礼拝、説教    次週の礼拝是非お出掛け下さい。

 

                                                    礼   拝

 

礼拝は、神と人との交わりの場、出会いの時です。み言と聖餐を通してキリストを受け、祈り、讃美、信仰告白、献金などを通して、みずからを神に献げます。私達の信仰と生活の原点がここにあります。

次週の礼拝
               降誕前第5主日礼拝

                  

               

  

    2017・11・26(午前10時15分~11時30分)

 (*支障のない方はお立ち下さい)
招き                前奏
                * 招詞     詩編69編35節~37節

                * 頌栄           544番

                * 主の祈り  

悔改め         * 讃美歌    87B番          

      * 交読文      50 黙示録21章

神の言           旧約聖書   創世記39章19節~23節
            新約聖書     使徒言行録7章9節~10節

                     祈祷
                 * 讃美歌       Ⅱ-188番              

説教              「成功へと導く主なる神」 小河 信一牧師    

                     祈祷           
                 * 讃美歌     312番

                 * 使徒信条

感謝・献身        献金
                     報告
                 * 讃詠        545番
祝福・派遣        祝祷
                     後奏

 

 

説  教(礼拝)

「神はあなたを知っておられる」
ヨハネによる福音書10章7節~18節
詩編23編1節~6節
20171119説教.MP3
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「霊による心の割礼」
ローマの信徒への手紙2章17節~29節
エレミヤ書4章4節
20171112説教.MP3
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「主イエス・キリストの力によって」
マルコによる福音書8章27節~30節
イザヤ書61章1節~9節
20171105説教.MP3
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「神の民は等しく皆、贖われて」
ローマの信徒への手紙2章5節~16節
詩編62編13節
20171029説教.MP3
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説  教 (月報より)

   

10月説教

(おん)(ちち)は御子を愛しておられる

 

ヨハネによる福音書 3章31節~36節     小河信一 牧師

 

 

 

31 「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。32 この方は、見たこと、聞いたことを証しされるが、だれもその証しを受け入れない。33 その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。34 神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36 御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。」

 

 

 

本日の旧約と新約の聖書箇所は対応しています。鍵語「わたしの助け」を(じく)に、旧約から新約への展開を見てみましょう。

 

詩編121:1-2――

 

1             都に上る歌。

 

目を上げて、わたしは山々を(あお)ぐ。

 

わたしの助けはどこから来るのか。

 

2 わたしの助けは来る

 

天地を造られた主のもとから。

 

最後の二行は、信仰告白になっています。信仰告白というのは、「わたし」または「わたしたち」、人間が神に対して信じている内容を言い表すことです。

 

「わたしの助け」との一語において、わたしには必ず助けがあることが告白されています。さらに、その助けは、自分の内側からではなく、「天地を造られた主のもとから」やって来ると述べられています(参照:ヤコブの手紙1:17)。

 

短いながら、確かな信仰告白になっています。

 

そして、神の助けが天から地へ降って来るという御言葉は、新約において成就しました。旧約詩人の預言とも言える御言葉が、キリストの「救い」において成し遂げられました。その「救い」が真に「わたしの助け」となりました。

 

それを言い表したのが、本日の新約、ヨハネによる福音書3:31-36です。つまり、その会話文の話者、洗礼者ヨハネまたはヨハネの属する教会の人々の信仰告白が、この箇所に見られるということです。

 

まずここで、「天地を造られた主のもとから」来た、神の助け・救いなるものを数え上げてみましょう。それによって、どんなに「わたしの助け」が恵み深いものか、分かることでしょう。

 

ヨハネ福音書3:31――

 

上から来られる方は、すべてのものの上におられる。

 

果たしてまず第一に、父なる神が天地の造り主として、私たちに与えてくださったものは、何でしょうか?

 

それは、「上から来られる方」であると明言されています。以下の文章から、それは「神がお遣わしになった方」、すなわち、主イエス・キリストだと分かります。「上から来られる方は、すべてのものの上におられる。…… 天から来られる方は、すべてのものの上におられる」と、讃歌のような荘厳な響きを持つ信仰告白です。信仰者の魂の中心に、主イエス・キリストが置かれています。

 

「天地を造られた主のもとから わたしの助けは来る」と述べられている、その「わたしの助け」とは何ですか、という信仰問答の答えになっています。

 

「わたしの助け」とは、主イエス・キリストご自身です。主の御言葉と御業、主の十字架と復活です。わたしが主イエス・キリストによって罪と死から救い出されるという形で、「わたしの助け」が成し遂げられたということです。

 

このようにヨハネ福音書3:31-36は、信仰告白する事柄の重要性や順序をも踏まえています。旧約の詩人は簡明に、「天地を造られた主のもとから」降って来るのは「わたしの助け」であると讃美していました。ところが、ヨハネの方では、「上から来られる方」、主イエス・キリストを①として、後、五つほど挙げられています。

 

ヨハネ福音書3:31-36における「天地を造られた主のもとから」来るもの――

 

①上から来られる方 主イエス・キリストご自身 ヨハネ3:31

 

②主イエスの語られる証し ヨハネ3:32-33

 

  ※これは、人間の証しではなく、主イエスの証しであることにご注意ください(参照:テモテへの手紙 6:13)。

 

③神の言葉 ヨハネ3:34

 

    ※①に続く②と③とにより、御言葉の重さに光が当てられています。

 

   言い換えれば、主イエスとの交わりにおいて私たちは、主の語られる言葉に耳を傾け、その言葉を実践します、という信仰告白がなされています。

 

④神からの“霊” ヨハネ3:34

 

  ※ヨハネ福音書においては、聖霊は主イエスの活動と共に降って来(ヨハネ1:326:637:3914:2620:22)、弟子たちなど人間に注ぎ出されます。主イエスが伝道を開始された、それは神からの“霊”に満たされていたということです。

 

   弟子たちに見る通り、人間の側が、聖霊の働きを充分に受け止めるのは、主イエスの十字架と復活の出来事の後です。

 

⑤御子を通しての愛 ヨハネ3:35

 

  ※父なる神は御子を通して、私たちに愛をもたらされました。父の御心は、御子、イエス・キリストの十字架にあらわされた惜しみなき愛によって世を救うことにありました(ヨハネ3:16)。

 

⑥永遠の命 ヨハネ3:36 

 

※これは、神の永遠性(ヨハネ12:34)に由来するものです。従って、永遠の命というのは、神が人間のために創り出したものではなく、神が信じる者に分かち与えてくださったものです。「友」((かい)()(にん) ヨハネ3:29)と呼ばれるほどに、主イエスに近しい者があずからせていただくのが、永遠の命です。

 

これらが、神の大いなる救いの計画と実行のうちに、私たちに向けて降って来る、あるいは、(受肉や(ことば)において)啓示されるのです。かつて、山々を見上げて、神の助けを待ち続けた詩人、あるいは、この地上に生きたさまざまな人がいました。そして今、彼らの信仰を受け継ぎ、神の前に悔い改める者、御子を信じる人に、まことの助け、主イエス・キリストによる救いが降って来た、と告げられています。

 

確かに、「わたしの助けは来る 天地を造られた主のもとから」というのは、純粋かつ真剣な信仰告白です。私たちが見ならうべきものです。しかし、父なる神と御子によって、私たちの予測を超えて、天から地に圧倒的な力が示されました。旧約の詩人が思っていたであろう「わたしの助け」を、はるかに超える形で、神の恵みが「この方(イエス・キリスト)の満ちあふれる豊かさの中から」(ヨハネ1:16)現れました。そこで、ヨハネ福音書3:31-36のような新たな信仰告白が教会の中でつくり出されたのです。私たちが山を眺めるとき、これほど豊かな神の御業と御言葉が与えられていることを感謝したいと思います。

 

ところで、ヨハネ福音書では、天と地、あるいは、上と下という表現で、二元論的な対立があらわされています。

 

ヨハネ福音書3:31――

 

上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として語る。

 

また他にも、光と闇(ヨハネ1:53:19)、霊と肉(ヨハネ3:66:63)という対比が出ています。

 

一方、天というのは、使徒信条に「三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と記されているように、主イエス・キリストのおられる所です。他方、地というのは、まことの光を理解しようとしない人間が「世」からの罪の誘惑にさらされている所です。しかし、ただ空間的に区分しようとして、天=善、また、地=悪というように、単純化することは危険です(参照:詩編115:15-16)。それでは、神の導かれる大いなる出来事を捉えることは困難です。実際、ヨハネの教会の信仰者は、グノーシスと呼ばれる二元論的()()に染まってしまった異端と戦いました。彼らは、この世は罪に犯されているから、駄目だと切り捨てます。そして、地上のことはなおざりにして、天的なものを渇望するように(あお)り立てます。

 

天の父は、土(アダマ)の(ちり)で人(アダム)を形づくられました(創世記2:7)。また、天の父は、御子を肉として遣わし、私たちの間に宿らされました(ヨハネ1:14)。時に、地は神の栄光を映し出して輝きます。時に、御怒りの暗雲によって、地のみならず天も(かげ)ることがあります(哀歌2:1、詩編74:1)。私たちは、天地の造り主をまっすぐに仰ぎ、「世を愛された」神(ヨハネ3:16)への信頼が揺らがないようにしなければなりません。主にあって生き長らえさせていただいている今の時は、主イエス・キリストが天から再臨して来られるのを、この地で待ちたいと願います。

 

繰り返しますが、本日の主題は、私たちの信仰告白です。天の父は、御子の派遣によって、この世に介入されました。主イエスはその御父の御心に従って、伝道を開始されました。神の為しておられることを、私たちが感謝と讃美をもって言い表す、それが信仰告白です。それに関連して、洗礼者ヨハネは次のように述べています。

 

ヨハネ福音書3:33――

 

その証しを受け入れる者は、神が真実であることを確認したことになる。

 

主イエス・キリストの「証しを受け入れる者」、すなわち、あなたがた・信仰者は、「神が真実であること」を確認していますか?

 

こう問いかけられると、私たちは神の福音を「信じている」のであって、「確認している」というのは少し違うのではないか、と反論されるかも知れません。しかし、いずれにせよ洗礼者ヨハネは「確認した」と告知しているのですから、その意味するところを確認しましょう。もし、それが確認できれば、私たちの信仰が、堅いものになることは間違いありません。

 

神が真実である、神の教えはあふれ出す喜びである、つまり、福音をいうものは、「確認した」と言い得るほどに、リアルに心に迫って来るものです。

 

ギリシャ語の「確認する」は元来、「(安全にするために)封印する。印を押す」という意味です。そこから、「疑う余地をなくする。確証する」の意へと派生しました。従って、あなたがたは、「神が真実であること」について印鑑を押した、が原意だと分かります。

 

私たちは、この信仰的な事柄に、自分の印鑑を押すことが出来るでしょうか。自分はしっかりとは霊的な世界を見通せないと、印鑑を引っ込めてしまうのでしょうか。

 

神は先刻、私たち・人間がなかなか信じ切れない者であることをご存知です。信仰告白に関して、「その通りです」と、自力で印鑑を押せないのを知っておられます。

 

神はそのような私たちを顧みて、「その通りです」と応答する、その手だてを示してくださいました。すなわち、父なる神が主イエス・キリストをこの世に送ってくださり、そして御子が人の子として伝道し、数々の言葉を語り、(くす)しき御業を行ってくださいました。その御業の究極が、主イエスの十字架と復活です。そのことの確証として、ヨハネ福音書3:31-36には、天から地へ降って来るもの、①~⑥が挙げられていたのです。

 

要は、あなたが「神が真実である」と知るように、あなたは悔い改めをもって、御子、イエス・キリストの前に立ちなさい、ということです。もし、あなたが主の前に立つならば、神の側から、あなたは神の真実を確認したと宣告されるのです。

 

ついでながら、アーメンという言葉があります。「まことに、その通りです」というこの語の原意は、「確かである」・「堅固である」ということです。私たちは、「アーメン。この祈りは確かに神に聞かれている」と最後に唱えているのです。私たちが神の真実を確認し得るのは、それが、主イエス・キリストの救いの確かさ()るものだからです。印鑑を心に押して神と契約を結び、神の真実を確認したことを、私たちの唱える小さな言葉、「アーメン」はあらわしています。

 

ヨハネ福音書3:34――

 

神がお遣わしになった方は、神の言葉を話される。神が“霊”を限りなくお与えになるからである。

 

先に、④神からの“霊”で触れたように、ヨハネ福音書ではこの箇所もそうですが、主イエスを中心として聖霊の働きが満ち満ちる、と記されています。そして、主イエスは、取り巻いている人々に、「神が“霊”を限りなくお与えになる」という霊を分かち与えてくださいました。それ故に、洗礼者ヨハネはじめ、ヨハネに属する教会の人々は、聖霊に導かれて、主の証しを受け入れ、神の真実を確認することが出来たのです。

 

しかし、主イエスとニコデモとの対話に、「(プネウマ=)は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない」とあるように、ほんとうに聖霊の働きが分かるのは、主イエスのよみがえりに至ってからでした。

 

ヨハネ福音書3:36――

 

御子を信じる人は永遠の命を得ているが、御子に従わない者は、命にあずかることがないばかりか、神の怒りがその上にとどまる。

 

神の怒りの炎が消えることはない。大変恐ろしいことです。

 

ハイデルベルク信仰問答の問10の答えに、「神は……罪に激しくお怒りになって……ご自身の正しさに従って、罰せられる」という文章があります。事によると、教会で神の怒りについて語られることが少なくはないでしょうか。確かに、人間の怒りからの類推で、神の怒りを捉えるのは適切ではありません。

 

「怒りの特色のひとつは、怒っている人がたいていの場合、周りに迷惑を及ぼすことです。怒りは、はた迷惑です。…… 怒りは、関係を断とうとする思いを含んでいます。…… そこで関係が切れてしまうものですから、周りの者は、その関係を取り(つくろ)うこともできない。…… 怒ったら、話ができなくなるのです。…… そういう間違いをいつも含んでいる自分たちの怒りを知っているものですから、同じような怒り方を神さまがなさるのは、神さまらしくないことだと思っている。」(加藤常昭『ハイデルベルク信仰問答講話 上』、教文館)

 

ここには、私たちは神の怒りに、真剣に向き合っているか、という問題提起があると思います。

 

「神の怒り」がはた迷惑であるはずはありません。神が人に対し、ピシャッと戸を閉ざすはずもありません。

 

天からの「神の怒り」の下にある人(ローマ1:18)というのは、端的に言えば、全員なのです。人間は罪を犯さざるを得ません。信仰を持っていても、悔い改めの道は知っていますが、罪を犯します。その意味では、皆、神の怒りの下にあります。

 

その上で、洗礼者ヨハネは、「神の怒りがその上にとどまる」人とそうでない人に分かたれると語っています。神の怒りはすべての人の上に等しく降って来ます。問題は、その神の怒りがその人の上に永続して降って来るか、神の怒りがその人のもとにとどまり続けるか、否、そうならないか、なのです。

 

私たちが神の怒りに、真剣に向き合う、その唯一の道は、御子に出会うこと、御子に従うことです。そこで、主の十字架の下にたたずみ、神の怒りがくだり、私たちの罪が贖われたことを「確認する」のです。

 

私たちの信仰告白という観点から、説教のまとめを致します。

 

ヨハネ福音書3:16――

 

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

 

これは、私たちの教会の聖餐式で読まれる聖句、招きの言葉です。確認ですが、これは、主イエス・キリストご自身の言葉です。福音の核心を()いた言葉です。短い句の中に、喜ぶべきこと、恐れるべきこと、そして驚くべきことが凝縮しています。この大事な言葉をもって語りかけられたのは、求道しているのか・いないのか、信仰を持っているのか・いないのか、(おぼ)(つか)()いニコデモです。主はその彼に信仰の真髄を開示されたのです。

 

ここで考えなければならないのは、これが、ただ主イエス・キリストのありがたいお言葉として飾り置かれるならば、何の意味も無いということです。問題は、私たちがその御言葉を聞いて、私たちの言葉をもって応答することです。その実例が、洗礼者ヨハネにより示されています。

 

ヨハネ福音書3:35-36――

 

35 御父は御子を愛して、その手にすべてをゆだねられた。36 御子を信じる人は永遠の命を得ている

 

どうでしょうか。直前に語られているヨハネ福音書3:16と大変よく似ていませんか。つまり、洗礼者ヨハネは、主イエスの言葉を傾聴した上で、自分の口をもってそれを言い直したのです。さっき主イエスがキリスト教とはこういうものであると語ってくださった、それをヨハネは、これこそ教会の()るべき信仰告白にほかならない、と自分の言葉で言っています。

 

ちなみに、「一人も滅びないで」(3:16)という箇所は、「神の怒りがその上にとどまる」(3:36)と、逆の面から表されています。主イエスに出会い、十字架にあらわされた神の怒りに気が付かなければ、私たちは滅びへと向かわざるを得ません。

 

ヨハネ福音書3:16:35-36とが(じゃっ)(かん)異なりながらも、見事に並行していることを説明しましょう。

 

最初に、「神は世を愛された」と「御父は御子を愛して」で、違う一点は、「世を」と「御子を」です。父が御子を愛したというのは神の世界の出来事ですが、その神の交わりの中にある愛は、この地上の信じる者のために分かち与えられました。主イエスご自身が、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた」(ヨハネ15:9)と教えてくださっています。

 

次に、「神は、その独り子をお与えになったほどに」と「御父はその手(=独り子の手)にすべてをゆだねられた」との並行です。神は、「独り子」または「すべて」を「引き渡した」と言います。その引き渡し先が、「世」と「独り子の手」となっています。父なる神は「すべて」を独り子にゆだねられましたが、父からすべてをゆだねられた独り子は「世」を救うために、引き渡されました。具体的に言えば、神はポンテオ・ピラトを用い、十字架につけるために、ユダヤ人に「引き渡した」のです(ヨハネ19:16)。

 

最後に、()めの句、「独り子を信じる者が永遠の命を得る」と「御子を信じる人は永遠の命を得ている」とは同一です。双方が、主イエス・キリストに()るかぎり、今すでに「永遠の命」にあずかっている、と強調しています。

 

主イエスの言葉とヨハネの告白が響き合っています。神の啓示されたものが、信仰者によって受け止められています。

 

ヨハネ福音書では、最初と最後が、また前と後が、シンフォニー(交響曲)のように共鳴しています。主イエスから洗礼者ヨハネへ、ヨハネからヨハネに属する教会の信徒へ、というつながりの中に、私たちの教会も()ります。私たちもヨハネに(なら)い、聖霊に導かれて、私たちの信仰告白をなし伝道してゆきたいと願います。

 

 

2017.9月説教
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