主を信じる者たちに永遠の命を約束してくださいました。

ところが、弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げ出してしまいました(マタイ26:56)。()しくも、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」(マタイ26:31∥ゼカリヤ書13:7)の預言が成就しました。

しかし、「わたしの兄弟たち」を憐れまれる主イエス・キリストは、「彼らはそこでまたわたしに会うであろう」〔原文〕とおっしゃられました。再会のチャンスを作ってくださったのです。

主イエスは、婦人たちの行く手に現れて、「おはよう」と呼びかけられたように、ガリラヤに先回りして、弟子たちを迎え入れてくださいます。

皆さんは、神の大いなる救いの計画は測り知れないと言われるかも知れませんが、それはあらかじめ旧約聖書に書かれていることでありました。

 

Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う          

詩編16:10-11――

10 あなたはわたしの魂を()()に渡すことなく

あなたの慈しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず

11 命の道を教えてくださいます

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます

この詩編には、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、それによって()き上がって来る信仰者の喜びが描き出されています。「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを」(詩編16:1)というように、主なる神と詩人との間には親しい交わりがあります。

その信仰の特徴は、絶望した時にも、死の危険にさらされた時も、「わたしは絶えず主に相対(あいたい)しています」(詩編16:8)との確信に表されています。自分の患難のうちに神が隠れられているのではないかと不安になりそうな時にも、「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ書52:12)との信頼が支えになっていたのです。

このような詩編詩人の姿勢は、婦人たちの行く手に立ち、ガリラヤに先回りして弟子たちに出会うという復活されたイエス・キリストへの信仰を呼び起こすものであります。

あなたはわたしの魂を()()に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず 命の道を教えてくださいます」……ここには、主イエス・キリストの復活が預言されています。同時に、主イエス・キリストが「墓穴」に引き落とされないように、信仰者を守ってくださることが告げられています。

このような信仰を保持するのは、難しいことだ、と言われるでしょうか。ここにまた、詩編詩人の証しがあります。

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」……ここで留意すべきは、今「満ち足り、喜び祝って」いる人が、「わたしの魂が()()に渡され、墓穴(はかあな)を見させられる」ような経験を持っているということです。

このことは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」との報告から説き明かされます。すなわち、婦人たちは、裁きの神か、自分の罪か、あるいは世に生きる苦しみか、いずれにしても言い知れぬ「恐れ」に包まれていました。しかし、彼女たちの心はすでに「大いなる喜び」によって支配され始めていました。

それを婦人たちに確信させたものこそが、「恐れることはない」(マタイ28:10)との主イエスの呼びかけでありました。十字架と復活の御業を成し遂げられた主イエス・キリストが彼女たちに、「()()」や「墓穴(はかあな)」による束縛から解放されて、神の「右の御手から永遠の喜びをいただく」ように、と勧めておられます。

そのような主イエスからの励ましと慰めを受け、婦人たちは伝達者として、弟子たちのもとに駆けて行きます。主の十字架の死を見届けもせず、部屋に引きこもっている仲間たちに、主との再会のチャンスを告げるために……。

 

本日は、主イエス・キリストがよみがえられた朝の出来事の中で、天使の「(あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉に焦点を合わせました。

なぜ、主イエスの復活において、ガリラヤでの弟子たちの再会が重要だったのでしょうか?

復活の朝、希望の光が都エルサレムからガリラヤ湖畔へと輝きわたりました。やがて、主の弟子たちは故郷ガリラヤに帰って行きます。それを見越して、主イエスは先回りされます。

そこで起こるのは、一体どんなことでしょうか?

それは、死からよみがえられた主イエス・キリストによって、弟子たちの魂あるいは心身が立ち直らせられるということでありました。

ありていに言えば、弟子たちは故郷、住み(すみ)()れた所、平凡な暮らしが送れそうな場所に後戻りしかけていました。しかしそこでの問題は、主イエス・キリストのことが分からなくなっていたということでした。帰郷のもろもろの不安がつのる中で、彼らがいくら思案していても闇の底に置かれたままでありましょう。

それ故にこそ、主イエスがガリラヤに先回りして、彼らを迎えられたのです。主イエスは彼らに、行いと言葉をもって、御自身が復活されたことを告げられました(ヨハネ21:1,12-14)。

主イエス・キリストに従うのか、それとも、主イエス・キリストの姿を見失って人生を歩んで行くのか、どちらを選ぶかのチャンスが、弟子たちに与えられました。主イエスが彼らの(かたわ)らで見守っておられます。

主イエス・キリストと共に、前進していくことです。一旦(いったん)、後戻りしてもいいから、苦しくなってもいいから、故郷に戻ってもいいから、でもそこで終わりにしないで、主に立ち上がらせていただくのです。それは、自分の同じように挫折を経験している友を立ち直らせる力となります(ルカ22:32)。

そこで一緒に立ち上がって、新しい道を歩んで行くのです。それこそが、主の弟子たちの「命の道」です(詩編16:11)。

Y

 

《先回りをされる主イエス・キリスト》

主イエス・キリストは、恐れと喜びに包まれた女性たちの先回りをし、そして、絶望と不信仰に(おお)われた弟子たちの先回りをされました。

すなわち、主イエス・キリストは、彼らがどん底に落ちかけているところ、その究極の場面で、再び彼らに出会ってくださいました。

御子、イエス・キリストの犠牲の血をもって支払われた代価、御子の死をもって支払われた代価――その尊い代価による罪の赦しが、台無しにならないように、彼らに救いの道を開かれました。

暗い道を行っていた女性たちや弟子たちはその途上で、主イエス・キリストに出会い、声をかけられました。主イエスは先回りして、彼らと再会し、永遠の代価によって罪が赦されたことを教えてくださいました。そのようにして、彼らに立ち直るチャンスが与えられました。

 

W

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〈説教の原稿〉

2025年 4月20日   

復活節第1主日 復活日(イースター)

旧約聖書 詩編16編 10節~11節(P.846

新約聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節P.59

説  教「そこでわたしに会えるだろう」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ   ……マタイ28:1-6             

  あなたがたより先にガリラヤに行かれる              ……マタイ28:7

Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った  ……マタイ28:8-9  

Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい ……マタイ28:10             

Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う           ……詩編16:10-11

 結

 

去年の復活日礼拝(2024331日)で、マタイ福音書28:1-10を取り上げました。今年も同じ聖書箇所で説教いたします。ただし、去年と異なり、天使の「(あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる(マタイ28:7、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉を中心に語ることにします

 

Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ  

マタイ福音書28:1-6――             

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から(くだ)って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、(ころも)は雪のように白かった4 番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになった5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを(さが)しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」

復活の朝、初めに起こった出来事として注目させられるのは、「主の天使」の降臨(こうりん)です。主イエスの墓に駆けつけたマグダラのマリアともう一人のマリアと天的な存在とが出会ったと証言されています。

婦人たちは、主の天使の行動を目撃し、その言葉に恐れを(いだ)きました。

主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」……ここで、映像を止めてみましょう。

というのも、「主の天使が石の上に座った」ことは、死に対する生の勝利宣言だからです。それは、旧約の預言によって根拠づけられます……「なお(ダニエルが)見ていると、王座が()えられ、『日の老いたる者』がそこに座した」(ダニエル書7:9)」。四頭の(けもの)が猛威を振るっているような闇の中で、「日の老いたる者」、すなわち、天の父なる神が王座に着かれました。

その天の父なる神こそが、「主の天使」を、御子イエス・キリストのもとに遣わされました。神の「(ころも)は雪のように白く その(はく)(はつ)は清らかな羊の毛のようであった」(ダニエル書7:9)というように、「主の天使」も「雪のように白い(ころも)」を着ていました。

神に遣わされた「主の天使」による勝利宣言は同時に、神に敵対する者たちの敗北宣言でありました。それは、「番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになった」との描写に表されています。神の堅固な救いの計画の前に、「番兵たち」を遣わしたローマ総督ピラトはじめ大祭司たちや律法学者たちは敗北に追いやられました。

主の天使」が降臨し、婦人たちの前で座っている場所は、主イエスが死んでよみがえられたところです。墓の「石をわきへ転がした」というのは、死からの解放を意味しています。「」というのは、いわば主イエスの死の世界に封じ込めていた(おも)です。その「」が取り去られました。わたしたちの人生の将来を、暗い影で覆っていた、墓の「」をもはや恐れることはありません。

むしろそこには、天の王座に座しておられる神の栄光が映し出されています。そこは、御父が遣わされた御子イエス・キリストが死から復活を成し遂げられた、記念の場所なのです。

それから婦人たちに、「十字架につけられたあの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という福音の中心が示されました。その時、婦人たちには、新たな使命が「主の天使」から告げられました。おそらく、サマリアの女が「水がめをそこに置いたまま町に行った」(ヨハネ4:28)ように、「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、遺体に塗るために準備した香料と香油(ルカ23:56)を「そこに置いたまま」にして行ったのではないでしょうか。

 

  あなたがたより先にガリラヤに行かれる              

マタイ福音書28:7 主の天使の言葉――

「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

主の天使が、福音の中心を「あの方は死者の中から復活された」と要約してくれました。その主イエス・キリストによる救いの御業に押し出されて、「あなたがた」はこうしなさいと教えられています。つまり、弟子たちに「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれるそこでお目にかかれる」ということを伝えるということです。

今、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に(かぎ)をかけていた」(ヨハネ20:19)という情態に置かれています。彼らの心を解放し悔い改めに導くのは、あの方は死者の中から復活されたとの喜びの知らせ以外にありません。婦人たちは空の墓を見た者として、彼らにそのことを証しします。

そうして婦人たちは、「ガリラヤに行く」ように、と勧めます。その勧めは、弟子たちの心を動かしましました。なぜなら、「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と知らされたからです。

あなたがたがそこであの方にお目にかかれる」〔直訳〕……主イエス・キリストと出会うことが強調されています。主イエスを見捨てて逃げた「弟子たち」に向かって、必ず「お目にかかれる」(お会いできる)と告げられています。主イエスは人間よりも、ずっと先回りをしておられます。

 

Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った 

マタイ福音書28:8-9――  

8 人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが()く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を()き、その前にひれ伏した。

一方、主の天使が降臨して来た墓で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり(ふる)え上がり、死人のようになり」ました。他方、同じ場所で、天使の姿を()の当たりにし、その御告げを心に納めた「マグダラのマリアともう一人のマリア」は「恐れながらも大いに喜び」ました。

婦人たちは、「死者の中から復活された」主イエス・キリストの御前にひれ伏し、悔い改め、罪の(なわ)()から解放されたことでしょう一体自分たちは、何を恐れ、何を喜ぶのか、が明確にされました。

そうした婦人たちを見守っておられる主なる神は、「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせる」との使命を彼女たちに与えられました。そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と予告された主イエスは、婦人たちがエルサレムの空の墓から弟子の家へ行く途上でも、先回りしておられました。

すると、イエスが()く手に立っていて、「おはよう」と言われた ……婦人たちの「恐れ」を振り払うような言葉が投げかけられました。「おはよう」との原意は「あなたがたは喜びなさい」ですから、必ず恐れは喜びに変えられる、とのメッセージが込められています。またそこには、主イエスが「死者の中から復活された」朝の出来事を胸に刻みなさい、そして、主の日に真心から「おはよう」のと挨拶を()わしなさい、とのメッセージが含まれていることでしょう。

婦人たちは復活の証人として、神の()しを受けて立ち上がりました。彼女たちは「ガリラヤでわたしに会うであろう」という主イエスの約束を(たずさ)えて、打ちひしがれている弟子たちのもとへ走って行きました。

 

Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい 

マタイ福音書28:10――             

イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」

先取りして言えば、こういうことです。

主イエスはすでに、ペトロたち・弟子が自分の故郷に帰り、さらには漁師に戻ろうとする(ヨハネ21:1-3)ことを見抜いておられます。そこに、「先にガリラヤに行かれた」主イエスが現れます。主イエスの方から弟子たちに声をかけられます(ヨハネ21:4-5)。

弟子たちに求められているのは、空しさのどん底で、罪の苦しさの(きわ)みで、主イエスの招きに応答することです。彼らは見慣れたガリラヤ湖畔の風景の中で、人生の()()(ぎわ)に立たされます。その時こそ、主の方へ方向転換・回心するチャンスです。

ここで、一歩踏み出すのは、弟子たちの決断です。暗い夜が明けて、朝の光が()し込んで来ます。愛する婦人たちの告げてくれた「週の初めの日の明け方」の出来事を、自分たちの人生の(もとい)とするか否かです。わたしたちは、そのことを覚えて、復活の朝につながる主の日の朝に礼拝を守っています。

やり直すのに遅いということはありません。主イエスはあなたの貧しさやつまずきを見越して、先回りされるお方です。最もふさわしい時と場所に、突然、主イエスは現れます。そのような主イエスの執り成しが行われるように(ローマ8:34)、聖霊なる神がいつも、わたしたちの(かたわ)らにおられます。

主イエスはまさに「羊のために命を捨てる良い羊飼い」です(ヨハネ10:11)。主イエスは十字架につけられて死を()げ、わたしたちの罪を(あがな)ってくださいました。さらに主イエスはよみがえられて、主を信じる者たちに永遠の命を約束してくださいました。

ところが、弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げ出してしまいました(マタイ26:56)。()しくも、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」(マタイ26:31∥ゼカリヤ書13:7)の預言が成就しました。

しかし、「わたしの兄弟たち」を憐れまれる主イエス・キリストは、「彼らはそこでまたわたしに会うであろう」〔原文〕とおっしゃられました。再会のチャンスを作ってくださったのです。

主イエスは、婦人たちの行く手に現れて、「おはよう」と呼びかけられたように、ガリラヤに先回りして、弟子たちを迎え入れてくださいます。

皆さんは、神の大いなる救いの計画は測り知れないと言われるかも知れませんが、それはあらかじめ旧約聖書に書かれていることでありました。

 

Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う          

詩編16:10-11――

10 あなたはわたしの魂を()()に渡すことなく

あなたの慈しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず

11 命の道を教えてくださいます

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い

右の御手から永遠の喜びをいただきます

この詩編には、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、それによって()き上がって来る信仰者の喜びが描き出されています。「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを」(詩編16:1)というように、主なる神と詩人との間には親しい交わりがあります。

その信仰の特徴は、絶望した時にも、死の危険にさらされた時も、「わたしは絶えず主に相対(あいたい)しています」(詩編16:8)との確信に表されています。自分の患難のうちに神が隠れられているのではないかと不安になりそうな時にも、「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ書52:12)との信頼が支えになっていたのです。

このような詩編詩人の姿勢は、婦人たちの行く手に立ち、ガリラヤに先回りして弟子たちに出会うという復活されたイエス・キリストへの信仰を呼び起こすものであります。

あなたはわたしの魂を()()に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴(はかあな)を見させず 命の道を教えてくださいます」……ここには、主イエス・キリストの復活が預言されています。同時に、主イエス・キリストが「墓穴」に引き落とされないように、信仰者を守ってくださることが告げられています。

このような信仰を保持するのは、難しいことだ、と言われるでしょうか。ここにまた、詩編詩人の証しがあります。

わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」……ここで留意すべきは、今「満ち足り、喜び祝って」いる人が、「わたしの魂が()()に渡され、墓穴(はかあな)を見させられる」ような経験を持っているということです。

このことは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」との報告から説き明かされます。すなわち、婦人たちは、裁きの神か、自分の罪か、あるいは世に生きる苦しみか、いずれにしても言い知れぬ「恐れ」に包まれていました。しかし、彼女たちの心はすでに「大いなる喜び」によって支配され始めていました。

それを婦人たちに確信させたものこそが、「恐れることはない」(マタイ28:10)との主イエスの呼びかけでありました。十字架と復活の御業を成し遂げられた主イエス・キリストが彼女たちに、「()()」や「墓穴(はかあな)」による束縛から解放されて、神の「右の御手から永遠の喜びをいただく」ように、と勧めておられます。

そのような主イエスからの励ましと慰めを受け、婦人たちは伝達者として、弟子たちのもとに駆けて行きます。主の十字架の死を見届けもせず、部屋に引きこもっている仲間たちに、主との再会のチャンスを告げるために……。

 

本日は、主イエス・キリストがよみがえられた朝の出来事の中で、天使の「(あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉に焦点を合わせました。

なぜ、主イエスの復活において、ガリラヤでの弟子たちの再会が重要だったのでしょうか?

復活の朝、希望の光が都エルサレムからガリラヤ湖畔へと輝きわたりました。やがて、主の弟子たちは故郷ガリラヤに帰って行きます。それを見越して、主イエスは先回りされます。

そこで起こるのは、一体どんなことでしょうか?

それは、死からよみがえられた主イエス・キリストによって、弟子たちの魂あるいは心身が立ち直らせられるということでありました。

ありていに言えば、弟子たちは故郷、住み()れた所、平凡な暮らしが送れそうな場所に後戻りしかけていました。しかしそこでの問題は、主イエス・キリストのことが分からなくなっていたということでした。帰郷のもろもろの不安がつのる中で、彼らがいくら思案していても闇の底に置かれたままでありましょう。

それ故にこそ、主イエスがガリラヤに先回りして、彼らを迎えられたのです。主イエスは彼らに、行いと言葉をもって、御自身が復活されたことを告げられました(ヨハネ21:1,12-14)。

主イエス・キリストに従うのか、それとも、主イエス・キリストの姿を見失って人生を歩んで行くのか、どちらを選ぶかのチャンスが、弟子たちに与えられました。主イエスが彼らの(かたわ)らで見守っておられます。

主イエス・キリストと共に、前進していくことです。一旦(いったん)、後戻りしてもいいから、苦しくなってもいいから、故郷に戻ってもいいから、でもそこで終わりにしないで、主に立ち上がらせていただくのです。それは、自分の同じように挫折を経験している友を立ち直らせる力となります(ルカ22:32)。

そこで一緒に立ち上がって、新しい道を歩んで行くのです。それこそが、主の弟子たちの「命の道」です(詩編16:11)。

W

 

 

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「御子による過越の小羊」―過越による永遠の命― 

聖書 出エジプト記12114節 マタイによる福音書261730

2025413 磯部理一郎

はじめに

 本日は「過越の食事」。小羊の血ゆえ死の審判を過ぎ越す(出12)と神は定めた。小羊の血は、旧約で贖罪の犠牲祭儀再契約、新約で主イエスの十字架の死を意味づける。12使徒と教会は十字架死の主イエスに贖罪のメシアを見出し(ルカ2427)神の啓示の福音と悟り(使徒236)、「秘められた神の計画to. musth,rion tou/ qeou/musth,rion」を宣教の本質として捉え、「十字架につけられたキリスト以外、何も語るまい」(Ⅰコリント212)と決意した。使徒的公同教会は主を「父と同一本質o`moou,sion」と定義し、真の神が真の人を受けた神人両性のキリストと宣言。小羊の血滅びの審判を過越す贖罪神メシアの血となり、そして贖罪神の十字架死と復活の身体は、人類と世界を永遠に贖罪する栄光の身体となって使徒的公同教会に現存し、贖罪と栄光の身体の礼典により人類を内在超越して貫き、神の永遠の創造と贖罪と完成の漲り溢れる場とした。三一の神は、御子の過越の血に、死の審判を過ぎ越す永遠の贖罪を実現し、さらに地上の過越の食卓を通して御子の贖いの身体に教会を招き入れ、ついに神の愛と命の交わりに導く。こうして地上の教会は「キリストの身体」として永遠の命に生きる。

1.旧約聖書における民を「贖うgaw-al'(laG lutro,w)」神と「贖罪のメシア」像の形成

 ⑴「奴隷から救い出す。審判によって贖う(laG lutro,w)」出66 神は民を奴隷から代価を支払い買い戻す

  →「初子を撃つ。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」出1212,13 ☛過越の代価小羊の血

 ⑵「贖罪の献げ物、祭司が罪を贖う儀式、罪は赦される」レビ420祭儀代価贖罪赦し/関係回復

→祭儀→犠牲代価→滅び審判過越/再契約→贖罪日(大祭司/至聖所/契約/血の回復)レビ23メシア原像

 ⑶「御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われ」詩7716共同体全体救済原理教会の選びと贖い

 ⑷「彼が担った、わたしたちの病、痛み。彼が刺し貫かれたわたしたちの背き咎のため」イザヤ534, 5

賞罰の転嫁代理代償→賞罰を代償する贖罪者→「贖罪のメシア」→全共同体救済原理」=「贖罪者

2.新約聖書における「贖罪(laG lutro,w)のメシアの到来」

 ⑴「主は我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた」ルカ168,69 贖罪のメシア到来預言

→「メシア苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。罪の赦しを」ルカ2447死の代価→メシア

 ⑵「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」マタイ2028 ☛「身代金lu,tron贖いの代価)」

  →自分の命=贖いの代価→命の犠牲の代価を支払い(十字架の死)、神のもとに買い戻す(復活/永遠の命)

 ⑶「すべての人の贖いとして御自身を献げられ」Ⅰテモテ26全人の贖いavnti,lutron(に対する支払い)

 ⑷「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して無償で義とされる」ローマ324 ☛「買い戻すavpolutrw,sewj」→義とされる「義」→律法上の負債を完全に支払い尽くしてのもとに買い戻された→神による義の完成

3.教会教父とニカイア信条における「贖罪のキリスト」

 ⑴ 問題の所在:負債(罪)完全に支払い尽くす?→メシアは神か人か?→普公教会→キリスト論の本格定義

 ⑵「サタン神のことを思わず、人間のことを」マタイ1623 ☛ 「父と同一本質 o`moou,sion」(普公教会信条

ニカイア信条の普公教会→「信条」→「普公教会」una, sancta, apostolica, catholica →「使徒」継承の基

 ⑶ 仮現論 ☛ キリストの人性とは?→「完全な人間」(霊/理性/肉体)の受肉?→/罪は?→「◎神」×人?

  →カルケドン信条[完全な神/完全な人][一位格/神人二本性]one person/two natures非分離/非混合/交流

 ⑷ 御子//犠牲代価を誰が誰に支払うか?☛東方サタン//滅び→勝利西方満足説:御子御父

4.「過越の食事」におけるユダの贖罪は?

 ⑴「12人と一緒に食事の席に着かれ、裏切ろうと」マタイ2620,21過越の食事に招く/裏切るユダの

 ⑵「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」Ⅱコリント519☛罪の消滅

→支払い「御子」→永遠無限の代価完全贖罪→神による「義」人間の復活/昇天/神の右→ユダの罪は?

 

 ⑶ 贖罪とその適応としての審判 ☛ 審判者「神」主権→神の自由なる選び◎教会権威×個人の信仰判断

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説教主題「彼らに自分自身をささげます」―主の真理の霊による聖別―

聖書 イザヤ書53112節 ヨハネによる福音書17126

202546 磯部理一郎

はじめに

 本日は「栄光の祈り」です。「祈り」は、天と地、永遠と時の障壁を貫き神と人が一体となる交わりで、神礼拝と同根です。神の父子霊の三位格が相互に共有し合って交わり一体となり、その三一の交わりには神の愛と命が永遠に湧き溢れ、神はその愛と命をもって遜り、自己を外化(創造・和解・救贖)し、世に内在化して宿り(受肉・聖霊降臨、教会・聖礼典)、神人世界一体の交わり、この交わりを祈りの基とします。この基本は「主の祈り」(マタイ6913,ルカ1124)に伝承されましたが、「ゲッセマネの祈り」は、十字架の死を直前の、御子の自己奉献(「彼は自らを償いの献げ物とした」イザヤ5310、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」ヨハネ1719)の祈りとなり、神人両性のキリスト父子霊の相互内在の交わりが啓示されます。さらに宣教に選ばれ派遣される弟子たちが、教会の担い手となる使徒として、御子の栄光の身体と聖霊降臨に一躰化されて聖霊の降臨をもって聖別される場となります。祈りは決して「人間」の祈りではなく、「ご自身が永遠の次元で救済の完成を実現する聖なる神のみわざの場です。三一神の内在的交わりとその計画と派遣の場こそ、永遠の祈りで、永遠の祈りは地上に写し映され地上でも聖なる祈りとなります。神の豊かな愛と永遠の命の交わりは、神の愛と命の祈りにより、地上の教会に写し出され、みことば(説教と聖礼典)による宣教を通して、天地時空を貫き、神と人と世界との一体の交わりを築き、神の栄光を現わし、万物は神の栄光を褒め讃えます。永遠の神の愛と命の交わりという神の救済の本質は、地上の「祈り」の場となって、いよいよ明らかにされます。

1.<祈り>とは何か:ひとりと集団の祈り、言葉と沈黙の祈り、公同的教会の礼拝としての祈りを学ぶ

 ☛ 祈りの根本は「主の祈り」にありその解き明かしは別機に譲り、本日は「ゲッセマネの祈り」、特にヨハネ17章「イエスの祈り」が主題です。少しだけ、最初に祈りの前提に触れるに止めさせていただきます。

 ⑴「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」(マタイ1423「解散、ひとり、山」

☛「山に登る」「主はシナイ山の頂降りモーセ山の頂呼び寄せられた」出エジプト192024

神が降り呼び出す場選びと召命の場→十戒/救済契約の場→エクレシアevkle,gw神が民を召し集める)

→派遣の聖別の場→祈れない?→[神の降臨・召命・選び・契約・派遣]自分の出来事/確認点検の場

 ⑵「解散させてひとり1423→区別と分離→私は誰個の自覚identityの確立→神との関係性から自覚

  →主イエスidentity→父子霊の三位一体の相互内在→イエスは誰主のidentity在り方は主のexistence

 ⑶「一同が一つになって集まっていると、すると、一同は聖霊に満たされ""が語らせる」使徒214

☛集団「一つになって集まっている」sumplhro,w同一目的/意味→神が召し集めるevkle,gw聖霊降臨の場

聖霊伝授の場→聖霊による洗礼受洗145の場→霊が語らせる神を証言する(神の証人)場

 ⑷「霊が語らせるままに、国々の言葉で話した」使徒24 ☛ 国語(言葉)による祈りの場→礼拝「国語」

 ⑸「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」Ⅰコリント14125

  「異言」→霊と自己の対話→異言・沈黙による祈り→「自分」を造り上げる祈りの意義

  「預言」→霊が語らせる国々の言葉で→「集まりひれ伏して神を礼拝し1425→公同「教会礼拝」

2.「時」の4形態:a.神の永遠栄光を現わす b.被造物を創造する c.罪で腐敗滅亡する d.栄光完成

 ⑴「が来ました」1「時」とは? 時の本質☛「栄光を現す1→神は愛と命により栄光の御業を行い現す

→「天地創造の前から24→三一神の「栄光」→神の永遠のご計画 ☛「あなたの栄光」→⇄霊

3位格の栄光→a父:創造, b子:和解, c霊:救贖の形で、三位一体神の栄光と愛内から外へ遜る

 ⑵「天地創造」☛Augustinus時の創造/perago恵みの場→創造の限りに限定→存在の祝福⇄栄光反射讃美

 ⑶「罪」時の変質 神からの離反→神の創造と栄光の光を反射させる本性Imago Dei→「反射作用」の喪失

→神の栄光讃美→罪による堕落→神の栄光讃美不能/時と物質私物化と時の腐敗✕神の栄光◎人の欲

→腐敗/死の滅び→苦悩/悲惨の場→「滅びへの隷属」ローマ821☛ 時と物質の滅び/被造物全体の呻き

 ⑷「贖い献げる引き渡される」(イザヤ5310,ヨハネ1719,マタイ2645, マルコ1441

贖罪としての受肉:贖うlutro,w 犠牲の代価を支払い買戻す:受肉→十字架死により心身を支払う復活

 御子の受肉の身体十字架の死の犠牲において支払い、人類の身体を罪と死から神へと買戻す栄光の復活

cf.「わたしは苦しみをつぶさに見、声を聞き、痛みを知った。それゆえ降って行き導き上る」出378

3.犠牲奉献の祈り(マタイ263646,マルコ143242,ルカ223946,ヨハネ17126

  共観福音書の史実と秘匿の神→オリーブ山, ゲッセマネ→ヨハネの知:永遠普遍化神の栄光顕現化

 ⑴「時が来た、引き渡される」(マタイ2645,マルコ1441)☛ヨハネ「あなたの子があなたの栄光を現す

  「引き渡される」☛本来「屠る、(死の審判を)過ぎ越す」出12313贖いの献げ物」イザヤ5310

 ⑵「かなしみもだえ、死ぬばかりに悲しい」(マタイ2637,38)☛神人両性:犠牲の苦悩:葛藤と従順:一致

  →人間イエスの痛み→「誘惑…心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ2641)→人間本性に遜り心身一体化

 ⑶「わたしの願い、御心のままに」(マタイ2639)☛犠牲奉献の資格と意義→罪なき義人イエスの犠牲奉献

  →「御心」→清き血により人間本性の聖潔化→血の贖罪により再契約し再創造する→御子の自己犠牲の奉献

ヨハネ「子が父の栄光を現す171三一論(神)の永遠次元のご計画→三一論的共有による栄光の死

相互内在交流の父子霊の神→永遠の三一交流から時と場に遜って降下→父:創造・子:和解・霊:救贖

御子「彼らのために、わたしは自分自身ささげます」(1719◎神の御子×単なる人性を越えて

御父:御子を支払う神:贖罪する神「神はその独り子をお与えに、世を愛された。永遠の命を得る」316 

御霊:御霊を支払う神:贖罪する神「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいる。」1416

わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」26→神の交わりから神と世との永遠の交わり

4.ヨハネの信仰共同体の「知」ginw,skwsij(用語注意「聖書」の知(受肉)と異端の知(「受肉/身体」排除)

⑴「永遠の命を与える」☛「永遠の命とは、唯一のまことのイエス・キリストを知ること」173

⑵「キリストを知る3ginw,skw→「信と知」の告白イエス?「わたしはある御子の受肉Identity

「キリストを知る」3 ☛神Existence/Presence選び与える⇄信仰の知/食べ飲む/聞き与る/礼拝し祈る応答

  →「永遠の命を与える2 →永遠の愛と命の交わり完成の栄光/天地時空貫通/一体交流新しい時/新約

⑶「子が父の栄光を現す」本質☛与え合う父子霊/相互共有神の愛命の根源交わり招入☛愛命の共有救い

☛小羊/犠牲/贖罪→御子の受肉/十字架の完成の神栄光の十字架→「身体」(人格)における神人一体☛受肉神の栄光の身体(根元)与え交わり(相互共有化/相互内在化)→神人一体化→信仰の知永遠の命

☛小羊/犠牲→過越/贖罪/外の祭儀信仰の知ginw,skwsij信じ知る/食べ飲む/与り聞く→内外一体の祭儀

栄光をわたしは彼らに与え、わたしたちが一つであるように彼らも一つになる、わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(1723)神→イエス→万物

5.聖霊の降臨と聖別される栄光の身体☛ヨハネ信仰共同体の「教会論」

 ⑴「真理によって彼らを聖なる者とし、あなたの御言葉は真理です」17☛ 神の真理の言葉→共同体を聖別する

  →主のidentity「わたしはある」+真理//146→主のexistence永遠にあなたがたと一緒にいる1416

⑵「あなたからゆだねられ」2わたしも彼らを世に遣わし18☛「わたしも彼らの内にいる26

 →[三一/受肉神イエスの身体/教会]信仰の知による交わり愛命の共有[一身体][聖なる公同の教会]

⑶「聖霊が降る力を受け、地の果てまでわたしの証人となる」使徒18☛聖霊para,klhtoj降臨内住

⑷「彼らのために自分自身をささげます19 ☛栄光の身体と聖霊を与える→教会の宣教三一神は現存する

 →小羊犠牲/過越/贖罪御子の犠牲奉献/受肉/十字架死/復活/昇天栄光→聖霊派遣→御子と聖霊を支払う神

 

 →犠牲奉献[三一神/イエスの身体/聖霊降臨/→使徒派遣/聖礼典→相互内在化]一身体化教会の設立

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説教主題「荒れ狂う大嵐の中にあっても」―栄光の神の現臨―

   聖書 イザヤ書35110節 マタイによる福音書142233

2025330 磯部理一郎

はじめに

本日は「教会とは何か」です。神キリストは遜り人間の身体に受肉して宿り、みことばを語り魂深くに突入し、聖礼典により十字架の死と復活の栄光のお身体を差し出して内住し、内から復活の身体を成熟させ完成します。キリストは天地を貫き栄光のお身体をもって現存し、選びにより時と場を用いて教会を栄光のキリストの身体となし創造・贖い・完成の働きをこの地上で行い続ける。神キリストは礼拝するあなたの魂と肉体に現臨し働く。

1.教会のはじまり、教会建設の前提 マタイ142223,マルコ64547,ヨハネ61517

 ⑴「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ向こう岸先に行かせ1422教会の根本と本質

  aそれからすぐ」☛「あなたがたが彼らに、弟子たちにお渡しに」(1416,19) →神の国(支配)到来の時

b強いて舟に乗せ」☛弟子の強制派遣→神の絶対意志と計画→教会建設開始→パンと魚に見た神の国到来

c「向こう岸へ先に行かせ」☛終末再臨準備→向こう岸/空間/地の果て先に/完成を目指す/未だ/既に先取

→「向こう岸」☛宣教→マルコ/ベトサイダ, ヨハネ/カファルナウム☛ マタイ削除/時空の果て/永遠全地

宣教の本質の神学化→神の国?神キリスト到来?いつどこ?→根拠:今既にここにイエスに信仰教会

 ⑵「その間に群衆を解散させ祈るためにひとり山にお登りになった」1423新しい契約と律法の締結

  →「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せ」出192024→新Exodus Israel 教会の始まり

 ⑶「夕方になっても、ただひとりそこに1423 ☛ 祈る(ヨハネ141524)→終末完成の先取と教会本体

2.「使徒伝承」教会教理から聖書を読み解く―使徒ペトロと使徒継承にある地上教会の本質〇使徒性×人間P

 ⑴「ところが」1424 ☛次元転換、永遠の神国⇔地上の破綻→現世志向「金の子牛」出3216→嵐、波

 ⑵「陸から離れて24対立分離の二次元、神の介入支配(舟=教会)⇔自然(現世)恐怖→神の支配

→地上での試練→「」地上に束縛・依存→自然物理(有限の肉)喪失危惧→神の力:信仰の杖:イエス

→神の介入継続→山でひとり祈るキリスト23→「何スダディオンも離れて24神の不在棄捨)→信頼

→地上の人類に神介入はないか? 陸/戦争/災害/不条理→孤立と絶望不信→教務と偽善化→教会無力化

⑶「逆風のために波に悩まされて24信仰の試練②→「逆風」次元対立→反キリスト・迫害の大嵐

→「悩まされ」24→試練と真理探究→逆風と葛藤→内部分裂分離→異端分派論争→教会史はいつも危機の中

3.解決と克服の根拠:神の現臨と教会教導―神はいつも共在内住しみことばにより教会と信仰を教導する

 ⑴「夜が明ける」1425 ☛神は時空を貫き突入→教会の時(有限無限の二次元構造の貫通)→時空の利用

日曜朝の礼拝=復活栄光の主礼拝天地同時の生→教会の本質=時空貫通の自覚→未だ・既に今ここに

⑵「湖の上を歩いて1425 ☛物理的二次元対立の時と場同時貫通するキリストの終末的現臨と介入

弟子たちのところへ行かれた25ひとり山に登られた」22, cf.天に昇り全能の父なる神の右に座し

→遜り降って導き上る「受肉の神」の現臨と「聖霊」の降臨para,klhtoj「傍らに同伴し助ける弁護者」)

「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ1426

→父子霊一体の相互内在の神「地上突入」→神の現臨介入→教会に内在化/聖礼典→試行説明:化体/偏在/霊在

 ⑶「湖上を歩いて…を見て1426 ☛「見て」眼前に生起する神の事実は見て触り体験できる理解不能

4.教会の力ある本質を知る―教会は、神の自己証明(啓示)と神の実存を現わす神の身体

 ⑴「見て幽霊だ1426 ☛「幽霊」〇恐れ×喜び→見たのになぜ?→不信と恐怖の支配→贖罪の継続必要

 ⑵「イエスはすぐに話かけ1427 ☛説教の解き明かし「わたしだevgw, eivmi27, cf. ヨハネ627 Egw, eivmi

  →「わたしはあるである:神のIdentity→今ここに教会の直中に突入現臨する:神のExistence→教会

 ⑶「ペトロ…水の上を歩き1428水の上を歩く主と教会「一体性」→主の継承特権→地上の教会の権威

 ⑷「舟から降り」1428 ☛「信仰の薄い疑った1431権威の徹底〇神の主権, ×疑う人間ペトロ

 

 ⑸「本当にあなたは神の子1432信仰の核心に教会の確信に→時空貫通の神の現存、今ここに

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             月報 3月号 

        説 教『その日には、夕暮れに光がある』 

      ゼカリヤ書 14章6節~7節 小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その日には、夕暮れに光がある …ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉             

Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った   ……マルコ15:42-46〈成就1〉

Ⅲ 女たちは香料を買った  ……マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉  

Ⅳ 神の栄光が都を照らしている

              ……ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉  

 

本日は、「その日には、夕暮れに光がある」との主題を、神の大いなる救いの歴史における〈預言〉〈成就〉〈待望〉という広い視野から展望します。

わたしたちはやがて高齢になり、老いや病やまいに苦しむようになります。しかし幸いにも、主イエス・キリストによる十字架と復活の〈成就〉、そして、神の国の〈待望〉というわたしたちの信仰の中心に、「その日には、夕暮れに光がある」との慰めのメッセージが込められています。老いの日々の向こうに、わたしたちを歓喜させる「夕暮れ」が待っています。

 

Ⅰ その日には、夕暮れに光がある 

ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉――             

6 その日には、光がなく

冷えて、凍いてつくばかりである。

7 しかし、ただひとつの日が来る。

その日は、主にのみ知られている。

そのときは昼もなければ、夜もなく

夕べになっても光がある。

ゼカリヤは12章から最終の14章にわたり、「主の日」についての思索を深めています。どのように「主の日」が到来するのか、を神の知恵によって説き明かしています。

さて、「主の日」とは、どんな日なのか、ゼカリヤ書の記述に従って見てみましょう。ここで注意すべきは、時間経過と共に、「主の日」の明暗が一転することです。だから、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)。

「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」……これは主イエスの言葉を借りれば、「これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコ13:8)という終わりの時の徴しるし(同上13:4)を表しているように思います。「光がない」という闇や寒さの中で、人々は慌あわてて逃げたり、混乱したりする恐れがあります。偽にせメシアが現れて、不思議な業を行い、人々を惑まどわそうとします(マルコ13:7,15,22)。

これを信仰の面から言えば、真に主なる神に依り頼むかどうかが、終わりの時に、わたしたちは問われるということです。「銀を精錬せいれんするように精錬し 金を試ためすように試す」ごとく(ゼカリヤ書13:9)、人々の信仰は錬ねり清められます。わたしたちは最後まで、主なる神につき従わねばなりません。

「しかし、その日」に、激変が神の側から起こされます。それまで忍耐していた者は幸いです。

「そのときは昼もなければ、夜もなく」……「寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない」(創世記8:22)という創造の秩序が更新され、「ただひとつの日が来る」ことになります。

「ただひとつの日」というのは、わたしたちの心に思い浮かびもしなかったもので(Ⅰコリント2:9)、「その日は、主にのみ知られている」ものであります。従って、楽観的にせよ悲観的にせよ、わたしたちが予断することは許されません。ですから、「その日には、夕暮れに光がある」(私訳)という出来事の内実も、ただ神のみがご存じです。

ゼカリヤは同僚のハガイなどと共に、神の喜ばれる道を暗中模索する中で、「ただひとつの日が来る」と、〈預言〉しました。そこで続いて、Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った で、〈成就1〉を、そして、Ⅲ 女たちは香料を買った で〈成就2〉を説き明かしましょう。

主イエス・キリストの十字架と復活において、「その日には、夕暮れに光がある」とのメッセージを受け取るのが、聖書的であり、最も信頼できると思います。具体的に言えば、ゼカリヤ預言の「主の日」(その日)は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の「三日間」において成就します。すなわち、準備の日、安息日、週の初めの日、その「三日間」になります。

 

Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った        

マルコ福音書15:42-46〈成就1〉――

42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降おろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。

「準備の日」が終わろうとしている「夕方になった」と告げられています。丁寧に時間経過を記述しているマルコ福音書は、その「準備の日」、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(15:33)と述べています。これこそ、「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」(ゼカリヤ書14:6)との〈預言〉の〈成就〉ではないでしょうか。

ここに、一人の男が主イエスの十字架のもとに引き寄せられて来ます。この男の登場と共に、神の御子が死んだ日という「主の日」の明暗が一転します。

午後三時までは、「全地は暗くなって」いました。それから、「夕方になり」ました。その時被造世界の秩序が回復しているならば、空には満月が輝いています。なぜなら、過越祭はニサンまたはアビブ(第一)の月の15日……厳密には14日の夕暮れ……から始められるからです(民数記9:1-3、歴代誌下35:1、出エジプト記23:15)。

「三時まで続いた」闇が去って、「アリマタヤのヨセフ」は動き始めました。彼には、「イエスの遺体」の引き取り許可を得て、「墓の中に納める」という急務が託されていました。彼は、「安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために」(ヨハネ19:31、申命記21:23)、総督官邸からゴルゴタの丘へ、それから墓地へと駆け回りました。

それは困難な務めではありましたが、あたかも神が、敬虔けいけんなる者の「午後三時の祈り」(使徒3:1)を聞き届けられたかのように、順調に事が運びました。「アリマタヤのヨセフ」は「墓の入り口には石を転がして」、主イエスの葬りを終えました。そうして彼は、律法に即して夕暮れまでに準備を完了される神の御業に携たずさわることになりました。

無事、主イエス・キリストの埋葬が終えられたのは、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が〈成就〉したことにほかなりません。そうして、主の復活を証拠づける「空からの墓」が用意されることになりました。言い換えれば、主イエスの全まったき死は、主イエスの復活の〈成就〉へとつながっていきます。

 

Ⅲ 女たちは香料を買った         

マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉――  

47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。

1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。

ここに、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」が、イエス・キリストの「主の日」の証人として呼び出されました。彼女たちについて注目すべきは、主イエスの①〈十字架の死〉②〈葬り〉③〈空の墓〉を見つめていた(マルコ15:40,47、16:4)ということです。

ところで、彼女たちは、週の初めの日が始まる「夕暮れ」を待っていました。売り買いが許されない安息日の間(ネヘミヤ記13:15-16、アモス書8:5)、はやる気持ちを押さえていたことでしょう。彼女たちは安息日明けの夜、「イエスに油を塗りに行くために香料を買」おうと待っていたのであります。

その時、「香料」を分けてもらうために外出する女たちの足もとを、満月が照らしていました。ここにも、「その日には、夕暮れに光がある」という幸いが見いだされます。

「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」……墓を封ふうじている石のことが気がかりでしたが、早朝、女たちは主イエスの墓に駆けつけました。ところが、石は既に転がされており、墓の中に入ることができました。そして、白い衣ころもを着た若者から、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられました(マルコ16:5-6)。

復活の夕べから復活の朝まで、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」は、“ 霊 ” 的に目覚めさせられた者として事の一部始終を見つめていました。

このようにして、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が、主イエス・キリストの十字架と復活において〈成就〉しました。ゼカリヤの〈預言〉の〈成就〉を目撃させられたのは、安息日の前後に、亜麻あま布ぬのを買った男と香料を買った女たちでありました。

 

Ⅳ 神の栄光が都を照らしている    

ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉――  

23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携たずさえて、都に来る。

その日には絶えず、「神の栄光」が輝いています。「しかし、ただひとつの日が来る」との〈預言〉の通りのことが起こります。都エルサレムに第二神殿を再建しようとしたゼカリヤやハガイの期待をはるかに超えて、新しい都は永遠に神の栄光に包まれています。その都の中心には、主なる神と「小羊」なるイエス・キリストがおられます。

わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業の〈成就〉に基づいて、このような将来を〈待望〉しています。

Ω

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説教主題今こそ立ち上がる時」―罪の病からの解放―

聖書 詩編78編⒓~29節 ヨハネによる福音書5118

                           2025323 磯部理一郎

はじめに

 本日の主題は「立ち上がる」外化です。生ける三一の神は御子の受肉と聖霊の降臨を通して遜り(フィリピ268)、説教と聖礼典(礼拝)により時間と場所を用いてご自身を差し出し、聞かせ食べさせ飲ませ人格(心身)に内在内住し内より無限の再創造と十字架の贖罪と復活の完成のわざを行い、人間本性を根源から新生させ、栄光の復活へと貫き人類を罪から救います。神の内在化(「内で泉となり永遠の命に至る水が湧き上がる」415)は内から外へと働き新し人格を新生させ新たな行動を発芽させます。命の泉は内から新しい人格を形成し外化して新しい行動変容起こし現れ病んだ者が立ち上がり死んでいた者が生き返り、新生の人格は動き始めます。

1.ベトザタ(Bethzatha, Bethesda)の池で神の出来事:38年の「絶望」が「あわれみ」に変わる「礼拝の場と時」

⑴「ベトザタ(オリーブの家)」52、ヘロデ大王→エルサレム北壁東「羊の門」(ネヘミヤ31321239)

巡礼者の沐浴(男女用南北二つの池4060m)→異称「ベテスダBethesda神のあわれみの家

→写本欠落54【口語】「主の御使がこの池に降りてきてどんな病気にかかっていてもいやされた

⑵「ヤコブの井戸」サマリア律法(46礼拝の場、「生ける神と出会う」場、律法の根拠

  「ベテスダの池」53癒しの場、病気=霊的穢れ/汚れ→外化(MK123,34, 3:11, 5:2, 6:7, 7:25, 9:18

主の御使い霊的清め→癒し、病の根本問題:肉体と精神→人間本性全体を支配する→絶望と依存

⑶「38年も病気で苦しんで」55→ニコデモ(水と霊による新生)サマリアの女(神の愛に直に触れ命の泉)

2.絶望の訴えと主のことば(啓示)☛神は絶望し尽くした魂の中に遜り降下しご自身を差し出して内住する!

⑴「良くなりたいか」56:啓示=愛ゆえ遜り苦悩の中に降下する「イエスは見て知り言われた56

  「わたしは民の苦しみをつぶさに、叫び声を聞き、痛みを知った降って行き、導き上る。」(出378

⑵「入れてくれる人がいない57依存迷信と他者に依存と自立? 「絶対依存あなたが立ち上がる!

  「良くなりたいか」→内なる意志を問う→:人格の根本の病意志と希望の再生」→人間本性の根本回復

⑶「起き上がりなさい」58、外から内を貫通する神の言葉神の力と応答の意志、内面からの生きた出会い

⑷「すると、その人はすぐに59、み言葉→内化の確かさ/種蒔きMK4:1~20, 26~34意志希望の発芽

神の言葉のみわざ→受容と応答意志「床を担いで歩きだす」→内在から外化するみわざ×自律, 〇神律

3.安息日:矛盾→神の創造完成,万物世界の祝福と聖別による破壊と堕落万物の呻き(ローマ82123)

 ⑴「今日は安息日律法で許されていない510律法による義→罪による完全破壊→完成安息の実質喪失

安息日(213)力ある神の創造完成、万物世界の祝福聖別☛聖なる祝福と完成の喜びに溢れる日

神の栄光を全地は存在の全てを一致させて表し讃美する、故に「礼拝」成立根拠☛安息日の本質

⑵「『床を担いで歩きなさい』言われたのです、言ったのは誰か」(51112

律法の誤用:罪による奴隷化、権力支配→宗教の空洞化教会の現世化と無力化→絶望,虚偽,幻想,偽善化

→承認欲求と権力保持のため真の神を抹殺するユダヤ宗教社会(51618)→キリスト教会は

 ⑶「罪を犯してはいけない」514、罪の本質:神を神としない意志反キリスト >×汚れた霊や偶然の病傷

   →「受肉の神」と直に向き合う勧め真の神への回心と礼拝→信仰の招き→さもなければ滅びに至る

4.安息日、神が万物を完成し祝福し聖別する日→罪の破壊→「絶望」から「憐れみ」に変える祝福救済の日

 ⑴「安息日にこのようなことをして」516安息日を破る518、律法主義の「誤解」VS「真の神の安息」

 ⑵「父は今も働いて517あなたの中で今も神の創造は絶えず継続的に進行, 終末完成, 後期ユダヤ教

 ⑶「神を自分のと呼んで」518「ご自身を神と等しい者と」518わたしはある858→神の自己啓示

5.結語:ヨハネとその教会の宣教(「わたしはある」)→「子」において「父」は働き「父」の栄光讃美はある!

 

☛父子聖霊の神は、愛の一致により、御子の受肉と十字架の死と復活をもって罪を永遠に贖い永遠の命を与え、説教と聖礼典により、栄光の身体を魂の内に与え心身の交わりをもって栄光の身体に新生させ養い育てる。

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説教主題「今こそ、真の礼拝の時」―神のメシアとの出会い―

聖書 申命記649節 ヨハネによる福音書4126

2025. 316 磯部理一郎

はじめに

 本日の主題は「霊と真理による礼拝」です。礼拝は生ける三一の神が魂を外から内にそして永遠の命へと貫く内在超越の神の行為です。絶対超越の神は天地を貫き受肉し、聖霊と真理の言葉(説教と聖礼典)により世の時と場を用いご自身から遜り降って罪人に宿り、外側から魂の奥深くに内在内住し溢れる贖罪と復活の源泉となり、人間本性をキリストの栄光の身体に新生させ、根源から潤して養い育て、永遠の天の命にわれわれを完成させます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり永遠の命に至る水がわき出る。」(414)「わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(656

1.ヤコブの井戸、民族の真の「神礼拝」を求める対話の開始(エルサレム神殿とサマリア神殿)

 ⑴ ヤコブの井戸:サマリアの歴史:B.C.722北の滅亡→雑婚混住 マナセ→分離政策:サマリア神殿祭儀

 ⑵ 主イエスの旅路:シケム(アルカル)ゲリジム絶壁下、ヨルダン渓谷の酷暑と難路→伝承「枠」の突破

 ⑶ サマリアの女の痛み(愛喪失:夫不在の病んだ愛)とニコデモの苦悩(神喪失:偽善的律法社会)

⑷ 水を乞う主「水を飲ませてください」(7立場の逆転 捨て遜る啓示神から愛ゆえ呼びかけ☛選び

2.女の深刻な誤解と対立の中で

 ⑴「ユダヤ人がサマリア人のわたしに、どうして頼むのか」(9):神の救いの水を乞う☛種族と神人の立場逆転

   女の誤解1ユダヤ人サマリア人の対立☛種族と宗教の相違☛「神のメシア(預言者)申1815喪失

 ⑵「神の賜物を知り、だれであるか知って」(10)☛メシア天から降り受肉し罪を贖う神主イエスに出会う

   女の欠如2:救われるべき罪人罪の自覚)☛愛と選びにより救いを与えるメシア?☛求道心と信仰心?

神が罪人になる:愛ゆえに遜って降り受肉して十字架の死ケノーシス(フィリピ268)聖霊降臨

⑶「汲むものをお持ちでない、井戸は深い」(11)閉ざされた救いの道、律法処理の限界と罪による絶望の深さ

⑷「ヤコブよりも偉い、その子供や家畜もこの井戸から水を飲んだ」(⒓)地上の権威と全能の創造神の権威

  女の限界3:イエス?→預言者?魔法の祈祷師?→完全信仰?☛限界の自覚主の身体聖霊による養育

「楽」になる水?→現世的欲求に終止→現世の障壁突破?の解決と永遠の命?☛信仰の現世的誤解

3.主イエスの啓示(啓示=神が神でない者のための愛ゆえにご自身を開いて遜り地上に降り受肉し罪を贖う

 ⑴「わたしが与える水飲む者は」十字架と復活の身体聖霊の降臨(73739)内在内住し教導する神

  「わたしの肉を食べわたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」

⑵「その水をください」(15)→女の限界と誤解→現世次元の枠内、回心主の恵みの信仰よる超越突破は?

 ⑶「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16回心を求める説教罪を告白する礼拝(Ⅰコリ1424, 25

4.霊と真理をもって父を礼拝する

 ⑴「礼拝すべき場所」(20)真の礼拝?→突破口☛があなたを選びご自身を与え復活させるわざに与る飲む

 ⑵「わたしを信じなさい」(21)☛主はことば心身の内ご自身を与えて現存し,神を礼拝する場を創る

 ⑶「父を礼拝する」(22)☛主イエス「わたしはある」(858ホモウシオス真理をもってを礼拝する」(23

⑷「神はである」(24)とによって生まれ(35)☛人間「本性」の根源的新生主の身体に与る

相互内在化「弁護者が来ればわたしに栄光を与えわたしのものを受けて告げる」(16816

「わたしが父の内に)、あなたがたがわたしの内にわたしもあなたがたの内に神と人)」(1420

聖霊は子を,子は父を証しする☛相互に内在する[]神はあなたがたのうちにおられ」  聖霊が宿る☛父子聖霊の相互内在の神を宿す☛内からの再創造/永遠の贖罪/命の完成「湧き溢れる泉」414

⑸「あなたと話をしているこのわたしである(エゴー・エイミ「わたしはある」出314)。」(426858

5.結語:聖霊の働きに助けられて、真理である神のことば(主の語る説教・主の制定された聖礼典)を告げ、

 

栄光のキリスト罪の赦しと永遠の命の救い)を心のうちに宿す(神はあなたがたの内におられます

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説教主題「この岩の上に教会を」―真の教会を求めて―

聖書 詩編42112節 マタイによる福音書161320

202539 磯部理一郎

はじめに

 本日の主題は地上の教会設立とその役割、勿論「人類救済」です。神「わたしはある」は民の痛みを知り降り救うとモーセに約束。神はついに「受肉の神」主イエスとなり地上に降臨し、人間の心と肉体の中に突入介入し愛により罪を贖い罪と死に勝利し永遠の命に復活し昇天。福音の内実はこの「栄光の身体」に与り受領することです。主の栄光の身体において身体的に交わり生きて働く真の神を知り、永遠に贖罪と新生の命に養われます。主が「取りて食せよ、これはわたしの身体である」と聖餐を制定しわれらを招き、栄光の身体に与り心身の内に宿します。ここに受肉の神の身体としての地上の教会の本体が見えて来ます。力ある教会の本体は主の身体の現存にあり、聖霊が派遣されて、地上での「栄光の身体」である教会はいよいよ完成に向かって展開してゆきます。

1.無力化(?)したキリスト教の現代的課題:聖書と教会における神喪失と人間主義化の過ち

 ⑴ 聖書の無力化:神のことば(信仰規範)聖書学→文献学、信仰→神喪失の人間学、情念欲求人間の言葉

   近代神学の根本問題→聖書原典→文献学/歴史学→神?→ヒューマニズム K. Barth神のことば」の神学

 ⑵ 教会の無力化(栄光の身体の喪失)の根本原因:「栄光の身体」なき「ことば」、福音の本体・実体の喪失

   「空洞」信仰→信仰「根源」はどこ? 神の体験内在化可能性終末論の課題:否定と肯定の原理)

 ⑶ ミュステリオン(秘/隠れた受肉の神(十字架と復活の身体)→地上にキリストと聖霊が現存する場

 ⑷ 教会の力ある根源「栄光のキリストと聖霊」→三位一体の神の突入と介入のリアリティー=キリスト教!

2.神の教会の建設から展開へ栄光のキリストの身体与り受領する地上の場「取りて食せよ、わたしの身体」

 ⑴ メシア)告白(マタイ161316、マルコ82730、ルカ91821)救いと福音の本体

 ⑵ 神の啓示「天の」(マタイ1617、ヨハネ665)☞ 1617「幸い」23「サタン」24「十字架」

   「聖霊を受けよ」(ヨハネ2022父⇄子⇄聖霊エクレシア「啓示⇄選び・聖霊伝授⇄派遣」

 ⑶ キリストの身体という教会を立てる(マタイ1618)歴史を貫く栄光の身体「与える」「与る」「受領する」

   「この岩の上に」:<父子霊一体の啓示人間ペトロ←信仰の応答>不可分離 終末課題:矛盾と葛藤

 ⑷ 「天国の」の教会展開(1619)栄光の神と一体の身体となる場 矛盾24自分の十字架を背負って

「汚れた霊に対する権能」「杖」(マルコ678)弟子の派遣、宣教命令(マタイ281820

あなた地上でつなぐことは天上でも」(ヨハネ155, 2022,23)聖霊と十字架の媒介する委託と権威

3.ヨハネの教会の展開:栄光のキリストとの一躰結合→「キリストの身体となる」→内在化(ヨハネ414

 ⑴ 大前提:キリストの内住の約束と宣言(ヨハネ141624)主の受肉と聖霊降臨による相互内在の一体性

 ⑵ 受肉の神の現存と教導「羊の門」「羊飼い」の教会(ヨハネ1015718み言葉による羊飼いの現臨

 ⑶ 教会員の根源「声を聞き分ける」(ヨハネ1034)☛「連れ出す」選ばれた羊、主が連れ出し導かれる

 ⑷ 「栄光の身体」永遠の贖罪復活の養い ☛過越の小羊命のパン(ヨハネ129, 36, 63241,4658

4.地上の教会の使命と役割 神の選びと派遣の場→「栄光の身体」の働き、人類を罪から救い復活に与る場

 神の啓示:「わたしはある」(モーセ)→御子の受肉(十字架の死・復活・昇天)→栄光の身体聖霊派遣

 地上の教会☛主の栄光の身体の現存(説教/洗礼/聖餐/弟子の選び)→栄光の身体→聖霊降臨→地上の教会の神

 (出37, 14、ヨハネ114, 148581014, 9, 14171415241721262022, 23

Ⅰコリ142425、ルカ22723、ヨハネ6115, 52~58、Ⅰコリ112334、コロサイ314

 ⑴ 御子の受肉と栄光の身体(十字架と復活)と聖霊の降臨(ヨハネ2022, 23)☛人格心身への内在化!

 ⑵ 使徒たちの選びと派遣(マルコ5713×待つ〇派遣:人類各人に、神の派遣の場に生きる自覚

 

 ⑶ キリストの現存と聖霊に導かれる「教会の宣教」(マタイ281820)→完成に向かう養いたたかい

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説教主題「取って食べなさい」―これはわたしのからだである―

聖書 ルカによる福音書221423節 コリントの信徒への手紙一112334

2025. 3.2 磯部理一郎

はじめに:神喪失の教会史と聖餐における神の現臨迫害と世界大戦という殺戮人類史の中で)

 本日はキリストの現臨現在)と今ここに生きて働く栄光のキリストとの命の交わりをお伝えします。前回は唯一真の神(わたしはある)は、受肉した御子イエス・キリストにおいて到来し啓示され、霊と信仰によりキリストとの出会いの中で、罪ゆるされ新生し神の国に入れられることをお話しました。主は十字架の死により罪を贖い、復活において人類の永遠の命を確証し、天に昇られた。わたくしどもはこの地上にあっても栄光の主」といつも豊かに出会い愛され罪赦され永遠の命の交わりを実現する喜びを分かち合います。それが聖餐です

1.地上の人類の根本にある原罪の根深い悲惨:信仰や教会をたてる難しさとその限界のただ中にあって

 ⑴ 律法主義ファリサイ派ニコデモの苦悩:<罪>は律法処理や教義(ある程度)解決不能→虚偽と偽善化

 ⑵ 人類の根源的「原罪」は? 洗礼:罪の告白/赦し、神の子の神聖、(では、受洗「後」に犯す罪は?)

 ⑶ キリストの十字架による贖罪の完了、そして復活し昇天し、神の右に座する栄光のキリスト

2.地上(時間)における永遠

 ⑴ 永遠は地上の中に突入し介入している:啓示(覆いを取除き隠された神と神の働きを現わす)神の受肉

 ⑵ 啓示の頂点:神の御子の受肉(聖霊によりて宿り処女マリアより生まれ)世と肉の中に突入し一体となる

 ⑶ 受肉のキリストにおける地上で神の永遠の招き(洗礼)十字架による贖罪(十字架)と復活そして昇天

3.十字架の死と復活の前に、主イエスはなぜ「主の晩餐」を制定したのか? 継続的現存の約束

⑴ 洗礼:神の招きと加入天国への入会儀礼、古き罪人の死滅、新しき「神から生まれた神の子の誕生」

  したがって受洗者は、根源的に罪に支配されない「神の子」として新生した(「告解」の是非)

(コロサイ21115314910

⑵ 時と肉の中で、未完成の神の子:受洗後に繰り返す新しい罪は? どうすればよいか?

⑶ キリストの十字架の死による贖罪の意義:一度限りの、しかし永遠の贖罪としての十字架の設定

4.聖霊の永遠の発出と地上への派遣の意義そして聖餐の制定の意義は? 「教会」的現存と「典礼」的現存

 ⑴ 父と子の内住の約束(「父とわたしとはその人のところに行き一緒に住む」ヨハネ1423

 ⑵ 永遠の贖罪、神の子の完成:子のために寝食を共に暮らし永遠の命を養い成人させる「地上の場」

 ⑶ 聖霊の永遠なる発出と地上への派遣

  聖霊の地上への派遣の意義 ヨハネ1556161215111924

5.聖霊派遣に先立つ聖餐の制定:モーセの神「わたしはある」(民の痛み)→「受肉の神」(十字架と復活の神)

⑴ ミュステリオン(サクラメント/秘跡隠れた神」)はなぜ制定? ×教会, 制定と執行の主: 〇神キリストご自身

洗礼聖餐、堅信(信仰告白式)、告解(罪の告白と赦しの宣言)結婚・終油(葬儀)・叙階(按手礼)

⑵ 受洗「後」の罪:キリストの歴史的一回限りの十字架の死の犠牲贖罪→「永遠の贖罪」となる場の設定

⑶ 十字架に先行する聖餐の制定(「行って過越の食事ができるように準備しなさい」ルカ228

  「過越の小羊を屠る」(死の審判を過ぎ越す儀礼:出エジプト⒓:313)永遠に贖罪する犠牲の小羊

⑷ 聖餐執行の主体:招き行うお方は天地を貫き地上にも現存する栄光のキリスト(ルカ2281113

「これはわたしのからだである」「わたしの記念」「これを行いなさい」「わたしの血による新しい契約

6.結語:問題はキリストがここにおられること、聖餐制定により贖罪と復活を地上で永遠に進行させ導く主

⑴ ミュステリオン(聖礼典/秘跡/パン)と神キリスト「現存と内住」をどう説明するか?理性の限界

⑵ 聖餐論:化体説(ローマ)・共在偏在説(ルター)・霊在説(カルヴァン)、×ツヴィングリは実体なし                                                                                                          

 

⑶ ☞ 天地を貫通して栄光のキリストは、地上に現存しわれわれに内住して永遠の命に養い続ける

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説教主題「ニコデモの苦悶」―聖霊による新生―

聖書 イザヤ書40111節 ヨハネによる福音書3115

2025223.

隠退教師 磯部理一郎

はじめに

 2023618日御教会の礼拝で、神が初めて直接モーセに啓示した神の名「わたしはある(エゴー・エイミ)」(出エジプト314)を主題に説教しました。本日の説教も引き続き「わたしはある」神を基軸にして、ユダヤ教師で議員のニコデモの苦悶を通して、開示される主イエスにおける神の真相をお話します。

1.闇夜の中の訪問者ニコデモ

⑴ 苦悶苦悩するニコデモ(ヨハネ312a10

  ファリサイ派(律法処理)、議員(サンヘドリン)、教師(神の知者)としての苦悶と問い

  宗教権威の闇の実態(ヨハネ1138444557)、宗教権威は神を抹殺する(ヨハネ1153

⑵ 神の探究者ニコデモ(ヨハネ32b10

  神から、神と共に、神の教師:唯一真の神はどこにおられ、どうすれば出会うことができるのか

⑶ ニコデモの限界点(ヨハネ3:4,9

  母親の胎内にか(現世内に閉鎖、消滅、絶望)、霊から生まれるのか(神を根源として永遠を生きる)

無からの世界創造、人は命の息(創世記2:7)、全ては神の奇跡の中に

2.新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない

 ⑴ 神の国を見る、神の国に入る(ヨハネ345

   神の支配と神の完全統治、神の絶対審判にたえて通過する(過越の犠牲)

 ⑵ あらたに生まれる、水と霊とによって生まれる、(ヨハネ335

   上から、浸水:罪人の死滅(×律法処罰、神の絶対審判)、霊:聖霊によりキリストを着る一体化

 ⑶ 霊から生まれた者(ヨハネ39

   完全に審判を通過してキリストと共に神の国に生きる

3.天から降り天に上った者

 ⑴ 天から降って来た者、すなわち人の子(ヨハネ313

   神の子の受肉、わたしはある、今その時

 ⑵ 天に上った者(ヨハネ313

   復活と昇天、そして聖霊降臨における相互内在と一体性(ヨハネ141524

 ⑶ 神のロゴス(ヨハネ115101214

4.わたしたちの証(ヨハネの信仰共同体)

 ⑴ わたしたち(ヨハネ311)ヨハネの教会、キリストの身体と一躰化された教会

 ⑵ わたし(ヨハネ312)教会の首としてのキリスト

 ⑶ 人の子(ヨハネ3101315)天から地上に降り天に上ったキリスト

5.結語 天地を貫通する受肉の神

 ⑴ 「わたしはある」の受肉

 ⑵ 受肉における真の神の現臨

 ⑶ 受肉・十字架・復活・昇天の神キリスト

 

 ⑷ 現臨する聖霊と三一体の神

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月報2月号

説教 主の御名は力の塔

箴言 18章1節~10節  小河信一 牧師

説教の構成――

 序

Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ  ……箴言18:1-3             

Ⅱ 人の口の言葉は深い水                    ……箴言18:4

Ⅲ 愚か者の(くちびる)は争いをもたらす             ……箴言18:5-9

Ⅳ 主の御名は力の塔                        ……箴言18:10

Ⅴ 御名が(あが)められますように                ……マタイ6:9

結 

 

本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:122:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる(ことわざ)が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉(づか)いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。

以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に()い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。

Never confuse a single defeat with a final defeat.

〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない

これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。

わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を(さげす)んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への()やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。

このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり()(たい)の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。

 

Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ 

箴言18:1-3――             

1 離反する者は自分の欲望のみ追求する者

 事は、どんなに(たく)みにやってもすぐ知れる

2 愚か者英知を喜ばず

自分の心をさらけ出すことを喜ぶ

3 神に逆らうことには(あなど)りが伴い

軽蔑と共に恥辱が来る

著者は初めに、愚か者を反面教師として、そして次に「神に従う人」を()(なら)うべき手本として、対照的に描き出しています()。愚か者の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。

離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、離反する者とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概(たいがい)は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。

そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。

離反する者」が(おご)り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに()(とん)(ちゃく)です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような()(あく)的な権力者から距離を置こうとしています。

神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は(あなど)りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、離反する愚か者の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の(とりこ)になっています。

箴言の著者は次節で、()(なら)うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を(きっ)したとしても、それで終わり a final defeat ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。

 

Ⅱ 人の口の言葉は深い水                    

箴言18:4――

人の口の言葉深い水。

知恵の源から大河のように流れ出る

著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を()み出すこともできません。

深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。た 依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が()き上がって来るのを知っています。

神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。

主イエスは彼女との 的な対話を通して、砂を()むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまた、サマリアの女に(なら)って、「深い水」の在処(ありか)、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。

創世記2:10 天地創造の時―― 

エデンから一つの川が流れ出ていた。園を(うるお)し、そこで分かれて、四つの川となっていた。

エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代―― 

1 (主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」

ヨハネ黙示録22:1-2 終わりの時―― 

1 天使はまた、神と小羊の(ぎょく)()から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

わたしたち・信仰者はこのような「」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す人の口の言葉が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた(みず)()めを掘って」はなりません(同上2:13

幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、(だく)(りゅう)によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。

 

Ⅲ 愚か者の(くちびる)は争いをもたらす              

箴言18:5-9――

5 神に従う人を裁きの座で押しのけ

神に逆らう人をひいきするのは良くない

6 愚か者の唇は争いをもたらし、

口は(おう)()を招く

7 愚か者の口は破滅を

唇は(わな)を自分の魂にもたらす

8 陰口(かげぐち)は食べ物のように()み込まれ

の隅々に下って行く

9 仕事に手抜きする者は

それを破壊する者の兄弟だ

再び、.反面教師としての「愚か者」⇒ ()(なら)うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。

神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻(せっけん)し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。「神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。

「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について(かたよ)り見ていることを示しています。

レビ記19:15――

あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を(かたよ)ってかばったり力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。

.で、人が語るとき、言葉(づか)いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人のや心で、愚か者の口は破滅を 唇は(わな)を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「」や「」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は(おう)()を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。

陰口(かげぐち)食べ物のように()み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に()(りょう)されてしまう、ということです。

そうなると、その陰口(しん)()のほどを、自分のや心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。

 

Ⅳ 主の御名は力の塔                        

箴言18:10――

の御名力の塔

神に従う人そこに走り寄り高く上げられる

先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「」()、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや()(えん)なところがありました。

ところが、この節では暗示的な表現が一掃(いっそう)されています。すなわち、ここでは「」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。

いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように 的な導きを得なければなりません。

そこで 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられとの内容に光が当てられることでしょう。

 

Ⅴ 御名が(あが)められますように                

マタイ福音書6:9――

だから、こう祈りなさい。

「天におられるわたしたちの父よ、

御名が(あが)められますように。」

このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名力の塔」とほめたたえているのでしょう。

元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名の「の塔」としての「」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。

そこではじめて、「神に従う人力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは愚か者の「破滅」や「」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで(くさ)りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。

このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。

今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き()ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に(しば)りつけられてはいません。

そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。

コリントの信徒への手紙 9:24――

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。

わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。

 

主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。

その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。

それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。

それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋(がいせん)されているからです。

 

 

W

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〈説教の要約〉

2025年2月16日

(2024年 7月21日   日本キリスト教団 茅ヶ崎南湖教会 講壇交換)

 

説  教「十字架につけられたキリスト以外は」

           小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった         ……Ⅰコリント2:1           

Ⅱ 十字架につけられたキリスト以外は            ……Ⅰコリント2:2            

Ⅲ わたしは恐れおののいていた                         ……Ⅰコリント2:3 

Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている  ……ミカ書3:8  

Ⅴ 神の力によって信じるようになるため                 ……Ⅰコリント2:4-5          

 

コリントの開拓伝道から、およそ二、三年が経過しました。パウロは、コリント教会のその後について強い関心を(いだ)いています。彼の仲間である巡回伝道者からの話や手紙によって、ある程度、コリント教会の現況を把握していたようです。そうした中で、今しばらくはコリント再訪の機会がない(Ⅰコリント4:18)ということもあって、パウロは手紙を書くことにしたのです。

 

Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった            

コリントの信徒への手紙 2:1――            

兄弟たちわたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。

そしてわたしは、兄弟たちよ、あなたがたのところに訪問しました」(直訳)とのキャッチーな(人受けの良い)導入で始まっています。この一句によって、「兄弟たち」の脳裏には、二、三年前にパウロが滞在していた時のことが呼び覚まされます。こうして、時空間の隔たりを超えて、「あなたがた」の注意が「わたし」の方に寄せられます。

そこでパウロが伝えたのが、「(わたしは)神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」という内容になります。

①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること

②「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした」……パウロの宣べ伝え方

①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること――

 神の秘められた計画という用語には、隠されていたものが、時満ちて明らかに示されるというニュアンスが含まれています。そこで、伝道者はその「計画」を、 の働きにより宣べ伝えます。 をもって求道する者に語りかけられるようにと祈ります。忍耐をもって相手の心と目が開かれるのを待ちます。

 そのために大切なのは、宣べ伝える者自身が、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われているということです。主イエス・キリストの言葉」を、 よって正しく聞き、神の大いなる救いを感謝し賛美するのです。

「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした……パウロの宣べ伝え方――

 しかし、いくら福音の内容が明るみに出されていることを知っていたとしても、宣べ伝え方が間違っていては、どうしようもありません。それではたとい、それを聞いた人が洗礼を受けたとしても、信仰の成熟していない「乳飲み子」(Ⅰコリント3:1-3)の状態から抜け出せなくなる可能性があります。

パウロが用いなかったという「優れた言葉や知恵」は、肉の人が固執している、この世の知恵だと見抜かれます(Ⅰコリント1:203:1)。それは、「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)が喧伝(けんでん)するものであり、すぐに役立つように思われます。その結果、人間的に見て知恵のある者(同上1:26)が教会の中ですら幅を()かせることになります。

しかし、この世の知恵は、人々の間にねたみや争いを巻き起こし、なかなか実りを結ぶに至りません。世の知恵において優れていると考える人は結局、自分自身を誇ってしまい(Ⅰコリント1:29,31)、主に仕える者の謙虚さから遠ざかります。

 

Ⅱ 十字架につけられたキリスト以外は                       

コリントの信徒への手紙 2:2――            

なぜなら、わたしはあなたがたの間でイエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです

わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった」という理由が簡明に述べられます。この節も、要点を二分しましょう。

①「わたしは……何も知るまいと心に決めていたからです」――

わたしは心に決めていたとの表現は、人間(くさ)くも聞こえますが、原意裁いた」に沿って、 の判断に従って「良い方を選んだ」と解釈しましょう。その点、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(ルカ10:42)とおっしゃられた主イエスのおほめに、パウロもあずかれるのではないでしょうか。

パウロは「何も知るまい」決めたことに、主にあって後悔していません。パウロは、人間的に見て知恵のある者から「愚か者」扱いされる(Ⅰコリント3:184:10)ことに覚悟ができています。

②「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は」――

の判断に従って「良い方を選ぶ」と、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることになる、ということです。それが、伝道において優れた言葉や知恵が不要な理由です。

なぜ、主イエス・キリストの「十字架の死」に焦点が合わせられているのでしょうか?

コリントの信徒への手紙 1:18――

十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

高ぶっている人たち」(Ⅰコリント4:5)は、「滅んでいく者にとっては愚かなものです」とのパウロの強烈なパンチによっても、容易には目覚めさせられません。なぜなら、自分を誇っている人々には、「宣教という愚かな手段」(同上1:21)が受け入れられないからです。

キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)という「十字架の言葉」が、彼らの信仰と生活において、実際に「神の力」となっていなかったのです。パウロは、「あなたがた」が高ぶりを捨て従順になって、「わたしたち救われる者」のもとに帰って来るようにと、祈っています。その(あつ)い祈りは、次節の文面にも(にじ)み出ています。

 

Ⅲ わたしは恐れおののいていた                       

コリントの信徒への手紙 2:3――

わたしが)そちらあなたがたのところ)に行ったときわたしは弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。これぞ、「キリスト・イエスの(しもべ)」(ローマ1:1)、へりくだりの(しん)(こっ)(ちょう)でありましょう。

パウロの衰弱恐れひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。しかし、これはある意味、真の「キリストイエスの(しもべ)」には避けられない体験でありました。

わたしは十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」というパウロの信仰とそこから出発した伝道において、パウロは「衰弱恐れひどい不安(おののき)」という極度の「弱さ」にさらされました。こうして、パウロは自らの体験と黙想をもって、次のように証ししています……「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(Ⅱコリント12:9)。

 

Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている 

ミカ書3:8―― 

しかし、わたしは力と主の霊

正義と勇気に満ち

ヤコブに(とが)

イスラエルに罪を告げる

ミカは紀元前8世紀に活動した預言者です。南ユダ王国モレシェトの出身です。エルサレムのみならず北イスラエル王国のサマリア〈完全アウェーの地〉に向けても預言を発信しました(ミカ書1:6-73:12、)。主から御言葉がミカに臨み、そして、主が彼に(まぼろし)を見させられました(ミカ書1:12:7)。

しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている……わが民を迷わす偽預言者が罪と不正をもって暴走しているのに対し、「しかし」、主なる神に召された自分は、ということです。集団で活動しているわけではありませんので、ミカの命を保証するものは何もありません。それでも、ミカが動揺することはありません。なぜなら、「力と主の霊 正義と勇気に満ちている」からです。

ミカは自分を(むな)しくして、ただ「主の霊」の導きによって、「正義」を語ります。ミカはまさにパウロのごとく、主の前に「愚か者」になりきりました(Ⅰコリント3:18)。それは、自分が通り良き(くだ)となって、神の「」を憐れむべき民に注ぎ入れるためでありました。

これもまた、ミカは使徒パウロに先行する形で、「わたしは主の霊に満たされて心に決めていました」。何を決めていたのかと言えば、「ヤコブに(とが)を イスラエルに罪を告げる」ということでありました。

(かたく)なな民の猛反発が予想されます。いらだった大群衆からの迫害に遭うかも知れません。だからこそ、神はミカに、力と主の霊 正義と勇気」という四重の恵みを備えられたのです。

 

Ⅴ 神の力によって信じるようになるため                 

コリントの信徒への手紙 2:4-5――          

4 わたしの言葉もわたしの宣教も知恵にあふれた言葉によらず、と力の証明によるものでした5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

コリント教会の会堂に、「優れた言葉や知恵」によって高ぶらない信仰者、または、「と力の証明」によって十字架につけられたイエス・キリストを信じる人が(あふ)れることを、パウロは願っていました

わたしの言葉もわたしの宣教もと力の証明による」というのは、パウロから数えておよそ700年前の預言者ミカと軌を(いつ)にしています。しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)というように、自分の外側からのもの、つまり、神の(たま)うものが、パウロの信仰と伝道を支えていました

これも、この手紙に後から出てくる一文ですが、パウロは「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)と言い切っています。神の言葉の説教を聞くことも重要であるが、「神の国は力にある」という信仰を持っているか、そして、「神の国の力」が今、あなたがたの間に実現しているか、とパウロは問いかけています。

神の言葉」によって救われるということは、「神の力によって信じる」ことにほかなりません。「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されているでしょうか。「神の力」の反響が、わたしたちの生活のどこにも見出せないということはあり得ません。

神の言葉」と「神の力を分断してはなりません。「神の言葉」から神の力へ…… の働きに押し出されて、わたしたちは善い(わざ)に励むようになります(コロサイ1:10)。

 

このようにして、コリント教会を建てたパウロから、現にその教会を建てついでいる人々に、「神の力」に満ちたのメッセージが書き送られました。           W

〈説教の原稿〉

2025年 2月2日         日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第6主日

旧約聖書 マラキ書 2章14節~16節(P.1499

新約聖書 コリントの信徒への手紙 7章8節~16節P.307

説  教「聖なる者とされている」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 皆わたしのように(ひと)りでいるのがよい        

                                        ……Ⅰコリント7:8-9             

Ⅱ 離縁してはいけない                  

                                     ……Ⅰコリント7:10-11

Ⅲ あなたの若いときの妻を裏切ってはならない  

                                       ……マラキ書2:14-16  

Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている 

                                     ……Ⅰコリント7:12-14          

Ⅴ 相手が離れていくなら、去るにまかせなさい 

                                     ……Ⅰコリント7:15-16 

 

今、パウロは結婚または離婚にまつわる問題について論じています(Ⅰコリント7:1-40)。これに関して、主イエス・キリストを信じるコリント教会の人々からの問い合わせがあったようです(同上7:1)。パウロの対応はとても誠実です。正しい倫理観を押しつければ、済むというものではありません。

性的に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)があると言うが、それはどのような考えや慣習に根ざしているのか、あるいはまた、それがどのような影響を周りの人たちに及ぼしているのか、現場からの報告に耳を傾ける必要があります。

パウロは、広大な地中海世界のただ中で、諸教会の伝道者と連係しながら、キリスト教倫理を構築することを(こころざ)していました(使徒15:1-21、ガラテヤ2:11-14)。地域ごとに異なる歴史や文化の背景を受け止めつつ、神に喜ばれる信仰者の倫理観を探究する水先案内人でありました。何よりもパウロは、主イエス・キリストと再会する終わりの日を待望して、忍耐強く議論しています。

神の賜物といえるそのようなパウロの資質と知見は、今回のテキスト内にも存分に表れています。その中でも、際立っているのが、バランスの良さ、関わりあるすべての人々への心配りです。具体的には、夫と妻、独身者と既婚者、キリスト者と異教徒についてその両面から物事を(とら)えています。さらには、初婚か再婚か、また、子供がいるかどうか、など細かな点も念頭に置かれています。まさに、パウロは神の家族なるコリント教会に対し、「建築家」の理性と「父親」の愛情を兼ね備えていました(Ⅰコリント3:104:15)。

 

Ⅰ 皆わたしのように(ひと)りでいるのがよい        

コリントの信徒への手紙 7:8-9―― 

8 未婚者とやもめに言いますが、わたしのように独りでいるのがよいでしょう。9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい情欲に身を()がすよりは、結婚した方がましだからです

皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」……コリント教会の人が結婚や離婚にまつわる相談をしているのに、回答者が独身への勧めから始めるのは、いかがなものか、と誰しも思われることでしょう。しかし、ここには、弁論術に()けたパウロなりの作戦があったと見られます。

それは、シンプル イズ ベスト、最初の10秒で、人々の心を(わし)づかみにするということです。まさに、パウロはありのままの自分をさらけ出して、聴き手の関心を呼び起こしています。

テキストの後段、離婚者や異教徒に関わる部分では、人生の闇や苦悩が呼び覚まされて、聴き手の気持ちも複雑になります。だからこそ最初に、この勧めが受け入れられるのは一部の人だけかも知れませんが、シンプルな回答を昭示したのです。

コリントの信徒への手紙 4:16―― 

そこで、あなたがたに勧めます。わたしに(なら)になりなさい

上のメッセージが、「わたしのように独りでいる」(のに(なら)え)と言い換えられて、助言者の立場が開示されました。

これ以前に、パウロは結婚したことがあったかどうか、は不明です。しかし、キリスト者となって伝道しているとき、彼は「独り」身になっていました。

なおかつ、パウロは自分を抑制できる、すなわち、「情欲に身を()がす」ことのない賜物が、神から与えられているのを証ししました。そこから、節制により「独り」である生活を整え、伝道のために身心全体を献げて励んでいたことが分かります。独りでいるのがよい」との文句の原意は、「(わたしのように彼らがとどまる」ということです。パウロのように()(らん)(ばん)(じょう)の人生を送りながらも、そこにとどまっていた」点については、神の大いなる恵みと支えを思わずにはいられません。

さて説明が後回しになりましたが、コリント教会の信徒全員を見渡しつつ、パウロは、三つのグループに分けて勧めを提示しています。その最初が「未婚者やもめ」とに向けて、になります。

未婚者」との用語がやや分かりにくいのですが、「やもめ」(女性・複数形)との(みゃく)(らく)からここでパウロは「男やもめたちと女やもめたち」に話しかけていると見られます。彼らは結婚経験者ですが、死別か離別により「独り」になり、再婚しないでいる人々なのです。

ですから、「わたしのように独りでいるのがよい」との勧めは、若い「未婚者」よりも、むしろ、「男やもめたちと女やもめたち」に向けられたものなのです。そこで、次の疑問が浮かんで来ることでしょう。

すなわち、パウロ個人が神から(さず)けられた「自分を抑制できる」という賜物をもって独りにとどまる道を行くのは分かるが、なにゆえに、「男やもめと女やもめの皆さん、わたしのように独りでいるのがよい」と(すい)(しょう)するのか、という疑問です。しかしもちろん、これはパウロからの厳命でも、教会の新しい規則でもありません。

しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を()がすよりは、結婚した方がましだからです」……今、パウロは、この世的に正しい結婚観を論じているのではありません。だから、「自分を抑制できなければ」とか、「情欲に身を()がすよりは」とか、そんなことは、男と女が「結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という秘義なる結婚とは関係ないでしょう、と()(しき)ばむのは()めましょう。

パウロの論点の中心はあくまでも、神の召命とも言える「独りでいる」生活についてであります。パウロの勧めは、独身の形で神の恵みに「とどまる」生涯を選んでみませんか、と言い換えられます。神の恵みにあずかり、神からの賜物を十分に発揮することを、「わたしに(なら)って」始めましょう、ということです。終わりの日が差し迫っているとの信仰からも、それは願わしいことなのです。

心の開放されているパウロは、「結婚している」ことの恵みについて、日々に感動する経験を持ち合わせていました。実際、「命がけでわたしの命を守ってくれた」プリスカとアキラ(ローマ16:3-4)はじめ、夫妻でパウロの伝道に協力する人々がおりました。

パウロは日頃から、同労者である夫婦、夫とも妻とも、よく話をしていたに違いありません。だからこそ、サタンの誘惑を退け、神に喜ばれる夫婦生活を営み続ける秘訣についても、関心を寄せていました……「ただ、納得しあったうえで、(もっぱ)ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」(Ⅰコリント7:5)。

 

Ⅱ 離縁してはいけない                            

コリントの信徒への手紙 7:10-11――

10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい――また、夫は妻を離縁してはいけない

次に、シンプルな問答からオーソドックス問答へと転じます。オーソドックスな、つまり、「正統的」結婚論に基づいて、ということで、「主の命令」が(かか)げられています。まことに安定した議論の運びになっています。

ここでわたしたちは、「妻は夫と別れてはいけない」または「夫は妻を離縁してはいけない」と、(くち)()っぱくいさめられている背景を見てみることにしましょう。そこには、常識では想像し難い問題が(ひそ)んでいたようです。

それは、当時のコリント教会には、「みだらな行い」(Ⅰコリント5:16:18)について寛大なグループとは正反対のグループが存在していたということです。それが、性的に放埒(ほうらつ)異教徒の言動が教会内に入り込まないように、厳格な立場をとる禁欲主義者でありました。

情欲に身を()がすよりは、結婚した方がましだから」とのパウロの穏健な言葉を引くならば、禁欲主義者の主張は次のように言い換えられるでしょう。すなわち、「情欲に身を()がすのは信仰が足りない証しだ。だから、結婚している者は、夫や妻と離婚した方がましだ。そうして、独りになって自分を抑制しよう」と言うのです。

聖書にまれなことではありますが、ナジル人として育てられた人の話が出てきます(士師記13:4,14 サムソン、マタイ3:4、ルカ1:15 洗礼者ヨハネ)。従って、キリスト教倫理の中に、どのように断食や禁欲などの節制を位置づけていくか、は大きな課題でありました。

(あに)(はか)らんや、突如「禁欲主義」の嵐がコリント教会(おそ)いました。コリントに現住していない、リモートからでは、さすがのパウロもそれに歯止めがかけようがありませんでした。

想像すれば、そのスローガンは例えば、「既婚者たちよ、夫や妻と離縁しよう。皆で、神の御心に添った禁欲生活に入ろう」ということでしょうか。過激と言えば過激です。現状を自分たちの力で変えようとしています。

そこで、パウロが「妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」と証言している主イエス・キリストのお考えがどのようなものであったのか、確かめてみましょう。

マルコ福音書10:2-11――

2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に(かな)っているでしょうか」と尋ねた。イエスを(ため)そうとしたのである。3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました(申命記24:1-4」と言った。5 イエスは言われた。「あなたたちの心が(がん)()なので、このような(おきて)をモーセは書いたのだ。6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8 二人は一体となる(創世記2:24。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通(かんつう)の罪を犯す(出エジプト記20:14ことになる。12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」

まず第一に、旧約の典拠を( )に付記した通り、律法を遵守する「ファリサイ派の人々」以上に、主イエスは神の「に従って「離縁」の問題について答えておられます。

次に、下線の箇所において、主イエスは神の「」に反する人間の罪深さを捉えておられます。神の御前に「頑固さ」を悔い改めるのが、先決です。それから、夫婦が話し合い、「離縁」が神の御心なのか、互いにとって最善なのか、慎重に考えなさいということです。「情欲に身を()がす」ような自分本位によって、「妻を離縁して他の女を妻にする」ことも、また、「夫を離縁して他の男を夫にする」ことも許されません。

離縁状」の発行・認可云々(うんぬん)のモーセ律法から思考を開始するファリサイ派の人々」はこの世離れをしています。それは机上の空論です。「独りでいる」パウロの方がよほど、夫婦の結婚生活に寄り添っています。

結論的に言えば、主イエスとパウロとの結婚または離婚に対する考え方は、軌を一にしています。双方共に、「あなたたちの心が(がん)()なので」または「情欲に身を()がすよりは」という点で、人間の罪や弱さに向き合っています。そしていずれにせよ、主イエスとパウロにおいては、極端な「禁欲主義」によって、男と女の愛の関係を規制するのはあり得ないことです。

ただし、一方、主イエスはユダヤ人家庭を前提にし、他方、パウロは多民族の共生する国際都市コリントを念頭に置いていたという点は異なります。もう一度、パウロの助言を引いてみましょう。

既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」……「再婚せずにいる」は〈今の状態にとどまる〉こと、そして、「夫のもとに帰りなさい」は〈かつての状態にとどまる〉ことが勧められています。これらの言葉には、終末が近いがゆえに、独りの者も結婚している者も、患難の時代に備えるとのパウロの基本的信仰が表明されています。そこには、自分を抑制しつつ独りで生きるという神の賜物を授かっているかどうかを、神に問い尋ねようとする熟慮が秘められています。

ユダヤ人同士であれば、「再婚する」ことは許されています(申命記25:5-6)から、主イエスならば、別の人と「再婚しなさい」と背中を押してくださることがあるかも知れません。

結婚・離婚は古くて新しい問題です。そこで、紀元前5世紀頃に活躍したマラキの言葉に耳を傾けることにしましょう。

 

Ⅲ あなたの若いときの妻を裏切ってはならない      

マラキ書2:14-16――  

14 あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶(はんりょ)、あなたと契約をした妻である。15 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。

16 わたしは離婚を憎む

イスラエルの神、主は言われる。

離婚する人は、不法でその上着を(おお)っている

万軍の主は言われる。

あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。

あなたたちは裏切ってはならない。

マラキは、その名の意味が「わが使い」というように、神がイスラエルの民の間に遣わした預言者でありました。ペルシア帝国の支配下あって、神殿が再建され、人々は礼拝共同体の復興に取りかかっていました。

しかし実際には、礼拝は堕落し、倫理・道徳もないがしろにされていました。というのも。「(じゅ)(じゅつ)を行う者」や「高慢(こうまん)な者」など(マラキ書3:5,15)が神を「疲れさせて」いたからです(同上2:17)。その様子は、「裁きの神はどこにおられるのか」(同上2:17)または「あなたたちは、なぜかと問うている」との言葉に表れています。つまり、イスラエルの民の一部は、 的な神信仰から遠ざかる、一方で、献げ物に対する主からの見返りなどに不満を(いだ)いていました。

性的に放埒(ほうらつ)な男が異教の神を信じる娘と結婚する(マラキ2:11)という事件を起こしていました。異宗教間の人の結婚について(しゃく)()定規に、正論(例えば、もっと寛容になれとか)を訴えても、ここでは意味がありません。テキストの文脈に従って、マラキの主張を()み取りましょう。

まず、「異教の神を信じる娘と結婚する」というのは意訳すれば、男が「異教の神を信じる娘をめとって」自分の支配欲を充足させる、となります。その横暴な行為は、「若いときの妻(つまり初婚で今結婚生活をしている女性)裏切った」(マラキ書2:14,15)ことに(たん)を発しています。

結婚においてパートナーを「裏切る」ならば、心底相手を打ちのめしてしまいます。それによって、神との契約のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となった」(創世記2:24)……パウロの言葉では 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか……という真実が(ほうむ)り去られました。若いときの妻」を裏切った男は、「離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)という再婚に向けての手続きも(いっ)()だにしなかったのでしょう。自分本位のやり方、一直線でありました。

わたしは離婚を憎む……離婚する人は、不法でその上着を(おお)っている」……このように、「イスラエルの神、主」は、「裏切り」を重ねている人に告げられました。もはや「離婚する人」には「上着を(おお)っている不法」を洗い清める力はありません。

 

Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている 

コリントの信徒への手紙 7:12-14――  

12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは(けが)れていることになりますが、実際には聖なる者です。

当時、コリント教会は、「異教の神を信じる」人々(マラキ書2:11)との交際や婚姻(こんいん)が避けられない情況に置かれていました。「主が(いつく)しんでおられる聖なるものを(けが)されない(同上2:11ように、祈り求めるのが、喫緊(きっきん)の課題になりました。「わたしは離婚を憎む」(同上2:16)と言う神の御前で、「離縁」すべきなのかどうか、難しい選択を迫られることもありました。

理性を持つ、初代のコリント教会「建築家」としてパウロは、結婚ならびに離婚の問題を、三つのグループに分けて考えました。それによって、結婚や離婚という出来事の背後にある人間の罪深さや弱さをつまびらかにしようと試みました。パウロは個別の問題が解決されると共に、神の聖なる神殿、すなわち、キリストの体なる教会が建て直されるよう、助言を送り続けています。

すでに一番目「男やもめと女やもめ」(キリスト者)、二番目「既婚者」(キリスト者同士)が取り上げられて、そして三番目「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)が登場しました。

パウロの議論が一貫した信仰と倫理に基づいています。すなわち、独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)の原意である「(わたしのように彼らがとどまる」との指針が、「その他の人たち」の事案にも適用されています。ここでわたしたちは、「とどまる」との真意が、結婚・離婚の人間関係を超えて、神との善い関係にとどまる」ということにある、と教えられます。逆に言えば、その関係から「離れる」のは、人間の罪深さや弱さによって敗北させられることを意味しています。

その観点からも、極端な禁欲主義や性的な放埒(ほうらつ)な振る舞いは、人間中心の考え方を教会の中に呼び入れてしまうというが明白です。そして、そのように教会内が混乱していれば、「その他の人たち」の中に含まれる異教の人々の人生までも、不幸にさせてしまいます。

パウロは「主ではなくわたしが言うのですが」と、誠実に断ったうえで、キリスト者の夫や妻と「一緒に生活を続けたいと思っている」、異教の妻や夫に向けて、温かい言葉を投げかけています。

彼女または彼を離縁してはいけない。信者である夫または妻のゆえに聖なる者とされているから」……パウロ自身が神の恵みに寄りかかっていることを証する、希望に満ちた励ましです。「わたしは独りにとどまります。あなたがたは夫婦関係にとどまりなさい」というのは、なんと寛大なメッセージなのでしょう。神はそれぞれの人に、と同時に、それぞれの夫婦に、賜物と使命を与えられている、だから、皆が力を合わせて、神のために働こう(Ⅰコリント3:9)、とパウロは呼びかけています。

コリントの信徒への手紙 6:11――          

あなたがたの中にはそのような者もいました①原文しかし主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ原文しかし聖なる者とされ③原文しかし義とされています

異教徒との結婚にとまどいが生じている「そのような者」、彼らこそ、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」による三重の恵みにあずかっています。神の清めの力は、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっています。

 

Ⅴ 相手が離れていくなら、去るにまかせなさい      

コリントの信徒への手紙 7:15-16―― 

15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に(しば)られてはいません平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。

信者でない相手が……」または「信者は、夫であろうと妻であろうと……」というように、なおも、

三番目の「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)への言及が続いています。そして、「主ではなくわたしが言うのですが」と明記されているように、主イエスの命令ではなく の導きによるパウロの一つの見解が述べられています。

このような助言の仕方からも、パウロは性的な「情欲」のみならず、伝道・牧会のあらゆる面で、「自分を抑制する」賜物を持っていると知らされます。主イエスの教えの基づく確信と個人的な意見とを混在させてはなりません。祈りと聖書、そして の導きによって、自分の思いが信仰的確信に至るか、独り退いて待てる人は幸いです。なおその上で、「その他の人たち」との対話を心がける、パウロはそのような人でありました。

さて、パウロは「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい」と、自分の勧めを方向転換させています。なぜなら、独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)、すなわち、「(わたしのように彼らがとどまる」というのが、パウロの(げん)()の基本信条だからです。ただ単にこの場では、「結婚に(しば)られてはいません」と(さと)して、独身者を増やそうとしているだけなのでしょうか。

どうしてパウロは、信者である夫や妻に対し、「信者でない相手が離れていかないように」、祈り説得しなさいと、勧告しなかったのでしょうか? そこには、以前のパウロの言説とも合致する理性的な理由があります。

コリントの信徒への手紙 5:12-13――

12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。13 外部の人々は神がお裁きになります。

パウロは、「外部の人々」または「信者でない(夫や妻の)相手」を冷たくあしらうような非情な人ではありません。そうではなく、彼らが信仰者から「離れて」・「裁かれる」のか、それとも、「救われる」のかどうかを、神にまかせよう、とパウロは考えているのです。それが、使徒の一貫した姿勢でありました。神が「信者である夫や妻」と通して、「信者でない相手」を救うことのできるお方です。パウロは、その一点に希望をかけています。

最後に、パウロは、結婚または離婚の問題を(かか)えているコリント教会の当事者ならびに信徒全体に、的確なメッセージを送ります。

平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」……それは、「神の平和」を見上げながらも、しっかりと地に足をつけているパウロからの励ましです。

わたしは或る日突然、「あらゆる人知を超える神の平和がキリスト・イエスによって」、わたしたちの間に啓示される(フィリピ4:7)、と信じます。と同時にそれは、「神が召された(呼ばれた」、日ごとのわたしの「平和な生活」において現されています。

「二つの思いが一日を枠づけます。

朝、わたしたちは『愛』という言葉に思いをひそめます。

意思に方向を与え、想像力をはばたかせ、行為を準備する愛に。

晩になれば、『平和』という言葉がわたしたちを待っています。

不快や失望、疲労感や過度の興奮を受けとめてくれる平和が」(イェルク・ツィンク)

パウロは日々に、コリントの信徒への手紙をしたためつつ、初代教会において、キリスト教倫理を確立しようと祈り励んでいました。結婚解消すら(ひょう)(ぼう)する禁欲主義者と性的行為に放縦な人々という両極端な考え方への怒りと憎しみによって、疲れ果てさせられた夕べを迎えたこともあったでしょう。

しかしパウロには、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の巡りがありました。それこそが、パウロが主にあって「平和な生活を送る」と同時に、難題を(かか)えた各地のキリスト者に善き助言を与える命の泉でありました。

 

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〈説教の原稿〉

2025年 1月26日          

降誕節 第5主日

旧約聖書 箴言 18章1節~10節P.1014

新約聖書 マタイによる福音書 6章9節P.9

説  教「主の御名は力の塔」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ  ……箴言18:1-3             

Ⅱ 人の口の言葉は深い水                    ……箴言18:4

Ⅲ 愚か者の(くちびる)は争いをもたらす              ……箴言18:5-9

Ⅳ 主の御名は力の塔                        ……箴言18:10

Ⅴ 御名が(あが)められますように                ……マタイ6:9

結 

 

本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:122:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる(ことわざ)が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉(づか)いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。

以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に()い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。

Never confuse a single defeat with a final defeat.

〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない

これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。

わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を(さげす)んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への()やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。

このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり()(たい)の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。

 

Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ 

箴言18:1-3――             

1 離反する者は自分の欲望のみ追求する者

 事は、どんなに(たく)みにやってもすぐ知れる

2 愚か者英知を喜ばず

自分の心をさらけ出すことを喜ぶ

3 神に逆らうことには(あなど)りが伴い

軽蔑と共に恥辱が来る

著者は初めに、愚か者を反面教師として、そして次に「神に従う人」を()(なら)うべき手本として、対照的に描き出しています()。愚か者の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。

離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、離反する者とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概(たいがい)は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。

そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。

離反する者」が(おご)り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに()(とん)(ちゃく)です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような()(あく)的な権力者から距離を置こうとしています。

神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は(あなど)りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、離反する愚か者の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の(とりこ)になっています。

箴言の著者は次節で、()(なら)うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を(きっ)したとしても、それで終わり a final defeat ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。

 

Ⅱ 人の口の言葉は深い水                    

箴言18:4――

人の口の言葉深い水。

知恵の源から大河のように流れ出る

著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を()み出すこともできません。

深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。た 依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が()き上がって来るのを知っています。

神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。

主イエスは彼女との 的な対話を通して、砂を()むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまたサマリアの女に(なら)って深い水」の在処(ありか)、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。

創世記2:10 天地創造の時―― 

エデンから一つの川が流れ出ていた。園を(うるお)し、そこで分かれて、四つの川となっていた。

エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代―― 

1 (主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」

ヨハネ黙示録22:1-2 終わりの時―― 

1 天使はまた、神と小羊の(ぎょく)()から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。

わたしたち・信仰者はこのような「」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す人の口の言葉が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた(みず)()めを掘って」はなりません(同上2:13

幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、(だく)(りゅう)によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。

 

Ⅲ 愚か者の(くちびる)は争いをもたらす              

箴言18:5-9――

5 神に従う人を裁きの座で押しのけ

神に逆らう人をひいきするのは良くない

6 愚か者の唇は争いをもたらし、

口は(おう)()を招く

7 愚か者の口は破滅を

唇は(わな)を自分の魂にもたらす

8 陰口(かげぐち)は食べ物のように()み込まれ

の隅々に下って行く

9 仕事に手抜きする者は

それを破壊する者の兄弟だ

再び、.反面教師としての「愚か者」⇒ ()(なら)うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。

神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻(せっけん)し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。

「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について(かたよ)り見ていることを示しています。

レビ記19:15――

あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を(かたよ)ってかばったり力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。

裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。

.で、人が語るとき、言葉(づか)いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人のや心で、愚か者の口は破滅を 唇は(わな)を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「」や「」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は(おう)()を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。

陰口(かげぐち)食べ物のように()み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に()(りょう)されてしまう、ということです。

そうなると、その陰口(しん)()のほどを、自分のや心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。

 

Ⅳ 主の御名は力の塔                        

箴言18:10――

の御名力の塔

神に従う人そこに走り寄り高く上げられる

先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「」()、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや()(えん)なところがありました。

ところが、この節では暗示的な表現が一掃(いっそう)されています。すなわち、ここでは「」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。

いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように 的な導きを得なければなりません。

そこで 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられとの内容に光が当てられることでしょう。

 

Ⅴ 御名が(あが)められますように                

マタイ福音書6:9――

だから、こう祈りなさい。

「天におられるわたしたちの父よ、

御名が(あが)められますように。」

このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名力の塔」とほめたたえているのでしょう。

元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名の「の塔」としての「」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。

そこではじめて、「神に従う人力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは愚か者の「破滅」や「」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで(くさ)りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。

このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。

今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き()ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に(しば)りつけられてはいません。

そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。

コリントの信徒への手紙 9:24――

あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。

わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。

わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。

 

主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。

その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。

それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。

それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋(がいせん)されているからです。

 

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〈説教の原稿〉

2025年 1月19日          

降誕節 第4主日

旧約聖書 ゼカリヤ書 10章2節(P.1490

新約聖書 マルコによる福音書 6章30節~44節P.72

説  教「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ                                               ……ゼカリヤ書10:2

Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ                                             ……マルコ6:30-34             

Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい                                                          ……マルコ6:35-37前半  

Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい                                                               ……マルコ6:37後半-38          

Ⅴ すべての人が食べて満腹した                                                                       ……マルコ6:39-44 

 

「さあ、いよいよ」と思わず声かけしたくなるような主イエス・キリストによる奇跡が行われます。ここで、ガリラヤ伝道(マルコ1:168:26)は一つの山場を迎えると言ってよいでしょう。

弟子たちの派遣と帰還が完了したばかりのことです。弟子たちは、悔い改めのための宣教、悪霊(ばら)い、そして、病気の()やしという実践の訓練を受けました(マルコ6:12-13)。弟子たちが主のもとを離れている、その幕間(まくあい)には、真の弟子と言える洗礼者ヨハネのことが回想されました。

ヨハネは人間の逆恨(さかうら)みや無関心の罪に巻き込まれて、ヘロデ王の誕生日の宴会中に(ぎゃく)(さつ)されました。この出来事は、主イエス・キリストの十字架と復活についての予告として心に刻んでおくべきものでありました。こうしてヨハネは主イエスに対する先駆者の役割を果たすことになりました

さてここに、四つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡が繰り広げられます。しかも、主イエスと弟子たちとの会話や場面の移り変わりが四福音書の中でマルコには、最も詳しく描き出されています。また、弟子たちの背後には、主イエスめがけて押し迫って来る群衆がいます。彼らもまた、主イエスの御言葉によって教えられ、(くす)しき御業を経験することを望んでいます。

弟子たちが主イエスのもとに再結集して、良い機会が訪れました(マルコ6:21)。神の大いなる救いの計画が大勢の群衆の前で実行されます。夕暮れ時、「青草」の生い茂る広い土地……舞台は整いました(同上6:35,39)。この出来事はわたしたちを、弟子たちの伝道による一時的な成果やヨハネの悲劇的な殉教などの先に連れて行きます。

それは、わたしたちの信仰の中心に置くべきものです。というのも、そこに、祝福してパンと魚を分かち与えてくださった主イエス・キリストの憐れみ深さが現されているからです。それこそ、わたしたちが週一で再結集する主の日に、新しい気持ちで思い起こすべきものであります。

 

Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ    

ゼカリヤ書10:2――

テラフィムは空虚なことを語り

占い師は偽りを(まぼろし)に見、(きょ)()の夢を語る。

その慰めは空しい。

それゆえ、人々は羊のようにさまよい

羊飼いがいないので苦しむ

本日の新約テキストに、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)と書かれています。そこで、「その民を羊のように養われる」神なる主(ゼカリヤ書9:16)と民との関係を調べてみることにしましょう。

ゼカリヤ書10章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような希望を(いだ)いて生きていたかが、克明に報告されています。

主はわたしの羊飼い(詩編23:1)との信仰を堅持しようとしながらも、迷ったり悩んだりするのが、多くの民の現実でありました。そのような状況にあって預言者ゼカリヤは、民が不信仰に傾き、将来への希望を打ち捨ててしまう根本原因を見抜いていました。

テラフィム空虚なことを語り 占い師は偽りを(まぼろし)に見、(きょ)()を語る」……ここには、人間が何故に洗脳されてしまうのかが如実に表されています。「テラフィム」というのは、本来、家の守り神で、「占い」を行い、「」に現れる偶像的な存在を指しています(創世記31:19、士師記17:5、列王記下23:24)。

問題は、「テラフィム」、「占い師」、そして「虚偽の夢」(三つ共に名詞の複数形)が(たば)になって人々に語りかけている」ということにありました。それが、民が「わたしの羊飼い」なる神から離れ去ってしまう根本原因だったのです。物心両面で飢え渇いていた民の心には、「空虚なこと」や「偽り常駐(じょうちゅう)するものとなりました。

それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」……(あわ)れな人々ではありますが、当然の報いと言えましょう。偽り」なる者が四六時中「語りかけている」状況では、自力では逃げ出すことも立ち直ることもできません。

ところで、「主はわたしの羊飼い」との信仰の基本を知る預言者ゼカリヤが、民に向かって、「羊飼いがいない」と断言しているのは、どういう意味なのでしょうか?

この箇所の「飼い」は、宗教的指導者、預言者、そして祭司を指していると思われます(D.L. ペーターセン)。それは次節に、「羊飼いたちに対して、わたし(神)の怒りは燃える」(ゼカリヤ書10:3)との神の叱責(しっせき)が加えられていることからも分かります。彼らは元来、神殿での礼拝を取り仕切り、民の信仰生活を導く立場にある人たちです。

主なる神は人生の荒れ野を歩んでいるイスラエルの民に、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」(ゼカリヤ書9:9)と呼びかけておられます。多くの人々が、自力では罪の闇から脱出できる可能性がほとんどないような状態に置かれています。

しかし、神は真の「羊飼い」の先駆けとしてゼカリヤを遣わされました。ゼカリヤは苦悩のどん底にある民に寄り添い、次のように神の託宣(たくせん)を告げました。

ゼカリヤ書9:17――

  それはなんと美しいことか

なんと輝かしいことか。

穀物(こくもつ)は若者を

新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。

ゼカリヤ書14:7――

その日には、夕暮れに光がある。(私訳)

この神の託宣は、先駆者ゼカリヤから良い羊飼い」(ヨハネ10:11,14なる主イエス・キリストに引き継がれました。

 

Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ 

マルコ福音書6:30-34――             

30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする(ひま)もなかったからである32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉(いっせい)に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く(あわ)れみ、いろいろと教え始められた

さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」……ここで、〈今〉弟子たちの派遣(マルコ6:7-13)⇒〈回想〉ヨハネの虐殺(マルコ6:14-29)⇒〈今〉弟子たちの帰還(マルコ6:31)というサンドウィッチ形式で物語られた段落が終わります。そうして、次のステージ(舞台)に立つ態勢が整えられました。

イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする(ひま)もなかったからである」……「初めに(ことば)があった」(ヨハネ1:1)という通り、すべては主イエスの言葉かけから始まります。「しばらく休むがよい」との一句に、弟子たちはどれほど慰められたことでしょう。十二弟子の中で、派遣中の自分の失敗や民からの反発によって動揺している者もいたかも知れません。しかし、そのような者をもねぎらう主イエスの思いが伝わってきます。まさに、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)との御言葉の通りです。

そのような弟子たちに寄り添う主イエスの思いを読み取ったうえで、わたしたちはさらにこの一節に含まれている「神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)を汲み取らなければなりません。そのためには、「“霊”は一切のことを、神の深みさえも(きわ)めます」(同上2:10)という 導きにあずかることが必須になります。なにしろ、わたしたちはガリラヤ伝道中の主イエスによる最大級の奇跡に立ち合おうとしているのですから。

主イエスは五千人に対する給食の主催者です。今、人の思いをはるかに超えた、神の大いなる救いの計画を実行に移されます。ガリラヤの大地に が充満し、春(青草の頃)の夕べに、「良い機会が訪れ」ました。

場所は、ガリラヤ湖畔……おそらく伝道拠点のカファルナウム……から、人里離れた所へと移されます。そして、弟子たちが「しばらく休む」ことから「食事をする」ことへと誘導されます。さらに、「出入りする人が多く」という「大勢の群衆」も「すべての町からそこへ一斉に駆けつけ」ます。あれよあれよという間の出来事ですが、神秘としての神の知恵」によってすべてが支配(コントロール)されています。舟の便あり、徒歩の先回りあり、ガリラヤの自然を舞台に、主イエスに従う人々、皆が動かされています。

なおその上に、「人里離れた所」は、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)という場所ですから……仮に今回と同一の所でないとしても…… 豊かに宿っている土地に違いありません。そこには、エルサレムのゲツセマネの園のように、父なる神の御心が行われるように(マタイ26:36-46)、との主イエスの祈りがありました。

このようにわたしたちが、 に導かれて、この場面の主イエスの言葉と行いを一つひとつ追っていくことが大切です。それによって、神秘としての神の知恵がわたしたちに啓示されることになります。

イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊(複数形)のような有様を深く(あわ)れみいろいろと教え始められた……主イエス・キリストがやって来られました。人知れずに、神の支配(コントロール)のもとに、招かれる人々や食事の場が整えられました。そうして、主イエスがステージ(舞台)に立たれたのです。

主イエスは、それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」との預言者ゼカリヤの声に耳を傾けられました。およそ400年前の、(あわ)れな人々の様子に思いを寄せられました。

飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」と表現されている通り、主イエスは羊飼い不在の「羊たち」のために「はらわたを痛め」られました。当初、わたしたちの目には、主イエスが帰って来た弟子たちを食事をもってねぎらうことしか、(うつ)っていなかったかも知れません。しかし、主イエスは初めから、「すべての町からそこへ一斉に駆けつけて来る大勢の群衆」を、御言葉と食事とをもってもてなすことを企図されていたのであります。

いろいろと教え始められた」……主イエスは、ガリラヤ湖畔の巡回伝道において初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気のいやしなどの奇跡を起こす (マルコ2:11-123:5)という宣教をくり返されました。人里離れた所」でも、主イエスはその順に従って宣教されました。

ここまでは、主イエス・キリストの主導のもとに、事が運ばれました。ところが、「大勢の群衆」への給食の奇跡が行われる段になって、主イエスは弟子たちに代表される肉なる人間……自然の人肉の人(Ⅰコリント2:143:1)……と(たい)()されることになります。というのも、主イエスの目的は、罪への誘惑や欲望のこびりついた人間を、神の御心のもとに立ち帰らせることにあるからです。神秘としての神の知恵」を知ることを妨げるような弟子たちの常識は打ち砕かれます。それが、いくら賢そうに見える反論であっても、です

 

Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい                  

マルコ福音書6:35-37前半――  

35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。

この.と次の.では、当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの()(ぜん)たる答えが反復されています。それによって、「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されます。従って、このような会話による主イエスの導きと教えは、わたしたちの信仰が形づくられる(もとい)となります。

なぜなら、わたしたちの信仰というのは、「肉の人」の高慢・貪欲(どんよく)・絶望などを捨て去って、神に立ち帰ることだからです。まさにこの場面のように、主イエス自力では何も()し得ないわたしたちを悔い改めさせ、神の恵みにあずかるよう導かれます。火花の散るような弟子たちとの対話の内に、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむ」ことが表されています。主イエスはまことに「良い羊飼い」であるに違いありません。

そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った」……「時もだいぶたった(おそくなった)」とは「夕方になった」という意味です。これまでにも、主イエスは「夕方になって日が沈むと」、大勢の人たちを()やしたり、舟に乗り向こう岸に渡って伝道されました(マルコ1:324:35)。こうして、「青草」(マルコ6:39)の()()でる春の夕暮れ時、「人里離れた所」という舞台が整いました。

ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」……或る意味では、ここで弟子たちは良識的な判断をしています。しかし、彼らは主イエスから許可を取ろうとするばかりで、主イエスに助けていただこうとはしていません。買い出しのためとはいえ、「人々を解散させて」しまうならば、「羊たち」は散り散りばらばらになってしまいます(列王記上22:17、エレミヤ書23:1)。何も「食べる物」を買えないや迷って再び戻って来ない「」も出てくることでしょう。それに、せっかく、祈り 満ちた人里離れた所に集まって来たことが無駄になってしまいます。

夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の始まりに主イエスが立っておられます。夜の(とばり)()りる前、「夕方」こそ、主イエスによって新しいことが行われるチャンス、「良い機会」なのです。弟子たちよ、「主よ、助けてください」(マタイ8:2514:30)と、主イエスに向かって叫ぶ時ではないのですか。このように見てくると、「あなたがた彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの毅然たる命令の真意が浮かび上がります。

すなわち、主イエスは弟子たちに無理難題を押しつけているわけではありません。そうではなく、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と言っておられるのです。ともかくも弟子たちは、群衆の間に今ある「食べ物」を探し出して、主イエスのもとに(たずさ)えて来ればよいのです。

弟子たちは主イエスに見守られて、派遣から帰還へという実地訓練を受けたばかりなのに、残念なことです。まずは、毎週、主日礼拝を中心に、派遣と帰還を繰り返している我が身を顧みなければなりません。

派遣するわたしの愛と力を信じなさい……それは決して難しいことはありません。「イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」という主イエス・キリストを見て、知って、そして により信じればよいのです。

 

Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい                      

マルコ福音書6:37後半-38――          

37 弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 エスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに(さかな)が二匹です。」

こうして、当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの()(ぜん)たる答えの第二段を迎えます。主イエスの忍耐強さがしのばれます。

ここでまた、一般論的には、弟子たちの問いかけは、良識的判断に基づいていると評価されることでしょう。その上、「わたしたちが……買って来て……食べさせるのですか」というところには、奉仕の精神が(かい)()見られます。

しかし、それ以上に、はるかに大切なのは以下のことです。弟子たちは結局、神秘としての神の知恵」ではなく、この世の知恵にしがみついています(Ⅰコリント2:6-7)。「この世の知恵によって、皆にパンを供給するには、「二百デナリオン」が必要であると即座に計算されました。問題は、その時、弟子たちの主イエスへの信頼が不十分であったということです。

.の繰り返しになりますが、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と命じられているのに気づかねばなりません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と宣告された主イエス・キリストが、どのようにわたしたちを助けてくださるのか、と考えてみる、そこに立ちどまることが分かれ目になります。自分で困った状況を打開するのではなく、主イエスが何を()されるのか、一瞬でも待ってみることです。

パンは幾つあるのか。見て来なさい」→「五つあります。それに(さかな)が二匹です」……主イエスは大勢の群衆の中に入って、「見て来なさい」と命じられて、弟子たちが の導きを思い返す(いとま)をつくられました。弟子たちは「見て来て」、再び主イエスのもとに戻ります。見事にも、主イエスは派遣から帰還へという再訓練を弟子たちに行われました。果たして、弟子たちは人々を「深く憐れもう」されている主イエスを信じることができるしょうか。

五つあります。それに(さかな)が二匹です」……これは単に弟子たちからの現状報告に過ぎません。しかし、主イエス・キリストに向かって、大いなる(こん)(きゅう)が差し出されたところに、意義があります。「主よ、助けてください」と叫ぶ、へりくだりと信頼に一歩近づきました。

当惑している弟子たちの問いかけ〉と〈主イエスの()(ぜん)たる答え〉とのつばぜり合いはいかがだったでしょうか。会話によるやり取りなので、弟子たちと主イエス、双方の思いがリアルに伝わって来たでしょう。「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されたのでしょうか。まず、わたしたち自身が「アーメン」と唱えて、人の心に思い浮かびもしなかった主イエスの指示を受け入れたいと願います。

神秘としての神の知恵」か、それとも、「この世の知恵」か、どちらに傾くか分からないつばぜり合いの中で、主イエス・キリストの御業が前面に打ち出されます。これこそが、曖昧(あいまい)でどっちつかずになりがちなわたしたちへの神の招きであります。

 

Ⅴ すべての人が食べて満腹した                            

マルコ福音書6:39-44――

39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて青草(あおくさ)の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の(さかな)を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった

この最後の場面では、どのようにして、主イエス・キリストが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」のか、が描き出されています。また、主イエスがどのように「弟子たち」を奉仕させたのか、も活写されています。今や弟子たちは主イエスの命令に従い、主イエスを注視しつつ行動しています。

初めに主イエスは、「人々は羊のようにさまよった」(ゼカリヤ書10:2)という大勢の群衆を整列させました。そうして、主イエスが審判預言を受けた罪人たちの救済者であることが示されました。もはや、「わたし(神)の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」(エレミヤ書23:1)は「羊たち」を置き去りにして逃げ去りました。もはや、空虚なこと」や「偽り」を「語りかけている」サタンが割り込む余地はありません。

というのも、見張り人なる「弟子たち」が、「皆を組に分けて」、そして、「百人、五十人ずつまとまって」、組ごとに整然と座らせているからです。後の「十二の(かご)」(マルコ6:43)との語句から判別すれば、イスラエルの十二部族を象徴するかのように、十二のグループに分かれていたのかも知れません。いずれにせよ、「組に分けて」ならびに「~ずつまとまって」との慣用表現から、列を作って並ばせられているのが想像されます。

しかも、群衆が腰を下ろしたのは、「青草(あおくさ)の上」であります。「わたしを苦しめる者を前にしても あなた(神)はわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)とは、まさにこの出来事を指しているのでしょう。「青草」が()()でているとすれば、春の可能性が高くなります。夏(乾期)が始まるとすぐに、草木が枯れ果ててしまうからです。

イエスは五つのパンと二匹の(さかな)を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱えパンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された」……民が人里離れた所」に集まって一つとなり、静まったときに、主イエス・キリストの御業が行われました。まさしく聖餐式が行われている礼拝を思い起こさせます。

イエスは賛美の祈りを唱える……イエスは「祝福して」と言い換えられます。ユダヤ人の食事は「祝福」をもって始められます。

イエスは弟子たちに渡しては配らせる……使徒パウロは「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)というように、「渡しては配らせる」中で、いつも(おも)うべきことを教えています。

弟子たちに渡しては配らせる……「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの命令が弟子たちによって実践されています。

まとめとして二つのことに限って、お話ししましょう。

一つ目は、五千人の給食の奇跡は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業により、罪人に対する大いなる救いとして成就したということ――

十字架上で、主イエス・キリストの体が裂かれて、血が流れ出てきます(ヨハネ19:34)。聖餐式では、この「主の死」を記念してパンと(さかずき)とがわたしたちに罪を(あがな)うしるしとして配られています。神の前に悔い改める者は、十字架の死と復活によって、無償で救われました。そうしてわたしたち・罪人は赦され、永遠の命を与えられています。

二つ目は、この奇跡は、神の国の祝宴に対する先駆けまたは前夜祭になっているということ――

夕べ」の「人里離れた所」での食事は、まことの光の照りわたる「」の神の国の祝宴を指し示しています。夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という創造主の御業は、神の国の到来において成就します。初めの日に現れた(同上1:3)は、神の栄光と共に、永遠の「」となります(ヨハネ黙示録21:23)。

すべての人が食べて満腹した。そして、パンの(くず)と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」……主イエス・キリストは、迷える羊すべての「羊飼い」であります。大勢の群衆を、はらはたが痛むというほどに、「深く憐れまれ」ました。

主イエスは寂しく薄暗い中で、神の大いなる救いの計画を実行されました。あり余るほど大きな恵みがわたしたちに与えられています。この世の知恵」に頼ってつかの間の輝きを楽しむのではなく、五千人の給食によって現された「神秘としての神の知恵」に依り頼む道を、一足(ひとあし)一足歩んで行きましょう。

 

W

 

 

 

 

 

 

 

〈説教の要約〉

2025年 1月12日         日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第3主日

旧約聖書 レビ記 18章16節(P.190

新約聖書 マルコによる福音書 6章14節~29節P.71

説  教「イエスの名が知れ渡ったので」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスの名が知れ渡ったので           

                    ……マルコ6:14-16             

Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ 

             ……マルコ6:17-20 レビ記18:16

Ⅲ ヘロデの誕生日に(あく)()(たくら)んだヘロディア   

                     ……マルコ6:21-25  

Ⅳ 非常に心を痛めたヘロデ              ……マルコ6:26-29          

結 

ここには、民話的な味わいを持つ洗礼者ヨハネの死の物語(マルコ6:14-29)が収められています。前後関係に注目すると、このヨハネの出来事は、十二弟子の派遣(同上6:7-13)と帰還(同上6:30)を中断する形で挿入されていることが分かります。

なぜ、そのようなサンドウィッチ形式になっているのでしょうか? 直前には、ヤイロの娘と主イエスの服に触れる女のいやしの物語が、同様の形式で構成されていました(マルコ5:21-43)。明らかに「正しい聖なる人」ヨハネ(マルコ6:20)の殉教(じゅんきょう)は、主イエスと弟子たちの伝道に影を落としています。

先駆者ヨハネの身に降りかかった罪深い者たちの反抗と陰謀(いんぼう)はまさに、福音宣教についての先駆的出来事、()(ちょう)でありました。のヨハネこそ、主イエス弟子として仕える模範となったのです。本日は、パン生地にはさまれたサンドウィッチの()(ざい)をしっかりと味わいましょう。

王の誕生日の祝宴において、ヨハネの(ぎゃく)(さつ)敢行(かんこう)されます。その祝宴で多用される「(ぼん)」の一つが持ち運んで来たものとは……? 

 

Ⅰ イエスの名が知れ渡ったので           

マルコ福音書6:14-16――             

14 イエスの名が知れ渡ったのでヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。

16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。

最初に、ヨハネの(ぎゃく)(さつ)を伝えるテキスト内の構成についてお話しします。それは、マルコ6:14-16)だけが〈今〉のことで、あと(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)は、〈回想〉になっているということです。すなわち、ヨハネがどういう訳で、どのように殺されたのかが、〈回想〉の形で伝達されています。

ヨハネの(ぎゃく)(さつ)は、まるで昨日(きのう)の出来事のようにリアルに描き出されています。しかし、血を見るような内容が内容だけに、読み手にショックを与え過ぎるということもあるでしょう。その点で、〈回想〉による語りは一種の(かん)(しょう)装置の役割を果たしています。〈今〉から見れば、もう過ぎ去った事なのですよ、ということです。

ただし、多少ショックがやわらげられたとしても、わたしたちは罪過に染まった人間模様とその陰謀の結末とを見届けなければなりません。まずは、〈回想〉への導入を成す〈今〉の前置きを読んで、心の準備をしましょう。

そこで〈今〉、弟子たち、ならびに、わたしたちがわきまえ知るべきことの要点を示しましょう。それは、ひと言でいえば、「イエスの名が知れ渡ったので」、つき従う者はますます増えると共に、敵意を(いだ)く者たちが画策(かくさく)し始める、ということです。

信仰者が〈今〉、そのような事の成り行きをしっかり受け止めるならば、〈これから〉の光と闇との戦いに向き合えます。その上、〈回想〉して思い起こす過去は、信仰者自身の経験として(たくわ)えられます。誘惑を退ける知恵となり、患難(かんなん)を忍耐する力となることでしょう。

というのも、わたしたちの先達の信仰者は、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認して」、約束は必ず成就するという信仰に生きていたからです(ヘブライ11:1,13)。まさに〈回想〉によって、彼らの信仰を受け継ぐことが求められています。

イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」……主イエスがたとえで語られたように、御言葉の(たね)は、良い土地のみならず、道端、石地、(いばら)の生い茂る地にも()かれます(マルコ4:1-9)。忍耐して収穫の時を待ち望みつつ、「(へび)のように賢く」(マタイ10:16)、(がい)(てき)の妨害を退(しりぞ)けねばなりません。

ヘロデ王は主イエスのまつわる情報に耳をそばだてました。何しろ、王は自分の地位を守るのに必死でしたから、世間で人気を集めている人の動きには敏感でありました。結局のところ、ヘロデは単純にイエスを恐れていたのです(マルコ6:20)。びくびくしている人物が主イエスを正しく評価できるわけがありません。

そして、「だから、奇跡を行う力が彼(イエス)に働いている」との情報は、「十二人は出かけて行って……多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)との別方面からの情報とも符合するものでした。すなわち、弟子たちの持つ「奇跡を行う力」は、彼らを派遣したイエス・キリストに由来していたということです。

このようなサンドウィッチのパン生地からの証言は、中身の具材においても通用することが示唆されています。具体的に言えば、洗礼者ヨハネは生前に「奇跡を行う」を現しつつ、その神の「」によって「死者の中から生き返る」イエス・キリストについて証ししていたということです。言い換えれば、そのような神に仕える者を殺した、人の罪深さを嘆け、ということです。

〈今〉のことを伝える前書きを総括(そうかつ)しましょう。それは要するに、イエスの名が知れ渡った」との福音宣教の前進の観点から、ヨハネの(ぎゃく)(さつ)振り返る〈回想〉に向き合いなさい、ということです。そこには、〈これから〉、まことの光なるイエス・キリストにつき従いなさい、暗闇の中で悪事に走ったり絶望したりすることのないように、との教えが込められています。

イエスの名が知れ渡った」……この言葉が(かか)げられているのは、ヨハネ惨殺(ざんさつ)の出来事への痛烈なアイロニー(皮肉)になっています。というのも、「イエス」というのは、「罪からの救い」を意味しているからです。

ヘロデ王、妻のヘロディア、その娘(伝承ではサロメという)、その場にいた高官や将校、そしてヨハネの首をはねた衛兵(えいへい)、彼らにも「罪からの救い」はあるのでしょうか。それとも、彼らはあくまでも、「イエスの」を信じて救われることのなかった人の代表ということなのでしょうか。

神の御子は、この地上で「イエス」との「」によって呼ばれました。「イエスの名」を信じるとは言い換えれば、そのお方が「インマヌエル」(神は我々と共におられる マタイ1:23)の神であり、この神によって自分が救われたと信じるということです。

わたしたちが罪に誘惑され、自分の弱さを嘆くとき、主イエスはわたしたちに寄り添い、共に苦しんでくださいます。そこからわたしたちが、神の御前に()で、悔い改めて立ち直る力を与えてくださいます。

 

Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ 

マルコ福音書6:17-20――

17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しておりそのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、(ろう)につないでいた18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを(うら)み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。

レビ記18:16――

兄弟の妻を(おか)してはならない。兄弟を(はずかし)めることになるからである

マルコ6:17は意訳すれば、「実は過去にヘロデはしたことがあった」となります。そして、ヘロデが「ヨハネを恐れていた」理由が開示されて、〈回想〉シーンに入っていきます。別言(べつげん)すれば話題が主イエスのうわさからヨハネの虐殺に移行します。

しかし話題が転換しつつも、ヨハネの死を主イエスの十字架の死に重ね合わさせるという文学的技巧が(ほどこ)されています。ヨハネと主イエス、両者の(こう)(しょう)(がい)が連動していることは、すでにマルコ福音書の冒頭に示されています……ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行った」(1:14)。

ヘロデがヨハネを「(ろう)につないでいた」ということで、両者の敵対関係が暗示されています。読み手に、これからどうなるのだろうというサスペンス(緊張と興奮)を呼び覚まします。その効果を高めるために、〈回想〉にもかかわらず、あたかも〈今〉起こっているかのような語りになっています。

ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており」……この一文をより深く理解するには、当時の王族の結婚事情についての知識が必要です。要は、外交などの政略や性的な欲情によって恣意(しい)的な結婚や離縁が繰り返されていたということです。

ヘロデ」(ヘロデ・アンティパスと「ヘロディア」とは、元々姻戚(いんせき)関係がありました。というのも、「ヘロデ・アンティパス」とフィリポとは、共通の父「ヘロデ大王」(マタイ2:1,16)を持つ、腹違い(異母)の「兄弟」だったからです。

ありていに言えば、ヘロディアは夫「フィリポ」を見捨てて、ヘロデと再婚することになりました。「ヘロディア」の思惑(おもわく)というよりも、「ヘロデ」からの求愛が強かったのかも知れません。いずれにしても、(もと)(おっと)存命している中での、その「兄弟」との結婚は許されませんでした。

そういうわけで、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言った」のです。

兄弟の妻を(おか)してはならない。兄弟を(はずかし)めることになるからである」(レビ記18:16)……この旧約律法が洗礼者ヨハネからヘロデに伝達されました。

当時、ヘロデヘロデ・アンティパス)は、ガリラヤとぺレア(ヨルダン川の東)の分封(ぶんぽう)領主でありました(在位:前4-後39年)。領主と言ったのは、パレスチナ全体がローマ帝国の支配下に置かれていたからです。ヘロデ王」(マルコ6:14というのは彼の尊大さを表す(せん)(しょう)に過ぎません。ヘロデの居住地は、ガリラヤ湖西岸のテベリヤ(ティベリアス)でしたから、ヨハネの(ちょく)(げん)は確かにヘロデの耳に入ったのでありましょう。

ついでに言えば、レビ記18:16の直訳は、「あなたの兄弟の妻の恥部(ちぶ)(さら)させるようなことをあなたはしてはならない。彼女はあなたの兄弟の恥部である」(M.ノート)となります。

恥部を曝させる」または「裸の(おお)いを取る」との言い回しが、(いと)うべき性的関係が規定されているレビ記18章には反復されています(18:6,7,11,15,17,18,19)。律法において、恥ずべき行為」(18:17)を確認しつつ、血縁の有無にかかわらず大家族の中での健全な交わりが模索されています。

ユダヤ人の信仰を顧みず、ローマ帝国寄りだったヘロデはどのように、ヨハネからの直言を受け止めたのでしょうか? 「ヨハネを恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とある通り、ヘロデは矛盾に満ちた心境に追い込まれました。「ヨハネを捕らえて、(ろう)につないだ」ヘロデではありましたが、がんじがらめになったのはむしろ、ヘロデの方でありました。

夫の心に矛盾が渦巻いて弱気になっているときに、つけ込もうとしたのが、サタンならぬ妻のヘロディアでありました。部外者が自分の結婚について、取り沙汰(ざた)するのは何事か、と彼女は激昂(げっこう)しました……「そこで、ヘロディアはヨハネを(うら)み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」。ヘロディアの(いきどお)りと憎しみの行き着く果てや如何(いか)に……。

 

Ⅲ ヘロデの誕生日に(あく)()(たくら)んだヘロディア   

マルコ福音書6:21-25――  

21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 少女が()を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。

この場面の、優柔不断なヘロデと速戦即決のヘロディアの様子から、主イエスの尋問・裁判を思い起こされる方も多いことでしょう。すなわち、一方では、主イエスから聴き取りしながらも右往左往するピラト(ルカ23:4,14)、他方では、神冒瀆の罪によって裁こうとはやる大祭司や群衆たち(同上22:7123:21)という対照的な姿のうちに、人間の罪深さと残忍さが活写されています。

ヘロディアは夫の誕生日の祝いの「宴会」という「良い機会」を見逃しませんでした。この時既に、自分の娘を仲間に引き入れる目算(もくさん)を立てていたのかも知れません。サタンの入った母ヘロディアにとって、娘はまるで(あやつ)り人形でありました。夫の「誕生日の祝い」を台無しにする冷酷さ、ほろ酔い気分の「高官や将校、ガリラヤの有力者など」を証人(参照:マルコ6:26 客の手前)として利用する悪賢さなど、「宴会」を支配していたのは、ヘロディアでありました。

そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう……お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った」……民話のような味わいが、王の気前の良い言葉ににじみ出ています(参照:ロシアの昔話「魔法の本」)。「少女」はヘロディアの娘であり、ヘロデからすれば妻の連れ子でありました。王女なる「少女」が恥じらいを打ち捨てて、宴席で「踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」ごほうびにということです。彼女への愛情もあることでしょうから、ヘロデはもう(あと)に引けなくなりました。

母親の目算どおり、娘が「何を願いましょうか」と尋ねると、母親は(げん)()に「洗礼者ヨハネの首を」と答えました。娘は王であり父親であるヘロデのもとに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と言いました。

ここで頭がくらっと来るのは、わたし一人ではありますまい 「盆に載せて」って、さっきまでご()(そう)を運んでいた「」でしょう。あたかもこれが「本日のメインディッシュ」であるかの如くに……。まことにおぞましいことです。飲食したものが逆流して来そうです。

 

Ⅳ 非常に心を痛めたヘロデ                    

マルコ6:26-29――          

26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王は衛兵(えいへい)を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、(ろう)の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた

皮肉にも、(おう)()によって王手がかけられました。後は、事の成り行きを見守るだけです。

ヘロデは「非常に心を痛めた」自分の意思ではなく、「客の手前、少女の願い」によって誘導されます。もはやヘロディアとの結婚は律法違犯だと言って、自分を責め立てる者はいなくなります。

しかし、ヨハネの「教えに喜んで耳を傾ける」機会(マルコ6:20)がヘロデにはなくなります。たとえ一時期であれ、王はじめ支配者の一族やその仲間たちは、「悔い改めさせるための宣教」(同上6:12)から遠ざかります。これが、「暗闇に光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)という現実でありましょう。

今、中断されている十二弟子の派遣から帰還への物語に関して、メッセージが残されているとすれば、このことではないでしょうか。すなわち、伝道者が闇に(ほうむ)り去られ、御言葉に耳を傾けない人々が増えていくように見えても、恐れるな、宣教の旅を続けない、ということです。

ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた」……ヘロデの「誕生日」が「逝去(せいきょ)日」、すなわち、ヨハネを埋葬する日に取って替わられました。

漆黒(しっこく)の闇を()うようにしてヨハネの弟子たちが現れました。彼らは勇気をもって、()への信従の姿勢を見せました。彼らが、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」(ヨハネ1:15)とのヨハネの教えを信じているならば、彼らは希望を失わないことでしょう。主イエスとヨハネを遣わした神(ヨハネ1:64:34)から、師の衝撃的な死を耐え忍ぶ力が、ヨハネの弟子たちに注ぎ込まれています。

そうだとすれば、(ねんご)ろにヨハネを葬る弟子たちの姿は、イエスの弟子たち、十二人へのメッセージになっています。それこそが、まさに弟子訓練の(かん)(じん)(かなめ)です。実際、都エルサレムでイエスの弟子たち」もまた、テベリヤ(ティベリアス)でのヨハネの弟子たち」の経験を〈回想〉せねばならない時が来ます。カルバリ(髑髏(されこうべ)の意)の丘で、彼らは逃げ隠れしたりしないでしょうか。そして、主イエスの遺体を墓に納めることができるでしょうか。

 

結 

マルコ福音書の展開を中断するかのように、洗礼者ヨハネの死が〈回想〉されました。彼は「正しい聖なる人」であり、殉教者として死を遂げました。これは、主イエス・キリストにあって〈これから〉起こる出来事を予告しています。

もちろん、主イエス・キリストの十字架による死は、罪人を(あがな)い出すためのもので、一度限りの救いの御業であります。ただ、わたしたちの大部分はすぐに、真の「イエスの弟子」になれるわけではありません。主イエス・キリストの死の苦しみを見続けたのは、わずかの女性たちだけでありました。

ですからわたしたちには、洗礼者ヨハネの言葉と行い、そして、ヨハネとその弟子たちの関係から学び取ることが少なからずあります。その上、「ともし火」(ヨハネ5:35)なるヨハネは短い生涯を終える中で、罪深い人々の姿を内面に至るまで照らし出しました。罪からの救いを伝える働きは、ヨハネとその弟子を経て、わたしたちに託されています。

Y


 

 

サンドウィッチ形式

 

パンの生地 弟子たちの派遣  〈今〉  マルコ6:7-13

 

具 材   ヨハネの虐殺    〈回想〉 マルコ6:14-29  

・王の誕生日の祝宴で「提供」されます

 

パンの生地 弟子たちの帰還   〈今〉  マルコ6:31

 

      *生地と具材、合わせ読んで、全体を味わいましょう。

               真の弟子として神に仕えること、

ヨハネならびに主イエスの死によって福音宣教が拡大していくこと、

そして、イエス・キリストの十字架の死を、自分の救いとして受け止めること、

が教えられます。

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〈説教の要約〉

2025年 1月5日      

旧約聖書 ゼカリヤ書 12章12節~14節(P.1493

新約聖書 コリントの信徒への手紙 7章1節~7節P.306

説  教「一人ひとり神からの賜物を持っている」

           小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 男は女に()れない方がよい                 

                    ……Ⅰコリント7:1-2             

Ⅱ 夫は妻に、その務めを果たしなさい    

                         ……Ⅰコリント7:3-4

Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く              

                      ……ゼカリヤ書12:12-14  

Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように

                    ……Ⅰコリント7:5-6          

Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物(たまもの)をいただいている      

                     ……Ⅰコリント7:7 

結 

 

コリントの信徒への手紙 6章まで、パウロは に導かれ、神の知恵をもって、福音をコリント教会の人々に指し示してきました。そして、7から新しい単元(7:111:1)に移ります。そこでは、結婚と性生活、偶像の供え物、そして使徒の権利など個別の問題が取り上げられます。

パウロが誠実で忍耐強い人であることは、相手の意見によく耳を傾けている点に現れています。なにしろ、主イエスの死後、およそ20年後の初代教会とその信仰者たちの話ですから、前例も何もありません。パウロはじめ自分たちで神学し、自分たちで福音の土台固めをしなければならない時代のことです。アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなど教父たちが登場し活躍するのも、およそ150年後のことでした。

こんなことまで教会内で問題になっていたのか、と思われるかも知れませんが、当時のキリスト者にとっては、信仰の基盤に関わる大事な問題でありました。幸いだったのは、個別の問題を聴き取り、それに霊的な説明を加え、正しい方向に導く伝道者・パウロがいたということです。その上、パウロは悩み苦しんでいる人々の魂への配慮を心がける牧会者でありました。

これまでにパウロが傾聴してきたコリント教会の一部の人々の主張を、以下に()げましょう。

わたしには、すべてのことが許されている。⇒「しかし Ⅰコリント6:12

食物は腹のため、腹は食物のためにある。」⇒「しかし Ⅰコリント6:13

 

 

人が犯す罪はすべて体の外にある。」⇒「しかし Ⅰコリント6:18

そして、本日のテキストで出てくるのが……

男は女に触れない方がよい。⇒「しかし Ⅰコリント7:1

以上、四つの例文すべての後に、しかし(ギリシア語:)が接続しています。つまり、「コリントびとよ、あなたは……とおっしゃるが、しかし、……」というように、パウロは()(ろん)を展開しています。相手の言い分を引用した上で、霊的な説明をもって応じているというのは、信頼できる姿勢に違いありません。

海図を持たない航海のようなおぼつかなさを感じられるかも知れません。だからこそ、キリスト教倫理を構築している(さい)(ちゅう)の水先案内人パウロに従っていくことにしましょう。パウロは、歴史、文化、そして慣習の異なるキリスト者の考え方を受け容れる心の広い人です。神に喜ばれる信仰者の倫理観とはどのようなものか、読み取りましょう。

 

Ⅰ 男は女に()れない方がよい                 

コリントの信徒への手紙 7:1-2――             

そちらから書いてよこしたことについて言えば男は女に触れない方がよい。

心をざわつかせるような言葉がいきなり出てきました。.で解説したように、男は女に触れない方がよいというのは、元々はコリント教会の一部の人々の見解です。では、パウロはこの見解について、どのように考えているのか、知りたいことでしょう。

詳しくは、.で説き明かしますが、パウロは例外として男は女に触れない方がよいと勧めることがあると言います。しかし、コリントの一部の人のように、これを律法として絶対視するとは考えていません。その人たちから見れば、パウロは中途半端だと感じたかも知れませんが……。

そちらから書いてよこしたことについて言えば」……パウロは今、結婚と性生活「について」助言しようとしています。そこで、それを「書いてよこしたそちら」の事情を知ることから始めねばなりません。頭から、男は女に触れない方がよい」との断言は間違っていると決めてかかってはなりません。

ただ残念ながら、コリントの信徒への手紙の本文に、その事情が打ち明けられているわけではありません。従って、当時コリントの町ならびに教会を取り巻いていた状況から、推論してみましょう。

一つは、男は女に触れない方がよい」との主張の背景に、禁欲主義があるということです。「みだらな行いを避ける」(Ⅰコリント7:2)ことを(きん)()(ぎょく)(じょう)としている人々がいました。そこからさらに、性的な欲望を(おさ)えるために独身を貫こうとする人々が現れました。

その背景には、ケンクレアイという外港(ローマ16:1)を持つコリントの繁栄により物欲に走り自由を(おう)()していた多数の人々の存在があります。そして、町全体の風紀が乱れていたことへの反動として、禁欲主義や独身主義を()とする人々が生まれました

また、信仰的に見逃せないこととして、終わりの日が近いという終末論の広まりが考えられます。これに従えば、終わりの日を迎えるのにふさわしく、身を清め、節度ある生活を保つのを第一とする考え方になります。極力今の状態のままで、終末の到来に、つまり、再臨のイエス・キリストをお迎えすることに集中するということです。独身者はそのまま結婚しないこと、また、既婚者は性生活を抑制することが推奨されることになります。

禁欲や独身などの主義主張、また、終末論の影響が大波のようにコリント教会に流入しています。まさに混沌(こんとん)とした状態です。その上、わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていれば(Ⅰコリント1:12)、収拾がつかなくなります。

パウロは「頭ごなしに、あなたがたの主張を切り捨てたりしませんよ」との寛容な姿勢を言い表しました。それから、「しかし」との逆接の(ことば)と共に、男は女に触れない方がよいと主張する人々への回答が示されます。

 

Ⅱ 夫は妻に、その務めを果たしなさい              

コリントの信徒への手紙 7:3-4――

2 しかしみだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい

パウロは、男は女に触れない方がよいとの一つに意見に対し、広い見地から回答しています。すなわち、「男と女」に対し、結婚の幸いとその義務について説いています。

確かに、「男は女に触れない方がよい」かどうかは、男性のみならず女性の思いにも配慮すべき事柄です。いわば男女の関係性が問われています。男女いずれにせよ、一方的な力による支配は許されません。

みだらな行いを避けるために結婚しましょう、と言うことに違和感を覚えるという人がいるでしょうか? 神の祝福のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という結婚が成し遂げられます。従って、神の恵みによる出来事を越えて、「~するため」という人間の目的を第一にすべきではありません。

幸いな時も災いの時も、神の祝福にあずかるとの信仰を尊ぶ中で、「しかし」、夫と妻が「~するため」という目的を設定し力を合わせる、ということをパウロは述べたいのでしょう。

さらにパウロは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景を見通していました。それは、性について(ほう)(じゅう)な者たち(Ⅰコリント5:1)への反動として、禁欲や独身に関わる主義主張が蔓延(まんえん)していたということです。

それら両者はいずれも、「キリスト者の自由」を勘違いしていました。すなわち、一方は、より(ゆる)やかな方へ、他方は、より厳しい方へ、と両極端な態度をとっていました。自分たちの判断で、奔放(ほんぽう)と厳格、その一方向のみに(かじ)を切っていたのです。

その結果として、神から自由が与えられていると同時に、神から「務め」が(たく)されていることを(かえり)みなくなりました。パウロが、「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と(さと)しているのは、そのためです。ここで言う「務め」とは、「義務」あるいは支払うべき善意」(F.F. ブルース)と言い替えられるほど、強いニュアンスを含んでいます。

結婚生活において、夫婦互いに「自由」があるとすれば、当然果たすべき「義務」もあるはずです。いずれにせよ、キリスト者の結婚は神の祝福のもとに置かれています。神は、わたしたちが「自由」を(きょう)(じゅ)し、感謝して「義務」を果たす、その全体を見守っておられます。

パウロは、夫婦間における自由」と「義務との()(さい)には触れずに、それぞれに「その務めを果たしなさい」との原則を示しています。そうして、夫婦が協働して、神の栄光を現すならば、自ずから「みだらな行いを避けられる」ことでしょう。

ここで旧約聖書から、男たちと女たちが信仰的に自由」と「義務を体現している或る出来事を取り上げましょう。

 

Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く                      

ゼカリヤ書12:12-14――

12 大地は嘆く(かく)()(ぞく)は各氏族だけでダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、13 レビの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、シムイの氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、14 その他の氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。

ゼカリヤ書12章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような信仰をもって生きていたのかを知ることができます。

主イエス・キリストのエルサレム入城を預言している言葉、「娘シオンよ、大いに(おど)れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る ()ろばの子であるろばに乗って」(9:9)が、この文書の中にあります。  

またゼカリヤ書には、主イエス・キリストの十字架の死を預言する言葉、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、(あわ)れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが()(つらぬ)いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、(うい)()の死を悲しむように悲しむ」(12:10)もあります。

すなわち、初代教会の人々は、カルバリの十字架の丘で、ゼカリヤの預言が神の計画通りに成就した、と信じた(ヨハネ19:37)ということです。主イエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られた」(使徒信条)のを「目撃した(同上19:35というのは、わたしたちの信仰の(いしずえ)となりました。

さて、「独り子を失ったように嘆く」というエルサレムの住民の様子が、上記のゼカリヤ書12:12-14に描かれています。一人ひとり、その大いなる悲しみに連なるかが問われている(げん)(しゅく)な場面になります。これこそ、どのように男たちと女たちとが信仰的に「自由」と「義務」を体現しているのか、注目に価するものになっています。

その日」(ゼカリヤ書12:9,11)というは、終わりの日を指し示しています。いわば聖なる祭日です。福音書には、主イエスが十字架の死を遂げられた「その日」に、主イエスとその状況を「見つめていた」女性たちが登場します(マルコ15:40,47)。彼女たちの真剣な目は、主イエスの死と葬りに対する(おそ)れ、神の大いなる御業に対する畏れを現しています。

大地は嘆く …… 氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。」……ここに、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメ」の先駆者とも言うべき、「女たち」がおりました。

女たち」は男たちとは別に()の作業を行いました。「氏族はそれぞれの氏族だけで」との言い回しから、強制されたのではないことがうかがわれます。王や祭司からの命令に従ったのではありません。「女たち」は「ダビデの家の氏族」はじめ嘆く者たち全体に連帯しつつも、個別に嘆き悲しみました。

そこで、都エルサレムの「女たちは「彼ら自らが刺し貫いた者を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しみ」ました。都中が()に服す中で、シオンの娘」(ゼカリヤ書9:9)の存在は、さぞや(きわ)()っていたことでしょう。

こうして、「女たち」はやがて来たる救い主を待ち望むようになりました。男性たちとは別に、一人ひとりが、「独り子」の証言者として生きる者となりました。彼女たちは神の与えてくださる自由」を受け止め、感謝して「義務」(務め)を果たす先駆けとなったのです。「マグダラのマリア」たちに受け継がれました。

 

Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように 

コリントの信徒への手紙 7:5-6――          

5 互いに相手を(こば)んではいけませんただ、納得しあったうえで、(もっぱ)ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別ですあなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません

冒頭の「男は女に触れない方がよい」との主張に対し、熟慮の上でのパウロの回答が示されます。「互いに相手を(こば)んではいけません」というのは、必ずしも「男は女に触れない方がよい」とは言えないということです。つまりは、当事者の「男と女」の同意なしに、禁欲主義を持ち込むなということです。神の祝福によって解き放たれた結婚生活は、原理原則または固定観念とは(あい)()れないものです。

それでは、元より夫婦が協働し家庭を造り上げていく、その成長を、外から(はば)んでしまうことになります。ただ、納得しあったうえで」と言うパウロのように、実情を見据(みす)て助言することが求められます。しかも、その夫婦には、キリストの土台の上に家を建てる(Ⅰコリント3:10)という「務め」があります。

ただ、納得しあったうえで(もっぱ)ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」……先に、「必ずしも『男は女に触れない方がよい』とは言えない」と述べましたが、ここでは、「男は女に触れない方がよい」ことが当てはまる例外が示されています。

この点に限って言えば、パウロはコリント教会の一部の人々の禁欲主義を認めています。というのも、パウロの目的は、考えの異なる人々を論破することではなく、多くのキリスト者から承認される倫理を確立することにあるからです。

元々、「(もっぱ)ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ……」というのは、例外的な出来事ではありません。というのも、主イエスご自身がしばしばひとりで祈っておられたからです(マタイ14:1、ヨハネ6:15)。そのようなひとりで行う密室の祈りは、夫婦生活の中でも推奨すべきものであります。

あなたがたが自分を抑制する力がないのに(じょう)じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」……確かに、「男は女に触れない方がよい」との主張は極端であり、禁欲主義はキリスト教倫理と(あい)()れないところがあります。なぜなら、キリスト者の自由のもとにある男女の関係を束縛することになるからです。

しかし同時に、パウロは、「自分を抑制する力がない」人間の弱さをしっかりと把握しています。「サタンの誘惑」に()せられるならば、男が女に触れる」という性行動が制御できなくなることを、彼は()(ねん)しています。

性欲にせよ、食欲にせよ、自分が自分を律するというのでは立ち行かなくなる(箴言6:29,32、創世記25:33-34)のは、自明です。だからこそ、夫婦共々に、ひとりで「(もっぱ)ら祈りに時を過ごす」ことが大切なのです。それは、神の喜ばれる節制であって、いわゆる禁欲主義ではありません。

ここで皆さんは、このように助言するパウロは結婚した経験があるのか、と問われるでしょうか? 少なくとも、パウロは現在、独身です(Ⅰコリント7:8,9)。ただし、キリスト教に回心する以前に、パウロが結婚していたかどうかについて、何も情報がありません。結婚の経験の有無で、わたしはパウロの助言を評価するつもりはありません。むしろ、パウロは夫婦が喜びも悲しみも分かち合って暮らしている、その実情に寄り添っている、ということを指摘したいのです。それが、パウロの繊細な言葉遣いに表れています。

もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」……5節の「ただ、納得しあったうえで」、そして6節の「そうしても差し支えない」との言い回しによって、波風の立つことが無いとは言えない結婚生活へのパウロの洞察が表されています。すなわち、「納得する」ならびに「差し支えない」((じょう)()・容認する)というギリシア語には、「シン」(シンクロナイズ〔同調・同時化〕のシン)がさりげなく使われています。パウロはデリケートな夫婦の生活を()(しつ)しています。

このような言葉遣いの内に、「共に(シン)生きる」夫婦の結婚生活が表明されています。実際、場面場面で夫婦が互いに……場合によっては時間をかけて……「納得したり譲歩したりする中で、結婚は成り立つものではないでしょうか。

命じるつもりはありません」という、やや謙虚なパウロの姿勢には、段落の結びを際立たせる効果があります。コリント教会の「」(設立者 Ⅰコリント4:15)と自認するパウロ以上に、その信徒一人ひとりを守り支えているのは……。

 

Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物(たまもの)をいただいている      

コリントの信徒への手紙 7:7―― 

わたしとしては、皆がわたしのように(ひと)りでいてほしいしかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。

.で、コリント教会の一部の人々の主張を引用した上で、「しかし」()と切り返すパウロの論法を紹介しました。ここでは、より強い反意を示すしかし」(アッラが使われています。

すなわち、自分自身の願いを、「しかし」(アッラ)によって切り返して、神の御業を指し示しています。

わたしとしては、皆がわたしのように(ひと)りでいてほしい」……パウロは「神からの賜物」として、独身で伝道する生活を受け取っています。「わたしのように……してほしい」と言って、自分の願いが神に由来していることをほのめかしています。もちろん、皆に「そうしなさい、と命じるつもり」で言っているのではありません。

(はか)らずもパウロは独身者として、神の喜ばれる節制を選び取っています。それは決して禁欲主義ではありません。そのことはパウロの姿勢が、「共にシン)生きる」夫婦たちの結婚生活、その喜びや悲しみと「共に・一緒に」あることからも分かります。

人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」……パウロは、一つの生き方に(しば)られるような人ではありません。「人によって生き方が違う」ことを認めていました。というのも、キリスト者一人ひとりがそれぞれの神からの賜物(たずさ)えて、人の思いをはるかに超えた終わりの日を迎えることが第一だったからです。

再臨の主イエス・キリストにお会いすることをめざして、パウロは の導きによって自分の生活を整えようとしていました。それ故に彼には、「いついかなる場合にも対処する()(けつ)を授けられて」いました(フィリピ4:12)。だからパウロは、当代(とうだい)屈指生相談の名回答者でありました。

 

パウロは、コリントの信徒への手紙 7章の新しい単元の冒頭で、結婚と性生活の問題を取り上げました。彼はキリスト教倫理の確立に取りかかっています。7節の短い段落ながら、そこには、倫理の全体像が見通せるような、霊的な説明が展開されていました。このようなパウロ書簡を参照されるならば、きっと善い倫理・集成がつくられるに違いありません。そうすれば、各教会において、「それぞれの神からの賜物」が十分に活用されることでしょう。

何より、パウロは「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)でありました。彼は、神からの祝福と恵みを豊かに受けていました。だからこそ、彼自身は独身の「賜物」にあずかりながら、彼とは異なる生き方をしているさまざまなキリスト者を思いやり助言することができました。

夫婦が難題を(かか)えているときにも、時間をかけて「納得したり譲歩したり」しながら、神の栄光を現すように、パウロは見守っています。

パウロは、「自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑する」という人間の負の側面を把握しています。そこで、すでに誘惑されてしまった人、みだらな行いを犯した人(Ⅰコリント5:1)を見捨てたりしません。なぜなら、パウロは忍耐と希望をもって、終わりの時の到来を待ち望んでいるからです。

主イエスが見失われた羊を(さが)し回っておられます(ルカ15:5)。日夜、神の救いの御手が()(ぐら)世に差し伸べられています(ローマ10:21)。その間にも、わたしたちにはこの世で、さまざまな人間関係の中で、隣人への「果たすべき務め」があります(Ⅰコリント7:3)。

現代にふさわしいキリスト教倫理を建て上げること、その大事な「務め」がパウロからわたしたちに(ゆず)り渡されています。

Y

 

要 点

パウロは性に関する諸問題について、率直に意見を述べています。

注目すべきは、その内容以上に、パウロの回答の出し方です。

パウロは結婚している人、独身の人、放縦な人、そして禁欲主義的な人などの考え方や背景を把握しようと努めています。「納得する」や「譲歩する」など、人の気持ちの側面も見逃していません。夫婦の関係が「祈り」によって成長するのを見守っています。

パウロは の導きを通して、性に関する問い尋ねに答えています。個別の問題を検討するとき、パウロは終わりの日を待ち望み、今は「神からの賜物」あふれる教会の建設と伝道に励んでいます。

 

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〈説教の要約〉

2024年 12月29日  日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

降誕節 第1主日

旧約聖書 創世記 2章24節(P.3

新約聖書 コリントの信徒への手紙 6章15節~20節P.306

説  教「あなたがたの体は聖霊が宿ってくださる神殿である」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である ……Ⅰコリント6:15             

Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる 

            ……Ⅰコリント6:16-17 創世記2:24 

Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している   

                    ……Ⅰコリント6:18-19  

Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい

                     ……Ⅰコリント6:20          

結 

 

使徒パウロは今、地中海世界の諸教会を巡回伝道しています。さまざまな民族や文化・慣習に出合う中で、キリスト教倫理を確立しようとしています。その際、旧約聖書に記載されているユダヤ人の律法や倫理観も一助となりました。そこには、およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範と知恵が収められています。

さて、キリスト教倫理を確立していくときに、最も丁寧に考察しなければならないのは、一体何でしょうか? それこそ、コリントの信徒への手紙 1:106:20の内容や展開が参考になります。

それは、神の御前にあって、主イエス・キリストとの関係において、人間とはどのような者なのか、ということです。パウロはコリント教会の人々と向き合う議論の端々(はしばし)で、その点について言及しています。 

後で、本日のテキストに従ってその要諦(ようてい)提示しましょう。ただし、キリスト教の観点から人間とはどのような者なのかを知ること、つまり、この世にある信仰者の実体をつまびらかにしていくことには、痛みが伴います。悔い改めるべき問題が(あば)き出されます。すでにパウロは、ねたみ、争い、裁判ざた、高慢、偶像崇拝、姦淫(かんいん)貪欲(どんよく)窃盗(せっとう)泥酔(でいすい)陰口(かげぐち)(Ⅰコリント3:36:7-10)などの(つみ)(とが)を列挙しています。

しかも当然、どんな罪を悔い改めるのか、は人によって異なります。ということは、キリスト者同士でも、自分と他の人との比較や批判が生じかねないということです。自分と他の人の間で、ねたみや争いがわき起こって、罪咎がいや増すことほど、神を悲しませることはありません。ましてや、無垢(むく)無実な人の献身的な行為が、中傷され罪ありとされるならば……。

パウロは決して規則作りを急いではいません。旧約律法に(まさ)る、主イエス・キリストの(おきて)を差し出して、コリントの人々を論破しようとはしていません。そうではなく、まず、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、という中心命題を掘り下げています。

わたしたち・信仰者はキリストの体一部」(Ⅰコリント6:17)と言われるほどに、主イエス・キリストの恵みにあずかっています。わたしたちがその一部()(たい)(えだ))であるとは、」を持つ人格的存在であるということです。

言い換えれば、わたしたちは神のかたちに似せて造られ、キリストの兄弟とされている(創世記1:27、マルコ3:24、ヘブライ2:11-12)ということです。そのように、神は人間を造り、守り、支えてくださっています。それ故に、わたしたち・キリスト者の最も大きな目的は、「神の栄光を現す」ということです。

わたしたちは皆、キリストの体」全体の一部」であります。その一人ひとりが、神から賜物が与えられ、独立した意志をもって生きています。そうして、「神の栄光」を(うつ)し出しながら、キリスト者としての個性を輝かせています。

そのようなキリスト者がこの世で生きていくとき、大切な課題は何でありましょうか?

パウロによれば、それは、罪を避けることとキリスト者の自由(Ⅰコリント6:12-14)を(きょう)(じゅ)することです。そこに、人生における闇と光と(たたか)いがあります。だからこそ、パウロは時に、厳しく禁止の命令を出し、時に、すでに自由にされた」(ローマ6:18)人生の豊かさを教えようとしています

 

Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である 

コリントの信徒への手紙 6:15――             

あなたがたは、自分の体がキリストの体一部だとは知らないのかキリストの体の一部(しょう)()の体の一部としてもよいのか決してそうではない。

パウロは、どのように「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1,9-106:9,18)に対処するのか、という課題に切り込んでいます。これは現代人にもよく分かることですが、男女の性に関わる振る舞いというのは、人間の自由と罪の回避とがせめぎ合っているデリケートな問題です。

具体的に言えば、「わたしには、すべてのことが許されている」(わたしは何をするのも自由である Ⅰコリント6:12)とのコリント教会の一部の人々の主張によれば、(おの)ずから性道徳の規範は(ゆる)やかになります。近親相姦のような「みだらな行い」は律法に照らして違犯している(レビ記18:8、申命記23:1)と(いさ)めても、「あなたは古い」、「個人の自由を侵害するな」と反論されかねない状況にありました

パウロは性道徳の向上を見据(みす)えながら、ここで、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、との中心命題を明示しています。

あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」……「」(ギリシア語:ソーマ)というのは、この段落の鍵語であります(Ⅰコリント6:15,16,18,18,19,20)。この用語によってパウロは、心や魂ととを区分しているのではありません。

そうではなく、というのは、身体的・人格的存在としての人間を指し示しています。つまり、人間の生きていること全体、人の人格全体に関わる観点から、キリスト者とは何かを(とら)えようとしています。言い換えれば、」という実体……性欲や食欲などを含む……に則して、キリスト教倫理を掘り下げようとしているのです。それはまことに()(かな)っているに違いありません。

わたしたち・信仰者は、「キリストの体」なる教会に属しています。一人ひとりは、その「一部」であります。そのことを、主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とのやさしい(たと)えで教えてくださいました。確かに、「」と呼ばれた方が、「一部」と言うより実感できるでしょう。

冒頭で聖なる「キリストの」を持ち出して、次節以下で、その「一部」であるキリスト者の「」を取り上げるという運びになっています。心憎いまでの(たく)みさです。裏を返せば、「みだらな行い」に(ひた)っている者を、「(しょう)()の体の一部」の状態から、聖別された「キリストの体の一部」へと回復するのは難しいということなのです。

原文に即すると、「キリストの体の一部を取り去って、(しょう)()の体の一部と()」という強意的表現になっています。「取り去って……()」という過程には、サタンの誘惑と人間の堕落が内在しています。「決してそうではない」(断じてそうあってはならない)とのパウロの叱責(しっせき)以上に、父・子・聖霊の御力による奪還(だっかん)救出を祈り求めねばなりません。

パウロは旧約聖書を援用(えんよう)しつつ、慎重に議論を進めていきます。

 

Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる  

コリントの信徒への手紙 6:16-17―― 

16 娼婦と(まじ)わる者はその女一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体(=一つの肉となると言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです

創世記2:24―― 

こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。

パウロはここで、アダムとエバという最も原初的な人間関係、すなわち、男女の結婚、夫婦の結びつきから、みだらな行いに伴う人間関係の問題を()きほぐそうとしています。

およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範を視野に入れていることからも、より良いキリスト教倫理を確立しようとしているパウロの意気込みが伝わって来ます。カインとアベル(兄弟)、サラとハガル(女性)、ヤコブとヨセフ(親子)などの創世記の物語に表されている確執(かくしつ)と和解とは、今日のわたしたちの交わりの(かがみ)となっています。

確かに、娼婦と交わる者」と「娼婦」との(たわむ)れの交わりは、」と「との結婚と同列に論じられるものではありません。一方では、神の災いが下り、他方では、神の幸いが与えられます。個別の問題としては、「みだらな行い」と結婚とでは、語るべき戒めや教えの内容も異なります。

しかしそれならば、パウロは旧約聖書まで引用して、何を訴えようとしているのでしょうか?

17節の「しかし」の前後に分けて、二つ指摘しましょう。

一つ目は、「娼婦と(まじ)わる者はその女と一つの体となる」という関係の根深さが、「二人は一体となる」との結婚による(きずな)に類比されうるということです。もちろん、前者は一刻も早く解消すべき関係であり、後者は神の永久(とわ)の祝福のもとにある関係である、という違いがあります。しかし、「娼婦と交わる者」と「娼婦」の交わりはを「一つ」にするという点は、「」と「」との結婚も同様です。

そのような論理飛躍のやや大きい内容において、パウロの強調点は、「みだらな行い」を()二人は一体となる」、すなわち、「二人は一つの肉となる」〔直訳〕という点に置かれています。

」という用語がさらに、生々(なまなま)しい「」(ヘブライ語 バサル;ギリシア語 サルクス)という言葉に言い替えられています。パウロの真意は、「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(ローマ7:14)との一句を引用すれば、氷解することでしょう。「の人」は「の人」または「信仰に成熟した人」と対極にあります(Ⅰコリント2:6,15)。「の人」は「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)と一体化するような、抜き差しならぬ「」の関係を結んでいます。

要するに、娼婦と(まじ)わる者とその女は「一つの」となって、「罪に売り渡される」というのが、パウロの訴えたかった点です。「一つの体」ならぬ「一つの肉」が密着した状態から、「キリストの体の一部」に回復される道筋を、パウロは「しかし」以下で示しています。

二つ目の主張は、「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となる」との一文に明快です。

一つの肉」から一つの霊へ……筆の運びが()えわたっています。片や、(くさ)りかけている「一つの肉」、片や、新鮮な息吹の吹きめぐる「一つの霊」、どちらを選び取るべきか、が明瞭になっています。

しかし」以下の文に、「娼婦と交わる者とその女」や「男と女」という関係が直接的に出てこないのは、なぜ、というのは良い質問です。それは、わたしたち・信仰者は、一つの「」として「キリストの体の一部」とされている、そこにわたしたちの存在の根拠があるからです。

分かりやすく言えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」との信仰告白が第一で、その後に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)との()い行いが続きます。信仰告白と愛の実践が一つとなっているところに、キリスト者の存在の根拠が()ります。

 

Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している      

コリントの信徒への手紙 6:18-19――  

18 みだらな行いを避けなさい人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。

パウロは健全にも、キリスト教の中心命題を軸として、各論に立ち寄りつつ、新しい倫理を打ち建てようとしています。18節-19節の文脈では、みだらな行い」の罪についての説き明かしから、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との命題へと転じています

まず、みだらな行い」の罪についての説き明かしの箇所を読んでみましょう。ここでパウロは、「みだらな行い」の罪を深く認識するために、自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪との類別を(こころ)みています。或る事柄を理解するために、対象になっているものを細分化するというのは、意義あることです。

旧約聖書において例えば、敵意を(いだ)き憎しみを込めて人に危害加えた場合と、故意(こい)にではなく思わず激昂(げっこう)して人に危害を与えた場合とを(しゅん)(べつ)したうえで刑罰の重さが決められています(民数記35:20-22、申命記19:4-6)。それが、犯行への予防効果になることもあるでしょう。いずれにしても、パウロによる罪の類別は、わたしたちが罪を深く悔い改めるきっかけとなります。

自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」……一体どういうことなのだろうと思われることでしょう。論拠となる文を読み返してみましょう。

人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」……「人が犯す罪はすべて」というのは言い過ぎのようにも思われますが、パウロの意図は、「みだらな行い」の罪を特徴づけることにあります。それほど、「みだらな行い」はこれ以外「すべての罪」と比べて、深刻な問題を(はら)んでいると、パウロは見ています。

ガラテヤの信徒への手紙5:19-21で、15の罪のカタログが列挙されている、その冒頭には、「姦淫、わいせつ、好色」の三つが置かれています。「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」とのパウロの憂慮(ゆうりょ)が背景にあるのは間違いないでしょう。仲間争い」や「泥酔(でいすい)」も、「自分の体の中に向かって犯す罪」で、罪人の身心を()(へい)せる(参照:H.-D.ヴェントラント)のでは、という反論はさておくことにしましょう。というのも、喫緊(きっきん)の課題は、みだらな行いという罪の本性を()(きわ)めることにあるからです。

パウロの生きていた時代に(まさ)って、みだらな行いが「自分の体の中に向かって」、どれほど大きな悪影響を及ぼすのかについて、今日わたしたちは痛感させられています。性暴力の被害によって、パウロが「」と称している、身体的・人格的存在としての人間がどれほど傷つけられるのかについて、強い関心が寄せられています。

この点では、ギリシアの町コリントの教会におけるみだらな行いの問題を取り上げ、キリスト教的観点からその罪性を訴えたパウロには、先見の明があったと言えましょう。

罪人の(かしら)」(Ⅰテモテ1:15)なるパウロによって、「みだらな行い」というのは、いわば筆頭格なる罪であることが(かっ)()されました。それは、」を(けが)し、その共犯者または被害者をも「」の一体化によって巻き添えにしてしまいます。そうして、「キリストの体」なるコリント教会の「一部」(枝・()(たい))の闇を白日(はくじつ)のもとにさらけ出しました。

それは、コリント教会の大部分の人々にとって、知りたくもない事実だったかも知れません。しかし、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との中心命題を論じるためには、必要なことでありました。それによって、 に導かれ(おそ)れをもって、神の言葉を聴き取る姿勢が整えられました。

あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿でありあなたがたはもはや自分自身のものではないのです」……肯定文と否定文による対照によって、主旨が明瞭にされています。主文とその(ただ)し書きという構成になっています。

重要なのは、「あなたがたの体」は「聖霊」の住まう「神殿」であるということです。すでに述べたとおり、「あなたがたの体」とは、信仰者の身体的・人格的な存在を指しています。

いちばんの注目点は、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(Ⅰコリント3:17)との教会論を基盤として、個々人のキリスト者が「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」と言われている点です。

コリントの信徒への手紙 3章では、パウロは彼が土台を据えた神の建物なる家、すなわち、教会について論じていました。その中で、パウロは「あなたがた」が(つど)って礼拝している所が「聖なる神殿」であると宣言しました。ところが6章の最後に、パウロは教会が神殿」であると共に、信仰者一人ひとりが「神殿」であると告知しました。

一方、教会が神殿」であるのは、イエス・キリストという土台が既に()えられている」(3:11)からです。他方、信仰者が「神殿」であるのは、「からいただいた聖霊が宿ってくださる」からです。双方合わせれば、教会とその「」である信仰者には、「イエス・キリスト」・「」・「聖霊」によって、聖性が保たれているということになります。それによって、俗なる(けが)れと罪から切り離されているのです。

そのように、三位一体の神の御力によって罪人が聖別されているわけですから、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」というのは当然の帰結になります。

キリスト讃歌の中に、洗礼者ヨハネについて、「彼は光ではない」(ヨハネ1:7)との(ただ)し書きが出てきます。ここで大切なのは、わたしたち・信仰者は、イエス・キリストの光に照らし出されて、自分は何者なのか、理解するということです。この種の自己否定は、いわゆる自己肯定感を低めることにはなりません。むしろ、イエスに自分が愛されているという信仰により、「キリストの体の一部」として確固たる自己が築かれます。

 

Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい    

コリントの信徒への手紙 6:20――          

あなたがたは代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。

前節を受けて、なぜ「あなたがたはもはや自分自身のものではない」のか、の理由が昭示されます。

あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」が、その答えになります。

代価を払って」というのは、端的にはイエス・キリストの十字架と復活の御業を指し示しています。より正確には、主イエスが罪を犯し続けている人間を救うために、十字架上で血を流し犠牲になられたということです。罪の奴隷だった者(ローマ6:17)が、十字架の血という身代金によって、「買い取られ」、新しい主人に結びつけられました。

その点で、わたしたちが「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:15)とされているのは、神の無償の恵みによるものです。今や、一羽の(すずめ)ほど(ルカ12:6)に小さき「一部」(枝・肢体)は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とされています。

そこで、「あなたがたは」何を為すべきなのか、ということで、パウロは次のように結びました。

だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」……文脈に即せば、「自分の体」というのは、ひと度、(しょう)()」と交わって、「一つの肉」となってしまったものです。罪と死の縄目にがんじがらめになったものです。汚れが染みついて、見るも無惨な状態になってしまいました。

しかし、神はこの世に、イエス・キリストを遣わし、そのような罪人を「代価を払って買い取られ」ました。救われた罪人の「」は、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」に変えられました。今や「まこと光」(ヨハネ1:9)なるイエス・キリストが、ヨハネのように、わたしたちを「ともし火」あるいは「世の光」として用いてくださいます(ヨハネ5:35、マタイ5:14、Ⅱペトロ1:19)。

さあ、「自分の体で神の栄光を現そう」ではありませんか

 

結 

自分の体で神の栄光を現しなさい」……これが、わたしたちのキリスト教倫理において(かか)げるべき目的です。そこに、キリスト者のほんとうの自由があるのではないでしょうか。というのも、わたしたちは「一つの肉」の(かたまり)状態……(つみ)(とが)の連鎖……から、個性を持つ「一つの体」として解放されたのですから。

この「神の栄光」のもとで、隣人を心から愛することを第一とするキリスト教倫理が確立されることでしょう。暗がりと不条理に満ちた、この世を生きるしるべとして、わたしたちの新しい倫理・道徳が示されますように

 

W

〈説教の要約〉

2024年 12月22日        日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

待降節 第4主日(降誕前第1主日) クリスマス礼拝  

旧約聖書 ダニエル書 3章25節(P.1385

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節P.164

説  教「この方こそ神の子である」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ      

                      ……ヨハネ1:29            

Ⅱ わたしはこの方を知らなかった            

                      ……ヨハネ1:30-31

Ⅲ その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である 

                    ……ヨハネ1:32-33  

Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている

                      ……ダニエル書3:25          

Ⅴ この方こそ神の子である        

                            ……ヨハネ1:34 

結 

 

今年は、待降節、そしてこの降誕日の礼拝を通じて、ヨハネ福音書1章を読んできました。

一方、マタイ福音書とルカ福音書では、占星術の学者や羊飼いたちが、赤ちゃん・乳飲み子としてお生まれになった主イエスに出会い、御子を(おが)むという形で、その降誕が祝われています。他方、ヨハネ福音書では初めにキリスト讃歌1:1-16)がうたわれる中で、主イエスの受肉と栄光(1:14)とが闇の世に映し出されています。人物として登場するのは、イエス・キリスト、ヨハネ、そしてモーセ(律法制定者 1:17)の三者のみです。

ヨハネの教会は、1章の神学的または歴史的プロローグ(序文)によって、初めに、イエス・キリストがどんなお方であるか、見て知って信じたのであります。彼らはこのプロローグを通して、信仰を再確認しました。

その点でヨハネ福音書・冒頭の言葉は、新しい時代を開く「初めての子」(ルカ2:6)を囲んで読むにふさわしいものであります。その賛歌によって、御子から人々に恵みが分かち与えられます。

では、本日のクリスマス礼拝において、その歴史的プロローグ(ヨハネ1:19-51)から一つの段落を取り上げましょう。

 

Ⅰ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ                 

ヨハネ福音書1:29――

その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。

その翌」とは具体的には、ヨルダン川の向こう側・ベタニヤで、ヨハネが祭司とレビ人から尋問された(ヨハネ1:19-28)、次の日ということです。その「」が(日常)だとすれば、「その翌日」はハレ、すなわち、ヨハネが神によって慰められた特別な「」でありました。

その翌日は、ヨハネにとってはクリスマスに相当するでありました。というのも、この世に誕生された主イエスを初めて「見た」からです。これ以前に、主なる神からイエス・キリストについて告げ知らされていた(ヨハネ1:15,30)かも知れませんが、現実にヨハネが主イエスに出会ったのは、この場面が最初になります。

野宿していた羊飼いたちが天使に呼び出されて、主イエスを「見た」(ルカ2:17)ように、ヨハネもまた、荒れ野から引き出されて、御子を目撃することになりました。しかも、「自分の方へイエスが来られた」、すなわち、主イエスの側からヨハネに近づいていったということです。この「」に、先駆者と来たるべきお方との人生が交わったのです。「まことの光」(ヨハネ1:9)なる主イエスがヨハネと共におられることによって、ヨハネは「光の中を歩む」者となりました(Ⅰヨハネ1:7)。

見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ……ヨハネはそのような霊的な交わりのもとに、「(ことば)」なる主イエスについて証ししました。この重厚な言葉には、主イエスがどのようなお方であるのか、また、福音とは何か、との問いへの答えが含まれています。

そこで、主イエスについて信仰者についてとの二つの視点から説き明かしましょう。

   主イエスについて――

神の小羊(ヨハネ1:29,36)……ユダヤ人の過越祭で用いられる「小羊は、傷のない一歳の(おす)でなければならない」(出エジプト記12:5)と定められています。従って、「神の小羊」との呼称をもって、主イエスが無垢(むく)であり無実のお方であることが宣言されています。主イエスは「罪を犯されなかった」(ヘブライ4:15)にもかかわらず、罪状書きの(かか)げられた十字架につけられました(マタイ27:35-37)。

しかしなぜ、無実の主イエスが、十字架刑に処せられたのでしょうか? 苦難の(しもべ)の詩に、「彼が刺し(つらぬ)かれたのは わたしたちの(そむ)きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの(とが)のためであった」(イザヤ書53:5)というように、その答えが明示されています。

つまり、主イエスは僕の詩の預言の通りに、わたしたちの罪」のために、(あざけ)りと傷を(こうむ)り、命を断たれたのであります(イザヤ書53:6,8)。このように、主イエス自らがすべての人の罪を負った」(イザヤ書53:6,11)のは、人々を罪から助け出すためでありました。主イエスは神の御心により人間に寄り添われました。

神の小羊」との称号には、そのような深いメッセージが込められていました。それは、ヨハネが「見よ」と呼びかけるに(あたい)する、神からの啓示でありました。では、人の心に思い浮かびもしなかった」(Ⅰコリント2:9)ような啓示を受けて、わたしたちはどのように応答すればよいのでしょうか。

   信仰者について――

の罪を取り除く」……ここで、「」という言葉を聞き逃してはなりません。すなわち、わたしたちは神に(そむ)いて、隣人を裏切り、そうして罪を積み重ねるようになりました。

こうして、多くの人々は 的な神の知識に見向きもしなくなり、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)に洗脳されるようになります。自分は罪を犯すまいと決心しても、この世に生きている以上、罪への誘惑は大波のように自分に押し寄せて来ます。

世の罪取り除く」……これは単に、人々の眼前から「世の罪」が消え去るという意味ではありません。「恵みの上に、更に恵みを」(ヨハネ1:16)というように、「取り除く」イエス・キリストは大いなる救いの御業を現されます。これはまさに、わたしたちにとっての福音、喜びの知らせです。

主イエスはわたしたちに代わって、罪の重荷を担われます。このようにして、罪の染みついたわたしたちの(けが)れが清められます。というのも、過越祭において「小羊」が犠牲として(ほふ)られたように、十字架につけられて殺されたイエス・キリストがわたしたちの罪すべてを(あがな)ってくださったからです御子が御自身の命をもって、わたしたちの罪の代価を支払われたのです(Ⅱコリント6:20)。

主イエスは、「世の罪を取り除く」ために、十字架の死を()げられ、三日後によみがえらされました。それをわたしたちの側から見るならば、自分の罪が無償で赦されたということになります。まことの救い主によって、わたしたちは救い出されました。そのような罪の贖いと赦しが、わたしたちに「恵み」として与えられています。それが福音です。神の御前にひれ伏し悔い改めをもって、喜んで受け取りましょう。

このように、ヨハネが宣教の最初に神より啓示された御言葉は、イエス・キリストの最後を予告するものとなりました。十字架の苦難を超えて三日後に復活されたイエス・キリストは、見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と呼ぶにふさわしいお方であります。

 

Ⅱ わたしはこの方を知らなかった                

ヨハネ福音書1:30-31 洗礼者ヨハネの言葉――

30「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を(さず)けに来た。」

キリスト讃歌中のヨハネの証言(1:15)と重ねて、現実に何が起ころうとしているのか、が浮き彫りにされています。特に、ヨハネ自身とイエス・キリストとの関係が、ヨハネのへりくだりのうちに述べられています。

わたしの後から一人の人が来られる」……わたしたちすべて、天地万物が造られる「よりも先におられた」お方が今、この世に突入して来られました。すなわち、「(ことば)肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という受肉(じゅにく)」の出来事をもって、イエス・キリストがわたしたちの前に現れました。

それは、主イエスがわたしたちとまったく同じ人間として生まれ、わたしたちの重荷である罪と(やまい)と死を(にな)われたということを意味しています。わたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」というほどに、わたしたちの日常生活、()()(あい)(らく)のただ中に入って来られました。人類の歴史の中に誕生の日が刻まれたことによって、わたしたちは毎年クリスマスを迎えられ、深い慰めと大きな喜び与えられるようになりました

わたしはこの方を知らなかった……不思議にもこの句が3回も、ヨハネの証しの中に繰り返されています(1:26,31,33)。ここには明らかに、ヨハネの特別な意図が隠されています。しかしなぜ、「知らなかった」というような否定的な(げん)()(ろう)する必要があったのでしょうか。

これは、「(ヨハネ)は光ではなく」(ヨハネ1:8)との否定による宣言で確認したとおりに、自分の分を越えて過大評価してはならないという戒めです。実際に「知らない」以上、「知っている」と言うのは、()(まん)です。真の証言者の言うことではありません。

それに加えて、ヨハネが3回この方を知らなかったと強調しているより大きな理由があります。それが、人間にとって全く未知の方、新しいお方が来たことを訴えるためです(松永希久夫)。これによって、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉1:9)との嘆息は、「見よ、これは新しいものだ」との歓喜に変えられました。

それ故に、誰しも「この方を知らなかった」ことを恥じることはありません。むしろ、イエス・キリストに出会って、「知る」機会に恵まれたことを感謝すべきなのです。その「新しいお方」によって、わたしたち一人ひとりに新しい人生が切り開かれます。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。この約束によって、わたしたちは人生の最後まで、安んじて主イエスにゆだねることができます。

この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を(さず)に来た」……ヨハネの証しはイエス・キリストの到来と共に、現実のものとなっていきます。そして、ヨハネが「水で洗礼を(さず)ける」ヨハネは、「聖霊によって洗礼を(さず)ける」イエスの露払(つゆはら)いとなっていますイエス・キリストの 性が(きわ)()たされています。

わたしは、水で洗礼を(さず)けに来た」⇒「この方がイスラエルに現れる」との流れ、すなわち、歴史的展開が確認されているのが、最も重要なことです。ヨハネの奉仕全体が、イエス・キリストのために捧げられています。ヨハネ自身が主イエスの到来を待望しています。だから、彼は「主の道を整える」先駆者と呼ばれているのです(マルコ1:3)。

 

Ⅲ その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である 

ヨハネ福音書1:32-33――  

32 そしてヨハネは(あか)しした。「わたしは、が鳩のように天から(くだ)って、この方の上にとどまるのを見た33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を(さず)ける人である』とわたしに言われた。」

ヨハネが主イエスの洗礼について証ししています。文章上やや分かりにくくなっているのは、主イエスの受けた洗礼主イエスの授ける洗礼ことが()ざっているからです。整理してみましょう。

ヨハネは証しした」という内容においては、①主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことが物語られています。そして、わたしは、鳩のように天から(くだ)ってこの方の上にとどまるのを見たと証言しています。

ここで皆さんは、主イエスの受けた洗礼に何の意味があるか、と思われることでしょう。まさにその意義を、ヨハネが伝えてくれています。

その中心点は、鳩のように天から(くだ)って、この方の上にとどまった」とイエス・キリストとのつながりにあります。それは、主イエスの公生涯全体を見渡せば、分かります。すなわち、聖霊がとどまる中で、神から遣わされたイエス・キリストは、十字架と復活の御業を成し遂げられました。

ここで、が宿らずとも、人を罪から救い出す御業は、神と御子によって遂行されたであろうと、反問されるでしょうか。

しかし、つぶさに見れば、主イエスの公生涯、つまり、降誕から十字架の死に至るまで(ルカ1:474:123:46)は、導かれていることは自明です。その上、キリスト者もまた、が「天から(くだ)って自分にとどまれば」こそ、イエス・キリストの奇しき御業を見て知って信じることができるのです。さらに、わたしたちがいつも主イエスの言葉と行いを思い起こせるように、わたしたちの助け主なる聖霊が教えてくださいます(ヨハネ14:26)。

従って、わたしたちが聖霊信仰の原点に立ち返ろうとするときには、「わたしは、が鳩のように天から(くだ)って、この方の上にとどまるのを見た」とのヨハネの証言に戻ればよいのです。それは、とイエス・キリストとの強固なつながりに(なら)うということです。

次に、②主イエスの授ける洗礼について理解を深めましょう。

その人(イエス・キリスト)が、聖霊によって洗礼を(さず)ける人である」……ヨハネはこの言葉を「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、「 から聞かされました。ということは、イエス・キリストが「聖霊によって洗礼を授ける」ことの背景に、がおられるということです。

まさにここに、「洗礼は父・子・聖霊なる三位一体の神が執り行われる聖礼典(サクラメント)である」、と規定される根拠があります。洗礼者ヨハネは、「」・「イエス・キリスト」・「聖霊」による聖礼典(サクラメント)を信じる人として召し出されました。こうしてヨハネは、この方を知らなかった」との三重の(しば)りから解放されました。人から洗礼を受けるほどの主イエスの謙遜を学んで、ヨハネはへりくだり、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)としての務めを(まっと)うしました。

 

Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている      

ダニエル書3:25――

王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」

待降節から降誕日に至ることを覚えつつ、ヨハネの証しの()めくくり)の前に、関連する旧約聖書を読むことにしましょう。

紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。新バビロニア帝国の王ネブカドネツァル(在位:604562)は、ユダヤ人の若者たちを召し入れ、行政を任せていました。というのも、彼らは神から知識と才能に恵まれ、夢を解く能力を持っていたからです(ダニエル書1:17)。

しかし彼らは、王の側近たちのねたみを買い、王に中傷されてしまいました。そして、だまされた王は激昂(げっこう)して、ユダヤの若者三人、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」を(しば)り上げ、燃え(さか)()に投げ込むように命じました(ダニエル書3:8,13,20)。

ところが、炉をのぞき込んだネブカドネツァル王は驚いて言いました……だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える」と。王は、三人が「何の害も受けず」に無事だったうえに、四人目の人物が見えると証言しています。

この神の子のような姿をしているとは、いったい誰だったのでしょうか? 場面状況から言えることは、この人物がユダヤの若者たちに寄り添い、彼らを救出する役割を果たしたということです。信仰深い者たちが危難から脱出できたのは、神が「神の子のような姿をしている」者を遣わしたからです。

こうして、苦しみ悩んでいる時にも「神の子」を待望する信仰が、ユダヤ人共同体の中で受け継がれていきました。およそ600年後に、真の救い主を待ち望んでいる人として、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れました。

 

Ⅴ この方こそ神の子である                      

ヨハネ福音書1:34 洗礼者ヨハネの言葉――

わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。

ここに、わたしたちの間に受肉されたお方が、「神の子である」と証言されています。まことの神でありまことの人であるということが、神の子との言葉の内に凝縮されています。神の大いなる救いの歴史において、イエス・キリストが降誕されました。そうして現実に、歴史が「まことの光」に照らされて動き始めました。

.で「その翌」というのは、洗礼者ヨハネにとってのクリスマスであると述べました。それは、「神の子」の預言が成就したであり、光の降誕祭としてキリスト者によって引き継がれました。

その「」に、ヨハネは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり「神の子」である目撃しました。「見よ」や「わたしは見た」(ヨハネ1:29,32,34)との句には、神によって見せられたのと意味合いが込められています。

言い換えれば、ヨハネは先駆者として、主イエスの受肉から十字架の死、そして復活までを見せられたのであります。神はヨハネに、クリスマスからイースターに至るまで全体を啓示されたのです。というのも、イエス・キリストは「神の子」としてお生まれになり、「神の子」として十字架の死を()げられたからです。

マタイ福音書27:54――

百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。

見た」という証言者は、ヨハネから「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」に引き継がれました。民族の垣根を越えて、証言者の輪が拡げられました。このように、イエス・キリストは「神の子」として、ヨハネの整えた道を、全生涯を歩まれました。

神の遣わされた御子イエス・キリストが「聖霊によって洗礼を(さず)ける」と、ヨハネは神から告げられました。ということは、この時すでに聖礼典(サクラメント)を執り行う教会の基礎が据えられたのであります。その後、イエス・キリストは弟子たちを招いて主の晩餐(ばんさん)(もよお)、パンと(さかずき)分かち与えられました(マタイ26:26-29、Ⅰコリント11:23-26)。ここにまた、もう一つの聖礼典(サクラメント)である聖餐(せいさん)の式が神の子によって定められました。

洗礼と聖餐とは、終わりの時が来るまで、教会が守り行うべきものであります。何よりもそれらを執り行ってくださるのは、「神の子」、イエス・キリストであるとの信仰が大切です。ヨハネはそのような信仰を持った、最初の人であります。

 

結 

まことの光(ヨハネ1:9)のもとに、一人ひとりがともし火(同上5:35)として集められる……それはなんと美しいクリスマスでありましょう。静けさの内に幕開けし、「ともし火」の一つひとつによって、御子降誕の喜びが証しされ物語られます。そうして、「まことの光」が照り輝き、そのもとで皆が賛美のうちに一つにされるのは、何と幸いなことでしょう。

メリー・クリスマス、皆さんに、神の祝福がありますように

 

W 

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〈説教の要約〉

2024年 12月15日        

旧約聖書 出エジプト記 33章20節(P.150

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章14節~18節P.163

説  教「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ (ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた     

                                            ……ヨハネ1:14             

Ⅱ あなたは神の顔を見ることはできない   

                               ……出エジプト記33:20

Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている 

                                           ……ヨハネ1:15 

Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた 

                                          ……ヨハネ1:16          

Ⅴ 父のふところにいる独り子である神 

                                       ……ヨハネ1:17-18 

結 

 

アドベント・待降節の第3主日を迎えました。来たる主日には、クリスマス礼拝が行われます。

本日は、ヨハネ福音書の神学的プロローグ(序文)の最終部分を読みます。一つの讃美として、イエス・キリストの誕生・受肉の意味が書き表されています。キリストの誕生について知れば知るほど、自分の信じているキリストがどういうお方なのか、がしっかりと(とら)えられます。

改めて言うまでもありませんが、受洗すると、人はキリスト者と呼ばれるようになります。それほどまでに、主イエス・キリストとわたしたちの関係には深いものがあります。

受洗の日からキリストに(なら)う生活が始まります(ローマ15:5)。キリストの言葉と行いにふさわしく生きてゆこうとの思いが、キリスト者の生活を造り上げます。キリストがいつもその生活の根底を支えてくださいます。

キリスト者は独りではありません。というのも、イエス・キリストという土台の()えられた教会(Ⅰコリント3:11)で、礼拝を行うと同時に信徒の交わりが深められるからです。そうして、わたしたちは皆、ますますキリストに似せられた者となります。

 

Ⅰ (ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた 

ヨハネ福音書1:14――             

(ことば)肉となって、わたしたちの間に宿られたわたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

この一節には、主イエス・キリストの降誕のメッセージが集約されています。

主の降誕を、「誕生」と言えば、人間の出生と何ら変わらないものとなります。しかし、主の降誕は、単なる「誕生」ではなく、「受肉」として受け止めるべきものであります。

その「受肉(じゅにく)」のことが、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書き表されています。ここで、「(ことば)」は「イエス・キリスト」(ヨハネ1:17)を指しており、「言は神であった」(同上1:1)と明示されています。

すなわち、まことの神が、「肉となって」まことの人として誕生したことを、信仰上忘れてはならないこととして、「受肉(じゅにく)」と呼んでいるのです。主イエスはわたしたちとまったく同じ人間になられ、わたしたちの重荷である罪と(やまい)と死を(にな)う者としてお生まれになりました。

それがいかに特別なことであるか、あるいは、それがいかに神の救いの計画にふさわしいものであるか、「わたしたちの間に宿られた」以下の文章に表されています。

わたしたちの間に宿られた」……御子イエス・キリストが天の栄光の座からこの地へと(くだ)って来られたということが、独特な言葉で表されています。すなわち、イスラエルの民の荒れ野放浪をしのばせるかのように、(ことば)はわたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」と告げられています。

旧約聖書によれば、40年間の荒れ野放浪というのは、民が不平をつぶやくことが多く、罪と(けが)れに満ちていました出エジプト記16:35、民数記14:33)。モーセが繰り返し、乳と蜜の流れる地に導かれるという主の託宣(たくせん)取り次ぎましたが(出エジプト記3:8、申命記31:20)、民の大多数はその希望に依り頼むことはありませんでした。偶像崇拝に傾いて、ただ生き延びることしか考えなくなりました。

従って、「(ことば)わたしたちの間に天幕を張ったというのは、荒れ野放浪における民の罪科や背信(はいしん)を打ち破るような新たな告知でありました。主イエス・キリストが「わたしたちの間に天幕を張った」ことによって、かつての天幕生活の失態が(ふっ)(しょく)され、ここに新しい時代が始まりましたそれゆえ」(イザヤ書7:14)、主キリストが先手を打って、民の(かたく)なさと(そむ)きを打開されたということです。

もともと、この「天幕」または「幕屋」(ヨハネ黙示録7:15)は移動生活の中で使われるものです。主イエス・キリストがこの地上に「天幕を張った」と言うことによって、主イエスがわたしたちの人生の旅路に同伴してくださることが内示されています。まことに主イエスはいつも「わたしたちの間に」におられます(マタイ28:20)。

わたしたちはその栄光を見た」……これぞまさに、クリスマスの出来事そのものです。本来、天の父なる神のものである「栄光」がわたしたちの眼前に現れ出てきました。御子イエス・キリストの「受肉」によって、主の栄光が「わたしたち」の周りを照らしました(ルカ2:9)。

ルカ福音書には、羊飼いたちが、ベツレヘムに生まれた乳飲み子を「見た」ということが、以下のように強調されています。

ルカ福音書2:12,15,16,20――

12 あなたがたは、(ぬの)にくるまって()()(おけ)の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。…… 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…… 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。

羊飼いたちは、主の栄光の輝いている(おさな)()を目撃しました。主イエスの降誕を「見た」ことによって、羊飼いたちは証言者となり、それがまた、彼らの信仰への導きとなりました。

それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」……これはまさに、主イエスの「受肉」に伴って歌われた讃美であります。「父の独り子」としてこの世に遣わされたお方が、わたしたちに「恵みと真理」を与えてくださいます。

この真理こそが、わたしたちを偽善や偏見から解放します(ヨハネ8:32)。こうしてわたしたちは、「主の栄光」に照らされ、この「真理」を(つえ)として自分の足でしっかりと立つことができるようになります。

なお、「恵み」については、後の節で重ねて出て来ますので、.で説き明かします。

 ここで、「わたしたちはその栄光を見た」との文に関連して、果たして神を見ることができるのか否かという問いと答えを確認しておきましょう。

 

Ⅱ あなたは神の顔を見ることはできない        

出エジプト記33:20――

また主はモーセに言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」

これはあくまでも、主なる神とモーセとが言葉を()わしているこの場面での話ということになりますが、モーセは神を見ることはできません に導かれた「神の人」モーセ(申命記33:1)において、「神を見る」ことが許されないならば、当然イスラエルの民もまた、「神を見ることはできない」と類推されます。

しかし、あなたはわたしの顔を見ることはできないとの厳格な託宣(たくせん)が置かれている文脈を()(あやま)ってはなりません。確かに、神は、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを(おお)」(出エジプト記33:22)との具体的な説明と共に、「神を見ることはできない」と告げられています。

しかし、「神を見ることはできない」が、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、神は執り成してくださっています。

一つは、神がモーセに「臨在の幕屋」を造るように指示されたことです。これは、宿営の外に張られた一つの天幕であります。モーセがこの幕屋に入ると、雲の柱が()りて来て、主はモーセと語られました(出エジプト記33:7-11)。

もう一つは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物(たまもの)を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ出エジプト記33:19との御言葉によって、「主の栄光」を現す(同上33:18 他に同上24:1640:34)ことを約束されたことです。

金の子牛」を造って偶像崇拝に(ひた)ったばかりの民(出エジプト記32:1-6)、悔い改めの不十分な民、あるいは、神を畏れることを知らない民にとっては、神からのあり余る「恵みと憐れみ」ではないでしょうか。「神を見ることはできません」が、臨在の幕屋と御言葉を通して、罪深い民は神の臨在に触れることが許されました。

この場面では、民の指導者モーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との裁きの言葉が下りました。しかし、モーセが民の罪に絶望しそうになる中で、主イエス・キリストの降誕に係わる預言が示されました。すなわち、「臨在の幕屋」を造れとの指示が預言として、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との成就につながっていくということです。そこで、神と人間と親しい交わりが築かれます。

主なる神は、神のいますことを告げたモーセの後継者として、洗礼者ヨハネを遣わされました(ヨハネ1:6)。

 

Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている 

ヨハネ福音書1:15―― 

ヨハネは、この方について(あか)しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの(あと)から来られる方は、わたしより(すぐ)れているわたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」

神学的プロローグ、キリスト讃歌の中に、二度にわたり洗礼者ヨハネについて言及されています。ヨハネは、人々を悔い改めに導くために(マルコ1:4)、人間の心の闇へと分け入っていきました。主イエスはヨハネの働きを、「燃えて輝くともし火であったヨハネ5:35と証言されました。

世の人の中には、ヨハネのことを「風にそよぐ(あし)」(マタイ11:7)と見下した人がいたかも知れません。「風にそよぐ(あし)」とは、荒れ野で風に()さぶられているような、定見(ていけん)のない不安定なものという意味です。また、世の人が「その光のもとで喜び楽しもうと」(ヨハネ5:35)、ちやほやしても、ヨハネは自分を無にして、イエス・キリストを指し続けました。

それから、大勢の人々が自分から洗礼を受けたいとやって来ても(ヨハネ3:23-30)、ヨハネが高ぶることはありませんでした。断食を重んじて(マタイ11:18)、へりくだり、主イエスへと至る道を整えました(ヨハネ3:3)。なぜなら、ヨハネは一つのともし火であり、主イエスは世全体を照らすまことの光」(ヨハネ1:9)だったからです。

わたしよりも先におられたからである」……実はヨハネの出生は、主イエスよりも半年ほど先んじています。というのも、マリアが身ごもった時、ヨハネの母エリサベトは懐妊からすでに六か月経っていたからです(ルカ1:36)。ですから、主イエスの方が「先におられた」とは、この世的な出生順、いわゆる(とし)の差指しているのではないと分かります。

そこで、わたしたちはこのヨハネの証言もまた、キリスト讃歌の一節として読むべきであると教えられます。すなわち、わたしよりも先におられたとは、わたしたち・人間を含め、すべてのものが造られるよりも、もっと前から、イエス・キリストはおられた、ということです。

言い換えればそれは、永遠の昔より、御父と共に、御子イエス・キリストは被造物の(いしずえ)になっておられたということです。このような万物の創造と救済という壮大な観点から、「わたしの(あと)から来られる方は、わたしより(すぐ)れている」と、ヨハネは「声を張り上げて証しをして」います。

ヨハネは自分が衰えゆく「ともし火」だと自覚しているからこそ、「まことの光」による救いを待ち望んでいました。ヨハネの宣べ伝えた罪の悔い改め(マルコ1:4、ルカ3:3)こそが、救いにあずかる第一歩なのです。それによって、創造の時の「神のかたち」(創世記1:26-27)が回復されます。そのために、「わたしよりも先におられた」イエス・キリストが罪人に寄り添い、愛をもって罪の赦しへと導いてくださいます。

 

Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた    

ヨハネ福音書1:16――          

わたしたちは皆この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵み受けた

キリスト讃歌がますます盛り上がっていきます。

ここで、「臨在の幕屋」の建築に伴って、主がモーセに語られた「わたしは恵もうとする者を恵むであろう」(出エジプト記33:19)との預言の成就が表明されます。

すなわち、わたしたちの間に天幕を張った」イエス・キリストが、わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵みを与えるということです。では、恵み(ギリシア語:カリス)とは、一体何でしょうか?

恵み」は、この方の満ちあふれる豊かさの中にあるものですから、神秘に満ちており、わたしたちの想像をはるかに超えるものであります。それが第一義的なことを認めたうえで、「恵み」に対する対義語を挙げましょう。そうすれば、「恵み」の何たるか、についてヒントが得られることでしょう。

主イエス・キリストの恵み(Ⅱコリント13:13)に対置されるのは、「人の善い行い」です。「主イエス・キリストの恵み」は(あたい)なしに、無償でわたしたちに与えられるものです。しかし、人の善い行いには時に、見返りが要求されます。それは金銭であったり、協力あるいは隷属(れいぞく)であったり、さまざまです。

一方、「主イエス・キリストの恵み」は、主を信じ従う者に、とこしえに「この方の満ちあふれる豊かさの中から」与え続けられます。他方、「人の善い行い」は永続するものではありません。時に、「善い行い」を実行している人が(おご)り高ぶって他人を見下すようになります。そうすると、「善い行い」から、ねたみや分裂が生じてしまうという結果に至ります。それは、わたしたちを「平和」への(いざな)う「主イエス・キリストの恵み」(Ⅱテモテ1:2)とは正反対です。

愛の大波のように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」が注ぎ入れられます。この()めどない「恵み」の源泉について、この方の満ちあふれる豊かさの中からであると明示されています。

この方とは、ヨハネが証ししている「イエス・キリスト」を指しています。「この方」は、不毛な人生にあえぎ苦しんでいた女に、次のように語りかけられました。

ヨハネ福音書4:14 主イエスはサマリアの女に答えて言われた――

しかし、わたしが与える水を飲む者は決して(かわ)かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

この方の満ちあふれる豊かさの中から、一人の女の内に「」が注ぎ入れられます。すると、彼女の身心は(うるお)わされて、「永遠の命」を得るという希望に生きる者に変えられます。それによって、昼下がりに、ヤコブの井戸から水がめで水を()むという日常生活(ヨハネ4:6,28)がもはや、砂を()むような味気ないものではなくなります。

サマリアの町で孤独だった女が、自分自身の「」から「冷たい水一杯」(マタイ10:42)を()んで、隣人に飲ませるようになりました(ヨハネ4:28-30)。もはや、ヤコブの井戸の共同使用のために、住民たちとの間で()()(ろう)することはなくなりました。なぜなら、その女は「この方の満ちあふれる豊かさ」に支えられて、信仰を持ち、日常の生活を(いとな)んでいるからです。

異邦人の女は、「わたしたちは皆」(ヨハネ1:16)の中の一人です。彼女もまた主の招きにより、イエス・キリストを証しする人々の群れに加えられました。

 

Ⅴ 父のふところにいる独り子である神                

ヨハネ福音書1:17-18――

17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである

(うん)(ちく)(ばなし)ではありませんが、創世記1:1初めに、神は天地を創造された」のように、「初めに」が冒頭に置かれているのは、新約聖書・27文書中、どの文書か、分かりますか? これを、ヨハネ福音書の説教中に聞くのも、わざとらしいのですが……。ハイ、初めに(ことば)があったという書き出しのヨハネ福音書(のみ)です

厳密に原語のレベルでも、創世記、ヨハネ福音書、それぞれの文書冒頭に、「ベレシート」(ヘブライ語)、「エン アルケー」(ギリシア語)というように、「初めに」… In the Beginning …が確認されます。

ヨハネ福音書記者は、「初めに」との鍵語によって、天地創造の初めにからヨハネの教会の「初め」へと架け渡そうとしています。つまり、新約の一文書であるヨハネ福音書は、イエス・キリストの降誕の時点から「初めに」を振り返っているということです。その点では、イエス・キリストは天地創造(初め)の前からおられた「まことの神」ですから、そのお方なる「まことの人」の「受肉」(ヨハネ福音書の初め)によって、二つの「初めに」はつなげられています。これぞ、プロローグが荘重である所以(ゆえん)です。

ここでは、旧約聖書を代弁するものとして、「モーセの律法」が挙げられています。ヨハネの教会にとって、「モーセの律法」はまさに「初めに」神が啓示したものにほかなりません。では、そのような理解のもとに、どんなことを訴えようとしているのでしょうか。

律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」……言い換えれば、これは、「律法はモーセを通して与えられた。そのような準備の上に恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」となります(熊澤義宣;参照 ローマ3:21)。

モーセの律法」は「やがて来る良いことの影」であったが(ヘブライ10:1)、それが今や、「10:1」現実のものとなっているということです。「やがて来る良いこと」こそが、「恵みと真理」でありました。

わたしたちは、主イエスによって、律法遵守の(くびき)から解放されましたローマ6:14、ガラテヤ4:5)。というのも、わたしたちの最も重要な務めは、「この方満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受ける」ことだからです。

これに加えてわたしたちには、「この方」、イエス・キリストから、その時々に守るべき「律法」が示されます(マタイ22:37-40)。これに伴って主イエスは、神の教えに従おうとするわたしたちに寄り添ってくださいます。

初めに(ことば)があった」との文で始められた神学的プロローグは、「イエス・キリスト」に焦点を合わせて閉じられます。

いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」……ここで、「神を見ることはできない」というモーセの時代から、「この方が神を示される」という新しい時代に移されます。

ただし、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、導かれた神の執り成しが無駄だったというわけではありません。「そのような準備の上に」、神からイエス・キリストがこの世に遣わされたということです。「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことによって、わたしたちは神の栄光を「見る」信仰者となりました。

父のふところにいる独り子である神」……御父と御子イエス・キリストとの親しき交わりが描き出されています。ここに、わたしたちの信仰の核心があります。というのも、御父と御子が一つになっておられる(ヨハネ17:22)ことが、わたしたちの信仰と日常の(いしずえ)となっているからです。そこでわたしたちは、神を信じ(たた)える礼拝において、一つとされるのです。

ふところ」というのは、御父と御子とが「いちばん近いところ」におられることを昭示しています。その親しき交わりの中に、と「満ちあふれる豊かさ」があります。そこから、わたしたちは、「恵みの上に、更に恵みを受ける」ことになります。それは、()めども尽きることのない、永遠の「恵み」であります。

 

結 

本日はご一緒に、ヨハネ福音書の神学的プロローグの終わりの部分を読みました。洗礼者ヨハネは、罪と(やまい)と死を恐れている人々のただ中で、「わたしの後から来る方」について証言しました。そして、人々に「まことの光」を待つという忍耐と希望を示しました。主キリストの前に、ヨハネの身心は衰えていきましたが、キリスト讃歌の中に、彼の不滅の(あか)しが残されました

このキリスト讃歌を通じて、クリスマスにお迎えする御子がどのようなお方であるか、見て、知って、そして、そのお方こそが救い主であると信じることができますようお祈りいたします。

 

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2024年 12月8日         

旧約聖書 イザヤ書 48章16節P.1141

新約聖書 ヨハネによる福音書 1章6節~8節P.163

説  教「ここに、光について証しする人、(あらわ)れり  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神から遣わされた一人の人がいた    

                                      ……ヨハネ1:6             

Ⅱ 今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした 

                                         ……イザヤ書48:16

Ⅲ 彼が光について証しをするために       

                                             ……ヨハネ1:7  

Ⅳ 彼は光ではなかった     

                                  ……ヨハネ1:8          

結 

 

待降節・アドベントの第二週に入りました。本主日からクリスマス礼拝まで、3週連続でヨハネ福音書1章から御言葉を取りつぎます。

冬至(1221日頃)が近づいて来ました。その日から夜より昼の時間が長くなっていきます。少しずつ朝の光がまぶしさを増していきます。心の闇を振り払って、「まことの光」(ヨハネ1:9)として世に来られる主イエス・キリストにお会いする準備をしましょう。主イエス・キリストを知ることによって、神への信仰が強められます。

 

Ⅰ 神から遣わされた一人の人がいた          

ヨハネ福音書1:6――             

神から遣わされた一人の人がいたその名はヨハネである。

ヨハネ福音書1:1-18は、神学的プロローグ(序文)で、主イエス・キリストの啓示を表しています。すぐれた讃美になっています。その流れを破るかのように、洗礼者ヨハネが登場します(1:6-8,15)。

この洗礼者「ヨハネ」は、ヨハネ福音書の著者ヨハネとは違います。彼は神から特別な使命を(さず)けられて、民のもとに遣わされましたヨハネユダの荒れ野に現れて、御言葉を宣べ伝えました(マルコ1:3-4)。それによって、多くの人々が、主イエス・キリストの啓示を現実のものとして受け止めました。つまり、神の大いなる歴史がこの世で、主イエス・キリストの言葉と行いによって押し進められました。

時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)というそのちょうどその時に、ヨハネは主イエス・キリストについて(あか)ししました。それが、神がヨハネに与えた使命でありました。(みち)(ぞな)えをする先駆者としての役割が「一人の人」、「その名はヨハネ」に託されました。

これまでユダヤの歴史上、大勢の預言者が殺されたように、ヨハネは、罪深い権力者の手によって殺されてしまいました(マルコ6:27-29)。彼は、主イエス・キリストを証しすることに徹して、殉教したのであります。「だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:29-30)とのヨハネの言葉は、信仰者の間で今も輝いています。

そのようにして、神に遣わされ、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、最後に罪人に惨殺(ざんさつ)されたヨハネはその全生涯をもって、主イエス・キリストについて証ししましたそれほどまでに、神の大いなる救いの計画を証する 的務めに徹し得たのは、ヨハネがイスラエルの聖なる預言者たちの系譜に連なっているからです。

 

Ⅱ 今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした 

イザヤ書48:16――

わたし〈主〉のもとに近づいて、聞くがよい。

わたし〈主〉は初めから、ひそかに語ったことはない。

事の起こるとき、わたし〈主〉は常にそこにいる

今、主である神はわたし〈預言者=第二イザヤ〉を遣わし

その霊を与えてくださった

第二イザヤが主の託宣(たくせん)を広めようとしたのは、紀元前6世紀(ちゅう)(よう)バビロン捕囚の時代でありました。異国での生活が30年、40年と長引いて、神礼拝が衰退し、民の間から希望が消え失せてゆきました。

そのように混沌とした世の中にもかかわらず、神の大いなる救いの計画が中止されることはありませんでした。なぜなら、「事の起こるとき、わたし〈主〉は常にそこにいる」を現すために、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」からです。言い換えれば、わたし〈主〉は常にそこにいる」という「わたし」の代理こそが、「わたし」なる第二イザヤなのです。

主の託宣を聞いてすぐに、「わたし」の問題、「わたし」の使命と受け止めたところに、預言者の従順さがうかがわれます。まさに召命の基本は、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との主の御声を聞いて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えることです(イザヤ書6:8)。

洗礼者ヨハネの活動との並行で興味深いのは、第二イザヤ自身が世の光(ヨハネ8:12)とはなっていないということです。聖書には、第二イザヤもヨハネも、「神が遣わした」人物と明言されています(イザヤ書48:16ヨハネ1:6)。しかし、両者共に、あくまでも御言葉の宣教が中心で、ひたすら世の光」として来たる解放者を指し示しました。

自分が前に出るのでは決してない、周りから抑圧や攻撃があっても、忍耐し、神の(しもべ)として使命を全うするのは、並大抵のことではありません。だからこそ、「今、主である神はわたしに 御自身の霊を与えてくださった」のです。その御自身の霊がいつも、第二イザヤに寄り添い、彼を慰め励まします。

さて、第二イザヤの伝えている主の託宣(たくせん)の内容を確かめましょう。

第二イザヤが預言した、来たるべき解放者とは、ペルシア王キュロスを指しています。イザヤには、なぜ神は異邦人を用いられるのか、という()(まど)いまたは不信はありませんでした。

そのことが、次の御言葉にも表されています。

イザヤ書48:14――

皆、集まって聞くがよい。

彼らのうちに、これを告げた者があろうか。

主の愛される者が、主の御旨をバビロンに行い

主の()(うで)となる人が、カルデア人に行うことを。

主の愛される者」または「主の()(うで)となる人」との呼称をもって、キュロスが示唆されています。主なる神が異邦人の王に油を注いで()し出すイザヤ書44:2845:1というのは、驚きです。そうして、キュロスはユダヤの民を()(しゅう)にしている「カルデア人」の国・「バビロン」に立ち向かいます。

キュロスはペルシア帝国(前547年-前330年)の創設者(在位:前559-529年)です。大多数のユダヤ人には、キュロスが「主の御旨」を実行して自分たちを解放すると言っても、にわかに信じられなかったことでしょう。

それ故に、神御自身の霊」による支えの中で、第二イザヤがたゆむことなく、キュロスについて証しするかどうか、が問われています。問題は山積しています。祖国への帰還の長い旅、都エルサレムの復興、そして都に残った者たちとの再結集など、人々からつぶやきが聞こえてきそうです。

そうした時に、前539年、キュロスによって「カルデア人」の国・「バビロン」は征服されました。バビロンと異なり、キュロスは被征服民に対し寛容であり、各民族の宗教や慣習を尊重しました。

第二イザヤは、ユダヤの民に、「わたし〈主〉のもとに近づいて、聞くがよい」と呼びかけました。というのも、キュロスについての証しが真実であり、それによって、神の言葉の力が発揮されたからです。

ヨハネ福音書では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」(1:23)との洗礼者ヨハネの宣教の第一声が昭示されています。「主の道をまっすぐにせよ」との命令はイザヤ書40:3からの引用です。ヨハネはまさに、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」という第二イザヤの系譜に連なる者として、世に現れました。

 

Ⅲ 彼が光について証しをするために                    

ヨハネ福音書1:7――  

彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。

ヨハネが神から派遣されたということに続いて、彼の使命が明示されます。その使命とは、ヨハネ自身は(くろ)()に徹して、その証しをもって「」なる主イエス・キリストを照らし出すということです。

その点ではヨハネは、一年で夜が最も長い時季に、その暗がりの中で、光の降誕祭が近づいているのを知らせるのに、最もふさわしい人物です。ヨハネは「声を張り上げて」(ヨハネ1:15)、主イエスについて証ししています。

ヨハネは主イエスに係わる出来事を目撃し(ヨハネ1:29,34)、それを人々に伝達することに集中していました。実はヨハネ福音書では、ヨハネは一度も「洗礼者」との称号をもって呼ばれてはいません(比較:マタイ3:1、マルコ1:4、ルカ7:20)。

確かにヨハネは民衆に洗礼を授けていましたが、それは「ヨルダン川の向こう側」だったと限定されています(ヨハネ1:28 他に3:23)。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)とのヨハネの主イエスに対する言葉にも、謙遜さがにじみ出ています。

彼が光について証しをするために」……この点に関しては、神学的プロローグ自体(ヨハネ1:1-18)がその方向性を指し示しています。つまり、序文において、主イエス・キリストが「」(同上1:4,5,7,8,9,14)としてこの世に遣わされたことが基調になっているからです。これに呼応して主イエスは後に、「わたしは世の光である」(同上8:12)と宣言されました。

その新しい啓示のただ中で、ヨハネは、主イエス・キリストのを身にまとっています。そこで、ヨハネは「光について証しをして」、喜びに満たされています。それが、彼の活動の源になっています。

また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」……これがヨハネに託された最大の使命でありました。罪と闇と死の陰に住んでいる「すべての人」が」によって照らされます。そうして、人々は「(ことば)」なる主イエス・キリストを「信じるようになる」のです。ヨハネの証しは間違いなく、人々に信仰が与えられる、その土台となります。

 

Ⅳ 彼は光ではなかった                 

ヨハネ福音書1:8――          

彼は光ではなく、光について証しをするために来た

彼は光ではなく」……ここでヨハネは、明確に留保を付けています(K.バルト)。自分の分を越えて過大評価してはならないということです。これは、自らへの戒めである以上に、「あなたは、どなたですか」(ヨハネ1:19)との問いに先んじて答えたものと言えましょう。

彼は光ではなく」、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ5:35 と、主イエスが証言されている通りです。「燃えて輝くともし火」なるヨハネは先駆者であり、彼の後に、「まことの光」(同上1:9)なる主イエス・キリストを遣わすというのが、神の大いなる救いの計画でありました。

わたしたちが暗闇から光の世界に招き入れられるとき、つかの間の「喜び楽しみ」に(まど)わされてはなりません。それでは、光の降誕祭にたどり着く前に、道をさ迷うことになります。ヨハネの証しこそが、その旅路を照らす「ともし火」となります。

 

結 

今回の結びとして、二度語られている「彼は光について証しをする」との言葉(ヨハネ1:7,8)について、少し深めてみましょう。

問題点は、どうして、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)とという二つのキリストについての証言が結びつくのか、ということです。すなわち、十字架にはりつけになったお方をどうして「」と呼べるのか、ということです。

そこで、わたしたちの信仰の面からその問題を考えてみましょう。実際、「すべての人が彼(=ヨハネの証し)によって信じるようになるため」との言葉の通り、それは最重要なことです。

まず前提となるのは、わたしたち・信仰者は、主イエス・キリストが「まことの光」であり、「世の罪を取り除く神の小羊」であると「信じている」ということです。その信仰について、次のように書かれています。

ヨハネの手紙 5:4-5――

4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。

ということは、十字架につけられて殺された主イエス・キリストを「信じる者」には、「世に打ち勝つ勝利」が与えられるということになります。

洗礼者ヨハネが神から「」に遣わされたとき、はサタンによってかき乱され、人々は罪と(やまい)と死におののいて暮らしていました。そこで、ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)ことを証言しました。彼は人々の高ぶりや(かたく)なさに屈することなく、証しし続けました。

そして、ヨハネによって道備えがなされた後に、御子イエス・キリストがに遣わされました。最後に、「」の権力者や偽善者は、主イエスを十字架刑にするとの審判を下しました。

そこで(くす)しくも、神の大いなる救いの計画が成し遂げられました。主イエス・キリストは十字架に死して復活されました。それによって、すべての人間の(ざい)()を滅ぼされ、「世に打ち勝たれました」。主イエスを信じる者に永遠の命が与えられることになりました(ヨハネ3:1517:2)。

以上が、十字架にはりつけになったお方をどうして「」と呼べるのか、という問いへの答えです。それが、十字架上の主イエスを見て、「まことの光」・「世の光」と呼ぶ(ヨハネ1:98:12)ことのできる理由です。

加えて、御父と御子が一つであるように、御子と一つとされている教会もまた(ヨハネ17:21-23)、「世に打ち勝つ勝利」にあずかっています。それはまさに、主イエス・キリストの恵みによることです。

ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫んで、主イエスが過越祭の準備の日(同上19:31)に十字架に上げられることを予告しました。十字架の死と復活を見通していたという点において、ヨハネの「光についての証し」(同上1:7,8)は信頼に価するものでありました。だからこそ、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(同上3:30)という苦難の道を歩み切ることができたのでしょう。

ヨハネの生涯を象徴するともし火は、(しょく)(だい)の上に置かれています(マルコ4:21)。まことの光がその「ともし火」を皓々(こうこう)と照らしています。アドベント・クランツのろうそくは、そのような「ともし火」を現しています。来たるクリスマスには、会堂いっぱいに、そして世の隅々にまで、「まことの光」が照り輝きますように

W

 

 

〈説教の要約〉

2024年 12月1日        日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

待降節 第1主日(降誕前第4主日)

旧約聖書 イザヤ書 7章10節~14節P.1071

新約聖書 マタイによる福音書 1章22節~25節(P.2

説  教「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ        ……イザヤ書7:10-11             

Ⅱ 主を(ため)すようなことはしない                 

                      ……イザヤ書7:12

Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか 

                     ……イザヤ書7:13  

Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む

                        ……イザヤ書7:14          

Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる    

                         ……マタイ1:22-25 

結 

 

12月に入り、教会の(こよみ)ではアドベント・待降節を迎えました。待降節とは、主イエス・キリストの降誕を待ち望む期間です。

そこで本日は、主イエスの降誕からおよそ700あまりさかのぼる預言者の言葉に耳を傾けることにしましょう。というのも、預言者イザヤはその当時の王とその民に、救い主の誕生を預言しているからです。

言い換えれば、ユダヤの民は700年の歳月を経て、預言どおりに救い主に出会うことになりました。その救い主こそ、神がこの世にお遣わしなった御子、イエス・キリストでありました。ユダヤ人のただ中で待望されたそのお方は、ユダヤ人の垣根を越えて、全世界の人々に喜びを告げ知らされました。

実際、主イエスは異邦人の間でも、病気の()やしや悪霊(ばら)いなど、救いの御業を行われました(マルコ3:7-125:1-207:24-30)。それらは(まさ)しく、時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)ということのしるしでありました。そのように主イエス・キリストは、暗闇を照らす世の光として到来されました(ヨハネ8:12)。

わたしたちは、突然光が暗闇に射し込んだというはじめの歓喜を自分のものとしなければなりません。それは、待降節を過ごす意義を回復するためであります。そのために、インマヌエル」預言の語られた暗黒の時代に立ち戻りましょう。それは、主イエスの降誕からおよそ700年前、現代からおよそ2700年以上前、南ユダ王国で起こった出来事です。どんな人物がその預言を聞いたのか、そしてどのような反応を示したのか、とても興味深いことでしょう。

 

Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ       

イザヤ書7:10-11――             

10 主は更にアハズに向かって言われた11 主なるあなたの神に、しるしを求めよ深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に。」

時と場合にもよりますが、王というものは(がい)して神の声を聞こうとしません。なぜなら、自分の声こそが神の声だと思うほどに、自分を誇り傲慢(ごうまん)になっているからです。

それが、動乱の世の中で、外国から圧力を受けているならば、なおさらです。どうにかして自分の身と財産を守りたい、あるいは、侵略を企てる列強の()(せい)(しゃ)なだめすかして撤退(てったい)させたいなどと案じて、おちおち夜も眠れません。ですから、王は神の言葉を伝える預言者に対し、しばしば横柄(おうへい)な態度をとってしまいます。

紀元前8世紀後半、南ユダ王国のアハズ(在位 744-729年)は、まさにそれにぴったり当てはまる人物でありました。「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあり」ました(列王記下16:2)。

当時の最強国は、メソポタミアのアッシリア帝国でありました。近隣諸国は、アッシリアと()(ぼく)して(ちょう)(こう)するか、それとも、反旗を(ひるがえ)すか、いずれかの道を選ばざるを得ませんでした。

そうこうするうちに733年、イスラエル王国(エフライム)とダマスコ(アラムが南ユダ王国を、反アッシリア同盟に組み入れようとして攻め込んで来ました。これに応じて前732年、アハズ王はアッシリアに助けを求めて贈り物を送りました(列王記下16:7-8)。これによって、難を(まぬか)れたものの、南ユダ王国はアッシリアの属国として扱われることになりました。

隣国に攻囲された時の、ユダヤ国内の様子がリアルに描かれています。

イザヤ書7:2――

しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。

こんなに心が弱くなっているのでは、とても一介(いっかい)の預言者の声に耳を傾けるはずなどない、と想像されることでしょう。イザヤがそんなアハズ王を(つか)まえて対話したのは、「布さらしの野に至る大通りに沿う、(かみ)貯水池からの水路(はず)」でありました(イザヤ書7:3)。というのも、王宮で預言者から(ちょう)(もん)するなど、そんな余裕はアハズには無かったからです。

神礼拝、時代情勢、いずれの点でも、暗黒の中にありました。そんな折も折、インマヌエル」預言が、一見ふさわしい聞き手とは思われない人物に向けて発せられました。このこともまた、御子イエスの降誕に不思議な形でつながっているのは、驚きです。

ルカ福音書2:8-9――

8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。

アハズ王とは違う人格を持つ人々ですが、「羊飼いたち」が夜の闇から呼び出されました。「主の栄光が周りを照ら」されて、乳飲み子を探し当てようと、町へと向かいました。

アハズ王にしても、また、「羊飼いたち」にしても本来ならば、聖なるインマヌエル」預言から遠い所に置かれているような人々です。しかし、神はその預言のはじめの傾聴者として、アハズを()し、そして、預言の成就目撃者また伝達者として「羊飼いたち」を呼び出されました。

およそ700年の歳月を越えて、人間の(かたく)なさを打ち砕いて、「神が我らと共におられる」とのメッセージを伝えるという神の御旨が貫かれています。現代においても、神は無知で無垢(むく)な人、自分本位な人、そして頑なな人をクリスマスに招いておられるのではないでしょうか。

主は更にアハズに向かって言われた」……先述通りの情勢で、アハズ王にとっては都エルサレムの防備が(きっ)(きん)の課題でありました。北イスラエル王国とダマスコの攻撃によって()(そん)した所がないか、調査したことでありましょう。案の定、アハズは「貯水池」や「水路」の見回りをしていました。

そこで、主から遣わされたイザヤは、アハズに主の言葉を取りつぎました。「主は更に言われた」(別訳:主は語り続けられた)というところに、神礼拝をおろそかにし、預言を聞き入れない者への忍耐強さが表れています。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府(よみ)の方に、あるいは高く天の方に」……今アハズが知らなければならないのは、神と人との親密な関係、すなわち、「見よ、あなたはそこにここにいます」(詩編139:8ということです。それは、アハズやイザヤの全存在が神の中に置かれているということです。

天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:8)という以上、「深く陰府の方」にも、あるいは、「高く天の方」にも、神の「しるし」が満ち満ちているのです。

たとえば、人が死の床について、死んで、そして人の側から見て、神との交わりが切れたように思われようとも、神御自身が「陰府に身を横たえて」、その人に御力を発揮してくださいます(Ⅰペトロ3:19)。そのようにして、神は「」でも「陰府」でも、人の心に思い浮かびもしなかったような奇跡を行われます。

主なる神は、アハズにインマヌエル」預言を伝達する前に、アハズから頑なさを取り除こうとされました。たとえ、この地上で八方(ふさ)がりになっても、人の心が開かれていれば、御言葉が(くだ)って来ます。

 

Ⅱ 主を(ため)すようなことはしない                  

イザヤ書7:12――

しかし、アハズは言った。

わたしは求めない。

主を(ため)すようなことはしない。

さてここで、アハズの(かたく)なさをつまびらかにしましょう。主に(そむ)く人間の本性が見出されます

まず指摘できるのは、アハズが憐れみ深い助言に全く耳を傾けていないということです。預言者イザヤの口を通して伝えられる主の命令に対し、悪知恵を働かして却下しようとしています。アハズ王の(しゃ)に構えた態度には(いきどお)りを感じます。

・主の命令「主なるあなたの神に、しるしを求めよ

・王の返答「わたしは求めない。主を(ため)ようなことはしない。

このように比較すれば、すれ違いが明確になります。

アハズは鍵語となる「しるし」という言葉を、わざと抜いています。「あなたの話は聞きません」との心理が見透(みす)かされます。直後に、前代未聞の「しるし」としてインマヌエル」預言が提示されるのですが、(さか)しらなアハズは巧みに話を()らそうとしています。イザヤの懇切(こんせつ)な助言に対し、「ゼロ回答」でけりを付けたい、そして、思うがままに我が道を()(ぱし)りたいということです。

もう一つ、()(そく)なのは、「しるしを求める」を「主を(ため)」にすり替えていることです。ここでアハズは、聖書を重んじる敬虔な王を演出しようとしています。後に、悪魔が主イエスを誘惑する(ルカ4:9-12)ために、部分的に聖句(詩編91:11-12)を引用しますが、アハズのずる賢さは悪魔と同等です。

アハズが援用したのは、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を(ため)してはならない」(申命記6:16)との律法です。これは、神の御心を問うことなく、一方的に神に自分の要求を押しつけるような不信仰を戒めているものです。しかし、先に比較したとおり、そもそも「主を試しなさい」などとは命じられていません。

イザヤは、「主なるあなたの神にしるしを求めよ」と言ったまでで、それがどのような「しるし」であるかは、「主なるあなたの神に」ゆだねなさい、という主旨なのです。そこには、「神の子なら、神殿の屋根の(はし)から飛び降りたら……」(ルカ4:9)というような命じる側からの押しつけはありません。

主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ書7:10)……アハズがしるし」、すなわち、神の大いなる奇跡を待ち望むように命じられています。国の内外の情勢が不穏な空気が(ただよ)っている中で、アハズは神に信頼を置くことができるのでしょうか。

「ゼロ回答」に逃げ込もうとするような人物に、権力と名誉においてこの世の中心に立つ人物に、神の御計画が明らかにされたのは、(まぎ)れもない真実であります。

 

Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか 

イザヤ書7:13――  

イザヤは言った。

ダビデの家よ聞け。

あなたたちは人間に

もどかしい思いをさせるだけでは足りず

わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか。」

これは、いよいよインマヌエル預言が啓示される、その直前のイザヤの言葉になります。イザヤは「わたしの神」の思いを()み取り、真剣に人々の態度を改めさせようとしています。

実はすでに、この言葉の内にインマヌエルの真意の一端がほのめかされています。すなわち、それは、アハズへの語りかけ(イザヤ書7:4,10)が「ダビデの家」への呼びかけに替わっている点にあります。ついでに言えば、アハズ王は「父祖ダビデ」の家系に属する者です(列王記下15:38)。

それでは、なぜ、「ダビデの家よ聞け」と言われているのでしょうか? それは単に、その当時の「ダビデの家」の皆さん、話を聞いてくださいね、というのではありません。そうではなく、これから啓示される預言において、「ダビデの家」が重要な役割を果たすということが示唆されているのです。

ダビデ」はユダ族に属します。その支配地域には、エルサレムやベツレヘムが含まれます(士師記17:7)。ここまで言えば、もう気づかれることでしょう、インマヌエル」預言、すなわち、主イエスの降誕を聴き取る際に、ダビデの家」についての知識は必須である、と。実際、新約聖書・冒頭には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と書かれています(「系図」の原意は「誕生・生成(せいせい)」です)。これはまことに、「ダビデの家」が傾聴すべき預言であり、その成就なのです。

あなたたちダビデの家人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」……イザヤはアハズの不信仰を見抜いたうえで、この世の出来事から神の思いを類推させようとしています。

アハズ王の時代において、ソロモンの建てた神殿に集う「ダビデの家」の人々は本来ならば、 的に清められていなければなりません。しかし実際は、ユダヤの民に「もどかしい思いをさせ」(=(わずら)わせていました。それは、原文に則せば「小さな・わずかな」過失であるが、「あなたたちがわたしの神をも、もどかしい思いをさせている」のは、大罪なのではないか、ということです。

人間」のみならず、「わたしの神」をも困惑させたことが、列王記下(16:2-4)には次のように、総括されています……「2 アハズは父祖ダビデと異なり、自分の神、主の目にかなう正しいことを行わなかった。3 彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の()むべき慣習に(なら)って、自分の子に火の中を通らせることさえした。4 彼は聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、(こう)をたいた」。

イザヤは、神と人とを(わずら)わせるような罪深い者に神の言葉を取りついでいます。突き放すだけでなく、寄り添う思いがなければ、全うできない重い責務であります。神がわたしの味方だとわたしは悟る」(詩編56:10)からこそ、耐えうるのでありましょう。

 

Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む      

イザヤ書7:14――          

それゆえ、わたしの主が御自ら

あなたたちにしるしを与えられる

見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み

その名をインマヌエルと呼ぶ。」

イザヤはダビデの子孫であるアハズに向けて、肉によれば「ダビデの子孫」から生まれる「インマヌエル」の預言を告げました(ローマ1:3、ヨハネ7:42)。それは、「主は救い」という名のイザヤから「主は()らえた」という名のアハズに伝達されました。ここに、罪深い者に、救い主の誕生を告げ知らせるという神の憐れみが認められます。

およそ700年前の、聖別された人と罪深い人との出会いにおいて、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)という将来が見通されていたのです。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子は、アハズに代表される人間の破った関係を修復するために、この世に(くだ)って来てくださったのです。

それでは、インマヌエル」預言そのものの注目点を説き明かしましょう。

イザヤが「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と前置きしたうえで、ここで昭示したのは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」という「しるし」でありました。寸前に「求めよ」と命じておきながら、「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えるであろう」と確約されています。これぞ、神の一方的な憐れみにほかなりません。

それゆえ(ヘブライ語:ラヘンは切れ味鋭い句なので、聞き逃さないようにしましょう。この導入句によって、全世界に向けて「インマヌエル」預言が告げ知らされています。

つまり、アハズ王と「ダビデの家」において、聖書を(わい)(きょく)して援用し、弱く貧しい隣人を(しいた)げ、神と人とをうんざりさせているのを見たそれゆえ、わたしの主が御自ら……」ということなのです

それゆえ」によって、イザヤの口を通じて神の断固たる決意が表されました。もはやイザヤは、 を注がれて「わたしの」と叫び、神と一つになっています。

内容的には、「見よ」(ヘブライ語:ヒネー)以下に、注目すべし、となっています。

おとめが身ごもって女性形の動詞①)、男の子を産み同上②)その名をインマヌエルと呼ぶ同上③)」……神は、おとめ」すなわち「若い女」に目を留められています。出産という人間的・日常的な(いとな)みの内に、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)との啓示が宿されています。

このようなインマヌエル」預言が、「主のはしため」・マリア(ルカ1:48)を通して成就するのを確かめましょう。

 

Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる              

マタイ1:22-25―― 

22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。

23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。

その名はインマヌエルと呼ばれる。」

この名は、神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。

 およそ700年の(へだ)たりを経て、「ダビデの家系」に沿って、アハズ王からマリアの夫ヨセフへとインマヌエル」預言が受け継がれました。それが、神を畏れる「正しい人」(マタイ1:19)に伝達されたのは、預言の成就が間近であるという(きざ)しでありました。

ヨセフは「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れて」、その預言の成就を待ちました。それと軌を(いつ)にして、天使ガブリエルがマリアに、「あなた(=おとめが身ごもって女性形の動詞①)、男の子を産む同上②)」(ルカ1:31=イザヤ書7:14)との御告げを受けました。若い夫婦の熱愛を(こと)()ぐかのように、「その名をインマヌエルと呼ぶ同上③)」ことは、父親となるヨセフに伝達されました(マタイ1:23)。

ヨセフとマリア、これぞまさに、神の召し出された、インマヌエル」預言の受領者であります。こうして、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:6-7)ということで、預言は成し遂げられました。

 

結 

最後に、「神は我々と共におられる」とのメッセージが今、どんなことをわたしたち・キリスト者に教えているのか、(とら)えることにしましょう。

確かに、「インマヌエル」預言は、主イエス・キリストが受肉され遣わされることによって成就しました。しかし、この預言の全容(ぜんよう)を知るためには、主イエス・キリストが十字架につけられて死に、三日後によみがえらされるのを待たねばなりませんでした(R.H. フラー)

マタイ28:16,20――

16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。……

20 イエスは、近寄って来て言われた。「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」

これは、復活された主イエスが祝福をもって弟子たちを派遣する場面です。弟子たちは神の御計画のもとに、人間は罪と死に打ち勝てるものではないということを悟らされました。主イエスは、そのように打ち砕かれてしまった弟子たちに、神は我々と共におられるとの信仰を堅く(いだ)き続けるように導いておられます。

主イエス・キリストの十字架によって人間の罪の汚れは清められました。そして、主イエス・キリストの復活によって、人間の死のとげは滅ぼされました。このようにして、ひと(たび)、主イエスに背を向け、ばらばらになっていた弟子たちが一つにされました。

特筆すべきは、彼らの信仰の土台に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主イエス・キリストの宣言が()えられたことです。弟子たちは、勝利者・イエス・キリストによって、インマヌエル」預言の恵み豊かさを教えられました。

世の終わりまで、いつも」との言葉は、イザヤやアハズの知り得なかったもので、新しい啓示であります。主イエスは御父のもとに帰られても、すぐにわたしたちの慰め主として聖霊なる神を送ってくださいます。そのようにして、神は我々と共におられる」との御言葉はさらに力強いものとされました。

 

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〈説教の要約〉

2024年 11月24日       

旧約聖書 箴言 16章1節~9節P.1011

新約聖書 使徒言行録 16章10節(P.245

説  教「主は人の歩みを堅くされる」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 主は人間の精神を(はか)られる       ……箴言16:1-3             

Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである              ……箴言16:4-7

Ⅲ 正義に(かな)(わず)かなものの方が善い                    ……箴言16:8  

Ⅳ 主は人の歩みを堅くされる                 ……箴言16:9          

Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした  ……使徒言行録16:10 

結 

 

キリスト者は、自分の人生が主の御心によって変えられ整えられていくのを願っています。しかししばしば、人の思う計画と、その人に神の用意しておられる計画との間に葛藤が起こります。

たとえば、自分の願いが強過ぎて、神の御旨に思いが及ばないこと、あるいは、人生に挫折して、神の計画に信頼が置けなくなることが、神と人との間に溝を造り出します。

人生には山もあれば谷もあります。そこで大事なのは、人間の歩む道が神の計画に従って固められてゆくことです。逆に言えば、主の御心に(そむ)いて迷い出ないことです(マタイ18:12)。人生上の分岐点で、どちらに行けばよいのか、迷うこともあるでしょう。また、確信が持てるまで、その場に(とど)まっていようとするかも知れません。

一つの失敗は決して最終的な失敗ではありません。今つまずいているからと言って、「神の国」を目指す旅路を見失わないことです。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)という御言葉があります。神からの「御計画」を受け容れられるように、自分の心を(ひろ)げ柔らかくしておきましょう。

 

Ⅰ 主は人間の精神を(はか)られる                

箴言16:1-3――             

1 人間は心構えをする

主が舌に答えるべきことを与えてくださる

2 人間の道は自分の目に清く見える

主はその精神を調べられる

3 あなたの(わざ)を主にゆだねれば

計らうことは固く立つ

箴言のこの箇所では特に、 的に深い人間観察がなされています。その理由の一つは、箴言16:1-9に連続して、」(ヤハウェが登場している(ただし:8には無い)ということにあります。すなわち、人の思いを超えたところにある神の計画や御旨に立脚して、信仰者が人生上、学ぶべきことが並べられています。

このように大所(たいしょ)高所(こうしょ)の視点から、自分の人生を(とら)えられれば、日々の一歩一歩も揺るぎないものとなるでしょう。そこで、三つの節で何が()かれているのか、見てみましょう。

まず気づくのは、人間は心構えをするしかし人間の道自分の目に清く見える」ことに(あや)うさがあると、人間が洞察されていることです。

言い換えれば、人間はさまざまな(くわだ)てをする、しかし、人間の持つ罪性、高ぶり・ねたみ・争い等によって、「人間の道」はいわば「白く塗った墓」になっているということです。つまり、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる(けが)れで満ちている」(マタイ23:27)のです。

本来、人間の「心構え」は、罪を繰り返さないこと、そして、神に立ち帰ることに向けるべきものです。しかしその「心構え」や企ては、自らの名誉心や幸福欲を満たすことを優先しています。それが、「自分の目に清く見える」以上、欲望の充足に歯止めがかけられません。自分では良いことをしていると思い込んでいるのですから。

それ故に、信仰的に大所(たいしょ)高所(こうしょ)から語られているのは、「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」または「主はその精神を調べられる」ということです。

冒頭で強調されているのは、ヤハウェ)と人間アダム)との関係において、から人間を基軸にしなさい、ということです。その強固な主従関係を差し置いて、「人間」が自分の計画を()()え良くして、人からの賛同を得ようとするのは、本末転倒です。

神の目には隠れているからと言い逃れようとする人に、「主はその精神を調べられる」と警告されています。仮に、今神が見過ごされているように思われても、終わりの日には、「人間の精神」の中身、その善と悪とが精算されます。神の正しい(はかり)によって、この世で()した(つみ)(とが)すべてが量られます。

では、どうすればよいのでしょうか? 「あなたの(わざ)主にゆだねれば 計らうことは固く立つ」というのが、その答えです。

あなたが の導きにより「心構えをし」、そして「あなたの(わざ)」に取りかかるとき、そのこと全体を「主にゆだねなさい」と言うのです。詩編詩人も、「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる」(55:23)と告げています。

それが、から人間を基軸とするということです。「あなたの重荷」を「」にあずけましょう。もしも、「人間」関係に(ふん)(きゅう)して打つ手が無くなるようなときにも、「主が舌に答えるべきことを与えてくださいます」。

忍耐して待たねばならない時もあります。しかし、「計らうことは固く立つ」のですから、動揺することはありません。

 

Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである         

箴言16:4-7――

4 主は()(むね)にそってすべての事をされる。

逆らう者をも災いの日のために造られる

5 すべて高慢な心を主はいとわれる。

子孫は罪なしとされることはない。(新共同訳)

6 慈しみとまことは罪を(あがな)

主を(おそ)れれば悪を避けることができる

7 主に喜ばれる道を歩む人

主はと和解させてくださる

ここでは、「主はその精神を調べられる」との観点から、信仰生活を(さまた)げる諸問題がえぐり出されています。「逆らう者をも災いの日のために」から始まって、高慢な心、「」、「」、「」へと巡っていきます。わたしたちに求められているのは、「人間が心構えをする」ときに、これらの「災い」への「心構え」を(おこた)るなということです。

人間が の導きによって計画や企てを造り上げるのに、時間がかかることもあります。先を急いではなりません。なぜなら、主が、「計らうこと(=あなたの計画・考えは固く立つであろう」(箴言16:3)と約束してくださっているのですから。

ただしそれは、「人の道」(箴言16:7)が自分の思い通りになるということではありません。たとえば、「逆らう者」が道を(ふさ)いで、あなたの人生を「災いの日」の暗雲で(おお)うことがありますしかしここで忘れてはならないのは、主なる神が「逆らう者をも災いの日のために造られる」ということです。苦難を見た哀歌詩人が「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(3:38)と述べています。

人生に波風が立つことを踏まえつつ、から人間という基軸がますます明らかにされます。それが、主なる神が「慈しみとまことをもって自分の罪を(あがな)」こと、そして、「主は敵なる自分と和解させてくださる」ことです。自分こそが「高慢な心」を持ち、「逆らう者」であると告白して、「」の御前に出ることです。

 

Ⅲ 正義に(かな)(わず)かなものの方が善い                   

箴言16:8――  

(かせ)ぎが多くても正義に反するよりは

(わず)かなもので恵みの(わざ)をする方が幸い

この詩行は例外的に、「」(ヤハウェ)が出てきません。しかしこの箴言には、「から人間という基軸が日常生活に浸透するように、との願いが込められています。

日常において実践されるのが求められている、この文の骨格は、多くのよりも(わず)かなの方が幸いとなっています。この逆転の発想こそが、神の知恵なのです。

 一般に正しく思える前提と理論に反する言説を、パラドックス(逆説)と言います。たとえば、「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)との山上の説教の一節は、主イエスの語られた一種のパラドックスだと言えます。このように信仰の世界では、何が「幸い」なのかを物語る、人知を超えたパラドックスに注目することです。

詩編84:11―― 

あなたの庭で過ごす一日は

千日にまさる恵みです。

主に逆らう者の天幕で長らえるよりは

わたしの神の家の門口(かどぐち)に立っているのを選びます。

前半を直訳すると、「千日よりもあなたの庭で過ごす一日の方が幸いである」となります。その意味は、無為(むい)に千日を送っている人よりもあなたの庭で過ごす一日」を持っている人の方が良いということです。なぜなら、この「一日の中に人生全体の「幸い」が凝縮しているからです。その「一日の幸い」によって試練を耐え忍ぶ人は、永遠の命に導かれる(ヤコブ1:12)という点でも、「千日」の長さを超越しています。

この「あなたの庭で過ごす一日」には、「わたしの神の家の門口(かどぐち)に立っている」とのヒントが与えられています。ただし具体的に、ユダヤ人にとっての三大祭((すぎ)(こし)祭・(なな)(しゅう)祭・仮庵(かりいお)祭)のような日なのか、巡礼者が都にたどり着いた日なのか、それとも、神の臨在に触れた日なのか、は不明です。いずれにしても、これまでの人生が真っ暗闇だったという人々もまた、この一日の方が幸い」という大逆転に招かれているのです。

この世の論理や慣習を打ち破って、「多くのよりも(わず)かなの方が幸い」というパラドックスを成り立たせているのが、ヤハウェ)なる神であります。「正義に反する」ことなく、「恵みの(わざ)をする」人は、生涯の中でこの「一日」、唯一無二の日を獲得するに違いありません。というのも、「」がその人を顧みて、神の栄光を仰ぐ日を造られるからです。

 

Ⅳ 主は人の歩みを堅くされる                 

箴言16:9――  

人間の心は自分の道を計画する

主が一歩一歩を備えてくださる

この段落の(ちょう)()を飾るにふさわしい箴言です。「人間アダムと「」(ヤハウェ)とが登場して、から人間という基軸が再現されています。同時に、「人の道」(箴言16:2,7,9)との鍵語によって、人生のガイドラインが示されています。

では、「人間アダムは自らの道について何を理解していようか」(箴言20:24)との問いかけをもって始めましょう。

人の道」は言うまでもなく、無くてはならず大切なものです。それは、「人間アダム)」が()(きわ)めよう・理解しようとして、「自分の道を計画する」ところに現れています。

それならば、「自分の道を計画する」は「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)と同一視されるのでしょうか? この箴言は単に、「自分の道を計画する」ことを奨励しているのでしょうか?

断じてそうではありません。それだと、「から人間ということにはなりません。「人の道」において最重要なのは、「人の一歩一歩を備えてくださる」ということです。その「」への信頼に基づいて、「自分の道を計画する」ことに取りかかるのです。

この箴言において、「あなたの(わざ)を主にゆだねれば あなたの計らうこと計画固く立つであろう」(16:3)との神の約束がなされました。あなたは、「主が一歩一歩を備え、固く立てられる」という道を行きますか、問われています。それは確かに、ただ一つの道であります。

或る人は、自分の道でつまずき倒れて、主の備えられた道にたどり着きます。また、他の人は、(わき)()も振らずに「自分の道」を突っ走ろうとしています。全く対照的な人の生涯です。

」なる神は、そのような人々の入り交じるただ中に、御子、イエス・キリストを遣わされました。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。

こうして人々は、ただ一つの道を見出せるようになりました。詩編詩人は、「あなたの道を主にまかせよ」(37:5)、あなたはその道をごろごろと転がっていきなさい、と勧めました。

今や、「あなたの道」・「人の道」は、「わたしは道である」という主イエス・キリストと交わりました。主イエスが愛と正義をもって、「(人の一歩一歩を備えてくださいます」。

最後にそのようにして、広く地中海圏に足跡を残したパウロの人生の一場面を見てみることにしましょう。

 

Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした 

使徒言行録16:10―― 

パウロがこの(まぼろし)を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。

マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。

結論的に言えば、パウロの第二回目の伝道旅行中、この場面で箴言16:9の預言が鮮やかに成就します。すなわち、パウロは身をもって、「人間の心は自分の道を計画するが、しかし、主が人の一歩一歩を備えてくださるであろう」(直訳)との御言葉を体験することになりました。この「しかし」の一句に象徴される神の御心の偉大さと神秘とを知らしめられたのです。

パウロは今、小アジア西端の港町トロアスに下って来たところでありました。しばらくぶりに地中海の海原を見て、パウロは何を想っていたのでしょうか。

この直前にパウロは、アジア州やミシア地方で御言葉を語ることが、聖霊またはイエスの霊によって(はば)まれるという経験をしています(使徒16:6-7)。(しょう)(しん)のパウロにとって、眼前の大海は障壁を意味していたのでありましょうか。ここで撤退(てったい)してイスラエルに帰るというのも、一案だったでしょう。伝道はまさに瀬戸際にありました。

使徒言行録16:9――

そしてその夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。

そしてその夜、幻がパウロに現れた」(直訳)ということです。神の()(むね)」により、「一人のマケドニア人」の口を通じて開示されました。小アジアで行き詰まった伝道に対し、「そして」と共に、次への転回が起こされました。問題は、この出来事を上からの啓示として、パウロが 的に受け止められるかどうかです。

この第二回目の伝道旅行は、「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(使徒15:40)との証言をもって始められました。パウロは「主の恵みにゆだねられて」との言葉の重さを知る人でありました。その(した)()には、「あなたの(わざ)を主にゆだねれば 計らうことあなたの計画は固く立つであろう」(箴言16:3)との御言葉を、教師ガマリエルから学んでいた(使徒22:3)ということがあったかも知れません。

パウロは「主の恵み」のうちに、「すぐにマケドニアへ向けて出発することにしました」。まことに、「人の道」はさまざまですが、パウロたち一行は海上の道を進むことなりました。それは単なる海路ではなく、キリスト教が初めてヨーロッパで宣べ伝えられる、その(しゅっ)(たつ)の道でありました。何よりも、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」ということが原動力でありました。

この箇所が初出となる「わたしたち」(一人称複数・主格)の中に、パウロの喜びが表されています。瀬戸際に追い込まれた一行はここで、「わたしたち」として一つになりました。というのも、「神の召し」において、パウロたちは神に結び合わされ、互いに「兄弟」と呼びようになったからです(Ⅱコリント1:12:13)。その点で、トロアス港を出航した船内に、小さいながらも一つの教会ができていたのであります。

 

2024年も残り一ヵ月ばかりとなりました。皆さんにとって、この一年の歩みはどのようなものだったでしょうか。自分が(くわだ)てて進んで来た道は、神の計画に従って固められたでしょうか。新しい年の「わたしたちの道」が主によって「一歩一歩を備えられる」ようお祈りしましょう。

 

 

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〈説教の要約〉

2024年 11月17日      

旧約聖書 ダニエル書 7章15節~22節(P.1393

新約聖書 コリントの信徒への手紙 6章1節~8節P.305

説  教「兄弟を仲裁できるような知恵のある者はいないのか」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか      

                     ……Ⅰコリント6:1             

Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです                    

                    ……Ⅰコリント6:2-4

Ⅲ 兄弟が兄弟を訴えるのですか                      

                    ……Ⅰコリント6:5-6

Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです      

                    ……Ⅰコリント6:7-8           

Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利 

                  ……ダニエル書7:15-22

 

今、パウロは新しく誕生した諸教会においてキリスト教倫理を打ち建てようとしています。そ 的な作業は、観念的・()(べん)的に立案するというよりも、具体的な事例を検証しながら慎重に進められました。

例えば、コリント教会にみだらな行いが生じた時にも、パウロはすぐに介入し助言を送りました。そして、教会内に、間違った性的自由が(しの)まないよう戒めました(Ⅰコリント5:2-3,12)。

パウロは、個別の事例をつまびらかにし、罪を犯した人に寄り添っています。同時に、「みだらな行い」への対応に示されている通り、パウロは広い観点に立ち、過越祭(=主日礼拝)、最後の審判、そして神の国など(Ⅰコリント5:5,86:9)、キリスト教の基本をしっかりと踏まえています。その上で、ひとりの人が犯した罪について問題解決を(こころ)みています。

それは、倫理または道徳を()く者の姿勢として極めて健全であります。というのも、悪事を為した人を裁こうとして感情的になったり、また、自分が「教えてあげる」というように高慢になることがあるからですそうではなくわたしたちには、神の国に向かって歩んでいるキリスト者として、つまずき倒れている人々の隣人となることが求められています。

それ故に、信仰の成熟した牧会者パウロが、どのようにキリスト教倫理を築き上げていったのか、が注目されます。そのような中に、パウロがささいな事件(Ⅰコリント6:2と呼んでいる争いが起こります。それは実際に災いなのですが、そこに、キリスト教倫理がより綿密化されるという幸いがもたらされます。

その案件は、「日常の生活にかかわる争い」(Ⅰコリント6:4)とも呼ばれています。皆さんはおそらく、どうして深刻かつ複雑でない出来事のために大騒ぎするのか、と思われることでしょう。しかし自分の周りを見わたせばすぐに分かるように、しばしばささいな事件がこじれ、多くの人が巻き込まれて解決不能になることがあります。

ここで「ささいな事件」が(ふん)(きゅう)してしまった一因は、その事件を「裁いた」人にある、とパウロは主張しています。確かに、「教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせた」(Ⅰコリント6:4)のであれば、「火に油を注ぐ」ようなものです。そうではなく当然、「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」(同上6:5)が裁きの席につくべきであります。

パウロはこの手紙で、「仲裁できる」人として的確な忠告をしています。これは単に、「教会内の(うと)んじられている人たち」や「信仰のない人々」(Ⅰコリント6:6)を訓誡(くんかい)したり排除したりして済むものではありません。

むしろ、「聖なる者たち」(Ⅰコリント6:1,2)と称呼されている、コリント教会に属するすべての人が真剣に(かか)わらなければなりません。「ささいな事件」を見て見ぬふりをせずに、皆が「裁く」(ギリシア語:クリノー 同上6:1,2,2,3,6)ことに関心を寄せるように、パウロは訴えています。

裁く」との用語が繰り返され、この段落の鍵語になっています。どのような文脈で「裁く」が出てくるのか、調べてみましょう。その前に、付け加えれば、キリスト者が「裁く」場合、それは、正しく(はか)」・「判断することとほぼ同意だということです。

主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさいあなたがたは自分の量る(はかり)で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る(はかり)」を持っていることが示されています。その「」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。

絵画的描写になりますが、自分の量る(はかり)は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々(こうこう)と照らされています(マルコ4:21)。その上、自分の量る(はかり)には元来、注意深く「聞く耳が付いています(同上4:31)。

以上、「裁く」と(はか)」・「判断する」との関連が密接であることを確認しました。では、わたしたち各々、「自分の量る(はかり)」を持って、コリント教会の「日常の生活にかかわる争い」に向き合うことにしましょう。

 

Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか      

コリントの信徒への手紙 6:1――             

あなたがたの間で一人が仲間の者と争いを起こしたとき聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。

新共同訳から読み取りにくいのですが、「(争いを起こし訴え出る」の部分に「裁く」が使われています。要するに、「一人が仲間の者と争って」、「裁き」(裁判)を行う場合に、どうして、それを聖なる者たちではなく、「正しくない人々」にゆだねるのか、ということです。

多分、少なからぬ人に、言語明瞭、意味不明の状態でしょうか。そこで初めに、「あなたがたの間で」(Ⅰコリント5:16:1)、「聖なる者たち」、そして「正しくない人々」という人物について説明します。

あなたがたの間」という「あなたがた」は、コリント教会の兄弟姉妹全員を指しています。パウロは「あなたがたの間」の情報を、手紙のやり取りや巡回伝道者の口を通して得ています。パウロがやや筆を慎重に進めているのは、そのためです。今遠隔地にいるパウロは、事件の当事者と直接話をしたわけではありません。

また、わたしたちと「あなたがたには、実際の相互関係が暗示されています。すなわち、コリント教会の土台を据え、それを建てついだ「わたしたち」(パウロやアポロ)は、「あなたがた」、コリント教会の人々が「キリストの体」なる神の聖なる神殿を建てていくのを見守っているということです。そのことを背景に、ここでは、「わたしたち」が「あなたがた」を(しっ)(せき)しているという意味合いが込められています。

次に、急に飛び出してきたような「聖なる者たち」について説き明かします。これは、キリスト教倫理を構築していく上での重要な用語です。

この段落は、間違った裁判沙汰(ざた)によって教会がかき乱されないように、といういわば緊急事態に置かれています。従ってここでは、主イエス・キリストの十字架と復活という福音的なメッセージは詳述されていません。しかし、この「聖なる者たち」は、主イエス・キリストの救いの御業と固く結び合わされています。

パウロは、この段落で「教会の中で、争いが起きたときに、どうすればよいか」との問題を取り上げた直後に、結びとして次のように述べています。

コリントの信徒への手紙 6:11――

あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。

「(あなたがたは聖なる者とされた」と「聖なる者たち」とは同じ語源から派生した言葉です。

キリスト者とは一体、どのような人かと言えば、「洗われ聖なる者とされ、義とされた」人との定義をもって答えられます。言い換えれば、主イエスに救われて、悔い改め、その生活の上に大転換が起こった、そのような信仰者であるということです。そのように「あなたがた」がひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、パウロは明示しています。

このように、「聖なる者たち」について福音的な理解がなされるならば、正しくない人々の正体があぶり出されます。

正しくない人々はまず、コリント教会を取り巻いていた世間の一部の人々を指すと言えるでしょう。パウロは、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たち(Ⅰコリント5:10から信仰者が受ける悪影響を心配しています。

しかし、この文脈では、「正しくない人々」というのは、「兄弟と呼ばれる人」、つまり、教会の「内部の人々」(Ⅰコリント5:10,12)を昭示しています。そのことは、「それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(同上6:4)との一文から明らかです。彼らはきっと「王様になって」(Ⅰコリント4:8)、裁きの座についていたのでありましょう。

パウロの豊富な語彙(ごい)において、正しくない人々」については、さまざまな形で言及されました。思い起こしてみましょう。「自然の人」、「肉の人」、信仰の未熟な乳飲み子、「木、草、わらで家を建てる」人など、まことに辛辣(しんらつ)な言葉が並んでいます(Ⅰコリント2:143:1,2,12)。

正しくない人々のいちばんの問題は、ひと(たび)洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めないということでありました。その結果、彼らは「何でも許されている」(Ⅰコリント6:12)と錯覚(さっかく)、キリスト者の自由を()き違えて、みだらな行い」や「裁判ざた」を起こして、コリント教会を混乱させました。

残念ながら、救われたという確信のない正しくない人々」が教会内で、どんな振る舞いをするか、十全には予測できません。実にコリント教会では、「ささいな事件」を裁く「裁判官の席」(Ⅰコリント6:2,4)が彼らの一人に乗っ取られてしまいました。

このように見てくるならば、「聖なる者たち」との一語に込められた重みが、ご理解いただけるでしょう。コリント教会の人々よ、あなたがたの大部分は聖なる者たちなのではないですか、「あなたがた」が立ち上がるのに、遅いということはありません、とのパウロの肉声が聞こえてきそうです。

冒頭に続いて次節でも、パウロは聖なる者たちとの用語を前面に押し立てています。

 

Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです                    

コリントの信徒への手紙 6:2-4――

2 あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか3 わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。

パウロは(しゅう)()疑問文(①~④)によって、自分の言いたいことを強調しようとしています。(もっ)()日常の生活にかかわる争いが起こっている」状況ですから、()(ぜん)たる態度のうちに柔和さをもって語りかけています。

①「あなたがたは知らないのですか」(他にⅠコリント3:16)……パウロは、「あなたがたはを知らないのですか」と問いかけています。「はい、わたしたちは既に“霊”に教えられて知っています」との答えが期待されています。まさに、信仰の未熟な「乳飲み子」を(さと)すような丁寧な言い方です。パウロは信徒知っている」ことから議論を展開しようとしています。

そしてただちに、聖なる者たちが世を裁くのです」と中心の論点が提示されます。これを聞いて、パウロはキリスト者の裁き」(裁判)を当然のこととしているのか、と誤解してはなりません。

パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」(Ⅰコリント6:7)という箇所で、「裁き」(裁判)に抑制をかける主旨の発言をしています。しかしわたしは、「聖なる者たちが世を裁くのです」というのは真理であり、キリスト教倫理を支えるものだと考えます。

その理由は先に述べた通り、「裁く」との用語が「(はか)」・「判断する」との意味を包括しているからです。わたしたちが「自分の量る(はかり)」を活用してはじめて、「地の塩、世の光」(マタイ5:13-14)として自分を証しすることができるのではないでしょうか。

要するに、「ささいな事件」や「日常の生活にかかわる争い」がこじれてしまったときに、「聖なる者たち」が当事者(罪を犯した人)に寄り添い、証人を()んで、「裁き」の座を設ければよいのです。

論点の中心・「聖なる者たちが世を裁くのです」に戻りましょう。

キリスト教倫理の確立された「教会」(Ⅰコリント6:7)は世のともし火となって暗闇を照らしています。そこで、この世の中には、聖なる者たちの清い暮らしぶりを見て、自らを省みる者が現れることでしょう。あるいは、「自分が裁かれている」ような恐れを(いだ)く人もいるかも知れません。

③「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」……この一文から、パウロが広い観点に立って、つまり、終わりの時を見据(みす)えて議論していることが分かります。

ささいな事件」の「裁きとなると、人間は目先の利益に捕らわれることがあります。感情的になって過激な発言をすることもあります。

しかし、パウロはささいな事件」の「裁きを、将来開廷される最後の審判と並行させて考えようとしています。根底になっているのは、あなたがた・聖なる者たちは「天使たち」よりも上に置かれているという思想です(R.B. ヘイズ)。この考え方は聖書に類例が見られませんが、一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです(Ⅰコリント3:22-23)との(しょう)(えい)が理解のヒントになるはずです

この頌栄では最後に、キリスト」ととが登場しています。つまり、あなたがたは創造主であり支配者である「」につながれています。「死も、命も、天使も、支配するものも …… 他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)というのが、キリスト」・「」と「あなたがたとの愛の交わりの基本です。

主イエスに救われている今、それほどに固い絆によって、キリスト」・「あなたがたは結ばれています。なお、その上に聖霊による励ましがあります。従って、「あなたがた」が最後の審判で裁かれた後に、「裁き」の座についている……天使たちさえ裁く者だ……とのパウロの見通しは 的な判断であるに違いありません。

相手を打ち負かそうと、邪悪な思いで、ささいな事件」の「裁きを行ってはなりません。それでは、最後の審判において与えられている陪審(ばいしん)の栄誉が(よご)されてしまいます。日常の生活にかかわる争いだからこそ、神の大いなる救いの計画を(あお)ぎ、困難に(おちい)っている兄弟姉妹の行く末を見守りましょう。最後の最後まであきらめることはありません。あなたがた」には「聖なる者たち」としての永遠の栄誉と責務があります。

 

Ⅲ 兄弟が兄弟を訴えるのですか                      

コリントの信徒への手紙 6:5-6――

5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。

ささいな事件に係わる論議の終結に向けて、パウロは「兄弟」という用語を多用しています(Ⅰコリント6:5,6,6,8)。親愛の情をもって「兄弟たちよ」(同上1:104:6)と、コリント教会の兄弟姉妹に呼びかけています。

パウロ自身の中で、日常の生活にかかわる争いを解決する信仰基盤が次第に鮮明になってゆくにつれて、兄弟姉妹が(つど)うコリント教会全体見わたせるようになりました。その上でパウロは、「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」と厳しく問いかけています。

知恵のある者もまた、パウロ特愛の鍵語です。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって熟練した(=知恵のある建築家のように土台を()えました」(Ⅰコリント3:10)と自己紹介しています。パウロの言う知恵のある者はへりくだり、一心に「十字架の言葉」に依り頼んでいます(同上1:18)。

パウロは、この世の知恵を収集することではなく、 によって教えられることを重んじています(Ⅰコリント2:13)。そのような知恵のある者」が「霊によって判断する」(同上2:14)からこそ、ささいな事件」の「裁きは信頼できるものとなるのです。

コリント教会内に、「兄弟が兄弟を訴える」ことが起こっています。これでは、信仰のない人々への(あか)しになりません。「信仰のない人々」への福音宣教が(とどこお)ってしまいます。

 

Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです      

コリントの信徒への手紙 6:7-8――           

7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けですなぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。

前のでは、パウロは兄弟姉妹の(つど)うコリント教会全体を見わたしながら問いかけていると指摘しました。この.では、パウロは主イエス・キリストの行いと言葉に思いを寄せながら語っています。一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリント3:22-23)との(しょう)(えい)に即するかのように、論を展開しています。

ささいな事件」の裁きで注意しなければならないのは、「教会では(うと)んじられている人たち」からの横槍(よこやり)または妨害です。彼らは、自分たちが事の白黒をつける、と自信満々です。「わたしの正しい意見を聞かせてあげよう」と高ぶっています。

彼らの「量る(はかり)」は人の知恵と誇りによって狂わされ、(こわ)れかけています。ですから、主イエス・キリストなる「ともし火」によって照らされ、注意深く「聞く耳」の付いている自分の量る(はかり)の登場が待たれます。「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」には、健全でへりくだった「自分の量る(はかり)」があります。その人は、天上の「キリスト」と「」による裁き(最後の審判)に照らして、「日常の生活にかかわる争い」の「裁き」に取り組みます。

パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」との名言を唱えた後に、次のような形で、「裁く」人の姿勢を検証するように訴えています。

①「なぜ、あなたがたはむしろ不義を甘んじて受け受動態ないのです。

②「なぜ、あなたがたはむしろ奪われるまま受動態でいないのです。

同じ内容が繰り返されています。この繰り返しの主張の()り所は、主イエス・キリストの(にん)(じゅう)にあります。主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向(てむ)かってはならない。だれかがあなたの右の(ほお)を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と教えられました。パウロは「ささいな事件」の裁きにおいても、主イエスに(なら)う者になりなさい、と語りかけています

わたしたちは、不義を甘んじて受け」、「奪われるままでは、「裁く」人として不適格ではないか、と思うかも知れません。果たしてそうでしょうか? 「むしろ」そのようにして、主イエスのごとく打ち砕かれている自分の内に、神の知恵と愛が(くだ)って来るのではないでしょうか。

主イエス・キリストへの信仰にこそ、神の力と権威が現れます。(ただし)しい「裁き」が行われるか否かは、神の支配のもとに置かれているかどうか、に掛かっています。

自分が「不義を甘んじて受け」させられ、「奪われるまま」だったから、今度は相手に、「不義を行い、奪い取る」ということでは、「裁判ざた」は()みません。ただただ、不義を甘んじて受け」、「奪われるまま」という主イエスの忍従に徹することです。

 

Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利 

ダニエル書7:15-22――

15 わたしダニエルは大いに(うれ)い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた16 こに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。

17 「これら四頭の大きな(けもの)は、地上に起ころうとする四人の王である。18 しかし、いと高き者の聖者(せいじゃ)が王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」 19 更にわたしは、第四の(けもの)について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅(せいどう)のつめをもち、()らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。20 その(あたま)には十本の(つの)があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。21 見ていると、この(つの)は聖者らと闘って勝ったが、22 やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである

紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。

ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見ました。彼はその夢を記録し、さらにその解釈を付け加えました。上に引用したのは、夢の解釈の部分に当たります。「大いに(うれ)い、幻に悩まされた」ダニエルに代わって、「そこに立っている人の一人」(天使)が、その夢を「説明し、解釈してくれた」ということです。

その「」というのは、ひと言で言えば、終末における神と「四頭の(けもの)」との対決です。ラスボスならぬ第四の獣」(ダニエル書7:7)が巨大で(くっ)(きょう)でしたが、他の三頭ともども、神によって退(しりぞ)けられてしまいました。

そこで注目したいのが、終わりの時、神が勝利するという預言の一節です。

やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである……「日の老いたる者」というのは、ダニエル書独特のもので、神を指しています(ダニエル書7:9,13,22)。この(たぐ)いの(べっ)(しょう)は、ユダヤ人たちが異邦人の迫害のもとで、ひそかに神信仰を守り抜いた痕跡(こんせき)とも言えましょう。

第四の獣」は殺されて、燃え(さか)る火に投げ込まれました(ダニエル書7:11)。他の獣は権力を奪われました。そこで神の上に栄光が輝くのですが、その勝利について、次のように記されています。

日の老いたる者が進み出て、席につき、裁きを行うダニエル書7:10,22,26

いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける同上7:18,22,27

①と②の出来事が、ダニエルの夢とその解釈の中に、再三描き出されています。ですから、それが重大事だと分かります。

パウロにとって、そしてわたしたちにとって大切なのは、コリント教会のささいな事件」の裁きの先に、「日の老いたる者」による「裁き」があるということです。パウロは、神が裁きの座について裁きを行う将来を切に待望しています。だからこそ、今、教会内に「裁判ざたがあること自体、既に負け」なのです。

パウロの「聖なる者たち世を裁くのです」(Ⅰコリント6:2)との発言について、少し専横(せんおう)・出しゃばりではないかと思われた方がいるでしょうか。

①と②に言い表されている通り、「聖なる者たち」は、最後の審判において陪審(ばいしん)の栄誉にあずかります。「日の老いたる者が席につき、裁きを行う」のを目撃し、その証人になっている、その理由は彼らが「世を裁く」よう訓練されていたからでありましょう。神の栄光のもとに、信仰者それぞれの「自分の量る(はかり)」は輝いています。

裁判の陪席(ばいせき)言うと、固い話のように聞こえますが、神の恵みによって、「いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける」ということです。 の導きによって、日常の生活にかかわる争い」に(しん)()に向き合う教会とその兄弟姉妹は、そのような恵みにあずかることが約束されています。   

 

 

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〈説教の要約〉

2024年 11月10日     降誕前 第7主日 

旧約聖書 エレミヤ書 11章21節~23節(P.1198

新約聖書 マルコによる福音書 6章1節~6節aP.71

説  教「預言者は故郷では敬われない」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた           

                                          ……マルコ6:1-2a          

Ⅱ この人は、このようなことをどこから得たのだろう 

                                          ……マルコ6:2b-3

Ⅲ 預言者は自分の故郷では敬われない              

                       ……エレミヤ書11:21-23 マルコ6:4  

Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた                  

                                         ……マルコ6:5-6a        

結 

 

主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-123:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。

本日のテキスト箇所でその問いは、この人は、このようなこと知恵や奇跡をどこから得たのだろうと言い直されています。端的にその答えを言えば、神からとなります。しかし、マルコ福音書記者自身も、人々が信仰をもって、「イエスは知恵や奇跡を神から得た」と告白するよう導いています。だからこそ、福音書記者は冒頭から、イエスは「神の」である(1:1)と証言しています。

弟子たちを含め、群衆の中から一人でも多く、「あなたは神の子だ」(マルコ3:11)と告白する信仰者が生まれることが待望されます。しかし人々の関心が、イエス・キリストが何者なのか、に集中していくにつれて、サタンはじめこの世の権力者たちからの妨害が強まっていきます。

本日のテキスト箇所では、主イエスに対する反感や拒絶が(あら)わになります。主イエスにつき従う者は、石だらけの不毛な土地や(いばら)の生い茂る土地(マルコ4:4-7を巡り回らなければなりません。「どのようにてイエスを殺そうか」(同上3:1)との陰謀(いんぼう)を耳にして、逃げ出したりしてはなりません。というのも、そうした困難や(きょう)()を乗り越えるうちに,忍耐とまことの喜びが(はぐく)まれるのですから。

死と復活を予告され、十字架の道に向かって進まれる主イエスが、目の前におられます。 の導きのもとに、主イエスの行いと言葉によって教えられる者となりましょう。

 

Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた           

マルコ福音書6:1-2a――          

1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息(あんそく)()になったので、イエスは会堂で教え始められた

この段落の結びの意外さがまったく予期できないような、平穏な始まりになっています。

主イエスは、伝道の拠点カファルナウムのあるガリラヤ湖畔を「去って故郷にお帰りになりました」(ガリラヤ湖と故郷のナザレとは約20 離れています)。主イエスの(かたわ)らには、今や「わたしの兄弟」(マルコ3:34)となった「弟子たち」がいました。

主イエスは通りがかりに、人に「わたしに従いなさい」と声をかけられました(マルコ2:14)。「弟子たちも従った」というように、弟子たちも湖畔でその呼び声を聞きました(同上1:17,20)。さらには、「(ちょう)(ぜい)(じん)や罪人」(同上2:15)はじめおびただしい群衆が主イエスに「従いました」(同上3:7)。

そのようにして、主イエスは野外で、あるいは、会堂や人の家で神の国の福音を宣べ伝えられました。主イエスに御業を伝え聞いた人々が、「ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺り」からやって来ました(マルコ3:7-8)。すなわち、ユダヤ民族の(かき)()を飛び越えて、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。

主イエスは「従う」人々の中から、あたかも「弟子たち」を選抜するかのように、彼ら十二人を故郷に伴われました。故郷への帰還は実際、十二人を呼び寄せ、権威を授けて派遣する(マルコ6:7-13)直前のことでありました。「弟子たち」は黙々とではありますが、彼らは神の子イエスに寄り添われる中で、数々の「神から授けられたイエスの知恵や奇跡」を経験することになりました。

ナザレ伝道の成果が、すでにそこにありました。それに考えてみれば、初代エルサレム教会を築いた人物、弟子・ペトロとイエスの弟・ヤコブとの初めて出会いも、その時のことでありました(使徒1:17、ガラテヤ1:18-19)。主イエスの復活後、そこで知り合った二人、ペトロとヤコブは協働し、迫害の嵐の中で教会を建てました。そしてまさにその二人に、パウロがつなげられて(使徒9:2821:18)、キリスト教の伝道は大きく展開されていきました。

安息(あんそく)()になったので、イエスは会堂で教え始められた」……これまでに主イエスは、カファルナウムで「安息日に会堂で教えられた」ことがありました(マルコ1:213:1-2)。この伝道の基本姿勢は、郷里でも変わりがありません。「安息日」に、幼児のイエスを知る人々がいたに違いない「会堂」に入って行かれました。

ルカ福音書によれば、主イエスは聖書朗読をもって、「貧しい人に福音を告げ知らせる」との御言葉を語られました(4:16-20)。それによって、ナザレの人々は初めて、主イエスの御言葉を聞くことになりました。果たして、彼らの心が解放されて、主イエスに「従う」ようになったのでしょうか。

  

Ⅱ この人は、このようなことをどこから得たのだろう 

マルコ福音書6:2b-3――

2 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が(さず)かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か3 この人は、大工ではないかマリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。

上の文章を丁寧に読み解くと、二通りの問いに分けられます。

一つの問いは先述したように、「イエスは、知恵や奇跡をどこから得たのか」ということです。これ自体は、立てるに価する問いであります。 導きによって答えを得ようとするならば、「神から」と教えられることでしょう。

しかし、この良い「信仰問答」は、もう一つの問い、言い換えれば、厄介(やっかい)な疑惑によって妨げられます。

もう一つの問いというのは、「我々の良く知っているイエスが、御言葉を教え、奇跡を行っているのは、どういうことか」ということです。この第二の問いは、いわば「我々の良く知っているイエス」と「知恵を語り奇跡を行っている主イエス」との落差に起因するものです。その落差が解消されない限り、問いは問いのままで終わります。

つまりそれは、問いを発する以前に、その人の、主イエスとの向き合い方に問題があるということです。その人に偏見や独断がある限り、 的な思考を期待することはできません。

あなたがたは自分の量る(はかり)で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)との主イエスの御言葉を借りるならば、その人の持つ「量る秤」は全く故障しています。その「自分の量る秤は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々(こうこう)と照らされることなく、また、注意深く「聞く耳」も付いていません(同上4:21,31)。

ナザレの人々はおそらく、イエスは我々の間で育った「大工」の子だという考え方に()らわれています。自分自身を中心にしか、主イエスにまつわる日常性を受け止めていません。端的に言えば、「近所の子ども」だと思い込んでいては、このお方において「神の子」を見出すことはできません。それに輪をかけるように、「あの男イエスは気が変になっている」(マルコ3:21)とのうわさが広まっていました。

こういう状況下では、ナザレの人々は主イエスの平易なたとえも誤解してしまうことでしょう。というのも、ナザレでお育ちになった主イエスが、日常においては隠されている「神の国の秘密」(マルコ4:11)が物語っておられるからです。(たね)()」の話なら「近所の子ども」(少年イエス)より、農夫の自分の方が熟知していると言い出しそうです。いずれにせよ、主イエスの日常性に「つまずいている」ようでは、たとえ話が指し示す「神の国」は見えてこないことでしょう。

主イエスが自分たちにとってあまりにも身近なために、ナザレの人々は「主イエスがどのようなお方であるか」との問いを真剣に考えることができなくなっています。どうして、故郷の人々は主イエスを歓迎しないのか、との問題に関し、旧約聖書からエレミヤとアナトトの人々の事例をひもといてみましょう。

 

Ⅲ 預言者は自分の故郷では敬われない              

エレミヤ書11:21-23――

21 それゆえ、主はこう言われる。

アナトトの人々はあなたエレミヤの命をねらい

「主の名によって預言するな

我々の手にかかって死にたくなければ」と言う

22 それゆえ、万軍の主はこう言われる。

見よ、わたしは彼らに罰を下す。

若者らは(つるぎ)()(じき)となり

息子、娘らは飢えて死ぬ。

23 ひとりも生き残る者はない

わたしはアナトトの人々に災いをくだす。

それは報復の年だ。」

マルコ福音書6:4――

イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。

上のエレミヤ書からの引用は、エレミヤの「告白録」の一部に当たります。ここで「告白録」というのは、エレミヤが預言活動を行う際に、彼が個人的な思いを赤裸々に言い表したのを採録したものです。その中には、自分自身の心情のほか、神への訴え、神からの答え、そして、敵対者への裁きなど含まれます。

わたしたちはこの「告白録」を通じて、預言者エレミヤの深い苦悩を知ることができます。エレミヤは孤独になり、敵対者からの迫害に()いました(エレミヤ書16:1-828:1-17)。エレミヤは八方(はっぽう)(ふさ)がりの苦境に置かれていましたが、深い淵の底から、主よ」(詩編130:1)と叫び、自らの悩みと願いとを訴えました。

そうしたエレミヤに対する神からの答えが、エレミヤ書11:21-23()せられています。エレミヤと神との問答の背景になっているのが、エレミヤと彼の郷里「アナトト」の人々との対立です。

アナトト」は、エルサレムの北東約5㎞に位置する祭司の町です(ヨシュア記21:18)。ここは、ベニヤミン族の領地に当たります。ちなみに、王サウルや使徒パウロはこのベニヤミン族に属します(サムエル記上9:21、ローマ11:1)。

アナトトの人々あなたの命をねらっている」……エレミヤを震撼(しんかん)させる告知が主から下りました。エレミヤ自身、うすうす故郷の人々の反感や拒絶に気づいていたでありましょう。「あなたの命をねらっている」との言葉を聞いて、エレミヤは覚悟を決めねばなりませんでした。親族や知人を含むアナトトの人々との対決は、もはや避けられないと……。

同郷人同士とは言え、なぜ、エレミヤと「アナトトの人々」との関係がそれほどまでに険悪(けんあく)なものとなったのか、については諸説あります。その説明の中の一つをご紹介しましょう。

それは、風雲急を告げる外交関係において、エレミヤはユダの民が総じて反対する立場にあったということです。当時、南ユダ王国は、大国エジプトとバビロンの()(けん)争いによって翻弄(ほんろう)されていました(エレミヤ書26:21-2244:30)。どっちにつくのか、あるいは、鎖国状態にして独自路線を行くのか、ということです。王や祭司たちが神からの託宣(たくせん)(あお)げばよのですが、神礼拝は衰退の一途をたどっていました。というのも、偶像崇拝に入る者たちが続出していたからです。

さてそれでは、預言者エレミヤはどういう立場をとったのか、ということですが、エレミヤは神からの使信に依り頼みました。

エレミヤ書21:7 ――

(バビロン軍がエルサレムの城壁内を攻撃した)その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、(えき)(びょう)、戦争、()(きん)を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを(つるぎ)をもって()つ。ためらわず、()しまず、憐れまない。

わたし」なる神がバビロンを用いて、南ユダ王国に災いを(くだ)すと宣告されています。従って、エレミヤの立場は、祖国の滅亡と捕囚のうちに、神の御手の働きを信じるということでありました。民族の大惨事のうちにも、神の御心がある、とエレミヤは確信させられたのです。

神からの災いの中にも幸い、つまり、将来への希望がありました。エレミヤは、「この都を出て包囲しているカルデア人(バビロン)に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(エレミヤ書21:9)と預言しました。

以上が、紀元前7世紀末頃、エレミヤが主の託宣に従ってとった立場でありました。「(ばい)(こく)()」との非難がエレミヤに向けられたことは、容易に察せられます。身の危険を感じても、エレミヤは都エルサレムのみならず、彼の郷里「アナトト」においても、「バビロンに降伏せよ」と告げたに違いありません。

アナトトの人々はあなたの命をねらい 「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」と言う……当時の事情がよく分からないとしても、なぜ、「自分の故郷で預言者が敬われなかった」のか、を問うのは意義深いことです。

同郷の者からあれこれ言われたくない、身内・親族の中で安泰に過ごしたい、出身地の誇りを(けが)さないでほしいなど、エレミヤが「アナトトの人々」から迫害を受けた理由は、このほかにもさまざま考えられます。

ただし、エレミヤと主イエスとの故郷での出来事を重ね合わせてみると、神の(くす)しき計画、つまり、神の厳しさと慈しみが見えてきます。①と②、二つの共通点を指摘します。

①故郷において、エレミヤと主イエスは最も激しい迫害を受けた――

 すでに述べた通り、エレミヤは同郷人によって、命をねらわれ、殺されそうになりました。同様に、主イエスも、「人々は皆憤慨(ふんがい)し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の(がけ)まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)ということです。

  裏を返せば、故郷での伝道中、最も激しい迫害に()ったことによって、エレミヤならびに主イエスが自分の命をかけて御言葉を宣べ伝えているのが明らかになりました。

 ただし、主イエスの場合には、伝道の最後の場面、十字架の丘で、その迫害は頂点に達しました。

②神はご自身が派遣された預言者エレミヤならびに救い主キリストを守られた――

エレミヤの場合には、「見よ、わたしは彼らに罰を下す……わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ」との審判が主なる神より告げられました。「(ほふ)り場に引かれて行く小羊」(エレミヤ書11:19)のような(きゅう)()に追い込まれましたが、神の介入によって、「アナトトの人々」の間から助け出されました。こうして、エレミヤは同郷人の陰謀から守られました。

主イエスもまた、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(ルカ4:30)ということで難を(のが)れられました。神の御手の力が遣わされた者の上に、思いがけない迫害絶体絶命の状況において発揮されました。

 

Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた                  

マルコ福音書6:5-6a――        

5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけでそのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた

先述したように、故郷ナザレで主イエスは最も激しい迫害を受けられました。町の大勢の人々が「親戚や家族」に加わっていたことでしょう。そして主イエスとの対立は、愛憎(あいぞう)入り交じる感情から泥沼化していたのではないでしょうか。このような確執(かくしつ)は、エレミヤの先例に見られるように、故郷独特のものであります。

ナザレ伝道の結びの言葉を確認しましょう。

(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」……これは、驚くべき報告であります。ナザレこそまさに、「(たね)()く人のたとえ」に例示された、石だらけの不毛な土地または(いばら)の生い茂る土地だったのでしょうか(マルコ4:4-7)。わたしたちは「神の子」イエスの全知全能をもってしても、どうにもならなかったのか、と落胆させられるだけなのでしょうか。

(イエスは)ごくわずかの病人に手を置いていやされた」……主イエスは「夜も昼も」(マルコ4:275:5)も働き続けておられました。御言葉の種を蒔いて、成長させることに励まれました。

殊に、病人のいやしは、「夕方になって……イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやした」(マルコ1:32-33)との御業が、ナザレでも行われたという証しになっています。夕方から一日が始まるというユダヤの生活の中で、主イエスは(やまい)に苦しんでいる人や悪霊に憑かれた人に、希望の光をともしておられたのです。

そして、(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」……これをもって、故郷ナザレでの伝道が終わります。これまでのガリラヤ湖畔での宣教において、「信仰」を持った人々(マルコ2:55:34)が現れなかったわけではありません。しかしナザレでは、どうしてこんなにも悲惨な結果になったのでしょうか。

わたしたちがこの難題を考えるとき、大切なのは、主イエスの(こう)(しょう)(がい)全体を見渡した上で、一場面一場面の出来事を捉えるということです。そのことは、もう少し短い期間のガリラヤ伝道1:168:26)においても当てはまります。

そうして、ガリラヤ伝道を眺めてみたとき、ナザレでの結末は、ガリラヤ湖畔での事件(マルコ3:1-6)と関わりがあることが判明します。双方いずれも、安息日の会堂が舞台の中心になっています。

マルコ福音書3:6――

ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒にどのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。

記載されていませんが、「ファリサイ派の人々」や「ヘロデ派の人々」が信仰であったことは論を()たないでしょう。逆に言うと、「不信仰」はとどのつまり、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始める」に至るということです。実際、エレミヤ同様に主イエスも故郷の人々から「命をねらわれる」(エレミヤ書11:21)はめになりました。

そのようにして、「かくて十字架が、ここで初めて視界に現れることになった」(E. シュヴァイツァー)ということです。ガリラヤ湖畔で初めて、その後、ナザレで再びということです。

伝道には、それにふさわしい時と場所があります。パウロは、「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘(けんとう)もしません」(Ⅰコリント9:26)と述べています。忍耐して待たねばならない時もあります。大切なのは、目標を見据えて、(まと)()ることです。

やみくもに」、「空を打つ」ことのないように、主イエスによるガリラヤ伝道全体を見渡しましょう。主イエスは、①〈初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-123:56:6)という宣教を続けておられます。時には、主イエスがナザレで(がけ)っぷちに追い込まれたように(ルカ4:29)、「死の陰の谷」(詩編23:4)を行く時もあります。

 

結 

一方、「信仰」とは、人間が主イエス・キリストからの「を受け止めることです。他方、「不信仰」とは、その「」を(こば)むことです。

主イエス・キリストの「(ギリシア語 デュナミス)というのは、「奇跡」とも訳されます。本日のテキストにも2回出ていました。

この人が(さず)かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(マルコ6:2)「(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(同上6:5

その「信仰」を通して、主イエス・キリストの「」は、罪と(やまい)と死に苦悩している人間に注ぎ入れられます。

マルコ福音書5:30――  

そしてイエスはすぐに自分の内からデュナミスが出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に()たのはだれか」と言われた。

事の始まりは、「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると大勢の群衆がそばに集まって来た」(マルコ5:21)ということでありました。主イエスの方から迷える羊を(さが)しにやって来られました。

そこに、一人の女が「大勢の群衆」をかき分けて、主イエスに近づいて来ました(マルコ5:27)。彼女は群衆から(しっ)(せき)()(じょく)を浴びることを恐れませんでした。主イエスの「服にでも()れればいやしていただける」(同上5:28)との一心でありました。

そこに、主イエスと長血を(わずら)う女との出会いが生まれました。「(群衆が押し迫る中)しかし、イエスは、()れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(マルコ5:32)というように、主イエス自らが出会いの時と場所を造り出されました。

実に、この出来事は「奇跡デュナミスでありました。なぜなら、主イエスの「内からデュナミスが出て行った」からです。そうして、神からの「デュナミスが女の全身に行き巡りました。彼女は「キリストとその復活の力デュナミス)」(フィリピ3:10)を受け容れて、立ち上がりました。

このような出会いと交わりに基づいて、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)と宣言されました。

それと対照的に、「(イエスは)人々の不信仰に驚かれたというナザレでは、「何も奇跡を行うことができません」でした。主イエスは「足の裏の(ほこり)を払い落として」、次の村へと進んで行かれました(マルコ6:6b,11)。

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〈説教の要約〉

2024年 11月3日 降誕前 第8主日  召天者記念礼拝

旧約聖書 出エジプト記 16章12節~15節(P.120

新約聖書 コリントの信徒への手紙 6章12節~14節P.306

説  教「その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしには、すべてのことが許されている   

                   ……Ⅰコリント6:12             

Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます                                     ……Ⅰコリント6:13前半 

Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである                 ……出エジプト記16:12-15  

Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます                         ……Ⅰコリント6:13後半-14           

結 

 

本日は、先に召された方々のことを思い起こしながら、礼拝を守っています。わたしたちが、お一人お一人の名を呼ぶ「召天者の記念」を()り行ううちに、主にあって慰められますようにとお祈りいたします。

ところで、「キリスト者の自由」という考え方があります。本日のテキストの中で、パウロがこれについて言及しています。ただし、これには誤解を受けやすい面があります。というのも、元々、主イエス・キリストの教えている「自由」から離れて、自分勝手に理解する傾向があるからです。

確かに、その人の聖書理解のみならず、時代や環境によっても、キリスト教的に「自由な」生活には、さまざまな型があることでしょう。食生活はわたしたち人間にとっての基本ですが、パウロは「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。つまり、菜食主義を採るかどうか、キリスト者には「自由」が与えられているということです。誰も、自分と違う立場の人を軽蔑したり裁いたりしてはなりません(同上14:3)。

何だか、「キリスト者の自由」って、難しそうだなぁ、と身構えてしまうでしょうか。ここで、それを平易に理解するために、一つの聖句を掲げましょう。

ローマの信徒への手紙6:18――

あなたがたは罪から解放され、あなたがたは義に仕えるようになりました。

この文中の「解放され」は、「すでに自由にされた訳し直せます。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって、あなたがたはすでに①洗われ、聖なる者とされ、義とされた」(Ⅰコリント6:11)という三重の恵みにあずかっている人が、「すでに自由にされた(①~④すべて受動態)という自由を得ているのです。

ここで、「キリスト者の自由を理解するために、最重要な点が明らかになります。それは、神が主イエス・キリストを通して、わたしたちを「自由にされた」ということです。一方的な恵みをもって、神がわたしたちを「罪の奴隷」(ローマ6:17)の状態から解き放ってくださいました。

従って、キリスト教的に「自由な」生活には、神に対する感謝と忠実が満ちあふれています。ここに、「キリスト者の自由」の原点があります。わたしたちは真の「自由」を神より(たまわ)りました。まことに尊ぶべき「自由」であります。それ故に、神とわたしたちとの関係性を踏まえて、「自由」を用いなければなりません。

さて、パウロの目の前(実際にはリモートですが)には、自分は「すでに自由にされた」と言い張って、みだらな行い」や「裁判ざたを起こしている人々がいました(Ⅰコリント5:16:7)。彼らはどうやら、キリスト教倫理にヘレニズム的な考え方(ギリシアの文化・思想)を加味するのも自由と思っていたようです。それどころか、教会の交わりの中に、自分たちの賢い知恵や慣習を取り入れるべきだというように、高ぶっていました。

以上、パウロ書簡の一文から、或る意味では深遠なる「キリスト者の自由」を理解するコツをご紹介しました。これから、コリントの信徒への手紙 のわずか三節を説き明かします。「キリスト者の自由」が論じられる出発点ともなったテキストです。パウロが に導かれ、神の知恵に満たされて、どのようなことを、わがまま勝手に「自由」を振り回している……裏返せば、(あやま)った考えに束縛されている……人々に向けて語ったのか、読んでみることにしましょう。

反論や批判が予想されますが、「基本的なキリスト教の信仰告白」(R.B. ヘイズ)に基づいて論証するパウロは、動じるところがありません。

 

Ⅰ わたしには、すべてのことが許されている          

コリントの信徒への手紙 6:12――             

わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

パウロは相手の思っていることを()み取る達人です。頭ごなしに()(ろん)繰り広げてはいません。むしろ、相手の考えているところの「キリスト者の自由」見据(みす)えた上で、議論を組み立てようとしています。パウロの言葉に説得力があるのは、そのためです。

わたしには、すべてのことが許されているとの文言(もんごん)、真の「キリスト者の自由」を議論する起点に置かれています。少し言葉を補うと、「わたしには、すべてのことができるように許されている」となります。「わたしには何でも許されている」というのは、神の律法から見て正当であるとの意味です。

コリント教会の一部の人々はまさに、「わたしたちには、すべてのことが許されている」との文言に()りつつ、教会の内外で、みだらな行い」や「裁判ざた」を繰り返しているのです。

さて、この「わたしには、すべてのことが許されている」との起点から、パウロがどのように自分の側にたぐり寄せていくか、が見どころです。図式化しましょう。

わたしには、すべてのことが許されている

しかし、すべてのことが益になるわけではない

わたしには、すべてのことが許されている。

しかし、わたしは何事にも支配されはしない。

 パウロの慎重かつ論理的な導き方が、一目瞭然です。パウロは粘り強く、キリスト教倫理を築き上げようとしています。

二度の「わたしには、すべてのことが許されている」との文言によって誘導しつつ、「しかし」以下で、パウロは福音理解に基づいて考えを表しています。

しかし、すべてのことが益になるわけではない――

ここで、パウロは益になるか否かの観点に立っています。何かの損得(そんとく)が、「キリスト者の自由」と関わりがあるということなのか、との疑問を(いだ)かれるでしょうか。それでも、益になる」か否か、実際、大多数の人の関心を引きつけるに違いありません。だからここで、キリスト者にとって、一体「になる」とはどういうことか、または、「」にあずかるキリスト者の人生とはどのようなものか、問うのは一考に価します。

ここで、パウロは簡にして要を得ている議論を心がけています。それ故に、正しい理解のために、「わたしには」という「わたし」を取り囲んでいる〉と〈兄弟姉妹に登場していただきましょう。

今、は、忠実で賢い(しもべ)(マタイ24:45)なる兄弟姉妹がキリストの体なる教会を造り上げるのを見守っておられます。その際、「忠実で賢い(しもべ)」は「神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)によって訓練されています。

パウロの言わんとしていることが見えてきたでしょうか。「わたしには、すべてのことが許されている」というほどに、キリスト者は罪から解放され、自由を得ています(ローマ6:18)。しかし、その自由を行使するとき、それが〉と隣人なる〈兄弟姉妹にとって、「益になる」のかどうか、熟慮しなければなりません。

しかし、すべてのことが益になるわけではない」のが真実ですから、「わたし」が自分の「」を抑制しなければならないこともあります。言い換えれば、自由の占有を差し控えるということです。というのも、愛をもって、〈〉と隣人なる〈兄弟姉妹〉に仕えられた主イエスに(なら)うのが、わたしたちの歩むべき道だからです

脇目も振らず勝手放題にするならば、「罪の奴隷」に舞い戻ってしまいます(ヨハネ8:34)。

しかし、わたしは何事にも支配されはしない――

パウロは重ねて、「わたしには、すべてのことが許されている」と言うところで、ぐっと議論を深めています。つまり、みだらな行いや「裁判ざた」などによるコリント教会の混乱に歯止めをかけようとしています。「すべてのことが許されている」との過信から、そのような振る舞いをしている人々を説得しようとしています。

支配」という鍵語から、永遠の王なる支配者とこの世の滅びゆく支配者たち(Ⅰコリント2:6)とを思い起こしましょう。永遠の王」とは、唯一の神を指しています(Ⅰテモテ1:17)。

そこで、まず分かるのは、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と言うとき、「永遠の王」なる唯一の神以外の「支配」は受けない、ということです。しかし、その「何事にも」というものの代表例として、「この世の滅びゆく支配者たち」の思いのままになっている人はいないか、とパウロは問いかけています。すなわち、彼らに「支配され」、隷属状態に置かれてはいないか、ということです。

もしそうだとすれば、「わたしは何事にも支配されはしない」とは言い切れません。そのために、真の「キリスト者の自由」が侵害されている恐れが多分にあります。

具体的に、「みだらな行い」を含む人間の性的な関係や「裁判ざた」が、この世の滅びゆく支配者たちの思い通りにされたら、どうなるでしょうか? キリスト者の心に平安はなくなります。

多くの人々が欲望と激情に駆られて、教会の内にまで、みだらな行い」と「裁判ざたなどを持ち込むことでしょう。その上、「この世の滅びゆく支配者たち」は、「つまずきとなるものや(さまた)げとなるものを、兄弟姉妹の前に置いてローマ14:13、世の中を混乱させます。善悪の基準をないがしろにする彼らは、人々が「互いに裁き合う」(同上)のを傍観(ぼうかん)・放置していることでしょう

パウロ自身は、神から(たまわ)った恵みとしてわたしには、すべてのことが許されている」と述べています。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」……「永遠の王」なる神以外の「支配」は受けないということです。なぜなら、主なる神の遣わされた主イエス・キリストによって、わたしたちは欲望と激情による隷属状態から解放されたからです。

続いて、「この世の滅びゆく支配者たち」の思い通りにならないように、との警告が、平易なたとえによって()かれます。

 

Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます                            

コリントの信徒への手紙 6:13前半―― 

(しょく)(もつ)は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます

少し角度を変えて、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」との議論が続いています。というのも、「この世の滅びゆく支配者たち」が執拗(しつよう)にも、みだらな行い」と「裁判ざた」などによって、人を罪へと誘導しているからです。

(しょく)(もつ)は腹のため、腹は食物のため」とのありふれた句が、人間の食欲に関わるのは自明です。同時に、この日常的な事柄は、「キリスト者の自由」を考える上で、()(きん)(せき)となります。というも、神または主イエスは、(しょく)(もつ)」について福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、御言葉を与えられているからです。

.で例示したように、パウロも「(しょく)(もつ)」について「キリスト者の自由」の観点から、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。パウロのように、神の大いなる救いの歴史の中に置かれている、一人ひとりが「キリスト者の自由」を(きょう)(じゅ)している幸いをあらわしていきたいものです。目先のことで、やれ自由だ、やれ束縛だと叫んでいる人は、「永遠の王」なる神の御心を問い尋ねてはいません。そのような人は、偽りの自由を振り回して、隣人を束縛しています。

実際パウロは、「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(ローマ14:6)と語っています。わたしたちの食卓の中心に、主イエスがおられるというのが、わたしたちの信仰です。

では、自由と係わりのある、パウロの(しょく)(もつ)についての言葉を読んでみましょう。

(しょく)(もつ)は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」……パウロは明らかに、「この世の滅びゆく支配者たち」による「(しょく)(もつ)」への支配を警戒しています。

彼らの「(しょく)(もつ)」への不当介入……効果が実証されなかったり当事者の意志が尊重されなかったりする……と言えば、○×ダイエット法やがんを撃退する△△食事療法などを挙げれば十分でしょう。このように世を支配しようとする人々は、「(しょく)(もつ)は腹のため、腹は食物のため」とのスローガンを(かか)げ、自己流の(しょく)(もつ)(せっ)(しゅ)の方法を喧伝(けんでん)しています

彼らは具体的には、自分が「金持ち」か「王様」かのように(Ⅰコリント4:8)、食生活を(たの)んでいます。そして時に過剰な食欲や節制に振り回されています。そこでの問題は、不健康という以上に、愛によると弱く貧しい兄弟姉妹への奉仕長期にわたる見通しが顧みられていないことです。

パウロは、「神はそのいずれをも滅ぼされます」と告知しています。過度の食欲によって「(しょく)(もつ)」と「」を粗雑に扱ってはならない理由は、13後半以下で昭示されます。

誰しも、自分にとってこの世で必要な「(しょく)(もつ)」が「滅ぼされる」時、すなわち、不要になる時がやがて来ます。だからこそ、わたしたちは、わたしたちに必要な糧を今日与えてくださいと祈ります(マタイ6:11)。加えて、「だから、明日のことまで思い悩むな」(同上6:34)と戒められています。まさに、神への祈りこそが、「(しょく)(もつ)」に関わる、キリスト者の自由な生活を支えています。

先に神は、福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、(しょく)(もつ)について豊かな御言葉を与えてくださっていると述べました。一箇所、旧約聖書を読んでみましょう。(しょく)(もつ)」に係わる信仰的な確信は、「キリスト者の自由」を享受するのに、大いに役立つことでしょう。

 

Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである 

出エジプト記16:12-15 主なる神→モーセ――

12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」

13 夕方になると、うずらが飛んで来て宿営を(おお)い、朝には宿営の(まわ)りに(つゆ)()りた

14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて(こわ)れやすいものが大地の(しも)のように薄く残っていた。15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに(しょく)(もつ)として与えられたパンである。」

ここには、イスラエルの民の飢え渇き(出エジプト記16:3)を顧みて、神が天からパンを()らせる様子が描かれています。民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」(同上16:4)ということですから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りをささげる訓練になります。

荒れ野放浪の中で、「(しょく)(もつ)」に係わる信仰的な確信が(つちか)われました。イスラエルの民の「毎日」は、「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を(おお)い、朝には宿営の(まわ)りに(つゆ)()りた」というくり返しでありました。そうして、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日ごとのリズムが刻まれました。

六日目になると、二倍の量のパンが与えられました(出エジプト記16:22)。それは、「明日は休息の日、主の聖なる安息日である」(同上16:23)からです。そうして、一週ごとのリズムが刻まれました。

神から「(しょく)(もつ)」を(たまわ)るということを中心にして、荒れ野でのイスラエルの民の生活は整えられていきました。

イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った」というのは、イスラエルの民が、神より賜った「(しょく)(もつ)」に対する疑問です。「これは一体何だろう」(ヘブライ語:マン フー)に(ちな)んで、天から()って来たパンは「マナ」と名付けられました(出エジプト記16:31)。「こうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」との御言葉が、民の心に刻まれました。

マナが神より賜ったものであるように、「キリスト者の自由」もまた、神より無償で授けられたものです。なおかつ、その自由は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、わたしたちが「罪から解放された」(すでに自由にされた ローマ6:18)ことに基礎づけられています。従って、わたしたちは、神と隣人とを愛する中で、「キリスト者の自由」の()り方・用い方を考えてゆかねばなりません。

 

Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます        

コリントの信徒への手紙 6:13後半-14――           

13 体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです

14 主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます

初めに、語彙(ごい)について説明します。パウロはここで」(ギリシア語:ソーマを「」、「胃」、「腸」などの内臓を指す言葉として用いてはいません。パウロは、」(ソーマとの用語により、信仰者の人格的な実存、つまり、個々の諸器官を超える全体、キリスト者の全人格を指し示しています(H.W. ホーランダル)。

従って、「」を(けが)すという場合には、「」に対して罪を犯して反逆することが、より大きな問題になります。

上の結びの文の力点は以下の通りです。

イエス・キリスト……、「……という言い回しによって、パウロは基本的なキリスト教の信仰告白」を表しています。つまり、わたしたちは「」に「支配」されるべき者であり、また、わたしたちの「」は最終的に、「」に帰されるべきものです。

先にパウロは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」(Ⅰコリント5:1)がコリント教会内に生じたとき、以下のように対応しました。

すなわち、みだらな行い」をした或る人と相手の父の母(継母(ままはは)を召喚し裁判ざた」を起こして事を済ませるというのではなく、「ですから、わたしたちは純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(Ⅰコリント5:8)と、コリント教会全体に呼びかけました。

ここには、「過越祭」、つまり、復活祭をはじめとする主日の礼拝において、みだらな行いをした或る人が罪告白と悔い改めに導かれるように、とのパウロの祈りがありました。実際、わたしたちは、「体はみだらな行いのためではなく、主イエス・キリストのためにあり、主イエス・キリストは体のためにおられる」ことを見て、知って、そして信じるために、礼拝をささげています。

罪人の(かしら)」(Ⅰテモテ1:15)である点において、兄弟姉妹は皆、変わりありません。皆が神の御前に、主の赦しの愛にあずかれるように、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって進み出ます。そこで、受洗している人は、「すでに聖なる者とされた」ことを想起します(Ⅰコリント6:11)。その時、「主の日に彼みだらな行いをした人の霊が救われる」(同上5:5)ように、との希望が会衆の間に共有されることでしょう。
 「主はのためにおられる」……この「」とは、「神はそのいずれをも滅ぼされる」という「(しょく)(もつ)」や「」とは異なります。「主は体のためにおられる」との言い方自体に、わたしたちの「」の永続性が示されています。

より精確に言うと、「自然の命の体()かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Ⅰコリント15:44)との言葉通りに、わたしたちの「」は、自然の命の体」から「霊の」へと造り変えられます。

なぜなら、「神は、主を復活させ、また、そのによってわたしたちをも復活させてくださる」からです。この地上で「キリストの」なる教会の(えだ)として仕え働いた信仰者の「」はそれほど(とうと)いものなのです。死者の中から復活したキリストのを十全に受け止めるために、「みだらな行い」によって自分の「」を(けが)してはなりません。

そのように、「キリスト者の自由」という考え方においては、「自然の命の体」から「霊の体」へ、現在から将来へという見通しが重要です。神の大いなる救いの歴史のもとでこそ、信仰者の持つ「自由」は、その()びやかと(やわ)らかさが存分に活用されることでしょう。

わたしたち・信仰者は、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、(しいた)げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません」(Ⅱコリント4:8-9)。なぜなら、わたしたちの罪と(やまい)と死の向こう側にも、「キリスト者の自由」拡がっているからです。

 

 

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2024年 10月27日        

降誕前 第9主日 宗教改革記念日礼拝

旧約聖書 イザヤ書 4章2節~6節

新約聖書 コリントの信徒への手紙 6章9節~11節

   「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」

             小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 思い違いをしてはいけない            

                  ……Ⅰコリント6:9前半             

Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない  

                     ……Ⅰコリント6:9後半-10

Ⅲ 主はシオンの娘たちの(けが)れを洗う

                            ……イザヤ書4:2-6  

Ⅳ あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた

                   ……Ⅰコリント6:11          

結 

 

15171031日に、マルティン・ルターはヴィテンベルク城教会の門に、95箇条の(てい)(だい)を掲げました。この出来事を契機として、宗教改革が始まりました。

当時、ルターはアウグスチノ修道会の修道士であり神学博士でありました。95箇条の(てい)(だい)・第1条には、次のように記されています。

我々の主であり教師であるイエス・キリストが悔い改めよ、と言われたとき、

彼は信じる者に全生涯が悔い改めであることを欲したのである

 このように、ルターは日々、悔い改めるように勧告しました。いくら大きな善行(ぜんこう)や献げものをしたからと言って、次の日に、悔い改めが免除されるわけではありません。悔い改めとは、罪なる生活から、イエス・キリスト中心の生活にひっくり返されることです。これまでに自分が()してきたり(たくわ)えたりしているものひと(たび)手放して、「我々の主であり教師であるイエス・キリスト」に立ち返るのです。

聖書に即し、 の導きによって、わたしたちの礼拝の中で悔い改めるということが基本になります。そこから週日の生活が始まります。その悔い改めを(うなが)すのに、格好(かっこう)のテキスト、本日の旧新約聖書を読んでみましょう。

 

Ⅰ 思い違いをしてはいけない            

コリントの信徒への手紙 6:9前半――             

正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか思い違いをしてはいけない

パウロは今、「キリスト者の自由」について議論しています。具体的には、教会内の問題を軽々(けいけい)に「裁判ざた」にする人々を非難しています(Ⅰコリント6:7)。というのも、コリント教会の一部の人々が、この世の知恵によって善悪を判断しようとしているからです。

それに対し、パウロはキリスト教倫理を確立しようとしています。旧約聖書にさかのぼって神の御心を尋ねたり(Ⅰコリント1:193:20)、また、他の指導者(例えばエルサレム教会の人々)の意見を求めたりしている(さい)(ちゅう)です。そのキリスト教倫理を土台として初めて、一人ひとりが「キリスト者の自由」を享受することができます。

「キリスト者の自由」を()違える人々が多かったのは、特に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)に関することでありました。コリント教会の一部の人々は、キリストの教えよりも、世俗の慣習によって振る舞うことがありました。

彼らは性的な問題について、教会の「聖なる者たち」に助言を求めようとはしませんでした(Ⅰコリント6:2)。かえって、「教会では(うと)んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」(同上6:4)、問題を処理しようとしていました。それでは、「みだらな行い」をした人を(ただ)しく裁くことはできません。

その結果、コリント教会の一部の人々は、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との十戒のみならず、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)との主イエスの教えをもないがしろにしていました。「みだらな行い(Ⅰコリント5:1は、自分の体を(けが)してしまうのみならず(同上6:18)、「聖なる者とされた」(同上6:11)人の心を(おか)してしまいます。その上、自分が模範として、若い世代の人々に教え(さと)すべき事柄であります。

今日の時代状況において、キリスト教倫理を確立するには、問題が山積しています。LGBTQ(性的マイノリティの方を表す総称)など新たな課題に向き合わねばなりません。呆然(ぼうぜん)と立ちつくしてしまいそうです。

そこで、本日のパウロの言葉に耳を傾けましょう。信仰が日常生活の(いとな)みやささいな事件の裁きなどに結びつくようにと、総括的なメッセージが記されています。

正しくない者神の国を受け継げないことを、知らないのですか」……誰が「知らない」のかと言えば、先の述べた、コリント教会の一部の人々を指しています。彼らは、キリスト教倫理に基づかず、自分勝手な道徳を(たて)にして、教会にいたずらに「裁判ざた」を持ち込んでいます。「互いの間にねたみや争いが絶えない」情況を造りだしています(Ⅰコリント3:3)。そういう点で、彼らは「正しくない者」にほかなりません。カルヴァンによれば、正しくない者」というのは、「兄弟をはずかしめる者、他人をだまし、あざむく者、要するに、他人を害して自分の益をはかる者」を指しています。

では、正しい者が神の国を受け継ぐとは、一体どういうことでしょうか?

それを知るためには初めに、正しい者について正しく理解していなければなりません。

正しい者」は、神の義しさを映し出しています。言い換えればそれは、自分が罪人であると告白し悔い改めた人です。その人は、主イエス・キリストを信じて、「義とされました」(Ⅰコリント6:11)。

正しい者」はキリストに(なら)って(Ⅰコリント11:1)、侮辱されては(わたしたちは)祝福し、迫害されては(わたしたちは)耐え忍びののしられては(わたしたちは)優しい言葉を返しています(同上4:12-13)。元々は罪人でありながらも、今やキリストが模範となってくださっているので、その人は神の義をあらわすことができます。

次に、「神の国を受け継ぐ」とは、どのような意味なのでしょうか。これを正しく理解するには、預言―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことが求められます。

神はその〈預言〉を、正しい者」(創世記18:23)、アブラハムに示されました。

創世記15:7――

主は(アブラハムに)言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」

アブラハムは試練のただ中にありました。いまだに子どもに恵まれず、放浪の旅を続けていました(創世記13:116:1)。そのような時、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(同上15:1)というのが、上に引用した「この土地」の授与の約束です。それは、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(同上15:1)との主の言葉の通り、恵み豊かなものであります。

その上に、「正しい者」なるアブラハムへの土地授与の宣言は、新約の「正しい者が神の国を受け継ぐ」との言葉につながっています。というのも、神が御子イエス・キリストをこの地上に(つか)わされることによって、信仰の父アブラハムへの〈預言〉が〈成就〉したからです。

この主イエス・キリストが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と宣べ伝えられました。わたしたちは、この救い主なるお方を信じ、この言葉に「アーメン」と唱えるのであります。

そして、信仰者でありながらも、疑い深いわたしたち(創世記15:2,8、ヨハネ20:25)は、 の導きやパウロの執り成しによって支えられています。共々に、「神の国を受け継ぐ」者になるようにと……。

主イエス・キリストは罪人や病の人を救われました。そして、悔い改めた人々の間に「神の国があるのだ」と告げられました。そうだとすれば、この世における救われた者の生活は一新させられます。ねたみや争いを退け、キリスト教倫理に従って生きようと、自分の心身を聖霊にゆだねる者となります。ひと言でいえば、「正しい者が神の国を受け継ぐ」との〈待望〉をもって、「神の国」を目指して行きます。

以上のことを反面から(あか)ししているのが、「正しくない者神の国を受け継げないことを、知らないのですか」との叱責(しっせき)です。彼らは「神の国」について、〈預言〉―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことなく、恵み豊かな御言葉に耳を傾けていません。

そこでパウロは、彼らを一喝(いっかつ)します……「思い違いをしてはいけない」。「正しくない者」は高ぶっており、まるで「王様」か「大金持ち」であるかのように振る舞っていました(Ⅰコリント4:8,18)。「神の国の力(同上4:20が彼らの日常生活の中に浸透してはいませんでした。そうした彼らに今、「愛と柔和な心」(同上4:21)をもって接するのは、無駄でありました。だからこそ、パウロは「神の慈しみ」でななく「神の厳しさ」を表したのです(ローマ11:22)……「すでに神の国の入場券を持っているなどと、自分の都合の良いように考えるな」と。

 

Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない            

コリントの信徒への手紙 6:9後半-10――

9 みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者(だん)(しょう)(なん)(しょく)をする者10 泥棒、強欲(ごうよく)な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。

ここに、10項目が列挙される形で罪のカタログが明示されています。ここには、「ある人が父の妻をわがものとしている」という「みだらな行い(Ⅰコリント5:1に関わる知見も加味されています。このようにして、隣人愛や善行のみならず、悪徳に関わる側面からも、キリスト教倫理が確立されていきました。

みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、(だん)(しょう)(なん)(しょく)をする者

泥棒、強欲(ごうよく)な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者

前半には主に、性的な罪、そして後半には主に、貪欲(どんよく)の罪が掲げられています。パウロはこの手紙の後の方で、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、()ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)と言い換えています。

罪の(わな)にはまっている正しくない者」とは、肉と血によって生きようとする者であります。それによって彼らは、キリスト者の全人格を表す「」(Ⅰコリント6:13)を(けが)しています。肉と血との欲望に毒されている者には、主の恵み深さなど味わえません(詩編34:9)。

決して神の国を受け継ぐことができません」……これは重い言葉です。コリント教会の一部の人々は心して聴かねばなりません。しかし、この宣告は最後(つう)(ちょう)ではない、とわたしは考えます。というのも、例の「みだらな行い」の一件に関してパウロは、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」(Ⅰコリント5:5 他に3:15)と述べているからです。パウロは常に、神の為される最終の審判について、自分の判断を抑制しています。

実際、次の11節で、しかしによって、神の(くわだ)てられる罪人の救いという大逆転が昭示されています。「正しくない者」、すなわち、「罪のカタログ」によって裁かれるような罪人こそが、この「しかし」によって目覚めさせられます。なぜなら彼らは、ひと(たび)はキリストの福音を聞いて悔い改めた人々なのですから。

鮮やかな逆転シーンを()たいというはやる気持ちを押さえて、旧約の御言葉を読んでみましょう。そこには、(けが)れに染まった「シオンの娘たち」が花嫁のごとく洗い清められる様子が描かれています。

 

Ⅲ 主はシオンの娘たちの(けが)れを洗う                  

イザヤ書4:2-6――  

2 その日にはイスラエルの生き残った者にとって主の若枝(わかえだ)(うるわ)しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。4 主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。5 主は、昼のためには雲、夜のためには(けむり)と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を(おお)われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋(てんがい)となる。6 昼の暑さを防ぐ(かげ)、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵(かりいお)が建てられる。

先に、次の.で取り上げるⅠコリント6:11との驚くべき類似点について見てみましょう。

イザヤ書4:4

裁きのと焼き尽くすをもってシオンの娘たちの汚れを洗う

Ⅰコリント6:11

主イエス・キリストの名とわたしたちの神のによってあなたがたは洗われた

 この場合、旧約と新約の言葉とは、まさしく〈預言〉と〈成就〉の関係になっています。

人々は罪の(よご)れにもがき苦しんでいます。自力でそれを清めようとしても、この世の知恵に(まど)わされて、「罪のカタログ」が増し加わるばかりです。

エルサレムのは、敵国によってシオンの娘たち(おか)された時に流されたものです587年、バビロニアにより都エルサレムは破壊されました)。同時に、その「」は、エルサレムの民が神に(そむ)き、隣人を裏切る中で注ぎ出されたものです。「エルサレムの」は、兄に殺害されたアベルの「」のように、いまだに土の中から叫びを上げています(創世記4:10)。

ところが、「その日」すなわち「主の日」(イザヤ書2:12)に、「主は、昼のためには雲、夜のためには(けむり)と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を(おお)われます」。(のろ)われていた都とその「」が、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」すすぎ清められます。

エルサレムの住民は、そびえ立つ「シオンの山」を見つめています。そこには、平和の象徴であるかのように、「隠れ場」と「仮庵(かりいお)」が建てられています。今や「シオンの娘たち」は、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)というように、主にあって「(うるわ)しさ」と「栄光」を回復しました。

主イエス・キリストは「イスラエルの生き残った者」の末裔(まつえい)として、この地に宿られました。主イエスは「ダビデの子」(マタイ1:1)として、「シオンの娘たち」の(けが)れと悩みをご存じです。

実際、主イエスは一人の娘に()やしを行い、信仰を授けられました。主は彼女の手を取り、タリタ、クム」、すなわち、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(マルコ5:41)と呼びかけられました。主はうずくまっていた者を立ち上がらせました(詩編146:8)。

イザヤの預言によれば、罪の重荷に苦しんでいた者が、裁きの霊と焼き尽くす霊をもって助け出されます。神は、弱く貧しい「シオンの娘たち」に寄り添われます。パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じる者として、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」ということを語り直します。そこでパウロは、神からの無償の恵みに依り頼むということを徹底化しています。

 

Ⅳ あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた 

コリントの信徒への手紙 6:11――          

あなたがたの中にはそのような者もいましたしかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ聖なる者とされ、義とされています

パウロは、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と前置きしています。これは、「しかし」で転換される前の過去に言及していることなので、とても重要です。

つまり、「あなたがたの中には」、「正しくない者」、すなわち、ひと(たび)洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めない者がいた、ということを述べています。そのような者」はキリスト者の自由を()き違えて、みだらな行い」や「裁判ざたによってコリント教会を混乱させました。

パウロはこの結びにおいて、過去について、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と簡略に述べました。「あなたがた」なるコリント教会全体が、一部の「そのような者」の問題を共有し、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)として再建されるように、祈り求めるべきであります。

さて、「しかし」以下の文に入ります。原文・ギリシア語では、3回、「しかし」(アッラ)が繰り返されています。その強調点を図示すると、以下のようになります。

あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは洗われた

あなたがたの中にはそのような者もいた。しかしあなたがたは聖なる者とされた

あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは義とされた

主イエス・キリストを信じた者があずかることになる、①洗礼②聖化、そして③義認の恵みが描き出されています。パウロは「そのような者」に、あなたは「しかし」によって、ひっくり返されている、そのことをよくよく考えなさい、と訴えています。3連続で信仰上の転換が明示されています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)のであります。「見よ、その日を、あなたが洗礼を受けた日を」とのパウロの願いが通じるでしょうか。

あなたは以前には、 導きを軽んじたが、「しかし」今、 の人として、「あなたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた」ことを信じなさい、とパウロは勧めています。そのようにあなたがひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、明示しています。

かつて、「シオンの娘たち」に、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」、神へと立ち帰るように勧められました。

そして今、そのような者」に、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」、神の御前で悔い改めるように勧められました。「主イエス・キリスト」の言葉と行いがわたしたちの(ざい)()を照らし出しますので、わたしたちはより深く悔い改めることができます。

ルターいわく、「イエス・キリストは信じる者に全生涯が悔い改めであることを欲したのである」。

罪過への向き合い方が真剣になれば、その人の「全生涯」は、キリストの赦しの愛によって(おお)われます。

 

結 

信仰者は、「正しい者が神の国を受け継ぐ」ことを待望して生きています。「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)という、その「」が新しい「パン種」のように(同上5:7-8)、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっているでしょうか。「あなたがたは聖なる者とされた」ことを土台として、より善いキリスト教倫理が築かれます。神の恵みによって、みだらな行い」や「裁判ざた」が遠ざけられます。

信仰の先達・アブラハムを見上げて(ルカ16:22-24)、「神の国を受け継ぐ」との希望をもって歩んで行きましょう。

 

 

W

〈説教の要約〉

2024年 10月20日       日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

聖霊降臨節 第23主日

旧約聖書 詩編146編 1節~10節P.986

新約聖書 ペトロの手紙 4章6節(P.433

説  教「主はうずくまっている人を起こされる」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ ……詩編146:1-2             

Ⅱ 君侯に()り頼んではならない            ……詩編146:3-4 

Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる    ……詩編146:5-10  

Ⅳ 霊において神によって生きる            ……Ⅰペトロ4:6          

 

詩編146150編には、ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる詩が五つ、配置されています。「ハレルヤ」、すなわち、「あなたがたは主を賛美せよ」との呼びかけが、旧約聖書・詩編の最終部分にはくり返されています。

詩編146編において、「わたし」は神の御前で力の限りに賛美しています。歌う中で、神と隣人を愛することを教えられています。詩編全体から美しく信仰的な詩句が集められているアンソロジー(()()(しゅう))になっています。天から「ハレルヤ」との(いざな)いが響いてくる中で、一体どんなことが物語られているのでしょうか?

その内容に入る前に、「ハレルヤ」入門として、一つのことをお話しします。賛美に圧倒されないように、心づもりをしてください。

それは、どうして、この詩編 で、生気と歓喜に満ちているのか、ということです。その源泉は、詩の一言(いちごん)一句に貫かれている信仰的な考え方に由来しています。

詩人は人生の達人です。加えて、イスラエルの族長や預言者の知恵と経験を受け継いでいます。その信仰的な考え方とは、ひと言でいえば、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということです。そこには、()(せつ)してもあきらめない、へりくだって誰にでも寄り添う「」、そして、さまざまな礼拝者たちを一つにする「」が(あふ)れだしています。

その「」は決して、わたしたちの手の届かない所にあるものではありません。実際、あなたが によって「ハレルヤ」詩編に引き寄せられ、賛美の世界に入って来るならば、あなたは自分の弱さや罪に向き合い、そこから立ち上がる「」がわき出てくることでしょう。

主イエスは(かわ)ききった人生を送っていたサマリアの女に、「わたしが与えるはその人の内で泉となり、永遠の命に至るがわき出る」(ヨハネ福音書4:14)と語りかけられました。この慰め深い言葉は、賛美にも当てはまります。賛美は世々限りないものです(ヨハネ黙示録7:12)。

賛美との共通点といえば、人のからだ全体に浸透する点が見逃せません。そしてそれは、わたしたちの内側からわき上がって来ます。そうして、わたしたちは手を()げ口をもって魂の底から、主をほめ歌います(哀歌3:41)。

 

Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ 

詩編146:1-2――             

1 ハレルヤ

わたしの魂よ、主を賛美せよ。

2 命のある限り、わたしは主を賛美し

長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう

詩人は、ハレルヤ、主を賛美せよと、そこから始めています。何よりも「」(ヤハウェハレルヤも神名)に()り頼むことが大切です。「」をほめ歌うことは、パウロのように牢獄(ろうごく)でも、どんな所でも可能です(使徒16:25)。

たとい心が闇に閉ざされていても、詩人は「主を賛美せよ」と、「わたしの魂」を鼓舞(こぶ)しています。誰しも、ねたみや争いなどの悪感情に()らわれてしまうことがあります。そのためにも、ハレルヤ」をからだ()み込ませておきましょう。力強く美しい詩は、魂に刻まれ続けます。もちろん、メロディーに乗せて、賛美するのは善いことです。

命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう」……ここで詩人は自分の「」または「生涯」に目を向けています。言い換えれば、それは「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけを「生涯」の課題とするということであります。

それは自分の努力によって、というよりも、神が「わたしの命」を(さず)けてくださったことへの感謝によって、果たすことができるものでしょう。の点は、他の人が励まし得ても、「わたし」に代わることはできません。

詩人は、「わたしの魂」を傾けて、生涯にわたり、「わたしの神にほめ歌をうたおう」と心を定めています。ありあまる恵みをいただいている神への感謝が、その思いを支えています。

ハレルヤ、主を賛美せよとの呼びかけの次に、何が来るのか、ここでわたしたちの信仰は一挙(いっきょ)に深められます。すでにそのような信仰を持っている人は、幸いです。

次に来るのは、ひと言でいえば、悔い改めです。自らの欲望や高ぶりなどの罪をざんげします。なんだか、格調高い詩編が盛り下がりそうと言うのは、浅はかです。

パウロは、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)と述べました。わたしたちは「罪が増したところ」をよく知り、受け止めねばなりません。この世や自分の内に、あふれるほどの悪があることを認めるのです。そこで、自分が罪悪と戦おうとしたり、あるいは、いたずらに他の人々を批判したりしてはなりません。それこそ、サタンの思う(つぼ)となります。

そうではなく、「恵みはなおいっそう満ちあふれました」との信仰に立つことこそ、罪の増殖に打ち勝つ唯一の手立てなのです。主イエス・キリストが十字架と復活の御業を成し遂げられたことを信じることです。なぜなら、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)ということなのですから。

その神からの「恵み」については、.で、どのように詩編の中で展開されているのか、見ることにします。その前に、この世に生きる詩人の赤裸々な罪の告発を経由することにしましょう。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)を持つ人こそ、賛美の達人なのです。 

 

Ⅱ 君侯に()り頼んではならない            

詩編146:3-4――

3 (くん)(こう)()り頼んでならない

人間には救う力はない。

4 が人間を去れば  人間は自分の属する土に帰り

その日、彼の思いも滅びる

以上のように、詩人はわたしたちを悔い改めに導くために警告しました。絶妙なのは、罪深い「人間」の代表として(くん)(こう)」を例示していることです。というのも、社会的地位の高い「君侯」はしばしば、欲望や高ぶりの罪を犯し、周囲の人間に悪影響を及ぼすからです。

彼らは他の人々が自分に「依り頼んで」くるように振る舞います。欲に駆られた人々は、彼らが偽善者であることを見抜けません。そのようにして、「君侯」は神信仰をないがしろにし、民を偶像崇拝に走らせます。主への讃美よりも、自画自賛によって栄華を築き上げようとします。

それに対して、詩人はどんな「人間」にも「救う力はない」と宣言しています。主なる神が現される「救う力」とは、どのようなものであるかは、この詩編の後段(こうだん)で歌い上げられます。

ここでは、(ことわざ)風に、「霊が人間を去れば  人間は自分の属する土に帰る」と述べるにとどめています。この句を簡潔に説明すると、こうなります。

主なる神は、人間アダム :3の鼻に命の息を吹き入れられました。こうして、人は生きる者となりました。しかし、「人間」が息を引き取って死ぬと、「自分の属する土アダマ :4に帰り」ます。「人間」(アダム)が「」(アダマ)に属するというのは、もともと主なる神が土の(ちり)で人を形づくられたからです(創世記2:7)。

人間に「依り頼んではならない」のは、人にはそのようなはかなさがあるからです。それに加えて、詩人は「その日、彼の思いも滅びる」と告知しています。

彼の思い」には、踏み越え得ない限界があるということです。()しき「思い」が「滅びる」のはもちろんのこと、人の善い「思い」も死によって永遠に中断されます。

詩人は、神によって救われるべき者として御前に立っています。「(くん)(こう)」の欲望や高ぶりなどを、我が事として、人生の日々を顧みています。「(ちり)にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)というはかなさを見つめて、ひたすら神に「依り頼もう」としています。

詩人は人並み外れた忍耐や賢さを持っているわけではありません。日々、罪を悔い改め、へりくだって神を礼拝するのは、決して容易なことではありません。「命のある限り」の、その(すき)()に、慢心(まんしん)や自信過剰が忍び入って来ます。

そのような詩人にとって、賛美のアンソロジー(()()(しゅう)は大きな支えとなります。区切らないで、最後まで一挙に掲げましょう。それによって、わたしの「」や「生涯」(:2が、主の永遠に支配されている「()から()」(:10)に()け渡されているのが眺められるでしょう。

 

Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる   

詩編146:5-10――  

5 いかに幸いなことか ヤコブの神を助けと頼み

主なるその神を待ち望む人

6 天地を造り

海とその中にあるすべてのものを造られた神を。

とこしえにまことを守られる主は

7   (しいた)げられている人のために裁きをし

飢えている人にパンをお与えになる。

主は(とら)われ人を解き放ち

8 主は見えない人の目を開き

主はうずくまっている人を起こされる。

主は従う人を愛し

9   主は寄留の民を守り

みなしごとやもめを励まされる。

しかし主は、(さか)らう者の道をくつがえされる

10 主はとこしえに王。

シオンよ、あなたの神は代々(よよ)に王。

ハレルヤ

ここで詩人は「幸いなるかな」の門をくぐりました(詩編1:12:12)。後は、まっしぐらに「この道」(使徒9:2)を行くのみです。ここには、「幸いな」のは、どんな人か、言い表されています。

ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人……人生の分かれ道で、「神を助けと頼む」ことを選び取った人が「幸いな」のです。神はあなたが「幸いな」道を進むように招いておられます。

そのようにして、「幸いなるかな」の門をくぐり抜けて人の耳に、賛美のアンソロジー(()()(しゅう)が聞こえてきます。それは、主なるその神を待ち望む人」に贈られるにふさわしいものです。順に賛美を読んでいきましょう。

天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は」……詩人はまず、創造主なる神をほめたたえています。「天地を造られた」神が「とこしえにまことを守られる」ということで、広大無辺な時空間を造られた神とその御業を指し示しています。

すべてのものを造られた神」だからこそ、安んじてわたしの命:2)を(たく)すことができます。パウロは、「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を(さず)かっています」(フィリピ4:12)と述べています。ここには、詩人と同様に、「わたしの命」を造り、救い、そして保ってくださる神への信仰が告白されています。

ところで、賛美のアンソロジー(()()(しゅう))とご紹介した通り、この6節から9節までにわたって、詩人は神をほめ歌っています。詩の文体も整然と、動詞の分詞形形容詞の複数形が並べられて、(あん)(しょう)しやすくなっています。要するに、

主なる神は、 天地を造り、 まことを守り (しいた)げられている人のために裁きをし、

飢えている人にパンを与え、 ()らわれ人を解き放ち、 目の見えない人の目を開き、

うずくまっている人を起こされ 従う人を愛し、 寄留の民を守る

というように、連続しています。

このように基本的に、主なる神の憐れみ深さが、数々の御業を通して描かれています。これらの中から一つ、主はうずくまっている人を起こされるに焦点を当てましょう。

人はしばしば、つまずいたり、倒れたりします。自分の不注意で、怪我(けが)したりもします。一般的には様々なケースが想定されますが、詩人が注視しているのは、罪の重荷に耐えきれずに「うずくまっている人」だと思われます。

その上で、ここでは、主はうずくまっている人を起こされるとの預言が主イエス・キリストにおいて成就したとの観点から読み解きましょう。

ヨハネ福音書8:6-8――

6 イエスを(ため)して、訴える口実(こうじつ)を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。

姦通の現場で()らえられた女」(ヨハネ8:3)はまさに罪の重荷に耐えかねる情況にありました。彼女は死刑に処せられる大罪を犯してしまいました(レビ記20:10)。

そこは、神殿の境内(けいだい)で、律法学者たちやファリサイ派の人々が見守っていました。その時、「イエスはかがみ込み……そしてまた、身をかがめ」られました。そのようにして主イエスは徹底して、罪の重圧に苦しんでいる人に寄り添われました。

それから、人間の罪すべてを背負われる主イエスが「身を起こして」、立ち上がられました(ヨハネ8:10)。罪を赦す愛の御業によって、女は解放されました。ここに、「主はうずくまっている人を起こされる」との預言が成就しました。

さて、数々の御業を通して、主なる神の憐れみ深さを訴える詩の最後の部分を確かめておきましょう。

しかし主は、(さか)らう者の道をくつがえされる」……皆さんもお気づきのように、(さか)らう者ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とは対照的な行く末が待ち構えています。(さか)らう者」のようになってはならないと、(くぎ)が刺されています。何と行き届いた賛美なのでしょうか。

そして、賛美は(りゅう)(れい)に変奏されつつ、初めに回帰します。

主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々(よよ)に王。ハレルヤ」……変奏と言ったのは、「わたし」は背景に退いて、ハレルヤ、主を賛美せよ」が前面に出ているからです。

そして、被造物全体を代表する「シオン」(都エルサレム)が、「」として天地を「とこしえに」支配される神をほめたたえるよう呼びかけています。

この詩編146編・最終節の預言も、主イエス・キリストにおいて成し遂げられました。

マタイ福音書21:5 主イエスのエルサレム入城――

 シオンの娘に告げよ。

見よ、お前の王がお前のところにおいでになる

柔和な方で、ろばに乗り、

荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』

主イエスは「」としてこの地上に遣わされました。そして、「うずくまっていた」シオンの娘、(あわ)れなる女が「起こされ」ました。この出来事は信仰者たちに、「ハレルヤ」から「ハレルヤ」へ、歌う力を注ぎ入れるに違いありません。賛美している信仰者たちの中心には、主イエス・キリストがおられます。

ここで、本日取り上げた新約のテキスト・Ⅰペトロ4:6詩編146とのつながりをお話しします。

詩編146編では、ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」と(くん)(こう)」・「人間」(アダム)・「逆らう者とが対照的に描かれていました。両者の相違は、」において生きるのか、それとも、において生きるのか、にあると言えます。

一方、「の人はキリストの「」の支配にあずかっています(ローマ8:9)。その中心点は、とりもなおさず、主イエス・キリストの十字架と復活、神の愛・正義・希望を信じているということにあります。他方、「」の人は罪に売り渡されています(同上7:14。彼らの欲求や誇りは決して充足されません。とどのつまり、彼らは現状に対する不安や死への恐怖によってがんじがらめになっています。

驚くべきことに、福音によれば、この世の生涯において、「」において生きた人のみならず、」において生きた人も、主イエス・キリストの宣教の対象であるとされています。

」において生き死んだ人がなお、主イエス・キリストの救いにあずかり得るとは、どういうことなのでしょうか。もしそうだとすれば、とこしえに至るまで賛美される主の御業は、まことにわたしたちには(はか)り知り得ないものであります。

 

Ⅳ 霊において神によって生きる            

ペトロの手紙 4:6――          

死んだ者にも福音が告げ知らされたのは彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。

少し内容が理解しづらいと思います。これと並行する聖句を挙げましょう。

ペトロの手紙 3:19――          

そして、霊においてキリストは、()らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。

すなわち、肉において裁かれて死んだ」人捕らわれていた霊たちであると分かります。キリストは、「肉において裁かれて死んだ」人のところ、つまり、陰府(よみ)にまで下って、今も福音を宣べ伝えておられます。キリストの」の支配は、そこにまで及んでいるのです。畏れ多いことです。

これもまた、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ……(Ⅱコリント12:9)ということを立証しています。

捕らわれていた霊たち」とは、この世にいる間に救われなかった人間を指しています。彼らは、キリストを知らずして「死んだ」人、あるいは、数々の罪を犯して「肉において裁かれて死んだ」人に属しています。

ということは、詩編146編における神を助けと頼む人」と(くん)(こう)」・「人間」(アダム)・「逆らう者」との区分が、主イエス・キリストの宣教によって打ち破られたということです。しかし、キリストの「」の支配または聖霊の導きに依り頼む人が、「霊の人」(Ⅰコリント2:15)が「幸い」のは変わりありません。

なぜなら、「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけに答えて、生涯を全うしたキリスト者こそ、「幸い」だからです。人生、山あり谷あり、「ハレルヤ」がこだまするように、歓喜と感謝をもって歩んで行きましょう。

W

 

 

〈説教の要約〉

2024年 10月13日  聖霊降臨節 第22主日

   主日礼拝        日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

 

マタイによる福音書14:22~33 

                      神奈川教区・巡回教師 貴田(きだ)(かん))

 「ペトロの信仰」要約

ここに登場するペトロは私にとってはペテロと云う方が馴染み深い名前です。イエス様は神様と同様の存在ですから、聖書の登場人物の中で、最も好きな人物です。この聖句では、弟子たちは、イエス様と別れて、弟子たちだけで、舟に乗り、湖の向こう岸に向かっている途上の出来事です。弟子たちは、一晩中風と波とに翻弄されて、岸辺から1キロメートル位の所にいます。夜明けごろ、弟子たちは、湖の上を歩いて来られたイエス様と出会います。私がペトロを好きな理由の一つですが、イエス様と出会えた安心からか、ペトロは舟から少し離れたところにおられるイエス様に、湖の上を歩いて、イエス様の下に行かせて欲しいと頼みます。そして、イエス様はそれをお許し為さいます。しかし、ペトロらしいのは、強い風に気が付いて、溺れそうになります。私がペトロの信仰が素晴らしいと思うのは、「主よ、助けてください」と叫べる事です。その時、イエス様はしっかりと、ペトロを(つか)んでお助け為さいます。1枚の絵画が有ります。私はその絵葉書を手作りの額縁に、入れた物を、母教会の牧師から頂きました。額縁に貼り付けて有るので、その絵画の題も、作者も、分かりません。この場面を描いたものですが、イエス様が腰まで沈んだペトロの腕をしっかりと掴んで居られます。ペトロは何も掴んで居ません。イエス様が私たちを支え、助けて下さる時も同様だと思います。私たちも、ペトロの様に、全てをイエス様に委ねれば、良いのです。私たちがそうした時、イエス様が私たちをしっかりと掴んで下さいます。しばしば、この小舟は、強風と荒波の中に有る教会に譬えられます。今、日本基督教団の教会は高齢化が進み、教会で、若者を見る事が少なくなりました。今がイエス様に全てをお委ねして、ペトロの様に、「主よ、助けてください。」と叫ぶ時です。

 

 

〈説教の要約〉

2024年 10月6日       日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会 

聖霊降臨節 第21主日

旧約聖書 エレミヤ書 15章18節(P.1206

新約聖書 マルコによる福音書 5章21節~34節P.70

説  教「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると       

                    ……マルコ5:21-24            

Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた 

                         ……マルコ5:25-26

Ⅲ (なに)(ゆえ)にわたしの痛みは()え間なく続くのか

                          ……エレミヤ書15:18  

Ⅳ 女は後ろからイエスの服に()れた

                              ……マルコ5:27-29           

Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた 

                    ……マルコ5:30-31  

Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った  

                           ……マルコ5:32-34 

 

主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。安息日に会堂に入ったり(マルコ1:213:1-2)、(じん)()に招かれたりして(同上2:13:20)、神の教えを()いておられました。その上、今読んでいるテキスト(マルコ4:355:43に出てくるように、風や湖を従わせる奇跡、悪霊の追放、そして病気のいやしを行われました。

主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-123:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。

或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。ところが(はか)らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。

確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と出合い会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。主イエスは、12歳の少女のいやしと12年間出血を(わずら)っている女のいやしとに向き合われています。一体、主イエスはどのように、緊急事態中の緊急事態に対応されるのでしょうか? 

わたしたちの関心は、()(とく)状態の人(マルコ5:23)が助けられるか(いな)か、に向いてしまいがちです。しかし、くり返しますが、主イエスがどのようなお方であるかを、 によって見て、知って、信じることが大切なのです。

 

Ⅰ イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると       

マルコ福音書5:21-24――            

21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。

時系列をたどると、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」(マルコ4:35)というゲラサ地方の伝道を終えて再び、ということになります。

ですから、ここで「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」というのも、「夕方」のことかも知れません。いずれにしても、「一日が夕方から始まる」(創世記1:5)という時に、主イエスは驚くべき御業を成し遂げられます。そうして、湖畔の闇のただ中に、神の栄光が(とも)されます。

大勢の群衆がそばに集まって来た」という雑踏を()き分けて、「会堂長の一人でヤイロという名の人」が主イエスのもとにたどり着きます。そして、主イエスを見て、言いました……「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。

ヤイロは苦悩のどん底に置かれています。闇の中に、ひと筋の希望を見出そうとしています。「足もとにひれ伏して、しきりに願った」という主イエスへの信頼が、今のヤイロを支えていました。

湖畔の道端(みちばた)からヤイロの家へ……一刻の(ゆう)()も許されません。主イエスは、12歳の「娘が死にそう」な緊急事態を受け止められ、「ヤイロと一緒に出かけて行かれ」ました。「大勢の群衆も、イエスに従い」つつ、その後を追いました。

そのようにして、緊張がますます高まっていく中、マルコ福音書はもう一人の、(やまい)を負った女の存在を告げます。何もこんな時に出て来なくてもと、邪魔者扱いされそうですが、その女の事情が丁寧に描き出されます。

 

Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた          

マルコ福音書5:25-26――

25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。

この女は(やまい)を負い、傷つき苦しんでいました。また、孤独であったに違いありません。というのも、モーセの律法に「男女の(ろう)(しゅつ)による(けが)れと清め」との規定があったからです。すなわち、「25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は(けが)れており、生理期間中と同じように汚れる。26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている」(レビ記15:25-27)と指示されていました。

ということは、「十二年間も出血の止まらない」というその期間、彼女は町や村の共同体から遠ざけられる存在であったということです。独りで苦しみに耐えるしかありませんでした。人前に出ることさえ(はばか)られました。

しかし、()(かん)にも彼女は(やまい)と闘いました。「直りたい」との気持ちを捨てなかったのです。それにもかかわらず、多くの医者にかかって……全財産を使い果たしても……」、病はいやされませんでした。モーセの律法が、病身の彼女にのし掛かっていました。「その期間中は(けが)れている」以上、祭司はじめ衆人環視のもとに置かれていました。

そんな女のもとに、①〈初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-123:5)という宣教をされているお方のうわさが入って来ました。聞けば、舟に乗って湖畔の群衆にたとえを話したり、また、通りがかりに様々な人々に語りかけている(マルコ1:16,192:144:1-2)ということです。ガリラヤの自然のように、心の広いお方であると、彼女は思ったかも知れません。

十二年間も出血の止まらない女」がどんな行動に出たかを見る前に、哀しみを知る人エレミヤの苦悩について説き明かしましょう。なぜ、エレミヤは「負わされた傷は()んで悪臭を放ちます」(詩編38:6)というほどに、()(じゅう)をなめなければならなかったのでしょうか。神はエレミヤを見捨てられたのでしょうか。

 

Ⅲ (なに)(ゆえ)にわたしの痛みは()え間なく続くのか            

エレミヤ書15:18――  

なぜ、わたしの痛みはやむことなく

わたしの傷は重くて、いえないのですか

あなたわたしを裏切り

当てにならない流れのようになられました。

これは、「エレミヤの(うった)」と呼ばれているテキストの一節です。エレミヤは「あなた」なる神に(たい)()しています。実際、直後の1921節には、エレミヤへの主の返答が記されています。

最大の問題は、神に「諸国民の預言者」として立てられ聖別されたエレミヤ(1:5)がどうして苦悩のどん底に落ち込んでいるのか、ということです。神に遣わされているならば、「わたし預言者は力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)はずなのに、何とエレミヤは情けないことかと、あなたは思われるでしょうか。

預言者の苦悩……それは、安楽(あんらく)椅子(いす)に座っている学者の理論では知り得ないものがあります旧新約聖書が描き出す預言者や伝道者の姿はリアリティそのものです。そこには、神と民衆との間に立っている葛藤、あるいは、人間の不信仰や絶望を(かい)()見ている恐れと(うれ)いなどによって、彼らはしばしば(しょう)(すい)・衰弱することがあります。

預言者が群衆に、神の愛と義を唱えれば、一部の者から()(せい)を浴びせられます。彼らは自己中心であり、自分の生活を変えられたくないからです。

コリントの信徒への手紙 2:3――

わたしがそちらあなたがたのところに行ったときわたしは弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。

パウロは自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。パウロはコリント教会の、少なくとも一部の人々が知っている事実を元に訴えています。というのも、(この手紙を書くおよそ2年前)パウロは1年半ほどコリントにとどまって伝道していたからです(使徒18:11)。

しかし、パウロの打ち明けた「衰弱恐れひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。これはある意味、真の「キリストイエスの(しもべ)」には避けられない体験でありました。それほどまでに、パウロはコリントで、神の言葉を教え、身を()にして働いたのです。

さて、エレミヤに、ひいては、十二年間も出血の止まらない女に話を戻しましょう。

エレミヤは、「わたしの痛み」と「わたしの傷」を、「わたしを裏切り 当てにならない流れのようになった」かに見える神に訴えました。ここで、注解者のC.ヴェスターマンは、「エレミヤは徹底的に神に抵抗した。このように()めようのない痛みの中から、エレミヤは鋭い言葉で神を告発する。大切なことは、たとえ神に対する告発であったとしても、その言葉が神に向けて語られた言葉であった、という点である」と述べています。

従って、「十二年間も出血の止まらない女」が救われるかどうかは、彼女が主イエスの御前に自分を包み隠すことなく、主に依り頼むかどうか、に掛かっています。「やむことない痛み」と「重くて、いえない傷」に(くっ)することなく、慈しみに満ちた神からの答えを待ったエレミヤは、間違いなく彼女の先駆者たる人物です。果たして、人を隔離に追いやるモーセの律法を乗り越えて、彼女は主イエスと対面することができるのでしょうか?

 

Ⅳ 女は後ろからイエスの服に()れた                    

マルコ福音書5:27-29―― 

27(彼女は)イエスのことを聞いて群衆の中に(まぎ)れ込み後ろからイエスの服に()た。

28 この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。

イエスのことを聞いて」との一句によって、主イエスに対する彼女の期待が分かります。願わくば、仮に彼女の期待通りに行かなくても(参照:たといそうでなくても / but if not ダニエル書3:18)、主イエスに従い続けることです。そうすれば、やがて彼女の期待は、主イエスへの信仰に変えられます。      

群衆の中に(まぎ)れ込み」……幸いにも、主イエスに押し迫るほどの群衆が、彼女の隠れ(みの)となりました。そして、彼女は「後ろからイエスの服に()」ました。

実は、イスラエル人の男子の衣服には「()(すみ)(ふさ)が縫い付けられて」いました(民数記15:38)。主イエスの服に「」が付いていたかどうかは不明ですが、聖なる「」に触れるようにして、女は主イエスの御力にあずかりました。本来、律法には、「あなたたちが房を見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(同上15:39)と規定されています。

女はおそらく、「服の(ふさ)をただ見ているだけ」という律法を知らなかったのでありましょう。しかし、「イエスのことを聞いて」、それが動機となって彼女は主イエスとの交わりを()い願いました。群衆の誰かに、正体が気づかれれば、外に引きずり出されてしまいます。去れ、(けが)れた者よ」、「去れ、去れ、何にも触れるな」(哀歌4:12)と。

彼女は(いち)()の望みを「後ろからイエスの服に()れる」ことに(たく)しました。というのも、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。雑踏の中、彼女は決死の覚悟で、主イエスに近づきました。そうして、「イエスの服に()れる」ことができました。

すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」……彼女の「いやしていただく」との願いは「すぐに」聞かれました。それはあたかも、「十二年間も出血の止まらない女」が祈る先から、神が彼女の願いを聞き届けておられたかのようです(マタイ6:8、イザヤ書65:24)。すぐにいやされた女から、「すぐに」気づかれた主イエスへと、焦点が切り替えられます。それによって、主イエスと女の出会いは()るぎないものとなります。

 

Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた 

マルコ福音書5:30-31――  

30 そしてイエスはすぐに自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」

主イエスは、御自身の服に()れ、すぐにいやされた女に、「すぐに」気づかれました。なぜなら、「自分の内から力が出て行った」からです。わたしたちの信仰において、神ならびに主イエスの「」を受けるというのは、とても大切です。

コリントの信徒への手紙 2:5――          

それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。

ルカ福音書6:19――

(ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方からやって来た)群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。

神の」が主イエスを通じて、人々に分かち与えられます(Ⅱコリント12:9)。「イエスから力が出て」、現実に病気のいやしや悪霊(ばら)いが成し遂げられます。その御業にあずかった者は、「体に感じた」と証言しています(マルコ5:29)。何よりも、「イエスから出た力」は、神ならびに主イエスと信じる者との交わりを強めます。

使徒パウロが述べている「神の力によって信じるようになる」との言葉は、それを実証しています。すなわち、神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されます。「神の力」の影響が、わたしたちの生活の隅々にまで及びます。と力 の働きに押し出されて、わたしたちは善い(わざ)に励むようになります(Ⅰコリント2:4、コロサイ1:10)。

ところで、主イエスの弟子たちは、「後ろから」忍び寄って来た女の存在に気づいていません。それは、主イエスの問いへの答え、「それなのに、『だれがわたし(イエス)に触れたのか』とおっしゃるのですか」から分かります。彼らの視界には、病を負って苦しんでいた孤独な女が入っていません。

その時の情況を踏まえて、その理由を二つ挙げましょう。

①「幼い娘が死にそうな」ヤイロの家に急いでいたから。

②「群衆があなた(イエス)に押し迫っている」ので、必死に主イエスを()(えい)していたから。

このように弟子たちの内心を(さぐ)ってみると、主イエスの態度との違いが明らかです。

主イエスは、助けを求めてきた一人に心を配られました。そして、緊急事態においても、中断するのを(いと)われませんでした。つまり、(しゃ)()()()に前へ前へ、というのではなく、とどまる必要がある時には、休止されました(マルコ1:353:9)。主イエスは神の栄光を現すために、〈中断する〉勇気を持っておられたということです。

そこで主イエスは、〈途上〉の緊急事態に立ち向かわれました。この場面でいえば、大群衆の中に、「わたしの服に触れたのはだれか」、探し出そうとされました。

 

Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った                

マルコ福音書5:32-34―― 

32 しかし、イエスは、()れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、(ふる)えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」

イエスは、()れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」……この主イエスの様子は、「見失った羊のたとえ」の一節を思い起こさせます。

ルカ福音書15:4――

「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで(さが)し回らないだろうか。」

わたしたちが真に主イエス・キリストに出会うためには、羊飼いなる主によって「見つけ出され」ねばなりません。なぜなら、主イエス・キリストによって、自分が「救われる」ことが出会いの原点だからです。

そうして自分が「救われる」ならば、「羊のために命を捨てる」、慈しみ深いお方(ヨハネ10:11)につながれます。逃げ出したり、隠れたりしてはなりません。

出血が止まって病気がいやされた女」の場合は、どうだったでしょうか。

女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、(ふる)えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」……驚き、恐れ、()じらいなど、いろいろな感情が入り交じっているように思われます。注目すべきは、進み出てひれ伏し」と「すべてをありのまま話した」との二点であります。

進み出てひれ伏し――

 悪霊に取りつかれていたゲラサの男も、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」ました(マルコ5:6)。「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈〉、そして、自分が〈〉という主従関係が結ばれたことです。

すべてをありのまま話した――

これは、主イエスの招きに対する、「救われた」者の感謝をもっての応答です。「すべてをありのまま話す」という姿勢が保持されていれば、きっとこの人は、神に何でも打ち明ける祈りの生活に入っていくことでしょう。

自分の「ありのまま」というのは、神によってひっくり返されることと矛盾するのではないか、と問われるでしょうか。それは善い質問です。その答えを導き出すには、「ありのまま」の原意は真実アレーセイア)であることを知らねばなりません。

つまり、神の「真実」がわたしたちの体験し生活している「ありのまま」を支配しているということです。従って、神の「真実」が、自分の固執しているありのまま、あるいは、ねたみと争うに満ちた「ありのまま」を変えることがあります。そうであってもまずは、この女性のように、「すべてをありのまま話す」ことが大切です。

最後に、.で確認した、主イエスの宣教の基本線に立ち返りましょう。すなわち、主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに罪の赦しを教える(マルコ2:53:28⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-123:5)との宣教をくり返していたということです。

十二年間も出血の止まらない女をいやす」というのは、緊急事態中の緊急事態、途上()き起こされた出来事です。急ぎがちになるような〈途上〉においても、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのでしょうか?

イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」……というように、病気のいやしの物語は結ばれています。

結論的にいえば、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのか、に対する答えは、「はい、その通り。基本線が明確に確認できます」ということです。

そこで、「娘よ、あなたの信仰があなたを救った安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」との主イエスの言葉の配列に着目してください。

初めに、①あなたは主イエス・キリストを信じる、そして次に、②あなたは主にあって平安と健康を(きょう)(じゅ)する、という流れになっています。

確かに、時系列上は、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされた」(②の治癒(ちゆ) マルコ5:29)が先行しているように見えます。しかし、さかのぼるべき出発点は、「(彼女は)イエスのことを聞いて」(同上5:27)という事実にあります。つまり、彼女は人づてであれ、主イエスによって伝道されていたのであります。彼女がすでに、「たとえの連続公開講座」(マルコ4:1-32)の興味深い話、あるいは、人の罪を赦すという福音(同上2:103:28)を「聞いて」いたとしても不思議ではありません。

そのような一人の女性が、「振り返られた」主イエスのまなざしの中に置かれています(マルコ5:30)。そして彼女は、主イエスの御前に「ひれ伏して」います。主は親しみを込めて、その女に「娘よ」と呼びかけられました。ふたりの関係は、「あなたの信仰」によって堅く結ばれています。

この女性はこれから将来にわたり、健康はじめ、すべてのものが神から与えられる(Ⅰコリント4:7)という幸いな人生を送ることになります。

ローマの信徒への手紙11:36――

すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。

W

 

 

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月報9月号

説教 風はやみ、すっかり(なぎ)になった

マルコによる福音書 4章35節~41節      

小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 向こう岸に渡ろう         ……マルコ4:35-36             

Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか 

                   ……マルコ4:37-38

Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる    ……詩編89:10  

Ⅳ すると、風はやみ、すっかり(なぎ)になった  ……マルコ4:39          

Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか ……マルコ4:40-41 

 

主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-452:1-123:1-6,

10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:355:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。

それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:16:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-85:20)。

ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括(そうかつ)してくれませんか、ということです。

確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが 初めに罪の赦しを教える⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-123:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。

マルコ福音書の著者はまさに によって、読み手をここに導くという企図(きと)を持っていました。それが、ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する(マルコ8:27-308:319:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう(マルコ4:41との問いへの答えも示されています。

それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。

 

Ⅰ 向こう岸に渡ろう            

マルコ福音書4:35-36――             

35 その日の夕方になって、イエスは、向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。

36 そこで、弟子たちは群衆を(あと)に残し、イエスを舟に乗せたまま()ぎ出したほかの舟も

一緒であった

 その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:326:4714:17など)。

 重要なのは、夕方になって、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に(たい)()させられます。そこで、

わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:355:43)。

 夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために(つく)られる一日であり主の日であり、

わたしたちの一生涯の日々なのです。

そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。

ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の(しょう)(へき)を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。

出エジプト記14:13,15-16 (あし)の海の岸辺で――

13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 (つえ)を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。

ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――

ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を(かつ)ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。

神は闇雲(やみくも)に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を(ふっ)(しょく)して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。

主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。

弟子たちがイエスを舟に乗せたまま()ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であったということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この

光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、神は我々と共におられる(マタイ1:23)ことが頼みの(つな)です。自分は元漁師で、舟を(あやつ)るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。

 

Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか 

マルコ福音書4:37-38――

37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸(みずびた)になるほどであった。38 しかし、イエスは(とも)の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですかと言った。

向こう岸」に()いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの(つな)としているのか、が(あば)き出されます。

激しい突風」をより原意に即して言うと、巨大な嵐の突風となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。突風」、「」、「水浸(みずびた)……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が(つの)るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。

しかしその時、漆黒(しっこく)の世界に、「(とも)の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの(つな)としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。

幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が(あら)わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに罪の赦しを教える⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-123:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。

そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、先生あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですかとなります。

これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が()しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:3514:45)。

では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。

わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。突風」、「」、「水浸(みずびた)」という悪循環の中でも、「イエスは(とも)の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。

ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸(みずびた)しになるほど」の危難に()った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。

 

Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる     

詩編89:10――

あなたは誇り高い海を支配し

波が高く起これば、あなたはそれを静められます

わたし」なる詩人が、神の慈愛や()(こう)を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった」と「大きくうねる波」とに(たい)()しています。悪霊のごとく」や「は猛威を振るい、被造世界を混沌に(おとしい)れようとしています。

詩人は身を(ひそ)めてその様子をうかがっています。その人は、神が「」を(つく)られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。

詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの(もとい)を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への

信仰を告白したのです。

この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを(おか)しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。

エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。

 

Ⅳ すると、風はやみ、すっかり(なぎ)になった   

マルコ福音書4:39――          

イエスは起き上がって、風を(しか)湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり(なぎ)になった

主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。」や「」と相対(あいたい)する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これは

まさに、死からのよみがえり起き上がり)を予告する出来事です。

このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を(しか)り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。

巨大な(メガレー)嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な(メガレー)」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。

弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で によって目覚めさせ

られる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。

 

Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか   

マルコ福音書4:40-41―― 

40 イエスは言われた。「なぜ(こわ)がるのかまだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。

主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。

まず主イエスは、「突風」、「」、「水浸(みずびた)」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは(こわ)がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の(おく)(びょう)と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。

まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。

いまだに」を「すでに」と反転すれば、すでに信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに罪の赦しを教える⇒②次に病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。

弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?

主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。

主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この(たび)の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する(マルコ8:27-308:319:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。

いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに(つちか)われました。

主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが によってイエス・キリストを信じるよう導き、()()し、祈っておられたのです。

 

W

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〈説教の要約〉

2024年 9月29日       

聖霊降臨節 第20主日

旧約聖書 イザヤ書 55章1節~5節P.1152

新約聖書 ヨハネによる福音書 4章13節~14節(P.169

説  教「ああ、渇いている者は皆、来なさい」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ああ、(かわ)いている者は皆、来なさい     

                                    ……イザヤ書55:1-3前半             

Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ 

                                    ……イザヤ書55:3後半-4

Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける 

                                    ……イザヤ書55:5  

Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない  

                                    ……ヨハネ4:13-14          

結 

 

主イエス・キリストの十字架と復活の力によって、わたしたちの人生や考え方はひっくり返されます。そして、ひっくり返されると、どうなるかと言えば、神の祝福が大河のように押し寄せてきます。

天からの祝福の流入を、「遠慮」や「独占」によって()()めるのは()めましょう。自分の飢え渇きをもって祝福にあずかりましょう。「貯めておこうか」と思うときには、隣の人に分かち与えましょう。

このような姿勢を取るのは、意外に難しいことかも知れません。では、あるがまま、で良いでしょうか、と問われるでしょうか? ハイと言いたいところですが、あるがままだと、大概(たいがい)、自分に、つまり自分の欲望や誇りに力が入ってしまうことでしょう。そこで、パウロはあるべき信仰者の姿を、心を開いて「霊で賛美の祈りを唱えている」(Ⅰコリント14:16)というように提示しました。祈りをもって天を(あお)いでいる、賛美して喜んでいる……すでに多くの方が知っておられた通りのことです。

ここで、このような前置きを書いている理由を要約しましょう。すでに触れていることなのですが……。

それは、神の祝福が圧倒的な勢いで、主イエス・キリストを信じ、聖霊によって導かれているわたしたちの生活の隅々にまで流れ込んでくることを、心に刻んでおくということです。そしてそのことを、実体験するために、第二イザヤが描出している神の祝福の(ほん)(りゅう)身心を(ひた)してみましょう、ということなのです。

そこで、アラムの軍司令官ナアマンの(てつ)を踏まないようにしましょう。神の人エリシャは、使いの者を通して、ナアマンに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王記下5:10)と命じました。しかし、(だい)の大人だだをこねて、家臣に、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(同上5:12)と言い返しました。そのように憤慨(ふんがい)したナアマン身を翻して立ち去りました

神の()やしにあずかるのも、神から祝福をいただくのも、同じことです。自分の欲望や誇りには、力が入りやすいので警戒しましょう。幸い、ナアマンの周りには、率直に助言してくれる家来たちと、重い皮膚病を(わずら)った人を憐れんでいる神の人エリシャとがおりました。ナアマンは彼らによって、神の御前にへりくだるように導かれました(列王記下5:14)。

それでは、さあ、「霊で賛美の祈りを唱えている」との心備えをもって、第二イザヤの最終章を読みましょう。イザヤ書55:1-5は基本的に、主なる神がイザヤを通して、イスラエルの民にメッセージを告げるという形になっています。

 

Ⅰ ああ、(かわ)いている者は皆、来なさい     

イザヤ書55:1-3前半――             

1 ああ渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい

銀を持たない者も来るがよい。

穀物を求めて、食べよ。

来て、銀を払うことなく穀物を求め

(あたい)を払うことなく、ぶどう酒と乳を得よ。

2 なぜ、(かて)にならぬもののために銀を(はか)って払い

飢えを満たさぬもののために労するのか

わたしに聞き従えば 良いものを食べることができる

あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう。

3 耳を傾けて聞き、わたしのもとに来るがよい。

聞き従って、魂に命を得よ。

新共同訳では訳出されていませんが、冒頭のああ」との嘆きを聞き逃さないようにしましょう(他にイザヤ書45:9,10)。というのも、その一句の内に、悲惨な民のただ中に身を沈められる神が表されているからです。主なる神は、災いから立ち直れない民と共におられます。神は時に厳しく、時に優しく、一人ひとりに寄り添っておられます。

主なる神は、民が立ち直るために必要なものを差し出されています。飢え渇いている者に、「」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「が無償で与えられます。「銀を持たない者も」、「銀を払うことなく」、そして「(あたい)を払うことなく」というように、3回もそれらがただであると強調されています。

悲惨のうちにあるイスラエルの民が(さと)るべきは、神の恵みの豊かさであります。わたしたちは、「」や「穀物」が安定供給される(さま)を見て、永遠に神の恵みが満たされるということを知らねばなりません。」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「」が不足しそうだと不安になるときにも、「ああ」と嘆いて、民に寄り添う神を信頼することです。

無償の恵みを受け取りなさいとの招きに続いて、神は民に忠告を与えています……「なぜ、(かて)にならぬもののために銀を(はか)って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか」。いくら神が助けの御手を差し伸べても、民が(あやま)ちを認め、立ち直ろうとしなければ、先に進みません。

ここで、「(かて)にならぬもの」と「飢えを満たさぬもの」というは、一体何を指しているのでしょうか?

イザヤの預言からは、「(つるぎ)(=戦争の象徴 イザヤ書51:19、「よろめかす(さかずき)」(=暴飲 同上51:22)、無用な「搾取(さくしゅ)」(=弱者を苦しめる貧困 同上52:4)などが挙げられるでしょう。また現代社会においても、「(かて)にならぬもの」ために、一部の人々はお金を浪費し自ら堕落する一方で、その隣人は飢餓(きが)により死線をさ迷っているということが起こっています。

この世の生活の中で、「」や「穀物」のことが気にかかるのは分かります。実際、イスラエルの民は荒野放浪を始めた()(たん)に、あのときは肉のたくさん入った(なべ)の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と不平を鳴らしました(出エジプト記16:3)。この愚痴を小耳に(はさ)まれた神(同上16:4、マルコ5:36)は、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを()らせる」と告知されました。神は速やかに、人間の「ああ」(イザヤ書24:1629:15)との嘆きに対処されました。

わたしたち・信仰者には、神と隣人を愛し、被造世界を保持していく務めが与えられています。その中で銀を(はか)って払い、労するという生活が(いとな)まれます。誘惑の多いこの世で、一体何のために、「銀を(はか)って払い、労する」のか、真剣に祈り求めることが大切です。

主なる神は、飢え渇いている者への語りかけを、招きから忠告へ、それから勧めへと展開していきます。

勧めの中心点は一目瞭然です……「わたしに聞き従えば」、「耳を傾けて聞きなさい」、そして、「聞き従いなさい」。「聞く」べき内容は、イザヤの口を通して宣べ伝えられています。

3回も「聞く」ように勧められているのには、(わけ)があります。それは、民が御言葉を耳にしながらも、「真に聞いていない」、つまり、「聞き従っていない」ことが生じているということです。

それ故に、民の(かたく)なさを見抜いておられる神は、民が「聞き従う」ように厳しく命じられたのです。(ただ)しい姿勢は、御言葉を「聞いて」心に(おさ)め、行うべきことを(おこな)って「従う」ということです。それならば当然、大河のように流れ下って来る神の祝福を()き止めるようなことはないでしょう。

 

Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ 

イザヤ書55:3後半-4――

3 わたしはあなたたちとこしえの契約を結ぶ

ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに

4 見よ

かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とし

諸国民の指導者、統治者とした。

初めに、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」と呼びかけられた、神の〈本気度〉がひしひしと伝わって来ます。神とイスラエルの民との契約」の特徴が克明に描き出されています。さらに、その「契約」に関して、「わたしは彼を立てた」ことと、その対象の拡大、つまり、「あなたたち」(イスラエルの民)が「諸国民」に(ひろ)られたこととが告知されています。

順に見ていきましょう。まず、「契約」の特徴を二つに分けて……。

①「わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ

神は「ああ」と叫んで、民の困難や堕落に介入されます。神は忍耐強く、預言者を遣わして、民に悔い改めるよう呼びかけられます。人間の側がどんなに「契約」にふさわしくない態度を取っても、神は見放されません。それが、とこしえの契約と言われる所以(ゆえん)なのです。

②「ダビデに約束した真実の慈しみのゆえに

ここに、神は なる御力をこの世に宿らせ、いつもわたしたちと共におられることが実証されています。神は、具体的・歴史的人物を通して、「とこしえの契約」を結ばれました。「ダビデ」は、争いと(ねた)に巻き込まれることが頻繁で、罪深い人です。けれども、神はダビデに油を注いで、イスラエルの国を建て直されました。「ダビデ」のさまざまな働きを、神は陰で支えておられました。

ところで、主イエスは「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ1:121:9)。主イエスは人の子として、「ダビデ」の家系にお生まれになりました(ルカ2:4)。それはつまり、「(神が)ダビデに約束した真実の慈しみ」が主イエスによって引き継がれ、拡大されたことを示しています。

神がイスラエルの民と結ばれた「契約」は、「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえ」なるものとなりました。

次に、「かつてわたしはを立てて諸国民への証人とした」との真意をつかみ取りましょう。

第二イザヤは、神が「彼を立てた」が故に、「契約」が確固たるものとなった、と述べています。それでは、一体「」とは誰なのでしょうか?

それは、第二イザヤが42章から53章にわたり預言してきたわたしの(しもべ)イザヤ書52:13、すなわち、苦難の僕であります。挫折と回復が交錯するような時代に、四つの(しもべ)の詩は歌い上げられました。そして、それらは、イスラエルの民が、ユダ王国崩壊とバビロン捕囚という大災難から、(いばら)の道を経て、立ち上がっていくときの、信仰の原動力となりました。

そうしたことを踏まえて、第二イザヤは最終章で、「かつてわたしは彼苦難の僕を立てて諸国民への証人とした」と総括したのです。もはや、神の「真実の慈しみ」、祝福の(ほん)(りゅう)は現実のものとなります。その顕著な現れこそが、「わたしの(しもべ)」が人々の罪すべて負い」(イザヤ書53:6,11)、その罪と過ちから救い出すということです。「諸国民」がその喜びの知らせにあずかるというのは、なんと幸いなことでしょう。それは、神が人々に「見よ」(ヘブライ語:)と呼びかけるほどに、画期的なことであります。

神は、今なお「(そむ)いている者たち」を見捨てられません。「(主の僕は)(そむ)いた者のために執り成しをした(原文:執り成しをするであろう)」(イザヤ書53:12)との言葉は文字通り、神の約束です。なぜなら、その約束は主イエス・キリストによって成し遂げられるからです。

 

Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける 

イザヤ書55:5――  

(=見よあなたは知らなかった国に呼びかける

あなたを知らなかった国は あなたのもとに()(さん)るであろう。

あなたの神である主

あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに

前詩行と並行して、導入句「見よ」(ヘブライ語:ヘン)が置かれています。「あなた」、すなわち、神の民は皆、じっくりとご覧なさい、ということです。そこには、神の国」を予兆するような、出来事が()り広げられています。

神の民として結集した「あなた」には、人の思いをはるかに超える形で、神の恵みが与えられています。これまでに挙げられた神の恵みには、圧倒されます。初めから整理して並べると……。

」・「穀物」・「ぶどう酒」・「」、そして、「善良」と「豊潤」(イザヤ書55:2)、あなたたちの「」と「」、さらには、「とこしえの契約」と「指導者」なる「」(わたしの(しもべ))がイスラエルの民と諸国民に与えられました。そして今、それらものは、わたしたち、「キリストに結ばれている者」(ローマ16:22)に、無償で授けられると約束されています。

このような神の恵みによって充足された「あなた」に、次なる展開が起こります。立ち直った「あなた」が今度は、「兄弟姉妹を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)ということです。

親しい「兄弟姉妹」の範囲が、「あなたの知らなかった国」まで(ひろ)げられました。渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との神の招きがすでに、はるか彼方まで届いているかのように、諸国民は速やかに応答します。船に乗って海を渡り、あるいは、らくだに乗って砂漠を越えて、彼らは「あなたのもとに()(さん)じて」きます。このようにして、「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(同上55:2)との預言が成就します。

第二イザヤの最終章・前半は、次の神の預言で閉じられます。ここでは、神の国」の予兆にふさわしく神の栄光が現されます。

あなたの神である主のゆえに あなたに輝きを与えられる 

イスラエルの聖なる神のゆえに

諸国民」が、「あなた」と呼ばれるイスラエルの民のもとに結集します。その時、「あなたの神である主」は、「あなたに輝きを与えられ」ます。神を信じる者にとって、これ以上の栄誉はありません。わたしたちが神の栄光を帯びるというのは、「土の(うつわ)のかけらにすぎない」人間(イザヤ書45:9)と神が一つになるためであります(ヨハネ17:22)。

ただし、それは(なま)(はん)()なことではありません。 によって、一人ひとりが決断しなければなりません。復活された主イエスは、悔い改めたペトロに、「あなたはその死に方で、神の栄光を現すようになる」(ヨハネ21:19)と告げられました。まことに(おそ)れ多いことです。同時に、自分が死ぬ時にも、「神の栄光」が現されるということに、どれほど慰められることでしょうか。

第二イザヤの預言は、主イエス・キリストの行いと言葉によって成し遂げられます。そうしてまさに、神とイスラエルの民との「契約」が、(イザヤの預言上の)「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえの契約」となることが実証されます。

 

Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない  

ヨハネ福音書4:13-14――          

13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」

これは、「」をめぐる主イエスとサマリアの女の会話からの引用です。一読して、イザヤ書55:1-3前半の神の招きと、大差はないと思われるかも知れません。確かに(おおむ)ね、渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との呼びかけと符合しています。しかし、先行するイザヤ預言があるからこそ、わたしたちは主イエスにおいて際立っている点を汲み取ることができます。

一方、第二イザヤは「あなたたち」、イスラエルの民に向かって叫びました。他方、主イエスは孤独なサマリアの女に語りかけています。主イエスによってすでに、ユダヤ人と異邦人との垣根は取り払われています。主イエスは「知らなかった国」(イザヤ書55:5)の女性に呼びかけています。

従ってここでは、主イエスがどのように、神を知らず、負い目を持つ人(ヨハネ4:18)の心を開くのか、が必見となります。「水に(あたい)を払うことはありませんよ」(イザヤ書55:1)と言えば、かえって警戒されそうです。

ヨハネ福音書4:7――

サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、水を飲ませてください」と言われた。

昼下がり、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました(ヨハネ4:6)。「水を飲ませてください」との言葉には、何ら不自然なところはありません。つまり、相手に不信感を与えていません。

ただし、ユダヤ人がサマリア人に声をかけること、そして、孤独と悲哀のうちに沈んでいたその女に助けが求められることは、極めてまれなことでありました。

主イエスは「渇きを覚えている者」となり、女が久しく忘れていたであろう善行を(うなが)されました。それが困っている人を助けるように、「冷たい水一杯を飲ませる」(マタイ10:42)ことでありました。こうして、主イエスはサマリアの女に立ち直るきっかけを与えられました。主イエスに対する、この小さな愛の(わざ)は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という信仰を植え付ける土台となることでしょう。

さらに、主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、驚くべき発言をされました。もちろん、このことは第二イザヤには書かれていません(比較:第三イザヤの58:11)。「」や「穀物」の安定供給は、ひとえに神の恵みに()かっていると示唆されましたが……

ところが、今主イエスは、「わたしが与える」かぎり、その「水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言明されました。主イエスを信じる者たちへの、何と大いなる祝福でありましょうか。

同時にこれは、主イエスにつき従う者たちに、大いなる使命が与えられたということであります。すなわち、「その人の内の泉」から「永遠の命に至る水」を()んで、罪人や病人に差し出すことです。そして、永遠の命に至る水がわき出る」かぎり、小さな者たちへの小さな愛の(わざ)くり返されます。

自分自身の世界に閉じこもっていた、一人の異邦人が主イエスによって解き放たれました。神と隣人を愛する人に変えられました。

 

主イエスは、第二イザヤの「渇きを覚えている者は皆、来なさい」との告知をしっかりと受け止められました。そして主イエスは、「水を飲ませてください」と言って、外国人女性に助けを求めるほどにへりくだり、わたしたちの弱さや疲れの中に入って来られました。

実は、主イエスは極限状況の中で、「渇き」を体験したお方でありました。それは、主イエスがサマリアを旅しておられた時、ヤコブの井戸のそばで覚えられた渇きをはるかにしのぐものでありました。

ヨハネ福音書19:28――             

この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「わたしは渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。

聖書の言葉(=詩編22:16が実現した」という通り、主イエスは十字架上で、神の御心に添って、焼き付くような口の「渇き」に苦しまれました。その点で、主イエスは心底から、人の「渇き」を体験されました。だからこそ、「渇いている人」を助け出すことがお出来になるのです。

主イエスは十字架上で、「わたしは渇く」と叫ばれた後に、死を遂げ、そして三日後によみがえられました。それによって、「わたしが与えるはその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との約束が成し遂げられました。

というのは、復活の主が、きのうも今日も、また永遠に(ヘブライ13:8)、「わたしが与える」という務めを果たし続けておられるからです。ですから、「わたしが与える水」は、「永遠の命に至る水」にほかなりません。

わたしたち・信仰者の前途には、飢え渇きが(ひそ)んでいます。しかし、試練の時にも、主イエスは、「永遠の命に至る水」を注いで、わたしたちの魂を(うるお)わせてくださいます。

そして、わたしたちは自分の内の「」の「永遠の命に至る水」をもって、自分と隣人の「渇き」を()やします。そうして神の国にたどり着いた者に、主なる神は、「永遠の命」を得させてくださいます(ヨハネ3:16)。

W

 

 

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202 22日 聖霊降臨節 第19主日

説 教「現代に通じる共感の教え」 三浦久光役員

新約聖書 マタイによる福音書 7章7節~12節(P.11

求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。このあまりに有名な聖句を今まで何度聞いたでしょうか?クリスチャンのみならずノンクリスチャンの人でさえ知っている言葉です。これは主イエスが山上の説教で述べられたあまりに有名な句で黄金律とも呼ばれていますから今更説明するまでもないとは思いますが、果たしてどれだけの方が理解されているでしょうか?自分勝手な解釈にとらわれ思い違いに悩みまた、信仰から遠ざかってしまうのも、まさにこの聖句の解釈による問題なのではないかと感じております。ミッション系の学生ならば毎月毎週聖句の話を聞いていることでしょうから、本来は皆しかるべき時に洗礼を受けクリスチャンになるはずと考えますが実際はほぼ100%に近い学生が洗礼を受けずに卒業している現状です。なぜでしょうか?皆さんも覚えがあるでしょうが、人は本来「ああしなさい。こうしなさい。」言われれば言われるほど反発を覚えるものです。まして親や先生など近しい人であったりすればなおさらです。「こうするべき。こうあるべき。」いわゆる「べき論」を押しつけられるのは受け入れられないのです。学生時代毎週毎月先生型からああしなさい。こうしなさい。君は出来るはずだ。なんで努力を惜しむのか?などありとあらゆる機会に言われ続ければ聖書はおろか教師の話を聞くことすら苦痛になり結果として信仰どころか聖書を読み続ける古都からもとうのいてしまのではないかと私は考えてしまいます。聖書は実に不可思議な書物で世界一のベストセラーであり誰もが知る書物ですが、人によっては感心したり反発したりと。まさに様々な反応を示す書物でもあります。私も聖書を最初に一読しさらに4度通読しましたが、読み終える毎に違う感想や考えが浮かんできます。聖書にはわざわざ「信じられない」「納得しかない」と思われる出来事ばかりを記していて、読み手には反発されることを承知で「○○しなさい。」と押しつけがまし表現を使っている箇所が随所に見られます。聖書はそうしたやり方で私たちの常識や偏見を揺さぶりながら様々なことを問いかけてくるのです。そうして聖書と我々の対話を引き出してくるのです。山上の説教5章39節には「誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をもむけなさい」とあります。実際見ず知らずの人に、いきなり殴られてもう一回どうぞなどという人を見たことがありますか?残念ながら私を含め友人知人の中には一人もいませんでした。そんな馬鹿みたいな人はいないだろう?言い方は良くないかもしれませんが、そんな間抜けやでくのぼうみたいな人間がいるわけないだろう?それこそが世間一般の常識です。人に殴られたらさらに殴られ衣服をとられたらさらに与える。そんな間抜けが社会にでたらすぐに人生の終焉を迎えるかもしれません。人が人に対して寛容な世界なんかあるかいな・といわれてしまいそうです。しかし、仮に最も大きな悲劇である戦争を考えてみてください。やられたらやり返す。人質を一人殺されたから、こちらは2人を殺し返す。さらに倍またその倍と復習の連鎖がおさまりません。まさにイスラエルとパレスチナの戦争は復習による復習の連鎖で終わることがありません。主イエスは2000年以上前に人間の弱さ愚かさを十二分にご承知でした。それを踏まえた上での山上の説教だったのです。こうした理解をしているクリスチャンが今どれほどいるのでしょうか?私にはわかりませが。7章8節には「誰でも求める者は受け探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この聖句についても「そんなことあるわけない。」「現実は甘くない。」と考えるかもしれません。しかし、ここで不満をいう人たちは自分だけの狭い世界でしか考えていないのではないかと見受けられます。「だれでも」というときに「わたし」しかいない、確かに自分自身の人生をふりかえってみても求めても与えられず、探しても見つからず、門をたたいても開かれずということの方がはるかに多かった事でしょう。自分自身のそうです。聖書のいう「だれでも」は「わたし」を含めた世界を含む世界を映し出す鏡として読んだときに初めて共通の認識としてなされるのではないでしょうか? 主イエスが語られた言葉はわれわれに、ただ我慢を敷いていただけではありません。7章1節にあるように「求めなさい」と言われております。求めていいのです。何でもいいのでしょうか? 復讐による連鎖さえ起こさなければ何でもいいのか?というわけではなさそうです。9節にはパンをほしがる子どもに石を与えるだろか?10節に魚をほしがるのに、根火を与えるだろか?とあるように悪い者である私たちでさえ自分の子どもには良いものを与えることも知っている。とありますから、何もかもご存じである天の父が求める者つまり我々には良いものを与えてくださるに違いない。だからこそ、我々も人にしてもらいたいこと思うことは何でも人にするのです。社会派を気取るつもりは毛頭ありませんが日本における在日米軍基地の問題、まさに沖縄一極集中、平和維持のため必要なのだ。出あれば47都道府県全てに5~6%おいたらいいだけではないかと思いませんか?東日本大震災時に瓦礫の処理を東京都で石原都知事が引き受けるときに自分の街には受け入れたくないと多くに人が叫んだいましたが。石原さんは国に先駆け受け入れましたけど。自分にシテほしくないことを人には平気で押しつける。このような状態で平和な時代が保たれるのでしょうか?聖書で語られた主イエスの言葉は私たちが日々生活していく上でも大きな意義をもっているのです。クリスチャンなのであれば少なくとも聖書に書かれた主イエスの言葉のもつ意味や意義を共通の理解としてもつことの重要性が問われているのではないでしょうか?これからは私自身の私見として話しますが、主イエスが語られたのは信仰すら持てない当時の疲弊したユダヤ人に向けて主を仰ぐ信仰をもとめなさい。そうすれば信仰が与えられる。主イエスが語られる場所を探しなさい。そうすれば会うことも出来る。門が閉ざされていたならば叩きなさい。そうすれば開けられ主イエスにお会いできる。こう言いたかったのではないかと個人的には考えます。当時のユダヤはローマの支配下ですから太陽神や牛を捧げ子孫繁栄を願う宗教儀礼にまみえたいましたし、主イエスがご降誕前にはウル王朝から続くヒッタイトやアッシリアの神々の信仰など、ユダヤの民が主を契約された信仰がことごとく打ち砕かれようとする社会的な愛敬がありましたから、ユダヤの民の信仰する自由にローマから赦されていたわけではない状況下にありました。こうした中で人々に希望や神への自由な信仰を説く主イエスはまさに統治する側から見れば異端そのものであったはずです。そんな中でユダヤの人々はおろか異邦人にさえ神の救いをとく主イエスの存在がいかほどの喜びであったかを今一度想起する必要があるのではないでしょうか?

祈ります

御在天なる、あわれみ深い父なる神さま。過ぐる一週の間私たちはイエス様にたいしさらに罪を重ねる日常であったかもしれません。しかしながら、イエス様は、われわれに多くに希望や信仰に至る息吹を与えてくださいました。私たちの日々の生活を見越しながら如何に豊かに賢く平和に生きるかの教えすら与えてくださいました。教会員一人一人に聖書の知恵の中に大きな喜びを見いだせますように。今日この場に様々な事情で集えなかった兄弟姉妹方も同じ恵みが与えられますように。また教会学校に集う子供たちが将来あなたこそ主であると告白する日が来ますようにと願います。今日尾から始まる一週間の歩みも健やかでありますように、この言い尽くし得ぬ感謝と願いイエス・キリストの御名により祈ります。アーメンフォームの始まり

 

フォームの終わり

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〈説教の要約〉

2024年 9月15日       

旧約聖書 エゼキエル書 28章24節(P.1342

新約聖書 コリントの信徒への手紙 12章1節~10節P.339

説  教「大いに喜びて我が弱きを誇らん」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた 

                   ……Ⅱコリント12:1-4             

Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた             

                   ……Ⅱコリント12:5-7

Ⅲ 突き刺す(いばら)や痛みを与えるとげが臨むことはない   

                   ……エゼキエル書28:24  

Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される              

                   ……Ⅱコリント12:8-9          

Ⅴ わたしは弱いときにこそ強い                      

                   ……Ⅱコリント12:10 

 

本日は、2024年度の教会標語「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:18)を含む聖書箇所を取り上げます。毎年、9月が年度のほぼ中間に当たるということで、その年度の標語がどのようなメッセージを持っているのかを、礼拝で説教してお伝えするようにしています。

そこでまず、使徒パウロとコリント教会の人々とは今、どんなことを論争しているのか、あるいは、何が(しょう)()の課題なのか、テキストの前後関係から押さえておきましょう。

なるべく具体的にお話ししましょう。

コリント教会の一部の人々との対立点は、パウロ、アポロ(Ⅰコリント16:12)、そしてテモテ(Ⅱコリント12:18)などの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、にあります。彼らを非難する立場の人たちは、パウロやアポロにはつかないで、「他の指導者につく」と主張しています(Ⅰコリント1:12)。

他方、コリント教会内には、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてパウロがわたしたちをもうけたのです」と言って、パウロを「父親」のように慕っている人々がいます(Ⅰコリント4:15。容易に察せられるように、これではコリント教会は分裂状態に陥り、「神の聖なる神殿」(同上3:17)は崩壊してしまいます。

そこで、問題解決にあたるパウロは、コリント教会の一部の人々が「人間を誇っている」(Ⅰコリント3:21、Ⅱコリント11:18)という点に提示します。

人の知恵に頼り、「高ぶっているかぎり(Ⅰコリント4:18)、神の力である十字架の言葉を軽んじてしまいます(同上1:18)。なぜなら、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同上1:21)ということが分からないからです。伝道者パウロが「神の秘められた計画」(同上4:1)を説き明かそうとしているにもかかわらず、彼らの高慢さと(かたく)なさとが厚い壁を造っています。

パウロは、地中海の「エウラキロン」並の逆風(使徒27:14)にさらされています。そうした中、パウロはいわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会を忍耐強く続けます。パウロは信仰上、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(Ⅰコリント2:10)との点でぶれることがありませんでした。裏を返せば、批判者の問題点を、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(同上2:14)というように見抜いていたということです。

問題の本質を(とら)えていたパウロは、まさに「父親」のごとく、「自然の人」、「肉の人」、そしてキリストにある(おさな)()を見守っていました(Ⅰコリント3:1)。だからこそ時には、彼らを厳しく教え(さと)したのです(同上3:2-34:8,21)。「(むち)」すらもちらつかせながら……。

そういう状況において、パウロはコリント教会の人々の前に、或る神秘的体験を持ち出します。その体験の内容によりけりですが、選ばれた人だけがそのような体験を持てるとの見方が今日でもあります。そうした人たちの中には、 霊的的パワーを誇示し、人々を幻惑することがあります。

パウロはいたずらに神秘的体験をキリスト者に推奨しているわけではありません。それを誇る気もさらさらありません。その種のことが誤解されやすいことに留意しつつ、パウロは(まぼろし)を見、そして啓示を受けたことを語りはじめます。

 

Ⅰ その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた 

コリントの信徒への手紙 12:1-4―― 

1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。

まずはここに記載されている神秘的体験の第一印象から……。

パウロの()(だい)広告しない控え目さによるのでしょうか、何か曖昧な感じがします。この体験に基づいてパウロが宣べ伝えようとしている要点は、.ならびに.で説き明かしますので、それまでお待ちください。そこで、パウロはこの神秘的体験に、どんな意味づけをしているか、が分かります。

今は、二つの点を押さえておきましょう。

人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。

第三の天または楽園にまで引き上げられた。

付け加えるとこれは、十四年、「キリストに結ばれていた一人の人」に起きた出来事です。その「キリストにある人」ならびに「」・「このような人」というのは、パウロを指しています。神の知恵を物語ることが目的ですから、極力「自分」(わたし・一人称)を消そうとしています。わたし」が高ぶってはいないことを証しするために、他人事のように三人称「」を使っています。

まず、①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした について説明します。

これを言い換えると、パウロは明瞭に、神の声を聞いたり、神の姿を見たりしたのではない、と述べています。というのも、「口にするのを許されない、言い表しえない」ものだからです。

しかし、パウロは「十四年前」の体験を鮮やかに記憶しています。自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活(Ⅱコリント11:23-29)において、それがどのような意味を持つのか、 の導きによって考え続けてきました。

大切なのは、だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(Ⅰコリント14:13というように、神秘的体験を「解釈する」ことです。人は恍惚(エクスタシー)状態で、異言を語り、神秘的体験をしています。その時、我を忘れるような喜びに(ひた)っていることもあるでしょう。

しかし、それらは独り善がりに陥りやすいものです。自分だけ夢中になって、周りの人が見えなくなります。そこで、パウロは異言が「解釈できるように祈りなさい」と勧めました。その過程を経てはじめて、天上の聖なる「言い表しえない言葉」が、わたしたちの理性においても読み解けるようになります。「十四年」の歳月のうちに、「人の心に思い浮かばなかったこと」(Ⅰコリント2:9)が現れ出で、宣教の言葉とさえなります。

片や、この箇所の神秘的体験の叙述がおぼろげで、片や、パウロのメッセージが鮮明なのは、そのためです。

霊で祈り、理性でも祈った」(Ⅰコリント14:15)上で、その体験の持つ意味を汲み取っています。そのことをパウロは、わたしたちの信仰に益するように、と語ってくれています。

次に、②第三の天または楽園にまで引き上げられた を取り上げましょう。

ここでは、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」、「彼は楽園にまで引き上げられた」というように、「パウロは神によって引き上げられ(受動態)、すなわち、「神はパウロを引き上げた」ことが二回繰り返されています。もちろん、パウロがこの世に生きている時の話です。

瞬間的にせよ、天の父なる神ならびに御子イエス・キリストとパウロとの特別な交わりが示唆されています。「楽園」(パラダイス)という言葉から、十字架上の主イエスが犯罪人の一人に言った「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)との約束を思い起こされる方も多いことでしょう。

その犯罪人は、十字架の木に「引き上げられ」ました。しかしその後、主イエス・キリストの憐れみによって、「楽園に引き上げられる」と告げられました。「今日」、そしてこれからずっと、「あなたはわたしと一緒にいる」と約束されました。

パウロの伝道は、まことに苦難と労苦に満ちたものでありました。その中で、第三の天」または「楽園」を見上げることが、障壁を越えて前進する力の源となったのでありましょう。それでは、パウロによる神秘的体験の「解釈に分け入っていきましょう。

 

Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた             

コリントの信徒への手紙 12:5-7――

5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。

パウロは、神秘的体験の「解釈」、意味づけについて、どんな観点から述べているのでしょうか?

自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」、だから、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)ということを基調としています。端的に言えば、自分はへりくだり、「思い上がらない」ということです。

誇りや高ぶりへの、やや()(だる)っこい言及は、「わたしの身に一つのとげが与えられました」とのパウロの告白に(しゅう)(れん)しています。そして、そのとげ」は、「わたしを痛めつけ、「思い上がらないように」させた、と述べています。

一つのとげ」を「思い上がらないように」させる、持続的な刺激物として受け止めたというのが、パウロの 的な「解釈」です。

.で述べたとおり、ややもすれば或る種の神秘的体験は人を高ぶらせます。自分は選ばれた者だからこそ、幻を見、霊感を受けたのであると、周りの人々を()(くだ)します。そうして、自分は品性を高められ、名誉と富を得たのだ、と誇ります。

その点では、パウロが神秘的体験によって受けたもの、言い換えれば、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」は真逆です。なぜなら、それは「わたしの弱さにかかわる事柄」(Ⅱコリント11:30)だからです。一般論としては、「わたしを痛めつけるとげ」は生活の質(クオリティ オブ ライフ Quality of Life = QOL)を下げる元となります。周りの人々は、そのような人物を避けようとするかも知れません。

しかし、パウロはその「とげ」によって、自分が弱くされたことを受け入れています。「とげ」を含む「あの啓示された事があまりにもすばらしい」と証言しています。ここに、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)という信仰の(もとい)があるのでしょうか。

とげ」についての、パウロのさらなる「解釈」、意味づけを読み取る前に、いつものように、旧約の関連聖句を見てみましょう。

 

Ⅲ 突き刺す(いばら)や痛みを与えるとげが臨むことはない   

エゼキエル書28:24――  

イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す(いばら)や、痛みを与えるとげ臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。

パウロは、「わたしを痛めつけるとげ」と表現していましたが、「彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す(いばら)や、痛みを与えるとげ」はその数倍も痛そうです。しかも、「イスラエルの家には二度と……臨むことはない」との言い回しからは、次のことが分かります。

すなわち、「イスラエルの家」は持続的または断続的に「(いばら)」や「とげ」の痛みを(こうむ)っていたということです。イスラエルが偶像崇拝に走ったり、また、弱く貧しい人や寄留者を抑圧したりしていたために、神の裁きが下りました。そしてそれは、神が憐れみをもって、「イスラエルの家には二度と(いばら)やとげが臨むことはない」と告知されるまで続きました。

それでは、「周囲のすべての人々」からイスラエルが「侮辱」されたのは、一体何のためだったのでしょうか?

それは、「彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」ためでありました。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11 口語訳)ということです。

『ジュネーヴ教会信仰問答』(カルヴァン著)の冒頭に、問一「人生の主な目的は何ですか」、その答「神を知ることであります」と(かか)げられています。

その理由として、「神はわれわれの中に(あが)められるためにわれわれを(つく)り、世に住まわせられたのでありますから」とあります。キリスト者は、「わたしが主なる神である」ことを の導きによって知らねばなりません。神に自分が創られて、今この世に暮らしていることを感謝し賛美したいものです。

それは、わたしたちがひたすら、 による上からの啓示にあずかるかどうかに掛かっています。しかし、しばしばその の働きを、わたしたちの高ぶりや欲望によって(こば)んでしまいます。

それで、どうなったのかは、「イスラエルの家」やパウロの神秘的体験が実証している通りです。突き刺す(いばら)や痛みを与えるとげが臨んだということです。

パウロにおいては、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」の中で、わたしを痛めつけるとげ」に焦点が合わせられました。その「とげ」は、パウロの、いわば信仰の質(クオリティ オブ フェイス Quality of Faith = QOF)に、どのような作用をもたらしたのでしょうか。

わたしたちは、パウロ自身の体験的ガイドに沿って、悪性の痛みを伴う緊急事態に立ち向かうことにしましょう。パウロのメッセージは、「とげ」で負傷している人をやさしく包み込むような、()やしと慰めに満ちています。

 

Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される             

コリントの信徒への手紙 12:8-9――          

8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。

パウロは神に、「わたしを痛めつける一つのとげ」から解放してくださるように、と切に祈りました。「三度」というのは、「ひたすらに」・「しばしば」という意味です。

その祈りは同時に、「とげ」の与えられた神秘的体験が「解釈できるように祈った(参照:Ⅰコリント14:13)ということでもありました。実際、「とげ」の痛みは治癒(ちゆ)されませんでしたが、パウロは神の御心を読み取ることができました。

これは、神が信仰者の願い求めを超えて、より大きな賜物を与えられたという祈りの実例です。自分の祈りにこだわり過ぎている人は、このテキストの パウロの熱心な祈り⇒神の恵み深い応答 を手本とすべきでありましょう。どんな回答を投げ返されようとも、パウロに恐れはありません。神を心から信頼しているからです。

主は、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました……これはまさしく、罪人や病人への福音、喜びの知らせです。主イエス・キリストが、弱く貧しいように見える人々の人生の中に、「恵み」をもって介入されます。

主は言われました」と、パウロは(おごそ)かに書き記しました。それは、この言葉主イエス・キリストによって成し遂げられることが約束され保証されているという意味です。わたしたちに求められているのは、悔い改めをもってキリストに結ばれている人」に造り変えられて生きることです。

力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということです。

このメッセージこそが、「わたしを痛めつけるとげ」に悩まされ続けられたパウロに、()やしと慰めをもたらしました。こうして、彼の信仰の質(クオリティ オブ フェイス)は飛躍的に向上させられました。同時に、パウロは主イエスに(なら)いつつ、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」ようになりました(ヘブライ4:15)。 の力によって旧約の出来事を知り抜いているパウロは、「突き刺す(いばら)や痛みを与えるとげ」に苦しんでいる人々にも同情を寄せたに違いありません。

パウロにとって、「十四年前」の神秘的体験を通して、だから、キリストの力がわたしの内に宿るようにとのメッセージを受け取りました。人生を暗くする否定的なものの象徴であるパウロの小さな「とげ」にも「キリストの力」が宿っています。だから、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」と言い切っているのです。

最後の節でさらに、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」との中心メッセージが深められます。

 

Ⅴ わたしは弱いときにこそ強い                      

コリントの信徒への手紙 12:10―― 

それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。

ここで、パウロはこれまでの自分の小さな「とげ」に特化してきた議論を切り替えています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と、視野を拡大しています。

その意図が、自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活を(おお)()くしている「キリストの力の大きさを物語るためであるのは明瞭です。

これまでパウロは、神秘的体験を引きながら、「わたし(キリスト)の恵みはあなた(パウロ)に十分である」ことを(あか)ししました。しかし今や、「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言った洗礼ヨハネのごとく、パウロは背景に退(しりぞ)いています。「わたしはキリストのために満足しています」というように、キリストに依り頼んでいます。

なにゆえに、それほどまでにキリスト中心になるのか、教えられるために、D.ボンヘッファーの説教の一部を読んでみましょう。

神(主イエス・キリスト)は十字架上で苦しまれた(詩編22:2,7、ヘブライ2:9)。そのゆえに、あらゆる人間の苦しみと弱さは、この世における神御自身(主イエス・キリスト)の苦しみと弱さにあずかっているのである。

わたしたちは苦しんでいる! (主イエス・キリスト)は、もっともっと、苦しんでおられる。わたしたちの神は苦しむ神である。

苦しみは、人間を神の像に形造る(創世記1:27、Ⅱコリント4:4)。苦しむ人間は、神の似姿を持っている。

主イエス・キリストは、弱さの極みである十字架上で、神の栄光を現されました。パウロが「わたしは弱いときにこそ強い」と結んでいるとき、彼は一心に、十字架上のキリストを見つめています。

この(とげをもたらしたサタンの)使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」との祈りは聞き届けられました。なぜなら、その祈りは、十字架と復活の主、イエス・キリストの御名によって祈られたものだからです。

なおも「とげ」が()さり、痛みがうずいているにもかかわらず、パウロは祈りへの神の応答に満足しているに違いありません。このキリストの証人の姿は、どんなに、苦悩・衰弱・絶望などの中から、神に叫びを上げる人々への励ましとなっていることでしょう。

 

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〈説教の要約〉

2024年 9月8日         

旧約聖書 イザヤ書 52章2節(P.1148

新約聖書 マルコによる福音書 5章35節~43節P.70

説  教「少女よ、さあ、起きなさい」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ ただ信じなさい           ……マルコ5:35-36             

Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか       ……マルコ5:37-39

Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい             ……マルコ5:40-41  

Ⅳ (ちり)を打ち払って、立ち上がりなさい      ……イザヤ書52:2          

Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした ……マルコ5:42-43 

結 

 

主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは安息日、礼拝をする時には、会堂に入って聖書朗読や説教をされました(マルコ1:213:1)。また主イエスは、人の家に招かれて、神の教えを()いたり、病人を()やしたりされました(同上1:29-312:1-12)。時には、食事でもてなされることもありました。

その上、主イエスは路上でも多くの人々と出会われました。土地の人々はしばしば、町から村へ、山辺から海辺へ、忙しそうに歩いている主イエスの姿を見かけるようになりました。時には、大勢の群衆が主イエスに押し寄せて、遠巻きに(なが)めるしかないこともありました。

或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。

ところが(はか)らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。そこで、彼女の病気を癒やすと共に、信仰を(さず)けられました。それは、神によって救われたと、一生涯信じ、平穏に暮らすということでありました。

確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。

中断はしばしば、わたしたちの人生の方向を変えることがあります。一方それが、良い休養となって、新しいアイデアが浮かんで来ることがあります。他方、突如中断されて、緊張の糸が切れ、あきらめや絶望に心が支配されることもあるでしょう。

ここで主イエスは、ヤイロが遅延にいらつき、希望を捨てないように、彼に寄り添っておられました。考えようによっては、主イエスにおいて、12年間の病のどん底から人間を立ち上がらせる神の力が実証されたのは、順番待ちの人々によっても幸いでした。というのも、忍耐強く、待ってみようという余裕が()いて来るからです

なおも、出血が止まり癒やされた女性との会話が続いている時に……

 

Ⅰ ただ信じなさい            

マルコ福音書5:35-36――             

35 イエスがまだ話しておられるときに会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは()くなりましたもう、先生を(わずら)わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた

お嬢さんは()くなりました」との()(ほう)に接して、父親のヤイロは青ざめたことでしょう。そして、彼の家の者は追い打ちをかけるように、「もう、先生を(わずら)わすには及ばないでしょう」と告げました。このひと言は、ヤイロを打ちのめしました。というのも、ヤイロは、「足もとにひれ伏して」懇願するほどに(マルコ5:22、主イエスに依り頼んでいたからです。

ヤイロは、(ひん)()の娘(マルコ5:23)のいっさいを主イエスに託するという覚悟であったはずです。それが、「もうお世話にならなくていい」と人から言われてしまったのです。

もう、先生を(わずら)わすには及ばないでしょう」……主イエスにひれ伏す思いを持っている人と主イエスとの関係が切れそうになっています。娘の夭折(ようせつ)によって、一時的にせよ、その関係が()らいでしまうのは、誰しも非難できないことでしょう。

しかし、結論的に言えば、主イエスを大いに「(わずら)わせて」善いのです。主イエスは、わたしたちが罪と(やまい)と死の(ふち)から、助けを呼び求めるのを待っておられます。それが、忘れられない、神との出会いになるように、主イエスは導かれます。そうして、わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰告白に至るのです。

イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた……即座に主イエスは、ヤイロが「その話」を()に受けないように、介入されました。その話」が偽りだと言うのではなく、「その話」はまだ経過途中であるということです。

恐れることはない。ただ信じなさい」……救い主なるイエスから、適確な勧めが動揺しているヤイロに投げかけられました。

ヤイロは、「お嬢さんは()くなりました」とのひと言が頭から離れません。闇の世界に突き落とされました。もはや、ヤイロの視界からは、主イエスも、重い病が癒やされた女も消え去っていたことでしょう。

そんな中、「恐れることはない」との主イエスの言葉が耳に入って来ました。ヤイロは主イエスに、心配や不安をあずけることにしました。それに、息絶えて様変わりしたのかどうか、その娘の姿を見て確かめたわけではないのですから。

ただ信じなさい」……主イエスはヤイロを、「生きるのも、また、死ぬのも、主のために」という信仰に招き入れようとしておられます。ヤイロに求められているのは、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」(マルコ5:22-23)という姿勢に立ち返ることです。主イエスに向き合う、その姿勢が崩されないように、自分の外から注がれる に助けを求めることです。

ヤイロの家へ急ぐ途上での〈病気の癒やしと救いの宣言〉は完了しました。主イエスは、つかの間の遅延を乗り越えて、幼い娘の死という難題に立ち向かわれます。

 

Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか        

マルコ福音書5:37-39――

37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」

主イエスは、弟子の中から「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」を選び出して、態勢を整えられました。神の 的な御業は見せ物ではありません。主イエスと言えども、集中力高め、祈りをもって取りかかられます。

会堂長の家から」の使者が「お嬢さんは()くなりました」、と言った通りでありました。そこには、ガリラヤ地方の葬祭儀礼が繰り広げられていました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て」との一文から、主イエスが()に服している人々の悲しみを受け止められたことが分かります。主イエスは大きな嘆きに包まれた家のただ中で、 的な御業を現されます。

なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……「眠っている」だけだから、安心しなさいという趣旨ではありません。「わたしは、泣き騒いているあなたがたのもとにやって来た。わたしがどんなことを眠っている娘に行うか、しかと見届けなさい」ということです。

主イエスはこれから、あたかも少女が夜昼、「眠り、そして起きる」ように、死から生へと彼女を立ち上がらせます。「夜も昼も」(マルコ4:275:5)、神の恵みはわたしたちに与えられています。眠っている少女が呼び起こされます。わたしたちにとって大切なのは、極めて日常的な出来事の中で、十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、悲嘆のどん底にいる人々に関わっておられるということです。

 

Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい              

マルコ福音書5:40-41――  

40 人々はイエスをあざ笑ったしかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。

人々はイエスをあざ笑った」との描写は、他所(よそ)者への拒絶を現しています。人々は葬祭の(よろい)を付けて、主イエス()ね返そうとしています。何事も常識で振る舞おうとしている人間ならば、退却するしかありません。衆人から嘲笑を浴びている場面から、一刻も早く逃げ出したいことでしょう。

主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」との(こと)()(じり)をとらえる人間にかかずらってはおられません。「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。

主イエスはあたかも「悪霊を追い出す」かのように(マルコ1:34,39)、「皆を追い出し」ました。というのも、「悪霊」ならびに「悪霊に取りつかれた人」(同上5:16)には、神の力の働く聖なる御業を妨害しようと習癖があるからです。

子供の両親と三人の弟子だけを連れて」との一句には、主イエスの優しい気遣いが表されています。ペトロをはじめ「(とも)の者たち」は、後々までの証言者として招き入れられています。

もはや、「もう、先生を(わずら)わすには及ばないでしょう」との、慇懃(いんぎん)な断絶宣言は、(はる)か向こうに飛び去りました。主イエスの介入頂点に達します。

そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた……「タリタ、クム」という言葉(アラム語)は、少女はじめその場にいる人々にとって、生涯忘れられない言葉となりました。毎朝、「○○よ、さあ、起きなさい」との御声と共に、彼らは活動しはじめます。

主イエスは「子供の手を取って」というように、幼い娘の介助をされました。その接触により、主イエスの「内から力が出て行って」(マルコ5:30)、娘の身体全体に行きわたりました。その背後には、父親の祈りがありました……「どうか、おいでになって手を置いてやってください」(同上5:23)。彼が「イエスの足もとにひれ伏して」、切に願ったことが実現されました。

子供のいる所」に、その部屋中に、キリストの行いと言葉による御力が充満しました。その結果へと進む前に、旧約において、主なる神がどのように「()らわれの娘シオン」に寄り添われたのか、見てみましょう。

 

Ⅳ (ちり)を打ち払って、立ち上がりなさい      

イザヤ書52:2――          

立ち上がって(ちり)を払え

()らわれエルサレム。

首の(なわ)()を解け

()らわれの娘シオンよ。

紀元前六世紀後半の頃のことです。ユダヤの民は(もっ)()、国家滅亡とバビロン捕囚からの回復をめざしているところです。

一方、捕囚の民は異国での生活が長引き、あきらめムードに(ひた)っています。エルサレム神殿の再建の話を聞いても乗り気になれません。何しろ、暑い砂漠を通る帰還の旅には、命がけの困難が伴います。ならば、このままバビロンの流れのほとりに、定住し続けようか、となります。

他方、エルサレムに残留した人々にはまた、それなりの心労がありました。それは現実に、破壊され荒れ果てた都エルサレムを()の当たりにしているということです。希望よりも絶望がより多く生み出されていました。神の罰を受けて破壊されたものを直視せよ(エレミヤ書36:31)との厳しい声と共に、実際、再建を妨害する周辺住民もいます(エズラ書4:1-5)。

そのように、国の内外でにっちもさっちもいかない状況に陥っていました。神はそこに第二イザヤを遣わされました。聞く耳を持たない民の心を打ち開く言葉が語られます。それは、神の知恵に満ちた、美しい詩になっています。

立ち上がって(ちり)を払え」……この「」には深い意味が込められています。この「」に、ユダの民の挫折と絶望がまとわり付いています。というのは、「」はまさに、()(れき)となった「エルサレム」または「シオン」を象徴するものだからです。

神殿はじめエルサレムの人家は、外敵によって略奪され、指導者たちは異国へ連行されました。多くの人々が()に服するかのように、「嘆きの声をあげ、(ころも)を裂き、天に向かって(ちり)を振りまき、頭にかぶり」ました(ヨブ記2:12、哀歌4:5)。残留した人々は死んだも同然の苦悩を味わっていました(エレミヤ書8:3、ヨハネ黙示録9:6)。

詩の第一声、(ちり)を打ち払いなさい……この命令が、挫折と絶望のまみれた「」を()き清める力の無いに下されました。言い換えれば、それは、主なる神がエルサレム」から「(ちり)を打ち払う」のを約束されたということです。なぜなら、今「エルサレム」は「()らわれ」の状態にあって動き出せないからです。

付け加えれば、エルサレム」や「シオンとの呼称は、擬人法で、都の住民を指しています。この呼称にさらに、」または「おとめ(哀歌2:10)が添えられているところに、神の憐れみが表されています。

それから次に、「立ち上がりなさい」との命令が下されました。つまり、「頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る」(エゼキエル書27:30)ほどに、悲しんでいる人々に、「起き上がるように」との告知が向けられたということです。当然、主なる神は彼らの「手を取って」、立ち上がる力を彼らに注ぎ入れられます。

第二イザヤの預言は、主イエスによって受け止められました。なぜなら、「(ちり)を打ち払いなさい」ならびに「立ち上がりなさい」との命令かつ約束が、ガリラヤ湖畔の喪中の家で、主イエスによって成し遂げられました。預言に託された神の企図は、中断で()み消されることもなく、また、遅延で切り捨てられることもなく、幼い娘を救出する際に実行に移されました。

主なる神は、異邦人を含めて(イザヤ書51:555:4)、ユダヤの民が一つのなることを望んでおられます。「」や「おとめ」が成長して自立できるように、「首の(なわ)()()かれ」ます。

 

Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした 

マルコ福音書5:42-43―― 

42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからであるそれを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。

少女はすぐに起き上がって」……この「すぐに」は、出血の止まらなかった娘が()やされた時の様子と合致しています……「すると、彼女はすぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(マルコ5:29)。ここに、神の御業が主イエスにより、「」二人に現されました。今か今かと救いを待ち望んでいる人も、この「すぐ」に期待を寄せることができます。

ここに、ガリラヤ湖畔を巡回する伝道が確立されました。主イエスは路上でも多くの人々と出会ってくださいます。それならば、大勢の群衆が主イエスに従い、押し迫っている中でも、自分の時を待つことができます。主イエスの目には、一人ひとりが「()らわれの娘シオン」のように、「(あたい)高く、(とうと)」存在なのです(イザヤ書43:4)。

「彼女は歩きだした。もう十二歳になっていたからである」……幼い娘の将来に、(さち)多かれ、という祈りが()いて来ます。少女は現実に病に突き当たり、そこで集積されていく経験や思索を通して、自らの考えを深めていくことでしょう。聖書に明記されてはいませんが、彼女はその後、どうなっていくのでしょうか?

 

主イエスがあなたの救い主です」……少女は「十二歳」の時に、主イエスによって「立ち上がらされた」体験を繰り返し思い起こすに違いありません。両親(マルコ5:40)は娘に、目撃したこと、また、自分たちの悲嘆や歓喜について語り聞かせたことでしょう。そして、差し出された「食べ物」を元気よく食べたことも……。主イエスに「ただ信じなさい」(マルコ5:36)と命じられた父が見守る中で、彼女は成長していきました。

さらに、もう一人の「」、12年間重い病に苦しんでいた女と巡り会って、主イエスの御業を共有したかも知れません。それに、「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」という或る一人が、その日、同時に起こった、出血を()やされた女の出来事を彼女に教えてくれということもあり得でしょう。

いずれにしても、十二歳」の少女にとって、主イエス・キリストによる救いが人生の基盤になりました。彼女は一家の危機を乗り越えた父母と、会堂(シナゴーグ)に集う人々に囲まれて育っていきます。そこは、カファルナウムを伝道拠点とされている主イエスにとって重要な会堂(シナゴーグ)です。

カファルナウムは、神の裁きを告知されるような伝道困難な町でありました(マタイ11:23)。しかしそこの会堂(シナゴーグ)で、「十二歳」の少女を生徒とする教会学校が始まったと想像することも許されるでしょう。「」二人の回復の証人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその教会学校のスッタフならば最高です。それならば、弟子たちがヤイロたちと共に、主イエスによる「救い」を宣べ伝えることになります。

タリタ・クム」、「少女よ、さあ、起きなさい」との主イエスの御声は、いつまでもガリラヤ湖畔にこだましています。主イエスは、カファルナウムの町の人々の悲しみと喜びをご存じです。その力強い御声によって、小さく弱い存在の少女を救ってくださいました。

十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、わたしたちの町に来られた、そして、少女を救われた……その喜びの知らせは、ガリラヤの小さな町から世界中に広がっていきました。その知らせが今、あなたのもとに届いています。

 

W

 

 

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〈説教の要約〉

2024年 9月1日     

旧約聖書 ヨブ記 21章14節(P.802

新約聖書 マルコによる福音書 5章11節~20節P.69

説  教「主イエスはあなたを憐れんだ」  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ (けが)れた霊どもは出て、(ぶた)の中に入った                                        ……マルコ5:11-13             

Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている                                ……マルコ5:14-15

Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした                        ……マルコ5:16-17  

Ⅳ ほうっておいてください                                                                              ……ヨブ記21:14          

Ⅴ 主イエスはあなたを(あわ)れんだ                                                                         ……マルコ5:18-20 

結 

 

主イエスは今、ガリラヤ湖畔とその周辺で、大いなる救いの御業を現されています。マルコ福音書の大きな段落(マルコ4:355:43)の中に次々と、海上の奇跡、悪霊(ばら)、そして病気のいやしが出てきます。

そして主イエスは今、「墓場を住まいとしてしている」人と向き合っておられます(マルコ5:3)。ゲラサ地方の人々はその男を遠ざけながらも、その狂暴性のゆえに彼を監視していました。夜も昼も、墓場から聞こえて来る()(たけ)び(同上5:5)に恐れおののいていたに違いありません。

主イエスはその人に深い同情を寄せられます。むやみに相手を(しか)りつけることはありません。むしろ、その人が(こうむ)らなければならない神の怒り(イザヤ書65:3,5)を、自ら背負っておられます。というのも、主イエスは罪人を滅ぼすためではなく、罪と(やまい)と死の(なわ)()から人を解き放つために、この世に来られたからです。

墓場に押しやられた人への深い同情は、現れるべくして現されたものであります。というのも、福音の中心的な出来事として、主イエスは、三日間、墓に閉じ込められたからです。十字架刑により死を遂げた後、墓の中に横たわらされました。

ガリラヤ伝道のさなかにも、主イエスは、エルサレムでの十字架の死と(ほうむ)りを見据えておられたはずです。主イエスの将来には、されこうべの場所」(マルコ15:22)で殺され、「墓場を住まいとさせられる」という悲惨さが待ち構えていました。その観点からすると、墓場で悪霊に取りつかれ、そして「墓場から」救い出された、その人はまさに、「イエスの兄弟」と呼ぶにふさわしい者でありました(ヘブライ2:11-12)。

湖の向こう岸」に行かれた主イエスは、人の目を驚かすような悪霊(ばら)の御業を成し遂げられます。わたしたちもまた、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いを(たずさ)えて、弟子たちと共に同行することにしましょう

そこでまず今回は、悪霊(ばら)いの後半ということで、直前の流れを確かめておきましょう。

主イエスは、悪霊に()かれた人に出会うやいなや、(けが)れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7との命令を発せられました。しかし、悪霊からの「かまわないでくれ」との懇願や、主イエスからの「名は何というのか」との問いが入って(同上5:7,9)、ひととき、時間が()ちました

 

Ⅰ (けが)た霊どもは出て、(ぶた)の中に入った                 

マルコ福音書5:11-13――

11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 (けが)れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、(けが)れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが(がけ)を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ

(けが)れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との告知のうちに、悪霊(ばら)いは終息に向かいます。地鳴りが辺り一面に起こり、その後に、静寂が到来しました。

ここで、二千匹の豚がおぼれ死んだのは、あまりにも残酷ではないか、との疑念を(いだ)く方がおられるでしょうか? 一人の人間の命を助け出すためとは言え、神は、犠牲になった二千匹の豚に心を痛められないのか、ということです。古来より、被造物にもたらされる災いや悪について、義と愛なる神は沈黙しておられるのか、との疑問が出されて来ました。

確かに、神の創造された被造物を巻き込んで、主イエスの御業が成し遂げられました。それは、人間と被造物がこの地に共に生きていることの証しであります。

主イエスの語りには、ユダヤ人の間では律法上、豚肉を食べることが禁じられている(レビ記11:7)という背景があります。ガリラヤ湖畔のユダヤ人にとって、「」は禁忌(タブー)になっている動物でありました。「汚れたものであり」、「()(がい)に触れてはならない」(申命記14:8)ものでありました。だからと言って、「二千匹の豚」の(でき)()見過ごしてください、ということではありません。

そうではなく、「すると、二千匹ほどの豚の群れが(がけ)を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」との惨事を含む主イエスの語りの中心は、どこにあるのか、ということです。これは、「豚の群れ」にまつわる教訓ではなく、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」の救済に関わる記事である、というのが肝心(かんじん)です。

豚飼いたち」(マルコ5:14)が暮らしているゲラサの地で、生業(なりわい)の動物が突然消え去る中で、いつまでも残るのは何でしょうか? それは、主イエス・キリストの行いと言葉、そして、それにあずかった人の証し、すなわち、宣教(マルコ5:20)であります。それに合わせて、聖書による規範・生活指針が提示されていきます。そのようにして主イエスによって、異邦の世界に(たね)()きのための(くわ)が入れられたのであります。混乱が一切起こらないというのではく、まさに「雨()って()固まる」ということが大切なのではないでしょうか。

 

Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている                  

マルコ福音書5:14-15――

14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった

(けが)れた霊、この人から出て行け」との主イエスの命令から始まった出来事の反響が続きます。悲惨な目に()った「豚飼いたち」が、主イエス・キリストの行いと言葉を「知らせる一役(ひとやく)(にな)います。

豚飼いたち」の話を、聞き捨てならぬこととして、近隣の町や村」から人々が、「イエスのところ」に来ました。「人々は何が起こったのかと見に来た」のも、実は神の御計画ではないでしょうか。そうして、「何かを起こした」、主イエス・キリストを見て、知って、信じさせるというのが、彼らに対する神の導きでありました。

ここで(きわ)()たされているのは、「レギオンに取りつかれていた人」の変貌(へんぼう)ぶりです。その人は今や、「レギオン」(=大勢・軍団)の抑圧から解放されました。以前には、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)というのですから、裸同然であったかも知れません。

しかし、その人が「服を着、正気になって」います。「町や村」から()けつけた人々は()(ぜん)としたのではないでしょうか。叫び狂って、人を威圧するような面影(おもかげ)はありません。何より印象深かったのは、主イエスの御前に、悪霊に憑かれていた人が「座っている」姿でありました。人を人とも思わぬ猛者(もさ)が、彼らの知らない来訪者に「ひれ伏して」従っています(マルコ5:6)。

町や村」からやって来た人々は、何を思ったかは、ひと言、「彼らは恐ろしくなった」と証言されています。これは、真実な報告でありましょう。この「恐れ」は、「主イエス・キリストを見て、知って、信じる」こととは、大きな隔たりがあります。

町や村」の人々はまだ、悪霊祓いの「成り行き」が把握できていません。彼らが「恐れている」だけなのは、当然とも言えるでしょう。異邦人の漠然(ばくぜん)とした「恐れ」が、主イエス・キリストへの「畏れ」に変えられる日を待ち望みましょう。今しばらくは、主イエスも弟子たちも、異邦世界に広げられる「神の国」の福音を(こば)み、(かたく)なになる人々の様子を見守らなければなりません。

 

Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした 

マルコ福音書5:16-17――  

16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした

主イエスは、開始されたばかりのガリラヤ伝道において、カファルナウムの町という拠点を造られました。しかし、故郷のナザレの人々から(いきどお)りを受けて追い出されたり(ルカ4:20-30、マルコ3:20-34)、また、ゲラサ地方の人々から「出て行ってもらいたいと言い出されたり、困難に遭いました。内憂(ないゆう)外患(がいかん)、身内からも、周辺の異邦人からも、遠ざけられました。

ではなぜ、ゲラサ人は主イエスに、「出て行ってもらいたいと言いだした」のでしょうか? 初めは一部のゲラサ人の拒絶だったかも知れませんが、うわさが広まると、それはゲラサ地方全体からの「村八分」、排斥(はいせき)運動もなり得ます。

成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」と証言されているように、ゲラサ人の目撃者は、「豚のこと」を気にしていました。

ゲラサ人の中に、「(ぶた)飼いたち」(マルコ5:14)がいました。その生業(なりわい)が尊ばれていたか、あるいは、(さげす)まれていたか、は安易に判断できません。しかし明白なのは、ユダヤ人と異なり、「」の肉を食べていたゲラサ地方では、それが「基幹産業」の一つであったということです。つまり、養豚とその食肉は、(ほう)(じょう)なる地の象徴でありました。それ乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)、ユダヤ人の約束の土地とはひと味ことなる特色でありました。

ここまで言えば、もうお分かりでしょう。「二千匹ほどの豚の群れ」と悪霊に取りつかれた人の身とを天秤(てんびん)にかければ、ゲラサ人は当然、前者を取ります。だから、「悪霊に取りつかれた人の身」を案じるイエスという旅人にはお引き取りいただこう、となるのが常識です。自分たちの生活や慣習を守りたいというのが、彼らの本心でしょうし、現代に生きるわたしたちも、多かれ少なかれ、同じ思いを持っています。

ここに、人間の(ほん)(しょう)に伴う典型的な伝道の困難さが現れていると言えます。そこで主イエスは、神の知恵をもって忍耐強く、その壁を打開されます。いきなり、ゲラサ人の日常をひっくり返すというのではなく、福音を浸透させていくというやり方を採られます。その地方の「流れのほとりに植えられた木」が、御言葉を()(よう)とすれば、「ときが来れば実を結び、繁栄をもたらす」(詩編1:3)ことでしょう。

その「神の知恵」については、最後の.で説き明かします。その前に、「そっとしておいてもらいたい」という人間の(ほん)(しょう)について深掘りしておきましょう。

 

Ⅳ ほうっておいてください                                 

ヨブ記21:14――          

彼ら神に向かって言う。

ほうっておいてください。

あなたに従う道など知りたくもない。」

これは、ヨブがナアマ人ツォファルに答えている言葉の一節です。内容的には、「彼ら」、すなわち、神に逆らう者(ヨブ記21:7)の暴言が活写されています。

ヨブの主張によれば、神に逆らう者はこの世の幸せを第一として、「財産を手にし」、「生き永らえ」ています(ヨブ記21:7,16)。彼らは「あなた(神)に従う道など知りたくもない」と言って、神信仰をあざ笑っています。

彼らの考え方はヨブからは遠いものであります(ヨブ記21:16)。ヨブは、「あなた(神)に従う道を知る」ことを重んじる無垢(むく)正しい人(ヨブ記1:8)です。

神に逆らう者」がこの世の春を(おう)()しているのとは裏腹に、ヨブは「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」(ヨブ記30:26)と嘆いています。しかし、友人たちは、そのような不条理に悩み苦しんでいるヨブを慰めようとも寄り添おうともしません。

ただおひとり、主なる神がヨブを見守っておられます。深い悩みの(ふち)から、ヨブが立ち上がり、「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(哀歌3:38、ヨブ記2:10)と、再び告白するのを待っておられます。

周りの人々が「神に向かって」、「ほうっておいてください」と言っているのが、ヨブの耳から離れませんでした。自分もそう宣言すれば、神の束縛から解放されると思ったかも知れません。自分勝手にやれば、すべてが自己責任で済むというように……。

しかしヨブ自身は、「ほうっておいてください」との宣言を()(ちょう)することができました。それ故に、神の神たるゆえに信じるという「無垢(むく)」信仰が全うされました。ヨブは感謝と謙遜をもって、この世の「災いも、幸いも」受け取る人であり続けました。

さて主イエスはどのように、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」、すなわち、「ほうっておいてください」と言い放った人々に向き合われたのでしょうか? 神に「そっとしておいてもらいたい」とは口が()けても言わなかった、「無垢(むく)な正しい人」ヨブの物語を語るのも一つの方法かも知れませんが……。いずれにしても、主イエスは神から授けられた知恵によって伝道を進められます。

 

Ⅴ 主イエスはあなたを(あわ)れんだ                              

マルコ福音書5:18-20――

18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさいそして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。

レギオンに取りつかれていた人」は今や、新しい人生を歩みだしました。「一緒に行きたい」というのは、直訳すると、(その人)が彼(イエス)と共にいることを願っている、となります。すなわち、その人は、「レギオン」(=大勢・軍団)の支配から、「インマヌエル」の呼ばれるお方の愛と正義のもとに移されました(マタイ1:23)。神は我々と共におられるという名のイエス・キリストが、「共にいたい」との願いをかなえてくださいます。

これによって、信仰上、その人の人生全体がひっくり返されたということが確約されました。なぜなら、主イエスはこれからずっとその人を見守り、その人のために祈っていてくださるからです。

イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい」……「それを許さないで」というのは、「(その人)が彼(イエス)と共にいる」を拒絶されたのではありません。そうではなく、主イエスに同伴するのではなく、主イエスから派遣されるという別の道を、「インマヌエルの神なるイエスがあなたに勧める」ということです。

それ故に、悪霊に()かれていた人が「自分の家に帰る」中で、主イエスの臨在、つまり、「神は我々と共におられる」ことが現されます。

ゲラサ地方で最も軽蔑されたいた者のひとりが、罪人や病人へ福音を「言い広め(宣べ伝え)」ます。それこそが、イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」と住民の厚い壁を打開する伝道のやり方でありました。

悪霊に()かれていた人が「墓場から自分の家に帰る」というのは、尋常なことではありません。わたしたちは、さまざまな偏見・差別によって隔離された人々の悲しい人生を伝え聞いています。大勢の人々が「自分の家に帰れない」ままに、「身内の人」との和解さえできずに、最期を迎えられました。

幸いにも、主イエスが「自分の家に」遣わしたその人は、「身内の人」と話ができます。願わくは、互いに赦し合い、再会を喜ぶことができるようにと祈ります。しかし、最も重要だったのは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」が、その「」の中で「ことごとく知らせる」ということでありました。「人々は皆驚いた」というほどの反響はきっと、伝道への後押しとなるに違いありません。

 

一方、「その人は立ち去り」、他方、「イエスは舟に乗って再び向こう岸(カファルナウム)に渡られます」(マルコ5:21)。悪霊に()かれていた人が帰った「自分の家」に、主イエスが訪ねて来られたのではありません。しかし、主イエスは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と厳しく命じられました。

主があなたを憐れんでくださった……舞台は「墓場から家へ」と移されました。(はらわた)痛めるほどの、主イエスの深い同情(マルコ6:34)は、香りのようにその「」に満ちあふれたことでしょう。なぜなら、 の力によって、主イエスがそこに臨在されているからです。そのようにして、「主の憐れみ」は一人ひとりに宣べ伝えられていきます。

三日の間、「墓場」に閉じ込められた主イエス・キリストは、そこから立ち上がりました。もはや死の支配する墓に戻ることはありませんでした。わたしたち・信仰者にとって墓地は、主イエスが十字架の死からよみがえられたことを記念する場所にほかなりません。それ故に、悪霊に()かれていた人はもはや、「墓場」の狂気の生活に(おび)えさせられることはありません。

生きていながらも、墓場におびき寄せられそうになる人、挫折を重ねて絶望している人、そして、人間関係において疎外されている人、そうした人々のもとに、主イエスはやって来られます。そのひとりのために、海での難破も恐れずに旅をして、出会いの時を造られます。そして主イエスは、罪人らの敵対心や無関心をその身に浴びながら、憐れみの業と言葉を現されます。その点では、主によって救われているわたしたちは皆、悪霊に()かれていた人と変わりがありません。教会で、家で、そして外で、「主があなたを憐れんでくださった」ことを知らせましょう。  

 

W

月報8月号

説教 その言葉には力があった

 ルカによる福音書 4章31節~37節  

  小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その言葉には権威があった      ……ルカ4:31-32             

Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ     

                    ……ルカ4:33-34

Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った      ……ルカ4:35  

Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に()り頼んでいる 

                    ……エレミヤ書7:8          

Ⅴ 権威と力のある言葉によって命じる     ……ルカ4:36-37 

 

一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。

せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈(けんてい)する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。

ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:149:50該当(がいとう)します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。

準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13

① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15

② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30  〈スタートでつまずく〉

   故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ

③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37  〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉

   主イエスの言葉には権威と力があることが示される。

④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41

ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に(いど)むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。御言葉によって罪の赦しを教える悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も(とう)(しゅう)されています。

それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。

 

Ⅰ その言葉には権威があった          

ルカ福音書4:31-32――

31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って安息日には人々を教えておられた

32 人々はその教えに非常に驚いたその言葉には権威があったからである。

主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。

主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その(すべ)り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。

ただし、主イエスはナザレと同様に、安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。

イエスは人々を言葉により)教えておられた」⇒「人々はその言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。

その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨(ふんがい)し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を(こば)む態度の根源にあるものです。

 それに対し、カファルナウムの会堂に(つど)っていた人々の反応は、「人々はその言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生(めば)えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に(かな)うものでありました。

その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?

主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。

要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。

次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。

 

Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ     

ルカ福音書4:33-34――

33 ところが会堂に、(けが)れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ34ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」

ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の(さい)(ちゅう)に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。

ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「(けが)れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から(とら)えることにしましょう。

かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。

ところで、旧新約聖書には、この「当惑(とうわく)した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。

列王記上17:18―― 

彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」

マルコ福音書5:35――

イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を(わずら)わすには及ばないでしょう。」

この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の(ほどこ)しようがありません。

このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、(わずら)わさないでください」との慇懃(いんぎん)な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、(あきら)め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を()とうとするのです。

そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。

そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。

 

Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った          

ルカ福音書4:35――

イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお(しか)りになると悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の(きず)も負わせずに出て行った

主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「(けが)れた悪霊」を追放されます。

悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(いっかん)に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。

そして、悪霊から解放された男に関して、「何の(きず)も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え(さか)()に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を(たまわ)った、ユダ族の若者たちでありました。

ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの()(じゅう)長や貴族は、信仰深い人々を抹殺(まっさつ)する(わな)を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を(おが)まないとの(とが)により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。

ダニエル書3:21,27――

21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま(しば)られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。

その後、三人が炉の中から出てきて……

27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を(そこ)なわず、髪の毛も()げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。

()しくも、「何の(きず)も負わせずに」と「火はその体を(そこ)なわず」とは同じです。いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の(ほのお)(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(レギオン)(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの(しもべ)たちを救われました」(同上3:28)。

王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で(くじ)ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。

 

Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に()り頼んでいる 

エレミヤ書7:8――          

しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に()り頼んでいるが、それは救う力を持たない

主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。

初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。

エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ (つか)わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。

幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。

そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。

それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に()り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣(たくせん)とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣言葉)」を「自分の言葉」にすり()えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。

人間の(さが)というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。

パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を(あざむ)はなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と(いまし)めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという思い違いを起こしていたからです。

ではなぜ、そのような思い違い」・「すり替えが生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。

すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:143:1)、その上、彼らは一見、(ごう)()(けん)(らん)な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。

このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それむなしい言葉は救う力を持たない」。

否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:718:1131:21)。

今、神殿に(のぼ)って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「」にあずかることです。

そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に(おとしい)れていた思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。

 

Ⅴ 権威と力のある言葉によって命じる            

ルカ福音書4:36-37―― 

36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって(けが)れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった

人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。

なぜ、主イエスの「言葉」にが必要なのか、二つの点から答えましょう。

一つは、「権威」と同様に、「」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。

主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25