礼拝、説教

主日礼拝 2021年 9月19日

聖霊降臨節 第18主日  

  

招き   前奏

招詞   詩編117編 1節~2節

頌栄   542

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  168

交読文  37 詩編146編

旧約聖書  詩編69章5節(P.902)
新約聖書  ヨハネによる福音書 15章18節~27節(p.199)

 

祈祷

賛美歌  379

説教   「わたしがあなたがたを世から選び出した」

               小河 信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  399

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   545

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2021年9月19日「わたしがあなたがたを世から選び出した」
詩編69章5節
ヨハネによる福音書15章18節~27節
210919_0098.MP3
MP3 オーディオファイル 27.3 MB
2021年9月12日「収穫の主に願いなさい」
歴代誌上28章20節~21節
ルカによる福音書 10章1節~12節
210912_0097.MP3
MP3 オーディオファイル 30.5 MB
2021年9月5日「一人一人が互いの部分なのです」
イザヤ書41章6節~7節
ローマの信徒への手紙12章3節~8節
210905_0096.MP3
MP3 オーディオファイル 26.8 MB
2021年8月29日「自分を作り変えていただく」
出エジプト記3章4節~6節
ローマの信徒への手紙 12章1節~2節
210828_0095.MP3
MP3 オーディオファイル 29.1 MB
2021年8月22日「返してもらうことを考えずに貸しなさい」
詩編112編 5節
ルカによる福音書6章32節~36節
210821_0094.MP3
MP3 オーディオファイル 26.8 MB

〈説教の要約〉

2021年 9月19日                         

旧約聖書 詩編69編 5節

新約聖書 ヨハネによる福音書 15章18節~27節

     「わたしがあなたがたを世から選び出した」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしがあなたがたを世から選び出した …ヨハネ15:18-19             

Ⅱ あなたがたをも迫害するだろう         …ヨハネ15:20-21

Ⅲ 自分の罪について弁解の余地がない     …ヨハネ15:22-24  

Ⅳ 人々は理由もなく、わたしを憎んだ 

                 ……ヨハネ15:25 詩編69:5           

Ⅴ 聖霊と弟子たちによる(あか)              …ヨハネ15:26-27

結 

 

ヨハネ福音書13章-17章という枠組の中に、主イエスの訣別(けつべつ)説教は置かれていますより大きな観点からは、ヨハネ福音書1章-12章では、光と闇とがせめぎ合っており、それに対し、13章-19章では、闇の支配が次第に増していっているということになります。

闇の支配が次第に増していく、その発端(ほったん)のヨハネ福音書13章では、❶イスカリオテのユダの裏切りペトロの否認とが予告されました(13:21-30,36-38)。それと通底する形で15章の後半では、弟子たちはじめ信仰者が(こうむ)迫害が予告されています。それらによって、弟子たちの内部にある罪と、弟子たちを取り巻いている人々の罪とがあぶり出されています。

過越祭前の「夕食」(ヨハネ13:2,4 主の晩餐)において、主イエスは弟子たちに親しく御言葉を語っておられます。時は「しかし、夜であった」(同上13:30)と記されているように、暗闇の支配が忍び寄って来ていました。そこで、おのずと主イエスの十字架の道が浮かび上がってくるのでありました。それに伴い、弟子たちの上にも艱難(かんなん)が降りかかって来るということが表明されました。彼らの気が動転するのではないか、と案じられます。

しかし、忠実な弟子たちを「わたしの友」(ヨハネ15:14-15)と呼ばれる主イエスが彼らに寄り添っておられました。混沌とした状況のもと、主イエスはどのような慰めと励ましを、わたしたちに残されたのでしょうか。

 

Ⅰ わたしがあなたがたを世から選び出した

ヨハネ福音書15:18-19 主イエスの言葉――

18 「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい。19 あなたがたが世に属していたなら、世はあなたがたを身内として愛したはずである。だが、あなたがたは世に属していない。わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである。」

この二節には、「」と「あなたがた」との違いが鮮明にされています。ここでは、主イエスに反抗する「ユダヤ人たち」(ヨハネ1:1912:11)のことが、「」と言い換えられています。「」とは、神の御心に(そむ)いている人、「神の霊によって生まれ変わらされていない人たちすべて」(カルヴァン)を指しています。「」は「あなたがた」の「身内」ではありません。この手の自称、「身内」とは(いさぎよ)く決別することです。

パウロが「あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません」(ローマ12:2)と戒めたように、この世のスタイル・型に魅惑され、罪の誘惑に引きずり込まれてはなりません。それに「あなたがた」が引きずり込まれないようにする、その最善の防御壁となるのが、「わたしがあなたがたを世から選び出した」との主イエスの宣告です。

わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎むのである」と説明されていますので、まずは、世が主イエスと弟子たちとを「憎む」ということについて確認しましょう。

冒頭に、「世があなたがたを憎むなら、あなたがたを憎む前にわたしを憎んでいたことを覚えなさい」と、弟子たちが心に刻むべきことが示されています。その中の、「前に」という一句が重要です。この語は、「~に先んじて先行して」という意味です。

すなわち、あなたがたは世から憎まれることがあるかも知れないが、それより先に、主イエスが世に憎まれ迫害を受けていたことを忘れてはならない、ということです。主イエスに対するこの世の憎悪は(こう)じて、主を十字架につけるに至りました。言い換えれば、「十字架につけて処刑するほどに、世がわたしを憎んでいる。あなたがたが受けている憎しみに打ち負かされてはならない。苦難を受けて立つイエス・キリストを見上げよ」ということです。

わたしたちの苦難に、主イエス・キリストの苦難が「先行して」いる――闇の支配が次第に増していく中で知るべきは、この事なのです。従って、わたしがあなたがたを世から選び出した」とは単に、永遠のむかし、神があなたがたに信仰を与えると決めたということを表しているだけではありません。そこには、世の憎しみに耐えうる者として、あなたがたを憐れみ、あなたがたの信仰を見守ることにしたという深い意味があります。

父なる神とキリストによって選び出された人にとって、世からの憎しみは、心労になる以上に、自分たちが神の属していることを確認させるものなのです。この世において困難が起ころうとも、枝々(えだえだ)としてまことのぶどうの木である主イエスに結びつき、命の養いを受けていることが確信させられます。

暗闇の中でも、あなたがたの「前に」立っているわたしから目を離すな、という戒めをもって、主イエスは話を進められます。

 

Ⅱ あなたがたをも迫害するだろう        

ヨハネ福音書15:20-21 主イエスの言葉――

20 「『(しもべ)は主人にまさりはしない』と、わたしが言った言葉を思い出しなさい。人々がわたしを迫害したのであれば、あなたがたをも迫害するだろう。わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう。21 しかし人々は、わたしの名のゆえに、これらのことをみな、あなたがたにするようになる。わたしをお遣わしになった方を知らないからである。」

主イエスが「だから、世はあなたがたを憎むのである」と宣告された、その憎しみが「迫害」の形で実行されます。

ここでは、憎しみにおいて、「弟子たちに先行する主イエス」から、迫害において、「(しもべ)まさる主人」へと拡張されています。つまり、「人々はあなたがたをも迫害するだろう」が、その「前に」、それ以上に()(れつ)に「人々がわたしを迫害した」ということです。主イエスは、「(しもべ)は主人にまさりはしない」と言って、弟子たちにへりくだりを(うなが)されました。これは、()を越えようとするなかれ、師につき従え、という力強いメッセージです。

弟子たちにとっての気がかりが、「人々はあなたがたをも迫害するだろう」ということにあるのは事実です。しかし、より大切なのはで記したとおり、主イエスが世に憎まれ迫害を受け、最終的に主が十字架につけられた、救いの出来事を「覚えなさい」(ヨハネ15:18)ということです。自分が迫害されるという試練によって、主イエスとのつながりが深められる人は幸いです(マタイ5:10-12)。

次の言葉、「わたしの言葉を守ったのであれば、あなたがたの言葉をも守るだろう」には、主の弟子、信仰者とは、どのような人であるか、が明示されています。

信仰者とは、「わたしの言葉を守った」、そして、その言葉を(おこな)った、というように、主イエス・キリストの言葉と(わざ)を、自分の存在の根拠にしている人であります。従順に御言葉に耳を傾け、それを実践するのが、キリスト者なのです。その人たちの日常生活の方針は、「わたしの言葉」に基づいて定められます。「わたしの言葉」を聞き、それを伝えている「あなたがた」を拒絶する人は、神と結ばれません。そのような人たちの人生は、主イエス・キリストの言葉と(わざ)土台が()えられていないので、とても不安定になります(マタイ7:24-27)。

主イエスはさらに、弟子たちを憎み迫害する「世に属している」人々を問い()めてゆかれます。世に属している」人々を裁かれます。ただしその背後には、そのような人々を、罪と(あやま)ちの(なわ)()から解き放とう主イエス・キリストの愛があります。「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)という愛をもって、主イエスは「世に属している」人々に相対(あいたい)しておられます。弟子たちにも、彼らに証しし、伝道してほしいと願っておられます(ヨハネ15:27)。

 

Ⅲ 自分の罪について弁解の余地がない    

ヨハネ福音書15:22-24 主イエスの言葉――

22 「わたしが来て彼らに話さなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。23 わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。24 だれも行ったことのない(わざ)を、わたしが彼らの間で行わなかったなら、彼らに罪はなかったであろう。だが今は、その業を見たうえで、わたしとわたしの父を憎んでいる。」

この箇所には、「世に属している」人々の罪が(あば)き出されています。主イエスによる、罪の追及はきわめて論理的で厳正です。整理してみましょう

ヨハネ福音書15:22-23 罪の追及〈第一弾〉――

わたしが来て彼らに話した。            〈主イエス・キリストの言葉〉の啓示

だが今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない。

わたしを憎む者は、わたしの父をも憎んでいる。

      

ヨハネ福音書15:24 罪の追及〈第二弾〉――

だれも行ったことのない(わざ)をわたしが彼らの間で行った。〈主イエス・キリストの(わざ)〉の啓示

②    な し

だが今は、わたしとわたしの父を憎んでいる。

流暢(りゅうちょう)な語り口です。主イエスは「だが、今は、彼らは……」と繰り返して、「世に属している」人々に(せま)っています。主イエスはすでに、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すること」(マタイ16:21、ヨハネ2:19-22)を示されました。主イエス・キリストの言葉と(わざ)が十分にあらわされました。

主イエスは、「だれも行ったことのない(もろもろの)(わざ)を彼らの間で」行われました。五千人の給食や盲人の癒やしなど、大勢の人々が主イエスの行われた「しるし」(奇跡)を見ました(ヨハネ6:149:16)。そのような多くの「しるし」を通して、主イエスこそ、人々を罪と死から救い出すお方であることが宣べ伝えられました。

だが、今は、彼らは自分の罪について弁解の余地がない」と、人が追い()められたところで、罪を悔い改めるなら、幸いです。十字架の主イエス・キリストが、「自分の罪」を赦してくださいます。

罪の追及③「わたしとわたしの父を憎んでいる」に関して、主イエスは旧約聖書(詩編)を引用されました。「ユダヤ人たち」はもはや責任(のが)できません。

 

Ⅳ 人々は理由もなく、わたしを憎んだ  

ヨハネ福音書15:25 主イエスの言葉――

「しかし、それは、『人々は理由もなく、わたしを憎んだ』と、彼らの律法に書いてある言葉が実現するためである。」

詩編(35:19または69:5)を(こと)(さら)彼らの律法」と呼んでいるのは、彼らの罪を追及するためでありましょう。ユダヤ人たち」は彼らの行いによって「律法」が達成されるように(ローマ3:289:30-31)励んでいますが、旧約聖書に記されている愛と正義を成し遂げられる主イエス・キリストからは目を()らしています。そこで、主イエスは、罪の追及③を論証すべく、ユダヤ人たちに「彼らの律法」を()きつけました。人々は理由もなく、わたしを憎んだ」ということが、彼らに当てはまることを知らしめるためでありました。

詩編69:5―― 

理由もなくわたしを憎む者は

この(あたま)の髪よりも数多く

いわれなくわたしに敵意を(いだ)く者

滅ぼそうとする者は力を増して行きます。

わたしは自分が奪わなかったものすら

(つぐな)わねばなりません。

この場合、「わたし」というのは、信仰者である詩人を指しています。「理由もなくわたしを憎む者」は「数多く」、「力を増して行く」というのが特徴です。

」のユダヤ人たち」はじめ、神に(そむ)く人々が数多く」なり「力を増して」、挙げ句の果てに、主イエス・キリストを十字架につけたのです。その点では、「人々〈長老、祭司長、律法学者、ピラト、兵士たち〉は理由もなく、わたし〈イエス・キリスト〉を憎んだ」との聖書の言葉は、主イエス・キリストの十字架の出来事において「実現した」と言えます。「人々」の側から見るならば、「弁解の余地がない」彼らの罪に対する神の怒りは、身代わりとなられた主イエス・キリストの上に(くだ)りました。それが、「わたしの父」(ヨハネ15:23,24)、父なる神の御心でありました。

弁解の余地がない」罪を(かか)えた人、今なお「わたし〈イエス・キリスト〉を憎む者」の救出に関わるメッセージで、今回のテキストは閉じられています。闇の支配が次第に増していく中にも、「ほのぐらい灯心(とうしん)を消すこと」がないように(イザヤ書42:3)、主イエスは慰めと励ましを与えられます。

 

Ⅴ 聖霊と弟子たちによる(あか)    

ヨハネ福音書15:26-27 主イエスの言葉――

26 「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている弁護者、すなわち、父のもとから出る真理の霊が来るとき、その方がわたしについて証しをなさるはずである。27 あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである。」

主イエスはこの訣別(けつべつ)説教で以前、わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる」(ヨハネ14:16)と、弟子たちに語られました。ここでは、その「弁護者」なる聖霊について、「わたしが父のもとからあなたがたに遣わそうとしている」と述べられています。要は、聖霊は父なる神と御子イエス・キリストとのもとから(はっ)(しゅつ)されているということです。

その方(聖霊)がわたしについて証しをなさる」というその証しの内容は、どんなことでしょうか?

それは、罪の追及①で触れた、「わたしが来て彼らに話した」と「だれも行ったことのない(わざ)をわたしが彼らの間で行った」との言葉に示唆されているように、主イエス・キリストの言葉と(わざ)にほかなりません。従って、聖霊による「わたし〈イエス・キリスト〉について」の証しの核心は、「御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活すること」(マタイ16:21)ということになります。

そうして弟子たちも、「初めからわたしと一緒にいた」者として、主イエス・キリストの十字架と復活について「証しをする」のであります。

ヨハネの手紙 1:1-2――

1 初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で触れたものを伝えます。すなわち、命の言について。―― 2 この命は現れました。御父と共にあったが、わたしたちに現れたこの永遠の命を、わたしたちは見て、あなたがたに証しし、伝えるのです。

ヨハネの教会に属する著者は当然のように、「証しし伝えるのです」と書いています。「あなたがたも、初めからわたしと一緒にいたのだから、証しをするのである」との主イエスの勧めが受け継がれているのが分かります。

初めからわたし〈イエス・キリスト〉と一緒にいた」のではないわたしたちは、その初代教会の人々の「証しし、伝える」文書(新約聖書)を読むことができます。説教により、その御言葉を聞くことができます。

その上、今、ペトロやヨハネのような目撃(もくげき)証人に会えないわたしたちのために聖霊なる神が〈イエス・キリスト〉について証しをしてくださいます。主イエスご自身、聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」(ヨハネ14:26)と約束しておられます。

 

ヨハネ福音書15:1615:19に、「だが、わたしがあなたがたを選んだ」という主イエスによる同一の宣言が出てきます。わたしたちの前におられ、わたしたちにまさるお方が、わたしたちの「主人」であります。

確かに、わたしたちは世に属していません。それ故、わたしたち・信仰者とこの世の間には、価値観において隔たりがあります。時に、自分の「流行遅れ」を()じたり、「同調圧力」に苦しんだりすることがあるかも知れません。

しかし、動揺することはありません。主イエス・キリストはわたしたちを、この世から(こうむ)る憎しみと迫害から守ってくださいます。なぜなら、主イエス・キリストは、十字架と復活によって、世の憎しみと迫害に勝利されたお方だからです。

前回(ヨハネ福音書15:9-17 説教要約)も述べたように、「わたしがあなたがたを選んだ」との御言葉は、わたしたちの信仰者のあり方を(けっ)するものです。信仰の根本において、神の選びと招きがわたしたちを導き、支配しているということです。それ故に、逆境の時にも、わたしたちの存在基盤がゆり動かされることはありません。

 

この世にあっても、喜びに満たされ(ヨハネ15:11)、憎しみに耐えうるように、そして、主イエス・キリストについて証しをすることができるようお祈りしましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 9月12日                        

旧約聖書 歴代誌上 28章20節~21節

新約聖書 ルカによる福音書 10章1節~12節

       「収穫の主に願いなさい」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した  ……ルカ10:1               

Ⅱ 収穫の主に願いなさい    ……ルカ10:2 歴代誌上28:20-21 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ  ……ルカ10:3-4   

Ⅳ この家に平和があるように               ……ルカ10:5-7         

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           ……ルカ10:8-12

  結

 

2021年度のほぼ(なか)ばにあたり、説教のテキストとして、年間聖句(ルカ10:2)を取り上げます。この聖句は、二年連続の教会標語「主の()しに応えて伝道する」に添ったものです。去年度はルカに並行するマタイ9:37-38を読みました。新感染症拡大の中で、わたしたちの出来ることは限られているという現実に直面しています。今出来ること、()し続けることで、最重要なのは、伝道に向けての態勢を整えておくということです。主イエス・キリストはわたしたちを通して、神の愛がこの世に伝えられるよう、その計画を進めておられます。

主イエス・キリストによってあらわされた神の愛を信じる、そして、この世に遣わされて、人に愛を伝える――それが、神の憐れみによって勧められているわたしたちの信仰生活です(ローマ12:1)。

 

Ⅰ その後、主はほかに七十二人を任命した

ルカ福音書10:1――

その後、主はほかに七十二人を任命し、御自分が行くつもりのすべての町や村に二人ずつ先に遣わされた。

その後、主はほかに……」との告知は、「働き手」・伝道者を(あと)()しする主イエス・キリストの愛の大きさをあらわしています。「その後、ほかに」の前に、主イエスは「十二人」を呼び集め、権能を授けて、派遣されました。それに続いて、「七十二人」が選び出されたのです。主イエスによって、新しい局面が開かれたということです。

初めに、十二人が、「神の国を宣べ伝え、病人をいやすために」(ルカ9:2)、町や村へ送り出されました。福音宣教が順調に進んだわけではありません。彼らは、悪霊に取りつかれ苦しんでいる子どもをいやせず(ルカ9:27-43)、挫折を味わったこともありました。

主イエスは先手を打たれ、また、忍耐強く後押しされるお方です。そこで「ほかに」、6倍の数の「七十二人」を任命されました。

その後、主はほかに……」というお方が、「十二人」や「七十二人」の背後に立っていることを忘れてはなりません。教会において、自分の恵みの賜物を最大限に生かすのみならず、教会員すべての「それぞれ異なった賜物」を(あい)(はたら)かせるというのが、礼拝であり伝道です。

ルカ福音書・使徒言行録という一連の文書は、エルサレムの神殿での儀式から始まり、ローマの借り家での礼拝・伝道で終わっています(ルカ1:5-25、使徒28:30-31)。およそ60年かけて、祭司ザカリアから、使徒パウロへと至ります。忠実に礼拝者としての務めを行う両者の連関において、格段の霊的な伸展がありました。

その背景には、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」という、主イエスご自身による伝道の〈ビジョン・(まぼろし)〉があります(使徒1:8)。その意味で、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。

そのザカリアとパウロの間で、「十二人」⇒「七十二人」、または、「十二人」⇒「百二十人」(聖霊降臨前 使徒1:15)という「働き手」の増強が起こりました。それは、主イエスが「働き手が少ない」という諸教会の困難を見守っておられるという証しであります。

働き手が少ない」ことを身に()みて感じる二人組二人ずつ)の者が歌うのにふさわしい讃美歌として、わたしは次の曲を思い起こしました。

讃美歌Ⅰ-234番 1節――

(むかし)主イェスの ()きたまいし、

いとも小さき いのちの(たね)

芽生(めば)え育ちて 地の果てまで、

 その枝を張る ()とはなりぬ。

 

Ⅱ 収穫の主に願いなさい                  

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

七十二人」がこれから主イエスより先に、町や村へ出かけて行こうとしています。その時、主イエスは「十二人」が派遣された際のことを思い起こされていたと見られます。

使徒「十二人」の目の前には、突然叫びだし、けいれんを起こし、(あわ)を吹いている子どもがいました(ルカ9:37-43)。そこで、彼らは自分の信仰上の「どん底」、力の無さに気づかされました。そのことを、主イエスが「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか」(ルカ9:40)との嘆きをもって(あば)き出されました

そうした失敗例を踏まえて、あるべき信仰というものを、どのように告白すべきなのか、主イエスは「七十二人」に語られました。それが、「だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい」という祈りの勧めでありました。

主イエスのガリラヤ・サマリア伝道に同伴している「七十二人」にとって、主の十字架と復活の御業はこれから起こることでありました。そこで今、イエス・キリストを信じていることを言い表す、一つの祈りが示されたのです。確かにこれは、()()ない町や村へ派遣される者たちにとって、切実な願いでありました。またそれは、「収穫」を自分の成果と捉え、その多い少ないに心を寄せがちなわたしたちに対する警告でもありました。

霊で祈り、理性でも祈ることにしましょう」(Ⅰコリント14:15)とのパウロの言葉を借りるならば、霊で主イエスの臨在……我々と共におられる神……を信じ理性で働き手の必要性を認識するということになるでしょう。

歴代誌上28:20-21―― 

20 こうしてダビデはその子ソロモンに言った。「勇気をもって雄々しく実行せよ。恐れてはならない。おじけてはならない。わたしの神、神なる主はあなたと共にいて、決してあなたを離れず、捨て置かず、主の神殿に奉仕する職務をことごとく果たさせてくださるからである。21 見よ、組分けされた祭司とレビ人が神殿のあらゆる奉仕に()こうとしている。何事を果たすにも、あなたにはあらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており、長たる者をはじめ民もすべてあなたのあらゆる命令に従おうとしている。」

これは、ダビデ王からその子ソロモンへの惜別(せきべつ)の言葉です。ソロモンが即位する(歴代誌上29:22-23)直前のことです。

この場面でダビデの最も伝えたいのは、「わたしの神、神なる主はあなたと共にいて」という神を信じること、また、新しい神殿でその神を礼拝することであるのは、一目(りょう)(ぜん)です。なおかつ、「理性で働き手の必要性を認識する」ことに関しても、「あらゆる奉仕に関して知恵のある献身的な働き手がすっかりそろっており」と述べられています。ソロモンは為すべきことは、「御心のままに」(マタイ26:39)、と祈ることであります。そのように、これから派遣される七十二人も、昼も夜も主イエスに向かって叫び求めることが大切なのです

主イエスの言われた「収穫は多い」という「収穫」とは、神の民が集められ、神の栄光があらわされるということです。自分が独占できるような成果ではありません。「もっと欲しい」という自分の欲望を打ち砕く主イエスの言葉が続きます。

 

Ⅲ (おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ   

ルカ福音書10:3-4 主イエスの言葉――

3 行きなさい。わたしはあなたがたを遣わす。それは、(おおかみ)の群れに小羊を送り込むようなものだ。4 財布も袋も履物(はきもの)も持って行くな。途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな。」

途中でだれにも挨拶(あいさつ)をするな」との命令は少し奇妙ですが、前例があります。

列王記下4:29 シュネムの婦人の男の子が急死したとき―― 

そこでエリシャはゲハジに命じた。「腰に帯を締め、わたしの(つえ)を手に持って行きなさい。だれかに会っても挨拶してはならないまただれかが挨拶しても答えてはならない。お前はわたしの杖をその子供の顔の上に置きなさい。」

(しもべ)ゲハジはエリシャから子どもを生き返らせるという務めを託されました。彼はカルメル山からシュネムへ(約30㎞)、寝台に横たわっている子どもの家へ駆け付けます。事情は異なりますが、「七十二人」はそれぞれの招き入れられる家をめがけて道を急ぎます。

主イエスによって託された使命に専心すべき理由は、「それは、狼の群れに小羊を送り込むようなものだ」との言葉の内に明らかにされています。

七十二人」には、自分たちが弱く乏しい者であることを認める謙遜さが必要でした。なぜなら、主イエスはその弱く乏しい者を、罪と死の縄目から解き放ってくださったからです。神の憐れみによって、人の弱さ・乏しさが(かえり)みられたことを忘れてはなりません。

主イエスは、「七十二人」が遣わされるのは、「小羊を送り込むようなものだ」と(たと)えられています。この世では、「小羊」がこうむるような苦難が彼らに襲って来ます。その究極の苦難こそが、「(すぎ)(こし)の小羊」なるイエス・キリストが(ほふ)られた十字架の出来事でありました(ルカ22:7、ヨハネ1:29)。

主イエスはご自身の苦難〈十字架〉と神の勝利〈復活〉を見据(みす)えたうえで、「(おおかみ)の群れ」の中へ「七十二人」を送り出されたのです。彼らは「目を上げて畑を見るがよい。色づいて刈り入れを待っている」(ヨハネ4:35)というこの世で伝道すると同時に、苦難を通してキリストにつき従う(しもべ)として成長してゆきます。

主イエスの「行きなさい」との命令が高らかに響いています。かつて、神はアブラハムに「(あなたが)行きなさい」と命じられました(創世記12:1)。アブラハムはこの突然の呼びかけを、神からの()し出し受け止め、行き先も知らずに出発しました(ヘブライ11:8)。父祖アブラハムは、「七十二人」にとっての先駆者であります。

 

Ⅳ この家に平和があるように                     

ルカ福音書10:5-7 主イエスの言葉――

5 「どこかの家に入ったら、まず、『この家に平和があるように』と言いなさい。6 平和の子がそこにいるなら、あなたがたの願う平和はその人にとどまる。もし、いなければ、その平和はあなたがたに戻ってくる。7 その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。」

ある家を訪ねて、「この家に平和があるように」と挨拶するのは、ごく自然なことです。この地域の慣習です。問題はここからで、二人一組の者が一つの家に結びつくかどうか、が分かれ目になります。

相手への「平和」の挨拶から、相手が「平和の子」かどうかという話に伸展しています。さらには、「あなたがたの願う平和はその人にとどまる(であろう)」というように、その相手の将来が見渡されています。そう考えると、遣われた者の使命は、主イエス・キリストの「平和」を伝え、その喜びの知らせを聞いた人を「平和の子」につくり変えることだ、と分かります。

主イエス・キリストは、神とわたしたちの間の「平和」を回復されました。主が十字架にかかることよって、わたしたちの罪と死を滅ぼし、「平和」を打ち立てたのです(コロサイ1:20)。主イエスがザアカイの家に泊まられたように、伝道者も、「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい」との勧めを実践するのです。それによって、その人と家族の者すべてに、主イエス・キリストの「平和」が伝えられます。

 

Ⅴ 神の国はあなたがたに近づいた           

ルカ福音書10: 8-12 主イエスの言葉――

8 「どこかの町に入り、迎え入れられたら、出される物を食べ、9 その町の病人をいやし、また、『神の国はあなたがたに近づいた』と言いなさい。10 しかし、町に入っても、迎え入れられなければ、広場に出てこう言いなさい。11 『足についたこの町の埃さえも払い落として、あなたがたに返す。しかし、神の国が近づいたことを知れ』と。12 言っておくが、かの日には、その町よりまだソドムの方が軽い罰で済む。」

主イエス・キリストの「平和」が宣べ伝えられました。主イエスを受け容れるか否かによって、二分されます。一方、「平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。他方、闇の中を歩み続ける人には、「しかし、神の国が近づいたことを知れ」と言われます。

神の国は近づいた」というメッセージは、宣教の初め(マルコ1:15)から終わりまで、一貫しています。たとえ、人がかたくなに耳を閉ざそうとも、神の真実を知らせるのです。「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)の中から、善い「働き手」が現れ出るかも知れません。

先に述べたとおり、「七十二人」の選出は、世界大の宣教をめざすものでありました。ユダヤ人と異邦人が相接(あいせっ)して住んでいる地域で、その(くわだ)てが始まりました。その点で、「七十二人」の宣教において、その中心メッセージが「神の国は近づいた」であるのは、神の御心に添っています。

闇の中を歩み続ける人にもなお、悔い改める機会(ルカ5:3210:13)が残されています。主イエスご自身が伝道されているうえに、「十二人」が、そして、「七十二人」が加えられました。「神の国は近づいた」――主イエスは、神の支配がもう地上にすべての人のために来ている、と語られました。

神の国は近づいた」ことを知らせた主イエス・キリストは十字架について死なれ、復活されました。罪人たちが主イエスを十字架にかけ処刑しましたが、「神の国」の接近は妨げられませんでした。むしろ、「神の国」は、死を超え、死にも打ち勝つものであることが明らかにされました。

平和の子」には、「神の国はあなたがたに近づいた」と言われます。「神の国」は自分の目で見えないと言って、失望することはありません。大切なのは、わたしたちを罪と死から救い出されたイエス・キリストを信じること、そして、主イエスの再臨を待望することです。

ヨハネ黙示録22:20――

アーメン、主イエスよ、来てください。

再び、主イエスが来られる時、主は、わたしたちに、収穫・刈り入れの完了の宣言してくださいます。わたしたちは、「収穫が多い」という神の恵みの豊かさに驚かされることでしょう。

わたしたちが再臨される神の御子に出会うということは、わたしたちの国籍が「神の国」にあることの現れです。地の産物の中から「初穂」を選んで神に献げる(レビ記2:14)のは、わたしたちが「神の国」に帰属しているという証しであります。「富は、天に()みなさい」(マタイ6:20)との(おきて)実行によって、わたしたちは天に国籍がある(フィリピ3:20)ことを確認しています。

そして最後の審判を経て、わたしたちは、地上の家ではなく、「神の国」において、「出される物を食べ、また飲む」(ルカ10:7)ことが許されます。讃美が絶えることなく、祝宴が続きます。そこには、主の(しもべ)・「働き手」から教えられて、主イエス・キリストの愛を信じるようになった人々が集っています。

 

ルカ福音書10:2――

そして、(イエスは)彼らに言われた。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」

収穫は多い ……終わりの時に、満ち満ちる神の恵みの豊かさ

働 き 手」 ……終わりの時までに、救われるべき自分の隣人

収穫の主  ……終わりの時に、再び来られる主イエス・キリスト

収穫の主に願いなさい」とは、「主イエス・キリストに祈る」ということです。今から終わりの時に向けて、「働き手」(わたしの隣人)が増し加えられるよう、神の右に座っておられる主イエス・キリストに執り成していただくのです(ローマ8:34)。このように考えると、「七十二人」の出発にあたり、主イエスが彼らに教えようとされたのは、最も重要な(おきて)であったと分かります。

ルカ福音書10:27――

心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。

主イエス・キリストが愛によって、神と隣人(やがて教会において兄弟姉妹となる人々)とに結ばれるよう、教えられました。「収穫の主に願いなさいとは、「愛しなさいという命令が実行できるように、主イエス・キリストにすべてを任せなさいということです

主イエス・キリストの愛を注がれ、死を超える永遠の命にあずかっている人、「七十二人」がつくり出されました。「愛しなさい」との(おきて)を受けて、彼らがこの世に遣わされました。あなたがたもまた、信仰者の群れの中に入られますようお祈りいたします。

 

Ω

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〈説教の要約〉

2021年 9月5日                           

旧約聖書 イザヤ書 41章6節~7節(P.1126

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章3節~8節P.291

      「一人一人が互いに部分なのです」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしはあなたがた一人一人に言う   ……ローマ12:3前半             

Ⅱ 過大評価から慎み深い評価へ         ……ローマ12:3後半             

Ⅲ 一つの体と多くの部分          ……ローマ12:4-5   

Ⅳ それぞれに異なった恵みの賜物       ……ローマ12:6-7 イザヤ書41:6-7

 結

 

ローマの信徒への手紙12章-15章、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、の第二回目です。前回(12:1-2)は序説として、自分の体を献げる真の礼拝が示され、この世に(なら)わず、自分が造り変えられるということが勧められました。

ローマの信徒への手紙12:3から:7へと至る中で、「勧め」はより具体的なものへと変わっていきます。パウロの説教を通して、キリストの体なる教会に属する「あなたがた」ならびに「(特定の)あなた」について捉え直します。それによって、「あなた」に授けられている「恵みの賜物」(カリスマ ローマ12:6)が明らかになり、それを用いる道が開かれます。聖霊の導きのもとに、教会の成長を祈り求めるパウロの言葉に耳を傾けましょう。

 

Ⅰ わたしはあなたがた一人一人に言う  

ローマの信徒への手紙12:3前半――

(わたしは)わたしに与えられた恵みによって、あなたがた一人一人に言います。

前置き(ローマ12:1-2)を語ったパウロは、本論に分け入っていきます。しかしその前に、深呼吸をして礼拝堂全体を見渡すかのように、「わたし」から「あなたがた(のうちにいる)一人一人」へ、メッセージを伝えていることを確認します。この導入は明らかに、章の冒頭の語りかけと連動しています。

ローマの信徒への手紙12:1―― 

(わたしは)こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

勧めます」(原意「慰めます」)に比べて、「言います」と普通の言い方をしているかのように(よそお)いながら、パウロはこれから出てくる(かぎ)()()り込んでいます。すなわち、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ローマ12:6)という中心聖句の提示への前備えをなしています。「与えられた」、「一人一人」、ということで、「恵みによって」自分に何が与えられているのか、期待が高まります。これによって、ローマの教会の多くの人々が、自分に贈られている「恵みの賜物」(カリスマ)を思い巡らしたことでしょう。

無償で神から贈られたものの話から、キリスト教倫理を説き起こすのは、さすがパウロであります。①「敵を愛せ」、②「人に善いことをせよ」、③「何も当てにせず貸してやれ」(ルカ6:35;②③についてはローマ12:8参照)という主イエスの命令の前に途方に暮れるのではなく、すでに与えられている神の憐れみ恵みが自分を取り巻いていることをわきまえ知るべきであります。自分の持っている「賜物」に専念すればよいのです。「一人一人」の霊的な力が共に働いて、そのうちの一人のあなたを支えています。

 

Ⅱ 過大評価から慎み深い評価へ                       

ローマの信徒への手紙12:3後半――

自分を過大に評価してはなりません。むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて(つつし)み深く評価すべきです。

数々の「勧め」(命令)の実践に取りかかる前に、まずは自己点検せよ、自分を整えよ、ということでしょうか。過大評価から慎み深い評価へ、パウロは信仰者を導こうとしています。

評価する」というと身構えるかも知れませんが、元は「思う」または「考える」という(やさ)しい意味です。慎み深く」というのは、健全にということです。ついでに、「過大に評価する」の原意についても説明しましょう。これは本来、「酔った状態で思う」という意味で、興奮し自慢げにしゃべり続けている様を表しています。あなたがたが「この世に(なら)」(ローマ12:2)、すなわち、この世のスタイルや型に過度に熱を入れるならば、自分を見失い舞い上がってしまうということです。

「自分について慎み深く思う」とは、キリスト教に限らない、普遍的な道徳・倫理と言えます。しかし、パウロが独得なのは、キリストの体(ローマ7:4、Ⅰコリント12:27なる教会という観点から論じている点にあります。すなわち、次節で「わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っている」(ローマ12:4)と展開しているように、自身の「慎み深さ」をもって他のメンバーに仕えているか(ヨハネ13:14)、が問われています。さらに言えば、神が恵みによって各自に「それぞれ異なった賜物」(ローマ12:6)を与えておられるということを信じているか、()んだ目で見ているか(マタイ6:22)、ということです。

パウロは信徒の間で、「(つつし)み深く評価する」ことが重んじられるよう、「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」との説明を加えています。

信仰」は一つであります。それは、十字架と復活によってわたしたちを救われた主イエス・キリストへの「信仰」です。信仰者は、この「信仰」を告白することで一致しています。その上で、「信仰の度合い」に関しては、「神が各自に分け与えてくださった」ところにおいて、多様性がある、とパウロは明言しています。

時には、自分の「賜物」の限界に踏みとどまり、他の兄弟姉妹の「賜物」が生かされるように、全体を(なが)めわたすことが大切です。仮に、「信仰の度合い」が「低い・弱い」としても、その「低さ・弱さ」こそが枝を伸ばして成長する教会の活力となるのです(Ⅱコリント12:10)。

 

Ⅲ 一つの体と多くの部分          

ローマの信徒への手紙12:4-5――

4 というのは、わたしたちの一つの体は多くの部分から成り立っていても、すべての部分が同じ働きをしていないように、5 わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて一つの体を形づくっており、各自は互いに部分なのです。

わたしたちも数は多いが、キリストに結ばれて……」との記述から、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)との主イエスの譬えを思い出された方もおられることでしょう。確かに、「一つの体」は「ぶどうの木」、また、「多くの部分」は「その枝」(原文:枝々 複数形)に当てはまります。

このように福音書とパウロ書簡を重ね合わせて読むならば、主イエスはあなたの「信仰の度合い」を高めてくださるに違いありません。参考までに、「ぶどうの木」の譬えでより強調されているのは、主イエスに「つながる」(とどまる ヨハネ15:4,5,6,7)こと、そして、神の栄光を「」の内に(うつ)し出すことなどです。

それでは、このパウロ書簡の要点は、どこにあるのでしょうか。今、自分の分を超えて思い上がってはならないということを、パウロは教えようとしています。「(つつし)み深く思う」ことを念頭に読んでみましょう。パウロはローマのキリスト者に向かって、あるべき教会像を描き出しました。

統一〉され、〈異なった賜物〉が与えられている教会――

①「一つの体を形づくっている。

②「各自は互いに部分なのです。

全体と部分と、ひと口に言いますが、実際には簡単に機能しません。パウロ自身、あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(Ⅰコリント1:12)と、コリント教会に苦言を(てい)したことがありました。教会の一致を顧みない、身勝手さにあきれ果てています。このような人々は、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)との主イエスの平明な教えに立ち帰らねばなりません。

パウロは、わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」(ローマ12:6)と語っています。ぶどうの木につながり、手入れされ清められ、実りを待っている枝(ヨハネ14:2,3)を想起すれば、より具体的になります。

与えられた恵み」というのは、「このキリストのお陰で、(わたしたちは)今の恵みに信仰によって導き入れられました」(ローマ5:2)との聖句を引くまでもなく、主イエス・キリストからの無償の贈りものです。ですから、「それぞれ異なった賜物を持っている」わたしたちは、与え(ぬし)である主イエス・キリストにつながっているのです。

自分が「異なった賜物を持っている」のは感謝すべきことであり、大きな喜びです。しかし、その「賜物」を土に()めて隠しておいてはなりません(マタイ25:18,25)。そのような人に対して、主イエス「ともし火をともして(ます)の下に置く者はいない。(しょく)(だい)の上に置く。そうすれば、家の中のものすべてを照らすのである。そのように、あなたがたの光を人々の前に輝かしなさい」(マタイ5:15-16)と勧めておられます。

大切なことは、主イエスにおいて〈統一〉され、〈異なった賜物〉が与えられている教会が「建てられている」ということです。教会はさまざまな「賜物」が組み合わされて、強固であり活動的なものとなります。わたしたちは、これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です」(ローマ12:1)という礼拝によって、主イエス・キリストによる救いの御業にあずかります。わたしたちは信仰告白・感謝・讃美をもって応答します。そうして、主イエスにより与えられた「それぞれ異なった賜物」を「(しょく)(だい)の上に置き、人々の前に輝かして」教会の成長と伝道のために活用するのです。

 

Ⅳ それぞれに異なった恵みの賜物       

ローマの信徒への手紙12:6-8――

6 わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っていますから、預言の賜物を受けていれば、信仰に応じて預言し、7 奉仕の賜物を受けていれば、奉仕に専念しなさい。また、教える人は教えに、8 勧める人は勧めに精を出しなさい。(ほどこ)しをする人は()しまず施し、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は快く行いなさい。

 具体的な話がここから始まります。パウロは巧みにプレゼン(提示)しています。小アジア・エフェソからイタリア半島を望み見て、ローマの教会の人々に語りかけています(おそらくエフェソでこの書簡は書かれました)。「わたしたちは……を持っています。そして……そして……そして……そして……」という明解な構成になっています。「これから持ちなさい」ではなく、「与えられた恵みによってすでに持っている」ということです。「そして」による連結は、賜物が補い合って働いている様子を表しています。 

預言、②奉仕、③教え、④勧め、⑤施し、⑥指導、⑦慈善以上、七つの「賜物」が紹介されています。

先の「神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて」(ローマ12:3)に続いて、「信仰に応じて」(原文:信仰の程度に応じて)という句が出ています。

あなたがた一人一人」の賜物は、教会を建てるために用いられるものです。例えば、「預言」の賜物を、周りを顧みることなく、全力で発揮すればよいというものではありません。語るのではなく、沈黙して祈る時もあります。「信仰に応じて」ではない形で、人間が共に働いている様子が旧約聖書に描かれています。

イザヤ書41:6-7―― 

6 彼らは助け合い、互いに励ましの声をかける。

7 職人は金工(きんこう)を励まし

大鎚(おおづち)を振るう者は()(づち)を使う者を励ます。

ひとりが据え付けて、良しと言うと

ひとりは(くぎ)を打って動かないようにする。

見事な仕事ぶりです。「彼ら」というのは、異国・島々の人々を指しています。驚くことに、彼らは神々の偶像を造っているところです。その光景がいくら魅力的であれ、それは神の裁きのもとにあります。「あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません」(ローマ12:2)との戒めは、この時のためのものです。

 

本日の中心聖句として、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」を挙げました。

パウロは、「わたしたちは……賜物を持っています」と、ローマの信徒に向けて告知しました。元来、ローマの教会に集う人々は、「与えられた恵みによって賜物」を持っていたわけではありません。なぜなら、ローマの人々に代表される人間、すなわち、「実を結ばない枝はみな」(ヨハネ15:2)、罪によって切り取られ死んだ状態になっていたからです。多くの枝々(多くの部分)が、自らの賜物を生かすことができませんでした。偶像製作の事例(イザヤ書41:6-7)のように、残っている力すら、神の御旨に反して使い果たされました。

そのような中で、父なる神は、神に(そむ)いている人間のもとに主イエス・キリストを遣わされました。御子によって、神の憐れみと恵みをあらわされたのです。

テトスへの手紙3:5――

神は、わたしたちが行った義の業によってではなく、御自分の憐れみによって、わたしたちを救ってくださいました。この救いは、聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して実現したのです。

〈すなわち、わたしたちは洗礼によって、一つの「」になったのであり、

また、洗礼によって、聖霊の「賜物」がわたしたちに与えられている。〉(K.ワルケンホースト)

おそらく、「心を新たにして自分を変えていただきなさい」(ローマ12:2)というのは、パウロが「新たに造りかえる洗い」、すなわち、洗礼を前提に述べたものでありましょう。そのような洗礼を受けたときに、「わたしたちは、与えられた恵みによって、それぞれ異なった賜物を持っています」と告白しうる信仰者が誕生したのです。

それによって、キリストの体なる教会に入れられ、キリストに結ばれて、「それぞれ異なった賜物」を用いる道が開かれました。聖霊が注がれ、「あなたがた(のうちにいる)一人一人」を通して、各自の賜物が(あい)働きます。再臨の主イエス・キリストにお会いするまで、新しい力に支えられて、教会は成長を続けます。

Ω 

上より 神の恵みによって、それぞれ異なった賜物(くだ)って来る

 

聖霊によって新しく生まれさせ、新たに造りかえる洗いを通して……

 

ひたすら(つつし)み深く生きる

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 8月29日                              

旧約聖書 出エジプト記 3章4節~6節(P.96

新約聖書 ローマの信徒への手紙 12章1節~2節P.291

        「自分を造り変えていただく」

                       小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神の憐れみによって勧めます            ……ローマ12:1             

Ⅱ 自分の体をいけにえとして献げなさい     ……ローマ12:1

Ⅲ これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です  ……ローマ12:1 出エジプト記3:1-6  

Ⅳ 自分を変えていただきなさい        ……ローマ12:2           

Ⅴ 何が神の御心であるか、わきまえるように  ……ローマ12:2  

 

ローマの信徒への手紙12章-15章には、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、ということが書かれています。救いにあずかった者の生き方は当然、変わってきます。なぜなら、神への奉仕、礼拝の恵みが、信仰者の生活全体にゆき渡るからです。

神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)によって、その生活は神の訓練のもとに置かれ、(ゆる)むことがありません。また、讃美すること(ローマ11:33-36)によって、哀しみが乗り越えられ、喜びが湧き上がってきます。章を改め、そのようなかたちで救われた者に対して、パウロは助言を送ります。

ローマの信徒への手紙12章冒頭の二節は、次のように五つ(Ⅰ~Ⅴ)に分けられます。

ローマの信徒への手紙12:1-2―― 

1 こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。2 あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき(なさい)何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

順を追って、読んでいきましょう。

 

Ⅰ 神の憐れみによって勧めます                       

ローマの信徒への手紙12:1―― 

こういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。

「わたし・パウロは勧めます」という言葉から始まっています。ここで、現代の生活を顧みると、わたしたちは「お勧め」に最大の注意を払っています。簡単に「お勧め」に乗るものかと警戒しています。

日常、多種多様な「お勧め」を十分吟味したうえで、ようやく「お勧めされる」に至るということがあります。けれども、わたしたちは「お勧め」を、簡単には受け入れません。「お勧めされる」のではなく、自らが「探し出し選ぶ」、または、自分で新しいものを「造り出す」ことの方が好ましいと考える人も少なからずいるようです。

しかし、ここでローマの教会の信徒は、パウロから「お勧めされて」います。このパウロを「勧め」を喜んで受けるべきでしょうか。少しでも疑念を()(はさ)んだ方がよいのでしょうか。

このことを解明する鍵は、パウロが「神の憐れみによってあなたがたに」と語っていることにあります。すなわち、「わたしはあなたがたに勧めます」ということの土台は、パウロ先生の(たい)()(ばん)にではなく、「神の憐れみ」にあるのです。

これに関して以前、ローマの信徒への手紙11:25-32の説教要約で、以下のように述べました。

〈「憐れみを受けた / 憐れみを受ける」(ローマ11:30,31

……受動態であるので、「主イエス・キリストによって」が想定される。

イザヤ書59:20で預言されていた「救う方」は、主イエス・キリストです。なぜなら、罪人を無償の愛で助け出し、復活の信仰にあずからせたお方こそ、主イエス・キリストだからです。わたしたちに求められているのは、主の尊い憐れみを、感謝をもって、ただ「受ける」ことであります

それは、すべての人を憐れむためだったのです」――これが、ローマの信徒への手紙9章-11章の一連の議論の頂点です。「どうしたらユダヤ人・イスラエル人が救われるか」という難題への回答は、神からの「憐れみを受ける」ことです

神と出会えば、「すべての人」が「憐れみを受ける」と、パウロは確信しています。神の憐れみが憐れみとしてあらわされるように、キリスト者の信仰生活がととのえられること(ローマ12章-15章)を、そして、自分自身の実践としてローマに旅立つことを、今パウロは祈っています。〉

すなわち、信仰者は全心全霊に神の「憐れみを受けて」います。神に感謝し喜んでいます。そのことを土台として、「こういうわけでわたしは神の憐れみによってあなたがたに勧めます」というのです。

仮に人間パウロの「太鼓判」による文書ならば、その内容を精査する必要があるかも知れません。しかし、神の「憐れみを受けた」人へ、信仰生活がととのえられるよう、「神の憐れみによって」勧めが与えられるのですから、警戒することはありません。

少し長く説明しましたが、この基本スタンス(姿勢)をもって、ローマの信徒への手紙12章-15章を読み通すことが大切です。「勧め」が多すぎると愚痴をこぼさないことです。とにもかくにも、わたしたちの礼拝を中心とする生活が確立されるためなのです。

パウロが語っているにもかかわらず、「神の憐れみによって」に基軸が置かれていることは、「勧める」の原意からも分かります。すなわち、「勧める」とは、「(かたわ)らに招く」、すなわち、慰める」(マタイ5:4)というのが元々の意味です。わたしたちが「勧め」を聞き入れ実行できるように、主イエスが寄り添っておられます。主イエスはあらゆる苦難に際して、わたしたちを「慰めて」くださいます(Ⅱコリント1:4)。

勧める」パウロと「勧められる」ローマの信徒とは、互いに励まし合い祈っています。一人ひとりが一つになって、神から示される「勧め」を聞いて行うときに、信仰は生活の中で大きな実を結びます。そこには、「神の憐れみ」による永遠の支えがあります。その時々、適確な「勧め」によって、わたしたちの生活は(きよ)められ続けます。

スムーズな導入によって、第一の「勧め」が切り出されます。

 

Ⅱ 自分の体をいけにえとして献げなさい    

ローマの信徒への手紙12:1―― 

自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい。

いけにえ(犠牲)として」との句によって、わたちたちの内に衝撃が走るかも知れません。聖霊の導きを求めながら、冷静に読んでみましょう。

肝心(かんじん)なのはいつも先行する神の恵みを思い起こすことです。

父なる神は、御子イエス・キリストを、私たちの罪のための(あがな)いのいけにえとされました(Ⅰヨハネ2:24:10)。イエス・キリストは動物(過越の小羊)の犠牲のように、ほふられました。動物の犠牲が殺されたと同様に、イエス・キリストも死を全うされました。それによって流されたキリストの血はいつまでも、わたしたちの罪を取り除き、わたしたちを潔める力を持っています。

信仰者にとっては、「いけにえはだた一つ、主イエス・キリストの十字架の犠牲のみであります(ヘブライ7:27)。従って、「自分の体をいけにえとして献げなさい」というのは、わたしたちの罪を償ってくださった十字架の主、イエス・キリストへの感謝と証しとして献げよ、ということになります。このように、キリスト者の生活は、まことの「いけにえ」なるイエス・キリストを信じ、愛することから始まります。

神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして」ということも、高い理想を(かか)げる決意努力を求めるものではありません。主の十字架によって罪赦されたという神の恵みにあずかった、そのままの「自分の体」で御前に進み出よ、ということです。「生ける」ということも、「いけにえとして」死んでよみがえられたイエス・キリストの命の力によって保証されています。あなたが「生き生き、活発になる」ように努めるのではありません。

そこで、パウロは段取りよく、「自分の体をいけにえとして献げる」という場所(トポス)を示します。そのところでこそ、わたしたちが、キリストに(なら)って、神に喜ばれる聖なる生けるいけにえ」となるということが起こります。

 

Ⅲ これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です   

ローマの信徒への手紙12:1―― 

これこそ、あなたがたのなすべき礼拝です。

これは、「勧め」ではなく、パウロの口を通しての神の「宣言」です。神は、信仰者に「なすべき」ことを教えられました。それが、「礼拝」、神への奉仕であります。礼拝に招かれた者は、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げる」ように、聖霊の導きを祈ります。

なすべき礼拝」は、「()にかなった礼拝」と言い換えられます。「いけにえ」を献げようとして……献身(けんしん)するぞと意気込み……熱狂するのは間違いです。イエス・キリストを通して、告白・感謝・賛美という霊的な「いけにえ」を献げるのが、神に喜ばれる「礼拝」です(ヘブライ13:15-16)。

ここで旧約聖書から、モーセが神によって礼拝の場所(トポス)に招き入れられた様子を見てみましょう。

当時、モーセはまことの神礼拝をしたことのない、「口の重い人」(出エジプト記4:10)でありました。神はそのような人物に親しく(のぞ)まれ、「神の顕現(けんげん)ならびに神とモーセとの会話」という出来事を起こされました。

出エジプト記3:1-6――

1 モーセは、しゅうとでありミディアンの祭司であるエトロの羊の群れを飼っていたが、あるとき、その群れを荒れ野の奥へ追って行き、神の山ホレブに来た。2 そのとき、(しば)の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた。彼が見ると、見よ、柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない。3 モーセは言った。「道をそれて、この不思議な光景を見届けよう。どうしてあの柴は燃え尽きないのだろう。」

4 主は、モーセが道をそれて見に来るのを御覧になった。神は(しば)の間から声をかけられ、「モーセよ、モーセよ」と言われた。彼が、「はい」と答えると、5 神が言われた。「ここに近づいてはならない。足から履物(はきもの)を脱ぎなさい。あなたの立っている場所は聖なる土地だから。」 6 神は続けて言われた。「わたしはあなたの父の神である。アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である。」モーセは、神を見ることを恐れて顔を(おお)った。

主なる神が、遊牧という日常生活から聖なる時空間へとモーセをそれさせました。そして、神はモーセを神の山ホレブ(=シナイ山)へ招いて、燃え尽きない(しば)を見せました。「柴の間に燃え上がっている炎の中に主の御使いが現れた」と記されているように、炎は天より(くだ)った神の力でした。つまり、そこに神が臨在しておられたということです。

主なる神は、モーセを道からそれさせて、彼が足から履物を脱がなければならない、聖なる土地に立たせました。その場所(トポス)で起こったのは、まさに神礼拝であり、その中心は神の言葉の伝達でした。

アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」との神の自己紹介において、神はイスラエルの民の父祖から現世代に至る家族の歴史に関わるお方であることを宣言されました。そして、地に(くだ)られた神は、神の民の苦悩に目を留められました。ミディアンの荒れ野にいてエジプトから遠ざかっていたモーセに、民がエジプトでこうむっている「苦しみ」・「痛み」・「圧迫」(出エジプト記3:7,9)を知らせました。神の御業は、人々を苦しみから救うことに力点が置かれていると分かります。

神は道からそれてしまっている人、あるいは、道に迷っている人を、礼拝に導き戻されます。そして神は、()した人に使命を与え、それに忍耐をもって仕えることができるよう慰めてくださいます。パウロは、信仰者がこの世で苦しみ」を共に分かち合い、前進して行けるよう、さらなる「勧め」を書き記しています。

 

Ⅳ 自分を変えていただきなさい                    

ローマの信徒への手紙12:2―― 

あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません。むしろ、心を新たにして自分を変えていただき(なさい)。

これは、セットの「勧め」です。すなわち、二つそろって、一組で扱われるものです。①と②の「勧め」が組み合わされることによって、その実効性が飛躍的に高まります。

一対の「勧め」として見逃せないのは、一方、能動態で「(なら)うな」、他方、受動態で「変えられよ」となっていることです。一方、「神の憐れみによって」、あなたがたは()(なら)わないよう()()らねばなりません。他方、心の一新によって、あなたがたは変えられるよう身をゆだねます。ひと言でいえば、堅い信仰にとどまりつつ聖霊の働きによって、日々新にされるということです(Ⅱコリント3:184:16)。

この世に(なら)ってはなりません」とは、「この世の型・スタイルにはめられるな(染められるな)」という意味です。大勢の人々が、流行している「この世の型・スタイル」を追い求めています。その中には、自分の暮らしや趣向に潤いを与えるものもあることでしょう。ただその「型・スタイル」が魅力的であればあるほど、わたしたちが「勧め」に基づく生活から引き離される危険があります。その危険から(まぬか)れる、最も善い生活指針が、「心を新たにして自分を変えていただきなさい」ということです。

キリスト者のライフ・スタイルの基本は、「たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます」(Ⅱコリント4:16)ということにあります。新しさという点では、最先端を走っています。そこでは、将来を見通す、「預言の賜物」(ローマ12:6)が生かされます。ただ同時に、キリスト者が旧約聖書の、神の導きのもとにあるユダヤ人と異邦人の歴史を想起することで、古さと新しさのバランスがとられていると言えます。

注意すべきは、わたしたちは闇雲(やみくも)に、造り変えられているわけではないということですいたずらに新奇さを求めているのではありません。意味もなく、「この世の型・スタイル」を()(くだ)したり退(しりぞ)けたりしているのでありません。

わたしたちは終わりの時を目指して生きています。再臨のイエス・キリストにお会いするときに備えて、それにふさわしい自分の姿と生活を造り出そうとしているのです。その霊的な備えすらも、「神の憐れみによって」、わたしたちが「自分を造り変えていただく」ことを通して為されるのであります。

 

Ⅴ 何が神の御心であるか、わきまえるように   

ローマの信徒への手紙12:2―― 

何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるかをわきまえるようになりなさい。

何が神に喜ばれることであるか」については、前節の勧め、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」に、すでに回答があります。

イエス・キリストを通して、告白・感謝・賛美という霊的な「いけにえ」を献げる神礼拝が、わたしたちの生活の中心であると「わきまえる」ことです。

心を新たにして」(ローマ12:2)いなければ、「この世」の考え方や慣わしは当然であり、それに従わなければ、と思い込むような弱さがわたしたちにはあります。

主の御使いが現れ」、ポンと自分の肩が(たた)かれるように、目覚めねばなりません。はっとしなければなりません。そのような意味で、「わきまえるようになりなさい」と勧められているのでしょう。頭で理解するのではありません。「何が神の御心であるか、何が善いことで、神に喜ばれ、また完全なことであるか」、を思い巡らすのであります。

①「敵を愛せ」、②「人に善いことをせよ」、③「何も当てにせず貸してやれ」(ルカ6:35)――これらの命令が、「神の御心である」ことを、「わきまえるようになりなさい」。

わたしたちが、わきまえ知る――真の知識に達することも、「主の霊の働きによる」のであります(Ⅱコリント3:18、コロサイ3:10)。

Ω

 

 

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〈説教の要約〉

2021年 8月22日  オープンチャーチfor high school     

旧約聖書 詩編112編 5節(P.953

新約聖書 ルカによる福音書 6章32節~36節P.113

    「返してもらうことを考えずに貸しなさい」

                        小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 罪人でも同じことをしている      ……ルカ6:32-34           

Ⅱ 返してもらうことを考えずに貸しなさい ……ルカ6:35

Ⅲ あなたがたの父が憐れみ深いように      ……ルカ6:36

 

本日は、山の(ふもと)で(ルカ6:17)、主イエスが弟子たちに語られた話に耳を傾けることにしましょう。湖畔の広場に、大勢の人が主イエスを囲んで座っています。

主イエスは「目を上げながら」(ルカ6:20)、大空のように広い、天の父なる神の御心について教えてくださいました。わたしたちがこの世で生きていくとき、まことの希望を抱き、高みを見上げ、そこへ目指していくことが大切です。若い皆さんが、「こころは低く 目あては高く」(讃美歌Ⅱ編-59番)との思いをもって、人生を切り(ひら)いてゆくように願っています。

 

Ⅰ 罪人でも同じことをしている               

 ルカ福音書6:32-34 主イエスの言葉――

32 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか。罪人でも、愛してくれる人を愛している。33 また、自分によくしてくれる人に善いことをしたところで、どんな恵みがあろうか。罪人でも同じことをしている。34 返してもらうことを当てにして貸したところで、どんな恵みがあろうか。罪人さえ、同じものを返してもらおうとして、罪人に貸すのである。」

ここで、主イエスは、「罪人でも……している」という言い回しを3回繰り返されています。他にも、「(ちょう)(ぜい)(にん)でも……しているではないか」、「異邦人でさえ……しているではないか」(並行記事 マタイ5:46,47)と言われています。

世間一般の人も「同じことをしている」と、弟子たちに問いかけています。当然浮かんで来る疑問は、世間一般が行っているのと、「同じことをしている」ことの、どこに問題があるのか、ということでしょう。

同じことをしている」事例として、「自分を愛してくれる人を愛する」、「自分によくしてくれる人に善いことをする」、そして「返してもらうことを当てにして貸す」ということが挙げられています。

少し難しい言い方ですが、これらは、「()(けい)の原則」に基づく行為に当たります「互恵」とは、互いに特別の便(べん)()や利益を与え合うという意味です。‘ give and take ’(公平なやりとり)も、これに類似しています。殊に当時のギリシア世界では、このような考え方が流布(るふ)していたと言われます。

このような考え方に基づいて、「愛する」、「善行をする」、そして「貸す」ということが活発になれば、世の中が明るくなるような気がします。

ところで、「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな恵みがあろうか」との文句に示唆されているように、主イエスは ‘ give and take ’ (すい)(しょう)しているように思われません。確かに、相手から自分への愛と、自分から相手への愛とを、天秤にかけてつり合わせるというのは、至難の業です。しかし、主イエスは、愛や善行の大きさが「(はか)れない」ので……つまり、公平さが(たん)()されないので……、「愛する」ことや「善行をする」ことを止めてよい、と言ってはおられません。

主イエスの真意を理解する鍵は、あなたがたにどんな恵みカリスがあろうか」(ルカ6:32,33,34)との()めの句にあります。これは単純な疑問ではなく、「いや……ない」という反語表現と見られます。従って、「いやあなたがたに恵みはありません」となります。たとえこの世的に、「()(けい)の原則」が優れており評価されるものであったとしても、それに対し、主イエスは「いやあなたがたに恵みはありません」と宣告されます。

わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みカリスの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)という言葉を引くまでもなく、「恵みはありません」は、信仰者にとって厳しい言い方です。これ以上にないほどの叱責(しっせき)です。愛する」、「善行をする」、そして「貸す」ことについて、主イエスからお(しか)りを受けるのは、いたたまれないことです。それでは、わたしたちはどうすればよいのでしょうか?

ここで、観点を変えてみると、「罪人でも」、「(ちょう)(ぜい)(にん)でも」、「異邦人でさえ」(ルカ6:32、マタイ5:46,47)と列挙された人々は皆、主イエスが伝道の対象とされた「弱く貧しい」人々です(マタイ15:21-28、ルカ5:29,32、ヨハネ4:1-42)。従って、弟子たちが、「罪人」・「徴税人」・「異邦人」を相手として、「愛する」、「善行をする」、そして「貸す」等の行為をするのを、主イエスは喜ばれるに違いありません。

そうであれば、わたしたちは、世間一般の原則ではなく、神の恵み・憐れみ深さに基づいて、「弱く貧しい」人々と交わり、伝道しなければなりません。主イエスご自身、彼らの苦しみを(にな)う「隣り人」として歩まれました。神の恵みの豊かさによって主イエスはわたしたちが、「罪人」・「徴税人」・「異邦人」を自分の「隣り人」とするために、新しい命令を出されます。彼らを助け出すようにと、わたしたちを派遣されます。

 

Ⅱ 返してもらうことを考えずに貸しなさい 

 ルカ福音書6:35 主イエスの言葉――

「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」

先述の「愛する」、「善行をする」、そして「貸す」ことを受けて、三つの命令が並んでいます。

①「敵を愛せ」 ②「人に善いことをせよ」 ③「何も当てにせず貸してやれ

敵を」、「(出会うすべての)人に」、そして「何も当てにせず」というのは、(じん)(じょう)でありません。わたしたちの常識を、「()(けい)の原則」をはるかに超えています。

言うまでもなく、①「敵を愛せ」という命令を実行するのは、容易ではありません。一方、自分の側には、相手への警戒心や恐れがあります。他方、敵の側には、相手への支配欲や無視(冷淡さ)があります。

②「人に善いことをせよ」には、誰への善行なのか、取りたてて限定されていません。つまり、あなたが出会うすべての人に「善いことをせよ」ということです。主イエスは、それを実践するようにと、「善いサマリア人の譬え」を話されました。旅をしていたあるサマリア人の、道で倒れていた人に対する憐れみ深い行為と言葉(ルカ10:33-35)を学べ、ということです。

③「何も当てにせず貸してやれ」は、一瞬、金持ち限定への命令か(参照:ルカ18:23)、と遠ざけそうになります。自分の(ふところ)勘定に走ってしまいます。財布の(ひも)が堅い自分が、そこにいることに気づかされます。

どうすれば、わたしたちは、三つの命令が実行できるのでしょうか? 「罪人でも(ちょう)(ぜい)(にん)でも異邦人でさえ……しているではないか」という一線を突破できるのでしょう。それとも、無理なことは()めて、()(けい)の原則」世界に安住することにしましょうか。

主イエスは、わたしたちの疑問に答えておられます。

そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。

わたしたちに求められているのは、「そうすれば」(原文 kai. / and)を、神の約束として受け容れることです。 and (そして・そうすればの一句であれ、主イエスの言葉の重さを信じることです。

上の文は正確に訳すと、「そうすれば、たくさんの報いがあなたがたにあるであろう。そうすれば、あなたがたはいと高き方の子となるであろう」となります。(まぎ)れもなく、これは将来への約束です。あなたは、 and (そして・そうすれば(とびら)によって開かれる将来を待ち望む人になりますか。

いと高き方の子とされる(やさ)しく言えば、神の子どもとされる喜びと感謝が、先の三つの命令を実行する原動力となります。「罪人」・「徴税人」・「異邦人」のように、つき合うことが面倒な人々と、わたしたちが関わっていくように、「情け深さと寛容と忍耐」(ローマ2:4)が備えられます。彼らは神の救いを必要としている人々です。

 

Ⅲ あなたがたの父が憐れみ深いように    

ルカ福音書6:36 主イエスの言葉―― 

「あなたがたの父が憐れみ深いように、あなたがたも憐れみ深い者となりなさい。」

ここに、わたしたちが、「罪人でも(ちょう)(ぜい)(にん)でも異邦人でさえ……しているではないか」という一線を突破できる根拠が示されています。これは、命令というよりも、神の祝福です。

なぜなら、「あなたがたの父が憐れみ深い」という父なる神が、わたしたちを祝福している言葉だからです。父なる神の「憐れみ深さ」を、主イエス・キリストが山の(ふもと)、湖畔で語っておられます。「わたしの言葉を(さと)るかどうかではない。神の豊かな祝福を受けよ」と語りかけておられます。

あなたがたも憐れみ深い者となりなさい」ということは、天におられる御父に目を向け、今共にいてくださる御子の勧めに耳を傾けるとき、すでに始まっています。その時、主イエスの()もとにいたペトロが次のように証ししています。

ペトロの手紙 1:3-4――

3 神は豊かな憐れみにより、わたしたちを新たに生まれさせ、死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与え、4 また、あなたがたのために天に(たくわ)えられている、()ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。

神が、「わたしたちを新たに生まれさせた」ことによって、弱く貧しかった者が「憐れみ深い者となる」のです。

わたしたちが新たにされることによって、今日出会う人に「善いことをする」ことができます。「そうすれば、たくさんの報いがあなたがたにあるであろう」(ルカ6:35)との約束を信じるならば、「何も当てにしないで貸す」ことへの(ちゅう)(ちょ)も消え去ります

(いにしえ)の詩人が、神を模範とすることを、主題としてを作っています。🎵父が憐れみ深いように、あなたがたも……」🎵

詩編111:5-6 アルファベットによる詩――

5 (主は)主を畏れる人に(かて)を与え

契約をとこしえに御心に留め

6 御業の力を御自分の民に示し

諸国の嗣業を御自分の民にお与えになる

これを元に次の詩が生まれました。「返してもらうことを考えずに貸す」神の()(あと)に、人が従います。

詩編112:5 アルファベットによる詩―― 

憐れみ深く、貸し与える人は良い人。

裁きのとき、彼の言葉は支えられる。

主に従いゆく力が讃美の中から湧き上がって来ます。神に(なら)うことによって、情け深さと寛容と忍耐」(ローマ2:4)を備える「良い人」に変えられます。

Ω

 

 

〈用語集〉

 

()(けい)の原則」

「互恵」とは、互いに特別の便(べん)()や利益を与え合うという意味である。⇒具体例:ルカ6:32

 

‘ give and take ’ 〘英語〙

「対等・五分五分のやりとり」

 

‘ forgive ’ 〘英語〙

「許す。赦す。容赦する。帳消しにする。免除する」

 

原意:「完全に」(for)+「与える」(give

月報8月号

 

 

説教 ほかの九人はどこに行ったのか

     ルカによる福音書 17章11節~19節         小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ (やまい)がいやされる        ……ルカ17:11-14             

Ⅱ 神を賛美する                 ……ルカ17:15 

Ⅲ ひれ伏して感謝する            ……ルカ17:16-18   

Ⅳ あなたの信仰があなたを救った  ……ルカ17:19        

結 び

 

ルカ福音書では、大きな枠組みとして、主イエスのエルサレムへの旅(9章-19章)が詳しく描き出されています。その中には、町や村を(めぐ)り行かれる主イエスの、さまざまなエピソードが織り込まれています。主イエスの旅の全行程をたどると、以下のようになります。

地上における旅は、ベツレヘムでの誕生・エジプトへの避難から始まり、ガリラヤ(ルカ4章-9章)からサマリアを経てエルサレムに至ります。そこで、十字架(23章)と復活(24章)の御業が成し遂げられます。

地上における旅は、主イエスの昇天(24章)を結び目として、天へと至ります。最終の目標が明示されていることにより、旅人に前進する力と希望を与えます。十字架の丘での死から、神の国での永遠の命へ、という神の恵みの旅路は、信仰者の人生の基盤となります。主イエスは地から天へと至る旅の先駆者であると共に、今その旅をしているわたしたちの同伴(どうはん)者(ルカ1:28)であります。

主イエスのエルサレムへの旅(9章-19章)で、わたしたちが見て知るべきことは、「人がいやされる⇒人が救われる」ということです。いやしは、奇跡的な出来事を伴いますから、自ずから関心が寄せられることでしょう。しかし大切なのは、「人がいやされる⇒人が救われる」と展開する出来事全体を一つのものとして受け容れることです(殊にいやしの奇跡だけを強調し過ぎないこと)。ひと言でいえば、主イエスによって「人がいやされ救われた」ことを信じることです。 

エルサレムへの旅の中で、幾度か繰り返されている、「人がいやされ救われた」という物語の一つとして、ルカ福音書17:11-19を読むことにしましょう(類例:ルカ9:37-4313:10-1718:35-43)。くれぐれも、「わたしは救われた」と告白しない、「ほかの九人」になりませぬように! パウロが教えてくれた信仰のツボ、「憐れみを受ける」(ローマ11:30,31)に(てっ)すれば、厳しい?〈1(わく)〉に入れます。

 

Ⅰ (やまい)がいやされる                    

ルカ福音書17:11-14――

11 イエスはエルサレムへ上る途中、サマリアとガリラヤの間を通られた。12 ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、13 声を張り上げて、「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と言った。14 イエスは重い皮膚病を患っている人たちを見て、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」と言われた。彼らは、そこへ行く途中で清くされた。

まず、「人がいやされる⇒人が救われる」の内の前半、いやしの出来事を見てみましょう。

地理的に曖昧なのですが、「サマリアとガリラヤの間を(境を)」には、主イエスの伝道のあり方が集約されています。主イエスは、ガリラヤ湖畔で、ユダヤ人中心に伝道されました。その後、主イエスは、「サマリアとガリラヤの間を(境を)」を歩まれました。ここで、主イエスの愛や寛大さが示されます。

その境界線上の地域には、ユダヤ人とサマリア人が相接して暮らしています。その両者は、結婚はじめ交流を避けています。親戚同士のような民族がいがみ合っているのです。主イエスの一行がそのような土地を通るのは、危険です。ユダヤ人とサマリア人との争いや憎しみが、旅人に飛び火しかねないからです。

しかし、主イエスはあえて選んだかのように、「サマリアとガリラヤの間を」、まっすぐに進んで行かれました。するとそこで、ユダヤ人とサマリア人との違いを印象づけるような出来事が起こりました。主イエスご自身は、ユダヤ人にもサマリア人にも等しく、憐れみを(ほどこ)されたのですが……。

ある村に入ると、重い皮膚病を患っている十人の人が出迎え、遠くの方に立ち止まったまま、声を張り上げて」と、旅行く主イエスを足止めするかのように、叫び声があげられます。

後の話の展開から知られるように、この「十人の人」には、ユダヤ人とサマリア人とが含まれていました。「重い皮膚病を患っている」人たちが結束して、いやしを懇願(こんがん)しています。その(やまい)のゆえに(レビ記13:45-46)、彼らは主イエスに近づけません。

どうか、わたしたちを憐れんでください」との求めは、祈りです(類例:マタイ20:30、マルコ10:47)。それは、「(なお)してください」という言い方と比べれば分かります。「憐れんでください」は、治癒(ちゆ)者一般にではなく、「イエスさま、先生」に向けられています。自分には力も金もないことを、主イエスに告白しています。「何もお返しできません。ただただあなたさまからの憐れみを期待しています」ということです。

主イエスは病者をご覧になり、「祭司たちのところに行って、体を見せなさい」との命令を(くだ)しました。「十人の人」共に、この命令に従いました。彼らは「途中で清くされた」ので、祭司のもとで「清めの儀式」(レビ記14:4)を受けることになります。そうして、「いやされた」ことが認定されるのです。

ということで、「人がいやされる⇒人が救われる」の内の前半、いやしの出来事が終わりました。それによって、主イエスは人々の前に、神の力をあらわされました。後半の「人が救われる」では、その出来事に対する反応が描き出されます。

どのように神の力を受け止めるかという点で、わたしたちは主イエスの導きにあずからねばなりません。そこで、「憐れみを受けた」、(さいわ)いな人を三つの点から(なが)めることにしましょう。「いやされ救われた」人とは、一体どのような人なのでしょうか。

 

Ⅱ 神を賛美する                  

ルカ福音書17:15――

その中の一人は、自分がいやされたのを知って、大声で神を賛美しながら戻って来た。

その中の一人」というのは、サマリア人でありました(ルカ17:16)。この人が、祭司のところで「清めの儀式」を受けたかどうかは()(もん)に付されています。彼が、祭司をも兼ねる(ヘブライ2:17)、イエスのもとに「戻って来た」ことが重要です。常に主イエスに、自分の人生の旅の同伴者になっていただくのであります。わたしたちが七日の旅路を終えた後、主イエスのもとに「戻って来た」ことを身をもって経験するのが、主日の礼拝です。

いやされたのを知って、大声で神を賛美しながら」との文句の通り、いやしが賛美につながっています。無償で神の恵みを受けた者が、主イエスの御前で賛美しています。

それが信仰者にふさわしい賛美になっているかどうかは、どれほど自分がへりくだっているかに掛かっています(ルカ1:47-48)。すなわち、あなたが正しくあっても」(たとえあなたが正しかろうとも ヨブ記35:7)、あなたの罪と(あやま)ちを見つめることです。

罪と(あやま)ちに取り囲まれている人の口からも、その嘆きの底からも、賛美は湧き上がって来ます。なぜなら、その人は自分が罪と死の(がけ)っぷちから「救われた」ことを知っているからです。それは、罪人を救い出すために、十字架と復活の御業を成し遂げられた主イエス・キリストをほめたたえるという賛美の基本そのものです。

 

Ⅲ ひれ伏して感謝する             

ルカ福音書17:16-18――

16 そして、イエスの足もとにひれ伏して感謝した。この人はサマリア人だった。17 そこで、イエスは言われた。「清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。

18 この外国人のほかに、神を賛美するために戻って来た者はいないのか。」

イエスの足もとにひれ伏して」というのは、まさに礼拝の姿勢です。ここでは、先の「賛美しながら」の上に、「感謝した」が加えられています。正確には、「神を賛美する」中に、感謝が満ちあふれていたということでありましょう。

この「感謝」は、憐れみを受け」、救われたことに対してささげられたものです。とりわけ、このサマリア人は「イエスさま、先生、どうか、わたしたちを憐れんでください」と声を張り上げていたのですから、その感謝も一入(ひとしお)だったことでしょう。

より広い視野から、「感謝」を捉え直してみましょう。

サマリア人の事例に即せば、(ちょっ)(きん)の「いやされた」ことばかりでなく、すべてが神への感謝の対象となります。場合によっては、(やまい)になったことすらも、「感謝」になり得ます。なぜなら、「感謝」すればするほど、神は幸いなる時も災いなる時も、自分が「憐れみを受け」続けていたということを知るからです。

そうは言っても、この世は苦しみや悲しみばかりで、「感謝」どころではない、との声が聞こえてきそうです。では、「感謝した」人はもはや、苦しむことも悲しむこともないのでしょうか。「感謝した」というのは、つかの()の事なのでしょうか。

主イエスを信じる者は、なぜ、「感謝する」のかと言えば、それは、自分が生まれ変わったから、であります。人生が変えられたから、です。自分の人生から苦難や試練が無くなったと確信したからではありません。確かなことはその人には、苦難を受け止める(にん)(じゅう)、あるいは、試練から逃げ去る知恵が備わっているということです。

人の人生を大きく転換する力は、主イエス・キリストの救いのみにあります。主によって「救われた」者は、新しい道を歩み始めます。サマリア人の事例で言えば、主イエスのもとに「戻って来た」というのが、それに当たります。常に主イエスに立ち帰ることが、彼の人生を築き上げてゆきます。

ここまで、物語の流れに即して、「人がいやされる⇒人が救われる」という出来事の全体像を捉えました。なぜ、いやしと救いの両面から、神の御業を捉えるかと言えば、それが自ずから、主イエス・キリストを信じることに通じているからです。結びとなる節を読みましょう。

 

Ⅳ あなたの信仰があなたを救った       

ルカ福音書17:19――

それから、イエスはその人に言われた。「立ち上がって、行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」

いやされ救われたサマリア人に、主イエスの足もとから、「立ち上がって、行く」ことが求められています。この言葉には、罪と死の(がけ)っぷちから「立ち上がって」(起き上がって / よみがえらされて)というように、主イエス・キリストの十字架と復活が暗示されています。

人はたとえ病気がいやされたとしても、必ずしも魂と体が健やかになるわけではないことを、わたしたちは知っています。次なる病気のことを案ずるなら、人の魂も体も(ただ)ちに不調をきたします。それが、人間の本性と言えましょう。

そのような中にあって、平安を(きょう)(じゅ)し、全身全霊に健やかさを保っているのは、「いやされ救われた」人に違いありません。一人のサマリア人がその実例です。その人は、弱くとも常に賛美し、貧しくとも常に感謝しています。これから、その人は「あなたの信仰があなたを救った」との主イエスの宣言を(もとい)として生きていくことでしょう。今日から、「わたしは主イエス・キリストを信じます」と告白し、自分が「いやされ救われた」ことを(あか)しする生活が始まります。

主イエスは一人を信仰に導くことを重んじられました。エルサレムへ上る途中、弟子たちにそのことを教えられました。「サマリアとガリラヤの間」での伝道は、「1勝9敗」でした。それで、主イエスがくじけることはありませんでした。というのも、主イエスは「ほかの九人はどこにいるのか」との言葉を残し、またほかの所で、人をいやし救う御業を行われているからです。実際、エリコで一人の盲人をいやし救われました(ルカ18:35-43)。

十字架と復活の主イエス・キリストに従う人には、苦難を越えて、何度でも「立ち上がって、行く」力が与えられます。疲れても、「イエスの足もとにひれ伏す」なら(ルカ10:3917:16、ヨハネ11:32)、霊の力が回復します。「よみがえらされて、天に昇る」ことをあらわされるために、主イエスは弟子たちの先頭に立ち、エルサレムへの旅を続けて行かれました。()(あと)につき従って行きましょう。

 

結 び

ここで、「憐れみを受けた」、(さいわ)いな人について、三つの注目すべき点を整理してみましょう。

重い皮膚病を患っていたサマリア人は、その病が清められた後に、主イエスのもとに戻りました。そして、「立ち上がって、行きなさい」と命じられて、日常の生活の場に帰りました。主イエスによって生まれ変わらされた者として、新しい人生を歩み出したのです。主イエス・キリストとの出会いによって、何が起こったのでしょう。

①主イエスのもとで賛美した

②主イエスの足もとにひれ伏して感謝した

③主イエスから「信じる者は救われる」(ローマ10:9、Ⅰコリント1:21)ことを教えられた。

言い換えれば、信仰を告白すること。

特に③において、主イエスが人に信仰について教えられたこと、つまり、主イエスから人に信仰が与えられたこと(Ⅰコリント15:3)が、最重要であります。唯一の救い主、イエス・キリストが信仰を与えてくださるので、わたしたちは同一の信仰告白を唱えることができます。

礼拝の中で③信仰告白をなし、いつも主イエスが(かたわ)らにおわれるという思いをもって、①賛美し②感謝することが、一人のサマリア人の救いを通して、わたしたちに教えられました。

主イエス・キリストとの出会いによって、わたしたちの内に始められた「賛美」・「感謝」・「信仰告白」が礼拝と日常生活の土台となり続けるように、詩編119の末尾の言葉を心に刻みましょう。この世での旅の途上、危機管理が大事です

 

わたしは、主に「ほかの九人はどこにいるのか」と問いかけられるような、

迷える小羊です。

どうかあなたの(しもべ)を探してください」。(詩編119:176

どうか、わたしたちを憐れんでください」。

小羊のように迷い失われそうなわたしとわたしの兄弟姉妹を助け出してください。

 

Ω

 

 

 

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