礼拝、説教    次週の礼拝是非お出掛け下さい。

来週の主日礼拝

2020年3月1日  

午前10時15分~11時45分

復活前第6主日(受難節第1主日) 

 

 

前奏

招詞   詩編36編8節~10節

頌栄   539

主の祈り

讃美歌  139

交読文  10 詩編29編

旧約聖書   イザヤ書 46章10節 

新約聖書 ローマの信徒への手紙 8章28節~30節

祈祷

讃美歌  291

説教   「万事が益となるように共に働く」

                  小河信一牧師

祈祷

讃美歌  494 

日本キリスト教団信仰告白 

聖餐式 

献金

報告

讃詠   545

祝祷

後奏

「聖なる者たちのために執り成す‘霊‘」
詩編139編1節~6節
ローマの信徒への手紙8章26節~27節
200223_001.MP3
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「わたしは良い羊飼いである」
エレミヤ書23章1節~4節
ヨハネによる福音書10章7節~21節
200216_001.MP3
MP3 オーディオファイル 38.2 MB
「一人ひとりの名を呼ぶ神」
エレミヤ書3章14節~18節
ヨハネによる福音書10章1節~6節
200209_001.MP3
MP3 オーディオファイル 37.0 MB
「主の名がとこしえに置かれる神殿」
列王記上 9章1節~9節
エフェソの信徒への手紙 2章19節~22節
200202_001.MP3
MP3 オーディオファイル 34.7 MB

 

 説教(月報より)

          2月

 

 

説教 ただ一つわたしが知っているのは

 

ヨハネによる福音書 9章24節~34節     

 

小河信一 牧師

 

 

 

ヨハネによる福音書9章の講解説教の続きを行います。

 

本日のテキストで登場して来るのは、生まれつき目が見えなかったが、主イエスによって(いや)されて目の見えるようになった男です。

 

いわば、彼は今、求道の生活を送っています。イエス・キリストを信じる信仰を、神から与えられようとしている、その道を彼は歩んでいます。

 

イエス・キリストを知らなかった人が、イエス・キリストに出会い、信仰の成長を遂げていくのを、信仰者が目にし、また学び教えられるのは、とても大切です。

 

さて、本日の聖書箇所(ヨハネ9:24-34)は、「生まれつきの盲人を癒す」という話、その起承転結の〈転〉の部分にあたります。最終の〈結〉へと至る直前の箇所になります。それ故に、私たちはこの人の求道の道筋において、まだ「信仰」の不十分な点に気づかされることでしょう。それにもかかわらず、道(なか)ばにして彼の為した信仰告白を、私たちはしっかり捉えることにしましょう。

 

出来事の起承転結、その展開において三番目の〈転〉が先行部分とがらりと変わっているのは、彼が「我ひとり立つ」という状態に置かれていることです。

 

二番目の〈承〉では、癒された人の面前に、両親が引き出されています。

 

両親は自分たちを取り囲んでいるユダヤ人たちにこう言いました。

 

ヨハネ福音書9:21――

 

「だれが目を開けてくれたのかも、わたしどもは分かりません。本人にお聞きください。もう大人ですから、自分のことは自分で話すでしょう。」

 

こうして、その息子は孤独へと追いやられてしまいました。両親の側から、我が子との間に距離を置いたということです。両親は、ユダヤ教の「会堂から追放される」(ヨハネ9:22)こと、すなわち、地域社会または信仰共同体から村八分になることを恐れていたのです。

 

ところで、二番目・三番目の〈承〉〈転〉場面に共通しているのは、ファリサイ派の人々またはユダヤ人が「尋問」を行っているということです。まず、両親が尋問され、次には、当事者であるその息子が尋問されました。

 

皆さんの中で、裁き人に取り囲まれ、大衆の目が注がれているという状況下で尋問を受けたことがある方はおられますか? そのような経験を持っている人は、極めて(まれ)でしょうか?

 

それとは対照的に、私たちはテレビやネットで、人が尋問されているシーンをしばしば目にします。芸能人、政治家、会社役員、そして一国民が、厳しい尋問にさらされている場面に、私たちは慣れっこになっているとさえ言えるほどです。

 

私たち・信仰者が尋問に出くわすことは、ほとんど無いかも知れません。がしかし、たとえば、多数の他宗教の人々に囲まれた中で、キリスト教信仰を宣べ伝えようとする場面を考えてみてください。いや、複数の求道者を相手にしている集会ならあり得るでしょう。

 

実は新約聖書では、尋問の場に立たされたキリスト者に、繰り返し同様の助言がなされています。緊迫する場面で、どういう心構えで語ったらよいか、ということです。今このことを想起するのは、目の癒された人がひとり尋問を受けるとき、どういう思いで臨めばよいか、あるいは、実際どう臨んだのか、という問題につながってくるからです。

 

マタイ福音書10:19-20 主イエス→十二弟子――

 

19 「(総督や王、異邦人に)引き渡されたときは、何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。20 実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である。」

 

他に、ルカ12:12、ローマ8:26参照

 

もし迫害に遭っても、もし問い詰められても、もし証人喚問されても、キリスト者たちよ、たじろぐことなかれ、聖霊に依り頼め、というのです。もちろん、自分で語るべきことを考え抜き準備したうえで、すべてを聖霊にゆだねよ、ということでしょう。

 

確かに、ヨハネ福音書9:24-34の聖書箇所に、聖霊は出て来てはいません。しかし、ひとりの人間が、高圧的に相手を論破しようとするユダヤ人たちに対し、感情的になることなく、神に()らえられた者として(あか)しし続けています。そういう意味でこの箇所には、とり(つくろ)った言い(のが)れなどでなく、聖霊により教え導かれた、ひとりの男の応答が記録されています。恐らく、知識と権威を振りかざす人々に、自力では対応し切れなかったと思います。

 

このテキストに書いてはいませんが、聖霊は彼に言うべきこと、あるいは、知らないと言うべきことや問い返すべきことを教えたのではないでしょうか。聖霊の御力としか言いようのない、助けがこの男の上にあったのです。

 

それでは、三番目の〈転〉、厳しい尋問の場面を読んでいきましょう。

 

ヨハネ福音書9:24―― 

 

さて、ユダヤ人たちは、盲人(もうじん)であった人をもう一度呼び出して言った。「神の前で正直に答えなさい。わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ。」

 

ユダヤ人たちは威圧的に「神の前で正直に答えなさい」と言って、男に宣誓させようとしています。「神の前で正直に答えなさい」というのは意訳で、原文は「神に栄光を帰しなさい」となっています。これ自体は、ヨシュア記7:19や詩編68:35などにある通り、真実の告白を要請する決まり文句です。問題は、ユダヤ人たちが必ずしも「神の栄光をあらわす」ことに真剣になっていない、ということです。しかし、そうなっていないとしても、こう命じられた人は恐怖と緊張により、身がすくんだことでしょう。

 

その上、ユダヤ人たちは「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っているのだ」と、知ったかぶりをしています。彼らは、主イエス・キリストを標的にし、男に言いがかりをつけました。イエスが罪人であることに関し、もう自分たちは証拠を握っているのだ、と(おど)しています。

 

しかし、男はいたずらに動揺することなく、対応しました。これは、今日のテキストに3回出て来る問いと答えの1回目で、男は次のように回答しました。

 

ヨハネ福音書9:25―― 

 

彼は答えた。「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです。」

 

ユダヤ人との違いが歴然としています。彼は「求道中」なので、分からないことについては、きっぱりと「知りません」と答えました。

 

今もし、正しい信仰告白的な回答をするならば、「イエス・キリストは罪を犯されなかったが、罪人同然になってくださいました」(Ⅰペトロ2:22、Ⅰヨハネ3:5、フィリピ2:7、Ⅱコリント5:21)と言えるでしょう。主イエスに出会ったばかり(当日)のこの人は十分な回答が出来ませんでした。

 

ここで大切なことは、分かったふりをしないことです。見えないのに、見えると言わない(ヨハネ9:41)ことです。この人は無理に背伸(せの)びしませんでした。

 

そして、この男の口から、「ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」と、聖霊の導きとも言える言葉が発せられました。

 

これは、一つの信仰告白である、と私は考えます。ここで、「目の見えなかったわたしが、今は見える」というのは、身体的回復の事実を報告しているに過ぎない、と反論されるかも知れません。

 

そこで考えてみたいのは、「信仰告白とは何か」ということです。

 

結論的に言えば、「信仰告白」というものは、正しいか正しくないかのいずれかで、中途半端なもの(例えば点数をつければ50点とか)はありません。基本的に、神を信じているか否か、のいずれかです。その点で、「ただ一つ知っているのは……」という文言は、神を信ずる者、言い換えれば、神がその人を捕らえてくださっている者の告白です。この人はイエスを主としています。

 

まず、「ただ一つ知っている」という句に着目しましょう。この人の目は、「一つ」のことを見つめています。財産や名誉でもなく、自分を見放した両親でもなく、尋問している集団でもなく……彼の心が向かう先が、一つに(しぼ)られました。

 

その点で、「ただ一つ知っている」という句は、最も優れた信仰入門の書と呼ばれる「ハイデルベルク信仰問答」(全129の問答)の基本姿勢と重なり合っています。

 

ハイデルベルク信仰問答――

 

問1 生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。

 

答  わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。

 

何が信仰の出発点、問いの1において重要なことかと言えば、それは、唯一無二のものに、心を傾けることなのです。それが、ハイデルベルク信仰問答の基本的な考えです。目を向ける先が漠然としていては始まらないのです。何が「ただ一つの慰め」か、それは、「わたしがイエス・キリストのものである」ということです。

 

目の見えなかった人は、「今は見える」ことに(しぼ)りました。「でもそれって、自己満足と紙一重では」または「健康になったことをただ喜んでいるのでは」とおっしゃるでしょうか。()(づら)に書いていることではありませんが、言葉を補って、どうして「今は見える」ことになったのか、捉えましょう。

 

どうして、生まれつき目の見えなかった人が見えるようになったのか?

 

イエスが彼の目を癒したからです。イエスが彼を見かけ、声をかけ、その目に触れられたからです(ヨハネ9:1,3,6)。「ただ一つ知っているのは、〈イエス・キリストの言葉と(わざ)によって〉目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」。それが、彼の思いであったのではないでしょうか。

 

ヨハネ文書全体から、「今は見える」という言葉が深い意味を持っていることを補強しておきましょう。

 

ヨハネ福音書1:14――

 

(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

 

ヨハネの手紙 1:1――

 

初めからあったもの、わたしたちが聞いたもの、目で見たもの、よく見て、手で()れたものを伝えます。すなわち、命の(ことば)について。――

 

「見る」という言葉には、「(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた」イエス・キリストを「見た」ということが含意されています。そのお方は、人間がその「目で見たもの」という形または姿で、世に現れました。神は「人間がイエスを見た」という出来事を起こされました。その上で、神は、私たちがイエスを「信じる」ように導いておられます。

 

イエスを見る者が起こされ、さらには、イエスを主として信じる者が与えられた、というのが、ヨハネ福音書の初めから終わりまで、そしてヨハネ文書全体に一貫するメッセージなのです。つまり、「目が見える」ということと、「信仰の目が開かれる」・「イエス・キリストを信じる」ということが重ね合わせられながら、議論が進められています。従って、「目が見える」というのは、単に肉体的な話なのではない、ということです。

 

生まれつきの盲人の話、〈転〉から〈結〉への展開に即するならば、「今は見える」を告白したこの人が、神によって、明確に「イエス・キリストを信じる」よう導かれるということです。

 

ヨハネ福音書9:26――

 

すると、彼ら(ユダヤ人たち)は言った。「あの者はお前にどんなことをしたのか。お前の目をどうやって開けたのか。」

 

二回目の問答の会話です。さらに尋問が繰り返されます。

 

ユダヤ人たちは、イエスが「土をこねた、そして目に塗った」(ヨハネ9:6,11,14,15 ということを追及しようとしています。それを争点とする企みです。「安息日を破った」イエス像を造り出し、癒された人の立場を揺さ振ろうという思惑でしょうか。

 

明らかなのは、ユダヤ人たちの目が、イエスに向けられていないということです。彼らは「安息日の主」(マタイ12:8)を見ることなく、「安息日の律法」を自分たちがいかに守るかに熱中していたのです。いずれにせよ、尋問する人々は、「自分たちの思っていることを言わせる」よう(おど)しかつ誘導していました。

 

ヨハネ福音書9:27 癒された盲人→ユダヤ人たち――

 

彼は答えた。「もうお話ししたのに、聞いてくださいませんでした。なぜまた、聞こうとなさるのですか。あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか。」

 

男は誘導尋問まがいの議論には乗りませんでした。それは、彼が聖霊の導きの中で答えているからです。そうでなければ、「さっき話したのに(ヨハネ9:11,15)……。聞いてなかったのですか」と、男は激昂(げっこう)したかも知れません。

 

しかし、彼は冷静でした……「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」。この鋭い返しは、今イエスを受け止めようとしていないユダヤ人たちには、強烈な皮肉であったことでしょう。

 

三回目の問答会話に入ります。

 

ヨハネ福音書9:28――

 

そこで、彼らはののしって言った。「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ。」

 

聖霊に導かれた男の冷静な応答に、(ごう)を煮やしたかのように、ユダヤ人たちはののしり始めました。彼らは、「お前はあの者の弟子だが、我々はモーセの弟子だ」という二者択一の宣言を打ち出しました。一方、ユダヤ人たちはかたくなさを増していきました。自分たちの立場を守ることに必死でした。他方、癒された人は自分が誰の弟子か、思いを巡らしたことでしょう。イエスはどのようなお方か、そして、イエスと自分との間にどのような関係が結ばれるのか、と……。

 

ヨハネ福音書9:31――

 

神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。」

 

ここで癒された男は、「イエスは罪人ではないので、神はイエスの願いを聞き入れ、自分を癒すことをかなえてくださいました」ということを言わんとしています。今、厳正に彼の言葉を吟味すべく、「神は罪人の言うことはお聞きにならない」ということを取り上げてみましょう。求道中の人が、正しい信仰へと至るように……。

 

さて果たして、「神は罪人の言うことはお聞きにならない」のでしょうか?

 

詩編34:18――

 

主は助けを求める人の叫びを聞き

 

苦難から常に彼らを助け出される。

 

「助けを求める人」、または、「苦難から助け出される」というその人、彼らは罪人ではないのでしょうか。いや、彼らもまた罪人です。彼らが「貧しい人」であり「主を畏れる人」であったとしても(詩編34:7,10)、罪を犯すことが全くないとは言えないでしょう。

 

では、罪人なる私たちは、どのように主に向かって叫べばよいのでしょうか。それは、ただ「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって、「ただ一つの慰め」が神から与えられるように祈ることです。いつ聞き届けられるか、「ただ一つの慰め」がどんな形で現れるかは、神におゆだねすることです。神は、罪人の真剣な悔い改めをもっての叫びを聞き届けてくださることでしょう。この点について、癒された男は、信仰の理解を深めるべきだったでありましょう。

 

三回の問答会話の果てに、尋問者たちの側から、裁定が下りました。

 

ヨハネ福音書9:34――

 

彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

 

ユダヤ人たちは、癒された男を、地域社会または礼拝共同体から追放しました。先に登場し、「追放」を恐れて退いた自分の両親(ヨハネ9:21-23)とも縁が絶ち切られました。全く孤独になりました。

 

けれども、この時彼は、たった一つのことにこだわりました。心を傾けました。イエス・キリストによって、自分は目が見えるようにされたということです。それが今、唯一の支えでありました。「ただ一つの慰め」でした。

 

厳しい追放令を告げられても、彼にはその信仰が残ったのです。その信仰にとどまったのです。

 

周りの大多数の人から見放され、両親はもう助けてはくれません。けれども、彼はイエス・キリストから離れませんでした。イエス・キリストを助け主とすることが、神のご支配のもとにある出来事の中で、明確になりました。

 

私たちが、自分を裁くような人々に囲まれたとき、主イエスは、「何をどう言おうかと心配してはならない。そのときには、言うべきことは教えられる。実は、話すのはあなたがたではなく、あなたがたの中で語ってくださる、父の霊である」(マタイ10:19-20)と教えてくださいました。それを信じて、私たちはひたすら祈ります。その時、聖霊が、イエス・キリストこそ救い主であることを教えてくださることでしょう。

 

「わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず」(Ⅱコリント4:8)……その時こそ、聖霊が働いて、信仰が私たちに明確に示されるチャンスです。神に向かって祈り続けるとき、罪人の(かしら)(Ⅰテモテ1:15)なるこの者が、神の救いと赦しにあずからせていただけると信じましょう。

 

主よ、あなたは、自分の不信仰と格闘する男ならびに周りの(よこしま)な人間の(かたわ)らにおられました。そのように、私たちの目の前に、すでに主イエス・キリストが立っておられます。どうか、正しい信仰告白を(さず)けてください。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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