礼拝、説教    次週の礼拝是非お出掛け下さい。

 

                                                   礼   拝

 

礼拝は、神と人との交わりの場、出会いの時です。み言と聖餐を通してキリストを受け、祈り、讃美、信仰告白、献金などを通して、みずからを神に献げます。私達の信仰と生活の原点がここにあります。

次週の礼拝1 
              復活前第5主日礼拝

                  

               

  

    2018・2・25(午前10時15分~11時30分)

 (*支障のない方はお立ち下さい)
招き                前奏
                * 招詞     詩編82編8節

                * 頌栄           544

                * 主の祈り  

悔改め         * 讃美歌    138          

      * 交読文      12 詩編38編

神の言           旧約聖書   出エジプト記14章15節~31節
            新約聖書     コリントの信徒への手紙一10章1節~4節

                     祈祷
                 * 讃美歌      268              

説教              「海の中を通り抜ける民」 

                          小河 信一牧師    

                     祈祷           
                 * 讃美歌     Ⅱ-157

                 * 使徒信条

感謝・献身        献金
                     報告
                 * 讃詠        545
祝福・派遣        祝祷
                     後奏

 

 

「イエス・キリストを信じる」
ローマの信徒への手紙3章21節~24節
申命記9章1節~7節
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「神からさずかったいのち」
エフェソの信徒への手紙6章1節~4節
出エジプト記20章12節
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「安息日に働く神の御子」
ヨハネによる福音書5章9節~18節
エレミヤ書17章21節~22節
20180204説教.MP3
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「福音が告げられたときの驚き」
創世記45章16節~28節
ルカによる福音書24章11節及び41節
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説  教(礼拝)

説  教 (月報より)

   

1月説教

 

説教

エルサレムへ(のぼ)り、力のかぎり踊った

 

サムエル記下 6章1節~23節       

                                  小河信一 牧師

 

 

 

待降節第2週を迎えました。

 

サムエル記下6章の説き明かしを通じて、主イエス・キリストを待ち望み、主イエス・キリストに出会う信仰をととのえられたいと願います。

 

さて、サムエル記下6章は、ダビデの人生の中心であり、また、聖書の中心と言っても過言ではない、深い使信が含まれている部分であると思います。

 

出来事の細部や会話の微妙なやり取りを把握するために、多少の想像力を働かせると共に、前後の聖書箇所を(てき)()参照致します。それにより、人間の秘められた本性、その喜びや悲しみなどについて、しっかり汲み取ることにしましょう。

 

(ちまた)で話題になっているエルサレムは、三千年の都と言われます。エブス人が住んでいた町を征服するかたちで(サムエル記下5:6-12)、都の(いしずえ)が築かれました。三千年前にダビデ王が、ヘブロンからエルサレムへ(せん)()したのです。

 

なぜ、それが都であると言えるのでしょうか?

 

一つには、南のユダと北のイスラエルを統一して支配する(よう)(しょう)として、エルサレムは政治的な機能を十分に果たしたということです。もう一つには、神の箱がエルサレムへ運び込まれることにより、宗教上、聖なる都になったということです。

 

サムエル記下6章が描いているのは、後の方の出来事です。この章では、「神の箱」(6:2,3,4,6,7,12)と、同意の「主の箱」(6:9,10,11,13,15,16,17)とが合計13回出ています。他に、「契約の箱」という言い方もあります(レビ記16:2、サムエル記下15:24)。

 

この神の箱を新しい都へ運び上げるということの、地理的状況などは、以下の通りです。

 

20年間、神の箱が安置されていたバアレ・ユダ(またはキルヤト・エアリム / サムエル記上6:197:2)からエルサレムまでは、およそ10㎞(東海道本線の茅ヶ崎~大磯間の距離)です。徒歩だと2時間半くらい所になります。バアレ・ユダは新都の西方に位置します。ダビデはエルサレムから下って、精鋭の兵士たちと共にバアレ・ユダに集結し(サムエル記下6:1-2)、そこからエルサレム上京を企てたのです。

 

この箱の中には、契約の石板、すなわち、十戒の記された石の板が入っていました。神の山・ホレブでモーセが、それを箱に納めたと言われているものです(列王記上8:9、歴代誌下5:10)。つまり、出エジプト後の荒れ野の旅から始まって、神の箱は長い間、放浪を続けていたということであり、そのゴールが目前に迫っていたということです。アンカーを務める、その人こそ、神より三度も(サムエル記上16:13、サムエル記下2:45:3)油注がれたダビデなのです。

 

上述したように、神の箱は単なる礼拝の備品ではありません。これがダビデの指導のもとに、エルサレムに運ばれたということは、王国の中心に、神の言葉が据えられたという重大な意味を持っています。そして、三千年前の、その出来事が、キリストの言葉と出来事につながっていったという点で、私たち・キリスト者にとっても重大です。

 

ダビデの治世からおよそ千年後、エルサレムにおいて主イエス・キリストは神の言葉を宣教し、十字架と復活という神の大いなる救いの出来事を成し遂げられました。ベツレヘムで生まれエルサレムで死んだダビデの人生は、ダビデの子イエスによってくり返され、ダビデをはるかに超えるかたちで神の愛と正義があらわされたのです。

 

その点で、その場にいなかった私たち・キリスト者も大いに(しゅく)()すべき、神の箱のエルサレム到着ではありますが、このサムエル記下6章は人間の罪性を暴き出しています。まさに祝賀ムードに流されそうになる中で、二つの事件を通して、人間の本性を浮き彫りにしています。

 

こんなに喜ぶべきことを与えてくださった神よ、心から感謝します、と叫ぶその時、私たちは自分の弱さ、貧しさ、そして罪を忘れてはならないのです。

 

二つの事件の第一は、ダビデの部下に(かか)わることです。これは、(おおやけ)の事柄・宗教儀礼上のことで、統轄責任のあるダビデのもとで不可解であり悲惨な事件が起こりました。

 

その第二は、家庭内・夫婦内で、不和が()き出したことです。「サウルの娘」(サムエル記下6:16,20)とわざと(二人の間の距離が暗示されて)遠回しに書いてあるダビデの妻ミカルとの不調和です。兵士全員ならびに群衆すべてが、輪形のパンなど御祝儀を(たずさ)えて「自分の家に帰って行った」(サムエル記下6:19)……各家庭の幸せな光景が目に浮かびます……一方、ダビデの家では夫婦の正面衝突が起こりました。後世まで記念すべき日、男女の愛憎ゆえの、壮絶な会話までも記録され残されてしまいました。

 

大切なことは、ダビデに、公の職務上でも、夫婦関係でも大きな問題があったにもかかわらず、そういうダビデを神が支えてくださったということです。

 

神は、そういうあなたに油を注ぎ、あなたを(しもべ)として用い、王国を確立する、と言われ、実際のところ、神の約束が揺らぐことはありませんでした。公私にわたる重圧を背負いながら、ダビデは主の()しに応え、神の御力に依り頼み、神の箱を運び上げたのです。

 

それでは、二つの事件の第一番目を見てみましょう。

 

サムエル記下6:3-4――

 

3 彼らは神の箱を新しい車に載せ、丘の上のアビナダブの家から運び出した。アビナダブの子ウザとアフヨがその新しい車を御していた。4 彼らは丘の上のアビナダブの家から神の箱を載せた車を運び出し、アフヨは箱の前を進んだ。

 

ダビデは、神の箱が聖別され安置されていたアビナダブの家からの搬出作業に取りかかりました。その運び手として、レビ人など祭司を使命することもできたでしょうが、ダビデは保管されていた家の者、ウザとアフヨを抜擢(ばってき)しました。「丘の上の家から」の道で、アップダウンが激しそうです。

 

サムエル記下6:5――

 

ダビデとイスラエルの家は皆、主の御前で糸杉の楽器、竪琴、琴、太鼓、鈴、シンバルを奏でた。

 

竪琴の名手(サムエル記上16:16-18,23)、ダビデ王も皆の輪に加わり、いやが上にも祝祭の気分は盛り上がります。

 

サムエル記下6:6-7――

 

6 一行がナコンの麦打ち場にさしかかったとき、牛がよろめいたので、ウザは神の箱の方に手を伸ばし、箱を押さえた。7 ウザに対して主は怒りを発し、この()(しつ)のゆえに神はその場で彼を打たれた。ウザは神の箱の傍らで死んだ。

 

ナコンの麦打ち場で、ウザが打たれた……何とも不可解な出来事です。何の「()(しつ)」なのでしょうか。アフヨは牛車(ぎっしゃ)の前にいましたから、ウザは後ろにいたということになります。神の箱がひっくり返れば、その中にある十戒の石板が転がります。だから、「ウザは手を伸ばし、箱を押さえた」、そこでなぜ神は怒られたのでしょうか。一瞬、聖なる至宝に触れたからでは、あまりにも不条理ではありませんか。ウザは危ない場面で職務を果たそうとしたまで、です。

 

ところで、ダビデが当然留意すべきだった旧約律法に「祭具の移動・運搬」の(おきて)なるものがあります(民数記4:12-15)。要は、かつて日本にあった駕籠(かご)のように、人力により(かつ)ぎ台と担ぎ棒を使って運ぶということです。念のために祭具は覆いでおおっておく、万一、聖なるものに触れたらば死を招くという(ただ)し書きまであります。牛を車につなぎ、それに神の箱を載せて運ぶのは、ペリシテ人が取った方法です(サムエル記上6:7-14)。三万人の精鋭を召集したという慢心と、わずか10㎞、わずか2時間半とはやる気持ちとが、律法の遵守をおろそかにさせたのでしょうか。

 

事情はどうであれ、人命が失われたのは、最高指揮官・ダビデの責任であることは、彼自身承知していました。神の箱のお出まし、万歳、万歳の雰囲気は一変しました。

 

サムエル記下6:8――

 

ダビデも怒った。主がウザを打ち砕かれたためである。その場所をペレツ・ウザ(ウザを砕く)と呼んで今日に至っている。

 

ダビデは、「ウザを打ち砕かれた」がゆえに、主に向かって怒りました。神に向かって怒ることは、不信仰なことでしょうか。そうすることを勧めているわけではありませんが、本当に神を慕い求め、神を愛そうとするならば、時に、神に向かって怒りを発することもあり得るのではないでしょうか。なぜ、(ただし)しい神がこんな悲惨な目に自分を遭わせるのかと思わせられる、人生の局面が誰しもあることでしょう。その時、人が神に怒りを向けることを、神は退(しりぞ)けられるのでしょうか。

 

いずれにしても、この時、ダビデは神がウザを打ったことが受け入れられなかったようです。納得がいかなかったのです。しかし、人が自暴自棄になりそうな時、ダビデは冷静でした。納得いかないものの、「ペレツ・ウザ(ウザを砕く)」を復唱しつつ、この事件に真剣に向き合いました。そのことが、直後のダビデの振る舞いに現れています。

 

サムエル記下6:9-10――

 

9 その日、ダビデは主を恐れ、「どうして主の箱をわたしのもとに迎えることができようか」と言って、10 ダビデの町、自分のもとに主の箱を移すことを望まなかった。ダビデは箱をガト人オベド・エドムの家に向かわせた。

 

ダビデは、危機管理に優れていました。すぐに手を打ったのです。彼は、自分が恐れ、自分が愛している神との関係の中で、愛する部下の急死を捉えました。それは、神からの何らかのメッセージなのではないか、ダビデは新たな思いで、神が神の箱移動に、ゴーサインを出されるのを待つことにしました。

 

ダビデは高ぶったり(あせ)ったりすることのある弱い人間でしたが、そうであればこそ、主の教えと助けによりすがったのです。いつまで中止させられるか、不明な状況で、中断を選び取りました。「もうすぐです。みんな待ってます。()めないでください。今日やりましょう」との陰の声に惑わされませんでした。

 

次に、第二の出来事、夫婦の不和という問題を見てみましょう。

 

羊飼いの息子と王の娘、ダビデとミカルについて、聖書はどちらが先に愛したか、記録しています(あくまで聖書情報で、ご当人たちに聞いたわけではありませんが……)。サムエル記上16章、ダビデは巧みに竪琴を奏でてサウルを癒す、17章、ダビデ、ゴリアトを倒す、に続く18章に「サウルの娘ミカルはダビデを愛していた」(サムエル記上18:20)とあります。ミカルは、「神の霊がサウルを襲うたびに」(サムエル記上16:2318:10)、王宮を出入りする少年ダビデに見惚(みほ)れていたのかも知れません。芸術に武芸に(ひい)で、日の出の勢いの青年ダビデに、乙女心が動くというのは、自然な成り行きでしょうか。

 

親切なことに聖書は、二人のなれ()めについて、ダビデの側の思いも伝えています。「ダビデはこうして王の婿(むこ)になることは良いことだと思い」(サムエル記上18:26)、そこで彼はペリシテ人を討ち破り、その(こう)をもって、王妃・ミカルを妻に得たというのです。ミカルの愛情とダビデの下心は、どのように今日の二人とつながっているのでしょうか。ミカルが痛烈な皮肉を、ダビデに浴びせているのは……時の流れとは、そのようなものでしょうか。

 

緊急の措置で留め置かれていた神の箱が三か月後、エルサレムに運び上げられました。ガト人の一家が主の祝福に満たされたというしるし(サムエル記下6:12)が、再出発のサインでした。

 

サムエル記下6:16――

 

主の箱がダビデの町に着いたとき、サウルの娘ミカルは窓からこれを見下ろしていたが、主の御前で跳ね踊るダビデ王を見て、心の内にさげすんだ。

 

サムエル記下6:20――

 

ダビデが家の者に祝福を与えようと戻って来ると、サウルの娘ミカルがダビデを迎えて言った。「今日のイスラエル王は御立派でした。家臣のはしためたちの前で裸になられたのですから。空っぽの男が恥ずかしげもなく裸になるように。」

 

初め、人を持ち上げておいて、次にドスンとおとしめるというミカルの皮肉です。「御立派でした」は、原文に忠実な英訳で、 How glorious was the king of Israel today とあるように「光輝に満ちた」が原意です。

 

夫婦のいさかいに他人があれこれ言うのは慎まねばなりませんが、高貴な家柄で上品に(しつ)けられたがゆえに、ミカルは、ダビデの踊りの「下品さ」が気に入らなかったのでしょうか。ダビデは初め、祭司服のエフォドをまとっていた(サムエル記下6:14)のですが、ミカルの証言が正しいとすれば、踊りの熱気のうちに途中で脱ぎ捨てたのでしょう。

 

あるいは、主なる神を信じるという点において、ミカルは足りないところがあったのでしょうか。そうだとすれば、神の箱の到着が、神の臨在のしるしとなること、また、単なる感情の高揚ではなく、主の御前にダビデと群衆が楽を奏し、力のかぎり踊ったことなど、彼女には神礼拝の意味が分からないことになります。

 

さらに言えば、聖書には書かれていませんが、このような痛烈な皮肉を言わしめた夫の側に、その日常の行状に、何かしらの問題があったのかも知れません。ダビデは次のように、ミカルに答えました。

 

サムエル記下6:21――

 

ダビデはミカルに言った。「そうだ。お前の父やその家のだれでもなく、このわたしを選んで、主の民イスラエルの指導者として立ててくださった主の御前で、その主の御前でわたしは踊ったのだ。」

 

「あなたの兄上や弟君ではなく、主がこのわたしを選んでくださった」、その選びの確かさがこの度の、神の箱の搬入に現れています。ダビデが歓喜して踊るのは、自然なことです。

 

ここで、ダビデの踊り方を解説しましょう。サムエル記下6章には、三箇所(6:14,16,21)に四つの動詞で表されています。それによれば、ダビデはくるくると回ったり(6:14,16)、()びはねたりして(6:16)踊ったようです。竪琴の巧みなダビデはリズム感が良かったのでしょう。大切なことは、その踊りが「主の御前に」(6:14,16,21)ささげられたものであるということです。

 

サムエル記下6:22 ダビデが続けてミカルに――

 

「わたしはもっと(いや)しめられ、自分の目にも低い者となろう。しかし、お前の言うはしためたち(女奴隷)からは、(うやま)われるだろう。」

 

はしためたちからは、(うやま)われるだろう」というのは、夫ダビデは「はしためたちの前で」恥をさらしたとさげすむ妻ミカルへの、信仰的な反論です。この世的に卑しい者とされている「はしためたち」こそ、わたしの信仰の姉妹なのだ、なぜなら、神は、へりくだり、低くなる者を顧みてくださるのだから、ということです。へりくだる者こそが、主にあって高められ(ルカ1:52)、隣人に「敬われる」のです。

 

この夫婦の物語は、次のように閉じられます。

 

サムエル記下6:23――

 

サウルの娘ミカルは、子を持つことのないまま、死の日を迎えた。

 

ミカルのまさに「花嫁のときの愛」(エレミヤ書2:2)から始まりました。途中で、激しい応酬、すれ違いが起こりました。その後、この夫婦の仲がどのようになったかは不明ですが、国民的な祝祭日に、人間関係上の「ペレツ(破れ)」が記憶されることになりました。主の栄光の日、人々の破れが照らし出されたのです。神の光は、幸いなるかな、人の罪を照らし出します(詩編90:8、エレミヤ書16:17)。

 

「子を持つことのない」こと自体が、夫婦の幸不幸を決めるものではありません。私たちが受け取るべきことは、ダビデとミカルの間からは、いわば「ダビデの子」が生まれなかった、イエスへとつながってゆく「ダビデの子」は、彼らから誕生しなかったという厳粛な事実です。これまた、ダビデの弱さと罪を想起させる結婚相手、バト・シェバから「ダビデの子」ソロモンが生まれまたのです(サムエル記下11章、マタイ1:6)。

 

ダビデが聖なる都エルサレムで踊ってから、千年後、その都にほど近いユダの村里で、主の御前に喜び踊るという出来事がありました。いよいよ、「ダビデの子」イエスが生まれるという待望の時です。

 

ルカ福音書1:39-45 マリア、親類のエリサベトを訪ねる――

 

39 そのころ(天使ガブリエルから受胎告知を受けて)、マリアは出かけて、急いで山里に向かい、ユダの町に行った。40 そして、ザカリアの家に入ってエリサベトに挨拶した。41 マリアの挨拶をエリサベトが聞いたとき、その胎内の子がおどった。エリサベトは聖霊に満たされて、42 声高らかに言った。「あなたは女の中で祝福された方です。胎内のお子さまも祝福されています。43 わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは、どういうわけでしょう。44 あなたの挨拶のお声をわたしが耳にしたとき、胎内の子は喜んでおどりました45 主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう。」

 

英語で「跳びはねる足どり」をスキップ(skip)と言いますが、それは、このギリシャ語原文・二箇所に出ている「おどる」という動詞に由来するものです。エリサベトは胎児の「跳ねおどる」ような強い動きを感じ取ったのです。

 

わたしの主のお母さまがわたしのところに来てくださるとは」とのエリサベトの言葉には、マリアに対する、また、に対する謙遜さが言い表されています。エリサベトがマリアの前にへりくだり、同時に、胎児ヨハネがイエスの前にへりくだって「おどった」のです。エリサベトとヨハネ、その母子は、「主こそ、私たちの喜びの源です、主の母マリアよ、主イエスよ」という讃美をささげたとも言えましょう。思い巡らせば、挨拶を受けたマリアもまた、彼女の賛歌に「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです」(ルカ1:48 参照:讃美歌Ⅰ-95番「わが心は」)と歌われているように、神の前にへりくだり、隣人を敬う主の(しもべ)なる女性でした。

 

フィリピの信徒への手紙2:3-5――

 

3 何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、4 めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。5 互いにこのことを心がけなさい。それはキリスト・イエスにもみられるものです。

 

へりくだるということは、自分ひとりですることではなく、相手を見つめ、「相手を自分よりも優れた者と考え」て、なされることです。相手の前に謙虚になるというところに、難しさがあります。どうすれば、へりくだっていると言えるのか、一つの回答があるわけではありません。ひたすらに、相手の中に、()(そそ)いでいるキリストの恵みを見る、そう見れば、相手が「優れている」ことが分かるでしょう。

 

しかしながら、この私は、へりくだりの大切さをわきまえ知りながら、ダビデのように失敗を重ね、罪につまずく者です。それ故にこそ、へりくだり、そのもの(参照:讃美歌Ⅱ-96番「いまこそ来ませ」)である主イエス・キリストの救いに依り頼みます。主イエスの方から私たちのところに降って来てくださいました。主の十字架と復活を信じる、それこそが私たちの歩むべき、へりくだりの道です。私たちが仰ぐべきは、エルサレムの丘の十字架に上げられた主イエス・キリストです。

待降節に読むダビデ物語を通して、ダビデを先駆者とする「ダビデの子」、イエス・キリストのご生涯の道をたどりましょう。ダビデにはるかに(まさ)る、神ご自身の愛と正義をもって、死と敵意と嘲りを乗り越えられた主の道を、私たちもまた歩んで行きましょう

 

 

 

2017.12月説教
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