礼拝、説教

主日礼拝 2020年 9月20日  

聖霊降臨節 第17主日

     

 

 

招き   前奏

招詞   詩編65編 6節

 

主の祈り  (交読文 表紙裏)

 

 

旧約聖書 イザヤ書28章16節(P.1103)

新約聖書 ローマの信徒への手紙9章30節~33節(P.287)

祈祷

 

説教   「信仰による義を得た」

               小河信一 牧師 (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  270

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   546

祝祷 

後奏

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2020年9月20日「信仰による義を得た」
イザヤ書28章16節
ローマの信徒への手紙9章30節~33節
200920_0042.MP3
MP3 オーディオファイル 29.5 MB
2020年9月13日 「私の埋葬の日のために」
雅歌4章12節~15節
ヨハネによる福音書12章1節~8節
200913_0041.MP3
MP3 オーディオファイル 32.4 MB
2020年8月30日 「ここに私がおります」
イザヤ書6章1節~13節
ローマの信徒への手紙10章14節~15節
200830_0039.MP3
MP3 オーディオファイル 30.3 MB
2020年8月23日 「神の子たちを一つに集める」
イザヤ書49章5節~6節
ヨハネによる福音書11章45節~57節
200823_0038.MP3
MP3 オーディオファイル 31.4 MB
2020年9月6日 「収穫は多いが、働き手が少ない」
民数記27章15節~17節
マタイによる福音書9章35節~38節
200906_0040.MP3
MP3 オーディオファイル 29.6 MB

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〈説教の要約〉

2020年 9月20日                                        

旧約聖書 イザヤ書 28章16節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 9章30節~33節

       「信仰による義を得た」

                  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 行いによって達せられるかのように

Ⅱ つまずきの石につまずいた

Ⅲ つまずきの石なるイエス・キリスト  

Ⅳ これを信じる者は、失望することがない

結 び

 

ローマの信徒への手紙9章の最終部分を迎えました。

このローマの信徒への手紙9章の冒頭(9:1-5)の説教では、「パウロは悲しみ痛みつつ、反逆し困難に陥っている同胞(どうほう)(兄弟、同じ民族)・隣人が『キリストの愛の広さ、深さ』によって救われるよう祈る」というように要約しました。そして9章の中盤では、ユダヤ人がかたくなであること、威圧的であること、心に(うるお)いが無く(かわ)ききっていること等々の……総じて(がん)()に由来する……難題を、パウロは提示しました。

信ずる者は(あわ)てることはない」(イザヤ書28:16)を(むね)とするパウロはその難題に忍耐強く取り組んでいます。ローマの信徒への手紙11章の終わりまで、「どうしたらユダヤ人・イスラエル人が救われるか」という主題が展開されます。

さて、ローマの信徒への手紙9章の最終部分でパウロは、一体どういうことを語るのでしょうか? 首尾一貫したパウロのことですから、「キリストの愛の広さ、深さ」を説き明かしているに違いありません。実際、パウロは自分の思いではなく、神が福音として告げ知らせようとされていること、その中心にあるものを、結びとしています。その点では、同胞に対する「深い悲しみと痛み」(ローマ9:1)をいつまでも引きずってはいません。

結論的に言うならば、パウロは「十字架のつまずき」(ガラテヤ5:11)という面から、今のイスラエルの問題に光を当てています。パウロは、イエス・キリストの「十字架」を最も大切なものとして信じるように、その一点にイスラエルが立ち帰るように説いています。

 

Ⅰ 行いによって達せられるかのように

ローマの信徒への手紙9:30-31――

30 では、どういうことになるのか。義を求めなかった異邦人が、義、しかも信仰による義を得ました。31 しかし、イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした。

パウロは、心の暗くなるような厄介(やっかい)な問題に当たるときにも、神の恵みを忘れていません。神の救いの計画の中で、異邦人が信仰による義を得る」という伝道が進んでいます。

と同時に、その神の計画の中で、「イスラエルは義の律法を追い求めていたのに、その律法に達しませんでした」と言わざるを得ません。これについて、「それでは私たちは何と言おうか」ということです。

義の律法を追い求めていた」という一見正しい道を歩んでいたはずなのに、どうして「その律法に達しませんでした」ということになるのか、なぜ、予期に反することが起こっているのか、ということを、パウロは説き明かそうとしています。大いなる「神の救いの計画」の全体像など自分は知る(よし)もないが、自分の体験に照らし、これだけは言えるのではないか、とパウロは次のことを指摘しています。神の御心に反し、自分を深く悲しませているのは……

ローマの信徒への手紙9:32前半――

なぜですか。イスラエルは、信仰によってではなく、行いによって達せられるかのように、

考えたからです。

イスラエルは義の律法を追い求めていた」(ローマ9:31)が、それは「行いによって達せられるかのように」(=あたかも行いに基づくかのように)なっていたと、パウロは見抜いています。

アブラハムはじめ先祖伝来の信仰が(あやま)っていたわけではないでしょう。ユダヤ人は、神と隣人に喜ばれるように、モーセの「十戒」を守ろうとしていたことでしょう。

ところが、モーセの「十戒」を中心とする生活の中で、神に栄光を帰するのではなく、自分の()や誇りに重きを置くようになりました。そして、他の人と競争するかのように、自分の正しさ(きよ)を「追い求めていた」のです。キリスト者を迫害するほどに(使徒9:4、ガラテヤ1:13)、自分の正義を振りかざしていたパウロは、「行いによって達せられるかのように」考えてしまう誤りを、かつての自分に重ねながら論じています。

神の義」は神から与えられるものです(ローマ3:22、Ⅱコリント5:22)。人間の努力をもって「追い求める」ものではありません。信仰をもって受け取るものです。「信ずる者は(あわ)てることはない」にもかかわらず、人間は「義の律法を追い求める」ことにはやります。人は周りからの()えをよくし、自分誇りを持ちたいと願うものです。あるいは逆に、多くの人は義の律法を追い求めて」いないから、自分は不熱心だと決め込んでいるのでしょうか。しかし、そのような人でも、律法の追求や自分の()えや誇りというものが、価値基準となっている点では、熱心な「義の律法」追求者と変わりがありません。

パウロは、「イスラエルは義の律法を追い求めていた」という人々の末路を描き出しています。

 

Ⅱ つまずきの石につまずいた

ローマの信徒への手紙9:32後半――

彼ら(イスラエル)はつまずきの石につまずいたのです。

つまずきの石につまずいた」というように同語反復により、つまずいたことが強調されています。ここで、「つまずき」ならびに「つまずく」という語の原意を探ると、「つまずいた」様子がより鮮明に写し出されます。

つまずく」という語の原意は、「~に打ち当たる・突き当たる」ということです。すなわち、歩いているとき、足が思いがけずつまずきの石に突き当たって、転んでしまうという絵・イメージが浮かんでくるでしょう。その通りなのです。

ここで皆さんに気づいていただきたいのは、全員が全員、自分の足が「つまずきの石」に突き当たって「つまずく」・「転ぶ」わけではないということです。その点では、「つまずきの石」はそれに突き当たった人に、言い換えれば、歩行中、「つまずきの石」に出会った人に、何かのメッセージを送っているかも知れないのです。この深い意味については、「つまずきの石、(さまた)げの岩」が出てくる最終節(ローマ9:33)で捉えることにしましょう。

少なくとも、「彼ら(イスラエル)はつまずきの石につまずいた」という句中の「つまずきの石」からは、単なる障害物のイメージしか浮かびません。イスラエルは「つまずきの石」に打ち当たった、その末路として彼らは破滅するか不信仰に(おちい)るということです。

主イエスは神の国を取り上げられた、不信仰な人々について、このような叙述をしています。

マタイによる福音書21:44 主イエスの言葉――

この石の上に落ちる者は打ち(くだ)かれ、この石がだれかの上に落ちれば、その人は押しつぶされてしまう。

何とも恐ろしいことですが、これが「つまずいた」者の実態です。ここで終われば、パウロは強烈なる裁きの説教をした、ということになります。「キリストの愛の広さ、深さ」というローマの信徒への手紙9章の一貫性も消失してしまいます。が、神の福音の伝達者たるパウロのことです。心配ご無用 パウロは、見事な聖書〈旧約の御言葉〉引用をもって福音的な大逆転を語り伝えます。もちろん、「よく聞け、よく見よ」という主の命令(イザヤ書6:9)に従っている「目覚めた者」(ダニエル書12:3)にとっては、初めから見渡せていた説教の結びと言えましょう。

 

Ⅲ つまずきの石なるイエス・キリスト  

ローマの信徒への手紙9:33前半――

見よ、わたしはシオンに、

つまずきの石9:32の反復)(さまた)スカンダロンの岩を置く。

まず、「目から(うろこ)が落ちる」(参照:使徒9:18)という諺のごとく、引用者のパウロと共に私たちが気づかねばならないことは、「わたし」、つまり、主なる神がその石を「置く」ということです。「」や「」は単なる障害物ではありません。人生を歩んでいる私たちが突き当たった「つまずきの石」は私たちに、何か、神からのメッセージが送られているのです。

また、「妨げの岩」に含まれている「妨げ」は、‘ Scandal ’〔英語〕スキャンダル(しゅう)(ぶん)・不名誉原意 (わな)」という現代用語になっています。人の目に「つまずき」・スキャンダル (はずかし)めや恥であったとしても、引用聖書においては、神がそこに置かれたものなのです。そこに御心が(ひそ)んでいるものです。ここで、パウロが引照した元の言葉を挙げましょう。

イザヤ書28:16――

それゆえ、主なる神はこう言われる。

「わたしは一つの石をシオンに据える。

これは(こころ)みを経た石

堅く据えられた(いしずえ)の、(とうと)(すみ)の石だ。

信ずる者は(あわ)てることはない。」

※イザヤ書の8:14に、ローマ9:32,33同じつまずきの石」が出ています。

ここまで来ると、先に皆さんに、「何か、神からのメッセージ」と遠回しに言ったことの真意がお分かりいただけることでしょう。「(とうと)(すみ)の石」と(しょう)(よう)されている通り、これは、イエス・キリストを指し示しています。(すみ)(おや)(いし)」(マタイ21:42、Ⅱペトロ2:7)なるイエス・キリストについての旧約預言です。主イエスは退けられ捨てられるという恥辱を、十字架上で(こうむ)られましたが、主イエスは私たちの教会の「(すみ)(おや)(いし)」となっておられます。

前述の、歩行中、「つまずきの石」に出会った人に、という私の表現も、「つまずきの石」がイエス・キリストであることを前提としています。神の置かれた「つまずきの石、(さまた)げの岩」は、イエス・キリストにほかならないという観点から、メッセージしたパウロの最終句を読んでみましょう。

 

Ⅳ これを信じる者は、失望することがない

ローマの信徒への手紙9:33後半――

「これを信じる者は、失望することがない」と書いてあるとおりです。

元のイザヤ書28:16に照らすと、「(誰を が明示されていません)信ずる者は(あわ)てることはない」が「これを信じる者は、失望することがないと、微妙かつ大胆に書き換えられています。

パウロはこれを」(it / himという代名詞を用いて、「これはまぎれもなく、イエス・キリストなのだと明らかにしています。「つまずきの石、(さまた)げの岩」なる預言が、イエス・キリストにおいて成就したということでしょう。イエス・キリストは、ユダヤ人には「つまずきの石」、しかるに、神に召された者には、「(とうと)(すみ)の石」なのです(参照:Ⅰコリント1:23-24)。

もう一度、イメージしてみましょう。

私たちは人生において、「つまずきの石」に突き当たります。そして蹴躓(けつまず)きま私たちの弱さや貧しさが(あら)わにれる時と言ってもよいでしょう。さて問題は、そこでつまずき、転んで、立ち上がれなくなるかどうかです。

一つは、「彼ら(イスラエル)はつまずきの石につまずいた」という句に見るように、下り坂を行き、破滅へと、罪と死のただ中に埋没していくという道です。

もう一つは、その「つまずき」がイエス・キリストとの出会いとなり、御手により立ち直らせていただき、主に導かれて歩んでいくという道です。二者択一……それは、自己責任でしょうか?

その点についてパウロは、元のイザヤ書28:16信ずる者は(あわ)てることはない」に()り、「これを信じる者は、失望することがない」と述べています。「信じる」は一貫しています。

私たちに問われているのは、信じるか否か、です。本来、信仰というのは、神が与え、私たちが受けるものですから、「自己責任」というのは当てはまりません。私たちに求められているのは、神の召しへの応答・決断です。人間の側の「責任」に力点が置かれるなら、行いによって達せられるかのように」という(わな)にはまってしまうことでしょう

私たちは、もろもろの困難や試練が引き起こす「つまずき」によって、倒れ伏してしまうことがあります。しかし、私たちが人生において突き当たるつまずきの石の内にも、神の憐れみが宿っています。いついかなる時も私たちは、神のご支配のもとにあります。

彼ら(イスラエル)はつまずきの石につまずいた」という場合に、私たちがそこで心すべき(あやま)ちは、「転んだ」ということではありません。そこで犯してしまうが問題なのです。すなわち、「起きなさい」と呼んでくださるキリスト(マルコ5:41)を信じないこと、また、ご自身の十字架によって私たちを救い出してくださったイエス・キリストを神としないことこそが、私たちの罪です。イエス・キリストの十字架を最も大切なものとしないこと、それが十字架のつまずき」(ガラテヤ5:11であり、最大の罪です

イスラエルは「義の律法を追い求める」ことにはやり、周りからの()えと自分の誇りに引きずり回されていました。彼らは、「つまずきの石」の(かたわ)らで立ち上がれなくなっていたのです。ここで大切なのは、つまずいても「失望することがない」というメッセージです。それは、(ユダヤ人伝道はじめ)「どうせ希望はかなわないから」という冷めた人間の考え方に対する、伝道者パウロの熱いメッセージです。

失望することがない」のは、自分がつまずいたとき、主にすべてを任せるからです。他人のつまずきを見ても、「失望することがない」のは、その人を批判・嘲笑の(まと)せず、主が助けてくださるよう祈り求めるからです。その意味では「つまずき」は、不用な「」ではなく、人生の上での「」・「試金石」です。

 

結 び

私たちが信じる十字架こそ、私たちの力、「キリストの愛の広さ、深さ」があらわされているものです。それ故に、キリストを信じる人は、どん底でも「失望することがない」のです。もしも、その愛に「広さ、深さ」がなければ、つまずくような者は見過ごされてしまうかも知れません。

 

義を求めなかった人が信仰による義を得た」というのは、その人がイエス・キリストの十字架と復活を信じて、全く新しい人間に変えられたことをあらわしています。今までに持っていなかったものを、自分の全身全霊に浴びるように受けたからです。聖なる神、愛と義の神が与えてくださるものを、信仰をもって受けたとき、その人は「(きよ)く、正しく生きる」ように導かれます。

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〈説教の要約〉

2020年 9月13日                                       

旧約聖書 雅歌 4章12節~15節

新約聖書 ヨハネによる福音書 12章1節~8節

      「私の埋葬(まいそう)の日のために」

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

Ⅰ 過越祭の六日前、ベタニアで

Ⅱ 給仕をしていたマルタ……ほんとうに主に仕えていたのは

Ⅲ 金入れ箱から中身を抜き取っていたユダ

Ⅳ わたしの(ほうむ)りの日のために

Ⅴ わたしはいつも一緒にいるわけではない

 

Ⅰ 過越祭の六日前、ベタニアで

ヨハネ福音書12:1――

過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた。そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた。

物語として、今日のテキストを名付けるならば、「イエスに香油を塗ったマリア」となります。主イエス、そしてマリアが中心です。ただ、この物語は大変味わい深いものですから、時や場所の設定、また、ラザロ、マルタ、そしてイスカリオテのユダが果たしている役割や意味をしっかり汲み取りましょう。

具体的には、マリアとマルタ、また、マリアとユダ、それらの対照的関係を(とら)えま。それによって、物語「イエスに香油を塗ったマリア」の深さや豊かさに触れられることでしょう。

さっそく、時や場所の設定についてですが、「過越祭の六日前に、イエスはベタニアに行かれた」というように描き出されています。

主イエスはおよそ3㎞離れた、エルサレムとベタニアを行き来されながら、最後にはエルサレムに(のぼ)ってゆかれます。「イエスは行かれた」という簡潔な一句に、受難の道を進みゆかれる御子の姿が(うつ)されています。それに符合して、時期を表す過越祭の六日前」という句も、このイエスへの塗油(とゆ)の出来事が、主の受難に直結していることを示しています。

主イエスは受難週の金曜日に、十字架につけられて息を引き取られました。ヨハネ福音書によれば、その金曜日は、過越祭の「準備の日」(ヨハネ19:31)、祭りの前日でありました。過越祭の第1日・土曜日(安息日)を基点として逆算すると、「過越祭の六日前」、すなわち、日曜日にイエスへの塗油が行われたということになります(ただし、共観福音書では曜日の算定が異なります)。

ここで重要なのは、主イエスの語られた「わたしの葬りのために」(ヨハネ12:7)との言葉は、現実味(リアリティ)を帯びたものであったということです。精確には、それはイエスとマリアのみが気づいていた「埋葬準備」の現実味(リアリティ)であります。私たちはイエスとマリアの(がわ)に立ち、一つの緊迫した出来事に向き合いましょう。

そこには、イエスが死者の中からよみがえらせたラザロがいた」という記述は、さらに大きな文脈で、物語「イエスに香油を塗ったマリア」を、私たちが受け止めるように勧めています。つまり、ラザロがイエスと共に食事の席に着いている(ヨハネ福音書12:1,2)のは、「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)ということがラザロによって証しされているということです。確かにラザロは無言ですが、今夜の食事の中心人物、イエスはそのようなお方であることを、死から命へと救い出された彼の存在そのものが物語っています。

ラザロに関しては、マリアとマルタの対比の箇所で、再び言及します。

 

Ⅱ 給仕をしていたマルタ……ほんとうに主に仕えていたのは

ヨハネ福音書12:2-3――

2 イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた。ラザロは、イエスと共に食事の席に着いた人々の中にいた。3 そのとき、マリアが純粋で非常に高価なナルドの香油を一リトラ持って来て、イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった。家は香油の香りでいっぱいになった。

家の中の人物描写が、マルタからマリアへと移っていきます。マリアに焦点を合わせる前に、マルタとマリアの対照的関係を押さえておきしましょう。

家の中で動き回っている人として、「イエスのためにそこで夕食が用意され、マルタは給仕をしていた」という女性の姿が捉えられています。ルカ福音書(10:38,40)においても、イエスを家に迎え入れたマルタという女が、「いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていた」と記述されています。他方、「マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた」(ルカ10:39)と報告されています。

何かマルタと比べると、マリアの「働き」は少ないように、目立たないように思われます。しかし、本当の意味で、主イエスに「給仕する」・「仕える」とは、どういうことなのでしょうか? 言い換えれば、イエス・キリストを信じ、奉仕するということは、どのようになされるのでしょうか?

ある意味、これは難問なのですが、ここではマリアに焦点を合わせ、神に導かれているひとりの女の信仰と行いを見つめることにしましょう。

前段のラザロについての出来事の際に、「マリアはイエスのおられる所に来て、イエスを見るなり足もとにひれ伏し」(ヨハネ11:32)と書かれているように、マリアはイエスを心から信頼していました。彼女は、主イエスの御言葉を聞くことを第一とする信仰者でありました。そのようなマリアが、ここぞというタイミングでかけがえのない奉仕をしたのです。

信仰というものは、神への全身全霊の信頼を求めるものですが、マリアは今「イエスの前に、全心と全所有を(ささ)げきりました」(A.シュラッター)。神によって与えられ満たされた信仰が、見返りを求めない全き奉仕となってあらわされたのです。マリアは惜しげも無く、「三百デナリオン」(ヨハネ12:5 1日の賃金一万円として三百万円)の香油を、イエスのために使ったのです。

言うまでもなく、神と隣人への奉仕は強制されて行うものではありません。主イエスが自分たちのために「涙を流された」(ヨハネ11:35)というほどに、愛していてくださることへの、感謝・応答が、私たち信仰者の「行い」なのであります。そこで、マリアの献身的な「行い」(参照:ヨハネ12:7この人のするままに」)が、神のご計画と準備のもとにあることを見てみましょう。

ヨハネ福音書12:3――

家は香油の香りでいっぱいになった。

近頃、喪中となった家に、良い香りが充満しました。かぐわしい香りが、招待客すべての心に安らぎを与えたことでしょう。この「香油」は何よりも主イエスにささげられたものでありました。そのことは、「イエスの足に塗り、自分の髪でその足をぬぐった」という、マリアのひた向きな行いによって印象づけられています。

雅歌4:14―― 

ナルドやサフラン、(しょう)()やシナモン

乳香の木、ミルラやアロエ

さまざまな、すばらしい香り草。

 ここには、花嫁の美しさを象徴する、良い香りの草木が並んでいます。

出エジプト記33:22-25によれば、聖別の油は、「菖蒲」、「シナモン」、「ミルラ」、「香り草」を材料にして作られました。その油は王が即位する際に用いられました。従って、「ナルドの香油」が主イエスに()られたということは、イエスがまことの王、メシアであることが、(にお)となり目に見える形なって現されたということです一介(いっかい)の女による聖別、油注ぎを、主が喜んで受けられたということなのです。

以下に引用する雅歌の一節は、人目につかないマリアの行為を預言しているかのようです。

雅歌1:12 おとめの歌――

王様を(うたげ)の座にいざなうほど

わたし(=おとめ)のナルドは(かお)りました。

さらに、マルタとマリアとの相互関係から見ると、異臭に(ふた)をしようとしたことと、良い香りを放ったこととが対比されます。

ヨハネ福音書11:39――

イエスが、「その石を取りのけなさい」と言われると、死んだラザロの姉妹マルタが、「主よ、四日もたっていますから、もうにおいます」と言った。

もうにおいます」というのは、当然の事情説明です。しかしそれによって、マルタは「その石を取りのけなさい」との主イエスの命令を(こば)んでいます。言い換えれば、彼女は主イエスを墓から立ち去らせようとしています。

主イエスはその墓を開き、死んだラザロに出会われました。主が完全な死、(まった)き滅びの中に立たれたのです。そして主イエスは、御父に祈り、ラザロに向かって大声で叫ばれ、生き返らせました(ヨハネ11:41-44)。そのラザロが過越祭の六日前に催された食事の席に着いています。もはや、鼻に突くような(にお)を消し去らせるかのように、姉妹マルタもまた、家は香油の香りでいっぱいになった」という(こう)()包まれたのです。台所でマルタが給仕していたとしても……。

 

Ⅲ 金入れ箱から中身を抜き取っていたユダ

ヨハネ福音書12:4-6――

4 弟子の一人で、後にイエスを裏切るイスカリオテのユダが言った。5 「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」 6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではない。彼は盗人であって、金入れを預かっていながら、その中身をごまかしていたからである。

二人の人物の対比として次に、イスカリオテのユダとマリアを取り上げましょう。

ユダは、エルサレムでの最後の晩餐(過越祭の前日)にも、ベタニアでの六日前の食事にも同席していたことが分かります。言い換えれば、決定的な裏切り(ヨハネ13:21-30)の前に、それを()(ちょう)するような言動がユダに見られたということです。

このように克明な描写は、「ユダの転落していく様子を目に焼き付けよ、自らの罪過として(かえり)みよという私たちへのメッセージでありましょう。ヨハネ福音書は、「イエスを裏切る」(6:7112:413:218:2,5)という句を反復して、私たちにも脱落する危険があることを訴えています。

その中身をごまかしていたからである」(新共同訳)の箇所は、「(金入れ箱に)投げ込まれた金銭を抜き取っていたからである」と訳せます。ユダは厳正に金入れ箱を管理しているように(よそお)いつつ、こっそりと金銭を抜き取っていたのです。他の弟子たちには気づかれない、巧妙なやり方です。神への畏れなど、()(じん)もありません。

そのユダが「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12:5)というように、人聞きがよい発言をしているのです。このユダの発言について、主イエスは「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」と反論されています。詳細は後で説き明かします。ここでは、マリアとの対比の視点から言及します。

マリアは、「イエスの前に、全心と全所有を(ささ)げきりました」(A.シュラッター)。神の喜ばれることでありました(参照:創世記8:20-21)。なぜなら、主イエスが「わたしの葬りのために、(マリアは)それを取っておいた」(ヨハネ12:8)と言われた通り、それが神の御子に対する献身のしるしと認められているからです。

この見返りを求めないマリアの全き奉仕を目の前にしたとき、ユダのごまかしは言い訳のしようがなくなります。問題は、主人から託されたお金をどう維持するか(ごまかしなどとんでもない)ではなく、どのように活用し豊かなものとして使うかでありましょう(マタイ25:14-30)。

 

Ⅳ わたしの(ほうむ)りの日のために

ヨハネ福音書12:7――

イエスは言われた。「この人のするままにさせておきなさい。わたしの(ほうむ)りの日のために、それを取って置いたのだから。」

葬り」の儀礼自体は数日かけることもありますので、特定された「私の埋葬(まいそう)の日」と訳したいところです。すなわち、「ユダヤ人の埋葬の習慣に従い、香料を添えて亜麻布で包んだ」(ヨハネ19:40)という作法をもって、イエスの遺体が墓に納められる日が間もなく来ます。「ナルドの香油」の記念日(マルコ14:9)は「私の埋葬(まいそう)の日」につながっています。「ナルドの香油」の記念日も、イエスの埋葬の日(ユダヤ人の準備の日 ヨハネ19:42)も、神のご計画のもとにあるのです。そして、その計画が成し遂げられつつあることは、主イエスが周りの人々に、「この人のするままにさせておきなさい」と呼びかけられたことからも分かります。

たとえマリアというひとりの人であれ、イエスの埋葬を、すなわち、主イエス・キリストの十字架の死を直視し受け止める人物が現れたのです。ユダのように、「逃げて行く」人物も露わにされました。

 

Ⅴ わたしはいつも一緒にいるわけではない

ヨハネ福音書12:8 主イエスの言葉――

「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいるが、わたしはいつも一緒にいるわけではない。」

これは、キリスト者として今の時を生きる私たちへの重要メッセージと言えるでしょう。

すでに言及したように、イスカリオテのユダは、「貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいる」という事実を前提として、「なぜ、この香油を三百デナリオンで売って、貧しい人々に施さなかったのか」(ヨハネ12:5)と反問しました。これは、一見正論です。

申命記15:11には、「七年目ごとに負債を免除しなさい」(申命記15:1)との律法の総括として、「この国から貧しい者がいなくなることはないであろう。それゆえ、わたしはあなたに命じる。この国に住む同胞のうち、生活に苦しむ貧しい者に手を大きく開きなさい」と記述されています。「(あなたの)手を大きく開きなさい」という勧めのニュアンスの通り、貧しい人々への救済の輪を広げ助けることが、私たちに求められています。その手の開きを小さくしたり、閉じたりすることは、神の御心に添いません。

キリスト教倫理の基本、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19:18、マタイ22:39)に従う者は、見返りを求めない愛の「行い」を、より手を大きく開く善い(わざ)を為していきます。そこには内心、「貧しい人々のことを心にかけていない」(参照:ヨハネ12:6)という自分の欲望や罪との戦いがあります。

その戦いを克服する道は、ただ一つです。物語「イエスに香油を塗ったマリア」を例に取るならば、マリアに焦点を合わせ、神に導かれているひとりの女の信仰と行いを見つめることです。彼女の信仰は、行いへと直結していました。

マリアは、「わたしはいつも一緒にいるわけではない」との神の御子の声を聞いた者として、「過越祭の六日前に」、心から主イエスに仕え、自分から貴い献げものを差し出しました。彼女は、「イエスにではなく、貧しい者に手を開くべきだ」という誘いには乗りませんでした。なぜなら、マリアはその時、主イエスの「葬りの日」に、主の十字架による罪人の救いに、心を傾けていたからです。

主イエスが十字架につけられる直前に、ベタニアで、夕べの食卓の真ん中に主イエスが座っておられました。そこにひとりの女が近づいて、主の足に油を塗りました。それはまさに、メシアのご臨在をたたえる聖別の儀式でありました。すなわち、礼拝でありました。

私たちもまたマリアのように、主イエスの話に聞き入り、そして感謝をささげられるように、と願います。

 

主の食卓〈聖餐〉において、キリストの死による救いにあずかれますよう、その時が早く来ますように、と祈ります。

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〈説教の要約〉

2020年 9月6日                                         

旧約聖書 民数記 27章15節~17節

新約聖書 マタイによる福音書 9章35節~38節

     「収穫は多いが、働き手が少ない」 小河信一牧師

 

説教の構成――

   序

Ⅰ 主イエスの伝道

Ⅱ 深く(あわ)れまれた主イエス

収穫は多いが、働き手が少ない

収穫の主に願いなさい

Ⅴ 伝道――私たちの祈りの課題

結 び

 

 序

2020年度のほぼ(なか)ばにあたり、説教のテキストとして、年間聖句(マタイ9:37-38)を取り上げます。

御言葉により心を新たにして、その聖句に基づく教会標語「主の召しに応えて伝道する」を受け止めましょう。

2020年2月末に承認された「茅ヶ崎香川教会 定期総会資料」には、次のように書かれています。

「礼拝における霊的な満たしは、教会内の求道者・家族・子どもたちや地域の人びとを、私たちの信仰と讃美の中へと招き入れるよう働く。私たちの目に見える現実のさまざまな困難にもかかわらず、私たちは礼拝において『収穫は多い』と宣言される主イエス・キリストの豊かさに出会っている。そのことを私たちは確信し、そこに希望をかけなければばらない。」

「私たちの目に見える現実のさまざまな困難にもかかわらず」という箇所で、今私たちは深い嘆息をつくでしょうか。あるいは、全く状況が違ってきたけれど、すでに「現実のさまざまな困難」は覚悟していたはずではないか、と思うでしょうか。

3月、4月、5月と、私たちはまさに「弱り果て、打ちひしがれている」(マタイ9:36)という状況にさらされました。継承すべき古代ヨハネ教会の標語「散らされている神の子たちを一つに集める」(ヨハネ11:52)の前に、「緊急事態」が立ちはだかりました。そして、「コロナ後」の生活様式が取り沙汰(ざた)される一方、私たちの人知では先を見通せないという不安と恐れがつきまとっています。

そのような中にあって例えば、ホームページや電話連絡等を通じて、家庭礼拝を守っている方々を支えることの大切さに気づかされました。茅ヶ崎香川教会がこれまでと同じように守るべきものは何か、また、これから変えてゆくものは何か、皆さんと共に語り合っていきたいと願います。その際、ラインホールド・ニーバーの有名な祈りは、繰り返して唱えるに(あたい)することでしょう

神よ

変えることのできるものについて、

それを変えるだけの勇気をわれらに与えたまえ。

変えることのできないものについては、

それを受けいれるだけの冷静さを与えたまえ。

そして、変えることのできるものと、変えることのできないものとを、

識別する知恵を与えたまえ。

 

Ⅰ 主イエスの伝道

マタイ福音書9:35――

イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や(わずら)いをいやされた。

この節の主眼(しゅがん)と内容は、マタイ福音書4:239:35に二度繰り返されている通り、重要です。

私たちは、「私たちの伝道」をするのではありません。いわば、「主イエスの 主イエスによる 主イエスのための伝道」が、取り組むべき課題です。「主イエスのための」というのは、主イエスの御業と御言葉によって、栄光が御父と御子に帰されること(ヨハネ11:4)を目的とするということです。

私たちはその主イエスのもとで働き、祈ることに(てっ)すべきです。伝道の第一歩は、主から私たち使命を託されこと、そして、「弱り果て、打ちひしがれている」隣人のために遣わされることから始まります。ひと言でいえば、主イエスに「従う」こと(マタイ4:259:9)に尽きます。

主イエスの伝道は内容的に、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝えた」と「ありとあらゆる病気や(わずら)いをいやされた」ということに集約されます。御言葉を与える、そこに、奇跡・しるしが伴ったということです。「主イエスの伝道」において、私たちは私たちの予想を超える出来事が起こるのを、信じていますし、また時に見て体験しています。

イエスは町や村を残らず回って(原意:まわり+連れて行く)」、または、「イエスはガリラヤ中を回って」という句(マタイ9:354:23)には、日夜伝道を続ける主イエスの姿があります。「(きつね)には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には(まくら)する所もない」(マタイ8:20)というのは、主イエスがこのような巡回伝道に公生涯の大部分を捧げられたからでありましょう。自らの労苦を(かえり)みず、弟子たちを「引きづり回す」というほどに、ガリラヤ湖畔の町や村を(めぐ)られたのです

 

Ⅱ 深く(あわ)れまれた主イエス

マタイ福音書9:36――

また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを(イエスは)見て、深く憐れまれた。

前節の「主イエスの伝道」に接続して、冒頭に「(イエスは)見て、深く憐れまれた」とあります。ここには、主イエスは伝道する相手を、どんなふうに見ておられ、どのように思っておられるか、が描かれています。

主イエスは、「弱り果て、打ちひしがれている」人をそのまま受け入れておられます。なぜ、その人が「弱り果て、打ちひしがれている」ようなことになったのか、という事情の解明が先ではありません。主イエスは「群衆」一人ひとりをご覧になってから、物事を始められます。伝道する側が相手に寄り添っているか、話を聞く用意があるか、が大切です。それが踏まえられれば、相手は自分を信頼して、話を打ち明けもし、話を聞いてもくれることでしょう。

相手に寄り添うということについて、「(イエスは)見て、深く憐れまれた」を書かれています。これは、はらわたを揺るがすような憐れみであり、まことの愛を示しています。他者を愛し抜く愛であります。

御父は御子を十字架につけ、罪人を救い出すという出来事において、この愛をあらわされました。主イエス・キリストの深い憐れみは、十字架上の苦しみと死によって、私たちの内に記憶されるべきものとなりました。「憐れみ深い人々は、幸いである、その人たちは憐れみを受ける」(マタイ5:7)との御言葉は、「憐れみ深い主イエスに(なら)って生きよとの招きでありましょう

飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれている」群衆の前に、羊飼いなる主イエス・キリストが立たれました。そして、主は彼らを憐れみ愛されました。今度は、憐れみを受けた人々が立ち上がり、遣わされる番です。そこで、為すべきことが、主イエスに助け起こされた者に示されます。

 

収穫は多いが、働き手が少ない

マタイ福音書9:37――

そこで、弟子たちに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。」

 先週の説教で、預言者イザヤが遣わされるとき、神からの問いかけがあったことを説き明かしました。

イザヤ書6:8――

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を(つか)わすべきか。

誰が我々に代わって行くだろうか。」

〔以下、問い明かし〕この「入学式」(=イザヤの召命)は、主なる神の先導によって行われていることが、「誰を(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との初めに出された問いかけから分かります。「それがどれほど小さなささやきであったとしても」、自分自身の内に、「自分は神に愛されている」、または、「自分は神によって必要とされている」という喜びが()いて来る人は幸いです。

主イエスは、「働き手が少ない」という状況の中で、弟子たちや群衆すべてに対し、立ち上がる人を求めておらわれます。神が「働き手」を造られるのは容易でしょうが、神の声を聴いて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ書6:8)と応える人を、神は待ち望んでおられるのです。

今、主のご用のために招き入れられている私たち・信仰者は、労苦しなければなりません。喜びに包まれてのことですが、忍耐が欠かせません。なぜなら、「収穫は多く。働き手も多い」ではなく、「収穫は多いが、働き手が少ない」と言われているからです。「散らされている神の子たちを一つに集める」ために、神の伝道計画のご用のために、「引きづり回される」(=この地を巡回させられる)覚悟が()ります。

 

収穫の主に願いなさい

マタイ福音書9:37 イエスは弟子たちに言われた――

「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫の主に願いなさい」というのは、「あなたがたは収穫の主に祈りなさい」という意味です。

なぜなら、「収穫」、すなわち、伝道は、自分のためのものではなく、神の栄光をあらわし、「弱り果て、打ちひしがれている」隣人を助け起こすためのものだからです。祈りなくしては、結局、自分が先立ち、自分が目立ってしまいます。

自分自身の罪に加えて、祈りが大切なのは、イザヤの派遣の際、主なる神が告げられたように、人の心のかたくなさという堅い壁があるからです。これは、預言者が「よく聞け、よく見よ」(イザヤ書6:9)と言えば言うほど、かたくなさの()(あい)を増していくものなのです。

モーセが「働き手を送ってくださるように」と、神に祈ったという出来事を読んでみましょう。

民数記27:15-17――

15 モーセは主に言った。16 「主よ、すべての肉なるものに霊を与えられる神よ、どうかこの共同体を指揮する人を任命し、17 彼らを率いて出陣し、彼らを率いて凱旋(がいせん)し、進ませ、また連れ戻す者とし、主の共同体を飼う者のいない羊の群れのようにしないでください。」

この時、モーセはただ単に、次に「指揮する人」をではなく、自分はまもなく死ぬ(民数記27:12-14)ので、その後を任せられる「指揮する人」を、願い求めていました。そこでモーセは、自分が後継者を指名・決定するのではなく、祈りをもってその選びを神にゆだねました。そこには、自分が為してきたこと(紅海()(しょう))への誇りも、やり残したこと(ヨルダン渡河(とか))への無念さもありません。

モーセは、新しい「働き手を送ってくださる」神によって、新しい土地での、礼拝を中心とする生活が作られていくとの希望を抱いていたことでありましょう。イスラエルの民を「進ませ、また連れ戻す」、モーセの後継者が受け継ぐのは、「あなたの()で立つのも帰るのも 主が見守ってくださるように」(詩編121:8という信仰にほかなりませんでした

収穫の主」が必ず聞き届けてくださるとの信仰をもって、祈りましょう。

 

結 び

前主日には、 オープンチャーチfor high school 〉の二回の礼拝を行いました。中高生はじめ若者への伝道について、または、新しい世代の導き手について、考える機会が与えられました。感謝します。

私たちはすでに、「収穫は多い」と宣言される主イエス・キリストの豊かさに出会っています。若者への伝道についても、「主よ、あなたの豊かさをあらわしてください。次なる世代を育ててください」と、神に祈りをささげます。

今、茅ヶ崎香川教会に求められているのは、中高生はじめ若者を「育てる」ことではないかと思います。特別な企画をして「集める」ことも重要ですが、私たちの教会には中高生がすでに来ています。天から与えられた子どもたちが、ここにいます。

彼らはどんどん成長していく過程にありますので、それに応じて、信仰的な「育て方」にも工夫が必要でしょう。そのために、いろいろな形で奉仕する場をととのえることです。また、「育てる」ことには失敗が付きものですから、若者を見守る奉仕者相互のフォローが欠かせません。落胆や後悔を引きずり過ぎないように、ということです。

働き手が少ない」ことを率直に認めて、若者への伝道を「指揮する人」や世話する人が与えられるように祈り、そのような人を育てたいと思います。

最後に、若者を含む未信者が教会に来る理由のトップは……

神を礼拝できるから」ということです。茅ヶ崎香川教会の方向性は間違っていません。

これからも、「会堂で教え、御国の福音を宣べ伝える」ことを主眼として歩んでゆけますように。

ご高齢の方々の伝道牧会についても、主の愛が増し加えられ、困難を好機とする知恵が与えられますようにとお祈りいたします。アーメン

 

参考図書:

 

川口竜太郎著『中高生に信仰を伝えるために』、いのちのことば社、2020

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2020年 8月30日                                      

聖霊降臨節 第14主日 

旧約聖書 イザヤ書 6章1節~13節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 10章14節~15節

      「わたしがここにおります」  

                        小河信一牧師

 

説教の構成――

Ⅰ「はい」と(こた)える

Ⅱ イザヤの召命とその時代

Ⅲ「わたしがここにおります」と応える

Ⅳ「わたしを(つか)わしてください」

Ⅴ あなた自身の「ここに」……イザヤの(こた)えに学ぶ

 

Ⅰ「はい」と(こた)える

新聞のコラム記事に、この春行われた大学の卒業式の様子が書かれていました。

この春、小学校や中学校を卒業された皆さんは、どうだったでしょうか。残念ながら、卒業式が中止された学校もあるでしょうか。

「京都市立芸術大学では、コロナ()の中で迎えた卒業式で、祝辞の時間は削っても、卒業生全員の名を呼び、それに起立して『はい』と応える儀式だけは守った。

(朝日新聞・朝刊 鷲田清一「折々の言葉」2020714日)

なぜ、そのようにしたのかについて、その大学に奉職しているフルート奏者、大嶋義実氏は、次のように語っています。

「呼び声に『ここにいます』と応じることが、その人の個としての存在の第一歩だとの信念から。」

「それがどれほど小さなささやきであったとしても、『私の名を呼ぶ者の声』を聴き逃さないでいたいものだ。」

卒業生総代の人も、並みの成績だった人も、留年を繰り返してなんとか卒業できた人も、みんな「はい」と(こた)えるということでしょうか。みんな平等で、ほほえましい光景です。「はい」という言葉は同じでも、声の強弱や立ち振る舞いは、それぞれに違うことでしょう。そこには、成績やサークル活動等の充実度では決して計ることのできない、その人自身(とうと)があらわされています。考えてみれば、学生として勉強や部活で成果が上げられなかったとしても、学生時代に得たことや学んだことを、どれだけ大きく生かすかは、個々人の「これから」に()かっているのです。

実際のところ、隠れていたい、逃げたいと思っても、自分の名が呼ばれ導き出されるというチャンスが、この世界にはあるものです。大学の卒業式で学長に呼ばれて、「はい」と(おう)じるというエピソードから、私は旧約聖書・イザヤ書6章の出来事を思い起こしました。

イザヤ書6:8――

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を(つか)わすべきか。

誰が我々に代わって行くだろうか。」

わたしは言った。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

これは、青年イザヤが、神から(しょう)(めい)を受けた時の出来事を記録したものです召命」というのは、神から呼び出され、その人に向けて使命が与えられるということです。

先に挙げたのは、「卒業式」の例ですが、このイザヤの出来事を「入学式」になぞらえてお話ししましょう。ポイントは、卒業式であれ入学式であれ、初めであれ終わりであれ、皆の前で、聖書的に言えば、神と会衆の前で、「はい」と応じられるかどうかということです。つまり、誰かから呼ばれて、はいと応じ、それがきっかけとなって、私の人生がどれほど変えられるかということです。今春の京都市立芸術大学の、多くの卒業生にとって、この一瞬の「はい」は、忘れがたいものになったのではないでしょうか。

 

Ⅱ イザヤの召命とその時代

さてイザヤの召命を、「入学式」になぞらえると言いましたが、それは決して前途洋々、希望の船出のようなものではありませんでした。

イザヤ書6:1――

ウジヤ王が死んだ年のことである。わたしは、高く天にある御座に主が座しておられるのを見た。(ころも)(すそ)は神殿いっぱいに広がっていた。

〈南ユダ王国の王〉 紀元前8世紀 

①ウジヤ  皮膚病にかかり、息子の②ヨタムが国政を担う。

  ↓    

③アハズ  ⇒イザヤの召命

    ↓

④ヒゼキヤ ⇒イザヤの活動

202089 説教「涙を流し激しく泣いたヒゼキヤ」列王記下20:1-11 参照

南ユダ王国の王が死んだ時と告げられています。このことは、イザヤの召命、神に仕える奉仕の始まりと何の関係があるのかと思われるでしょう。紀元前8世紀頃、イザヤが生きていた当時の国の政治ならびに宗教の中心的人物は、王でありました。それに対し、預言者は神の言葉を王に伝え、神の業を王の前であらわすという働きをしていました。

具体的に時代背景を整理しましょう。

①ウジヤ王は在任中に重い皮膚病にかかりました。王でありながらも、隔離されました。そこで、その息子②ヨタムがウジヤ王の代理として、王宮を取りしきり国の民を治めました(歴代誌下21:)。その後、ウジヤは死ぬと王位は、③アハズへと引き継がれました。そのアハズの後に登場したのが、④ヒゼキヤです。

アハズ王は、祖父ウジヤの病気や父ヨタムの労苦を知りながらも、主の目にかなう正しいことを行いませんでした(歴代誌下28:1)。「ユダの町という町にはどこにも聖なる高台を造って、他の神々に香をたき、先祖の神、主の怒りを招いた」(歴代誌下28:25)というほどの有り様でした。

イザヤの召命は、まさにこの悪い王様の代名詞のようなアハズ王が王位についた頃のことでした。「主の目にかなう正しいことをことごとく行った」ウジヤ(歴代誌下26:4)は病気のため、皆の前から姿を消し、そして()くなりました。その後、アハズ王がアッシリアに依り頼んだこともあり(列王記下16:7-8,18)、南ユダ王国の情勢は下降線をたどりました。

そのような時に、イザヤは神から呼び出されました。

イザヤ書6:3――

彼ら(セラフィム=神の御使い)は互いに呼び()わし、唱えた。

「聖なる、聖なる、聖なる万軍の主。

主の栄光は、地をすべて(おお)う。」

当時、都エルサレムの神殿は、偶像崇拝が導入され(けが)されていました(列王記下15:3516:2-4)。その状況下に、「聖なる万軍の主」の栄光が突然、地すべてと一人の若者イザヤの上に(くだ)って来たのです。

イザヤ書6:5――

わたしは言った。

(わざわ)いだ。わたしは滅ぼされる。

わたしは(けが)れた(くちびる)の者。

汚れた唇の民の中に住む者。

しかも、わたしの目は

王なる万軍の主を仰ぎ見た。」

イザヤの()い立ちや受けた教育などについて、詳しいことは分かりません。預言者サムエルのように、「()離れした後」、神殿にあずけられて育った(サムエル記上1:24-28)のではないようです。

(わざわ)いだ」(ああ、わたしは)、「わたしは滅ぼされる」という句に、イザヤの万感の思いが込められています。彼はもはや立っていられないほどの衝撃を受けました。

イザヤ書6:7――

(セラフィムのひとり)はわたしの口に火を()れさせて言った。

「見よ、これがあなたの唇に触れたので

あなたの(とが)は取り去られ、罪は赦された。」

聖なる、聖なる、聖なる万軍の主」が、「(けが)れた(くちびる)の者」を清められました。なぜなら、イザヤの「(とが)は取り去られ、罪は赦された」からです。神からの一方的な罪の赦しの宣言が(くだ)りました。

 

Ⅲ「わたしがここにおります」と応える

イザヤは、聖なる神によって、自分が罪深い者であることを知らされ、打ち負かされました。しかし、神はそのイザヤを立ち上がらせました。

イザヤ書6:8――

そのとき、わたしは主の御声を聞いた。

「誰を(つか)わすべきか。

誰が我々に代わって行くだろうか。」

わたしは言った。

「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください。」

イザヤは主を見(イザヤ書6:1,5)、さらにここで、主の御声を聞きました。間違いなく、イザヤが神に出会いました。先にイザヤの出来事を「入学式」になぞらえると言ったのは、まさしくこの場面です。

この「入学式」は、主なる神の先導によって行われていることが、「誰を(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との初めに出された問いかけから分かります。「それがどれほど小さなささやきであったとしても」、自分自身の内に、「自分は神に愛されている」、または、「自分は神によって必要とされている」という喜びが()いて来る人は幸いです。

誰を(つか)わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」というのは、「入学式」に招かれている一人ひとりへの問いかけです。これに応えるかどうかは、生徒ならぬ預言者候補生、イザヤにゆだねられています。

神に見守られてのことですが、自分で決断しなければなりません。厳しいことです。受けるか受けないかの「決断」を、「少し考えさせてください」と先延ばしするのも、その人の自由です。イザヤの場合、どれだけ時間が経過したか、書いてありません。イザヤが発した応答は……

わたしがここにおります。

でした。

朝日新聞の「折々の言葉」から、この春、卒業生全員が式中、名前を呼ばれて「はい」と応えたという話を紹介しました。この「はい」と同様に、「わたしが ここに おります」というのは、原文のヘブライ語で「ヒネーニ」という一単語です。英語で言えば、" Here am I !  " という意味が込められています。

「はい」と応じる者は、「わたしが」と自己の存在を明確にしています。決して自信をもって、「わたしがある」、" I am " と言っているのではありません。イザヤの場合には直前に、「(わざわ)いだ。わたしは滅ぼされる」と嘆き叫んでいました。しかし、神の憐れみによって「罪は赦された」が(ゆえ)に、「わたしがある」、

" I am " と言い切ることが出来たのです。

さらにイザヤの(こた)えには、日本語の「はい」には(しょう)()されていない「ここに」が強調されています。

入学式という場、「ここに」わたしは立っています、「ここ」をわたしの人生の出発点としますということです。「ここ」を巣立って行くという卒業式にせよ、「ここ」を活動拠点として始めるという入学式にせよ、「わたしが ここに おります」という一句はその人を支え続けるものとなることでしょう。これからどこをさすらっても、どこへ遣わされても、「ここに」が揺らぐことのない土台になるのです。

 

Ⅳ「わたしを(つか)わしてください」

ウジヤの病死やアハズの悪政などにより、イザヤのみならずユダの人々の存在基盤は弱く(もろ)くなりつつありました。その中で、イザヤは神からの問いかけに対し、決心を固めることができました。イザヤの活動は「わたしを遣わしてください」との一句(これも原文では一単語)に表されています。

派遣される者の使命とは、何でしょうか? それは、神の御計画と御心を、自分にゆだねられた言葉と業をもって、人々に忍耐強く伝えるということです。

ローマの信徒への手紙10:14-15――

14 ところで、信じたことのない方を、どうして呼び求められよう。聞いたことのない方を、どうして信じられよう。また、宣べ伝える人がなければ、どうして聞くことができよう。15 遣わされないで、どうして宣べ伝えることができよう。「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」と書いてあるとおりです。

聞いたことのない方を、どうして……」、「遣わされないで、どうして……」とありますが、イザヤは神の御声を聞き、神から遣わされました。それによって、自分の人生の方向性が定められました。その点でイザヤは、パウロにとっての先駆者となりました。

内外の時代情勢が不安定なうえに、イザヤは心のかたくなな民と向き合わねばなりませんでした。

イザヤ書6:10 主は言われた――

この民の心をかたくなにし

耳を(にぶ)く、目を暗くせよ。

目で見ることなく、耳で聞くことなく

その心で理解することなく

悔い改めていやされることのないために。

イザヤが民に厳しく、「よく聞け、よく見よ」(イザヤ書6:9)と告げても、容易に道は開けない、それどころかますます民は神から離れて行ってしまうということです。それ相当の覚悟が、イザヤに必要です。

そこで大切なのは、イザヤが自分の力量に頼むことなく、すべてを神にゆだねるということです。神からの召命を受け、「入学式」を終えたイザヤに、次々に神の預言が与えられました。良き知らせを「宣べ伝える」というその内容が、神から示されたのです。

神に召されて以来、イザヤは日夜、「わたしがここにおりますどうぞ、お話しください(サムエル記上3:10)」と応えて、神の呼びかけを聴き続けました。神殿をはじめとする礼拝に神から招かれて、「わたしがここに」と言って御前に立つ、そして「わたしを遣わしてください」と言って世に出て行く……それがイザヤの力の源でした。

 

Ⅴ あなた自身の「ここに」……イザヤの(こた)えに学ぶ

イザヤは神により繰り返し派遣されていく中で、まことの救い主の預言を語るようになりました。民の拒否や無視を乗り越えて、やがて実現する神の御心を説き明かしました。

死の(やまい)」に冒され苦悩するヒゼキヤ王に対しても、必ず永遠の神の守りがあるということを教えました(列王記下20:1,6)。なぜ、イザヤは本来ならば近づきがたい苦しみや悲しみを()く人に寄り添うことが出来たのでしょうか?

それは、罪深く立ち上がることの出来ないような自分を、神が一方的な赦しによって解放し立たせてくださったからです。特別な意味など見出せなかった「ここ」を、聖なる神殿、神を礼拝する場、自分の出発点となる所としてくださったからです。

神がイザヤに、中心的に宣べ伝えさせられたのは、「まことの救い主が来る」という預言でありました。二度のインマヌエル預言(イザヤ書7:149:5)によって、「わたしたちと共におられる神」が到来することを告げました。すなわち、時が満ちて神のもとから、イエス・キリストがこの世に遣われて来ることを預言したのです。

さらにイザヤはイエス・キリストが「平和の王」として世に来られ、国々はまことの王のもとに集うということを預言しました(イザヤ書11:1-10)。現実には、南ユダ王国の情勢が下降線をたどり戦火を(まじ)えそうとしても、救い主キリストが全地に平和を行き渡らせてくださるということです。わたしを遣わしてください」と言って一生懸命に働いたイザヤは、神の計画が成し遂げられていくことに、何よりも慰められることでしょう。

わたしがここにおります」とのひと言を大切にしたイザヤは、神の大いなる救いの計画の中で、自分の賜物を生かし、神と人を愛する人生を送ることが許されました。あなたに、「ここに」という()り所となる場所はありますか? 神に呼ばれところ、神が愛するあなたを用いると言われところ……ここに」から始めてみませんか。背伸びすることも、自分の才能を発掘することもありません。

神があなたの居場所、「ここに」を造ってくださいます。あなたは「ここに」いてもいいよ、そして、あなたは「ここに」戻って来なさい、と神がおっしゃってくださいます。あなたがあなたであることの価値は、自分でも他人でもなく、あなたを造られ用いくださる神がお決めになります。

わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と応えて、良い一週間が過ごせるようお祈りしましょう。

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〈説教の要約〉

2020年 8月23日                                     

旧約聖書 イザヤ書 49章5節~6節

新約聖書 ヨハネによる福音書 11章45節~57節

     「神の子たちを一つに集める」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

Ⅰ イエスの逮捕・死刑の決定――いつ、どこで

Ⅰの前置き・概要(がいよう)からではなく、本文の説き明かしが始まるⅡから読んでくださっても良いです。

Ⅱ 主イエスを信じるか、信じないかの()かれ道

Ⅲ 大祭司カイアファの預言

Ⅳ 神の子たちを一つに集める

主題:古代のヨハネの教会の標語「散らされている神の子たちを一つに集める

 

Ⅰ イエスの逮捕・死刑の決定――いつ、どこで

まず、大変重要なこととして、時節と地理の面から物語の流れを押さえましょう。

時節は、「さて、ユダヤ人の過越祭が近づいた」(ヨハネ11:55)というように、冬が終わり、春が到来した頃のことです。ヨハネ福音書の記述によれば、主イエスは公生涯で3回目の「過越祭」を迎えられたことになります(1回 ヨハネ2:13、2回目 ヨハネ6:4)。主イエスが神の小羊として十字架に上げられる、あの「過越祭」が、いよいよ巡って来たのです。

地理的には、主イエスはヨルダン川の向こう側からベタニアに上られ、そこでラザロを復活させる奇跡を行われました。それから、本日の聖書箇所になりますが、(かた)や、祭司長たちとファリサイ派の人々が、エルサレムで「最高法院」を召集しました(ヨハネ11:47)。片や、主イエスと弟子たちは、ベタニアから「荒れ野に近い地方のエフライムという町」へと退(しりぞ)かれました(同上11:54)。その後のことですが、主イエスの一行は「過越祭の六日前に」、ベタニアに戻って来られました(同上12:1)。

このように全体として眺めるならば、すべてがエルサレムの「過越祭」につながっていることが見えてきます。直前の主イエスや人間の言動は、これから主イエスがエルサレムに入城し、十字架の道を歩まれ、十字架につけられることを指し示すものとなっています。ひと言でいえば、ベタニアで主イエスがマルタに語られた「わたしは復活であり、命である」(ヨハネ11:25)との言葉が、エルサレムで出来事となってあらわされます。

また、本日のテキスト(ヨハネ11:45-57)の書かれていることは、ベタニアでの二つの出来事の幕間に位置づけられます。すなわち、そこには、①「ラザロがイエスによって生き返らされた出来事」(ヨハネ11:1-44)と「マリアがイエスに香油を塗った出来事」(ヨハネ12:1-8)との間に起こったことが記録されています。

ラザロがひと(たび)葬られ、生き返らされました。そして、マリアがイエスの「(ほうむ)りの日」に備えて香油を塗りました。その二つの出来事の中間に、ラザロはじめ人間に代わって、主イエス・キリストが死ぬ、つまり、イエスが「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」というメッセージが置かれています。それは闇の底に、光が射し込んで来るかのようなメッセージです。

ところで、イエスが殺されるという「計画」は、いつ、どこでなされたのでしょうか?

それは、主イエスがベタニアに滞在されていた時、エルサレムで死刑判決が下されました(ヨハネ11:50-53)。本人は不在のままに、ベタニア近くの都で、イエスを葬る計画が確定されたのです。「過越祭」の前のやっつけ仕事であるかのように、突然、エルサレムで「最高法院」が召集され、イエス逮捕へと急ぐことになりました。(おおやけ)本人が弁明や反論する(いとま)(ヨハネ福音書によれば)ありませんでした(比較:マルコ14:60-62、マタイ26:62-64)。

祭司長たちやファリサイ派の人々の一部は、民衆の中に騒ぎが起こるといけないから、祭りの間はやめておこう」(マタイ26:6)と、計画実行を踏みとどまろうとしていました。しかしもはや、人間の企てではなく、神の御計画として、イエスの逮捕、十字架刑、葬りが進められていくのでありました。

やがて天の父が「過越祭」の時に、主イエス・キリストの十字架と復活によって神の栄光をあらわされます。今、主イエスは「荒れ野に近い地方のエフライムという町」に退かれます。「人の子が栄光を受ける時」(ヨハネ12:23に向けて、祈りつつ備えておられたのでしょう。「荒れ野」に戻り、御父(おんちち)対話するところから、主イエスは再出発されるのです。

 

Ⅱ 主イエスを信じるか、信じないかの()かれ道

ヨハネ福音書11:45-47――

45 マリアのところに来て、イエスのなさったことを目撃したユダヤ人の多くは、イエスを信じた。46 しかし、中には、ファリサイ派の人々のもとへ行き、イエスのなさったことを告げる者もいた。47 そこで、祭司長たちとファリサイ派の人々は最高法院を召集して言った。「この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか。」

ラザロを、死から命へと救い出された主イエスの「しるし」を目撃し、多くの人々が主イエスを信じました(ヨハネ10:42)。他方、ファリサイ派の人々に告げ口する人々もいました(ヨハネ7:31-329:13)。彼らは自分で、イエスのなさった「しるし」を思い巡らすことなく、イエスがメシアかどうか、判断を人任せにしています。端的に言えば、主イエスとの「出会い」が起こっていません。

後の節に、エルサレムへ上った「彼らはイエスを(さが)し、神殿の境内で(原文:境内に立ちながら」(ヨハネ11:56)と記述されています。それは、求道者のあるべき姿を指し示しています。身を清め、そこに立っていたならば、「ろばの子に乗っておいでになる」主イエス(ヨハネ12:15)に出会うことが出来たでありましょう。

自分の決断が留保される一方で、他人によって(けっ)(しん)され、それが実行されていきます。どさくさに(まぎ)れになされた、カイアファによる逮捕ならびに死刑という結審、それを物語っています。後は、ローマ帝国の監督者などの権威を(かさ)に着て大衆を巻き込んでけばよいのです。

この男は多くのしるしを行っているが、どうすればよいか」のと問いには、主イエスに敵対する者たちの当惑した表情が表れています。彼らが主イエスに敵対したのは、イエスが神に冒瀆の言葉を()いた(マルコ14:64)からではなく、「多くのしるしを行っている」からでありました。それらが、神の御言葉を伴い、神の御心の内に為された奇跡であるかどうかを、祭司長たちとファリサイ派の人々はよくよく考えてみる必要があったのです。

主イエスの「しるし」を通じて、御言葉と御業とが「わたしを救い出す」ためのものであったと受け止めた人々がおりました。そして、彼らは主イエスの前に立って、信仰告白しました。「主よ、信じます」(ヨハネ9:38)と言った不自由な目の(いや)された人、また、はい、主よ、あなたが世に来られるはずの神の子、メシアであるとわたしは信じております」(同上11:27)を言ったマルタが、そうであります。

今私たちもまた、罪と死の闇から解放されて、永遠の命を生き始めるように、神の御前に立たされています。それを確かめるのが、この年の「過越祭」に起源を持ち、「復活祭」を(はん)とする主日礼拝なのであります。この男は多くのしるしを行っている」ということに対し、心で信じ、口で公に言い表す(ローマ10:9-10)という応答が、私たちに求められています。

 

Ⅲ 大祭司カイアファの預言

私たちが正しく信仰告白するためには、「信仰」の内容が明確でなければなりません。もちろん、その内容は、私たちが造り出すものではありません。信仰の内容、ひと言でいえば「福音」は、伝えられ教えられるものであります。私に「伝えられ」、私が「受ける」ということです(Ⅰコリント15:3)。

驚くべきことに、エルサレムの最高法院におけるカイアファの言葉から、信仰の内容が私たちに伝えられます。神は、(けが)れた(くちびる)を用いられました。罪のどん底にある人の心に、福音の光を送り届けられたのです。

ヨハネ福音書11:49-51――

49 彼らの中の一人で、その年の大祭司であったカイアファが言った。「あなたがたは何も分かっていない。50 一人の人間が民の代わりに死に、国民全体が滅びないで済む方が、あなたがたに好都合だとは考えないのか。」 51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。

ここでカイアファ在任中の「その年」というのは、主イエス・キリストが十字架につけられた時、すなわち、紀元後30年代前半を指しています。

民衆の中に騒ぎが起こるといけない」(マタイ26:6)ということに気を配る祭司長たちやファリサイ派の人々の念頭にあるのは、体制の安泰、現状の維持であります。騒ぎを押さえ込む理由は、「国民全体が滅びないで済む」からで、多くの人が反対する(よし)もなく、「好都合」な事として受け入れられます。

そして、騒ぎを押さえ込む手だては、「イエスが国民のために死ぬ」、「一人の人間が民の代わりに」なるということです。そうすれば、「ローマ人が来て、我々の神殿も国民も滅ぼしてしまう」(ヨハネ11:48)ことはなくなる、ということです。体制の安泰という印象操作がなされています。

言うまでもなく大祭司カイアファは、この年の過越祭」をつかさどる重要人物であります。そのカイアファが、「イエスが国民のために死ぬ」という預言を告げたのです。これは、彼の不信仰から出た宣言です。その上、そのことが「祭りの間に」起きるのは回避したいという自己本位の思惑(おもわく)彼にあったかも知れません。

いずれにしても、この年の「過越祭」に起こること……イエスが国民のために死ぬ……が預言されました。このカイアファの言葉が、預言として信仰的に受け止められたことが、時節の解説から分かります。

ヨハネ福音書11:51-52――

51 これは、カイアファが自分の考えから話したのではない。その年の大祭司であったので預言して、イエスが国民のために死ぬ、と言ったのである。52 国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ、と言ったのである。

ここには、ヨハネ福音書記者、つまり、ヨハネ(マルコ1:19、ヨハネ21:2)のもとに集められた教会の理解が示されています。カイアファの発言は「預言」であったということです。言い換えれば、その発言の内容は「預言」として前もって民に伝えられ、成就したということです。

より正確に言えば、その「預言」は、カイアファら敵対者はもちろんのこと、私たちの予想をはるかに超えて、「国民のためばかりでなく……」という形で成し遂げられました。

 

Ⅳ 神の子たちを一つに集める 

①「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」(ヨハネ11:52)……これはまさに、新しい福音、喜びの知らせです。

(りょう)(けん)の狭い人の典型であるカイアファは、「国民」(=ユダヤ民族 ヨハネ11:48,50にこだわっていました。それが、「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを」と、見方が広がっています。

そこで、「散らされている」という語の意味する人間理解について捉えることにしましょう。「散らされている」人々とは、一体だれか、ということです。一時的に「散らされている」のかという点についても触れましょう。

ヨハネ福音書7:35――

すると、ユダヤ人たちが互いに言った。「わたしたちが見つけることはないとは、いったい、(主イエスは)どこへ行くつもりだろう。ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教えるとでもいうのか。」

ペトロの手紙 1:1――

イエス・キリストの使徒ペトロから、ポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをしている選ばれた人たちへ。

ギリシア人の間に離散しているユダヤ人のところへ行って、ギリシア人に教える」という預言)は、主の(しもべ)パウロによって実現しました。彼は地中海世界に散在するユダヤ人の会堂を拠点に、異邦人伝道を伸展させました。口先で我が国民の好都合」を宣伝するカイアファの自己本位は、打ち砕かれました。

上の文に出てくる二つの「離散している(人々)」は、原語・ギリシャ語では「ディアスポラ」(語源:分ける+散らす)と言います。それは基本的に「離散しているユダヤ人」を指しますが、同時に、私たち・キリスト者のアイデンティティとして重要です。「離散している」というのは、ユダヤ人に限らず、茅ヶ崎に定住している私たちにも当てはまります。たとい信仰者であれ、罪の誘惑に引きずり回されるならば、神から「離散している」ことになります(イザヤ書6:12)。ただそのような折の悪い時……罪人や敵対者に囲まれるような時……ですら、伝道のチャンスが巡って来るかも知れません。

なぜなら、「離散して仮住まいをしている選ばれた人たち」はまさに、キリスト者の特徴を表しているからです。そうです、「離散している」という語の深意は、神と人間との関係、すなわち、水平軸ではなく垂直軸から見た関係性にあります。この世は仮の宿であり、私たちの本国は天にあります」(フィリピ3:20)というのが、世にあるキリスト者の生き方の基本です。だからこそ、この世にあって希望を抱いて伝道し、またこの世にあって真剣に(きよ)く生きるのです。教会の外に出て、「離散している」人々に福音を宣べ伝えるのです。

②「国民のためばかりでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死ぬ」……これは、将来に向けての力強いメッセージです。というのも、ここには、主イエス・キリストの十字架と復活の後に来たる出来事が内示されています。

主イエスが十字架につけられて死ぬ、そこでまず、私たちは十字架の下に、一つに集められます。この年の「過越祭」に、十字架にイエスをつけたのは、(わたしは不在だったではなく)わたしだ、わたしの罪のゆえだ、悔い改めるのです。そして、「散らされている神の子たちを一つに集めるために」、教会が建てられます。

教会」、すなわち、原語・ギリシャ語「エクレシア」(語源:~から+呼び出す ローマ16:1)は文字通り、呼び集められることによって成り立っています。それが今、新感染症のため、「呼び集められる」ことが困難にぶつかっていますが、どんな時にも、「散らされている神の子たちを一つに集める」という神の祝福の下に「教会」があることを覚えたいと思います。()かれ()かれに散らされていた者が、神の招きによって、「一つに集められる」……それが、初代の教会から現代の教会に至るまで、繰り返されているエクレシアなる教会の歴史です

現在、二部制で礼拝を守っている私たちが唱えるべきは、古代のヨハネの教会の、「散らされている神の子たちを一つに集める」との御言葉ではないでしょうか。それは、家庭で礼拝を守っている方々への、祈りの言葉でもあります。二部制の礼拝のかけがえのない特徴は、私たちが新しい一つなる茅ヶ崎香川教会をめざすために必要なものであると信じます。

国々の(かき)()を越えて、「散らされている神の子たちを一つに集める」ことが、神の御心であったことは、その預言が旧約聖書に出ていることからも分かります。

イザヤ書49:6―― 

こう言われる。

わたしはあなたを(しもべ)として

ヤコブの諸部族を立ち上がらせ

イスラエルの残りの者を連れ帰らせる。

だがそれにもまして

わたしはあなたを国々の光とし

わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする。

上に引用した苦難の「(しもべ)」の詩を、キリスト預言として読むならば、こうなります。

彼は不法を働かず その口に偽りもなかった」(イザヤ書53:9)、「自らをなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられた」、そして「多くの人の(あやま)ちを(にな)(そむ)いた者のために執り成しをした」(同上53:12)という苦難の「(しもべ)」に関わる預言は、まさしく主イエス・キリストが「死ぬ」ことによって成し遂げられました。だが、その苦難にもまして、「わたしはあなたを国々の光とし わたしの救いを地の果てまで、もたらす者とする」という、思いがけない出来事が起こります。

わたし御父(おんちち)はあなた(キリストと共にその弟子たち)を国々の光とし」てくださいます。そこで、私たちは、「(国々や茅ヶ崎に)散らされている神の子たちを一つに集め」、御国の建設にたずさわり、また教会を設立し継続していくように派遣されるのです。(なに)(ゆえ)に、「収穫は多い」のか(マタイ9:37)……それは、私たちが「各地に離散して仮住まいをして」、(たね)()きしているからであります。

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月報8月号

説教 取って食べなさい

    マタイによる福音書 26章26節~30節      

                  小河信一 牧師

 

説教の構成 受難週の時の流れに即して――

Ⅰ 14日の木曜日から15日の金曜日へ――過越の食事の準備

Ⅱ 15日の金曜日の夕べ――過越の食事

Ⅲ 15日の金曜日の夕べから夜明けへ――過越の食事と十字架の死とのつながり

 

今日は、主イエス・キリストが十字架につけられた、その前夜の出来事、夕べの食事についてお話ししましょう。

主イエスは、弟子や女性たちと共に、エルサレムめざして、エリコ街道を(のぼ)って行かれました。

途中、ベタニア村に立ち寄られました。そこで、以前から親しい交わりのあったラザロ・マリア・マルタの家族に迎え入れられました。しばらくの間、主イエスは朝、都エルサレムへ出て行き、夜、ベタニアに戻って泊まるという日々を過ごしておられました(マタイ21:17-18)。

 

Ⅰ 14日の木曜日から15日の金曜日へ――過越の食事の準備

春の或る月(ニサン エルテル記3:7)の、14日の木曜日になりました。まだ明るいうちのことでした。ベタニア村におられた主イエスは、弟子たち二人(マルコ14:17)に、こう言われました。

マタイ福音書26:18――

「都のあの人のところに行ってこう言いなさい。『先生が、「わたしの時が近づいた。お宅で弟子たちと一緒に過越の食事をする」と言っています。』」

こうして、二人の弟子がエルサレムに出かけて行きました。人々は誰も、「過越の食事」の準備のために忙しそうでした。また、祭りを前に子どもたちは、はしゃいでいました。

弟子たちは、主イエスの教えられた「お宅」(()(しき))に入って行きました。そして、「席が(ととの)って用意のできた二階の広間」を見て確かめました(マルコ14:15)。そして、彼らは主イエスにもとに戻りました。

あとは、14日の木曜日〈準備の日〉が夕方に、15日の金曜日〈祭り当日〉に変わる、つまり、日付が変わって過越祭の第一日(出エジプト記12:6,18、レビ記23:6)が始まるのを待つばかりでした(ユダヤ人の慣例では夕方から一日が始まります)。ただ、十二弟子の中には、まだヨルダンの向こう側にいた時に、主イエスとこんな会話をしたことを思い起こす者がありました。

ヨハネ福音書11:7-8――

7 それから、弟子たちに言われた。「もう一度、ユダヤに行こう。」 8 弟子たちは言った。「ラビ、ユダヤ人たちがついこの間もあなたを石で打ち殺そうとしたのに、またそこへ行かれるのですか。」

「そうだ、お祭りに浮かれてばかりではいけない。先生(イエス)をお守りしなければ。でも、祭りの間は大丈夫かなぁ(マタイ26:5)」とつぶやきながら、自分を落ち着かせようとしました。

今、主イエスは、過越祭の第一日、最も大切な食事を執り行うことに集中されていました。これは、神が出エジプトを成し遂げてくださったことを記念する食事でありました。エジプトで、イスラエル人は強制労働をさせられ、自分たちの願い通りに、神を礼拝することができませんでした。エジプトから脱出するため、イスラエルの民は急いで食事をしました。肉やパンや(にが)()を食べて(出エジプト記12:8)、旅する力を(たくわ)えました。

神の栄光が輝き、モーセに導かれて、人々が労苦と絶望から解き放たれたことを思い起こすのが、この「過越の食事」です。「先生(イエス)は心から、その食事を祝おうとされているではないか」、そう思うと、弟子たちの一抹(いちまつ)の不安は消え去りました。主と共に、食事を祝い楽しもうと、気を取り直しました。

 

Ⅱ 15日の金曜日の夕べ――過越の食事

さて、夕べの風が吹きわたる頃(マルコ14:17)、主イエスと十二弟子の一行は、エルサレムに向かって歩き出しました。東の空に、満月が昇りはじめていました。

十二弟子の中には、イスカリオテのユダがいました。ユダはすでに祭司長たちと(みつ)(やく)を交わしていました。銀貨三十枚と引き換えに、イエスを引き渡すという取り引きをしていたのです(マタイ26:14-16)。そんなユダは、「過越の食事」の後、イエスを引き渡す時のことばかり考えていたことでしょう。いずれにせよ、今夜、イエスは都エルサレムに、大祭司や律法学者の待ち構えている所に行く、その機会をねらおう(マタイ26:16)、とユダは(たくら)んでいたのです。

主イエスはエルサレムの屋敷の二階、食事をする部屋に入って行かれました。

そして、「過越の食事」が始まりました。その食事の(なか)(ごろ)、主イエスは弟子たちがこれまで聞いたことのないことを言われました。

マタイ福音書26:26-27――

26 一同が食事をしているとき、イエスはパンを取り、賛美の祈りを唱えて、それを裂き、弟子たちに与えながら言われた。「取って食べなさい。これはわたしの体である。」 27 また、(さかずき)を取り、感謝の祈りを唱え、彼らに渡して言われた。「皆、この杯から飲みなさい。28 これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

賛美の祈り」から「賛美の歌」へ(マタイ26:30)、食卓は、神への感謝で満ちあふれていました。これこそ神の整えられた食卓です(詩編23:5)。しかし、主イエスの突然の命令(勧め)と宣言を、どのように受け止めればよいのでしょう。食卓の上のパンと杯と、主イエスの体と血とは、別のものではないのかしら、と不思議に思う弟子もいたことでしょう。

「(パンを)取って食べなさい。これはわたしの体である。

この杯から飲みなさい。これはわたしの血、契約の血である。

そこで、この主イエスの命令に従って、パンを食べ、ぶどう酒を飲むと、どうなるというのでしょう。

信仰をもって、「パン」と「ぶどう酒」(杯)にあずかるという観点からお話ししましょう。

主イエス・キリストが「取って食べなさい」、「飲みなさい」とおっしゃってくださる「パン」と「ぶどう酒」にあずかるというのは、それらの糧によって、私たちの全生活が主イエス・キリストによって養われるということです。

一年で一回、最も重要な「過越の食事」で、神への感謝のうちに、キリストにより与えられた糧は、一年中、いな、一生の間、私たちを支え保つものとなります。「このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(ヨハネ6:51)との主イエスの言葉はそれを表しています。

さらに信仰をもって注目すべきことは、体を「裂く」または血が「流される」(受動態)ことが、15日の金曜日に、十字架上で、主イエスの身に起こるということであります。「過越の食事」は15日の金曜日が始まったばかりの夕べのことであり、「主の十字架刑」は、夕方から始まった15日の金曜日が朝を迎えた時に起こります。まさしく、パンが裂かれることと、イエスの体が裂かれることとがつながっているのです

私たちが、主イエスの聖別された「パン」と「ぶどう酒」(杯)を食べ飲むとき、キリストの力が私たちの中で生きて働きます。それが、私たちを一生養うような命の(かて)だとしても、なぜ、それが「キリストの力」と言えるようなものになるのでしょうか? そのことへの回答が、主イエスの食卓の言葉に示されています。

マタイ福音書26:28 主イエスの宣言――

「これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である。」

信仰をもって、「パン」と「ぶどう酒」(杯)にあずかるとき、私たちの中に新しいものが注ぎ込まれるというだけではありません。もちろん、その新しいものとは、永遠の命そのものですから、重要であることは言うまでもありません。

しかし、滅ぼされるべきもの、罪と死から、私たちが解き放たれてはじめて、神より(さず)かる恵みに生きることができるのです。まさに、「新しいぶどう酒を古い(かわ)(ぶくろ)に入れる者はいない」(マタイ9:17)ということです。

主イエス・キリストは、イスカリオテのユダの罪やペトロの弱さ(マタイ26:31-35,69-75)を見据(みす)えたうえで、「過越の食事」を通じ、弟子たちに、まことの糧、まことの力を分かち与えられました。それは、罪と死に勝利する「キリストの力」です。

なぜなら、その食事に引き続いて、主イエス・キリストは「十字架につけられ、死にて葬られ、()()にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり」(使徒信条)、私たちの罪を赦し、私たちに永遠の命を得させてくださったからです。

マタイ福音書26:29 主イエスの言葉――

「言っておくが、わたしの父の国であなたがたと共に新たに飲むその日まで、今後ぶどうの実から作ったものを(わたしが)飲むことは決してあるまい。」

今後(わたしが)飲むことは決してあるまい」は、悲しい別れの言葉ではありません。そうではなく、御国で祝宴が開かれる日が必ず来る、その時まで、杯は取っておこう、という希望の言葉です。その杯は、「契約の血」なのです。永遠に、わたしとあなたがたとは切り離されないという宣言です。地上の最高の食卓から天上の無二の食卓へと、神の恵みが架け渡されるのです。

私たちは、御国の祝宴を待望しています。ただ私たちは、この地上で、イエス・キリストの死を覚えるため、記念するために、聖餐を執り行うことを許されています。それは、主の十字架の死によって、自分の罪が(あがな)われ、救われたことを、告白し感謝するためです。

聖餐は、信仰者にとって、地上の最高の食卓です。その食卓のある教会から、私たちは神の御国を、天上の無二の食卓をめざして歩んでゆくのです。

 

Ⅲ 15日の金曜日の夕べから夜明けへ――過越の食事と十字架の死とのつながり

マタイ福音書26: 30――

一同は賛美の歌をうたってから、オリーブ山へ出かけた。

「過越の食事」が終わった15日の金曜日の夜、主イエスはオリーブ山のふもとのゲツセマネの(その)へ行かれました(マタイ26:36-46)。父なる神に祈りをささげるためです。その夜の間に、主イエスは逮捕され、裁判を受けられます。朝、主イエスは十字架の丘へと歩まれます。そして昼、苦難と死に向かって、進みゆかれます(詩編55:17-18)。

その時、罪深い者がキリストの体を「裂き」、キリストの血が「流される」という出来事が成就します。私たちの罪からの解放が「過越の食事」で宣言されました。そして同じ日に、イエス・キリストの十字架による、私たち罪人の救出が成し遂げられました。

春の満月の日、「イエスの時」(ヨハネ7:3013:1)が満ちる時、神の恵みが満ち満ちる時が到来しました。主イエスを中心とする新しい「過越の食事」に、多くの罪人が招かれました(マタイ9:9-13、ルカ14:13-14)。主イエスは彼らと共に、神を賛美し、御言葉を伝え、そしてパンと杯を配餐(はいさん)されました。その後、主イエス・キリストは十字架の丘で、「あなたがたを暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れてくださった方の力ある(わざ)」(Ⅰペトロ2:9)をあらわされました。

取って食べなさい」との主の御声に、主イエス・キリストへの信仰をもってお応えしましょう。その時、私たちは罪と死から解き放たれて、光と命の世界へと救い出されます。私たちは、主イエス・キリストと共に生き、死に、そしてよみがえるよう、「招かれている」のです。

出エジプト記12:26-27 モーセがイスラエルの長老をすべて呼び寄せ、彼らに命じた――

26 「また、あなたたちの子供が、『この()(しき)(=過越祭)にはどういう意味があるのですか』と尋ねるときは、27 こう答えなさい。」

 

主イエス・キリストによる新しい「過越の食事」、主の晩餐(ばんさん)のことを、子どもたちもまた「招かれている」ことを語り伝えたいと願います。

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