礼拝、説教

主日礼拝                                                                                                2022年 1月16日  

降誕節 第4主日 

  

招き   前奏

招詞   詩編134編 1節~2節

頌栄   542

主の祈り  (交読文 表紙裏)

賛美歌  463

交読文  50 黙示録21章 

旧約聖書 エレミヤ書 13章16節(p.1201)
新約聖書  ローマの信徒への手紙 13章11節~14節(p.293)

賛美歌  Ⅱ-184

説教   「終わりの日を待ち望む」

               小河 信一牧師

               (※下記に録音されています)

祈祷             

讃美歌  218

使徒信条 (交読文 1頁) 

 

献金

讃詠   545

祝祷 

後奏

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

2022年1月16日「終わりの日を待ち望む」
エレミヤ書13章11節~14節
ローマの信徒への手紙13章11節~14節
220116_0117.MP3
MP3 オーディオファイル 28.6 MB
2022年1月9日「互いに愛し合う」
レビ記19章18節
ローマの信徒への手紙13章8節~10節
220109_0115.MP3
MP3 オーディオファイル 31.3 MB
2022年1月2日「栄光を現すために」
エレミヤ書14章21節
ヨハネによる福音書17章1節~5節
220102_0114.MP3
MP3 オーディオファイル 34.0 MB
「罪人を救うために世に来られた」
エレミヤ書 10章10節
テモテへの手紙一 1章12節~17節
211219_0112.MP3
MP3 オーディオファイル 29.1 MB

〈説教の要約〉

2022年 1月16日                      

旧約聖書 エレミヤ書 13章16節(P.1201

新約聖書 ローマの信徒への手紙 13章11節~14節P.293

        「終わりの日を待ち望む」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ あなたたちが光を望んでも  ……エレミヤ書13:16             

Ⅱ 救いは近づいている          ……ローマ13:11

Ⅲ 闇の行いを()ぎ捨てて        ……ローマ13:12  

Ⅳ 品位をもって歩もう      ……ローマ13:13         

Ⅴ キリストを身にまといなさい  ……ローマ13:14 

 

パウロは、ローマの信徒への手紙12章-13章において、一般的勧告を行いながら、キリスト教倫理を基礎づけています。本日はそのまとめである、終わりの時に向けての勧告を読むことにします。

一般的勧告の最後の部分において、パウロの説教は(なめ)らかに終結に至っています。わたしたちが終わりの時を生きていくときに、最も重要なのは、」(アガペーであります。との戦いが激しい中で、終わりに近づいていくとき、「愛は律法を全うするものである」(ローマ13:10)とのメッセージはわたしたちを力づけます。なぜなら、主イエス・キリストの」が満ちあふれ、最後には、この世のもろもろの「」は打ち滅ぼされるからです。

わたしたちは「」に取り巻かれ(おびや)かされても、打ち倒されません。その時こそ、」(アガペー)をもって「善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)との命令を実行します。そこには、主イエス・キリストの」が、そして、その「」を信じる者たちが、勝利するという希望があります。

ローマ13:8-10から13:11-14へと展開している、その内容を要約すると、こうなります。

〈「」(アガペー)によってすべてが完結するという信仰をもって、終わりの時を生き抜け、というのが最終勧告です。そのために、忍耐をもって生きるならば、やがて主イエス・キリストに再会する日が来ます。主の再臨という将来を待望することによって、わたしたちの信仰生活全体が整えられます。〉

その時、「偽メシアや偽預言者が現れて」(マタイ24:24)、わたしたちを(まど)わすかも知れません。それによって恐れうつむいて、自分の「愛は…(少ない・長続きしない)」とつぶやくならば、彼らの思う(つぼ)です。そうではなく、神の「愛は……」と唱えることです(前回の説教要約〔ローマ13:8-10〕参照)。

本日のテキストに、(よる)()けた進んだ)」(ローマ13:12)という句があります。これは、終わりの時が始まっていることを示しています。逆に言うと、「」は近づきつつあるものの、まだ来ていないということです。

わたしたちに問われているのは、次のことです。すなわち、()けゆく「」の長さに耐え、「」の到来を今か今かと待ち望むかどうか、ということです。言い換えれば、「」に染まることなく、「」の中にあって、「光の子」として歩んでいくかどうか(エフェソ5:8)、ということです。

わたしたちは、終わりの時にふさわしい姿勢を取らねばなりません。まずは、「(よる)()けた進んだ)」という「終わりの時」(エレミヤ書27:7)に預言活動したエレミヤの言葉に耳を傾けてみしょう。

 

Ⅰ あなたたちが光を望んでも            

エレミヤ書13:16―― 

あなたたちの神、主に栄光を帰せよ

闇が(おそ)わぬうちに

足が夕闇の山でつまずかぬうちに。

あなたたちが光を望んでも、主はそれを死の(かげ)とし

暗黒に変えられる。

神からエレミヤに、この裁きの言葉が(くだ)った時というのは、597年、第一次バビロン捕囚の直前でありました。まさに、ユダ王国が災いに襲われ、「暗黒」に閉ざされてしまう寸前のことでした。

587年になると、バビロニア軍によってエルサレムは破壊され、ユダ王国は滅亡しました。かすかな希望は、終わりの時の様相を呈する混沌(こんとん)とした歴史を、信仰をもって受け止めた預言者や詩人がいたことです。彼らは、神との対話の中で、この事態について内省しました。

その一人であるエレミヤは、第一に、「あなたたちの神、主に栄光を帰せよ」と、ユダの民に呼びかけています。「高ぶってはならない」(エレミヤ書13:15)、神の御前にへりくだり、神への裏切りや偶像崇拝の罪を悔い改めよ、と叫んでいます。

その時は、暗黒に閉ざされてしまう寸前でしたので、闇が(おそ)わぬうちに 足が夕闇の山でつまずかぬうちに神に栄光を帰せよ)」と警告しています。主イエスが、このエレミヤの言葉と似た警告を発せられたことがありました。主イエスが十字架の道に分け入って行かれる直前、エルサレム入城の折に群衆に語りかけられた言葉です。

ヨハネ福音書12:35――

イエスは言われた。「光は、いましばらく、あなたがたの間にある。暗闇に追いつかれないようにのあるうちに歩きなさい。暗闇の中を歩く者は、自分がどこへ行くのか分からない。」

エレミヤも主イエスも、あなたがたが闇に襲われないようにまたは暗闇に追いつかれないように」、つまり、「そうならないように」、民に(ただ)しい信仰に立ち帰ることを呼び求めています。終わりの時にふさわしい生き方の第一は、「神に栄光を帰す」ことであり、第二は、「暗闇」にのみ込まれないように、世の悪や罪から離れることであります。

エレミヤは、「あなたたちが光を望んでも、主はそれを死の(かげ)とし 暗黒に変えられる」と、最終的な破局を預言しました。実際、大災難が王国の崩壊と異国への捕囚によって、ユダヤ民族に襲来しました。

それを聖書の真実なる出来事として受け止めるわたしたちの問いは、「それで本当に終わりになったのか」ということであります。もはや、わたしたちが「光を望んで」も、無駄なのか、希望がないのかということです。ユダの民が罪と死に巻き込まれて失敗したように、わたしたちもまた、「足が夕闇の山でつまずいて」しまうのでしょうか。もう立ち上がれないのでしょうか。

断じてそうではありません。チャンスはまだあります! というのも、主イエスが聖なる神殿の丘に立たれて、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」と、群衆に命じられたからです。これはわたしたちに、神への立ち帰りの機会が与えられたことを意味しています。同時にそこから知られるのは、神は、大災難の中で反逆の民に御言葉を伝え続けたエレミヤの信仰と活動を見捨てられたのではなかったということです。

なぜなら、神は、「涙が(あふ)れ、わたしの目は涙を流す」(エレミヤ書13:17)というエレミヤの悲嘆を顧みられたからです。「エルサレムに近づき、都が見えたとき、イエスはその都のために泣いた」(ルカ19:41)と言われる主イエスは、(かな)しみの人エレミヤの同伴者でありました。エレミヤは王国の都エルサレムが廃墟と化したのを目撃した人でした。

6世紀の隔たりを超えてエレミヤと共に、都を見て涙を流された主イエス・キリストは、わたしたちのために、「暗闇の中から驚くべき光の中へと招き入れる力ある(わざ)」を成し遂げられました(Ⅰペトロ2:9)。全地が暗くなった中に(ルカ23:44)、神の栄光が現されました。主イエスは十字架と復活の御業によって、闇を光に変えたのであります。

パウロは、主イエス・キリストに救われ、人々に神の愛を宣べ伝えています。「あなたたちが光を望んでも、主はそれを死の(かげ)とし 暗黒に変えられる」ような神の裁きが、人間の不信仰の上に(くだ)らないようにと伝道しています。

 

Ⅱ 救いは近づいている         

ローマの信徒への手紙13:11――  

(さら)に、あなたがたは今がどんな時であるかを知っています。あなたがたが眠りから覚めるべき時が(すで)に来ています。今や、わたしたちが信仰に入ったころよりも、救いは近づいているからです。

(さら)」と、パウロは、前段の「愛は律法を全うするものである」に結びつけながら、一般的勧告のまとめを述べようとしています。また、キリスト教の基本を知らせることによって、多くの人を洗礼に導こうとしています(参照:アウグスティヌスの回心と受洗 8)。

確かに、わたしたちが今、倫理的に礼拝と日常生活を整えようとするとき、為すべきことがたくさんあるに違いありません。しかし、パウロはここで、あなたがたが「眠りから覚めるべき時が(すで)に来ている」こと、または、「救いは近づいている」ことを知るようにと述べています。言い換えれば、まずもって、主イエス・キリストと再会することに、心を傾けよ、というメッセージを送っています。

その大いなる目標が高く(かか)げられることによって、わたしたちの生活は一新されると言うのです。具体的には、「眠りから覚め」、神の恵みによって救われた者の生活を続けるということです。

わたしたちの日常生活においては、「闇が(おそ)い、足が夕闇の山でつまずく」ことがあります。しかし、四方から苦しめられ行き詰まりそうになったとき(Ⅱコリント4:8)、「暗闇に追いつかれないように、光のあるうちに歩きなさい」(ヨハネ12:35)との御言葉が聞こえてきます。わたしたちの歩みは、「救いは近づいている」という神の栄光の現れに照らされています。

眠りから覚め」ている生活とはもちろん、夜、寝ないことではありません。主イエス・キリストが死からよみがえらされたと信じ、そこに現れた神の栄光のもとに生きるということです。わたしたちの生活の中に、闇に打ち勝つ光が(あふ)れているのを、見て・知って・信じるのであります。「救いは近づいている」というように、神の時は目標に向かって進んでいます。いたずらに(あせ)ったり、不安になることはありません。

 

Ⅲ 闇の行いを()ぎ捨てて        

ローマの信徒への手紙13:12――

(よる)()け、日は近づいた。だから、闇の行いを()ぎ捨てて光の武具(ぶぐ)を身に着けましょう。

ここでパウロは、福音が人間を死と罪から解放すると語ったように(ローマ8:2)、キリストの御力によって「」と「」との暗躍(あんやく)を防御できると告げています。

」と「」の支配はいつまでも続くものではありません。(よる)()けた進んだ)」と記述されているように、それらは通り過ぎて行きます。夜明けが近づくと、光のきざしが見えます。城壁の見張り人、すなわち、霊的な信仰者たちが、天への巡礼者たちに、「日は近づいた」と叫んで知らせます。

だから、闇の行いを()ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう」との勧めは、初代教会の洗礼式文から採られているとも言われます。初めに「()ぎ捨てて」、すなわち、自分の悪と罪を捨て切って、次に、「光の武具を身に着け」ます。

わたしたちは神の御前に進み出たとき、自分が「闇の行い」を行っている、と知らされます。神から、自分が(もろ)いこと、そして、自分の信仰すらも弱いことを、教えられるのです。(まも)られるべき身であることを悟って、「光の武具」を着せていただきます。それは、洗礼においては、人が「イエスは主である」と告白し(ローマ10:9)、その肉の体が(きよ)られる(コロサイ2:11)ということです。

光の武具を身に着けて」いる信仰者はみな、キリストの(しもべ)であります。従って、「光の武具」をまとっているかどうかは、謙虚にキリストにつき従っているかどうかに掛かっています。たとえ、「光の武具」がこの世の闇に染まっても、キリストに立ち帰れば、洗い清められます。そうして再び、自分の足で歩み出します。

 

Ⅳ 品位をもって歩もう              

ローマの信徒への手紙13:13―― 

日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱と好色、争いとねたみを捨て(ましょう。)

品位をもって」は、「(つつ)ましく」と言い換えられます。そうすると、パウロがキリスト教倫理の入門で語ったことと響き合っていることが分かります。

ローマの信徒への手紙12:2,3―― 

2 あなたがたはこの世に(なら)ってはなりません。

3 むしろ、神が各自に分け与えてくださった信仰の度合いに応じて慎み深く評価すべきです。

この世に(なら)」ことなく、光の武具をまとい、「日中を歩む」ならば、そこに自ずから、「慎み深さ」が(にじ)み出てきます。これによって、「武具」という用語から想起される勇ましさが、正しく方向づけられます。この「慎み深さ」こそが、身分の低い人と交わり、敵に飲食をほどこし、すべての人の前で善を行うという実践(ローマ12:16-20)の基盤になっています。

この後の、ローマの信徒への手紙14:115:13には、〈強い者と弱い者〉、または、〈ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者〉という牧会上の問題が取り扱われます。その点で、一般的勧告の初めと終わりで、自分を過大に評価することが戒められ(ローマ12:3)、常に慎み深さの点から自己点検することが勧められたのは、とても意義あることでしょう。

原文には、「酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱と好色、争いとねたみではなく、品位・慎みをもって」と書かれています。さっさと「捨て去りたい」ところですが、それらのものはかえってまとわりついてきます。

これは、いわゆる悪徳表の一種であります。「酩酊(めいてい)」(泥酔)というのは、現実に、教会の聖餐式でも酔っぱらう者がいた(Ⅰコリント11:27-29)ということですから、看過できないことでありました。

ちなみに先述した、「過大に評価する」の原意は、「酔った状態で思う」ということで、興奮し自慢げにしゃべり続けている様を表しています。どうやら、「酩酊」ではなく、しらふの方が「慎み深さ」に相通じているようです。

そして、少し際立たせるような形で最後に、「争いとねたみ」と出てくるのには注意が必要です。

というのも、「わたしは心配しています。そちら(コリントの教会に行ってみると……争い、ねたみ、怒り、党派心、そしり、陰口、高慢、騒動などがあるのではないだろうか」(こちらは最初に提示 Ⅱコリント12:20)というような、諸悪の根源にあるのが、「争いとねたみ」だからです。それでは、それらを「捨て去る」という難事を(まっと)うするには、どうしたらよいのでしょうか?

 

Ⅴ キリストを身にまといなさい 

ローマの信徒への手紙13:14―― 

しかし逆に主イエス・キリストを身にまといなさい。欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません。

しかし」との一句をもって、この身に争いとねたみ」を帯びてしまうことからの、逆転勝利が約束されています。

前回、「」(アガペー)についてのテキスト(ローマ13:8-10)に対し、次のようなまとめを掲げました。

ローマ13:8だから、人を愛する者は律法を(まっと)うしている。(直訳 以下同) 

↓         ↓           

ローマ13:10それ故に、は律法を全うするものである。

これに(なら)って、終わりの時の倫理について、整理してみましょう。

ローマ13:12だから、わたしたちは光の武具(ぶぐ)を着けようではないか。」           

↓         ↓           

ローマ13:14しかし、主イエス・キリストを着なさい。

ここから分かるのは、パウロが大切なことを二度繰り返している、そして後のほうでは、神のまたは主イエス・キリスト御自身に立ち戻っているということです。つまり、結論的に、神のならびに主イエス・キリストが信仰の中心だということです。

神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3:16)との福音聖句には、「神は愛された」と「独り子をお与えになった」との言葉は含まれています。その神の御子の御業に信頼することが、わたしたちの信仰の核心です。

この点で、すべての勧めが、「しかし、主イエス・キリストを着なさい」との言葉で締めくくられているのは、まことに的確です。「光の武具」が「争いとねたみ」で(かげ)らされるのを、恐れることはありまぜん。

主イエス・キリストを着なさい」とは、わたしたちの存在と生活すべての土台が、主イエス・キリストであるということです。新生をもたらす、その力は、困難に直面するわたしたちの現実の中で働きます。

闇の行い」が力を(ふる)い、わたしたちが隣人に悪を行うように(いざ)っても、わたしたちはその武具によって守られています。御父と御子が一つであるように、わたしたちもその交わりに入れられ、一つになっています(ヨハネ17:21)。偽メシアがつけ入る(すき)はありません。

パウロはいつものように人間の弱さを見つめながら(ローマ7:2512:2113:10前半)、「欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません」と言い残しました。

欲望」という語は、人がもっと欲しがるような「むさぼり」を表しています(ローマ7:7,8)。自分の心のうちに「むさぼり」が起こると、いろいろなことが自分の力のままになると思い込んでしまいます。歯止めが()かなくなります。罪悪に隣人を巻き込みながら、自分は破滅の一途をたどります。

欲望」または「むさぼり」にかられた人間の根本的な問題は、そのような恥ずべき生活に対する神の裁きや怒りに気づいていないところにあります。それらはまさに脱ぎ捨てるべき「闇の行い」であります。神に反逆する人間にも、神の救いの御手は差し出されています。キリストの(しもべ)たちは聖霊の導きにより、彼らが自分の弱さ(もろ)に気づき、神よって(まも)られるように、御言葉を語り伝えています。

 

パウロにとって、ローマへの旅は確実な見通しが立っているわけではなかったでありましょう。ローマの教会も、その都の住民も、地中海の()(とう)の先に、見え隠れするものでありました。しかしそういう中で、パウロはローマの教会における主イエス・キリストを身にまとっている」兄弟姉妹の存在を知っていました。彼らを見たことがないのに(Ⅰペトロ1:8)、それは、神にかけて、真実なことでありました。

 

愛するローマの子らよ、

いつも、光の武具を着けなさい。光の子らしく歩みなさい。

神の栄光を現す主イエス・キリストが、あなたがたの(かたわ)らにおられます。

主イエス・キリストを信じなさい。

わたしは終わりの時にふさわしい生活を続けます。

ローマの教会の人々よ、

神の()(ゆる)しあらば、お会いしましょう。

Ψ

 

 

 

アウグスティヌスの回心

32歳のとき、ミラノにて

アウグスティヌスは家の庭に出て、()(かげ)に身を寄せた。

そのとき、隣家の庭で遊んでいた子どもたちの清らかな歌声が響いてきた。

「取って読め、取って読め」。

アウグスティヌスは急いで部屋に帰り、聖書を手に取って読んだ。

そこには、「日中を歩むように、品位をもって歩もうではありませんか。

酒宴と酩酊(めいてい)、淫乱と好色、争いとねたみを捨て、

主イエス・キリストを身にまといなさい。

欲望を満足させようとして、肉に心を用いてはなりません

(ローマの信徒への手紙13:13-14)。

アウグスティヌスの心は(ふる)え、やがて静まった。

ほのかな光と平安がさし込んできた。

以上、宮谷宣史『アウグスティヌス』、講談社、2004 より

 

回心の一年前、母モニカがミラノにやって来ました。

回心の一年後、アウグスティヌスは復活祭に受洗しました。

神に愛され、また母に愛され、

アウグスティヌスは、快楽と孤立を捨て去り、

キリストを着るように導かれました。

 

  アウグスティヌス354年-430年)とは *

ローマ帝国末期、北アフリカのタガステに生まれる。

古代西洋最大のキリスト教思想家と呼ばれる。

『告白録』や『神の国』などの著作がある。

 

 

Ω

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〈説教の要約〉

2022年 1月9日                               

旧約聖書 レビ記 19章18節

新約聖書 ローマの信徒への手紙 13章8節~10節

          「互いに愛し合う」

                   小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ だれに対しても借りがあってはなりません ……ローマ13:8             

~するなという(おきて)                  ……ローマ13:9

Ⅲ 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい  ……レビ記19:18  

Ⅳ 愛は律法を(まっと)うするものです          ……ローマ13:10          

 

ローマの信徒への手紙12章-15章、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、の第六回目です。

わたしたちが、この世で「どういう生活をすればよいのか」について考えようとすると、さまざまな難問が生じて来ます。パウロはその一例として、「上に立つ権力」、すなわち、必ずしもキリスト者ではない、この世の「権威者」や「支配者」への向き合い方について、ローマの教会の人々に助言しました。

要約すると……「人は皆、上に立つ権威に従うべきです」、具体的には王や皇帝から役人や(ちょ)(ぜい)人などに至るまでの、いわゆる官憲(かんけん)に従いなさい、その理由は、「今ある権威はすべて神によって立てられたものだからです」(ローマ13:1)……ということです。

もう少し詳しく、その理由についての説明を、ローマの信徒への手紙の説教要約(ローマ12:14-2113:1-7)から引用しましょう。

〈どうして、わたしたち・信仰者は、誰に対しても(キリスト教の尊さの一)、「善をもって悪に勝つという姿勢を手放してはならないのでしょうか?

それは、わたしたちが、主イエス・キリストが十字架と復活の御業をもってあらわされた神の「」(アガペー)を信じる者だからです。

救われた者とはいえ、自分自身、気の(ゆる)むことがあります。また、兄弟姉妹の間に、争い・対立・無関心などが(しょう)じることもあります。そこで、立ち帰るべきは、主イエス・キリストの十字架にあらわされた神の「」(アガペー)であります。

ここに、「愛する」ローマの信仰者たちと共に、「」がはびこっているこの世で、」をもって「」を実践しようとするパウロの姿勢が鮮明に現れています。〉

ということで、パウロは、神の」を()(どころ)として、「上に立つ権威に従う」ように勧めています。

本日の聖書箇所では、ここまで一般的な倫理問題を扱ってきたパウロが、」をもって総括(そうかつ)しています。今回の3節では、ローマ13:8愛する」(アガパオー 以下同)→:8愛する」→:9愛する」→:10」(アガペー 以下同)→:10」という流れで、「」の勧めが(てい)()されています。主イエス・キリストの救いの御業を通して神の「」を信じることが、「」をもって「」を実践する、わたしたちの原動力となります。

 

Ⅰ だれに対しても借りがあってはなりません

ローマの信徒への手紙13:8――             

互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を(まっと)うしているのです。

①と②に分けて順に、内容を(とら)えましょう。

パウロは前後の文脈を押さえながら、手紙を書き進めています。一見、「だれに対しても借りがあってはなりません」という言い方は()(ばつ)ですが、(なめ)らかに前段とつながっています。

ローマ13:7すべての人々に対して自分の義務を果たしなさい。

自分の義務を果たしなさい」を「自分の借りを返しなさい」と訳し直すと、

ローマ13:8だれに対しても借りがあってはなりません

 と見事につながります。以下、全体の展開に沿って見てみましょう。

上に立つ権威に従う」うえでの「税を納める」ことと、「互いに愛し合う」こと、この二つは「自分の借り」(自分の義務)のようなものです。それ故に、わたしたちが納税という「義務」を果たすならば、当然、「愛する」ことにおいても、その「義務」を果たす(借りを返す)べきあります。

もちろん、「税を納める」ことと「互いに愛し合う」ことには、相違があります。

一方、「税を納める」のは、上に立つ権力に従ううえでの、わたしたちの、この世での一実践項目です。他方、互いに愛し合う」のは、わたしたちのキリスト教倫理の総括です。つまり、キリスト者の生活の中心に位置づけられるべきことであり、これからも永遠に続く課題であります。P. アルトハウスは、「愛の負い目(借り・義務)は、払えども払えども、なお(つぐな)いきれない。それは、無限の負債である」と語っています。

ここまで説明すると、皆さんの心に「ある気持ち」が湧き起こってくると思います。それは、神の「」(アガペー)について、借りがあるとか、義務を果たすとか、キリスト教倫理の「勧め方」として、何か変ではないか、ということです。「互いに愛し合う」ことを、貸し借りの返済になぞらえるのは、間違ってるよと、思わず叫びたくなる人もいるでしょうか。

パウロに寄り添うならば、「だれに対しても借りがあってはなりません」と一喝(いっかつ)し目覚めさせて、「隣人を自分のように愛しなさい」との(おきて)に心を傾けさせる算段なのでしょう。

整理すると、一方、「税を納める」ことについて、この世に生きるわたしたちは、「借りがある」ので返します(義務を果たします)。他方、「互いに愛し合う」ことについては、まずわたしたちは自分に「借りがある」ことを認めねばなりません。パウロは、「互いに愛し合うことのほかは」と言って、例外的に「」は無限の負債である」と告知しています。次にわたしたちは、生活の中心に互いに愛し合う」ことを据え、その「借りを返す」のであります。

仮にあなたがこの世で金持ちあるいは上に立つ人であったとしても、「」(アガペー)に関して、あなたは、「貸しを戻される」人ではなく、「借りを返す(がわ)人であります。人に愛されることを求めるのではなく、人を愛することに専心する(Ⅰヨハネ4:7-11)ということです。神の「」(アガペー)を規範として、すべての人が「隣人を自分のように愛する」ならば、「互いに愛し合う」ことが成し遂げられます。

ローマの信徒への手紙13:8後半には、②人を愛する者は、律法を(まっと)うしているのです、と書かれています。

 今、「人を愛することに専心する」と述べましたが、その根拠がここに示されています。

パウロはローマの信徒への手紙12章から、主イエス・キリストに救われた者は、どういう生活をすればよいのか、について、さまざまな勧めを書き表しました。そこで、この段になってパウロは、旧約の「律法」をも視野に入れつつ、キリスト者の倫理の帰結を示しました。それが、「愛する」(アガパオー)でありました。

パウロによれば、先祖アブラハム以来、受け継がれ、今キリスト者の倫理の根幹となっている「律法」を、「人を愛する者は(まっと)うしている」ことになります。しかし、613の戒律を持つと言われるユダヤ教徒から猛反発を()らうでありましょう。勝手に一つに(しぼ)るのは、けしからんと……。

「神は細部に宿る」という格言(典拠不明)があります。ならば、613の戒律の方が有益であるような気がします。本当に、たった一つの戒律、「互いに愛し合いなさい」がわたしたちの信仰生活の細部にまで行きわたり、「キリストの体」(ローマ7:4)の命を生かすものとなるのでしょうか。パウロの答えは、(しか)りであります。

すでに、「わたしたちは信仰によって、むしろ、律法を確立する」(ローマ3:31)とパウロは宣言しています。今、神の「」(アガペー)を信仰し実践することによって、わたしたちは「律法を(まっと)うしている」と述べています。パウロは前言(ぜんげん)(ひるがえ)すような弱腰ではありません。ローマでも、ユダヤ人と論じ合う覚悟でありましょう。

 

~するなという(おきて)                  

ローマの信徒への手紙13:9――

姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」、そのほかどんな(おきて)があっても、「隣人を自分のように愛しなさい」という言葉に要約されます。

やはりユダヤ人の迫害から命を()してまでローマの教会を守るという覚悟でしょうか、キリスト教徒としての聖書」(律法(トーラー)の書)の読み方を伝授しています。律法学者」に侮辱されないように(マタイ27:41)、パウロは「」(アガペー)の教えを説き明かしています。

姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」と、パウロは十戒のうち、四つ(第7,,,10戒)を引用しています。十戒の第5~10戒は、「どういうふうに隣人と生きていくか」についての教えです。一般的な倫理問題を扱ってきた文脈に則して、四つが例示されました。

そしてパウロは、そのほかどんな(おきて)があっても……」(くぎ)を刺したうえで、隣人を自分のように愛しなさい」との言葉はすべてを要約すると結論づけました。

マタイ福音書22:37――

イエスは言われた。「(第一の掟は)『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさいアガパオー。』」

マタイ福音書22:39――

第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさいアガパオー。』

コリントの信徒への手紙 13:13――

それゆえ、信仰と、希望と、アガペー、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、アガペーである。

要約されますという語の原意は、「再び(トップ)(かしら・あたま)によってひとまとめにする」ということです。主イエス・キリストの示した最も重要な掟は、「愛しなさい」との命令によって集約されています。そして、パウロがコリントの教会に書き送った手紙でも、最上の形で「」が(たた)えられています。今や、結論として言えることは、「愛である」ということです。数々の「~するな」という禁止命令から、「愛しなさい」とのひと言に転じています。このような観点からも、キリスト者は「」を尊ぶべきでありましょう。

 

Ⅲ 自分自身を愛するように隣人を愛しなさい

レビ記19:18――

復讐してはならない。民の人々に(うら)みを(いだ)いてはならない。自分自身を愛するように隣人を愛しなさい。わたしは主である。

パウロは、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との言葉を、「聖書」(律法(トーラー)の書)から引用しました。それは、主イエスの示された最も重要な掟(第二)に符合するものでありました。この言葉によって、律法全体が「要約される」と言い切りました。

前述したとおり、ユダヤ教徒は613の戒律を持っていると言われます。それにもかかわらず、主イエスならびにパウロが、すべての律法はこれに帰すると、レビ記19:18自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との教えを掲げています。その点で、主イエスとパウロは()(いつ)にしています。ユダヤ人にできず、この二人にそれ(トップ)を持つ要約)ができたのは、何故なのでしょうか?

これこそ、まさに福音の核心です。

主イエス・キリストはわたしたちの間に降誕し、わたしたちの罪科すべてを背負って十字架につけられました。そして、三日目によみがえられました。神は御前に()で、悔い改める者を、無償の「」(アガペー)をもって赦してくださいました。

福音とは、神の「」(アガペー)が、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によってあらわされたということであり、それを信じる者がキリスト者であります。

さらに、主イエスは祈りの中で、「永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです」(ヨハネ17:3)と、わたしたちに教えられました。罪によって汚れたわたしは、御父にも御子にも近づくことができません。しかし、御子はわたしたちの間に宿り、わたしたちと喜びと苦しみを分かち合ってくださいました。そして、御子は御父の御心に()い、十字架と復活の御業によって、神の「」をあらわされました。

わたしたちは分かりました」または「わたしたちは信じます」と言いつつも(ヨハネ16:30)、主イエスから離れていった弟子たちに、神の「」が知らされました。主の十字架の「」は、永遠に輝いています。

人間のどのような賢さをもってしても、レビ記19:18の一節が福音の核心を成すとは、見抜けなかったでありましょう。主イエスは罪人を「隣人」のように受け容れながら、「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」との言葉を実行されました。その際、「愛する隣人」が神の「」を信じるとき、その人は「あなたの兄弟姉妹」となります(マルコ3:35、ヨハネ黙示録19:10)。それもまた、神の「」の()せる業なのです。

アガパオー)ことと共に、「あなたの隣人」(ローマ13:9,10)にも変革がもたらされました。

「あなたの隣人」には、弱く貧しい人や外国人が含まれます(レビ記19:34)。あなたは、その人の功績・栄誉によって、「あなたの隣人」を退けてはなりません。神があなたに出会いの機会を与えている、その人が「あなたの隣人」です。

そのような人々が、キリストの体なる教会に招き入れられるように、「隣人を愛しなさい」。そうして、その

 

Ⅳ 愛は律法を(まっと)うするものです     

ローマの信徒への手紙13:10――          

アガペーは隣人に悪を行いません。だから、は律法を全うするものです。アガペー

この節のギリシア語原文では、最初と最後に、「」(アガペー)が配置されています。まさに、主イエス・キリストならぬ「」(アガペー)は、アルファ α でありオメガ Ω であるということでしょう(ヨハネ黙示録1:8)。

さて、パウロは「」(アガペー)による倫理講解の最後で、人間の弱さを見つめています(参照:詩編119:176〔最終節〕、ヨハネ16:32-33)。最後まで主イエスにつき従えず、さ迷い、失われたものとなってしまうような弱さを見逃しません(ルカ19:10)。

愛は隣人に悪を行いません」という場合の「愛は」というのは十戒はじめ、すべての律法を要約した「愛は」と理解されます。すなわち、隣人に悪を行わない・「隣人に害を加えない」ために、」(アガペー)をもって「姦淫(かんいん)するな、殺すな、盗むな、むさぼるな」との戒めを実行するということです。なぜなら、隣人はしばしば、守るべき弱い存在だからです。

律法という神の言葉の力によって、人間の不義や罪を打ち負かさねばなりません(ローマ12:21)。神の言葉という「」かつ「」なるものが、「隣人に悪を行わない」ように、信仰者を導きます。時に、老いさらばえている「養育係」(ガラテヤ3:24)に見えるかも知れませんが、律法は慈愛と峻厳をもって、わたしたちを悪事から引き離します(ローマ11:22)。さらに、律法という「養育係」は、人が「」と「」が判別できるように、その人自身の「良心」をつくり上げます(ローマ2:1513:5)。そうすれば、自分の「良心」に照らして判断するように、その人のうちに健全なキリスト教倫理が築かれます。

こうして、人は義しい道に引き戻され、自分の弱さを乗り越えていきます。

ローマ13:8だから、人を愛する者は律法を(まっと)うしている。」(直訳)             

ローマ13:10それ故に、愛は律法を全うするものである。」(直訳)              

全うする」など用語はほぼ同じです。違いは、どこにあるのでしょう。強いて言えば、前者は、神の「」(アガペー)を信じる人が主語であり、後者は、神の」(アガペーそのものが主語であるということです。「それ故に、愛は……」が最後に置かれている理由は、そこにあります。

神の「」(アガペー)が、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって成し遂げられ、信じる人に注ぎ入れられています。その点では、前者も後者も同一です。ただ、信じる人が常に立ち帰るべきは、神の「」(アガペー)ですから、それが段落の最後に置かれているのは、()の当然でありましょう。

うつむいて、自分の「愛は……」とつぶやくのではなく、神の「……」と唱えることです。

 

 

α  avga,ph  Ω

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〈説教の要約〉

2022年 1月2日                              

旧約聖書 エレミヤ書 14章21節

新約聖書 ヨハネによる福音書 17章1節~5節

         「栄光を現すために」

                    小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 御名(みな)のために、わたしたちを退(しりぞ)けないでください 

                      ……エレミヤ書14:21          

Ⅱ 御子(みこ)御父(おんちち)の栄光を現す          ……ヨハネ17:1

Ⅲ わたしたちが御父と御子を知る       ……ヨハネ17:2-3  

Ⅳ 御子は()(わざ)を成し遂げられる      ……ヨハネ17:4-5          

 

教会暦では、来たる1月6日(木)を、(こう)(げん)()エピファニーと呼んでいます。

ルカによる福音書1:79 ザカリア(洗礼者ヨハネの父)の預言――

 (神の憐れみによるあけぼのの光が

暗闇と死の(かげ)に座している者たちを照らし、

我らの歩みを平和の道に導く。」

光が暗闇と死の(かげ)に座している者たちを照らすエピファイノー 原意:上に+輝く)」という預言が、御子イエス・キリストによって成就しました。神の子がわたしたちの間に宿り、その姿を公に現されたことを記念するのが、エピファニーです。

本日の聖書箇所で、「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった(わざ)を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しましたドクサゾー)」(ヨハネ17:4)と、主イエスは告げています。これに先がけて、ザカリアの子ヨハネは、あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言って、御子の「栄光」に注目するよう民衆に伝道しました。

御子の「栄光」が、わたしたちを「照らしている」のは、わたしたちの大きな慰めであります。わたしたちは信仰をもって、御子の「栄光」に由来する慰めを受け取り感謝するようにと、導かれます。このような観点により、(こう)(げん)()エピファニーを覚えることが大切です。

さて、主イエスはいわゆる最後の晩餐(ばんさん)で、訣別(けつべつ)説教を行われました(ヨハネ13:3116:33)。その後、主イエスは父なる神に向かって祈られました(ヨハネ17章)。これをダビッド・ヒトレーウス(16世紀の人)は「大祭司の祈り」と呼びました。

これは、共観福音書の「ゲツセマネの祈り」(マタイ26:36-46他)に並行しています。すなわち、十字架の道の最終段階へ()で立つ前に主イエスが、御自身御父と一体であり、御父の御心に添って御業が成し遂げられるように祈られた点で大祭司の祈り」と「ゲツセマネの祈り」とは共通しています。

この「大祭司の祈り」を読む前に、預言者エレミヤがユダの民の苦悩を神に取りついだ祈りを取り上げましょう。不信仰や無理解によって、かつてのユダの民も、主イエスの弟子たちも、神から退けられそうになっています。助けを必要としています。神は、死と罪の泥沼(どろぬま)に沈みかけている人々を憐れんで、エレミヤを遣わされました。

 

Ⅰ 御名(みな)のために、わたしたちを退(しりぞ)けないでください          

エレミヤは若き日、ユダの王ヨシヤ王の治世(前639609年)に召命を受けました。時代は、597年の第一次バビロン捕囚、そして、前587年のユダ王国の滅亡という暗黒に向かって()(くだ)っているところでありました。

エレミヤは神によって聖別された預言者です(エレミヤ書1:5)。彼は、その災いが人々の裏切りによって引き起こされたことを見抜いていました(同上3:6-11)。裏切りというのは、神から離れ、異教の神々に仕えるような背反(はいはん)でありました。エレミヤは繰り返し、「神のもとに立ち帰れ」(同上3:224:1)と訴えましたが、多くの人々はそれを(こば)みました。

追い打ちをかけるように、都エルサレムとその周辺に、(かん)ばつが襲いました。この国に、異民族の「(つるぎ)」と共に「()(きん)」が臨みました(エレミヤ書14:15)。エレミヤは、「ああ、わたしは災いだ」(同上10:1915:10)と叫び、茫然(ぼうぜん)とするばかりでありました。声を(しぼ)り上げるようにして、エレミヤは神に向かって、民全体の救いを()いました。

エレミヤ書14:21――

我々を見捨てないでください。

あなたの栄光の座を軽んじないでください。

御名にふさわしく、我々と結んだ契約を心に留め

それを破らないでください。

当時、エレミヤに(くみ)する人々は、多くはなかったと見られます。しかし、「我々と結んだ契約」を思い起こしてくださいと、神に訴えています。エレミヤは、神に(そむ)いた自分たちの罪を告発しつつ(エレミヤ書14:7,20)、「契約」の民(出エジプト記19:5)・ユダ全体の救いを祈り求めています。

この節の冒頭は、御名のために、(わたしたちを)退(しりぞ)けないでください(原文直訳)となっています。

裏切りや背きの大きさからすれば、ユダの民は神から退けられ、見捨てられても致し方ありません(哀歌2:65:2)。それは、エレミヤも先刻承知です。

それ故に、エレミヤは、「主よ、どうか、わたしを(きよ)めてください。執り成すわたしの嘆きをお聞きください。御名のために、(わたしたちを)退(しりぞ)けないでください」と祈ったのであります。

では、御名のためにとは、何を意味しているのでしょうか? これに関して、大祭司の祈り」の中に、次のような一節が見られます。

ヨハネ福音書17:11 主イエスの祈り――

「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください。わたしたちのように、彼らも一つとなるためです。」

わたしに与えてくださった御名というのは、イエス・キリストの御名を指しています。では、一体なぜわたしたちは、イエス・キリストの御名によって祈る(使徒2:38、エフェソ5:20)のでしょうか? エレミヤの執り成しのように、御名のために、改め、イエス・キリストの御名によって、わたしたちを退(しりぞ)けないでくださいと、祈るならば、何かが起こりうると言うのでしょうか? では、イエス・キリストの御名によっての真意が分かるように、説明を試みましょう。

わたしたち・信仰者は「父なる神の御心のもとに、主イエス・キリストが十字架と復活によって自分を死と罪の泥沼から救い出してくださった」と信じています。しかし、わたしたちがちょうど神について全部を知っていないのと同様に、わたしたちは主イエス・キリストの御業を知り尽くしているわけではありません。むしろ、知らないまま、神からの恩恵にあずかっています。その際、ただ一つわたしたちに出来ることは、イエス・キリストの御名をほめたたえることです。

その御名イエス・キリストそのものを指しています。御名は神の霊を宿しています(Ⅰペトロ4:14)。わたしたちにとって、イエス・キリストの御名を唱えることは、自分たちの信仰を高め、生活に益する元となります。

イエス・キリストの御名によって祈るとはあなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました(ヨハネ17:2という御子の権能に頼ることです。罪に()かれ、災いに打ちひしがれてしまうような弱いわたしがすべてのこと、「御名によって」神にゆだねるのです。わたしたちは、悪魔に打ち負かされそうになっても、「あらゆる名にまさる名」(フィリピ2:9)によって戦うことが許されています。善をもって悪に打ち勝つ力が与えられています(ローマ12:21)。

裏切りや背きの大きさからすれば、神から退けられ、見捨てられても致し方のないユダの民が出来る唯一のことは、御名のために、(わたしたちを)退(しりぞ)けないでくださいと祈ることでありました。エレミヤはその見本を示したのです。同時に、エレミヤは、イエス・キリストの御名によって祈ることが、どれだけ大切かを教えた、その先駆者となりました。ユダの民が神の裁きを越えて、救われるかどうかは、一人ひとり、御名のために祈り、神に立ち帰るということに掛かっていました。

あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまう(ヨハネ16:32)と、主イエス・キリストに鉄槌(てっつい)を下された弟子たちにも、主のもとに立ち帰るチャンスが残されていました。何よりも、「聖なる父よ、わたしに与えてくださった御名によって彼らを守ってください」(ヨハネ17:11)と、イエス・キリストが執り成してくださっていたのですから 弟子たちこそ、「イエス・キリストの御名」にまさる名はない、その力を信ずべきでありました。

 

Ⅱ 御子(みこ)御父(おんちち)の栄光を現す                    

ヨハネ福音書17:1――

イエスはこれらのことを話してから、天を(あお)いで言われた。「父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください。」

主イエスは、これらのことを話してから、つまり、訣別説教ですべてをはっきりと(ヨハネ16:25,29)語り尽くされました。そして、目を上げて、わたしはあなたを仰ぎます 天にいます方よとの詩編(123:1)を想起させるような形で、主イエスは、天を(あお)いで言われました。天地を支配する神の壮大な力に包まれながら、祈り始められました。

父よ、時が来ました……その「」というのは単刀直入に、主イエスが十字架につけられる時を指しています。それは、弟子たちは充分に()み込めなかったのですが、「今、わたしが世を去って、父のもとへ行く」(ヨハネ16:28)という「」でありました。

後続の「あなたの子があなたの栄光を現すようになるために、子に栄光を与えてください」という言葉が、父と子の一体性を表していることは明白です。すなわち、〈御父(おんちち)御子(みこ)に栄光を与える⇔御子(みこ)御父(おんちち)の栄光を現す〉というように、双方の行いは連関しています。(あい)働いています。

言い換えると、御子イエス・キリストは、御父の御心に添い……父よ、と祈っておられるのはそのためです……、「栄光を現す」べく、救いの御業を成し遂げようとされています。ザカリアの預言で確認した通り、御父と御子が協働して「栄光を現す」ならば、その「光が暗闇と死の(かげ)に座している者たちを照らすエピファイノー)」ということが起こります。救いの光が罪人上に輝くのであります。

そのようにして、〈御父(おんちち)御子(みこ)に栄光を与える⇔御子(みこ)御父(おんちち)の栄光を現す〉という神の出来事において、わたしたち・罪人は暗闇から助け出されます。神の憐れみによって、わたしたちが救われたことが、しっかりと受け止められるよう、次に「永遠の命」(ヨハネ17:2,3)について説き明かされます。

 

Ⅲ わたしたちが御父と御子を知る                

ヨハネ福音書17:2-3――

2 「あなたは子にすべての人を支配する権能をお与えになりました。そのために、子はあなたからゆだねられた人すべてに、永遠の命を与えることができるのです。3 永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。」

前段で、「父と子は一体である」と宣言されたのちに、「あなたからゆだねられた人すべて」との句によって、わたしたちとの関わりが明示されています。これは、父と子の人格的な交わりに、わたしたちが入れられるということです。

主イエスから差し出された「永遠の命とはを知ることです」という定義を、「知る」べき人は、わたしたちすべてです。「すべての人」を指すのに、主イエスは「すべての肉なる者」という独得の用語を使われました。これに関連して、皆さんはこの福音書・序文のメッセージを思い起こされることでしょう。

ヨハネ福音書1:14――

(ことば)は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。

それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。

父の独り子」が「肉となって」、人間と同じ者になられました(フィリピ2:7)。御子イエス・キリストは、まことのへりくだりをもって、「すべての肉なる者」を保護されます。わたしたちの苦しみも喜びも分かち合ってくださいます。御子が御父から与えられた「栄光」により、闇の底にいる弱く貧しい人々を照らしてくださいます。

永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、

あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。

「…とは~である」という文体から、これは定義であると述べましたが、実際は、「父よ」と呼ぶ主イエスが「すべての肉なる者」を、神との親しき交わりに導き入れようとしている招きの言葉と言えます。それは、神とわたしたちとの人格的な、「」の交わりなのです。わたしたちはただ信仰により、聖霊に導かれてその関係を保ち、深めていきます。そのようなわたしたちへの、神からの究極的な贈り物が、「永遠の命」であります。

それでは、具体的に、「唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知る」には、どうすればよいのでしょうか?

それは、神が「お遣わしになったイエス・キリスト」による十字架と復活の御業が、この自分を救うためであったと「知る」ことです。「永遠の命」というものは、その主イエス・キリストの御言葉と御業とのうちに現されました。主イエスは明瞭に、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)と語られました。父に遣わされ、また、父のもとへ帰って行く、その円環の中に、十字架と復活による救いの御業が照り輝いています。わたしたちの澄んだ目(マタイ6:22)は、それを見出します。そこに、聖霊の助けがあります。

わたしたちに求められているのは、自分は御父と御子の人格的な交わりに入れられているという確信をもって、「永遠の命とは御父と御子を知ること」という御言葉に聞き従うことです。

 

Ⅳ 御子は()(わざ)を成し遂げられる                    

ヨハネ福音書17:4-5――

4 「わたしは、行うようにとあなたが与えてくださった(わざ)を成し遂げて、地上であなたの栄光を現しました。5 父よ、今、()(まえ)でわたしに栄光を与えてください。世界が造られる前に、わたしがみもとで持っていたあの栄光を。」

この箇所を理解する上では、先ほどお話しした、「わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」(ヨハネ16:28)という円環のイメージが役立ちます。大切な点を二つ挙げましょう。

一つは、主イエス・キリストが「世を去って」、「あなた(父)が与えてくださった(わざ)を成し遂げた」ということです。大きな輪のイメージ(下から上へ戻っていく部分)に則せば、主イエスは十字架に上げられ、さらには、父のもとへ上げられた、となります。主イエス・キリストが神から託された使命を完成され、再び神の右の座につかれました。主イエスは、怒りと悲しみのうちに十字架の御業を見守っておられた父の「みもと」に戻られました。

ひと言でいえば、御子イエス・キリストは御父のもとに帰られて、大きな輪は閉じられました。主イエスが救いの「(わざ)を成し遂げた」からです。

もう一つは、(くす)しくも、(主よ)、あなたの栄光の座を軽んじないでください」とのエレミヤの祈りが聞き届けられたということです。人間の罪科に対する神の憤りのもとに、「あなたの栄光の座」が地に投げ捨てられ砕かれる(哀歌2:1)ようなことは起こりませんでした。

むしろ、「地上であなたの栄光を現しました」と言われているように、主イエス・キリストの十字架と復活によって、「栄光」が現されました。敗北としか思われなかった主の十字架に、勝利の「栄光」が輝いたのであります。

御子イエス・キリストは、天の「栄光の座」から離れられ、「暗闇と死の(かげ)に座している者たち」のもとに来られました。ベツレヘムでお生まれになり、「飼い葉桶に寝かせ」られました(ルカ2:7)。羊飼いたちを恐れさせるほど、まばゆい「主の栄光」が照りわたりました(ルカ2:9)。それが、「地上であなた(父)の栄光を現しました」という事の始まりでありました。

大祭司の祈り」の冒頭でささげられた、主イエスの執り成しの(かなめ)――

父よ、わたしは、十字架と復活による救いの御業を成し遂げました。

どうか、わたしの言葉と業を通して、あなたとわたしを知る人々が起こされますように」、

と、わたしたちのために祈ってくだったということです。

十字架刑の前の、主イエス・キリストの祈りです。ここに、罪人を救い出すという確固たる思いがあらわれています。御父がこの祈りを聞かれていました。

 

御父と御子の聖なる交わりのうちに、わたしたちも招かれています。

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説教の要約〉

2021年 12月26日                          

旧約聖書 ゼカリヤ書 13章7節(P.1493

新約聖書 ヨハネによる福音書 16章25節~33節P.201

     「わたしは(すで)に世に勝っている」                             

                  小河信一牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 父御自身が、あなたがたを愛しておられる ……ヨハネ16:25-28             

Ⅱ 今、わたしたちは分かった               ……ヨハネ16:29-30

Ⅲ あなたがたは散らされるであろう     ……ヨハネ16:31-32 ゼカリヤ書  

Ⅳ わたしは(すで)に世に勝っている        ……ヨハネ16:33          

  結

 

今、過越祭前の夕食の集い、すなわち、最後の晩餐が終わろうとしています。主イエスは()めくくり、どんなことを話されたのでしょう? あなたも主イエスの食卓に招かれている一人になったつもりで耳を傾けてみましょう。

ヨハネ福音書13:3116:33にわたる訣別(けつべつ)説教を読み解くコツについて、以前の説教要約(ヨハネ16:16-24)より引用します。

訣別(けつべつ)説教において、主イエスは弟子たちに、これからいったい何が起こるのか、予告されています。

その主旨を二つに整理すると、こうなります。

一つは、主イエスを十字架につけようとする人間の(あく)(ぎょう)とその罪深さが(あば)き出されるということ、もう一つは、主イエスが十字架にあげられることによって神の救いの計画が実行に移されるということです。そのことを、主イエスと共に生活している弟子たちが「分かった」のかどうか、が問われています。〉

本日のテクスト中にあるように、「今、わたしたちは分かった」(ヨハネ16:30)と、弟子たちは自己申告しています。果たして、その言葉は真実なのでしょうか? 「先生、そういうこと十戒第6-10はみな、子供の時から守ってきました」(マルコ10:20)と、弟子たちと同じような自己申告をした男がいましたが……。

確かに、神の言葉について、自分が「分かったか」・「守ってきたか」と(かえり)みることは必要でありましょう。しかし、より重要なことは、今自分は神の言葉によって何を教えられたか、です。まことに賢い人というのは、常に神からも信仰者からも、教えを()う、へりくだった人であります。

「しかし、夜であった」(ヨハネ13:30)というように、闇の支配が強まり、善悪が見分けがたくなるときには、なおさらです。それを見越して主イエスは、最後のメッセージを語られました。その肝心な事柄において、詩編119編の最終節……長~い詩の末尾……と響き合うものがありますが、そのことについては、でお話しします。わたしたち・信仰者が、どのようなキリスト教的人間観を持つべきなのか、に触れたいと思います。

この夕べの(たく)()は、 主イエスが語る⇒ 弟子たちが答える⇒ 主イエスが答えるという流れになっています。それでは……

 

Ⅰ 父御自身が、あなたがたを愛しておられる          

ヨハネ福音書16:25-28 主イエス→弟子たち―― 

25 「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。26 その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。27 父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。28 わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」

弟子たちに言い残すことのないように、さすがに内容が充実しています。そこで、①たとえ16:25)、②祈り16:26)、③父の愛16:27-28)の三つに分けて見ていきましょう。

たとえ ヨハネ16:25――

これまでの訣別説教は、「たとえを用いて」話されました。これは、主イエスの側からすると、「たとえ」((ぐう)() アレゴリーと比喩)を駆使して、福音を弟子たちの心に届けたということです。この「たとえ」には、「まことのぶどうの木」(ヨハネ15:1-17)や「女の出産時の苦痛」(ヨハネ16:21)などが挙げられます。

そして、弟子たちの側から見ると、「たとえ」によってなぞらえられているが故に、まだ謎が残っていたということになります。「たとえ」自体が分かったとしても、それが指し示している事柄の本質が受け止められていなかったのです。

ひと言でいえば、聖霊に導かれるような、霊的な福音理解には達していなかったということです。具体的には、主イエスが繰り返された「父のもとへ行く」(ヨハネ7:3316:5,10,17,28)との言葉に関し、弟子たちは、「十字架→死に打ち勝つ→復活→神のみもとへという大きな輪の中で、ここら(あた)が、まだピンと来ていなかった」(熊澤義宣)のです。これでは、主イエス・キリストがどういうお方であるかという問いに対して、弟子たちはなおも深い闇に包まれていたと言っても過言ではないでしょう。

そこで、主イエスの側から、「もはやたとえによらず、(わたしが)はっきり父について知らせる(であろう)時が来る」と宣言されました。「はっきり」というのは、すべての言葉を尽くして、という意味です。「(ことば)」(ヨハネ1:1)なる主イエス・キリストが、御言葉と御業をもって、わたしたちを「(神)について知ら」された者とするということです。先の引用文でいえば、「十字架→死に打ち勝つ→復活→神のみもとへという大きな輪の中で、ここら(あた)までもピンと来る」ということです。必ず、その「時が来る」のであります。

祈り ヨハネ16:26――

たとえ」の()()にさ迷っていたわたしたちが、「はっきり父(神)について知ら」された者となるための心構え、その第一が「祈る」というのは当然です。主イエスは、「わたしの名によって願うこと」を勧めておられます。すでに、十字架と復活の御業によって、御子イエス・キリストの執り成しは完了しています。

それによって、わたしたちが神の御前に()でて、「イエス・キリストの御名」(わたしの名)によって何でも願うという道が開かれました。祈りによって、神と信仰者、父と子の親しき交わりがつくられます。

わたしたちの祈りは、父なる神が「(おこな)ってくださる」ことより、かなえられます(ヨハネ15:7)。神の御心を問い尋ねる祈りほど、神信仰を強めるものはありません。

父の愛 ヨハネ16:27-28――

ここに、極めて珍しい文句が出て来ますが、これは、主イエスの中心メッセージと言ってよいものです。

先行する神の愛――

父御自身が、あなたがたを愛しておられるフィレオー)」〈現在形〉

応答としての人の愛――

あなたがたが、わたし(イエス)を愛したフィレオーから」〈完了形〉

先行する神の愛について説明します。ここで、「」は、あなたがたを「友として愛しておられる」と述べられています。「愛する」は原文・ギリシア語では、「アガパオー」(ヨハネ14:21,23)ではなく、「フィレオー」が使われています(参照:ローマ12:10兄弟愛フィラデルフィア)。

この背景には、わたしたちの祈りにおいて、もはや主イエス・キリストが(こと)(さら)に取りつぐことはない…わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない」(ヨハネ16:26)…との告知があります。つまり、父なる神が、兄弟姉妹のように信仰者と親しく交わられるということが、「友として愛しておられる」(フィレオー)の一句に表されています。

父御自身が、あなたがたを愛しておられる」という、この愛は永遠の愛です。なぜなら、死と罪のどん底に沈んでいたわたしたちに、御子イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、わたしたちへの愛をあらわしてくださったからです。神の愛は、弟子たちなど人間の不信仰に(くっ)することなく、御子の十字架の死を超えて、貫かれました。

わたしたちに求められているのは、「あなたがたが、わたし(イエス)を愛したから」という、その愛にとどまることです。「キリストは真実にとどまっている」(Ⅱテモテ2:13)ように、神に強められて(Ⅰテモテ1:12)、主イエスを「友として愛する」愛に踏みとどまることです。

弟子たちがほんとうの愛を知るために、最善なのは、主イエス・キリストによる救いの御業を(あお)ぐということです。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く」ということを通して、主イエスは神の栄光を現されます(ヨハネ11:4)。「主イエスはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」……弟子たちにとって、今こそ、十字架→死に打ち勝つ→復活→神のみもとへという主イエスの「」(ヨハネ14:4,6)を信ずべき時でありました。

 

Ⅱ 今、わたしたちは分かった               

ヨハネ福音書16:29-30――

29 弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。

30 あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」

約言すれば、「今、わたしたちは分かった わたしたちは信じる」と、弟子たちは答えましたということです。「めでたし、めでたし」ではないのでしょうか?

今、わたしたちは分かった」が原文では文頭に置かれていますが、では一体何が分かったと言うのでしょう。

弟子たちは、「今は、あなたははっきりとお話しになっている」という状況に置かれています。主イエスはもはや「少しもたとえを用いられません」。

弟子たちは、すべての言葉を尽くしての語りと「たとえ」による語りとを区別しています。しかし、問題は、人間の側の聞き方にあります。主イエスが知恵をもって両様の語りを使い分けられても、真に人が聞いていないならば、意味がありません。

今は、あなたははっきりとお話しになっている」と書かれています。思い浮かべてください。主イエスは自分を取り囲んでいる群衆に話し始められました。「たとえを用いることなく、はっきりと」語られています。

そこで、あなたはすぐに「わたしは分かった」と申し出られますか。それとも、聖霊にゆだねて、自分が福音理解に達するのを待たれますか。大切なのは、人が「分かった、信じる」までに要する時間ではなく、聖霊に導かれて教えられることです(ヨハネ14:26)。神の御力によって信じさせていただくことです。

細かいようですが、「これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます」との弟子たちの言葉には、「あなたが神のもとへ戻って行かれる」(ことを信じます)が欠けています。ヨハネ福音書1317章では、「主イエスはどこから来て、どこへ行こうとしているのか」のうち、後半が掘り下げていると言われます。が、弟子たちは、「あなたが神のもとへ戻って行かれる」(ヨハネ13:316:5,10,17,28)ことを受け入れようとしていません。

弟子たちの回答は一見、前向きで非のうちどころがないように思われます。しかし、主イエスは人の心を見抜いておられます(ルカ16:15、ローマ8:27)。かつて、主イエスは、愚かな答え(マルコ10:20)をした金持ちの男を慈しみ、的確な命令を与えられたことがありました(マルコ10:21)。そのように、主イエスは最後まで弱い弟子たちに寄り添われました。

 

Ⅲ あなたがたは散らされるであろう      

ヨハネ福音書16:31-32――

31 イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。32 だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、(すで)に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。」

今ようやく、(あなたがたは)信じるようになったのか」との主イエスの問いかけは、どのように解したらよいのでしょうか。求道の歩みの遅さをなじっているのか、それとも、ほんとうに信じたかどうか、疑っているのか、一体どういう意味なのでしょう。いずれにしても重要なのは、それを前置きとして、次に(てっ)(つい)弟子たちに(くだ)されたということです。今、わたしたちは分かった。わたしたちは信じる」と言う弟子たちの言葉の空虚さが(あば)き出されました。

だが(見よ)、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、

わたしをひとりきりにする時が来る。

あなたがたが散らされて」との句は受身ですから、「サタンの引導により」か、あるいは、「神の深遠な計画により」との言葉が隠されています。結局、弟子たちは、「あなたがたが、わたし(イエス)を愛したから」という、その愛に踏みとどまることができませんでした。わたしたち・人間の、()(とう)のような反逆や裏切りに押し切られてしまいました。

この夕食の後に、イスカリオテのユダが手引きして、祭司長たちや長老たちがやって来ました。そして、主イエスを捕らえました。「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)と報じられています。この事件は、夕食で主イエスが予告したものであり、また、それは旧約の預言にさかのぼるものでありました。

ゼカリヤ書13:7―― 

(つるぎ)よ、起きよ、わたしの羊飼いに立ち向かえ

わたしの同僚であった男に立ち向かえと

万軍の主は言われる。

羊飼いを()て、羊の群れは散らされるがよい。

わたしは、また手を返して小さいものを撃つ。

この事件は、「その日」が来る時に、エルサレムで起こるとされています(ゼカリヤ書12:213:1、ヨハネ16:23,26)。「わたしの羊飼い」ならびに「わたしの同僚であった男」は、主イエス・キリストを暗示しています。

一方では、「(つるぎ)」、「羊飼いを()」と命じられています。実際、主イエスが捕縛されるとき、「」が使われました(マタイ26:47)。他方では、「羊の群れは散らされるが」ままになります。ここには、良い「羊飼い」につき従い得ない人間の限界と弱さが描き出されています。

しかしながら、主イエスは孤独ではありません。「わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ」と、十字架の苦難と弟子たちの離散を見据えながら語られています。主イエスは「わたしが父の内におり、父がわたしの内におられる」との宣言を繰り返されています(ヨハネ8:1614:10,11,2017:21-23)。それほどに、御父と御子は一体なのであります。

それ故に、わたしたちは、「あなたはわたしたちに御父(おんちち)をお示しくださいました」(参照:ヨハネ14:9)と、主イエス・キリストに感謝すべきです。主イエスよ、「父御自身が、あなたがた(弟子たち)を愛しておられる」ことを教えてくださり、感謝します、と。

 

Ⅳ わたしは(すで)に世に勝っている          

ヨハネ福音書16:33 主イエス→弟子たち――

「これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」

弟子たちの弱さや不信仰に動じることなく、主イエスは訣別説教の(ちょう)()を飾られました。かえって、弟子たちに慰めと励ましに満ちた言葉を語り伝えられました。

これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。

主イエスが最後に「平和」または「平安」を告げられたこと(ヨハネ14:2716:33)は、わたしたちにとっての慰めです。どんなにその一日があわただしく疲れさせるものであったとしても、夕べ、「平安」のうちに(いこ)える人は幸いですそれによって、自分の雑然として思いを整えることができます。

主イエス・キリストは、「あなたがたがわたしによって平和を得るため」に、神とわたしたちとの間の和解を成し遂げられました。というのも、わたしたちがこの世で争いや()め事に引きずり込まれ、打ちひしがれてしまうか否かは、わたしたちが確固として神との間に「平和を得」ているかどうかに掛かっているからです。

父御自身が、あなたがたを愛しておられる」という父なる神との関係において、わたしたちが「平和を得る」のは、大きな慰めです。「わたしによって」、すなわち、わたしたちの罪科を背負って十字架につけられた主イエス・キリストによって、わたしたちは救われ、神の御前に再び立つことが許されました。

十字架刑によって敗北したかに見えた、良い「羊飼い」が、永遠の命をもって、弱い「羊の群れ」を助け出してくださいました。今宵(こよい)も霊なるキリストが、家の戸をすり抜けるように入って来られ、「あなたがたに平和があるように」と挨拶してくださいます(ヨハネ20:19,26)。

あなたがたには世で苦難がある。

しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。

過越祭前の集いが終わり、家の(とびら)が開かれます。主イエス・キリストが十字架の道の最終段階へと進みゆかれます。まさに、「あなたがたには世で苦難がある」というその最前線に、主イエスは立たれます。

十字架の苦難の道は、敗北に終わるものではありません。なぜなら、そこを通り過ぎて行かれる主イエスが、「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と告げておられるからです。

主イエス・キリストは、十字架と復活の御業によって、栄光をお受けになります。神の栄光を勝ち取られます。それは、主のもとから「散らされて自分の家に帰ってしまった」、情けない者に対する招きであります。つまずきから立ち直り、勝利の栄光の輪に入って来なさいと、主イエスはわたしたちを励ましてくださいます。

 

序で述べた通り、主イエスの訣別説教・最終部に即して、わたしたちが持つべきキリスト教的人間観についてお話しします。

主イエスの遺されたメッセージは、詩編119編の最終節と響き合うものがあります。

詩編119:176――

わたしは失われた小羊のようにさ迷いました。

あなたの(しもべ)(さが)し出してください。

あなたの(いまし)めをわたしは決して忘れていません。(私訳)      

ここには、真実の謙遜、へりくだりが言い表されていると、わたしは思います。自分は「失われた小羊」以外の何者でもないと、告白しています。ただ、さ迷ってしまう自分の弱さや罪を思い起こしています。

いたずらに壮麗な長篇詩の(ちょう)()を飾るといった(りき)みは、()(じん)もありません。現代社会風に言えば、この詩人は危機管理を怠らない人です。詩人は「自分は絶対安心だ。揺らぐことはない」などと言ううわべの熱狂など(いだ)いていません。それ故に、わたしたちは信頼するに足る言葉、健全な人間観として受け取れるのです。

詩人の最終の願いは、「あなたの(しもべ)(さが)し出してください」ということです。

羊の群れは散らされ、わたしはひとりきりです神からも隣人からも失われた者となりました

どうか、わたしを捜し出してください。」

 

以前は愚かな返答しかできなった者、散り散りになって逃げ惑っている者……そのような人を、失われた一匹の羊(ルカ15:4)を、見つけ出してくださる主イエス・キリストがこの世に来られました。主イエスはすべての人への救いを成し遂げるために、受難に向かって突き進まれます。

月報12月号

 

 

 

   説教 そうすれば、天にたからを積むことになる

     マルコによる福音書 10章17節~22節       小河信一 牧師

 

説教の構成――

 序

Ⅰ 主イエスの御前での問い        ……マルコ10:17             

Ⅱ 主イエスの教え 神を信じなさい      ……マルコ10:18

Ⅲ 十戒についての愚かな答え        ……マルコ10:19-20  

Ⅳ 主イエスの教え  わたしに従いなさい ……マルコ10:21          

Ⅴ 自分のところに戻る                 ……マルコ10:22

 

これは、ひとりとひとりが出会って、ひとつのことを(めぐ)って対話するという物語です。その内のひとりは、主イエスで、もうひとりは、ある男を指しています。その人について、「たくさんの財産を持っていた」(マルコ10:22)とありますが、詳しいことは分かりません。ですから、そのもうひとりは、「あなたである」と受け止められるよう(とびら)が開かれています。

光〈ひとり〉が闇〈もうひとり〉に入り込んで来て、真の救い〈ひとつのこと〉があらわされました。ひとつに集中して、読みましょう。〈ひとり〉と〈もうひとり〉とが問答し、〈ひとつのこと〉が示されることの中に、わたしたちの人生の出会いも挫折も、そして希望も、すべて含まれています。

結末は、あっけなく終わります。福音書の中で、主イエスが伝道されていた時の出来事として、最も悲しい物語の一つとさえ言われます。というのも、主イエスの招きへの明快な応答なく、この人はその場から姿を消していったからです。

ところで、「もうひとりがあなた」だとしたら、即答できるでしょうか。「はい、わたしはここにおります。わたしはあなたに従う(しもべ)です」と答えられるでしょうか。その意味ではこの物語には、わたしたちの応答を〈神が待っている〉という隠されたメッセージがあると言えましょう。信仰を授けてくださる神に対し、あなたが応答するところから、あなたの信仰の人生が始まります。

 

Ⅰ 主イエスの御前での問い                   

マルコ福音書10:17――

イエスが旅に出ようとされると、ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた。「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。」

主イエスはある町での滞在を終えて、旅に出て行かれるところでした。十字架の道に向かって、都エルサレムをめざしておられました(マルコ10:32)。

ある人が走り寄って、ひざまずいて尋ねた」の描写には、その人の一生懸命さがにじみ出ています。かけがえのないチャンスを逃してはならないという思いが伝わってきます。

その道の途上 on the road にて、ひとりがひとりと出会いました。ひとりの人間の人生が、主イエス・キリストと(こう)()しました。このまま、主イエスについて行けば、神の大いなる救いの業、十字架の出来事を目撃することも可能でありました。まさに、わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と告げられる主イエスが、救いを求めているひとりの人間に、道の途上で出会われました。

善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。……問いの内容を吟味する前に、しっかり(とら)えるべきことがあります。

それは、この人が主イエスの御前で、自分というものを正直に(かえり)みたということです。わたしたちが、「主イエスの御前」に立つときに、まだ自分が知らないことに、あるいは、自分が願っていることに、光が当てられるということです。いつも自分が「主イエスの御前」にあるならば、主に問いかけ、その答えを待ち受け、自分の進むべき方向を決めることができるでしょう。

そこで、問いの内容の吟味に入りましょう。

「①善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。

①②③の箇所に「添削」が必要と思われますが、最初に言うなら、このままでも良いと思います。なぜなら、この人にとって重要なのは、主イエスに教えられることであって、完璧な問いをつくり出すことではない、からです。「どうですか、完璧な問いでしょう」と、ドヤ顔を見せるのは高慢です。それでは、答えをもらっても、うわの空、答えの中にある指示を聞き逃してしまいます。質問の「添削」はで行うことにして、主イエスからの答えを見てみましょう。

 

Ⅱ 主イエスの教え 神を信じなさい     

マルコ福音書10:18――

イエスは言われた。「なぜ、わたしを『善い』と言うのか。神おひとりのほかに、善い者はだれもいない。」

 ある人の問いについて、の言葉の問題点を、主イエスご自身が指摘されています。これは、ひとりとひとりとの出会いに関わる根本的な事柄でありました。

問題は単に、「善い先生」という言葉遣いの(あやま)りということではありません。ある人が出会ったばかりの、主イエスがどういうお方なのか、ということが大問題なのです。最初に、それを誤ることなく、見定めておくことです。

それが、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」というその「」の立場で、「主イエスがどういうお方なのか」を(とら)えるということです。これこそ、幾度も問い返しつつ、このある人が明確に受け止めるべきことです。

・主イエスは神がこの世に遣わしたお方である。

・主イエスは神の愛と義を、十字架と復活の御業によってあらわされるお方である。

・「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)と、信仰者に勧めるお方である。

主イエスが、わたしたちに対し第一に、「」・御父に目を向けされる理由は、「主イエスがどういうお方なのか」についての、上記の説明から明白であります。主イエス・キリストは、「善い先生」という呼称に収めきれるお方ではありません。

引き続いて、ある人の答えの②と③を「添削」しましょう。その言葉遣いの微妙な誤りには、その人の信仰上の弱さや(とぼ)しさが反映しています。愛をもって、正しい答えへと導きましょう。

「①善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか。

主イエスが、信仰者に向かって「永遠の命を受け継ぐ(であろう)」(マタイ19:29)と宣言された事例は確かにあります。ただし、この人の答えにおいては、何かを③「して」、遺産のように②「受け継ぐ」、それも今受け継ぎたいというようなニュアンスが含まれています。

何かを③「して」ということに力が入ると、行為義認になります。神の救いにあずかるという信仰は、どこにいったのでしょうか。結局、義の律法を追い求め(ローマ9:31)、それを実行することに、熱を上げることになりかねません。

一応、問いについての修正案をあげると、こうなります。

主イエスよ、神の賜物である永遠の命にあずかるには、何を信じたらよいのでしょうか。

(これでよいかどうか、主よ、お教えください

繰り返しますが、「主イエスの御前」では、どんな質問をも許されるはずです。自分がへりくだり、神は答えてくださるという基盤に立つことです。くどくどと言葉を述べるのは、避けるべきです。それは、大通りの角に立って、神への祈りを人に聞かせるようなものです(マタイ6:5)。神への讃美と感謝から始めて、主イエスに、自分の願い求め、嘆きうめき、そして質問を打ち明けるというのが、正しい姿勢でありましょう。

以上、ここまでのまとめをしましょう。ある人が主イエスに出会い、(とっ)()のことながら、主イエスに不十分な問いが出されました。これに対し主イエスは、信仰入門として、「神おひとり」に心を傾けるように、つまり、「神を信じなさい」と勧められたのであります。

 

Ⅲ 十戒についての愚かな答え        

マルコ福音書10:19-20――

19(イエスは言われた。)「『殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証するな、奪い取るな、父母を敬え』という(おきて)をあなたは知っているはずだ。」 20 すると彼は、「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と言った。

主イエスは、「善い先生、永遠の命を受け継ぐには、何をすればよいでしょうか」(マルコ10:17)との問いから、質問者を軌道修正させようとしておられます。神に(まと)(しぼ)られていなかったので、「神おひとりのほかに、善い者はだれもいない」と告げられました。

その次に出てきたのが、十戒(第6-10戒)です。文字通り、神の律法です。あなたという関係が問われたのだ、と見れば、を提示した直前のとつながります。そして、あなたという関係が不十分であることが(あば)き出されます。自分が「主イエスの御前」にあって、(まと)(しぼ)られるならば、当然そこに、自分の罪または(みじ)めさが見えてきます。

ハイデルベルク信仰 問3――

 何によって、あなたは、あなたの(みじ)めなことを、認めることができるのですか

答 神の律法によるのです

このひとりの人は、「あなたは(十戒を)知っているはずだ」と、主イエスから問いただされました。そこで、彼は「先生、そういうことはみな、子供の時から守ってきました」と答えました。「愚かな答え」とは、このことです

推察の域を出ませんが、彼は十戒(第6-10戒)すべてを「守ってきた」わけではないでしょう。例えば、「父母を敬え」ということに、自分は申し分ない、と評価しうる人がいるでしょうか。それよりも根本的な問題は、神の律法である十戒から自分は何を教えられたか、ということです。

この人は、守ってきましたと、まるで(よろい)で身を固めているかのようです。自分の主張にこだわっています。しかし、この人のなすべきことは、「あなたは(十戒を)知っているはずだ」との主イエスに呼びかけに促されて、「神が十戒をもって自分に何を教えてくださったのか」を静思することでありました。自分が「守ってきた」かどうかは、神の判断にゆだねればよいのです。

神の律法・十戒を唱える者に(あら)わにされるのが、ハイデルベルク信仰 問3にあるように、「あなたの(みじ)めなこと」です。自分が罪深い者であり、神から救われなければ、生きることも死ぬことも(むな)しい、と認めることです。

この男が「みな、子供の時から守ってきました」と即答したことによって、(はか)らずも、彼が自分の惨めさや罪に向き合っていないことが(あら)わになりました。主イエスは深く嘆かれたと同時に、この人を憐れに思われたことでしょう。

 

Ⅳ 主イエスの教え  わたしに従いなさい        

マルコ福音書10:21――

イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた。「あなたに欠けているものが一つある。行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」

主イエスの教え①「神を信じなさい」から 主イエスの教え②「わたしに従いなさい」へというように、ある人への導きがスムーズに進められています。詳しく見てみましょう。 

まず主イエスは、愚かで、つっぱった返答をした彼を見つめ、慈しんで言われました。慈しんでは意訳で、原文では「イエスは彼を愛した」と書かれています。「(イエスは)世にいる自分の者たちを愛して、彼らを最後まで愛し通された(ヨハネ13:1 口語訳)ということが、ここで実証されています。

あなたに欠けているものが一つあるという〈ひとつのこと〉について、で次のように述べました。

光〈ひとり〉が闇〈もうひとり〉に入り込んで来て、真の救い〈ひとつのこと〉があらわされました。》

〈ひとつのこと〉を真の救いと言い直しましたが、この会話に即して見てみましょう。

あなたに欠けているものが一つあるという理由は、行って持っている物を売り払い、貧しい人々に施しなさいとの命令を、この人がまだ実行していないことにあります。その命令を遂行するならば、天に富を積むことになると言います。

ここで、注意深く読み取る必要があります。貧者への施しの命令を実行したら、この人に欠けているものが無くなるということではないでしょう。確かに、(いさぎよ)いほどの施しは難しいことですが、そういう行為・善行の欠けが問題になっているわけではありません。

むしろ、貧者への施しによって、天に富を積むという神の喜ばれることを果たしているかどうか、そこが重要な点です。たとえ貧者への施しを(おこな)ったとしても、それにより、自分の名声を求めるのでは、「天に富を積む」ことにはなりません。つまり、「そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい」という神中心の生活が自分のものとなっているか、が重要なのです。そうであるならば、貧者への施しなどの善行が(おの)ずと、その人から(あふ)れ出てくるでありましょう。

真の救いと呼びうる〈ひとつのこと〉とは、一体、どんなことでしょうか?

それは、主イエス・キリストに従っている生活、主イエスの執り成しにより神と一体になっている生活です。つまり、それが、真に救われた人のあり方です。

主イエスは、わたしたちの罪を(あがな)うことによって、わたしたちを聖徒としてくださいました。神と完全に一つであるように、わたしたちを(きよ)めてくださいました。

神と一体であれば、本来は神に属する「永遠の命」に、わたしたちがあずかるという道が開かれます。信仰者の側からすれば、「永遠の命を受け継ぐ」というよりも、神の恵みによって「永遠の命を受ける(であろう)」ことが、やがて成し遂げられるということです。

澄んだ目」(マタイ6:22)をもって見れば、神との霊的な一致を悟ることができます。仮にそれが見通し難いとしても、実際的に、「わたしに従いなさい」という主イエスの招きに応えることによって、神と一体になっている生活が築かれます。あるひとりの人には、キリストへの(しん)(じゅう)(信じ従うこと)という〈ひとつのこと〉が欠けていました。キリストへの信従を基盤とすることが、まだできていなかったのです。

これは、〈ひとり〉が〈もうひとり〉と出会って、〈ひとつのこと〉について問答したという物語です。そのメッセージは、〈ひとり〉が〈もうひとり〉の的外(まとはず)れ(方向違い)を(ただ)して、〈ひとつのこと〉に立ち帰らせるというようにシンプルです。

 

Ⅴ 自分のところに戻る                 

マルコ福音書10:22――

その人はこの言葉に気を落とし、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。

で述べたように、結末はあっけなく、悲しい余韻を響かせています。このような結末であるからこそ、わたしたちは信仰の糧を汲み取ることができます。

その人は、「主イエスの御前」から立ち去りました。そうして、「自分のところ」に戻って行きました。自宅か、仕事場か、どこか「自分のところ」に帰りました。言い換えれば、それは、自分の現状を見つめる、あるいは、背伸びすることなく、冷静に我が身と周りを見わたすということではないでしょうか。

そこで、「主イエスの御前」に立っていた自分を、主イエスから教えられたことを、思い起こすならば、自分の罪・弱さ・(みじ)めさなどが見えてくることでしょう。いかに「たくさんの財産」を用いるかということで、自分の生活を見直すきっかけともなります。本来は、「天に富を積む」という「」がそこにあると気づくかも知れません。

その人は大きな問いの前に立っています。神の備えておられる、真の救い〈ひとつのこと〉に立ち帰るのか、それとも、自分のところに戻ってしまうのか、という分かれ道に立っています。主イエスの招きの声が響く中、「子供の時から(十戒を)守ってきました」と言い張る者、あるいは、貪欲(どんよく)に財産を()き集める者にとって、悔い改めるチャンスがそこにあります。

この男はユダヤの辺境に住んでおり、その地を主イエスが訪ねて来られました(マルコ10:1)。彼にとって、真の救い〈ひとつのこと〉に立ち帰るというのは、今、十字架の途上におられる「主イエスに従う」ということです。都エルサレムへの「旅に出よう」(マルコ10:17)とされている主イエスについて行けばよいのです。父祖アブラハムや十二弟子のヤコブやヨハネが、故郷を後にして旅立ったように(創世記12:4、マルコ1:20)……。

不思議なことに、その時、「あなたに欠けているものが一つある」という欠けが満たされます。神の恵みにより、無償でそのようになります。穴を掘り、「たくさんの財産」を隠しておくような生活(マタイ25:18)から解放されます。

この物語は、自分の人生を〈ひとつのこと〉に掛けること、すなわち、父なる神の喜ばれる、主イエス・キリストに従う生活とその信仰の大切さを教えています。

 

Ω

 

 

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2019.1説教
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