礼拝、説教

主日礼拝 2021年 6月13日  

聖霊降臨節 第4主日  

  

 

招き   前奏

招詞   詩編103編 21節~22節

頌栄   540

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  244

交読文  21 詩編84編

旧約聖書  エレミヤ書 5章28節(p1185)

新約聖書 ヨハネによる福音書14章15節~24節(p.197)

 

祈祷

賛美歌  Ⅱー145

説教   「この方は、真理の霊である」

               小河信一牧師 (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  183

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   545

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2021年6月13日「この方は、真理の霊である」
エレミヤ書5章28節
ヨハネによる福音書14章15節~24節
210613_0083.MP3
MP3 オーディオファイル 31.5 MB
2021年6月6日「わたしは道であり、真理であり、命である」
エレミヤ書10章10節
ヨハネによる福音書14章5節~14節
210606_0082.MP3
MP3 オーディオファイル 32.4 MB
2021年5月30日「わたしは右手であなたを支える」
イザヤ書41章1節~16節
ヨハネの黙示録1章17節~20節
210530_0081.MP3
MP3 オーディオファイル 30.5 MB
2021年5月23日「一同が一つになって」
詩編143編7節~12節
使徒言行録2章1節~13節
210523_0080.MP3
MP3 オーディオファイル 30.5 MB
2020年5月16日 「主の復活の証人になる」
詩編69編26節
使徒言行録1章12節~26節
210516_0079.MP3
MP3 オーディオファイル 29.6 MB

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 6月13日                                

聖霊降臨節 第4主日 

旧約聖書 エレミヤ書 5章28節(P.1185

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章15節~24節P.197

     「この(かた)は、真理の霊である」  

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ わたしを愛しているならば      ……ヨハネ14:15             

Ⅱ この(かた)は、真理の霊である          ……ヨハネ14:16-17

Ⅲ あなたがたをみなしごにはしておかない ……ヨハネ14:18-19

Ⅳ 世について知っておくべきこと     ……ヨハネ14:22-24        

 

過越祭前の「夕食」(ヨハネ13:2,4 主の晩餐)を背景に、主イエスによる「告別説教」(同上13:3114:31)が続いています。食卓の真ん中におられる主イエスが、わたしは道であり、真理であり、命である」(同上14:6)と、自己宣言されました。少し別の角度からになりますが、今回のテキストを通してさらに、「」・「真理」(同上14:17)・「」に関わる理解が深められています。

しばらくの間、主イエスと別れることになる弟子たちにとって、父なる神と御子イエス・キリストを信じることが最重要なことになります。主イエスは十二弟子からの質問に答え、疑念を晴らしてゆかれます。

わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない」(ヨハネ14:18)との主イエスの告知は、慰めに満ちています。ここには二重の意味があります。すなわち、一つは、主イエスを信じる者は神との関係において「みなしご」ではない、神と信仰者との交わりは永遠であるということです。もう一つは、「」の中で、「みなしご」になる恐れについてです。たとえ「」から迫害され孤立させられても、「心を(さわ)がせるな」(同上14:17)、わたしはあなたがたを見捨てないということです。

この世の価値観に振り回されていると、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに」(ヨハネ14:9)という句に証しされているような主イエスの臨在が見えなくなります。そうして、「我々と共におられる」(マタイ1:23)神なる主イエス・キリストにつき従う道から(はず)れてしまいます。

なぜ、「みなしごにはしておかない」のか、を説き明かしつつ、別れの〈〉から再会の〈将来〉を見通している主イエスの「告別説教」を読みましょう。

 

 

 

Ⅰ わたしを愛しているならば 

ヨハネ福音書14:15 主イエスの言葉―― 

(もし)あなたがたは、わたしを愛しているならば、(あなたがたは)わたしの(おきて)を守る(だろう)。」

主イエスは弟子たちに、「わたしを愛している」ことと「わたしの(おきて)を守る」ことを通して、〈〉から〈将来〉へと彼らが歩むべき「」を教えようとされています。

主イエスは、この夕べの食卓で、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)と弟子たちに命じられました。これが「新しい(おきて)」です。従って、「わたしの(おきて)を守る」というのは、「あなたがたも互いに愛し合いなさい」との命令を実行することです。

この「あなたがた」には、主イエスに質問を出した、トマス、フィリポ、そしてイスカリオテのユダでない方のユダも含まれます。彼らは信仰の面で飲み込みの遅い人々ですが、わたしたちの代弁者でもあります。

質問への主イエスの回答を受け容れて、第一に、弟子たちの為すべきことは、「互いに愛し合う」ことです。

わたしがあなたがたを愛した」というのは、これから主イエスが(おもむ)かれる十字架の丘の出来事によって明らかになります。弟子たちはじめ罪人を、罪と死から救い出す大いなる御業が、主イエス・キリストによって成し遂げられます。神の前に悔い改める者は、無償で赦されます。主イエスの前にひれ伏して、「本当に、この人は神の子であった」(マルコ15:39)と告白する人は救われます(ローマ10:9-10)。

この十字架のを注がれて、弟子たちが「あなたがたも互いに愛し合いなさい」との命令を実行していくことを、主イエスは見守っておられます。それが、〈〉から〈将来〉に向けての課題だ、「新しい(おきて)」だ、と言われます。愛することは、うわべで済むものではありません。忍耐が必要です。自分の怒りを抑えねばならないかも知れません。

そのような中で、愛の教えの前に立ちはだかるのが、「」、この世です。サタンは時に、「」の中を明るくするためと偽って、「互いに裁き合う」ように、人々を誘導します。早急に悪を(のぞ)かねばならないと人を(あせ)らせます。殺伐(さつばつ)とした空気が(ただよ)います。その結果、互いに愛し合う」ことが(さまた)げられます。

そこで大切なのは、「世に打ち勝つ勝利」(Ⅰヨハネ5:4)を望み見て、「互いに愛し合う」よう実践することです。十字架と復活の御業によって、主イエス・キリストは「世に打ち勝った」と、信じることです。今、主イエスは弟子たちを信仰に導いておられます。その信仰に基づいて、「(あなたがたは)わたしの(おきて)を守る(だろう)」と期待を寄せられています。「世は(ことば)を認めなかった」(ヨハネ1:10)と言われるように、この世との戦いは困難ではありますが、神から助けが送られます。

 

 

 

Ⅱ この(かた)は、真理の霊である            

ヨハネ福音書14:16-17 主イエスの言葉―― 

16 「わたしは父にお願いしよう。父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。17 この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。」

ここで、「告別説教」の後半に入ったところで、新しい展開が見られます。ひと言でいえば、主イエスによって、聖霊」(ヨハネ14:26)が「別の弁護者」(同上14:16)または「真理の霊」(同上14:17として紹介されます。主イエスから聖霊に、バトンが渡されることが示唆されます

ただしこれは、これまでの「告別説教」の内容と密接につながる形で展開されています。具体的に言えば、聖霊の派遣が、わたしは道である」という主イエス・キリストの「」に沿って説き明かされるということです。つまり、「(大きな輪の中を描くような形で)御子イエス・キリストは父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来られました。そして御子は、十字架・復活・昇天を通じて、父なる神の栄光を現されました。そうしてやがて、父のもとへ戻って行かれます。」――その時、父なる神と御子は聖霊」を遣わされます。使徒言行録(1:3,92:1-4)で言うならば、復活後40日目のイエスの昇天から50日目の聖霊降臨へという」が明示されるということです。「」の一部でありますが、教会誕生の時に、これが歩むべき信仰の道であると知らされました。

信仰者は、光と闇が()き交うこの世の「」を行くときにも、「この霊があなたがたと共にいる」から安心です。けれども、信仰者は、「この霊を見ようとも知ろうともしない」と宣告されている「」によって、歩んで行くべき」を妨げられます。道に迷わされます。神に(そむ)く、(あやま)った道が、「真理の道」(Ⅱペトロ2:2)だと、信仰者が思い込まされることもあるでしょう。

主イエスがいよいよ十字架につけられる時、弟子たちは主のもとから逃げ出します(マルコ14:50)。」から(はず)れてしまいます。ユダヤ人を恐れ、彼ら自身、途方に暮れたことでしょう。このように見ると、「あなたがたと共にいる」という聖霊を遣わしてくださる神の愛の大きさ、赦しの確かさが分かることでしょう。

 

Ⅲ あなたがたをみなしごにはしておかない  

ヨハネ福音書14:18-19 主イエスの言葉―― 

18 「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る。19 しばらくすると、世はもうわたしを見なくなるが、あなたがたはわたしを見る。わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」

聖霊派遣の意図が、「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない(であろう)」との約束により表されました。一人で死を迎える時にも、神はわたしたちを(ひと)りにしておかれません。

聖書で言う「みなしご」には、「孤児(こじ)」のほかにも、本来保護されるべき弱い者という意味があります。

エレミヤ書5:28 主はエレミヤに言われた――

彼らは太って、色つやもよく

その(あく)()には限りがない。

みなしごの訴えを取り上げず、助けもせず

貧しい者を正しく裁くこともしない。

彼ら」というのは、神を畏れず、貪欲(どんよく)に駆られて、弱い人を苦しめている、一部のユダの民のことです。彼らは、隣人として、「みなしご」や「貧しい者」が暮らしているにもかかわらず、助けようとはしません。

みなしご」や「貧しい者」を保護することは、神の律法として制定されていました(出エジプト記22:20-22、申命記14:29)。エレミヤは、「これらのことを、わたしが罰せずに いられようか」との主の叱責(しっせき)(エレミヤ書5:29)をもって、ユダの民に訴えかけています。

主イエスがこの世を去られる時、その「みなしご」のもとに、「別の弁護者」を遣わされます。「別の弁護者」は、どんな状況に「みなしご」が置かれようとも、助けの手を差し伸べてくださいます。聖霊なる神は人を見捨てることはありません。なぜなら、聖霊は「永遠にあなたがたと一緒にいる」お方、わたしたちの(かたわ)らに立っているお方だからです。わたしたちが(さか)らったり冒瀆(ぼうとく)したりしない限りマタイ12:32)、寄り添ってくださいます。

以前、聖霊によって信仰者の身と魂が開放されているかぎり、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」(使徒言行録1:8)という方向性は維持される、と述べました(参照:使徒言行録2:1-13の説教)。世界大の宣教においては、多くの伝道者が孤独を味わうことでしょう。しかし、「みなしごにはしておかない」とのメッセージに励まされて、伝道者は天におられる御子を仰ぎ、自分に寄り添う聖霊の導きにあずかることができます。さまざまな制約に囲まれて、孤立していても、天は開けています

御子イエス・キリストは、ご自分が世を去るにあたって、聖霊の派遣を約束されたと同時に、「(わたしは)あなたがたのところに戻って来る」と宣言されました。

「(わたしは)あなたがたのところに戻って来る」の直訳は、わたしは来るあなたがたのところに」となります。

「御子イエス・キリストは父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来られました。そして御子は、十字架・復活・昇天を通じて、父なる神の栄光を現されました。そうしてやがて、父のもとへ戻って行かれます」という大きな輪に、わたしは(再び)来るあなたがたのところに」との約束が添えられました。

わたしは道である」と自己啓示された主イエス・キリストは、「(わたしは)戻って来る」との言葉をもって再臨の「」を示されました。その主イエス・キリストの再臨の「」は、あなたがたのところに向かっています。その「」で、主イエス・キリストとの再会が起こります。死んでいた者がよみがえらされて、主イエスと出会います(Ⅰテサロニケ4:15-18)。わたしたちが孤立無援で倒れ伏していても、その「」は自分のところに達しています。ヤコブが夢で見た、天から地に向かって伸びている「階段」(創世記28:10-12)は、聖霊が(くだ)って来ることによって成し遂げられました。

(わたしは)あなたがたのところに戻って来る」という再臨のメッセージをより深めるように、その後に、「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる」(ヨハネ14:19)と、主イエスは述べられました。この句では、主イエスの「」が、「」の面からもわたしたちに関わりがあることを告げています。

主イエスは十字架につけられ、死にて葬られます。しかし、主イエスはよみがえらされて、「生きて」おわれます。「わたしが生きている」というのは永遠の真理ですので、〈現在形〉で語られています。そして、この主イエスのよみがえりの「」は、「あなたがたも生きること」につながっています。「」の交わりによって、父なる神、御子イエス・キリスト、そして信仰者は一体化されていくのです。

主イエスは、罪と死に束縛されていた弟子たちを、よみがえりの「」によって解放されました。主イエスはそのようにして弟子たちに授けられた「」を、わたしたちにも分かち与えてくださっています。

先ほど、主イエスのよみがえりの、「あなたがたも生きることにつながっていると述べました。正確には、「生きる」は未来形で、原意は「あなたがたは生きるであろう」(you will live)となります。言い換えれば、今から将来へと至る間、主イエス・キリストは、よみがえりの「」にわたしたちをあずからせ(ローマ6:5,11)、その「」から()れないように見守っておられます。

わたしたち・信仰者は、キリストに結びついて、永遠の「」を得ています。ただし、わたしたちは、今から将来へと至る信仰の「」を歩んでいかねばなりません。この世で「みなしご」の悲哀に打ちのめされることもあるでしょう。主イエスは世を去って行かれるとき、そのようなわたしたちのために、御父に願って聖霊を遣わされました。教会が小さな群れであれ、聖霊によって一人ひとりの身と魂が強められるならば、「もっと大きな(わざ)を行う」(ヨハネ14:12)ようになります。

 

Ⅳ 世について知っておくべきこと             

ヨハネ福音書14:22-24―― 

22 イスカリオテでない方のユダが、「主よ、わたしたちには御自分を現そうとなさるのに、世にはそうなさらないのは、なぜでしょうか」と言った。23 イエスはこう答えて言われた。「わたしを愛する人は、わたしの言葉を守る。わたしの父はその人を愛され、父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む。24 わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない。あなたがたが聞いている言葉はわたしのものではなく、わたしをお遣わしになった父のものである。」

「どうして、主イエスは御自分を、信仰者のみならず、この世にも現そうとなさらないのですか」とイスカリオテのユダでない方のユダは問い尋ねています。

一方、悔い改める弟子たちはじめ信仰者には、「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」と、神との永遠なる交わりが約束されています。他方、「わたしを愛さない」また「わたしの言葉を守らない」人々、つまり、「」に属する者は、どうなるのか、が問題です。

光と闇とが行き交うこの世の(ちまた)で、今しばらく暮らし、「」行くために、わたしたちは闇について知っておく必要があります。それはまさしく、この「夕食」の場で、イスカリオテのユダの裏切り(ヨハネ13:2,11)やペトロの否認(ヨハネ13:38)について、主イエスが言及されたことと相通じています。それらのことを、(あや)な人(偽善者)ではなく、主イエスから教えられることが、肝心です。主イエスは、「」に属する人々に対して、「わたしを愛さない者は、わたしの言葉を守らない」と明言されました。「」を代表する、主イエスに(そむ)くユダヤ人たちは、主の御業を見ることなく、主の言葉を聞くこともありません(マタイ13:15)。

わたしは真理である」(ヨハネ14:6)という主イエスの宣告は、「この方は、真理の霊である」という聖霊の働きに引き継がれます。「真理」というのは、神ご自身の事柄ですから、信仰と不信仰、善と悪とが見分けられます。

ヨハネ福音書16:13 主イエスの言葉――

「しかし、その方、すなわち、真理の霊が来ると、あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる。その方は、自分から語るのではなく、聞いたことを語り、また、これから起こることをあなたがたに告げるからである。」

わたしたちが「」に生きる困難は小さくはありませんが、「真理の霊」がこの世を照らし、わたしたちの選び取るべき「」を指し示します。主イエスが弟子たちに教えられた「真理」を、聖霊はわたしたちにも思い起こさせます。御国に向かって、前へ進む力が与えられます。「」から聖別されるとは、このことです。

この世で、「真理」の霊に導かれる「」は、主イエス・キリストとの再会に通じています。そして、死んだ眠りの状態から目覚めさせられて、永遠の「」を得させられます。

わたしは道であり、真理であり、命である」と言われる主イエス・キリストを「愛する」こと、そしてその御言葉を「行う」ことです。わたしたちが「世の光」である(マタイ5:14)ことによって、「」の罪と闇から救われる人が現れ出て来ます――それが、伝道です。

 

主よ、わたしたちのもとに聖霊を遣わしてくださったことに感謝します。わたしたちもまた、聖霊と共に世にお遣わしください(ヨハネ17:2820:21)。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 6月6日                               

旧約聖書 エレミヤ書 10章10節

新約聖書 ヨハネによる福音書 14章5節~14節

     「わたしは道であり、真理であり、命である」

                        小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 神の(いきどお)りに諸国の民は耐ええない 

               ……エレミヤ書10:10 〈預言者の恐れ〉             

Ⅱ わたしは道である    ……ヨハネ14:5-7     〈弟子の問い〉             

Ⅲ わたしの内におられる父   ……ヨハネ14:8-10 〈弟子の問い〉

Ⅳ もっと大きな(わざ)を行う    ……ヨハネ14:11-12 〈信仰者の行い〉  

Ⅴ わたしの名によって願う ……ヨハネ14:13-14〈信仰者の祈り〉         

 

過越祭前の「夕食」(ヨハネ13:2,4 主の晩餐)の流れに沿()い、ヨハネ福音書14章では、主イエスによって「告別説教」が語られます。弟子たちに対し()んで含めるように、重要な句を繰り返しておられます。

主イエスは今、食卓の真ん中におられます。主イエスは、あなたがたの心が(さわ)がされる〈受け身〉」(ヨハネ14:1)という人間の弱さをご存知です。信仰が必ずしも十分でない弟子たちに、愛と知恵をもって語りかけられます。その場にいた弟子たちと共に、しっかり主を見て、その御言葉に耳を傾けましょう。

 

Ⅰ 神の(いきどお)りに諸国の民は耐ええない 

エレミヤ書10:10―― 

主は真理の神、

命の神、永遠を支配する王。

その怒りに大地は(ふる)

その(いきどお)りに諸国の民は耐ええない。

一読して分かる通り、節の前半「主は真理の神、の神、永遠を支配する王」は、ヨハネ福音書14:6わたしは道であり、真理であり、である」に通じています。

主イエスご自身が、「真理の神、命の神」であることを宣言されています。すでにエレミヤが、偶像に(まど)わされず、真理の神、命の神」をほめたたえることを民に教えました。このエレミヤの預言が、「わたしは真理であり、命である」と自己啓示してくださった主イエス・キリストによって成就しました。イスラエルの民が「罪と(そむ)きと(あやま)」を犯し続ける中でも、神の約束は取り消されることがありませんでした(出エジプト記34:5-7)。

キリストの「真理」によって、人の罪に(ひそ)偽善」が照らし出され、わたしたちは悔い改めへと導かれます。そしてまた、キリストの「」によって、()るものではなく、永遠なるものを求めて生きるよう、わたしたちは変えられます。

エレミヤは、「真理の神、命の神」への信仰告白を勧めると同時に、被造物全体を覆う神の憤りに言及しています。神の裁きの前に、エレミヤの「心は(さわ)がされ」ています。歴史を(かえり)みるならば、この預言者の不安は的中しました。

エレミヤが預言活動をしていたユダ王国は、紀元前587年、バビロニア帝国に侵略され滅亡しました。王はじめ国の多くの指導者がバビロニアへ連れて行かれました。裏切り(エレミヤ書3:79:1)などの罪によって、「真理の神、命の神」を告白し讃美すべき礼拝共同体が、義しい道から(はず)れてしまった、そこに、神の「怒り」と「憤り」が注がれたということです。

紀元前6世紀、実際の歴史に跡づけられている通り、御言葉によるエレミヤの宣教は挫折してしまいました。主なる神はただちに、エゼキエルや第二イザヤが現地に派遣されました。彼らによって、礼拝をはじめとする生活のさまざまな面で、「島々」や「国々の民」を巻き込んで、スケールの大きい驚くべき転回が起こるであろう、と告げられました。当時、ユダヤの民が聞いた御言葉の一つに、次のようなものがあります。

イザヤ書40:7-8――

7 草は枯れ、花はしぼむ。

主の風が吹きつけたのだ。

この民は草に等しい。

8 草は枯れ、花はしぼむが

わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ。

そうだとすれば、「主は真理の神、命の神、永遠を支配する王」という信仰告白は、「とこしえに立つ」ということになります。まさにこの御言葉は、「わたしはである」(エゴー エイミ)である神、イエス・キリストによって、「とこしえに立つ」ことが証明されました。それが、「わたしは道であり、真理であり、命である」という主イエス・キリストの自己宣言です。

祖国崩壊や強制移住の大災難と人間の「罪と(そむ)きと(あやま)」との中にあっても、神の言葉は生きており、その力を発揮し続けます(ヘブライ4:12)。それでは、キリストが十字架刑にされるという究極の災難の直前に語られた御言葉を読んでいきましょう。

 

Ⅱ わたしは道である                    

ヨハネ福音書14:5-7――

5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」 6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、(すで)に父を見ている。」

十二弟子の一人、トマスが、「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません」と言いました。自分が分かってないことを正直に告白しました。その直前に、「わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている」(ヨハネ14:4)と主イエスがおっしゃられたにもかかわらず、トマスは疑問を投げ返しました。

それに対し、主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である」と返答されました。主イエスと弟子たちと対話の展開を考慮すると、「わたしは道であるという自己宣言が主題となります

問い「主よ、どこへ行かれるのか」⇒答え「わたしは道である」、これで、分かったと答えなさいと言う方が無理かも知れません。ただ、主イエスの側から見れば、「わたしは道である」という簡明な自己宣言をもって最善の応答をなされたに違いありません。後続の説き明かしを読み理解するならば、「わたしは道である」という句の真意が分かることでしょう。

自己宣言に続いて、主イエスは、「わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」と述べられました。この中の「父のもとに行く」は明らかに、「わたしは道である」と共鳴しています。単純に組み合わせるならば、「わたしは父のもとに行く道である」となります。すなわち、主イエス・キリストは、信じる者を父のもとに導いて行く道であるということです。

主イエスがさらに、「わたしの父をも知る」や「父を見ている」との類句をもって信仰者に、「父のもとに行く」ことを心に留めるよう促しています。「父のもとに行く」のは、決して無為(むい)の旅ではない、そうではなく、その途上または到着において、主なる神を「知る」または「見る」ことが起こるのだということです。

わたしは道である」との主イエス・キリストの言葉は、とても内容豊かなものです。

まず、私たちとの関わりにおいて、主イエスは道に迷った人に、配慮が(おこた)りありません。道に迷った人を探し出し、立ち上がらせてくださいます。暗黒の世に告げられた第二イザヤの言葉を借りるならば、主イエスは「救いの右の手」で、「あなたの右の手を固く取って」くださるお方です(イザヤ書41:10,13)。あなたが手を離しそうになる時にも、「恐れるな、わたしはあなたを助ける」と呼びかけられます。

次に、言うまでもなく「」は歩くものです。主イエスは、「あなたと共にいる神」です(イザヤ書41:10、エレミヤ書1:8)。神の国への道すがら、主イエスはある時はさきがけに、またある時は、しんがりになられます。

わたしたち信仰者は、主日に始まる七日の旅路を歩んでいます。主日に聞いた主イエスの「教え」を「行い」によって現すというのが、キリスト者の歩みであり生活です。キリストに従う道が、自分のささげる善い「(わざ)」によって(きよ)められます。「あなたと共にいる神」が、途上で倒れている人を助けるよう、あなたを励まします。また、歩いているあなたに、道端の草花を慈しむ(いとま)をも与えてくださることでしょう。

わたしはである」を提示している①「」・②「真理」・③「」、三幅対(さんぷくつい)まとめをしましょう。

御子イエス・キリストは父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来られました。そして御子は、十字架・復活・昇天を通じて、父なる神の栄光を現されました。そうしてやがて、父のもとへ戻って行かれます。その大きな輪の中に、「わたしは道である」というキリストの①「」が描かれています。その「」は、父なる神のもとにわたしたちを導く②「真理」であります。人間の考え出したことではなく、「真理の神」がキリストの御業によって創られたものです。偶像、偽り、自己中心など、人間が固守しているものは、キリストの「真理」によって退けられます。

そして、その「真理」に沿ってキリストに従う人へ、無償で与えられる恵みが、永遠の③「」です。その「」を得るためには、「一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている」(ヨハネ黙示録1:18)キリストを信じ礼拝することです。「わたしは命である」と宣言されるキリストが臨在されるところ、そこが「」の源になります。

今度はフィリポが、主イエスに疑問を投げかけました。「わたしは道であり、真理であり、命である」という自己啓示について、主イエスご自身の道案内で、弟子たちは霊的な理解へと導かれます。

 

Ⅲ わたしの内におられる父          

ヨハネ福音書14:8-10――

8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父(おんちち)をお示しください』と言うのか。10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その(わざ)を行っておられるのである。」

主イエスの返答第一声、「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに」は、重い言葉ではないでしょうか。というのも、主イエスが弟子たちと共に過ごされた日々、共に歩まれた歳月を想い起こされ、その点から、フィリポが考え直すよう(うなが)されているからです。

父なる神のもとから来られた主イエスの行いと教えにより、主イエスは、「御父を示した」はずです。いや、主イエスがこの世に遣わされたのは、「御父を示す」ため、御父の愛をあらわすためにほかなりません(ヨハネ3:16)。主イエスと親しく交わる中で、弟子たちに今起こっているのが、「わたしの父を知り」、「わたしの父を見る」ということでありました。そして、将来起こるのが、「わたしの父のもとに行く」ということであります。

フィリポは愚かな問いを発している場合ではなく、彼は「あなたはわたしたちに御父(おんちち)をお示しくださいました」と、主イエスに感謝すべきでありました。なぜ、そう出来なかったのか、その理由は、「そうすれば満足できます」とのフィリポの発言に隠されています。「自分は(人よりも)もっと欲しい」という貪欲(どんよく)(とりこ)になっているかぎり、「この方の満ちあふれる豊かさ」(ヨハネ1:16)を見えてきません。

そうすれば」(英訳 and)は小さな文句ですが、そこには、自己中心の残痕(ざんこん)()(てい)しています。つまり、都合のいい条件を付け、それが(かな)うならば、「満点」をあげましょう、というのは身勝手です。主イエスは、「義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」と()かれました(マタイ5:6)。それに対し、貪欲に()られて、「不足しています」と不平を言う人は、いつまで()っても、満たされません。

そうすれば」というような小さな文句に、自己中心が(ひそ)んでいるのは、恐ろしいことです。自覚するのが難しいでしょう。主イエスは忍耐強く告別説教を展開されます。

 

Ⅳ もっと大きな(わざ)を行う            

ヨハネ福音書14:11-12 主イエスの言葉――

11 「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、(わざ)そのものによって信じなさい。12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。」

まず注目したいのは、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」のと告知です(ヨハネ14:10,11,20)。それは、御父と御子との関係についてであって、何かそれがわたしたちに関係あるのですか、という問いが聞こえてきそうです。実は、それが「おおあり」なのです

で、主イエスと弟子たちと対話の展開を考慮すると、「わたしは道である」という自己宣言が主題であると述べました。

御子イエス・キリストが父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来て、そして、父のもとへ戻って行かれるという大きな輪によって、キリストご自身の「」があらわされています。キリストはそのような「」を歩まれる中で、人間と交わり、罪人を救い出されました。

そこで、キリストが「父のもとへ戻って行かれる」ことに留意するならば、当然、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」ことが目に浮かんできます。もちろん、()んだ「霊的な目」を見ればということですが……。使徒信条にも、「主は……よみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり」と記されています。

キリストが「神の右に座っておられる」とは、「永遠を支配する王」(エレミヤ書10:10)として、キリストは十全な働きをなしておられるということです。すなわち、天におられるキリストは御父と共に、わたしたちを支配し、信仰を呼び覚まし、聖霊を通して大きな力を注いでくださいます。「わたしを信じる者は……もっと大きな(わざ)を行うようになる」というのは、そのことを指しています。

もっと大きな業」というのは、キリストの「」より「大きな業」ということではなく、御父と御子の支配のもとに、聖霊に助けられているが故に、わたしたちは「もっと大きな業」を全地で繰り広げてゆくであろう、ということです。そこには、大きな困難や挫折が横たわっていることでしょう。しかし、それが、「わたしは道である」との聖句を主題に(かか)げるわたしたちに(たく)されている伝道です。前途を目指すわたしたちには、神の国での御父と御子との交わりの中に、御心ならば、わたしたちも入れられる(Ⅰヨハネ2:24)という希望があります。そこで、神のもとにとどまり、「永遠の命を得る」のです。

先ほど、()んだ「霊的な目」をもって、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」のを仰ぎ見る、と述べました。トマスもフィリポも、そのような澄んだ目を持っていなかったかも知れません。主イエスがそのことをご存知です。そこで弟子たちに向かって繰り返されたのが、「(あなたがたは)信じなさい」(ヨハネ14:11)との勧めです。「わたしは父の業を行っている」(ヨハネ10:38)、それを「信じなさい」、どうか、そこから信仰入門しなさい、ということです。

 

Ⅴ わたしの名によって願う                 

ヨハネ福音書14:13-14 主イエスの言葉――

13 「わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」

何でもかなえてあげよう」に気が引き込まれますが、まず、「父は子によって栄光をお受けになる」に着目しましょう。

御子イエス・キリストが父なる神のもとから、この地上に(くだ)って来て、そして、父のもとへ戻って行かれるという出来事において、人間を救い出す大いなる業が成し遂げられます。「こうして、父は子によって栄光をお受けになる」というのは、そのことを指しています。「わたしは道である」というキリストの働き全体が、「御父に栄光を帰す」ことを目指しているということです。

キリストが父のもとへ戻って行かれ、「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」(ヨハネ14:10,11)という親しき交わりが確立されます。そして、御父と御子によるこの世ならびに信仰者への支配が強固なものとなります。その一環として、「わたしの名によって願うことは……」ということが2回繰り返されています。

御父と御子がこの世を支配するという中で、信仰者の祈りは聞かれると宣言してくださっているのは、何と幸いなことでしょう。

ひと言、ご注意申し上げれば、「わたしがかなえてあげよう」の直訳が、「わたし(キリスト)が行うであろう」であることは、わきまえておくべきでしょうか。というのも、「かなえる」という日本語には、うまく行って、バラ色の夢が実現するというニュアンスが無きにしも(あら)ず、だからです。

わたし(キリスト)が行うであろう」ことは真実ですが、わたしの思い通りに「かなう」かは分かりません。確かなことは、キリストが御名によるわたしたちの願いに耳を傾けられ、キリストが「行うであろう」(成し遂げる)ということです。

主イエスは主の晩餐で告別説教(ヨハネ13:3114:31)を語り終えると、十字架の「」を歩み始められます。わたしは道である」というイエス・キリストが苦難をこうむると共に、救いの御業を行われます。十字架の主が、人間の「罪と(そむ)きと(あやま)」に対する神の憤りを受け止めてくださいました。そして今、主イエスは、」を行くわたしたちの願いや祈りを聞き入れてくださいます。

わたしの名によって願う」――そのお方の名を、「イエス・キリスト」と言います。これは、「あらゆる名にまさる名」であります(フィリピ2:9)。「イエスはキリスト救い主(メシア)」と呼ぶところに、讃美が生まれます。讃美によってわたしたちは、天の御父と御子の親しき交わりへと近づけられます。

 

わたしは道であり、真理であり、命である」――イエスの御名にひざまずく(フィリピ2:9)礼拝と伝道によって、わたしたち自身が上からの賜物である「」・「真理」・「」にあずかりたいと願います。イエス・キリストの御名によって祈りましょう。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 5月30日                               

旧約聖書 イザヤ書 41章1節~16節P.1125

新約聖書 ヨハネの黙示録 1章17節~20節(P.453

             「わたしは右手であなたを支える」  

                                               小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 島々よ、わたしのもとに来て静まれ   ……イザヤ書41:1             

Ⅱ わたしは初めであり、(のち)()と共にいる  ……イザヤ書41:2-5

Ⅲ あなたはわたしの(しもべ)                 ……イザヤ書41:8-9

Ⅳ わたしはあなたを右の手で支える   ……イザヤ書41:10,13        

Ⅴ 死と陰府(よみ)の鍵を持っているキリスト ……ヨハネ黙示録1:17-18  

Ⅵ 七つの(しょく)(だい)としての教会          ……ヨハネ黙示録1:19-20 

 

紀元前587年、ユダ王国はバビロニア帝国に侵略され滅亡しました。王はじめ国の多くの指導者がバビロニアへ連れて行かれました。しばらくバビロン捕囚の苦しい生活が続くことになりました。

そうした中、前539年突如、ペルシア王キュロスがバビロニアを攻撃し壊滅させました。それと共に、捕囚民を圧政の下に置いていた政策が方向転換しました。キュロスは(ちょく)(れい)を出し、ユダヤの民を解放し、エルサレムに帰還することを許したのです。

今回取り上げるイザヤ書41章は、前587年-539年の間、すなわち、バビロン捕囚の直後から解放直前までを時代背景としています。その間の事情を、イザヤ書40章-48章(第二イザヤの第一部)は、預言者の生き生きとした言葉をもって伝えています。

テキストからは、新しい地での、礼拝をはじめとする生活の確立とそれに伴う困難が(かい)()見られますしかし、民が今しばらく忍耐すれば、キュロスの解放政策によって、暗闇の世に光が(とも)されるという状況にありました。

何事にも先手を打たれる神はすでに、紀元前587年の直後、バビロニアの現地に、エゼキエルを遣わされました。エゼキエルはバビロニアの南方、ケバル川の()(はん)」(エゼキエル書3:15)に住居を定め、同胞(どうほう)に霊の息吹を送りました。彼はわたし(主)の言葉を彼らに語る」(同上2:73:4)ことに専心し、御言葉により、ユダヤ人の生活全般にわたり、「規範」を打ち立てました。

エゼキエルは初めに、哀歌と、(うめ)きと、嘆きの言葉」の書かれた巻物を()み込神に(そむ)反逆の家」のもとで活動しました(エゼキエル書2:33:3)。同じく捕囚民の間に御言葉を取りついだ第二イザヤ(無名の預言者)に、変化の(きざ)しは見られるのでしょうか。

 

Ⅰ 島々よ、わたしのもとに来て静まれ              

イザヤ書41:1―― 

島々よ、わたし(主)のもとに来て静まれ。

国々の民よ、力を新たにせよ。

進み出て語れ。

互いに近づいて裁きを行おう。

いきなり、「島々よ」ならびに「国々の民よ」(諸国民よ)という呼びかけが出て来ます。エゼキエルが捕囚の民の間に住んで(エゼキエル書2:5)、哀しみの歌をうたっていたという事態とは変わっています。

この事態の変化の一因は、現代にも通じることですが、ユダヤの民が「外国」に出かけていったということにあります。自国で暮らしているかぎり、近隣の島々」や「国々の民」を強く意識することはありません。当時、「国々の民」との外交問題は、特別なことであり、それは一部のエリートの(かん)(かつ)()にありました。

バビロン捕囚は、そうした状況に変化をもたらしました。すなわち、ユダヤの民が「外国」に出かけていったと同時に、主なる神はユダヤの民と「国々の民」に向かって御言葉を語り始められたのです。もちろん、「異邦人」との交流は、父祖アブラハムの時代からありました(創世記14:17-2415:13)。ところが、国家の滅亡や民族の離散という大災難を経験したときに、選民イスラエルは、世界のただ中で、どのように神の御心に添って生きていくかという問題に直面したのです。

今や、日本に住むわたしたちの「日常」は、「外国」や「地球」全体とのつながりを無視しては成り立ちません。主なる神は日毎に、わたしたちの「日常」を新しく造ってくださると共に、「外国」や「地球」全体とのつながりが健全に保たれるように導いておられます。

預言者の職務は、エゼキエルから第二イザヤへと引き継がれました。相変わらず、敵国による圧政、異国での礼拝遵守、そして故郷への(あこが)など、諸課題が山積していました。そうした中でユダヤの民は、偶像に頼り強情になる者と、ひらすら「聖書」、神の言葉に耳を傾け実践する者とに分かれていきました。

少し前置きが長くなりました。

進み出て語れ。互いに近づいて裁きを行おう」――主なる神は、近隣の島々」や「国々の民」を招き入れ、この御言葉を聞いているユダヤの民を(まじ)え、「互いに近づいて裁きを行おう」と語りかけます。主なる神は、「互いに近づく」のを避けていたような人々を、一つに集め、一緒に座らせようとしています。これから、悪に悪をもって報いる「裁き」ではなく、悪から救い出し善へと導く「裁き」が行われます。それ故に、「わたし(主)のもとに来て静まれ」と命じられているのです。

主なる神ご自身、自国への誇りを失い、「国々の民」を警戒しているユダヤの民の状況をご存知でありましょう。そのことをご承知の上で、神は、神の器として「国々の民」を用いられ、ユダヤの民はじめ「地の果て」に至る救いの計画を示されます。これによって、うつむきがちになっているユダヤの民の心が、(わし)(つばさ)に乗っているかのように(イザヤ書40:31)、開放されてゆきます。

 

Ⅱ わたしは初めであり、(のち)()と共にいる

イザヤ書41:2-5―― 

2 東からふさわしい人を(ふる)い立たせ、足もとに招き

国々を彼に渡して、王たちを従わせたのは誰か。

この人の(つるぎ)は彼らを(ちり)のように

弓は彼らをわらのように散らす。

3 彼は敵を追い、安全に道を進み

彼の足をとどめるものはない。

4 この事を起こし、成し遂げたのは誰か。

それは、主なるわたし。

初めから代々(よよ)の人を呼び出すもの

初めであり、(のち)()と共にいるもの。

5 島々は畏れをもって(あお)

地の果てはおののき、共に近づいて来る。

東からふさわしい人を奮い立たせ」という句の「ふさわしい人」(原意「義」)は、この場合、誰を指しているのでしょうか?

この人こそ、暗闇の世に光を(とも)した、ペルシア王キュロスであります。驚くべきことに、神は捕囚の民ユダヤ人を救出するために、異邦人・キュロスを用いられました。キュロスは、ダビデの系譜に連なる王でありません。その点で、第二イザヤ、そのキュロスの背後に神が働かれていることを明示しています。

主なるわたし」が――

ふさわしい人を①奮い起こした足もとに呼び寄せた

国々を彼に渡した王たちを踏みにじった

主なる神を主体とした①~④の行為によって、バビロン捕囚からの解放がもたらされました。それ故に、バビロニア人に対するペルシア人の勝利ではなく、「この事を起こし、成し遂げた」主なる神がほめたたれています。人々が勝利や解放の余韻に浸るということは、永続するものではありません。いつまでも続くのは、永遠なるお方である神への讃美です。

困難な捕囚の地での、礼拝への最高の贈りものであるかのように、「(わたしは)初めであり、(のち)()と共にいるもの」という句(他にイザヤ書44:648:12)によって、神の自己顕現があらわされています。思いがけないところで、神が現れ、その上、神を信仰告白する言葉が与えられたのは、何にも増して幸いなことです。ヘブライ語・詩文の美しさを踏まえて、訳し直すと(参照:C.ヴェスターマン)、

わたし、主が初めである――また、終わりの者らと共に、同じわたしがある」となります。

初め――終わり」、天地創造から終わりの時へと至る中で、神は神であることにおいて、不変であるということです。国の敗北、離散、そして解放と帰還という激動の時代の中にあって、永遠なる神が「あなたと共にいる」(イザヤ書41:10、エレミヤ書1:8,19)というのは、大きな慰めです。

さらに、「わたしがある」と2回繰り返されています。初めに「わたしがあり」、そしてまた、終わりに「わたしがある」ということです。「わたしがある」というその初めと終わりによって、わたしの人生または教会の時は囲まれています。主の臨在によって(まも)られています。

ここまで言えば皆さんは、この第二イザヤの「わたしがある」との句から、「わたしはである」(エゴー エイミ)という主イエス・キリストの自己啓示を思い浮かべられるでしょう。実際に、この句は第二イザヤからヨハネ黙示録へとつながっています。あとので説き明かしましょう。

これから「ふさわしい人」、ペルシア王キュロスが解放者として登場することが告知されました。続いて今度は、同胞イスラエルに関するメッセージが送られます。

 

Ⅲ あなたはわたしの(しもべ)                

イザヤ書41:8-9―― 

8 わたしの(しもべ)イスラエルよ。

わたしの選んだヤコブよ。

わたしの愛する友アブラハムの末よ。

9 わたしはあなたを固くとらえ

地の果て、その隅々(すみずみ)から呼び出して言った。

あなたはわたしの僕

わたしはあなたを選び、決して見捨てない。

都エルサレムの聖霊降臨祭の逆バージョンではありませんが、故郷を遠く離れた地で、ユダヤの民は「自分の故郷の言葉」(使徒言行録2:6,8)を聞くことになります。ユダヤの民が解放者キュロスを迎え入れるにあたり、神はユダヤの民とご自身との関係を明確にされます。そこで、キュロスの背後に神が働かれていることを再確認すると共に、()(ろう)の民のような生活を送っている人々に、過去確固たる歴史を想起させています。

今、バビロン捕囚からエルサレム帰還へと歴史は大きく動かされようとしています。近いうちに、突如暗闇の中から光の中へ招き入れられた(Ⅰペトロ2:9)という歓喜が()き上がることでしょう。しかし、神殿の再建など、さまざまな試練を乗り越えてゆかねばなりません。その中で大切なのは、神に対し自分は何者であるのか、また、今どんな使命が与えられているのかを問い、その答えが与えられるよう願い求めることです。

ユダヤの民に、「あなたはわたしの(しもべ)」という御言葉が示されました。「聖書」によって、彼らは「わたしの愛する友アブラハム」や「わたしの選んだヤコブ」の信仰とその行いを、手本とすることができます。人間的な性格の上で、アブラハムヤコブも、決して完璧(かんぺき)な人ではありません。それぞれに破れを持っています。神がアブラハムヤコブを選ばれ、愛してくださり、信仰の道を歩ませられたのです。

彼らは、神が自分を選び出し、愛し、信仰を与えてくださったことに応えた、つまり、「(しもべ)」として神に仕える人生を送りました。誘惑がなかったわけではありません。イザヤ書41:6-7には、まるで戯画(ぎが)のようにユーモラスに偶像が造られていく様子が描き出されています。冷静に、偶像は人によって造られたものであることを知ることです。

神は、「わたしの(しもべ)」に、「わたしはあなたを選び、決して見捨てない」ことを宣言されています。この世では、誰かを「選んだ」けれども、安易に「見捨てる」ということがまかり通っています。「決して見捨てない」ためには、愛と忍耐を持ち合わせているかどうかが問われます。

 

Ⅳ わたしはあなたを右の手で支える           

イザヤ書41:10,13―― 

10 恐れることはない、わたしはあなたと共にいる神。

たじろぐな、わたしはあなたの神。

勢いを与えてあなたを助け

わたしの救いの右の手であなたを支える。

13 わたしは主、あなたの神。

あなたの右の手を固く取って言う

恐れるな、わたしはあなたを助ける、と。

第二イザヤのメッセージは、神とユダヤの民ならびに諸国の民との関係を教えることに力点が置かれています。端的に言えば、強固なる交わりが、神の主導のもとに築かれていくということです。

わたしの救いの右の手」との句には、神による人間の創造・保持・救済が示されています。神の「右の手」が「あなたの右の手を固く取って」というのですから、神と人との間には堅い関係が築かれています。初めから終わりに至るまで、神がその右の手を離すことはありません。人間が暗闇で道を迷ったような時にも、神は人の手を引いて導いてくださいます。

そして、神はその「右の手」によって人を守られるのみならず、その御手で巧みに人を用いられます。

イザヤ書41:15-16――

15 見よ、わたしはあなたを()(こっ)()とする

新しく、鋭く、多くの()をつけた打穀機と。

あなたは山々を()(くだ)き、丘をもみ(がら)とする。

16 あなたがそれをあおると、風が巻き上げ

嵐がそれを散らす。

あなたは主によって喜び躍り

イスラエルの聖なる神によって誇る。

一見、主旨がつかみにくいことでしょう。しかしこれが、ユーフラテス川流域の捕囚の地から、ユダヤへの帰還についての預言と分かれば、理解できます。「(けわ)しい道は平らに、狭い道は広い谷となれ」(イザヤ書40:4)というように、第二イザヤは繰り返し捕囚民に、都エルサレムに帰れるようになる、そのために安全な道が切り拓かれると告げています。

わたしはあなたを()(こっ)()とする」というのは、比喩です。「打穀機」は「(つるぎ)」や「」(エゼキエル書41:3)のような武器ではありません。「打穀機」は、小麦や大麦を収穫する上での必需品です。農業のために用いるものです。ところが、主なる神は、その機具によって、「あなたは山々を()(くだ)き、丘をもみ(がら)とする」、すなわち、帰還の道が造られる、と宣言されています。

主なる神の御心は、異邦の地に定住していた、あなたがたの力と知恵を用いて、エルサレムに向けて出発させるということでありました。神が「新しく、鋭く、多くの()をつけた打穀機」を整備されます。これに、世代交代しつつあった「わたしの(しもべ)」たちが応えます。

イザヤ書52:12――

しかし、急いで出る必要はない

逃げ去ることもない。

あなたたちの先を進むのは主であり

しんがりを守るのもイスラエルの神だから。

エルサレムへの旅路において、神がさきがけに、また、しんがりになられます。巡礼者の歌のように、「初めにわたしがあり、また、終わりにわたしがある」という主題(ライトモティーフ)奏でられます。それでは、第二イザヤのメッセージが、どのようにキリストの教会に反響したのか、見てみましょう。

 

Ⅴ 死と陰府(よみ)の鍵を持っているキリスト    

ヨハネ黙示録1:17-18―― 

17 わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった。すると、その方は右手をわたしの上に置いて言われた。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者、18 また生きている者である。一度は死んだが、見よ、世々限りなく生きて、死と陰府(よみ)の鍵を持っている。」

冒頭の「わたしは、その方を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」というのは、神の言葉を聞き、救いにあずかる以前の、人間の姿を描き出しています。エゼキエルもパウロも突然、主の栄光に包まれたとき、地に倒れ()しました(エゼキエル書1:28、使徒言行録9:3-4)。衝撃的なこの瞬間、人は自分の弱さや(みじ)めさに直面させられます。第二イザヤが「虫けらのようなヤコブよ」(41:14)と呼称しているのは、侮辱ではなく、(ただ)しい自己認識に()るものです。

しかし、「死んだようになった」で、パトモス島にいた(しもべ)ヨハネの人生が終わったのではありません。「恐れるな。わたしは最初の者にして最後の者」というキリスト(その方)の言葉がこだましました。「信ぜよ、わたしはあなたを造った、わたしはあなたを神の国へ導く」ということです。

死んだようになった」ヨハネの(かたわ)らに、「わたしは初めであり終わりである」(エゴー エイミ)と、自己啓示されるお方が立っておられました。

しかも、苦難の捕囚期に、「わたしの救いの右の手であなたを支える」と約束されたことが成就したかのように、そのお方は、右手をヨハネの上に置かれました。

さらに、主イエス・キリストは、「(わたしは一度は死んだが、見よ、わたしは世々限りなく生きて(いる者である)」と宣告し、十字架と復活が福音の中心であることを示されました。

罪の(ごく)()に閉じ込められている人々が、「死と陰府(よみ)の鍵」によって解放されます。信仰者の群れが、困難を越えて平和に道を進むことができるように、キリストはさきがけになり、また、しんがりになって歩まれます。

 

Ⅵ 七つの(しょく)(だい)としての教会              

ヨハネ黙示録1:19-20 その方は言われた―― 

19 さあ、見たことを、今あることを、今後起ころうとしていることを書き留めよ。20 あなたは、わたしの右の手に七つの星と、七つの金の(しょく)(だい)とを見たが、それらの秘められた意味はこうだ。七つの星は七つの教会の天使たち、七つの燭台は七つの教会である。」

第二イザヤは、「わたしの(しもべ)イスラエル」を召し出して、聖なる都へ帰還するように、群れを整えました。人目には、旅のために不要と思われるような「()(こっ)()」をも呼び寄せられました。加えて、ふさわしい人」(原意「義」)、ペルシア王キュロスが現れ、平和()(つるぎ)」や「」を用いて、新しい道を造り出しました。それによって、暗黒の世に光が(とも)されました。

そうして時満ちて、主イエス・キリストが現れました。主イエスは、教会を建て、信仰者の群れを呼び集められました。現在の世界の諸教会の原型が、「七つの燭台は七つの教会である」と呼ばれている教会にあります。「(しょく)(だい)」になぞらえられているように、教会の重要な使命は、「諸国の光」(イザヤ書42:6)となることにあります。

あなたがたは世の光である」(マタイ5:14)という使命を教会が果たすために最も大事なことは、「燭台の中央には、人の子のような方がおり」(ヨハネ黙示録1:13)という主イエス・キリストを礼拝することです。

バビロン捕囚の(さい)()によって、ユダヤの礼拝共同体は、「その方(神・キリスト)を見ると、その足もとに倒れて、死んだようになった」という経験をしました。しかし、彼らはエゼキエルの派遣、そして第二イザヤの宣教によって、御言葉にあずかりました。(はい)(きょ)から、罪と死の恐怖から立ち上がりました。

 

教会には代々(よよ)に、大きな災禍が襲って来ます。しかし、その教会には、「(わたしは一度は死んだが、見よ、わたしは世々限りなく生きて(いる者である)」との主イエス・キリストの御言葉が響きわたっています。キリストが罪と死に勝利されました。聖霊が、イエス・キリストの真実をわたしたちに教え続けています。 

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

〈説教の要約〉

2021年 5月23日  聖霊降臨日(ペンテコステ)          

旧約聖書 詩編143編 7節~12節

新約聖書 使徒言行録 2章1節~13節

         「一同が一つになって」  

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 恵み深いあなたの霊によって      ……詩編143             

Ⅱ 一同は聖霊に満たされた                ……使徒2:1-4 

Ⅲ 神の偉大な(わざ)を語っているのを聞く      ……使徒2:5-11    

Ⅳ 驚き、とまどう者とあざける者がいた  ……使徒2:12-13          

結 び

 

今年、44日の復活日から、40日後の昇天日を経て、本日、523日、聖霊降臨日が巡って来ました。

使徒たちや女性たちは、主イエスの昇天後、「家の中で」、熱心に祈り(使徒1:4)、新たな祭りを迎えようとしていました。50日前には、ユダヤ教の過越祭に重なり合う形で、主イエス・キリストによる救いの御業が成し遂げられました。主イエスが「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)として十字架につけられました。三日後に、主イエスはよみがえり、私たちを罪と死から解放してくださいました。

今、ユダヤ教の三大祭の一つである「(なな)(しゅう)(さい)」が近づいていました。「七週祭」というのは、「過越祭」から50日を数えた日に催されるもので、「()(じゅん)(さい)」(マカバイ記 12:32)または「刈り入れの祭り」(出エジプト記23:16)とも呼ばれます。

使徒たちや女性たちは40日の間、よみがえられた主イエスに出会い、主から直接、神の国について話を聞かされました。そのような、キリストを信じる「百二十人ほどの人々が一つになって」(使徒1:15)、ユダヤ教の「七週祭」を迎えようとしていたのです。

言うまでもありませんが、この当時、キリスト者が「七週祭」・「五旬祭」を、どのように祝うか、定めがあったわけではありません。その一方で、ユダヤ人の律法の書、レビ記23:15-21や申命記16:9-12において、七週祭」の守り方が規定されていました。これは、一日のみの祭りとされ、春の収穫の献げ物など奉納物に関する(おきて)がありました。

当然、ユダヤ人であるペトロたちは、ユダヤ教の「七週祭」の重要性を知っていました。ましてや今、使徒たちや女性たちは「七週祭」を待望する熱気に包まれていた都エルサレムにとどまっていたのですから、果たして自分たちはどのように、この祭りを祝えばよいのか、と思案していたに違いありません。

使徒たちや女性たちが「七週祭」の直前の10日に為したことは、次のようなことでありました。

すなわち、「家の中で」、ペトロの「一つの信仰的な提案」(使徒1:16-22)に耳を傾け、イスカリオテのユダの裏切りの罪を想起して、自ら悔い改めること、そして、自分たちの欠けを神が充足してくださるように祈ることでありました。その中で、「主の復活の証人になるべき」、もう一人の使徒が加えられました(使徒1:22,26)。そのようにして神は、選ばれた者たちを(もとい)として礼拝共同体を回復させ、「神の国」というビジョン・(まぼろし)〉を示されたのです。

ただし、ユダヤ教の「七週祭」に関しては、恐らく、何の準備も協力もしていなかったでありましょう。果たして、キリストを信じる者たちは、「七週祭」を横目で眺めているだけになるのでしょうか。キリストの復活から50日目の「五旬祭」は、何事もなく(むな)しく過ぎ去っていくのでしょうか。

 

Ⅰ 恵み深いあなたの霊によって       

新約聖書に記されている「聖霊降臨」の出来事を読む前に、旧約聖書を通して、「」の働きを(とら)えることにしましょう。

詩編143:7―― 

主よ、早く答えてください

わたしの霊は()え入りそうです。

()(かお)をわたしに隠さないでください。

わたしはさながら(はか)(あな)に下る者です。

詩人は今、「わたしの霊は絶え入りそう」という苦難の中にあります。「とこしえの死者と共に」、墓穴に閉じ込められそうになっています(詩編143:3,7)。

詩人は「主よ」と祈り、「主よ」と答えを待っています。神への信頼は揺らいでいません。

詩編143:8―― 

朝にはどうか、聞かせてください

あなたの慈しみについて。

あなたにわたしは依り頼みます。

行くべき道を教えてください

あなたに、わたしの魂は(あこが)れているのです。

詩人は「災い」や「苦しめる者」に囲まれています(詩編143:12)。四方八方が(ふさ)がっています。しかし、さまざまな制約に囲まれていても、天は開けています。「あなたに、わたしの魂は(あこが)れているのです」という文の直訳は、「わたしはわたしの魂をあなた(主)に向かって上げます」となります。

そうです、まさに詩人は、「ただ主のみを見あげて」、「心を高くあげよぅ」(讃美歌Ⅱ-1番)と歌っています。

詩編143:10―― 

()(むね)を行うすべを教えてください。

あなたはわたしの神。

恵み深いあなたの霊によって

安らかな地に導いてください。

あなたはわたしの神」というのは、単純にして力強い信仰告白です。その言葉による告白は、詩人を「()(むね)を行う」という善い(わざ)の実践へと導きます。わたしの魂」をもって神を信じ喜ぶならば、わたしたちの行いは聖化させられます(Ⅰテサロニケ4:7)。

最後に、「恵み深いあなたの霊によって 安らかな地に導いてください」という文に注目しましょう。

これは、五月の澄んだ空を見上げているような、詩人の祈りです。「あなたの霊」の「恵み深い」ことを、そして、あなたの「」の「安らかな」ことを()(とお)しています。神への深い信頼がなければ出てこない言葉です。「あなたの霊によって……導いてください」と、来たるべき日を待望する詩人の祈りは、エルサレムの「屋上の()」の祈りに引き継がれました。そうして、使徒たちや女性たちは、「あなたの霊」がまことに「恵み深い」ことを体験することになりました。

 

Ⅱ 一同は聖霊に満たされた                  

使徒言行録2:1-4――

1 五旬祭の日が来て、一同が一つになって集まっていると、2 突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。3 そして、(ほのお)のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。4 すると、一同は聖霊に満たされ、“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした。

ユダヤ民族の大祭の()(ちゅう)にあって、巡礼者のあふれる聖地の、一つの小島ように、「一同が一つになって集まって」いました。先の「()(むね)を行うすべを教えてください」(詩編143:10)との謙虚な願いの通り、人間の側では何を為したらよいのか、分かりません。キリストを信じる者たちは、ただ「一つになって」、エルサレムの「家の中に」とどまっていました。それが、主の「御旨」だったのです。不要なことを(はい)し、家で「座っていた」ことが最善の準備でありました。

ユダヤ民族の「七週祭」の伝統を引き継いだ、新しい「()(じゅん)(さい)」が、どのようなものであるか、は神が上より示してくださいます。

使徒言行録2:1-4には、新しい五旬祭」に、何が起きたのか、具体的に記述されています。ひと言でいえば、「聖霊」が(くだ)って来たということです。中心聖句(使徒2:1,4)をつなげると――

日が満ちて五旬祭が来た。すると、一同は聖霊で満たされた」となります。

恵み深いあなたの霊によって」(詩編143:10)、キリストの復活から50日目の祭りが確立されました。この年以来、教会誕生の日として代々に伝えられる「五旬祭」、改め、ペンテコステが祝われるようになりました。使徒言行録2:2:3では、聴覚的ならびに視覚的に、「聖霊降臨」の様子が描かれています。

「〈前半〉そして、激しい風が吹いて来るがごとくが響いた ……聴覚的

〈後半〉そして、彼らが座っていた家中に満ちた

「〈前半〉そして、炎のごとき分かれたが現れた          ……視覚的

〈後半〉そして、一人一人の上にとどまった。                  (一部私訳 参照:荒井献)

節の前半で、聖霊降臨の出来事が描かれ、その後半で、それが人間にどのように影響したかが記されています。聖霊にまつわる「」により、人の耳に、また、「」により、人の目に、上よりの力が伝達されました。

その際、「一人一人の上にとどまった」という「炎のような舌」は、キリスト者に「語る力」を与えました。すなわち、「“霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということです。K.バルトは、「聖書(使徒2:1-13)によれば、聖霊は語ることの霊である」と述べています。

言い換えれば、それは、「聖霊に満たされた」人が、説教を行い始めたということです。すでに読んだ通り、聖霊降臨直前に、ペトロは「一つの信仰的な提案」を行いました(使徒1:15-22)。しかし、それは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を宣べ伝える「説教」ではありませんでした。

聖霊降臨が起こった直後に、ペトロは立ち、声を張り上げて話し始めました。それはまさに、「聖霊」がペトロによって語らせた、福音的な「説教」でありました(使徒2:14-36)。「聖霊」の導きのもとに、「説教」が語られる礼拝共同体・教会が誕生したのです。

次の段落では、なぜ、「ほかの国々の言葉」、つまり、エルサレムの地元の言葉でない「言葉」が語り出されたのか、が説き明かされます。

 

Ⅲ 神の偉大な(わざ)を語っているのを聞く                

使徒言行録2:5-11――

5 さて、エルサレムには天下のあらゆる国から帰って来た、信心深いユダヤ人が住んでいたが、6 この物音に大勢の人が集まって来た。そして、だれもかれも、自分の故郷の言葉が話されているのを聞いて、あっけにとられてしまった。7 人々は驚き(あや)しんで言った。「話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか。8 どうしてわたしたちは、めいめいが生まれた故郷の言葉を聞くのだろうか。9 わたしたちの中には、パルティア、メディア、エラムからの者がおり、また、メソポタミア、ユダヤ、カパドキア、ポントス、アジア、10 フリギア、パンフィリア、エジプト、キレネに接するリビア地方などに住む者もいる。また、ローマから来て滞在中の者、11 ユダヤ人もいれば、ユダヤ教への改宗者もおり、クレタ、アラビアから来た者もいるのに、彼らがわたしたちの言葉で神の偉大な(わざ)を語っているのを聞こうとは。」

ほかの国々の言葉」の出現を念頭に置きながら、大局的に眺めわたすと、次のことが明らかになります。

すなわち、「日が満ちて五旬祭が来た」時、よみがえられた主イエスが語っておられた(使徒1:8)、初めに、「家の中で」、次に、「外で」という福音宣教の展開が実地に起こってくるということです。そして、この「外で」というのは、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」というように拡張を遂げていきます。その発端(ほったん)となる「事件」が、家の中に座っていた使徒たちや女性たちが、都の通りへと出て行ったということです。

何よりも重要なのは、「すると、一同は聖霊で満たされた」ことを原点として、福音が全世界に(ひろ)がってゆくということです。聖霊なる神は、人の身も魂も開放し、主イエスの御前に信仰者をへりくだらせて、世に遣わします。聖霊は、人の信仰告白を支え導きます(Ⅰコリント12:3)。証しの用意の無かった伝道者を、「主の復活の証人」として立たしめます。

聖霊によって信仰者の身と魂が開放されているかぎり、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」という方向性は維持されます。それ故に、世界大の宣教は、各個教会が(にな)うべき(わざ)であり、また祈りの課題であります。

一方、地元のエルサレムの人から見て、「ほかの国々の言葉」、他方、天下のあらゆる国から帰って来たユダヤ人から見て、「自分の故郷の言葉」が、都で話され、また聞かれていました。

話をしているこの人たちは、皆ガリラヤの人ではないか」との言葉通り、ペトロはじめ使徒の多くはガリラヤ出身でした。「ガリラヤなまり」であれ、何の語学的スキルもなかった人が、ほかの国々の言葉」で語るのは奇跡です。同時に、遠路はるばる巡礼に来た人が、「自分の故郷の言葉」を聞いて理解するのもあり得ないことです。

ほかの国々の言葉」で語り伝えることも、また、「自分の故郷の言葉」を聴き取ることも、すべてが聖霊の働きでありました。中でも、エルサレムに集った大勢の人が、「神の偉大な(わざ)を語っているのを聞く」ことに、聖霊の働きは集中されました。突如として起こった聖霊の活動に、十二使徒が、あるいは百二十人の信仰者が用いられました。「分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった」という「(ほのお)のような舌」の力が、信仰者に宿りました。

聖霊降臨の直前、使徒たちや女性たちは、「心を合わせて熱心に祈り」、「一つになって」いました(使徒1:14-15)。そして、聖霊降臨祭が巡って来たとき、エルサレムにおいて、聖霊が(くだ)り、一人一人に聖霊の賜物が授けられました(Ⅰコリント12:7-11)。信仰者の間に、新たに聖霊による一致(エフェソ4:4)が生まれました。そこに、主イエス・キリストによる「神の偉大な(わざ)」を信じるようになった、各地からの巡礼者が加えられました(使徒2:41)。使徒言行録2章の本文に「教会」という用語が出ていませんが、この日、エルサレムに神の「教会」が誕生したことは、真実でありましょう(使徒言行録では5:11が「教会」〔ギリシア語:エクレシア〕の初出です)。

 

Ⅳ 驚き、とまどう者とあざける者がいた          

使徒言行録2:12-13――

12 人々は皆驚き、とまどい、「いったい、これはどういうことなのか」と互いに言った。

13 しかし、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」と言って、あざける者もいた。

聖霊降臨について、人々の反応が二分されたと報告されています。

一方、「驚き、とまどい」というのは、心の動揺を現しています。「これはどういうことなのか」との疑問を(いだ)く人への対応は、明確です。聖霊の導きのもとに、「説教」することです。

恵み深いあなたの霊」がとまどっている人に注ぎ込まれれば、その人の心は安らぐでありましょう。それによって、「説教」で、主イエス・キリストの十字架と復活の御業が語られるのを聞くという姿勢が整えられます。

他方、「あの人たちは、新しいぶどう酒に酔っているのだ」というのは、浅はかな見方を現しています。他者の振る舞いを傍観しているだけです。「これはどういうことなのか」と、深く考えようとしません。結局、聖霊によって「神の偉大な(わざ)」が語られていることに、耳を閉ざしています。

 

結 び

あざける」(使徒2:13)というのは、人を見下すことですから、その人自身の内に謙虚さがありません。謙虚さが無いということは、自分の弱さや欠けを認めないということです。

使徒たちや女性たちは、「心を合わせて熱心に祈る」人々でありました。そこで彼らは、自分の欠点、兄弟姉妹の弱さ、そしてイスカリオテのユダの裏切りの罪に向き合いました。罪を告白したこともあったでしょう。

同時にそこにあったのは、自分たちの欠けに、神の御手が触れ、癒やしてくださるという希望でありました。飢え渇いている「わたしの魂」(詩編143:8,11,12)が、「恵み深いあなたの霊」によって満たされることです。聖霊が天井を突き抜いて(くだ)、家中に満ちあふれました。聖霊が、一人一人の内に注がれました。

聖霊の恵みによって真実に、彼らは救われた者となりました。そこに、聖霊の賜物を分かち合い、愛の交わりを建て上げていく教会が誕生したのです。

最後に、ペトロによる教会最初の「説教」に対する人々の反響を引用しましょう。

使徒言行録2:41-42――

41 ペトロの言葉を受け入れた人々は洗礼を受け、その日に三千人ほどが仲間に加わった。

42 彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。

聖霊に満たされた信仰者の群れは、「説教」に対し、感謝と喜びをもって、(ただ)しい応答しています。人間による設立趣意書ではなく、人の思いを超えた神の計画によって、教会は建てられます。ここに、「説教」・「洗礼」・「聖餐」・「祈り」を基盤とする教会が出現していることが、何よりの証拠です。

初めの教会の成り立ちは、わたしたち、茅ヶ崎香川教会にとって、大きな支えとなり励みとなります。

 

なぜなら、それは、「神の偉大な(わざ)」だからです! 聖霊は終わりの時に至るまで、私たちが神の偉大な(わざ)」を宣べ伝え、聴き取るよう、働き続けています。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・〈説教の要約〉

2021年 5月16日                             

旧約聖書 詩編69編 26節(P.903

新約聖書 使徒言行録 1章12節~26節P.213

        「主の復活の証人になる」

                     小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 使徒の名前が数え上げられる     ……使徒1:12-14             

Ⅱ ペトロの信仰的な提案             ……使徒1:15-19

Ⅲ ユダの(のこ)した土地と地位に関する預言 ……使徒1:20  

Ⅳ 主の復活の証人になる         ……使徒1:21-22         

Ⅴ そして、人々は祈った           ……使徒1:23-26

 

本日は、この5月に3回行う使徒言行録の説教の第2回目となります。第3回目は次週、聖霊降臨日(ペンテコステ)に行います。

今年のキリスト教の(こよみ)に従えば、44日の復活日から40日後、513日に昇天日が(めぐ)って来ました。そして、その10日後、523日に聖霊降臨日を迎えます。本日のテキスト、使徒言行録1:12-26に描かれているのは、復活日から数えて、40日目~50日目の間の出来事であるということになります。

大事な「受験本番直前」ではありませんが、この聖霊降臨日の直前、10日間、使徒たちや女性たちは、どのように過ごしていたのでしょうか? 残り10日、信仰者が初代教会の形成に向けて、神の計画のもとで準備していた様子を(とら)えることにしましょう。

その前に、使徒言行録1:12-26の場面状況を確認しておきましょう。ルカ福音書24章から使徒言行録1章へという展開を眺めてみると、次のことが分かります。

すなわち、復活日、特にその夜から、40日後の昇天日にかけて、初めに、「家の中で(ルカ24:33-36、使徒1:4、次に、「外で」(使徒1:6,9-10)という人々の足取りが確認されます。そのような進展によって、人々を恐れから解放し、伝道に派遣するという道筋が示されています。

そして、この「外で」というのは、やがて、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」と拡張されていきます。このような世界大の広がりを見渡すならば、自ずから聖霊なる神の働きが明らかになります。つまり、聖霊なる神は、人の身も魂も開放し、信仰者をへりくだらせて、世に遣わすということです。その拠点として、「エルサレム」に、教会が建てられます。

主イエス・キリストの行いと教えを宣べ伝えるために、初めに、「家の中で」の礼拝と祈りが整えられ充実されねばなりません。主の十字架の御業によって、罪と死から解き放たれることこそ、「外で」の伝道の原動力となります。

さて、聖霊降臨日、「本番直前」の準備が、どこで為されるかといえば、それは、「家の中で」あります。主イエスご自身、「エルサレム」→「ユダヤとサマリアの全土」→「地の果てに至るまで」という伝道の〈ビジョン・(まぼろし)〉を示されました(使徒1:8)。しかし、キリスト教の世界大の拡張は、時が満ちて、聖霊降臨の出来事が起こってから、であります。自分が自分がと意気込んで前のめりになってはなりません。聖霊の風を(はら)んで、伝道の良き船出ができるよう、今は「家の中で」待っていることです。

使徒言行録1:12-26に書かれている出来事は、1:13の「泊まっていた屋上の()」ならびに次章 2:2の「一同が座っていた家」という場所の表示に基づき、「家の中で」あると考えられます。使徒たちや女性たちが「屋上の()」で、どのような準備をしたのか、見てみましょう。その準備というのは、わたしたちの教会でも、聖霊降臨日を迎える前に、()しておくべきこと、または、悔い改めをもって心に刻むべきことであります。

初代教会が誕生直前のこと、その闇の前史が掘り下げられるというと、皆さんの関心が呼び覚まされるでしょうか。聖霊が(くだ)り、光の世界へと引き出される前、信仰者はどのようにその闇と向き合ったのか、それでは読んでいきましょう。

 

Ⅰ 使徒の名前が数え上げられる              

使徒言行録1:12-14―― 

12 使徒たちは、「オリーブ畑」と呼ばれる山からエルサレムに戻って来た。この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある。13 彼らは都に入ると、泊まっていた家の上の部屋に上がった。それは、ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダであった。14 彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。

オリーブ山(オリーブ畑)のように開放された野辺(のべ)で、「天に()げられた」イエスを見送った後に、使徒たちはエルサレムの「泊まっていた家の上の部屋」に戻って来ました。「この山はエルサレムに近く、安息日にも歩くことが許される距離の所にある」という補足説明は、使徒たちが「エルサレムを離れず」にいる(使徒1:4)ということを裏づけています。彼らは主イエスの命令を忠実に守っています。

さて、使徒たちや女性たちが「屋上の()」(家の上の部屋)で、第一に為したことは、「使徒」のメンバーを確認することでした。ちなみに、ルカ福音書・使徒言行録では、「十二弟子」ではなく、「十二使徒」と呼び慣わされています。両文書において、ただ「弟子たち」と言えば、すべてのキリスト者を表すことになります(ルカ6:13、使徒9:1W.H.ウィリモン)。

もはや「百二十人ほどの人々が一つになっていた」(使徒1:15)というのですから、今さら、「十二使徒」を数えることに、何の意味があるのでしょうか。神の祝福のうちに、信徒の数は、「百二十人」(使徒1:15)→「三千人」(使徒2:41)→「五千人」(同上4:4)→「幾万人」(同上21:20)というように急増していきます。ついでながら、「屋上の()」に、「百二十人ほどの人々」が入りきれていたのかどうか、不明ですが……。

そのような信徒増大という祝福の源泉に、「十二使徒」の選びがありました(ルカ6:12-16)。「十二人」が十倍になり、「百二十人」となったのです。単に数合わせをしようとか、縁起の良さそうな数にしたいとか、いうことではなく、主イエスが選んで「使徒」として任命された「十二人」というメンバーが満たされることが大事だったのです。一堂(いちどう)会したとき人々は教会の兄弟姉妹の交わりの基盤に、「十二使徒」があるということに気づかされたのです。それ故に、初めの教会が建てられようとする直前、その準備として、使徒の補充が行われました。

実際、「ペトロ、ヨハネ、ヤコブ、アンデレ、フィリポ、トマス、バルトロマイ、マタイ、アルファイの子ヤコブ、熱心党のシモン、ヤコブの子ユダ」と点呼してみると、十一人で一人欠けていました。イスカリオテのユダの名がありません。自分たちの欠けが神によって補われるというこが、目下の課題でありました。

使徒たちがエルサレムに戻って、第一に為した「使徒のメンバー確認」に引き続いて、第二には、「祈り」がささげられました。

初めに家の中で」、そして、次に、「外で」というの神の計画の展開から観て、家の中で、「彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた」ことは注目に価します。静まって、今(つど)っている自分たちの欠けに触れ、「自分の(あやま)ちと罪」を(かえり)るというのが聖霊降臨日の直前、10日間に求められていることです。その室内は、皆が引きこもって、祈りに集中する格好(かっこう)場所でありました。

 

Ⅱ ペトロの信仰的な提案        

使徒言行録1:15-19―― 

15 そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。16 「兄弟たち、イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダについては、聖霊がダビデの口を通して預言しています。この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです。17 ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました。18 ところで、このユダは不正を働いて得た報酬で土地を買ったのですが、その()(めん)にまっさかさまに落ちて、体が真ん中から裂け、はらわたがみな出てしまいました。19 このことはエルサレムに住むすべての人に知れ渡り、その土地は彼らの言葉で『アケルダマ』、つまり、『血の土地』と呼ばれるようになりました。」

この箇所は、「ペトロの演説」と(しょう)されることもありますが、内容に即せば、ペトの信仰的な提案と呼ぶのが的確でしょう。ここでペトロは、論点(しぼ)る形で問題を取り上げ、解決の道を探っています。参考までに言えば、「ペトロの説教」と称するに価するものは、聖霊降臨後に初めて行われます(使徒2:14以下)。

使徒ペトロが絞った論点とは、「イエスを捕らえた者たちの手引きをしたあのユダ」のことです。つまり、イスカリオテのユダがイエスを裏切り、十字架につけようとする者たちの手に渡してしまったということです。ユダは(かたわ)らで、主イエスがこの上もない愛」(ヨハネ13:1)をあらわしているのを見ていましたが、彼は主イエスを、神に(そむ)く者たちに「引き渡しました」。途中で自分は手を洗い(マタイ27:24)、最終的な(あく)(ぎょう)を誰かに押しつけ、自分は雲隠れしてしまいます。()(そく)なやり方で、大きな罪を犯しました。

ところで、「ユダはわたしたちの仲間の一人であり、同じ任務を割り当てられていました」と語ったペトロは、この時、何を考えていたのでしょうか。

ユダは(ひと)(たび)、イエスを裏切り、自分は()(たび)、イエスを知らないと言った(ルカ22:54-62)ことを、ペトロは思わざるを得なかったでありましょう。「ペトロの否認」事件は、わずか40日前のことであります。ユダの罪は前代未聞の大きな罪、それに対し、自分の罪は小さな罪であると言うほど、今のペトロは尊大ではなかったはずです。

皆が勢ぞろいすべき、主の晩餐で一人が逃げ出し、一心同体であった使徒の群れに()(れつ)走りました。復活日から昇天日へと至る40日間に、使徒たちは主イエスが彼らに現れたことを通し、多くの慰めと励ましを受けました。その中でなお、満たされたいないことがありました。それが、「使徒」の欠員、教会の基礎メンバーとなるべき「自分たちの欠け」だったのです。その回復されるべき「欠け」というものは、時に人間の罪によって、また時に、神の与え給う苦難によって引き起こされていると見られます。

この聖書の言葉は、実現しなければならなかったのです」――ペトロは冷静に、このような事態に陥ってしまったことを受け止めていました。「わたしたちの仲間の一人」、イスカリオテのユダに対して、殊にユダが死んでしまったことについて、ペトロは胸につかえる思いであったかも知れません。しかし、ペトロは自分の考えではなく、神の計画を映し出す御言葉に寄り頼みました。それ故に、わたしはこれを「信仰的な提案」と呼んだのです。

 

Ⅲ ユダの(のこ)した土地と地位に関する預言 

使徒言行録1:20―― 

「詩編にはこう書いてあります。

『その住まいは荒れ果てよ、

そこに住む者はいなくなれ。』

また、

『その務めは、ほかの人が引き受けるがよい。』」

ここでは、詩編の二つの句、①詩編69:26と②詩編109:8が引用されています。引用元の旧約原文を踏まえながら、「イスカリオテのユダに関する預言とその成就」として、①と②を意訳すると、こうなります。

①詩編69:26――

  神に逆らう者が自分の「住まい」に購入した場所は今や、「血の土地」になってしまった。

神が憤りをユダに注がれて、「そこに住む」という計略を(はば)まれたのだ。

②詩編109:8――

  主イエスが祈りと選びをもってユダに託された地位を取り上げよ。

ほかの人が引き受けるがよい」。

ユダにおいて、「彼の生涯は短くされ(旧約本文)、死んだことが成就したのだ。

ちなみに、①と②で鍵語になっている「場所」と「地位」は、ギリシア語では「トポス」という同一の用語で、掛詞になっています(使徒1:25」と「任務」;G.シュテーリン)。「場所」にせよ、「地位」にせよ、「トポス」は神の御心のうちに、放置されもし、また、継承されもするということです。

ペトロはこうして神の御言葉に()りながら、継承すべき使徒職の「地位」をどうするのか、具体的な提案へと進んで行きます。

 

Ⅳ 主の復活の証人になる         

使徒言行録1:21-22 ペトロの提案―― 

「そこで、主イエスがわたしたちと共に生活されていた間、つまり、ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです。」

自分たちの欠け」を見つめ直す中で、ペトロは、何が福音の核心であるか、議論を掘り下げていきます。

ところで、神の御手が働いて(歴代誌下30:12)、エルサレムの或る家の「屋上の()」に召し集められた人々には、(くし)しき一致が見られました。

使徒言行録1:14―― 

彼らは皆、婦人たちやイエスの母マリア、またイエスの兄弟たちと心を合わせて熱心に祈っていた。      

使徒言行録1:15―― 

そのころ、ペトロは兄弟たちの中に立って言った。百二十人ほどの人々が一つになっていた。

確かに、それは一つの「屋上の()」という場面設定によって呼び覚まされたものであります。しかし、それだけであれば、初めに「家の中で」、そして次に「外で」という進展の中で、兄弟姉妹の一致は(ゆる)んでゆくかもしれません。どのような状況下でも、()るがない一致は、信仰において一つ(エフェソ4:5)ということ以外にあり得ません。

ペトロは、「信仰において一つとなる」ことを支え伝える使徒こそ、新たに選出されるべきだと示されました。彼が、「ヨハネの洗礼のときから始まって、わたしたちを離れて天に上げられた日まで、いつも一緒にいた者の中からだれか一人が、わたしたちに加わって、主の復活の証人になるべきです」と提案したのは、神の御心に添うことでありました。なぜなら、「なるべきです」という意味は、「自分の考えでは~に違いない」というのではなく、「神の定めに従えば~になるはずだ」ということだからです。

元々、「使徒」とは、「神から遣わされた者」の意です。いつも主イエスに結び付いて、神と人とに仕えている者が、「使徒」なのです。「神の定め」に()っているという信仰が無ければ、「使徒」の務めを果たし得ないでしょう。

今、使徒たちや女性たちは、主イエス・キリストによって生かされています。彼らがそのように生かされているのは、「生き、十字架につけられて死に、よみがえり、天に昇って行かれた」主イエス・キリストを、救い主と信じているからです。自分たちに与えられた救いは、神の恵みにほかならない、と告げ知らせることが、彼らの使命でありました。

神が、新たに「主の復活の証人になる」使徒を加えることを約束されました。人間的に見れば、期待と不安が交錯(こうさく)するように状況でありました。一堂に会した人々は、ペトロの信仰に導かれて、神の御前に最善を尽くしました。

 

Ⅴ そして、人々は祈った     

使徒言行録1:23-26――

23 そこで人々は、バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立てて、24 次のように祈った。「すべての人の心をご存じである主よ、この二人のうちのどちらをお選びになったかを、お示しください。25 ユダが自分の行くべき所に行くために離れてしまった、使徒としてのこの任務を継がせるためです。」 26 二人のことでくじを引くと、マティアに当たったので、この人が十一人の使徒の仲間に加えられることになった。

幸いにも、ペトロの信仰的な提案は受け入れられました。人々は審議を尽くして、「バルサバと呼ばれ、ユストともいうヨセフと、マティアの二人を立て」ました。人間の側の準備はなし終えました。

最初に主イエス・キリストが十二使徒を選び出そうとされたとき、主は山に退いて一晩、祈られました(ルカ6:12)。そのことを想起したのでしょう。この度の補充の際、人々は主なる神に祈りました。一人の使徒の誕生を、主にゆだねたのです。

くじを引くと、マティアに当たった」――「すべての人の心をご存じである主」は、一人を大切にされます。「小さな者」(マタイ18:10)の一人を探し出して、十一人の中に戻してくださいます。

ヨハネ福音書13:21-30の説教要約より――

神は、「イスラエルの12部族」(創世記49:28、マタイ19:28、そして、「ヤコブの12人の息子たち」(創世記35:22-26)を(きた)え、教え、導くことを通して、愛と正義をあらわされました。ヤコブの息子たちが(たくら)んでヨセフ一人をのけ者にしましたが、神は、兄弟12人を「一心同体」のものとして、危難から救い出しました。

主イエスが一人を大切にされるのは、「わたしの目にあなたは価高く、(とうと)く わたしはあなたを愛し」ておられるからです(イザヤ書43:4)。同時に、主の群れ全体に心を配ってくださいます。聖霊降臨の前にあたって、主イエスが「神の国について話された」(使徒1:3)というのは、一人ひとりの賜物を生かして、キリストの体なる教会を建て、聖霊の導きのもとで、神の国が到来するのを待ちなさい、ということではなかったでしょうか。

この一週間、聖霊が茅ヶ崎香川教会の上に豊かに(くだ)って来るよう祈りを合わせましょう。

 

神の恵みにより、「自分たちの欠け」がふさわしい時に、驚くべきかたちで満たされますように

月報5月号

 説教 水が聖所からき出ているからである

       エゼキエル書 47章1節~12節          小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 深い川       ……エゼキエル書47:1-6   〈第一の驚異〉             

Ⅱ 死海に流れ入る    ……エゼキエル書47:7-11 〈第二の驚異〉

Ⅲ 川のほとり         ……エゼキエル書47:12  〈第三の驚異〉  

Ⅳ 天使はわたしに命の水の川を見せた

          ……ヨハネの黙示録22:1-5〈将来起こる驚異〉         

 

使徒パウロは、信仰者に「上にあるものを求めなさい」(コロサイ3:1)と教えました。新しい命の中で、「神の右の座に着いておられる」キリストを見上げていこう、ということです。「上にあるもの」は、この地上の被造物全体に、わたしたちの生活の隅々(すみずみ)に、輝きと(うるお)いをもたらします。

終わりの時に、わたしたちは、「神の右の座に着いておられる」キリストと再会します。わたしたちは今、この世でその時を待ち望んでいます。

ところが時に、わたしたちの身の上に、「上にあるものに心を()」られず、「地上のものに心を引かれ」る(コロサイ3:2)ことが起こります。喜びに(ひた)っている時にも、悲しみに沈んでいる時にも、「地上のもの」に心が奪われる可能性があります。「もっとたくさん持ちたい」という欲望は、人の向上心や頑張りを喚起します。が、往々(おうおう)にして、そこに(ひそ)んでいる悪徳の(わな)が見定められなくなります。

神の右の座に着いておられる」キリストを見上げることを(もとい)としつつ、旧新約聖書には、待ち望むべき「上にあるもの」、神の国、新しい命がさまざまに描かれています。その美しく豊かな叙述は、わたしたちのこの世の生活全体が、「上にあるもの」への方向づけられるように導きます。うつむいている時、力を喪失している時にも、神の国が到来するという約束が、わたしたちの手と心を引き上げるのです。

本日は、エゼキエル書とヨハネの黙示録を通して、わたしたち・信仰者が(いだ)くべき、将来の〈ビジョン・(まぼろし)〉を読むことにしましょう。具体的には、エゼキエル書47:1-12とヨハネの黙示録22:1-5とを比較しながら、その共通点を(さぐ)ります。両者に共通点があるのは、〈約束〉と〈成就〉とが一致していることにほかなりません。つまり、それは、〈約束〉と〈成就〉を支配する神の御心が、「自分の(あやま)ちと罪のために死んでいた」人間(エフェソ2:1)の挫折や反抗にもかかわらず、不変であることを示しています。

それでは、天にまします神に向かって、自分の手と心が引き上げられるよう(哀歌3:41)、賛美の姿勢を忘れずに、神の〈約束〉が〈成就〉される光景を眺めましょう。それは御心ならば、将来、あなたが入ることを許される神の国なのです。

恵みを超えて恵みを」(ヨハネ福音書1:16)の句の通り、主キリストの「恵み」は、次から次へと大波小波のように、私たちに押し寄せて来ます。ヨハネの黙示録22章の〈成就〉が、エゼキエル書47章の〈約束〉を大きく超えているところがありますので、とくとご覧ください。

初めに、エゼキエル書47章についての概説(がいせつ)をしましょう。

エゼキエル書の最終部分、40章-48章の主題は、「聖なる神殿とそれに帰属するイスラエルの土地と民」です。土地が配分され、そこで民が生活する()り所として、神殿、すなわち、礼拝する場が存在しているということです。その中で、エゼキエル書47:1-12は全体を集約するような焦点になっています。第一・第二・第三、三つの驚異に分けて見ましょう(参照:W.アイヒロット ATD旧約聖書註解)。

 

Ⅰ 深い川 〈第一の驚異〉             

エゼキエル書47:1-6――

1 彼はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から()き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。2 彼はわたしを北の門から外へ回らせ、東に向かう外の門に導いた。見よ、水は南壁から流れていた。3 その人は、手に測り縄を持って東の方に出て行き、一千アンマ(約450mを測り、わたしに水の中を渡らせると、水はくるぶしまであった。4 更に一千アンマを(はか)って、わたしに水を渡らせると、水は(ひざ)に達した。更に、一千アンマを測って、わたしに水を渡らせると、水は腰に達した。5 更に彼が一千アンマを測ると、もはや渡ることのできない川になり、水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった。6 彼はわたしに、「人の子よ、見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。

天からの使(つか)いとも言える案内人(エゼキエル書40:3)によって、預言者エゼキエルは、「神殿の入り口に連れ戻」されます。ということは、神が預言者に、聖なる重大事を開示するということです。

エゼキエル書47章の1節から5節まですべての節に、「」が出てきます。6節で、「人の子よ、見ましたか」との問いが投げかけられていますが、その答えは「」で間違いありません。詳細には、「水が神殿の敷居の下から()き上がって……水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川になった」という有り様を見たのです。多分、圧倒的な迫力だったのは、神殿を行き巡り、東へ流れている「川の水」でありましょう。

顧みれば、エゼキエルは、ある谷で「枯れた骨」の散乱している周りを行き巡ったことがありました。それもまた、エゼキエルが主の霊によって連れ出され、そこに()ろされて体験させられたものでありました(エゼキエル書37:1-14)。

枯れた骨」と「枯れた骨」とが互いに近づき、その上に(すじ)と肉が生じ、霊がそれらの中に入って、人々が生き返りました。今度は、(あふ)れるばかりの「…」という中で、一体何が起こるのでしょうか?

第一の驚異の核心は、神殿が川の水の源流になっている(エゼキエル書47:1,12)ということです。川の水が神殿から流れ出すというのは、この世の出来事ではなく、将来の〈ビジョン・(まぼろし)〉であります。つまり、地を潤す「恵みの雨」の源泉は、エゼキエルが見させられたように、(あめ)なる神殿にあるということです。

この世の(かわ)いたエルサレムには、「水は増えて、泳がなければ渡ることのできない川」は見当たりません。しかし、地のどこにあっても、神がいまし、民が礼拝するところに、「恵みの雨」が降って来ます。それほどまでに、「神殿の敷居の下から()き上がって」くる水流は豊かなのです。

イザヤ書26:19後半 会衆の賛美―― 

あなた(神)の送られる(つゆ)は光の露。

あなたは()(りょう)の地にそれを()らせられます。

まさに神が、露を「送られ、()らせられ」る源は、天であります。草葉の陰に宿る「光の露」一粒一粒に、神殿に「」がみなぎっている様が映し出されています。「(つゆ)」、「」、何であれ、尽きることがないというのは、それらが神のもとから来ていることを証ししています。それどころか、エゼキエルの見た川がぐんぐん水量を増していったように、終わりの時に向けて神の恵みはいや増していきます。

 

Ⅱ 死海に流れ入る川 〈第二の驚異〉

エゼキエル書47:7-11―― 

7 わたしが戻って来ると、川岸には、こちら側にもあちら側にも、非常に多くの木が生えていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち(よご)れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。9 川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り、(うお)も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである。この川が流れる所では、すべてのものが生き返る。10 漁師たちは岸辺に立ち、エン・ゲディからエン・エグライムに至るまで、(あみ)を広げて()す所とする。そこの(うお)は、いろいろな種類に増え、大海(おおうみ)(うお)のように非常に多くなる。11 しかし、その(さわ)(ぬま)はきれいにならず、塩を取ることができる。」

第一が、神殿の秘められた「驚異」だとすれば、この第二では、奇跡的な「驚異」が「それに帰属するイスラエルの土地と民」へと及んでいきます。それは、神の提示する〈ビジョン・(まぼろし)〉が、被造物全体を包み込む、天から地にわたる壮大なものであることを示しています。

第二の驚異を見る前に、ここで、案内する人と案内されているエゼキエルの動静を確認しておきましょう。

整理すると、こうなります。

第一の驚異の初めに、「彼はわたしを……連れ戻した」・「彼はわたしを……導いた」(エゼキエル書47:1,2)とあり、その終わりには、「彼はわたしを……連れ戻した」(同上47:6)とあります。そして、第二の驚異の初めに、「わたしが戻って来ると」(同上47:7)とあります。つまり、天使と預言者、二人の行程(こうてい)の中に、間合いがあったということです。節目節目で的確な休止がなされています。このことは、どんな意味があるのでしょうか?

繰り返しになりますが、エゼキエル書47:1-12には、神の計画(プラン)のもとにある、将来の「聖なる神殿とそれに帰属するイスラエルの土地と民」が叙述されています。それは、人の想像を超えるものであると同時に、神が綿密に立てられたものであります。従って、神の設計された計画(プラン)を観て行くには、ガイドツアーが必須となります。また、実見(じっけん)したものを振り返り、心に刻む「ひとり時間」が必要なのです。

(なま)(はん)()に「良かった」で済ませるのではなく、そこで「真の知識に達する」(コロサイ3:10)ように努めねばなりません。霊的な出来事の現場……わたしたちの場合なら礼拝……に「導かれ、間合いをとって)また、連れ戻される」ことの大切さを、祭司であり預言者であるエゼキエルは身をもってわたしたちに教えています。そして、神の言葉(エゼキエル書3:4,10)こそが、その〈ビジョン・(まぼろし)〉を心に刻み込む助けとなります。

今回、〈ビジョン・(まぼろし)〉は実際の地理や風土、すなわち、都エルサレム、アラバ、死海((よご)れた海)、エン・ゲディなどを背景に展開されます。

エルサレムの神殿の丘から東に向かって、「…」が流れ下ります。そして、川の流れが隅々へと至ります。それによって、自然の大変貌が起こります。ただし、元のままに残される所(沢と沼)もあります(エゼキエル書47:11)。

大部分が変えられ、一部が変えられず残されますが、いずれにせよ、「すべてのものが生き返る」、これが第二の驚異です。「その(さわ)(ぬま)はきれいにならず、塩を取ることができる」……神にとって無駄なことは無い、これも驚きです(参照:マタイ13:24-30 毒麦の譬え)。人の短気さは、「きれいにならず」というところで、それらのものを放り出してしまいそうです。

エン・ゲディに(ほど)近いと見られる所で、川の水が死海に注ぎ込みます。死海のほとりの光景が、次のように描かれています。「海、すなわち(よご)れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。川が流れて行く所ではどこでも、群がるすべての生き物は生き返り(うお)も非常に多くなる。この水が流れる所では、水がきれいになるからである」(エゼキエル書47:8-9)……この実際には起こり得ない自然の変貌は、罪深い人間の立ち帰りを暗示しているように思われます。

すなわち、「死んでいた」人間が、主イエス・キリストの十字架の御業によって「(あやま)ちと罪」を清められ、永遠の命にあずかるということです。死から命への復活が、悔い改めて、水と霊による洗礼を受ける人にもたらされます。

エゼキエル書47:8-9は、「聖なる神殿とそれに帰属するイスラエルの土地と民」という40章-48章の主題を集約する箇所(47:1-12)の中心聖句であります。死海のほとりで、被造物が変貌したことを告げる御言葉は、罪人が(きよ)められ、神の似姿を回復し、新しい命に生き返ることを示唆しています。「(あやま)ちと罪」による死のただ中で、神の愛に包まれて、生き生きとした命が造られるのです。

何よりも、「聖なる神殿」、すなわち、教会に連なる私たちは主キリストにおいて、そのことを祈り求めているのです。新約のヨハネの黙示録が、どのようにエゼキエル書47:1-12の使信を受け止めたか、はで確かめましょう。

 

Ⅲ 川のほとり 〈第三の驚異〉  

エゼキエル書47:12 案内人→エゼキエル―― 

「川のほとり、その岸には、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が大きくなり、葉は枯れず、果実は()えることなく、月ごとに実をつける。水が聖所から流れ出るからである。その果実は食用となり、葉は薬用となる。」

葉は薬用となる」……神は木の「」を介して人をいやされます。神の御手がわたしたちの弱いところに触れられます。

神殿から流れ出る「」によって果樹が(はぐく)まれています。日常の食べ物も、薬も備えられています。神殿につながっている、「川のほとり」の生活であれば、飢え渇きなど危難を恐れることはありません(エレミヤ書17:8、詩編1:3)。神の栄光をあらわす礼拝と生活が永遠に続けられます。

神殿前から出発して、「深い川」や「死海に流れ入る川」を見学した後、エゼキエルは「川のほとり」に()ろされました。たとえ〈ビジョン・(まぼろし)〉であったとしても、川面(かわも)を眺めながら、神の恵みを思う安息の時を過ごしたエゼキエルは「いかに幸いなことでしょう」(詩編1:1)。幻で見た「川のほとり」の繁栄は彼に、「カルデアの地ケバル川の()(はん)」での捕囚民と共になる生活(エゼキエル書1:33:15)を静かに顧みるように導いたのではないでしょうか。

私たちにとってこれは、将来を指し示す〈ビジョン・(まぼろし)〉です。私たちもまた、「水晶のように輝く命の水の川」のほとりで(いこ)うことが許されます。

エゼキエル書47:1-12とヨハネの黙示録22:1-5の異同を押さえつつ、神の〈約束〉が終わりの時にどのように〈成就〉するのか、捉えることにしましょう。

 

Ⅳ 天使はわたしに命の水の川を見せた 〈将来起こる驚異〉         

ヨハネ黙示録22:1-5――

1 天使はまた、神と小羊の(ぎょく)()から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その(りょう)(がん)には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の(やまい)を治す。3 もはや、(のろ)われるものは何一つない。神と小羊の玉座が都にあって、神の(しもべ)たちは神を礼拝し、4 ()(かお)を仰ぎ見る。彼らの(ひたい)には、神の名が(しる)されている。5 もはや、夜はなく、ともし火の光も太陽の光も()らない。神である主が(しもべ)たちを照らし、彼らは世々限りなく統治するからである。

エゼキエル書47:1-12の語句や内容が反映されているのは、一目(りょう)(ぜん)です。その中で、ヨハネの黙示録の著者ヨハネが、エゼキエルから受け継いでいる点として挙げたいのは、次のことです。

エゼキエル書47:6――

彼はわたしに、「人の子よ、(水または川を)見ましたか」と言って、わたしを川岸へ連れ戻した。

ヨハネ黙示録22:1-5――

天使はまた、神と小羊の(ぎょく)()から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた

」というのは、案内人であり、神が遣わした者ですから、ヨハネに寄り添った「天使」と同一です。従って、預言者エゼキエルおよび著者ヨハネは、「天使によってビジョン・(まぼろし)を見せられたということになります(他に、エゼキエル書40:4、ヨハネ黙示録21:10)。これが、最大の合致点です。「見せられる」ということは、その「世界に入れられる」、そこに「住まわせられる」ということです。

皆さんは、「わたしはエゼキエルやヨハネが見たような〈ビジョン〉を見たことがない、はたまた、見る必要を感じない」とおっしゃるでしょうか。ここで、信仰的な見方を修正しなければならないかも知れません。

エゼキエルもヨハネも、自分で〈ビジョンを見たわけではありません。天使にそれを見させられたのです。実生活から引き離され、〈ビジョン〉の現場に「導かれ、間合いをとって静思する(いとま)が与えられまた、連れ戻される」という形で、その体験をしたのです。彼らが霊的であるとか、信仰深い人であるとか、言及されていません。

わたしたちが「天使」、すなわち、神の御力によって、〈ビジョン・(まぼろし)〉を見させられることの確かさは、エゼキエル書47:1-12預言され、それがヨハネの黙示録22:1-5において、終わりの時に成就すると告げられている点にあります。〈約束〉と〈成就〉を支配する神の御心が不変であること以上に、確実なことはありません。神は信仰者に〈ビジョン〉を見させられます そして、その〈ビジョン通りの神の国に住まわせてくださいます

命の水に渇いている罪人に対し無料にて(ヨハネ福音書4:14、ヨハネ黙示録22:17)、〈ビジョン〉を巡るガイドツアーが提供されています。問われているのはただ、「見させられる人」になるかどうか、です。自分に「見る」能力や「見た」体験があるかではありません。神の御前に悔い改め、神にすべてをゆだねることです。

わたしたちはまだ、川の水の〈ビジョン〉を見ていないのかも知れません。ちなみに、わたしはエン・ゲディ近く、死海のほとりの泉に、魚が泳いでいるのを見たことがあります。(かたわ)らに天使がいたかどうか、知る(よし)もありませんが……

わたしたちは、〈将来起こる驚異〉として、ヨハネの黙示録22:1-5に描かれている光景を待ち望みたいと願います。時満ちて、この〈ビジョン〉が現れ起こるという信仰こそが、わたしたちのこの世の生活を方向づけるのです。

この地上には、「森の夜明け」(エミリ・ディキンソンの詩)や「光の(つゆ)」(イザヤ書26:19)と共に目を覚ます、恵まれた暮らしがあります。この地に生かされていることを感謝しつつ、教えられた〈ビジョン〉を心に秘め、共々に神の国に入れられる日に備えましょう。

最後に、ヨハネの黙示録22章の〈成就〉が、エゼキエル書47章の〈約束〉を大きく超えているところ、「恵みを超えて恵みを」に触れましょう。

それは、ひと言でいえば、信仰者を「」の源なるイエス・キリストの「礼拝」へと力強く招いているということです。その礼拝は、主キリストに(あがな)われたすべての人々・「諸国の民」に門戸が開かれています。

神殿などの建物は見えませんが、神と小羊なるキリストを礼拝する人々は、「命の水の川」や「命の木」に囲まれています。永遠の命が人々に得させられ、そこに〈神の国〉生かされていることをほめたたえる讃美が湧き上がって来ます。

ヨハネ黙示録21:25-26――

25 都の門は、一日中決して閉ざされない。そこには夜がないからである。26 人々は、諸国の民の栄光と誉れとを(たずさ)えて都に来る。

わたしたちの礼拝が、神によって、(あめ)なる礼拝につなげられていることを信じ、苦難を乗り越えさせてくださるようお祈りしましょう。

 

 

 

 

 

--------------------------------------------------------------------------------------------

2019.1説教
月報 2019年01月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 305.9 KB
2018.12説教
月報 2018年12月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 321.5 KB
2018.11説教
月報 2018年11月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 312.4 KB
2018.10説教
月報 2018年10月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 285.5 KB
2018.09説教
2018年9月説教.pdf
PDFファイル 298.2 KB
2018.08説教
月報 2018年08月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 309.5 KB
2018.07説教
月報 2018年07月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 320.8 KB
2018.06説教
月報 2018年06月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 327.5 KB
2018.05説教
月報 2018年05月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 304.3 KB
2018.04説教
201804説教.pdf
PDFファイル 338.3 KB
2018.03説教
月報 2018年03月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 327.6 KB
2018.02説教
月報 2018年02月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 299.9 KB
2018.01説教
月報 2018年01月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 418.6 KB
2017.12月説教
2017.12説教.pdf
PDFファイル 277.4 KB
2017.11月説教
月報 2017年11月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 371.3 KB
2017.10月説教
月報 2017年10月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 353.8 KB
2017.9月説教
月報 2017年09月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 288.8 KB
2017.8月説教
月報 2017年08月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 326.2 KB
2017.7月説教
月報 2017年07月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 345.6 KB
2017.6月説教
月報 2017年06月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 349.3 KB
2017.5月説教
2017年05月説教.pdf
PDFファイル 351.6 KB
2017.4説教
2017年04月 説教.pdf
PDFファイル 369.8 KB
2017.3説教
月報 2017年03月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 337.7 KB
2017.2説教
月報 2017年02月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 331.8 KB
2017.1説教
月報 2017年1月茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 286.3 KB
2016.12説教
月報 2016年12月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 332.6 KB
2016.11説教
月報 2016年11月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 337.3 KB
2016.10説教
月報 2016年10月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 345.9 KB
2016.9説教
月報 2016年09月 茅ヶ崎香川教会.pdf
PDFファイル 378.5 KB
2016.8説教
2016.8説教.pdf
PDFファイル 181.0 KB
2016.7説教
2016.7説教.pdf
PDFファイル 196.2 KB
2016.6説教
2016.6説教.pdf
PDFファイル 182.8 KB
2016.5説教
2016.5説教.pdf
PDFファイル 191.8 KB
2016.4説教.pdf
PDFファイル 180.8 KB
2016.3説教
2016.3説教.pdf
PDFファイル 118.3 KB
2016.2説教
2016.2説教.pdf
PDFファイル 147.3 KB
2016.1説教
2016.1 説教.pdf
PDFファイル 134.8 KB
2015.12説教
2015.12説教.pdf
PDFファイル 131.9 KB
2015.11説教
2015.11説教.pdf
PDFファイル 133.3 KB
2015.10説教.pdf
PDFファイル 139.2 KB
2015.9説教.pdf
PDFファイル 132.2 KB
2015.8説教.pdf
PDFファイル 195.3 KB
2015.7説教.pdf
PDFファイル 183.3 KB
2015.6説教.pdf
PDFファイル 204.9 KB
2015.5説教.pdf
PDFファイル 168.3 KB
2015.4説教.pdf
PDFファイル 176.7 KB
2015.3説教.pdf
PDFファイル 159.3 KB
2015.2説教.pdf
PDFファイル 208.3 KB
2015.1説教  .pdf
PDFファイル 215.2 KB
2014.12説教.pdf
PDFファイル 181.8 KB
2014.11説教.pdf
PDFファイル 207.2 KB
2014.10説教.pdf
PDFファイル 224.3 KB
2014.9説教 .pdf
PDFファイル 181.5 KB
2014.8説教.pdf
PDFファイル 191.2 KB
2014.7説教.pdf
PDFファイル 170.5 KB
2014.6説教.pdf
PDFファイル 155.1 KB
2014.5説教.pdf
PDFファイル 171.2 KB
2014.4説教.pdf
PDFファイル 182.2 KB
2014.3説教 .pdf
PDFファイル 212.5 KB
2014.2説教.pdf
PDFファイル 190.1 KB
2014.1説教.pdf
PDFファイル 158.4 KB
2013.12説教.pdf
PDFファイル 179.2 KB
2013.11説教.pdf
PDFファイル 141.6 KB
2013.10説教.pdf
PDFファイル 133.8 KB
2013.9説教.pdf
PDFファイル 165.4 KB
2013.8説教.pdf
PDFファイル 152.6 KB
2013.7説教.pdf
PDFファイル 180.2 KB
2013.6説教.pdf
PDFファイル 242.9 KB
2013.5説教.pdf
PDFファイル 199.0 KB

What's New

礼拝  6/12更新

 

 

説教  6/13更新

 

 

月報説教  5月号更新

(主日説教の最後)