6202年6月 14日
(午前10時15分~11時20分)
聖霊降臨節 第4主日
招き 前奏
招詞 詩編52編 10節~11節
頌栄 539
主の祈り (交読文 表紙裏)
讃美歌 15
交読文 17 詩編51編
旧約聖書 イザヤ書 28章16節(P.1103)
新約聖書 エフェソの信徒への手紙2章14節~22節(P354)
祈祷
讃美歌 191
説教 「二つのものを一つの体にして」
小河 信一牧師
祈祷
讃美歌 228
使徒信条
献金
報告
讃詠 546
祝祷
後奏
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〈説教の原稿〉
2026年 6月14日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第4主日
旧約聖書 イザヤ書 28章16節(P.1103)
新約聖書 エフェソの信徒への手紙 2章14節~22節(P.354)
説 教「二つのものを一つの体として」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ キリストはわたしたちの平和である
……エフェソ2:14-16
Ⅱ 両方の者が一つの霊に結ばれている
……エフェソ2:17-18
Ⅲ あなたがたはもはや、神の家族である
Ⅳ わたしは一つの石をシオンに据える
……イザヤ書28:16
……エフェソ2:21-22
序
かつて、地中海をめぐる地域……ヨーロッパ・アジア……で、パックス・ロマーナと呼ばれる時代がありました。それは、ローマによる平和という意味です。ローマ帝国が広大な版図の覇権を握った時代で、紀元前27年から紀元後180年までのことです。ユダヤやガリラヤの地方は、帝国の属州として分割支配がなされていました。
そのような状況下で、初代教会のメンバーであるペトロやパウロたちは伝道を進めていきました。神の言葉はますます広まり、キリスト教徒の数は非常に増えていきました(使徒5:14、6:7)。サマリア人やエチオピア人が回心する(同上8:4-25,26-40)というように、異邦人への宣教の成果も見られました。
こうした時に、キリスト教に対する大迫害が起こりました(使徒8:1)。使徒パウロはそれが苛烈で危険なものであるのを熟知していました。というのは、回心する以前、パウロは、キリスト教迫害の御先棒を担いでいたからです(使徒8:1、9:1-2)。その点で、剣にかけてでも対立する敵を滅ぼそうと意気込んでいたパウロが、どうして「平和」(エフェソ2:14,15,17)を希求する者となったか、はとても興味深いものです。
ささいなことから諍いや戦いが起こります。論争になる火種はそこかしこにありました。例えば、ユダヤ人とローマ人が食事をしようとした時に、そこにブレーキをかけるものがありました。律法を遵守するユダヤ人は、異邦人の家を訪ねるのに二の足を踏むところがありました(使徒10:9-16)。
というのは、屋敷の主に食事を勧められた場合、旧約律法にある食物規定(レビ記11:1-47、申命記14:3-21)によって辞退せざるを得ないことがあったからです。そうした状況から、食事に関わる慣習や禁忌が、ユダヤ人と異邦人の間にわだかまりや敵対心を生む淵源になったのです。
もちろん、家に招かれて、そこで話をするばかりが伝道ではありません。巡回伝道者は、町の広場や岸辺、また、ユダヤ教の会堂(使徒16:13、17:17)などを転々としながら御言葉を宣べ伝えました。そこにもまた、ならず者たちが押し寄せ、石を投げつけ、乱暴を働きました(同上14:5、17:5)。また、迫害する者たちは町に暴動を起こして混乱させ、当局をそそのかして、伝道者たちを投獄しました。
主イエス・キリストに派遣されたペトロやパウロは、忍耐強く、ユダヤ人と異邦人の間にある障壁を打ち壊していきました。その中で、ユダヤ教から改宗したキリスト者・パウロは、異邦世界をめぐる宣教のために、大きな貢献をしました。
まず、パウロは教会において「平和」が確立される道を尋ね求め、祈っていました。というのも、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者がなかなか一つになれないという壁に突き当たっていたからです。ユダヤ人キリスト者をユダヤ教から切り離すように、新しい教会論を表すことが、急務でありました。この度取り上げたテキストは、その精華とも言える「平和」メッセージであります。
Ⅰ キリストはわたしたちの平和である
エフェソの信徒への手紙2:14-16――
14 実に、キリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、15 規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し、16 十字架を通して、両者を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼされました。
これからエフェソの教会(小アジアの西端に位置する)へ向けて、「平和」メッセージを発信しようというパウロの意気込みと理性が感じられます。冒頭に主題を据え、その主題を簡潔な反復表現によって展開しています。
すなわち、「実に、キリストはわたしたちの平和であります」が主題で、それを受けて、「二つのものを一つにする」との類句が三度繰り返されます(エフェソ2:14,16,18)。
上記の文章を「キリスト」を中心に言い換えると、「キリスト」の「十字架によって」救われた二つのグループに属する者たちは、「敵意が滅ぼされて」、両グループの「わたしたち」全体が「キリスト」による「平和」にあずかるということになります。このような「平和」論は、パックス・ロマーナ(ローマによる平和)と相容れないものでありました。ここで留意すべき第一のことは、「わたしたち」は「キリスト」の「十字架によって」救われたということです。
かつて神に反逆し、罪と死の縄目に縛られていた「わたしたち」は、神に立ち帰る道を失い、さ迷っていました。しかし、「キリスト」の「十字架によって」、神の「和解」する道が開かれました。「キリスト」が「わたしたち」の罪咎すべてを背負い、「十字架によって」無償で代価を支払ったことにより、「わたしたち」は救われました。
「キリスト」が「十字架」上で死を遂げられた時、「神殿の垂れ幕が上から下まで真っ二つに裂けました」(マタイ27:50-51)。至聖所に入る「垂れ幕(レビ記16:2,17)が裂け」、神と人との行き来が可能となり、「和解」がもたらされました。この時まさに、天から神の御力が降って来ました。そうして、「隔ての壁が取り壊されて」、神によって「わたしたち」は救われました。
神の愛と正義が「キリスト」の「十字架によって」、「わたしたち」全体に注ぎ入れられました。その「わたしたち」が呼び集められたのが、エフェソの信徒への手紙で言う、全体的「教会」(1:22,23)です。その全体的「教会」のもとに、エフェソはじめフィリピやコリントなどの各個「教会」が置かれているということです。
一つの全体的「教会」と言うと、何か宇宙的な響きがあるかも知れません。具体的に言えば、エルサレム、シリア、小アジア、ギリシアなど地中海圏の宣教において、全体的「教会」という神学的な考えは、確固たる礎となりました。というのも、ローマ民族の主導するパックス・ロマーナのもとで、殊に属州の地域において忍従しがたい迫害や差別が生じていたからです。
ついでに言えば、このようにエフェソの信徒への手紙に記述されている全体的「教会」という神学的な考えに拠って、現代のエキュメニカル(教会一致)運動が興されました。キリストの弟子や使徒は、「全世界」(ギリシア語 オイクーメネー ローマ10:18)に「教会」が建てられつつあるのを信じて、世界の果てにまで遣わされていきました(マルコ16:15)。
「実に、キリストはわたしたちの平和であります」というスローガンを掲げて、諸教会が「一つの体」となって、「敵意という隔ての壁を取り壊して」、広大な地域への宣教が進められました。この全体的「教会」は、「キリストの体」(エフェソ1:23、Ⅰコリント6:15)ですから、そこには「正義と信仰と愛と平和」(Ⅱテモテ2:22)が充満しています。
当時の各個教会の間には、キリスト教倫理の徳目・規定に関して、例えば、結婚、肉食、使徒の権利などに対する考え方に多少の差違がありました(Ⅰコリント7-9章)。しかし、散在する各個教会に、全体的「教会」という “ 霊 ” 的な視界が開かれました。キリスト者は、「平和」をつくり出し、実現する(マタイ5:9)という点で一致・団結しました。
そうして、ユダヤ人キリスト者と異邦人キリスト者との間で、「彼らは剣を打ち直して鋤とし 槍を打ち直して鎌とする」(イザヤ書2:4)、「悪をもって悪に報いることのなく、いつも善を行うよう努める」(Ⅰテサロニケ5:15)という姿勢が共有されました。その点では、旧新約聖書全体が、キリスト教倫理の基となったと言えるでしょう。
最後に、全体的「教会」のもとに、「二つのものが一つにされた」のを証しする挿話をご紹介しましょう。
使徒言行録16:1――
パウロは、デルベにもリストラにも行った。そこに、信者のユダヤ婦人の子で、ギリシア人を父親に持つ、テモテという弟子がいた。
「リストラ」は、小アジア(トルコ半島)南部の町です。「そこに(原文「見よ」ギリシア語イドゥー)……テモテという弟子がいた」との一句には、パウロの驚きと喜びが秘められています。
このテモテの加入と共に、パウロ、シラス、ルカをメンバーとする「わたしたち」(使徒16:10)、すなわち、第2回の伝道旅行団が結集させられました。
一方、パウロは生粋のユダヤ人で年配者(フィリピ3:5)、他方、テモテは父親がギリシア人で母親がユダヤ人の年少者(使徒16:1)であります。二人は単なる友情ではなく、主にある「平和」によって「一つにされました」。こうして、小アジアのトロアスからヨーロッパ・ギリシアに向けて、「平和」の虹が架け渡されました(使徒16:11-12)。
Ⅱ 両方の者が一つの霊に結ばれている
エフェソの信徒への手紙2:17-18――
17 キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました。18 それで、このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができるのです。
「両方の者が一つの霊に結ばれている」ということで、三回目の「二つのものを一つにする」との反復表現が出てきました(エフェソ2:14,16,18)。「両方の者」というのは、かつて「敵意という隔ての壁」や「規則と戒律ずくめの律法」のために、そりが合わない、不仲な人々でありました。
パウロは、「遠く離れている」人々と「近くにいる」人々という対立概念(エフェソ2:13,17,18)を活用しつつ、「両方の者が一つの霊に結ばれている」という新たな情況を浮き彫りにしています。この「遠近法」には、片や、「神から遠く離れていた」(エフェソ4:18)、片や、「キリストの血によって清められて近近づけられた」(同上2:13)というように、信仰的な意味が込められています。
わたしたちは、「御父」が「キリスト」の「十字架によって」成し遂げてくださった無償の御業によって救われて、今や、「御父に近づくことができます」。それはしかも、「遠く離れていた」人々と「近くにいる」人々とが「平和」のうちに、共々に「キリストに対する信仰により、確信をもって、大胆に神に近づく」ということです(エフェソ3:12、ヘブライ4:16)。
ここで言う「確信をもって」とは、一体どんなことを指しているのでしょうか? これは言うまでもなく、肉の思いをもって好奇心で、神に会いたいというのとは、全く異なります。
その「確信」の内容は、「キリストはおいでになり、あなたがたに平和の福音を告げ知らせた」ということに拠っています。ここで重要なのは、神の大いなる救いの計画が永遠の昔からあったということです。だからこそ、おぼつかない人の思いが、信仰的な「確信」、すなわち、信仰告白に変えられるのです。
その神の深遠なる計画を証示するものとして、第二イザヤの託宣を挙げましょう。
いかに美しいことか
山々を行き巡り、良い知らせを伝える者の足は。
救いを告げ
シオンに向かって呼ばわる。
子ろばに乗ったイエス・キリストが「王となられて」、「シオン」に、都エルサレムに入城されました(マタイ21:1-5)。このお方こそが、「平和を告げ 恵みの良い知らせを伝え 救いを告げられました」。同時に、「このキリストによってわたしたち両方の者が一つの霊に結ばれて、御父に近づくことができる」との言葉が成就しました。大人も子どももこぞって、歓呼し、「ダビデの子にホサナ。主の名によって来られる方に、祝福があるように。いと高きところにホサナ」(同上21:9,16)と叫びました。これがまさしく、神の授けられた信仰的な「確信」ではないでしょうか。
“ 霊 ” の導きのうちに、鮮やかに「平和」メッセージが結ばれていきます。
Ⅲ あなたがたはもはや、神の家族である
エフェソの信徒への手紙2:19-20――
19 従って、あなたがたはもはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族であり、20 使徒や預言者という土台の上に建てられています。そのかなめ石はキリスト・イエス御自身であります。
三回反復された「二つのものを一つにする」(エフェソ2:14,16,18)との句は、テキスト上の伏線でありました。すなわち、「あなたがたは聖なる民に属する者、神の家族である」、なぜなら、「二つのものを一つにされた」からだということです。残念ながら、この世の中には、積み木くずしのように、崩壊しつつある「家族」があります。
しかし、「あなたがたは聖なる民に属する者、神の家族である」という場合の「家族」は、確固たる「土台」と「かなめ石」によって支えられています。ある時、主イエスは、「御言葉を聞いて行う者は岩の上に家を建てる」という譬えを話されました。
雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲っても、倒れなかった。岩を土台としていたからである。
主イエスは災いが襲って来ても、「土台の岩」が「神の家族」を動揺から守る、と宣言されました。この譬え話を主イエス・キリストから聞いて驚き(マタイ7:28)、慰めを得る人は、幸いです。なぜなら、その人は「そのかなめ石はキリスト・イエス御自身である」ことを信じるように導かれるからです。
この「家族」には通常と異なり、大勢の「わたしたち両方の者」または「聖なる民に属する者」が集っていますが、定員制限などはありません。そのことを踏まえて、パウロは、この「家族」の巨きさに合わせるかのように、このエフェソの信徒への手紙で、全体的「教会」(1:22,23)というものを提唱しています。
教会の建設に関わる興味深い話ですので、「かなめ石はキリスト・イエス御自身である」⇒「使徒や預言者という土台の上に建てられている」との流れに沿って説明しましょう。
コリントの信徒への手紙 一 3:10-11――
10 わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました。そして、他の人がその上に家を建てています。ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです。11 イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません。
登場人物など用語を確認しながら説明しましょう。
*エフェソ2:20の「かなめ石はキリスト・イエス御自身である」という記述と符合しています。
「建てつぐ他の人」=例えば、コリント教会でいえば、アポロ(Ⅰコリント3:4)。
*土台を据えたパウロからその上に建てつぐ者・「使徒や(新約時代の)預言者(エフェソ4:11)」へと、バトンが渡されます。
作物栽培の比喩においては、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(Ⅰコリント3:6)と言い表されています。
「かなめ石」や「土台」という用語などによって、「教会を建てる」ことの “ 霊 ” 的な真意が、目に浮かぶように表現されています。そして、「キリストはおいでになり、あなたがたに、平和の福音を告げ知らせられました」との事柄が、およそ六百年前の第二イザヤの預言(イザヤ書52:7)に由来していたように、「かなめ石はキリスト・イエス御自身である」との奇しき出来事もまた、旧約に記された、神の救いの計画に拠るものでありました。
Ⅳ わたしは一つの石をシオンに据える
それゆえ、主なる神はこう言われる。
これは試みを経た石
イザヤは、「お前の王がお前のところにおいでになる」(マタイ21:5)という救い主について、どのようなお方であるか、を預言しました。実は、この救い主預言は、エルサレムの祭司や預言者が神の審判を受けるという文脈において物語られたものです。というのも、祭司や預言者が神と隣人を欺き嘲っていたからです(イザヤ書28:7,14,17,22)。彼らは濃い酒を飲んで、よろめき、さ迷っている有り様でした(同上28:7)。
礼拝共同体の規範たるべき指導者たちが堕落してしまったのは、もともと、イスラエルの民が神と結んだ契約を軽視してしまったことが原因でありました(イザヤ書28:18)。それにも増して悪いことに、祭司や預言者は、「わたしは一つの石をシオンに据える。これは試みを経た石 堅く据えられた礎の、貴い隅の石だ」という救い主預言について頑なで理解しようとせず、反発していました。
詩編118:22-23――
:23 これは主の御業
わたしたちの目には驚くべきこと。
農夫が畑の石ころを畦道に投げ捨てるように(マタイ21:33-46)、「家を建てる者」は作業現場から本来「隅の親石」とすべき「石」を退けてしまいました。これと全く同様に、エルサレムの祭司や預言者は、イザヤ預言の「貴い隅の石」に反発したのであります。
「貴い隅の石」が民の指導者たちによって、ぞんざいに扱われたことは、救い主なる主イエスが十字架につけられる裁判において成就しました(マルコ14:65、15:15)。そのような中で、イザヤは「信ずる者は慌てることはない」、と冷静さを失わないように助言しています。このようにイザヤ書28:16の御言葉はとても重要でしたので、使徒パウロはそれを引用して語り直しています。
「見よ、わたしはシオンに、
と書いてあるとおりです。
パウロが「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものです」(Ⅰコリント1:18)と述べているように、「堅く据えられた礎の、貴い隅の石」なる主イエス・キリストは、大祭司、律法学者、ローマ総督、そしてローマ兵によって蔑まれ、迫害されました。
イザヤの救い主預言を受け入れない、不信仰な人々にとって、「貴い隅の石」が「つまずきの石」になりました。彼らにとって、主イエスの十字架刑は、恥辱と敗北の象徴であり、すぐに忘却されるもののように思われたのです。
「雨が降り、川があふれ、風が吹いてその家を襲う」(マタイ7:25)という嵐と闇のただ中、主なる神は「シオン」に、「かなめ石」を置き、その上に十字架を立てました。そこにおいて、主イエス・キリストはすべての人の罪咎を担って十字架に上げられ、神の愛と正義をもって罪咎を滅ぼされました。そして、主は三日後によみがえられました。
パウロは「これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:33)というように、イザヤ書28:16原文に「これを」を添えています。
パウロは「これを」(it / him)という代名詞を用いて、「これ」はまぎれもなく、イエス・キリストなのだと明らかにしています。主イエス・キリストは、頑なユダヤ人には「つまずきの石」、しかるに、神に召された者には、「貴い隅の石」なのです(Ⅰコリント1:23-24)。
私たちは人生において、「つまずきの石」に突き当たります。そして蹴躓きます。私たちの弱さや貧しさが露わにされる時と言ってもよいでしょう。ここで大切なのは、つまずいても「失望することがない」というメッセージです……「これを信じる者は、失望することがない」! パウロは、「どうせ希望はかなわないから」という冷めた人間の考え方を捨て去って、神の御前に悔い改めるよう、つまずいた人々を見守っています。
「失望することがない」のは、自分がつまずいたとき、主にすべてを任せるからです。他人のつまずきを見ても、「失望することがない」のは、その人を批判・嘲笑の的とせず、主が助けてくださるよう祈り求めるからです。その意味では「つまずきの石」は、不用なものではなく、人生の上での「宝」・「試金石」になります。
こうして、テキストの最後に至ります。「実に、キリストはわたしたちの平和であります」との主題を照り輝かせて、「平和」メッセージが閉じられます。そこには、神の救いの計画と実行についての〈過去 :15-16〉⇒〈現在 :19-20〉⇒〈将来 :21-22〉という推移が提示されています。いついかなる時にも、戦争を乗り越える「平和」の灯が消えることはありません。
Ⅴ キリストにあって建物全体は組み合わされて成長する
エフェソの信徒への手紙2:21-22――
21 キリストにおいて、この建物全体は組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となります。22 キリストにおいて、あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなるのです。
この結びにおいて、どうして、「キリストはわたしたちの平和である」ということが明確にされるかと言えば、2回の「キリストにおいて……」によって構築された礼拝讃美になっているからです。
教会形成と伝道に励む「使徒や預言者」によって「神の家族」は、「キリストにおいて」、「建物」⇒「聖なる神殿」⇒霊の働きのもとにある「神の住まい」へと「成長していきます」。なぜ、「神の家族」の住まう建物が成長していくのか、と言えば、それは「かなめ石」なるイエス・キリストが「尊い、生ける石」(Ⅰペトロ2:4)だからです。死に打ち勝って復活した、「生ける石」、まことの命の力を持つお方が、イエス・キリストなのです。それ故に、「神の家族」一人ひとり、「御子を信じる人は永遠の命を得ている」(ヨハネ3:36)という恵みにあずかっています。
そして、メッセージの冒頭から反復されていた「二つのものを一つにする」とのモティーフは、「全体が組み合わされる」という形で統一されます。
神の家族・全体と部分・一人ひとり、とひと口に言いますが、実際には簡単に機能しません。パウロ自身、「あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです」(Ⅰコリント1:12)と、コリント教会に苦言を呈したことがありました。教会の一致を顧みない、身勝手さにあきれ果てています。このような人々は、「ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができない」(ヨハネ15:4)との主イエスの平明な教えに立ち帰らねばなりません。
大切なことは、「キリストにおいて」一つにされ、異なった賜物の与えられている教会全体が建てつがれ、成長していくということです(ローマ12:5、Ⅰコリント12:12-31)。そこから、「実に、キリストはわたしたちの平和である」とのメッセージが、世界中に発信されます。相異なる「二つのものが一つになっている」、喜びと感謝のうちに……。
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〈説教の原稿〉
2026年 6月7日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 10章14節~22節(P.312)
説 教「キリストの体にあずかる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅲ あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません
……Ⅰコリント10:19-20
……Ⅰコリント10:21-22
Ⅴ 自分の造り主と争う者
……イザヤ書49:5
結
序
紀元後50年代、使徒パウロがコリントの信徒への手紙を書いている頃の、ギリシア・コリントの宗教的環境はどのようなものであったでしょうか。当時、ギリシアはローマ帝国の支配下に置かれていましたが、宗教的には依然として、伝統的な多神教信仰が主流となっていました。人々はギリシア神話に登場する神々を崇拝していました。
使徒言行録17:22-23 アテネで――
22 パウロは、アレオパゴスの真ん中に立って言った。「アテネの皆さん、あらゆる点においてあなたがたが信仰のあつい方であることを、わたしは認めます。23 道を歩きながら、あなたがたが拝むいろいろなものを見ていると、『知られざる神に』と刻まれている祭壇さえ見つけたからです。それで、あなたがたが知らずに拝んでいるもの、それをわたしはお知らせしましょう。」
この時、パウロは「この町の至るところに偶像があるのを見て憤慨した」(使徒17:16)との思いは、心の内に抑えていました。
説教においては何よりも、会衆に耳を傾けさせることが大切です。そこでパウロは、「信仰のあつい」というアテネ人の特質に言及しました。ここで、「信仰のあつい」とは、被造物やこの世の背後にある何かの力を感じ取ることに長けているという意味でしょうか。確かにギリシア人は、人間を超えたところにある美や知恵について考えたり、それを造型したりするという点で、目を見張るものがありました。
問題は、被造物やこの世の背後にある何かの力を感じ取ることが、人間中心に行われるか、それとも、神の御心に添って行われるか、にあります。正しい意味で、「信仰のあつい」とは、神とわたしたちの緊密な関係の中で、「神とは何か」を、神の臨在と御言葉(イザヤ書40:8)によって知らされる人を指しています。
言うまでもなく、アテネやコリントの多神教信仰は、ユダヤ教ともキリスト教とも相容れないものでありました。そして、ギリシアの人々の信仰は日常生活の土台となり、それを規制しながら道徳や慣習を形造っていました。ですから、キリスト教を伝道し、その倫理観を浸透させていく上で、それらは大きな障壁となり脅威となりました。
というのも、キリスト教倫理が形成されつつある時代にあっては、多神教からの影響が教会内の信仰者の考え方や行動に及んでくるという事態に直面していたからです。土着のギリシア人やさまざまな外国人との交際がある中で、どのようにキリスト教倫理を打ち立てていくか、パウロの霊性と忍耐とが問われるところです。
論破すれば、それで済むというものではありません。問題行動を起こしている人を「変える」ことが目的ですから、福音信仰により穏やかに語りかけねばなりません。パウロの冷静さの一つの源は、彼が「わたしたちの父祖」(Ⅰコリント10:1)の物語を回想しつつ、過去〈イスラエルの民〉から現在〈教会の群れ〉に至る神の救いの歴史を学び知ろうとしている点にあります。
Ⅰ あなたがたを分別ある者と考えて話します
コリントの信徒への手紙 一 10:14-15――
14 わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい。15 わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します。わたしの言うことを自分で判断しなさい。
「わたしの愛する人たち」……内容が警告であるのを和らげるような親しい呼びかけです。パウロは他にも、コリント人に向かって「愛する自分の子ども」(Ⅰコリント4:14)と語りかけています。パウロは決して権威を振りかざしてはいません。「キリストに仕える者(下役)」(同上4:1)として語っています。
そのような言葉遣いの背景には、互いに「愛し」合っている「父親」(Ⅰコリント4:15)と「子ども」のような人格的な交わりがあります。パウロは警告を語り出すに当たって、堅い絆を確認しています。
パウロが「父親」(コリント教会の土台を据えた人)として「あなたがたをもうけた(生んだ)」(Ⅰコリント4:15)ことの内には、「産みの苦しみ」が含意されています(ガラテヤ4:19)。パウロはそれほどまで親身になって労苦し、一人ひとりを信仰へと導きました。単にその子を教えたというのではなく、時に叱り、時に鍛え、諭したのです。
その上で、パウロは単刀直入に、「偶像礼拝を避けなさい」(偶像礼拝から逃げなさい)と命じました。
端的に言えば、「偶像礼拝」とは、神ならぬ神を神とすることです。すなわち、「人間の欲望」(Ⅰペトロ4:1)または「自分の願い」を神であるかのように、第一とすることです。ですから、「偶像」は、自分のすぐ近くにいいます、否、自分の中にいるのであります!
具体的には、「好色、情欲、泥酔、酒宴、暴飲」など、あらゆることの根っこになっているのが、「偶像礼拝」です(Ⅰペトロ4:3)。それが根っこにあるかぎり、あとの生活はみんな乱れてきます。だからこそ、パウロは、そのような「偶像礼拝から逃げなさい」と諭しているのです。
ペトロの手紙 一 4:2――
それは、もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるためです。
「律法で禁じられている偶像礼拝」(Ⅰペトロ4:3)の誘惑から逃れるのは、容易なことではありません。なぜなら、「肉における残りの生涯を生きる」際に、いつも「(キリストと)同じ心構えで武装し」なければならない(同上4:1)ほどに、油断も隙もないことだからです。
しかし、びくびくし過ぎることはありません。「偶像礼拝から逃げる」唯一の手立て、すなわち、「神の御心に従って生きる」ことに集中すればよいのです。それならば、広く豊かな心で、平安に暮らすことができるでしょう。
パウロは「わたしの愛する人たち」に向けて、「あなたがたを分別ある者と考えいます……自分で判断しなさい」と述べて、信頼を寄せています。というのも、「神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになるため」には、あなたがたの「分別」(思慮深さ)や「判断」(より分けて選ぶ力)、すなわち、応答責任が欠かせないからです。
Ⅱ キリストの血と体にあずかる
コリントの信徒への手紙 一 10:16-18――
16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。18 肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか。
パウロは、コリント教会の信徒をびくびくさせるように訓戒することを望んではいません。
ここでパウロは、「わたしたちの父祖」の物語を回想し、〈イスラエルの民〉から〈教会の群れ〉に至る神の救いの歴史から学んだことを、自分の弁論の中に取り入れています。パウロはこのような広い視野に立って徐々に、「偶像礼拝」とは何か、説き明かしていきます。
パウロは、「偶像礼拝」の本質をあぶり出すべく、「キリスト教会の共同の食事」と「ユダヤ教の共同の食事」という事例を取り上げます。これはまさに、うまいやり方で、敵対者の臓腑を打ち抜く効果があります。というのも、後段で明らかにされるように、偶像崇拝に魂を奪われている人はとりわけ、「悪霊の食卓」の虜になっているからです(Ⅰコリント10:21)。
では翻ってみて、いったい何がキリスト教会の「礼拝」を「礼拝」たらしめているのでしょうか? いろいろな答え方がありますが、プロテスタント教会においては、サクラメント(聖礼典)、すなわち、洗礼と聖餐とが「礼拝」を形作っている重要なものです。洗礼と聖餐は、神より授けられて救いと恵みのしるしであり、主イエス・キリストがこの二つの儀式を行うように命じられたものです(マタイ28:19、Ⅰコリント10:23)。
伝統的に礼拝は、牧師の説教を通じ、主イエス・キリストの御言葉を想起しつつ、聖餐を執り行うことに、その揺るぎない特徴があります。そこで、パウロはいわば正攻法で、論敵に対し、「主の食卓」(Ⅰコリント10:21)の注目点を照らし出しています。
「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか」……パウロは絶妙に議論を開始しています。この文は前置きですが、これからの議論の鍵語がすでに昭示されています。すなわち、パウロは普通、「杯を飲む」(Ⅰコリント11:26,27)と言うところを、「キリストの血にあずかること(ギリシア語 コイノーニア)」と表現しています。個々人が杯を受けるというよりも、むしろ、皆で一緒に杯を受けるという共同性が強調されています。
なお、儀式の最初に「神を賛美する賛美の杯」を飲むというのは、次の「ユダヤ教の共同の食事」と共通するしきたりです。この文脈では、キリスト教とユダヤ教の食事の類似性を浮き彫りにしつつ、「偶像礼拝」の食事の危険性を訴えています。
「主の食卓」に関する聖書の証言によれば、「パン」⇒「杯」(ぶどう酒)の順序(Ⅰコリント11:23-25、マルコ14:22-25)が優勢なのですが、この箇所では、「杯」⇒「パン」の順(ルカ22:14-20)になっています。これはまさに、敵対者の臓腑(はらわた)を打ち抜く作戦で、飲み物ではなく食べ物によって、論理展開しようとしているからです。
「わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」……「主の食卓」における「パン」の意味づけが簡潔になされています。「パンを裂く」というのは主の晩餐の制定文にも記されている用語で、意味深長です(Ⅰコリント11:24)。というのは、聖餐において、キリストの「体」なる「パンが裂かれて」配られ、信仰者がそのパンに「あずかること」によって、「一つの体」(同上10:17)となるからです。これがまさに聖餐のサクラメント(秘蹟)たる所以です。
こうして、「キリストの血にあずかること」と「キリストの体にあずかること」、二回にわたって、「キリスト教会の共同の食事」の共同性が表明されました。これは、主イエス・キリストとの一体化に基礎づけられた、信仰者相互の一体性を、神学的に論証したものと言えるでしょう。
礼拝における聖餐の中で、信仰者は、「十字架につけられたキリスト」(Ⅰコリント1:23、2:2)によって、流された「血」と裂かれた「パン」とに「あずかること」が許されています。深い悔い改めをもって、わたしたちの罪と病と死を背負ってくださった主イエス・キリストを仰ぎます。このような神の恵みの出来事によって、一つの信仰共同体、茅ヶ崎香川教会は、「一つの体」となります。
ところでパウロは、コリントの信徒への手紙 一 10章の初めの段落で、イスラエルの民の荒れ野放浪を振り返りました(10:1-4)。そこでパウロは、イスラエルの民は神の恩寵のもとで、「モーセに属するものとなる洗礼」、及び、「霊的な食物」と「霊的な飲み物」にあずかった、と述べました。それによって、荒れ野放浪という飢え渇きの中で、予型的に「イエスに属するものとなる洗礼」(ローマ6:3、ガラテヤ3:27など)、及び、パンと杯による聖餐が執り行われていた、と信じるようキリスト者を導きました。
今また、パウロは「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になる」という「ユダヤ教の共同の食事」を引き合いに出しています。
「肉によるイスラエルの人々」との用語に蔑称のニュアンスはありません。それは、祭壇の「供え物を食べる」という文脈に即した用語なのでしょう。実際に祭儀規定の上でも、「奉納者はそれぞれの献げ物から一個ずつを奉納物として主にささげる。これは、献げ物の血を祭壇に注ぎかける祭司のものとなる。和解と感謝の献げ物の肉はささげられた日に食べねばならない。一部でも、翌朝まで残してはならない」と定められています(レビ記7:14-15 和解の献げ物の施行細則)。
このような律法を熟知しているパウロは、この食事について、「祭司の家系につながる男子は皆、これを食べることができる。これは聖域で食べねばならない。これは神聖なものである」(レビ記6:22、7:6)との規定を踏まえ、次のように述べています。
「供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になる」……ここでまた、食事をとる者たちの共同性を指示する用語・「かかわる者になる」(ギリシア語 コイノーノス)が使われています。これは、「キリストの血にあずかること」または「キリストの体にあずかること」に用いられている コイノーニア と同根の言葉です。つまり、「献げ物の肉」にあずかった「祭司の家系につながる男子は皆」、その会食において「一つの体」となるということです。
このようにしてパウロは、旧新約の二つの「食事」の類比に基づいて徹底的に論証しました。すなわち、聖なる食事に「あずかる」・「かかわる」者たちは、神または主イエス・キリストのもとに完全な「交わり」(コイノーニア)を持ち、「一つの体」となるということです。
ここで弁論術に長けたパウロは、議論の急転回を計ります。コリント教会の人々の前で、「あずかり、かかわる」べきではない偶像崇拝の食事を取り上げています。
Ⅲ あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません
コリントの信徒への手紙 一 10:19-20――
19 わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えられた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか。20 いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです。わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません。
パウロの説き明かしの優れた点は、すでに語ったことの積み重ねを重視していることです。つまり、前後の文脈で齟齬・矛盾が生じないように、留意されているということです。殊に今、パウロは食べ物に関する議論を展開しているところなので、さまざまな人々への配慮が必要です。
パウロの理解によれば、教会には「強い人」と「弱い人」とがいます(ローマ15:1、Ⅰコリント8:11)。一方、「強い人」とは、キリスト者のあり方として、「てすりも、原理もなく、特別な慣習も放棄した生活」の方を選んでいる人を指します(K.バルト)。他方、「弱い人」とは、「てすり」(生活または行動の一定の様式)を活用する暮らし方へと招き入れられている人を指します。
コリントの信徒への手紙 一 8章の「偶像に供えられた肉」を例にとりましょう。「強い人」は、それを平気で食べ、「弱い人」は、「偶像へ供えられた」ものだということが念頭から去らず、自分の生真面目さを持て余しています(竹森満佐一)。
パウロは教会内の、このような対照的な人々に対し、「偶像に供えられた肉」を食べてもよいし(⇒強い人)、食べなくともよい(⇒弱い人)、とは答えませんでした。そうではなく、パウロは「偶像に供えられた肉が何か意味を持つ」ということは全く無いけれども、食べ物のことで「わたし(強い人)の兄弟(弱い人)をつまずかせ」ないように、との牧会的配慮から、「偶像に供えられた肉」を食べないように指示しました(Ⅰコリント8:13)。
要するにパウロは、そもそも「世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいない」(Ⅰコリント8:4)ので、「偶像に供えられた肉が何か意味を持つ」は全く無いと考えています。がしかし、パウロはキリストの平和と教会員の一致を願いつつ、「弱い人」に配慮して、「偶像に供えられた肉を食べない」ようにと提案したのであります。それが、コリントの信徒への手紙 一 8章の話だったことを思い起こすと、この10章では、同じ問題がここで掘り下げられていることが分かります。
「いや、わたしが言おうとしているのは、偶像に献げる供え物は、神ではなく悪霊に献げている、という点なのです」……パウロが深化させている点が、お分かりになるでしょうか。つまり、「世の中に偶像の神などはない」けれども、「悪霊ども」(ギリシア語 ダイモニオン 複数形!)に供え物を献げるならば、「悪霊どもの仲間になって」しまうと、パウロは警告しています。
では、「偶像の神々」と「悪霊ども」との違いは、何ですかと質問されることでしょう。コリントのキリスト者が多神教の世界で、うかつにも偶像崇拝の祭儀に参加しているとすれば、「偶像の神々に供え物を献げている」と言えるのではないですか、ということです。
ここで、「偶像の神々」と「悪霊ども」を使い分けたパウロに、言葉の定義を明確にせよ、と要求するのは賢明ではないでしょう。それよりも、この段落冒頭に掲げられた、主題となる「偶像礼拝を避けなさい」との勧告に沿って、「供え物は、神ではなく悪霊に献げている……あなたがたに悪霊の仲間になってほしくない」との真意を捉えることにしましょう。
パウロは結びとなるテキストで、人間が造ったもの(偶像)なので、神として存在しているわけではないけれども、まさに「幽霊」(マルコ6:49)のように、わたしたちに近寄り、わたしたちの心をおびやかす「悪霊ども」の脅威を物語っています。
コリントの信徒への手紙 一 10:21-22――
21 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません。22 それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか。わたしたちは、主より強い者でしょうか。
Ⅱ.で、パウロは、「偶像礼拝」の本質をあぶり出すべく、「キリスト教会の共同の食事」と「ユダヤ教の共同の食事」という事例を取り上げる、と述べました。この結びでいよいよ、伏線となっていた「食卓」談義が回収されます。パウロが「わたしたちの父祖」(Ⅰコリント10:1)の物語についての回顧と、〈イスラエルの民〉から〈教会の群れ〉に至る神の救いの歴史についての洞察とに基づいて、結論が出されます。
地中海圏を駆け巡って伝道してきたパウロは、土着の人々の間に多神教的な思考が浸透していることを知っています。キリスト教信仰を受け入れた人々でも、ちょっとした近所付き合いのために、「偶像に供え物を献げる」こと、更に、取り下げたものを共食することがあり得ることを把握していたでありましょう。
このような難題に取り組む中でも、パウロは神に栄光を帰すことを第一に考えていました。日々、自分ために整えられた「食卓」(詩編23:5)において、どのように「自分の体で神の栄光を現す」のか(Ⅰコリント6:20、10:31)、祈り求めていました。
「主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできないし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くことはできません」……パウロはコリント教会の人々に、決断を迫っています。これは、「主の食卓」の一択です! すなわち、「悪霊の食卓」から遠ざかりなさいということです。この一択に頼りきることこそが、「偶像礼拝から逃げる」秘訣なのでしょう。これは、わたしたち・日本人にとっても看過できない戒めです。
息をもつかせないような結論を慮ってでしょうか、パウロは最後に二つの問いを置いています。深呼吸して、「食卓」についての結論の反芻するように促しているようです。「ねたむ主」や「より強い主」に目を向けさせる問いによって、「もはや人間の欲望にではなく神の御心に従って、肉における残りの生涯を生きるようになる」(Ⅰペトロ4:2)ように、コリント人を導いています。
「それとも、主にねたみを起こさせるつもりなのですか」……「ねたむ主」については、その原型である旧約の「熱情の神 エル カナー」(出エジプト記20:5、申命記4:24、6:15)にさかのぼるのが正当です。
この点で、「あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。」(申命記6:15)との文章には、用語理解の上で多くの情報が含まれています。
まず、「熱情の神」は、「あなたのただ中におられるあなたの神」だと知らされます。すなわち、神は常にわたしたちと共におられ、わたしたちと人格的な関係を形成してくださいます。それ故、神は、イスラエルの民を「わが子」に接するように(ホセア書11:1)、怒り、諭し、鍛え、そして憐れんでくださいます。「主の怒りがあなたに向かって燃え上がる」のは、神が人間を「わが子」として愛しておられる証拠です。
パウロはコリントの人々に、「悪霊の杯の飲み、悪霊の食卓に着いて」、「主にねたみを起こさせるつもりなのですか」と問いかけています。人間が、怒りやねたみによってではなく、愛によって、神の関係を回復すべきなのは、言うまでもありません。
「わたしたちは、主より強い者でしょうか」……これも、神と人間の関係に刷新を求めている問いかけと言えるでしょう。今回は、「主の食卓」や「悪霊の食卓」をめぐって、「食べる」という人間の欲求が俎上に上げられました。このことを根本的に考えるにあたって、わたしたちは、創造主なる神について聖書の証言をたどらねばなりません。
天地創造の第六の日、主なる神はご自分に似せて、男と女を創造されました。同時に、神は全地に「食べ物」を供する木を生えさせられました(創世記1:26-30)。わたしたちが汗水流して働く前に、神は無償の賜物として「食べ物」をわたしたちに与えてくださいました。
このような創造主の恵み豊かさを想うならば、わたしたちは、「主の食卓」が整えられているという現実に感謝すべきであります。さあ、「神を賛美する賛美の杯」(Ⅰコリント10:16)を酌み交わして、食事を始めましょう。
最後に旧約聖書から、「わたしたちにとって、主はより強いお方である」との使信を受け取りましょう。それによって、「食べる」という人間の強い欲求に掻き乱されることなく、へりくだって、「主の食卓」に着くことができますように。
Ⅴ 自分の造り主と争う者
イザヤ書49:5――
自分の造り主と争う者は。
粘土が陶工に言うだろうか
「何をしているのか
あなたの作ったものに取っ手がない」などと。
自分が貧しく弱い情況にあるにもかかわらず、神の救いの御手が見えないとしたら、これほど悲惨なことはありません。そのような嘆きが、「災いだ」(ヘブライ語 ホイ)との預言者イザヤの叫び声に凝縮されています。
しかし何故に、神の大きな救いの御手が見えなくなっているのでしょうか?
紀元前6世紀中葉のことです。異教の地バビロンに、捕囚として連れて来られたユダヤの民は、希望を見出せないままに、日々を送っていました。バビロンの神々に「供え物を献げ」かねない、混乱の中に置かれています。そうした苦境にあって、主なる神は、エレミヤ、エゼキエル、そして第二イザヤを通じて、メッセージを届けておられました。
Ⅴ.の「熱情の神」への説き明かしの箇所で、「あなたのただ中におられるあなたの神」は「わが子」なる民を愛し、人格的な関係を形成してくださるお方であるということをお話ししました。ところが、捕囚の地で多くのユダヤの人々が、「偶像に供え物を献げる」慣習に惹かれ、預言者たちが伝達する神の言葉に心を閉ざしていました。
神は、人の罪深さと頑なさに向かって、「災いだ」(ホイ イザヤ書45:9,10、55:1)と嘆息せざるを得なかったのです。根本的な解決は、人が神との間に正しい人格的な交わりを回復することです。それこそが、第二イザヤが提示した、〈ユダヤの民〉「土の器のかけら」または「粘土」、そして〈主なる神〉「造り主」または「陶工」という関係なのです。
ユダヤの民一人ひとりが、「人よ、神に口答えするとは、あなたは何者か。造られた物が造った者に、『どうしてわたしをこのように造ったのか』と言えるでしょうか」(ローマ9:20)との叱責の言葉を噛み締めなければなりません。
この時、主なる神は異邦の王を神の僕として用いて(イザヤ書45:1-7)、ユダヤの民を救い出すことを計画しておられました。これは、心が頑なままに頭で理解しようと思っても、少しも分からない、人間の想像をはるかに超えた神の神秘なる計画です(Ⅰコリント2:7-9)。
「造り主」なる神は、「土の器」なる人間を創造し、罪のどん底から救い出し、人間に「主の食卓」を整えて養っておられます。そのような神に対して正しい関係を造るというのは、感謝と賛美をもって、「主の食卓にあずかること(コイノーニア)」ではないでしょうか。
結
幸いにも、信仰者は、「裂かれたパン」と「賛美の杯」によって、「キリストの体とキリストの血にあずかる」という無償の恵みを与えられています。主イエス・キリストが食卓の主を司られる聖餐が、わたしたちの教会形成の原動力となりますように!
W
〈説教の原稿〉
2026年 5月31日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第2主日
旧約聖書 申命記 6章1節~15節(P.291)
新約聖書 ヤコブの手紙 1章19節(P.422)
説 教「聞け、イスラエルよ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい ……申命記6:1-3
Ⅱ あなたの神、主を愛しなさい ……申命記6:4-5
Ⅲ これをしるしとして自分の手に結びなさい ……申命記6:6-9
Ⅳ 主は熱情の神である ……申命記6:10-15
Ⅴ 人はだれでも、聞くに早くあるべきです ……ヤコブの手紙1:19
序
旧約聖書・モーセ五書において、十戒(出エジプト記20:2-17∥申命記5:6-21)と並んで最も重要なテキストを取り上げます。このテキストでは十戒と異なり、イスラエルの民がこれから渡って行く「乳と蜜の流れる土地」(申命記6:3)での生活事情が熟慮されています。子どもたちへの教育、日常の暮らしと礼拝、そして規定を遵守しない者への警告などが含まれています。
土地取得という約束が成就する直前に、神からの豊かな賜物に目覚めさせられ、イスラエルの民が一つとなり、掟や定めに心に刻み、それを実践することが求められています。最も重要な聖句に基づく、このような信仰訓練は、「神のイスラエル」(ガラテヤ6:16)なる教会によって引き継がれています。
教会には、神に選ばれた一人ひとりが、「神のイスラエル」として集っています。その一人ひとりに、「先祖アブラハム、イサク、ヤコブ」にさかのぼる神の祝福が与えられています。さらには、「キリストと結ばれる人はだれでも、新しく創造された者である」(Ⅱコリント5:17)という神の恵みにあずかっています。
主イエスは律法学者に答えて、最も重要な掟の第一は、申命記6:4-5であると言われました(マルコ12:28-30)。主イエスご自身が、イスラエルの民と教会の群れとの架け橋になっておらます。
本日もまた、聖書によってエピグラフ(題辞)を掲げておきましょう。
ヨハネ黙示録2:7――
耳ある者は、“霊”が諸教会に告げることを聞くがよい。
Ⅰ イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい
申命記6:1-3――
1 これは、あなたたちの神、主があなたたちに教えよと命じられた戒めと掟と法であり、あなたたちが渡って行って得る土地で行うべきもの。2 あなたもあなたの子孫も生きている限り、あなたの神、主を畏れ、わたしが命じるすべての掟と戒めを守って長く生きるためである。3 イスラエルよ、あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい。そうすれば、あなたは幸いを得、父祖の神、主が約束されたとおり、乳と蜜の流れる土地で大いに増える。
この部分は、最も重要な掟(申命記6:4-5)以下のテキストに耳を傾ける準備段階になっています。後でも繰り返される鍵語、「戒めと掟と法」、「土地」、そして「子孫」が言及されています。
「主があなたたちに教えよと命じられた」からと言って、必要以上に恐れおののくことはありません。また、「戒めと掟と法」って、何だか律法主義の臭いがすると言って、警戒し過ぎてはなりません。「~主義」を造るのは、人間の業です。
第一に、神からの賜物と祝福に心を留めることから始めましょう。そうすれば、「あなたの神、主」が、「長く生きる」ことと「乳と蜜の流れる土地」という「幸い」なる時空間をもってわたしたちを支えてくださいます。その上で、わたしたちが実践すべきことが要領良くまとめられています……「あなたはよく聞いて、忠実に行いなさい」(新共同訳)。
ただし、原文は「あなたは①聞いて、②守り、③行いなさい」(私訳)と、三つの動詞から成っているのを押さえておきましょう。
このように三重の形で、信仰上の「戒めと掟と法」の重要性がうたわれています。というのも、わたしたちの心に植えられた御言葉(ヤコブ1:21)が根づき、生活のさまざまな領域において実りをもたらすからです。「戒めと掟と法」一つひとつがわたしを捕らえ、わたしを変革し、行動へと押し出します。「あなたの神、主」の前にへりくだって、御言葉を「①聞けますように、②守れますように、③行えますように」と祈りつつ前進していきましょう。
Ⅱ あなたの神、主を愛しなさい
申命記6:4-5――
4 聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。5 あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。
「聞け、イスラエルよ」(ヘブライ語 シェマア イスラエル)という呼びかけは、直前の「あなたは①聞いて、②守り、③行いなさい」(申命記6:3)を除いて、今回のテキスト(同上6:1-15)内で一度きりです。それだけにイスラエルの民に向かって「教えよと命じられる」シェマア(聞け)イスラエル がひと際目立ちます。
ここでは聞くべき内容ではなく、「我らの神、主は唯一の主」との関係が問われています。つまり、イスラエルの信仰と生活の中心に、「我らの神、主は唯一の主」を置きなさいということです。
そこでは、イスラエルの民が「他の神々、周辺諸国民の神々の後に従わず」(申命記6:14)、「唯一の主」を礼拝することが求められています。礼拝というと、わたしたちはどんな儀式をすればよいのか、と考えあぐねてしまうかも知れません。そうではなく、「主はあなたの先祖を愛されたがゆえに、その後の子孫を選び、御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された」(申命記4:37)という神の「愛」に応答するのが第一です。
先行する神の「愛」によって、わたしたちが「唯一の主」に応答する関係が築かれます。神の「愛」への応答ですから、賛美と感謝が礼拝の中に満ちあふれます。そこで、「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)との命令を思い起こすときに、天より御声が聞こえてきます。
イスラエルの民は、「主は御自ら大いなる力をもって、あなたをエジプトから導き出された」という救いの出来事によって、神の「愛」を知らされました。今、荒れ野を放浪する民は「モーセに属するものとなる洗礼」、「霊的な食物」、そして「霊的な飲み物」という神の恵みを受けています(Ⅰコリント10:1-5)。「あなたの先祖を愛された唯一の主」の「愛」が、彼らの実体験の中へと注ぎ込まれています。
「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」とのモーセの命令こそ、神への応答としてふさわしいものです。イスラエルの民が一心に全身で、「主を愛す」とき、「我らの神、主は唯一の主」との信仰告白が確固たるものとなります。そのような荒れ野での礼拝が、「乳と蜜の流れる土地」に入って行く前に示されているのが、重要です。なぜなら、たとえ生活が豊かになっても、主の前にへりくだり、神を愛し礼拝することをおろそかにしてはならないからです。
Ⅲ これをしるしとして自分の手に結びなさい
申命記6:6-9――
6 今日わたしが命じるこれらの言葉を心に留め、7 子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。8 更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、9 あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい。
最も重要な掟が提示されました。そこで、「あなたもあなたの子孫も生きている限り」(申命記6:2)、どのように「これらの言葉」を、「①聞いて、②守り、③行う」のか、について述べられています。
「子供たちに繰り返し教えなさい」……自分自身がどれほど、神によって「命じられたこれらの言葉」を理解しているかは、「子供たちに教えて」みれば分かります。「繰り返し教える」というように、その要は反復学習にあります。
ですから、「これらの言葉」が身心に染み込むように、親と子が切磋琢磨していくことになります。しかし、それは、家庭で親が子を支配するというのではありません(エフェソ6:4)。そうではなく、「あなたもあなたの子孫も」、主の律法において生きるようにしなさいということです。
その点で、「これらの言葉を語り聞かせなさい(ディバルター 原意 話す。しゃべる)」というのは、とても有用です。というのも、「語り聞く」とは、声を上げて読むことだからです。「シェマア イスラエル アドナイ エロへーヌ アドナイ エハッド」(申命記6:4)と繰り返し唱えていれば、やがて子どもは諳んじるようになります。
そして、「家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも」というように、「語り聞く」ことが、多様な生活場面の中で展開されていきます。たとえ、イスラエルの民が主の「戒めと掟と法」を忘れそうになるときにも、神の御言葉は彼らから引き離されません。
「更に、これをしるしとして自分の手に結び、覚えとして額に付け、あなたの家の戸口の柱にも門にも書き記しなさい」……このような信仰上の工夫が、「乳と蜜の流れる土地」での生活において求められています。
「戸口の柱」(ヘブライ語 メズーザー)という用語は時代が下ると共に、「羊皮紙に記されたシェマアの祈りを入れた容器」を指すようになりました。今日でもイスラエルでは、戸口の右柱に取り付けられたメズーザーに、手を触れて出入りするのが習慣になっています。確かにそのように習慣づけられれば、「わたし(主なる神)の命じるこれらの言葉を心に留められる」ことでしょう。
Ⅳ 主は熱情の神である
申命記6:10-15――
10 あなたの神、主が先祖アブラハム、イサク、ヤコブに対して、あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、11 自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき、12 あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された主を決して忘れないよう注意しなさい。13 あなたの神、主を畏れ、主にのみ仕え、その御名によって誓いなさい。14 他の神々、周辺諸国民の神々の後に従ってはならない。15 あなたのただ中におられるあなたの神、主は熱情の神である。あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がり、地の面から滅ぼされないようにしなさい。
前段では、「これらの言葉」を、「①聞いて、②守り、③行う」という信仰の基本姿勢が示されました。そこで、モーセ(申命記5:1)は、「あなた」として一体化したイスラエルの民に向けて説教しました。
紀元前458年、バビロン捕囚から帰還した民の指導者エズラがエルサレムで説教したことがありました。
ネヘミヤ記8:1-3――
1 民は皆、水の門の前にある広場に集まって一人の人のようになった。彼らは書記官エズラに主がイスラエルに授けられたモーセの律法の書を持って来るように求めた。2 祭司エズラは律法を会衆の前に持って来た。そこには、男も女も、聞いて理解することのできる年齢に達した者は皆いた。第七の月の一日のことであった。3 彼は水の門の前にある広場に居並ぶ男女、理解することのできる年齢に達した者に向かって、夜明けから正午までそれを読み上げた。民は皆、その律法の書に耳を傾けた。
民が「集まって一人の人のようになった」というところに、「我らの神、主は唯一の主」を礼拝する、その荘重さが滲み出ています。彼らは一心に、「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)との呼びかけによって導入される「モーセの律法の書」に耳を傾けました。
「あなたに与えると誓われた土地にあなたを導き入れ、あなたが自ら建てたのではない、大きな美しい町々、自ら満たしたのではない、あらゆる財産で満ちた家、自ら掘ったのではない貯水池、自ら植えたのではないぶどう畑とオリーブ畑を得、食べて満足するとき」……ここでは、「カナの土地に入るとき」(民数記21:3、35:1)に、「あなたが自ら建てたのではない(町々)」、「自ら満たしたのではない(家)」、「自ら掘ったのではない(貯水池)」、そして「自ら植えたのではない(畑)」ことをゆめゆめ忘れるなと警告されています。
神がそこで願われているのは、イスラエルの民の謙虚さであり、先住民と共生していくことであります。民がカナンに入って行くときに、時に先住民との間に戦いが起こりました(民数記21:1、ヨシュア記24:11)。しかし、「あなたが自ら~したのではない」という説教の言葉を胸に刻むべきであります。主なる神はイスラエルの民が高慢になることや異邦人を見下すことを戒めておられます(ヨシュア記17:12、士師記1:27-28,33、イザヤ書56:1)。
この説教の基盤として、「主があなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出された」ことが昭示されています。これによって、イスラエルの民は、「主はあなたの先祖を愛された」(申命記4:37)という先行する神の「愛」を想起します。これに対する最善の応答が、「あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(同上6:4)ということなのです。
そして注目すべきことに、この説教には、主イエスが引用した御言葉が含まれています。荒れ野誘惑の第二の場面で、主イエスは、「あなたの神である主を拝、ただ主に仕えよ」と告げて、悪魔を退けました(ルカ4:1-13 マタイだと第三場面にある)。この御言葉の原典が、「あなたの神、①主を畏れ、②主にのみ仕え、③その御名によって誓いなさい」(申命記6:13)になります。
この御言葉は、〈あなた〉なる神と〈わたし〉なる主イエスならびに信仰者との堅い関係を言い表すものであり、〈わたし〉は〈あなた〉を拝む僕であることが、三重の形で規定されています。
説教の最後には、まことの神が言い表されつつ、人々が不信仰に陥らないように、警告が毅然として発せられています。
それでは、一体どこに、「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)と呼びかけられている本日のテキストの重要性があるのでしょうか? それは、主イエスが荒れ野の誘惑においてその一節を引用した通り、新約聖書の各所に、その御言葉が成就したのが示されていることです。
「あなたのただ中におられるあなたの神」……これは、「神は我々と共におられる」という「インマヌエル」預言(イザヤ書7:14、8:8,10)となって、旧約の民(ユダのアハズ王 在位・紀元前744-729年)から新約の民(マリアの夫ヨセフ)へと引き継がれました(マタイ1:23)。時満ちて、ベツレヘムで栄光のうちに、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」のをヨセフが見た時(ヨハネ1:14、ルカ2:6-7)、「インマヌエル」預言は成就しました。ハレルヤ、「あなたのただ中に」、神の御子が誕生されました。
「あなたの神、主は熱情の神である」……神はねたむほどに、わたしたちを愛しておられます。それほどに、人間は神にとってかけがいのないものなのです。従って時には、「あなたの神、主の怒りがあなたに向かって燃え上がる」こともあります。その際、「あなた」は「地の面から滅ぼされる」窮地に追い込まれます。具体的な事例を挙げましょう。
それは、「神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた」(創世記6:12)という暗黒時代のノア物語です。そこで、主なる神は、「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす」(同上6:13)と宣言されました。
「(主の怒りがあなたを)地の面から滅ぼす」(申命記6:15)と下線部の直訳「わたしは人を地の面から消し去る」とは同一のメッセージです。申命記の警告に真実味を帯びさせるかのように、ひと度、洪水が地上にもたらされて(創世記7:6,17)、ノアはじめ八人(同上6:18)以外、「すべて肉なる者」を滅ぼされました。ですから、荒れ野を放浪するイスラエルの民は、洪水による神の裁きに照らして、「(主の怒りがあなたを)地の面から滅ぼす」との警告に耳を傾けなければなりません。
しかし主なる神は、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」という人物とその家族に、「逃れる道」を備えられました。主なる神は、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず」に、神の「真実」によって「逃れる道」を切り開いてくださいます(Ⅰコリント10:13)。
「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)との呼び声は、ユダヤ暦の新年に吹かれる角笛のように(レビ記23:24、エゼキエル書40:1)、遠く、初代教会の時代までこだましました。
Ⅴ 人はだれでも、聞くに早くあるべきです
ヤコブの手紙1:19――
わたしの愛する兄弟たち、よくわきまえていなさい。だれでも、聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いようにしなさい。
この世の中ではしばしば、おしゃべりが好きな人や怒りっぽい人に出会います。そうすると、自分自身の「話すのに遅く、また怒るのに遅いように」との心がけが掻き乱されることになりかねません。
何を「早く」して、何を「遅く」するのか、のバランスが大切になります。もしも、「早い」か「遅い」か、どちらかの一極に偏れば、おそらく自分の心身が安定しないことでしょう。
わたしたち・信仰者には、そのジレンマ(板ばさみ)を脱して、キリスト教倫理を保持する道が開かれています。それは、「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)との呼びかけのもとに、「聞くのに早く、話すのに遅く、また怒るのに遅いように」することです。
「主はあなたの先祖を愛された」(申命記4:37)という神の「愛」に生かされる中で、「聞くに早くある」ことから始めましょう。主なる神は、「早くも遅くもない」、なまぬるい(参照:ヨハネ黙示録3:16)イスラエルの民を導かれました。そして、訓練されました。その訓練の中心の置かれたのが、「聞け、イスラエルよ」(シェマア イスラエル)との呼びかけです。
「聞け、神のイスラエル(=教会)よ」との声のもとに、「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまへり」(使徒信条)ということが説教され、告白・讃美され、そして祈りをもって感謝される礼拝が行われますように、と祈ります。
W
〈説教の原稿〉
2026年 5月24日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
説 教「聖霊によって守り導かれているパウロ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 途中で殺そうと陰謀をたくらむ祭司長たち
……使徒言行録25:6-9
……列王記下19:5-7
結
序
今年のキリスト教の暦に従えば、4月5日の復活日から40日後、5月14日に昇天日が巡って来ました。そして、その10日後、きょう、5月24日に聖霊降臨日を迎えました。
紀元後30年頃にエルサレムで起こった聖霊降臨(使徒2:1-13)が、キリスト教会において記念され、祝われてきました。十二弟子のペトロやヤコブ(マタイ4:18,21)などによって初代教会が設立されました。その後、パウロや巡回伝道者の働きによって、地中海圏に宣教の輪が拡げられていきました。まさに、神の送られた聖霊によって、伝道者たちの働きは導かれ強められたのであります。
そのような折も折、エルサレムでパウロがユダヤ人たちに襲撃され、ローマ軍の兵営に監禁されるという事件が起こりました(使徒21:27-36)。それは、パウロが小アジア、ギリシアなどを巡った三回の伝道旅行を終え、報告のためにエルサレムに上って来た時のことでありました(同上21:17-19)。
紀元後56年頃に逮捕・拘留されたパウロは、およそ二年の時を監禁されたまま過ごしました(使徒24:27)。一個人の事とはいえ、福音宣教の中心人物の捕縛は、教会にとって測り知れない痛手でありました。それは、産声を上げたばかりのキリスト教にとって、逆風であり荒波でありました。それは突如、「聖霊」の風が吹き返され、隅に押し止められるような患難でありました。
結果として、使徒パウロはカイサリアの町に幽閉されることになりました(使徒23:23,33)。というのも当時、地中海に面するこの町に、ローマ軍・司令部が置かれ、ローマから派遣された総督が居住していたからです。今更、ジタバタしても仕方ありません。いちばん悔しい思いをしたのは、投獄された本人パウロであります。
潮騒鳴る牢獄で、パウロは何を思っていたのでしょうか。四、五年前、ギリシアのフィリピで官憲によって投獄された時、パウロはシラスと共に「真夜中ごろ、賛美の歌をうたって神に祈っていました」(使徒16:25)。カイサリアでもパウロは、必ず患難を打ち破る「聖霊」の風が吹いて来ると信じていたのではないでしょうか。
待ち続ける日々の中に、潮の流れが急変し始めました。ローマ総督が、フェリクスからフェストゥスに交替しました。それは支配者、ローマ帝国の側の政治的事情であって、一見、パウロならびにキリスト教にとって、総督の交代など関係のない出来事と思われます。ところが、異邦人の官職交代は、再びキリスト教の歴史が進展していく潮流を引き起こしました。
なぜなら、パウロが念願かなって、ローマへ旅立ち、やがて、キリスト教が世界宗教になるきっかけが造られたからです。「聖霊」という用語が使われているわけではありませんが、本日のテキスト(使徒25:1-12)は、「聖霊」が登場する人物に働き、新たな局面が開かれたことを物語っています。旧約聖書には、神の「霊」が患難を突き破ったという類例がありますので、後で読んでみましょう。
世界文学の小説に倣って、エピグラフ(題辞)を聖書によって掲げておきましょう。
支配者の御機嫌をうかがう者は多い。
しかし、人を裁くのは主である。
Ⅰ 途中で殺そうと陰謀をたくらむ祭司長たち
使徒言行録25:1-5――
1 フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った。2 -3祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたいと、フェストゥスに頼んだ。途中で殺そうと陰謀をたくらんでいたのである。4 ところがフェストゥスは、パウロはカイサリアで監禁されており、自分も間もなくそこへ帰るつもりであると答え、5 「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」と言った。
使徒パウロの幽閉は、事態の膠着以外の何ものでもありません。この度は、新約の書簡集に収められるようなパウロの手紙は書き残されていません。ところが、ひとりの総督と陰険なユダヤ人たちとの駆け引きから事態が動き始めました。言い換えれば、神の救いの計画のもと、暗闇の中に一条の光が投じられたと言えるでしょう。
「フェストゥスは、総督として着任して三日たってから、カイサリアからエルサレムへ上った」……新しく着任した「フェストゥス」――ポルキウス・フェストゥス(使徒24:27)――は、公務に忠実でありました。ダビデ王が建設した「千年の都」を観たいという想いも強かったことでしょう。もちろん、視察の第一の目的は、被占領地の治安保持のためでありました。「フェストゥス」もさりげなく、内乱の気配を嗅ぎわけるよう努めたことでしょう。
この好機を逃すまいと、「祭司長たちやユダヤ人のおもだった人々は、パウロを訴え出て、彼をエルサレムへ送り返すよう計らっていただきたい」と、新任総督に訴えました。そこには、ユダヤ人の最高法院(ルカ22:66)でパウロを裁くことを口実に、彼を暗殺しようとする陰謀が潜んでいました(使徒25:2)。
そのために、一部のユダヤ人は、新米の総督から都での裁判開廷の許可を得ようと、苛立っていたのです。というのも、前任の総督フェリクスは、のらりくらりと、彼らの要求をかわしていたからです。
そもそも、キリスト教のことを詳しく知っているというフェリクスの自分勝手で、裁判は延期されていました(使徒24:22)。一方では、フェリクスはパウロから金をもらおうと下心を抱き(同上24:26)、他方では、ユダヤ人に気に入られようとしてパウロを監禁したままにしました(同上24:27)。
待てば海路の日和あり、こうして、総督の交代にうちに、新たな局面が開かれました。神の救いの計画のもと、一条の光が罪悪と戦いながら明るさを増していきます。
「だから、その男に不都合なところがあるというのなら、あなたたちのうちの有力者が、わたしと一緒に下って行って、告発すればよいではないか」……まず、エルサレムに上ったフェリクスの一行がカイサリアへ戻って行くといのが朗報でありました。というのも、パウロの裁判が、ユダヤ人の本拠地・エルサレムでは行われなくなった、と同時に、パウロの移送も却下されたからです。寸前のところで、「途中で殺そうという陰謀」は回避されました。
ローマ軍・司令部のあるカイサリアで、ユダヤ人たちがパウロを「告発すればよい」ということで決着しました。こうしてパウロが、エルサレムでユダヤの最高法院や総督ピラトによって死罪を言い渡されたイエス・キリスト(ルカ22:66-23:25)の二の舞になることはありませんでした。
Ⅱ ユダヤ人に気に入られようとするフェストゥス
使徒言行録25:6-9――
6 フェストゥスは、八日か十日ほど彼らの間で過ごしてから、カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した。7 パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てたが、それを立証することはできなかった。8 パウロは、「私は、ユダヤ人の律法に対しても、神殿に対しても、皇帝に対しても何も罪を犯したことはありません」と弁明した。9 しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして、パウロに言った。「お前は、エルサレムに上って、そこでこれらのことについて、わたしの前で裁判を受けたいと思うか。」
「カイサリアへ下り、翌日、裁判の席に着いて、パウロを引き出すように命令した」……ここでも、忠実に職務をこなすフェストゥスの仕事ぶりが現れています。さっそく、前任者が棚上げにした裁判沙汰に向き合いました。
「パウロが出廷すると、エルサレムから下って来たユダヤ人たちが彼を取り囲んで、重い罪状をあれこれ言い立てた」……ローマ人のフェストゥスはこのような「ユダヤ人たち」の執拗さと過激さに目を見張ったことでしょう。
ルカ福音書・使徒言行録の著者は、「重い罪状を言い立てて」、死刑が求められている点(使徒23:29、25:25)において、パウロの裁判をイエス・キリストの裁判に重ね合わせています(ルカ23:10,13-15)。優柔不断なローマ総督(ピラトとフェリクスならびにフェストゥス)が登場するのも酷似しています。
著者が言わんとしているのは、使徒パウロは、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)との確信をもって、キリストにつき従っているということです。それ故に、パウロは「自分を捨て、日々、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(ルカ9:23)との命令を心に刻んでいます。
パウロは、どんな裁決が下されるのか分からない、という不安の中でも、主イエスが共におられることを確信していたでありましょう。今は「自分の十字架を背負う」ことに集中する、それならば、キリストの道から外れることはありません。著者が書いていないものの、そこには「聖霊」なる神の導きがあったのではないでしょうか。
「しかし、フェストゥスはユダヤ人に気に入られようとして……」……彼は裁判長の資格などありません。ほんとうに、やきもきさせられます。せっかく、裁判の場がローマ人の陣地に移されたのに、今更、「お前は、エルサレムに上って……裁判を受けたいと思うか」というのは、何事でしょう。驚き失望したパウロの顔が浮かんできます。結局、この賢そうなローマ人も、ユダヤ人の魂胆が見抜けていなかった、だから、私利私欲で何をやらかすか分からない、とパウロは悟ったのではないでしょうか。
しかしここで、パウロが総督フェストゥスを目の敵にして憤慨するのは、意味がありません。ひと呼吸、天を仰いで祈り、冷静に対処することです。
Ⅲ 皇帝に上訴するパウロ
使徒言行録25:10-12――
10 パウロは言った。「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です。よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません。
11 もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません。私は皇帝に上訴します。」 12 そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」と答えた。
いよいよ、「聖霊」の風が患難を打ち破るかのように、吹き巡って来る場面に入ります。
「私は、皇帝の法廷に出頭しているのですから、ここで裁判を受けるのが当然です」……パウロの裁判に関して、ここで初めて、「皇帝の法廷」との言葉が出てきます。もし、この世で裁かれるなら、ローマの「皇帝」(ギリシア語 カイサル)のもとでということが明確にされました。
パウロは元々、「ローマ帝国の市民権」を有する者(使徒16:37、23:27)として裁判を受ける考えを持っていました。およそ二年前に、エルサレム神殿で捕らえられた時にも、パウロは、「わたしは確かにユダヤ人です。キリキア州のれっきとした町、タルソスの市民です。どうか、この人たち(民衆)に話をさせてください」(使徒21:39)と千人隊長に嘆願しました。
今、パウロは、風見鶏のようにユダヤ人の方へなびいてしまう可能性のあるローマ総督フェストゥスと対面しています。フェストゥスの背後には「陪審の人々」がいます。パウロは弁論術を駆使にて語りかけます。
「よくご存じのとおり、私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません」……初めに「あなたがよくご存じのとおり」と言って、相手を自分の土俵に呼び込みます。「あなたは知っている(ご存じです)」との表現は、‘ you know ’「……ですからね。ほら。あの」という英語の慣用句になっています。相手にやさしく念押ししています。
十字架刑直前の主イエスの裁判については、恐らく、パウロの聞き及んでいるところだったでしょう。
ルカ福音書23:13-15――
13 ピラトは、祭司長たちと議員たちと民衆とを呼び集めて、14 言った。「あなたたちは、この男を民衆を惑わす者としてわたしのところに連れて来た。わたしはあなたたちの前で取り調べたが、訴えているような犯罪はこの男には何も見つからなかった。15 ヘロデ(ガリラヤの領主)とても同じであった。それで、我々のもとに送り返してきたのだが、この男は死刑に当たるようなことは何もしていない。」
裁かれている主イエスについて無罪と見たピラト同様に、フェストゥスもローマ人の総督でありました。理性的な高官ならば、「私はユダヤ人に対して何も悪いことをしていません」との訴えは聞き逃されないであろう、とパウロは考えたに違いありません。
「もし、悪いことをし、何か死罪に当たることをしたのであれば、決して死を免れようとは思いません。しかし、この人たちの訴えが事実無根なら、だれも私を彼らに引き渡すような取り計らいはできません」……潔くもパウロは、「死罪に当たって」死ぬことも、「訴えが事実無根」で生き延びることも受け入れています。まさしく、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰がパウロを支えています。
従容たる態度を現している上に、「ローマ帝国の市民権」を持つ者(使徒16:37、23:27)を軽々に裁くことはできません。人に気にいられたいとか、金をもらおうとか(使徒24:26,27)、よこしまな思いは吹き飛ばされます。
「そこで、フェストゥスは陪審の人々と協議してから」……ここで、主なる神は、主イエスの裁判と異なる方向を打ち出されました。それは、総督が彼を補佐する人々から意見を求めるということでした。それが、右往左往して一人芝居を演じた挙げ句、大祭司たちの言いなりになったピラトと異なる点です。
ルカ福音書・使徒言行録の著者がそうした事情を汲み取っているのは、文の用語から分かります。すなわち、「陪審の人々」(共に+決意する)、そして「協議する」(共に+話し合う)には、スン / シン「共に」(前置詞 synchonize のスン / シンです)が反復されています。参考までに言えば、英訳(NKJV)で ‘ conferred with the council ’(co- コ 共に)と、韻を踏んでいるのは見事です。
フェストゥスが「エルサレムから下って来たユダヤ人たち」と「協議し」なかったのは、それこそ、神の御心であり、「聖霊」の働きでありましょう。
パウロ:「私は皇帝に上訴します。」
フェストゥス:「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」
まるで阿吽の呼吸のように、二人は対話しています。「私は皇帝に上訴します」との宣言は、「聖霊」の息吹に包まれています。序.で、本日のテキスト(使徒25:1-12)は、「聖霊」が登場する人物に働き、新たな局面が開かれたことを物語っている、とお話しした通りです。
これからパウロは、ローマ人・高官の認証をもってローマへ旅立ちます(使徒27:1-2)。古代キリスト教史の観点から、パウロのローマ宣教(使徒28:16-31)は比類なきものであります。わたしたちは賛美をもって、「聖霊」の為した、この大きな御業をほめたたえることでしょう。
カイサリアの牢に拘留される直前、紀元後56年頃、パウロはローマの信徒への手紙を書き上げました。
ローマの信徒への手紙1:9-10――
9 わたしは、祈るときにはいつもあなたがたのことを思い起こし、10 何とかしていつかは神の御心によってあなたがたのところへ行ける機会があるように、願っています。
ローマの信徒への手紙1:15――
それで(わたしとしては)、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を告げ知らせたいのです。
ローマの信徒への手紙15:32――
こうして、(わたしが)神の御心によって喜びのうちにそちら(原文:あなたがたのところ)へ行き、(わたしが)あなたがたのもとで憩うことができるように。
このように、パウロは繰り返しローマ訪問の計画を打ち明けています。ローマへの道が開かれることを祈っています。「あなたがたのところでも何か実りを得たいと望んで、何回もそちらに行こうと企てながら、今日まで妨げられているのです」(ローマ1:13)というように、挫折・失敗があったことも隠していません。パウロは、「どうか、わたしのために、わたしと一緒に神に熱心に祈ってください」(ローマ15:30)と懇願しています。相手にも自分のために祈ってほしいというところに、彼の祈りの巨きさがあります。神は深い淵からの叫びを聞き届けてくださる(創世記19:21)との確信が、パウロにはありました。
それでは、神の「霊」が患難を突き破ったという旧約聖書の類例を読んでみましょう。
Ⅳ 見よ、わたしはアッシリアの王の中に霊を送る
列王記下19:5-7――
5 ヒゼキヤ王の家臣たちがイザヤのもとに来ると、6 イザヤは言った。「あなたたちの主君にこう言いなさい。『主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリアの王の従者たちがわたしを冒瀆する言葉を聞いても、恐れてはならない。7 見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする。彼はその地で剣にかけられて倒される。』」
パウロは、新任の総督「フェストゥス」と「陪審の人々」とによる協議の結果を待っています。「エルサレムから下って来たユダヤ人たち」が裁判の席のパウロを取り囲んでいます。この時、まさに光を放つのが、この御言葉です。
箴言29:26――
支配者の御機嫌をうかがう者は多い。
しかし、人を裁くのは主である。
「私は皇帝に上訴します」とのパウロの訴えが、どんでん返しを食うのかどうか、予断を許しません。
この箴言の言葉を胸に刻むかのように、パウロは待ちました。
すると、フェストゥスの口を通して、「皇帝に上訴したのだから、皇帝のもとに出頭するように」との「主の裁き」が下りました。
「聖霊」の風がカイサリアの町に吹き巡りました。地中海のはるか彼方、ローマへの視界は良好です!
W
〈説教の原稿〉
2026年 5月10日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節 第6主日
旧約聖書 申命記 24章1節~4節(P.318)
新約聖書 マルコによる福音書 10章1節~12節(P.80)
説教の構成――
序
Ⅰ ファリサイ派の人々はイエスを試そうとしたのである ……マルコ10:1-2
Ⅲ 神が結び合わせてくださったもの ……マルコ10:6-9
……マルコ10:10-123 + 申命記24:1-4
序
今主イエスは、ガリラヤの伝道拠点カファルナウムから(マルコ9:33)、ユダヤの都エルサレムを目指して旅を続けておられます(同上10:32,33)。いちばん大切なのは、途上で主イエス・キリストの語られた三度の受難予告(同上①8:31②9:30-32③10:32-34)に耳を傾けることです。
主イエスは、弟子たちの信仰と伝道の状況に心を配っておられます。問題は、この場に及んで、弟子たちが無理解と頑なさの闇に陥っていることです。彼らの「つまずき」によって(マルコ9:43,45,47)、他の人々をも「つまずかせ」かねません。
こうした時に限って、邪魔が入ります。どこからともなく、ファリサイ派の人々が主イエスに近づいて来ました(マルコ10:2)。そして、彼らは十字架と復活に関わる真理問題ではなく、キリスト教の倫理について疑問を投げかけます。このように、主イエスと十二弟子は、伝道と信仰訓練を妨害するファリサイ派や律法学者と対峙しなければなりませんでした(同上8:11、9:14、12:28)。
主イエスに疑問を呈すると言っても、質問する側に悪意や高慢さが潜んでいては、実りある議論は成り立ちません。しかし、主イエスは「結婚と離婚」という倫理上の難題にたじろぐことなく、義しい回答をあらわされました。主イエスは賢しらな人間よりももっと深く考えてくださり、もっと深い所から答えを示してくださいました。
主イエス・キリストは、男と女が神によって「結ばれた」(創世記2:24)という結婚の秘義を、対立や不和に打ち勝つ喜びと幸いという観点から捉えておられます。「神が二人を結び合わせた」(マタイ19:6)というその意味は、「軛を共に背負う」ということです(ガラテヤ6:2、マタイ11:29)。信仰を持った夫婦が軛につながれて患難を担うとき、彼らは、十字架によって苦難を担われた主イエス・キリストと一つとされます(Ⅱコリント1:5)。そのようにして、慰め主キリストが宿ってくださる二人の家には、苦難に打ち勝つ喜びと幸いが絶えることはありません。
仮に、二人が「軛を共に背負う」という結婚の道において挫折してしまったとしても、主イエスは、結婚生活を続けている夫婦に対してと同様に、離縁してしまったその二人に対して神の恵みと幸いを与えてくださいます。
Ⅰ ファリサイ派の人々はイエスを試そうとしたのである
マルコ福音書10:1-2――
1 イエスはそこを立ち去って、ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側に行かれた。群衆がまた集まって来たので、イエスは再びいつものように教えておられた。2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。
「結婚と離婚」というのは、本来「結婚から離婚へ」という時系列に沿って把握すべき問題でありましょう。しかし、「ファリサイ派の人々」には、結婚の秘義、神の祝福という原点に立ち帰らずに、安易に結論を導き出すという態度が垣間見られます。それでは、彼らが離婚に係わる旧約律法を盾に取ったとしても、神の御心からほど遠いことになります。
主イエスが「ユダヤ地方とヨルダン川の向こう側」という広範な地域を行き巡っておられる時に、主イエスを陥れようとする罠が仕掛けられました。十分な信仰訓練を受けていても、まだ無理解で不信仰な弟子たちが、その巻き添えになることが危惧されます。
「ファリサイ派の人々が近寄って」……主イエスが「(家に)来られた」(マタイ8:14、9:1)や「(人を)呼び寄せた」(同上10:1、15:32)ではなく、「人々が近寄り」というように、人間の行動が先立つ時には、何か悪い予感がします。ここは、その典型です(他にマタイ15:1、16:1)。
「ファリサイ派の人々」の悪意は、「イエスを試そうとした」ところに明白です。彼らは、先生に良い質問をする優等生を装っています。
「イエスを試す」、その一つのねらいは、数々の奇跡を為す主イエス・キリストの力の源を探ろうとするところにあります。しかし、神の大いなる救いの御業を疑っている相手を前に、主イエスが奇跡を現されるはずはありません。これはまさに、石をパンに変えるように要求した、悪魔の誘惑(マタイ4:3)と同列です。自分が相手を「試す」立場にあるという自己中心と高慢さが見え見えです。
私たちの世の中には実際、離婚・戦争・分裂などによる混乱があり、それらは緊急の課題になっています。そこでこそ、私たちが見抜くべきことは、聖書片手に、善意に満ちた顔で、私たちの間の混乱の「解決」に乗り出してくる悪魔の存在です。もしそれに私たちが気付かなければ、混乱に混乱が重なっていくばかりでしょう。
ここで主イエスは、悪魔の手先になっている「ファリサイ派の人々」との議論の流れを支配されています。群衆が注視している中(マルコ10:1)、敵対者たちは離婚にまつわる不毛な論議へと、主イエスを誘い込もうとしています。離縁はまさにケース・バイ・ケースで、デリケートな問題がからんできます。一般論で簡単に答えられない難しさが伴います。その困難さを熟知したうえで、「ファリサイ派の人々」は、主イエスを罠にかけ、一つの宗派の立場をとらせ、それによって他の宗派を遠ざけるようにする策略をもくろみました(E. シュヴァイツァー)。
しかし主イエスは、やみくもに「離縁することが律法に適っている」どうかの議論に入ってゆかれません。「ファリサイ派の人々」との問答を、「結婚から離婚へ」という順で展開されます(参照:マタイ19:3-12)。
なぜ、主イエスが「結婚」から話を始められるのか、は明らかです。つまり、主なる神の創造の御業の初めに、「結婚」が行われたからです(創世記2:18,21-25)。エデンの園からのアダムとエバの追放や彼らの長子カインの殺人に、結婚が先立っているというのは、神の真実であり、神の愛です。ヨハネ福音書(2:1-11)に拠れば、主イエスは最初のしるし〈神の奇跡〉をカナの婚礼において行われました。
初めに「幸いなるかな」(詩編1:1、マタイ5:3)を宣言される神に対し、悪魔はわたしたちを、結婚ではなく離婚、平和ではなく戦争、そして一致ではなく分裂の議論へと引きずり込もうとしています。
「ファリサイ派の人々」に対峙しておられる主イエスは、彼らに何を語りかければよいか、ご存じです。そこで、主イエスは彼らに反問されます。
Ⅱ あなたたちの心が頑固なので
マルコ福音書10:3-5――
3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」と言った。5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。」
主イエスは離婚そのものよりも、離婚の生じる原因に、「ファリサイ派の人々」を向き合わせられます。すなわち、「律法に適っている」として、妻に「離縁状を書いて離縁する」、夫の心根を明るみに出されます。
そもそも、「ファリサイ派の人々」はユダヤ社会の霊的指導者として、人々の「離縁」問題に親身にかかわっているのでしょうか。それとも、彼らは相談に乗ることなく、手数料だけ取って、お墨付きの「離縁状」を発行しているのでしょうか。
確かに、ファリサイ派はじめ律法学者は、「人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)というモーセ律法を解釈し、実例に適用する権威者でありました。主イエスの公生涯の当時、普通の人々は巻物または羊皮紙に書かれているモーセ律法を見たことも読んだこともなかったでありましょう。
しかし律法学者が、「離縁」しようかどうか、「離縁」すべきかどうか、迷っている人(男性)に寄り添っていることが重要でありました。「離縁」に絡みつく問題に介入するには、当然、妻の思いや言い分にも耳を傾けねばなりません。「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました」とのファリサイ派の人々の返答自体に、相談者よりも自分たちの立場を護ろうとする邪心が見られます。
「許す」という言葉は、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」(マルコ10:2)の原文「男が女を離縁するのは許されるか」にも使われていました。そこで主イエスは、「離縁」の裁可を……当事者そこのけに……我が物とするファリサイ派の人々の本心を暴き出されました。
「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ」……「心が頑固」とは、「石のように堅い心」を指しています。「離縁」の仲裁者ならば、離婚を思い巡らしている人の「石のように堅い心」を見つめ受け止めねばなりません。可能であれば……祈りつつ神の御心を尋ね……、夫または妻の「頑固な心」を和らげることです。「離縁状を書く」ことを急いではなりません。まして、「離縁」の仲裁者の「頑固な心」が疑われるならば!
安息日に、主イエスが手の萎えた人を癒やそうとされた時、周りの人々が冷ややかな態度をとっていたということが報告されています。
マルコ福音書3:5――
そこで、イエスは怒って人々を見回し、彼らのかたくなな心を悲しみながら、その人に、「手を伸ばしなさい」と言われた。
主イエスは、憐れむべき弱者に対し、心を閉ざしている人々の様子を見て、「怒られました」。その上、主イエスは「彼らのかたくなな心を悲しみ」、神の御業を嘲るような無関心さのために苦しまれました。このままでは、彼らの一部は悪に走り、自滅へと至りかねません(エレミヤ書8:3、Ⅲヨハネ3:11)。
そのような伝道の経験の中で、主イエスは、神の愛に対し鎧を身につけ、自己中心に生きる人々への伝道に深い思いを寄せられたに違いありません。「ファリサイ派の人々」との神の知恵に溢れた問答もその一環でありましょう。主イエスは人間の「かたくなな心」という重荷を背負って、エルサレムに上って行かれます。
Ⅲ 神が結び合わせてくださったもの
マルコ福音書10:6-9 主イエスの言葉――
6 「しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8 二人は一体となる。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」
ここで、「天地創造の初め」の男と女の「結婚から」議論を始めるという主イエスの意図が明確にされました。その点では、「離縁状」の発行・認可云々のモーセ律法から思考を開始する「ファリサイ派の人々」はこの世離れをしています。それは机上の空論です。「独りでいる」パウロの方がよほど、夫婦の結婚生活に寄り添っています(Ⅰコリント7:8-11)。
主イエスは引用された原典・創世記2:24には、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」と記されています。「結ばれる」とは、「(強力に)くっつく。一緒にとどまる」という意味で、夫婦が共に重荷を担って歩んで行くことを表しています。
新婚生活を始めた男と女は元来、「主なる神は(人・アダムに)言われた。『人が独りでいるのは良くない。彼に合う助ける者を造ろう』」(創世記2:18)との神の御心によって、結ばれました。
「女(イッシャー)」は「男(イシュ)」に「合う」ように造られたとの真意を探ってみましょう。「彼に合う」というのは、精確には、「彼に向き合っているような」(ヘブライ語 ケネグドー)という意味です。新共同訳では、「向き合う」から「向き」を取り外して「合う」と訳されています。「彼に合う」人・女性という観点から、「合う」の意味は「ふさわしい」または「調和している」と解することができるでしょう。
確かに、主なる神はアダムに「合う / ふさわしい」女性エバを「結び合わせて」くださいました(マルコ10:9)。しかし、「彼に向き合っているような」という語の深い意味を看過するならば、聖書が告げる結婚の秘義を捉えそこねるでしょう。
「彼に向き合っているような」という日本語「向き合う」から推測されるように、それは「合う」と同時に「対峙する / 対立する」という意味を含んでいます。夫婦とは、神の目から見て「ふさわしい」ものであるが、いつも向き合っているがゆえに、時に「対立する」ことがあるということです。二人が真剣に向き合っていればこそ、時に対立し、アゲインストの風、向かい風が起こるのです。
実際、二人の間の性格や考え方、あるいは、子育てや社会問題についてなど、いつも二人が調和しているとはかぎりません。神は、そのことを見通したうえで、アダムにエバをめあわせられました。順風の時のみならず逆風の時こそ、それを乗り越えていくよう「助け合う者」として、二人は生活を始めたのです。
視野を広げてみるならば、原初の夫婦関係において神が提示された「人に向き合っているような助け手」という姿は、神が祝福されるすべての人間関係の根本に在るものではないでしょうか。主なる神がエレミヤに、「わたしは、あなたの若いときの真心 花嫁のときの愛 種蒔かれぬ地、荒れ野での従順を思い起こす」(エレミヤ書2:2)と言われたように、幾度も、結婚への神の祝福を振り返ることが大切です。
「離縁することが律法に適っている」どうか即決し、すぐにでも「離縁状」を発行しようとする悪魔の誘惑に惹かれてはなりません。よもや、離縁せざるを得ないような場合にも、神の祝福が途切れることはないでしょう。神にかたどって造られた人間(創世記1:26-27)は、何よりも神に祈り、神と対話して生きてゆくものなのです。
Ⅳ 夫を離縁して他の男を夫にする者
マルコ福音書10:10-12――
10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯すことになる。12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
1 人が妻をめとり、その夫となってから、妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなったときは、離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる。2 その女が家を出て行き、別の人の妻となり、3 次の夫も彼女を嫌って離縁状を書き、それを手に渡して家を去らせるか、あるいは彼女をめとって妻とした次の夫が死んだならば、4 彼女は汚されているのだから、彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にすることはできない。これは主の御前にいとうべきことである。あなたの神、主が嗣業として与えられる土地を罪で汚してはならない。
「結婚から離婚へ」という主イエスの論理展開の中での「離婚」と、「ファリサイ派の人々」が論拠とした申命記の「再婚について」の律法を並べてみました。
大きな違いの一つは、「妻を離縁して他の女を妻にする」と「彼女を去らせた最初の夫は、彼女を再び妻にする」という点で、主イエスの場合には、「他の女」との再婚、申命記の場合には「(ひと度離縁した)元の妻」との再婚が問題となっていることです。
いわゆる「元のさやに収まる」形での前妻との再婚が、旧約律法では禁じられているということです。ユダヤ人の共同体の中で、その類いの再婚には、一種の禁忌が存在していたのでありましょう。というのは、「妻に何か恥ずべきことを見いだし、気に入らなくなった……彼女は汚されている……これは主の御前にいとうべきことである」というように、「いとうべきこと」の概念が再婚禁止の根拠に見出されるからです。
「いとうべきこと」(ヘブライ語 トエヴァー)との用語は、「忌み嫌うこと(物・行為)」というのが原意です(創世記43:32、エレミヤ書6:15)。世界中のほとんどの民族・文化には、死者または穢れ、性生活、食事などに関して禁忌が定められています。
こうして見ると、主イエスの「離縁」に対する教えの際立った特徴があぶり出されます。「家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた」という機会を捕らえて、主イエスは弟子たちに、独自の教えを語られました。
一つは、神の命令として単刀直入に「(夫も妻も)離縁してならない。姦通の罪を犯すことになる」と告知しています。そのようにして、ユダヤ社会に浸透していた、「いとうべきこと(忌み嫌うこと)」にまつわるしがらみから人々を解放しました。
もちろん、「離縁してはならない」というのは厳しい教えでありましょう。ただし、それは絶対に「離縁してはならない」ということではありません。主イエスの言わんとされているのは、「結婚から」始められた神の恵みと喜びを棄て去るようなことをするな、神の祝福を信じて、対立や不和に立ち向かいなさい、ということです。だからこそ、話し合う猶予が得られるよう、「夫に対して」のみならず、「妻に対して」も、「離縁してはならない」と諭されているのです。その点で、男女同等です。そこに、主イエスの教えの新しさがあります。
(旧約律法と主イエスの教えとの対比から分かる)もう一つは、「いとうべきこと」全般ではなく、「姦通の罪を犯すこと」に焦点を絞られたことです。それでは、「姦通する」とは、一体どういうことを指しているのでしょうか?
マタイ福音書5:27-28 主イエスの言葉 山上の説教――
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。」
ここには、「姦淫してはならない」(十戒の第七戒 出エジプト記20:14)という命令の核心を突くメッセージがあります。主イエスは、「心の中」のこと……具体的には人間の性欲……を見つめておられます。相手(夫または妻)のことが「気に入らなくなった」かどうかではなく、自分を内省して、徹底的に「恥ずべきこと、汚されていること、主の御前にいとうべきこと」の片鱗までも洗い出しなさいということです。
主イエスは、「姦通の現場で捕らえられた女」を前にして、「(離縁状発行の先頭に立つ)律法学者たちやファリサイ派の人々」に対して、「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい」と言われました(ヨハネ8:1-11)。そのようにして、主イエスは神殿の境内で、人々の視線をご自身に集められました(同上8:6)。
それは、歴史を持つ礼拝の場において、人々が「罪」からの解放者を見出すためでありました。主イエスは、他人の「罪」を裁くのではなく、自分が「罪を犯したこと」を悔い改めるように、と導かれました。
主イエスは、「ファリサイ派の人々」との問答を、広い視野に立って(すなわち、神の御心に添って)、「結婚から離婚へ」と展開されました。最後には、社会倫理をかき乱し、時に離縁に至ることもある「心の中の姦淫の罪」を指摘されました。
主イエス・キリストは人間が罪の泥沼から引き上げられるよう執り成してくださいます。「これからは、もう罪を犯してはならない」(ヨハネ8:11)と諭しつつ、わたしたちの「罪」を担ってくださいます。
主イエスはこれから、エルサレムに上って、十字架につけられ、三日後によみがえられます。そうして主イエスは、悔い改める者、「主の御前にいとうべきこと」を犯した罪を告白する者に、「罪」の赦しを与えられます。
結
ローマの信徒への手紙3:21-22――
21 ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました。22 すなわち、イエス・キリストを信じることにより、信じる者すべてに与えられる神の義です。そこには何の差別もありません。
離婚した人々が先々までも神の祝福にあずかり続けるために、離縁の裁定が「神の義」によって行われることが祈り求められます。「律法」の一部を適用して、離婚手続きを進めるならば、おそらく何かのしこりが残るのではないでしょうか。
「律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて」、神の大いなる救いの計画は成し遂げられました。神の恵み豊かさの中で、「イエス・キリストを信じて」、結婚について、また、離婚にについて……つまり、生活の一コマ一コマを……思い巡らすことが大切です。主なる神は、あなたの人生全体を受け容れ、祝福しておられます。
W
〈説教の原稿〉
2026年 5月3日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 民数記 25章1節~9節(P.257)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 10章6節~13節(P.312)
説教の構成――
序
……民数記25:1-9
Ⅱ わたしたちを戒める前例として起こった
Ⅲ 滅ぼす者に滅ぼされた
……Ⅰコリント10:7-10
Ⅳ わたしたちに警告するため
……Ⅰコリント10:11-12
……Ⅰコリント10:13
序
パウロはキリスト教倫理について、過去〈イスラエルの民〉と現在〈教会の群れ〉とを対比して物語っています。過去において、〈イスラエルの民〉が貪欲、淫行、そして不平不満などの罪過に巻き込まれた結果、どうなったのかに目配りしています。
それらの出来事の展開されているイスラエルの歴史は、現在の〈教会の群れ〉にとって、彼らを「戒める前例」となっています(Ⅰコリント10:6)。コリント教会は、ユダヤ人よりも、ギリシア人やローマ人が多数派を占めていたと見られますが、パウロは彼らに、「わたしたちの父祖」(同上10:1)の歴史として受け止めてほしいと思っています。
この前段(Ⅰコリント10:1-5)でパウロは、いわばイスラエルの歴史の〈光〉の部分を映し出しました。紅海の水での「洗礼」(同上10:2)や天からのマナと岩からの水による養い(聖餐を予示)が回想されました。それによって、コリント教会の信徒に、現状に対する忍耐と将来への希望が呼び覚まされました。
パウロは良い「前例」から悪い「前例」へと展開して、イスラエルの歴史の〈影〉の部分を見つめています。要領を得た、総括的な振り返りの中から、聖書中、有数の座右の銘と呼べる御言葉(Ⅰコリント10:13)が紡ぎ出されました。
「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」というように、40年の旅路は、脱落者の続出する険しいものでありました。しかし、「自分たちに離れずについて来た霊的な岩」と証しされている主イエス・キリストが、「わたしたちの父祖」に同伴されていました。
主イエス・キリストは、わたしたちを罪と病と死の縄目から解放するために、十字架と復活の御業を成し遂げてくださいました。そして、父・子・聖霊なる神の恩寵による洗礼と聖餐というサクラメント(秘蹟)が教会において執り行われるようになりました。イスラエルの歴史の〈光〉と〈影〉を、自らの経験として見つめ続ける者こそが、「主の恵み深さを味わい」知る(詩編34:9)ことができるのではないでしょうか。
Ⅰ この災害で死んだ者は二万四千人であった
1 イスラエルがシティムに滞在していたとき、民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた。2 娘たちは自分たちの神々に犠牲をささげるときに民を招き、民はその食事に加わって娘たちの神々を拝んだ。3 イスラエルはこうして、ペオルのバアルを慕ったので、主はイスラエルに対して憤られた。4 主はモーセに言われた。「民の長たちをことごとく捕らえ、主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさらしなさい。そうすれば、主の憤りはイスラエルから去るであろう。」 5 モーセはイスラエルの裁判人たちに言った。「おのおの、自分の配下で、ペオルのバアルを慕った者を殺しなさい。」
6 そのとき、モーセとイスラエルの人々の共同体全体が臨在の幕屋の入り口で嘆いているその目の前に、一人のイスラエル人がミディアン人の女を連れて同胞のもとに入って来た。7 祭司アロンの孫で、エルアザルの子であるピネハスはそれを見ると、共同体の中から立ち上がって、槍を手に取り、8 そのイスラエル人の後を追って奥の部屋まで行き、この二人、すなわちイスラエル人とその女を共に突き刺した。槍は女の腹に達した。それによって、イスラエルを襲った災害は治まったが、9 この災害で死んだ者は二万四千人であった。
荒れ野放浪中のことです。「民はモアブの娘たちに従って背信の行為をし始めた」というのは、Ⅰコリント10:8でパウロが勧告の典拠とした事件です。「背信の行為をする」(新共同訳)は「淫らなことをする」(聖書協会共同訳 / 新改訳2017)と言い換えられます。
まず、民数記の記述に従って、事件を要約してみましょう。
事件そのものは、明々白々で、「イスラエルの民(男性)とモアブの娘たち」とが「淫らなことをした」、または、「一人のイスラエル人とミディアン人の女」とが淫行を行っていたということです(出エジプト記34:12-16、申命記7:3-4)。
これに対し、主なる神はモーセに、「主の御前で彼らを処刑し、白日の下にさらしなさい」と命じられました。「処刑する」との用語は具体的に、絞首刑などの罰を下すことを意味しています。「イスラエル人の男とミディアン人の女」の事例に関して、「エルアザルの子であるピネハスは、この二人を共に突き刺した。槍は女の腹に達した」というように、苛烈な処罰が加えられました(申命記13:7-16)。二人の名は、「イスラエル人ジムリ」(民数記25:14)と「ミディアン人コズビ」(同上25:15)であると特定されています。
イスラエルの共同体全体に蔓延しそうになった「淫らな」行いは、「この災害(=災厄あるいは疫病)で死んだ者は二万四千人であった」という悲惨な結末に至りました。Ⅰコリント10:8には若干の誤差がありますが、「一日で二万三千人倒れて死にました」と、呪うべき事件が記憶にとどめられています。
「主はイスラエルに対して憤られた……そのとき、モーセとイスラエルの人々の共同体全体が臨在の幕屋の入り口で嘆いていた」という反応を引き起こした「淫らな」行いについて、パウロは詳しく論じています(Ⅰコリント5:1,9-10、6:9,18)。
コリントの信徒への手紙 一 6:15-16――
15 あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体(=一つの肉)となる」(創世記2:24)と言われています。
パウロは、「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」という関係の根深さを、「二人は一体となる」との結婚による絆に類比しています。もちろん、前者は一刻も早く解消すべき関係であり、後者は神の永久の祝福のもとにある関係である、という違いがあります。しかし、「娼婦と交わる者」と「娼婦」の交わりは「体」を「一つ」にするという点は、「男」と「女」との結婚も同様です。
そのような論理飛躍のやや大きい内容において、パウロの強調点は、「淫らな」行いを為す「二人は一体となる」、すなわち、「二人は一つの肉となる」〔直訳〕という点に置かれています。というのは、主なる神が彼と彼女を引き合わせてくださった(創世記2:22)聖なる結婚の喜びが、「自分の体の中に向かって犯す罪」(Ⅰコリント6:18)によって打ち壊されてしまうからです。「主が憤り、民が嘆いた」のは、そのためです。
Ⅱ わたしたちを戒める前例として起こった
コリントの信徒への手紙 一 10:6――
これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は……」(Ⅰコリント10:1)という熱意をもって、「わたしたちを戒める前例」を物語ります。「前例」という用語は、この後にも、「これらのことは前例として彼らに起こったのです」(同上10:11)と繰り返されています。
「前例」という言葉は元々、「打って造った像」(ギリシア語 テュポス)から派生し、「型」や「模範」の意味で使われています(英語の ‘ Type ’ の語源)。カルヴァンは「前例」を「見せしめ」と意訳しています。キリスト者にとって重要なのは、主なる神が人生の荒れ野を行く人々の労苦を思って、さまざまな「前例」を……心に彫って刻みつけよ と言わんばかりに……差し出しておられるということです。
イスラエルの歴史に〈影〉を落としている、第一のものとして、「悪をむさぼること」、つまり、貪欲の罪が挙げられています。これは、「淫らな」行いと同様に、「自分の体の中に向かって犯す罪」(Ⅰコリント6:18)であると指摘できます。
というのもそれは、「もっと欲しい」という心に染みついている罪であり、それは結局のところ、神以外の神を神として崇める不信仰、つまり偶像崇拝から生じているからです。そして、「もっと欲しい」という罪は、「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:17)との命令(十戒の第十戒)に背いているが故に、隣人関係を損なってしまいます。
そして、「そのためその場所は、キブロト・ハタアワ(貪欲の墓)と呼ばれている。貪欲な人々をそこに葬ったからである」(民数記11:4)というように、「貪欲」の罪は荒れ野の一里塚として、後の世代にまで記念されるものとなりました。というのも、「誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない」(同上11:4-5)と泣き言をいうほどに、人間の欲望が燃え上がったからです。
「悪をむさぼること」は、悪い「前例」の第①に掲げられ、以下、②偶像崇拝(Ⅰコリント10:7)、 ③みだらな行為(同上10:8)、④ 主を試みること(同上10:9)、そして、⑤不平あるいは不満(10:10同上)と続いています。パウロは「むさぼり」があらゆる罪過の根元にあると見抜いていました。
Ⅲ 滅ぼす者に滅ぼされた
コリントの信徒への手紙 一 10:7-10――
7 彼らの中のある者がしたように、偶像を礼拝してはいけない。「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」と書いてあります。8 彼らの中のある者がしたように、みだらなことをしないようにしよう。みだらなことをした者は、一日で二万三千人倒れて死にました。9 また、彼らの中のある者がしたように、キリストを試みないようにしよう。試みた者は、蛇にかまれて滅びました。10 彼らの中には不平を言う者がいたが、あなたがたはそのように不平を言ってはいけない。不平を言った者は、滅ぼす者に滅ぼされました。
パウロは出エジプト記と民数記を典拠としながら、荒れ野放浪中のイスラエルの行状を振り返っています。
ここでは、①「悪をむさぼるな」の罪悪への禁止命令に引き続いて……
と列挙して、コリント教会にキリスト教倫理を打ち建てようとしています。それは、「わたしたちの父祖」が犯してしまった罪悪の「前例」に照らし合わせて、コリント教会の兄弟姉妹は自らを省みるということです。現代のわたしたちならば、出エジプト記や民数記の当該箇所を読み直すとよいでしょう。
そして、結びの言葉(Ⅰコリント10:12-13)を踏まえるならば、“ 霊 ” に導かれて清く正しい生活を送っている人にとっても、「わたしたちを戒める前例」を心に留めねばなりません。というのも、突如「試練があなたがたを襲った」(同上10:13)ときに、「淫らな」行いを為し、不平をかこつように誘導されることがあるからです。
聖書で言う「試練」は元来、「金」や「銀」が「るつぼ」や「炉」の中で「火で」精錬されるように、人が練り清められることを意味しています(箴言17:3、ヤコブ1:3)。カスと貴金属が分離されるように、人から罪の残滓が取り除かれます。「あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明される」(Ⅰペトロ1:7)のですから、キリスト者にとっては、「今しばらくの間のいろいろな試練」(同上1:6)は貴重です。
それでは、四つの戒めについて、重要な点を整理してみましょう。
②「偶像を礼拝してはいけない」
Ⅱ.ですでに述べたとおり、偶像崇拝は、神以外の神を神として崇める不信仰に由来するものです。自分を信頼して自分の生活を確立するのは、一見、良いことのように思いますが、そこで、神の存在を軽んじ始め、結局、神との関係が断たれることが問題です。
パウロが「民は座って飲み食いし、立って踊り狂った」(出エジプト記32:6∥Ⅰコリント10:7)との引用によって証明しているように、偶像崇拝は乱痴気騒ぎを呼び起こして、罪悪の温床と化します。
③「みだらなことをしないようにしよう」
Ⅰ.で、民数記25:1-9の「イスラエルの民(男性)とモアブの娘たち」が「淫らなことをした」という事件を読みました。これを受けて、パウロは「この世のみだらな者」(Ⅰコリント5:9,11)と交際しないよう注意喚起していました。
コリントでは、性的な問題について、教会の「聖なる者たち」に助言を求めようとはしませんでした(Ⅰコリント6:2)。かえって、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」(同上6:4)、問題を処理しようとしていました。それでは、「淫らな」行いをした人を義しく裁くことはできません。
その結果、コリント教会の一部の人々は、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との十戒のみならず、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)との主イエスの教えをもないがしろにしていました。「淫らな」行い(Ⅰコリント5:1)は、自分の体を汚してしまうのみならず(同上6:18)、「聖なる者とされた」(同上6:11)人の心を侵してしまいます。それでは、自分が模範となって、若い世代の人々に教え諭すことなどできません。
この世の道徳はルーズだ(たるんでいる)とかこつ前に、例えば、「姦淫してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:14,17)との戒めによって、神の御前に立つことです。この世の腐敗を嘆く前に、「みだらな行いを避けなさい」(Ⅰコリント6:18、10:8)との言葉を自分の心に刻まねばなりません。
主イエスは伝道に出立する前、荒れ野の誘惑を経験されました(マタイ4:1-11)。そこで悪魔は三度、主イエスを「試みる」(同上4:7)という策略をめぐらしました。悪魔は、石がパンになるよう命じよ、神殿の屋根から飛び降りたらどうだ、そして、ひれ伏してわたしを拝むなら、と言葉巧みに、主イエスを誘惑しました。
しかし、主イエスは神の言葉をもって悪魔を退けられました。つまり、主イエスは悪魔の「試み」を拒絶したうえで、ご自身の使命は主なる神の救いを成し遂げることだと宣言されました(ルカ6:9、ヨハネ3:17)。そうして、主イエスは、人々が神の豊かな恵みを信じ、神の支配に身をゆだねるように導かれました。
パウロは主の教えに従って、「神またはキリストを試みない」ように(申命記6:16、イザヤ書7:12)、「試みた者は、蛇にかまれて滅んだ」との警告を発したのです。
主イエスがガリラヤ湖畔で伝道されていた時のことです。十二弟子は、一方では律法学者たちを相手に(マルコ9:14,16)、他方では仲間内で、議論に興じていました(同上8:16,17)。また、ファリサイ派の人々は、「イエスを試そうとして、天からのしるしを求め、議論をしかけた」(同上8:11)こともありました。
ひと言でいえば、神の言葉によって福音宣教されている主イエス・キリストを取り巻いて、「無駄な議論が止まない」情況でありました。片や、弟子たちは主イエスの十字架と復活の予告に心を閉ざし頑なになっていました(マルコ9:32)。片や、律法学者やファリサイ派の人々は、主イエスの言葉尻を捕らえて殺害する魂胆でありました(同上3:6)。
「無駄な議論が止まない」というのは、いずれにしても、自分たちの土俵から降りられない、あるいは、確立された世界観や思考法にこだわる、という自己中心に原因がありました。その点では、自分の思い通りにいかないので、「不平を言う」のと全く変わりありません。
「不平を言う」という罪過の怖さは、日常の何気ない「つぶやき」(出エジプト記16:7,8、ヨハネ6:41)から生じることにあります。自分と他者との「つぶやき」が反響して、過激な不平不満に高じてゆきます。
荒れ野で神とモーセに向かって「不平を言った」民の「大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」(Ⅰコリント10:5)。彼らは洗礼と聖餐の予型にあずかった(同上10:2-4)にもかかわらず、神の怒りを被ることになりました。神の遣わされた「滅ぼす者」が彼らを過ぎ越すことなく、災いを下したのであります(出エジプト記12:23,29、イザヤ書37:36、ヘブライ11:28)。
Ⅳ わたしたちに警告するため
コリントの信徒への手紙 一 10:11-12――
11 これらのことは前例として彼らに起こったのです。それが書き伝えられているのは、時の終わりに直面しているわたしたちに警告するためなのです。12 だから、立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい。
パウロは再び、「これらのことは前例として彼らに起こったのです」と述べました。「わたしたちの父祖」が荒れ野放浪の患難と試練によって得た教訓を、コリントの人々が自分たちのものとするように、ということです。
ここでパウロは巧みにも、コリント教会の現在地を、「わたしたちの父祖」の出エジプト・荒れ野放浪の時代と「時の終わり」との間に位置づけています。言い換えれば、神の救済史の観点から、コリント教会はじめとする初代教会は、「すでに」と「いまだ」の間の中間時代に置かれています。
主イエス・キリストの御業に照らせば、十字架と復活を成し遂げられた後、再びわたしたちに出会いに来られる、それまでの間の時ということになります。そのため、信仰者には、目覚めて、時のしるしを待ち望み(マタイ16:1-4)、緊張感をもって生活する(ローマ8:19,23)ことが求められます。
パウロはとりわけ「立っていると思う者」に「警告」しています。その人は自分が「立っていると思っている」だけで、実際には立っていません。高慢になって、自分を買いかぶってはなりません。
というのは、「自分が自立しているのではなく、神によってはじめて立つことができるということを知っている」(竹森満佐一)ことが大切だからです。
ローマの信徒への手紙14:4――
(あなたが)他人の召し使いを裁くとは、いったいあなたは何者ですか。召し使いが立つのも倒れるのも、その主人によるのです。しかし、召し使いは立ちます(原文:未来形・受動態 立たされるであろう)。主は、その人を立たせることがおできになるからです。
注目したいのは、「しかし、召し使いは立たされるであろう」との文言です。つまり、信仰者が「堅く立つ」のは、神の約束であるということです。そのためには、「自分を捨てて」(マタイ16:24)、「主人」なるイエス・キリストへの信仰を持続してゆかねばなりません。自分の罪や誘惑によって、つまずき倒れそうになったとき、起き上がらせてくださる神の力と愛に依り頼みましょう。
信仰生活は日々、「立つ」か、それとも、「倒れる」か、の戦いの連続です。この度のテキストにおいてパウロは、イスラエルの民の歴史を鑑みて、「悪をむさぼるな」から始まる、五つの教訓を導き出しました。パウロはそれらの警告の厳しさを知り尽くしています。コリントの信徒たちが、「すでに」と「いまだ」に挟まれた中間時代を「走り抜き、賞を得る」(Ⅰコリント9:24)ようにと願っています。期せずしてパウロの口から、温かい励ましの言葉が溢れ出しました。
Ⅴ 逃れる道をも備えていてくださいます
コリントの信徒への手紙 一 10:13――
あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます。
慰め深いメッセージの中心に、「神は真実な方です」との文言が置かれています。この神がわたしたちに「真実なる」信仰を授けてくださいます。
主なる神は、天地を創造され、イスラエルの歴史を導き、時満ちた時に、御子、イエス・キリストをこの世に遣わされました。この「真実であられる創造主」は、「神の御心によって苦しみを受ける人」の患難や試練を見守っておられます(Ⅰペトロ4:19)。人が神に「自分の魂をゆだねられる」ように、イエス・キリストによって、罪と死からの解放を成し遂げてくださいました。
ですから、自分は神によって救われているとの確信をもって、この節のメッセージを聞き取りましょう。二つに分けて説き明かします。
①「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです」
「あなたがたを襲った試練」というのは、往々にして自分だけが蒙っているのではないか、と疑って、気持ちが挫けてしまいます。しかし、「試練」は「世の常」(口語訳参照)なるもので、「人間として耐える」限界を超えるものではありません。
むしろ、「試練」は、るつぼで金や銀を精錬するように、人を練り清めます。これによって、罪過の誘惑から解放され、信仰が目覚めさせられます。自分の傍らに立っておられる「真実な方」の存在が、ますます大きくなってきます。わたしたちはこの信仰の真髄を、「耐えている」過程で忘れてはなりません。決して、自助努力や忍耐強さに寄りすがることがありませんように!
②「試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」
パウロはこの結びにおいても、「これらのことは前例として彼ら(荒れ野を放浪する民)に起こった」というイスラエルの歴史の視点を外すことなく物語っています。
というのも、パウロが荒れ野放浪40年の出発点となったエジプト脱出に言及しているからです。言い換えれば、もろもろの良い「前例」と悪い「前例」……五つの神の奇跡と五つの人の堕落(Ⅰコリント10:1-4,6-10)……の中で、最も大いなる「前例」は出エジプトであるということです。
パウロの言う「逃れる道」(ギリシア語 エクバシス)は「外へ+歩く」が原意で、英語の ‘ exodus ’(エクソダス)はその派生語です。
「あなたがたを襲った試練」に苦しみ慌てているとき、突如、海の水が割れて(出エジプト記14:21、詩編74:13)、「逃れる道」が現れます。「(神は)逃れる道をも備えていてくださいます」の直訳は、「(神)は逃れる道をつくるであろう(未来形)」で、神の約束を指し示しています。
当然のことながら、「逃れる道」は、わたしたち人間が立案・設計するものではありません。むしろ、人間の知恵と努力を使い尽くした果てに、「試練」のただ中に「逃れる道」が現れます。従って、それは予測不能であり、人間の想像を超えたものなのです。
主なる神は、「あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず」に、神の「真実」によって「逃れる道」を切り開いてくださいます。主イエス・キリストの十字架と復活を信じ、日々、神の恵み豊かさに感謝する人は幸いです。四方から苦しめられても、ふわしい時に、その人の最寄りに、「逃れる道」へ表示灯がともることことでしょう。
W
〈説教の原稿〉
2026年 4月26日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節 第4主日
詩編112編 1節~10節(P.953)
新約聖書 ルカによる福音書 6章35節(P.113)
説 教「主に従う人」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 主を畏れることは知恵の初め
……詩編111:4∥112:5,9
Ⅴ 人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい
……ルカ6:35
結
序
キリスト者は、二つの詩編の流れに沿って、義なる神の憐れみ深さから義しい人の振る舞いへと至るという神の祝福を得ています。主イエスご自身がそのことを明言されています……「いと高き方」と呼ばれる主なる神との隔たりを超えて、キリスト者は「人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」(ルカ6:35)というように!
Ⅰ 主は驚くべき御業を記念するよう定められた
詩編111:1-3――
1 ハレルヤ。
3 主の成し遂げられることは栄え輝き
恵みの御業は永遠に続く。
賛歌により畏れをもって、義なる神の憐れみ深さがうたわれています。その歴史において、頑なで反逆を繰り返す民を、どこまでも守り、導き、支え給う、神の御業が現されました。そこには、イスラエルの民がマナを食べ(出エジプト記16:15)、乳と蜜の流れる地に入って、平安を得るまで支え養うという神の御心がありました。
その厳しい荒れ野の旅を経て、貪欲に染まり、不平を述べ立てる民(出エジプト記16:2,12)が、神への畏れを抱き、感謝をもって主を讃美する民に変えられました。神と人との間の、“ 霊 ” 的な交流はまさしく相互連関によって基礎づけられ強められていきました。
片や「主の御業は大きく」、片や「それを愛する人は皆、それを尋ね求める」というように、主の御業がますます大きくなる、その訳が証しされています。
Ⅱ 主を畏れることは知恵の初め
詩人は、「主を畏れること」を説く前に、繰り返し「主の御業は大きい」と告げました。イスラエルの民にとって、「主の御業」を見て、知って、そして信じることが何より大切なことでした。
というのは、人間には欲望に駆られて、偶像を造り、自己中心の世界を築こうとする性向があるからです。偶像が自分たちの願いを、迅速かつ的確にかなえてくれるような気がするからです。
それ故に、詩人は「御名は畏れ敬うべき聖なる御名」という章句を掲げています。この「御名」の啓示は、モーセの召命にさかのぼります。主なる神が、遊牧という日常生活から聖なる時空間へとモーセをそれさせました。そして、神はモーセを神の山ホレブ(=シナイ山)へ招いて、燃え尽きない柴を見せました(出エジプト記3:1-4)。そうして、神とモーセとの “ 霊 ” 的な会話が始まりました。
出エジプト記3:14――
神はモーセに、「わたしはある。わたしはあるという者だ」と言われ、また、「イスラエルの人々にこう言うがよい。『わたしはある』という方がわたしをあなたたちに遣わされたのだと。」
自分は「あってある者」だとの神の自己啓示がなされました。「御名」を知らされたモーセは、「主を畏れ」、困難の待ち受けているエジプトに帰って行きました。モーセの召命と御名の啓示もまた、イスラエルの民が、「主の御業の大きい」ことを知り、彼らが「主を畏れる」ようになったという、歴史上の重大事でありました。
契約をとこしえに御心に留め
6 御業の力を御自分の民に示し
詩編112:2-3――
祝福されたまっすぐな人々の世代となる。
3 彼の家には多くの富があり
彼の善い業は永遠に堪える。
主なる神は、「もっと欲しい」という民の貪欲(出エジプト記16:19-20、20:17)を戒めたうえで、日々の「糧」を与えてくださいます。それは、「マナ」(出エジプト記16:31)を起源とする「命のパン」(ヨハネ6:35,48)であり、神の民が御国に入れられるまで、主によって備えられているものです。
そして、その潤沢さの面で、イスラエルの民が神より「諸国の嗣業」を賜ったというのも、驚くべきことです。荒れ野を放浪していた民に、カナンの土地が分かち与えられました。「諸国」、すなわち、カナンの先住民や遊牧民と「平和」な関係を結ぶ(ゼカリヤ書9:10)ことが大きな課題です。「この地」・「嗣業」が永遠の昔からの選民イスラエルの独占物ではないと知ることが、彼らに謙虚さと気前の良さをもたらします。
何よりも潤沢なのは、神の恵みが信仰者を取り囲んでいることです。物質的に貧困な時にも、天からの「慈しみとまこと」によって、信仰者の人生は守られています。これによって、「主を畏れ、主を賛美する」という信仰の根幹が揺らぐことがありません。
それでは、「その家には富があり潤沢である」ことを源泉として、どのように、気前よくその「富」が分かち与えられるのか、を見てみましょう。
Ⅳ 貧しい人々にふるまい与える
詩編112:5,9――
裁きのとき、彼の言葉は支えられる。
「主は驚くべき御業を記念するよう定められた」とは、礼拝ごとに、主の「驚くべき御業」を思い起こせ……まさに聖餐のたびに「主の死を告げ知らせよ」(Ⅰコリント11:26)と言うごとくに……ということです。その記憶がうわべのものとならないように、「主は恵み深く憐れみに富んでいる」ことを、自分の信仰生活に反映させよ、ということです。
実は、「主は恵み深く憐れみに富んでいる」ことも、イスラエルの民の歴史上において啓示されました。モーセが神の山に登って不在だった時に、民は金の子牛を造って拝みました。そのため、神は監督者アロンと民に対し憤りと裁きを下されました(出エジプト記32:33-35)。
モーセが主なる神をなだめ、民のために執り成そうとした時、「主、主、憐れみ深く恵みに富む神、忍耐強く、慈しみとまことに満ち、幾千代にも及ぶ慈しみを守り、罪と背きと過ちを赦す」と、主はモーセの前を通り過ぎて宣言されました(出エジプト記34:6-7)。
この苦汁に満ちた出来事こそが、「憐れみ深く、貸し与える人は良い人」として行動し始める歴史上の出発点なのです。このように、信仰者の歩むべき生活の指針が開示されています。「良い人」は神の祝福のもとにあります。
これはまさに神の気前の良さ(マタイ20:15)に依拠する信仰者の大判振る舞いだと分かります。物惜しみしない愛の業は、「彼の角は高く上げられて、栄光に輝く」というように、いつまでも記念されます。なぜなら、その愛の業をご覧になっている主イエスが、「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」(マルコ9:41)と言われているからです。
主イエスは、「惜しみなく・まき散らす」側とそれを「受け取る・貸し与えられる」側(詩編112:5)の双方を「正しい人々の集い、会衆の中」に招き入れられます。そうして、「心を尽くして主に感謝をささげる」人々の輪が広がっていきます。
何もたじろぐことはありません。そうなるように、主イエス・キリストが導いてくださいます。使徒パウロが、「生きているのは、もはやわたしではありません。キリストがわたしの内に生きておられるのです」(ガラテヤ2:20)と証ししているではありませんか。
Ⅴ 人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい
ルカ福音書6:35――
しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。
旧新約聖書を信仰の基礎とするわたしたちは、ユダ王国の崩壊とバンロン捕囚後の苦難の中で示された貴重な教えに耳を傾けることができます。たとえ返礼が期待できなくても、「ふるまい与える」、そうした小さな愛の業が積み重ねられて、キリスト教倫理が確立されました。
わたしたちは、賛歌により畏れをもって主イエス・キリストを信じ、礼拝しています。それは、「自分の体を神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとして献げなさい」(ローマ12:1)とパウロが勧めたように、神の喜びに直結しています。神と人とが和合した喜びこそが、「敵を愛し、人に善いことをし、何も当てにしないで貸す」原動力になります。そこに、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」というさらなる恵みが注がれます。
W
〈説教の原稿〉
2026年 4月19日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 詩編78編 15節(P.913)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 10章1節~5節(P.311)
説 教「この岩こそキリストだったのです」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ わたしたちの先祖は皆、モーセに属するものとなる洗礼を受けた ……Ⅰコリント10:1-2
Ⅲ 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲んだ ……Ⅰコリント10:3-4
Ⅳ 彼らの大部分は荒れ野で滅ぼされた ……Ⅰコリント10:5
結
序
コリントの信徒への手紙 一 10章では、「偶像を礼拝してはいけない」(10:7)「偶像礼拝を避けなさい」(10:14)というように、警告が繰り返されています。偶像崇拝の問題は、パウロが8章ですでに取り上げています。
なぜ再び、パウロはそのことを追及するのでしょうか? それは端的に言えば、偶像が手軽に造れるものだからです。人間のつぶやき、不安、そして貪欲などが引き金となって、何かを偶像に祭り上げてしまうのです。
預言者エレミヤは、「彼ら(エルサレムの人々)は、おとめなるわが民の破滅を 手軽に治療して 平和がないのに『平和、平和』と言う」(エレミヤ書8:11)と証言しています。ここで、神に背く人々の言う『平和、平和』……まさにおまじない!……は偽造物であり、一種の偶像ではないでしょうか。かえって、それを唱える人の陰には、争いや妬みがひそんでいます。
そういう意味では、どこでも、どの人にも、偶像を拝むことは起こり得ます。自分の幸福や利益のために、像を刻むのです。ひと度、偶像にひれ伏す生活が始まると、なかなかそこから抜け出せなくなります。
それ故に、偶像を造り出す過ちから逃れる最善の方法は、唯一なる神が崇められるように、御子、イエス・キリストを信じ、主に依り頼むことです。真の神を神として礼拝するところに、偶像が割り込む余地はないからです。
以上のような背景からも、「偶像を礼拝してはいけない」との戒め(十戒・第二戒 出エジプト記20:4-6)を遵守するのは、容易なことではないと分かります。そこで、パウロの取ったのが、旧約聖書の物語からコリント教会の現状を照らし出すという方法でありました。すなわち、イスラエルの民が困難の坩堝であるエジプトから導き出され、荒れ野放浪40年を経て、乳と蜜の流れるカナンの地に入れられるまでのドラマをもって、コリント人に教訓を与えるという斬新なやり方でありました。
このような過去〈イスラエルの民〉と現在〈教会の群れ〉との対比には、利点があります。すなわち、過去〈イスラエルの民〉において、偶像崇拝に浸った場合に、どうなったかという結果が出ていることです。イスラエルの歴史に基づくなら、当然、説得力のある語りとなります。現在〈教会の群れ〉から観て、人間が偶像を造って拝む様子が客観的に捉えられます。
そこには、主なる神がさまざまな邪悪な出来事において、怒りと救いを現されたことが記されています。そこで、コリントの人々は、歴史の中に貫徹されていく神に従う、正しい人の道を目の当たりにするでしょう。
それでは、「この都で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」(使徒22:3)というパウロから、旧約聖書に沿った訓誡を受けることにしましょう。
Ⅰ 神は荒れ野で岩を開いた
深淵のように豊かな水を飲ませてくださった。
初めに、パウロの厳しい訓誡が、旧約聖書を背景に物語られていることを例証しましょう。これは、出エジプトと荒れ野の旅路を描いている詩編78:12-42の一節です。詩編詩人は、荒れ野で飢え渇いている人々を顧みられる神の御業を想起しています。
主なる神は、「海を開いて」(詩編78:13、出エジプト記14:21)、逃亡する民を助け、そして、「岩を開き、水を飲ませて」、言い争う民を鎮められました(民数記20:2)。まさに神が、幾多の困難を打開してくださいました。しかし、イスラエルの民は、彼らの間に臨在され、彼らと共に行かれる神の祝福(出エジプト記33:11,14)に応えることができませんでした。
荒れ野放浪中、民の最も大きな反逆は、金の子牛を造って拝んだことです(出エジプト記32:1-5)。この事件によって、イスラエルの民は、主なる神を偶像に取り替え、その偶像の祭壇周囲で踊り戯れ、飲み食いしました(同上32:6,19)。これは、唯一神信仰と偶像崇拝禁止を規定した十戒の第一・第二戒(同上20:3,4-6)を破棄する行為でありました。
神は、勝手な振る舞いをし大きな罪を犯した民に対して、怒りを発せられ、民を打たれました(出エジプト記32:27,35)。この神の烈しい審判は、カナンの地を偵察し善い報告を為した「カレブとヨシュア」二人を除いて、民すべてが荒れ野で死ぬという悲惨な結末をもたらしました(民数記14:30)。
①このような神への民の反抗が、エジプトからカナンへと至る途上で起こった、②そして「カレブとヨシュア」二人のみが約束の地に入った(ヨシュア記14:1,13)、ということに、教訓を見出したのが、旧約聖書の専門家パウロでありました。
パウロは、詩編78:15の「(神は)荒れ野では岩を開き 深淵のように豊かな水を飲ませてくださった」との恵みの出来事に即して、コリントの人々に、「皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした」(Ⅰコリント10:4)と語りかけました。そこには、「あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい」(同上9:24)とのメッセージが込められています。
40年かけてエジプトからカナンへの行程を「走り抜き、賞を得た」カレブの言葉には心に染み入るものがあります……「ご覧ください。主は約束どおりわたしを生き永らえさせてくださいました。今日わたしは八十五歳ですが、今なお健やかです」(ヨシュア記14:10-11)。これは、カレブが乳と蜜の流れる地の一部を嗣業として受領した時の言葉です(同上14:12-13)。
パウロは、約束の地に到達し、神の祝福を受けたカレブの感謝の言葉を、神の国を目指し、今「賞を得るように競技場で走っている」コリント教会の一人ひとりに贈りたかったのではないでしょうか。誰しも、40歳から80歳までの間、凸凹道を完走した長距離ランナ-・カレブの証言に励まされることでしょう。
Ⅱ わたしたちの先祖は皆、モーセに属するものとなる洗礼を受けた
コリントの信徒への手紙 一 10:1-2――
1 兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、2 皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられました。
「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい。わたしたちの先祖は皆……」というように、パウロは「わたしたちの先祖」にまつわる大切な事を、コリントの人々に伝達しようとしています。大切な事というのは、神の御計画とその実行に関することです。Ⅰ.で詩編78編を参照したように、そのことが旧約聖書に具体的に述べられています。
ここで、パウロはギリシア・コリントの「兄弟たち」を、時空を超えて、「わたしたちの先祖」に引き合わせようとしています。「わたしたちの先祖」というのは民族的に、主にユダヤ人(ただし異邦人と結婚した人が多数含まれます)ですが、キリスト教会の信仰者から観て、彼らは「わたしたちの先祖」であり、彼らの中には信仰上の見ならうべき先達者がいるのです。
「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり、皆、海を通り抜け、皆、雲の中、海の中で、モーセに属するものとなる洗礼を授けられました」……パウロは、一体どんなことを、当時の教会に適用したのでしょうか。それはひと言でいえば、神の臨在のもとに、イスラエルの民が「海」(紅海)の水によって「洗礼を授けられた」ということです。
そしてそれを、「モーセに属するものとなる洗礼」(エイス トン モーユセーン / into Moses)と規定したうえで、「イエスに属するものとなる洗礼」(エイス クリストン / into Christ ローマ6:3、ガラテヤ3:27など)との類似性を浮き彫りにしています。なお、神の臨在が、「わたしたちの先祖は皆、雲の下におり」(all our fathers were under the cloud)との句によって昭示されています。それは、「主は雲を広げて覆いとした」(詩編105:39)という通りに、主なる神の手厚い保護をあらわしています。
ここで、わたしたちが議論すべきは、「モーセに属するものとなる洗礼」と「イエスに属するものとなる洗礼」との類比についての神学的妥当性などではありません。そうではなく、コリントの教会員がいかに「モーセに属するものとなる洗礼」の実話から「イエスに属するものとなる洗礼」の深い意義を汲み取るか、ということです。
というのは、真実な悔い改めをもって、「イエスに属するものとなる洗礼」を授かっているならば、「偶像を礼拝する」ことなどあり得ないからです。それでも、人間の性懲りも無い罪性によって、「偶像」に惹かれるならば、荒れ野放浪における神への反逆者たちの無残な行く末を顧みなければなりません。生涯の間、紅海での洗礼の恵みに感謝して、新たな地で平和を享受したのは、わずか二人だったのでから。イスラエルの民の「大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」(Ⅰコリント10:5)。
このようにして、旧新約の二つの「洗礼」の類比に基づいた、パウロの警告はコリント人にとって聞き逃せないものとなりました。
Ⅲ 皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲んだ
コリントの信徒への手紙 一 10:3-4――
3 皆、同じ霊的な食物を食べ、4 皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでしたが、この岩こそキリストだったのです。
パウロは基本的なキリスト教の教理を踏まえ、洗礼に続いて、今度は聖餐に言及しています。パウロの意図は明らかに、洗礼と聖餐というサクラメント(聖礼典 神の恩寵が開示される儀式)をもって構成される礼拝と偶像崇拝とを対比するという点にあります。
その洗礼と聖餐という父・子・聖霊なる神の恩寵による儀礼は、永遠の昔から神によって計画されたものでありました。実際、エジプトからカナンへと至る間にも、洗礼と聖餐とを予兆する出来事がありました。
パウロは前段の洗礼の説き明かしから、一歩踏み込んで議論を展開しています。聴き手はパウロの口調が厳しさを増していることを看取しなければなりません。用語上は、「霊的な」との言葉が活用されて、信仰的にしっかりと旧約と新約のつながりを把握するよう勧められています。
「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました。彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした」……ここまでは、荒れ野放浪時代の旧約物語ですが、そこから一挙に「この岩こそキリストだったのです」と、結論を導き出しています。
その結論は、主イエス・キリストご自身が語られた、聖餐の制定の言葉を基としています。すなわち、過越の食卓において、「霊的な食物」について「これ(パン)は、あなたがたのためのわたしの体である」、また、「霊的な飲み物」について「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である」と宣言されました(Ⅰコリント11:24,25)。
わたしたちは、礼拝の聖餐式で「霊的な食物」と「霊的な飲み物」にあずかることによって、死んでよみがえられたキリストの命に「属するもの」(into Christ / into His eternal life)となりました(ローマ6:23、Ⅰヨハネ5:20)。わたしたちは主イエスの招きを受け、打ち砕かれた心をもって罪と死から救われ赦されたことを信じます。だからこそ、聖餐は「霊的な」サクラメント(秘蹟)なのです。
パウロの優れた点であり、彼の訓誡に重みを与えているのは、「わたしたちの先祖」の観点から、愛する「兄弟たち」へメッセージを送っていることです。「ヘブライ人の中のヘブライ人」(フィリピ3:5)であるパウロが架け橋となって、ギリシア人やローマ人を結び合わせ、「わたしたちの」一つなるコリント教会を建てたのです(Ⅰコリント3:10、4:15)。 パウロのように、彼の「兄弟たち」も旧約聖書に親しまねばなりません。
そこで、「彼ら(イスラエルの民)が飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした」と述べたパウロの論拠を探ってみましょう。パウロは、荒れ野放浪40年の間、「霊的な岩」が民に同行したと説き明かしています。それならば、旧約聖書のどこに、「霊的な岩が自分たちに離れずについて来た」ことが書かれているのでしょうか。
砂漠地帯であるシナイ半島をゆき巡る放浪では、しばしば喉が渇くということが起こります。荒れ野の旅の1年目と40年目の出来事を引用しましょう。
出エジプト記17:1,6――
1 主の命令により、イスラエルの人々の共同体全体は、シンの荒れ野を出発し、旅程に従って進み、レフィディムに宿営したが、そこには民の飲み水がなかった。
6 (主はモーセに言われた。)「見よ、わたしはホレブの岩の上であなたの前に立つ。あなたはその岩を打て。そこから水が出て、民は飲むことができる。」モーセは、イスラエルの長老たちの目の前でそのとおりにした。」
民数記20:1-2,8――
1 イスラエルの人々、その共同体全体は、第一の月にツィンの荒れ野に入った。そして、民はカデシュに滞在した。ミリアムはそこで死に、その地に埋葬された。
2 さて、そこには共同体に飲ませる水がなかったので、彼らは徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった。
8 (主はモーセに仰せになった。)「あなたは杖を取り、兄弟アロンと共に共同体を集め、彼らの目の前で岩に向かって、水を出せと命じなさい。あなたはその岩から彼らのために水を出し、共同体と家畜に水を飲ませるがよい。」
喉が渇くのは日常茶飯でしたが、問題はそれを理由に、民が「徒党を組んで、モーセとアロンに逆らった」ということでありました。序で述べたように、つぶやきや不安が引き金となり、人は何かを偶像に祭り上げてしまう誘惑にさらされます。
主なる神は、民がそのような誘惑に陥らないように、神の御業を現されました。具体的には、神の僕モーセが「岩を打つ」と、そこから水が溢れ出しました。詩編78:15に照らせば、「(神が)荒れ野では岩を開いた」のであります。
パウロはこのような荒れ野での奇跡的な出来事を想起しながら、「霊的な岩が自分たち(イスラエルの民)に離れずについて来た」と説き明かしました。その上で、「この岩こそキリストだったのです」と、コリントの人々の目を主イエス・キリストに向けさせました。今もそしてこれからも、キリストの教会に「霊的な岩が離れずについて来る」ことは言うまでもありません。
荒れ野放浪の全期間を通じて、主イエス・キリストが源となって、「霊的な食物」と「霊的な飲み物」を供給されました。その方、主イエス・キリストが十字架につけられ、三日後に復活されて、「霊的な食物」〈パン〉と「霊的な飲み物」〈杯〉を信じる者に分かち与える聖餐を制定されたのです(ルカ24:28-43)。
Ⅳ 彼らの大部分は荒れ野で滅ぼされた
コリントの信徒への手紙 一 10:5――
しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました。
最初に「しかし」という逆接を表す詞が置かれています。これは、パウロが論調を変えたのではなく、荒れ野放浪の歴史をたどっていくと、そう言わざるを得ないということなのです。「彼ら(=イスラエルの民)の大部分は……」ということですから、直接コリント教会の人々を非難しているわけではありません。むしろ、「わたしたちの先祖」に下された神の審判を熟考して、神を畏れなさいということでしょう。
出エジプトした「わたしたちの先祖は皆」、海を通り抜け、天からのマナを食べ、そして岩から湧き出る水を飲むことを通じて、神の大いなる救いの御業を経験しました。それによって、父・子・聖霊なる神の恩寵による洗礼と聖餐の予兆を示されました。
しかし、「彼らの大部分は神の御心に適わなかった」ということですから、神の恩寵を支えとして、信仰を堅くするには至りませんでした。それ故にパウロが、「わたしたちの先祖皆」の内の「少数・残りの者」(ローマ9:27∥イザヤ書10:22)に期待を寄せていることは明らかです。
ちなみに、エジプト脱出したのは、約200~300万人で(壮年男子がおよそ60万人 出エジプト記12:37-38)、その内、「神の御心に適わなって」、カナンに入ったのは、「カレブとヨシュア」、わずか二人です。あなたは「残りの者」になれますか、偶像崇拝すれば滅びます、との警告の厳しさは、計算上からも裏付けられます。
結
本日は、パウロが荒れ野放浪を振り返りながら民の不信仰や堕落に警告を与えているテキスト(Ⅰコリント10:1-13)の前半を読みました。大切なのは、自分の信仰の人生を、荒れ野放浪40年の旅路に重ねてみるということです。そこで、不従順な人間を助け出す神の憐れみと忍耐を知ることです。
パルロは、ユダヤ人改宗者と異邦人キリスト者の関係を、次のように述べています。
ローマの信徒への手紙11: 17-20 異邦人の扱い――
17 しかし、ある枝が折り取られ、野生のオリーブであるあなたが、その代わりに接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになったからといって、18 折り取られた枝に対して誇ってはなりません。誇ったところで、あなたが根を支えているのではなく、根があなたを支えているのです。19 すると、あなたは、「枝が折り取られたのは、わたしが接ぎ木されるためだった」と言うでしょう。20 そのとおりです。ユダヤ人は、不信仰のために折り取られましたが、あなたは信仰によって立っています。思い上がってはなりません。むしろ恐れなさい。
「ある枝」は、神に不従順な一部のユダヤ人を、また、「野生のオリーブであるあなた」は、異邦人のキリスト者を指しています。異邦人もまた、キリストを信じるならば、オリーブの木の「枝」とされます。それが「接ぎ木される」(ローマ11:17,19,24)ということです。
この「接ぎ木」は、ユダヤ人にもほどこされることがあります(11:23,24)。パウロは今後、それが起こることを待望しています。
ではどうして、「接ぎ木され、根から豊かな養分を受けるようになる」ことが起こり得るのでしょうか?
それは、イスラエルの族長、「わたしたちの先祖」の信仰という「根」のおがげです。パウロはその「根は聖なるものである」(ローマ11:16)と言います。もちろん、わたしたちの信仰の中心は、「主イエス・キリスト」にありますが、今パウロは旧約聖書にさかのぼって、「豊かな養分」の元である「根」を掘り起こしています。
今回のテキストに即して言えば、荒れ野放浪、40年の旅路の中に、神の恩寵が啓示されおり、その出来事によって、洗礼と聖餐というサクラメントが予兆されているということです。これによって、たとい、「ある枝(ユダヤ人)が折り取られた」としても、「元からこのオリーブの木に付いていた枝は、たやすく元の木に接ぎ木される」(ローマ11:24)と確信できるのです。
ということは、「庭師」である神によって、ユダヤ人改宗者も異邦人キリスト者も、「元の木に接ぎ木された」ということです。わたしたちは、「元の木」という隠喩の指し示す「わたしたちの先祖」の信仰を、旧約聖書によって学び知ることができます。これこそ、パウロが「兄弟たち、次のことはぜひ知っておいてほしい」(Ⅰコリント10:1)との嘆願によって求めていることなのです。
〈説教の原稿〉
2026年 4月12日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
復活節第2主日
旧約聖書 エレミヤ書 17章27節(P.1210)
新約聖書 マルコによる福音書 9章38節~50節(P.80)
説教の構成――
序
Ⅰ わたしたちの味方 ……マルコ9:38-41
Ⅱ わたしを信じるこれらの小さな者 ……マルコ9:42
Ⅳ 火はエルサレムの城郭を焼き尽くであろう
……エレミヤ書17:27
……マルコ9:49-50
序
今主イエスは、ガリラヤの伝道拠点カファルナウムから(マルコ9:33)、ユダヤの都エルサレムを目指して旅を続けておられます(同上10:32,33)。これに沿ってマルコ福音書は、ペトロの信仰告白と主イエスの受難予告を境として後半に突入します(同上8:27-16:8)。
旧約聖書では、エルサレムへの巡礼は、「都へ上る」と表現されています(詩編120:1、134:1)。これに倣って新約聖書でも、「一行がエルサレムへ上って行く途中」(マルコ10:23、ルカ2:42)という言い回しになっています。これは、エルサレムは標高およそ800mの丘陵にありますので、当然の表現と言えるでしょう。
それならば、「都へ上る」ために、弟子たちはじめ一行は “ 霊 ” 的な駆動力を発揮して進んでいかねばなりません。果たして現実は、どうだったのでしょうか? 一団の中で「やみくもに走って」(Ⅰコリント9:26)、先行者を追い散らす「いちばん偉い人」(マルコ9:34)は、やがて息切れして途中棄権することでしょう。
いちばん大切なのは、途上で主イエス・キリストの語られた三度の受難予告(マルコ①8:31②9:30-32③10:32-34)に耳を傾けることです。すなわち、主イエスは「都へ上った」のち、人間すべての罪を担って十字架につけられ、三日後によみがえられるという直前の予告を信じることです。主イエスと共なる途上の生活こそが、信仰の核心の「受け入れ」(同上9:37)を促進・深化させます。
しかし問題は、この場に及んで、弟子たちが無理解と頑なさの闇に陥っていることです。彼らの「つまずき」によって(マルコ9:43,45,47)、他の人々をも「つまずかせ」かねません。「わたしを信じるこれらの小さな者」(同上9:42)あるいは「子どもたち」(同上9:37)に罪を犯させるのは、悔やんでも悔やみきれません。
主イエスは、弟子たちの信仰と伝道の状況に心を配っておられます。どのように、「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)をあらわしていくかが、今日のテキストを読み取る要になります。というのも、都上りの集団の中で、自分が用いられようとするならば、御言葉を指針とする謙虚さが必要だからです。
Ⅰ わたしたちの味方
マルコ福音書9:38-41――
38 ヨハネがイエスに言った。「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ましたが、わたしたちに従わないので、やめさせようとしました。」 39 イエスは言われた。「やめさせてはならない。わたしの名を使って奇跡を行い、そのすぐ後で、わたしの悪口は言えまい。40 わたしたちに逆らわない者は、わたしたちの味方なのである。41 はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける。」
「神の慈しみと厳しさを考えなさい」(ローマ11:22)……ある意味では、対極にある「慈しみ」と「厳しさ」との匙加減・バランスが大切です。「神の慈しみと厳しさ」が「自分の飴と鞭」にすり替わるならば、自分に甘く、他人につらく当たるということになりかねません。ここは、頭でっかちに思索するよりも、弟子たちの失敗例から学ぶことにしましょう。
「わたしたちに従わないので、やめさせようとしました」……ここに、果たしてヨハネは神の御心に従って、「受け入れる」のか、それとも、「退ける」のか、を判断したのかどうか、という問題があります。つまり、「神の慈しみと厳しさを考えた」うえで、ヨハネの言動が導き出されたのか、ということです。
ここに登場した「ヨハネ」は、「ゼベダイの子ヤコブとヤコブの兄弟ヨハネ、この二人にはボアネルゲス、すなわち、『雷の子ら』という名を付けられた」(マルコ3:17)というように紹介されている、十二弟子のひとりです。ということは、「雷の子」らしく怒りを抑えきれずに、「お名前を使って悪霊を追い出している者」をいさめたのでしょうか。
出エジプト記20:7 十戒の第3戒――
あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。みだりにその名を唱える者を主は罰せずにはおかれない。
「お名前を使って悪霊を追い出す」こと、または、「わたしの名を使って奇跡を行う」ことについては、十戒の第3戒に基づいて判断されるべきでありましょう。ヨハネは性急にも、「主は罰せずにはおかれない」という「主」に代わって罰したのでしょうか。ある人が「神の名をやたらに口にしているか」どうかを速断する前に、ヨハネは直前の主イエスの言動を反芻すべきでありました。
マルコ福音書9:36-37――
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ここには、「すべての人に仕える者」(マルコ9:35)、主イエス・キリストが生きておられるということが説き明かされています。善行を為す際にも、「子供の一人を受け入れる」⇒「わたし〈御子イエス・キリスト〉を受け入れる」⇒「わたしをお遣わしになった方〈父なる神〉を受け入れる」という神中心の立場に自分を置くことが求められています。
ヨハネは「わたしたちに従わないので、やめさせようとした」のが、善行・善意だと考えていました。しかしそれは、自分を神の立場にすり替えるような振る舞いだったのではないでしょうか。教会の群れ、一人ひとりが「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9:35)との主イエスの命令を、実践に生かす謙虚さが、ひょっとしたらヨハネに欠けていたのかも知れません。
群衆のひとりから、「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(マルコ9:18)と暴露されたのを根に持って、「先生、お名前を使って悪霊を追い出している者を見ました」と通報し、“ 霊 ” の賜物を持つ人物を非難するのは、御門違いであります。
主イエス・キリストをご覧なさい! 「主イエスが、悪霊を追い出したり、病を癒したりしておられるのは、イエスに宿る霊、聖霊の力によっているのである。教会は、それを受け継いでいる」(松永希久夫)ということを熟慮すべきです。
「はっきり言っておく。キリストの弟子だという理由で、あなたがたに一杯の水を飲ませてくれる者は、必ずその報いを受ける」……「はっきり言っておく」、すなわち、「まことに(アーメン)、わたしはあなたがたに言います」(他にマルコ3:28、9:1、10:15)という重厚な響きを持つ宣言で始められています。
「あなたがた」と「一杯の水を飲ませてくれる者」とは、「キリストの弟子だという理由」によって、主にある交わりを形成しています。「わたしの名」を信じ、悪霊追放や奇跡を行っている兄弟姉妹も、「キリストの弟子」に属する人々です。それ故に、その人々は喜んで「あなたがた」に憐れみを施します。
「あなたがたは水を飲ませてもらう」ことを受け入れています。そして、その相手の人に「一杯の水を飲まる(与える)」という機会を提供しています(参照:ヨハネ4:7)。それは単なる授受(やり取り)ではありません。受ける側も与える側も、双方が「キリストの弟子」として愛の業を証ししているのです。主イエス・キリストがその小さな行為を喜ばれています。キリストの祝福のうちに、「一杯の水」は、「その人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(同上4:14)に違いありません。
マルコ福音書9:42 主イエスの言葉――
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人をつまずかせる者は、大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう方がはるかによい。」
「つまずかせる」(ギリシア語:スカンダリゾー)という動詞が、マルコ福音書9:42,43,45,47(:44と:46は底本に欠落)に、4回連続で出てきます。
「つまずく」という語の原意は、「~に打ち当たる・突き当たる」ということです。すなわち、歩いているとき、足が思いがけず「つまずきの石」(ローマ9:32,33)に突き当たって、転んでしまう(蹴躓く)という絵・イメージが浮かんでくるでしょう。そこでの問題は、「つまずきの石」に打ち当たった人がその末路として破滅または不信仰に陥るということです。
使徒パウロはそのことを憂慮して、「つまずきとなるものや、妨げとなるものを、兄弟の前に置かないように決心しなさい」(ローマ14:13)と忠告しています。わたしたちは自分がつまずかないようにするばかりでなく、他人をつまずかせないように、「つまずきの石」を散乱させることのないようにしなければなりません。
その点で、人を「つまずかせる」ことへの主イエスの警告には迫力があります。「大きな石臼を首に懸けられて、海に投げ込まれてしまう」と、苛烈な溺死の模様が描かれています。こんな死に方はいやだと、誰しも思うに違いありません。
旧約聖書・ヨナ書には、溺れることの恐怖が、「主は大風を海に向かって放たれたので、海は大荒れとなり、船は今にも砕けんばかりとなった。船乗りたちは恐怖に陥り、それぞれ自分の神に助けを求めて叫びをあげ、積み荷を海に投げ捨て、船を少しでも軽くしようとした」(1:4-5)というように活写されています。逃亡者ヨナのせいで(ヨナ書1:12)、「板子一枚 下は地獄」の舞台で騒動が生じました。
ヤッファから出港した船には、ユダヤ人も異邦人も乗り組んでいました(ヨナ書1:6,8,9)。「主から逃れよう」(同上1:2)としたヨナの罪に、大勢の人が巻き込まれました。まさに、狭い船内に「つまずきの石」がばらまかれました。というのも、我先に救われたいと思う自己中心が波及するのは必至だからです。
このケースでは幸いにも、乗組員が結束して、「(ヨナの信じる)主に向かって叫んだ」(ヨナ書1:14)ことにより、沈没は回避されました。主に対する畏れによって(同上1:16)、ヨナがつまずく⇒周囲の人々もつまずかせられるという事態が収束しました。
「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」というのは、信仰上まだ育成・保護が欠かせない状態にあります。従って、これから彼らは、「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22)の奥義を学び、人生に横たわる「つまずきの石」に見分ける知恵を習得していかねばなりません。
逆に、主イエス・キリストを信じないで、自分の知恵や力に頼むところから、つまずきが生じます。それが、「仕掛けたその穴に自分が落ちる」(詩編7:16、コヘレトの言葉10:8)ということなのです。
つまずかせることへの警告が重ねられます。その対象が、「わたしを信じるこれらの小さな者の一人」から「あなた」、すなわち、自分自身へと転じられています。つまずきについて、自分で深く内省せよ、ということなのでしょう。
43 「もし片方の手があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両手がそろったまま地獄の消えない火の中に落ちるよりは、片手になっても命にあずかる方がよい。45 もし片方の足があなたをつまずかせるなら、切り捨ててしまいなさい。両足がそろったままで地獄に投げ込まれるよりは、片足になっても命にあずかる方がよい。47 もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出しなさい。両方の目がそろったまま地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても神の国に入る方がよい。48 地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない。」
†:44と:46「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」は底本に欠落。
「つまずかせる」(ギリシア語:スカンダリゾー)という動詞と並行する形で、「(あなたにとって)~よりは、…の方がよい」という慣用句が4回連続になっています(マルコ9:42,43,45,47)。歯切れよく、勧告が伝達されています。弟子のヨハネはじめこの警告を聞く者が、「…の方がよい」ことを選択するように勧められています。聞く者は、つまずいてしまう自分の弱さを認めつつ、神への畏れをもって、「…の方がよい」の側に立つべきであります。
しかもここでは、人の身体に焦点を当て、「もし片方の手があなたを」⇒「もし片方の足があなたを」⇒「もし片方の目があなたを」というように畳みかけています。まさに耳の痛くなる論調です。
そして、汲み取るべきメッセージが、「(あなたにとって)~よりは、…の方がよい」という対比の形で明示されています。選び取ってはならないのは、「両手・両足・両目がそろったまま地獄に投げ込まれる」ということです。
選び取るべきは、「片手・片足・一つの目になっても命へ、神の国へ入る方」であると、そこで、神の幸いが宣言されています。つまり、その対照というのは、つまずいて悔い改めもせず、命が滅んでしまうのか、それとも、主イエス・キリストに救われて永遠の命にあずかるのか、ということになります。
ここで「地獄」(ギリシア語:ゲエンナ マルコ9:43,45,47)には、恐怖と嫌悪を呼び起こす言葉が使われています。ユダヤ人が「地獄」で連想するのは、エルサレムの南側の谷、「ベン・ヒノム」(ゲヒンノム)です。ここでは、元々、幼児犠牲や死人の焼却が行われていました(ヨシュア記15:8、列王記下23:10)。すなわち、この谷では偶像崇拝が行われ、しばしば預言者から神の審判を宣告されていたということです(エレミヤ書7:32、19:6)。
「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」というイザヤ書66:24の引用によって、神から見放された者の悲惨さが暗示されています。主イエスは実在する「地獄」やイザヤの預言を熟知されたうえで、罪人たちに向かって「命にあずかる(=入る)方がよい」、そして「神の国に入る方がよい」と呼びかけておられます。
その良き知らせは、言い換えれば、この世でわたしたち・信仰者は、「自然の命の体」が「霊の体」に変えられる希望(Ⅰコリント15:44,46)と喜びに満たされているということです。そうして、清められた「霊の体」をもって神の国の祝宴、パンと杯にあずかるのです。
ここで「入る」との動詞が繰り返され、「命へ、神の国へ」という神の招きが際立たされています。ここまで、「(あなたにとって)~よりは、…の方がよい」という対比的な表現において、あなたは「…の方」を選び取ることが問われていると述べました。しかし、その内実は、ほんとうに主イエス・キリストによって救われているならば、「…の方」を選ぶにちがいない、そのように神は導いておられるということだったのです。主イエスは自ら十字架にかかられて、わたしたちが「神の国へ入る」道を切り開いてくださいました。
Ⅳ 火はエルサレムの城郭を焼き尽くであろう
エレミヤ書17:27 主なる神→ユダ・エルサレムの住民――
「もし、あなたたちがわたしに聞き従わず、安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入るならば、わたしはエルサレムの門に火を放つ。その火はエルサレムの城郭を焼き尽くし、消えることはないであろう。」
先に、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」(マルコ9:48)の言表はイザヤ書66:24に由来すると述べました。神の苛烈な裁きは、燃え盛る「火」によって象徴されています。
ここで指摘されている人々の罪は、「安息日を聖別せず、安息日に荷を運んで、エルサレムの門を入る」ということです。つまり、「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジプト記20:8-10)という十戒の第4戒が侵害されています。
エレミヤは繰り返し、エルサレムが火で焼かれると威嚇の言葉を発しています(11:16、21:10,14、哀歌4:11)。もしも、その預言が成就するならば、都全体が「火の消えることのない地獄」と化してしまいます。
しかし、主イエスは、「地獄では蛆が尽きることも、火が消えることもない」との言葉を最後通牒とはなさいませんでした。そのことは、都エルサレムの焼滅を預言したエレミヤが、「わたくしは、あなたたちのために立てた計画をよく心に留めている、と主は言われる。それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29:11)と述べたことと符合しています。
Ⅴ 人は皆、火で塩味を付けられる
マルコ福音書9:49-50 主イエスの言葉――
49 「人は皆、火で塩味を付けられる。50 塩は良いものである。だが、塩に塩気がなくなれば、あなたがたは何によって塩に味を付けるのか。自分自身の内に塩を持ちなさい。そして、互いに平和に過ごしなさい。」
この二節は前段の内容を受けた、巧みな結びになっています。警告の厳しさを保持しつつ、希望を与えています。
「人は皆、火で塩味を付けられる」……前節(マルコ9:48)の暗澹たる「火」のイメージが様変わりしています。そこには、あなたは決して、「消えることのない地獄の火」で身を滅ぼしてはならない、とのメッセージが込められています。
この箴言風の言葉は、「火」で焼いて浄化し、「塩」でその純潔を保存せねばならぬ(山本泰次郎)、という意味にとるべきでしょう。
「塩」に関して言えば、第一に、「穀物の献げ物にはすべて塩をかける」(レビ記2:13)ということで、聖なる儀式に欠かせないものだと、旧約では教示されています。従って、その儀式を執り行う者も、「塩」の清め(エゼキエル書43:24)にあずからねばならないということでしょう。その上、「塩」は、日常の食卓においても必需品となっています(ヨブ記6:6)。
以上の点を鑑みれば、「人は塩味を付けられる」というのは、“ 霊 ” 的に身心を清め、常に神の御前に立つという心備えをせよ、との主旨ではないかと思います。その主旨を裏付けるのが、「火で」という鍵語です。ここで「塩」と「火」との掛け合わせを、物理的(調理的?)に吟味するのは意味がないでしょう。
そこで、聖書的に「火で」という真意を探ってみましょう。
箴言17:3――
ペトロの手紙 一 1:6-7――
6 それゆえ、あなたがたは、心から喜んでいるのです。今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、7 あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、火で精錬されながらも朽ちるほかない金よりはるかに尊くて、イエス・キリストが現れるときには、称賛と光栄と誉れとをもたらすのです。
「銀」と「金」は「るつぼ」や「炉」の中で「火で」精錬されます。そのように、神は人を「試し」、練り清められます。カスと貴金属が分離されるように、人から罪の残滓が取り除かれます。
注目すべきは、人が「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならない」ことと、「火で精錬して」、「心を試すのは主」であることです。
ですから、「人は皆、火で塩味を付けられる」ように、身心を清めて神の御前に立て、という信仰者の献身の背後には、神の力強い導きがあるということです。というのは、「あなたがたの信仰に称賛と光栄と誉れとがもたらされる」のは、「イエス・キリストが現れるとき」という神の御計画が現存しているからです。そうした神の見守りがあるからこそ、「火で塩味を付けられた人は皆」、自身の「試練」に耐え、周りからの迫害に屈することなく、終わりの時を待望することができるのです。
以上のようなさまざまな警告の帰結として、「そして、互いに平和に過ごしなさい」との勧めが掲げられています。ここで、神が患難のもとにあるバビロン捕囚の民のために立てられた計画を、再度引用しましょう……「それは平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29:11)。誰がつまずかせたのか、誰がつまずいたのか、という悶着は、「敵意という隔ての壁を取り壊す」、キリストの平和によって(エフェソ2:14)鎮められます。
結
前の主日に、わたしたちは、主イエス・キリストの復活をお祝いしました。わたしたちは、主の十字架と復活の御業によって罪の縄目から解放されたという「本物と証明された信仰」を持続していかねければなりません。自分自身が「火で塩味を付けられた人」となると同時に、周りの「キリストの弟子たち」につまずかせないよう配慮しなければなりません。
「人は皆、火で塩味を付けられる」ならば、天より忍耐と聖潔が与えられます。こうして、日々、「平和があるように」との挨拶を交わしながら、神の国をめざして歩んでゆくのです。
W
〈説教の原稿〉
2026年 4月5日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 イザヤ書 53章8節(P.1150)
新約聖書 ルカによる福音書 24章36節~49節(P.161)
説 教「イエスは彼らの心の目を開いて、言われた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ イエスは手と足をお見せになった ……ルカ24:40-43
……イザヤ書53:8
Ⅴ 罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる
……ルカ24:47-49
序
きのう、受難週が終わり、きょう、復活日を迎えました。同時に、2026年度に入りました。
人間のこの世的な論理においては、主イエスと死と復活とは断絶しています。というのも、通常、死と命とはつながらないからです。世の人は死において滅びを、それに対し、命において栄えを連想します。
そういう中で、どういうところに、信じる者が死んでよみがえるという根拠はあるのでしょうか? それが、曖昧ならば、死からの復活などあり得ないというこの世的な思考に支配されることになります。
それでは、人が死んでよみがえるというわたしたちの信仰は、どのようにして成立するのでしょう。本日のテキストは雄弁にその根拠を物語っています。それは、一言でいえば、死からのよみがえりを遂げられた主イエス・キリストに出会うということです。
主の晩餐において弟子たちと食事を共にした主イエス(ルカ22:14-20)が再び、彼らの目で焼き魚を食べられました。主イエスは、わたしたちの罪と死を背負って、十字架につけられて死に、三日後によみがえられ、最初の夜に食事にとられました。このように、受難前と復活後とは主イエス・キリストにおいて結びつけられています。
主イエスが死んでよみがえられたように、主を信じる者も死んでよみがえらされます(ヨハネ11:25-26、フィリピ1:20-21)。主の復活後の、最初の日(日曜日)、わたしたちの信仰は基礎づけられました。きょう、復活日にふさわしいテキストを通して、主イエスがどのように振る舞われ、そして、何を語られたのか、しっかりと受け止めましょう。そうすれば、「復活」というものを、自分の経験や思考によって捉えようとする、古い習慣から解き放たれます。
さあ、この復活日に、主イエス・キリストによって新しい命(ローマ6:4)の鼓動が明確にされますように、そして、生き生きとした力がわたしたちの信仰に注がれるますようにお祈りしましょう。
Ⅰ どうして心に疑いを起こすのか
ルカ福音書24:36-39――
36 (エマオから帰って来た二人はじめ弟子たちが)こういうことを話していると、イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。37 彼らは恐れおののき、亡霊を見ているのだと思った。38 そこで、イエスは言われた。「なぜ、うろたえているのか。どうして心に疑いを起こすのか。39 わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ。触ってよく見なさい。亡霊には肉も骨もないが、あなたがたに見えるとおり、わたしにはそれがある。」
「週の初めの日」(=日曜日 ルカ24:1)に、主イエス・キリストは人々の間に現れました。それは、神の選ばれた「ちょうどこの日」(ルカ24:13)に、主イエスが後に信仰共同体の核となる人々に出会い、その信仰を正しく基礎づけるためでありました。
だからこそ、主イエス・キリストの顕現が、この日のうちに三度にわたって起こされたのです(ルカ24:①1-12,②13-32,③33-53)。明け方早くから夕べ・夜へと(ルカ24:1,29,33)、主イエス・キリストの御姿がますます鮮明になっていきました。なんと信仰上、濃密な一日なのでしょうか。
きょう取り上げたのは、その最高潮と呼べる最後の記事になります。場所は、エルサレムで、十一人の弟子とその仲間たちが集まっていた家ということです(ヨハネ21:19、ルカ24:23)。
イエス御自身が彼らの真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた……自分のこれまでの経験や知識を超えた出来事に対し、人は異様に恐れたり、目を覆ったりします。かつて、「弟子たちは、イエスが湖上を歩いておられるのを見て、幽霊だと思い、大声で叫んだ」(マルコ6:49)と報告されています。
ここでの深刻な問題は、主イエス・キリストが目の前におられる状況において、「あなたがたの心に疑いを起こす」ということであります。たとえ一瞬、イエスだと察知して(見て)も、「幽霊だと思い」込んでしまう闇に、「あなたがたの心」は支配されてしまうものなのです。
ですから、「あなたがたはうろたえている」(原意はかき乱されている)という受身の状態から脱出しなければなりません。そこで主イエスの側から、「わたしの手や足を見なさい。まさしくわたしだ」と呼びかけられました。
第3回目の主イエス・キリストの顕現において、最高潮に達すると言ったのは、まさにこのことです。主イエスは「まさしくわたしだ」、すなわち、「このわたしがそれです」(エゴー エイミ ヨハネ4:26, 18:5)との言葉をもって、「亡霊」の幻によって心のかき乱されている弟子たちの前に現れました。
この神の自己宣言によって弟子たちが悟るべきことは、このお方がかつてのイエスと同一人物であるということでありました。要するに、きょう、主イエスが十字架の死からよみがえらされたと信じることです。
そのような信仰の核心へと導かれるように、主イエスは「わたしの手や足を見なさい」と弟子たちに命じられました。これによって、主イエス・キリストは自分たちの家に、「身体のよみがえり」をもって入って来られたということが分かります。まさしく「わたしの手や足」には、十字架刑の苦難と傷跡が残されています。つまり、主イエス・キリストは「身体」をもって十字架の死を打ち破ってよみがえられたのです。
そこで主を信じる者は、十字架と復活の御業によって、罪と死の縄目から解放されたという確証が得られます。十字架のしるしを「手とわき腹」に確かめた「弟子たちは、主を見て喜んだ」(ヨハネ20:20)というように、主を信じる者たちにとってその「喜び」(ルカ24:41)は永遠なるものになりました。
使徒パウロは、死からよみがえらされるという奇しき出来事を、「霊の体が復活する」(Ⅰコリント15:44,46)と言い表しました。それは、神の霊に生かされた命であります。わたしたちは、主イエスと人格的関係を持つ者として、心・魂・体全体が神の救いにあずかることになりました。
それは腐ったり壊れたりするものではありません。それは、主イエスが「触ってよく見なさい」と命じるほどにリアルです。この世でわたしたち・信仰者は、「自然の命の体」(Ⅰコリント15:44,46)が「霊の体」に変えられるという希望と喜びに満たされています。
Ⅱ イエスは手と足をお見せになった
ルカ福音書24:40-43――
40 こう言って、イエスは手と足をお見せになった。41 彼らが喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。42 そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、43 イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた。
主イエス・キリストの肉体性、「霊の体」にまつわる説き明かしが続きます。この場面の主イエスの言動に拠ればこそ、「わたしは身体のよみがえりを信じます」という使徒信条に至るのだと教えられます。
「しかし、実際、キリストは死者の中から復活し、眠りについた人たちの初穂となられました」(Ⅰコリント15:20)ということに基づいて、わたしたちはよみがえらされます。これが、キリスト教信仰の基礎です。だから、主イエスは、「喜びのあまりまだ信じられず、不思議がっている」弟子たちに一歩また接近されました。
イエスは、「ここに何か食べ物があるか」と言われた。そこで、焼いた魚を一切れ差し出すと、
イエスはそれを取って、彼らの前で食べられた……場所は、エルサレムの家ではなく、ガリラヤ湖畔で異なりますが、ヨハネ福音書に同様の光景が収められています。
ヨハネ福音書21:9-10,13-14――
9 さて、陸に上がってみると、炭火がおこしてあった。その上に魚がのせてあり、パンもあった。10 イエスが、「今とった魚を何匹か持って来なさい」と言われた。
13 イエスは来て、パンを取って弟子たちに与えられた。魚も同じようにされた。14 イエスが死者の中から復活した後、弟子たちに現れたのは、これでもう三度目である。
復活された主イエスが弟子たちを招待する形で、神の国の祝宴(ルカ13:29)の先駆けとなる食事が行われます。そこに、ペトロたちの「今とった魚」が、食卓にのせられます。主イエスは公生涯中に(ヨハネ6:9)、そして復活後に、「パンと魚」の食事をとられました。
主イエスは、喉の渇きや空腹を覚えるお方です(マタイ4:2、ヨハネ4:7)。その点では、主イエスは「自然の命の体」を持っておられます。主イエスは罪と病と死の重荷を負いつつ、民衆と食事を共にし、彼らの労苦を分かち合われました。
今よみがえられた主イエス・キリストが「パンと魚」を祝福したうえで、皆に配られます。そして、ご自身が「それを取って、彼らの前で食べられました」。この愛餐は、主を信じる者たちが「霊の体」に変えられた後も続きます。というのも、それは、神の国の祝宴の前味だからです。
さらに主イエスは、「まだ信じられず、不思議がっている」弟子たちに向かって御言葉を投げかけます。
Ⅲ イエスは彼らの心の目を開いて、言われた
ルカ福音書24:44-46――
44 イエスは言われた。「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある事柄は、必ずすべて実現する。これこそ、まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたことである。」 45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」
主イエスは共に「食べる」という御業を示し、次に、「彼らの心の目を開く」ために御言葉を語られます。それは、「まだあなたがたと一緒にいたころ、言っておいたこと」、すなわち、十字架につけられる前に、主イエスが繰り返し弟子たちに語っていたことです。
弟子たちが復活の主イエスに出会ったという「証人」(ルカ24:48)になるには、まだ何かが足りません。そうです、彼らの「心」…「心の目」の「の目」は原文に無い補足です…の頑なさが取り除かれねばなりません。そこで、主イエスの第2回目の顕現の記事を引用しましょう。
ルカ福音書24:32――
二人は、(イエスが)道で話しておられるとき、また(イエスが)聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」と語り合った。
主イエスは決して、「物分かりが悪く、心が鈍く、すべてを信じられない者たち」(ルカ24:25)を見捨てられません。「聖書を説明してくださったとき」という句の中で、「説明した」というのは単純にも「開いた」が原意です(他にルカ4:17)。つまり、主イエスによって聖書が開かれると、そこから御言葉が輝き出でるということです。
主イエスの御言葉の中に、「わたしについてモーセの律法と預言者の書と詩編に書いてある」、そして、「次のように書いてある」と反復されています。まさに弟子たちは聖書を「開いて」、そこに何が「書いてある」のか、学び知らねばなりません。そして弟子たちには聖霊の導きのうちに、主イエスの御前で、「書いてある事柄はすべて実現した」と、告白することが求められています。
そのような主イエスの期待に応えた人が、使徒パウロであります。確かにパウロは、弟子たちと違って、主イエスの復活の目撃証人ではありません。しかし、彼が回心する時、「たちまち目からうろこのようなものが落ちて」(使徒9:18)、「聖書を悟る」人となりました。
コリントの信徒への手紙 一 15:3-5――
3 最も大切なこととしてわたしがあなたがたに伝えたのは、わたしも受けたものです。すなわち、キリストが、聖書に書いてあるとおりわたしたちの罪のために死んだこと、4 葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおり三日目に復活したこと、5 ケファに現れ、その後十二人に現れたことです。
パウロは、これが「福音」だと強調しています(Ⅰコリント15:1-2)。パウロは、ユダヤ教の律法学者ガマリエルのもとで厳しい教育を受けました(使徒22:3)。自力で「聖書」を掘り下げることのできる賢人でありました。しかしパウロは、「ケファ(ペトロ)に現れ、その後十二人に現れた」と述べているように、「週の初めの日」(=日曜日 ルカ24:1)の三度にわたる主イエス・キリストの顕現にこそ、信仰の基礎を置く人でありました。
そうして「書いてある事柄」から「福音」としてパウロの受け取ったのが、①キリストがわたしたちの罪のために死んで葬られた、そして、②そのキリストが復活せられた、ということでありました(Ⅰコリント15:3-4,14)。この二つのことを「福音」の核とする信仰によって、自分が救われたのだという確信がパウロにはありました。
パウロが主イエス・キリストに関わる預言と成就として、「モーセの律法と預言者の書と詩編」を読み直したのが、彼の敬虔かつ謙虚であり、忍耐強いところでありました。「書いてある事柄」を凝縮すると、神の大いなる救いの計画と成就が浮かび上がって来ます。労を厭わない人は幸いです。
さあ、わたしたちも「預言者の書」をひもといてみましょう。
Ⅳ 捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた
先の主イエスの教え、「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。』」に戻れば、イザヤ書53:8は「メシアは苦しみを受け」の部分に該当します。この一節は、苦難の僕の詩4からの引用です。「彼は命を取られた」または「彼は断たれた」というように、僕の最期が描き出されています。つまり、苦難の果てに、僕は死に至らしめられたことが確認されています。
わたしたちは、「彼の時代の誰が思い巡らしたであろうか」(いや、誰も思い巡らしはしなかった)との文句から、「物分かりが悪く、心が鈍い」という弟子たちを思い浮かべるでしょうか。
苦難の僕の詩4には、「捕らえられ、裁きを受けて、彼は命を取られた」、そして、「その墓は神に逆らう者と共にされ 富める者と共に葬られた」(イザヤ書53:8-9)と記述されています。これまさに、「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ」(使徒信条)という主イエス・キリストの十字架による死を想起させます。
確かに、主の僕の苦難と死に関し、「十字架」という言葉は出て来ません。しかし、人間の裏切り(背き)→捕縛→形式的な裁判→刑罰執行の結果、彼が殺され、墓に葬られたという点で、主イエスに対する預言になっています。
ところで、なぜこれほどまでに、苦難の僕の生涯とその出来事が、主イエス・キリストのそれと並行・合致しているのでしょうか?
そのヒントが、「この人を打ち砕こうと主は望まれた」、または、「主の望まれること(原文:主の望み)は 彼の手によって成し遂げられる」(イザヤ書53:10)との記載の中にあります。
すなわち、僕の派遣において、主なる神は「望まれた」ことを実現されました。ユダ王国崩壊とバビロン捕囚という「大災難」から、茨の道を経て、立ち上がっていくというイスラエルの歴史のただ中に、「苦難の僕」を登場させました。それが、弱く貧しくなった民への憐れみでありました。それが、神の「望み」・御心でありました。
このように、苦難の僕の出来事と主イエス・キリストのそれとが合致している……それが預言と成就の見事な関係になっている……のは、すべてが「主の望み」に基づいているからであります。主の僕も主イエスも、「口を開かずに」(イザヤ書53:7∥マタイ26:63)、その神の御心に従いました。
よみがえられた主イエス・キリストは三度、弟子たちの前に現れました。そして彼らに、ご自身の成し遂げられた十字架と復活が聖書の預言の通りであることを教えられました。疑念と失望によって沈み込んでいる弟子たちに、明確に「福音」が示されました。
実際に、その「福音」を受け取ったパウロは、迫害者から伝道者に変えられました。パウロが長く宣教に携わることができたのは、聖霊によって主イエスの顕現を思い起こし、旧約聖書を熟読したからでありましょう。
Ⅴ 罪の赦しを得させる悔い改めが宣べ伝えられる
ルカ福音書24:47-49 主イエスの言葉〈続き〉――
47 「『また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、48 あなたがたはこれらのことの証人となる。49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
主イエスは滑らかに、福音の受容から人間の応答へと話を展開されています。
大切なことは、ただ単に主イエス・キリストの「教えを教える」のではなく、「教えを行う」ことです。自分自身で行ったうえで、「教える」ということです。「高い所からの力(デュナミス)に覆われて」(ルカ24:49、使徒1:8)、自分が行っていること、すなわち、聖霊によって生かされていることを、世の人に伝えるのです。
神の恵みの御業への応答として、私たちの為すべきことは、「罪の赦しを得させる悔い改め」であり、御名によってそれを宣べ伝えることです。主イエス・キリストに向き合い、充分に自分の罪を悟ったうえで、悔い改めなさい、と勧められています。そこで、感謝をもってキリストから罪の赦しを受けるのです。
ここでは、「証人となりなさい」と言われています。こう命じられた「十一人とその仲間」(ルカ24:33)は、実際にイエスの死を目撃していた人(ルカ23:49)を含む、十字架の証人です。誰よりもイエスが死なれた、墓に葬られたという死の現実を見て知っている人々です。その彼らがよみがえられた主イエス・キリストに出会い、言葉をかけられたのです。
証人と証人(例えばペトロとクレオパ)とが集まって、その十字架と復活の出来事全体を受け止めました。彼らが確かに信じられるように、主イエスは「彼らに息を吹きかけ、『聖霊を受けなさい』」(ヨハネ20:22)と告げられました。
「エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」……主イエスが選ばれた弟子たちは今、「エルサレムを離れず」(使徒1:4)、新しい祭りの時(聖霊降臨日)を待っています。主イエス・キリストはこの町で、十字架につけられ、よみがえられました。主の御業によって罪過の救いが成し遂げられました。それを目撃した人々は、「エルサレムから出る」主の教え(イザヤ書2:3)を、十字架と復活の言葉を受け止めるという大事な時を迎えていました。
主イエスは弟子たちを、自分たちの家から戸外へと誘われます。というのも、主エスは四十日後に、エルサレム近く、オリーブ山あたりで、昇天されるからです(ルカ24:50、使徒1:12)。屋内から屋外へという神の導きは、この「屋外」が、「エルサレム」⇒「ユダヤとサマリアの全土」⇒「地の果てに至るまで」(使徒1:8)と拡張してゆくことから分かります。その行程において、聖霊がますます力強く働きます。その聖霊の働きの中に、わたしが入れられているとき、確かにわたしはキリスト者として生かされています。
結
詩編84:11――
詩人は、「幸いなるかな、あなたに依り頼む人は」(詩編84:13)と、神の祝福をうたっています。その中で、詩人は神からの「祝福」と「恵み」に感謝して(同上84:12)、「あなたの庭で過ごす一日」の「幸い」を語っています。
わたしたちにとっての衝撃は、通常、人生にはあまたの日々がある中から、「あなたの庭で過ごす一日」を選び取っていることです。詩人は、人生全体の「恵み」を「あなたの庭で過ごす一日」に凝縮しています(もちろん神殿礼拝に出席した実数からすれば、この「一日」はあくまでも比喩でしょう。しかも非常に優れた譬えです)。
しかし、このように「詩編に書いてある事柄」は、主イエス・キリストがよみがえられた「週の初めの日」(=日曜日 ルカ24:1)、主の顕現が三度あった日、わたしたちの祝うイースターにおいて、現実のものとなりました。
「あなたの庭で過ごす〈復活日の〉一日は千日にまさる恵みです」!
〈説教の原稿〉
2026年 3月29日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 創世記 9章6節(P.11)
新約聖書 マタイによる福音書 26章47節~56節(P.54)
説 教「友よ、しようとしていることをするがよい」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ わたしが接吻するのが、その人だ
Ⅱ 剣を取る者は皆、剣で滅びる
Ⅳ 人の血を流す者は 人によって自分の血を流される
結
序
きょう、棕櫚の主日 ‘ Palm Sunday ’ (パームサンデー)記念して神の祝福にあずかり、受難週を過ごし、イースターを迎えましょう。
主イエスは群衆の歓呼を受けて、ろばの子に乗ってエルサレムに入城されました(マタイ21:1-11)。その時、群衆はなつめやしなど木の枝を振ったり、地面に敷いたりしました(ヨハネ12:13、マタイ21:8)。主イエスは裏切られて逮捕され、いよいよ最後の三日間(金曜・土曜・日曜)が始まります。
場所はゲツセマネの園付近、時は日が暮れて金曜日に入った頃です(ユダヤの暦では夕方から一日が始まります)。人間の罪の闇が深まっていきます。夜が明けて、金曜日が終わる頃までに、主イエスは十字架の死を遂げられています。それ故に、この日は受苦日または受難日と呼ばれています。
主イエスは主の晩餐を催し、ゲツセマネの祈りをささげられました(マタイ26:20-30,36-46)。これから一体何が起こるのでしょうか?
今、主イエス・キリストは「わたしである」(エゴー エイミ ヨハネ18:5,6,8)として父なる神の前に立っておられます。逃げも隠れもされません。「わたしである」(エゴー エイミ)というのは、神がモーセに言い表された「わたしはある。わたしはあるという者だ」との神の名にさかのぼります(出エジプト記3:14)。そして今、主イエスがそのような神の名を持つお方として世に来られました(ヨハネ1:9、18:37)。
そのようなお方として、主イエスは前に進んで行かれます(ヨハネ18:4)。裏切られ、逮捕される場面においても、その姿勢が貫かれます。
Ⅰ わたしが接吻するのが、その人だ
マタイ福音書26:47-50――
47 イエスがまだ話しておられると、十二人の一人であるユダがやって来た。祭司長たちや民の長老たちの遣わした大勢の群衆も、剣や棒を持って一緒に来た。48 イエスを裏切ろうとしていたユダは、「わたしが接吻するのが、その人だ。それを捕まえろ」と、前もって合図を決めていた。49 ユダはすぐイエスに近寄り、「先生、こんばんは」と言って接吻した。50 イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた。すると人々は進み寄り、イエスに手をかけて捕らえた。
イスカリオテのユダが、「祭司長たち、民の長老たち、大勢の群衆」のお先棒を担いで登場します。羊の皮を被った狼(マタイ7:15)のごとく、ユダは善い人を装っています。「わたしが接吻する」・「先生、こんばんは」……それは、彼がわたしたちから遠いところにある人間ではないことを物語っています。
しかし、主イエスは、ユダと会話を交わされながら、神を退けようとする人間の悪意を見抜いておられます。悪行を遂行する人間には、どこか不自然なところが見え隠れします。例えば、「わたしが接吻する」と宣言したユダは実際、「『先生、こんばんは』と言って接吻しました」。
前の「接吻する」という動詞に比べて、後の「接吻する」には、「繰り返し・激しく口づけする」という強調語が使われています。日常の挨拶では、そんな派手なことはしないということを気にも留めていません。愚かなことです。
また、ここでユダは親しげに「先生、こんばんは」と語りかけています。しかし、マタイ福音書では「先生」(ギリシア語 ラビまたはディダスカロス)という用語は、主イエスに議論をしかけるような挑戦的な文脈でしか使われていません(マタイ8:19、22:16、26:25)。主イエスは「広場で挨拶されたり、『先生』と呼ばれたりすることを好まれ」ません(同上23:7)。聖霊に導かれて、主イエスがどのようなお方であるのか、知ろうとするのでなければ、「先生」との呼称には何の意味もありません。かえって、自らの不信仰と反逆とを露呈しています。
「人々はイエスを捕らえた」(マタイ26:57)と締めくくられているように、主イエスはイスカリオテのユダから「祭司長たち、民の長老たち、大勢の群衆」へと「引き渡されました」(同上27:2)。つまり、主イエスの逮捕は、ユダが他の人々に「引き渡す」(ギリシア語 パラディドーミ)ことで実行されたということです。
この「引き渡し」こそが、福音書記者が同じ動詞をもって、「イエスを裏切ろうとして」(パラディドーミ)と表現したように、残忍な「裏切り」行為にほかなりませんでした。元来、パラディドーミ は、誰かが何かを人に「差し上げる」というように日常語として平凡な場面で使われるものです。ところが、ユダの「引き渡し」には神の御子に十字架を負わせる重大な「裏切り」が潜んでいました。
K.バルトは、ローマの信徒への手紙1:24,26,28に連続する「引き渡す・身をゆだねる・まかせる」(パラディドーミ)に関して、この世界においては、どんな防波堤も、もはや悪徳の洪水を持ちこたえることができないといことを明示していると注釈しています。まさに、イスカリオテのユダの一つの「裏切り」によって、この地上に悪と堕落と不法があふれ出し、多くの人を闇の中へと包み込むことになりました(創世記6:5,11)。
「剣や棒を持って一緒に来た」……人々は武器を持って、自分たちの陣営へのイエスの「引き渡し」を確実なものにしようとしました。ヨハネ福音書の並行記事は、ローマの一隊の兵士たちが加わっていたと証言しています(ヨハネ18:3,12)。このような乱暴なやり方は、力と力の対決を呼び起こします(マタイ26:51)。そこで、主なる神は、平和を壊す由々しき事態に介入されると預言しておられます。
イザヤ書2:4――
主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。
彼らは剣を打ち直して鋤とし
槍を打ち直して鎌とする。
国は国に向かって剣を上げず
もはや戦うことを学ばない。
イザヤの預言によれば、戦いの武器を平和の道具につくり変えるために、「国々・多くの民」が用いられます。「幸いなるかな、平和を実現する人々は」(マタイ5:9)というように、神の祝福が彼らに与えられます。
「剣」と「槍」がひとたび粉々にされて、つくり変えられます(打ち直されます)。それは、罪にそまっていたこのわたしが、神の恵みによりつくり変えられる(Ⅱコリント5:17、ローマ8:3)ことを指し示しています。
イエスは、「友よ、しようとしていることをするがよい」と言われた……マタイ福音書では「先生」(ギリシア語 ラビ または ディダスカロス)との語が、相手への挑戦的な態度を表しているのに対し、「友よ」との主イエスの応答は、相手への不審を言い表しています。つまり、わたしのそばにいる「友」がわたしを「裏切って」しまうのですか、ということです。
ただし、「あなたがしようとしていることをするがよい」というのは、投げやりな気持ちから出たものではありません。そうではなく、主イエスは神の計画が成し遂げられることについて言及されているのです。すなわち、イスカリオテのユダが「しようとしていること」、「引き渡し・裏切り」の実行は、主イエス・キリストの十字架と復活の出来事において、「起こらざるを得ないこと」だということです。
要するに、ひとりの罪人の「しようとしていること」は、「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」(ゲツセマネの祈り マタイ26:42)という神の救いの計画の一環なのです。「時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される(パラディドーミ)」(同上26:45)というように、主イエスは、罪人の「引き渡し・裏切り」という闇の中を突き進んでいかれます。このゲツセマネの祈りによっても、人間のうわべの挨拶や接吻の滑稽さが映し出されます。
Ⅱ 剣を取る者は皆、剣で滅びる
マタイ福音書26:51-54――
51 そのとき、イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした。52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる。53 わたしが父にお願いできないとでも思うのか。お願いすれば、父は十二軍団以上の天使を今すぐ送ってくださるであろう。54 しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」
前段では、「あなたがしようとしていること」、すなわち、イスカリオテのユダを筆頭とする罪深さが浮き彫りにされていました。それに対し、この段落では、「しようとしていること」を受ける側の反応が描かれます。主イエスが「裏切られ、引き渡される」事態に直面した弟子たちの姿勢が物語られています。果たして、弟子たちは「父よ、あなたの御心が行われますように」との主イエスの祈りの重さに気づいていたのでしょうか。
「イエスと一緒にいた者の一人が、手を伸ばして剣を抜き、大祭司の手下に打ちかかって、片方の耳を切り落とした」……「剣や棒」が「松明やともし火」(ヨハネ18:3)に照らし出されています。一挙に物騒な気配が拡がり、一触即発の状況になりました。恐れを感じた「イエスと一緒にいた者の一人」が先制攻撃に出ました。
ヨハネ福音書では、「シモン・ペトロは剣を持っていたので、それを抜いて大祭司の手下に打ってかかり、その右の耳を切り落とした。手下の名はマルコスであった」(18:10)というように、加害者と被害者が特定されています。武器を駆使した「シモン・ペトロ」と傷つけられた「マルコス」との確執は、わたしたちの問題であります。そのことは、すぐに介入した主イエスの言葉を読めば分かります。
「剣をさやに納めなさい。剣を取る者は皆、剣で滅びる」……平和の主、イエス・キリストは「剣」に対し「剣」をもって立ち向かわれません。主イエスは、悪に対し悪をもって対決するのではなく、悪に対し善をもって応じられます。主イエスは「あなたの御心が行われますように」との祈りをもって、「善をもって悪に勝つ」道(ローマ12:21)を進んでゆかれます。
「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう」……主イエスは「十二軍団以上の天使」の派遣・応援によって力を行使されようとはされません。そうではなく、主イエスは「へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)という姿勢を貫かれます。
それは、「必ずこうなる(~ねばならない)と書かれている聖書の言葉」の一つですが、「屠り場に引かれる小羊のように 毛を切る者の前に物を言わない羊のように 彼は口を開かなかった」(イザヤ書53:7)という預言の成就でありました。主イエスは苦難の僕として、「剣や棒」に頼ろうとする人間の罪を自ら負うお方なのです。正々堂々と、十字架の丘で「必ずこうなる」ことを成し遂げるために前進してゆかれます。
Ⅲ 預言者たちの書いたことが実現するため
マタイ福音書26:55-56――
55 またそのとき、群衆に言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来たのか。わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていたのに、あなたたちはわたしを捕らえなかった。56 このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった。
主イエスは「このとき、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」という前に、弟子たちに御言葉を語り伝えておられます。あたかも、後に彼らのために悔い改めの機会を備えているかのように……。主イエスは、「群衆が言まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持って捕らえに来た」という事態に動じることなく、過去から将来へと至る神の計画を見据えておられます。
「わたしは毎日、神殿の境内に座って教えていた」……読み飛ばしてはなりません。そのことが具体的に、マタイ福音書21:23から24:1にかけて報じられています。主イエス・キリストはこのような形で、「毎日」、わたしたちと共におられます。わたしたちの日常を「神殿の境内」にいるかのように清めてくださいます。そのために、主日には、“ 霊 ” なるお方として、わたしたちの教会で「座って教えて」くださいます。
「しかしそれでは、必ずこうなると書かれている聖書の言葉がどうして実現されよう。」(26:54)
「このすべてのことが起こったのは、預言者たちの書いたことが実現するためである。」(26:56)
二度同じ内容が繰り返されていることから、主イエスの御言葉の強調点がここにあることが自明です。
「聖書の言葉」または「預言者たちの書いたこと」が、旧約聖書のどの箇所を指しているかは、特定できません。Ⅱ.では一例として苦難の僕の詩(イザヤ書53:7)を掲げました。
弟子たちを驚愕させる思いがけないことが起こりました。しかし、主イエスは何もかもご存じでありました。
エレミヤ書23:1-2――
1 「災いだ、わたしの牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たちは」と主は言われる。2 それゆえ、イスラエルの神、主はわたしの民を牧する牧者たちについて、こう言われる。
「あなたたちは、わたしの羊の群れを散らし、追い払うばかりで、顧みることをしなかった。わたしはあなたたちの悪い行いを罰する」と主は言われる。
ここで預言されている「わたしの民を牧する牧者たち」は、「祭司長たちや民の長老たち」を指しています。彼らが黒幕としてユダはじめ群衆を手引きすることによって、エレミヤの預言が成就しました。預言通りに散り散りになった弟子たちの最大であり唯一の問題は、このまま主イエスとの関係を否認し続ける(マタイ26:69-75)のか、ということでありました。
Ⅳ 人の血を流す者は 人によって自分の血を流される
創世記9:6 神→ノアと彼の息子たち――
人によって自分の血を流される。
主イエスは裏切られ、逮捕され、十字架への道を歩んでいかれます。このような状況に置かれたとして、自分は決して失望したり遁走したりしないと言い切る人は、よほどの自信家でありましょう。
では、そうならないためには、一体何を拠りどころとすれば、よいのでしょうか。それは一言でいえば、神の救いの計画が成し遂げられている、そして、自分の生死がその計画のもとにある、と信じることです。
そのことが信じられるように、わたしたちのために、主イエス・キリストは十字架にかかり、三日目によみがえられたのです。「裏切られ、引き渡された」主イエスは、罪人を憐れんで、その罪を贖い、赦しを与えてくださいました。
そのように、計り知れない代価をもって、わたしたちを救ってくださった根本的な理由は、「人は神にかたどって造られたから」ということです。その点で、十戒の第六戒「殺すなかれ」(出エジプト記20:13)は、キリスト教倫理の土台であります。
具体的には、「人の血を流す者は 人によって自分の血を流される」とのいにしえよりの教えに基づいて、「剣を取る者は皆、剣で滅びる」と、主イエスもまた戒められました。これに関して、カルヴァンは「何ぴとも神御自身を侮辱することなしには、その兄弟を傷つけ得ない、というこの教えは、注意深く考察されねばならない」と注解しています。わたしたちは、一瞬の「剣」のひと振りによって、神の栄光と「神にかたどって造られた人」とが同時に損なわれることを嘆き悲しむことになります。
しかしわたしたちは、加害者「シモン・ペトロ」と被害者「マルコス」の和解の道をあきらめたり、見失ったりしなくてよいのです。なぜなら、神の栄光はやがて回復され、神の僕たちが主に栄光を帰すからです。
結
最後に受難週にふさわしい祈りを、一つご紹介しましょう。
主である神 あなたはわたしの力をご存じです。どうぞ、わたしの弱さをお助けください。
あなたがわたしの力であってくださる限り真に強くありうるのです。
わたしが自分の力に信頼するときは、わたしは自分の力さえ失ってしまうのです。
あなたを棄てるものは、あなたを失うことになるのです。
わたしの望みのすべては、ただ、あなたの慈しみにかかっています。 アウグスティヌス
奨励原稿
2026/03/22
「偽りは真理から生じないことを知る」
保坂弘志
旧約聖書 出エジプト記 20章 16節
隣人に関して偽証してはならない。
「聖書協会共同訳」
隣人について偽りの証言をしてはならない。
新約聖書 ヨハネの手紙一 2章18節~27節
中心聖句
21:わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
はじめに、ヨハネの手紙一2章18節ある「子供たちよ」という呼びかけから見ていきましょう。
①「子供たちよ」と呼びかけている相手:小アジアの教会の兄弟姉妹
最初に「子供たちよ」と呼びかけている相手の人たちは誰なのでしょうか。この手紙の宛先である小アジアの教会の兄弟姉妹に、「子供たちよ」と優しい呼びかけから始まっています。ヨハネは、小アジアの教会の兄弟姉妹に呼びかけながら、時代を超えて、全世界の教会の兄弟姉妹に向けて、話しかけていると考えるとどうでしょうか。私たち茅ヶ崎香川教会の信徒がそのように呼びかけられたら、心を開かれる思いになりませんか?
②ヨハネは何故終わりの時が来ることがわかったのか。
終わりの時が来るとき、「反キリストがくると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」
ヨハネはなぜ終わりの時が来ていることがわかったのでしょうか。それは「反キリストが来ると、あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。これによって、終わりの時が来ていると分かります。」とあります。
まずは、「あなたがたがかねて聞いていたとおり、今や多くの反キリストが現れています。」という「かねて聞いていたとおり」を見てみましょう。それは、マタイによる福音書では、
マタイによる福音書 7:15-23
15:「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。
21:「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。
22:かの日には、大勢の者がわたしに、『主よ、主よ、わたしたちは御名によって預言し、御名によって悪霊を追い出し、御名によって奇跡をいろいろ行ったではありませんか』と言うであろう。
23:そのとき、わたしはきっぱりとこう言おう。『あなたたちのことは全然知らない。不法を働く者ども、わたしから離れ去れ。』」
また、マルコによる福音書では、
マルコによる福音書13:5-6
5:イエスは話し始められた。「人に惑わされないように気をつけなさい。
6:わたしの名を名乗る者が大勢現れ、『わたしがそれだ』と言って、多くの人を惑わすだろう。
③「反キリストが来る」の「反キリスト」とは?
福音書に書かれた偽りのメシアのことを「反キリスト」とヨハネは書いています。
22:「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」
26:「あなたがたを惑わせようとしている者たち」と書かれた人たち
そのような人たちはどうなったか
19:彼らはわたしたちから去って行きましたが、もともと仲間ではなかったのです。仲間なら、わたしたちのもとにとどまっていたでしょう。しかし去って行き、だれもわたしたちの仲間ではないことが明らかになりました。
もともと同じ教会にいた人たちの中に「反キリスト」を考える人たちがいて、その人たちは教会から去って行った。
それは自分たちの主張が通らないことから、教会にとどまらないで、去って行ったので、仲間ではないと、激しく「反キリスト」と呼ばれる人たちを批判しているのです。ここを言葉通り読むと、なぜここまでヨハネは、教会を出て行った人たちを厳しく批判しているのでしょうか。そこには、ヨハネの曲げられない重要な思いがあるように見えます。反キリストという人たちは、キリストを告白して口では認めていても、心では主イエスを信じでいないような人たちです。22:「イエスがメシアであるということを否定するもの」と言われるほど、キリスト教の根本を揺るがすほどの誤った考えを持った人たちが、ここで言われている反キリストだと言っているのです。
ヨハネはこの手紙書いた時、この考えが教会の中に、はびこり始めていたことを恐れて、そのような意見に賛同する人たちが現れて、教会が分裂するという経験をしたのでしょう。
キリストを受け入れたはずの人でも、道をはずれてしまうことがあります。わたしたちもおなじかもしれません。わたしたちも教会に行かなくなった時期もあるし、この先もいつか信仰が弱まって、教会に行けなくなってしまうのではないかという不安は、わたしたちに付きまとってきます。そうしたら、わたしは反キリストになってしまうのではないか。という不安がわたしたちに起こるかもしれません。
信仰というのは、強まったり、弱まったりするものだとは、私は考えられないのです。なぜなら、信仰というのは、与えられるものであって、主イエスと出会うということの経験だからです。だから、口で神を畏れているかのように言葉に出しても、実際は自分の内側に主イエスではなく、「自分」しかいない人は、「反キリスト」になろうとしている人なのではないでしょうか。
④御子から注がれた油とは
さて、20節を見ると、
20:しかし、あなたがたは聖なる方から油を注がれているので、皆、真理を知っています。
ここでいう「油」とは、「聖霊」を指しています。
旧約聖書サムエル記上16章13節で、ダビデが油を注がれると、「主の霊がダビデの上に臨み、かれにとどまり続けた」とあります。聖霊が下るということでは、主イエスが洗礼を受けられた時に、聖霊が天から主イエスに注がれます。このように、洗礼を受けるものは、聖霊の注ぎを受けます。ですから、わたしたちも、聖なる方主イエス・キリストによって、私たちが洗礼(バプテスマ)を受けて、身も心も主イエスに自分を明け渡した経験は、聖霊を注がれているのです。この「聖霊」の導きによって、私たちは、「真理」を知っているとヨハネは言うのです。先ほどの
22節「偽り者とは、イエスがメシアであることを否定する者でなくて、だれでありましょう。御父と御子を認めない者、これこそ反キリストです。」
主イエスがメシア、救い主であるということ否定することです。つまりヨハネはここで神さまご自身がナザレのイエスという人間であり、神の御子である主イエスが世の罪、わたしたちの罪を担って、私たちを死から救ってくださった救い主であることを否定することは「真理」ではなく「偽り」であるといっています。
「反キリスト」に打ち勝つためには、聖霊の働きに身を委ね、自身の中心軸にある「自分」を主イエスに明け渡すことこそが、神の御心であると気づくことだと考えます。そのことは 27節に記されています。
27:しかし、いつもあなたがたの内には、御子から注がれた油がありますから、だれからも教えを受ける必要がありません。この油が万事について教えます。それは真実であって、偽りではありません。だから、教えられたとおり、御子の内にとどまりなさい。
とヨハネは呼びかけています。しかしながら、主イエスが伝えてくださった言葉を知って信じて、洗礼を受けたけれど、やはり主イエスはなにをお語りなっているかが、わからなかったり、聖書が難しすぎて、神さまのみ心がわからないという気持ちが湧き上がってきたりすることがあるかもしれません。また、本日の聖書に出てくるように、「反キリスト」や「惑わせようとしているもの」と呼ばれる、誤った神さまの情報や間違った主イエスの情報を持っている人たちの言葉として、「これが真理だ」と断言されてしまったら、それを信じてしまうかもしれません。これに対して、ヨハネは「あなたがたは油を注がれているから大丈夫だ」と、私たちに言っています。 信じて洗礼を受け時に、わたしたちは同時に主イエスによって聖霊を注がれたのです。 その聖霊は、救い主である主イエスを信じますという告白と信仰が、私たちの中から無くなることのないように、いつまでも残るようにしてくれるのですそして、毎月の聖餐式でパンと葡萄酒によって主イエスの肉と血をいただくという行為によって繰り返し思い起こされていくのです。それが聖霊の働きなのだと思います。
同じように、毎週の主日に聴く説教における神の言も「聖霊」の働きなしには、理解も心に落とすこともできないと信じます。
⑤すべて偽りは真理から生じないことを知っている
本日読まれた、出エジプト記 20章 16節
隣人に関して偽証してはならない。
は有名な十戒の第九戒(第9の戒め)です。これは最新の「聖書協会共同訳」では、
隣人について偽りの証言をしてはならない。
となっています。
神の戒めを守ることを考えたとき、偽りを退けて、真理を求めることが神の御心であるとすれば、
父なる神、主イエス・キリスト、聖霊の三位一体を信じる信仰というのは、ヨハネの言う「真理」を信じることと同じことばなのではないでしょうか。21節を見ると、
21:わたしがあなたがたに書いているのは、あなたがたが真理を知らないからではなく、真理を知り、また、すべて偽りは真理から生じないことを知っているからです。
反キリストに打ち勝つために必要な心の有り様は④で示したとおり。
そのためには、父なる神、主イエス・キリストを信じて、さらに「聖霊の働き」を感じることによって、「偽りは真理(永遠の命へ至る道)から生じないことを知ることが大切なのです。
聖霊は主イエスがこの世に来られた時に教えられていた教えを現代まで脈々と続けて私たちに教えてくれるのです。ではその教えとはなにか。それは神さまの御心だと思います。
ヨハネによる福音書 14章 09節:イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。
このように神さまの御心は主イエスにすべて表わされているのです。主イエスに示された神さまの御心とは、私たちを愛してくださっているということであり、私たちを滅ぼすことなく、永遠の命を与えたいということだと思います。主イエス御自身が福音書の中でこう語られておられます。
ヨハネによる福音書 03章 16節:神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。
ヨハネによる福音書 06章 40節:わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」
これが神さまの御心です。そして、主イエスの十字架による死と復活の出来事が「真実」であると聖霊は教えているのです。そして私たちにも理解できるようにしてくれるのです。聖書の語る言葉が難しくてわからなかったが、説教を聞いてその言葉がわかようになったり、ある出来事を通してわかる瞬間が来たりすると、その出来事の裏で、聖霊が働いているのです。もっと言えば、私たちが主イエスを信じるようになったきっかけの出来事や出会いのには、聖霊が働いているのだと思います。それは、ヨハネによる福音書に出てくる以下の聖句に示されます、
ヨハネによる福音書 14章 17節:この方は、真理の霊である。世は、この霊を見ようとも知ろうともしないので、受け入れることができない。しかし、あなたがたはこの霊を知っている。この霊があなたがたと共におり、これからも、あなたがたの内にいるからである。
ヨハネによる福音書 14章 20節
かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。
ヨハネによる福音書 15章 07節
あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる。
ヨハネによる福音書 15章 11節
これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなたがたの内にあり、あなたがたの喜びが満たされるためである。
ヨハネによる福音書は、私たちはこのように、聖霊に導かれて、教え続けられているのです。そしてそれは、毎週の礼拝に招かれ、聖霊に導かれて、「真理」を毎週聴いて心におさめて、身をゆだねることによって知ることができる、それが「真理」だと私は思います。
〈説教の原稿〉
2026年 3月15日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 詩編37編 23節~40節(P.869)
説 教「主を避けどころとする人」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 人は倒れても、打ち捨てられるのではない ……詩編37:24
Ⅲ 生涯、憐れんで貸し与えた人 ……詩編37:25-26
Ⅳ 悪を避け、善を行え ……詩編37:27
Ⅵ 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる ……詩編37:39-40
Ⅶ 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい ……ヘブライ13:5
序
祖国滅亡と捕囚……ユダヤ民族は、前587年から前538年までのおよそ50年間、第二次世界大戦中のホロコースト(大虐殺)に並ぶような苦難を経験しました。人々の生活を支える諸制度は、宗教から政治・経済に至るまで、崩壊しました。神殿礼拝、祭司制度、預言活動、外交、食糧等の問題によって、物心両面で、人々は疲れきっていました。
そのどん底にあって、霊的な力を、今、将来に向けて出来ること、すなわち、「聖書」を編むことに傾注しました。暗黒の時代だからこそ、ユダヤの民は結束して、ヤハウェ信仰を見直しました。
Ⅰ 主は人の一歩一歩を定める
詩編37:23――
祖国が壊滅して、ユダヤの民は散り散りばらばらになりました。そのような状況にあって、主の「御旨にかなう道」が定められるのは、寄る辺ない民への大いなる贈り物です。ただし、注意深く「人の一歩一歩」と記されているように、先を急いではなりません。うかつにも「一歩」つまずくと、たちまち罪の誘惑にさらされてしまいます。その辺りの危うさを深掘りしてみましょう。
「自分(人)の道」は言うまでもなく、無くてはならず大切なものです。それは、「人間(アダム)」が見極めよう・理解しようとして、「自分の道を計画する」ところに現れています。そして、次のような事態が起こります。
すなわち、或る人は、「自分の道」でつまずき倒れて、主の備えられた道にたどり着きます。また、他の人は、脇目も振らずに「自分の道」を突っ走ろうとしています。全く対照的な人の生涯です。だからこそ、「主が一歩一歩を備えてくださる」ということが重要なのです。
問題は、人の罪咎や欲望に心惑わされて、「人の一歩一歩」に狂いが生じやすいということです。焦り、人に対するライバル心、あるいは、飽きっぽさなどが「人間の心」に入り込んできます。そこで、「人間(アダム)」を知り尽くしている神は、先手を打ってくださいました……「(主は)御旨にかなう道を備えてくださる」。
天の神は地上に「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)のいることをご覧になっていました。彼らの労苦や患難を見守っておられました。その上、神は世に預言者や神の僕を遣わして、「主の道」(詩編37:34)から逸れないように警告されました。それにもかかわらず、地上に人の悪が増して(創世記6:5)、いよいよ時満ちた時、父なる神は、人々の間に御子イエス・キリストを遣わされました。
ヨハネ福音書14:6 主イエスの言葉――
「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。」
こうして人々は、ただ一つの道を見出せるようになりました。それはまさしく、主の「御旨にかなう道」であります。今や、「あなた(人)の道」(詩編37:5)は、「わたしは道である」という主イエス・キリストと交わりました。主イエスが愛と正義をもって、「人の一歩一歩を定めてくださいます」。
Ⅱ 人は倒れても、打ち捨てられるのではない
詩編37:24――
主の「御旨にかなう道」を歩む人は、順風満帆に行くかと思いきや、そうではないと、釘が刺されます。主に逆らう者の仕掛けた罠にはまって「倒れる」こと(詩編119:110)もあれば、自ら高慢や貪欲の罪に走って「倒れる」こともあります。
ここは、自分の体験をもって、「人は倒れても、打ち捨てられるのではない」ことを証ししているパウロの言葉に耳を傾けましょう。
コリントの信徒への手紙 二 4:8-9――
8 わたしたちは、四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、9 虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされない。
人間的な目で見て、行き詰まり、失望し、見捨てられ、滅ぼされるように見えた時、忍耐の限界すれすれに達した時、それでもパウロは「打ち捨てられる」ことがありませんでした。つまり、幾多の迫害や圧迫などによって、パウロは押しつぶされなかったのです。
なぜなのでしょうか?
第一には、パウロは主イエス・キリストの十字架と復活によって救われていたからです。「わたしは道であり、真理であり、命である」と宣言される主イエスを信じていたからです。第二には、「わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マタイ16:24)との主イエスの教えに従って、弟子の務めを実践していたからです。
こうして、パウロは重圧に屈せずに立ち上がりました。「倒れて、打ち捨てられた」と思い込んで、自暴自棄になったり、人を恨んだりすることはありませんでした。
要するに、わたしたちは生きている限り、自然災害、人災、不条理、そして自らの罪が招いた危難と戦わねばならないということです。神に祈り、忍耐し、そして神からの知恵をもって、それらの患難を乗り越えてゆかねばなりません。なぜなら、「主がその手をとらえていてくださる」からです。
Ⅲ 生涯、憐れんで貸し与えた人
詩編37:25-26――
主に従う人が捨てられ
ここで、主の「御旨にかなう道」を歩んでいる人の視界が拡げられているのが明瞭です。すなわち、「若いとき」〈過去〉、「老いた今」〈現在〉、そして「子孫」〈将来〉というように、人の「生涯」全体(詩編37:18,26)を見渡しています。
「人の一歩一歩」には、幸いな時も災いの時もあります。一喜一憂しないで、終わりの日、ゴールを目指して「主の道」を歩むことが大切です。サタンに付け入らせる隙を見せず、忍耐し集中することです。
ここでは、「生涯、憐れんで貸し与える」という助言がなされています。これは同類のアルファベット詩編に照らして、「惜しみなく分け与える」または「貧しい人々にはふるまい与える」(詩編112:9、Ⅱコリント9:9)と言い換えられます。数ある善い行いの中で、どうして「憐れんで貸し与える」ことが推奨されているのでしょう。
貧しい人や乏しい人(詩編37:14)が周りにいたからでしょうか。それとも、「子孫がパンを乞う」ことにならないよう善行を積んだのでしょうか。ここで見直すべきは、一体どのような信仰者の業が「生涯」続けて行われるのか、ということです。そうです、神の恵みを感謝と賛美をもって受け取ることを、源泉としなければ、隣人を自分のように愛する奉仕は、決して長続きしません。
わたしたちはあくまでも神の御業を規範として、この世で為すべき善い業を考えていかねばなりません。主なる神は、「憐れみの器として栄光を与えようと準備しておられた者たち(=わたしたち・信仰者)に、御自分の豊かな栄光をお示しになる」(ローマ9:23)お方なのですから。
Ⅳ 悪を避け、善を行え
「悪を避けよ、そして、善を行え」……これはまさに、神の知恵であります。というのも、「悪」から「善」への決然たる移行、自分の罪咎を認める謙虚さ、そして、神の御業を規範とする善行によって、自分が「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)になっているか、が確認されるからです。舌を使って、悪いことを言わないように、自分自身を制御することから始めましょう(ヤコブ1:26、3:5)。
この神の知恵は、「悪から遠ざかり、善を行い、平和を願って、これを追い求めよ」(Ⅰペトロ3:11)というように、キリスト教倫理の中にも採用されています。むやみに「悪」やサタンに挑んで、その策略に巻き込まれないように、心構えするのが先決です。
その上で、「善を行う」ことに集中します。その時、源泉のように溢れ出ている神の恵みが、感謝と賛美を通して信仰者を奮い立たせます。
留意すべきは、一体どのようにして信仰者の業が「生涯」、行われ続けてるのか、ということです。そうすれば、主イエスによって罪赦され救われているという信仰こそが、たゆまず善行を継続する力となる、と分かるでしょう。
ローマの信徒への手紙13:12――
夜は更け、日は近づいた。だから、闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着けましょう。
偽メシアや偽預言者(マタイ24:24)が「夜」や「闇」にまぎれて活動します。しかし、その支配はいつまでも続くものではありません。「夜は更けた(進んだ)」と記述されているように、それらは通り過ぎて行きます。夜明けが近づくと、光のきざしが見えます。
わたしたちは神の御前に進み出たとき、自分が「闇の行い」を行っている、と知らされます。神から、自分が脆いこと、そして、自分の信仰すらも弱いことを、教えられるのです。護られるべき身であることを悟って、「光の武具」を着せていただきます。そのようにして、「(あなたは)とこしえに、住み続けなさい」との命令のもとに、「主の道」を歩んで行くのです。
詩編37:34――
主に望みをおき、
主の道を守れ。
主はあなたを高く上げて 地を継がせてくださる。
あなたは逆らう者が断たれるのを見るであろう。
祖国が崩壊し、指導者たちがバビロンへ連行された大災難において、「主はあなたに地を継がせてくださる」とのメッセージは、どれほど励ましとなることでしょう。少なからぬユダヤの民が、別の王による強権的な支配や生活のさらなる貧困化を恐れていたに違いありません。しかし、「それ(バビロン捕囚をはじめとするイスラエルの歴史)は平和の計画であって、災いの計画ではない。将来と希望を与えるものである」(エレミヤ書29:11)ことを、いま一度心に刻むべきでありました。
「地を継ぐ」(詩編37:9,11,22,29,34、25:13)ことにおいて重要なのは、「祝福がその子孫に及ぶ」(同上37:26)というように、神の「祝福」にあずかることです。災害時に、「土地」に関わるインフラやライフラインの整備は必須ですが、人々が求めるそれらの利便性や形態は時代と共に変わっていきます。
それに対して、恒久的に「地を継ぐ」こと、これはまさに父祖アブラハムに与えられた神の祝福でありました。
創世記15:7――
主は(アブラハムに)言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
これは、行く先も知らずに故郷を出で立ったアブラハムに臨んだ主の約束であります。当時、アブラハムは「アモリ人マムレの樫の木の傍ら(ヘブロン付近)に住んでいました」(創世記14:13、18:1、23:2)。旅人アブラハムはヘブロンにたどり着きましたが、なお生活は不安定でありました。
ところが、主の約束の通り、アブラハムが「祝福の源」(創世記12:2)となって、イサク⇒ヤコブ⇒ヨセフというように、「祝福がその子孫に及ぶ」ということが実現しました。
Ⅵ 主を避けどころとする人を、主は救ってくださる
詩編37:39-40――
39 主に従う人の救いは主のもとから来る
主に逆らう者から逃れさせてくださる。
「砦」を含めて、「避ける」または「逃れる」が鍵語となっているのは、何かしら消極的なようにも思われます。人間行動の側面からは、被害や損失の拡大を恐れて「逃避する」のは自然の理です。
しかし、詩編37編の結論として、信仰上、どのようなメッセージが語られているかを読み取らねばなりません。そのためにまず、「わたしの避けどころ、(わたしの)砦 わたしの神、(わたしが)依り頼む方」(詩編91:2)という神への信仰告白を思い起こしましょう。
ここで、詩編詩人は「主」に向き合い、「わたし」をさらけ出した上で、「なんじ」なる神を「避けどころ」または「砦」とすると表明しています。従って、「災いがふりかかるとき (主が)砦となってくださる」との言葉によって、「わたし」が「なんじ」なる神と固く結びついているのが分かります。
Ⅱ.で述べた通り、生きている限り、自然災害、人災、不条理、そして自らの罪が招いた危難と戦わねばならないわたしたちにとって、「主を避けどころとする」ことがとても大切です。それによって、わたしたちは「とこしえに、住み続ける」ように導かれます。
最後に、「生涯、憐れんで貸し与えた人には 祝福がその子孫に及ぶ」(詩編37:26)ということに関連するキリスト教倫理上の勧めを読んでみましょう。
Ⅶ 金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい
ヘブライ人への手紙13:5――
金銭に執着しない生活をし、今持っているもので満足しなさい。神御自身、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」と言われました。
使徒パウロはコリント教会の人々に対して、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たち」(Ⅰコリント5:10)の不道徳に染まらないように、と警告しています。その補足説明として、あなたがたが世の中に生きている以上、彼らと一切つきあってはならない、というのは無理だからと述べています。確かに、この世にある限り、罪人たちとの交際を免れるわけにはいきません。
ヘブライ人への手紙では、「強欲な者」の「金銭への執着」が具体的に示されています。わたしたちは日々に、「金銭に執着する」かどうか、が問われています。ある意味では、それは自己判断にゆだねれています。すなわち、「金銭」を使って購入する、貯蓄する、投資する、貸与する等の営みを信仰の観点から吟味するのは、容易なことではありません。自己評価はどうしても甘くなります。それ故に、どこからでも罪なる思いが忍び込んできます。
その中で、「今持っているもので満足しなさい」との大原則が掲げられています(フィリピ4:10)。その根拠として、「わたしは、決してあなたから離れず、決してあなたを置き去りにはしない」という神の約束が明示されています。
それを、「①悪を避けよ、そして、②善を行え」(詩編37:27)に照らして言い換えるならば、①金銭欲・「金銭への執着」から離れよ、そして、②「今持っているもの」で「善を行え」となるでしょう。その善い行いについても、②貧しく弱い人々に「憐れんで貸し与える」(同上37:26)というように教えられています(Ⅱコリント6:10)。
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〈説教の原稿〉
2026年 3月8日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
説 教 祈って、「起きなさい」と言ったペトロ 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 婦人の弟子がたくさんの善い行いや施しをしていた ……使徒言行録9:36
Ⅱ 弟子たちはリダにいるペトロに助けを求めた ……使徒言行録9:37-38
Ⅲ ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた ……使徒言行録9:39
Ⅴ このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた ……使徒言行録9:42-43
Ⅵ 起きなさい。わたしはあなたをお見送りします ……サムエル記上9:26-27
結
序
海港ヤッファからおよそ4時間離れたリダの町から、ペトロが呼び寄せられました。そして、ペトロは死んだばかりのタビタを生き返らせました。その後、ペトロはしばらくの間、ヤッファに滞在しました。
当時、ヤッファには、タビタとペトロ以外にも、主イエス・キリストを信じる群れとして、聖なる者たち、やもめたち、そして皮なめし職人シモンが住んでいました。元漁師であったペトロには、地中海沿いの港町の活気はお気に入りだったのではないでしょうか。
ヤッファは、カイサリアで異邦人の信者が起こされる橋渡しともなりました(使徒10章)。こうして見ると、キリスト教の「伝道所」(あえてそう呼びますが)がヤッファに設立されたのは、神の御心に添うものでありました。
キリスト教は、シャロン、リダ(使徒9:35)、アゾト(=アシュドド 同上8:40)、そしてカイサリア(同上10:1)というように、地中海沿岸地域に拡がっていきました(同上10:37)。その一大拠点がヤッファであり、そのきっかけは、一人の女性が主の弟子によって生き返らされたことでありました。
この地域には、主から逃れようとしてヤッファに下りタルシシュ行きの船に乗ったというヨナの物語(1:3)を知る人も大勢いたことでしょう。また、エルサレムの神殿建築のために、レバノンから木材が海路ヤッファ経由で運ばれていました(歴代誌下2:15、エズラ記3:7)。土地の人々は異邦人との交流に慣れ親しんでいました。
キリスト教信仰の基礎(使徒9:31)は、旧約聖書によって固められます。その点でも、ユダヤ人はじめさまざまな民族が混じり合っていたヤッファ「伝道所」が設立された経緯は、興味深いものがあります。ちなみに、今日のヤッファには、ユダヤ人とアラブ人の共存しており、旧市街の一角には聖ペトロ教会(カトリック)があります。
使徒言行録9:36――
ヤッファにタビタ――訳して言えばドルカス、すなわち「かもしか」――と呼ばれる婦人の弟子がいた。彼女はたくさんの善い行いや施しをしていた。
最初に、一人の婦人が紹介されます。彼女の名前は、アラム語で「タビタ」、ギリシア語で「ドルカス」であり、元の意味が「かもしか」ということでした。旧約聖書をたどると、「かもしか」(ヘブライ語でアイェレットまたはツヴィー)はとても優美で親しみ深いイメージを持っていることが分かります。
箴言5:19――
彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。
いつまでもその乳房によって満ち足り
常にその愛に酔うがよい。
雅歌8:14――
香り草の山々へ。
「恋しい人よ……かもしかのように」との聖句を思い起こさせる「タビタ / ドルカス」を中心に、ヤッファのキリスト者が数を増していったのは幸いでした。名にし負う「かもしか」は自分の家を開放して、やもめたちを招き、伝道を進めました。
これは、遠く地中海を越えて、ローマにあった、パウロの「家」のありさまと重なり合っています。
使徒言行録28:30-31――
パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
タビタの場合、殊に貧しく弱い立場ある女性たちを支援しました。ただ単に機械的に、「たくさんの善い行いや施し」を押しつけたということではありません。そうではなく、「数々の下着や上着」(使徒9:39)を繕うという手仕事によってやもめたちに寄り添ったのです。制作品の仕上げに向けて、当然、会話が弾んだことでしょう。
なお、ヤッファのみならず地中海沿岸の地域で、タビタの働きが評価されていたことは、彼女の授かった呼称から明らかです。すなわち、彼女は、「弟子」(ギリシア語 マテーテース)の女性形、「婦人の弟子」(マテートリア)をもって呼ばれていました。これによって、「教会」(使徒5:11、9:31)が男性・女性の枠を越えて組織立てられていった様子がうかがわれます。
Ⅱ 弟子たちはリダにいるペトロに助けを求めた
使徒言行録9:37-38――
37 ところが、そのころ病気になって死んだので、人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した。38 リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ。
突如、ヤッファに設立されつつあった「伝道所」に危機が襲いました。タビタが「病気になって死んだ」のです。「婦人の弟子」の不在は、そう簡単に補えるものではありません。
「人々は遺体を清めて階上の部屋に安置した」……一階から二階へ、タビタの「遺体」が運び上げられました。
このことに関して、海辺の町で二階は風通しが良かったとか、あるいは、階上は神に近いところだからとか(加藤常昭)、理由づけられています。しかしここでは、この出来事が、旧約聖書の、エリヤがサレプタのやもめの息子を生き返らせた奇跡(列王記上17:17-24)、ならびに、エリシャがシュネムの女の子どもを生き返らせた奇跡(列王記下4:8-37)と響き合っているという観点から、その訳を読み取りたいと思います。
列王記上17:18-19――
18 彼女はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」 19 エリヤは、「あなたの息子をよこしなさい」と言って、彼女のふところから息子を受け取り、自分のいる階上の部屋に抱いて行って寝台に寝かせた。
エリヤは自分にあてがわれた二階の部屋に、死んだ子どもを運んで行きました。この後、エリヤはひとりで天に向かって祈り、子どもの上に三度身を重ねてから、「主よ。子の命を元にお返しになるように」と嘆願します(列王記上17:21)。奇しくも、ペトロもまたタビタの家の階上に行き、皆を外に出して(使徒9:40)、主の御業に取りかかりました。ペトロは聖霊の導きのもとに、よみがえりの主イエス・キリストの執り成しを乞い願いつつ行動したのです。結果として、ペトロの振る舞いは、旧約の預言者エリヤに従うものとなりました。
タビタが死んだ直後の話に戻りましょう。ここで、その当時、キリスト教が地中海沿岸の地域に広まりつつあったことが功を奏しました。ヤッファ「伝道所」は孤立状態にはありませんでした。
リダはヤッファに近かったので、弟子たちはペトロがリダにいると聞いて、二人の人を送り、「急いでわたしたちのところへ来てください」と頼んだ……「婦人の弟子」・タビタは亡くなりましたが、「弟子たち」(マテーテータイ 複数男性形)が一致団結して知恵を働かせました。緊急事態下に、ペトロは巡回伝道者の務めを担うことになりました。
ペトロはリダで八年間中風を患って床についていた人をいやしたばかりでありました(使徒9:32-35)。その噂がいち早くヤッファに流れたのでしょうか。ただし、ヤッファから遣わされた人の話では、「すでに息絶えてしまっている」との由でした。リダでのいやしの御業の場合よりも、立ち向かうべき患難のハードルが高くなったと言えるかも知れません。
Ⅲ ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた
使徒言行録9:39――
ペトロはそこをたって、その二人と一緒に出かけた。人々はペトロが到着すると、階上の部屋に案内した。やもめたちは皆そばに寄って来て、泣きながら、ドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた。
「やもめたちはドルカスが一緒にいたときに作ってくれた数々の下着や上着を見せた」……ペトロは大いなる神の御業に取りかかる前に、ヤッファ「伝道所」の実情を目にしました。やもめたちは、一体どんなことをペトロに話しているのでしょうか?
どこから材料を集めたのか、どの点に作り方やデザインの工夫があるか、そして誰が着たのか、女性たちは入れ替わり、自分とタビタの思い出を語ったことでしょう。それは同時に、ヤッファ「伝道所」の活動と交わりについての豊かな証しでありました。
そこで、ペトロの内に何が起こったのか、ということが重要です。端的に言えば、キリスト教信仰が強められ、ペンテコステの日のように、聖霊がペトロに降ったのではないでしょうか。それを祈りとして表すなら、「主よ、タビタを憐れんでください。これから彼女のために執り成します。タビタと向き合っているわたしの内に、イエス・キリストの力と愛を注いでください」と言えるでしょう。
そのようにして、ペトロは目の前で「泣いている」やもめたちの悲しみを、一身に受け止めました。
Ⅳ タビタ、起きなさい
使徒言行録9:40-41――
40 ペトロが皆を外に出し、ひざまずいて祈り、遺体に向かって、「タビタ、起きなさい」と言うと、彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった。41 ペトロは彼女に手を貸して立たせた。そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた。
すでにⅡ.にで指摘した通り、旧約の預言者エリヤやエリシャの為した大いなる救いの業との並行が顕著です。「皆を外に出して」、ペトロはタビタと二人きりになりました(列王記上17:19、列王記下4:33)。その業は大勢の前でひけらかすようなものではありません。自分自身がひたすらに、天からイエス・キリストの力と愛が降って来るように通り良き管とならねばなりません。失敗を恐れてはなりません。
ある意味では、ペトロは逃げ場のない所に追い込まれました。階下では、「聖なる者たちとやもめたち」が何が起こるのだろうかと息を潜めて待っています。そして、二階に同僚のヨハネなどの弟子がいるわけでもなく、ペトロは孤独です。聞こえてくるのは、わずかに地中海の波音だけという静けさの中に、「タビタ、起きなさい」とのペトロの声が響きわたりました。
そうです、四方八方塞がりになったとき、ペトロは「イエス・キリストの名」(使徒3:6)の力に寄り頼みました。というのも、「タビタ、起きなさい」との言葉は、「少女よ、起きなさい」、アラム語では「タリタ、クム」という主イエスの宣言と同一だからです(マルコ5:41)。
主イエスは死の力に襲われた少女に「タリタ、クム」と呼びかけて、少女(会堂長ヤイロの娘)を起き上がらせました。これは、ガリラヤ湖畔のカファルナウムでの出来事です。この時、ペトロは主イエスの許しのもとに家の中に入り、この神の御業のいっさいを目撃していました(マルコ5:37,40)。
それ故に、「彼女は目を開き、ペトロを見て起き上がった」という人間の生き返りは、「イエス・キリストの名」(使徒3:6)の力を信じるペトロの信仰によって成し遂げられた、と言えるでしょう。その中心には、死を打ち砕き、命へと呼び戻す「タリタ、クム」という主イエスの宣言が置かれていました。
「彼女(タビタ)は目を開き、ペトロを見て起き上がった。ペトロは彼女に手を貸して立たせた」……突如、光が、一対一の袋小路に追い込まれたような状況に射し込んできました。神の召し出された伝道者の二人が、死からよみがえらせる主イエス・キリストの力と愛にあずかりました。この二人の体験と証言は当然、ヤッファ「伝道所」の兄弟姉妹と共有されるべきものでありました……「そして、聖なる者たちとやもめたちを呼び、生き返ったタビタを見せた」。
ペトロはタビタのみならず、聖霊の息吹を吹きかけるようにして、「聖なる者たちとやもめたち」をも呼び覚ましました。傷ついた「かもしか」が再び飛び跳ねているタビタの回復は、彼らの信仰に新たなる力を与え、彼らを慰めたことでしょう。そのことは、この度の神の大いなる救いの御業に関わる最終報告によって証言されています。
Ⅴ このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた
使徒言行録9:42-43――
42 このことはヤッファ中に知れ渡り、多くの人が主を信じた。43 ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した。
わたしたちは、自分たちの「教会」の創設や伝道の歴史を顧みるうえで、どのように初代「教会」が建てられたいったのか、は興味深いことでしょう。
マタイ福音書16:18 主イエスの言葉――
「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。」
ここで主イエスが「教会」(ギリシア語 エクレーシア)と言われているものは、「呼び集められる」という言葉に由来しています。実際、リダにいたペトロはヤッファに「呼び集められました」。そこには、「婦人の弟子」を中心に、「弟子たち」や「聖なる者たちとやもめたち」が主にある交わりを形成していました。
制度上、いつ、「伝道所」や「教会」が設立されたのか、は知る由もありません。しかし、わたしたちは、当時、ユダヤの沿岸地方に伝道が進展する中で、「教会」が建てられたということを、新約聖書を根拠として教示されています(使徒8:1,3、9:31)。その上、わたしたちは、ペトロやタビタが集い、「多くの人が主を信じる」という過程において、ヤッファの町に「伝道所」が存在していたことを知らされました。
ペトロは一人の女性が生き返らせるという奇しき業を通じて、ヤッファの兄弟姉妹に結び合わされました。主イエスの御前で「あなたはメシア、生ける神の子です」(マタイ16:16)と信仰告白したペトロの上に、すなわち、「この岩の上に教会が建てられた」と言えるでしょう。それは、神の御旨として、ペトロに託された使命でありました。こうして、ヤッファ「伝道所」が、地域の核となる「教会」へと進展していくよう基礎づけられました。
「ペトロはしばらくの間、ヤッファで革なめし職人のシモンという人の家に滞在した」……ここには、ペトロの次の伝道への布石が打たれています。「革なめし」という職業は、汚れていると見なされ、人々から蔑まれていました(G.シュテーリン)。
やがてペトロは、カイサリアに駐留しているローマ人の百人隊長に出会うことになります(使徒10章)。カイサリアはヤッファのおよそ60㎞北に位置する海港でありました。そこには、ローマの行政官の居城があり、ローマ軍の司令部が置かれていました。
ある日、昼の十二時ごろ、ヤッファのペトロが祈るために屋上にあがった時、幻を見ました。
使徒言行録10:11-12――
11 天が開き、大きな布のような入れ物が、四隅でつるされて、地上に下りて来るのを見た。12 その中には、あらゆる獣、地を這うもの、空の鳥が入っていた。
そこで聞こえてきたのが、「神が清めた物を、清くないなどと、あなたは言ってはならない」(使徒10:15)との天の御声でありました。ユダヤ人の通常の宗教生活においては、「革なめし職人のシモン」や「ローマの百人隊長コルネリウス」との交際は差し控えられるのが実情でした。
しかし今や、ユダヤ全地方の伝道は、異邦人との交流に向けて舵を切ってゆくことになりました。そのためには、ユダヤ人と異邦人が愛し合いながら、共々に「教会」を形成している拠点が必要でありました。十字架と復活の主イエス・キリストを礎としたヤッファの礼拝共同体がその役割を果たしたのであります。
ペトロが通り良き管となって、神の大いなる救いの御業が実現しました。その時、聖霊の導きにより、ペトロに降って来たのが、「タビタ、起きなさい」、すなわち、「タリタ、クム」との主イエスの御言葉でありました。そこで旧約聖書によって、日常家庭で聞かれる言葉であり、死者に呼びかけられる言葉でもある「起きなさい」が使われている一幕をひもといてみましょう。
Ⅵ 起きなさい。わたしはあなたをお見送りします
サムエル記上9:26-27――
26 彼らは朝早く起きた。夜が明けると、サムエルは屋上のサウルを呼んで言った。「起きなさい。お見送りします。」サウルは起きて、サムエルと一緒に外に出た。27 町外れまで下って来ると、サムエルはサウルに言った。「従者に、我々より先に行くよう命じ、あなたはしばらくここにいてください。神の言葉をあなたにお聞かせします。」従者は先に行った。
登場人物は、預言者サムエルと間近にイスラエルの初代の王となろうとしているサウルです。場所は、サムエルの住んでいたラマだと思われます(サムエル記上1:1、8:4)。ラマはエルサレムの北、およそ10㎞に位置しています。
二人の出会いに関しては、三日前に姿を消したろばを捜しに来たサウル(サムエル記上9:20)を、すでに神の預言を聞いていたサムエル(同上9:15-17)が迎え入れるという設定になっています。
共に食事をした(サムエル記上9:24)明くる日、サムエルは「屋上で!」(サムエル記上9:25,26)寝ていたサウルに向かって、「起きなさい」(ヘブライ語 クマー)と呼びかけました。
なんだ、これは我が家でも見られる日常の光景でしょう、と言われるかも知れませんが、全く違います。というのも、この日直ちに、二人きりになった時、イスラエルの歴史を画するような出来事が起こるからです。
サムエル記10:1――
サムエルは油の壺を取り、サウルの頭に油を注ぎ、彼に口づけして、言った。「主があなたに油を注ぎ、御自分の嗣業の民の指導者とされたのです。」
三日間の、父キシュに命じられたろば捜索と手厚い客人饗応によって、爆睡していたであろうサウルが「起きなさい」とひと言で飛び起こさせられたのです。この物語を俯瞰して見れば、“ 霊 ” 的に疲弊していたサウルが、サムエルの祈りの込められた「油注ぎ」によって、イスラエル全土の “ 霊 ” 的な指導者として……まるで死人が生き返らされるように!……立てられたのです(サムエル記上11:15、13:1、14:47)。
つまり、若者(サムエル記上9:2)サウルを “ 霊 ” 的に大転換させた、その中心に「起きなさい」(クマー)という呼びかけが響きわたっているということです。そして畏るべきは、この「若者よ(バホール)、起きなさい」という言葉が、「少女よ、起きなさい」、そして「タビタよ、起きなさい」というように、いつまでもかき消されなかったということです。
結
ダビデ・ソロモンの時代から、ヤッファは出会いの町でありました(サムエル記下5:11、歴代誌下2:13)。海路、ティルス人やシドン人が木材などを積んで、ヤッファの港に入って来ました(歴代誌上22:4)。彼らはヤハウェの神を知らない異邦人ですから、エルサレム神殿の建築に協力するのは、不思議なことでありました。ヤッファの人々は温かく、木工や石工はじめ異国からの使節を迎え入れたのではないでしょうか。
このようにして、ユダヤ人とティルス人やシドン人、それから時代が下って、ペトロとタビタ、男性の弟子と婦人の弟子、やもめたちとタビタ、そしてローマ人コルネリウスとペトロというように、出会いが重なりました。それが神の御計画であると知らされるのは、ヤッファに「伝道所」が設立され、それが「教会」へと進展していったからです。
そして、それが絵空事でないのは、弱く貧しい人や異邦人を歓迎する、ヤッファの兄弟姉妹の交わりを起点として、地中海世界の各所に「教会」が建てられていったことから分かります。それは今日、全世界の地域伝道の模範になっています。
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〈説教の原稿〉
2026年 3月1日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 9章24節~27節(P.311)
説 教「朽ちない冠を得るために節制する」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたも賞を得るように走りなさい ……Ⅰコリント9:24
Ⅱ 朽ちない冠を得るために節制する ……Ⅰコリント9:25
Ⅲ わたしとしては、やみくもに走ったりしない ……Ⅰコリント9:26
Ⅳ 自分の体を打ちたたいて服従させる ……Ⅰコリント9:27
Ⅴ 果たして、あなたがたは真にわたしのために断食してきたか ……ゼカリヤ書7:1-5
序
パウロは、コリント教会への手紙において当然触れるべきである「使徒の務め(ギリシア語 ディアコニア 奉仕)」(ローマ11:13、Ⅰコリント12:5)について証言しています。元来、「ディアコニア」は、「給仕する」または「仕える」という意味です。
パウロの詳しく説き明かした「務め ディアコニア」は今日でも、キリスト教会で隣人愛に基づく「奉仕」として広まっています。また、キリスト教の精神に基づき、人々に献身的に奉仕するプロテスタントの女性たちのことを「ディアコニッセ」と呼んでいます。この活動は、19世紀、ドイツで困窮者を救済するために始められました。
パウロは「イエス・キリストの使徒」(Ⅱコリント11:13、テトス1:1)として、そのような「務め ディアコニア」を実践してきた第一人者です。コリントの信徒への手紙 一 9章で表している証言の原点は、自分の人格と生活において、主イエス・キリストが体現されるように努めてきたということにあります……「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3:10-11)。その献身は、まさに筋金入りと言えましょう。
本日のテキストは、その9章「使徒の務め」の最終部分です。若干、論理展開にちぐはぐな箇所がありますが、それがまた、語り尽くそうとするパウロの意気込みを伝えています。
Ⅰ あなたがたも賞を得るように走りなさい
コリントの信徒への手紙 一 9:24――
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
パウロは「あなたがたは知らないのですか」という相手の自尊心をくすぐるような問いかけから始めています。その上で、コリントの町に住んでいる者なら誰でも知っている、この世的な事象を背景に語りかけます。
「競技場で走る者は皆走る」……「競技場」(ギリシア語 スタディオン)は、英語の “ Stadium ”(スタジアム)の語源です。当時、コリントの町またはアカイア州では、二年毎に競技大会が催されていました(F.F. ブルース)。スタディオン は長さの単位でもあり、スタディオン は約180mとなります。そうするとパウロは、「競技場で約180m走る」光景を思い浮かべているのかも知れません。それなら、わたしたちもオリンピック・陸上競技200m競走を観ているのと重ね合わされます。
さて、「競技場で走る」……正確にはより速く走る……イメージが高められたところで、「走る者」の心理に切り込みます。「賞を受ける(ギリシア語 ランバノー)のは一人だけです。あなたがたも賞を得る(カタランバノー カタは「完全に・徹底的に」との意味)ように走りなさい」というように、ゴールのテープを切る場面を想起させます。
ここでは巧みにも、「賞を受ける(受け取る)」から「賞を得る(勝ち取る)」という漸層法が用いられています。はい、今あなたがたは、「走って」いますね、だったら、一番になって金メダルを勝ち取りたいでしょう、ということなのです。
ここでパウロは、「競技場で走る者は皆走る」という卓抜した比喩の活用が優先され、「賞を受けるのは一人だけです」と結論づけています。コリント教会の人々を叱咤激励する思惑からでしょうが、救いを信じ切るという「競技」、すなわち、終わりの時を目指す信仰者の旅路においては、「賞を受ける」者は、「一人だけ」ではないでしょう。まぁ、小さな矛盾にこだわらずに、自分がこの個人競争において「賞を受ける」ように努めましょう。その上で、「競技場で走る者」とは違って、周りの人々と励まし愛し合うことができますように!
いずれにしても、パウロはキリスト教の観点から、「競技場で走る者は皆走る」ことを説き明かしています。少し補足しましょう。
まず、ゴールについてですが、端的には、再臨の主イエス・キリストとわたしたち・信仰者が出会う、その終わりの時ということになります(フィリピ2:16)。従って、信仰者はその時が来るまで「走り」続ける長距離ランナーということになります。ただし、明日来るかも知れないのが終末ですから、油断は禁物です。
父なる神と主イエス・キリストは、「賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」わたしたち(フィリピ3:14)を見守っておられます。「目標を目指して」、前へ前へと全身が傾けられる(同上3:13)ように、わたしたちに呼びかけ励ましてくださいます。
さらに加えて、「こういうわけで、わたしたちもまた、このようにおびただしい証人の群れに囲まれている以上、すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨てて、自分に定められている競走を忍耐強く走り抜こうではありませんか」(ヘブライ12:1)というように、「おびただしい証人の群れ」が後方にいるわたしたちを応援してくれています。
実際、信仰の父アブラハム(ヘブライ11:12,17-19)や出エジプトの導き手モーセ(同上11:23-29)は、「すべての重荷や絡みつく罪をかなぐり捨て」られるよう “ 霊 ” 的な指示を与えてくれています。「前者の覆るは後者の戒め」という諺の通り、先人の苦難や挫折は今「走っている」者にとって有益な教訓になります。
わたしたちが主イエス・キリストに再会する「キリストの日」、わたしたちの救いが完成する日は、わたしたちの前方にあります。つまり、今この世に生きているキリスト者は皆、途上の人なのです。焦ったり慌てたりせずに、「自分に定められている競走を忍耐強く走り抜く」ことが、「賞を得る(勝ち取る)」ために大切です。そこで、パウロの勧告に耳を傾けましょう。
Ⅱ 朽ちない冠を得るために節制する
競技をする人は皆、すべてに節制します。彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです。
ゴールを目指す途上の人が、「すべてに節制します」というのは、当然の帰結です。その内容を読み解く前に、前節9:24との用語上の相違を見てみましょう。
そこには、「走る者」⇒「競技をする人」、そして、「賞を受ける」⇒「冠を得る」という漸層法的な言い換えが確認されます。「競技場」のランナーがペースアップしたかのような、疾走感が醸し出されています。
「競技をする人」(ギリシア語 アゴーニゾマイ)には、苦闘しているというニュアンスが含まれています(参照:〘英語〙agony「苦痛。苦悶」)。つまり、この戦いには、「節制」や忍耐が欠かせないということが表示されています。
また、「冠」という用語からコリントの人々は、月桂樹で作られた「冠」を思い浮かべたことでしょう。月桂冠は最も栄誉ある地位を得た者に授けられました。パウロはそれを踏まえて、「朽ちる冠」ではなく「朽ちない冠」を得るようにと勧告しています。それでは、「朽ちない冠」とは、一体どんなものなのでしょうか?
パウロはここで具体的に述べていませんが、「競技場で走る」時のゴールの説明(Ⅰ)から類推することができます。すなわち、再臨の主イエス・キリストとわたしたち・信仰者が出会う終わりの時に、わたしたちが神から授けられるものが、それだということになります。すなわち、最後の審判を経て、神の国へ入ることを赦された者は、神から「朽ちない冠」として「永遠の命」を賜ります(マタイ25:46)。
それは、自分の十字架を担って(マタイ10:38)、隣り人の労苦を自分のものとして苦難を生き抜いた人、苦闘を厭わない「競技をする人」に与えられる栄誉であります。その人は、前方から呼びかけてくださる神に励まされ、そして、「おびただしい証人の群れ」の助言や指示に耳を傾けたのであります。
さあそれでは、ゴールを目指す途上の人が為すべき「節制」について説き明かしましょう。
まずこの「節制」について確認すべきは、終わりの時を目指す「羊の群れ」(Ⅰペトロ5:2)なる教会のメンバーの旅路において求められているものだ、ということです。ですから、これは単なる自己修養・自己抑制ではありません。
ローマの信徒への手紙15:1-2――
1 わたしたち強い者は、強くない者の弱さを担うべきであり、自分の満足を求めるべきではありません。2 おのおの善を行って隣人を喜ばせ、互いの向上に努めるべきです。
わたしたちは、キリストに倣って、自分を喜ばせず、隣人を喜ばせることに努める「節制」を念頭に置くべきです。パウロが「使徒の務め」として掲げた、自分の持つ律法、権利、そして自由を差し控える(Ⅰコリント9:18-21)というのも、一連の「節制」に入れられるでしょう。
それは、測り知れないほどの「節制」、へりくだり、そして忍耐であります。自己修養には限界があります。しかし、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われたという信仰を源泉とするならば、たえず「競技をする人」の内から「節制」が湧き出てくるのではないでしょうか。主イエスが、「競技をする人」の苦悩を憐れんで、前へと「走る」力を注ぎ入れてくださいます。
Ⅲ わたしとしては、やみくもに走ったりしない
コリントの信徒への手紙 一 9:26――
だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません。
「競技場で走る」ことに熟達したパウロは、痒いところに手が届くように、「~するべき」ことと共に、「~してはならない」ことをも助言しています。
「だから、わたしとしては」という冒頭の言い回しに注意しましょう。「それゆえ、わたし個人としては」という意味合いですが、他の大多数とは異なるパウロ独自の見解だと遠ざけてはなりません。むしろ、パウロは主イエス・キリストが自分の人格と生活において体現されるように努めてきたことを証言しています。そのような証言は貴重です。
パウロは聖霊に導かれて、「使徒の務め」を探究してきました。神に、自分の持つ律法、権利、そして自由をゆだねた「わたしとしては」、次の二つのことを避けたいということなのです。
①は前二節までの、競技場での走りのモティーフに即していますが、②は全く別の競技が取り上げられています。古代の競技大会に、「拳闘」という種目があったので、挙げられているのでしょうか。ここでは、論理展開よりも、パウロの「節制」に関わる感性または経験が優先されていると見られます。
「競走」と「拳闘」とは種目が別なのですが、「やみくもではない」ならびに「空を打たない」というのは、同じ趣旨です。すなわち、しっかり目標を見ること、そのために一撃一撃(一走り一走り)を目標に命中させることが求められています。
逆に言えば、目標をはずしていては、一撃や一走りが効果的に働かず無駄になってしまいます。「競技場」では、反則・退場を宣告されることでしょう。パウロは、そのような形で「競技をする人」の愚かさに警鐘を鳴らしています。
Ⅳ 自分の体を打ちたたいて服従させる
コリントの信徒への手紙 一 9:27――
むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます。それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです。
パウロの優れている点は、コリント教会の人々に厳しい勧告を述べる際に、自らへりくだって「使徒の務め」を内省しているということです。繰り返しになりますが、パウロは自分の人格と生活において、主イエス・キリストが体現されるよう努めています。そのような偽りのない実直さによって、コリントの人々へ信徒としてあるべき姿を伝えています。
「むしろ、自分の体を打ちたたいて服従させます」……直訳すると、「むしろ、わたしは自分の体を打ちたたいて、わたしは奴隷になります」となります。自分の証しとはいえ、強烈です。
あざができるほどに「自分の体を打ちたたく」とは、どういうことなのでしょうか? 「拳闘」の文脈で何を言おうとしているのでしょうか。「わたしは自分の体を打ちたたく」ということですから、ローマの官憲によって鞭打たれたこと(使徒16:37)を思い起こしているのではありません。
文脈からは、「空を打たない」ように、わたしは「自分の体」にねらいを定めて、一撃一撃を加えるということになります。これは比喩的表現ですから、主イエスの言葉によって解釈してみましょう。
マタイ26:41 主イエス→弟子たち ペトロ・ヤコブ・ヨハネ――
「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
「肉体は弱い」と言っても、清められた「心」(精神・霊)と汚れた「肉体」というような二元論に拠っているのではありません。「心」と「体」とは一つのものであるというのが、キリスト教の人間観です。
ただし、人の疲労や困窮が、「心」と「体」にどのような影響を及ぼすかは、一様ではありません。「体」は健全であるのに、「心」が病んでしまうといこともあり得るでしょう。ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネが陥ったのは、「心は燃えても、肉体は弱い」という状態でありました。
具体的には、主イエスの三度の確認(起床命令)にもかかわらず、弟子たちは「眠り続けていました」(マタイ26:40,43,45)。従って結論的に言えば、パウロは「自分の体を打ちたたいて」、「心」と「体」のバランスを保ち、主イエスから離れず、サタンのつけ込む隙を作らなかった、ということでありましょう。
主イエスの十字架刑の前夜、まことに、三人の弟子たちは「自分の体を打ちたたいて」、主イエスの苦闘と祈祷に「心」を合わせるべきでありました。パウロが、悔やんでも悔やみきれない弟子たちの失態を心に刻んでいたことは間違いないでしょう。
「わたしは奴隷になります」……これも強烈な表現ですが、突然出てきたものではありません。あらゆる方面において「服従」を保つパウロの姿勢は、すでにコリントの信徒への手紙 一 の内に物語られています。
コリントの信徒への手紙 一 7:22――
というのは、主によって召された奴隷は、主によって自由の身にされた者だからです。同様に、主によって召された自由な身分の者は、キリストの奴隷なのです。
コリントの信徒への手紙 一 9:19――
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
「キリストの奴隷」から「すべての人の奴隷」へと漸進して、「服従」の理解が深められているのも見事です。これは決して、修行のための修行ではありません。ただパウロは、人間の「自分の体」の弱さと、「心」と「体」のバランスをとる難しさを知るゆえに、ひたすらそうしているのです。聖霊の導きなしに、それができるとは思っていないでしょう。
「それは、他の人々に宣教しておきながら、自分の方が失格者になってしまわないためです」……パウロは自分自身への危機管理が行き届いています。この謙虚さのゆえに、パウロの説く「使徒の務め」は傾聴に価するのでしょう。
さて最後に、「競技をする人は皆、すべてに節制します……わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(Ⅰコリント9:25)と、パウロが強調している「節制」について、旧約聖書にさかのぼって考えてみましょう。そこには、伝統的な「断食」の儀式または習慣にまつわる問題が示されています。果たして「断食」というは、キリスト者に推奨される「節制」と言えるのかどうか、皆さんはどのように思われるでしょうか。
「あなた(娘シオン)は主の御手の中で輝かしい冠となり あなたの神の御手の中で王冠となる」(イザヤ書62:3)と歌われています。都の崩壊とバビロン捕囚によって打ち砕かれた娘シオンにとって、「断食」の儀式は、「輝かしい冠」を勝ち取る、救いの綱となるのでしょうか。
Ⅴ 果たして、あなたがたは真にわたしのために断食してきたか
ゼカリヤ書7:1-5――
1 ダレイオス王の第四年になって、主の言葉がゼカリヤに臨んだ。それは九月、キスレウの月の四日のことであった。2 ベテルはサル・エツェルとレゲム・メレクおよび彼の従者たちを遣わして、主の恵みを求めさせ、3 また万軍の主の神殿の祭司たち、および預言者たちに次のような質問をさせた。「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか。」
5 「国の民すべてに言いなさい。
また祭司たちにも言いなさい。
五月にも、七月にも
あなたたちは断食し、嘆き悲しんできた。
こうして七十年にもなるが
ユダ王国が瓦解し、民がバビロンに連れ去られてから、70年経った頃、いわば宗教的指導者たちの間で、「断食」の儀式が話題になりました。すなわち、「ベテル」……聖所の所在地 創世記28:19、サムエル記上7:16……の祭司あるいは代表者がエルサレムに遣いを送って、「神殿の祭司たち、および預言者たち」に問い合わせをしたということです。「ベテル」の南約20㎞にエルサレムは位置していました。
「ペルシア王 ダレイオス王の第四年」というのは換算すると、紀元前518年になります。ちょうどエルサレム神殿の再建工事がなされている最中でした。いずれにしても、地方の指導者が中央の意見を伺うというのは、ユダの地に秩序が回復されつつあったしるしと言えるでしょう。
そこで、「断食して嘆き悲しむ」儀式の可否について即答する前に、なぜ当時、ユダの民の間に、「断食」する習慣が広まっていたのか、つまびらかにしましょう。
預言者ゼカリヤが活動していた紀元前6世紀後半には、年間四回、「断食」を行うことが慣例になっていました(ゼカリヤ書8:19)。
①四月の断食……第4月 都の城壁が破られた。エレミヤ書39:2
②五月の断食……第5月 神殿が破壊された。列王記下25:8、エレミヤ書52:12
③七月の断食……第7月 総督ゲダルヤが殺された。エレミヤ書41:1-2
④十月の断食……第10月 エルサレム包囲が開始した。エレミヤ書39:1
先の問い合わせに、「わたしは、長年実行してきたように、五月には節制して悲しみのときを持つべきでしょうか」とあるように、上の四つの内、「五月の断食」は今日に至るまで重んじられてきました。
今でも、「五月の断食」、すなわち、「ティシャ・ベアヴ」(5月9日〔西暦で7-8月。9日は後代の設定〕)に、エルサレムの嘆きの壁で、都の陥落と神殿の崩壊を嘆き悲しんでいるユダヤ人を見ることができます。この日、会堂では哀歌が朗誦されます。
およそ二千五百年の時を経て、そのような「断食」または「節制」がユダヤ民族の行事として慣例化しているならば、ゼカリヤの時代の「神殿の祭司たち、および預言者たち」の回答は、火を見るよりも明らか、と思われることでしょう。しかし、そうなっていないところが、旧約聖書の面白いところであります。というのも、そこには、熱心に神の御心を尋ね求める者ならでは、返答が示されているからです。
「そのとき、万軍の主の言葉がわたし(ゼカリヤ)に臨んだ。『果たして、あなたがたは真にわたしのために断食してきたか』」……これは、権威主義に走りかねないエルサレムやベテルの宗教指導者を雷で打つような「主の言葉」でありました。
今この世に生きている信仰者は皆、途上の人なのです。その時その時に、「泣く時、笑う時 嘆く時、踊る時」(コヘレト3:4)があります。神が時宜にかなうように、それらの時を造られます(同上3:11)。大切なのは、主イエスと再会するというゴールを見据えて、「失格者になってしまわない」ようにすることです。時に食べ、時に「断食」して、最後まで走り抜きましょう。天の父と御子イエス・キリストがいつもあなたを見守っておられます。
マタイ福音書6:18 主イエスの言葉――
「それは、あなたの断食が人に気づかれず、隠れたところにおられるあなたの父に見ていただくためである。そうすれば、隠れたことを見ておられるあなたの父が報いてくださる。」
「キリストの奴隷」(Ⅰコリント7:22)となっていたパウロは、この有益な「断食」についての助言を心に留め、「朽ちない冠を得るために節制した」のです。肝心要は、「人に気づかれない」ところで行う「節制」にあります。
結
パウロは臆することなく、自らを「競技をする人」(ギリシア語 アゴーニゾマイ)であると受け止めていました。そこで、息絶え絶えになるような苦難を経験しました。
しかし、パウロは「競技場」から逃げ出すことはありませんでした。なぜなら、「節制」して走り続けるという「体」と「心」を身につけていたからです。パウロは、主イエスと再会するゴールに目を向け、「賞を得る」という期待と喜びに包まれていました。その前向きな姿勢のゆえに、自分の労苦は一つたりとも無駄にはならない(Ⅰコリント15:58)と思えるのは、幸いなことでした。そこに、地上の人生最後の時にも、パウロが「全く自由に何の妨げもなく」(使徒28:31)暮らした秘訣があります。
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〈説教の原稿〉
2026年 2月22日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
新約聖書 マタイによる福音書 26章36節~46節(P.53)
説 教「わたしの願いどおりではなく、御心のままに」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスは悲しみもだえ始められた
Ⅱ 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください ……マタイ26:38-39
Ⅲ あなたの御心が行われますように ……マタイ26:40-42
……マタイ26:43-46
……イザヤ書53:4-6
序
2月18日・水曜日から受難節(レント)に入りました。七週の後には、復活祭(イースター)を迎えます。
過越祭が間近になった頃、主イエスは都エルサレムに入り、主の晩餐を執り行われました(マタイ26:17)。その後、オリーブ山(同上26:30)のふもとにある「ゲツセマネ」の園へ赴かれました。「ゲツセマネ」とは、「油しぼり(の桶)」という意味です。当時からオリーブの木が繁茂している場所でした。ここで、オリーブの実から油を抽出する作業が行われていたのでしょう。
オリーブ油は、献げ物や油注ぎなどの儀式に用いられました(出エジプト記29:40、30:25)。また、神殿や人家のともし火として、そして、パンに塗るなど食用としても使われました(レビ記24:2、民数記6:15)。
主なる神はイスラエルの父祖に、ぶどう畑とオリーブ畑のある大きな美しい町を与えると約束されました(申命記6:10-11)。主イエスはオリーブの木立の中へ入って行かれました。そして神の見守りのもと、主イエスは深い苦しみと悩みをもって祈り始められました。
初めに、ゲツセマネの祈りの状況説明(Ⅰ)、そして第一の祈り(Ⅱ)、第二の祈り(Ⅲ)、最後に第三の祈り(Ⅳ)という四部構成で読み解いていきましょう。
Ⅰ イエスは悲しみもだえ始められた
マタイ福音書26:36-37――
36 それから、イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」と言われた。37 ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われたが、そのとき、悲しみもだえ始められた。
この祈りの大きな特徴は、「イエスは弟子たちと一緒にゲツセマネという所に来て……ペトロおよびゼベダイの子二人を伴われた」という情景描写に表れています。すなわち、主イエスが弟子たちと「一緒に・共に」(ギリシア語原文ではメタ– および パラ–)祈られたということです。
それは、弟子たちの失態にもかかわらず、「その名はインマヌエル……神は我々と共におられる……と呼ばれる」(マタイ1:23)との預言と、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(同上28:20)との約束を堅持されたことを示しています。主イエスは二度ならず三度までも、「傍らに」(メタ– / パラ–)いる弟子たちを励まし呼び起こされられました。
なぜ、主イエスが人間と「一緒に・共に」いることが重要だったのでしょうか?
それは、このゲツセマネの祈りのあった次の日に(マタイ27:1)、主イエスが人間すべての罪咎を背負って、十字架の死を遂げられたということによって明白です。すなわち、「イエスは悲しみもだえ始められた」というその苦悩は、わたしたちの罪によって引き起こされたものだからです。主イエスはゲツセマネでもゴルゴタの丘でも、「わたしの僕は、多くの人が正しい者とされるために 彼らの罪を自ら負った」(イザヤ書53:11)と言われる苦難を一身に引き受けられました。
本来、「ペトロおよびゼベダイの子二人(ヤコブとヨハネ)」(マタイ4:21、17:1)は、「キリストは、肉において生きておられたとき、激しい叫び声をあげ、涙を流しながら、御自分を死から救う力のある方に、祈りと願いとをささげた」(ヘブライ5:7)ということの第一証言者となるべき人々でありました。それが夜、ゲツセマネで、主イエスの「傍らに」いる彼らの務めでありました。
「わたしが向こうへ行って祈っている間」……この艱難辛苦の時、主イエスは父なる神への「祈り」に集中されました。「祈り」に専念するために、主イエスは弟子たちのもとから「少し進んで、離れた所へ行かれました」(マタイ26:39,44)。そうして主イエスは、「汗が血の滴るように地面に落ちる」ほど、いよいよ切に祈られました(ルカ22:44)。
そのような主イエスの御姿を目撃したならば、弟子たちは自らも地面にひれ伏して、罪を悔い改めて、「一緒に・共に」祈るべきなのですが、実際はどうだったのでしょうか? 第一番目の祈りを読み取りましょう。
Ⅱ 父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください
マタイ福音書26:38-39――
38 そして、彼らに言われた。「わたしは死ぬばかりに悲しい。ここを離れず、わたしと共に目を覚ましていなさい。」 39 少し進んで行って、うつ伏せになり、祈って言われた。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに。」
このゲツセマネの場面で、主イエスは弟子たちとの対話を重んじておられます。それは言うまでもなく、祈りの場所が少し離れていても、主イエスが弟子たちと「一緒に・共に」にいることを教えるためです。
最初に主イエスは弟子たちに「わたしは死ぬばかりに悲しい」と打ち明けられました。ここで、わたしたちが弟子たちと共に思い起こさねばならないのは、三度の受難予告です(マタイ16:21、17:22-23、20:17-19)。もはや明日に、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺される」(同上17:22-23)という事態が迫っています。主イエスは「引き渡される」夜、死を他人事としてではなくご自身の事として受け止められました。弟子たちは主イエスの哀切な言葉からこのことに気づいたでしょうか。
祈りの冒頭で、主イエスは「父よ、できることなら……」と嘆願しておられます。並行箇所のマルコ福音書では、「父よ」が「アッバ、父よ」となっています(マルコ14:36)。アラム語(またはヘブライ語)「アッバ」は「おとうちゃん」というニュアンスで、親しみが込められています。つまり、主イエスは、息子が「おとうちゃん」に話すように、懇ろに神に語りかけたということです。「できることなら……」と、率直に「アッバ、父」の御心を尋ねておられます。
実はわたしたちも、聖霊の働きによって、「アッバ、父よ」と呼ぶ親しき交わりに招かれています(ローマ8:15)。というのも、わたしたちは洗礼によって「神の子とされる」身分を授けられているからです。
ここで注目すべきは、「この杯をわたしから過ぎ去らせてください」との「わたしの願い」が打ち明けられたことです。
「杯」を飲むとは、「人の子は人々の手に引き渡されようとしている。そして殺される」こと、すなわち、罪を犯し続け、無残に死んでいく人間を救い出すために、主イエスが十字架の死を遂げることを指し示しています。
その「杯」には、酸いぶどう酒が入れられています(参照:マタイ27:28)。従ってそれは、神の怒りの「杯」であると言い換えられます(エレミヤ書25:15、ヨハネ黙示録14:10)。神の御手により主イエスに、慰めの杯ではなく苦しみの杯が回されようとしています。
そのことに、主イエスは恐れを覚えておられたのではないでしょうか。ここにわたしたちは、主イエスが人間の弱さの中に入って来られたのを認めることができます。神に反逆し、神の審判を受けざるを得ないわたしたちの「傍らに」、主イエスがおられます。
「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」……十字架の道行きにおいて、主イエスが格闘しておられることが明瞭です。このように、「祈り」の要は、自らの意志決定の確認ではなく、神の「御心」を知ることにあります。聖霊の導きのもとに、自分が変えられるよう心を開かねばなりません。実際、それが「祈り」を通して起こるということが、父なる神の「御心」を真摯に尋ね求めた主イエスによって立証されています。
それでは、第二番目の祈りにおいて、どのような変化が生じたのか、読み取りましょう。
Ⅲ あなたの御心が行われますように
マタイ福音書26:40-42――
40 それから、弟子たちのところへ戻って御覧になると、彼らは眠っていたので、ペトロに言われた。「あなたがたはこのように、わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。41 「誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい。心は燃えても、肉体は弱い。」
42 更に、二度目に向こうへ行って祈られた。「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように。」
結局、弟子たちは三つの祈り(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)の間中、「彼らは眠っていた」という失態を演じました。ここに、「わたしはいつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20 と言われる主イエスから、離反し、心を閉ざしている人間の象徴的な姿が見られます。このこともまた、主イエスがゴルゴタの丘に歩を進めていく一つの要因になっています。主イエスはひとりで、神に背き、人間同士がばらばらになっている罪咎を背負っておられます。
なぜ、弟子たちが「眠っている」……人間は「眠り続ける者である」というニュアンス……のかについて、「心は燃えても、肉体は弱い」と述べられています。これは、清められた「心」(精神・霊 プネウマ)と汚れた「肉体」(サルクス)というような二元論に拠っているのではありません。「独身の女や未婚の女は、体も霊も聖なる者になろうとして、主のことに心を遣います」(Ⅰコリント7:34)というように、「霊・心」と「肉体」とは一つのものであるというのが、キリスト教の人間観です。
ただし、人の疲労や困窮が、「心」と「肉体」にどのような影響を及ぼすかは、一様ではありません。「肉体」は健全であるのに、「心」が病んでしまうといこともあり得るでしょう。ペトロ、ヤコブ、そしてヨハネが陥ったのは、「心は燃えても、肉体は弱い」という状態でありました。
主イエスが彼らに、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここに座っていなさい」(マタイ26:36)と命じたのにもかかわらず、睡魔に襲われてしまいました。「肉体は弱い」ことに、サタンがつけ込んだのです。
「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」……Ⅱ「しかし、わたしの願いどおりではなく、御心のままに」(マタイ26:39)から Ⅲ「あなたの御心が行われますように(実行されますように)」へと進展しています。
そもそもここには、「御国が来ますように。御心が行われますように、天におけるように地の上にも」(マタイ6:10)という主の祈りの言葉が反復されてます。主イエスは十字架に上げられる、その戦いの中でこの祈りをささげられました。こうして、「わたし(イエス)の願いではなく」、父なる神の「御心」に従って、主イエス・キリストは苦しみの杯を飲み干すことになりました。
主イエスは「わたしの願い」を父なる神に明け渡されました。そうして主イエスは、これから起こることのいっさいを父なる神にゆだね、徹底して服従する道を歩まれました。やがて父なる神は、御子の十字架の死において、死を克服する力を与えられます。それは弟子たちにとって、主イエス・キリストが死を打ち砕く勝利に向かっておられることを確信する大切な時でありました。
Ⅳ 見よ、わたしを裏切る者が近づいて来た
マタイ福音書26:43-46――
43 再び戻って御覧になると、弟子たちは眠っていた。ひどく眠かったのである。44 そこで、彼らを離れ、また向こうへ行って、三度目も同じ言葉で祈られた。45 それから、弟子たちのところに戻って来て言われた。「あなたがたはまだ眠っている。休んでいる。時が近づいた。人の子は罪人たちの手に引き渡される。46 立て、行こう。見よ、わたしを裏切る者が来た。」
「三度目」の祈りは二度目の繰り返しです。これで、ゲツセマネの祈りは完全なものとなりました。ここぞという試練の時、人間は「眠り続ける」、弱く挫けやすい者であることが暴き出されました。
この場面の最後に、「人の子は罪人たちの手に引き渡される」という情景が付け加えられています(マタイ26:47-56)。「罪人たちの手に、人の子が引き渡される」ことは、十字架上で「杯が過ぎ去らずに、人の子に回される」ことで頂点に達します。そこでエルサレムの人々は、罪人たちに主イエスが偽善者や権力者に引き回される屈辱的な姿を目撃することになります。
しかしそれは、“ 霊 ” 的に解釈するならば、それは御子、イエス・キリストが「あなたの御心が行う(実行する)」という完全なる服従でありました。それによって、第二イザヤの唱えた「主の僕」の預言が成し遂げられました。
Ⅴ 主は彼にわたしたちの罪をすべて負わせられた
4 彼が担ったのはわたしたちの病
彼が負ったのはわたしたちの痛みであったのに
神の手にかかり、打たれたから
彼は苦しんでいるのだ、と。
彼が打ち砕かれたのは
彼の受けた懲らしめによって
わたしたちに平和が与えられ
彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた。
(わたしたちは)道を誤り、(わたしたちは)それぞれの方角に向かって行った。
主は彼に負わせられた。
残念なことに、弟子たちは「眠り続けて」いましたが、わたしたちが聖霊に導かれて、苦難の僕の詩〈第四〉を読むならば、主イエス・キリストの真の姿にまみえることになるでしょう。わたしたちと「一緒に・共に」おられる主イエス・キリストによって「目覚めさせ」られます。「死ぬばかりに悲しい」思いで(マタイ26:38)、苦闘して祈っている中に呼び入れられます。
それでは、苦難の僕の詩(イザヤ書53:4-6)の預言とゲツセマネの園の出来事との一致点を、三つ挙げましょう。これらを通して、わたしたちから少し離れた所で祈っておられる主イエス・キリストを捉え直してください。
一つ目は、主イエスが神の「御心のままに」十字架の道行きにおいて苦悩しておられることが、苦難の僕の詩に表明されています……「わたしたちは思っていた 神の手にかかり、打たれたから 彼は苦しんでいるのだ、と」。
主イエスは確かに、「できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」と祈られました。しかし、酸いぶどう酒の盛られた「杯」(マタイ27:48)は、「過ぎ越す」(出エジプト記12:13)ことなく、十字架上の主イエスに回されました。主イエスがそれを飲み干されたのは、「神の手にかかり、打たれる」ため、つまり、罪人たちに代わって神の怒りをこうむるためでありました。
二つ目の共通点は、人間は自ら罪咎に鈍感であった……弟子たちは眠りこけていた……けれども、救い主の到来によって、自分の罪深さに目覚めさせられるということです……「彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった。そのわたしたちの罪をすべて 主は彼に負わせられた」。
つまり、苦難の僕と重ね合わせられる、悲しみもだえる主イエス・キリストは、まさにその時、「わたしたちの背き、わたしたちの咎」を担っておられたということです。「彼が刺し貫かれた」との預言は、十字架上のイエス・キリストにおいて成就しました(ヨハネ19:34)。それは、十字架の血による贖いによって、「わたしたちの罪をすべて」洗い清めるためでありました。
要するに、第二イザヤが、「わたしたちの罪」を負っている苦難の僕を見出したのは、まことに霊的な洞察でありました。
三つ目は、弟子たち、ひいては「わたしたち」の苦難の僕に対する態度が露呈されていることです……「わたしたちは羊の群れ わたしたちは道を誤り、わたしたちはそれぞれの方角に向かって行った」。
ここで、捕囚の「イスラエル」(イザヤ書49:7、52:12)の礼拝共同体(羊の群れ)はようやく、「わたしたちが道を誤った」ことを悟りました。ゲツセマネの園の場面は、「このとき(主イエスが逮捕されたとき)、弟子たちは皆、イエスを見捨てて逃げてしまった」(マタイ26:56)というように締めくくられています。
まことにおぞましいことですが、「わたしたちはそれぞれの方角に向かって行った」との預言が当たってしまいました。それにもかかわらず、神の遣わされる助け主が、「いつも共にいる」(マタイ28:20)と信じた「イスラエル」の礼拝共同体は、わたしたちの教会の先駆けでありました。
結
主イエスはゲツセマネの園で三度、祈りをささげられました。それは、神の「御心」を知り受け入れることに専念した祈りでありました。そこには、自分を神にゆだね、自分を捨て去り、自分の身と心を神に差し出す姿勢が見られました。周囲の雑音(寝息?)にも、集中力が途切れることはありませんでした。
節制と祈祷が重んじられるこの受難節、ゲツセマネで祈る主イエス・キリストの御姿に、わたしたちの日々の生活が重ね合わせられますように!
W
〈説教の原稿〉
2026年 2月15日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 創世記 6章9節~22節(P.8)
説 教「箱舟を造りなさい」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた
……創世記6:11-12
Ⅲ あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい
……創世記6:13-17
……創世記6:18-22
Ⅴ ノアは、信仰に基づく義を受け継ぐ者となった
……ヘブライ11:7
序
天地創造により始まった世界の黎明期でありました。そこに、毅然として神の御前に立つ人間が現れました。というのも、「しかし、ノアは主の目の中に恵みを発見した」(創世記6:8 直訳 他に出エジプト記33:12〔モーセ〕)と述べられているからです。そこでノアに、生涯、神のまなざしのもとに歩んで行くという信仰が与えられました。
しかも、この「主」の「恵み」によって、ノアの目の前に繰り広げられる地の「堕落」や「不法」を乗り越えることができます。ただ、主なる神と人格的な関係を結んでいるノアは、神の審きの言葉を知らされています。すなわち、ノアは、「わたしは人を(地の面から)消し去ろう」(創世記6:7)との神の決断に恐れおののきました。
冷静に考えると、神は「人・家畜・這うもの・空の鳥」を絶滅するとはおっしゃられていません。すべてが滅ぼされると思うのは早計です。なぜなら、「後悔し、心を痛めつつ」神(創世記6:6-7)は、先の先まで、この世の破滅の向こうまで見通しておられるからです。
アダムとエバの堕罪(創世記2:4b-3:24)、カインによるアベルの殺害(同上4:1-16)、レメクの復讐の歌(同上4:23-24)、そして、天的な存在とこの世の人間の交わり(同上6:1-6)という先触れを経て、人間の罪悪が満ちあふれた時代に、洪水が起こります。果たして、神はどのようにノアを用いられるのでしょうか?
Ⅰ ノアは神に従う無垢な人であった
創世記6:9-10――
9 これはノアの物語である。その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ。10 ノアには三人の息子、セム、ハム、ヤフェトが生まれた。
洪水物語の冒頭の部分です。
主なる神は、この世の破滅の向こうへ人間を導いていくために、命の息を吹き入れられた(創世記2:7)ひとりの人を召し出されました。ノアという人物が丁寧に紹介されます。
「これはノアの物語である」というのは正確には「これはノアの系図(ヘブライ語 トルドット)である」と訳されます。
天地創造・七日間の締めくくりの句、「これが天と地が創られたときの系図(トルドット)である」(創世記2:4 私訳)にも同じ語が出ています。「系図(トルドット)」は、「生む。子をもうける」というのが原意で、「由来・経緯・次第」などと訳されます。
「ノアの系図」には具体的に「三人の息子、セム、ハム、ヤフェト」が挙げられています。それはまさに「天地創造の系図」に秘められた「子をもうける」力が、ノアの一族に及んでいるということです。
それ故に、ノアは人間の罪悪が満ちあふれた時にも、神の良しとされる「系図」によって護られていたのであります。そのことはまた、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」(創世記5:29)との預言に従って、父レメクがその子を「ノア(慰め)」と名付けたという、父から子への「系図」によって実証されています。
神は、「ノアの系図」を一連の「天地創造の系図」の中に置かれました。神の祝福がその入れ子構造全体にみなぎっています。神の大いなる祝福のもとに、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人であった。ノアは神と共に歩んだ」という人物が生まれたのです。
「系図」の中に、恥辱・汚点・堕落などが入り込んで来るのは、いつの世も同じです。しかし、「この地」全体(創世記6:11,12)が危機に瀕している時に、神が人間の罪咎を洗い流し清める御業にノアを用いられました。「しかし、ノアは主の目の中に恵みを発見した」というように、ノアはいつもまっすぐに神を仰いでいました。ですから、その神への信頼によって、「神に従う無垢な人(=義しく全き人)」が誕生し、生涯「神と共に歩み」、神に仕えたのであります。
また、「ノアの系図」において紹介された、「ノア」と「三人の息子、セム、ハム、ヤフェト」、ならびに、それぞれの「妻」、計8名は箱舟に乗り込むことを許されました(創世記6:18)。そこにも、「系図」(トルドット 子をもうける)は途切れることはないという神の憐れみが示されています。
Ⅱ この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた
創世記6:11-12――
11 この地は神の前に堕落し、不法に満ちていた。12 神は地を御覧になった。見よ、それは堕落し、すべて肉なる者はこの地で堕落の道を歩んでいた。
「神は地を御覧になった。見よ」……人間の側からではなく、神はどのようにこの地、この世界を受け止められたのか、が描かれています。神は全地を見わたす中で(創世記1:31)、「すべて肉なる者」が①神に対し罪を犯し、②人間相互に争っていたことに気づかれました。それが、「①神の前に堕落し、②不法に満ちていた」ということの意味です。
確かに、心を尽くして主なる神を愛することも、隣人を自分のように愛することも(マタイ22:36-40)なくなってしまった「この地」に明るい将来はありません。このままでは「すべて肉なる者」が「堕落の道」を転げ落ちるばかりでありました。
そこで、神はノアに語りかけ、神の計画を実行に移されます。これによって、「天地創造の系図」が永続するものであることを示されます。
Ⅲ あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい
創世記6:13-17――
13 神はノアに言われた。
「すべて肉なるものを終わらせる時がわたしの前に来ている。彼らのゆえに不法が地に満ちている。見よ、わたしは地もろとも彼らを滅ぼす。
14 あなたはゴフェルの木の箱舟を造りなさい。箱舟には小部屋を幾つも造り、内側にも外側にもタールを塗りなさい。
15 次のようにしてそれを造りなさい。箱舟の長さを三百アンマ、幅を五十アンマ、高さを三十アンマにし、16 箱舟に明かり取りを造り、上から一アンマにして、それを仕上げなさい。箱舟の側面には戸口を造りなさい。また、一階と二階と三階を造りなさい。
17 見よ、わたしは地上に洪水をもたらし、命の霊をもつ、すべて肉なるものを天の下から滅ぼす。地上のすべてのものは息絶える。」
ノアは「①神の前に堕落し、②不法に満ちていた」ことに大きな重圧を受けています。なぜなら、ノアは「神に従う無垢な人(=義しく全き人)」だからです。自分が「この地」の一員として「堕落と不法」の責任を負わされるのかどうか、知る由もありません。しかも、ノアはまだ、生き延びられるという確約を得ていません(参照:創世記6:19)。ですから、「すべて肉なるものを終わらせる」との神の宣告は恐怖以外、何ものでもなかったことでしょう。
しかし、ノアは沈黙して、神の語りかけを最後まで聞きました。神はノアが耳を傾けやすいように、初めに「箱舟を造る」ことに集中して語ります。神は建材(:14)、寸法(:15)、そして構造(:16)という順で説明していきます。これによって、ノアは箱舟の完成図を思い描くことができます。そして最後に、「見よ、わたしは地上に洪水をもたらす……地上のすべてのものは息絶える」と告げて真剣に受け止めるよう、釘を刺しています。もはや「わたしは人を(地の面から)消し去ろう(ヘブライ語 マハー)」(創世記6:7)との神の決断は撤回されません。
まず建材は、「ゴフェルの木」と指定されています。「ゴフェル」については、香柏・レバノン杉(レビ記14:4)、樅、松など解釈が分かれています。また、船体および小部屋は防水と腐食防止にために、「タール」(コールタール)によって補強されています。
ちなみに、モーセは赤子の時、「籠」、すなわち、パピルスで作られた「箱」型のものによって命を救われました。モーセの「籠」にも、ノアの「箱舟」にも、同じヘブライ語の テヴァー が使われています。
「籠」は大河ナイルの波間に押し流されていく危険がありましたが、「籠」が河畔の葦の茂みの間に漂っているのを見たファラオの王女がその「籠」を川から引き上げました(マーシャー)。このエピソードによってこの赤子は、マーシャー すなわち モーセ と名付けられました(出エジプト記1:22-2:10)。「箱舟」と洪水、また、「籠」と大河……いずれにおいても、神の御手が差し伸べられました。
次に、「箱舟」の寸法についてですが、実際の大きさには諸説があります。概ね、長さ140メートル、幅22メートル、高さ13メートルと推測されています。異様に細長い船型になっています。ただし、「上から一アンマにして明かり取り」を、また、「側面には戸口」を造りなさいというように、これから乗り込む者への配慮がなされています。
そして最後に、「箱舟」について「また、一階と二階と三階を造りなさい」と三階建ての構造が示されています。
そこでノアは改めて、「見よ、わたしは地上に洪水をもたらす……地上のすべてのものは息絶える」との神の告知を聞かされます。ノアは不安や疑念に呑み込まれることなく、「箱舟」の建造に取りかかりました。
どのようにして「この地」全体に係わる「洪水」が起こったのかは、現代人・わたしたちの重大関心事ですが、これに関して説明はありません。仮に、天地創造の秩序が崩壊したとするなら、次のように考えられます。
すなわち、天地創造の二日目に「神は言われた。『水の中に大空あれ。水と水を分けよ。』 神は大空を造り、大空の下と大空の上に水を分けさせられた。そのようになった。神は大空を天と呼ばれた」(創世記1:6-8)という出来事がありました。そこで、天上において、「大空の上の水」と「大空の下の水」とが分離させられました。何をもって上下の「水」に距離が保たれたのか、あるいは、何かの皮膜によって仕切られたのかは分かりません。いずれにしても、天は上下の「水」を包み込むように形造られていました。
それから、神が「見よ、わたしは地上に洪水をもたらす」と宣告され、「堕落と不法」によって、「この地」は滅ぼされることになりました。
そこで、天で分離されて「大空の上の水」と「大空の下の水」とに保たれていたのが、決壊して一挙に、「雨」(創世記7:4)が地に降り注いでくるという大惨事が起こりました。これはあくまでも「洪水」についての一つの仮説です。古代イスラエル人の世界観の中で、人々は天を仰ぎ、「大空の上の水」と「大空の下の水」の崩落を恐れていたに違いありません。ふと、「杞憂」、すなわち、昔「杞の国の人が天の崩れ落ちることを心配した」という故事成語が頭をよぎります。
Ⅳ ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした
創世記6:18-22 神→ノア――
18 「わたしはあなたと契約を立てる。あなたは妻子や嫁たちと共に箱舟に入りなさい。
19 また、すべて命あるもの、すべて肉なるものから、二つずつ箱舟に連れて入り、あなたと共に生き延びるようにしなさい。それらは、雄と雌でなければならない。20 それぞれの鳥、それぞれの家畜、それぞれの地を這うものが、二つずつあなたのところへ来て、生き延びるようにしなさい。21 更に、食べられる物はすべてあなたのところに集め、あなたと彼らの食糧としなさい。」
22 ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした。(新共同訳)
ここで、「あなたは箱舟を造りなさい」との命令から「あなたは箱舟に入りなさい」との命令へと展開されていきます。注目すべきは、冒頭に「わたしはあなたと契約を立てる」という、いわゆるノア契約が提示されていることです。
ノアは神の指示通りに「箱舟を造りました」。それは、ノアが神の救いの計画にあずかる準備ができたということです。ここまで、神はノアに対して奇跡を起こしていませんし、ノアが神と隣人に善行を行ったわけでもありません。
従って突如、神が「わたしはあなたと契約を立てる」と宣言されたのは、一方的な神の恵みと言えるでしょう。それによって、「すべて命あるもの、すべて肉なるもの」に、闇から光へとくぐり抜けていく希望が与えられました。「あなたと共に生き延びるようにしなさい」との神の言葉は、それらのものにとって大きな慰めになったに違いありません。
ノア契約でもう一つ見逃せないのは、ノアはじめ人間が、心を尽くして主なる神を愛することも、隣人を自分のように愛することもなくなってしまったという「堕落と不法」状態にある中で、結ばれたものであるということです。つまり、「契約を立てる」神の御前に、罪の悔い改めをもって人が進み出ることが求められています。
言い換えれば、「箱舟」共同体……教会の先駆けでもある!……の中で、人が自らを省み、愛と義をもって隣人(夫と妻、親と子)に接していくということです。「鳥、家畜、地を這うもの」という被造物と共なる生活であることも忘れてはなりません。狭い船内のこと、人の思い通りにいかないことも多いでしょう。しかしそれは、罪への誘惑の激しいこの世で、人が神の道を歩んで行く訓練となることでしょう。
参考までに、ノアたちが箱舟に入ってから出てくるまでの期間についてお話ししましょう。
ノアが箱舟に滞在した期間は、およそ一年あまりになります(創世記7:10、8:3)。そのうち、四十日間、雨が降り続き、次に、百五十日間、洪水が地を覆いました(同上7:4,24、8:3,6)。その後、水が地上から引き始めましたが、箱舟はしばらくアララト山の上に留まりました(同上8:4)。
ということで、ノアは丸一年、小さな箱舟の世界で、希望を抱き忍耐し共に生きるという信仰訓練の時を過ごしました。あえて信仰訓練と言ったのは、神の立てられた契約に忠実に生きるかどうかが問われていたからです。
神は、訓練を全うし、箱舟から出てきたノアに「契約のしるし」を現されました……更に神は言われた。「あなたたちならびにあなたたちと共にいるすべての生き物と、代々とこしえにわたしが立てる契約のしるしはこれである。すなわち、わたしは雲の中にわたしの虹を置く」(創世記9:12-13)。
「虹」は大雨が止み、乾いた大地に立った人間に対し、啓示されるにふさわしいものでありました。ノアは一年間、先が見えない中で、神との契約のもとに平穏に暮らしました。神と人とに堅い人格的関係が結ばれました。神はノアとの契約について、より明瞭に「神と地上のすべての生き物、すべて肉なるものとの間に立てた永遠の契約」である(創世記9:16)と宣言されました。
これはまさに、一方的な神の恵みであります。ノアは偉業を成し遂げたと絶賛されているのでしょうか。そうではありません。簡潔に、「ノアは、すべて神が命じられたとおりに果たした」と述べられている通りです。そこに、「神と共に歩み」、「堕落と不法」を免れた人の姿があります(創世記6:9-12)。
それでは、ノアに啓示された「永遠の契約」がどのようにキリスト教信仰に受け入れられたのか、見てみましょう。
Ⅴ ノアは、信仰に基づく義を受け継ぐ者となった
ヘブライ人への手紙11:7――
信仰によって、ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けたとき、恐れかしこみながら、自分の家族を救うために箱舟を造り、その信仰によって世界を罪に定め、また信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました。
ヘブライ人への手紙11章では、天地創造からアベル、ノア、アブラハム、モーセ、そして預言者たちに至るまでのことを語りながら、「信仰によって」生き、死んでいった人々の系譜をたどっています。ここにも、天地創造以来の「系図」(トルドット 創世記2:4)を尊重するヘブライ人の特徴があらわれています。
その中でもノアは特別の位置を占めています。というのも、ノアは「昔の人々」に関して「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)と言われている、その典型だったからです。
実際、「ノアはまだ見ていない事柄について神のお告げを受けた」と述べられています。洪水直前、ノアは沈黙して、神からの語りかけに耳を傾けました(創世記6:13-21)。そしてノアは、御言葉に従って、箱舟の建造、乗船、大雨、一年の船内生活、渇水、そして下船という「見えない事実」の中を歩み抜きました。それはまさに、次の展開が予想できない「見えない事実」でありました。ノアは不安や疑念に呑み込まれることなく、神の御前に「恐れかしこみながら」という姿勢を保っていました。
加えて忘れてならないのは、「ノアがその信仰によって世界を罪に定めた」と言われていることです。これは、「わたしは人を(地の面から)消し去ろう」(創世記6:7)との神の決断が実行されたとき、ノアが召し出され、忠実に働いたということを表しています。
洪水を被った「世界」というのは、「この地」(創世記6:11-12)にほかなりません。「見よ、わたしは地もろとも彼ら(すべて肉なるもの)を滅ぼす」(創世記6:13)との予告の通り、この地の「堕落と不法」は「罪に定められました」。ひとりの義人によって、あまねく世の罪が暴き出されるというのは、主イエス・キリストによって成就されました(ローマ4:25、5:16-21)。
ノアは、神に「その世代の中から」から選ばれて、「神に従う無垢な人(=義しく全き人)」として用いられました。それに符合して、ヘブライ人への手紙では「ノアは信仰に基づく義を受け継ぐ者となりました」と評されています。まさにノアは「義を受け継ぐ者」、信仰者列伝のキーパーソンのひとりです。「ノアの系図」は、「義を受け継ぐ者」たちによってつむがれていきました。 W
〈説教の原稿〉
2026年 2月8日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 9章19節~23節(P.311)
説 教「できるだけ多くの人を得るためです」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……出エジプト記3:7-10
Ⅱ わたしは、すべての人の奴隷になりました
……Ⅰコリント9:22-23
序
パウロは「福音のため」(Ⅰコリント9:23)に、自分の持っているもの、すべて……例えば自由や権利 同上9:1,4,19……をささげて、伝道し教会を建てました。一部のコリント人から批判されている「使徒の務め(ギリシア語 ディアコニア 奉仕)」(ローマ11:13、Ⅰコリント12:5)について語るときにも、消極的に弁明しているというよりも、積極的に神から授かった使命と賜物を証ししています。
確かに、当然の権利を何ら用いることなく、無報酬で福音を伝える(Ⅰコリント9:18)というのは、欲得ずくの人間が企図してできるものではありません。しかしまさに、聖霊に導かれてパウロがその「務め」にあたったからこそ、「すべての人に対してすべてのものになった」(同上9:22)と言い得たのでしょう。これぞまさに、「沖に漕ぎ出して網を降ろし、漁をする」(ルカ5:4)という収穫の期待される伝道でありました。
このように見てみると、最初に神からどのように「使徒の務め」を授かるのか、が伝道者の生き方に大きく作用することが分かります。その原型と言える、旧約聖書・モーセの事例によって、神の召命と使命の委託について確かめてみましょう。
Ⅰ わたしはあなたをファラオのもとに遣わす
出エジプト記3:7-10――
7 主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。8 それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
9 見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。10 今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ。」
この時、モーセはエジプトから荒れ野に逃亡し、身を隠していました。というのも、重労働をイスラエル人に課していたエジプト人を殺害したうえに、その過激な行為により同胞からも疎んじられるようになったからです(出エジプト記2:11-14)。ファラオからモーセ殺害の命令が出されるようなお尋ね者になりました(同上2:15)。
さらに、エジプトから遠隔の地、アラビア半島・北西部、ミディアン地方でモーセは、地元の娘と結婚しました(出エジプト記2:16,21)。ミディアン人は遊牧の民でありました。モーセに結婚を勧めた娘の父親は祭司でありました。祭司と言っても、偶像崇拝をする異教の者ですから、自ずからモーセはヤハウェ信仰から引き離されました。
「それから長い年月がたち、エジプト王は死にました」(出エジプト記3:2-3)。しかし、神はモーセを見放すことはありませんでした。神はモーセを荒れ野の奥深く、神の山ホレブへと導きました。そこでモーセは、「柴は火に燃えているのに、柴は燃え尽きない不思議な光景」を目撃しました(出エジプト記3:2-3)。神から語りかけられたモーセは恐れを抱きましたが、これがきっかけで、ヤハウェ信仰を回復させられることになりました。
そのような先触れを起こしたうえで、主なる神はモーセに語りかけられました。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った」……「わたし」なる神は、「わたしの民」のひとりとしてモーセを捕らえておられます。つまり、神がモーセと人格的な関係を結ぶということが表明されています。
「わたしは、見、聞き、知った。それゆえ、わたしは降って行き、救い出し、導き上る」……これによって、モーセは主なる神がどのようなお方であるか、を知らされました。神は圧倒的な力と愛をもって「わたしの民」を救い出されます。地に「降って来られる」神が、エジプトのイスラエルの人々に寄り添っておられます。
そのことが、「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た」との言葉から分かります。すなわち、神は「わたしの民」の「叫び声」や「圧迫される有様」に心を痛めておられます(参照:創世記6:6、詩編78:40)。神は民の苦難に介入されます。
「今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす」……「燃え尽きない柴」と御言葉とにより、神の啓示がなされました。そこで、神は民の苦難に介入するために、モーセを呼び出されました。モーセは羊飼いの仕事も、妻ツィポラも命の恩人・しゅうと父エトロも捨てて、エジプトに旅立たねばなりません。
わたしたちは、神が一方的にモーセを選び出したのを看て取ることができます。そこに、モーセが再びエジプト人と敵対し、イスラエル人との不和になるかも知れないという躊躇はありません。神はこれからモーセに立ちはだかるであろう、ファラオとの交渉はじめ障害を打ち砕かれます。モーセには、神に召され遣わされる者として、自分の「務め(ディアコニア)」に徹することができるかどうか、が問われています。
地に「降って来られた」神とモーセは一体となって(出エジプト記3:12)、イスラエルを「圧迫された」状態から助け出します。かつて熱心なユダヤ教徒(フィリピ3:5-6)であったパウロは、モーセの受けた神の召命と任務とをよく知る人でありました。そのパウロがどのように、コリント教会の人々に「使徒の務め」について説き明かすのか、読んでみましょう。
Ⅱ わたしは、すべての人の奴隷になりました
コリントの信徒への手紙 一 9:19――
わたしは、だれに対しても自由な者ですが、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです。
パウロの信仰の原点から言えば、彼は「自由な者」というよりも、「すべての人の奴隷」です。なぜなら、パウロは主イエス・キリストによって救われて、「キリストの奴隷」(Ⅰコリント7:22)として召され、そうして「すべての人の奴隷になった」からです。
また、「キリストの奴隷」になっているが故に、パウロは「自由」を拘束する律法主義から解放されています。従って、パウロが「キリストの奴隷」となり、神の豊かな賜物にあずかっているかぎり、「多くの人を得る(勝ち取る)」ことができるでしょう。
「多くの人を得る」には、まず自分がへりくだって自分を捨てねばなりません。それは、「キリストの奴隷」にふさわしく、「自分の十字架を負う」(マタイ10:38)ということです。伝道者として働く土台はそれで盤石なのですが、伝道者の大きな課題は、「できるだけ多くの人」との交わりの中に入っていくことです。
人間というのはなかなか自分の領域・土俵から出て行かないものです。謂われない反感にさらされることもあります。だからこそ、へりくだることが肝要なのです。先の失敗を後の成功につなげる(使徒言行録16:6-10)ような忍耐と知恵も欠かせません。
時系列の出来事において、また人間関係において、“ Connecting the dots ”(コネクティング ザ ドッツ)「点と点とをつなげる」ことが大切です。これは、アメリカの起業家、スティーブ・ジョブズが遺した名句です。
点と点が結ばれることを通して、新たな伝道地に鍬が入れられ、良い土地に種が蒔かれ、実りが待望されます。そのために、「わたしは、すべての人の奴隷になりました」という信仰の出発点に立ち帰ることだ、とパウロは教えています。「点と点とをつなぐ」ことが伝道の秘訣なのですから、パウロが当然の自由・権利・律法などを軽視したと断罪するのは止めましょう。
Ⅲ 律法を持たない人を得るためです
コリントの信徒への手紙 一 9:20-21――
20 ①ユダヤ人に対しては、ユダヤ人のようになりました。ユダヤ人を得るためです。②律法に支配されている人に対しては、わたし自身はそうではないのですが、律法に支配されている人のようになりました。律法に支配されている人を得るためです。21 また、わたしは神の律法を持っていないわけではなく、キリストの律法に従っているのですが、③律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。律法を持たない人を得るためです。
「わたしは、すべての人の奴隷になりました。できるだけ多くの人を得るためです」との伝道の大目標(他にマタイ28:19)が個別のグループに即して細分化されていきます。①と②では、主にユダヤ教からキリスト教への改宗がもくろまれています。つまり、ユダヤ人を対象にした伝道ということになります。そして③では、ユダヤ人以外のさまざまな異邦人への宣教が念頭に置かれています。
ここで、数多くの教会を建てた地中海圏の伝道によって培われた、パウロの「使徒の務め」の詳細が開示されます。
② 律法に支配されている人に対しては、律法に支配されている人のようになりました。
③ 律法を持たない人に対しては、律法を持たない人のようになりました。
ここで、パウロがさりげなく差し込んでいる「~のように」(ギリシア語 オゥス 接続詞)という言葉に注目しましょう。「~のように」というのは、当たり前のことですが、パウロが正真正銘の「ユダヤ人(ユダヤ教徒)」、「律法に支配されている人」、そして「律法を持たない人」になっているわけではないということです。そのことは、「わたし自身はそうではないのですが」または「わたしは神の律法を持っていないわけではなく」というパウロの留保・抑制を示す言葉にも表れています。
これは、カルヴァンが「以上のようにしたからといって、自分の自由(Ⅰコリント9:19)がなんら小さくされたわけではない」と注釈している通り、自分の沽券(体面)……キリスト教的に言えば主にある誇り・品位……に係わることではありません。
しかしだからといって、パウロはぞんざいにそのふりをしているのではありません。「できるだけ多くの人を得るため」との大目標のもと、「ユダヤ人を得るため」、「律法に支配されている人を得るため」、そして「律法を持たない人を得るため」というように、パウロは常時、どこに行っても「キリストの奴隷」として伝道に励んでいます。
パウロが息切れしないのは、個別のグループへの順応力と共に、「キリストの律法に従っている」ことに拠っています。それならば、主イエスに仕えているという軸がぶれることはありません。「心を尽くして主なる神を愛し、そして隣人を自分のように愛する」(マタイ22:36-40)との「キリストの律法」を守ることによって、パウロはますます神の恵みと祝福に満たされます。というのも、「わたしはあなたたちと共にいる」(マタイ28:20、ヨハネ7:33)と言われる主キリストが愛と正義と力を注ぎ入れてくださるからです。
Ⅳ 何とかして何人かでも救うためです
コリントの信徒への手紙 一 9:22-23――
22 弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです。すべての人に対してすべてのものになりました。何とかして何人かでも救うためです。23 福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです。
「弱い人に対しては、弱い人のようになりました」……「~のようになりました」の④番目であり、決定版です。つまり、パウロの「使徒の務め」を最もよく照らし出しています。ユダヤ人から異邦人へ(使徒言行録9:26-30、13:46)、異邦人から「弱い人」へというのは、パウロの伝道者としての人生そのものです。
先の失敗を後の成功につなげるとは、このことです。挫折であれ停滞であれ、パウロの「務め」に無駄はありません。「点と点とがつながれて」、「弱い人に対しては、弱い人のようになりました。弱い人を得るためです」という伝道において豊かに実を結んでいます。
ここで「弱い人」とは、「信仰の弱い人」(ローマ14:1)を指しています。その中には、すでに洗礼を受けている人も、求道中の人も含まれます。いずれにしても、それらの人が、身体的・頭脳的に「弱い」という意味ではありません。というのも、「信仰の弱い人」を救うためには、神からの知恵と忍耐が必要だからです。
コリントの信徒への手紙から二、三年後に書かれたローマの信徒への手紙においても、パウロは「信仰の弱い人」について言及しています。そこで具体的に、「信仰の弱い人」は、「野菜だけを食べている」、または、「ある日を他の日よりも尊ぶ」、と説明しています(ローマ14:2,5)。それに対し、パウロはそんなことにこだわるのはおかしいとか、あるいは、主イエスはそんなことを教えていないとか、いっさい反論していません。
むしろ、「食べる人(強い人)は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人(弱い人)は、食べる人を裁いてはなりません」(ローマ14:3)と忠告して、一つの教会で「強い人」と「弱い人」とが対立することに歯止めをかけています。
もちろん、「信仰の弱い人」も信仰のみによって生きているのですが、それがより確かなものとなるために、彼らは「手すり」という助けを借りているのです(K.バルト)。「肉も食べなければぶどう酒も飲まず」(ローマ14:21)という「手すり」の利用は、キリスト教倫理の点で、何ら非難される謂われはありません。
パウロはキリスト教倫理にもとらないかぎり、「信仰の弱い人」の「手すり」の利用を受け入れています。なぜなら、「弱い人を得る……何とかして何人かでも救う」ことが最優先事項だからです。彼らをつまずかせてはならない、教会から彼らを追い出してはならない、というのが、パウロの牧会上の配慮でありました。
パウロも人の子ですから、奇妙な「手すり」が教会内や信徒の日常に入り込んで来るのに、いらついたこともあったでしょう。しかし、パウロには、「福音のためなら、わたしはどんなことでもします」という “ 霊 ” 的な覚悟がありました。パウロは「弱い人を得る(勝ち取る)」ことによって、神の計画のもとにある「福音」宣教が進んでいくと確信していたのです。
「だれかが弱っているなら、わたしは弱らないでいられるでしょうか。だれかがつまずくなら、わたしが心を燃やさないでいられるでしょうか」(Ⅱコリント11:29)との言葉からも、④番目「~のように」という「使徒の務め」に心血を注いでいることが分かります。パウロは「信仰の弱い人」が「つまずいて」、罪を犯しかけるのを見逃しません。むしろ、かえって「わたしは心を燃やす」というように、パウロは熱心かつ忍耐強く彼らに接近していきます。
主イエス・キリストに仕え、自分の十字架を担う者として、パウロは「すべての人の奴隷になりました」(Ⅰコリント9:19)。そうして、日々の伝道の中で「使徒の務め」について考え抜き、「弱い人に対しては、弱い人のようになる」という境地に達しました。パウロの目には、公生涯の間、罪人、頑なな人、悪霊に取りつかれた人など「弱い人」の友となられた主イエスの御姿が映っていたことでしょう。
パウロはコリントの信徒への手紙 一 9章の初めから、神より授かった「使徒の務め」を証ししてきました。それは、「わたしは自由な者ではないか。使徒ではないか」(Ⅰコリント9:1)との問いかけから始まりました。
パウロは、主イエス・キリストに罪を赦され、ほんとうの「自由」を得ました。そして、信仰をもって主イエス・キリストによって生きようと願ったパウロは、「使徒」として遣わされました。
「ユダヤ人のように」、「律法に支配されている人のように」、「律法を持たない人のように」、そして「弱い人のように」なりつつ、パウロは実践的かつ効率的な伝道を展開していきました。ここで一つの疑問が浮かびます。それは、四つもある「~のように」に即して、目まぐるしく人との交わり方を変えるパウロは、自分を見失うことはなかったのか、ということです。
しかし、心配御無用! パウロの「使徒の務め」には、その第一として自分自身を内省することが置かれていました。厳しく自己吟味し続けていたということです。それが、「それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」との一句に表されています(他にⅠコリント9:26-27)。
自分はほんとうにあなたたちと共に、「福音にあずかっている」のかどうか、との問いを、パウロはいつも掲げていました。自分が正しく「福音」を信じているか、その「福音」において自分はあなたたちと一つになっているか、ということです。
コリント教会の人々に「使徒の務め」を説き明かす中でも、パウロに驕り高ぶりはありません。自分は「熟練した建築家のように(教会の)土台を据えた」、または、コリント教会の「父」である(Ⅰコリント3:10、4:15)との事実の内にも、謙遜さを秘めています。
言い換えればそれは、「福音にあずかっている」ことによって、この世でさまざまな苦難に遭っているけれども、パウロにはそれをはるかに超えた神からの喜びと祝福があるということです。
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〈説教の原稿〉
2026年 2月1日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 エレミヤ書 35章18節~19節(P.1245)
新約聖書 マルコによる福音書 9章30節~37節(P.79)
説 教「すべての人に仕える者になりなさい」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない ……エレミヤ書35:18-19
Ⅱ イエスは人に気づかれるのを好まれなかった ……マルコ9:30
Ⅲ 人の子は、人々の手に引き渡される ……マルコ9:31-32
Ⅳ すべての人に仕える者になりなさい ……マルコ9:33-35
Ⅴ わたしの名のために子供の一人を受け入れる ……マルコ9:36-37
序
マルコ福音書は、大きく1:1-8:26と8:27-16:8とに二分されます。第一部では主に、主イエスによるガリラヤ湖畔とその周辺の伝道が描き出されています。それに対し第二部では、主イエスの苦難と死が中心に置かれています。ガリラヤからエルサレムへと至る道程の細部に至るまで、そのことが浸透しています。
しかし、弟子たちはじめ多くの人々が主イエスの受難予告に耳を傾けようとはしません。彼らの無理解や不信仰が暴き出されていきます。同時に、弟子たちがいかにこの世的な思考に染まっているかが浮き彫りにされます。
ただ、まことの悔い改めは、罪と病と死の闇に覆われた者が回心するところに成り立つものです。何も恐れることはありません。「信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)との告白をもって、主イエスの御跡に従い続けることです。“ 霊 ” の導きによって目覚めさせられて、主イエス・キリストの行動と言葉を捉えることにしましょう。
Ⅰ わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない
エレミヤ書35:18-19――
18 また、レカブ人一族にエレミヤは言った。「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。あなたたちは、父祖ヨナダブの命令に聞き従い、命令をことごとく守り、命じられたとおりに行ってきた。19 それゆえ、イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない。」
導入として、この世的には差別を受けながらも、神によってその信仰を認められた遊牧の民をご紹介しましょう。まさに自分の方が上だという……生粋のユダヤ民族が抱くような……プライドが打ち砕かれねばなりません。
レカブ人はユダ族またはベニヤミン族と緊密な関係を持つ遊牧民でありました(列王記下10:15、歴代誌上2:55)。彼らは「家を建てるな、種を蒔くな、ぶどう園を作るな、また、それらを所有せず、生涯天幕に住むように」(エレミヤ書35:7)ということを家訓として子々孫々に伝えていました。
ぶどう酒を飲まないという点はナジル人と同じでありました(民数記6:1-21、サムエル記上1:11,28)。ただし、ナジル人は生粋のユダヤ人で、個人的に誓願を立てた者という点で、セクト(宗派・教団)化しているレカブ人グループとは異なります。
「レカブの子ヨナダブの一族」は敬虔なヤハウェ信仰者でありました。ある時、預言者エレミヤに「レカブ人一族のところへ行って、主の神殿の一室に来るように言い、彼らにぶどう酒を飲ませなさい」(エレミヤ書35:2)という主の言葉が臨みました。これは後に明らかになることですが、レカブ人を試そうということではありませんでした。そうではなく、彼らの信仰生活が神とユダヤの民の前に証しされるための出来事でありました。
レカブ人はユダヤ人と親交のある集団です。神殿礼拝や聖典尊重の点で食い違いがあったとしても、レカブ人はヤハウェなる神を信じていました。荒れ野を放浪し天幕を造って住むという生活スタイルは確かに独特です。レカブ人はそれを守り抜くために、節制・禁欲しています。
しかし彼らの生活スタイルがユダヤ人のそれと多少異なっているとしても、主なる神を信じ拝んでいる人々を差別することは許されません。
エレミヤ書35:12-14――
12 そのとき、主の言葉がエレミヤに臨んだ。13 「イスラエルの神、万軍の主はこう言われる。行って、ユダの人々とエルサレムの住民に告げよ。お前たちはわたしの言葉に従えという戒めを受け入れないのか、と主は言われる。14 レカブの子ヨナダブが一族の者たちに、ぶどう酒を飲むなと命じた言葉は守られ、彼らはこの父祖の命令に聞き従い、今日に至るまでぶどう酒を飲まずにいる。ところがお前たちは、わたしが繰り返し語り続けてきたのに聞き従おうとしなかった。
レカブ人が忠実に「父祖の命令に聞き従った」のは、もともとはその「命令」が神の御心に添うものであると信じたからです。だからこそ、牧畜を生業とする苛酷な天幕生活において、神を信じ、一族が愛し合う生活を確立することができたのでありましょう。「レカブの子ヨナダブの一族には、わたしの前に立って仕える者がいつまでも絶えることがない」という神の祝福が彼らを支える新しい力になりました。
「ユダの人々とエルサレムの住民」が偉いのか、はたまた、「レカブの子ヨナダブ一族の者たち」が偉いのかという不毛な議論は断たねばなりません。バビロン捕囚の時代に、主なる神がエレミヤを遣わされたように、今、神はこの世に聖霊を遣わし、「すべての人に仕える者になりなさい」(マルコ9:35)との主イエス・キリストの御言葉を宣べ伝えておられます。
Ⅱ イエスは人に気づかれるのを好まれなかった
マルコ福音書9:30――
一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った。しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった。
主イエスは変貌した姿を現した山を下り、ふもとに着かれ、汚れた霊に取りつかれた子供をいやされました(マルコ9:2-29)。その後、ガリラヤ伝道の拠点カファルナウムを通って、都エルサレムへ向かわれます。
その旅路の中で、主イエスは忍耐強く弟子訓練を続けます。主イエスは決して先を急がれません。本日の旅の宿、カファルナウムの「家」(ペトロの家か マルコ1:29)が師との対話の場となりました。伝道に駆けずり回っている主イエスの行動に照らせば、「しかし、イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」との描写は不可解であります。
考えてみれば、「人に気づかせるように」する時があり、逆に、「人に気づかれないように」する時があること自体は不思議ではありません。それを使い分ければこそ、生きた人間関係が構築され、伝道が進むのでありましょう。
今、主イエスが「人に気づかれないように」する時を選択されたのには、訳がありました。一つは、群衆が押し寄せて来る中で、十二弟子の教育に集中するため、そしてもう一つは、弟子たちに語られる内容に拠るものでありました。
これで、ファリサイ派の人々や律法学者たち(マルコ8:11、9:14,16、12:28)が議論に割って入ることはありません。後は、弟子たちが主イエスの語られる内容を受け止め、自分自身を内省することが求められています。
Ⅲ 人の子は、人々の手に引き渡される
マルコ福音書9:31-32――
31 それは弟子たちに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」と言っておられたからである。32 弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった。
この後しばらく、主イエスと弟子たちとの対話が続きますが、主イエスは初めに福音の核心を示されました(参照:第一回目 マルコ8:31)。それはガリラヤ伝道において、主イエスが実践してこられた、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし、奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5、6:6)という宣教の基本線に沿うものでありました。
だからこそ、主イエスは一行を伴って、「ガリラヤを通って行かれた」のです(マルコ9:30)。弟子たちはガリラヤ湖畔の風景を眺める(マルコ5:21、6:39,53)だけでも、主イエスの譬え話やパンと魚の増加の奇跡、そして数々のいやしの御業を思い起こしたのではないでしょうか。
第一回目の受難予告(マルコ8:31)では、主イエスが「殺された」(受動態)のは「長老、祭司長、律法学者たち」と特定されていますが、第二回目では「人々の手に引き渡され、殺される」と普遍化されています。
これによってわたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活が、すべての「人々」(アンスローポス 人間)を罪から救い出すためのものだったと知らされます。わたしたちに向かって、まさに「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:5)という罪の贖いが、「彼」なる苦難の僕、イエス・キリストによって成し遂げられたことが宣べ伝えられています。
都エルサレムをめざしている主イエスが、弟子たちに教えようとされたのは、そのことです。つまり、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される」との言葉の「人々」(アンスローポス 人間)に、あなたがたも含まれているということです。そのことを受け止めるために、弟子たちは “ 霊 ” に導かれ、へりくだらねばなりません。そうすれば、自分たちは、神の子を殺害するような「長老、祭司長、律法学者たち」とは違うのだという高慢さは打ち砕かれます。
最も重要なのは、神の善しとされる御心によって、「人の子は、人々の手に引き渡され(受動態)、殺される(受動態)」ということです。神が「人々の手」を用いられたのは、神の救いの計画を遂行するためでありました。苦難の僕の預言においても、「この人(イエス・キリスト)を打ち砕こうと主は望まれた」(イザヤ書53:10)と告げられています。すべてのことが「主の望み」に基づいています。
弟子たちは “ 霊 ” に導かれ、へりくだって、主イエス・キリストの十字架の復活によって成就する「主の望み」を受け入れられるでしょうか。実際に、主イエスがこの「主の望み」を弟子たちの前に提示したとき、彼らは次のような反応を見せました……「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」。
弟子たちは「言葉が分からない」上に、「怖れ」によって金縛りになりました。主につき従う者としては、どん底の状態にあります。「イエスは人に気づかれるのを好まれなかった」というのは、主イエスの慈しみ深い配慮と言えましょう。
Ⅳ すべての人に仕える者になりなさい
マルコ福音書9:33-35――
33 一行はカファルナウムに来た。家に着いてから、イエスは弟子たちに、「途中で何を議論していたのか」とお尋ねになった。34 彼らは黙っていた。途中でだれがいちばん偉いかと議論し合っていたからである。35 イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた。「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい。」
以前にも弟子たちは、「パンと魚の増加の奇跡」の光によって照らされながらも、「無駄な議論を止めようとしない」ので、主イエスから叱責されました(マルコ8:16-17)。再び同じことが起こりました。主イエスが福音の核心を語っているときに、弟子たちは「だれがいちばん偉いかと議論し合っていました」。
その議論に熱中していたために、「弟子たちはこの言葉が分からなかったが、怖くて尋ねられなかった」(マルコ9:32)と分かります。しかし、「彼らが黙っている」ままでは、ますます「主の望み」(イザヤ書53:5)からかけ離れていきます。
「議論する」(マルコ9:33,34)という語は、「ぶつぶつ言い続ける」または「心の中でつぶやく」と言い換えられます。パウロの指摘した通り、彼らの「議論」が続けば、「十字架の言葉がむなしいものになってしまいます」(Ⅰコリント1:17-18)。そうして結局、弟子たち同士の間に亀裂が走り、対立が生じます。それが、神の言葉を見失った者の末路です。
「一行はカファルナウムに来た。家に着いてから……イエスが座り、十二人を呼び寄せて言われた」……主イエスの危機介入はまことに速やかでありました。
「座って」教える姿勢は、ユダヤ教の教師ラビの伝統に由来していると言われます。目に見える形で、弟子たちに真剣に聞いて学ぶように、ということが伝達されます。
主イエス・キリストの御言葉において最も重要なことは、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」との受難予告との関連で、「いちばん先になりたい者は、すべての人の後になり、すべての人に仕える者になりなさい」と命じられているということです。
問題は、弟子たちが何を為せば、「いちばん先になれる」……弟子たちの誤解によれば「いちばん偉くなる」……か、ではありません。そうではなく、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」というお方こそ、主イエス・キリストだと信じることです。
弟子たちが悟らなければならないのは、次のことです。すなわち、弟子たちが自分自身の願望を中心に生きる(フィリピ2:21)のではなく、自分たちの内に「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になった」主イエス・キリストが生きておられる(ローマ8:10、ガラテヤ2:20)ように、信じ祈るということです。
「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」のは、容易なことではありません。「すべての人に仕える」というのは、主イエスに倣って、自分の十字架を背負う(マルコ8:34)ことにほかなりません。
「だれがいちばん偉いかと議論し合い」、周りを眺めているのでは、いつまでも主につき従うことはできません。常に「すべての人」という壮大な視点から見渡して、特定の集団や分野における無意味な拘束や序列から自由にならねばなりません(Ⅰコリント9:1,19)。そのために、まずひとりで主の前に立ち、「言葉〈福音の核心〉が分からない」上に、「怖れ」によって金縛りになっている、そのどん底の状態を打ち明けることです。主イエスは「罪人の中で最たる者」(Ⅰテモテ1:15)をも助け出されます。何も怖がることはありません。
Ⅴ わたしの名のために子供の一人を受け入れる
マルコ福音書9:36-37――
36 そして、一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げて言われた。37 「わたしの名のためにこのような子供の一人を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしではなくて、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
ここでは、自分の内に「すべての人に仕える者」である主イエス・キリストが生きておられるかどうかが大切です。信仰者に向けて、その実践が例示されます。その善行を為す際にも、「子供の一人を受け入れる」⇒「わたし〈御子イエス・キリスト〉を受け入れる」⇒「わたしをお遣わしになった方〈父なる神〉を受け入れる」という神中心の立場に自分を置くことが求められています。
主イエスのこの教えは、最も重要な第一の掟と第二の掟の連関を思い起こさせます(マタイ22:34-40)。すなわち、「心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい」というのが第一で、そして、「隣人を自分のように愛しなさい」というのが第二であるということです。
ここで、主イエスは「隣人」のひとりとして「子供」を取り上げられました。それは、「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」(マルコ9:35)というへりくだりを勧める文脈に即するものでありました。主イエスは、弱く貧しい「子供」を助けるという実践を促しておられます。
そのために、弟子たちは「わたしの名」というのは、イエス・キリスト御自身を指していることを、“ 霊 ” 的に理解しなければなりません。見定めるべきポイントは、イエス・キリストは「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」ということです。
それ故に、「だれがいちばん偉いか」という議論(マルコ9:34)に終止符を打つことです。これから都へ上って行く途中にも、「子供」はじめ弱い人々との出会いが待っています。すべての人が「わたしをお遣わしになった方〈父なる神〉を受け入れる」ことを願って、主イエス自ら、「一人の子供の手を取って彼らの真ん中に立たせ、抱き上げられました」。“ 霊 ” 的に目覚めさせられた者は、そこに、「人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」イエス・キリストの愛を見出すことでしょう。
「子供の手を取り、真ん中に立たせ、抱き上げる」という美しい御業を見て、御子イエス・キリストを「受け入れる」人は、この世で「互いに相手を受け入れる」ことでしょう(ローマ15:7)。神の国へ向かう原動力は、教会の群れ、一人ひとりが「すべての人の後になり、すべての人に仕える者になる」ところにあります。「やみくもに走って」(Ⅰコリント9:26)、先行者を追い散らす「いちばん偉い人」は、やがて息切れして途中棄権することでしょう。
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〈説教の原稿〉
2026年 1月25日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 創世記 6章1節~8節(P.8)
新約聖書 ペトロの手紙 一 3章20節~22節(P.432)
説教の構成――
序
Ⅰ そして地上に人が増え始め、娘たちが生まれた
Ⅱ わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない
……創世記6:3-4
Ⅲ 後悔し心を痛められた主
……創世記6:5-6
Ⅳ しかしノアは主の目の中に恵みを見出した
……創世記6:7-8
Ⅴ 洪水の水で前もって表された洗礼
……Ⅰペトロ3:20-22
結
序
イスラエルの父祖アブラハムが誕生する前のことです(創世記12章)。世界の黎明期が過ぎて行くうちに、神の造られた人間は神の御前に立たされていることが鮮明されました。
アダムとエバの堕罪(創世記2:4b-3:24)、カインによるアベルの殺害(同上4:1-16)、そしてレメクの復讐の歌(同上4:23-24)など出来事において、神への人間の従順さが失墜していきました。このままでは、「神の真理を偽りに替え、造り主の代わりに造られた物(偶像)を拝んでこれに仕えた」(ローマ1:25)という最悪の事態に陥りかねません。
今や、総決算の時を迎えました。人間、男と女、神の子ら(天使)、ネフィリム(巨人)、英雄たち、そして最後にノアが神の御前に呼び出されます。これらの群像の内に、天地創造以来の「光」と「闇」(創世記1:2-4)がせめぎ合っています。善と悪とが表裏一体の混沌として状況です。それらを見分けるには、神より知恵と霊を授けられねばなりません。
ノアは人類にとっての一条の「光」でありました。なぜなら、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」(創世記5:29)との預言に従って、父レメクがその子を「ノア(慰め)」と名付けたからです。怒濤のように、人間の罪悪が満ちあふれてくるただ中に、「その世代の中で、ノアは神に従う無垢な人(=義しく全き人)であった。ノアは神と共に歩んだ」(同上6:9)という人物が神によって召し出されました。
Ⅰ そして地上に人が増え始め、娘たちが生まれた
創世記6:1-2――
1 さて、地上に人(アダム)が増え始め、娘たちが生まれた。2 神の子らは、人の娘たちが美しいのを見て、おのおの選んだ者を妻にした。
人類の誕生からイスラエルの父祖の創設に至るまで、神の御計画が貫かれていることが分かります。というのも、「そして地上に人が増え始め、娘たちが生まれた」との出来事は、「産めよ、増えよ、地に満ちて地を従わせよ」(創世記1:28)との神の「人」(アダム 同上1:26,27)への命令に沿うものだからです。
人口の増加と共に、社会または共同体が造られ、人の生活の安定性や多様性が芽生え始めます。そうした上昇気流に乗りかかった人間社会の中で、或る意味では起きるべきして起こった事件がありました。
「神の子らは、人の娘たちが美しいのを見た」……すなわち、息子たちが娘たちの美しさに魅了されました。これは現代社会でも当然起こり得ることです。「神の子ら(息子たち)」は天使、すなわち、神と人との中間的存在を指しています。ここには、神話的な表象が入り交じっています。
本来ならば、性的な魅力によって天的な存在とこの世の人間が交わるというのは回避すべきことであります。なぜなら、分離すべき聖なる天の領域が侵されかねないからです。欲情が抑えられないで罪を犯してしまうという先例がありました。
創世記3:6 蛇の誘惑――
女が見ると、その木はいかにもおいしそうで、目を引き付け、賢くなるように唆していた。
女は実を取って食べ、一緒にいた男にも渡したので、彼も食べた。
主なる神は人間の共同生活の中に、越えてはならない限界、言い換えれば、規範・規則を造られました。突発的な性欲や食欲にほだされて、被造世界の秩序を壊してはならないというのが、神の教えです。後のモーセの十戒に代表されるように、ここで、神は人間が神と隣人とを愛して生活を営むように指導されています。
エデンの園の中央に「善悪の知識の木」(創世記2:9,17)が直立していたように、被造世界を囲む天と地の中心に主なる神がおられます。人の増加と共に、悪が増殖しかかっている危難の時に、神が御言葉を発せられます。こうして、人間が地上の権威を我がものとして、放蕩三昧に墜ちるのに歯止めが掛けられます。
Ⅱ わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない
創世記6:3-4――
3 主は言われた。「わたしの霊は人(アダム)の中に永久にとどまるべきではない。人は肉にすぎないのだから。」こうして、人の一生は百二十年となった。4 当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。
神が介入され、「人」(アダム)とは一体何者であるか、が明らかにされました。神は「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)という「人」の特性と尊厳を担保しつつ、「人」に神の御前にひれ伏す謙虚さを教えられました。
「わたしの霊は人の中に永久にとどまるべきではない」……慎重に読み解いていきましょう。これは、「わたしの霊が永続的に人に力を振るうようなことはない」というのが神の御心だということです。注意すべきは、神が人間を “ 霊 ” 的な存在するのを拒んだわけではないということです。神が人間を創造するときに、「その鼻に命の息を吹き入れられた」(創世記2:7)ことによって、人間は「わたし(神)の霊」と切り離せない存在となりました。
しかし神は、人が「永続的に霊の力を振るう」のを抑制されます。なぜなら、「神の子ら(=天使)」が「わたし(神)の霊」を悪用して、人間の高ぶりと逆らいの心を掻き立てる可能性があったからです。「人の中」に「永続的に」・自動的に霊が宿っているわけではありません。なぜなら、人間は霊に導かれて歩んでいる者だからです(Ⅱコリント12:18、ガラテヤ5:18)。
主なる神は人間に欲望を抑止することを求められました。ノアが「ノアは神に従う無垢な人(=義しい人)」だと言われるのも、彼が霊に導かれ、節度をもって生きることを知っていたからにほかなりません。
「人は肉にすぎないのだから」……これまた、人間のむき出しの欲望を抑え込むような言い方になっています。ただし、「ついに、これこそ わたしの骨の骨 わたしの肉の肉」(創世記2:23)という女を見出したときの「人」(アダム)の言葉の通り、神の祝福のもとに「肉にすぎない」人間が造られたのです。主なる神は、そのように取りに足りない、弱く貧しい「人」を造り、支え、そして救われます。
「こうして、人の一生は百二十年となった」……上述の神の二つの言葉が、「肉」なる「人」の寿命において具現化されました。言い換えれば、神は、「神の子ら」と「人の娘たち」とが交わって永遠の栄華を築くというような試みを禁じられたということです。
しかしここにも、神の祝福が人の生涯を包み込んでいます。主なる神は、人生上に数々の「労苦と災い」が横たわっているのをご存じです(詩編90:10)。神は、「百二十年」の最期へと時を刻む「人」、すなわち、死に向かって歩む「人」の人生全体を祝福していてくださいます。
「人(アダム)」はじめ「神の子ら(天使たち)」、「ネフィリム(巨人たち)」、そして「名高い英雄たち」が軒を連ねて住む時代となりました。人は増え、その罪が大きくなっていきます。人類が今まで経験しなかった貧富の格差や名声による差別が生じてきました。そこでようやく、一条の「光」なるノアの存在が皆さんの視界に入って来たでしょうか。
そこで聖書は、はじめに、「主」なる神について思い巡らし、次に、「ノア」のことを紹介しています。
Ⅲ 後悔し心を痛められた主
創世記6:5-6――
5 主は、地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っているのを御覧になって、6 地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた。
「そして主は~を御覧になった」……天地創造の第一、第三、第四、第五、第六の日において、「神はこれを見て、良し」と宣言されました(創世記1:4,12,18,21,31)。その時とは裏腹に、ここでは神は「地上における人の悪」をご覧になられました。その「悪」が「毎日(常に)」、勢いよく増し加えられていきます。
このまま放置しておくことはできません。「地上」全体が「人の悪」に覆われてしまうのは、時間の問題です。この火急の時に、聖書記者は神の御心に思いを馳せました。というのも、「人」(アダム)が破滅するのか、あるいは、救済されるのか、ひとえに神の御旨にかかっているからです。
「そして主は地上に人を造ったことを後悔し、心を痛められた」……「主」なる神は「人」(アダム)に対面しつつ、「地上に人の悪が増し、常に悪いことばかりを心に思い計っている」のを御自身のこととして受け止められました。
「主は後悔した」ことが「主はその心に苦痛を感じられた」というように説明し直されています。主は「人を造った」という原初の業(創世記1:27、2:7)を顧みておられます。ただし、「後悔した」と言っておられますが、増えてしまった「人」(アダム)をことごとく滅ぼして、「人を造った」ことを帳消しにしようとされたのではありません。
つまり、「後悔し、心に苦痛を感じられた」というぎりぎりのところに、主なる神は踏みとどまっておられます。主は忍耐しておられます。そこで、どのように主なる神が立ち振る舞われるのか、が御言葉によって告知されます。
Ⅳ しかしノアは主の目の中に恵みを見出した
創世記6:7-8――
7 主は言われた。
「わたしは人を創造したが、これを地上からぬぐい去ろう。人だけでなく、家畜も這うものも空の鳥も。わたしはこれらを造ったことを後悔する。」 8 しかし、ノアは主の好意を得た。
主なる神は忍耐強く、「人」(アダム)の行く末について思い巡らされました。再び、「わたしはこれらを造ったことを後悔する」と、神の思いが打ち明けられています。
冷静に考えると、神は「人・家畜・這うもの・空の鳥」を絶滅するとはおっしゃられていません。すべてが滅ぼされると思うのは早計です。なぜなら、「後悔し、心を痛めつつ」神は、先の先まで、この世の破滅の向こうまで見通しておられるからです。実際、この破滅は救済の兆しを伴うものでありました。
「しかし、ノアは主の好意を得た」の直訳は、「しかし、ノアは主の目の中に恵みを発見した」となります。すなわち、ここにはノアが神に出会った場面が想定されています。神はノアを見つめておられます。そしてノアが神を見返した時、彼は神のまなざしの中に「恵み」を見出しました。
ノアが誕生した時、父レメクは、「主の呪いを受けた大地で働く我々の手の苦労を、この子は慰めてくれるであろう」(創世記5:29)という神の啓示を受けました。この「ノア(慰め)」は神と対面し、神の「恵み」のうちに生きる大人に成長しました。
「後悔し、心を痛められた」神がその瞳の中に「恵み」を宿されました。洪水という危難の向こうに、やがて虹が輝きます(創世記9:16)。
人の罪が増し加わったところで、「しかし、ノアは主の目の中に恵みを発見しました」。この「しかし」という大いなる逆転は、神の救済史の中に再び現れます。神が御子イエス・キリストを罪が死によって支配していたこの世(ローマ5:21)にお遣わしなったことにより、最終的な「しかし」が実現しました。
Ⅴ 洪水の水で前もって表された洗礼
ペトロの手紙 一 3:20-22――
20 この霊たちは、ノアの時代に箱舟が作られていた間、神が忍耐して待っておられたのに従わなかった者です。この箱舟に乗り込んだ数人、すなわち八人だけが水の中を通って救われました。21 この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。22 キリストは、天に上って神の右におられます。天使、また権威や勢力は、キリストの支配に服しているのです。
旧約時代、ノアがもたらした「しかし」と新約時代、主イエス・キリストがもたらした「しかし」とは、相反するものではなく、共鳴し合う関係になっています。神の救いの計画は、「しかし」という二つの出来事を通して成し遂げられました。
上記のテキストの主旨を述べましょう。
初代教会において、「ノアの時代に箱舟が作られていた間、従わなかった者」、すなわち、主イエス・キリストの福音を聞かず信じなかった人々が存在していました。彼らは神から切り離され、陰府に下って行きました。
「しかし、ノアは主の目の中に恵みを発見した」にもかかわらず、一部の人々は神に背き続けて、罪による死の支配のもとに置かれています。「しかし」、「霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました」(Ⅰペトロ3:19)。
時代を超えて言うならば、ノアの箱舟による救済にあずかれなかった人々、洪水によって「消し去られた」人々に対し、主イエス・キリストが救いの御手を差し伸ばされました。それが、心の頑なな人が悔い改めて、「この水(=ノアの洪水)で前もって表された洗礼」を受けるということであります。
そのために、「洗礼」志願する者は、「今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救う」という信仰を告白せねばなりません。「イエス・キリストの復活」というのは、主が十字架につけられて、「人」(アダム)の罪を洗い清め、三日後によみがえられたことです。ですから、神に背いて洪水によって「ぬぐい去られた」人々も、死の状態から新しい命へと生き返らされます。
ノアが神のまなざしの中に見出した「恵み」はまさに、「恵みの上に増し加えられた恵み」(ヨハネ1:16 私訳)であります。それが、主イエス・キリストの、測り知れない「満ちあふれる豊かさ」によって立証されました。
結
主なる神は、罪と病と死の脅威が自分の頭を越え、もう最期だと思っている人々(哀歌3:54)をも救い出されます。神に従わない人々が立ち帰って来るのを「忍耐して待っておられます」(Ⅰペトロ3:20)。
まず自分が「イエス・キリストの復活によって」救われることです。その上で、神の国をめざす共同体・教会をこの世に打ち建てることに参加します。そこには、越えてはならない限界、つまり、キリスト教倫理を遵守する人々が集っています。被造物全体に目を向けて、「これを見て、良しとされた」という神の秩序を壊さないようにしなければなりません。
神は遠い昔から、「神の子らと人の娘たち」と「洪水の序曲」の物語を通じて、わたしたちに全地の中で「神に従う無垢な人(=義しい人)」となるように呼びかけておられます。
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〈説教の原稿〉
2026年 1月18日
旧約聖書 レビ記 6章7節~9節
説 教「福音を宣べ伝える者への援助」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 残りの分はアロンとその子らが食べる ……レビ記6:7-9
Ⅱ 福音によって生活の資を得る ……Ⅰコリント9:13-14
……Ⅰコリント9:15
Ⅳ それは、ゆだねられている務めなのです ……Ⅰコリント9:16-17
Ⅴ 福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝える
……Ⅰコリント9:18
結
序
自分の人生において、何を「報酬」(Ⅰコリント9:17,18)として生きるのか、は大きく深い問題です。「報酬」として得られるものには、金銭・物品はじめ名声そして精神的充足などが挙げられるでしょうか。仮にパウロのようにいわゆる金銭など物質的な対価をほとんど要求しない人であっても、周りの人々から伝道者としての「彼の報酬」はこれくらいであろうと、人物評価されてしまいます。
すなわち、当時のギリシア・コリントに、哲学者や宗教者の「長者番付」(年間収入ランキング)があったとしたら、パウロは一部のコリント人たちから、相当下位に位置づけられていたということです。昔も今も、「長者番付」なるものが、人の評価を左右することに変わりありません。
パウロ自身は、キリスト教伝道者の評価は、金銭的「報酬」の多寡によって決まるとは考えていませんでした。本日のテキストに見られるように、そもそも、パウロの「報酬」への考え方は独特でありました。ですから、金銭的「報酬」の少なさによって、コリント教会の一部の人々から見下されるのは、不本意なことでありました。
パウロの悲しみは、キリスト者を含め世の人が、貪欲さに駆られて金銭的「報酬」に魅了されていることにありました。「報酬」に対する価値観において自分こそ正しいと思い込んでいる人々に向かって、パウロは意を尽くして「無報酬で福音を告げ知らせる」(Ⅰコリント9:18)ことを説いています。果たして、「福音」を信じているわたしたちの心に、パウロの言葉は響いてくるのでしょうか。孤立しそうになっているパウロを、「人はパンだけで生きるものではない」(申命記8:3、マタイ4:4)と言われる主イエス・キリストが見守っておられます。
Ⅰ 残りの分はアロンとその子らが食べる
レビ記6:7-9 主なる神→モーセ――
7 穀物の献げ物についての指示は次のとおりである。アロンの子らはそれを祭壇で主の御前にささげ、8 穀物の献げ物の上に置かれたオリーブ油のかかった上等の小麦粉一つかみと乳香の全部を取り、しるしとして祭壇で燃やして主を宥める香りとする。9 残りの分はアロンとその子らが食べる。それを酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で食べねばならない。
そこで初めに、旧約聖書の伝統において、宗教家がどのような「報酬」にあずかっていたのか、垣間見てみましょう。これによって、パウロ独特の「報酬」に対する “ 霊 ” 的な考え方が際立たされることでしょう。
イスラエルでは、世襲的に「アロンの子ら」が祭司職を担っていました。祭司の務めへの「報酬」は、レビ記7:29-36や民数記18:21-32などの律法に事細かく定められていました。祭儀上の、いわば「残りの分」(肉やパン等)は、祭司の既得権益でありました。ただし、祭司が自分の分をより多く得たいと思っても、それは律法規定によって抑止されていました。
「穀物の献げ物」は、「しるしとして」、すなわち、主なる神への記念または記憶(主に覚えていただくように)として、「祭壇で燃やして主を宥める香りとされました」。その時、「祭壇で主の御前にささげられた」もののほかに、「残りの分」がありました。
ということは、祭司があらかじめ主なる神への記念の分と「残りの分」とを取り分けていたのです。双方ともに聖なるものでありました。それ故に、慎重に「残りの分」は取り扱われました。
要約すると、「残りの分は酵母を入れないパンにし、しかも聖域、つまり臨在の幕屋の庭で、アロンとその子らが食べる」ということでありました。言うまでもなく、小麦や大麦などの「穀物」は重要な食物でした。しかし、「穀物の献げ物」の「残りの分」にあずかるのは、「アロンの子ら」・祭司の特権でありました。一般の人々は、「聖域、つまり臨在の幕屋の庭」でそれが食べられるのを知ることもなければ見ることもできません。
つまり、神殿に奉納された最良の「穀物」による食事……日本風に言えば直会……は祭司だけの「報酬」でありました。「残りの分」を「聖域」外に持ち出すのは、禁忌でありました。祭司の女性親族が「残りの分」を食べるのも許されないことでありました。
Ⅱ 福音によって生活の資を得る
コリントの信徒への手紙 一 9:13-14――
13 あなたがたは知らないのですか。神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります。14 同じように、主は、福音を宣べ伝える人たちには福音によって生活の資を得るようにと、指示されました。
さて、旧約聖書における「供え物」の規定や「報酬」の慣例を知り尽くしているパウロは、コリント教会の人々に、どのような立場を表明するのでしょうか。
はじめにパウロが、旧約聖書と主イエスの教えに沿って、「神殿で働く人たち」や「福音を宣べ伝える人たち」のことを持ち出している意図をご説明しましょう。端的に言えば、それは彼らが「供え物の分け前」や「生活の資」を得たように、自分も「報酬」が支給される当然の権利を持っているということです。
「神殿で働く人たちは神殿から下がる物を食べ、祭壇に仕える人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかります」とのパウロの文言を例証するのが、Ⅰ.で見た「穀物の献げ物についての指示」であります。
「(主に覚えていただくために)しるしとして祭壇で(穀物の献げ物を)燃やして主を宥める香りとする」というのが祭儀の中心ですが、その聖性を保つ一環として、聖域内で会食が祭司のみで行われるということでありました。パウロはここで、祭司の「供え物の分け前」を示唆しながら、なおかつ主イエスの言葉によって福音宣教者の得る「生活の資」の正当性を訴えています。
「その家に泊まって、そこで出される物を食べ、また飲みなさい。働く者が報酬を受けるのは当然だからである。家から家へと渡り歩くな。」
初代教会の揺籃期には、「祈りと御言葉の奉仕に専念する」伝道牧会者や巡回伝道者は次第に増えていきました(使徒6:4)。従って、それらの人々の働きを財政的に援助することが、教会の急務となりました。パウロが上の二節で明示した通り、旧約聖書と主イエスの教えに沿って、日々労苦している宣教者の支援態勢を整えていくのは、まことに健全なことでありました。
ただ事柄が金品に関わることですから、貪欲や吝嗇(出し惜しみ)の罪が介在しやすく、教会で作った規定通りに進まないのが、現実でありました(使徒5:1-11)。教会の側ならびに伝道者、双方が祈りをもって理解し合わなければこともあります。主の恵みによる賜物こそ、伝道者への不動の支援であることを信じつつ、彼らを支えるために、信徒には祈りのうちに献金することが求められています。
まさにその点で、つまり、「報酬」に関わる相互理解という点で、パウロは一部のコリント教会の人々から誤解を受けていました。実際に「報酬」を受けている受けていないという言い争い以前に、コリント教会における「報酬」へのパウロの “ 霊 ” な考え方が受けとめられていなかったのです。
パウロはコリント教会の創設者、熟練した建築家のように土台を据えた人物(Ⅰコリント3:10)ですから、「報酬」によって支援される側の思いを伝えたかったのでありましょう。アポロはじめパウロの後を継いだ伝道牧会者がパウロとは違った形で財政的に援助されているとしても、自分の考えや生活の仕方は、このようなものだと、パウロは明確にしています。
それは、一方、「働く者が報酬を受けるのは当然だからである」(ルカ10:7=肉のものを刈り取る)、また他方、「人はパンだけで生きるものではない」(マタイ4:4=霊的なものを蒔く Ⅰコリント9:11)、と教えられた主イエスへのパウロの“ 霊 ”的な回答になっています。そしてそれは同時に、巡回伝道者としての経験と労苦に基づく、意見の錯綜するコリント教会へのパウロからの明確な回答になっています。
Ⅲ わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません
コリントの信徒への手紙 一 9:15――
しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……。だれも、わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない。
驚くべきことにパウロは、聖書の伝統に裏付けられた「この権利を何一つ利用したことはない」と明言しました。先の二節にあった旧約の慣習も主イエスの言葉も「自分がその権利を利用したいから書いた」のではない、と言い切っています。
Ⅱ.の終わりで、「意見の錯綜するコリント教会」と述べました。ここで上のパウロの見解を聞いているコリントの人たちの反応を二つ、挙げてみましょう。
一つは、「いやいやパウロさん、あなたは権利を利用して、わたしたちから身に余る報酬を受けたのではありませんか」というものです。だからこそ、パウロは「しかし、わたしはこの権利を何一つ利用したことはありません。こう書いたのは、自分もその権利を利用したいからではない」と、二度重ねて否定しています。
もう一つは、「パウロさん、あなたは権利を利用しないと言うけれども、あなたは報酬に価するほどの名声も実力もないのではありませんか。だから、権利を盾に取っても、あなたの報酬は高が知れてますよ」というものです。
ここで聖書注解者のH.W. ホーランダルは、「当時の多くの人々によれば、講義や授業によって生活できない説教者や教師は実力のない講演者、講義者と見られた。つまり、『まともな』説教者・教師は裕福な人々のもとで尊敬された客人として歓迎され、どんなときにも自分の生計を立てられる人々なのである」と述べています。
要するにパウロのケースでは、一部の人々に、権利の濫用の疑惑を晴らしても、他の一部から、あなたには元々権利を利用する資格などない、と突っ込まれるというジレンマ(板ばさみ)に置かれていたということです。
しかしパウロはそれに屈せずに、「だれも、(権利を利用しないと決意した)わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」と述べています。実際パウロは、コリントでは天幕造りの仕事(使徒18:3)をして、自ら生計を立てていました。宣教の傍らで、生活のために「自分の手で稼いでいた」(Ⅰコリント4:12)のです。
重要なのは、この「誇り」が、「キリストの奴隷」(Ⅰコリント7:22、エフェソ6:6)としての召命によるものであったということです。そのことは、自分の名声や実力を世の人に向けて、「誇る」ようなものではありません。そうではなく、パウロは第一に宣教を重んじ、その暇に生計を立てる仕事をしていた、その貧しく苦しい生き方の中に、神の栄光が現されているのを確信していたということです。ですから、「主を誇る」(Ⅰコリント1:31)ことに根ざしている「わたしのこの誇りを無意味なものにしてはならない」のであります。
パウロは「キリストの奴隷」として、主人・キリストからコリント教会の管理を委託されていました。パウロは神から授けられた、教え、預言し、いやし、賛美するという霊的な賜物(Ⅰコリント14:1-15)によって教会に仕えていました。
パウロにとって、自分の伝道生活の一切をご覧なっている神の御心に適うことを行い、そうして神を喜ばせることが、第一の「務め」(オイコノミア Ⅰコリント9:17)でありました。それ故に、自分がコリント教会の人々からどのように評価されるのか、また、どのような「報酬」を与えられるのか、は二の次のことでした。
「コリントの諸君、もっともっと、神の畑の広さ、神の神殿の豊かさに目に向けよう!」(Ⅰコリント3:9,16-17)との強い願いのもとに、不信仰な人々に「自分はその(報酬を得る)権利を利用したいからではない。それくらいなら、死んだ方がましです……」という一喝を加えたのです。
Ⅳ それは、ゆだねられている務めなのです
コリントの信徒への手紙 一 9:16-17――
16 もっとも、わたしが福音を告げ知らせても、それはわたしの誇りにはなりません。そうせずにはいられないことだからです。福音を告げ知らせないなら、わたしは不幸なのです。17 自分からそうしているなら、報酬を得るでしょう。しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです。
次第に、パウロの「報酬」に対する “ 霊 ” な考え方が開示されていきます。コリント教会の人々と共に、わたしたちもパウロの深遠な「誇り」に目覚めさせられる心構えをしましょう。
「しかし、強いられてするなら、それは、ゆだねられている務めなのです」……この文言を鍵に、上の二節を説き明かすことにしましょう。
「それは、ゆだねられている務めです」は、「わたしはその務めをゆだねられています」(受身)というのが原意です。言い換えれば、主イエス・キリストを信じる者として全心全霊で「その務め」を担いますということです。「強いられてする」との表現は、何かに威圧されてとも取れますが、そうではなく、「わたしが務めをゆだねられている」(受身!)のは、神の強い意志に拠るものなのです、ということです。
神の力が原動力なので、「自分からそうしている」のではない、と言って、自分が「報酬」に価するものを生み出しているわけではないと訴えています。エレミヤの告白の「主の名を口にすまい もうその名によって語るまい、と思っても 主の言葉は、わたしの心の中 骨の中に閉じ込められて 火のように燃え上がります」(20:9)の一文は、「強いられて」、神の「務め」を果たしている伝道者の心情を描き出しています。
ですから、伝道者パウロは主の御心に添って「報酬を得る」のであり、また、「その務め」が活発になればなるほどに「誇り」は高められるということになります。
Ⅴ 福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝える
コリントの信徒への手紙 一 9:18――
では、わたしの報酬とは何でしょうか。それは、福音を告げ知らせるときにそれを無報酬で伝え、福音を伝えるわたしが当然持っている権利を用いないということです。
パウロは、いわゆる(金品の形の)「報酬」を得る「権利を用いない」理由を提示しています。すなわち、「わたしの報酬」を以下のように定義することによって、その訳を明快にしています。
「わたしの報酬とは、わたしが無報酬で福音を告げ知らせ、当然持っているわたしの権利を用いないということです」。
易しく言い換えてみましょう。パウロはいったん金品の報酬を得る「当然の権利」を手放しました。しかしそれによって、パウロは「無報酬で福音を告げ知らせる」という「務め」(オイコノミア Ⅰコリント9:17)を身につけることができました。その「務め」というのは、「キリストの奴隷」として、教会という家の管理人として「無報酬で」、聖霊に導かれて働くことでありました。
そのようにして、パウロが伝道者の生涯を送ったことを顧みるならば、わたしたちは、そこには主イエス・キリストの公生涯が写し出されていることが分かります。すなわち、「枕する所もない」(マタイ8:20)、労苦の多い生活の果てに、主イエス・キリストはわたしたちの罪を贖い、無償でわたしたちに罪の赦しを授けられました。そうしてパウロは主に呼び出され、「キリストの奴隷」として徹底的にへりくだり、主の御跡につき従う者になりました。
パウロは主イエスに信従する生活を全うするために、誤解を招くかも知れない中で、「当然の権利を用いなかった」のです。「罪人の頭」(1:15)なるパウロは全くの価なしに、主イエス・キリストの救いにあずかりました。それ故、パウロは伝道者としての権利を求めず、この世的な名声や実力の評価にこだわりませんでした。
その点で、パウロは「キリストの奴隷」の務めに集中することにより、逆説的に、「自由」(Ⅰコリント9:1,19)を享受していました。それは、ローマでの丸二年間のパウロの生活が、「全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた」(使徒28:31)と証しされている通りです。
結
パウロの「わたしの報酬とは、わたしが無報酬で福音を告げ知らせ、(報酬に関して)当然持っているわたしの権利を用いないということです」の結びは印象深いものです。これについて、天幕造りをして生計を立てていたのは事実だとしても、パウロは伝道旅行の最中、信徒の家に寝泊まりして、飲食の提供を受けていた(使徒16:15、21:7)のではないか、との疑問が呈されることでしょう。つまり、「わたしが無報酬で福音を告げ知らせる」というのがパウロの基本理念だとしても、聖職者として一再ならず「報酬」を受けていたのを隠蔽するのは、いかがなものかということです。
しかしもし、パウロが、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし、(パンや魚を増加する)奇跡を起こす(同上2:11-12、3:5、6:6)という基本線に沿って福音宣教を実践していたとすれば、上のような疑念は氷解します。すなわち、パウロにとって「無報酬で福音を告げ知らせる」ことが第一①でありました。その上で②次に、パウロは神の恵みがいや増すことを信じ、日々のパン・糧が与えられるよう祈っていたのです。
むやみに金品の「報酬」を求めるという貪欲は戒められるべきです。とりわけ、「ゆだねられた務め」を背負っている伝道牧会者は、神の御前に清く正しく生きねばなりません。それは、主イエスが、荒れ野の誘惑・一番目において、石をパンに変えよとの悪魔の要求を退け、「人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる」(マタイ4:4)と宣言された通りです。
このような主イエスの宣教の原点となる出来事、悪魔を追い払った “ 霊 ” 的な事象を心に刻んでいたところに、パウロの真価があります。
W
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2026年 1月11日
旧約聖書 ネヘミヤ記 1章11節(P.739)
新約聖書 マルコによる福音書 9章25節~29節(P.79)
説 教「この種のものは、祈りによらなければ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ イエスが手を取って起こされると、立ち上がった ……マルコ9:26-27
Ⅲ この種のものは、祈りによらなければ ……マルコ9:28-29
Ⅳ ああ、どうかあなたの耳を傾けてください ……ネヘミヤ記1:11
序
主イエス・キリストは「わたしは信じます。信仰のないわたしをお助けください」(マルコ9:24)という父親のありのままの信仰を受けとめられました。それから主イエスは、「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた」(同上9:20)という息子のいやしに取りかかられます。あらゆることが、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし、奇跡を起こす(同上2:11-12、3:5、6:6)という福音宣教の基本線に沿って進められているのが明瞭です。
父親は「信仰のないわたし」という自分の弱さを認めました。それは主イエスに、自分にまとわりつく罪過や病気や欲情を打ち明けて、そこにキリストの力が満ちあふれてくる(Ⅱコリント12:8-9)のを願い求めるようになったということです。そうして、主イエスによって「罪が赦された」という父親の信仰が固められていきます。
あとは、病を負っている自分の息子に、キリストの力が宿るのを待てばよいのです。主イエスは福音宣教の輪の中に、群衆や弟子たちを招き入れられます。そして、祈りによって神との交わりを強めるようにと勧められています。
Ⅰ 二度とこの子の中に入るな
イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると、汚れた霊をお叱りになった。「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊、わたしの命令だ。この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな。」
「イエスは、群衆が走り寄って来るのを見ると」……主イエスの周りに、いやしの御業の目撃証人が集まって来ました。そこで主イエスは、「汚れた霊をお叱りになり」、神の権威を現されました。「イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった」(マルコ4:39)というように、混沌のただ中に、神の秩序と平安をつくり出されます。悪霊は主イエスの叱責のうちに後退します。そこで山の麓に、主イエスの御声が響きわたります。
「ものも言わせず、耳も聞こえさせない霊よ、わたしはお前に命じる」(直訳)……主イエスは悪行を為している「霊」と対決されます。それが取り囲んでいる人々にも分かるように、主イエスは御言葉を発せられました……「この子から出て行け。二度とこの子の中に入るな」。
ここに、「(この子が)幼い時から(悪霊に取りつかれている)」(マルコ9:21)という長期の艱難辛苦への主イエスの憐れみが看取されます。実際、ナザレで「幼い時」を過ごされた主イエス(ルカ2:51-52)は、これまでの子どもが被ってきた悲惨さに想いを馳せておられます。そして、「二度とこの子の中に入るな」と告知されているように、子どもが再び苦しまなくて済むように、主イエスはその子を見守り続けてくださいます。その子の傍らには、主イエスが信仰を授けられた父親が立っています。
Ⅱ イエスが手を取って起こされると、立ち上がった
マルコ福音書9:26-27――
26 すると、霊は叫び声をあげ、ひどく引きつけさせて出て行った。その子は死んだようになったので、多くの者が、「死んでしまった」と言った。27 しかし、イエスが手を取って起こされると、立ち上がった。
ここには、いやしの御業の目撃された様子が描き出されています。
整理してみると、子どもに対するいやしは、以下のように進められてゆきました。
①御言葉による開始宣言:
「わたしの命令だ(わたしがあなたに命じる)」
②霊は出て行った。
上記のように概観するならば、主イエス・キリストが十字架に上げられて、世の人の罪を担って死に、三日後によみがえられたという大いなる救いの御業が、この一つの奇跡に対する基盤となっていることに気づかれるでしょう。
ここで「死んだようになった」(実際に死んだわけではありませんが)のは、子どもであり、そして、その子を「起こされ、立ち上がらせた」のは、主イエス・キリストです。従ってこの奇跡は、主イエス・キリストが「死んで」、父なる神が御子を「起こされ、立ち上がらせる」(復活させる)ことの予型になっています。
つまり、ガリラヤ地方で主イエスが現された数々のいやしの御業は、やがて都エルサレムで起きる主イエスの十字架と復活を指し示していることが分かります。
マルコ福音書5:41-42 ヤイロの娘のいやし――
41 そして、(イエスは)子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。
汚れた霊に取りつかれた子どものいやしとの類似が、顕著であります。この二例からも、癒やしが「できる」かどうかは、ひとえに、主イエス・キリストの十字架と復活を信じることに掛かっていると教えられます。
何よりも、十字架と復活という大いなる神の救いの御業への「信仰」こそが、苦しんでいる人をいやす力の源泉となります。汚れた霊に取りつかれた子どものいやしが、主イエス・キリストの十字架と復活を想起させるような形で成し遂げられているのを見逃してはなりません。それはまさに、「信仰」的な、神の奇跡です。
突然、地上の喧噪へと入って行かれた主イエスに再び、静寂が訪れました。わたしたちも心が整えられるように、主イエスと弟子たちとの問答に耳を傾けましょう。
Ⅲ この種のものは、祈りによらなければ
マルコ福音書9:28-29――
28 イエスが家の中に入られると、弟子たちはひそかに、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と尋ねた。29 イエスは、「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」と言われた。
「ひそかに」……願わくは 公然と! 隠し立て無用……ではありますが、「なぜ、わたしたちはあの霊を追い出せなかったのでしょうか」と、弟子たちは自らの失敗を省みました。それは、弟子たちの再出発の起点となります。
主イエスの答えを読み取りましょう。
九人の弟子たちは、この度の悪霊祓いの失敗に打ちのめされているに違いありません。「この霊を追い出してくださるようにお弟子たちに申しましたが、できませんでした」(マルコ9:18)という衆人環視の中での非難は、弟子たちの耳について離れなかったことでしょう。
「この種のものは、祈りによらなければ決して追い出すことはできないのだ」……悪霊祓いの一件から、弟子たちを解放するかのように、主イエスは、「この種のものは」と、普遍的に物語っています。
③「わたしは信じます」という「信仰」が、「祈り」によって保たれる。
まず、①主イエスの「祈り」がわたしたちの背後にあることを知るのが肝要です。伝道の最中、主イエスはいつも祈っておられました(マルコ1:35、6:41、14:32)。それ故に、主イエスは父なる神の御心に添って歩まれていたことが分かります。
ここで、弟子たちは「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)との信仰に堅く立ち続けるのか、それとも、再び「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)に染まってしまうのか、という岐路に立たされます。彼らは、今も自分たちのために「祈られている」主イエスに思いを寄せることができるでしょうか。
それから次に、②「御名」を呼び、「信仰」をもって祈るということです。「イエス・キリストの御名」が、このお方こそ救い主であると信じる者によって唱えられます。するとその時、イエスと名づけられた御子に与えられた祝福(ルカ1:42)が、御名によって祈る人に豊かに下って来ます。そこには、このお方以外に、罪からの救いの救いは見出せないという強固で生きた「信仰」があるはずです(『ハイデルベルク信仰問答』問三〇)。
そのようなこと全体を踏まえているのが、③わたしたちの本当の「祈り」です。わたしたちが挫折や危難に遭った時にも、「祈りによらなければ」という主の助言が生きたものとなります。「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)との言葉が、裏切りの罪を犯そうとしているペトロに告げられた重みをしっかりと見つめましょう。「祈り」によって「信仰」が回復されます。
ネヘミヤ記1:11 わたし(ネヘミヤ)はこう祈った――
「おお、わが主よ、あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈りに、どうか耳を傾けてください。わたしたちは心からあなたの御名を畏れ敬っています。どうか今日、わたしの願いをかなえ、この人の憐れみを受けることができるようにしてください。」
紀元前445年頃、ユダヤ人のネヘミヤは、ペルシア王アルタクセルクセス1世に、「献酌官」として仕えていました。王の側近として食事などの世話をしていました。
その時、ネヘミヤは首都スサに滞在していました(ネヘミヤ記1:1)。そこに、ネヘミヤの兄弟ハナニが訪ねて来て、「ユダの人々について、またエルサレムについて、大きな不幸の中にあって、恥辱を受けている」(同上1:2-3)ことを知らせました。エルサレムの城壁と城門の再建も、喫緊の課題でありました。
上に掲げたのは、「これを聞いて、わたしは座り込んで泣き、幾日も嘆き、食を断ち、天にいます神に祈りをささげた。わたしはこう祈った」(ネヘミヤ記1:4-5)という祈りの最後の一節です。
「慈しみを注いでくださる神」(ネヘミヤ記1:5)への信頼に満ちた祈りになっています。しかも、「この人(=アルタクセルクセス)の憐れみを受けることができるように」との言葉にはネヘミヤの必死さがうかがわれます。同時に、主なる神はペルシア王アルタクセルクセス1世(在位:前464-424年)をも神の僕として用いられるという壮大な信仰が言い表されています。このことは、預言者エレミヤの時代に、バビロン王ネブカドネツァル(在位:前604-562年)が神の僕として天よりの公正な裁きをユダの地に下したことを思い起こさせます(エレミヤ書25:9、27:6)。
異邦の大王が、一介の「献酌官」の困窮またはユダヤ民族の危難に心を開くかどうかということです。主イエスからは、「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」(マルコ9:23)との応答が聞こえてきます。問題は、ネヘミヤが心より「信じる者」としてユダの地に帰り、復興に携わるか否かです。
ネヘミヤには一抹の不安があるかも知れません。何しろ目にしたことのないユダの地の荒廃なのですから。しかしそれだからこそ、ネヘミヤは「何でもできる」ようにしてくださると信じて、神に祈りをささげています。
ネヘミヤは、「あなたの僕の祈りとあなたの僕たちの祈り」というように、自分と同様に悲嘆のうちにある仲間の願いを斟酌して、神に祈りをささげました。ネヘミヤはじめ「あなたの僕たち」は神の御前に罪を告白し(ネヘミヤ書1:6)、畏れをもって主なる神を愛するという堅い信仰を持つ人々です。異邦人に仕える困難はあっても、このままペルシア帝国の領域で暮らそうと思っていたかも知れません。
しかし、ネヘミヤは幾日もの断食を行い、それから「ああ、どうかあなたの耳を傾けてください」と神に祈りました。「あなたの僕たち」の将来を神にゆだねました。すると、神からの回答が、ペルシア王と王妃による、ネヘミヤへの好意的な態度によって現されました(ネヘミヤ記2:4-8)。
具体的には、ペルシア帝国をも支配下におかれる神の執り成しにとって、ネヘミヤの帰還と都エルサレムの再建が認可されました。これから何をすべきか、神がネヘミヤの心に示されました(ネヘミヤ記2:12)。「ユダヤの総督」(同上8:9)・ネヘミヤは書記官エズラと協働して復興事業を進めました。ネヘミヤとエズラは神への民の背信が起こるたびに、神に祈りをささげました(エズラ記10:1-6、ネヘミヤ記4:3)。そうして彼らは、幾たびもの落胆や苦境を乗り越えていきました。
結
主イエス・キリストを信じ、祈る人々の「教会」から、新しい出発がなされます。山の麓に、混沌とした下界に、「教会」が造られました。その会堂には、山の上で現された神の栄光と愛が満ちています。そこは、主イエスが弟子たちを立ち直らせる場所でありました(マルコ9:28)。
この「家」は今の「教会」の土台になっています。そこでは主の日ごとに、「人の子は、人々の手に引き渡され、殺される。殺されて三日の後に復活する」(マルコ9:31)ことが言い広められていきます。
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2026年 1月4日
旧約聖書 詩編27編 13節~14節(P.858)
新約聖書 マルコによる福音書 9章20節~24節(P.79)
説 教「信じます。信仰のないわたしをお助けください」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた ……マルコ9:20-21
Ⅱ もしも 私が信じていなかったなら ……詩編27:13-14
Ⅳ 「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる ……マルコ9:23
Ⅴ わたしは信じます。信仰のないわたしをお助けください ……マルコ9:24
序
主イエスと共に、三人の弟子、すなわち、「山上の変貌」(マルコ9:2-8)を目撃したペトロ、ヨハネ、ヤコブが山から下りて来ました。十二弟子のうち、九人は山に登らず、いわば下界に待機していました。群衆に囲まれる中、弟子たちは深刻な問題を抱え込んでいました。というのも、霊に取りつかれた子どもとうろたえているその父親を囲んで、群衆が大騒ぎしていたからです。
弟子たちは誰も、主イエスから授けられた「悪霊に対する権能」(マルコ6:7)を発揮できませんでした。叫び苦しむ子どもに出会い、「イエス・キリストの御名」を唱えて癒やそうとしました(同上9:38、16:17)が、失敗しました。たった一回の失敗かも知れませんが……。山の下で主を待ち望むという状況で、暴き出された課題は、わたしたち自身のものとして受け止めるべきであります。
そうして、山上で神の栄光と愛を現された主イエス・キリスト(マルコ9:3,7)が、地上の喧噪へと入って行かれました。弟子たちの無能に怒りを抱き(同上9:18)、失意の底に沈んでいる父親のもとへまっすぐに……。
Ⅰ 霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた
マルコ福音書9:20-21――
20 人々は息子をイエスのところに連れて来た。霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた。その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた。21 イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった。父親は言った。「幼い時からです。」
弟子たちによる悪霊追放が失敗して、子どもが放置されているという重い空気の中で、主イエスは、「その子をわたしのところに連れて来なさい」と命じられました(マルコ9:19)。責めさいなまれるような厳しい言葉(同上9:18)によって固まってしまった弟子たちと入れ替わって、主イエスが動き出されました。自らの御業によって神の栄光が現されるよう、前に進んで行かれました。主の招きに応えて、弟子たちではなく、ある「人々」が子どもを「イエスのところに連れて来ました」。
「霊は、イエスを見ると、すぐにその子を引きつけさせた」……ここで「霊」が悪あがきをして見せます。悪霊は人々の間に混乱を引き起こして、皆の関心を、登場されたばかりのイエスから引き離そうとします。しかしそのために、「その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた」というように、病を負ったいたいけない子どもを痛めつけるのは決して許されることではありません。
イエスは父親に、「このようになったのは、いつごろからか」とお尋ねになった……主イエスは冷静に父親に声をかけました。そこには、「このようになった」ために、失望しているあなたがた・親子の人生を顧みて、わたしがその労苦を背負うという決意が隠されています。
ここで賢明な皆さんは、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし、奇跡を起こす(同上2:11-12、3:5、6:6)という福音宣教の基本線に沿って、主イエスが振る舞われているのに気づかれることでしょう。
主イエスは、病の深刻さを際立たせた「霊」の介入をよそに、伝道の筋道を通されます。一見、「このようになったのは、いつごろからか」という質問は意味の無いように思われるかも知れません。しかし、主イエスは日常の会話……他の例ではサマリアの女に投げかけた「水を飲ませてください」という言葉 ヨハネ4:7……をもって、その父親を信仰の世界へ招き入れようとされているのです。
この直前に、主イエスは弟子たちに向かって、「なんと信仰のない時代なのか」と嘆かれました(マルコ9:19)。主イエスはいつも、「信仰」を根本の問題に据え、あらゆる機会に、人々を正しい「信仰」に導こうとされています。その主の御心が適い、ここに、一人の信仰者が誕生しようとしています。
付け加えれば、「山上の変貌」とこの「悪霊の追放」の記事(マルコ9:2-29)は前後、「主イエスによる死と復活の予告」(同上8:31、9:31)によって囲まれています。
「わたしはあなたがたに我慢しなければならない」(同上9:19)との言の葉から、十字架を担がれる主イエス・キリストの御姿が垣間見られるでしょう。これこそ、わたしは十字架の死に至るまで従順であるという主イエスの予告にほかなりません。「汗が血の滴るように地面に落ちる」(ルカ22:44)ような忍耐をもって、主イエスは十字架を背負い、その木に上げられ、死を全うされました。全人類の罪を背負い、十字架の死をもって贖うために、耐え忍ばれました。
父親は言った。「幼い時からです。」……喧噪の中で、主イエスとの対話が成立しました。父親の短い言葉の内に、長年の危難と心の疲弊が凝縮されています。何度も「その子は地面に倒れ、転び回って泡を吹いた」という試練(マルコ9:17-18)を乗り越えて、父子とも生きながらえて、今、主イエスの御前にたどり着きました。
Ⅱ もしも 私が信じていなかったなら
信じていなかったなら――。
雄々しくあれ。心を強くせよ。
主イエスに対する疑いが入り交じっている父親の応答を読む前に、類似する詩編詩人の言葉を取り上げましょう。詩人と父親に共通するのは、主なる神または主イエスに向き合い、上よりの助けを呼び求めているということです(詩編27:7)。そして、父親同様に詩人もまた、「貪欲な敵」や「偽りの証人」に囲まれて(同上27:12)、嘆きの淵で溺れそうになっています。
実は、「もしも 私が信じていなかったなら」(新改訳2017)との文は、「わたしは信じます」(新共同訳・口語訳)と改訳されることがあります。これは前者の方が原文に即しています。
原意通りの「もしも 私が信じていなかったなら」が聖書の読者を戸惑わせかねない理由は、明白です。というのは、「わたしは信じます」との神信仰に堅く立っている詩人ならば、そうは言わないのではないか、と推測するからでありましょう。
「もしも 私が信じていなかったなら」……この告白は明らかに、苦難に襲われている詩人の動揺を表しています。もちろん、「信じない」自分など認めたくはないけれども、あの時は、神が御顔を隠された(詩編27:9)ように思われて、依りすがるものなく、将来への希望も信仰もを失いかけていたということです。
まことに生涯、神を「信じる者」はあの時この時の信仰の危機を知っているのではないでしょうか。たとえ、「私が信じていなかった」との自覚がなかったとしても、自分の魂がこの世の知恵や富みに支配されたならば、「わたしは信じます」との告白はうわべだけで偽りになります。
これは、Ⅴ.の「信仰のないわたしをお助けください」とも関連する問題です。父親が主イエスの御前で咄嗟に叫んだ(マルコ9:24)という「わたしは信じます」との信仰から、「信仰のないわたし」を独断・自力で除去することは危険です。なぜなら、主イエス・キリストの信実(信仰)のみが「信仰のないわたし」を救い出すことができるものだからです。罪と病と死の縄目から解き放ってくださる主イエスが、「信仰のないわたし」にまとわりついている心の動揺やこの世の欲望から引き離し、「わたし」を潔めてくださいます。
さらに教えられることに、詩編27編の13節と14節には、不信仰と信仰との対比が見られます。
詩人は「もしも 私が信じていなかったなら」と、不信仰をほのめかした後に、「待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を」と、自分自身はじめ会衆全体を励ましています。
「雄々しくあれ。心を強くせよ」との句は、いよいよ約束の地カナンに入ろうとするイスラエルの民を鼓舞するために用いられたものです(ヨシュア記1:6)。つまり、詩編詩人にせよヨシュアにせよ、患難をくぐり抜けながら、将来に希望を託しています。それは、「信仰とは、望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認することです」(ヘブライ11:1)と説明されているように、「信仰」的な姿勢を表しています。
詩編詩人が「待ち望め 主を」と連呼しているとおり、主なる神と結びついていることが大切です。詩人もヨシュアも、「見ずして確信している信仰」によって、「生ける者の地で主のいつくしみを見る」という将来を迎えることになったのです。
高い山から主イエスが下って来られた、その麓の土地は、果たして待望すべき「生ける者の地」なのでしょうか?
Ⅲ もしあなたに何かおできますならば
マルコ福音書9:22 父親→主イエス――
「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました。(もしあなたに)おできになるなら、わたしどもを憐れんでお助けください。」
「霊は息子を殺そうとして、もう何度も火の中や水の中に投げ込みました」……父親は絶望の淵に置かれていました。父親は重ねて、息子の窮状を訴えました。気持ちがもはや萎えかかっています。
しかし、主イエスは急がれません。焦ることがありません。父親の言った「もしあなたがおできになるなら」との一句に心を留められました。そこに、正しい「信仰」への突破口を見出されました。
「もしあなたがおできになるなら」との言葉の内に、主イエスに対する疑いが入り交じっているとも受け取られます。あなたの弟子たちに失望させられました、「あなたが」信頼できる人なのか、見極められないということです。主イエスご自身、この現場・「山のふもと」が、「この霊を追い出せなかった」という弟子たちの無能さや「信仰のない時代」の空気に覆われているのは、ご存じです。
「わたしどもを憐れんで(わたしども)お助けください」……今、大切なのは、悪霊の力によって痛みの極地に達している息子のいやしを主イエスにお任せすることです。そして今ただちに、「わたしは信じます」と告白することです。
ここで主イエスは、神が「できるとかできないとか」……息子の悪霊祓いができるのか……というように疑心暗鬼になるのに歯止めを掛けられます。その上で、あなたは「信じる者」になる決心があるのか、と父親に自分自身を省みるように促されています。神の前に「悔い改める」(ルカ15:7)とは、神との関係において自分がひっくり返される(=メタノイア 心のあり方が変化する)ことを意味しています。
果たして、父親はひっくり返されて、堅い信仰を抱き、「何でもできる」者として愛しい息子に向き合えるようになれるでしょうか?
Ⅳ 「できれば」と言うか。信じる者には何でもできる
マルコ福音書9:23――
イエスは言われた。「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる。」
「『できれば』と言うか。信じる者には何でもできる」……主イエスの真意を説き明かしましょう。
まずは、「もしあなたがおできになるなら」という留保は止めなさい、ということです。息子がいやされるかどうか、あるいは、このわたし(父親)に神の憐れみが下るかどうか、つまり、癒やされたらとか、あるいは、神に憐れまれたらとか、自分で納得できるものがあれば、という考え方は、「信仰」と相容れません。それでは、自分の思想や欲望の枠内に、「信仰」の対象である主イエス・キリストを、そのお方を、押し込めることになります。
全地全能なる神の御子、イエス・キリストは、この父親を「信じる者」として生まれ変わる方向へと舵を切ってくださいました。それは、患難を背負っている自分をまるごと神にゆだねるということでありました。そこでは、曖昧な、中途半端なことは許されません。そのために、主イエスは信仰問答をもって、ひとりの人間を「信じる者」の輪の中へ招き入れようとされています。
「信じる者には何でもできる」……この言葉の意味は、こうです。
まず前提として、「あなたがおできになる」、すなわち、「人間にできることではないが、神にはできる」(マルコ10:27)ことが、この宣言の土台になっています。「何でもできる」と言い切っているところに、全能なる神の力への信頼があります。御子イエス・キリストは、御父の全能なる力を、この世にあらわされたお方です。だから、それは破棄されることのない、主イエスの宣言なのです。
そして、それを踏まえながら、「信じる者には何でもできる」と告げられています。ここで神は、人々が「何でもできる」イエス・キリストを信じ、そして、「信じる者」が御名を唱えて、神の愛と正義をあらわすようにと願っておられます。神は愛と正義の業を行うよう、「何でもできる」僕たちを用いられます。たとえ神の奇跡を起こそうとして失敗したとしても、主イエス・キリストによって立ち直りの力が与えられるよう祈り求めるのが、「信じる者」にほかなりません。
こうして主イエスは、御前で嘆願している人の応答を待たれます。
Ⅴ わたしは信じます。信仰のないわたしをお助けください
マルコ福音書9:24――
その子の父親はすぐに叫んだ。「信じます。信仰のないわたしをお助けください。」
「わたしは信じます。信仰のないわたしをお助けください」……主イエスとの対話のうちに、父親は「信仰」を告白しました。
わたしたちは、主イエス・キリストによって、いったい何から救われるのでしょうか?
ひと言でいえば、罪と病と死の縄目から解放されるということです。同時にまた、「信仰のないわたし」が、主イエス・キリストによって「信じる者」に造り変えられるとも言えましょう。つまり、不信仰なわたしから、「何でもできる」神の御力によって助け出されるということです。
わたしたちは礼拝で、また、祈りの時に、「わたしは信じます」と告白します。神に向かって叫びます。その時、わたしは「信仰のないわたし」を神に隠すことなく、真に悔い改めます。わたしは信仰上の「どん底」、その危難に遭っても、ただ神によって救い出されることを祈り求めます。
主イエス・キリストはわたしたちの口に「信じます。信仰のないわたしをお助けください」との告白を授けてくださるお方です。
これから主イエスは、①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし、奇跡を起こす という福音宣教の基本線に沿って、悪霊に引きつけさせられて死んだようになってしまった子どものいやしに取りかかられます(マルコ9:26-27)。もう手遅れでしょうか。
そうではありません。嘆願してきた父親が「信仰のないわたし」に内在する罪咎や不安を、主イエスに取り除いていただくのが、第①なのです。確かに、「わたしは信じます」と告白した父親に罪の赦しが与えられました。
主イエスは「わたしどもを憐れんで(わたしども)お助けください」(マルコ9:22)との懇願に耳を傾けられるに違いありません。「わたしども」として父と一体になっている子の前に、主を信じ、いやしの恵みにあずかる道が拓けています。
「息子よ、待ち望め 主を。雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を」!
死んでよみがえられた主イエス・キリストがあなたを見守っておられます。
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月報12月号
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 脱穀している牛に口籠をはめてはならない
……Ⅰコリント9:8-9 + 申命記25:4
Ⅱ 霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る
Ⅲ あなたがたに対するこの権利を持っている
Ⅳ キリストの福音を少しでも妨げてはならない
序
コリントの地に教会を設立し伝道し、そして牧会するただ中にあって、パウロは自分がどのような人物であるのか、表出しています。或る意味では、言わずもがなと思うようなことまで、さらけ出しています。そして、この世の知恵に依り頼む肉の人には、徹底的に反論しています。このようにパウロが毅然たる態度を取り続けているのは、確固とした基盤があるからです。
パウロの自己理解の原点にあったのは、「イエス・キリストの使徒」(Ⅱコリント11:13、テトス1:1)として神に選ばれ立てられているということでありました。「わたしは、キリストとその復活の力とを知り、その苦しみにあずかって、その死の姿にあやかりながら、何とかして死者の中からの復活に達したいのです」(フィリピ3:10-11)というように、パウロは人格と生活において、キリストが体現されるように努めました。
パウロは “ 霊 ” によって大胆にも、「そこで、あなたがたに勧めます。わたしに倣う者になりなさい」(Ⅰコリント4:16)と語っています。確かに、「愛する自分の子供たち」が倣うべきもろもろのことが、「父親」なるパウロによって示されています(同上4:14-15)。
パウロは神によってイエス・キリストに結ばれています(Ⅰコリント15:3)。従って、パウロの心からの願いは、「キリスト・イエスに結ばれたわたしの生き方を、あなたがたに思い起こさせること」(同上4:17)でありました。裏を返すと、もしあなたがたがわたしにおいて、「わたしたちの主イエスを見た」ならば、わたしが「自由な者」であり「使徒」であることが分かると告げています(同上9:1)。
パウロがコリントの信徒への手紙 一 9章で論じている、「使徒」の「自由」と「権威」(Ⅰコリント9:12)はとても誤解されやすいものです。だからこそ、パウロは「イエス・キリストの使徒」との基盤に立って、自身の生活の中に与えられている「自由」と「権利」について説き明かしています。主にあって「自由」と「権利」を持つ牧会者パウロの存在があって、コリントの共同体は「神の教会」(Ⅰコリント1:2)として建てられ成長していきます。
Ⅰ 脱穀している牛に口籠をはめてはならない
8 わたしがこう言うのは、人間の思いからでしょうか。律法も言っているではないですか。
9 モーセの律法に、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」と書いてあります。神が心にかけておられるのは、牛のことですか。
申命記25:4――
脱穀している牛に口籠を掛けてはならない。
「わたしがこう言う」とは、働く人はそれ相応の「自由」と「権利」を有していることを指しています。具体的には、「使徒」・伝道者は生活の糧について支援を受ける「権利」を持っているということです。
ただしパウロは、労働に対して支払われる対価・報酬、つまり、この世の経済を論じようとしているのではありません。あくまでも、「使徒」が生活支援を受ける「権利」は、「律法も言っている」信仰上の問題であることを印象づけています。だから、パウロはさっそく旧約聖書を引用して、コリントの人々を “ 霊 ” の世界へ引き入れようとしています。
言い換えれば、パウロが直前に例示している兵士、農夫、そして羊飼い(Ⅰコリント9:7)が労働者として有している「権利」と、「使徒」・伝道者のそれとの間には明確な違いがあります。というのも、「使徒」・伝道者は主の働き人として「霊的なものを蒔く」(同上9:11)という点で、際立つ特徴があるからです。
ですから伝道者の立場から、パウロは神の造られた被造世界の出来事として、「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」との戒めを解釈しようとしています。つまり、神の愛の世界に起こり得る、人の妨害行為への禁止命令として読みなさい、ということです。
「脱穀している牛に口籠をはめてはならない」……牛が口に籠をはめられて、もみ殻を踏み砕きながら、ぐるぐる回っています。これは、コリントの町で見られたありきたりの光景でありました。牛が重労働をしているのが見て取れます。もし自分が牛だとしたら、空腹になるに違いないと、容易に想像できます。
動き回っている牛も脱穀される作物もすべて、神が造り、人間の営みのために備えてくださったものです。農作業の一場面で、神の恵みを感じ取れるかどうか、が問われています。わたしたちのために働いてくれた家畜に十分な餌を与えるのは、当然のことです。使徒パウロはいつも、旧約聖書を拠り所として、「神の教会」が置かれている被造世界を見つめています。
Ⅱ 霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る
コリントの信徒への手紙 一 9:10-11――
10 それとも、わたしたちのために言っておられるのでしょうか。もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです。耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働くのは当然です。11 わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか。
パウロは諺風の戒めについて、「神が心にかけておられるのは、牛のことですか、それとも、わたしたちのことですか?」と問い尋ねています。そしてパウロは、「もちろん、わたしたちのためにそう書かれているのです」と、その答えを用意しています。問いと答えによって滑らかに福音的理解へと誘導しています。
ただいまの主題は、どのように「使徒」・伝道者の「分け前」・「肉のもの」を理解するか、ということです。人の働きの報酬に関わる査定がデリケートな問題であるのは、昔も今も変わりありません。ですからここでは、パウロはスムーズに議論を運ぼうとしています。
パウロは “ 霊 ” 的な視点を重んじ、なおかつ、ぶどうの「実」、羊の「乳」、そして牛の餌など被造世界の生業に目配りしつつ、コリントの人々に語りかけています(Ⅰコリント9:7,9)。
前節に続き、旧約聖書(続編)から聖句を引用しています。「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働く」の出典は、以下の通りです。
シラ書〔集会の書〕6:19――
耕し、種蒔く農夫のように、知恵に近づき、
その豊かな実りを待ち望め。
知恵を得るには、しばらく苦労するが、
やがて、その実を味わうだろう。
以上、二つの諺風の戒めは、「わたしたちのために」書かれている、と2回繰り返されています。「分け前」・「肉のもの」にあずかる「わたしたち」、主の働き人のことを、うわさによって誤解したり、むやみに非難したりしないでほしいと願っています。
ですから、この文脈では「耕す者が望みを持って耕す」との一文から想起すべきは、「神の畑」で働いている「わたしたち」・伝道者のことです。同じコリントの信徒への手紙 一 においてパウロは、「わたしは植え、アポロは水を注いだ」(3:6)との比喩表現を使っていました。このように、農業従事者の譬えは、汗水流して労苦している「わたしたち」を指しています。実際、パウロはおよそ一年半コリントで、御言葉を語ることに専念しました。まさにこの地を「耕し」、御言葉の種を「植えた」あるいは「蒔いた」のです。
このように読み解いていくならば、「耕す者」の「望み」または「期待」(ギリシア語 エルピス)が深い意味を持っていることが分かるでしょう。すなわち、それは、伝道者のあずかる「分け前」・「肉のもの」への期待であると同時に、究極的には主イエス・キリストと再会するという「望み」を言い表しています。この点については、Ⅳ.で再び触れることにします。
「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ることは、行き過ぎでしょうか」……「わたしたち」・伝道者からコリントの教会員へ向けて語っているという文脈です。「わたしたち」は「霊的なものを蒔く」よう神の召命を受けた人々です。預言者エレミヤが神に召されたとき、「見よ、わたしはあなたの口に わたしの言葉を授ける」と告げられました(1:9)。エレミヤは神によって聖別され、ユダの民、つまり、「あなたがた」のもとに遣わされました。
従って、神より油を注がれて特別な賜物を授かっているエレミヤやパウロが「あなたがたから肉のものを刈り取る」のは、決して「行き過ぎ」ではありません。
「あなたがた」は感謝をもって「分け前」・「肉のもの」を、「わたしたちのために」差し出すのです。それによって、「あなたがた」は「耕す者が望みを持って耕す」という伝道者の労苦に加わり、彼らの “ 霊 ” 性において潔められます。これとは逆に、「自分の肉に蒔く者は、肉から滅びを刈り取る」(ガラテヤ6:8)というような自滅の道から遠ざからねばなりません。その人には「望み」をもって実りを待つ忍耐がありません。
Ⅲ あなたがたに対するこの権利を持っている
コリントの信徒への手紙 一 9:12前半――
他の人たちが、あなたがたに対するこの権利を持っているとすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか。
「他の人たち」とは例えば、主イエスの兄弟ヤコブや弟子ペトロ(ケファ)を指しています。彼らは、信者である妻を連れて歩いて伝道しています(Ⅰコリント9:5)。ですから、その家族の生活を支えるために、教会から「分け前」・「肉のもの」から提供されることが必須となります。
それに対してパウロは独身だから(Ⅰコリント7:8,40)といって、生活支援に関して差別があって良いはずはありません。しかし、パウロはなぜここで、「~とすれば、わたしたちはなおさらそうではありませんか」と、「権利」(=権威)という言葉を持ち出し、力を込めて語っているのでしょうか。コリントの教会員に自発的に、「分け前」・「肉のもの」を差し出させようとする意図があるとも思えません。
そうではなく、パウロはコリントの人々に気づいてほしいと願っているのです。行いを要求しているのではありません。「あなたがた」に気づいてほしいことを、換言すれば、「霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る」ことへの福音的な理解を求めているということです。
「あなたがたはわたしたちから霊的なものを与えられています」、そのことに気づいてほしい、つまり、主イエス・キリストへの信仰をもって「霊的なもの」、すなわち、神の恵みの尊さを知るように、ということなのです。
この世を見渡せば、すぐに了解されることですが、人が持っている「権利」というのは、当人が持っていると主張しなければ、そのような「権利」は持っていないと見なされかねません。なぜ、「権利」を隠すかのように黙っているのですかと、「肉のものを刈り取る権利」を持っている人を責めるのが、世の理です。
だからこそ、パウロは、この世の無理解に染まっているコリント教会の人々に、「~とすれば、わたしたちはなおさらそう(権利を持っている)ではありませんか」と諭したのです。「肉のものを刈り取る権利」についてのパウロの沈黙ではなく、彼の謙虚さを評価すべきです。
パウロは、「わたしたちがあなたがたに霊的なものを蒔いたのなら、あなたがたから肉のものを刈り取ること」について、コリントの教会員に福音的な理解を求めました。ここまで、いわゆる金銭的報酬に関して、パウロは忍耐と慎みをもって議論を展開してきました。その帰結として、パウロは「霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る権利」に関わる自分の実践を言い表しています。
Ⅳ キリストの福音を少しでも妨げてはならない
コリントの信徒への手紙 一 9:12後半――
しかし、わたしたちはこの権利を用いませんでした。かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならないと、すべてを耐え忍んでいます。
ここには、「わたしたち」を代表する使徒パウロの「権利」に対する考えが表明されています。本来、「神の畑」(Ⅰコリント3:1-6)の働き人は、「霊的なものを蒔いて」、実るのを待望し、そして人々から「肉のものを刈り取る」というのが筋であります(ローマ15:27、ガラテヤ6:6)。
しかしパウロは、コリントでは「職業はテント造りであった」(使徒18:3)と自認している通り、伝道に励みながらも自活していました。コリントでは、「肉のものを刈り取る権利」を行使しなかったようです。「分け前」・「肉のもの」の要求を言い出せなかったのではなく、パウロは、持っている「権利」を用いないという「自由」(Ⅰコリント9:1,19)を尊んでいたからです。
しかし、こう反問する方がおられるでしょうか。ではパウロは自ら訴えている「霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る」という福音的な理解を疎んじてしまったのでしょうか、と。
確かに、教会から「分け前」・「肉のもの」を支給されて、宣教に勤しんでいた方が、「この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:10 主の言葉)と言われる町で救われる人が多くなっていたかも知れません。しかし、金もうけのために伝道している、あるいは、皆から賞賛されたいのだ、というような陰の声に惑わされることなく、パウロは自らの決断として、「権利」を用いない、つまり、「自由な者」である道を選び取りました。
パウロの代弁をするならば、彼は、「霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る」ではなく、「霊的なものを蒔き、霊的なものを刈り取る」との福音的な理解を持っていたのではないでしょうか(ガラテヤ6:8)。それは「時が縮まっている」、「今危機が迫っている状態にある」(Ⅰコリント7:26)との中での “ 霊 ” 的な判断であります。妻子を抱えている伝道者もいるので、誰でも常にそうあらねばならないという選択ではありません。
ガラテヤの信徒への手紙5:22-23――
22 これ(肉の欲望が生み出す罪咎)に対して、霊の結ぶ実は愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、23 柔和、節制です。これらを禁じる掟はありません。
終末の収穫の時に刈り取る「霊的なもの」は、「霊の賜物、福音、キリストを知ること、勧めと慰め、また、その他のもの」(H.-D.ヴェントラント)と、まことに豊かであります。もし、終わりの時が間近ならば、必ずしも「分け前」・「肉のもの」の確保を優先しなくとも良いでしょう。「すべてを耐え忍んでいます」とのパウロの宣言にも、節制と禁欲を重んじる終末的な生き方が反映されています。
Ⅱ.で「耕す者が望みを持って耕し、脱穀する者が分け前にあずかることを期待して働く」との諺風の戒めを、次のように解説しました。
――このように(パウロの宣教に係わる比喩として)読み解いていくならば、「耕す者」の「望み」または「期待」(ギリシア語 エルピス)が深い意味を持っていることが分かるでしょう。すなわち、それは、伝道者のあずかる「分け前」・「肉のもの」への期待であると同時に、究極的には主イエス・キリストと再会するという「望み」を言い表しています。――
終わりの時を目指して、「霊的なものを蒔き、霊的なものを刈り取る」とのスローガンを掲げる宣教者は、「霊的なもの」の最も大きな実りこそが、主イエス・キリストとの再会であると信じています。
結
今回のテキストにおいて、「イエス・キリストの使徒」、パウロは「自由」と「権利」について実際の伝道生活に拠りつつ、証ししています。伝道者の観点において、パウロは、「霊的なものを蒔き、肉のものを刈り取る」ことと「霊的なものを蒔き、霊的なものを刈り取る」との間で揺れ動いていると言えます。つまり、「あなたがた」のこの世に足を据えて天を仰ぐ生き方と「わたしたち」の終末論に基づく生き方との葛藤です。
そこには、神の御前にあって正直なパウロの気持ちが言い表されています。一方、妻帯して教会の支援を受けている「他の人たち」の存在を認めています。他方、独身で、終わりの時に備えている自分のあり方を真剣に考えています。
「かえってキリストの福音を少しでも妨げてはならない」……妨げるものを見極めて、「キリストの福音」を前進させるという点では、「わたしたち」も「あなたがた」も一つになれることでしょう。
くれぐれも、「分け前」・「肉のもの」に後ろ髪を引かれませんように……。ヤコブの兄エサウのように、「パンとレンズ豆の煮物」のために、「長子の権利」を軽んじることがありませんように……(創世記25:34)。
W
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2025年 12月28日
旧約聖書 詩編91編 1節~16節(P.930)
新約聖書 ルカによる福音書 4章10節~11節(P.107)
説教の構成――
序
Ⅱ あなたは御翼の陰に隠れるであろう ……詩編91:3-9
Ⅳ 生涯、彼を満ち足らせ わたしの救いを彼に見せよう
……詩編91:14-16
Ⅴ 悪魔は詩編を剽窃してイエスを試みた ……ルカ4:10-11
結
序
御子、イエス・キリストはベツレヘムでお生まれになった後、一時、エジプトに避難しておられました(マタイ2:13-15)が、夢のお告げにより、両親ヨセフとマリアの故郷ナザレに行かれました(同上2:23)。
ルカ福音書2:40――
幼子はたくましく育ち、知恵に満ち、神の恵みに包まれていた。
何気ない、主イエスの成長報告に思われますが、人間としての成長に思い悩むことのあるわたしたちにとって励ましとなる御言葉です。主イエスが両親のもとナザレで幼少期を過ごされたこと自体が、主がわたしたちと共におられるということの力強いメッセージになっています。
そこで、知恵が増し加えられた主イエスのように、わたしたちも日毎に、神の知恵に満たされてゆきますようにと願います。本日は、詩編91編全体を読み、神の教えに耳を傾け、慎重さをもって悪知恵と罠とを退けましょう。
箴言14:15――
未熟な者は何事も信じこむ。
この原稿の最後(Ⅴ)では、主イエスが旧約聖書によりつつ、どのように「行く道を見分け」られたのか、しっかり捉えることにしましょう。この詩編の中にすでに、「神はあなたを救い出してくださる 仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」(詩編91:3)というように、悪魔の試みからの逃れの道が明示されています。
警戒すべきはまさに、人を「陥れる言葉」です。神に背く者の「舌は剣のように、鋭い」(詩編57:5)というように、彼らの言葉は人の心を刺し貫き、傷つけます。それを打ち負かすのは、神の言葉しかありません。だからこそ、わたしたちが聖霊に導かれて御言葉を心に納め、いつでもそれを汲み出すことができるように備えておかねばなりません。
Ⅰ 全能の神の陰に宿る人よ
詩編91:1-2――
礼拝の司式者または先唱者による「いと高き神のもとに身を寄せて隠れ 全能の神の陰に宿る人よ」との会衆への呼びかけから始まります。そしてこの詩編では、会衆の代表者のひとり(詩人)が応えます。その真摯な応答は最後まで続きます。
「主に申し上げよ」と、「主」に向き合わされた後、「わたし」は主なる神に信仰告白をささげています……「わたしの避けどころ、(わたしの)砦 わたしの神、(わたしが)依り頼む方」。原文では賛美のような滑らかな調子になっています(「マ―ィ」と「メ―ィ」ならびに「エ」と「エ」の頭韻など)。「わたし」が汝なる神と固く結びついているのが分かります。
「いと高き神」、すなわち、「天の上に高くいます神」(詩編57:6)は、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」(同上57:1)というように、「洞窟」の闇に潜んでいるような者のもとへも、「慈しみとまことを遣わしてくださる」(同上57:4)お方です。実際、「全能の神の陰に宿る人」と呼ばれる「わたし」は安心して「夜を過ごして」(=宿って)います。
なお、「神の陰に」は、後の4節では「神の羽のもとで」、そして「神の翼の下に」と、漸層法的に繰り返されています。
Ⅱ あなたは御翼の陰に隠れるであろう
詩編91:3-9――
神のまことは大盾、小盾。
真昼に襲う病魔も
7 あなたの傍らに一千の人
あなたの右に一万の人が倒れるときすら
あなたを襲うことはない。
神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ。
いと高き神を宿るところとした。
この段落は初めと終わりの文から、「神はあなたを救い出してくださる」、それ故に、「あなたは主を避けどころとする」と要約できます。神と信仰者との親密な関係が貫かれています。その上でこの段落には、信仰者に襲い来るさまざまな危難が描き出されています。
「仕掛けられた罠から、陥れる言葉から」、「夜、脅かすものから、昼、飛んで来る矢から」、そして「暗黒の中を行く疫病から、真昼に襲う病魔から」というように、何「から」救い出されねばならないか、連続的に提示されています。「~から」はすべて原語・ヘブライ語の「ミン」(ミ ・ メ)という前置詞が用いられています。
その災いは、人間関係、心の不安、そして病気など、広範囲に及んでいます。まさに「夜」も「昼」も「恐れ」に縛り付けられます。「暗黒の中を行く」あるいは「真昼に襲う」というように、「病魔」が忍び寄っています。
しかし、あわてふためくことはありません。洞窟の闇の中にたたずんでいても大丈夫です。ただ「天の上に高くいます神」が見ておられ、自分の祈りを聞き届けてくださるのを固く信じることです。
「あなたを〈~から〉救い出してくださる」神は、「あなたの目が、それを眺めるのみ。神に逆らう者の受ける報いを見ているのみ」というように、人間に何を見るべきかを教えられています。どうしてでしょうか? それは人間が本来見るべきものが、神により備えられているからです……「それゆえ、見よ、わたし(神)は再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす」(イザヤ書29:14)。神はわたしたちの想像を超える御業を、この世に成し遂げられるお方なのです。
ですから、謙虚で慈しみ深い人は、一刻も早く「神に逆らう者の受ける報いを見ている」ことから「それゆえ、見よ、わたしは再び 驚くべき業を重ねて、この民を驚かす」という神中心へと方向を切り換えねばなりません。その究極は、神の遣わされた御子、イエス・キリストの十字架と復活の御業を「見て、驚かされる」ということです。
いきなり「見て、驚かされる」ようにと言っても、難しいかも知れません。なぜなら、この世には見てのお楽しみがたくさんあるからです。そのためにこそ、わたしたちは日頃から、神が臨在される、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)と確信していることが大切です。その点で、詩人は確信にあふれています。
「神の陰に」(詩編91:1)というやや朧気な句が前置された上で、後の4節では「神の羽のもとで」ならびに「神の翼の下に」という句が明示されています。ここで「羽」または「翼」というのは、聖所にある「贖いの座」を守っている「ケルビムの翼」を指しています(出エジプト記25:18-20)。「贖いの座」は聖所中の聖所である「至聖所」の契約の箱の上に置かれているものです(出エジプト記26:34、レビ記16:2)。
従って、「神はあなたを翼の下にかばってくださる」との言葉は、聖所の礼拝での信仰告白であると言えるでしょう。たとえ荒れ野をさ迷っていても、また、身を洞窟に隠していても、この信仰告白を思い起こして唱えることができます。要は、「天の上に高くいます神」が「翼の下に」宿る(=夜を過ごす 詩編91:1)自分自身に臨在されているのを感謝し、「神は翼の下にかばってくださる」と告白するということです。
詩人はもろもろの災い「から」逃れて、「神の翼の下へ」身を寄せるという実践行動によって、神の救いの中に入れられました。さらに詩人は、別の表現で神の見守りを告白しています。
Ⅲ あなたの道のどこにおいてもあなたを守るために
詩編91:10-13――
10 あなたには災難もふりかかることがなく
天幕には疫病も触れることがない。
獅子の子と大蛇を踏んで行く。
最後のⅤ.で見るとおりに、主イエスの荒れ野の試みに悪魔が現れます。第三の誘惑では、悪魔が詩編91編を悪用します。
ご注意いただきたいのは、詩編の剽窃・改変と共に、悪魔がどういう状況設定をして句を流用しているのか、という二点になります。
「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」の中の「あなたの道のどこにおいても」との句を心に刻みましょう。これは次節の「あなたの足が石に当たらないように 御使いが守る」とセットになっています。というのも、「足が石に当たる」との言葉には「道を歩いていて石に当たってつまずく」との意が込められているからです。
さらに、「あなたの道のどこにおいても」との句は、「生涯、彼を満ち足らせ わたし(神)の救いを彼に見せよう」(詩編91:16)という神の約束と響き合っているのが分かります。従って、「生涯」すなわち「長い日々」・「長寿」(出エジプト記20:12、詩編21:5)の間中、「神はあなたを救い出してくださる」(詩編91:3)との確信を放り捨てないことが肝要になります。
その道中には、「獅子と毒蛇」が潜んでいることもありますが、「主はあなたのために、御使いに命じて あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」との信仰に生き続けることです。こう読み解いてくると、或る場面設定を造り出して、詩編の御言葉の有効性を試すのは、まことに浅はかさであると分かるでしょう。あなたの「生涯」には、「主があなたのために、御使いに命じられ、彼らがあなたをその手にのせて運ぶであろう」時を、洞窟の暗闇で待たねばならないこともあるでしょう。
Ⅳ 生涯、彼を満ち足らせ わたしの救いを彼に見せよう
詩編91:14-16――
彼を災いから逃れさせよう。
彼に名誉を与えよう。
わたしの救いを彼に見せよう。」
神への信頼を歌い上げた詩編は、詩人への庇護を約束する神の言葉で閉じられています。「彼ら(御使いたち)はあなたをその手にのせて運び 足が石に当たらないように守る」(詩編91:12)との宣言に呼応するかのように、「わたしの名を知る者だから、彼を高く上げよう」との約束が示されています。
主の祈りに、「御名が崇められますように」(マタイ6:9)とありますが、それは、「どうぞ、神御自身が崇められますように」という意味です。つまり、「わたしの名を知る者」は「天の上に高くいます神」を信じ、へりくだり、神の御前にひれ伏しているということです。
そして、「彼がわたしを呼び求めるとき、彼に答え 苦難の襲うとき、彼と共にいて助けるであろう」というのは、詩人が「生涯」の間に、“ 霊 ” に導かれて得た確信であり希望です。その中心にあるのが、「わたしの避けどころ、(わたしの)砦 わたしの神、(わたしが)依り頼む方」と告白する御名への信仰です。「苦難の襲うとき」、自分は必ず助けられると、高慢になっているわけではありません。
それでは最後に、主イエスの面前での、詩編引用の悪例を見てみましょう。
ルカ福音書4:10-11――
『神はあなたのために天使たちに命じて、
あなたをしっかり守らせる。』
11 また、
「そこで、悪魔はイエスをエルサレムに連れて行き、神殿の屋根の端に立たせて言った」(ルカ4:9)とあるように、或る場面設定が悪魔によって仕組まれているのを見抜かねばなりません。しかも、詩編本文(91:12)が「道を歩いていて石に当たってつまずくことはない」(足が石に当たらないように守る)となっているにもかかわらず、「ここ(神殿の屋根の端)から飛び降りたらどうだ」(ルカ4:9)とけしかけているのは、道理に適っていません。
高層ビルならぬ神殿から飛び降りても、「天使たちは手であなたを支える」というセイフティー・ネットがあなたを守ってくれるのではないですか……これは、状況をあまりにも限定し過ぎています。これは、災いあり幸いある長い「生涯」を持つ人間に告げられた、「あなたの道のどこにおいても守らせてくださる」との御言葉の大きさを根こそぎにしています。相手を陥れようとする悪意が明々白々です。
「あなたの神である主を試してはならない」(ルカ4:12)……ここで主イエスは「荒れ野の中」(出エジプト記17:1-2)で、神がモーセを通じてイスラエルの民に教えられた禁止命令(申命記6:16)を掲げられました。まさに「苦難の襲う時」、主イエスは一つの奇跡に頼ることなく耐え忍び、「あなたの神」なる父の栄光を現すことに全身全霊を注ぎ込まれました。それは、御子、イエス・キリストこそが、「神は羽をもってあなたを覆い 翼の下にかばってくださる」という父なる神の臨在の御力を知るお方だからでありましょう。
結
詩編91編やイザヤ書40:31に基づく、キリスト教の讃美歌をご紹介しましょう。“ On Eagle’ s Wings ”「鷲の翼に」はアメリカ人、マイケル・ジョンカスによって、1977年に作曲されました。歌詞の最後を和訳してみましょう。
夜明けの息吹があなたを持ち上げます。
太陽の輝きがあなたを包みます。
あなたは主の手のひらの中にしっかりとらえられています。
わたしたちは「生涯」の間に、「神殿の屋根の端」に追い込まれるような危難に遭うかも知れません。
そのような「苦難の襲う」時に、自らの判断を急ぐことがありませんように!
日々に神を讃美し、「主があなたを鷲の翼に乗せて運んで行くでしょう」との希望に生きることができますように!
W
〈説教の原稿〉
2025年 12月21日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 イザヤ書 45章17節(P.1136)
新約聖書 ヨハネによる福音書 3章16節~21節(P.167)
説 教「神は独り子を賜うほどに世を愛し給えり」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ とこしえに続く救い ……イザヤ書45:17
結
序
クリスマスとは、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)の中に、無償で「独り子を信じる者」(ヨハネ3:16)すべてが入れられる日です。それは、神の支配のもとにあるイスラエル・ユダヤの歴史に、自分の名前が刻まれるということであります。
ですから、根無し草のようにこの世をさ迷っている人が、「イエス・キリストの系図」につながれる、それが、神がわたしたちに与えてくださるクリスマスの贈り物なのです。そのことを、わたしたちの間に宿られ、「住民登録」された「イエス・キリスト」ご自身が立証しておられます(ヨハネ1:14、ルカ2:1-2)。
日本人のあなた、ご心配なさらないでください! 「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」には、異邦人や女性を招き入れようとされた神の御旨が鮮明に表されています。実際に、主イエスの降誕の出来事においても、聖霊によって男の子を身ごもって産んだマリア、そして、幼子を拝んだ占星術の学者たちが「系図」に入れられました(マタイ1:16、2:11)。
御子、イエス・キリストは、「系図」の十四代✕3にわたる人間模様、すなわち、信仰と不信仰、善行と罪咎などのすべてを知り尽くしておられます。人間はじめ全被造物が「共にうめき、共に産みの苦しみを味わい」ながら(ローマ8:22)、「再創造」されるのを待望しています。ヨセフは歴代のアブラハム・ダビデの子孫の中から選ばれて、この時代状況に立ち合うことになりました。「系図」を創られる父なる神は御父の「誕生」をもって全世界の「再創造」に取りかかられました(ギリシア語 ゲネシス「系図」の語源は〘英語〙では generate「生成する」で「誕生」及び「創造」という意味も含んでいます)。
Ⅰ とこしえに続く救い
あなたたちは世々とこしえに
恥を受けることも、辱められることもない。
第二イザヤは、「バビロンへ移住させられた後」(マタイ1:12)という先の見えない時代に、主の言葉を取りついでいます。やがて、ペルシア帝国によってバビロンが征服され(前539年)、ユダヤ人へ祖国帰還と神殿再建の許可が下ります。
その解放の時に向けて、ユダヤの民の信仰を立て直すというのが、第二イザヤの使命でありました。イザヤ書45:14-17では、エジプト人やエチオピア人(またはアラビア人 クシュ・セバ)を内包しつつ「イスラエル」を「救う」憐れみ深い神がほめたたえられています。
その「イスラエル」を象徴するものとして、シオンまたはエルサレム(イザヤ41:27、46:13)が「あなた」(女性単数形 イザヤ45:14に6回)と呼びかけられています。神が、崩壊した都の、か弱く貧しい住民に懇ろに語りかけるときに、捕囚期(紀元前6世紀)の文書には、この「あなた」(女性)が用いられています。
神は都エルサレムの再建から始められます。焼け野が原となり、多くの住民が離散してしまったシオンが元の輝きを回復できるはずはない、と思われるでしょう。しかし第二イザヤは、「神である方、天を創造し、地を形づくり 造り上げて、固く据えられた方」、混沌のただ中で創造の御業を行われる神(イザヤ45:17)を固く信頼しています。
ですから、「エジプトの産物、クシュの商品 背の高いセバ人が あなたのもとに送り込まれ、あなた(=シオン)のものになる」(イザヤ45:14)という異邦の王からの貢ぎ物の奉献は、「イスラエルの主」を礼拝する中での一場面であります。それはまさしく、占星術の学者たちが、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げる」(マタイ2:11)というクリスマスの出来事の前兆でありましょう。
第二イザヤはそのように、祖国が滅ぼされ、多くの指導者が強制移住させられたユダヤの民に向けて、シオン再建の幻を語りました。暗黒の中で預言者は、「まことにあなたは御自分を隠される神、イスラエルの神よ」(イザヤ45:15)と嘆かざるを得ませんでしたが、その「主によってイスラエルは救われる」と確信していたのです。「とこしえに続く救い」が娘シオンに知らされ、世界の果てから異邦人たちが呼び集められています。
Ⅱ 永遠の命を得る
ヨハネ福音書3:16 主イエスの言葉――
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。」
内容の説き明かしに入る前に、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)との連関をつまびらかにしましょう。「神は、その独り子をお与えになったほどに」との句で思い起こさせられるのは、「アブラハムの子」イサクと「アブラハムの子(ダビデの子、)イエス・キリスト」との並行です。
主なる神は、アブラハムに「焼き尽くす献げ物」(燔祭)として、ひとり息子のイサクをささげるように命じられました(創世記22:2)。つまり、イサクをさえ「惜しまず死に渡す」(参照:ローマ8:32)ことを要求されたのです。少しのためらいもなく、ひとり息子をささげようとしたアブラハム(創世記22:3,10)を見て、神はイサクをアブラハムに返されました(同上22:12-13)。
ここに、アブラハムがわたしたちの信仰の父と呼ばれる(ローマ4:16)所以があります。しかし、神がアブラハムに、山で祭壇を築かせ、子どもを縛り付け屠らせようとされた(創世記22:9-10)、その神の御心はわたしたちの及ばないところにあります。
ところが、「神は、その独り子をお与えになったほどに……」という痛烈な決意をもっての、「アブラハムの子(ダビデの子、)イエス・キリスト」の十字架の犠牲が指し示されるとき、わたしたちは、「アブラハムの子」イサクを「焼き尽くす献げ物」とされようとした(実行はされなかった)神の深遠なる御心に向き合わせられます。
そこで、福音が凝縮されているヨハネ3:16の内容を説き明かしましょう。この文は当教会の聖餐式で読まれる「招きの言葉」の一つであります。この言葉は、「世」(この世 ヨハネ3:16,17,19)または「独り子を信じる者」……双方の違いについては後で説明します……への呼びかけになっています。そして文の骨子は、主なる神が「その独り子」を「世」に遣わされて、何を為されたのかというところにあります。
そこで、「世」(この世)は、「信じる者」(ヨハネ3:15,16,18)と「信じない者」(同上3:18)とに二分されます。待った無しで、そのように分割されるというのは、神が遣わされた「独り子」に「世」(この世)すべての人が出会うことになるからです。それが抵抗であれ無関心であれ、「独り子」に対面していることに変わりありません。終わりの時の起死回生あるいは名誉挽回は無いのかと、おっしゃるでしょうか。
福音書記者は、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」というように、神に逆らう頑ななの人々への、大いなる愛を強調しています。「神は、その独り子をお与えになったほど」の愛は、「世」(この世)の一人ひとりの心身に染み通るほどのものです。
長大な「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」は、罪を犯し続けてきた神の忍耐を、また、僕なる預言者たちが惨殺された神の悲しみ(哀歌2:20、マタイ14:5)を表しています。しかし主なる神は「このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(マタイ1:16)ということで、「この時」に「とこしえに続く救い」を現されました(ヨハネ12:27、イザヤ45:17)。
神はわたしたちを罪から救い出すために、わたしたちの心身の中へと、まさに肉薄されています。それほどの神の愛を拒み、神から遊離していつまでも外に立ち続けるのかが、厳しく問われています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」……「~したほどに」という圧倒的な神の「愛」は、「その独り子」によって独占的・集中的に現されました。具体的には、「その独り子をお与えになった」と明示されています。
ここには、二つの重要な意味があります。一つは、「賜物として与えた」ことと、もう一つは、「死に渡した」ことです。
「賜物として与えた」とは、無償で「独り子を信じる者」に提供されたという意味です。その人は、価のつけられないほどに尊い「賜物」を得たのです。
また、「死に渡した」とは、言うまでもなく、神が「その独り子」を十字架にかけてしまったことを指しています。御子、イエス・キリストは父なる神の御心のままに、十字架の死を遂げられました。福音書記者は、「独り子」が犠牲となり、人間を罪から贖われたことを、過去の出来事のように描いています。
主なる神が「わたしたちすべてのために、その御子をさえ惜しまず(創世記22:12,16)死に渡された」(ローマ8:32)ことが、アブラハムのイサク縛りを予型として、イエス・キリストの十字架刑によって成就しました。こう観るとそれが、罪人を救うための、永遠の昔からの神の計画であったと分かるでしょう。
「闇はこれ(光)に打ち勝たなかった」(ヨハネ1:5 新改訳)と言うように、今福音書記者は、主イエス・キリストの十字架と復活によって、悪魔の支配がすでに打ち負かされたことを過去のこととして告げています。その意味では、「神は、その独り子をお与えになった」という出来事の中に、主イエスの降誕と十字架・復活とが一つになっています。それが、ヨハネ福音書のクリスマスの捉え方なのです。
ですから、まさに待った無しに、「その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」神に応答しなければなりません。神は「世」(この世)に、すべての人間に、「独り子を信じる」ように絶大な「愛」をもって迫っておられます。光の側に立つのか、それとも、闇の側にたたずむのか、即刻、二者択一することを求めておられます。
主なる神は「世を愛された」、つまり、善人も罪人も(マタイ5:45)、ユダヤ人も異邦人も、すべての人を愛しておられますが、「滅びないで、永遠の命を得る」のは、ただひたすらに「独り子を信じる者」であると宣言されています。
Ⅲ 御子によって世が救われる
17 「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。」
ここには、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された」という神の大いなる救いの反響が述べられています。すなわち、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」というにように、「世」(この世)の人々が二分されるということです。
実はギリシア語の クリノー「裁く」(〘英語〙critical)の語源は「分ける・分割する」という意味です。二つの異なった状態のどちらになるかが決定されるということです。この点では、終末的な「裁き」が先取りされていると言えます。もはや世の終わりの「裁き」はないのだというよりも、主イエスの到来、その誕生・十字架・復活の出来事が「世」の有り様……光につくか闇につくか……を白日の下にさらけ出すということです。
「信じない者は既に裁かれている」との言葉は、「聖書の中で一番厳しい言葉」だと言われます(松永希久夫)。一瞬の余裕もありません。「その独り子をお与えになったほど」の神の愛に心を閉ざす者は、神に裁かれ、この世では自滅の道に転落していきます。これは、「独り子を信じる者」が「永遠の命を得ている」(現在形)とは対照的です。
「神が世を裁く」というのですから、そこに例外になる人はいません。人は皆、神に裁かれます。しかし、「裁く」ことが最終目的ではありません。そうではなく、「御子によって世が救われるため」(ヨハネ12:47)という世の人の救済にこそ、神の御心があります。
Ⅳ 真理を行う者は光の方に来る
ヨハネ福音書3:19-21 主イエスの言葉――
19 「光が世に来たのに、人々はその行いが悪いので、光よりも闇の方を好んだ。それが、もう裁きになっている。20 悪を行う者は皆、光を憎み、その行いが明るみに出されるのを恐れて、光の方に来ないからである。21 しかし、真理を行う者は光の方に来る。その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになるために。」
主イエスは議論のまとめに入られました。ここでは、「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている」という二者択一が、光―闇という二元論(参照:プロローグ ヨハネ1:4-9)の角度から展開されています。
元々この議論は、或る特定の人物に向けて語られたものです。すなわち、「さて、ファリサイ派に属する、ニコデモという人がいた。ユダヤ人たちの議員であった」(ヨハネ3:1)というその人との対話の中の文章です。
「(ニコデモは)ある夜、イエスのもとに来て言った」(ヨハネ3:2)との場面状況の故に、「光の方に来る」か、それとも、「闇の方を好む」か、という主イエスの迫りはより効果的です。ニコデモは「夜」の面会という闇への呪縛から解放されねばなりません。
また、「その行いが神に導かれてなされたということが、明らかになる」との文言は、律法を厳守する「ファリサイ派」・ニコデモへの的確な反駁になっています。つまり、律法に固執する、その「行い」が自己修養や顕示欲につながっていないか、省みるように促しています。本来、「行い」は神への感謝・応答として為されるもので、神の御心に添って、「神に(=神の中に)導かれてなされる」ものです。
それとは反対に、「悪を行う者」というのは、今まさに悪魔の虜になっている人を指しています。その人は「神の中に」、光の中に、自分の心身をゆだねようとはしません。その人は「悪い行い」を企むことに夢中で、「光の方に来よう」とはしません。
「信じない者は既に裁かれている」と言明されているので、ニコデモは即刻、闇にたたずむ者に仕分けされそうです。しかし、主イエスはここまで忍耐強く議論を続けてこられました。最終的に、ニコデモは「神に導かれて」、アリマタヤ出身のヨセフと共に、イエスの遺体を新しい墓に葬る(ヨハネ19:39-42)という最善の「行い」をする者となりました。「(安息日の)準備の日」、陽が落ちる直前、昼の間に、ニコデモが神の御心に適った「行い」を為したのは、彼が「真理を行う者は光の方に来る」ことを体現しています。
結
わたしたちは「その独り子」によって永遠の命を得ました。そのお方こそ、父なる神がわたしたちに与えてくださった尊い贈り物です。
「その独り子」の周りに、光が輝いています。「独り子を信じる者」が「光の方に来る」――それが、主イエス・キリストの降誕以来行われているクリスマスの礼拝です。
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〈説教の原稿〉
2025年 8月10日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第10主日 オープン・チャーチ for Youth
新約聖書 ルカによる福音書 9章46節~48節(P.124)
説教の構成――
序
Ⅱ イエスはご自分のそばに子どもを立たせた ……ルカ9:47-48前半
Ⅲ あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である
……ルカ9:48後半
Ⅳ まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの ……歴代誌上29:10-14
序
弟子たち十二人は、「無駄な議論が止まない」という問題を抱えていました。そこには、一触即発の律法学者との議論(マルコ9:14,16)もあれば、仲間内でつぶやくような議論(同上8:16,17、9:10,33)もあります。しかも、その議論の主題が、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」となると、口角泡を飛ばして語り始めます。内に秘めていた競争心が燃え上がります。
主イエスは弟子たちに、「中から、つまり人間の心から、悪い思い(原意は「議論」)が出て来る」(マルコ7:21)と諭されました。弟子たちは即刻、その議論が「悪い」ものとなっていると認めて、悔い改め、しばし沈黙しなければなりません。
どうしてそのように議論が加熱するのかが、「いちばん偉い」(ギリシア語:プロートス)という言葉の意味合いから分かります。「プロ」(英語の pro-)は、「前の・先の」という意味で、「プロートス」全体では「前の」の最上級、すなわち、「いちばん前のもの」を表します。まさにプロ中のプロが「いちばん偉い」人なのです。
他の人を押しのけてでも、人の先に立ちたいというのは、多くの人が内心思っていることでしょう。お互いの間のねたみや争い(Ⅰコリント3:3)を抑えるのは、なかなか難しいことです。それぞれの分野や職種の違いはあれど、生涯をかけて、いちばん先に立つとの夢を抱いている人は少なからずいます。それが、努力の源になっているとすれば、必ずしも非難すべきではありません。
しかし、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」との主題による話し合いが、「悪い思い・議論」に傾きがちなのを、信仰者は悟られねばなりません。つまり、人間関係の中で、対立・高慢・差別などの罪を誘発しやすいということです。だから、「無駄な議論を止めなさい」と言われているのです(マルコ8:17)。
何よりも、そのような議論に終止符を打つのは、主なる神のメッセージであります。
イザヤ書52:12――
しかし、急いで出る必要はない
逃げ去ることもない。
主なる神は「あなたたち」……バビロン捕囚の苦難から這い上がろうとしている帰還民……を憐れみ、心を配っておられます。都への途上、足の早い人も遅い人も、元気な人も疲れた人も、平穏な気持ちで過ごせます。なぜなら、「あなたたちの先を進み、しんがりを守る」神が「あなたたち」と共におられるからです。
Ⅰ だれがいちばん偉いか
ルカ福音書9:46――
弟子たちの間で、自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起きた。
ここには、「いちばん偉い者」についてのエピソードが記録されています。小さな出来事のように思われますが、大局的に観ると、その重要性が分かります。すなわち、主イエスはようやくガリラヤ伝道を終え、エルサレムに向かう決意を固められるところでありました(ルカ9:51、マルコ10:1)。
ということは、十二弟子の訓練においても、ひと区切りがつけられるということです。具体的に言えば、「無駄な議論を止めさせる」ということです。弟子たちは、律法学者相手の対立系の議論のみならず、仲間内系の議論においても、加熱してしまうところがあります。そんな彼らに今さら、お説教しても始まりません。
神の子、イエス・キリストは、弟子たちを自分と対話させるという策をとられました(ルカ9:43-50)。何という知恵、何という的確さなのでしょう。
主に派遣されて、「弟子たちの間」で宣教会議をすることも意義あることですが、今「弟子たちの間」から主イエス・キリストの御業と御言葉が薄らいでいます。サタンの誘惑やこの世の価値観の脅威をあなどってはなりません。自分たちは主イエスの欲する思いによって特別に選ばれた者(マルコ3:13)だという誇りを持っているとすれば、その自分の誇りを捨て去らねばありません。なぜなら、サタンは、人の誇りをくすぐり、「いちばん偉い者」に成り上がらせるという罠を仕掛けてくるからです。
弟子たちが主イエスと対話するために、まず主の御前に立たねばなりません。それは、「この世の滅びゆく支配者」から遠ざかって、「神秘としての神の知恵」なる主イエス・キリストの統治の下に置かれることを意味しています(Ⅰコリント2:6)。
それは、弟子たちにとって、つらいことかも知れません。なぜなら、「自分たちのうちだれがいちばん偉いかという議論が起こった」ことに対し、お叱りを受けなければならないからです。ガリラヤ伝道を総括する、弟子たちとの対話(ルカ9:43-50)のあとに、次の主イエスの言葉が残されています。
ルカ福音書9:54-55――
54 弟子のヤコブとヨハネはそれ(サマリアの村でイエスが歓迎されなかったこと)を見て、「主よ、お望みなら、天から火を降らせて、彼らを焼き滅ぼしましょうか」と言った。55 イエスは振り向いて二人を戒められた。
端的に言えば、「弟子のヤコブとヨハネ」は、自分たちは「最も偉い者」で、異邦人・サマリア人は「最も卑しい者」であるというこの世的評価に取り憑かれています。ここでは、主イエスから「戒められた」ことを謙虚に受け止めて、「皆同じように滅びる」と悔い改めねばなりません(ルカ13:3)。
Ⅱ イエスはご自分のそばに子どもを立たせた
ルカ福音書9:47-48前半――
47 イエスは彼らの心の内を見抜き、一人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせて、
48 言われた。「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。わたしを受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方を受け入れるのである。」
主イエスは「人の子供の手を取り、御自分のそばに立たせる」という行為をもって、弟子たちの視線を自分の方へ向けさせました。そして主イエスは、この行為にナレーションをかぶせるかのごとくに、「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と物語られました。まさに実物教育であります。
わたしたちは、主イエス・キリストの為された、言行一致の美しい出来事を、そのまま受け止めねばなりません。こざかしい予断を下すな、ということです。例えば「子供」は何を象徴しているのか、と詮索することです。
ここで最も大切なのは、主イエス・キリストが「わたしの名のためにこの子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである」と宣言してくださったことです。そしてこの宣言を聞いた人が、「わたし〈御子、イエス・キリスト〉を受け入れる者は、わたしをお遣わしになった方〈父なる神〉を受け入れるのである」という、神との関係に導き入れられることです。
つまり、信仰者による〈子供の受け入れ〉⇒信仰者による〈御子の受け入れ〉⇒信仰者による〈父なる神の受け入れ〉というように整序すれば、これは信仰の世界の話であると気づかれるでしょう。「子供」との関係が最後には、神との “ 霊 ” な交わりに高められていきます。
すべて「信仰者による」ことなので、しんどいな、と思われるかも知れません。あるいは、自分の “ 霊 ” 性に不安を覚えられるでしょうか。「受け入れる」って、どういうことですか、と焦らないでください。
ここでは、「信仰者による」が前面に出されていますが、主イエスは御父と協働して、先手を打っておられます。
ヨハネ福音書14:20 主の晩餐での主イエスの言葉――
「かの日には、わたしが父の内におり、あなたがたがわたしの内におり、わたしもあなたがたの内にいることが、あなたがたに分かる。」
主イエスは、「わたしもあなたがたの内にいる」とおっしゃるほどに、信仰者は御父と御子によって「受け入れ」られています。こうした神の絶大なる慈愛への感謝と賛美のうちに、信仰者による〈子供の受け入れ〉は現実のものとされていきます。
子供や隣人に対し、どうすることが「受け入れ」なのか、と考えあぐねるではなく、「あなたがたの内に」おられる神に感謝するところから、すべては始まります。
裏を返せば、主イエスは、この世の知恵に染まった人間の「論議」や「人間の計らい」が「いかに空しいか」(詩編94:11)を教えておられるのではないでしょうか。世の人の前で、どのように振る舞うか、何を言うのかは、聖霊が教えてくださるので、心配ありません(ルカ12:11-12)。元々、わたしたちはすべての人を「受け入れる」ほどに、強い者あるいは寛大な者ではありません。主の兄弟姉妹を増していくために、聖霊の力に頼りましょう。
Ⅲ あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である
ルカ福音書9:48後半 主イエスの言葉――
「あなたがた皆の中で最も小さい者こそ、最も偉い者である。」(新共同訳)
「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである。」(口語訳)
ここで、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」との初めの愚かな問いから、この諺風の終わりへの展開を整理しておきましょう。
ここに紛らわしい語彙の問題がありますので、指摘します。
初めに出てくる「いちばん偉い者」(ギリシア語:プロートス ルカ9:46)と終わりに出てくる「最も偉い者」(ギリシア語:メガス ルカ9:48)とは、原語を見れば分かるように、全くの別語です。従って、「最も偉い者」ではなく、口語訳のように、「大きい(者)」と訳した方が適切です。
「メガス」は単に「大きい」という意味で、形容詞・最上級ではありません。ということで、この語彙の変更には、「最も偉い」・「いちばん偉い」論争を止めよ、との意味合いが込められています。
あれこれ議論するのではなく、とことん、「小さい者」として神に仕え、御父、御子、そして隣人を「受け入れて」生きよ、ということです。誰が「いちばん小さい者」(ギリシア語:ミクロテロス)かは、この場面の宣言の通り、主イエスがお決めになることです。敬虔な信仰者ならば、神の国の祝宴に、席次があるかどうかなど、気にも留めないでしょう。
以上のように、主イエスと弟子たちとの対話を読み解いてくると、この小さなエピソード(ルカ9:46-48)の初めと終わりとでは、全く別のことが述べられていることが分かります。
だれがいちばん偉い者か、だれが先頭に立つか、という愚かな議論は止めなさい。
〈終わりのメッセージ〉
あなたがたの中で、いちばん小さい者は、神の大きな恵みを受けます。
人間の実態から、信仰の世界へと転換しています。不毛な議論によって露呈した人間の罪が解決されねばなりません。罪の誘惑にさらされている中で、主の救いの御手にあずかれるかどうかが、課題です。ただ、人間の実態と信仰の世界の間には、深い淵が口を空けています。
小さなエピソードの初めと終わりに、道筋をつけると、こうなるでしょう。
ガリラヤ伝道が終わりかけている時、弟子たちはなお、この世の罪にどっぷりつかって、脱出できません。主イエスはそのような弟子たちの罪や頑なさを背負って、都エルサレムに上って行かれます。
その途上で主イエスは、「人の子は苦しみを受け、排斥されて殺され、三日目に復活することになっている」(ルカ9:21,43-44、18:31-34)と、弟子たちに教えられました。主イエスは「いちばん偉い者」から辱められ裁かれます。主イエスは「最も小さい者」のように、屠られる小羊のように引かれていきます。
主イエスは、弟子たちがついて来ることを願っておられます。深い淵を越えた、その先に弟子たちを招き入れようとされています。これが、この度のテキストの出来事から見通せる道筋です。
それではまとめとして、主イエスの慈しみ深い行いと言葉を映し出している、ダビデの祈りを読んでみましょう。
Ⅳ まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの
10 ダビデは全会衆の前で主をたたえて言った。「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように。11 偉大さ、力、光輝、威光、栄光は、主よ、あなたのもの。まことに天と地にあるすべてのものはあなたのもの。主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる。12 富と栄光は御前にあり、あなたは万物を支配しておられる。勢いと力は御手の中にあり、またその御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる。13 わたしたちの神よ、今こそわたしたちはあなたに感謝し、輝かしい御名を賛美します。14 このような寄進ができるとしても、わたしなど果たして何者でしょう、わたしの民など何者でしょう。すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません。
これは、ダビデの晩年の祈りです。愛息のソロモンが即位し、神殿建設に取りかかる直前のことです(歴代誌上29:1,21-25)。「このような寄進ができるとしても」との言葉には、ソロモン王による神殿建設を祝って、金品を捧げるということが含意されています。
ダビデは、息子への王位継承や神殿の創設プランについて、口出ししたくなる誘惑を抑制できる人でありました。彼は「わたしたちの父祖イスラエルの神、主よ、あなたは世々とこしえにほめたたえられますように」と、心を神に向け、賛美しています。
「主よ、国もあなたのもの。あなたはすべてのものの上に頭として高く立っておられる」……「すべてのものの上に」ということですから、神の御目からは、人は皆、平等です。いちばん先に立つ者も、いちばん後ろの者も、神によって救われる罪人という点では同じです。神の国をめざす巡礼者たちの後先……順位争い・変動……に惑わされず、「すべてのものの上に頭として高く立っておられる」お方に依り頼むことです。
「その御手をもっていかなるものでも大いなる者、力ある者となさることができる」……ここでもダビデの祈りは、「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ、大きいのである」との主イエスの宣言と符合しています。主なる神は、「いかなるもの」、すなわち、「みんなの中でいちばん小さい者」をも「大きくし強める」(直訳)ことのできるお方です。なぜなら、「いちばん小さい者」は神の恵みを受け取り、その恵みがなおいっそう満ちあふれるからです(ローマ5:20)。
主イエスが「あなたがたみんなの中でいちばん小さい者こそ」と言って、弟子たちの虚ろな目を見開かせたのには、理由があります。すなわち、「いちばん小さい者」は富んでいても貧しくても、「すべてはあなたからいただいたもの、わたしたちは御手から受け取って、差し出したにすぎません」と、神への心からの感謝を表しているからです。
結
現代社会では、「自分たちのうちだれがいちばん偉いか」との問いから派生したような、ランキング・格付けが流行しています。情報が氾濫する中で、より良いものを得たい・知りたいという意識が高まっています。そこでとりあえず、携帯やパソコンで、ランキングを見てみよう、調べてみようとなるわけです。
問題は、何を物差し・尺度……偏差値等の統計あるいは街角調査……にしているか、であります。
現状、ランキングはあくまでテレビの娯楽だからとか、または、精確な格付けには、信頼できる指標が必要だねとか、覚めた目で見ている人も多いことでしょう。
ただ、わたしたちには競争心をあおられると、歯止めが利かなくなる傾向があります。にわかに負けん気が顔を出したりします。その上、より広い範囲、すなわち、国や民族の間で、優劣や強弱をめぐって争いが起こらないという保証はありません。
若い人にとって、自分を高めていくという向上心は育まれるべきものです。近道ではなく、遠回りせざるを得ない時もあるでしょう。速くなくても、強くなくても、大丈夫なことは多々あります。
「すべてのものの上に頭として高く立っておられる」お方が、「善し」と宣言してくださり、「幸いあれ」と祝福してくださるような、自分の人生に対する価値基準を持つことが大切です。主イエスはわたしたちに、そのような神の知恵を与えてくださいます。
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月報6月号
聖霊降臨日 説教 『 何の妨げもない自由な生活 』
使徒言行録 28章17節~31節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 神の国について証しし、イエスについて説得しようとした ……使徒28:23-25前半
Ⅲ この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった ……使徒28:25後半-28
Ⅳ 全く自由に何の妨げもなく ……使徒28:30-31
Ⅴ 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見
た ……詩編98:2-3
序
主イエス・キリストが復活され、四十日後に昇天される間のことです(使徒1:3)。主イエスは、「使徒たちに聖霊を通して指図を与えられました」(同上1:2)。すなわち、主イエスが使徒たちに、最後の「教え」(同上1:1)を与え、主の「福音」(同上5:42)を伝えることを命じたのは、「聖霊を通して」であったということです。
その後、「聖霊を通して」の宣教はパウロによって受け継がれました。パウロはローマで最後に、ユダヤ人に向けて説教しました。その中で、「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました」(使徒28:25-26)と述べています。ここでパウロは自分の言葉ではなく、「聖霊」が語ったことに耳を傾け、それを目の前のユダヤ人たちに取りついでいます。その上、この「聖霊」に満たされた説教によって、パウロは改めて異邦人伝道へと舵を切るということを確信させられました。
このように、使徒言行録の初めと終わりには、「聖霊を通して」起こった画期的な出来事が書き記されています。そのことを押さえたうえで、帝国の都ローマにようやくたどり着いたパウロの宣教や生活の様子を見てみることにしましょう。
Ⅰ イスラエルが希望していること
使徒言行録28:17-22――
17 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。18 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。19 しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。20 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 21 すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。22 あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
パウロは一人の番兵の監視下に置かれ、彼にあてがわれた宿舎(使徒28:23)に滞在することになりました。パウロはそこをまるで家の教会であるかのように、キリスト教の伝道に活用しました。
意外にもパウロは当地のキリスト者ではなく、「同胞」のユダヤ人、すなわち、旧約聖書を信じているユダヤ教徒を招き入れました。それは、「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)と告知された主イエス・キリストの伝道の原点に立ち返るという観点から意義あることでした。言い換えれば、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ書2:3)ことを念頭に置いたうえで、何がローマでは神の奉仕として求められているのか、内省したということです。それは、まことにスケールの大きな「聖霊」による伝道であるに違いありません。
そこで「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに……引き渡されてしまいました」と述べて、パウロは自分に係わる「裁判ざた」(Ⅰコリント6:7)を取り上げました。そこには、ユダヤ人の大祭司や律法学者が筆頭になって、主イエス・キリストを十字架刑にした裁判を思い起こさせるという意図も隠されていました。
ユダヤ人の知恵の書にある通り、「神に従う人〈主イエス・キリスト〉を裁きの座で押しのけるのは良くない」(箴言18:5)ことでありましょう。しかし、主イエス、パウロいずれの場合でも、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)によって尋問が行われました。
パウロは、「兄弟たち」であり「同胞」であるユダヤ人の感情をいたずらに逆撫でしないよう配慮しています。「エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました」、そしてまた、「ローマ人はわたしを取り調べた」というように、「ローマ人」の違法行為を前面に打ち出しています。これらのパウロの証言は、多くのユダヤ人に、神の律法・旧約聖書を知らない「ローマ人」の愚かさ…本来はユダヤ人に省みさせたい!………を認めさせるに十分なものでありました。
「だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです」……パウロは、キリスト者ではないユダヤ人に対し、へりくだって話し合う姿勢を見せています。ただし、パウロはユダヤ人との直接対話の容易ならざることを熟知しています。というのも、正統派を名乗るユダヤ教徒から、当時のキリスト者は「この分派」(使徒24:5,14、28:22)と呼ばれて、異端扱いされていたからです。
ということもあって、パウロは二回目のユダヤ人たちとの会合を想定しつつ、ここで彼らとの接点として、「イスラエルが希望していること」に言及しています。確かに、「イスラエルの希望」というのは、キャッチーな表現で、主なる神への呼びかけにおいても用いられています……「イスラエルの希望(ヘブライ語:ミクヴェー イスラエル)、苦難のときの救い主よ」(エレミヤ書14:8、17:13、エズラ記10:2)。
しかし今、パウロはユダヤ人に向けた弁明を通じて、彼らが真の「救い主」の前に悔い改め立ち帰って来るのを待っています。二回目のユダヤ人との集会において明らかにされるように、「イスラエルの希望」というのは、「救い主」、イエス・キリストを信じこと以外にはあり得ません。神によって選ばれたユダヤの民が、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、「神の国」(使徒28:23)を目指していくことこそが、「イスラエルの希望」なのです。そのような「救い主」・メシア待望こそ、ユダヤ人たちの信仰心を揺さぶる力を持っています。
ですからパウロは、主にある矜持・誇りをもって、「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれている」と述べています。
Ⅱ 神の国について証しし、イエスについて説得しようとした
使徒言行録28:23-25前半――
23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。
ここに、ユダヤ人たちが「パウロの宿舎」に再集合した時のことが報告されています。これは、使徒言行録に記録されているパウロによる最後の説教です。そしてここで、「イスラエルの希望」が、「神の国」の到来とそれを告げる「イエス」の教えによって説き明かされています。
「パウロは、朝から晩まで説明を続けた」または「モーセの律法や預言者の書を引用して」というところに、パウロの「同胞」ユダヤ人への熱い思いが伝わってきます。
結果的に、この福音的説教によって、「パウロの言うことを受け入れた」者と「信じようとはしなかった」者とに二分されました。「彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」ということですから、ユダヤ人の間に、激しい論争が引き起こされたと見られます。
パウロは失望することなく、忍耐強く「言うことを受け入れた」者への宣教に励んだに違いありません。最後に、ユダヤ人たちの悔い改めを願って、旧約の言葉が引用されました。パウロは聖なる言葉を取りつぐ務めを全うします。それによって、「主にふさわしくない者」(マタイ10:38)は立ち去りました。
Ⅲ この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった
使徒言行録28:25後半-28――
25 「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、26 語られました。
『この民のところへ行って言え。
見るには見るが、決して認めない。
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
上記の旧約からの引用・イザヤ書6:9-10は、イザヤが神から召命を受け、ユダヤの民のもとへ遣わされるとき、主なる神から示されたものです。また、主イエスはガリラヤ地方の伝道で、たとえを用いて群衆に語りかけておられるとき、同じ聖句を引用されました(マルコ4:12)。
ということは、イザヤにせよ主イエスにせよ、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」という人間の頑なさを受け止めたうえで、忍耐強く伝道に励んだということが分かります。ここでパウロが継承しているイザヤの預言の主旨は、「心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」人々への伝道をあきらめなさいということではなく、むしろ、人間の抵抗や反発に屈しないように、ということです。
実際、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9,23)と繰り返し命じられました。それは、一人ひとり、“ 霊 ” 的に「心」と「目」が目覚めさせられ、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)を造るように、と教え諭すためでありました。
ということで、あきらめや絶望の心境からではなく、正々堂々と確信をもって、パウロは頑迷預言を提示しました。それは、ユダヤ人たちが身に沁みるほどに精通した神の言葉でありました。
そこで、ユダヤ人たちとの対話は閉じられました。そうして、パウロは異邦人伝道へと舵を切るという決断をしました……「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」。
パウロの最後の説教の「聖霊は、預言者イザヤを通して……語られました」という言葉には、重みがあります。なぜなら、それは「聖霊は、使徒パウロを通して……語られます」との宣言を裏書きするものだからです。
こうして、聖霊の風の吹き巡った「丸二年」の生活が、パウロによって証しされます。
Ⅳ 全く自由に何の妨げもなく
使徒言行録28:30-31―― *28章29節は底本に欠落
30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
この段落を、前半(:30)と後半(:31)に分けて読みましょう。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎した」……ここには、神の恵みによって「熟練した建築家のように土台を据え」、教会を建てる(Ⅰコリント3:10)というような以前の姿は見られません。また、すでにいくつか設立されていたと思われるローマの諸教会との関係も不明です。
パウロはまさに悠々自適、世間ないしはキリスト教界の評価から解放されています。異邦人伝道を主眼としながらも、「訪問する者はだれかれとなく歓迎した」ということです。行きたい所に行けないというパウロの軟禁生活の中で、多くの人がパウロの「家」に入って来ました。
ここには、一体いつ、皇帝による裁きに出廷を命じられるのかという不安(使徒27:24)も、あるいは、キリスト教迫害をもくろむ暴徒に襲われるかも知れないという恐れ(同上21:13)も見られません。そのように、平安に満たされたパウロの生活を理解する一つの鍵を、わたしは彼の第二回伝道旅行の際の、或る記事に見出します。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(使徒16:25)……フィリピの町で、群衆に責め立てられ鞭で打たれて、牢に投げ込まれました(同上16:22-24)。パウロとシラスには足枷がかけられて、身動きがとれません。その極度の不自由さにおいても、彼らが「賛美の歌をうたって神に祈っている」と、周りの人々が耳を傾けました。
その希望にあふれる “ 霊 ” 的な姿勢は、およそ七、八年後、ローマの「丸二年間」においても変わることがありませんでした。
使徒言行録の最終節は、まさに詩であり賛美になっています。
また、主イエス・キリストについて教えながら、
全く自由に 何の妨げもなく」(ギリシア語原文の語順に従って)
これが、わたしたちが目に焼き付けておくべき、パウロの不変不動の伝道生活です! 何よりも「聖霊」なる神が、神の国への前進を確信し、闇夜に挫けることのない彼の信仰態度を支えていたのです。
昼となく夜となく(讃美歌Ⅰ-532番)、神にささげられる賛美は永遠に歌われ続けるものです。従って、パウロからわたしたちへ、そして、わたしたちから次の世代へ、「神の国を宣べ伝えながら、また、主イエス・キリストについて教えながら」という伝道が受け渡されていきます(使徒28:31の他、同上1:1、8:5参照)。恐れることも、たじろぐこともありません。
なぜなら、ローマのパウロの「家」での宣教は、「全く自由に何の妨げもなく」行われたと証しされているからです。「全く自由に何の妨げもなく」の句が使徒言行録の掉尾を飾っているのは、わたしたちへの贈り物です。それが最終句であるのは、その善い状況は不変であるとのメッセージでありましょう。わたしたちが主イエス・キリストと再会する終わりの日まで、聖霊なる神がわたしたちを助け導いてくださいます。
Ⅴ 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た
本日のまとめとして、「聖霊は、預言者イザヤを通して……語られました」というパウロの説教に倣って、「聖霊は、詩編98編を通して……語られます」との観点から、御言葉に耳を傾けましょう。
これは、先の見えない苦難の時代に、詩編詩人が聞いた、神からのスケールの大きなメッセージです。その受け取り手は、「イスラエルの家」であると同時に、「諸国の民」または「地の果てまですべての人」になっています。つまりここには、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ書2:3)というキリスト教宣教の基本路線が踏まえられています。
鍵語の「救い」(詩編98:1,2,3,)によって、そのメッセージの核心を捉えましょう。
主の示される「救い」が、ユダヤ人から始まって、地の果ての異邦人にまで及びます。そのことを預言した詩編98編は、主なる神が遣わされた「救い」の御子、イエス・キリストによって成し遂げられました。
すなわち、「救い主」なるイエス・キリストの「恵みの御業」によって、「慈しみとまこと」が無償で主の御前に悔い改める人々に与えられました。「わたしたちの神の救いの御業を見た」という通りに、女性たちはじめ初代のキリスト者は実際に、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を目撃しました。
今わたしたちは、聖霊の助けによって、主イエス・キリストによる「神の救いの御業」を信じるように導かれました。わたしたちに託された伝道の課題は、わたしたちもまた、「神の国を宣べ伝えながら、また、主イエス・キリストについて教えながら、全く自由に 何の妨げもなく」ということのために祈り、それを実践していくことです。
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〈説教の原稿〉
2025年 6月29日
聖霊降臨節 第4主日
旧約聖書 列王記下 4章42節~44節(P.583)
新約聖書 マルコによる福音書 8章1節~10節(P.76)
説 教「残ったパンの屑を集めると、七籠になった」
小河信一牧師
説教の構成――
序
……列王記下4:42-44
Ⅱ 群衆がかわいそうだ ……マルコ8:1-3
Ⅲ これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか ……マルコ8:4-5
Ⅳ イエスは感謝の祈りを唱えてパンを裂いた ……マルコ8:6-7
Ⅴ 人々は食べて満腹した
……マルコ8:8-10
序
主イエスは「五千人に食べ物を与える」(マルコ6:30-44)という奇跡を行われました。それは、主イエスによって、ガリラヤ湖近辺の人里離れた所、すなわち、青草の萌える広々として場所で、盛大な食事会が開かれたことを意味しています。礼拝共同体が一つになって食卓を囲み、“ 霊 ” の力を回復する、その中心に主イエス・キリストがおられました。
そこに隠されているテーマは、新しい礼拝共同体には、ユダヤ人も異邦人も、皆が招かれているということでありました。というのも、主イエス・キリストは、「両者(イスラエルの民と異邦人)を一つの体として神と和解させ、十字架によって敵意を滅ぼす」(エフェソ2:16)ことを神に託された使命とされていたからです。
この時、主イエスはまさに糸を縫うようにして、イスラエルの民と異邦人の土地を訪ねておられました。「だが、人の子には枕する所もない」(マタイ8:20)という主イエスの旅は、ガリラヤ湖畔(マルコ6:45,53)から異邦人の地(マルコ7:24,31)へと巡り回っていました。
以上の点を踏まえると、マルコ福音書に、「五千人に食べ物を与える」(6:30-44)と「四千人に食べ物を与える」(8:1-10)という同類の奇跡が、二度も出てくる理由が分かります。すなわち、前者には、主にイスラエルの民が、そして後者には、主に異邦人が呼び集められていたという違いがあります。「敵意という隔ての壁を取り壊す」(エフェソ2:14)とのもくろみをもって、主イエスはパンと魚の増加の奇跡を繰り返されたのです。
一方、五千人の給食はガリラヤ湖近辺、他方、そして四千人の給食はデカポリスの地方、ガリラヤ湖東岸、異邦人の地がそれぞれの舞台になっています。このように招かれている人々が異なりながらも、二つのパンと魚の増加の奇跡が隠された糸によって結ばれているのは、神の大いなる救いの計画が進展していることを示しているのでありましょう。
さらに、神の大いなる救いの計画の観点からすると、パンの増加の奇跡は、主イエスの時代からおよそ800年以上さかのぼることができます。
Ⅰ 彼らは食べきれずに残す
列王記下4:42-44――
42 一人の男がバアル・シャリシャから初物のパン、大麦パン二十個と新しい穀物を袋に入れて神の人(エリシャ)のもとに持って来た。神の人は、「人々に与えて食べさせなさい」と命じたが、43 召し使いは、「どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう」と答えた。エリシャは再び命じた。「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」 44 召し使いがそれを配ったところ、主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した。
紀元前9世紀後半、預言者エリシャは北イスラエル王国で活動していました。王国は当時、政治情勢が不安定だったこともあり、宗教的に堕落していました。
逆境の中、エリシャの周りには、従者ゲハジ(列王記下4:12)はじめ預言者の仲間(列王記下2:7、4:1)がいました。エリシャは彼らが見守る中で、神の御言葉と御業を宣べ伝えました。そのエリシャが現した神の御業の一つが、上記の「パン二十個を百人の人々に分け与え、彼らは食べきれずに残す」との出来事です(類例:列王記上17:8-16)。
この時、その地方は、飢饉に見舞われていました(列王記下4:38)。従ってそこには「人々がかわいそうだ……食べ物がない……空腹を覚えている」(参照:マルコ8:2-3)との切実な問題がありました。
登場人物を確認しておきましょう。
② 神の人エリシャ
③ 召し使い 従者のゲハジか。
④ 百人の人々
エリシャと召し使いの関係は、主イエスと弟子たちとの関係を暗示しています。すなわち、奇跡が遂行される中で、「神の人」エリシャまたは「神の御子」イエス(ヨハネ3:17)に対する、召し使いや弟子たちの無理解が露わにされるということです。
さて、「一人の男」が、ギルガル近郊の「バアル・シャリシャ」から「初物」の献げ物を持って、エリシャのもとにやって来ました。飢饉という生命の危機にあっても、この人は、「わたしが与える土地に入って穀物を収穫したならば、あなたたちは初穂を祭司のもとに携えなさい」(レビ記23:10)との律法を遵守しました。
「一人の男」の信仰と善意がこの物語の発端になっています。彼には餓死寸前の人々のことを思い遣る慈しみ深さがありました。まず、「初物」を「祭司」ではなく、預言者エリシャにささげたのは、当時、北王国では「祭司」の務めを預言者が果たしていたからです。
それから、物語は佳境に入ります。まず、エリシャと召し使いとのすれ違いが明らかになります。
「神の人は、『人々に与えて食べさせなさい』と命じたが、43 召し使いは、『どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう』と答えた。」……お互いに自分の考えを譲らなければ、にっちもさっちもいきません。
エリシャは人間的な妥協とは無縁です。エリシャは「天を仰いで深く息をつき、召し使いに向かって」(参照:マルコ7:34)語りかけたと想像されます。その上で彼は、同じ命令を発しました……「人々に与えて食べさせなさい。主は言われる。『彼らは食べきれずに残す。』」。「召し使い」よ、今は、神の御業を信じて、「百人の人々に分け与える」ことに徹しなさい、これはそのまま、主イエスの弟子たちへの命令につながっています(マルコ8:6,7)。
わずかな食べ物で、大勢の空腹が満たされました……「主の言葉のとおり彼らは食べきれずに残した」。誰が見ても、ここに、主イエスによるパンと魚の増加の奇跡の原型があると言えるでしょう。「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」(列王記下2:15)……主イエスは今、エリヤからエリシャへと継承された「霊」の力に満たされて、よりスケールの大きな神の御業を現されました。
Ⅱ 群衆がかわいそうだ
マルコ福音書8:1-3――
1 そのころ、また群衆が大勢いて、何も食べる物がなかったので、イエスは弟子たちを呼び寄せて言われた。2 「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。3 空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう。中には遠くから来ている者もいる。」
いよいよ、第二回目の給食の奇跡が始まります。「そのころ、また」の「また」は「再び」という意味ですから、マルコ福音書の読者に対し、第一回目の出来事(6:30-44)を想起するように促しています。
わたしたちの代表として、第一回目を経験している「弟子たち」がどのように、第二回目に振る舞うかに関心が寄せられています。「イエスは弟子たちを呼び寄せて」との句の通り、誰よりも、主イエスが彼らの言動を見守っておられます。
十二人の使徒が任命される際、主イエスは「イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられました」(マルコ3:13 これは8:1と同じ動詞)。主イエスは「弟子たち」を傍らにおいてご自身に仕えさせると同時に、彼らを町や村に遣わして伝道の難しさを体験させられました(同上6:6-13)。
「また(再び!)群衆が大勢いて、何も食べる物がなかった」……弟子訓練の観点から、反復学習は必須であります。第二回目に、大きな意義があるとは、そういうことです。主イエスを通して神の力にあずかるのか、それとも、単に自分の経験知に頼るのか、が問われています。
一方、主イエスは「弟子たち」に訓練の機会を提供され、他方、主イエスは「大勢の群衆」または「遠くから来ている者」に心を配っておられます。
主イエスは、「群衆がかわいそうだ」、すなわち、「わたしは群衆のゆえに腸が痛む」と言われました。というのも、「もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう」ということだからです。
そのような弱く貧しい者たちへの主イエスの深い憐れみに接して、「弟子たち」は改めてここで自分たちはどんな務めを果たせばよいのか、と思い巡らしたのではないでしょうか。主イエスの御前で、訓練を受けるとは、そういうことです。緊張が走ります。
「中には遠くから来ている者もいる」……この一文にも、今回のパンと魚の増加の奇跡に、遠来の異邦人が加わっていたことが暗示されています。すでにご案内したとおり、第二回目の給食の舞台は、デカポリスの地方、ガリラヤ湖東岸、異邦人の地になります。
ガリラヤ湖畔の巡回伝道の甲斐あって、「イドマヤ(パレスチナ南部)、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来て」おりました(マルコ3:8)。そして今や、それらの異邦人が真ん中に主イエスのおられる食卓にあずかろうとしています。
Ⅲ これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか
マルコ福音書8:4-5――
4 弟子たちは答えた。「こんな人里離れた所で、いったいどこからパンを手に入れて、これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか。」 5 イエスが「パンは幾つあるか」とお尋ねになると、弟子たちは、「七つあります」と言った。
ここで、弟子訓練の反復学習が、実際にどんなものであったのか、明らかにされます。主イエスと「弟子たち」の問答を読んでみましょう。
結果は残念無念、主イエスの先導された第一回目の「弟子たち」の経験は、実を結びませんでした。
「①こんな人里離れた所で、②いったいどこからパンを手に入れて、③これだけの人に十分食べさせることができるでしょうか」……主イエスに向けて、この世の常識、三連発を言い放っています。
第一回目のパンと魚の増加の奇跡について、すでに説教したように、これは、十字架刑の前夜の主の晩餐、延いては聖餐式、それから、神の国の祝宴に連なるものです。これはまさに、「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント2:9)なのですから、一旦、この世の常識は手放さなくてはなりません。「だって、エリシャに仕えた召し使いも、『どうしてこれを百人の人々に分け与えることができましょう』と答えたではないですか」(列王記下4:43)という見苦しい言い訳は止めましょう。
「弟子たち」の言い訳をよそに、主イエスは「パンは幾つあるか」と質問されました。すると、「弟子たち」は「七つあります」と答えて、ありのままの乏しさを主イエスに訴えました。第一回目の問答では、この場面は、「イエスは言われた。『パンは幾つあるのか。見て来なさい。』 弟子たちは確かめて来て、言った。『五つあります。それに魚が二匹です』」(マルコ6:38)というように詳述されています。
そうです、主イエスの命令に従って、「見て、確かめて来る」ことが大切なのです。そうして、群衆の間を駆け回っているとき、「弟子たち」の心に、主イエスの主催される聖なる食事に向けて、“ 霊 ” 的な備えがなされます。
Ⅳ イエスは感謝の祈りを唱えてパンを裂いた
マルコ福音書8:6-7――
6 そこで、イエスは地面に座るように群衆に命じ、七つのパンを取り、感謝の祈りを唱えてこれを裂き、人々に配るようにと弟子たちにお渡しになった。弟子たちは群衆に配った。7 また、小さい魚が少しあったので、賛美の祈りを唱えて、それも配るようにと言われた。
主イエスご自身の食事に際しての振る舞いには、第一回目と第二回目とで、特に変わりはありません。むしろ、ここでは記述が簡略になっています。
そうした中で、「イエスは感謝の祈りを唱えてパンを裂いた」(マルコ6:41、Ⅰコリント11:24)との記述は文字通り繰り返されています。
ここで「パン」というのは、空腹を満たす糧であると同時に、十字架上で裂かれる主イエスの御体(ヨハネ19:34、詩編22:15,17-18)を指し示しています。そのことは、やがて主イエス・キリストの十字架の出来事において現実となります。主の晩餐においてパンが「裂かれ」、そして、十字架において主イエスの御体が「裂かれる」というのは、二つにして一つのことです。
それから、忘れないように、「弟子たちを呼び寄せて」もくろまれた、主イエスによる弟子訓練がどうなったか、確認しておきましょう。この時点では、二つの真実がなお葛藤を続けています。すなわち、主イエスに向けて、この世の常識、三連発を言い放ったことと、「弟子たちが主イエスから渡されたパンと魚を群衆に配っている」、つまり、異邦人など群衆のために給仕していることです。主イエスに背く姿と、主イエスに従順な姿、どちらがほんものなのでしょうか? それとも、「弟子たち」は二心を持つ人物なのでしょうか?
重要なのは、あなたがそのような二律背反、人生の岐路に対し、どのような決断を下すのか、ということでありましょう。そこで優柔不断になってしまうのは、悪魔の手引きです。そうならないためにも、聖書に記載されているペトロはじめ「弟子たち」のこれからを読むことが、大いに推奨されます。
Ⅴ 人々は食べて満腹した残った
マルコ福音書8:8-10――
8 人々は食べて満腹したが、残ったパンの屑を集めると、七籠になった。9 およそ四千人の人がいた。イエスは彼らを解散させられた。10 それからすぐに、弟子たちと共に舟に乗って、ダルマヌタの地方に行かれた。
たった「七つのパン」が、「パン屑 七籠」に増加しました。「食べて満腹して」終わりではなく、人々は「残ったパンの屑を集めて」数えました。それは単なる計量作業ではありません。そこで、充足した人々は一体何を思い、感謝すべきなのでしょうか。そのヒントは、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、ということにあります。
ヨハネ福音書1:16――
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
これは、キリスト讃歌の一節です。
「恵み」は、「この方の満ちあふれる豊かさの中」にあるものですから、神秘に満ちており、わたしたちの想像をはるかに超えるものであります。「主イエス・キリストの恵み」は、主を信じる者に、とこしえに「この方の満ちあふれる豊かさの中から」与え続けられます。そうして、愛の大波のように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」が注ぎ入れられます。
主イエスの行われた給食の余りの「パン屑 七籠」は「この方の満ちあふれる豊かさ」を象徴しています。ギリシア人でシリア・フェニキアの生まれの女は、食卓の下にこぼれ落ちる「パン屑」を自分と幼い娘の糧としました(マルコ7:24-30)。それは、まさに命のパン(ヨハネ6:48)であり、神の恵みでありました。
わたしたちも異邦人として、「主イエス・キリストの満ちあふれる豊かさ」の余りにあずかりました。シリア・フェニキアの女の忍耐強さ、へりくだり、そしてその信仰に倣いたいと心から願います。仮にわたしたちが世界の周辺部に置かれているとしても、主イエスはわたしたち・異邦人を、主の食卓に招いておられるのですから。
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〈説教の原稿〉
2025年 6月22日
新約聖書 マルコによる福音書 7章31節~37節(P.75)
説 教「その人に向かって、『開け』と言われた」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出した
……マルコ7:33
Ⅲ イエスはその人に向かって、「エッファタ」と言われた ……マルコ7:34-36
……マルコ7:37
……イザヤ書35:5-7
序
今、主イエスはイスラエル北部やティルスなど異邦の土地を巡って伝道しておられます。本日は、その途上、ガリラヤ湖畔で現された、主イエスのいやしの奇跡を読むことにしましょう。
マルコ福音書に、特徴ある二つのいやしの奇跡が出てきますが、一つ目が、耳が聞こえず舌の回らない人のいやし(マルコ7:31-37)で、二つ目が、盲人のいやし(同上8:22-26)ということになります。主イエスの行われた奇跡というのは、人間を罪から救い出すという福音と固く結びついています。何より、苦悩のどん底にある病人が、主イエスと出会ったこと自体が、わたしたちの慰めとなります。
それでは、リアリティー満載、マルコ福音書独特のいやしの出来事を読んでみましょう。
Ⅰ 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来た
マルコ福音書7:31-32――
31 それからまた、イエスはティルスの地方を去り、シドンを経てデカポリス地方を通り抜け、ガリラヤ湖へやって来られた。32 人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来て、その上に手を置いてくださるようにと願った。
ここには、さりげなく、「主イエス⇔病人・本人⇔隣人」という教会生活に通じる人間関係が踏まえられています。礼拝共同体の中で、病を負っている人は決して孤立してはいないことを知らされます。
まさに神に遣わされた者として、隣人たちが「耳が聞こえず舌の回らない人」に心に留めたところから物語は始まります。隣人たちはコミュニケーションを取ることが難解な状況において弱者の願いを汲み取りました。
実際、主イエスが呼び寄せ、遣わされた十二弟子は、「油を塗って多くの病人をいやす」という賜物を授けられていました(マルコ6:13)。そのことを耳にしつつ、ガリラヤ湖畔の民衆は、一致協力し彼らにできる限りのことを実践しました(同上2:3-4)。彼らは「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて」、主イエスのもとに馳せ参じました。
一致協力して主イエスのもとへ急いだ隣人たちは、その思いをも共有していました。それは、「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて」行った後に、彼らが主イエスに「手を置いてくださるようにと願う(原文:分詞形 ~と願いつつ)」ということでありました。それは、全くシンプルな懇願でありました。その先、どうなるのか、という危惧や憂慮は見当たりません。
ガリラヤの民衆の目には、主イエスの病人たちの「上に手を置く」という所作が焼き付けられていました(マルコ5:23、6:5)。さらに、「~と願いつつ」(持続・継続性を表す)との言葉には、主イエスへの深い信頼が込められています。というのは、「主イエスに~と願いつつ」とは、主イエスを「自分たちの方に呼ぶ」または「彼らの傍らに呼び寄せる」のと意味だからです。その観点からすれば、「人々は耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来た」だけなのです。後は、へりくだって、目撃証人の役割に徹するということです。
このようにして、隣人たちは、自分たちの「願い」を主イエスにゆだねています。そのことは、主イエスに向けて、「耳が聞こえず舌の回らない人をいやしてください」と、とりなしの祈りをささげたと、言い換えられるでしょう。
現代社会であれども、誰しもが奇跡は起こらないと決めてかかることはありません。困窮している「自分たちの傍らに主イエスを呼び寄せる」ことから事態が打開されることもあります。
Ⅱ イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出した
マルコ福音書7:33――
そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し、指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた。
「そこで、イエスはこの人だけを群衆の中から連れ出し」……主イエスは「主イエス⇔病人・本人⇔隣人」という礼拝共同体の人間関係を保持しつつ、今は隣人たちを退かせて、「主イエス⇔病人・本人」という、一対一の密接な交わりに入られました(マルコ5:40)。
それは、民衆の目が、奇跡の実行者である主イエスから離れ、彼らが奇跡を単に驚くべきすばらしい出来事として言い広める(マルコ7:36)のを避けるためでありました。
「イエスは指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れられた」……これが、マルコ福音書独特の子細な記述です。「耳が聞こえず舌の回らない人」に対し、的確な処置が施されています。
「指をその両耳に差し入れ、それから唾をつけてその舌に触れ」……思わず身を引いてしまいそうな、生々しい描写です。主イエスは、病人が不浄であるとか、穢れているとかいう考え方とは無縁でありました。というのも、主イエスは病み苦しんでいる人々を「深く憐れんで」おられたからです(マルコ1:41、6:34)。
主イエスは病人の体の病んでいる部分に「触れられ」ました。そうして、主イエスの「内から力が出て」(マルコ5:30、ルカ6:19)、重度の障害は取り除かれました。
「神の力」(ローマ1:16、Ⅰコリント4:20)が主イエスを通じて、人々に分かち与えられます。「イエスから力が出て」、現実に病気のいやしや悪霊祓いが成し遂げられます。その御業にあずかった者は、「体に感じた」と証言しています(マルコ5:29)。何よりも、「イエスから出た力」は、神ならびに主イエスと信じる者との交わりを強めます。
Ⅲ イエスはその人に向かって、「エッファタ」と言われた
マルコ福音書7:34-36――
34 そして、天を仰いで深く息をつき、その人に向かって、「エッファタ」と言われた。これは、「開け」という意味である。35 すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった。36 イエスは人々に、だれにもこのことを話してはいけない、と口止めをされた。しかし、イエスが口止めをされればされるほど、人々はかえってますます言い広めた。
「そして、イエスは天を仰いで深く息をつき」……主イエスは「耳が聞こえず舌の回らない人」のために全心全霊をもっていやしの御業に取りかかられます。「天を仰いで」、助けは神から来ることを示されます(詩編121:1-2)。そして、「深く息をつき」との一句から、主イエスがどれほど一人の弱く貧しい者を救うために心を動かされているか、が分かります。
「重い皮膚病を患っている人」や「汚れた霊に取りつかれた子」をいやしたとき、主イエスは「深く憐れんだ」(マルコ1:41、9:22)と証言されています。この「憐れむ」という動詞は、「腸を痛める」あるいは「深い同情を寄せる」との意味です。主イエスは身心を震わせるかのごとくに、いやしを求めている人に向き合われています。
それと同様にここで、主イエスは「深く息をついた」、すなわち、うめくようにして、ひと呼吸置れました。いわば新しいことを起こす直前に、産みの苦しみを味わわれたのです。
ところで、本日のテキスト(マルコ7:31-37)の主題は、「耳が聞こえず舌の回らない人」のいやしです。しかしこの場面で、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5、6:6)という福音宣教の基本線が崩されているわけではありません。なぜなら、「エッファタ」(開け)との主イエスの御言葉が、「すると、たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになった」とのいやしの現象に先んじているからです。
「エッファタ」(開け)との主イエスの命令によって、その人は周りの人々とコミュニケーションが取れるようになります。それは、いやされた人がただちに、「主イエス⇔病人・本人⇔隣人」という礼拝共同体の輪の中に招じ入れられることを意味しています。
そして、礼拝共同体が最重要としていることは、「〈初めに〉罪の赦しを教える」ということです。ここに、主イエスから「罪を赦され」、そして病と罪と死の重荷から開放されて、一人の兄弟が誕生した、それこそが教会全体で分かち合われる喜びなのです。
「耳が聞こえず舌の回らない人」が病と罪と死の縄目から解かれたのは、主イエス・キリストの十字架と復活の救いの御業によるものです。「だれにもこのことを話してはいけない」との真意は、一人ひとりが黙して、主イエスによって救われたことを内省しなさい、ということです。「はっきり話すことができるようになった」との神からの恵みは、「主イエス⇔病人・本人⇔隣人」との関係の中で、信仰を言い表す(マルコ8:27-30)ために用いられるべきものなのです。
Ⅳ この方のなさったことはすべて、すばらしい
マルコ福音書7:37――
そして、(人々は)すっかり驚いて言った。「この方のなさったことはすべて、すばらしい。耳の聞こえない人を聞こえるようにし、口の利けない人を話せるようにしてくださる。」
ここに、先に主イエスのもとに「耳が聞こえず舌の回らない人を連れて来た」人々を含む礼拝共同体の隣人たちが、どのように受け止めたのかが、明示されています。
「この方のなさったことはすべて、すばらしい」……人々は声を挙げて、いやしの御業を成し遂げられた主イエスといやされた人を祝福しています。それほどまでに、人々が歓喜しているのは、「耳が聞こえず舌の回らない人」のいやしが、神の似姿の回復あるいは新しい人間創造と重ね合わされているからではないでしょうか。
創世記1:31 天地の創造 第六の日――
神はお造りになったすべてのものを御覧になった。見よ、それは極めて良かった。夕べがあり、朝があった。第六の日である。
この「第六の日」に、「新しい天と新しい地」の締め括りとして、神にかたどって人間が創造されました(創世記1:27)。言い換えれば、「たちまち耳が開き、舌のもつれが解け、はっきり話すことができるようになって」、新たな人が誕生したとき、その人の前には、大いなる「新しい天と新しい地」(イザヤ書65:17、66:22、Ⅱペトロ3:13、ヨハネ黙示録21:1)が拡がっていたと言えるでしょう。
そして実は、「耳が聞こえず舌の回らない人」とその隣人たちが待望していた救いの日は、あらかじめ旧約聖書に預言されていたのです。
Ⅴ そのとき、聞こえない人の耳が開く
イザヤ書35:5-7――
5 そのとき、見えない人の目が開き
6 そのとき
歩けなかった人が鹿のように躍り上がる。
口の利けなかった人が喜び歌う。
乾いた地は水の湧くところとなる。
これは、主イエスと同時時代の人、ガリラヤ湖畔に住む「耳が聞こえず舌の回らない人」に向けての救済預言になっています……「聞こえない人の耳が開く …… 口の利けなかった人が喜び歌う」!
イザヤ書35章全体から観ると、ここには、救われた者たちが神の都エルサレムに返って来る様子が描かれています(35:10)。さらに言えば、身体の不自由だった人々のいやしと自然の回復(35:1-2,6-7)が同調し、それらのものの上に、主なる神の栄光が輝きわたっています(35:2)。
主なる神が主導し、被造物全体が喜びと楽しみに包まれるのには、歴然たる理由があります。
心おののく人々に言え。
「雄々しくあれ、恐れるな。
それは、「見よ、あなたたちの神を。…… 神は来て、あなたたちを救われる」との御言葉の通りに、主なる神が天から降って来られるからです。ここでは、「あなたたち」と「荒れ野」・「川」・「山犬」・「葦」などは一体となっています。なぜなら、被造物全体が、滅びへの隷属から解放されることを待ち望んでいるからです(ローマ8:21)。
長い旅の途上、主イエスは「耳が聞こえず舌の回らない人」のもとに「やって来られました」(マルコ7:31)。そして、イザヤの預言通りに、主イエスはこの人のために、「聞こえない人の耳が開く …… 口の利けなかった人が喜び歌う」といういやしの奇跡を成し遂げられました。
最後に締めくくりとして、さらに深くイザヤ書35:4の「神(=主イエス・キリスト)が来られる」という預言を注視してみましょう。ここで、課せられている信仰者の “ 霊 ” 的な熟考は、①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こすという福音宣教の基本線をたどり直すうえで重要になります。
「敵を打ち、悪に報いる神が来られる」……父なる神は御子イエス・キリストを、ガリラヤ湖畔でいやしを乞い願っている弱く貧しい人のもとに遣わしました。その主イエス・キリストが「敵を打ち、悪に報いる神」であると昭示されています。
ローマの信徒への手紙12:19――
愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい。「『復讐はわたしのすること、わたしが報復する』(申命記32:35)と主は言われる」と書いてあります。
神の怒りは。ゲツセマネの園(マタイ26:36-46)とゴルゴタ丘(されこうべの場所 マタイ27:32-56)で、御子・イエス・キリストに降りました。主イエスは、「復讐」や「報復」などの「悪」を引き起こす、すべての人間の罪を担って、十字架に上げられました。神の義しい怒りによって、人の罪と死とは打ち滅ぼされました。
なぜ、御父は十字架上の御子に、怒りを注ぎ出されたのでしょうか?
それは、神がわたしたち・人間を愛し救おうとされたからです。「神の怒り」のうちに御子を十字架につけることによって、わたしたちにとって最善の形で「愛」(アガペー)があらわされました。それは、「罪を犯されなかった」お方(ヘブライ4:15)が、十字架と復活の御業をもって示された「善としての愛」(U.ヴィルケンス)であります。
「口の利けなかった人が喜び歌う」のはほんとうに「すばらしい」こと(マルコ7:37)ですが、それに優って「すばらしい」のは、わたしたちが「復讐」や「報復」などの「悪」から遠ざけられて、わたしたちが主イエス・キリストの「愛」(アガペー)に結びつけられているからです(ローマ8:35)。
主イエスの命令・「エッファタ」(開け)の力強い響きを忘れずに、わたしたちの耳がいつも開かれ、「愛」(アガペー)による「罪の赦しの教え」を信じることができるようお祈りしましょう。
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〈説教の原稿〉
2025年 6月15日
旧約聖書 イザヤ書 61章1節~3節(P.1162)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章36節~40節
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 結婚するのかしないのか、いずれを選ぶのか
Ⅲ 相手は主に結ばれている者に限る
……Ⅰコリント7:39
Ⅳ わたしも神の霊を受けていると思います
……Ⅰコリント7:40
Ⅴ 主なる神の霊がわたしをとらえた
……イザヤ書61:1-3
序
これでようやく、結婚または離婚にまつわるパウロの説教または勧告が閉じられます(Ⅰコリント7:1-40)。言い換えれば、本日のテキスト(同上7:36-40)は、優れた要約になっているということです。
そこでの議論の仕方や具体例の挙げ方などは、今日、キリスト教倫理を構築する上で、大切な見本になっています。パウロはコリント教会からの様々な問合せに、聖霊に導かれながら忍耐強く答えました。これは主の命令、あるいは、これはわたしの意見(知恵)というように、相手に対し威圧的にならないように配慮がなされています。
コリント教会の人々に寄り添いつつ、結婚や離婚に関して助言を行ったパウロは、まさに “ Wonderful Counselor ”(ワンダフル カウンセラー:ヘブライ語 ペレ ヨエツ)です。単なる言葉ではなく、その人の存在自体が大きな励ましとなっています。
元々これは、主イエス・キリストを指し示すインマヌエル預言の一節にある呼称です(イザヤ書9:5)。新共同訳では「驚くべき指導者」と訳されていますが、ワンダフル カウンセラー(助言者・相談役)の方が原意に近いと言えましょう。
パウロは、主イエス・キリストを信じ、神から遣わされた使徒として、この ワンダフル カウンセラー の賜物を授かっていました。そのことが、コリントの信徒への手紙 一 7章において実証されています。「驚くべき助言者」の “ 霊 ” 的な資質は、何よりも「闇の中を歩む民」や「死の陰の地に住む者」(イザヤ書9:1)という「闇」または「死の陰」をしっかりと捉えていることにあります。
「闇」というものは、わたしたちの外部ではなく、罪として、邪悪な思いとして私たちに内在しています。また、わたしたちは思いがけず病気や苦悩に出遭うとき、人生が「死の陰」に覆われしまったかのごとく、おびえることがあります。そこで、「驚くべき助言者」の存在と言葉が、わたしたちの慰めとなり支えとなります。パウロは、「わたしに倣う者になりなさい」(Ⅰコリント4:16)と宣告して、自分をさらけ出し、コリント教会からの問い合わせに答えました。
さて、キリスト者も含め、結婚するかしないかは、最も現実的で今日的な課題の一つです。もし、迷っている人から相談を受けたら、あなたはどのように答えるでしょうか? おそらく多くの人が、結婚はその人の人生を決定づける問題ですから、慎重に答えねばならないと身構えることでしょう。
まずは、相談者から本人やその相手の事情や思いを聴き取ることから始めます。その際、わたしたちは、「驚くべき助言者」なるパウロのキリスト教的回答を、一つの規範とすることができます。その回答が善いとか正しいとかいうよりも、信仰をもって誠実に答えています。これから結婚する人も、「独り」身なるパウロ(Ⅰコリント7:8)がずっと傍らにいてほしいと願うことでしょう。
Ⅰ 結婚するのかしないのか、いずれを選ぶのか
コリントの信徒への手紙 一 7:36-37――
36 もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。罪を犯すことにはなりません。二人は結婚しなさい。37 しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。
やや婉曲な言い回しになっていますが、パウロはここで、結婚する方がいいケースと、独身にとどまっている方がいいケースとを論じ分けています。まさに、ケース バイ ケースなのですが、パウロの言葉は確信に満ちています。
それは、キリスト者にとって、「結婚は神からの積極的な招き、あるいは、贈り物である」(R.B. ヘイズ)という信仰理解に拠っているからです。パウロの結婚観は、男と女が「結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という大いなる秘義に基づくものでありました。「主なる神が彼女(エバ)を人(アダム)のところへ連れて来られると」(同上2:22)という原初の出会いに、いつの世にも変わらぬ憧れを抱いているのではないでしょうか。結婚するのも幸い、独身でいるのも幸い、意見がぶれていないのは、そのためです。
パウロはそのような二人の巡り合いが神の御心によることを信じつつ、ここでは、「わたしの考え(ギリシア語:グノーメー)」(Ⅰコリント7:25,40)を、慎重かつ大胆に展開しています。「わたしの考え・意見・知恵」に押しつけがましさが感じられないのは、その背景に、神の大いなる秘義への畏敬が在るからです。
「もし、ある人が自分の相手である娘に対して、情熱が強くなり、その誓いにふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい。」
先に、やや婉曲な言い回しと評しましたが、精巧で繊細な文という方が、良いかも知れません。じっくり読み解けば、深い真理が示されているのが分かります。
文の主旨は、こうなります。おとめと婚約関係にある若者よ、情欲・情熱にほだされて罪(例えば不倫か婚前交渉か)を犯さないように(Ⅰコリント7:9,36)、さっさと結婚しなさいということです。今風に付け加えるならば、牧師から創世記1-2章またエフェソの信徒への手紙5:21-33等による結婚入門講座を受けてくださいね、ということなのです。なんだ、こんな単純な内容だったのか、と思われるでしょうか。
それにしても、「情熱が強くなり、その誓い(婚約)にふさわしくないふるまいをしかねないと感じ、それ以上自分を抑制できないと思うなら、思いどおりにしなさい」という、たぎるほどの男性の情欲・情熱への思いやりは並大抵のものではありません。「それ以上自分を抑制できない」という人の限界を見極めなさい、と勧めています。パウロは地に足の着いた、青年やおとめとの対話力のある「驚くべき助言者」です。「しかし」で、一転します。
「しかし、心にしっかりした信念を持ち、無理に思いを抑えつけたりせずに、相手の娘をそのままにしておこうと決心した人は、そうしたらよいでしょう。」
ここでも最初に、文の主旨を提示しましょう。
おとめと婚約関係にある若者よ、「心にしっかりした信念を持ち」、自分の思いや情欲をコントロールできる賜物を持っているならば、「わたしのように独りでいるのがよいでしょう」(Ⅰコリント7:7,8)ということです。「そうしたらよいでしょう」というのは、あなたも「相手の娘」も、終わりの日に備えて、「そのまま」独身にとどまっていなさい、との意味です。
神の前にとどまりなさい、現状にとどまりなさい、というのは、パウロの基本的信条と呼べるものです(Ⅰコリント7:20,24,26)。「イエスはまことのぶどうの木」の一節、「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(ヨハネ15:9)との命令がパウロの信仰の基盤になっていたに違いありません。信仰者が独りとどまることの内に、主イエス・キリストの愛と喜びが満ちてくる(同上15:11)というのは、大きな慰めです。
では、一体どんなことが、ケース バイ ケース①と②の分かれ目になっているのでしょうか。
「自分を抑制できる」か、あるいは、「心にしっかりした信念を持っている(原文:立っている)」かということが、結婚するかしないか、決断する以前に、重要なのであると、パウロは述べました。「抑制」にせよ、「信念」にせよ、これらはすべて、神からの賜物です。決して、自分で急いで結論を出してはなりません。
神の前にとどまり、強まってくる自分の情欲・情熱に向き合って、善い道を選び取りましょう、ということです。「驚くべき助言者」なるパウロに、いつでも何でも聞いてくださいね、と寄り添ってくれています。ただし、彼が終末の接近を強調し過ぎていた点は、今日わたしたちが神学的に熟考すべき課題でありましょう。
Ⅱ 結婚しない人の方がもっとよい
コリントの信徒への手紙 一 7:38――
要するに、相手の娘と結婚する人はそれで差し支えありませんが、結婚しない人の方がもっとよいのです。
ここで、「結婚は神からの積極的な招き、あるいは、贈り物である」との主題は、「未婚は神からの積極的な招き、あるいは、贈り物である」とも言い換えられます。それが、今独り身で人生を謳歌しているパウロの確信なのです。
パウロは、以上の段落(Ⅰコリント7:36-38)を、諺をもって要約しています。それは、結婚について思い悩んでいる関係者はじめ、すべての人にメッセージを贈りとどけようとする熱意の現れです。諺風なのは、新改訳 2017 を読めば、確認できます。
(英訳 ‘ he does well … but he does better ’ )。
結婚するにせよ、いないにせよ、いずれにせよ、神の祝福は貫かれています。
今、コリント教会内には、性的に放埒な人々と禁欲主義者との対立の嵐が吹き荒れています。結婚の意義が曖昧になり、独身者の健全な生活が脅かされている状況です。人の欲望または人の独り善がりによって、極端に走らされるのは、悲惨なことです。神の御心に添ってコリント教会に、「良いこと」や「もっと良いこと」が満ちあふれる日が待たれます。
このように観てくると、実生活の上で既婚者と未婚者の違いは大きいのですが、「良いこと」、すなわち、神の恵みの点において大差があるわけではありません。
Ⅲ 相手は主に結ばれている者に限る
コリントの信徒への手紙 一 7:39――
妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません。ただし、相手は主に結ばれている者に限ります。
結婚するか、そのままでいるか、多くの人々が関わる問題について、最後に女やもめに焦点が合わされています。理由はさだかではありませんが、「彼女(ルフォスの母)はわたしにとっても母なのです」(ローマ16:13)との証言が、それを解く鍵になるかも知れません。
「ルフォス」というのはおそらく、主イエスが十字架刑になる過越祭の折、北アフリカからエルサレムに上京して来たシモンの息子でありましょう(マルコ15:21)。パウロはその「ルフォスの母」を実母のように慕っていました。ローマの信徒への手紙16章では、夫シモンへの言及がありませんので、「ルフォスの母」はやもめであった可能性が高いでしょう。
パウロは、小アジア南部・タルソスの出身で、「この都(エルサレム)で育ち、ガマリエルのもとで先祖の律法について厳しい教育を受けた」(使徒22:3)と言います。とすれば、パウロは若くして、実の母親と離れ離れになっていたのではないでしょうか。そのため、ルフォスの母が寄り添ってくれているという感謝によって、パウロの人柄は健やかに育まれたことでしょう。
そうした背景もあって、地に足の着いた「驚くべき助言者」なるパウロは、やもめの問題に腐心していました。
テモテへの手紙 一 5:5-6――
5 身寄りがなく独り暮らしのやもめは、神に希望を置き、昼も夜も願いと祈りを続けますが、6 放縦な生活をしているやもめは、生きていても死んでいるのと同然です。
これは、やもめの生活の……両極端とも言える……現実を物語っています。初代教会の中には、殊に日々の分配に関して、身寄りのないやもめを支援するという制度を持っている教会がありました(使徒6:1)。「祈る」やもめであれ、「放縦な」やもめであれ、弱く貧しい彼女たちを導き助けるのは、当然のことです。
それこそ、独断と偏見で、年長のやもめたちを結婚問題の枠外に置いてはなりません。そのようなやもめを、総括にあたって前面に打ち出したパウロの見識の高さがうかがわれます。
「妻は夫が生きている間は夫に結ばれていますが、夫が死ねば、望む人と再婚してもかまいません」……これは、現代にも通じる適確な助言かと思います。「夫が死んだ」やもめの自由をいたずらに制限するのは理不尽です。聖書で最も有名なやもめの再婚の事例は、次のものでしょう。
士師が世を治めていた頃、遠い昔の話です。モアブの女ルツは、ユダのベツレヘムから移住して来たナオミの息子のうちの一人と結婚しました(ルツ記1章)。しかし、ルツは夫に先立たれ、一人残されました。それから、彼女は姑のナオミに寄り添って、ベツレヘムへ行きました。そこでまさに、「主なる神が彼女(ルツ)を人(ボアズ)のところへ連れて来られる」(ルツ記2:4-5∥創世記2:22)というように、女と男の巡り合いがありました。二人は婚約し、正式な手続きを踏んだ上で結婚しました(ルツ記4章)。
ボアズとルツから、オベドが生まれ、オベドからエッサイが生まれ、そしてエッサイからダビデが生まれました(ルツ記4:21-22)。従って、やもめ・ルツの再婚は、神の祝福のもとに、否それどころか、神の大いなる救済史の中に位置づけられることでしょう。
言うまでもなく、やもめは「望む人と再婚してもかまいません」というように、パウロは誰彼となく圧力をかけているわけではありません。むしろ、パウロは「律法に関してはファリサイ派の一員」(フィリピ3:5)として、旧約のルツの事例やレヴィラート婚(寡婦が死亡した夫の兄弟と結婚する慣習 申命記25:5)を検証しつつ、再婚を選択肢に入れるように推奨したのではないでしょうか。
「未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」(Ⅰコリント7:8)というキャッチーな発言を繰り出す一方、ここでパウロは寛大にも、再婚の自由を説いています。
「ただし、相手は主に結ばれている者に限ります」……この但し書きは、やもめが再婚する相手はキリスト者であるのを必須とするという意味ではありません。「やもめよ、あなたは主にある信仰者として、相手が『主に結ばれている者』と信じて結婚しなさい」ということです。
「主に結ばれている者」には当然、これから「妻のゆえに聖なる者とされて」(Ⅰコリント7:14)、洗礼を受け、キリスト者になる人も含まれます。パウロは、「ただ主にあって」、コリント教会に、神の家族が生まれ成長していくことを願っています。ここでは、「結婚している女は、どうすれば夫に喜ばれるかと、世の事に心を遣います」(Ⅰコリント7:34)との「わたしの考え」(同上7:40)を、パウロは胸に秘めています。ほんとうにパウロには、ケース バイ ケースに対応できる、自制心が備わっています。
Ⅳ わたしも神の霊を受けていると思います
コリントの信徒への手紙 一 7:40――
しかし、わたしの考えによれば、そのままでいる方がずっと幸福です。わたしも神の霊を受けていると思います。
これが、パウロがコリントの信徒への手紙 一 7章で、結婚について縷々語ってきた最後の言葉です。「わたしの考えによれば」と謙虚さを表しつつも、自分がいかに神によって支配されているか、あるいは、自分がどれほど神の恵みを受けているか、が告白されています。
「ずっと(もっと)幸福です」(ギリシア語:マカリスモス;マタイ5:3などのマカリオス〔幸いなるかな〕の派生語)との用語は、「結婚しない人はもっと良いことをしているのです」(Ⅰコリント7:38 新改訳 2017)と響き合っています。つまり、「そのままでいる」・「結婚しない」ならば、更に大きな神の祝福にあずかれます、とのパウロの宣言であり祈りなのです。
今パウロは、「わたしの」と「わたしも」との語句をもって、神の御前に立っています。「わたし」は「わたしの考え」を確信しつつも、「ずっと・もっと大きな」神の恵みに身をゆだねています。その神の恵みによって、コリント教会に吹き荒れている悪霊の嵐が治まるのを待望しています。
「わたしも神の霊を受けていると思います」……和訳のニュアンスから、パウロの感想のように聞こえるかも知れませんが、これは、パウロの信仰告白であります。結婚するかしないか、縷々語ってきたことに耳を傾けてもらいたい、しかし、それ以上に、「神の霊を受けている驚くべき助言者」を見てくださいということなのです。ローマ総督、ポンテオ・ピラトの主イエスへの言葉を借りれば、「見よ、この人を、パウロを」(ヨハネ19:5)と命じているということです。
この「わたし」と主なる神との固い交わりに倣えば、あなたがたの個別の問題への答えが見出される、あなたがたは「ただ主にあって」決断できると、パウロは確信しています。だからこそ、皆の前で、「わたしも神の霊を受けていると思います」と表明したのです。
Ⅴ 主なる神の霊がわたしをとらえた
イザヤ書61:1-3――
主なる神の霊がわたしをとらえた。
わたしを遣わして
打ち砕かれた心を包み
捕らわれ人には自由を
つながれている人には解放を告知させるために。
2 主が恵みをお与えになる年
わたしたちの神が報復される日を告知して
3 シオンのゆえに嘆いている人々に
灰に代えて冠をかぶらせ
嘆きに代えて喜びの香油を
暗い心に代えて賛美の衣をまとわせるために。
彼らは主が輝きを現すために植えられた
正義の樫の木と呼ばれる。
まとめとして、バビロン捕囚後の時代(前539年-515年)にユダヤの地で、第三イザヤが民衆に取りついだ神の言葉を読んでみましょう。
この文書の時代背景の鍵語は、「復興」であり「帰還」です。「大災難」(前587年 王国崩壊と強制移住)のもたらした「暗黒」は、捕囚の地ならびに都エルサレムを包んでいました。そうした中に、主なる神から遣わされたのが、預言者・第三イザヤです。中断と挫折からの転回・脱却が告げられます。
この章節では神の言葉が、主に「貧しい人々」や「嘆いている人々」に向けて語られています。同様に主イエスは、山上の説教で、第一番目に「心の貧しい人々」、そして第二番目に「悲しんでいる人々」に、「幸いなるかな」を告げられました(マタイ5:3-4)。
顧みれば、性的に放埒な人々と禁欲主義者との狭間で、結婚しようか、それとも、とどまっていようか、と思い悩んでいる人々もまた、「貧しい人々」または「嘆いている人々」であるに違いありません。そのような人々に伝えられる「良い知らせ」の核心にあるのは、一体どういうことでしょうか?
「主はわたしに油を注ぎ 主なる神の霊がわたしをとらえた」……ここで「わたし」というのは、主イエス・キリストを指し示しています。つまり、これは預言であり、主イエス・キリストにおいて、「油が注がれ、主なる神の霊がとらえた」との御業が成し遂げられました。主イエスが、十字架と復活による救いを実現されるときにも、「主なる神の霊」が臨在していました(ルカ23:46、ヨハネ20:22)。
Ⅳ.で「わたしも神の霊を受けていると思います」との最終句は、信仰告白にほかならないと述べました。パウロは、「油が注がれ、主なる神の霊がとらえた」主イエス・キリストを信じています。ですから、わたしの罪を潔め、わたしを救ってくださった主イエス・キリストにつき従う者として、「わたしも神の霊を受けている」と表明するのは、正しい信仰の道筋です。
そこで、パウロはコリント教会の人々に対し、「わたしも神の霊を受けている」とのメッセージを源泉として、主の命令と自分の考えとに “ 霊 ” 的に目覚めさせられ、さまざまな難題に取り組むよう助言したのです。
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〈説教原稿〉
2025年 6月8日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 詩編98編 2節~3節(P.936)
説 教「何の妨げもない自由な生活」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 神の国について証しし、イエスについて説得しようとした ……使徒28:23-25前半
Ⅲ この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった ……使徒28:25後半-28
Ⅳ 全く自由に何の妨げもなく ……使徒28:30-31
Ⅴ 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た ……詩編98:2-3
序
主イエス・キリストが復活され、四十日後に昇天される間のことです(使徒1:3)。主イエスは、「使徒たちに聖霊を通して指図を与えられました」(同上1:2)。すなわち、主イエスが使徒たちに、最後の「教え」(同上1:1)を与え、主の「福音」(同上5:42)を伝えることを命じたのは、「聖霊を通して」であったということです。
その後、「聖霊を通して」の宣教はパウロによって受け継がれました。パウロはローマで最後に、ユダヤ人に向けて説教しました。その中で、「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、語られました」(使徒28:25-26)と述べています。ここでパウロは自分の言葉ではなく、「聖霊」が語ったことに耳を傾け、それを目の前のユダヤ人たちに取りついでいます。その上、この「聖霊」に満たされた説教によって、パウロは改めて異邦人伝道へと舵を切るということを確信させられました。
このように、使徒言行録の初めと終わりには、「聖霊を通して」起こった画期的な出来事が書き記されています。そのことを押さえたうえで、帝国の都ローマにようやくたどり着いたパウロの宣教や生活の様子を見てみることにしましょう。
Ⅰ イスラエルが希望していること
使徒言行録28:17-22――
17 三日の後、パウロはおもだったユダヤ人たちを招いた。彼らが集まって来たとき、こう言った。「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに、エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました。18 ローマ人はわたしを取り調べたのですが、死刑に相当する理由が何も無かったので、釈放しようと思ったのです。19 しかし、ユダヤ人たちが反対したので、わたしは皇帝に上訴せざるをえませんでした。これは、決して同胞を告発するためではありません。20 だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです。イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれているのです。」 21 すると、ユダヤ人たちが言った。「私どもは、あなたのことについてユダヤから何の書面も受け取ってはおりませんし、また、ここに来た兄弟のだれ一人として、あなたについて何か悪いことを報告したことも、話したこともありませんでした。22 あなたの考えておられることを、直接お聞きしたい。この分派については、至るところで反対があることを耳にしているのです。」
パウロは一人の番兵の監視下に置かれ、彼にあてがわれた宿舎(使徒28:23)に滞在することになりました。パウロはそこをまるで家の教会であるかのように、キリスト教の伝道に活用しました。
意外にもパウロは当地のキリスト者ではなく、「同胞」のユダヤ人、すなわち、旧約聖書を信じているユダヤ教徒を招き入れました。それは、「救いはユダヤ人から来る」(ヨハネ4:22)と告知された主イエス・キリストの伝道の原点に立ち返るという観点から意義あることでした。言い換えれば、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ書2:3)ことを念頭に置いたうえで、何がローマでは神の奉仕として求められているのか、内省したということです。それは、まことにスケールの大きな「聖霊」による伝道であるに違いありません。
そこで「兄弟たち、わたしは、民に対しても先祖の慣習に対しても、背くようなことは何一つしていないのに……引き渡されてしまいました」と述べて、パウロは自分に係わる「裁判ざた」(Ⅰコリント6:7)を取り上げました。そこには、ユダヤ人の大祭司や律法学者が筆頭になって、主イエス・キリストを十字架刑にした裁判を思い起こさせるという意図も隠されていました。
ユダヤ人の知恵の書にある通り、「神に従う人〈主イエス・キリスト〉を裁きの座で押しのけるのは良くない」(箴言18:5)ことでありましょう。しかし、主イエス、パウロいずれの場合でも、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)によって尋問が行われました。
パウロは、「兄弟たち」であり「同胞」であるユダヤ人の感情をいたずらに逆撫でしないよう配慮しています。「エルサレムで囚人としてローマ人の手に引き渡されてしまいました」、そしてまた、「ローマ人はわたしを取り調べた」というように、「ローマ人」の違法行為を前面に打ち出しています。これらのパウロの証言は、多くのユダヤ人に、神の律法・旧約聖書を知らない「ローマ人」の愚かさ…本来はユダヤ人に省みさせたい!………を認めさせるに十分なものでありました。
「だからこそ、お会いして話し合いたいと、あなたがたにお願いしたのです」……パウロは、キリスト者ではないユダヤ人に対し、へりくだって話し合う姿勢を見せています。ただし、パウロはユダヤ人との直接対話の容易ならざることを熟知しています。というのも、正統派を名乗るユダヤ教徒から、当時のキリスト者は「この分派」(使徒24:5,14、28:22)と呼ばれて、異端扱いされていたからです。
ということもあって、パウロは二回目のユダヤ人たちとの会合を想定しつつ、ここで彼らとの接点として、「イスラエルが希望していること」に言及しています。確かに、「イスラエルの希望」というのは、キャッチーな表現で、主なる神への呼びかけにおいても用いられています……「イスラエルの希望(ヘブライ語:ミクヴェー イスラエル)、苦難のときの救い主よ」(エレミヤ書14:8、17:13、エズラ記10:2)。
しかし今、パウロはユダヤ人に向けた弁明を通じて、彼らが真の「救い主」の前に悔い改め立ち帰って来るのを待っています。二回目のユダヤ人との集会において明らかにされるように、「イスラエルの希望」というのは、「救い主」、イエス・キリストを信じこと以外にはあり得ません。神によって選ばれたユダヤの民が、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われ、「神の国」(使徒28:23)を目指していくことこそが、「イスラエルの希望」なのです。そのような「救い主」・メシア待望こそ、ユダヤ人たちの信仰心を揺さぶる力を持っています。
ですからパウロは、主にある矜持・誇りをもって、「イスラエルが希望していることのために、わたしはこのように鎖でつながれている」と述べています。
Ⅱ 神の国について証しし、イエスについて説得しようとした
使徒言行録28:23-25前半――
23 そこで、ユダヤ人たちは日を決めて、大勢でパウロの宿舎にやって来た。パウロは、朝から晩まで説明を続けた。神の国について力強く証しし、モーセの律法や預言者の書を引用して、イエスについて説得しようとしたのである。24 ある者はパウロの言うことを受け入れたが、他の者は信じようとはしなかった。25 彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとしたとき、パウロはひと言次のように言った。
ここに、ユダヤ人たちが「パウロの宿舎」に再集合した時のことが報告されています。これは、使徒言行録に記録されているパウロによる最後の説教です。そしてここで、「イスラエルの希望」が、「神の国」の到来とそれを告げる「イエス」の教えによって説き明かされています。
「パウロは、朝から晩まで説明を続けた」または「モーセの律法や預言者の書を引用して」というところに、パウロの「同胞」ユダヤ人への熱い思いが伝わってきます。
結果的に、この福音的説教によって、「パウロの言うことを受け入れた」者と「信じようとはしなかった」者とに二分されました。「彼らが互いに意見が一致しないまま、立ち去ろうとした」ということですから、ユダヤ人の間に、激しい論争が引き起こされたと見られます。
パウロは失望することなく、忍耐強く「言うことを受け入れた」者への宣教に励んだに違いありません。最後に、ユダヤ人たちの悔い改めを願って、旧約の言葉が引用されました。パウロは聖なる言葉を取りつぐ務めを全うします。それによって、「主にふさわしくない者」(マタイ10:38)は立ち去りました。
Ⅲ この民の心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった
使徒言行録28:25後半-28――
25 「聖霊は、預言者イザヤを通して、実に正しくあなたがたの先祖に、26 語られました。
『この民のところへ行って言え。
見るには見るが、決して認めない。
耳は遠くなり、
目は閉じてしまった。
こうして、彼らは目で見ることなく、
心で理解せず、立ち帰らない。
わたしは彼らをいやさない。』
28 だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです。」
上記の旧約からの引用・イザヤ書6:9-10は、イザヤが神から召命を受け、ユダヤの民のもとへ遣わされるとき、主なる神から示されたものです。また、主イエスはガリラヤ地方の伝道で、たとえを用いて群衆に語りかけておられるとき、同じ聖句を引用されました(マルコ4:12)。
ということは、イザヤにせよ主イエスにせよ、「聞くには聞くが、決して理解せず、見るには見るが、決して認めない」という人間の頑なさを受け止めたうえで、忍耐強く伝道に励んだということが分かります。ここでパウロが継承しているイザヤの預言の主旨は、「心は鈍り、耳は遠くなり、目は閉じてしまった」人々への伝道をあきらめなさいということではなく、むしろ、人間の抵抗や反発に屈しないように、ということです。
実際、主イエスは「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9,23)と繰り返し命じられました。それは、一人ひとり、“ 霊 ” 的に「心」と「目」が目覚めさせられ、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)を造るように、と教え諭すためでありました。
ということで、あきらめや絶望の心境からではなく、正々堂々と確信をもって、パウロは頑迷預言を提示しました。それは、ユダヤ人たちが身に沁みるほどに精通した神の言葉でありました。
そこで、ユダヤ人たちとの対話は閉じられました。そうして、パウロは異邦人伝道へと舵を切るという決断をしました……「だから、このことを知っていただきたい。この神の救いは異邦人に向けられました。彼らこそ、これに聞き従うのです」。
パウロの最後の説教の「聖霊は、預言者イザヤを通して……語られました」という言葉には、重みがあります。なぜなら、それは「聖霊は、使徒パウロを通して……語られます」との宣言を裏書きするものだからです。
こうして、聖霊の風の吹き巡った「丸二年」の生活が、パウロによって証しされます。
Ⅳ 全く自由に何の妨げもなく
使徒言行録28:30-31―― *28:29は底本に欠落
30 パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎し、
31 全く自由に何の妨げもなく、神の国を宣べ伝え、主イエス・キリストについて教え続けた。
この段落を、前半(:30)と後半(:31)に分けて読みましょう。
「パウロは、自費で借りた家に丸二年間住んで、訪問する者はだれかれとなく歓迎した」……ここには、神の恵みによって「熟練した建築家のように土台を据え」、教会を建てる(Ⅰコリント3:10)というような以前の姿は見られません。また、すでにいくつか設立されていたと思われるローマの諸教会との関係も不明です。
パウロはまさに悠々自適、世間ないしはキリスト教界の評価から解放されています。異邦人伝道を主眼としながらも、「訪問する者はだれかれとなく歓迎した」ということです。行きたい所に行けないというパウロの軟禁生活の中で、多くの人がパウロの「家」に入って来ました。
ここには、一体いつ、皇帝による裁きに出廷を命じられるのかという不安(使徒27:24)も、あるいは、キリスト教迫害をもくろむ暴徒に襲われるかも知れないという恐れ(同上21:13)も見られません。そのように、平安に満たされたパウロの生活を理解する一つの鍵を、わたしは彼の第二回伝道旅行の際の、或る記事に見出します。
「真夜中ごろ、パウロとシラスが賛美の歌をうたって神に祈っていると、ほかの囚人たちはこれに聞き入っていた」(使徒16:25)……フィリピの町で、群衆に責め立てられ鞭で打たれて、牢に投げ込まれました(同上16:22-24)。パウロとシラスには足枷がかけられて、身動きがとれません。その極度の不自由さにおいても、彼らが「賛美の歌をうたって神に祈っている」と、周りの人々が耳を傾けました。
その希望にあふれる “ 霊 ” 的な姿勢は、およそ七、八年後、ローマの「丸二年間」においても変わることがありませんでした。
使徒言行録の最終節は、まさに詩であり賛美になっています。
また、主イエス・キリストについて教えながら、
全く自由に 何の妨げもなく」(ギリシア語原文の語順に従って)
これが、わたしたちが目に焼き付けておくべき、パウロの不変不動の伝道生活です! 何よりも「聖霊」なる神が、神の国への前進を確信し、闇夜に挫けることのない彼の信仰態度を支えていたのです。
昼となく夜となく(讃美歌Ⅰ-532番)、神にささげられる賛美は永遠に歌われ続けるものです。従って、パウロからわたしたちへ、そして、わたしたちから次の世代へ、「神の国を宣べ伝えながら、また、主イエス・キリストについて教えながら」という伝道が受け渡されていきます(使徒28:31の他、同上1:1、8:5参照)。恐れることも、たじろぐこともありません。
なぜなら、ローマのパウロの「家」での宣教は、「全く自由に何の妨げもなく」行われたと証しされているからです。「全く自由に何の妨げもなく」の句が使徒言行録の掉尾を飾っているのは、わたしたちへの贈り物です。それが最終句であるのは、その善い状況は不変であるとのメッセージでありましょう。わたしたちが主イエス・キリストと再会する終わりの日まで、聖霊なる神がわたしたちを助け導いてくださいます。
Ⅴ 地の果てまですべての人は わたしたちの神の救いの御業を見た
本日のまとめとして、「聖霊は、預言者イザヤを通して……語られました」というパウロの説教に倣って、「聖霊は、詩編98編を通して……語られます」との観点から、御言葉に耳を傾けましょう。
これは、先の見えない苦難の時代に、詩編詩人が聞いた、神からのスケールの大きなメッセージです。その受け取り手は、「イスラエルの家」であると同時に、「諸国の民」または「地の果てまですべての人」になっています。つまりここには、「主の教えはシオンから 御言葉はエルサレムから出る」(イザヤ書2:3)というキリスト教宣教の基本路線が踏まえられています。
鍵語の「救い」(詩編98:1,2,3,)によって、そのメッセージの核心を捉えましょう。
主の示される「救い」が、ユダヤ人から始まって、地の果ての異邦人にまで及びます。そのことを預言した詩編98編は、主なる神が遣わされた「救い」の御子、イエス・キリストによって成し遂げられました。
すなわち、「救い主」なるイエス・キリストの「恵みの御業」によって、「慈しみとまこと」が無償で主の御前に悔い改める人々に与えられました。「わたしたちの神の救いの御業を見た」という通りに、女性たちはじめ初代のキリスト者は実際に、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を目撃しました。
今わたしたちは、聖霊の助けによって、主イエス・キリストによる「神の救いの御業」を信じるように導かれました。わたしたちに託された伝道の課題は、わたしたちもまた、「神の国を宣べ伝えながら、また、主イエス・キリストについて教えながら、全く自由に 何の妨げもなく」ということのために祈り、それを実践していくことです。
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2025年 6月1日
旧約聖書 エレミヤ書 30章18節~24節(P.1233)
新約聖書 ルカによる福音書 4章18節~19節(P.107)
説教の構成――
序
……エレミヤ書30:21-22
……エレミヤ書30:23-24
Ⅴ 捕らわれている人に解放を告げる …ルカ4:18-19
序
本日の旧約聖書のキーワードは、「回復」または「再建」です(エレミヤ書30:18)。考えてみれば、わたしたちは洗礼を受けて、「新生」・「再生」させられます(Ⅰペトロ1:3、テトス3:5)。また、「終わりの日」(エレミヤ書30:24)に、天地万物は「更新」させられます(使徒3:21、ローマ8:21)。
いずれにしても、わたしたち・キリスト者は、何かしら破滅状態……信仰的には罪の支配……にあるものを建て直すことについて、“ 霊 ” な洞察を持っています。わたしたちが、震災からの復興、あるいは、病気や挫折からの回復などについて信仰的基盤を有しているのは幸いです。具体的には、旧新約聖書の中に、「回復」または「再建」の出来事あるいは将来の約束から、わたしたちは多くのことを教えられます。
本日は、エレミヤ書から、ユダヤの土地と民の「回復」を歌っている詩を読みます。紀元前6世紀前半、都エルサレムが攻撃されて、南ユダ王国が滅亡した頃のことです。ユダヤの人々は、王はじめ民の指導者たちがバビロンに連れて行かれるという苦難を背負っていました(列王記下25:7,18-19)。
ユダヤの民は、「四方から苦しめられて行き詰まり、途方に暮れて失望している」(参照:Ⅱコリント4:8)ような有様でした。そういう中で、上よりの啓示として、主なる神の託宣として、エレミヤは諸国民に向かって、「回復」または「再建」を告げ知らせました。それは人々が、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)の空虚さを味わったばかりのことでした。
しかしそれで、人々がすぐに悔い改めて、主なる神の託宣に依り頼むようになったか、というと、必ずしもそうではありませんでした。だからこそ、エレミヤは、通り良き管となって、忍耐強く、神を主体とする「再建」の希望を語り続けたのです。
Ⅰ 見よ、わたしはヤコブの天幕の繁栄を回復する
主はこう言われる。
「回復」の第一歩として、神は「住む所」を整えられます。具体的には、焼け野が原となっている「廃虚」が修復されます。そこには、悲惨な想い出を民に残させまいとする神の配慮が見られます。
注目すべきは、「わたしはその住む所を憐れむ」というほどに、民に寄り添ってくださる主なる神がおられるということです。都の神殿が破壊され、民の指導者がバビロン捕囚となっても、動揺することはありません。なぜなら、主なる神が、恥を被り嘆きの声を上げている娘シオン(哀歌2:15,19)の傍らにおられるからです。
「城郭はあるべき姿に再建される」というのは、元々の計画通りに、つまり、神が喜ばれるように、「再建される」ということです。町を護る「城郭」によって、敵の襲撃を避け、町の平和が保たれるようになります。
ここには、主なる神がどのようにユダヤの土地を「再建」されるのか、が提示されています。それが、主なる神が主体となって、「ヤコブの天幕」⇒「その住む所」⇒「都」(または町)⇒「城郭」を建て直すということです。段階を追って、一歩一歩「再建」が進められていきます。なおかつ、そこには、最も被害の大きかった都エルサレムが再び、ユダヤの信仰共同体の中心となることが暗示されています。
まさにちりぢりなって避難している人々に寄り添うような「復興」プランが立てられています。「廃虚」からの復興、そこで大切なのが、神信仰から離れそうになっている人々が「再生」されるということです。
Ⅱ そこから感謝の歌と 楽を奏する者の音が聞こえる
エレミヤ書30:19-20――
楽を奏する者の音が聞こえる。
わたしが彼らに栄光を与え、侮られることはない。
彼らを苦しめるものにわたしは報いる。
主なる神は「ヤコブの子ら」を召して、「都」などの土地を「再建」されます。そこに集う人々の描写が「そこから感謝の歌と 楽を奏する者の音が聞こえる」ということから始められています。「長老たちは城門に集まるのを止めた 若者たちは楽器を鳴らすのを」(哀歌5:14 私訳)という「楽の音」が戻って来ました。人々の疲れをいやし、人々の気持ちを慰めるのが、音楽です。とりわけ、神を賛美する「感謝の歌」は人々を奮い立たせ、その心を一つにさせます。
「わたし(主)が彼らを増やす。数が減ることはない」……ここから、二つのメッセージを汲み取りましょう。
一つは、神の約束は変わらないということです。すなわち、かつて主なる神は、イスラエルの父祖アブラハムに、次のような約束をされました……「あなたがこの事を行い、自分の独り子である息子すら惜しまなかったので、あなたを豊かに祝福し、あなたの子孫を天の星のように、海辺の砂のように増やそう」(創世記22:16-17)。こうして神の祝福のもとに、アブラハムの子孫たちは、神の示される土地で増えていきました。
もう一つは、単なる人口増加が目的ではなく、子孫の繁栄を通して、町の平安をつくり出すということです。エレミヤがバビロンの捕囚民に送った手紙の一節を引用しましょう……「妻をめとり、息子、娘をもうけ、息子には嫁をとり、娘は嫁がせて、息子、娘を産ませるように。そちらで人口を増やし、減らしてはならない。わたし(主)が、あなたたちを捕囚として送った町の平安を求め、その町のために主に祈りなさい。その町の平安があってこそ、あなたたちにも平安があるのだから」(エレミヤ書29:6-7)。次世代の若者たちが、主の「集い」の新しいメンバーとなるように、それが人々の希望となります。
そして、その「集い」、礼拝こそが、どこにあっても、町の平安をつくり出します。「その集いは、わたし(主)の前に固く立てられる」ことこそが、地の平和の源となります。
「彼らを苦しめるものにわたしは報いる」……人々の「復興」において忘れてはならないのが、「苦しめるもの」があるということです。何かを造り直そうとするとき、大概、人々の間に意見の違いが生じます。そこには、何ら悪意のないものから、ねたみや争いの故に生じる主張の対立まで、様々なものがあります。
時に、「感謝の歌」と「楽の音」をもって一つになろうとしている共同体に亀裂を生じさせます。「苦しめるもの」(原意:圧迫するもの)は人を疲れさせ、人の心を挫きます。そうなると、かつての破滅状態に舞い戻りかねません。人知では乗り越えられない障壁の前に、主なる神が立ってくださいます……「彼らを苦しめるものにわたしは報いる」。
神は、「復興」していく途上に、試練や困難が待ち受けているのをご存じです。神の「前に固く立っている」ならば、その困難をも新たな力に変えることも可能です。
Ⅲ 命を投げ出して神に近づく者は誰か
エレミヤ書30:21-22――
治める者が彼らの中から出る。
わたしはあなたたちの神となる。
ユダヤの土地と民との「回復」を歌われた後で、次に何が来るのか、がここに告げられています。言い換えれば、ユダヤの土地と民との「回復」を根底から支えるものは、一体何であるのか、ということです。
それはまさに、「人の心に思い浮かびもしなかったこと」(Ⅰコリント2:9)であります。しかし、それ無しには、土地の「回復」も、民の「再生」も成し遂げることはできません。
この中心部では、「神に近づく(神のもとに来る)」(エレミヤ書30:21に3回)という “ 霊 ” 的な出来事が突如現されています。そこで、どんな人物が、どのように現れるのか、が昭示されます。
「ひとりの指導者が彼らの間から(起こり) 治める者が彼らの中から出る。」
この文では、「彼らの間から」または「彼らの中から」との句に深い意味があります。それは、「ヤコブの子ら」(エレミヤ書30:20)、すなわち、ユダヤの民の中から、その人物が現れると規定されています。ここで、「エッサイの株からひとつの芽が萌えいで その根からひとつの若枝が育ち その上に主の霊がとどまる」(イザヤ書11:1-2)というメシア(救い主)預言を想起される方もおられることでしょう。
天から地の悲惨をご覧になっている神は、この地の人間を召し出して、「復興」へと導くよう企てておられます。「彼らの中から」現れ出た人物は、民に寄り添って、悲惨な現実を乗り越える将来への希望を語ることができるでしょう。実際に、主イエス・キリストは、エッサイの子ダビデの子孫として、エッサイの住んでいたベツレヘムでお生まれになりました。
さらに、「ひとりの指導者が彼らの間から起こる」とのエレミヤの預言から、イザヤ書のもう一つのメシア預言をたどることができるでしょう。
イザヤ書9:5――
ひとりの男の子がわたしたちに与えられた。
権威が彼の肩にある。
エレミヤまたはイザヤで用いられている指導者の原語の語彙は異なりますが、神の栄光を現すのを使命とし、民の間で「わたしたちのために」、「平和」をつくり出す、と述べられています。そしてエレミヤはイザヤとは少し違った角度から、「指導者」なるメシア像をあぶり出します。
それが、「神に近づく(神のもとに来る)」メシアということです。その表象には、神学的な深い意味が隠されています。まずは、エレミヤ書の預言を丹念に読み取りましょう。
「わたしが彼を近づけるので 彼はわたしのもとに来る」……明確なのは、主なる神の主導性です。「わたし」なる神の許可無くしては、誰も「神に近づく」ことができません。これは、モーセが十戒により契約を締結するために、彼がシナイ山に登って行った経緯を見れば、確認されることです。
すなわち、かつて主なる神は、「モーセだけは主に近づくことができる……わたしのもとに登りなさい。山に来て、そこにいなさい」(出エジプト記24:2,12)と言われました。このようなイスラエルの指導者モーセの原体験を踏まえて、至聖所には祭司が年に一度しか入れないという不変の律法が定められました(レビ記16:34、ヘブライ9:7)。これらに照らしても、「神に近づく」のは、極めて畏れ多い、尋常ならざることは、明々白々です。続けて、エレミヤ預言によって、「神に近づく」人物が活写されます。
「彼のほか、誰が命をかけて わたしに近づくであろうか」は、「命を投げ出して神に近づく者は誰か」と意訳できます。「命」というのは原文では、「心」(ヘブライ語:レヴ)です。つまり、心身まるごとさらけ出して、神との親密な交わりを求めているということです。
わたしたちがここで、最も注意しなければならないのは、「驚くべき指導者」は、ただ自分のために、「神に近づく」のではないということです。つまり、仲保者・執り成す者として、この「指導者」は、民のすべての罪を担い、その贖いと潔めのために、「神に近づく」のであります。
聖なる山や至聖所に入って行ったモーセや大祭司の前例に則りながら起こる、神の承諾のもとでの、「指導者」による神への接近は、前代未聞の出来事になります。その出来事の重さが、「命を投げ出して神に近づく」との一句に表されています。“ 霊 ” の導きによって次第に、わたしたちの目の前に、メシアの御姿が浮かんで来ることでしょう。
さらに重ねて、エレミヤの預言が、イザヤのメシア預言の中心部とつながっているのが明かされます。すなわち、「驚くべき指導者」なる苦難の僕について、次のように描出されています……「彼が自ら(ヘブライ語:魂 ネフェシュ)をなげうち、死んで 罪人のひとりに数えられたからだ。多くの人の過ちを担い 背いた者のために執り成しをしたのは この人であった」(イザヤ書53:12)。
殊に、「彼が自ら(魂)をなげうち、死んで」と「命(心)を投げ出して神に近づく」とは、ほぼ同じ内容です。苦難の僕は、人間を罪と過ちから助け出すために、自らが「罪を償う供え物」(ローマ3:25)となり、犠牲の小羊のように死を遂げます。
以上の通り、「あなたには、わたしをおいてほかに神があってはならない」はじめ十戒(出エジプト記20:2-17)による契約を破棄することなく、なおかつ、神に「(現在進行中で!)背いている者たち」の仲保者・執り成し手として立てられるのが、「驚くべき指導者」にほかなりません。
預言者エレミヤは、全地の「回復」とユダヤの民はじめ諸国民の「再生」の基盤となるのは、何か、それは、「彼らの間から出るひとりの指導者」が主役であり、彼が「神に近づく」ことによって、真の「復興」がもたらされる、と洞察しました。それが、「わたしはその住む所を憐れむ」(エレミヤ書30:18)という神の深い憐れみであります。突如、人通りの絶えた道に(哀歌1:4)、「感謝の歌と楽の音」が聞こえてくるのも、「ひとりの指導者」を派遣される神の慰めと励ましによるものです。
ここまで来れば、「命を投げ出して神に近づく者は誰か」との問いへの答えは、自明でありましょう。神の大いなる救いの歴史の観点からすれば、主イエス・キリストにほかなりません。
そのことは、エレミヤ預言の中心部の残りの文からも裏付けられます……「こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる」。
すでに述べたように、土地と民との「復興」には大きな困難が伴います。そこには、破滅や災害そのものとは相異なる苦悩があります。何よりもそれは、破滅や災害によるトラウマ(精神的外傷)や離別・離散を引きずる中での、「再建」作業となります。人はそれぞれ異なる苦難の中に置かれて、互いに理解し合えないのを哀しみつつ、孤独を味わわされます。
そこで聞こえてくる「こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる」との将来に向けた神の約束は、どんなに大きな励ましとなることでしょう。父なる神に「わたしたちのため」近づいてくださる主イエスが、次のように祈っておられます……「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください」(ヨハネ17:21)。仲保者、イエス・キリストによって、神と人間との関係が義しいものとなるように修復されます。
土地と民との「復興」が、「彼らが完全に一つになる」(ヨハネ17:23)ことを旗印としつつ進められていきます。そのために、神の礼拝共同体・教会は、都エルサレムはじめ、一つの町で平和がつくり出されるよう、その存在を大きくしてゆかねばなりません。
Ⅳ 嵐が神に逆らう者の頭上に吹き荒れる
23 見よ、主の怒りの嵐が吹く。
思い定められたことを成し遂げるまではやまない。
本日のテキスト、エレミヤ預言の中心部に付加された二節は、23:19-20からの引用です(一語が異なるのみ)。「嵐は荒れ狂い 神に逆らう者の頭上に吹き荒れる……主の激しい怒りは 思い定められたことを成し遂げるまではやまない」というように、罪の告白をもって畏れひれ伏すべき神が描かれています。
改めて、罪の重荷を担いきれないわたしたちに代わって、神に近づき、執り成す「驚くべき指導者」の憐れみ深さを知らされます。わたしたちの「復興」の途上にあって、「嵐が神に逆らう者の頭上に吹き荒れる」ときにも、この「驚くべき指導者」の働きを基盤としなければなりません。
エレミヤ書全体から観ると、30:23-24の引用元、23章というのは、主の託宣が審判から救済へと、闇から光へと転じていく基点になっています。わたしたちは、光を掲げて前進するときにも、「驚くべき指導者」を「神に逆らう者」・世の支配者に置き換えてしまう愚かさや闇の誘惑に細心の注意を払わねばなりません。
主なる神が、御子イエス・キリストと共に備えてくださる「終わりの日」をまっすぐに見つめましょう。その日は近いとか、あるいは延期されているとか、自分で判断するのは、まさに愚かなことです。「終わりの日」まで、「主の激しい怒りがやまない」こともあると覚悟を決めることです。闇から光へとくぐり抜けられるように、主イエス御自身、「腰に帯を締め、ともし火をともしていなさい」(ルカ12:35)と教えておられます。
Ⅴ 捕らわれている人に解放を告げる
ルカ福音書4:18-19 主イエスによる聖書朗読――
目の見えない人に視力の回復を告げ、
19 主の恵みの年を告げるためである。」
土地と民との「復興」に関わるエレミヤの預言に、「ひとりの指導者が彼らの間から出る」(30:21)と告げられました。そして、その人物が「命(心)を投げ出して神に近づく」または「自ら(魂)をなげうち、死ぬ」とメシア預言と重ね合わせて、わたしたちは、そのお方こそ、主イエス・キリストであると確信するに至りました。
主イエスは、安息日にナザレの会堂で人々の前に立たれました。父ヨセフと母マリアに育てられた主イエスが故郷の人々の前で、聖書を朗読し、その説き明かしを行いました。この出来事は、ルカ福音書では、ガリラヤ伝道の開始に位置づけられています。
ということは、わたしたちはこの場面の主イエス・キリストの言動によって、このお方がまことのメシア(救い主)であるということを十分に知らされます。それは同時に、「ひとりの指導者」または「驚くべき指導者」が、エレミヤとイザヤのメシア預言の通りに、ここに登場した、ということをわたしたちに告げています。
「主の霊がわたし(主イエス)の上におられる」……主イエスは、霊の力に満たされて、これから伝道を始められます。言い換えれば、「死の陰の地」ガリラヤで、ユダヤ人と異邦人との「再生」を企てるということを意味しています(マタイ4:15)。
主イエスによる福音宣教は、紀元前6世紀前半、エレミヤの生きた時代と同様に、世を覆う挫折、沈滞、そして失望の中で取りかかられたものです。だからこそ、この神の御子なるメシアが「主がわたしに油を注がれた」、そして「主がわたしを遣わされた」というように、父なる神と御子イエス・キリストとの親密さが強調されています。
そして、福音宣教はまず、「貧しい人」、「捕らわれている人」、そして「圧迫されている人」が主イエスとの交わりへと呼び出されます。あるいは、主イエスはそれらの「失われた小羊」を捜し回られます(マタイ10:6、18:12)。最終的には、「こうして、あなたたちはわたしの民となり わたしはあなたたちの神となる」(エレミヤ書30:22)ということが成就されます。
結
ここまで、エレミヤ書30:18-24のテキストに従って、土地と民との「復興」についての預言を読みました。その際、「回復」、「再建」、「新生」、「再生」、そして「更新」などの用語を使いました。
その中で、わたしたちはエレミヤ預言の中心部に、「ひとりの指導者が彼らの間から起こり、命を投げ出して神に近づく」との救済預言に巡り合いました。そうしてわたしたちは、国家滅亡と民族離散という大惨事からの「復興」が、ひとえに「驚くべき指導者」による救いの御業に掛かっていることを教えられました。
そうだとすれば、わたしたちが洗礼を受けて、「新生」・「再生」させられることが、破滅や患難から立ち上げる、すべての出発点となります。
わたしたちは、神の御心に背いて、罪と病と死の縄目に束縛され、生きる望みを失いました。しかし、神は罪深い者を憐れんでくださり(エレミヤ書30:18)、主の霊に満たされた主イエス・キリストをわたしたちのもとに遣わされました。
そうしてわたしたちは、主イエスの愛と知恵と忍耐にあふれる宣教によって救い出されました。主イエスは十字架上で「命(心)を投げ出して」、わたしたちの罪を贖われました。さらに、主の御前に、悔い改めてひれ伏す者に、「死者の中からのイエス・キリストの復活によって、生き生きとした希望を与えて」くださいました(Ⅰペトロ1:3)。
この地で「復興」に携わるキリスト者は輪になって、「感謝の歌と楽の音」をもって神をほめたたえます。大災難の後、予期しない困難が待ち受けています。わたしたち一人ひとりの、主イエス・キリストによる「新生」が、苦しんでいる隣人を慰める力の源となりますよう祈りましょう。
W
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2025年 5月25日
新約聖書 マルコによる福音書 7章24節~30節(P.75)
説 教「主イエスの足もとにひれ伏す女」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ イエスはティルスの地方に行かれた
……マルコ7:24-25
Ⅱ まず、子供たちに十分食べさせなければならない
……マルコ7:30
Ⅵ 彼らはわたしの食卓の下で食べかすを拾う者になった
……士師記1:1-7
序
主イエスはガリラヤの「湖の向こう岸」に行かれたことがありました。「イエスが舟から上がられ」、それに呼応して、「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来ました」。そして、主イエスの御言葉と御業によってこの哀れで孤独な男はいやされました(マルコ5:1-20)。言い換えれば、それは、主イエスが異邦人伝道の最初の御業において、わたしたちに救いと愛を示されたということにほかなりません。
今や、「豚飼い」はじめ異邦人の多く住む、「向こう岸」ゲラサの地に、御言葉の種が蒔かれました。というのも、悪霊から解放されて正気になった男が主イエスの御業を言い広め始めたからです。
このような主イエスのガリラヤ湖畔とその周辺の伝道活動はやがて、イスラエルの国境をも越えて、遠くまで伝えられていきました……「また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺りからもおびただしい群衆が、イエスのしておられることを残らず聞いて、そばに集まって来た」(マルコ3:8-9)。地域や民族の垣根を越えて、罪人や病人、また差別や偏見に苦しんでいる人々が主イエスのもとにやって来たのは、自然な流れでありました。それが、主イエスの宣べ伝えておられる福音、喜びの知らせの力でありました。
或る日、神による大いなる救いの計画の中で、注目すべきことが起こりました。それは、主イエス御自身、ユダヤ人の律法学者たちの敵意と向き合い、多くのユダヤ人たちに神の国が近づいたことを語っておられる最中に起こった出来事でありました。
先に述べた、ゲラサで一人の男に対し悪霊追放を行ったのが、異邦人伝道のきざしであったとすれば、本日のテキストの記事は、その夜明けを告げるものでありました。というのも、主イエスに出会った、「シリア・フェニキア」の女が出会ったばかりの主イエスと信仰的な対話をしているからです。
Ⅰ イエスはティルスの地方に行かれた
マルコ福音書7:24-25――
24 イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた。ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった。25 汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女が、すぐにイエスのことを聞きつけ、来てその足もとにひれ伏した。
主イエスによる異邦人伝道は、静かに始まりました。後の「異邦人の使徒」(ローマ1:5)、パウロの伝道に見るとおり、地域や民族などの障壁を打ち破るのは、簡単なことではありません(使徒17:16-34)。神の子イエスにおいても、然り! その後に、主の弟子となった地元の人々による伝道が各地で進められるためにも、信仰的模範が示されねばなりません。機が熟するのを待つこと、その機を見逃さないこと、そして一人との出会いを大切にすることです。
「イエスはそこを立ち去って、ティルスの地方に行かれた」……「ティルスの地方」は、旧約聖書的にも有望な伝道地でありました。願わくば、主イエスに出向いていただきたいと思うほど、昔からティルスとイスラエルの間には交流がありました。ティルスはガリラヤ湖畔カファルナウムの西北約64キロのところにあります。
とはいえ、長い歴史の中で、近隣諸国間に戦争が一度も無いというのは、ほとんどあり得ません。この件に関しては、Ⅵ.で言及します。戦争という闇の歴史ではなく、ティルスとイスラエルの間には、神の栄光をほめたたえるような交流がありました。
サムエル記下5:11――
ティルスの王ヒラムはダビデのもとに使節を派遣し、レバノン杉、木工、石工を送って来た。彼らはダビデの王宮を建てた。
これは、ダビデ王がエルサレムを攻略し、城壁を築いて、都を建設し始めた頃の話です。ダビデの子ソロモン王が都に神殿や王宮を建てた時代にも、ティルスとの間に平和な関係が続きました(列王記上9:10-11)。
難攻不落の要塞、海港ティルスは、レバノン杉や糸杉の繁茂する後背地を持っていました。「だれにも知られず」に、リトリート(自然の中に退いて行う聖会や修養会)するのには絶好の土地です。いずれにしても、ティルスはガリラヤの風土とは全く異なる異邦人の土地でありました。主イエスがその地に足を踏み入れられたことには、大きな意義がありました。
ちなみに、パウロは第三回伝道旅行でエルサレムへ帰還する直前、ティルスの港町に七日間泊まったと報告しています(使徒21:3-4)。一人の女性への主イエスの伝道が、およそ30年後、ティルスの町で多少ならずとも伸展していたことが分かります。
「ある家に入り、だれにも知られたくないと思っておられたが、人々に気づかれてしまった」……主イエスは十二弟子を派遣する際に、その町で「ある家に入る」との伝道のやり方を指示しておられました……「町や村に入ったら、そこで、ふさわしい人はだれかをよく調べ、旅立つときまで、その人のもとにとどまりなさい。その家に入ったら、『平和があるように』と挨拶しなさい」(マタイ10:11-12)。
このように、「町や村である家に入り」、悩み困っている人と出会い、「今日、救いがこの家を訪れた」(ルカ19:9)と告げるのが、主イエスの伝道の基本線です。
主イエスがティルスで滞在していた、その「家」が「人々に気づかれて」しまいました。ガリラヤ湖畔のカファルナウムで起こったように、「家におられることが知れ渡り、大勢の人が集まったので、戸口の辺りまですきまもないほどになった」(マルコ2:1-2)という混雑が思い浮かんできます。
雑踏をかいくぐって、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」が主イエスに近づきました。おそらく、日々の生活に疲れ果てて、一心不乱の状態だったのでしょう。女は「来てその足もとにひれ伏し」ました。
彼女がすでにどの程度、主イエスの御言葉や御業について知っていたのかは、不明です。ひょっとしらた、ガリラヤから戻って来た、「イエスのしておられることを残らず聞いた」ティルスの人から、話を聞いていたのでしょう。
大切なのは、平和の宿る「家」の中で、主イエスと一人の女の出会いが起こったということです。ここで、「人の子は、失われたものを捜して救うために来たのである」(ルカ19:10)という主イエスの言葉が実を結ぼうとしています。「その足もとにひれ伏した」女には、御言葉を受け入れる準備ができています。
Ⅱ まず、子供たちに十分食べさせなければならない
マルコ福音書7:26-27――
26 女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであったが、娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ。27 イエスは言われた。「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない。」
ここで、さらにティルスが異国であるのを強調する但し書きが出ています……「女はギリシア人でシリア・フェニキアの生まれであった」。彼女は、「ギリシア人」の出自または言語環境の中で育てられました。
もともと「フェニキア」人は、主に海上交易を生業とする民族でありました。当然、「ギリシア」へも航路が開かれてました。彼女はまさに国際色豊かな環境の中に育ちました。ユダヤ人の主イエスからすれば、完全な異邦人でありました。
「女は娘から悪霊を追い出してくださいと頼んだ」……いつの時代かにかかわらず、わたしたちは病気(ここでは悪霊)のために、日頃苦しみ騒いでいる子供を育てている母親はじめ周りの者の労苦を知っています。その人たちはしばしば、明日が見えない、闇のどん底に突き落とされ、思い悩んでいます。ですから、「女は頼んだ」の一句、その願いには、甚大な勁さがあります。そこには、かけがえのない「娘」の命が掛かっています。
このような揺れる思いの中で、彼女の願いがまっすぐに、主イエスに差し出されました。
「まず、子供たちに十分食べさせなければならない。子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」……速断して「残念」とこぼし、その場を立ち去ってはなりません。その真意を理解するために、主イエスの言葉を二つに分けて捉えることにしましょう。文章の前後半を、逆順で説き明かします。
この言葉だけを聞けば、福音、喜びの知らせは、ユダヤ人たち(子供たち)に宣べ伝えられるものであって、異邦人(小犬たち 原文・複数形)には告げ知らされてはいない、と読めます。しかし現実に、主イエスは異邦人(小犬たち)のもとに来られています。そして、ティルス地方でひとりで休息しよう、「だれにも知られない」時を持とうと、お考えになり、異邦人(小犬たち)への親密さを体現されています。
そこで、主イエスの言葉の前半に返りましょう。
文意を汲んで言うと、「まず、子供たちに~させよう。そして次に、小犬たちに…」と表明されています。従って、「まず~、そして次に…」という「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)に、女が思いを馳せられるかどうかが、分かれ目になります。もし、彼女が “ 霊 ” によってその「まず~、そして次に…」が受容できれば、主イエスはそこに彼女の信仰を見出されるに違いありません。
彼女には、「汚れた霊に取りつかれた幼い娘を持つ女」の勁さと共に、主の御言葉に応じるしなやかさがありました。
付け加えれば、「小犬にやってはいけない」という一見手厳しい表現を、冷静に受け止められるかどうかが、一つの要になります。
イザヤ書56:11 ――
彼らは羊飼いでありながらそれを自覚せず
それぞれ自分の好む道に向かい
自分の利益を追い求める者ばかりだ。
これは、「神を畏れぬ者」を叱責する主の言葉の一節です。「犬ども」との呼称に軽蔑が込められているのは明瞭です(マタイ7:6、ルカ16:21)。しかし、「犬」にせよ「小犬」にせよ、会話に使われている動物の呼称のニュアンスは微妙かつ多彩です。というのも、個々人の好き嫌いや場面の状況に応じて、「犬ども」や「子犬たち」の持っている意味合いが変わってくるからです。
それでは、主の御言葉にしなやかに応じるシリア・フェニキアの女の返答を読んでみましょう。
Ⅲ 食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます
マルコ福音書7:28――
ところが、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」
食事を与えるという文脈の中ではありますが、「小犬にやってはいけない」との表現は隠喩で、実際の情景と何ら関係がありません。ところが、それを受けて、女は「食卓の下の小犬たち」を描き出しました。可愛らしい「小犬たち」、その鳴き声すら聞こえてきそうです。注解者が指摘する、彼女の品のよさや優雅さは、まさにここにあります。
すぐかっとなり、「子犬たち」⇒「犬ども」⇒異邦人⇒人種差別、というように悪い連想を巡らすのを、女は回避しました。それよりも、主イエスの「足もとにひれ伏している」、その礼拝の姿勢、へりくだりを保つことが、今は大事なのです。
ここで、絶妙な情景描写以上にすぐれているのは、「主よ」と呼びかけた、主イエス・キリストがどのようなお方であるか、についての彼女の気づきです。
① まず、子供たちに十分食べさせる。
② 次に、食卓の下の小犬たちに子供のパン屑を食べさせる。
驚くべきことですが、女はまさに “ 霊 ” の導きによって、主イエスがそのような伝道を押し進められているのを悟りました。それこそが、ユダヤ人の身なりをし、ユダヤ人の言葉遣いをする主イエスが、異国「シリア・フェニキア」の地に足を踏み入れた目的でありました。そこで彼女は、主イエスが異邦人の女に出会って、教え導いてくださる、救い主だと信じるようになりました。
マルコ福音書7:29――
そこで、イエスは言われた。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい。悪霊はあなたの娘からもう出てしまった。」
これぞ、主イエスの恵み深い御言葉が、女に授けられました。「それほど言うなら、よろしい。家に帰りなさい」を私訳すると、「その言葉をもって、帰れ」となります。まことに簡潔ですが、その内容は豊かです。
「その言葉をもって」の「その言葉」はもちろん、直前の「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます」との女の応答を指しています。つまり、「主よ」と呼んで、主イエスの伝道計画を把握していることを表した「その言葉」を携えて、ということです。
「その言葉をもって」との主イエスに念押しには、意味があります。それは、あなたを含め「食卓の下の小犬たち」も救いの輪に入れられていると信じたことを、行動に移せということなのです。言い換えれば、主イエスに語りかけたあなたの言葉に責任を持ちなさい、その信仰に従って行いなさいということです。何という主イエスの弟子訓練の迅速さなのでしょう。
それと共に、主イエスは彼女の行動を根底から支えるような御言葉を表されました……「悪霊はあなたの娘からもう出てしまった」。それは、主イエスの足もとにひれ伏し、「食卓の下」にかがみ込んでいる女を立ち上がらせる、主イエスの力強い宣言でありました。
今や、「娘から悪霊を追い出してください」との母親の勁い願いがかなえられることになりました。正確に言えば、「その言葉をもって、帰れ」との主イエスの御言葉が開示された後に、悪霊追放の業が成し遂げられました。
そこで大事なのは、主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、について明確な信仰をもって、女が家に帰って行くことです。それは、回復した娘との再会以上に、いついつまでも女の心に刻まれるべきことなのです。
Ⅴ 女が家に帰ってみると、悪霊は出てしまっていた
マルコ福音書7:30――
女が家に帰ってみると、その子は床の上に寝ており、悪霊は出てしまっていた。
行きとは全く異なり、女の「帰り」の道は、神の栄光が照り輝いていました。というのも、すでに遠隔操作の形で、娘に対する主イエスによる悪霊祓いが終わっていたからです。女は自分の家で、主イエスがいやされた娘を自分にお返しになった(列王記上17:23)ということを知ります。そこで、「アーメン、感謝します」と唱えて、彼女はほんとうに主イエスを信じる者に変えられます。
同時に、主イエスとの真剣な会話を通じて、女は「まずユダヤ人に、次に異邦人に」という壮大な伝道計画を胸に刻みました。交易都市ティルスは、「次に異邦人に」という主の宣教プランを告知するに、格好の町でありました。
実際に、聖霊の導きによって、地中海を跨いで、「次に異邦人に」との宣教が押し進められました。主イエスの後継、「異邦人の使徒」パウロが再び「ギリシア人」の女に出会いました。それはまさに、ヨーロッパ大陸という異邦の地に、キリスト教が初めて伝えられた時のことでした。
使徒言行録16:12-14――
12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。
主イエスの一人の女への異邦人伝道は、パウロによって引き継がれました。リディアはすぐに洗礼を受け、主イエス・キリストの御言葉と御業を宣べ伝えるべく、自分の家を開放しました(使徒16:15)。こうして、ティルスの女の信仰は、およそ30年後に、フィリピの女に波及していきました。未踏の異邦人世界へ、もっともっと奥へ、福音が運ばれて行きました。
最後に、旧約聖書・士師記1:1-7を援用しながら、シリア・フェニキアの女の信仰のまとめをしましょう。
Ⅵ 彼らはわたしの食卓の下で食べかすを拾う者になった
1 ヨシュアの死後、イスラエルの人々は主に問うて言った。「わたしたちのうち、誰が最初に上って行って、カナン人を攻撃すべきでしょうか。」 2 主は、「ユダが上れ。見よ、わたしはその地をユダの手に渡す」と言われた。3 ユダは兄弟シメオンに、「わたしに割り当てられた領土に一緒に上って、カナン人と戦ってください。あなたに割り当てられた領土にあなたが行かれるとき、わたしも一緒に行きます」と言った。シメオンはユダと同行することにした。4 こうしてユダが上って行くと、主はカナン人、ペリジ人を彼らの手に渡された。彼らはベゼクで一万の敵を撃ち破った。5 すなわち、ベゼクでアドニ・ベゼクと交戦し、カナン人とペリジ人を撃ち破った。6 アドニ・ベゼクは逃走したが、彼らはその後を追い、彼を捕らえて、手足の親指を切断した。7 アドニ・ベゼクは言った。「かつて七十人の王の手足の親指を切って、わたしの食卓の下で食べかすを拾わせたことがあったが、神はわたしが行ったとおりにわたしに仕返しされた。」 彼はエルサレムに連れて行かれ、そこで死んだ。
士師記ということで、民の上にサウルやダビデなどの王が立てられる以前の話になります。乳と蜜の流れる地への侵入と征服を指揮したヨシュアが死んだ後のことです。複数の士師たちが入れ替わりながら、先住民の土地を攻略し、割り当てられた土地(ヨシュア記16-19章)に定住を図ろうとしてところです。
上記の「ユダ」と「シメオン」、それぞれの部族も配分された嗣業を保有しています。ただし、住み着くためには当然のことながら、元から住んでいる人々との間に戦いが起こりました。友好的に土地を譲ってもらう方法も無くはありませんが、それは極めて難しいことであります。
「アドニ・ベゼク」(意味は「ベゼクの主」)の率いる「カナン人とペリジ人」は先住民で、イスラエルの民の侵入を退けようとしています。結果、旧約聖書は、「ユダ」と「シメオン」の側に軍配を上げています。敗北した側の、異邦人の指導者「アドニ・ベゼク」に懲罰が加えられます。彼は手痛い報復を受けることになります。
それが、「わたしはかつて七十人の王の手足の親指を切って、わたしの食卓の下で食べかすを拾わせたことがあった」というその仕返しが、「アドニ・ベゼク」の上に下ることになったという経緯です。指を詰めるという処罰は身の毛もよだちます。ただし、「七十人の王」との戦い、また、彼らの出自や末路についての情報はありません。主なる神はどのように、いわば「食卓の下の子犬」状態に貶められた人間の悲惨さをご覧になっているのでしょうか?
「アドニ・ベゼク」は、「ユダ」部族が拠点にしようともくろんでいるエルサレムへ連行されました(士師記1:8,21)。そこで、「アドニ・ベゼク」がどれだけ生き延びたのかは、不明です。しかし今しばらくは、「手足の親指を切られ、食卓の下で食べかすを拾う」という不自由を被ることになりました。
もちろん、士師たちの戦いと報復にまつわる逸話は、「シリア・フェニキア」の女の出来事と直接つながっているわけではありません。しかし、わたしたちが逸話から学び取れることを、二つ挙げましょう。
① ユダヤ人とカナン人の確執
② 食卓の下で食べかすを拾うという屈辱
①は、イスラエルの侵入以来、関係良好の時代をはさみながら、両者の間に不和や拒絶が続いていたということです。しかし、主イエスがカナンの地で休養に取られることによって、関係修復が始まりました。今日もそれを前進させていくことが、わたしたちに託されています。
また②は、「シリア・フェニキア」の女が「まずユダヤ人に、次に異邦人に」という主イエスの伝道を、ユーモアをもって受け容れたということです。すなわち、主イエスの前にへりくだり、ひれ伏すことによって、屈辱が乗り越えられました。休息・中断を入れようというおおらかさと、言葉尻にかっかしないというしなやかさが、見事に融合しました。
まさに、主イエスと一人の女との出会いによって、地域や民族の垣根が打ち壊され、福音宣教の道が開かれました。主なる神は御子、イエス・キリストを通して、この世の思いがけないところで、神と人との交わりを起こしてくださいます。
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マルコによる福音書1章16~20節
2025年5月18日茅ヶ崎香川教会
エレミヤ書20章7~9節 三教会講壇交換礼拝 説教担当:秋間文子
説教題「神様に従うことで開く活路」
構成 序
1 弟子を召す
2 人間をとる漁師
3 網を捨てて、従う
4 弟子とされた私たち
序
今日は礼拝をご一緒出来ますことを嬉しく思っております。講壇交換は、同じ信仰の基を持つ三教会の霊的な交わりですが、茅ヶ崎南湖教会は、茅ヶ崎香川教会と茅ヶ崎教会の祈りによって生み出された教会ですので、感謝をもって活動をご報告する日としてきました。南湖教会の設立は1993年ですから、歴史も短いのですが、二教会の歴史を私たちの基とできますことは、何よりと思っております。教会というのは、様々な考え方、やり方があるのですが、南湖教会が0から創っていくのではなく、二教会の毅然とした信仰を受け継ぎ、自らのものとして刻んでくることができました。
その信仰の特徴とは、「神様を礼拝し、従う」ということに徹することでありまして、それは、主イエスが弟子を召したことに繋がるものでした。
1 弟子を召す
今日の箇所は、主イエスの伝道が始まったばかりのことでした。ガリラヤ湖というのは、聖書の舞台としては北の方にあるとても大きな湖で、茅ヶ崎市と平塚、藤沢を合わせたくらいの大きさがありましたから、湖でありながら「海」と呼ばれることもありました。そこでの漁も盛んに行われていまして、「投網」と言って、網を頭上で振り回して浅瀬に投げての漁をしていたと言います。
その網を打っている漁師に、主イエスが声をかけました。シモンというのは、後に「ペトロ」と呼ばれる人で、ここではペトロと呼ぶことにします。ルカによる福音書では、夜通し働いて疲れたペトロに向かって、主イエスが「沖に出て、漁をしなさい」と言った話が書いてありますので、そちらでは、ペトロの心情を中心に読むのですが、今日の箇所は、そういうことは何も記さず、主イエスが声をかけたことに注目しています。「彼らが弟子になったのは、彼らの対応が良かったから」というのではなく、「主イエスがご自身の意志で、彼らを選び、弟子にした」ということに焦点をあてます。私たちの感覚ですと、普通は、「弟子になりたい人が熱心に頼み込んで、弟子入りするのではないか」とか、「師匠は、その人に筋があるか、確かめてから、弟子を取るのであろう」と思うのですが、ここでは違いました。弟子の熱意も、また素質も問われることなく、彼らをそばに引き寄せるように、弟子にしたのです。主イエスは、彼らの持っている何かに期待して、「この人を弟子にすると、自分にとって、また伝道にとってプラスになる」という風に、彼らを利用するのではなく、まず師匠と弟子という関係に招き入れたのでした。主イエスが得をするためではなく、楽をするためでもなく、彼らとの関係、師匠と弟子という関係を結ぶために、弟子にしたのです。
その弟子達が、この後、主イエスと共にいることで、大事な役目を果たすことになります。それは、どれほどの仕事をしたかという点ではなく、主イエスと共に居ること自体に意味がありました。弟子たちは、主イエスに従っていくのですが、人間的な思いも持っていますから、主イエスから怒られたり、弟子の中で自分が最も大事にされるようにと願ったり、さらには主イエスを裏切る者もありました。このペトロは、主イエスが捕らえられてしまうと、「そんな人のことは知らない」と3度も言ってしまいます。その主が十字架の上で、「彼らをお赦しください」と祈られるのですから、この弟子たちのことも含めて祈っていたのでした。
どうして、そんな人たちが弟子になったのかと思うのですが、この弟子たちがいることで、「主イエスが言われたこと、なさったことは、私達に深く関係すること」として響いてくるのです。主イエスの愛情の深さを、身をもって知らせたのが、弟子たちでありました。
2 人間をとる漁師
彼らは、「わたしについて来なさい。人間をとる漁師にしよう」と言われました。それまで魚をとっていたのに対して、今度は「人間をとる漁師」なのだというのです。「人間をとる」というのは、魂を捕らえ、その人の人生を捕らえることです。しかし、人間が相手の魂を捕らえるというのは、本来、出来ないことですから、ここでいう「人間をとる漁師」とは、主イエスのことなのです。「主イエスがなさることを、弟子達にもさせる」という、全く不思議なことが言われているのです。それは、弟子達に、主イエスと同じ力が与えられるということではなく、「主イエスの代わりに働きなさい」ということでもありません。この言葉の意味がわかるのは、もう少し先のことでした。先ほど申した通り、いざというときに逃げ出してしまう弟子たちでしたが、主イエスが昇天された後、聖霊を受けてからは、大きく変化しました。主イエスが天に昇られたら、もう主イエスの背中を見て、ついていくことはできないのですが、彼らの中に、主イエスは聖霊としてとどまってくださり、弟子達を突き動かしていきました。弟子達を通して、また、弟子たちの中で主イエスが働かれて、一人ひとりを捕らえるという、本来、主イエスがなさる業をなしていきます。
ここで「人間をとる漁師にしよう」と言われたのは、復活の後のことをはるかに見据えながら語ったのです。弟子達に神様の力が臨んで、主イエスの働きをなすようになるという預言だったのです。
ですから、弟子になるというのは、自分の伝えたいことを伝えていくのではなく、自分の理想を実現していくのでもなく、神の御心によって計り知れない者へと変えられていくことです。「主イエスの復活の命に与かるとき、新たにされて、内なる主イエスに動かされて、神様のために働く者となる、そのために召すのだ」と言われているのです。この4人は、多分、その意味深さも分からないまま従ったのでしょうが、弟子という関係の中に居続けることで、主イエスを宿す器として用いられていくのです。自分がどれほどのことが出来るか考えたら、誰もが「自分は弟子失格だ」というしかないのですが、その彼らを、また、私たちを、用いてくださるのです。師匠と弟子という関係においてでないと、神と人の関係がわからないから、私達人間を弟子にし、信じ従えと召したのです。
3 網を捨てて、従う
そのように主イエスに声をかけられたペトロとアンデレは、すぐに網を捨てて従い、また、ヤコブとヨハネも主に呼ばれて、舟と父を残して従っていきました。網があれば、いざというとき仕事ができますが、それを抱えてではなく、捨てて行ったところに、従うことの本質が表れています。「逃げ道を用意して、駄目だったら他に行こう」というのではなく、退路を絶ったのです。それは、そもそも適性があるからでもなく、今すぐに成果が出るからでもなく、ただ召されたことを信じて行くだけと分かっていたからです。
残した父親のことなどは、また負うことになる場合もあるでしょうし、御心ならば、家族という荷を背負うことになるのですが、しかし、肉親の情に信仰が負けてしまうのではないことをこの箇所は語っています。私達の体は一つしかありませんから、両方は負えないというとき、課題を残しておきつつ、主に従っていくということが、実際にはあります。家族のことを言い訳にせず、そこにも主の助けを頂きながら従う道を模索するというのも、弟子達に課せられたことでありました。
さらに、私たちのことを思うと、この4人のように、捨てるべきものが分かりやすいものとは限りません。それがうかがわれるのが、今日の旧約聖書のエレミヤです。彼は預言者として、神様に立てられた人でしたが、神の言葉を語ることで、大変な苦労を負っていきます。時代は、バビロン捕囚の直前で、「このままでは国が滅びる、神の罰を受ける」という神様の言葉を語っていました。日本で言えば、第二次大戦のさなかに、「このままでは、日本は滅ぼされる」と言っていたようなものです。当時の日本では、そんなことを言ったら、ただではすまされなかったことは、ご存じと思いますが、同じようにエレミヤも「非国民」とされ、友達の理解も得られず、親族にも裏切られて裁判にかけられ、命を狙われ、牢に入れられたこともありました。人から嘲られ、笑い者にされたと今日の箇所にありますが、それに疲れ果て、もう預言者として語ることを辞めようと思っていました。預言者にされたのも、神様に惑わされたようなもので、「もう神様の名前を口にすまい、神様の言葉を語るまい」と思うのですが、しかし、神の言葉を押さえつけておくことが出来ませんでした。主の言葉が自分の中で燃え上がってくる、「これを言わないではいられない」と思わされて、語り続けたのでした。自分の負けで、神様の力に屈服したと吐露したのが、今日の箇所でした。
このエレミヤは、預言者として召されたときに、主イエスと出会った漁師たちと同じく、仕事や立場を捨てて従ったのでしょうが、「それらを捨てれば、それでいい」というのではありませんでした。今日の20章を読みますと、「苦労する中で湧き上がって来る神様への恨みや、周囲の人への怒りを捨てる」という次の課題が強いられるのです。
それは、神の言葉を語ることにおいて、避けては通れないものでした。彼が語っていたのは、ユダの国の不信仰を突く神様の言葉でありまして、神を畏れる思いを忘れた人たちに対して、「それでは、私達に未来はない」と伝えていたのです。それは、他人事ではありません。エレミヤ自身、「自分こそ、神様を重んじなかったら、しっかりと生きていくことはできない」と気づかされたのでしょう。「苦労させられたことを恨んだままでは、活路が開けない」というところに追い込まれて、「自分の損得、国の損得を超えて、神の御心がなるよう願わなくてはならない」と思わされたのでしょう。「それが信仰者の生きる道なのだ」という思いで、語り出したのであろうと思うのです。それによって、彼は、困難な中を生きる力を得ていったのです。自分のこだわりを捨てることで、本当の支えを得ていくのでありまして、「そういう信仰をもって、共に生きていこう」ということを、身をもって伝えていったのです。網を捨てる弟子たちの姿を通して自分を捨てて主に従うという信仰の境地へと神様は私たちを導いておられるのです。
4 弟子とされた私たち
最後に、私達のことを考えてみたいと思います。私たちも、この4人と同じく、主イエスから「わたしについて来なさい」と呼ばれてここにいるのでありまして、弟子として召された者です。彼らのように、仕事や家族を残して従うということはなくても、「自分は、何も変わりなく、自分の持てる力で従っていく」というのではなく、「自分を捨てて従う」という課題があるのです。そうしないと、結局は、神様のことを「自分の人生に良いものをプラスしてくれる方」という程度にしか捉えていないということになってしまうからです。ですから、あのエレミヤのごとく、自分の中の絶望や怒りを捨てる、こだわりや自分の満足を得ようとする発想を捨てる、という課題が日々課されるのです。それらを捨てるというのは、誰しも十分にできるわけではなく、「捨てていないものに気付く」というのは、一生続きます。日々それぞれに召された場で、神に仕える道を探っていくのですが、それはこの世で完結するものではありません。終末のときに、私たちへの祝福を完成される、全てを捨てて主イエスと共に復活の命に与かるのですが、そこにつながる今の応答があるのです。
だからこそ、弟子達は、網を捨てることができたのではないかと思うのです。「最後の時には、網によってではなく、神様によって養われる、そういう時がくる」ということを、ここに先取りしているのです。ですから、私達に求められているのは、「網を捨てる勇気」というよりも、「全ては神様が統治される」という信仰です。ヤコブとヨハネは父と雇い人を残して、主イエスの後についていくのですが、私達の周りにいる人も最後は神の御手によって養われ、守られて行くと信じたのです。それは、私たちの家族も同じです。自分の力によって家族が生きているのではなく、一人ひとりが神様によって生かされているのです。その神様の慈しみがいかに深いかを思うからこそ、私達は神さまに仕えつつ家族を養うことに励むのです。
教会では、役員を始めとして様々な奉仕があります。また、実際には関わらなくても、祈りつつ支えるという、教会のことを思う信仰によって、教会は成り立っています。ですから、役職の有無に関わりなく、それぞれ神様から弟子として召されています。教会に来て、共に祈り、讃美すること、「神と人を愛しなさい」という御言葉に従うこと、相手のことを考えて良い交わりを作ること、奉仕者を労い、励ますこと、私たちの弟子としての歩みは、いかにでも展開していきます。共に神様に応えて、御心に適う教会を形成してまいりたいと思います。
祈祷いたします。
主イエス・キリストの父なる神様。
罪人であり、また心身共に限界のある私達を弟子とするという神様の計り知れない御心を思います。「人間をとる漁師にしよう」と言われた主の計画が、私達においてなされてまいりますように。主が一人一人を捕らえたように、私達も、一人一人を主に繋げていく働きをなすことが出来ますよう、導いてください。香川の地で伝道し、教会を建ててきた茅ヶ崎香川教会を祝してください。主の後に従いつつ、終わりの時に向かって、全力で従って行くことが出来ますように。終末の神の国を思いながら、この地にある教会を建てていくことを得させてください。三教会の交わりの上にも御導きを祈りつつ、主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン
〈説教の原稿〉
2025年 5月11日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
新約聖書 ルカによる福音書 6章12節~19節(P.112)
説 教「主イエスが十二弟子を招く」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅲ イエスは山から下りて、平らな所にお立ちになった
……ルカ6:17-18
Ⅳ 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした
……ルカ6:19
……ダニエル書1:3-4
結
序
竪琴のような形をしたガリラヤ湖を山や丘が取り巻いています。或る日、主イエスは山に上って夜中祈られました。そして朝になると、主イエスは弟子たちを山に呼ばれました。主イエスの祈りによって山は聖別されたと言えましょう。辺りに凜とした霊気が漂っていたに違いありません。
夕方から始まったその或る日は、重要な時でありました。それは、「わたしの時が近づいている」(マタイ26:18、ヘブライ10:25)中での一里塚でありました。わたしたちはその日の出来事を通して、主イエスがどのようなお方であるのか、また、どのように伝道されるのか、について教えられます。
ルカ福音書6:12-13――
12 そのころ、イエスは祈るために山に行き、神に祈って夜を明かされた。13 朝になると弟子たちを呼び集め、その中から十二人を選んで使徒と名付けられた。
主イエスによってガリラヤ地方での伝道が進められている時のことでありました。主イエスはたとえ話などによって御言葉を語り、病人をいやし、そして悪霊祓いの御業を行っておられました。驚きをもって神を賛美し、主イエスにつき従う者たち(ルカ5:26)が大勢いる一方で、その教えに怒り狂い、反感を抱き、どのようにイエスを殺そうかと相談する者たち(同上6:11、マルコ3:6)も現れました。
そのように混沌として、疲れを覚えさせられるような状況にあっても(ヨハネ4:6)、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない」(ルカ9:58)という主イエスの伝道の旅は続けられました。主イエスが或る日を選ばれ、 “ 霊 ” の力の回復を企図されました。ゲツセマネの祈り(ルカ22:39-40)がそうであるように、主イエスは祈るために静かな場所に行かれました。
夜ですから、ガリラヤ湖畔の町や村また舟などは見えません。闇の底に、人々は活動を止め、寝静まっています。まさに神の子、イエス・キリストおひとりが、神の国の到来に備えるために働いておられます。
「神に祈って夜を明かされた」というように、主イエスは祈りに集中されました(ルカ3:21、5:16)。へりくだって「わたしの願い」を言い表し、父なる神の御心を問われたのです(ルカ22:42)。主なる神が降るという山頂(出エジプト記19:20、24:17)に近づくように、山を登られたのは、祈りが聖なるものとされるのを願ってのことでありましょう。
朝、辺りが明るくなると共に、神の国建設の一つのプランが浮かび上がりました。それが、神の国をめざす信仰者の群れの中に「十二」という数字を刻むことでありました(ヨハネ黙示録21:12,14)。神の国には、「十二」の門がある(同上21:21)ということですから、「十二人」の選びは、神の国の行進の旗印となるに違いありません。
この朝に、「十二人」の使徒に先導されて、「十二」の門をくぐり抜けて、神の国へ入って行くという神の救いの計画が啓示されました。将来にわたる道筋が、秩序正しく整えられるというのは喫緊の課題でありました。というのも、主イエスと「十二」使徒が山から下りてくると、「大勢の弟子とおびただしい民衆がユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から来ていた」という雑然とした状態にあったからです。
主イエスは群衆が “ 霊 ” 的にまとめられ、グループを作って、御言葉を聞くことを求めておられます。その道筋が整えられていれば、主イエスが湖畔で群衆に押しつぶされそうになっても案じることはありません(マルコ3:9)。やがてメシアなるイエス・キリストと主に仕える「十二」使徒とによって、ガリラヤ地方の信仰者たちは、互いに手を携えて神の国をめざすように訓練されることでしょう。
きょう、「十二」使徒が選ばれた日に、神の国への大きな一歩が大地に刻まれました。
Ⅱ 後に裏切り者となったイスカリオテのユダ
ルカ福音書6:14-16――
14 それは、イエスがペトロと名付けられたシモン、その兄弟アンデレ、そして、ヤコブ、ヨハネ、フィリポ、バルトロマイ、15 イマタイ、トマス、アルファイの子ヤコブ、熱心党と呼ばれたシモン、16 ヤコブの子ユダ、それに後に裏切り者となったイスカリオテのユダである。
徹夜の祈りの後、「朝になると」、主イエスは「十二人を選んで使徒と名付けられ」ました。神の救いの計画に沿うことが重大事でしたので、主イエスと言えど、「大勢の弟子たち」の中からの選抜は難関でありました。御父の御心を問い尋ね、最後には御自身が「これと思う」人を任命されました(マルコ3:13)。朝方のガリラヤの光景のうちに、さぞや安堵されたことでしょう。
そこでわたしたちは、「使徒と名付けられた」という「十二人」の使命について捉えることにしましょう。ここでは、その使命を二つに絞ります。
今弟子たちが主イエスのたとえ話など御言葉を聞き、病人のいやしや悪霊祓いの御業を見ているのは、主イエスがどのようなお方であるのか、を知るためです。そして、主イエス・キリストがどのようなお方であるかと言えば、十字架につけられて、全人類の罪を贖い、三日後によみがえられた救い主であるということです。
その信仰告白の核心は、「イスカリオテのユダ」脱落後の「使徒」一名の選抜においても継承されました(使徒1:22)。十一人の使徒は主に選びをゆだね、祈った上で、くじにより「マティア」を任命しました(同上1:24-26)。彼は主イエスの公生涯を知っており、「主の十字架の死と復活の証人」としてふさわしい人物でありました。
② 主イエスの公生涯における教えや伝道を、初代教会の形成へとつないでいくこと。
シリアのアンティオキア教会(使徒11:27、ガラテヤ2:11)と共に、エルサレム教会は初期のキリスト教伝道の拠点となりました。そのエルサレム教会の指導者が、イエスの兄弟ヤコブ(マルコ6:3、使徒12:17)ならびに十二使徒のペトロ(使徒3:1、8:14)でありました。
ペトロは、主イエスに呼び出されて、漁師の職を捨てて、主につき従いました(マタイ4:18-20)。いわば主イエスと寝食を共にした人です。ペトロはじめ、そのような「十二使徒」がいたのは、初代教会の大きな財産であったに違いありません。
それから、「十二使徒」と共に、聖霊なる神が、主イエス・キリストの臨在を保証するものとなりました(使徒2:1-4,23-24)。さらに、異邦人伝道の重荷を担ったパウロとバルナバもまた、「使徒」として任命されました(使徒14:14、ローマ1:1)。そうして、初代教会は、「十二使徒」の信仰と生活を土台としつつ、地中海世界全体に拡がっていきました。
さてここで、なぜ主イエスは、「後に裏切り者となったイスカリオテのユダ」を使徒に選ばれたのかという難問に向き合うことにしましょう。
すでに述べたとおり、「十二使徒」の選びというのは、神の救いの計画に沿って行われたものです。その計画は、「イスカリオテのユダ」のみならず、当初から主イエスに殺意を抱いている律法学者や大祭司たち(マルコ3:6、14:15)の思惑や妨害を乗り越えて進められていきます。主イエス・キリストの御業がいつ、どこで現されるかは、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)ではなく、神の救いの計画に従うものです。
ですから、「イスカリオテのユダ」が十二使徒に加わっているのは、人の心に思い浮かびもしない「神の知恵」(Ⅰコリント2:7)なのです。そこで、十二人の結束とか悪影響とかを考えてしまうのは、肉の人の判断であり浅はかさにほかなりません。
それよりも重要なのは、きょう、主イエスは、やがてユダに裏切られ、罪人に引き渡され、十字架につけられるのを見通されていたということです。その意味では、「十二使徒」が選抜された日すでに、主イエスの十字架の道行きが始まっていたのです。
そう言えば、きょう選ばれ任命されたペトロは、主イエスの十字架の道行きに欠かせない人物でありました。わたしたちもまた、三度も主を否んだペトロの姿を見て、悔い改めを迫られることでしょう。きょうの恵みをあす忘れることがある、これは大きな教訓であります。
Ⅲ イエスは山から下りて、平らな所にお立ちになった
ルカ福音書6:17-18――
17 イエスは彼らと一緒に山から下りて、平らな所にお立ちになった。大勢の弟子とおびただしい民衆が、ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方から、18 イエスの教えを聞くため、また病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた。
ユダヤの暦に従えば、夕暮れから始まったきょうの話の続きです。朝、十二使徒が任命されました。そうして、「大勢の弟子とおびただしい民衆」を迎え入れる態勢が整えられました。その準備の隠れた土台には、主イエスの徹夜の祈りがありました。
太陽が空高く昇って来ました。これから、平地の説教(マタイでは山上の説教 5:1以下)によって、神の国の福音が告げ知らされます。その前に再び、主イエスがどのようなお方であるか、が簡潔に示されます(ⅢとⅣ)。
「ティルスやシドンの海岸地方」というのは、イスラエルの辺境で、異邦人が住む地方を指しています。異邦人伝道のきざしがガリラヤ地方の出来事の中に現されています。ユダヤ人と異邦人が主イエスにおいて一つにされてゆきます。
平地の説教前の出来事として注目されるのは、主イエス・キリストの御言葉と御業とが提示されたことです。御言葉を語るのが第一で、それに続いて御業が現されています(マルコ2:1-12)。
まさしく「初めに言があった。言は神と共にあった。言は神であった」(ヨハネ1:1)という通り、主イエスの御言葉をもっての宣教が行われていました。それが、いやしの業の前に「あった」のです。
「大勢の弟子とおびただしい民衆が……病気をいやしていただくために来ていた。汚れた霊に悩まされていた人々もいやしていただいた」……群衆は「イエスの教えを聞く」ことを欲していました。その中には、病気のいやしと悪霊祓いを願い求めている人々がいました。
容易に想像できることですが、主イエスが御業を現されるとき、十二使徒との協働が必要でありました。例えば、主イエスが五千人に食べ物を与えられたとき、次のように記述されています。
マルコ福音書6:39-41――
39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。
まさに主イエスは弟子たちの手を借りて、大いなる御業を行われました。このようにして大勢の群衆が厳かに整然と、主イエス・キリストの御業にあずかることができました。「組分け」されたそれぞれの分団は、十二使徒の見守りのもとに、兄弟姉妹の交わりを深めたことでしょう。
主イエスは弟子たちの助けを通して、群衆の一人ひとりが、神に召し出され、そして神に遣わされる人間としてひとり立ちするよう祈り求めておられました。それは、主イエスの御言葉と御業による宣教の大きな目的は、神の恵みによって人を満ち足らせ、そして、人の人格を新たにすることにあるからです。主イエスは罪人が神に立ち帰るのを心から喜ばれます。そのことが次の一節によって証言されています。
Ⅳ 群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした
ルカ福音書6:19――
群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
「群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした」……「~ようとした」との動詞には、極めて熱心に、忍耐強く「探し求める・要求する」とのニュアンスがあります。その類稀な熱心さや忍耐は、先行して現されている主イエスの教えに対する応答と言えるでしょう。それは、「神の言葉は生きており、力を発揮し、どんな両刃の剣よりも鋭く、精神と霊、関節と骨髄とを切り離すほどに刺し通して」(ヘブライ4:12)、熱くも冷たくもない人(ヨハネ黙示録3:16)を目覚めさせ、奮い立たせたことの証しにほかなりません。
もし、信仰の面から、「イエスに触れる」との直接行動の是非を問う人がいるならば、まずはその人自身の主に近づこうとする熱心さと忍耐とを省みるべきでありましょう。何よりも、主御自身、「イエス(の服)に触れる」(マルコ5:27)ことを禁じてはおられません。むしろ、「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回された」(同上5:32)ほどに、「~ようとした」という人の熱意を汲み取ってくださいます。
「イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである」……「イエスから力が出た」ことから、「大勢の弟子とおびただしい民衆」に求められているのは、いったい何でしょうか?
「この(イエスの)言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは」(ルカ4:36)と言って、わたしたちが驚くということです。「権威と力」という言葉は、父なる神に由来しているのを表しています。実際、主イエスは徹夜の祈りをもって御父の執り成しを乞い願われました。
ですから、「すべての人の病気をいやしていた」という主イエスの御言葉と御業には、神の栄光が現されていました。この神の栄光こそが、「イエスから力が出た」ものの源泉でありました。そのことを十二使徒はじめ群衆が受け入れ信じたときに、神の国到来への準備が始められます。
きょう、「十二」使徒が選ばれた日に、主イエスにつき従う大きな群れが、神の国への第一歩を刻むことになりました。
ダニエル書1:3-4――
3 さて、ネブカドネツァル王は侍従長アシュペナズに命じて、イスラエル人の王族と貴族の中から、4 体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある少年を何人か連れて来させ、カルデア人の言葉と文書を学ばせた。
ルカ6:12-19は、十二使徒の選抜をベースとしつつ、主イエス・キリストの真の「弟子」になることを教えるテキストでありました。そこで、旧約聖書によって改めて、神の僕・「弟子」となる苦難の道について学ぶことにしましょう。そうするならば、「人間にはできないことも、神にはできる」(ルカ18:27)ことが昭示されることでしょう。
ダニエルはじめユダヤの四人の少年たちは、いったいどのようにして「生ける神の僕」(ダニエル書6:21)になったのでしょうか。彼らはただ単に、「容姿が美しく、何事にも才能と知恵があった」からなのでしょうか。
偽りの、しかし世の共感を得そうな教育が、バビロンの「ネブカドネツァル王が侍従長アシュペナズに命じて」用意されました。なんと学費免除、王宮内の食事付きです(ダニエル書1:5)! これなら生き別れになっていたかも知れない親も喜びそうです。
その一方で、選抜されたのは、「ユダ族出身のダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤの四人」(ダニエル書1:6)で、彼らは「体に難点がなく、容姿が美しく、何事にも才能と知恵があり、知識と理解力に富み、宮廷に仕える能力のある」少年たちでありました。皆さんも、そのコースから脱落することなく、「カルデア人(バビロニア人)の言葉と文書」を修めることが、如何に熾烈なことか、想像することができるでしょう。
以上、要約すれば、当時最高の水準の教育環境で、文武両道の鍛錬・養成が、「三年間」(ダニエル書1:6)ほどこされました。しかし先に「偽りの」と称したその教育の目的は、外国人枠によりバビロニア帝国の優秀な官吏に仕立て上げるためでありました。それはうわべ上、絵に描いたようなエリート教育でありました。
ということで、ここでの隠された主題は、恵まれた環境の中にあるユダヤの少年たちは、いったいどのようにして誘惑に打ち勝ち、「生ける神の僕」となったのか、ということになります。言い換えれば、彼らを護り、彼らを真に教え導いたのは、誰かということです。
まず、歴史的な背景を確認しておきましょう。
紀元前587年、バビロニア帝国によってエルサレムは破壊され、ユダ王国は滅亡させられました。ネブカドネツァル王は、ゼデキヤ王はじめユダヤの多くの人々をバビロンへ連れ去りました(列王記下25:7)。その捕囚となった民の子どもに、「ダニエル、ハナンヤ、ミシャエル、アザルヤ」が含まれていました。彼ら四人は、バビロニア帝国の官吏を養成する目的のもとに、「イスラエル人の王族と貴族の中から」選び出されました。
問題は、バビロニア帝国においては、王が神のような絶対的な存在として奉られていたということです(ダニエル書2:37、6:8)。天の神が王に国と権威と威光を授けたと考えられていました。
当然、ダニエルたちの「教科書」には、「カルデア人の言葉と文書」が用いられました。バビロンの学問はじめ豪勢な食事や約束された将来の地位など、少年たちの心を揺さぶるものがたくさんありました。
しかも、「三年間の養成」コースでは、外部との接触が限られていたことでしょう。とても自分たちの志だけで、ユダヤ人としての立場、なかんずく信仰を守ることはできなかったでしょう。彼らは傍らに、ユダヤ人の助言者がいないという孤独な情況に置かれていました。もちろん、四人は互いに励まし合ったに違いありませんが(ダニエル書3:25)……。
ダニエル書の大きな特徴は、神の与えた幻が記録されていることです(7章-12章)。ネブカドネツァル王が見た夢の中にも神の御旨が秘められています(2:29、4:22)。それらの幻や夢を通して、人間の王国を支配し、将来の計画を立てられているのは、主なる神、イスラエル人が信じている神であることが示されました。
ダニエルはしばしば、王により幻や夢を解くように召し出されました。しかし、絶対に失敗が許されない、その機会こそが、ダニエルを「神の僕」として成長させました。坩堝で溶かされるような試練を経験する中で、ダニエルは真の信仰者として立つ訓練を受けたのです。何よりも、彼には聖なる神の霊が宿っていました(ダニエル書4:5-6)。
顧みれば、人間なる神を崇めるように仕向ける「三年間の養成」コースは、ユダヤ人の少年たちにとって、百害あって一利なし、だったかも知れません。しかし、彼らがしばらくその地の平和を祈って生活したり(エレミヤ書29:7)、あるいは、王や貴族とつき合う上では、良い「教育」であったかも知れません。
十二使徒の召命を具体例とする、主イエス・キリストによる真の「弟子」訓練についての話に戻りましょう。そこで、〈外側から押し寄せる苦難〉から〈人の心に内在する危機〉に至るまで、あらゆる角度から襲いかかってくる「信仰者の試練」を見直しておきましょう。
捕囚の地で、ダニエルたちが「神の僕」として立てられ生き抜いていったという物語は、過酷の極みを示していました。苦難に遭って、いつ信仰を捨てるのか、という危険を孕んでいました。しかし、ダニエルたちは神ならぬものを神とすることはありませんでした。
主イエスの弟子たちもまた自分の弱さを見つめつつ、そのような危機が起こることを覚悟しなければなりません。自分が失敗しないよう恐れるのではなく、主イエスが立ち直らせてくださるのを信じることです。サタンの誘惑や挫折のただ中にも、インマヌエルの神、イエス・キリストがわたしたちの側におられます。
結
主イエスによるガリラヤ伝道の或る日、十二人が使徒として任命されました。それから、主イエスがおびただしい民衆に教えを語り、病者のいやしを行われました。夕暮れから始まった一日の出来事です。夜の主イエスの秘かな祈りが、一日全体を包んでいます。
まことに神の恵みが豊かで、平穏でありました。この或る日が、わたしのきょうになるように、祈りましょう。
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〈説教の原稿〉
2025年 5月4日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 詩編57編 1節~12節(P.890)
説 教「わたしは暁を目覚めさせよう」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき ……詩編57:1
Ⅱ あなたの翼の陰を避けどころとします ……詩編57:2-4
Ⅲ わたしの魂は獅子の中に伏しています ……詩編57:5-7
Ⅵ いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い ……ルカ6:35
結
序
詩編詩人は、巧みな表現を用いながら、嘆きから賛美へと行き巡っています。〈神―わたし・詩人―敵対者・隣人〉の関係が明確に打ち出されています。
注目すべきは、詩的展開によって、サウルの迫害を恐れて、「洞窟」に逃げ込んだダビデの、夜から朝にかけての出来事が浮かび上がって来ることです(サムエル記上22:1-2、24:1-23)。これは、古代パレスチナの人知れない荒れ野で起こったことですが、わたしたちの心を惹きつけるものがあります。それは、多くの現代人がストレスを抱え込み、「洞窟」の奥で泣き叫んだり、あるいは、「洞窟」の迷路から抜け出せなくなるような経験をしているからではないでしょうか。
それで、ダビデがどうなったのか、気にかかるのは当然です。詩編詩人によって案内してもらいましょう。個人的な興味で読むということを超えて、“ 霊 ” の導きにより〈神―わたし・詩人―敵対者・隣人〉の関係に留意しましょう。
Ⅰ ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき
詩編57:1――
指揮者によって。「滅ぼさないでください」に合わせて。ダビデの詩。ミクタム。
「あなたは滅ぼさないでください」との表題は、この詩編全体に暗い影を落としています。「滅ぼされ」れば、当然、命を失いかねません。そうした境遇の中で詩人は神に向かって、「命の道を教えてください」(詩編16:11)と乞い願っています。破滅寸前になっても、気が動転してはいません。
わたしたちは聖書によって、いろいろな人の「洞窟」体験を振り返ることができます。
サウルのもとから逃亡している時、ダビデは「アドラム」(サムエル記上22:1)や「エン・ゲディ」(サムエル記上24:3-4)で「洞窟」に隠れました。西はペリシテ地方から東は死海沿岸まで、ダビデは荒れ野をさ迷っていました。殺意をもった人間の目をくらますため、「洞窟」の暗闇に入るのは恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。
もはやもがいても誰も助けに来ない、とわたしたちは思います。しかし、詩人は「神よ」と声をあげています(詩編57:2)。これこそ、深い淵の底からの祈りです。神がそばにいてくださる、あるいは、神が聞き届けてくださる、と信じて祈っています。
Ⅱ あなたの翼の陰を避けどころとします
詩編57:2-4――
わたしを救ってください。
この詩編は、「わたしを憐れんでください(ヘブライ語:ホネーニ) 神よ、わたしを憐れんでください(ホネーニ)」との「わたし」の願いから始まっています。このホネーニは、ヘブライ語で「ここにわたしはおります」(イザヤ書6:8、エレミヤ書2:35)という意味のヒネニーと響き合っています。闇に埋没しないで、「神よ、わたしはここにおります。わたしを憐れんでください」と呼び求めています。二度のホネーニという句の中に、自分の存在が明確にされています。
食も暖も取るものがわずかな中で、「わたしの魂はあなたを避けどころとします」と、神によって安息を得ています。神が寄り添っていてくださることの確信は、次の言葉によって明瞭にされています。
「災いの過ぎ去るまで あなたの翼の陰を避けどころとします」……ここには、天の神が「わたし」と共におられるという神の臨在が打ち出されています。というのも、「あなたの翼」との表象は、聖所にある「贖いの座」を守っている「ケルビムの翼」を指し示しているからです(出エジプト記25:18-20)。「贖いの座」は聖所中の聖所である「至聖所」の契約の箱の上に置かれているものです(出エジプト記26:34、レビ記16:2)。
ですから、詩人が単なる「鳥の翼」ではなく、「ケルビムの翼」を想起しているとすれば、この「洞窟」こそがまさに「至聖所」であると信じていることになります。「わたしはあなたの翼の陰を避けどころとします」というのは、一つの信仰告白に価します。それ故に、「災いの過ぎ去るまで」というように、「わたし」はやがて嵐の闇夜が終わるのを待ち望んでいます。
「いと高き神を呼びます」……ここに、「いと高き神」という本日の旧新約を貫くキーワードが出てきます。同じ詩編の7節にも、「神よ、天の上に高くいましてください」(命令形)とあります。つまり、「いと高き」ところに神がおられることが、信仰者の励ましとなり慰めとなっていることが言い表されています。
そこで皆さんが気づかれるのは、次のことでしょう。
すでに見たとおり、詩人の「災いの過ぎ去るまで わたしはあなたの翼の陰を避けどころとします」との言葉は、「洞窟」の奥にいる詩人の状況を踏まえてのものであります。そこに、危険に満ちた「洞窟」が、神による堅固な「避けどころ」になっています。妬みをもって執拗に捜し出そうとするサウルなどの迫害者から護られています。というのも、「あなたの翼」が「陰」となり、「わたし」を包み込んでいるからです。
そのように、いと近きところにおられる神への信仰が言い表される中で、「神よ、天の上に高くいましてください」と呼びかけているのは、どういう意味でしょう、というのが多くの方が抱く疑問でありましょう。その回答については、しばらく、詩編57:7とルカ6:35ルカの説き明かしまでお待ちください。
ただ、「いと高き神を呼びます わたしのために何事も成し遂げてくださる神を」との脈絡から分かるのは、詩人が「慈しみとまこと」に富みたもう神、わたしたちの思いを超えて「何事も成し遂げてくださる神」に向かって祈っているということです。それは、近くにおられる神に自分の都合通りに働いていただこうという信心とは正反対です。神が「天の上に高く」おられるからこそ、自分は見守られており、自分に必要なものを「天から遣わしてください」というのが、詩人の心からの願いなのです。
要するに、「わたしはあなたの翼の陰を避けどころとする」ことが成り立つのは、「いと高き神が慈しみとまことを遣わしてくださる」からです。この揺るぎなさの故に、詩人は「わたしを踏みにじる者の嘲り」を、神に洗いざらい打ち明けています。
Ⅲ わたしの魂は獅子の中に伏しています
詩編57:5-7――
彼らはわたしの足もとに網を仕掛け
わたしの前に落とし穴を掘りましたが
その中に落ち込んだのは彼ら自身でした。
この箇所で、詩人は自分を、「洞窟」に逃げ込んだダビデに重ねて、神に向かって嘆きの声をあげています。ダビデであり詩人である「わたし」を中心に、〈神―わたし―敵対者・隣人〉の関係が描き出されます。
「わたしの魂は獅子の中に 火を吐く人の子らの中に伏しています」……当時、ダビデが追っ手の目をくらまして遁走していたパレスチナの荒れ野には、「獅子」(ライオン)がいたと言われています。逃亡者の安全が「獅子」によって脅かされたのは、言うまでもありません。夜にはその危険が高まります。
ここで、「わたしの魂(またはわたし)は伏しています」との表現は、寝床で眠っている場合にも用いられます。まさに逃亡者は「獅子」や「火を吐く人の子ら」のただ中に「伏して・寝て」、朝が来るのを待っていました。
何が実際に脅威であったのか、に注目しましょう……「彼らの歯は槍のように、矢のように 舌は剣のように、鋭いのです」。それは、人を傷つける言葉であります(A.ヴァイザー)。「人から出て来るものこそ、人を汚す」(マルコ7:20)との主イエスの言葉の通り、中傷や悪口が人の心を刺し貫きます。
詩人はただ、「獅子の中に」と「火を吐く人の子らの中に」という八方塞がりに恐れをなしているのではありません。「洞窟」生活を愚痴り、敵を恨んでいるのでもありません。
外に出られない「洞窟」の奥にあって、「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください」と祈っています。地の闇の底から「天の上に高くいます神」に声をあげるところに、信仰の壮大さが物語られています。祈り手は、伏して夜明けを待っていると同時に、神の「栄光」が全地に輝きわたる時を望み見ています。そのような人の嘆きは、歓喜の踊りに変えられるに違いありません(詩編30:20)。
天地の創り主を信じ、全被造物に囲まれて暮らす生活の豊かさを知ることは、小さなことにつまずいたり悔やんだりしがちな人間にとって大切なことでありましょう。どんな情況にあっても、「いと高き神を呼ぶ」ことを知る詩人は、「わたしの魂が屈み込んでいて」も、動じません。
そして、忍耐と謙虚さをもって、事態の推移を見守ることができます……「彼らはわたしの足もとに網を仕掛け わたしの前に落とし穴を掘りましたが その中に落ち込んだのは彼ら自身でした」。
悪意をもって「網を仕掛け 落とし穴を掘る」人たちが栄え続けることはありません。彼らはやがて、自分の掘った「穴の中に落ち込み」ます。それが、自ら高みに昇ろうとする者の行く末です。
ダビデに自分を重ねる詩人は、想像を絶する苦難の中で、〈神―わたし―敵対者・隣人〉の関係を築いていきました。その人は「卑しめられたのはわたしのために良いことでした。わたしはあなたの掟を学ぶようになりました。…… わたしを苦しめられたのは あなたのまことのゆえです」(詩編119:71,75)というように、苦難の深い意味を味わい知りました。
荒れ野の東の空が白みはじめました。
2節の「わたしを憐れんでください(ヘブライ語:ホネーニ) 神よ、わたしを憐れんでください(ホネーニ)」と並んで、節目となる8節にはリズムの良い句が出てきます……「わたしは心を確かにします(ヘブライ語:ナホン リビー)。神よ、わたしは心を確かにします(ナホン リビー)」。
「わたしは心を確かにします」というのは、「わたしの心が正しい位置に置かれた」という意味です。それは言い換えれば、〈神―わたし―隣人〉の関係性が、神に祝福されるものとなったということです。そこで、「わたし」に「あなたに賛美の歌をうたいます」という行動が起こされます。「わたしは歌い、楽器をもって賛美しよう」〔直訳〕という感謝の姿勢は、次へとつながります。
「賛美」は「わたし」と隣人の喜びの輪を造り出し広げてゆきます。もはや自分を追跡・迫害する者たちへの恐れは消え去りました。これを受けて、9節では、「目覚める・呼び覚ます」との用語が三連続で出てきます。
「目覚めよ、わたしの誉れよ 目覚めよ、竪琴よ、琴よ」……神は、「わたしの魂は屈み込んでいました」と証しした詩人に、「わたしの誉れ」を賜りました。そこで、詩人は「わたしの誉れ」の大切な一部である「竪琴」と「琴」を手に取りました。夜明けの大地に、賛美の歌声が竪琴の調べに乗って響きわたります。
最後に、詩人は「わたしは暁を目覚めさせよう」〔私訳〕と語っています。これは決して神への専横などではありません。それほどまでに、神のもたらしてくださった「暁」・夜明けに喜びを抱いているということなのでしょう。
Ⅴ 神よ、天の上に高くいませ
詩編57:10-12――
国々の中でほめ歌をうたいます。
栄光を全地に輝かせてください。
“ 霊 ” 的な高揚を示す聖句「わたしは暁を目覚めさせよう」は、「主よ、諸国の民の中でわたしはあなたに感謝し わたしは国々の中でほめ歌をうたいます」というように波及しています。驚くべきは、その「感謝」と「ほめ歌」の輪が「諸国の民」や「国々」へと拡がっていることです。
そうして、「神よ、わたしを憐れんでください」との嘆願から始まった詩編は、ただ神にのみ「栄光」を帰して終えられます。衰えゆく「わたし」の小ささ(ヨハネ3:30)の中で、いかに「いと高き神」が偉大であるか、が浮き彫りにされています。
ところでここには、詩人は何をもって「天の上に高くいます神」(詩編57:6)の壮大さを知ったのか、が証言されています。どのように、神は「わたしはいと高き神を呼びます」(同上57:3)との詩人の求めに答えられたのか、が言い表されています。
「あなたの慈しみは大きく、天に満ち あなたのまことは大きく、雲を覆います」……すなわち、詩人は「あなたの慈しみ」と「あなたのまこと」との「大きさ」を通して、人間の想像を超えた神の偉大さに触れたということです。神は「洞窟」に潜んでいるような者のもとへも、「慈しみとまことを遣わしてください」ました(詩編57:4)。そうして詩人は、深い淵の底からの叫びに答えられた神に畏れを抱くようになりました。
今やわたしたちは、「ダビデがサウルを逃れて洞窟にいたとき」という表題の重さを踏まえて、「神よ、天の上に高くいまし 栄光を全地に輝かせてください」との懇願に向き合わされます。わたしがどんなに孤独で、自分の置かれた所が「全地」の片隅であっても、詩人の懇願に心を合わせることができます。「天の上に高くいます神」は、人里離れた所にいる「わたし」に目を留めてくださり、迫り来る苦難と危険から解き放ってくださいました。これから、「わたし」は「諸国の民」と共に、歌いつつ「命の道」(詩編16:11)を歩んで行きます。
新約聖書から、「いと高き神」への「遣わしてください、慈しみとまことを」との祈りが、主イエス・キリストによってどのように答えられたのか、その証しを引いてみましょう。確かに、神が悔い改める罪人に賜った「慈しみとまこと」は、大きな大きなものでありました。
Ⅵ いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深い
ルカ福音書6:35 主イエスの言葉――
「しかし、あなたがたは敵を愛しなさい。人に善いことをし、何も当てにしないで貸しなさい。そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる。いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いからである。」
これは、主イエスによる平地の説教からの引用です。驚くべきこと、感謝すべきことに、この一節には、神なる「いと高き方」と信仰者なる「いと高き方の子」とがペアで出ています。人間までもが、「いと高き」のレベルにまで引き上げられるとは?!
この一節の文章構成は、以下の通りです。
初めに、キリスト教倫理に関わる三つの勧めが表され、次に「そうすれば」、信仰者がどのように変えられるのか、が示されています。最後に、その理由づけとして、信仰者の倫理的実践を支える神について説き明かされています。座右の聖句ともなり得るこの一節は、さすがに巧緻な形式になっています。
① あなたがたは敵を愛しなさい。
② 人に善いことをしなさい。
これらの命令は、主イエス・キリストに結ばれてはじめて(ローマ6:3)、実行できるものでありましょう。そうだとすれば、「自分を無にして、僕の身分になり、へりくだる」こと(フィリピ2:7-8)が要になります。キリストに倣うこと(Ⅰコリント11:1)こそが、さまざまな迷いや誘惑を退けて、「敵を愛し、善いことをし、何も当てにしないで貸す」原動力となります。
そうして、キリストに従順であり続けた信仰者に、「そうすれば、たくさんの報いがあり、いと高き方の子となる」との将来への約束が為されています。この約束を見失わないための要が、へりくだっていると同時に、「天の上に高くいます神」を呼び、賛美の歌をうたうということです。
そのような信仰者の姿勢は、「悲しんでいるようで、常に喜び、物乞いのようで、多くの人を富ませ、無一物のようで、すべてのものを所有しています」(Ⅱコリント6:10)とも言い換えられます。まさに、「無一物のようで、すべてのものを所有している」からこそ、寄り添う思いをもって「何も当てにしないで貸す」ことができるのでしょう。
神の国をめざして、「こころひくく目あてはたかく」(讃美歌Ⅱ-59番)と歌いつつ歩むことは、何よりも神の御心です。というのも、「いと高き方は、恩を知らない者にも悪人にも、情け深いから」です。目あてはたかく「いと高き方」に依り頼み、こころひくく「恩を知らない者にも悪人にも、情け深く」無償の愛を実践することが求められています。
結
屈辱とも言える、詩人の「洞窟」体験は決して無駄ではありませんでした。「わたしは暁を目覚めさせよう」とする賛美の輪の中に、「諸国の民」が加わります。実は、大勢の人が暗闇にたたずんでいたはずです。彼らの中には、「恩を知らない者も悪人も」含まれています。なぜなら、「天の上に高くいます神」が彼らを招かれたからです。ですから、神の国をめざす信仰者は、「いと高き方が情け深い」ことを胸に刻んでいます。
神よ、天の上に高くいまし
栄光を全地に輝かせてください。
主イエス・キリストが十字架と復活の救いの御業によって、神の「栄光」を現してくださいますように!
W
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〈説教の原稿〉
2025年 4月27日
旧約聖書 イザヤ書 63章15節~64章4節(P.1165)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 2章8節~9節(P.301)
説教の構成――
序
……イザヤ書63:15-16
Ⅳ あなたを待つ者に計らってくださる
……Ⅰコリント2:8-9
結
序
不安と期待、不信仰と信仰、帰還民と残留者、ユダヤ人と異邦人など、一筋縄ではいかない問題が山積していました。まさに混沌とした時代でありました。それらの問題が、嘆きと讃美とが混じり合う詩文の中にすくい取られています。
紀元前539年、ペルシア王キュロスがバビロニア帝国を倒し、ユダヤ人の捕囚民を解放しました。その後、紀元前515年、エルサレムに第二神殿が再建されます。第三イザヤと呼ばれる預言(イザヤ書56章-66章)が告知されたのは、この間のことです。先の見えない時代だからこそ、信仰の真価が問われました。
幸いなのは、紀元前587年のユダ王国の滅亡とバビロン捕囚の前後から、エレミヤ書、詩編、哀歌、第二イザヤなどの文書が著されていたことです。それぞれの著者の間に接触・交流があったと思われます。とりわけ、預言者・第三イザヤは先達たちより、深い淵の底から神に向かって叫び祈るという姿勢を受け継いでいます。
彼はその忍耐強い信仰によって、暗い世の中にともし火を掲げ続けています。そして、神の僕の呼びかける声を聞いたユダヤ人と異邦人が神の国に向かって前進しています(イザヤ書56:3、60:10)。それは、主イエス・キリストが再び来られるのを待ち望んでいるわたしたちの教会の群れを励まします。それは、終わりの時に向けて、わたしたちの “ 霊 ” 的な手引きとなります。
イザヤ書63:15-16――
輝かしく聖なる宮から御覧ください。
あなたの熱情と力強い御業は。
あなたのたぎる思いと憐れみは
抑えられていて、わたしに示されません。
16 あなたはわたしたちの父です。
主よ、あなたはわたしたちの父です。
これは永遠の昔からあなたの御名です。
第三イザヤの信仰の中心には、「わたし(神)の救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(イザヤ書56:1)との確信があります。ですから、頭を垂れことなく、「どうか、天から見下ろし 輝かしく聖なる宮から御覧ください」と、天を見上げています。
「輝かしく聖なる宮から」というのは、意味深長です。というのも、地上の聖所は火に焼かれて廃墟になっているからです(イザヤ書63:18、64:10)。天から地へとゆき巡る「救いが実現する」のを祈っています。
「どこにあるのですか あなたの熱情と力強い御業は。あなたのたぎる思いと憐れみは 抑えられていて、わたしに示されません」……神と預言者との対話はまるで、子どもが親に問いかけているように、素朴で明快です。「あなたの憐れみはわたしには抑えられているのですか」(私訳)と、親の懐に飛び込むようにして、親しく尋ねています。自分の小ささを認め、神に依り頼んでいます。困窮の中で、ひたすら神によって生かされることを乞い願っている姿は、わたしたちも学ぶべきでありましょう。
「あなた(神)はわたしたちの父です」……ここで、「どうか、天から見下ろし……」という切なる嘆願の基盤には、神との人格的関係があったことが分かります。
今、神を「父」と呼ぶ子どもたちは、「アブラハム」や「イスラエル」(ヤコブ)からの信仰的遺産の継承が困難になっています。具体的には、「あなたの聖なる民が 継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です」(イザヤ書63:18)というように、都エルサレムはじめ嗣業の土地が壊滅状態になっています。
そこからの回復は、〈あなた・神――わたしたち・子ら〉との人格的関係の確認から始まります。「子ら」と呼ばれている、その「息子」と「娘」(イザヤ書60:4、62:11)は実際、復興の輪の中に招かれています。
イザヤ書60:4――
目を上げて、見渡すがよい。
みな集い、あなたのもとに来る。
「父」なる神は、「わたしたちの贖い主」として、信仰を失いかけている民を、死から命へと助け出されます。神の都の礼拝共同体に、異邦人や「息子たち」・「娘たち」が増し加えられます。
Ⅱ 天を引き裂き、降って来てください
イザヤ書63:17-19――
あなたの道から迷い出させ
あなたを畏れないようにされるのですか。
あなたの嗣業である部族のために。
18 あなたの聖なる民が
継ぐべき土地を持ったのはわずかの間です。
間もなく敵はあなたの聖所を踏みにじりました。
あなたの御名で呼ばれない者となってから
ユダの民・「わたしたち」の状況が内省される中で、神に向かって嘆きと願いが表されています。最後には、神の介入を求める祈りに至ります。
「なにゆえ主よ、あなたはわたしたちを あなたの道から迷い出させ わたしたちの心をかたくなにして あなたを畏れないようにされるのですか」……「子ら」として神に信頼する立場から、つまり、「あなた」なる〈神〉の目線から「わたしたち」の問題を見返しています。そうありたいと願うほど、“ 霊 ” 的な謙虚さを示しています。
「(主よ)立ち帰ってください」との一句には、「主よ、御もとに立ち帰らせてください わたしたちは立ち帰ります」という哀歌(5:21)の嘆願が反響しています。「主がわたしたちのために立ち帰る」という先行する神の愛と赦しのもとに、「わたしたちは立ち帰る」ということです。その時、わたしたちの傍らにおられる神によって、深い悔い改めによる「わたしたちの立ち帰り」が顧みられます。このように、神との人格的関係〈あなた・神――わたしたち・子ら〉において、神に立ち帰らせていただくのであります。
主イエスが話された、再会の喜びを告げる「放蕩息子のたとえ」(ルカ15:11-32)は、まさにそのようなものでありましょう。
「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」……神の介入を求める祈りには、信仰者の熱情があふれ出しています。「山々が揺れ動く」のに怯えることのなく、神の顕現を叫び求めています。
このように詩的文章の願いがだんだんと高まっていったのには、明確な理由があります。それは先述した哀歌の嘆願への反響と同様に、第三イザヤが過去における神の大いなる救いの出来事に信頼を寄せ、想起しているからです。
出エジプト記19:17-20――
17 しかし、モーセが民を神に会わせるために宿営から連れ出したので、彼らは山のふもとに立った。18 シナイ山は全山煙に包まれた。主が火の中を山の上に降られたからである。煙は炉の煙のように立ち上り、山全体が激しく震えた。19 角笛の音がますます鋭く鳴り響いたとき、モーセが語りかけると、神は雷鳴をもって答えられた。
20 主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられたので、モーセは登って行った。
これは、イスラエルの民がエジプトを脱出した直後の出来事です。これによって、まことの礼拝場所は、ここだ! ということが示されました。イスラエル民族は、荒れ野放浪40年の旅路のみならず、将来にわたり歴史上いつも、この礼拝体験を思い起こすことになります。
モーセが「神の山・ホレブ」(出エジプト記17:6、18:5)に登ります。主がモーセを「呼び寄せられた」からです。すると、主が「山の頂に降り」、モーセに語りかけられました。その主の言葉こそ、十戒でありました(同上20:2-21)。民はその光景を遠くから見守っていました。そして、モーセから「すべての言葉」を聞かせられました(同上20:1,21)。
この神の降臨は、「全山煙に包まれた」また「山全体が激しく震えた」という巨大な自然現象を伴っていました。神は、目に見えるしるしによって、「神の山・ホレブ」の経験を民の心に留めさせました。
ユダ王国崩壊とバビロン捕囚の大災難の後、第三イザヤは新たな出エジプト(イザヤ書43:19)を待ち望んでいました。それは、真の礼拝体験を基点として、暗黒の時代を乗り越えていくためでありました。
だからこそ、預言者は「主よ、どうか、天を裂いて降ってください」と叫び祈ったのです。民には、「御前に山々が揺れ動く」というしるしに警戒するように知らせました。
第三イザヤに誘われて、民が神に向かって嘆きや願いを訴えていくうちに、“ 霊 ” の導きによって、民は神に近づけられます。ただつぶやいていたような人の言葉が祈りに変えられます。そこには、「神の山・ホレブ」で実証された神の甚大な御力が働いています。
イザヤ書64:1-2――
湯が煮えたつように
「柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように あなたの御名が敵に示されれば 国々は御前に震える」……神の降臨に伴う巨大な自然現象の描写が続いています。第三イザヤの願いの通り、「あなたの御名」の力は、闇の支配のもとから、「敵ども」や信仰を持たない「国々」を引き出します。それどころか驚くべきことに、彼らを主なる神に「立ち帰らせます」(イザヤ書49:5、55:7)。ユダヤ人と異邦人が手を携えて、「揺れ動く山々」を目指し、「あなたの御前」へと進んで行きます。
「期待もしなかった恐るべき業と共に降られれば」……実はこれが、嘆きや願いが、祈りに変えられたことを証しする言葉です。分かりやすく言うと、「主が期待もしなかった恐るべきことをなさるとき」(私訳)となります。
使徒パウロはこの言葉を預言として聞き、主イエス・キリストの御業によって成就されたと信じました。後(ⅣとⅤ)で詳しく確かめることにしましょう。
その前に、第三イザヤの預言の鍵語となっている「恐るべき業」(ヘブライ語:ノラオット)について説明しておきましょう。これは、「聖なる神の介入のこと」(H.J. クラウス)との意で(詩編106:22、139:14)、特定の何かというように限定されません。わたしたちは「期待もしなかった」ような、神の起こされる奇跡を、ただアーメン(その通り)と唱えて受けるだけです。裏を返せば、自分の知恵にこだわって、頑なにならないことです。
自分の期待や予測を超えたところに立脚できるか、わたしたちの信仰の真価が問われています。それとも、そんな不確かなことには頼れない、と言って自分の土俵に撤退しますか。
Ⅳ あなたを待つ者に計らってくださる
イザヤ書64:3-4――
昔から、ほかに聞いた者も耳にした者も
目に見た者もありません。
あなたの道に従って、あなたを心に留める者を
しかし、あなたの御業によって
わたしたちはとこしえに救われます。
最初に、「あなたを待つ者に計らってくださる」ということで、「主よ、どうか、天を裂いて降ってください」との祈りは聞かれる、と第三イザヤが確信しているのが分かります。
そして、「神よ、あなたのほかにはありません …… あなたは迎えてくださいます」の部分には、讃美の声が上げられています。「柴が火に燃えれば、湯が煮えたつように」、悪しき諸勢力は吹き払われました。「神は焼き尽くす火」である(申命記4:24)という通り、「わたしたちの罪」は潔められました。
「あなたは憤られました わたしたちが罪を犯したからです」……「神の山・ホレブ」での民への十戒授与が礼拝であったように、今第三イザヤは神の降臨と共に、礼拝の幻を見ています。その幻は、「わたし(神)の救いが実現し わたしの恵みの業が現れるのは間近い」(イザヤ書56:1)と信じているように、確かなものです。これこそ、「期待もしなかった恐るべき業」として執り行われる礼拝でありましょう。
その礼拝……まさに第二神殿の完成は「間近」です!……の中で、「あなたは憤られました わたしたちが罪を犯したからです」との罪の告白がなされます。神は「御前に、わたしたちの背きの罪は重い」(イザヤ書59:12)と言い表す民を「迎えてくださいます」。なぜなら、「わたしたちの贖い主」なる神は、「罪を悔いる者」(同上59:20)を赦されるからです。「あなたの憐れみがわたしには抑えられていた」のは、ほんの「わずかの間」でありました。
時満ちて、「主が期待もしなかった恐るべきことをなさるとき」が到来します。「恐るべきこと」が、主イエス・キリストの救いの御業によって成し遂げられます。
Ⅴ 人の心に思い浮かびもしなかったことを準備された神
コリントの信徒への手紙 一 2:8-9――
8 この世の支配者たちはだれ一人、この知恵を理解しませんでした。もし理解していたら、栄光の主を十字架につけはしなかったでしょう。
9 しかし、このことは、
と書いてあるとおりです。
「この世の支配者たち」は「この世の知恵」に引きずられて、「神の知恵」を仰ぎ見る澄んだ目(マタイ6:22)を持っていません。そうした時に、主イエス・キリストが「十字架につけられる」という日が到来しました。わたしたちの罪に対して憤られた神は、「世界の始まる前から定めておられた」計画を実行に移されました。
一方〈罪の増殖〉、「この世の支配者たち」の陰謀が、御子を十字架に上げ、世から罪悪を一掃するという神の計画を遂行するために用いられました。他方〈罪の贖い〉、「わたしたちの罪」に対して憤られた「わたしたちの贖い主」なる神は、御子を十字架につけられました。そうして神は、「わたしたちの罪」を滅ぼし、わたしたちが主イエス・キリストによって神に立ち帰るよう導かれました。まさに、「しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)とのパウロの言葉の通りでありました。
「目が見もせず、耳が聞きもせず、人の心に思い浮かびもしなかったこと」……まさに第三イザヤが預言した「人々が期待もしなかった恐るべき業」が、主イエス・キリストの救いの御業によって実現しました。それは、頑なで驕っている人の心には「隠されて」いましたが(Ⅰコリント2:7)、「神は御自分を愛する者たちに準備されていた」ものでありました。闇から光へと神の民を導く使命を担った第三イザヤのような預言者には、「準備」の一端が啓示されていたのです。
慟哭のような「主よ、どうか、天から見下ろしてご覧ください。どうか、天を裂いて降ってください」との預言者の叫びは、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という喜びの知らせによって、讃美と感謝に変えられました。
結
わたしたちが賢しらな人間の知恵から解放されるのは、とても難しいことです。第三イザヤのように、「隠されていた、神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)にあずかるには、どうしたら良いのでしょうか?
ここに、「目が見もせず、耳が聞きもせず、心に思い浮かびもしなかった」という人間の知恵の限界を突破した人がいました。
その人こそ、パウロでありました。彼は、「突然、天からの光に照らされ……すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち……そこで、身を起こして洗礼を受けた」(使徒言行録9:3,18)という回心の体験をした人です。そうして彼は、聖霊に満たされて伝道しました。
そのパウロは、自分自身かつて知らなかった福音を宣べ伝えるために、しばしば旧約聖書を引用しました。それが重要なことなので、その間の事情を次のように説き明かしています……「ところが今や、律法とは関係なく、しかも律法と預言者によって立証されて、神の義が示されました」(ローマ3:21)。
皆さんも、どうかそのような思いで、イザヤ書63:15-64:4を読み直してみませんか。「目からうろこが落ちる」体験が、わたしたちの信仰を生き生きとさせることでしょう。
W
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月報4月号
説教 『 そこでわたしに会えるだろう 』
マタイによる福音書 28章1節~10節 小河信一 牧師
説教の構成――
Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ ……マタイ28:1-6
Ⅱ あなたがたより先にガリラヤに行かれる ……マタイ28:7
Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った ……マタイ28:8-9
Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい ……マタイ28:10
Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う ……詩編16:10-11
結
序
去年の復活日礼拝(2024年3月31日)で、マタイ福音書28:1-10を取り上げました。今年も同じ聖書箇所で説教いたします。ただし、去年と異なり、天使の「(あの方は)あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉を中心に語ることにします。
Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ
マタイ福音書28:1-6――
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
復活の朝、初めに起こった出来事として注目させられるのは、「主の天使」の降臨です。主イエスの墓に駆けつけた「マグダラのマリアともう一人のマリア」と天的な存在とが出会ったと証言されています。
婦人たちは、主の天使の行動を目撃し、その言葉に恐れを抱きました。
「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」……ここで、映像を止めてみましょう。
というのも、「主の天使が石の上に座った」ことは、死に対する生の勝利宣言だからです。それは、旧約の預言によって根拠づけられます……「なお(ダニエルが)見ていると、王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座した」(ダニエル書7:9)。四頭の獣が猛威を振るっているような闇の中で、「日の老いたる者」、すなわち、天の父なる神が王座に着かれました。
その天の父なる神こそが、「主の天使」を、御子イエス・キリストのもとに遣わされました。神の「衣は雪のように白く その白髪は清らかな羊の毛のようであった」(ダニエル書7:9)というように、「主の天使」も「雪のように白い衣」を着ていました。
神に遣わされた「主の天使」による勝利宣言は同時に、神に敵対する者たちの敗北宣言でありました。それは、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」との描写に表されています。神の堅固な救いの計画の前に、「番兵たち」を遣わしたローマ総督ピラトはじめ大祭司たちや律法学者たちは敗北に追いやられました。
「主の天使」が降臨し、婦人たちの前で座っている場所は、主イエスが死んでよみがえられたところです。墓の「石をわきへ転がした」というのは、死からの解放を意味しています。「石」というのは、いわば主イエスの死の世界に封じ込めていた重しです。その「石」が取り去られました。わたしたちの人生の将来を、暗い影で覆っていた、墓の「石」をもはや恐れることはありません。
むしろそこには、天の「王座に座しておられる」神の栄光が映し出されています。そこは、御父が遣わされた御子イエス・キリストが死から復活を成し遂げられた、記念の場所なのです。
それから婦人たちに、「十字架につけられたあの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という福音の中心が示されました。その時、婦人たちには、新たな使命が「主の天使」から告げられました。おそらく、サマリアの女が「水がめをそこに置いたまま町に行った」(ヨハネ4:28)ように、「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、遺体に塗るために準備した香料と香油(ルカ23:56)を「そこに置いたまま」にして行ったのではないでしょうか。
Ⅱ あなたがたより先にガリラヤに行かれる
マタイ福音書28:7 主の天使の言葉――
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
主の天使が、福音の中心を「あの方は死者の中から復活された」と要約してくれました。その主イエス・キリストによる救いの御業に押し出されて、「あなたがた」はこうしなさいと教えられています。つまり、弟子たちに「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」ということを伝えるということです。
今、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)という情態に置かれています。彼らの心を解放し悔い改めに導くのは、「あの方は死者の中から復活された」との喜びの知らせ以外にありません。婦人たちは空の墓を見た者として、彼らにそのことを証しします。
そうして婦人たちは、「ガリラヤに行く」ように、と勧めます。その勧めは、弟子たちの心を動かしましました。なぜなら、「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と知らされたからです。
「あなたがたがそこであの方にお目にかかれる」〔直訳〕……主イエス・キリストと出会うことが強調されています。主イエスを見捨てて逃げた「弟子たち」に向かって、必ず「お目にかかれる」(お会いできる)と告げられています。主イエスは人間よりも、ずっと先回りをしておられます。
Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った
マタイ福音書28:8-9――
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
一方、主の天使が降臨して来た墓で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになり」ました。他方、同じ場所で、天使の姿を目の当たりにし、その御告げを心に納めた「マグダラのマリアともう一人のマリア」は「恐れながらも大いに喜び」ました。
婦人たちは、「死者の中から復活された」主イエス・キリストの御前にひれ伏し、悔い改め、罪の縄目から解放されたことでしょう。一体自分たちは、何を恐れ、何を喜ぶのか、が明確にされました。
そうした婦人たちを見守っておられる主なる神は、「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせる」との使命を彼女たちに与えられました。そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と予告された主イエスは、婦人たちがエルサレムの空の墓から弟子の家へ行く途上でも、先回りしておられました。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた ……婦人たちの「恐れ」を振り払うような言葉が投げかけられました。「おはよう」との原意は「あなたがたは喜びなさい」ですから、必ず恐れは喜びに変えられる、とのメッセージが込められています。またそこには、主イエスが「死者の中から復活された」朝の出来事を胸に刻みなさい、そして、主の日に真心から「おはよう」のと挨拶を交わしなさい、とのメッセージが含まれていることでしょう。
婦人たちは復活の証人として、神の召しを受けて立ち上がりました。彼女たちは「ガリラヤでわたしに会うであろう」という主イエスの約束を携えて、打ちひしがれている弟子たちのもとへ走って行きました。
Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
先取りして言えば、こういうことです。
主イエスはすでに、ペトロたち・弟子が自分の故郷に帰り、さらには漁師に戻ろうとする(ヨハネ21:1-3)ことを見抜いておられます。そこに、「先にガリラヤに行かれた」主イエスが現れます。主イエスの方から弟子たちに声をかけられます(ヨハネ21:4-5)。
弟子たちに求められているのは、空しさのどん底で、罪の苦しさの極みで、主イエスの招きに応答することです。彼らは見慣れたガリラヤ湖畔の風景の中で、人生の瀬戸際に立たされます。その時こそ、主の方へ方向転換・回心するチャンスです。
ここで、一歩踏み出すのは、弟子たちの決断です。暗い夜が明けて、朝の光が射し込んで来ます。愛する婦人たちの告げてくれた「週の初めの日の明け方」の出来事を、自分たちの人生の基とするか否かです。わたしたちは、そのことを覚えて、復活の朝につながる主の日の朝に礼拝を守っています。
やり直すのに遅いということはありません。主イエスはあなたの貧しさやつまずきを見越して、先回りされるお方です。最もふさわしい時と場所に、突然、主イエスは現れます。そのような主イエスの執り成しが行われるように(ローマ8:34)、聖霊なる神がいつも、わたしたちの傍らにおられます。
主イエスはまさに「羊のために命を捨てる良い羊飼い」です(ヨハネ10:11)。主イエスは十字架につけられて死を遂げ、わたしたちの罪を贖ってくださいました。さらに主イエスはよみがえられて、主を信じる者たちに永遠の命を約束してくださいました。
ところが、弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げ出してしまいました(マタイ26:56)。奇しくも、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」(マタイ26:31∥ゼカリヤ書13:7)の預言が成就しました。
しかし、「わたしの兄弟たち」を憐れまれる主イエス・キリストは、「彼らはそこでまたわたしに会うであろう」〔原文〕とおっしゃられました。再会のチャンスを作ってくださったのです。
主イエスは、婦人たちの行く手に現れて、「おはよう」と呼びかけられたように、ガリラヤに先回りして、弟子たちを迎え入れてくださいます。
皆さんは、神の大いなる救いの計画は測り知れないと言われるかも知れませんが、それはあらかじめ旧約聖書に書かれていることでありました。
Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う
詩編16:10-11――
11 命の道を教えてくださいます。
この詩編には、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、それによって湧き上がって来る信仰者の喜びが描き出されています。「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを」(詩編16:1)というように、主なる神と詩人との間には親しい交わりがあります。
その信仰の特徴は、絶望した時にも、死の危険にさらされた時も、「わたしは絶えず主に相対しています」(詩編16:8)との確信に表されています。自分の患難のうちに神が隠れられているのではないかと不安になりそうな時にも、「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ書52:12)との信頼が支えになっていたのです。
このような詩編詩人の姿勢は、婦人たちの行く手に立ち、ガリラヤに先回りして弟子たちに出会うという復活されたイエス・キリストへの信仰を呼び起こすものであります。
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます」……ここには、主イエス・キリストの復活が預言されています。同時に、主イエス・キリストが「墓穴」に引き落とされないように、信仰者を守ってくださることが告げられています。
このような信仰を保持するのは、難しいことだ、と言われるでしょうか。ここにまた、詩編詩人の証しがあります。
「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」……ここで留意すべきは、今「満ち足り、喜び祝って」いる人が、「わたしの魂が陰府に渡され、墓穴を見させられる」ような経験を持っているということです。
このことは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」との報告から説き明かされます。すなわち、婦人たちは、裁きの神か、自分の罪か、あるいは世に生きる苦しみか、いずれにしても言い知れぬ「恐れ」に包まれていました。しかし、彼女たちの心はすでに「大いなる喜び」によって支配され始めていました。
それを婦人たちに確信させたものこそが、「恐れることはない」(マタイ28:10)との主イエスの呼びかけでありました。十字架と復活の御業を成し遂げられた主イエス・キリストが彼女たちに、「陰府」や「墓穴」による束縛から解放されて、神の「右の御手から永遠の喜びをいただく」ように、と勧めておられます。
そのような主イエスからの励ましと慰めを受け、婦人たちは伝達者として、弟子たちのもとに駆けて行きます。主の十字架の死を見届けもせず、部屋に引きこもっている仲間たちに、主との再会のチャンスを告げるために……。
結
本日は、主イエス・キリストがよみがえられた朝の出来事の中で、天使の「(あの方は)あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉に焦点を合わせました。
なぜ、主イエスの復活において、ガリラヤでの弟子たちの再会が重要だったのでしょうか?
復活の朝、希望の光が都エルサレムからガリラヤ湖畔へと輝きわたりました。やがて、主の弟子たちは故郷ガリラヤに帰って行きます。それを見越して、主イエスは先回りされます。
そこで起こるのは、一体どんなことでしょうか?
それは、死からよみがえられた主イエス・キリストによって、弟子たちの魂あるいは心身が立ち直らせられるということでありました。
ありていに言えば、弟子たちは故郷、住み慣れた所、平凡な暮らしが送れそうな場所に後戻りしかけていました。しかしそこでの問題は、主イエス・キリストのことが分からなくなっていたということでした。帰郷のもろもろの不安がつのる中で、彼らがいくら思案していても闇の底に置かれたままでありましょう。
それ故にこそ、主イエスがガリラヤに先回りして、彼らを迎えられたのです。主イエスは彼らに、行いと言葉をもって、御自身が復活されたことを告げられました(ヨハネ21:1,12-14)。
主イエス・キリストに従うのか、それとも、主イエス・キリストの姿を見失って人生を歩んで行くのか、どちらを選ぶかのチャンスが、弟子たちに与えられました。主イエスが彼らの傍らで見守っておられます。
主イエス・キリストと共に、前進していくことです。一旦、後戻りしてもいいから、苦しくなってもいいから、故郷に戻ってもいいから、でもそこで終わりにしないで、主に立ち上がらせていただくのです。それは、自分の同じように挫折を経験している友を立ち直らせる力となります(ルカ22:32)。
そこで一緒に立ち上がって、新しい道を歩んで行くのです。それこそが、主の弟子たちの「命の道」です(詩編16:11)。
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《先回りをされる主イエス・キリスト》
主イエス・キリストは、恐れと喜びに包まれた女性たちの先回りをし、そして、絶望と不信仰に覆われた弟子たちの先回りをされました。
すなわち、主イエス・キリストは、彼らがどん底に落ちかけているところ、その究極の場面で、再び彼らに出会ってくださいました。
御子、イエス・キリストの犠牲の血をもって支払われた代価、御子の死をもって支払われた代価――その尊い代価による罪の赦しが、台無しにならないように、彼らに救いの道を開かれました。
暗い道を行っていた女性たちや弟子たちはその途上で、主イエス・キリストに出会い、声をかけられました。主イエスは先回りして、彼らと再会し、永遠の代価によって罪が赦されたことを教えてくださいました。そのようにして、彼らに立ち直るチャンスが与えられました。
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〈説教の原稿〉
2025年 4月20日
復活節第1主日 復活日(イースター)
旧約聖書 詩編16編 10節~11節(P.846)
新約聖書 マタイによる福音書 28章1節~10節(P.59)
説 教「そこでわたしに会えるだろう」 小河信一牧師
説教の構成――
Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ ……マタイ28:1-6
Ⅱ あなたがたより先にガリラヤに行かれる ……マタイ28:7
Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った ……マタイ28:8-9
Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい ……マタイ28:10
Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う ……詩編16:10-11
結
序
去年の復活日礼拝(2024年3月31日)で、マタイ福音書28:1-10を取り上げました。今年も同じ聖書箇所で説教いたします。ただし、去年と異なり、天使の「(あの方は)あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉を中心に語ることにします。
Ⅰ あの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ
マタイ福音書28:1-6――
1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。」
復活の朝、初めに起こった出来事として注目させられるのは、「主の天使」の降臨です。主イエスの墓に駆けつけた「マグダラのマリアともう一人のマリア」と天的な存在とが出会ったと証言されています。
婦人たちは、主の天使の行動を目撃し、その言葉に恐れを抱きました。
「主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである」……ここで、映像を止めてみましょう。
というのも、「主の天使が石の上に座った」ことは、死に対する生の勝利宣言だからです。それは、旧約の預言によって根拠づけられます……「なお(ダニエルが)見ていると、王座が据えられ、『日の老いたる者』がそこに座した」(ダニエル書7:9)」。四頭の獣が猛威を振るっているような闇の中で、「日の老いたる者」、すなわち、天の父なる神が王座に着かれました。
その天の父なる神こそが、「主の天使」を、御子イエス・キリストのもとに遣わされました。神の「衣は雪のように白く その白髪は清らかな羊の毛のようであった」(ダニエル書7:9)というように、「主の天使」も「雪のように白い衣」を着ていました。
神に遣わされた「主の天使」による勝利宣言は同時に、神に敵対する者たちの敗北宣言でありました。それは、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」との描写に表されています。神の堅固な救いの計画の前に、「番兵たち」を遣わしたローマ総督ピラトはじめ大祭司たちや律法学者たちは敗北に追いやられました。
「主の天使」が降臨し、婦人たちの前で座っている場所は、主イエスが死んでよみがえられたところです。墓の「石をわきへ転がした」というのは、死からの解放を意味しています。「石」というのは、いわば主イエスの死の世界に封じ込めていた重しです。その「石」が取り去られました。わたしたちの人生の将来を、暗い影で覆っていた、墓の「石」をもはや恐れることはありません。
むしろそこには、天の「王座に座しておられる」神の栄光が映し出されています。そこは、御父が遣わされた御子イエス・キリストが死から復活を成し遂げられた、記念の場所なのです。
それから婦人たちに、「十字架につけられたあの方は、ここにはおられない。復活なさったのだ」という福音の中心が示されました。その時、婦人たちには、新たな使命が「主の天使」から告げられました。おそらく、サマリアの女が「水がめをそこに置いたまま町に行った」(ヨハネ4:28)ように、「マグダラのマリアともう一人のマリア」は、遺体に塗るために準備した香料と香油(ルカ23:56)を「そこに置いたまま」にして行ったのではないでしょうか。
Ⅱ あなたがたより先にガリラヤに行かれる
マタイ福音書28:7 主の天使の言葉――
「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」
主の天使が、福音の中心を「あの方は死者の中から復活された」と要約してくれました。その主イエス・キリストによる救いの御業に押し出されて、「あなたがた」はこうしなさいと教えられています。つまり、弟子たちに「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」ということを伝えるということです。
今、「弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた」(ヨハネ20:19)という情態に置かれています。彼らの心を解放し悔い改めに導くのは、「あの方は死者の中から復活された」との喜びの知らせ以外にありません。婦人たちは空の墓を見た者として、彼らにそのことを証しします。
そうして婦人たちは、「ガリラヤに行く」ように、と勧めます。その勧めは、弟子たちの心を動かしましました。なぜなら、「あの方はあなたがたより先にガリラヤに行かれる」と知らされたからです。
「あなたがたがそこであの方にお目にかかれる」〔直訳〕……主イエス・キリストと出会うことが強調されています。主イエスを見捨てて逃げた「弟子たち」に向かって、必ず「お目にかかれる」(お会いできる)と告げられています。主イエスは人間よりも、ずっと先回りをしておられます。
Ⅲ 婦人たちは、弟子たちに知らせるために走って行った
マタイ福音書28:8-9――
8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。
一方、主の天使が降臨して来た墓で、「番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになり」ました。他方、同じ場所で、天使の姿を目の当たりにし、その御告げを心に納めた「マグダラのマリアともう一人のマリア」は「恐れながらも大いに喜び」ました。
婦人たちは、「死者の中から復活された」主イエス・キリストの御前にひれ伏し、悔い改め、罪の縄目から解放されたことでしょう。一体自分たちは、何を恐れ、何を喜ぶのか、が明確にされました。
そうした婦人たちを見守っておられる主なる神は、「急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせる」との使命を彼女たちに与えられました。そして、「あなたがたより先にガリラヤに行かれる」と予告された主イエスは、婦人たちがエルサレムの空の墓から弟子の家へ行く途上でも、先回りしておられました。
すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われた ……婦人たちの「恐れ」を振り払うような言葉が投げかけられました。「おはよう」との原意は「あなたがたは喜びなさい」ですから、必ず恐れは喜びに変えられる、とのメッセージが込められています。またそこには、主イエスが「死者の中から復活された」朝の出来事を胸に刻みなさい、そして、主の日に真心から「おはよう」のと挨拶を交わしなさい、とのメッセージが含まれていることでしょう。
婦人たちは復活の証人として、神の召しを受けて立ち上がりました。彼女たちは「ガリラヤでわたしに会うであろう」という主イエスの約束を携えて、打ちひしがれている弟子たちのもとへ走って行きました。
Ⅳ わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい
イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」
先取りして言えば、こういうことです。
主イエスはすでに、ペトロたち・弟子が自分の故郷に帰り、さらには漁師に戻ろうとする(ヨハネ21:1-3)ことを見抜いておられます。そこに、「先にガリラヤに行かれた」主イエスが現れます。主イエスの方から弟子たちに声をかけられます(ヨハネ21:4-5)。
弟子たちに求められているのは、空しさのどん底で、罪の苦しさの極みで、主イエスの招きに応答することです。彼らは見慣れたガリラヤ湖畔の風景の中で、人生の瀬戸際に立たされます。その時こそ、主の方へ方向転換・回心するチャンスです。
ここで、一歩踏み出すのは、弟子たちの決断です。暗い夜が明けて、朝の光が射し込んで来ます。愛する婦人たちの告げてくれた「週の初めの日の明け方」の出来事を、自分たちの人生の基とするか否かです。わたしたちは、そのことを覚えて、復活の朝につながる主の日の朝に礼拝を守っています。
やり直すのに遅いということはありません。主イエスはあなたの貧しさやつまずきを見越して、先回りされるお方です。最もふさわしい時と場所に、突然、主イエスは現れます。そのような主イエスの執り成しが行われるように(ローマ8:34)、聖霊なる神がいつも、わたしたちの傍らにおられます。
主イエスはまさに「羊のために命を捨てる良い羊飼い」です(ヨハネ10:11)。主イエスは十字架につけられて死を遂げ、わたしたちの罪を贖ってくださいました。さらに主イエスはよみがえられて、主を信じる者たちに永遠の命を約束してくださいました。
ところが、弟子たちは皆、主イエスを見捨て逃げ出してしまいました(マタイ26:56)。奇しくも、「わたしは羊飼いを打つ。すると、羊の群れは散ってしまう」(マタイ26:31∥ゼカリヤ書13:7)の預言が成就しました。
しかし、「わたしの兄弟たち」を憐れまれる主イエス・キリストは、「彼らはそこでまたわたしに会うであろう」〔原文〕とおっしゃられました。再会のチャンスを作ってくださったのです。
主イエスは、婦人たちの行く手に現れて、「おはよう」と呼びかけられたように、ガリラヤに先回りして、弟子たちを迎え入れてくださいます。
皆さんは、神の大いなる救いの計画は測り知れないと言われるかも知れませんが、それはあらかじめ旧約聖書に書かれていることでありました。
Ⅴ わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝う
詩編16:10-11――
11 命の道を教えてくださいます。
この詩編には、主イエス・キリストの十字架の死と復活、そして、それによって湧き上がって来る信仰者の喜びが描き出されています。「神よ、守ってください あなたを避けどころとするわたしを」(詩編16:1)というように、主なる神と詩人との間には親しい交わりがあります。
その信仰の特徴は、絶望した時にも、死の危険にさらされた時も、「わたしは絶えず主に相対しています」(詩編16:8)との確信に表されています。自分の患難のうちに神が隠れられているのではないかと不安になりそうな時にも、「あなたたちの先を進むのは主であり しんがりを守るのもイスラエルの神だから」(イザヤ書52:12)との信頼が支えになっていたのです。
このような詩編詩人の姿勢は、婦人たちの行く手に立ち、ガリラヤに先回りして弟子たちに出会うという復活されたイエス・キリストへの信仰を呼び起こすものであります。
「あなたはわたしの魂を陰府に渡すことなく あなたの慈しみに生きる者に墓穴を見させず 命の道を教えてくださいます」……ここには、主イエス・キリストの復活が預言されています。同時に、主イエス・キリストが「墓穴」に引き落とされないように、信仰者を守ってくださることが告げられています。
このような信仰を保持するのは、難しいことだ、と言われるでしょうか。ここにまた、詩編詩人の証しがあります。
「わたしは御顔を仰いで満ち足り、喜び祝い 右の御手から永遠の喜びをいただきます」……ここで留意すべきは、今「満ち足り、喜び祝って」いる人が、「わたしの魂が陰府に渡され、墓穴を見させられる」ような経験を持っているということです。
このことは、「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去った」との報告から説き明かされます。すなわち、婦人たちは、裁きの神か、自分の罪か、あるいは世に生きる苦しみか、いずれにしても言い知れぬ「恐れ」に包まれていました。しかし、彼女たちの心はすでに「大いなる喜び」によって支配され始めていました。
それを婦人たちに確信させたものこそが、「恐れることはない」(マタイ28:10)との主イエスの呼びかけでありました。十字架と復活の御業を成し遂げられた主イエス・キリストが彼女たちに、「陰府」や「墓穴」による束縛から解放されて、神の「右の御手から永遠の喜びをいただく」ように、と勧めておられます。
そのような主イエスからの励ましと慰めを受け、婦人たちは伝達者として、弟子たちのもとに駆けて行きます。主の十字架の死を見届けもせず、部屋に引きこもっている仲間たちに、主との再会のチャンスを告げるために……。
結
本日は、主イエス・キリストがよみがえられた朝の出来事の中で、天使の「(あの方は)あなたがたより先にガリラヤに行かれる」(マタイ28:7)、ならびに、主イエスの「行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい」(同上28:10)という御言葉に焦点を合わせました。
なぜ、主イエスの復活において、ガリラヤでの弟子たちの再会が重要だったのでしょうか?
復活の朝、希望の光が都エルサレムからガリラヤ湖畔へと輝きわたりました。やがて、主の弟子たちは故郷ガリラヤに帰って行きます。それを見越して、主イエスは先回りされます。
そこで起こるのは、一体どんなことでしょうか?
それは、死からよみがえられた主イエス・キリストによって、弟子たちの魂あるいは心身が立ち直らせられるということでありました。
ありていに言えば、弟子たちは故郷、住み慣れた所、平凡な暮らしが送れそうな場所に後戻りしかけていました。しかしそこでの問題は、主イエス・キリストのことが分からなくなっていたということでした。帰郷のもろもろの不安がつのる中で、彼らがいくら思案していても闇の底に置かれたままでありましょう。
それ故にこそ、主イエスがガリラヤに先回りして、彼らを迎えられたのです。主イエスは彼らに、行いと言葉をもって、御自身が復活されたことを告げられました(ヨハネ21:1,12-14)。
主イエス・キリストに従うのか、それとも、主イエス・キリストの姿を見失って人生を歩んで行くのか、どちらを選ぶかのチャンスが、弟子たちに与えられました。主イエスが彼らの傍らで見守っておられます。
主イエス・キリストと共に、前進していくことです。一旦、後戻りしてもいいから、苦しくなってもいいから、故郷に戻ってもいいから、でもそこで終わりにしないで、主に立ち上がらせていただくのです。それは、自分の同じように挫折を経験している友を立ち直らせる力となります(ルカ22:32)。
そこで一緒に立ち上がって、新しい道を歩んで行くのです。それこそが、主の弟子たちの「命の道」です(詩編16:11)。
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「御子による過越の小羊」―過越による永遠の命―
聖書 出エジプト記12章1~14節 マタイによる福音書26章17~30節
2025.4.13 磯部理一郎
はじめに
本日は「過越の食事」。小羊の血ゆえに死の審判を過ぎ越す(出12)と神は定めた。小羊の血は、旧約で贖罪の犠牲祭儀と再契約、新約で主イエスの十字架の死を意味づける。12使徒と教会は十字架死の主イエスに贖罪のメシアを見出し(ルカ24:27)神の啓示の福音と悟り(使徒2:36)、「秘められた神の計画to. musth,rion tou/ qeou/musth,rion」を宣教の本質として捉え、「十字架につけられたキリスト以外、何も語るまい」(Ⅰコリント2:1、2)と決意した。使徒的公同教会は主を「父と同一本質o`moou,sion」と定義し、真の神が真の人を受けた神人両性のキリストと宣言。小羊の血は滅びの審判を過越す「贖罪神メシア」の血となり、そして贖罪神の十字架死と復活の身体は、人類と世界を永遠に贖罪する栄光の身体となって使徒的公同教会に現存し、贖罪と栄光の身体の礼典により人類を内在超越して貫き、神の永遠の創造と贖罪と完成の漲り溢れる場とした。三一の神は、御子の過越の血に、死の審判を過ぎ越す永遠の贖罪を実現し、さらに地上の過越の食卓を通して御子の贖いの身体に教会を招き入れ、ついに神の愛と命の交わりに導く。こうして地上の教会は「キリストの身体」として永遠の命に生きる。
1.旧約聖書における民を「贖うgaw-al'(laG lutro,w)」神と「贖罪のメシア」像の形成
⑴「奴隷から救い出す。審判によって贖う(laG lutro,w)」出6:6 ☛神は民を奴隷から代価を支払い買い戻す
→「初子を撃つ。血を見たならば、わたしはあなたたちを過ぎ越す」出12:12,13 ☛過越の代価→小羊の血
⑵「贖罪の献げ物、祭司が罪を贖う儀式、罪は赦される」レビ4:20☛祭儀→代価→贖罪→赦し→義/関係回復
→祭儀→犠牲代価→滅び審判過越/再契約→贖罪日(大祭司/至聖所/契約箱/血の回復)レビ23→メシア原像
⑶「御自分の民を/ヤコブとヨセフの子らを贖われ」詩77:16 ☛ 共同体全体の救済原理→教会の選びと贖い
⑷「彼が担った、わたしたちの病、痛み。彼が刺し貫かれた、わたしたちの背き咎のため」イザヤ53:4, 5
☛賞罰の転嫁と代理代償→賞罰を代償する贖罪者→「贖罪のメシア」→全共同体「救済原理」=「贖罪者」
2.新約聖書における「贖罪(laG lutro,w)のメシアの到来」
⑴「主は我らのために救いの角を、/僕ダビデの家から起こされた」ルカ1:68,69☛ 贖罪のメシア到来預言
→「メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。罪の赦しを」ルカ24:47死の代価→メシア
⑵「多くの人の身代金として自分の命を献げるために来た」マタイ20:28 ☛「身代金lu,tron(贖いの代価)」
→自分の命=贖いの代価→命の犠牲の代価を支払い(十字架の死)、神のもとに買い戻す(復活/永遠の命)
⑶「すべての人の贖いとして御自身を献げられ」Ⅰテモテ2:6 ☛ 全人の贖いavnti,lutron(に対する支払い)
⑷「ただキリスト・イエスによる贖いの業を通して、無償で義とされる」ローマ3:24 ☛「買い戻すavpolutrw,sewj」→義とされる「義」→律法上の負債を完全に支払い尽くして、義のもとに買い戻された→神による義の完成
3.教会教父とニカイア信条における「贖罪のキリスト」
⑴ 問題の所在:負債(罪)を完全に支払い尽くす?→メシアは神か人か?→普公教会→キリスト論の本格定義
⑵「サタン、神のことを思わず、人間のことを」マタイ16:23 ☛ 「父と同一本質 o`moou,sion」(普公教会信条)
→ニカイア信条の普公教会→「信条」→「普公教会」una, sancta, apostolica, catholica →「使徒」継承の基
⑶ 仮現論 ☛ キリストの人性とは?→「完全な人間」(霊/理性/肉体)の受肉?→死/罪は?→「◎神」×人?
→カルケドン信条[完全な神/完全な人]→[一位格/神人二本性]one person/two natures→非分離/非混合/交流
⑷ 御子/死/犠牲代価を誰が誰に支払うか?☛東方:神→サタン/死/滅び→勝利 ☛西方満足説:御子→御父→義
4.「過越の食事」におけるユダの贖罪は?
⑴「12人と一緒に食事の席に着かれ、裏切ろうと」マタイ26:20,21 ☛ 過越の食事に招く/裏切るユダの罪
⑵「神はキリストによって世を御自分と和解させ、人々の罪の責任を問うことなく」Ⅱコリント5:19☛罪の消滅?
→支払い「御子」→永遠無限の代価→完全贖罪→神による「義」人間の復活/昇天/神の右→ユダの罪は?
⑶ 贖罪とその適応としての審判 ☛ 審判者「神」主権→神の自由なる選び→◎教会権威×個人の信仰判断
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説教主題「彼らに自分自身をささげます」―主の真理の霊による聖別―
聖書 イザヤ書53章1~12節 ヨハネによる福音書17章1~26節
2025.4.6 磯部理一郎
はじめに
本日は「栄光の祈り」です。「祈り」は、天と地、永遠と時の障壁を貫き神と人が一体となる交わりで、神礼拝と同根です。神の父子霊の三位格が相互に共有し合って交わり一体となり、その三一の交わりには神の愛と命が永遠に湧き溢れ、神はその愛と命をもって遜り、自己を外化(創造・和解・救贖)し、世に内在化して宿り(受肉・聖霊降臨、教会・聖礼典)、神人世界一体の交わり、この交わりを祈りの基とします。この基本は「主の祈り」(マタイ6:9~13,ルカ11:2~4)に伝承されましたが、「ゲッセマネの祈り」は、十字架の死を直前の、御子の自己奉献(「彼は自らを償いの献げ物とした」イザヤ53:10、「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」ヨハネ17:19)の祈りとなり、神人両性のキリスト、父子霊の相互内在の交わりが啓示されます。さらに宣教に選ばれ派遣される弟子たちが、教会の担い手となる使徒として、御子の栄光の身体と聖霊降臨に一躰化されて、聖霊の降臨をもって聖別される場となります。祈りは決して「人間」の祈りではなく、「神」ご自身が永遠の次元で救済の完成を実現する「聖なる神のみわざ」の場です。三一神の内在的交わりとその計画と派遣の場こそ、永遠の祈りで、永遠の祈りは地上に写し映され地上でも聖なる祈りとなります。神の豊かな愛と永遠の命の交わりは、神の愛と命の祈りにより、地上の教会に写し出され、みことば(説教と聖礼典)による宣教を通して、天地時空を貫き、神と人と世界との一体の交わりを築き、神の栄光を現わし、万物は神の栄光を褒め讃えます。永遠の神の愛と命の交わりという神の救済の本質は、地上の「祈り」の場となって、いよいよ明らかにされます。
1.<祈り>とは何か:ひとりと集団の祈り、言葉と沈黙の祈り、公同的教会の礼拝としての祈りを学ぶ
☛ 祈りの根本は「主の祈り」にありその解き明かしは別機に譲り、本日は「ゲッセマネの祈り」、特にヨハネ17章「イエスの祈り」が主題です。少しだけ、最初に祈りの前提に触れるに止めさせていただきます。
⑴「群衆を解散させてから、祈るためにひとり山にお登りになった」(マタイ14:23)☛「解散、ひとり、山」
☛「山に登る」「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せられた」出エジプト19:20~24
→神が降り呼び出す場→選びと召命の場→十戒/救済契約の場→エクレシア(evkle,gw神が民を召し集める)
→派遣の聖別の場→祈れない?→[神の降臨・召命・選び・契約・派遣]→自分の出来事/確認点検の場
⑵「解散させて、ひとり」14:23→区別と分離→私は誰?個の自覚→identityの確立→神との関係性から自覚
→主イエスidentity→父子霊の三位一体の相互内在→イエスは誰か?主のidentity、在り方は?主のexistence
⑶「一同が一つになって集まっていると、すると、一同は聖霊に満たされ、"霊"が語らせる」使徒2:1~4
☛集団「一つになって集まっている」sumplhro,w→同一目的/意味→神が召し集めるevkle,gw→聖霊降臨の場
→聖霊伝授の場→聖霊による洗礼受洗1:4~5の場→霊が語らせる→神を証言する(神の証人)場
⑷「霊が語らせるままに、国々の言葉で話した」使徒2:4 ☛ 国語(言葉)による祈りの場→礼拝「国語」
⑸「異言を語る者が自分を造り上げるのに対して、預言する者は教会を造り上げます」Ⅰコリント14:1~25
「異言」→霊と自己の対話→異言・沈黙による祈り→「自分」を造り上げる祈りの意義
「預言」→霊が語らせる、国々の言葉で→「集まり、ひれ伏して神を礼拝し」14:25→公同「教会礼拝」
2.「時」の4形態:a.神の永遠栄光を現わす b.被造物を創造する c.罪で腐敗滅亡する d.栄光完成
⑴「時が来ました」1 ☛「時」とは? 時の本質☛「栄光を現す」1→神は愛と命により栄光の御業を行い現す
→「天地創造の前から」24→三一神の「栄光」→神の永遠のご計画 ☛「子があなたの栄光」→父⇄子⇄霊
→3位格の栄光→a父:創造, b子:和解, c霊:救贖の形で、三位一体神の栄光と愛「内から外へ遜る」
⑵「天地創造」☛Augustinus時の創造/perago恵みの場→創造の限りに限定→存在の祝福⇄栄光反射と讃美
⑶「罪」時の変質 ☛神からの離反→神の創造と栄光の光を反射させる本性Imago Dei→「反射作用」の喪失
→神の栄光讃美→罪による堕落→神の栄光讃美不能/時と物質の私物化と時の腐敗→✕神の栄光◎人の欲
→腐敗/死の滅び→苦悩/悲惨の場→「滅びへの隷属」ローマ8:21☛ 時と物質の滅び/被造物全体の呻き
⑷「贖い・献げる・引き渡される」(イザヤ53:10,ヨハネ17:19,マタイ26:45, マルコ14:41)
☛ 贖罪としての受肉:贖うlutro,w 犠牲の代価を支払い買戻す:受肉→十字架死により心身を支払う→復活
御子の受肉の身体を十字架の死の犠牲において支払い、人類の身体を罪と死から神へと買戻す栄光の復活
cf.「わたしは苦しみをつぶさに見、声を聞き、痛みを知った。それゆえ降って行き、導き上る」出3:7,8
3.犠牲奉献の祈り(マタイ26:36~46,マルコ14:32~42,ルカ22:39~46,ヨハネ17:1~26)
共観福音書の史実と秘匿の神→オリーブ山, ゲッセマネ→ヨハネの知:永遠普遍化→神の栄光の顕現化と知
⑴「時が来た、引き渡される」(マタイ26:45,マルコ14:41)☛ヨハネ「あなたの子があなたの栄光を現す」
「引き渡される」☛本来「屠る、(死の審判を)過ぎ越す」出12:3~13「贖いの献げ物」イザヤ53:10
⑵「かなしみもだえ、死ぬばかりに悲しい」(マタイ26:37,38)☛神人両性:犠牲の苦悩:葛藤と従順:一致
→人間イエスの痛み→「誘惑…心は燃えても、肉体は弱い」(マタイ26:41)→人間本性に遜り心身一体化
⑶「わたしの願い、御心のままに」(マタイ26:39)☛犠牲奉献の資格と意義→罪なき義人イエスの犠牲奉献
→「御心」→清き血により人間本性の聖潔化→血の贖罪により再契約し再創造する→御子の自己犠牲の奉献
☛ヨハネ「子が父の栄光を現す」17:1→三一論(神)の永遠次元のご計画→三一論的共有による栄光の死
→相互内在交流の父子霊の神→永遠の三一交流から時と場に遜って降下→父:創造・子:和解・霊:救贖
御子「彼らのために、わたしは自分自身をささげます」(17:19)◎神の御子×単なる人性を越えて
御父:御子を支払う神:贖罪する神「神はその独り子をお与えに、世を愛された。永遠の命を得る」3:16
御霊:御霊を支払う神:贖罪する神「父は別の弁護者を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいる。」14:16
「わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられる」26→神の交わりから神と世との永遠の交わり
4.ヨハネの信仰共同体の「知」ginw,skwsij(用語注意「聖書」の知(受肉)と異端の知(「受肉/身体」排除)
⑴「永遠の命を与える」☛「永遠の命とは、唯一のまことのイエス・キリストを知ること」17:3
⑵「キリストを知る」3 ☛ginw,skw→「信と知」の告白→イエス?「わたしはある」御子の受肉!Identity
「キリストを知る」3 ☛神Existence/Presence選び与える⇄信仰の知/食べ飲む/聞き与る/礼拝し祈る応答
→「永遠の命を与える」2 →永遠の愛と命の交わり→完成の栄光/天地時空貫通/一体交流→新しい時/新約
⑶「子が父の栄光を現す」本質☛与え合う父子霊/相互共有☛神の愛命の根源☛交わり招入☛愛命の共有☛救い
☛小羊/犠牲/贖罪→御子の受肉/十字架の死→完成の神の栄光の十字架→「身体」(人格)における神人一体☛受肉神の栄光の身体(根元)与え交わり(相互共有化/相互内在化)→神人一体化→信仰の知→永遠の命
☛小羊/犠牲→過越/贖罪/外の祭儀→信仰の知ginw,skwsij信じ知る/食べ飲む/与り聞く→内外一体の祭儀
「栄光をわたしは彼らに与え、わたしたちが一つであるように彼らも一つになる、わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。」(17:23)神→イエス→万物
5.聖霊の降臨と聖別される栄光の身体☛ヨハネ信仰共同体の「教会論」
⑴「真理によって彼らを聖なる者とし、あなたの御言葉は真理です」17☛ 神の真理の言葉→共同体を聖別する
→主のidentity「わたしはある」+真理/道/命14:6→主のexistence永遠にあなたがたと一緒にいる14:16
⑵「あなたからゆだねられ」2「わたしも彼らを世に遣わし」18☛「わたしも彼らの内にいる」26
→[三一神/受肉神イエスの身体/教会]→信仰の知による交わり→愛命の共有→[一身体]→[聖なる公同の教会]
⑶「聖霊が降ると力を受け、地の果てまでわたしの証人となる」使徒1:8☛聖霊para,klhtojの降臨内住
⑷「彼らのために、自分自身をささげます」19 ☛栄光の身体と聖霊を与える→教会の宣教に三一神は現存する
→小羊犠牲/過越/贖罪→御子の犠牲奉献/受肉/十字架死/復活/昇天栄光→聖霊派遣→御子と聖霊を支払う神
→犠牲奉献→[三一神/イエスの身体/聖霊降臨/→使徒派遣/聖礼典→相互内在化] →一身体化→教会の設立
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説教主題「荒れ狂う大嵐の中にあっても」―栄光の神の現臨―
聖書 イザヤ書35章1~10節 マタイによる福音書14章22~33節
2025.3.30 磯部理一郎
はじめに
本日は「教会とは何か」です。神キリストは遜り人間の身体に受肉して宿り、みことばを語り魂深くに突入し、聖礼典により十字架の死と復活の栄光のお身体を差し出して内住し、内から復活の身体を成熟させ完成します。キリストは天地を貫き栄光のお身体をもって現存し、選びにより時と場を用いて教会を栄光のキリストの身体となし、創造・贖い・完成の働きをこの地上で行い続ける。神キリストは礼拝するあなたの魂と肉体に現臨し働く。
1.教会のはじまり、教会建設の前提 マタイ14:22~23,マルコ6:45~47,ヨハネ6:15~17)
⑴「それからすぐ、イエスは弟子たちを強いて舟に乗せ、向こう岸へ先に行かせ」14:22 ☛教会の根本と本質
a「それからすぐ」☛「あなたがたが彼らに、弟子たちにお渡しに」(14:16,19) →神の国(支配)到来の時
b「強いて舟に乗せ」☛弟子の強制派遣→神の絶対意志と計画→教会建設開始→パンと魚に見た神の国到来
c「向こう岸へ先に行かせ」☛終末再臨準備→向こう岸/空間/地の果て→先に/完成を目指す/未だ前/既に先取
→「向こう岸」☛宣教→マルコ/ベトサイダ, ヨハネ/カファルナウム☛ マタイ削除/時空の果て/永遠全地
→宣教の本質の神学化→神の国?神キリスト到来?いつどこ?→根拠:今既にここにイエスに→信仰→教会
⑵「その間に群衆を解散させ、祈るためにひとり山にお登りになった」14:23 ☛新しい契約と律法の締結
→「主はシナイ山の頂に降り、モーセを山の頂に呼び寄せ」出19:20~24→新Exodus Israel 教会の始まり
⑶「夕方になっても、ただひとりそこに」14:23 ☛ 祈る(ヨハネ14:15~24)→終末完成の先取と教会本体
2.「使徒伝承」教会教理から聖書を読み解く―使徒ペトロと使徒継承にある地上教会の本質〇使徒性×人間P
⑴「ところが」14:24 ☛次元転換、永遠の神国⇔地上の破綻→現世志向「金の子牛」出32:1~6→嵐、波
⑵「陸から離れて」24 ☛対立分離の二次元、神の介入支配(舟=教会)⇔自然(現世)恐怖→神の支配
→地上での試練①→「陸」地上に束縛・依存→自然物理(有限の肉)喪失危惧→神の力:信仰の杖:イエス
→神の介入継続→山でひとり祈るキリスト23→「何スダディオンも離れて」24→神の不在(棄捨)→信頼
→地上の人類に神介入はないか? 陸/戦争/災害/不条理→孤立と絶望→不信→教務と偽善化→教会無力化
⑶「逆風のために波に悩まされて」24 ☛信仰の試練②→「逆風」次元対立→反キリスト・迫害の大嵐
→「悩まされ」24→試練と真理探究→逆風と葛藤→内部分裂分離→異端分派論争→教会史はいつも危機の中
3.解決と克服の根拠:神の現臨と教会教導―神はいつも共在内住しみことばにより教会と信仰を教導する
⑴「夜が明ける」14:25 ☛神は時空を貫き突入→教会の時(有限無限の二次元構造の貫通)→時空の利用
→日曜朝の礼拝=復活栄光の主礼拝→天地同時の生→教会の本質=時空貫通の自覚→未だ・既に今ここに
⑵「湖の上を歩いて」14:25 ☛物理的二次元対立の時と場→同時貫通するキリストの終末的現臨と介入
「弟子たちのところへ行かれた」25「ひとり山に登られた」22, cf.「天に昇り全能の父なる神の右に座し」
→遜り降って導き上る「受肉の神」の現臨と「聖霊」の降臨(para,klhtoj「傍らに同伴し助ける弁護者」)
「父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え」(ヨハネ14:26)
→父子霊一体の相互内在の神「地上突入」→神の現臨介入→教会に内在化/聖礼典→試行説明:化体/偏在/霊在
⑶「湖上を歩いて…を見て」14:26 ☛「見て」眼前に生起する神の事実は見て触り体験できる→理解不能?
4.教会の力ある本質を知る―教会は、神の自己証明(啓示)と神の実存を現わす神の身体ー
⑴「見て幽霊だ」14:26 ☛「幽霊」〇恐れ×喜び→見たのになぜ?→不信と恐怖の支配→贖罪の継続必要
⑵「イエスはすぐに話かけ」14:27 ☛説教の解き明かし「わたしだevgw,
eivmi」27, cf. ヨハネ6:27
Egw, eivmi
→「わたしはある」神である:神のIdentity→今ここに教会の直中に突入現臨する:神のExistence→教会
⑶「ペトロ…水の上を歩き」14:28 ☛水の上を歩く主と教会「一体性」→主の継承特権→地上の教会の権威
⑷「舟から降り」14:28 ☛「信仰の薄い…疑った」14:31→権威の徹底→〇神の主権, ×疑う人間ペトロ
⑸「本当にあなたは神の子」14:32 ☛信仰の核心に→教会の確信に→時空貫通の神の現存、今ここに!
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月報 3月号
説 教『その日には、夕暮れに光がある』
ゼカリヤ書 14章6節~7節 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ その日には、夕暮れに光がある …ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉
Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った ……マルコ15:42-46〈成就1〉
Ⅲ 女たちは香料を買った ……マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉
Ⅳ 神の栄光が都を照らしている
……ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉
序
本日は、「その日には、夕暮れに光がある」との主題を、神の大いなる救いの歴史における〈預言〉〈成就〉〈待望〉という広い視野から展望します。
わたしたちはやがて高齢になり、老いや病やまいに苦しむようになります。しかし幸いにも、主イエス・キリストによる十字架と復活の〈成就〉、そして、神の国の〈待望〉というわたしたちの信仰の中心に、「その日には、夕暮れに光がある」との慰めのメッセージが込められています。老いの日々の向こうに、わたしたちを歓喜させる「夕暮れ」が待っています。
Ⅰ その日には、夕暮れに光がある
ゼカリヤ書14:6-7〈預言〉――
6 その日には、光がなく
冷えて、凍いてつくばかりである。
7 しかし、ただひとつの日が来る。
その日は、主にのみ知られている。
そのときは昼もなければ、夜もなく
夕べになっても光がある。
ゼカリヤは12章から最終の14章にわたり、「主の日」についての思索を深めています。どのように「主の日」が到来するのか、を神の知恵によって説き明かしています。
さて、「主の日」とは、どんな日なのか、ゼカリヤ書の記述に従って見てみましょう。ここで注意すべきは、時間経過と共に、「主の日」の明暗が一転することです。だから、「気をつけて、目を覚ましていなさい」(マルコ13:33)。
「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」……これは主イエスの言葉を借りれば、「これらは産みの苦しみの始まりである」(マルコ13:8)という終わりの時の徴しるし(同上13:4)を表しているように思います。「光がない」という闇や寒さの中で、人々は慌あわてて逃げたり、混乱したりする恐れがあります。偽にせメシアが現れて、不思議な業を行い、人々を惑まどわそうとします(マルコ13:7,15,22)。
これを信仰の面から言えば、真に主なる神に依り頼むかどうかが、終わりの時に、わたしたちは問われるということです。「銀を精錬せいれんするように精錬し 金を試ためすように試す」ごとく(ゼカリヤ書13:9)、人々の信仰は錬ねり清められます。わたしたちは最後まで、主なる神につき従わねばなりません。
「しかし、その日」に、激変が神の側から起こされます。それまで忍耐していた者は幸いです。
「そのときは昼もなければ、夜もなく」……「寒さも暑さも、夏も冬も 昼も夜も、やむことはない」(創世記8:22)という創造の秩序が更新され、「ただひとつの日が来る」ことになります。
「ただひとつの日」というのは、わたしたちの心に思い浮かびもしなかったもので(Ⅰコリント2:9)、「その日は、主にのみ知られている」ものであります。従って、楽観的にせよ悲観的にせよ、わたしたちが予断することは許されません。ですから、「その日には、夕暮れに光がある」(私訳)という出来事の内実も、ただ神のみがご存じです。
ゼカリヤは同僚のハガイなどと共に、神の喜ばれる道を暗中模索する中で、「ただひとつの日が来る」と、〈預言〉しました。そこで続いて、Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った で、〈成就1〉を、そして、Ⅲ 女たちは香料を買った で〈成就2〉を説き明かしましょう。
主イエス・キリストの十字架と復活において、「その日には、夕暮れに光がある」とのメッセージを受け取るのが、聖書的であり、最も信頼できると思います。具体的に言えば、ゼカリヤ預言の「主の日」(その日)は、主イエス・キリストの十字架の死と復活の「三日間」において成就します。すなわち、準備の日、安息日、週の初めの日、その「三日間」になります。
Ⅱ ヨセフは亜麻あま布ぬのを買った
マルコ福音書15:42-46〈成就1〉――
42 既に夕方になった。その日は準備の日、すなわち安息日の前日であったので、43 アリマタヤ出身で身分の高い議員ヨセフが来て、勇気を出してピラトのところへ行き、イエスの遺体を渡してくれるようにと願い出た。この人も神の国を待ち望んでいたのである。44 ピラトは、イエスがもう死んでしまったのかと不思議に思い、百人隊長を呼び寄せて、既に死んだかどうかを尋ねた。45 そして、百人隊長に確かめたうえ、遺体をヨセフに下げ渡した。46 ヨセフは亜麻布を買い、イエスを十字架から降おろしてその布で巻き、岩を掘って作った墓の中に納め、墓の入り口には石を転がしておいた。
「準備の日」が終わろうとしている「夕方になった」と告げられています。丁寧に時間経過を記述しているマルコ福音書は、その「準備の日」、「昼の十二時になると、全地は暗くなり、それが三時まで続いた」(15:33)と述べています。これこそ、「その日には、光がなく 冷えて、凍いてつくばかりである」(ゼカリヤ書14:6)との〈預言〉の〈成就〉ではないでしょうか。
ここに、一人の男が主イエスの十字架のもとに引き寄せられて来ます。この男の登場と共に、神の御子が死んだ日という「主の日」の明暗が一転します。
午後三時までは、「全地は暗くなって」いました。それから、「夕方になり」ました。その時被造世界の秩序が回復しているならば、空には満月が輝いています。なぜなら、過越祭はニサンまたはアビブ(第一)の月の15日……厳密には14日の夕暮れ……から始められるからです(民数記9:1-3、歴代誌下35:1、出エジプト記23:15)。
「三時まで続いた」闇が去って、「アリマタヤのヨセフ」は動き始めました。彼には、「イエスの遺体」の引き取り許可を得て、「墓の中に納める」という急務が託されていました。彼は、「安息日に遺体を十字架の上に残しておかないために」(ヨハネ19:31、申命記21:23)、総督官邸からゴルゴタの丘へ、それから墓地へと駆け回りました。
それは困難な務めではありましたが、あたかも神が、敬虔けいけんなる者の「午後三時の祈り」(使徒3:1)を聞き届けられたかのように、順調に事が運びました。「アリマタヤのヨセフ」は「墓の入り口には石を転がして」、主イエスの葬りを終えました。そうして彼は、律法に即して夕暮れまでに準備を完了される神の御業に携たずさわることになりました。
無事、主イエス・キリストの埋葬が終えられたのは、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が〈成就〉したことにほかなりません。そうして、主の復活を証拠づける「空からの墓」が用意されることになりました。言い換えれば、主イエスの全まったき死は、主イエスの復活の〈成就〉へとつながっていきます。
Ⅲ 女たちは香料を買った
マルコ15:57-16:1-2〈成就2〉――
47 マグダラのマリアとヨセの母マリアとは、イエスの遺体を納めた場所を見つめていた。
1 安息日が終わると、マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメは、イエスに油を塗りに行くために香料を買った。2 そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った。
ここに、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」が、イエス・キリストの「主の日」の証人として呼び出されました。彼女たちについて注目すべきは、主イエスの①〈十字架の死〉②〈葬り〉③〈空の墓〉を見つめていた(マルコ15:40,47、16:4)ということです。
ところで、彼女たちは、週の初めの日が始まる「夕暮れ」を待っていました。売り買いが許されない安息日の間(ネヘミヤ記13:15-16、アモス書8:5)、はやる気持ちを押さえていたことでしょう。彼女たちは安息日明けの夜、「イエスに油を塗りに行くために香料を買」おうと待っていたのであります。
その時、「香料」を分けてもらうために外出する女たちの足もとを、満月が照らしていました。ここにも、「その日には、夕暮れに光がある」という幸いが見いだされます。
「そして、週の初めの日の朝ごく早く、日が出るとすぐ墓に行った」……墓を封ふうじている石のことが気がかりでしたが、早朝、女たちは主イエスの墓に駆けつけました。ところが、石は既に転がされており、墓の中に入ることができました。そして、白い衣ころもを着た若者から、「あの方は復活なさって、ここにはおられない」と告げられました(マルコ16:5-6)。
復活の夕べから復活の朝まで、「マグダラのマリア、ヤコブの母マリア、サロメ」は、“ 霊 ” 的に目覚めさせられた者として事の一部始終を見つめていました。
このようにして、「その日には、夕暮れに光がある」との〈預言〉が、主イエス・キリストの十字架と復活において〈成就〉しました。ゼカリヤの〈預言〉の〈成就〉を目撃させられたのは、安息日の前後に、亜麻あま布ぬのを買った男と香料を買った女たちでありました。
Ⅳ 神の栄光が都を照らしている
ヨハネ黙示録21:23-24〈待望〉――
23 この都には、それを照らす太陽も月も、必要でない。神の栄光が都を照らしており、小羊が都の明かりだからである。24 諸国の民は、都の光の中を歩き、地上の王たちは、自分たちの栄光を携たずさえて、都に来る。
その日には絶えず、「神の栄光」が輝いています。「しかし、ただひとつの日が来る」との〈預言〉の通りのことが起こります。都エルサレムに第二神殿を再建しようとしたゼカリヤやハガイの期待をはるかに超えて、新しい都は永遠に神の栄光に包まれています。その都の中心には、主なる神と「小羊」なるイエス・キリストがおられます。
わたしたちは、主イエス・キリストの十字架と復活の御業の〈成就〉に基づいて、このような将来を〈待望〉しています。
Ω
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説教主題「今こそ立ち上がる時」―罪の病からの解放―
聖書 詩編78編⒓~29節 ヨハネによる福音書5章1~18節
2025.3.23 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は「立ち上がる」外化です。生ける三一の神は御子の受肉と聖霊の降臨を通して遜り(フィリピ2:6~8)、説教と聖礼典(礼拝)により時間と場所を用いてご自身を差し出し、聞かせ食べさせ飲ませ人格(心身)に内在内住し、内より無限の再創造と十字架の贖罪と復活の完成のわざを行い、人間本性を根源から新生させ、栄光の復活へと貫き人類を罪から救います。神の内在化(「内で泉となり永遠の命に至る水が湧き上がる」4:15)は内から外へと働き新し人格を新生させ新たな行動を発芽させます。命の泉は内から新しい人格を形成し外化して新しい行動変容起こし現れ、病んだ者が立ち上がり、死んでいた者が生き返り、新生の人格は動き始めます。
1.ベトザタ(Bethzatha, Bethesda)の池で神の出来事:38年の「絶望」が「あわれみ」に変わる「礼拝の場と時」
⑴「ベトザタ(オリーブの家)」5:2、ヘロデ大王→エルサレム北壁東「羊の門」(ネヘミヤ3:1,32,12:39)
巡礼者の沐浴(男女用南北二つの池40~60m)→異称「ベテスダ」Bethesda(神のあわれみの家)
→写本欠落5:4【口語】「主の御使がこの池に降りてきて、どんな病気にかかっていても、いやされた」
⑵「ヤコブの井戸」サマリア律法(4:6)礼拝の場、「生ける神と出会う」場、律法の根拠
「ベテスダの池」5:3癒しの場、病気=霊的穢れ/汚れ→外化(MK1:23,34, 3:11, 5:2, 6:7, 7:25, 9:18)
主の御使い→霊的清め→癒し、病の根本問題:肉体と精神→人間本性全体を支配する→絶望と依存
⑶「38年も病気で苦しんで」5:5→ニコデモ(水と霊による新生)サマリアの女(神の愛に直に触れ命の泉)
2.絶望の訴えと主のことば(啓示)☛神は絶望し尽くした魂の中に遜り降下しご自身を差し出して内住する!
⑴「良くなりたいか」5:6:啓示=愛ゆえ遜り苦悩の中に降下する「イエスは、見て、知り、言われた」5:6、
「わたしは民の苦しみをつぶさに見、叫び声を聞き、痛みを知った。降って行き、導き上る。」(出3:7,8)
⑵「入れてくれる人がいない」5:7 ☛ 依存:迷信と他者に依存と自立? 「絶対」依存→あなたが立ち上がる!
「良くなりたいか」→内なる意志を問う→病:人格の根本の病「意志と希望の再生」→人間本性の根本回復
⑶「起き上がりなさい」5:8、外から内を貫通する神の言葉、神の力と応答の意志、内面からの生きた出会い
⑷「すると、その人はすぐに」5:9、み言葉→内化の確かさ/種蒔きMK4:1~20, 26~34→意志と希望の発芽
→神の言葉のみわざ→受容と応答意志「床を担いで歩きだす」→内在から外化するみわざ×自律, 〇神律
3.安息日:矛盾→神の創造完成,万物世界の祝福と聖別→罪による破壊と堕落→万物の呻き(ローマ8:21~23)
⑴「今日は安息日、律法で許されていない」5:10、律法による義→罪による完全破壊→完成安息の実質喪失
安息日(創2:1~3):力ある神の創造完成、万物世界の祝福と聖別☛聖なる祝福と完成の喜びに溢れる日
☛神の栄光を全地は存在の全てを一致させて表し讃美する、故に「礼拝」成立根拠☛安息日の本質
⑵「『床を担いで歩きなさい』言われたのです、言ったのは誰か」(5:11,12)
律法の誤用:罪による奴隷化、権力支配→宗教の空洞化→教会の現世化と無力化→絶望,虚偽,幻想,偽善化
→承認欲求と権力保持のため真の神を抹殺するユダヤ宗教社会(5:16,18)→キリスト教会は?
⑶「罪を犯してはいけない」5:14、罪の本質:神を神としない意志、反キリスト >×汚れた霊や偶然の病傷
→「受肉の神」と直に向き合う勧め→真の神への回心と礼拝→信仰の招き→さもなければ滅びに至る!
4.安息日、神が万物を完成し祝福し聖別する日→罪の破壊→「絶望」から「憐れみ」に変える祝福と救済の日
⑴「安息日にこのようなことをして」5:16「安息日を破る」5:18、律法主義の「誤解」VS「真の神の安息」
⑵「父は今も働いて」5:17 ☛あなたの中で今も、神の創造は絶えず継続的に進行, 終末完成, 後期ユダヤ教
⑶「神を自分の父と呼んで」5:18「ご自身を神と等しい者と」5:18「わたしはある」8:58→神の自己啓示
5.結語:ヨハネとその教会の宣教(「わたしはある」)→「子」において「父」は働き「父」の栄光讃美はある!
☛父子聖霊の神は、愛の一致により、御子の受肉と十字架の死と復活をもって罪を永遠に贖い永遠の命を与え、説教と聖礼典により、栄光の身体を魂の内に与え心身の交わりをもって栄光の身体に新生させ養い育てる。
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説教主題「今こそ、真の礼拝の時」―神のメシアとの出会い―
聖書 申命記6章4~9節 ヨハネによる福音書4章1~26節
2025. 3.16 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は「霊と真理による礼拝」です。礼拝は生ける三一の神が魂を外から内にそして永遠の命へと貫く内在超越の神の行為です。絶対超越の神は天地を貫き受肉し、聖霊と真理の言葉(説教と聖礼典)により世の時と場を用いご自身から遜り降って罪人に宿り、外側から魂の奥深くに内在内住し、溢れる贖罪と復活の源泉となり、人間本性をキリストの栄光の身体に新生させ、根源から潤して養い育て、永遠の天の命にわれわれを完成させます。「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」(4:14)「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。」(6:56)
1.ヤコブの井戸、民族の真の「神礼拝」を求める対話の開始(エルサレム神殿とサマリア神殿)
⑴ ヤコブの井戸:サマリアの歴史:B.C.722北の滅亡→雑婚混住 マナセ→分離政策:サマリア神殿祭儀
⑵ 主イエスの旅路:シケム(アルカル)ゲリジム絶壁下、ヨルダン渓谷の酷暑と難路→伝承「枠」の突破
⑶ サマリアの女の痛み(愛喪失:夫不在の病んだ愛)とニコデモの苦悩(神喪失:偽善的律法社会)
⑷ 水を乞う主「水を飲ませてください」(7)立場の逆転 捨て遜る:啓示→神から愛ゆえの呼びかけ☛選び
2.女の深刻な誤解と対立の中で
⑴「ユダヤ人がサマリア人のわたしに、どうして頼むのか」(9):神の救いの水を乞う☛種族と神人の立場逆転
女の誤解1:ユダヤ人とサマリア人の対立☛種族と宗教の相違☛「神のメシア(預言者)申18:15」喪失?
⑵「神の賜物を知り、だれであるか知って」(10)☛メシア:天から降り受肉し罪を贖う神=主イエスに出会う
女の欠如2:救われるべき罪人(罪の自覚)☛愛と選びにより救いを与えるメシア?☛求道心と信仰心?
神が罪人になる:愛ゆえに遜って降り受肉して十字架の死 ☛ケノーシス(フィリピ2:6~8)☛聖霊降臨
⑶「汲むものをお持ちでない、井戸は深い」(11)閉ざされた救いの道、律法処理の限界と罪による絶望の深さ
⑷「ヤコブよりも偉い、その子供や家畜もこの井戸から水を飲んだ」(⒓)地上の権威と全能の創造神の権威
女の限界3:イエス?→預言者?魔法の祈祷師?→完全信仰?☛限界の自覚☛主の身体と聖霊による養育
「楽」になる水?→現世的欲求に終止→現世の障壁突破?→罪の解決と永遠の命?☛信仰の現世的誤解?
3.主イエスの啓示(啓示=神が神でない者のための愛ゆえにご自身を開いて遜り地上に降り受肉し罪を贖う)
⑴「わたしが与える水を飲む者は」十字架と復活の身体☛聖霊の降臨(7:37~39)→内在内住し教導する神
「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。」
⑵「その水をください」(15)→女の限界と誤解→現世次元の枠内、回心と主の恵みの信仰よる超越突破は?
⑶「あなたの夫をここに呼んで来なさい」(16)回心を求める説教→罪を告白する礼拝(Ⅰコリ14:24, 25)
4.霊と真理をもって父を礼拝する
⑴「礼拝すべき場所」(20)真の礼拝?→突破口☛神があなたを選びご自身を与え復活させるわざに与る☛飲む
⑵「わたしを信じなさい」(21)☛主は霊とことばで心身の内にご自身を与えて現存し,神を礼拝する場を創る
⑶「父を礼拝する」(22)☛主イエス「わたしはある」(8:58)ホモウシオス「霊と真理をもって父を礼拝する」(23)
⑷「神は霊である」(24)「水と霊とによって生まれ」(3:5)☛人間「本性」の根源的新生☛主の身体に与る
相互内在化☛神+人「弁護者が来れば…わたしに栄光を与え…わたしのものを受けて…告げる」(16:8~16)
「わたしが父の内に(神)、あなたがたがわたしの内に、わたしもあなたがたの内に(神と人)」(14:20)
聖霊は子を,子は父を証しする☛父⇄子⇄霊の相互に内在する[神]☛人「神はあなたがたのうちにおられ」 聖霊が宿る☛父子聖霊の相互内在の神を宿す☛内からの再創造/永遠の贖罪/命の完成「湧き溢れる泉」4:14
⑸「あなたと話をしているこのわたしである(エゴー・エイミ「わたしはある」出3:14)。」(4:26,8:58)
5.結語:聖霊の働きに助けられて、真理である神のことば(主の語る説教・主の制定された聖礼典)を告げ、
栄光のキリスト(罪の赦しと永遠の命の救い)を心のうちに宿す(神はあなたがたの内におられます)
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説教主題「この岩の上に教会を」―真の教会を求めて―
聖書 詩編42編1~12節 マタイによる福音書16章13~20節
2025.3.9 磯部理一郎
はじめに
本日の主題は地上の教会設立とその役割、勿論「人類救済」です。神「わたしはある」は民の痛みを知り降り救うとモーセに約束。神はついに「受肉の神」主イエスとなり地上に降臨し、人間の心と肉体の中に突入介入し、愛により罪を贖い罪と死に勝利し永遠の命に復活し昇天。福音の内実はこの「栄光の身体」に与り受領することです。主の栄光の身体において身体的に交わり生きて働く真の神を知り、永遠に贖罪と新生の命に養われます。主が「取りて食せよ、これはわたしの身体である」と聖餐を制定しわれらを招き、栄光の身体に与り心身の内に宿します。ここに受肉の神の身体としての地上の教会の本体が見えて来ます。力ある教会の本体は主の身体の現存にあり、聖霊が派遣されて、地上での「栄光の身体」である教会はいよいよ完成に向かって展開してゆきます。
1.無力化(?)したキリスト教の現代的課題:聖書と教会における神喪失と人間主義化の過ち
⑴ 聖書の無力化:神のことば(信仰規範)聖書学→文献学、信仰→神喪失の人間学、情念欲求→人間の言葉
近代神学の根本問題→聖書原典→文献学/歴史学→神?→ヒューマニズム K. Barth「神のことば」の神学
⑵ 教会の無力化(栄光の身体の喪失)の根本原因:「栄光の身体」なき「ことば」、福音の本体・実体の喪失
「空洞」信仰→信仰「根源」はどこ? 神の体験と内在化の可能性(終末論の課題:否定と肯定の原理)
⑶ ミュステリオン(秘跡/隠れた神→受肉の神(十字架と復活の身体)→地上にキリストと聖霊が現存する場
⑷ 教会の力ある根源「栄光のキリストと聖霊」→三位一体の神の突入と介入のリアリティー=キリスト教!
2.神の教会の建設から展開へ:栄光のキリストの身体に与り受領する地上の場「取りて食せよ、わたしの身体」
⑴ メシア(子)告白(マタイ16:13~16、マルコ8:27~30、ルカ9:18~21)救いと福音の本体
⑵ 神の啓示「天の父」(マタイ16:17、ヨハネ6:65)☞ 16:17「幸い」→23「サタン」→24「十字架」
「聖霊を受けよ」(ヨハネ20:22)父⇄子⇄聖霊 ☛ エクレシア「啓示⇄選び・聖霊伝授⇄派遣」
⑶ キリストの身体という教会を立てる(マタイ16:18)歴史を貫く栄光の身体「与える」「与る」「受領する」
「この岩の上に」:<父子霊一体の啓示→人間ペトロ←信仰の応答>☛ 不可分離 終末課題:矛盾と葛藤
⑷ 「天国の鍵」の教会展開(16:19)栄光の神と一体の身体となる場 矛盾24「自分の十字架を背負って」
「汚れた霊に対する権能」「杖」(マルコ6:7,8)弟子の派遣、宣教命令(マタイ28:18~20)
「あなたが地上でつなぐことは天上でも」(ヨハネ15:5, 20:22,23)聖霊と十字架の媒介する委託と権威
3.ヨハネの教会の展開:栄光のキリストとの一躰結合→「キリストの身体となる」→内在化(ヨハネ4:14)
⑴ 大前提:キリストの内住の約束と宣言(ヨハネ14:16~24)主の受肉と聖霊降臨による相互内在の一体性
⑵ 受肉の神の現存と教導「羊の門」「羊飼い」の教会(ヨハネ10:1~5,7~18)み言葉による羊飼いの現臨
⑶ 教会員の根源「声を聞き分ける」(ヨハネ10:3,4)☛「連れ出す」選ばれた羊、主が連れ出し導かれる
⑷ 「栄光の身体」永遠の贖罪と復活の養い ☛過越の小羊と命のパン(ヨハネ1:29, 36, 6:32~41,46~58)
4.地上の教会の使命と役割 神の選びと派遣の場→「栄光の身体」の働き、人類を罪から救い復活に与る場
神の啓示:「わたしはある」(モーセ)→御子の受肉(十字架の死・復活・昇天)→栄光の身体と聖霊派遣
地上の教会☛主の栄光の身体の現存(説教/洗礼/聖餐/弟子の選び)→栄光の身体→聖霊降臨→地上の教会の神
(出3:7, 14、ヨハネ1:1~4, 14,8:58,10:1~4, 9, 14~17,14:15~24,17:21~26,20:22, 23、
Ⅰコリ14:24~25、ルカ22:7~23、ヨハネ6:1~15, 52~58、Ⅰコリ11:23~34、コロサイ3:1~4)
⑴ 御子の受肉と栄光の身体(十字架と復活)と聖霊の降臨(ヨハネ20:22, 23)☛人格心身への内在化!
⑵ 使徒たちの選びと派遣(マルコ5:7~13)×待つ→〇派遣:人類各人に、神の派遣の場に生きる自覚
⑶ キリストの現存と聖霊に導かれる「教会の宣教」(マタイ28:18~20)→完成に向かう養いとたたかい
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説教主題「取って食べなさい」―これはわたしのからだである―
聖書 ルカによる福音書22章14~23節 コリントの信徒への手紙一11章23~34節
2025. 3.2 磯部理一郎
はじめに:神喪失の教会史と聖餐における神の現臨(迫害と世界大戦という殺戮の人類史の中で)
本日はキリストの現臨(現在)と今ここに生きて働く栄光のキリストとの命の交わりをお伝えします。前回は唯一真の神(わたしはある)は、受肉した御子イエス・キリストにおいて到来し啓示され、霊と信仰によりキリストとの出会いの中で、罪ゆるされ新生し神の国に入れられることをお話しました。主は十字架の死により罪を贖い、復活において人類の永遠の命を確証し、天に昇られた。わたくしどもはこの地上にあっても「栄光の主」といつも豊かに出会い、愛され罪赦され、永遠の命の交わりを実現する喜びを分かち合います。それが聖餐です。
1.地上の人類の根本にある原罪の根深い悲惨:信仰や教会をたてる難しさとその限界のただ中にあって
⑴ 律法主義ファリサイ派ニコデモの苦悩:<罪>は律法処理や教義(ある程度)解決不能→虚偽と偽善化
⑵ 人類の根源的「原罪」は? 洗礼:罪の告白/赦し、神の子の神聖、(では、受洗「後」に犯す罪は?)
⑶ キリストの十字架による贖罪の完了、そして復活し昇天し、神の右に座する栄光のキリスト
2.地上(時間)における永遠
⑴ 永遠は地上の中に突入し介入している:啓示(覆いを取除き隠された神と神の働きを現わす)神の受肉
⑵ 啓示の頂点:神の御子の受肉(聖霊によりて宿り処女マリアより生まれ)世と肉の中に突入し一体となる
⑶ 受肉のキリストにおける地上での神の永遠の招き(洗礼)・十字架による贖罪(十字架)と復活そして昇天
3.十字架の死と復活の前に、主イエスはなぜ「主の晩餐」を制定したのか? 継続的現存の約束
⑴ 洗礼:神の招きと加入天国への入会儀礼、古き罪人の死滅、新しき「神から生まれた神の子の誕生」
したがって受洗者は、根源的に罪に支配されない「神の子」として新生した(「告解」の是非)
(コロサイ2:11~15,3:1~4,9、10)
⑵ 時と肉の中で、未完成の神の子:受洗後に繰り返す新しい罪は? どうすればよいか?
⑶ キリストの十字架の死による贖罪の意義:一度限りの、しかし「永遠の贖罪」としての十字架の設定
4.聖霊の永遠の発出と地上への派遣の意義そして聖餐の制定の意義は? 「教会」的現存と「典礼」的現存
⑴ 父と子の内住の約束(「父とわたしとはその人のところに行き、一緒に住む」ヨハネ14:23)
⑵ 永遠の贖罪、神の子の完成:子のために寝食を共に暮らし、永遠の命を養い、成人させる「地上の場」
⑶ 聖霊の永遠なる発出と地上への派遣
聖霊の地上への派遣の意義 ヨハネ15:5,6、16:12~15、11:19~24
5.聖霊派遣に先立つ聖餐の制定:モーセの神「わたしはある」(民の痛み)→「受肉の神」(十字架と復活の神)
⑴ ミュステリオン(サクラメント/秘跡「隠れた神」)はなぜ制定? ×教会, 制定と執行の主: 〇神キリストご自身
洗礼と聖餐、堅信(信仰告白式)、告解(罪の告白と赦しの宣言)結婚・終油(葬儀)・叙階(按手礼)
⑵ 受洗「後」の罪:キリストの歴史的一回限りの十字架の死の犠牲贖罪→「永遠の贖罪」となる場の設定
⑶ 十字架に先行する聖餐の制定(「行って過越の食事ができるように準備しなさい」ルカ22:8)
「過越の小羊を屠る」(死の審判を過ぎ越す儀礼:出エジプト⒓:3~13)永遠に贖罪する犠牲の小羊
⑷ 聖餐執行の主体:招き行うお方は天地を貫き地上にも現存する栄光のキリスト(ルカ22:8,11~13)
「これはわたしのからだである」「わたしの記念」「これを行いなさい」「わたしの血による新しい契約」
6.結語:問題はキリストがここにおられること、聖餐制定により贖罪と復活を地上で永遠に進行させ導く主
⑴ ミュステリオン(聖礼典/秘跡/パン)と神キリスト「現存と内住」をどう説明するか?理性の限界
⑵ 聖餐論:化体説(ローマ)・共在偏在説(ルター)・霊在説(カルヴァン)、×ツヴィングリは実体なし
⑶ ☞ 天地を貫通して栄光のキリストは、地上に現存しわれわれに内住して永遠の命に養い続ける!
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説教主題「ニコデモの苦悶」―聖霊による新生―
聖書 イザヤ書40章1~11節 ヨハネによる福音書3章1~15節
2025.2.23.
隠退教師 磯部理一郎
はじめに
2023年6月18日御教会の礼拝で、神が初めて直接モーセに啓示した神の名「わたしはある(エゴー・エイミ)」(出エジプト3:14)を主題に説教しました。本日の説教も引き続き「わたしはある」神を基軸にして、ユダヤ教師で議員のニコデモの苦悶を通して、開示される主イエスにおける神の真相をお話します。
1.闇夜の中の訪問者ニコデモ
⑴ 苦悶苦悩するニコデモ(ヨハネ3:1~2a,10)
ファリサイ派(律法処理)、議員(サンヘドリン)、教師(神の知者)としての苦悶と問い
宗教権威の闇の実態(ヨハネ11:38~44,45~57)、宗教権威は神を抹殺する(ヨハネ11:53)
⑵ 神の探究者ニコデモ(ヨハネ3:2b、10)
神から、神と共に、神の教師:唯一真の神はどこにおられ、どうすれば出会うことができるのか
⑶ ニコデモの限界点(ヨハネ3:4,9)
母親の胎内にか(現世内に閉鎖、消滅、絶望)、霊から生まれるのか(神を根源として永遠を生きる)
無からの世界創造、人は命の息(創世記2:7)、全ては神の奇跡の中に
2.新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない
⑴ 神の国を見る、神の国に入る(ヨハネ3:4,5)
神の支配と神の完全統治、神の絶対審判にたえて通過する(過越の犠牲)
⑵ あらたに生まれる、水と霊とによって生まれる、(ヨハネ3:3,5)
上から、浸水:罪人の死滅(×律法処罰、神の絶対審判)、霊:聖霊によりキリストを着る一体化
⑶ 霊から生まれた者(ヨハネ3:9)
完全に審判を通過してキリストと共に神の国に生きる
3.天から降り天に上った者
⑴ 天から降って来た者、すなわち人の子(ヨハネ3:13)
神の子の受肉、わたしはある、今その時
⑵ 天に上った者(ヨハネ3:13)
復活と昇天、そして聖霊降臨における相互内在と一体性(ヨハネ14:15~24)
⑶ 神のロゴス(ヨハネ1:1~5,10~12,14)
4.わたしたちの証(ヨハネの信仰共同体)
⑴ わたしたち(ヨハネ3:11)ヨハネの教会、キリストの身体と一躰化された教会
⑵ わたし(ヨハネ3:12)教会の首としてのキリスト
⑶ 人の子(ヨハネ3:10,13~15)天から地上に降り天に上ったキリスト
5.結語 天地を貫通する受肉の神
⑴ 「わたしはある」の受肉
⑵ 受肉における真の神の現臨
⑶ 受肉・十字架・復活・昇天の神キリスト
⑷ 現臨する聖霊と三一体の神
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月報2月号
説教 『 主の御名は力の塔 』
箴言 18章1節~10節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ ……箴言18:1-3
結
序
本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:1-22:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる諺が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。
以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に遭い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。
“ Never confuse a single defeat with a final defeat. ”
〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない。
これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。
わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を蔑んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への肥やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。
このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり稀代の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ
箴言18:1-3――
著者は初めに、「愚か者」を反面教師として、そして次に「神に従う人」を見倣うべき手本として、対照的に描き出しています(Ⅰ⇒Ⅱ、Ⅲ⇒Ⅳ)。「愚か者」の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。
「離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、「離反する者」とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。
そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。
「離反する者」が驕り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに無頓着です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような露悪的な権力者から距離を置こうとしています。
「神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は侮りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、「離反する愚か者」の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の虜になっています。
箴言の著者は次節で、見倣うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を喫したとしても、それで終わり ‘ a final defeat ’ ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。
Ⅱ 人の口の言葉は深い水
箴言18:4――
著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を汲み出すこともできません。
「深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。ただ “ 霊 ” に依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が湧き上がって来るのを知っています。
神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。
主イエスは彼女との “ 霊 ” 的な対話を通して、砂を噛むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまた、サマリアの女に倣って、「深い水」の在処、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。
創世記2:10 天地創造の時――
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代――
1 彼(主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
わたしたち・信仰者はこのような「川」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「川」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す「人の口の言葉」が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた水溜めを掘って」はなりません(同上2:13)。
幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、濁流によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。
Ⅲ 愚か者の唇は争いをもたらす
箴言18:5-9――
唇は罠を自分の魂にもたらす。
再び、Ⅲ.反面教師としての「愚か者」⇒ Ⅳ.見倣うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。
「神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。「神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。
「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について偏り見ていることを示しています。
レビ記19:15――
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。
序.で、人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人の頭や心で、「愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「口」や「唇」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。
「陰口は食べ物のように呑み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に魅了されてしまう、ということです。
そうなると、その「陰口」の真偽のほどを、自分の頭や心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。
Ⅳ 主の御名は力の塔
先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「泉」(源)、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや迂遠なところがありました。
ところが、この節では暗示的な表現が一掃されています。すなわち、ここでは「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。
いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように、“ 霊 ” 的な導きを得なければなりません。
そこで、“ 霊 ” 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」との内容に光が当てられることでしょう。
Ⅴ 御名が崇められますように
マタイ福音書6:9――
「天におられるわたしたちの父よ、
このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名は力の塔」とほめたたえているのでしょう。
元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名」の「力の塔」としての「力」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。
そこではじめて、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは「愚か者」の「破滅」や「罠」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで腐りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。
このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「力」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。
今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に縛りつけられてはいません。
そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。
コリントの信徒への手紙 一 9:24――
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。
わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。
結
「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。
その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。
それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。
それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋されているからです。
W
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〈説教の要約〉
2025年2月16日
(2024年 7月21日 日本キリスト教団
茅ヶ崎南湖教会 講壇交換)
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった ……Ⅰコリント2:1
Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている ……ミカ書3:8
Ⅴ 神の力によって信じるようになるため ……Ⅰコリント2:4-5
序
コリントの開拓伝道から、およそ二、三年が経過しました。パウロは、コリント教会のその後について強い関心を抱いています。彼の仲間である巡回伝道者からの話や手紙によって、ある程度、コリント教会の現況を把握していたようです。そうした中で、今しばらくはコリント再訪の機会がない(Ⅰコリント4:18)ということもあって、パウロは手紙を書くことにしたのです。
Ⅰ わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった
兄弟たち、わたしもそちらに行ったとき、神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした。
「そしてわたしは、兄弟たちよ、あなたがたのところに訪問しました」(直訳)とのキャッチーな(人受けの良い)導入で始まっています。この一句によって、「兄弟たち」の脳裏には、二、三年前にパウロが滞在していた時のことが呼び覚まされます。こうして、時空間の隔たりを超えて、「あなたがた」の注意が「わたし」の方に寄せられます。
そこでパウロが伝えたのが、「(わたしは)神の秘められた計画を宣べ伝えるのに優れた言葉や知恵を用いませんでした」という内容になります。
①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること
②「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした」……パウロの宣べ伝え方
①「(わたしが)神の秘められた計画を宣べ伝えるために」……福音として宣べ伝えること――
「神の秘められた計画」という用語には、隠されていたものが、時満ちて明らかに示されるというニュアンスが含まれています。そこで、伝道者はその「計画」を、“ 霊 ” の働きにより宣べ伝えます。 “ 霊 ” をもって求道する者に語りかけられるようにと祈ります。忍耐をもって相手の心と目が開かれるのを待ちます。
そのために大切なのは、宣べ伝える者自身が、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われているということです。主イエス・キリストの「言葉」を、“ 霊 ” によって正しく聞き、神の大いなる救いを感謝し賛美するのです。
②「(わたしは)優れた言葉や知恵を用いませんでした」……パウロの宣べ伝え方――
しかし、いくら福音の内容が明るみに出されていることを知っていたとしても、宣べ伝え方が間違っていては、どうしようもありません。それではたとい、それを聞いた人が洗礼を受けたとしても、信仰の成熟していない「乳飲み子」(Ⅰコリント3:1-3)の状態から抜け出せなくなる可能性があります。
パウロが用いなかったという「優れた言葉や知恵」は、肉の人が固執している、この世の知恵だと見抜かれます(Ⅰコリント1:20、3:1)。それは、「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)が喧伝するものであり、すぐに役立つように思われます。その結果、人間的に見て知恵のある者(同上1:26)が教会の中ですら幅を利かせることになります。
しかし、この世の知恵は、人々の間にねたみや争いを巻き起こし、なかなか実りを結ぶに至りません。世の知恵において優れていると考える人は結局、自分自身を誇ってしまい(Ⅰコリント1:29,31)、主に仕える者の謙虚さから遠ざかります。
Ⅱ 十字架につけられたキリスト以外は
コリントの信徒への手紙 一 2:2――
なぜなら、わたしはあなたがたの間で、イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていたからです。
「わたしは優れた言葉や知恵を用いなかった」という理由が簡明に述べられます。この節も、要点を二分しましょう。
「わたしは心に決めていた」との表現は、人間臭くも聞こえますが、原意「裁いた」に沿って、“ 霊 ” の判断に従って「良い方を選んだ」と解釈しましょう。その点、「しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ」(ルカ10:42)とおっしゃられた主イエスのおほめに、パウロもあずかれるのではないでしょうか。
パウロは「何も知るまい」決めたことに、主にあって後悔していません。パウロは、人間的に見て知恵のある者から「愚か者」扱いされる(Ⅰコリント3:18、4:10)ことに覚悟ができています。
②「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト以外は」――
“ 霊 ” の判断に従って「良い方を選ぶ」と、「十字架につけられたキリスト」を宣べ伝えることになる、ということです。それが、伝道において「優れた言葉や知恵」が不要な理由です。
なぜ、主イエス・キリストの「十字架の死」に焦点が合わせられているのでしょうか?
コリントの信徒への手紙 一 1:18――
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。
「高ぶっている人たち」(Ⅰコリント4:5)は、「滅んでいく者にとっては愚かなものです」とのパウロの強烈なパンチによっても、容易には目覚めさせられません。なぜなら、自分を誇っている人々には、「宣教という愚かな手段」(同上1:21)が受け入れられないからです。
「キリストはへりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:8)という「十字架の言葉」が、彼らの信仰と生活において、実際に「神の力」となっていなかったのです。パウロは、「あなたがた」が高ぶりを捨て従順になって、「わたしたち救われる者」のもとに帰って来るようにと、祈っています。その篤い祈りは、次節の文面にも滲み出ています。
Ⅲ わたしは恐れおののいていた
コリントの信徒への手紙 一 2:3――
(わたしが)そちら(あなたがたのところ)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。これぞ、「キリスト・イエスの僕」(ローマ1:1)、へりくだりの真骨頂でありましょう。
パウロの「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。しかし、これはある意味、真の「キリスト・イエスの僕」には避けられない体験でありました。
「わたしは十字架につけられたキリスト以外、何も知るまいと心に決めていた」というパウロの信仰とそこから出発した伝道において、パウロは「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」という極度の「弱さ」にさらされました。こうして、パウロは自らの体験と黙想をもって、次のように証ししています……「すると主は、『わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ』と言われました」(Ⅱコリント12:9)。
Ⅳ しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている
ミカ書3:8――
正義と勇気に満ち
イスラエルに罪を告げる。
ミカは紀元前8世紀に活動した預言者です。南ユダ王国モレシェトの出身です。エルサレムのみならず北イスラエル王国のサマリア〈完全アウェーの地〉に向けても預言を発信しました(ミカ書1:6-7、3:12、)。主から御言葉がミカに臨み、そして、主が彼に幻を見させられました(ミカ書1:1、2:7)。
「しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている」……わが民を迷わす偽預言者が罪と不正をもって暴走しているのに対し、「しかし」、主なる神に召された自分は、ということです。集団で活動しているわけではありませんので、ミカの命を保証するものは何もありません。それでも、ミカが動揺することはありません。なぜなら、「力と主の霊 正義と勇気に満ちている」からです。
ミカは自分を虚しくして、ただ「主の霊」の導きによって、「正義」を語ります。ミカはまさにパウロのごとく、主の前に「愚か者」になりきりました(Ⅰコリント3:18)。それは、自分が通り良き管となって、神の「力」を憐れむべき民に注ぎ入れるためでありました。
これもまた、ミカは使徒パウロに先行する形で、「わたしは〈主の霊に満たされて〉心に決めていました」。何を決めていたのかと言えば、「ヤコブに咎を イスラエルに罪を告げる」ということでありました。
頑なな民の猛反発が予想されます。いらだった大群衆からの迫害に遭うかも知れません。だからこそ、神はミカに、「力と主の霊 正義と勇気」という四重の恵みを備えられたのです。
Ⅴ 神の力によって信じるようになるため
コリントの信徒への手紙 一 2:4-5――
4 わたしの言葉もわたしの宣教も、知恵にあふれた言葉によらず、“霊”と力の証明によるものでした。5 それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
コリント教会の会堂に、「優れた言葉や知恵」によって高ぶらない信仰者、または、「“霊”と力の証明」によって十字架につけられたイエス・キリストを信じる人が溢れることを、パウロは願っていました。
「わたしの言葉もわたしの宣教も“霊”と力の証明による」というのは、パウロから数えておよそ700年前の預言者ミカと軌を一にしています。「しかし、わたしは力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)というように、自分の外側からのもの、つまり、神の賜うものが、パウロの信仰と伝道を支えていました。
これも、この手紙に後から出てくる一文ですが、パウロは「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)と言い切っています。「神の言葉」の説教を聞くことも重要であるが、「神の国は力にある」という信仰を持っているか、そして、「神の国の力」が今、あなたがたの間に実現しているか、とパウロは問いかけています。
「神の言葉」によって救われるということは、「神の力によって信じる」ことにほかなりません。「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されているでしょうか。「神の力」の反響が、わたしたちの生活のどこにも見出せないということはあり得ません。
「神の言葉」と「神の力」を分断してはなりません。「神の言葉」から「神の力」へ……“ 霊 ” の働きに押し出されて、わたしたちは善い業に励むようになります(コロサイ1:10)。
このようにして、コリント教会を建てたパウロから、現にその教会を建てついでいる人々に、「神の力」に満ちたのメッセージが書き送られました。 W
〈説教の原稿〉
2025年 2月2日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
旧約聖書 マラキ書 2章14節~16節(P.1499)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章8節~16節(P.307)
説 教「聖なる者とされている」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 離縁してはいけない
Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている
……Ⅰコリント7:12-14
……Ⅰコリント7:15-16
序
今、パウロは結婚または離婚にまつわる問題について論じています(Ⅰコリント7:1-40)。これに関して、主イエス・キリストを信じるコリント教会の人々からの問い合わせがあったようです(同上7:1)。パウロの対応はとても誠実です。正しい倫理観を押しつければ、済むというものではありません。
性的に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)があると言うが、それはどのような考えや慣習に根ざしているのか、あるいはまた、それがどのような影響を周りの人たちに及ぼしているのか、現場からの報告に耳を傾ける必要があります。
パウロは、広大な地中海世界のただ中で、諸教会の伝道者と連係しながら、キリスト教倫理を構築することを志していました(使徒15:1-21、ガラテヤ2:11-14)。地域ごとに異なる歴史や文化の背景を受け止めつつ、神に喜ばれる信仰者の倫理観を探究する水先案内人でありました。何よりもパウロは、主イエス・キリストと再会する終わりの日を待望して、忍耐強く議論しています。
神の賜物といえるそのようなパウロの資質と知見は、今回のテキスト内にも存分に表れています。その中でも、際立っているのが、バランスの良さ、関わりあるすべての人々への心配りです。具体的には、夫と妻、独身者と既婚者、キリスト者と異教徒についてその両面から物事を捉えています。さらには、初婚か再婚か、また、子供がいるかどうか、など細かな点も念頭に置かれています。まさに、パウロは神の家族なるコリント教会に対し、「建築家」の理性と「父親」の愛情を兼ね備えていました(Ⅰコリント3:10、4:15)。
Ⅰ 皆わたしのように独りでいるのがよい
8 未婚者とやもめに言いますが、皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう。9 しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです。
「皆わたしのように独りでいるのがよいでしょう」……コリント教会の人が結婚や離婚にまつわる相談をしているのに、回答者が独身への勧めから始めるのは、いかがなものか、と誰しも思われることでしょう。しかし、ここには、弁論術に長けたパウロなりの作戦があったと見られます。
それは、シンプル イズ ベスト、最初の10秒で、人々の心を鷲づかみにするということです。まさに、パウロはありのままの自分をさらけ出して、聴き手の関心を呼び起こしています。
テキストの後段、離婚者や異教徒に関わる部分では、人生の闇や苦悩が呼び覚まされて、聴き手の気持ちも複雑になります。だからこそ最初に、この勧めが受け入れられるのは一部の人だけかも知れませんが、シンプルな回答を昭示したのです。
コリントの信徒への手紙 一 4:16――
上のメッセージが、「わたしのように独りでいる」(のに倣え)と言い換えられて、助言者の立場が開示されました。
これ以前に、パウロは結婚したことがあったかどうか、は不明です。しかし、キリスト者となって伝道しているとき、彼は「独り」身になっていました。
なおかつ、パウロは「自分を抑制できる」、すなわち、「情欲に身を焦がす」ことのない賜物が、神から与えられているのを証ししました。そこから、節制により「独り」である生活を整え、伝道のために身心全体を献げて励んでいたことが分かります。「独りでいるのがよい」との文句の原意は、「(わたしのように)彼らがとどまる」ということです。パウロのように波瀾万丈の人生を送りながらも、そこに「とどまっていた」点については、神の大いなる恵みと支えを思わずにはいられません。
さて説明が後回しになりましたが、コリント教会の信徒全員を見渡しつつ、パウロは、三つのグループに分けて勧めを提示しています。その最初が「未婚者とやもめ」とに向けて、になります。
「未婚者」との用語がやや分かりにくいのですが、「やもめ」(女性・複数形)との脈絡から、ここでパウロは「男やもめたちと女やもめたち」に話しかけていると見られます。彼らは結婚経験者ですが、死別か離別により「独り」になり、再婚しないでいる人々なのです。
ですから、「わたしのように独りでいるのがよい」との勧めは、若い「未婚者」よりも、むしろ、「男やもめたちと女やもめたち」に向けられたものなのです。そこで、次の疑問が浮かんで来ることでしょう。
すなわち、パウロ個人が神から授けられた「自分を抑制できる」という賜物をもって「独りにとどまる」道を行くのは分かるが、なにゆえに、「男やもめと女やもめの皆さん、わたしのように独りでいるのがよい」と推奨するのか、という疑問です。しかしもちろん、これはパウロからの厳命でも、教会の新しい規則でもありません。
「しかし、自分を抑制できなければ結婚しなさい。情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだからです」……今、パウロは、この世的に正しい結婚観を論じているのではありません。だから、「自分を抑制できなければ」とか、「情欲に身を焦がすよりは」とか、そんなことは、男と女が「結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という秘義なる結婚とは関係ないでしょう、と気色ばむのは止めましょう。
パウロの論点の中心はあくまでも、神の召命とも言える「独りでいる」生活についてであります。パウロの勧めは、独身の形で神の恵みに「とどまる」生涯を選んでみませんか、と言い換えられます。神の恵みにあずかり、神からの賜物を十分に発揮することを、「わたしに倣って」始めましょう、ということです。終わりの日が差し迫っているとの信仰からも、それは願わしいことなのです。
心の開放されているパウロは、「結婚している」ことの恵みについて、日々に感動する経験を持ち合わせていました。実際、「命がけでわたしの命を守ってくれた」プリスカとアキラ(ローマ16:3-4)はじめ、夫妻でパウロの伝道に協力する人々がおりました。
パウロは日頃から、同労者である夫婦、夫とも妻とも、よく話をしていたに違いありません。だからこそ、サタンの誘惑を退け、神に喜ばれる夫婦生活を営み続ける秘訣についても、関心を寄せていました……「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」(Ⅰコリント7:5)。
Ⅱ 離縁してはいけない
コリントの信徒への手紙 一 7:10-11――
10 更に、既婚者に命じます。妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です。11 ――既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい。――また、夫は妻を離縁してはいけない。
次に、シンプルな問答からオーソドックスな問答へと転じます。オーソドックスな、つまり、「正統的」結婚論に基づいて、ということで、「主の命令」が掲げられています。まことに安定した議論の運びになっています。
ここでわたしたちは、「妻は夫と別れてはいけない」または「夫は妻を離縁してはいけない」と、口酸っぱくいさめられている背景を見てみることにしましょう。そこには、常識では想像し難い問題が潜んでいたようです。
それは、当時のコリント教会には、「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1、6:18)について寛大なグループとは正反対のグループが存在していたということです。それが、性的に放埒な異教徒の言動が教会内に入り込まないように、厳格な立場をとる禁欲主義者でありました。
「情欲に身を焦がすよりは、結婚した方がましだから」とのパウロの穏健な言葉を引くならば、禁欲主義者の主張は次のように言い換えられるでしょう。すなわち、「情欲に身を焦がすのは信仰が足りない証しだ。だから、結婚している者は、夫や妻と離婚した方がましだ。そうして、独りになって自分を抑制しよう」と言うのです。
聖書にまれなことではありますが、ナジル人として育てられた人の話が出てきます(士師記13:4,14 サムソン、マタイ3:4、ルカ1:15 洗礼者ヨハネ)。従って、キリスト教倫理の中に、どのように断食や禁欲などの節制を位置づけていくか、は大きな課題でありました。
豈図らんや、突如「禁欲主義」の嵐がコリント教会を襲いました。コリントに現住していない、リモートからでは、さすがのパウロもそれに歯止めがかけようがありませんでした。
想像すれば、そのスローガンは例えば、「既婚者たちよ、夫や妻と離縁しよう。皆で、神の御心に添った禁欲生活に入ろう」ということでしょうか。過激と言えば過激です。現状を自分たちの力で変えようとしています。
そこで、パウロが「妻は夫と別れてはいけない。こう命じるのは、わたしではなく、主です」と証言している主イエス・キリストのお考えがどのようなものであったのか、確かめてみましょう。
マルコ福音書10:2-11――
2 ファリサイ派の人々が近寄って、「夫が妻を離縁することは、律法に適っているでしょうか」と尋ねた。イエスを試そうとしたのである。3 イエスは、「モーセはあなたたちに何と命じたか」と問い返された。4 彼らは、「モーセは、離縁状を書いて離縁することを許しました(申命記24:1-4)」と言った。5 イエスは言われた。「あなたたちの心が頑固なので、このような掟をモーセは書いたのだ。6 しかし、天地創造の初めから、神は人を男と女とにお造りになった。7 それゆえ、人は父母を離れてその妻と結ばれ、8 二人は一体となる(創世記2:24)。だから二人はもはや別々ではなく、一体である。9 従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない。」 10 家に戻ってから、弟子たちがまたこのことについて尋ねた。11 イエスは言われた。「妻を離縁して他の女を妻にする者は、妻に対して姦通の罪を犯す(出エジプト記20:14)ことになる。12 夫を離縁して他の男を夫にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
まず第一に、旧約の典拠を( )に付記した通り、律法を遵守する「ファリサイ派の人々」以上に、主イエスは神の「掟」に従って「離縁」の問題について答えておられます。
次に、下線の箇所において、主イエスは神の「掟」に反する人間の罪深さを捉えておられます。神の御前に「頑固さ」を悔い改めるのが、先決です。それから、夫婦が話し合い、「離縁」が神の御心なのか、互いにとって最善なのか、慎重に考えなさいということです。「情欲に身を焦がす」ような自分本位によって、「妻を離縁して他の女を妻にする」ことも、また、「夫を離縁して他の男を夫にする」ことも許されません。
「離縁状」の発行・認可云々のモーセ律法から思考を開始する「ファリサイ派の人々」はこの世離れをしています。それは机上の空論です。「独りでいる」パウロの方がよほど、夫婦の結婚生活に寄り添っています。
結論的に言えば、主イエスとパウロとの結婚または離婚に対する考え方は、軌を一にしています。双方共に、「あなたたちの心が頑固なので」または「情欲に身を焦がすよりは」という点で、人間の罪や弱さに向き合っています。そしていずれにせよ、主イエスとパウロにおいては、極端な「禁欲主義」によって、男と女の愛の関係を規制するのはあり得ないことです。
ただし、一方、主イエスはユダヤ人家庭を前提にし、他方、パウロは多民族の共生する国際都市コリントを念頭に置いていたという点は異なります。もう一度、パウロの助言を引いてみましょう。
「既に別れてしまったのなら、再婚せずにいるか、夫のもとに帰りなさい」……「再婚せずにいる」は〈今の状態にとどまる〉こと、そして、「夫のもとに帰りなさい」は〈かつての状態にとどまる〉ことが勧められています。これらの言葉には、終末が近いがゆえに、独りの者も結婚している者も、患難の時代に備えるとのパウロの基本的信仰が表明されています。そこには、自分を抑制しつつ独りで生きるという神の賜物を授かっているかどうかを、神に問い尋ねようとする熟慮が秘められています。
ユダヤ人同士であれば、「再婚する」ことは許されています(申命記25:5-6)から、主イエスならば、別の人と「再婚しなさい」と背中を押してくださることがあるかも知れません。
結婚・離婚は古くて新しい問題です。そこで、紀元前5世紀頃に活躍したマラキの言葉に耳を傾けることにしましょう。
Ⅲ あなたの若いときの妻を裏切ってはならない
マラキ書2:14-16――
14 あなたたちは、なぜかと問うている。それは、主があなたとあなたの若いときの妻との証人となられたのに、あなたが妻を裏切ったからだ。彼女こそ、あなたの伴侶、あなたと契約をした妻である。15 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか。そのひとつのものが求めるのは、神の民の子孫ではないか。あなたたちは、自分の霊に気をつけるがよい。あなたの若いときの妻を裏切ってはならない。
離婚する人は、不法でその上着を覆っていると
万軍の主は言われる。
あなたたちは自分の霊に気をつけるがよい。
あなたたちは裏切ってはならない。
マラキは、その名の意味が「わが使い」というように、神がイスラエルの民の間に遣わした預言者でありました。ペルシア帝国の支配下あって、神殿が再建され、人々は礼拝共同体の復興に取りかかっていました。
しかし実際には、礼拝は堕落し、倫理・道徳もないがしろにされていました。というのも。「呪術を行う者」や「高慢な者」など(マラキ書3:5,15)が神を「疲れさせて」いたからです(同上2:17)。その様子は、「裁きの神はどこにおられるのか」(同上2:17)または「あなたたちは、なぜかと問うている」との言葉に表れています。つまり、イスラエルの民の一部は、“ 霊 ” 的な神信仰から遠ざかる、一方で、献げ物に対する主からの見返りなどに不満を抱いていました。
性的に放埒な男が「異教の神を信じる娘と結婚する」(マラキ2:11)という事件を起こしていました。異宗教間の人の結婚について杓子定規に、正論(例えば、もっと寛容になれとか)を訴えても、ここでは意味がありません。テキストの文脈に従って、マラキの主張を汲み取りましょう。
まず、「異教の神を信じる娘と結婚する」というのは意訳すれば、男が「異教の神を信じる娘をめとって」自分の支配欲を充足させる、となります。その横暴な行為は、「若いときの妻(つまり初婚で今結婚生活をしている女性)を裏切った」(マラキ書2:14,15)ことに端を発しています。
結婚においてパートナーを「裏切る」ならば、心底相手を打ちのめしてしまいます。それによって、神との契約のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となった」(創世記2:24)……パウロの言葉では 主は、霊と肉を持つひとつのものを造られたではないか……という真実が葬り去られました。「若いときの妻」を裏切った男は、「離縁状を書いて彼女の手に渡し、家を去らせる」(申命記24:1)という再婚に向けての手続きも一顧だにしなかったのでしょう。自分本位のやり方、一直線でありました。
「わたしは離婚を憎む……離婚する人は、不法でその上着を覆っている」……このように、「イスラエルの神、主」は、「裏切り」を重ねている人に告げられました。もはや「離婚する人」には「上着を覆っている不法」を洗い清める力はありません。
Ⅳ 信者である妻・夫のゆえに聖なる者とされている
コリントの信徒への手紙 一 7:12-14――
12 その他の人たちに対しては、主ではなくわたしが言うのですが、ある信者に信者でない妻がいて、その妻が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼女を離縁してはいけない。13 また、ある女に信者でない夫がいて、その夫が一緒に生活を続けたいと思っている場合、彼を離縁してはいけない。14 なぜなら、信者でない夫は、信者である妻のゆえに聖なる者とされ、信者でない妻は、信者である夫のゆえに聖なる者とされているからです。そうでなければ、あなたがたの子供たちは汚れていることになりますが、実際には聖なる者です。
当時、コリント教会は、「異教の神を信じる」人々(マラキ書2:11)との交際や婚姻が避けられない情況に置かれていました。「主が慈しんでおられる聖なるものを汚されない」(同上2:11)ように、祈り求めるのが、喫緊の課題になりました。「わたしは離婚を憎む」(同上2:16)と言う神の御前で、「離縁」すべきなのかどうか、難しい選択を迫られることもありました。
理性を持つ、初代のコリント教会「建築家」としてパウロは、結婚ならびに離婚の問題を、三つのグループに分けて考えました。それによって、結婚や離婚という出来事の背後にある人間の罪深さや弱さをつまびらかにしようと試みました。パウロは個別の問題が解決されると共に、神の聖なる神殿、すなわち、キリストの体なる教会が建て直されるよう、助言を送り続けています。
すでに一番目「男やもめと女やもめ」(キリスト者)、二番目「既婚者」(キリスト者同士)が取り上げられて、そして三番目「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)が登場しました。
パウロの議論が一貫した信仰と倫理に基づいています。すなわち、「独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)の原意である「(わたしのように)彼らがとどまる」との指針が、「その他の人たち」の事案にも適用されています。ここでわたしたちは、「とどまる」との真意が、結婚・離婚の人間関係を超えて、神との善い関係に「とどまる」ということにある、と教えられます。逆に言えば、その関係から「離れる」のは、人間の罪深さや弱さによって敗北させられることを意味しています。
その観点からも、極端な禁欲主義や性的な放埒な振る舞いは、人間中心の考え方を教会の中に呼び入れてしまうというが明白です。そして、そのように教会内が混乱していれば、「その他の人たち」の中に含まれる異教の人々の人生までも、不幸にさせてしまいます。
パウロは「主ではなくわたしが言うのですが」と、誠実に断ったうえで、キリスト者の夫や妻と「一緒に生活を続けたいと思っている」、異教の妻や夫に向けて、温かい言葉を投げかけています。
「彼女または彼を離縁してはいけない。信者である夫または妻のゆえに聖なる者とされているから」……パウロ自身が神の恵みに寄りかかっていることを証する、希望に満ちた励ましです。「わたしは独りにとどまります。あなたがたは夫婦関係にとどまりなさい」というのは、なんと寛大なメッセージなのでしょう。神はそれぞれの人に、と同時に、それぞれの夫婦に、賜物と使命を与えられている、だから、皆が力を合わせて、神のために働こう(Ⅰコリント3:9)、とパウロは呼びかけています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。①原文しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、②原文しかし、聖なる者とされ、③原文しかし、義とされています。
異教徒との結婚にとまどいが生じている「そのような者」、彼らこそ、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」による三重の恵みにあずかっています。神の清めの力は、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっています。
Ⅴ 相手が離れていくなら、去るにまかせなさい
コリントの信徒への手紙 一 7:15-16――
15 しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい。こうした場合に信者は、夫であろうと妻であろうと、結婚に縛られてはいません。平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです。16 妻よ、あなたは夫を救えるかどうか、どうして分かるのか。夫よ、あなたは妻を救えるかどうか、どうして分かるのか。
「信者でない相手が……」または「信者は、夫であろうと妻であろうと……」というように、なおも、
三番目の「その他の人たち」(キリスト者と異教の者)への言及が続いています。そして、「主ではなくわたしが言うのですが」と明記されているように、主イエスの命令ではなく、“ 霊 ” の導きによるパウロの一つの見解が述べられています。
このような助言の仕方からも、パウロは性的な「情欲」のみならず、伝道・牧会のあらゆる面で、「自分を抑制する」賜物を持っていると知らされます。主イエスの教えの基づく確信と個人的な意見とを混在させてはなりません。祈りと聖書、そして “ 霊 ” の導きによって、自分の思いが信仰的確信に至るか、独り退いて待てる人は幸いです。なおその上で、「その他の人たち」との対話を心がける、パウロはそのような人でありました。
さて、パウロは「しかし、信者でない相手が離れていくなら、去るにまかせなさい」と、自分の勧めを方向転換させています。なぜなら、「独りでいるのがよい」(Ⅰコリント)、すなわち、「(わたしのように)彼らがとどまる」というのが、パウロの現下の基本信条だからです。ただ単にこの場では、「結婚に縛られてはいません」と諭して、独身者を増やそうとしているだけなのでしょうか。
どうしてパウロは、「信者である夫や妻」に対し、「信者でない相手が離れていかないように」、祈り説得しなさいと、勧告しなかったのでしょうか? そこには、以前のパウロの言説とも合致する理性的な理由があります。
コリントの信徒への手紙 一 5:12-13――
12 外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。13 外部の人々は神がお裁きになります。
パウロは、「外部の人々」または「信者でない(夫や妻の)相手」を冷たくあしらうような非情な人ではありません。そうではなく、彼らが信仰者から「離れて」・「裁かれる」のか、それとも、「救われる」のかどうかを、神にまかせよう、とパウロは考えているのです。それが、使徒の一貫した姿勢でありました。神が「信者である夫や妻」と通して、「信者でない相手」を救うことのできるお方です。パウロは、その一点に希望をかけています。
最後に、パウロは、結婚または離婚の問題を抱えているコリント教会の当事者ならびに信徒全体に、的確なメッセージを送ります。
「平和な生活を送るようにと、神はあなたがたを召されたのです」……それは、「神の平和」を見上げながらも、しっかりと地に足をつけているパウロからの励ましです。
わたしは或る日突然、「あらゆる人知を超える神の平和がキリスト・イエスによって」、わたしたちの間に啓示される(フィリピ4:7)、と信じます。と同時にそれは、「神が召された(呼ばれた)」、日ごとのわたしの「平和な生活」において現されています。
「二つの思いが一日を枠づけます。
朝、わたしたちは『愛』という言葉に思いをひそめます。
意思に方向を与え、想像力をはばたかせ、行為を準備する愛に。
晩になれば、『平和』という言葉がわたしたちを待っています。
不快や失望、疲労感や過度の興奮を受けとめてくれる平和が」(イェルク・ツィンク)
パウロは日々に、コリントの信徒への手紙をしたためつつ、初代教会において、キリスト教倫理を確立しようと祈り励んでいました。結婚解消すら標榜する禁欲主義者と性的行為に放縦な人々という両極端な考え方への怒りと憎しみによって、疲れ果てさせられた夕べを迎えたこともあったでしょう。
しかしパウロには、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の巡りがありました。それこそが、パウロが主にあって「平和な生活を送る」と同時に、難題を抱えた各地のキリスト者に善き助言を与える命の泉でありました。
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〈説教の原稿〉
2025年 1月26日
降誕節 第5主日
旧約聖書 箴言 18章1節~10節(P.1014)
説 教「主の御名は力の塔」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ ……箴言18:1-3
結
序
本日のテキストは、旧約聖書・箴言の「ソロモンの格言集」(10:1-22:16)から選びました。そこには特に、言葉に関わる諺が連続して出てきます。確かに、言葉は時に人を慰め、時に人を傷つけます。人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われています。
以前に、主イエスのガリラヤ地方の伝道について説教したときに、次のような諺をご紹介しました。それは、故郷のナザレで迫害に遭い、湖畔のカファルナウムに戻って宣教に取り組まれている主イエスの様子(ルカ4:16-30,31-37)を、現代の諺で言うと、という事でありました。
“ Never confuse a single defeat with a final defeat. ”
〔和訳〕単なる一つの失敗を、最終的な失敗だと思い込んでならない。
これは、アメリカの小説家、スコット・フィッツジェラルドが残した名言です。フィッツジェラルドの代表作には、『グレート・ギャツビー』(映画名『華麗なるギャツビー』)があります。
わたしたちの間にはしばしば、たった一つの失敗のために、自分を蔑んで引きこもり、隣人との距離を置くということが起こります。しかし、それは人生全体から見れば、一つの失敗に過ぎず、時間が経てば冷静になって考え直すことができます。だから、それは決して、「最終的な失敗」ではありません。先の挫折は次への肥やしとなり、最終的な成功への手がかりとなります。
このフィッツジェラルドの名言は、第一次世界大戦後の困難な時代にあって、人々に希望を与えるものとなりました。それでは、イスラエル王国第三代目の王であり稀代の知者であるソロモンにちなんだ格言集を読んでいきましょう。
Ⅰ 愚か者は自分の心をさらけ出すことを喜ぶ
箴言18:1-3――
著者は初めに、「愚か者」を反面教師として、そして次に「神に従う人」を見倣うべき手本として、対照的に描き出しています(Ⅰ⇒Ⅱ、Ⅲ⇒Ⅳ)。「愚か者」の姿の方がより詳しく報じられているのは、それがこの世の実情であり、だからこそ警告しているのだ、という意図が鮮明になっています。
「離反する者は自分の欲望のみ追求する者」……ここで、「離反する者」とは「自分を人から分離している者」とういう意味で、何事もひとりよがりに行う人を指しています。大概は、そのような人は自分はりっぱな事をしていると考えているので、他の人の持つ「英知」によって教えられようとはしません。
そのような「愚か者」は孤立しているにもかかわらず、「自分の欲望を追求している」ので、しばしばたわい無いことを「裁判ざた」にしてしまいます(Ⅰコリント6:7)。多くの場合、良好な人間関係があれば、少しの行き違いが「裁判ざた」になることはないのですが……。しかも、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」いるので(同上6:4)、更なるねたみや争いを巻き起こしてしまいます。
「離反する者」が驕り高ぶっていることは、「自分の心をさらけ出すことを喜ぶ」に現れています。その人は自分が「裸の王様」になっていることに無頓着です。隣人の「英知」に耳を傾けられれば、「事は、どんなに巧みにやってもすぐ知れる」ことの愚かさに気づけるのですが……。自分の評判が落ちても意に介そうとはしません。周囲の人々はもはや、そのような露悪的な権力者から距離を置こうとしています。
「神に逆らうことには侮りが伴い 軽蔑と共に恥辱が来る」……これは、ちょっとユーモラスな、なおかつ皮肉のこもった表現になっています。翻訳し直すと、「神への反逆は侮りと共にやって来る。そして、軽蔑は恥辱と共にやって来る」となります。それが、「離反する愚か者」の末路です。その人はもはや「自分の心」で何事も制御することができずに、「侮り」や「恥辱」などの悪感情の虜になっています。
箴言の著者は次節で、見倣うべき手本として「神に従う人」を提示します。いったんここで、悪い知恵の巡りを断ち切ります。もし、あなたが「愚か者」の口車に乗って罪を犯し敗北を喫したとしても、それで終わり ‘ a final defeat ’ ではありません。神はあなたのために、言葉の力によって立ち直る道を備えていてくださいます。
Ⅱ 人の口の言葉は深い水
箴言18:4――
著者はまさに悪い流れを断ち切り、自然の描写をもって、「人の口の言葉」の源泉を指し示しています。「離反する愚か者」はこの「知恵の源」を見ることも、そこから「英知」を汲み出すこともできません。
「深い水」には、見えない部分があります。そこには、「神秘としての神の知恵」が隠されています(Ⅰコリント2:7)。ただ “ 霊 ” に依り頼む者だけが、そこから「神の知恵」が湧き上がって来るのを知っています。
神のもとから信仰者に与えられる「知恵」に満ちた「人の口の言葉」というものがあります。それは、天地創造の初めから終わりに来る神の国に至るまで、「深い水」となり「大河のように」流れ続けています。そこには、主イエスがサマリアの女に差し出された「永遠の命の水」が湧き出ていました(ヨハネ4:14)。
主イエスは彼女との “ 霊 ” 的な対話を通して、砂を噛むような、飢え渇いた人生を送っている独りの女に、まことの希望を与えられました。旧新約聖書はわたしたちもまた、サマリアの女に倣って、「深い水」の在処、「大河の流れ」を知るようにと忍耐強く招いています。
創世記2:10 天地創造の時――
エデンから一つの川が流れ出ていた。園を潤し、そこで分かれて、四つの川となっていた。
エゼキエル書47:1,8 旧約聖書の時代――
1 彼(主の使い)はわたしを神殿の入り口に連れ戻した。すると見よ、水が神殿の敷居の下から湧き上がって、東の方へ流れていた。神殿の正面は東に向いていた。水は祭壇の南側から出て神殿の南壁の下を流れていた。8 彼はわたしに言った。「これらの水は東の地域へ流れ、アラバに下り、海、すなわち汚れた海に入って行く。すると、その水はきれいになる。」
1 天使はまた、神と小羊の玉座から流れ出て、水晶のように輝く命の水の川をわたしに見せた。2 川は、都の大通りの中央を流れ、その両岸には命の木があって、年に十二回実を結び、毎月実をみのらせる。そして、その木の葉は諸国の民の病を治す。
わたしたち・信仰者はこのような「川」の流れのほとりに暮らしています。主なる神は、このような「川」の幻を通して、「わたしこそが、生ける水の源」(エレミヤ書2:13)であることを教えられています。そこから、神の義と愛を映し出す「人の口の言葉」が湧き出て来ます。神の知恵に基づく教えをないがしろにして、自分で、「水をためることのできない こわれた水溜めを掘って」はなりません(同上2:13)。
幸いなる「流れのほとりに植えられた木」(詩編1:3)であっても、水が日照りで枯渇することもあります。あるいは、濁流によって根こそぎ、押し流されることもあります。更なる知恵を格言集から学び取りましょう。
Ⅲ 愚か者の唇は争いをもたらす
箴言18:5-9――
唇は罠を自分の魂にもたらす。
再び、Ⅲ.反面教師としての「愚か者」⇒ Ⅳ.見倣うべき手本としての「神に従う人」についての叙述が繰り返されます。
「神に従う人を裁きの座で押しのけ 神に逆らう人をひいきするのは良くない」……ここでも、「自分の欲望のみ追求する者」の「裁判ざた」が席巻し、この世や教会を混乱させる様子が捉えられています。「神に従う人を裁きの座で押しのける」との一つの箴言が、十字架前の主イエスの裁判において成就する(ヨハネ18:38-40)のは、恐ろしいことです。この世の知恵に依り頼むピラトは、「えこひいき」によって「裁判」をゆがめてしまいました。
「~をひいきする」というのは、「~の顔を立てる」というのが原意で、「裁判」について偏り見ていることを示しています。
レビ記19:15――
あなたたちは不正な裁判をしてはならない。あなたは弱い者を偏ってかばったり、力ある者におもねってはならない。同胞を正しく裁きなさい。
裁き人は、「神に逆らう人」や「力ある者」のみならず、「弱い者をも偏ってかばったりしてはならない」というのが、旧約律法の教えです。人の思いによらず、神の御前での善悪、罪過の有無が追及されるべきなのです。
序.で、人が語るとき、言葉遣いや発言の内容はもちろんのこと、その人自身の生き方が問われていると述べました。これを言い換えると、言葉の問題には、人間の身体に関わる、根深さがあるということです。例えば、人の頭や心で、「愚か者の口は破滅を 唇は罠を自分の魂にもたらす」ことを理解していたとしても、「口」や「唇」は制御不能になり得るということです(ヤコブ3:2,8)。それ故に、「愚か者の唇は争いをもたらし、口は殴打を招く」という悲惨な情況がこの世から絶えません。
「陰口は食べ物のように呑み込まれ 腹の隅々に下って行く」……この諺は、「人の口の言葉」が身心全般に関わることを見抜いています。その意味は、次のようになります。すなわち、「陰口」は語る人と聞く人の「腹の隅々に」まで染み通る、それは、美味しい「食べ物のよう」なので、食べた人はその「陰口」に魅了されてしまう、ということです。
そうなると、その「陰口」の真偽のほどを、自分の頭や心で判別できなくなります。「陰口」の悪影響の大きさが、「仕事に手抜きする者は それを破壊する者の兄弟だ」との諺によって裏づけられています。何かの建築にたずさわる兄のちょっとの「手抜き」が、弟による「破壊」をもたらす、ということです。その点では、次節に出てくる「力の塔」は堅固であり、悪意ある人の「手抜き」や「破壊」が忍び込む余地はありません。
Ⅳ 主の御名は力の塔
先述の通り、箴言18:4では、著者は「離反する愚か者」による悪い流れを断ち切ろうとして、「人の口の言葉」の源泉を昭示しました。しかし、「深い水」、「大河」、「泉」(源)、「流れ出る」というように自然描写が前面に出て、やや迂遠なところがありました。
ところが、この節では暗示的な表現が一掃されています。すなわち、ここでは「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されています。「神に従う人」は「主の御名こそが力の塔」と信じています。それ故に、その人は「力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられ」ます。
いずれにしても、理解の鍵は、どのように「そこに走り寄り、高く上げられる」との文句を解釈するかに掛かっています。それこそ、わたしたちは、「深い水」、または、「大河のように流れ出る知識の源」に対面するように、“ 霊 ” 的な導きを得なければなりません。
そこで、“ 霊 ” 的な導きにあずかれますように、ということで、主イエスが教えられた祈りの一節を読んでみましょう。そうすれば、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」との内容に光が当てられることでしょう。
Ⅴ 御名が崇められますように
マタイ福音書6:9――
「天におられるわたしたちの父よ、
このように主の祈りに、「御名が崇められますように」との句が出てきます。従って、「御名を崇める」との信仰心から、箴言の著者は「主の御名は力の塔」とほめたたえているのでしょう。
元来、「御名が崇められますように」とは、「あなたの名が聖とされますように」との意味です。つまり、わたし・人間が聖別されることを第一としてはいません。どうか、「主の御名」のきよさを保ってください、聖なる「御名」の「力の塔」としての「力」を発揮してください、という神御自身についての祈りなのです。
そこではじめて、「神に従う人は力の塔に走り寄り」、「主の御名」によって「高く上げられる」というつながりが浮かび上がってきます。すなわち、わたしは「愚か者」の「破滅」や「罠」に巻き込まれそうになっています。もはやわたしは「愚か者」の「侮り」や「軽蔑」によって「腹の隅々」まで腐りきっています。だから、わたしは「力の塔に走り寄り」、そこに逃げ込みます、ということなのです。
このように、聖なる「御名」によりすがる人は、「御名」の「力」によって「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)が与えられました。それ故に、その人は、神の御前にへりくだり、ひれ伏しています。
今や「神に従う人」にとっての「大河のように流れ出る知識の源」は、聖なる「主の御名」にほかなりません。そうして、神の御前に低められた人は、「高く上げられ」ます。それは、主イエスの母マリアが、「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。…… 主は権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げられます」(ルカ1:48,52)と歌っている通りです。もはや、世にある「自分の欲望」に縛りつけられてはいません。
そして、「神に従う人はそこに走っていく〔原意〕」というの初めの原体験になります。ここで大切なのは、キリスト者として人生の先達パウロの教えに従うことです。
コリントの信徒への手紙 一 9:24――
あなたがたは知らないのですか。競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなたがたも賞を得るように走りなさい。
わたしたちは、「キリスト・イエスによって上へ召されて」います(フィリピ3:14)。主イエス・キリストに再会するというゴールを目指して、全力を出し切ろうとしています。
わたしたちは、この世においては「いわば旅人であり、仮住まいの身なのです」(Ⅰペトロ2:11)。箴言という「深い水」から神の知恵とわたしたちの言葉を汲み出しながら歩んで行きましょう。「走っていく」先にあるゴールが、わたしたちの最大の希望です。
結
「主の御名は力の塔。神に従う人はそこに走り寄り、高く上げられる」との箴言の内に、「主」なる神と「神に従う人」との緊密な関係が示されていました。
その緊密な関係の中心は、わたしたちが神によって救われていることにあります。「イエス」という名(原意:主なる神は救い)こそが、それを表しています。わたしたちが「そこに走り寄り、高く上げられる」のは、すべて主イエス・キリストによって救われているからです。
それ故に、「イエス・キリストという御名は力の塔」と言い換えられるでしょう。そこに逃げ込み、高く上げられるという恵みを受ける……パウロの言葉では「賞を受ける」……には、どうすればよいのでしょう。
それは、十字架につけられ三日後によみがえられた主イエス・キリストを心から信じることです。主イエスはわたしたちの前に道を備えられています。というのも、主イエスはこの地上の生涯を走りきり、天国に凱旋されているからです。
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〈説教の原稿〉
2025年 1月19日
降誕節 第4主日
旧約聖書 ゼカリヤ書 10章2節(P.1490)
新約聖書 マルコによる福音書 6章30節~44節(P.72)
説 教「パンと魚を弟子たちに渡して配らせた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ ……ゼカリヤ書10:2
Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ ……マルコ6:30-34
Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい ……マルコ6:35-37前半
Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい ……マルコ6:37後半-38
序
「さあ、いよいよ」と思わず声かけしたくなるような主イエス・キリストによる奇跡が行われます。ここで、ガリラヤ伝道(マルコ1:16-8:26)は一つの山場を迎えると言ってよいでしょう。
弟子たちの派遣と帰還が完了したばかりのことです。弟子たちは、悔い改めのための宣教、悪霊祓い、そして、病気の癒やしという実践の訓練を受けました(マルコ6:12-13)。弟子たちが主のもとを離れている、その幕間には、真の弟子と言える洗礼者ヨハネのことが回想されました。
ヨハネは人間の逆恨みや無関心の罪に巻き込まれて、ヘロデ王の誕生日の宴会中に虐殺されました。この出来事は、主イエス・キリストの十字架と復活についての予告として心に刻んでおくべきものでありました。こうしてヨハネは、主イエスに対する先駆者の役割を果たすことになりました。
さてここに、四つの福音書すべてに記されている唯一の奇跡が繰り広げられます。しかも、主イエスと弟子たちとの会話や場面の移り変わりが四福音書の中でマルコには、最も詳しく描き出されています。また、弟子たちの背後には、主イエスめがけて押し迫って来る群衆がいます。彼らもまた、主イエスの御言葉によって教えられ、奇しき御業を経験することを望んでいます。
弟子たちが主イエスのもとに再結集して、「良い機会が訪れ」ました(マルコ6:21)。神の大いなる救いの計画が大勢の群衆の前で実行されます。夕暮れ時、「青草」の生い茂る広い土地……舞台は整いました(同上6:35,39)。この出来事はわたしたちを、弟子たちの伝道による一時的な成果やヨハネの悲劇的な殉教などの先に連れて行きます。
それは、わたしたちの信仰の中心に置くべきものです。というのも、そこに、祝福してパンと魚を分かち与えてくださった主イエス・キリストの憐れみ深さが現されているからです。それこそ、わたしたちが週一で再結集する主の日に、新しい気持ちで思い起こすべきものであります。
Ⅰ 人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ
ゼカリヤ書10:2――
テラフィムは空虚なことを語り
占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る。
その慰めは空しい。
羊飼いがいないので苦しむ。
本日の新約テキストに、「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」(マルコ6:34)と書かれています。そこで、「その民を羊のように養われる」神なる主(ゼカリヤ書9:16)と民との関係を調べてみることにしましょう。
ゼカリヤ書10章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような希望を抱いて生きていたかが、克明に報告されています。
「主はわたしの羊飼い」(詩編23:1)との信仰を堅持しようとしながらも、迷ったり悩んだりするのが、多くの民の現実でありました。そのような状況にあって預言者ゼカリヤは、民が不信仰に傾き、将来への希望を打ち捨ててしまう根本原因を見抜いていました。
「テラフィムは空虚なことを語り 占い師は偽りを幻に見、虚偽の夢を語る」……ここには、人間が何故に洗脳されてしまうのかが如実に表されています。「テラフィム」というのは、本来、家の守り神で、「占い」を行い、「夢」に現れる偶像的な存在を指しています(創世記31:19、士師記17:5、列王記下23:24)。
問題は、「テラフィム」、「占い師」、そして「虚偽の夢」(三つ共に名詞の複数形)が束になって人々に「語りかけている」ということにありました。それが、民が「わたしの羊飼い」なる神から離れ去ってしまう根本原因だったのです。物心両面で飢え渇いていた民の心には、「空虚なこと」や「偽り」が常駐するものとなりました。
「それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」……哀れな人々ではありますが、当然の報いと言えましょう。「偽り」なる者が四六時中「語りかけている」状況では、自力では逃げ出すことも立ち直ることもできません。
ところで、「主はわたしの羊飼い」との信仰の基本を知る預言者ゼカリヤが、民に向かって、「羊飼いがいない」と断言しているのは、どういう意味なのでしょうか?
この箇所の「羊飼い」は、宗教的指導者、預言者、そして祭司を指していると思われます(D.L. ペーターセン)。それは次節に、「羊飼いたちに対して、わたし(神)の怒りは燃える」(ゼカリヤ書10:3)との神の叱責が加えられていることからも分かります。彼らは元来、神殿での礼拝を取り仕切り、民の信仰生活を導く立場にある人たちです。
主なる神は人生の荒れ野を歩んでいるイスラエルの民に、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る」(ゼカリヤ書9:9)と呼びかけておられます。多くの人々が、自力では罪の闇から脱出できる可能性がほとんどないような状態に置かれています。
しかし、神は真の「羊飼い」の先駆けとしてゼカリヤを遣わされました。ゼカリヤは苦悩のどん底にある民に寄り添い、次のように神の託宣を告げました。
ゼカリヤ書9:17――
それはなんと美しいことか
なんと輝かしいことか。
穀物は若者を
新しいぶどう酒はおとめを栄えさせる。
ゼカリヤ書14:7――
その日には、夕暮れに光がある。(私訳)
この神の託宣は、先駆者ゼカリヤから「良い羊飼い」(ヨハネ10:11,14)なる主イエス・キリストに引き継がれました。
Ⅱ 主イエスは飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ
マルコ福音書6:30-34――
30 さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した。31 イエスは、「さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい」と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである。32 そこで、一同は舟に乗って、自分たちだけで人里離れた所へ行った。33 ところが、多くの人々は彼らが出かけて行くのを見て、それと気づき、すべての町からそこへ一斉に駆けつけ、彼らより先に着いた。34 イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた。
「さて、使徒たちはイエスのところに集まって来て、自分たちが行ったことや教えたことを残らず報告した」……ここで、〈今〉弟子たちの派遣(マルコ6:7-13)⇒〈回想〉ヨハネの虐殺(マルコ6:14-29)⇒〈今〉弟子たちの帰還(マルコ6:31)というサンドウィッチ形式で物語られた段落が終わります。そうして、次のステージ(舞台)に立つ態勢が整えられました。
「イエスは、『さあ、あなたがただけで人里離れた所へ行って、しばらく休むがよい』と言われた。出入りする人が多くて、食事をする暇もなかったからである」……「初めに言があった」(ヨハネ1:1)という通り、すべては主イエスの言葉かけから始まります。「しばらく休むがよい」との一句に、弟子たちはどれほど慰められたことでしょう。十二弟子の中で、派遣中の自分の失敗や民からの反発によって動揺している者もいたかも知れません。しかし、そのような者をもねぎらう主イエスの思いが伝わってきます。まさに、「だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6:34)との御言葉の通りです。
そのような弟子たちに寄り添う主イエスの思いを読み取ったうえで、わたしたちはさらにこの一節に含まれている「神秘としての神の知恵」(Ⅰコリント2:7)を汲み取らなければなりません。そのためには、「“霊”は一切のことを、神の深みさえも究めます」(同上2:10)という “ 霊 ” の導きにあずかることが必須になります。なにしろ、わたしたちはガリラヤ伝道中の主イエスによる最大級の奇跡に立ち合おうとしているのですから。
主イエスは五千人に対する給食の主催者です。今、人の思いをはるかに超えた、神の大いなる救いの計画を実行に移されます。ガリラヤの大地に、“ 霊 ” が充満し、春(青草の頃)の夕べに、「良い機会が訪れ」ました。
場所は、ガリラヤ湖畔……おそらく伝道拠点のカファルナウム……から、「人里離れた所」へと移されます。そして、弟子たちが「しばらく休む」ことから「食事をする」ことへと誘導されます。さらに、「出入りする人が多く」という「大勢の群衆」も「すべての町からそこへ一斉に駆けつけ」ます。あれよあれよという間の出来事ですが、「神秘としての神の知恵」によってすべてが支配されています。舟の便あり、徒歩の先回りあり、ガリラヤの自然を舞台に、主イエスに従う人々、皆が動かされています。
なおその上に、「人里離れた所」は、「朝早くまだ暗いうちに、イエスは起きて、人里離れた所へ出て行き、そこで祈っておられた」(マルコ1:35)という場所ですから……仮に今回と同一の所でないとしても……、“ 霊 ” が豊かに宿っている土地に違いありません。そこには、エルサレムのゲツセマネの園のように、父なる神の御心が行われるように(マタイ26:36-46)、との主イエスの祈りがありました。
このようにわたしたちが、“ 霊 ” に導かれて、この場面の主イエスの言葉と行いを一つひとつ追っていくことが大切です。それによって、「神秘としての神の知恵」がわたしたちに啓示されることになります。
「イエスは舟から上がり、大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊(複数形)のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」……主イエス・キリストがやって来られました。人知れずに、神の支配のもとに、招かれる人々や食事の場が整えられました。そうして、主イエスがステージ(舞台)に立たれたのです。
主イエスは、「それゆえ、人々は羊のようにさまよい 羊飼いがいないので苦しむ」との預言者ゼカリヤの声に耳を傾けられました。およそ400年前の、哀れな人々の様子に思いを寄せられました。
「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」と表現されている通り、主イエスは羊飼い不在の「羊たち」のために「はらわたを痛め」られました。当初、わたしたちの目には、主イエスが帰って来た弟子たちを食事をもってねぎらうことしか、映っていなかったかも知れません。しかし、主イエスは初めから、「すべての町からそこへ一斉に駆けつけて来る大勢の群衆」を、御言葉と食事とをもってもてなすことを企図されていたのであります。
「いろいろと教え始められた」……主イエスは、ガリラヤ湖畔の巡回伝道において、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気のいやしなどの奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。「人里離れた所」でも、主イエスはその順に従って宣教されました。
ここまでは、主イエス・キリストの主導のもとに、事が運ばれました。ところが、「大勢の群衆」への給食の奇跡が行われる段になって、主イエスは弟子たちに代表される肉なる人間……自然の人・肉の人(Ⅰコリント2:14、3:1)……と対峙されることになります。というのも、主イエスの目的は、罪への誘惑や欲望のこびりついた人間を、神の御心のもとに立ち帰らせることにあるからです。「神秘としての神の知恵」を知ることを妨げるような弟子たちの常識は打ち砕かれます。それが、いくら賢そうに見える反論であっても、です!
Ⅲ あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい
マルコ福音書6:35-37前半――
35 そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った。「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。36 人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう。」 37 これに対してイエスは、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」とお答えになった。
このⅢ.と次のⅣ.では、〈当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの毅然たる答え〉が反復されています。それによって、「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されます。従って、このような会話による主イエスの導きと教えは、わたしたちの信仰が形づくられる基となります。
なぜなら、わたしたちの信仰というのは、「肉の人」の高慢・貪欲・絶望などを捨て去って、神に立ち帰ることだからです。まさにこの場面のように、主イエスは自力では何も為し得ないわたしたちを悔い改めさせ、神の恵みにあずかるよう導かれます。火花の散るような弟子たちとの対話の内に、「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れむ」ことが表されています。主イエスはまことに「良い羊飼い」であるに違いありません。
「そのうち、時もだいぶたったので、弟子たちがイエスのそばに来て言った」……「時もだいぶたった(おそくなった)」とは「夕方になった」という意味です。これまでにも、主イエスは「夕方になって日が沈むと」、大勢の人たちを癒やしたり、舟に乗り向こう岸に渡って伝道されました(マルコ1:32、4:35)。こうして、「青草」(マルコ6:39)の萌え出でる春の夕暮れ時、「人里離れた所」という舞台が整いました。
「ここは人里離れた所で、時間もだいぶたちました。人々を解散させてください。そうすれば、自分で周りの里や村へ、何か食べる物を買いに行くでしょう」……或る意味では、ここで弟子たちは良識的な判断をしています。しかし、彼らは主イエスから許可を取ろうとするばかりで、主イエスに助けていただこうとはしていません。買い出しのためとはいえ、「人々を解散させて」しまうならば、「羊たち」は散り散りばらばらになってしまいます(列王記上22:17、エレミヤ書23:1)。何も「食べる物」を買えない「羊」や迷って再び戻って来ない「羊」も出てくることでしょう。それに、せっかく、祈りの “ 霊 ” に満ちた「人里離れた所」に集まって来たことが無駄になってしまいます。
「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日の始まりに主イエスが立っておられます。夜の帳が下りる前、「夕方」こそ、主イエスによって新しいことが行われるチャンス、「良い機会」なのです。弟子たちよ、「主よ、助けてください」(マタイ8:25、14:30)と、主イエスに向かって叫ぶ時ではないのですか。このように見てくると、「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの毅然たる命令の真意が浮かび上がります。
すなわち、主イエスは弟子たちに無理難題を押しつけているわけではありません。そうではなく、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と言っておられるのです。ともかくも弟子たちは、群衆の間に今ある「食べ物」を探し出して、主イエスのもとに携えて来ればよいのです。
弟子たちは主イエスに見守られて、派遣から帰還へという実地訓練を受けたばかりなのに、残念なことです。まずは、毎週、主日礼拝を中心に、派遣と帰還を繰り返している我が身を顧みなければなりません。
派遣するわたしの愛と力を信じなさい……それは決して難しいことはありません。「イエスは大勢の群衆を見て、飼い主のいない羊のような有様を深く憐れみ、いろいろと教え始められた」という主イエス・キリストを見て、知って、そして “ 霊 ” により信じればよいのです。
Ⅳ パンは幾つあるのか。見て来なさい
マルコ福音書6:37後半-38――
37 弟子たちは、「わたしたちが二百デナリオンものパンを買って来て、みんなに食べさせるのですか」と言った。38 イエスは言われた。「パンは幾つあるのか。見て来なさい。」弟子たちは確かめて来て、言った。「五つあります。それに魚が二匹です。」
こうして、〈当惑している弟子たちの問いかけ→主イエスの毅然たる答え〉の第二段を迎えます。主イエスの忍耐強さがしのばれます。
ここでまた、一般論的には、弟子たちの問いかけは、良識的判断に基づいていると評価されることでしょう。その上、「わたしたちが……買って来て……食べさせるのですか」というところには、奉仕の精神が垣間見られます。
しかし、それ以上に、はるかに大切なのは以下のことです。弟子たちは結局、「神秘としての神の知恵」ではなく、「この世の知恵」にしがみついています(Ⅰコリント2:6-7)。「この世の知恵」によって、皆にパンを供給するには、「二百デナリオン」が必要であると即座に計算されました。問題は、その時、弟子たちの主イエスへの信頼が不十分であったということです。
Ⅲ.の繰り返しになりますが、「彼らに食べ物を与える」ように、わたしが「あなたがた」を遣わす、だから、派遣するわたしの愛と力を信じなさい、と命じられているのに気づかねばなりません。「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」と宣告された主イエス・キリストが、どのようにわたしたちを助けてくださるのか、と考えてみる、そこに立ちどまることが分かれ目になります。自分で困った状況を打開するのではなく、主イエスが何を為されるのか、一瞬でも待ってみることです。
「パンは幾つあるのか。見て来なさい」→「五つあります。それに魚が二匹です」……主イエスは大勢の群衆の中に入って、「見て来なさい」と命じられて、弟子たちが “ 霊 ” の導きを思い返す暇をつくられました。弟子たちは「見て来て」、再び主イエスのもとに戻ります。見事にも、主イエスは派遣から帰還へという再訓練を弟子たちに行われました。果たして、弟子たちは人々を「深く憐れもう」されている主イエスを信じることができるしょうか。
「五つあります。それに魚が二匹です」……これは単に弟子たちからの現状報告に過ぎません。しかし、主イエス・キリストに向かって、大いなる困窮が差し出されたところに、意義があります。「主よ、助けてください」と叫ぶ、へりくだりと信頼に一歩近づきました。
〈当惑している弟子たちの問いかけ〉と〈主イエスの毅然たる答え〉とのつばぜり合いはいかがだったでしょうか。会話によるやり取りなので、弟子たちと主イエス、双方の思いがリアルに伝わって来たでしょう。「肉の人」なる弟子たちの思いはひっくり返されたのでしょうか。まず、わたしたち自身が「アーメン」と唱えて、人の心に思い浮かびもしなかった主イエスの指示を受け入れたいと願います。
「神秘としての神の知恵」か、それとも、「この世の知恵」か、どちらに傾くか分からないつばぜり合いの中で、主イエス・キリストの御業が前面に打ち出されます。これこそが、曖昧でどっちつかずになりがちなわたしたちへの神の招きであります。
Ⅴ すべての人が食べて満腹した
マルコ福音書6:39-44――
39 そこで、イエスは弟子たちに、皆を組に分けて、青草の上に座らせるようにお命じになった。40 人々は、百人、五十人ずつまとまって腰を下ろした。41 イエスは五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡しては配らせ、二匹の魚も皆に分配された。42 すべての人が食べて満腹した。43 そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。44 パンを食べた人は男が五千人であった。
この最後の場面では、どのようにして、主イエス・キリストが「飼い主のいない羊のような有様を深く憐れんだ」のか、が描き出されています。また、主イエスがどのように「弟子たち」を奉仕させたのか、も活写されています。今や弟子たちは主イエスの命令に従い、主イエスを注視しつつ行動しています。
初めに主イエスは、「人々は羊のようにさまよった」(ゼカリヤ書10:2)という大勢の群衆を整列させました。そうして、主イエスが審判預言を受けた罪人たちの救済者であることが示されました。もはや、「わたし(神)の牧場の羊の群れを滅ぼし散らす牧者たち」(エレミヤ書23:1)は「羊たち」を置き去りにして逃げ去りました。もはや、「空虚なこと」や「偽り」を「語りかけている」サタンが割り込む余地はありません。
というのも、見張り人なる「弟子たち」が、「皆を組に分けて」、そして、「百人、五十人ずつまとまって」、組ごとに整然と座らせているからです。後の「十二の籠」(マルコ6:43)との語句から判別すれば、イスラエルの十二部族を象徴するかのように、十二のグループに分かれていたのかも知れません。いずれにせよ、「組に分けて」ならびに「~ずつまとまって」との慣用表現から、列を作って並ばせられているのが想像されます。
しかも、群衆が腰を下ろしたのは、「青草の上」であります。「わたしを苦しめる者を前にしても あなた(神)はわたしに食卓を整えてくださる」(詩編23:5)とは、まさにこの出来事を指しているのでしょう。「青草」が萌え出でているとすれば、春の可能性が高くなります。夏(乾期)が始まるとすぐに、草木が枯れ果ててしまうからです。
「イエスは①五つのパンと二匹の魚を取り、②天を仰いで③賛美の祈りを唱え、④パンを裂いて、弟子たちに⑤渡しては⑥配らせ、二匹の魚も皆に分配された」……民が「人里離れた所」に集まって一つとなり、静まったときに、主イエス・キリストの御業が行われました。まさしく聖餐式が行われている礼拝を思い起こさせます。
・イエスは③賛美の祈りを唱える……イエスは「祝福して」と言い換えられます。ユダヤ人の食事は「祝福」をもって始められます。
・イエスは弟子たちに⑤渡しては⑥配らせる……使徒パウロは「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主が来られるときまで、主の死を告げ知らせるのです」(Ⅰコリント11:26)というように、「渡しては配らせる」中で、いつも想うべきことを教えています。
・弟子たちに渡しては⑥配らせる……「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい」との主イエスの命令が弟子たちによって実践されています。
まとめとして二つのことに限って、お話ししましょう。
一つ目は、五千人の給食の奇跡は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業により、罪人に対する大いなる救いとして成就したということ――
十字架上で、主イエス・キリストの体が裂かれて、血が流れ出てきます(ヨハネ19:34)。聖餐式では、この「主の死」を記念してパンと杯とがわたしたちに、罪を贖うしるしとして配られています。神の前に悔い改める者は、十字架の死と復活によって、無償で救われました。そうしてわたしたち・罪人は赦され、永遠の命を与えられています。
二つ目は、この奇跡は、神の国の祝宴に対する先駆けまたは前夜祭になっているということ――
「夕べ」の「人里離れた所」での食事は、まことの光の照りわたる「朝」の神の国の祝宴を指し示しています。「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という創造主の御業は、神の国の到来において成就します。初めの日に現れた「光」(同上1:3)は、神の栄光と共に、永遠の「光」となります(ヨハネ黙示録21:23)。
「すべての人が食べて満腹した。そして、パンの屑と魚の残りを集めると、十二の籠にいっぱいになった。パンを食べた人は男が五千人であった」……主イエス・キリストは、迷える羊すべての「羊飼い」であります。大勢の群衆を、はらはたが痛むというほどに、「深く憐れまれ」ました。
主イエスは寂しく薄暗い中で、神の大いなる救いの計画を実行されました。あり余るほど大きな恵みがわたしたちに与えられています。「この世の知恵」に頼ってつかの間の輝きを楽しむのではなく、五千人の給食によって現された「神秘としての神の知恵」に依り頼む道を、一足一足歩んで行きましょう。
W
〈説教の要約〉
2025年 1月12日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第3主日
旧約聖書 レビ記 18章16節(P.190)
新約聖書 マルコによる福音書 6章14節~29節(P.71)
説 教「イエスの名が知れ渡ったので」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
結
序
ここには、民話的な味わいを持つ洗礼者ヨハネの死の物語(マルコ6:14-29)が収められています。前後関係に注目すると、このヨハネの出来事は、十二弟子の派遣(同上6:7-13)と帰還(同上6:30)を中断する形で挿入されていることが分かります。
なぜ、そのようなサンドウィッチ形式になっているのでしょうか? 直前には、ヤイロの娘と主イエスの服に触れる女のいやしの物語が、同様の形式で構成されていました(マルコ5:21-43)。明らかに「正しい聖なる人」ヨハネ(マルコ6:20)の殉教は、主イエスと弟子たちの伝道に影を落としています。
先駆者ヨハネの身に降りかかった罪深い者たちの反抗と陰謀はまさに、福音宣教についての先駆的出来事、予兆でありました。このヨハネこそが、主イエスに弟子として仕える模範となったのです。本日は、パン生地にはさまれたサンドウィッチの具材をしっかりと味わいましょう。
王の誕生日の祝宴において、ヨハネの虐殺が敢行されます。その祝宴で多用される「盆」の一つが持ち運んで来たものとは……?
Ⅰ イエスの名が知れ渡ったので
マルコ福音書6:14-16――
14 イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った。人々は言っていた。「洗礼者ヨハネが死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている。」 15 そのほかにも、「彼はエリヤだ」と言う人もいれば、「昔の預言者のような預言者だ」と言う人もいた。
16 ところが、ヘロデはこれを聞いて、「わたしが首をはねたあのヨハネが、生き返ったのだ」と言った。
最初に、ヨハネの虐殺を伝えるテキスト内の構成についてお話しします。それは、マルコ6:14-16(Ⅰ)だけが〈今〉のことで、あと(Ⅱ・Ⅲ・Ⅳ)は、〈回想〉になっているということです。すなわち、ヨハネがどういう訳で、どのように殺されたのかが、〈回想〉の形で伝達されています。
ヨハネの虐殺は、まるで昨日の出来事のようにリアルに描き出されています。しかし、血を見るような内容が内容だけに、読み手にショックを与え過ぎるということもあるでしょう。その点で、〈回想〉による語りは一種の緩衝装置の役割を果たしています。〈今〉から見れば、もう過ぎ去った事なのですよ、ということです。
ただし、多少ショックがやわらげられたとしても、わたしたちは罪過に染まった人間模様とその陰謀の結末とを見届けなければなりません。まずは、〈回想〉への導入を成す〈今〉の前置きを読んで、心の準備をしましょう。
そこで〈今〉、弟子たち、ならびに、わたしたちがわきまえ知るべきことの要点を示しましょう。それは、ひと言でいえば、「イエスの名が知れ渡ったので」、つき従う者はますます増えると共に、敵意を抱く者たちが画策し始める、ということです。
信仰者が〈今〉、そのような事の成り行きをしっかり受け止めるならば、〈これから〉の光と闇との戦いに向き合えます。その上、〈回想〉して思い起こす過去は、信仰者自身の経験として蓄えられます。誘惑を退ける知恵となり、患難を忍耐する力となることでしょう。
というのも、わたしたちの先達の信仰者は、「望んでいる事柄を確信し、見えない事実を確認して」、約束は必ず成就するという信仰に生きていたからです(ヘブライ11:1,13)。まさに〈回想〉によって、彼らの信仰を受け継ぐことが求められています。
「イエスの名が知れ渡ったので、ヘロデ王の耳にも入った」……主イエスがたとえで語られたように、御言葉の種は、良い土地のみならず、道端、石地、茨の生い茂る地にも蒔かれます(マルコ4:1-9)。忍耐して収穫の時を待ち望みつつ、「蛇のように賢く」(マタイ10:16)、害敵の妨害を退けねばなりません。
ヘロデ王は主イエスのまつわる情報に耳をそばだてました。何しろ、王は自分の地位を守るのに必死でしたから、世間で人気を集めている人の動きには敏感でありました。結局のところ、ヘロデは単純にイエスを恐れていたのです(マルコ6:20)。びくびくしている人物が主イエスを正しく評価できるわけがありません。
そして、「だから、奇跡を行う力が彼(イエス)に働いている」との情報は、「十二人は出かけて行って……多くの悪霊を追い出し、油を塗って多くの病人をいやした」(マルコ6:12-13)との別方面からの情報とも符合するものでした。すなわち、弟子たちの持つ「奇跡を行う力」は、彼らを派遣したイエス・キリストに由来していたということです。
このようなサンドウィッチのパン生地からの証言は、中身の具材においても通用することが示唆されています。具体的に言えば、洗礼者ヨハネは生前に「奇跡を行う力」を現しつつ、その神の「力」によって「死者の中から生き返る」イエス・キリストについて証ししていたということです。言い換えれば、そのような神に仕える者を殺した、人の罪深さを嘆け、ということです。
〈今〉のことを伝える前書きを総括しましょう。それは要するに、「イエスの名が知れ渡った」との福音宣教の前進の観点から、ヨハネの虐殺を振り返る〈回想〉に向き合いなさい、ということです。そこには、〈これから〉、まことの光なるイエス・キリストにつき従いなさい、暗闇の中で悪事に走ったり絶望したりすることのないように、との教えが込められています。
「イエスの名が知れ渡った」……この言葉が掲げられているのは、ヨハネ惨殺の出来事への痛烈なアイロニー(皮肉)になっています。というのも、「イエス」というのは、「罪からの救い」を意味しているからです。
ヘロデ王、妻のヘロディア、その娘(伝承ではサロメという)、その場にいた高官や将校、そしてヨハネの首をはねた衛兵、彼らにも「罪からの救い」はあるのでしょうか。それとも、彼らはあくまでも、「イエスの名」を信じて救われることのなかった人の代表ということなのでしょうか。
神の御子は、この地上で「イエス」との「名」によって呼ばれました。「イエスの名」を信じるとは言い換えれば、そのお方が「インマヌエル」(神は我々と共におられる マタイ1:23)の神であり、この神によって自分が救われたと信じるということです。
わたしたちが罪に誘惑され、自分の弱さを嘆くとき、主イエスはわたしたちに寄り添い、共に苦しんでくださいます。そこからわたしたちが、神の御前に出で、悔い改めて立ち直る力を与えてくださいます。
Ⅱ ヘロデとヘロディアの結婚に反対したヨハネ
マルコ福音書6:17-20――
17 実は、ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており、そのことで人をやってヨハネを捕らえさせ、牢につないでいた。18 ヨハネが、「自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない」とヘロデに言ったからである。19 そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた。20 なぜなら、ヘロデが、ヨハネは正しい聖なる人であることを知って、彼を恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていたからである。
兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである。
マルコ6:17は意訳すれば、「実は過去にヘロデは~したことがあった」となります。そして、ヘロデが「ヨハネを恐れていた」理由が開示されて、〈回想〉シーンに入っていきます。別言すれば、話題が主イエスのうわさからヨハネの虐殺に移行します。
しかし話題が転換しつつも、ヨハネの死を主イエスの十字架の死に重ね合わさせるという文学的技巧が施されています。ヨハネと主イエス、両者の公生涯が連動していることは、すでにマルコ福音書の冒頭に示されています……「ヨハネが捕らえられた後、イエスはガリラヤへ行った」(1:14)。
ヘロデがヨハネを「牢につないでいた」ということで、両者の敵対関係が暗示されています。読み手に、これからどうなるのだろうというサスペンス(緊張と興奮)を呼び覚まします。その効果を高めるために、〈回想〉にもかかわらず、あたかも〈今〉起こっているかのような語りになっています。
「ヘロデは、自分の兄弟フィリポの妻ヘロディアと結婚しており」……この一文をより深く理解するには、当時の王族の結婚事情についての知識が必要です。要は、外交などの政略や性的な欲情によって恣意的な結婚や離縁が繰り返されていたということです。
「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)と「ヘロディア」とは、元々姻戚関係がありました。というのも、「ヘロデ・アンティパス」と「フィリポ」とは、共通の父「ヘロデ大王」(マタイ2:1,16)を持つ、腹違い(異母)の「兄弟」だったからです。
ありていに言えば、「ヘロディア」は夫「フィリポ」を見捨てて、「ヘロデ」と再婚することになりました。「ヘロディア」の思惑というよりも、「ヘロデ」からの求愛が強かったのかも知れません。いずれにしても、元夫が存命している中での、その「兄弟」との結婚は許されませんでした。
そういうわけで、「ヨハネが、『自分の兄弟の妻と結婚することは、律法で許されていない』とヘロデに言った」のです。
「兄弟の妻を犯してはならない。兄弟を辱めることになるからである」(レビ記18:16)……この旧約律法が洗礼者ヨハネからヘロデに伝達されました。
当時、「ヘロデ」(ヘロデ・アンティパス)は、ガリラヤとぺレア(ヨルダン川の東)の分封領主でありました(在位:前4-後39年)。領主と言ったのは、パレスチナ全体がローマ帝国の支配下に置かれていたからです。「ヘロデ王」(マルコ6:14)というのは彼の尊大さを表す僭称に過ぎません。ヘロデの居住地は、ガリラヤ湖西岸のテベリヤ(ティベリアス)でしたから、ヨハネの直言は確かにヘロデの耳に入ったのでありましょう。
ついでに言えば、レビ記18:16の直訳は、「あなたの兄弟の妻の恥部を曝させるようなことをあなたはしてはならない。彼女はあなたの兄弟の恥部である」(M.ノート)となります。
「恥部を曝させる」または「裸の覆いを取る」との言い回しが、厭うべき性的関係が規定されているレビ記18章には反復されています(18:6,7,11,15,17,18,19)。律法において、「恥ずべき行為」(18:17)を確認しつつ、血縁の有無にかかわらず大家族の中での健全な交わりが模索されています。
ユダヤ人の信仰を顧みず、ローマ帝国寄りだったヘロデはどのように、ヨハネからの直言を受け止めたのでしょうか? 「ヨハネを恐れ、保護し、また、その教えを聞いて非常に当惑しながらも、なお喜んで耳を傾けていた」とある通り、ヘロデは矛盾に満ちた心境に追い込まれました。「ヨハネを捕らえて、牢につないだ」ヘロデではありましたが、がんじがらめになったのはむしろ、ヘロデの方でありました。
夫の心に矛盾が渦巻いて弱気になっているときに、つけ込もうとしたのが、サタンならぬ妻のヘロディアでありました。部外者が自分の結婚について、取り沙汰するのは何事か、と彼女は激昂しました……「そこで、ヘロディアはヨハネを恨み、彼を殺そうと思っていたが、できないでいた」。ヘロディアの憤りと憎しみの行き着く果てや如何に……。
Ⅲ ヘロデの誕生日に悪事を企んだヘロディア
マルコ福音書6:21-25――
21 ところが、良い機会が訪れた。ヘロデが、自分の誕生日の祝いに高官や将校、ガリラヤの有力者などを招いて宴会を催すと、22 ヘロディアの娘が入って来て踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた。そこで、王は少女に、「欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう」と言い、23 更に、「お前が願うなら、この国の半分でもやろう」と固く誓ったのである。24 少女が座を外して、母親に、「何を願いましょうか」と言うと、母親は、「洗礼者ヨハネの首を」と言った。25 早速、少女は大急ぎで王のところに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と願った。
この場面の、優柔不断なヘロデと速戦即決のヘロディアの様子から、主イエスの尋問・裁判を思い起こされる方も多いことでしょう。すなわち、一方では、主イエスから聴き取りしながらも右往左往するピラト(ルカ23:4,14)、他方では、神冒瀆の罪によって裁こうとはやる大祭司や群衆たち(同上22:71、23:21)という対照的な姿のうちに、人間の罪深さと残忍さが活写されています。
ヘロディアは夫の「誕生日の祝い」の「宴会」という「良い機会」を見逃しませんでした。この時既に、自分の娘を仲間に引き入れる目算を立てていたのかも知れません。サタンの入った母ヘロディアにとって、娘はまるで操り人形でありました。夫の「誕生日の祝い」を台無しにする冷酷さ、ほろ酔い気分の「高官や将校、ガリラヤの有力者など」を証人(参照:マルコ6:26 客の手前)として利用する悪賢さなど、「宴会」を支配していたのは、ヘロディアでありました。
「そこで、王は少女に、『欲しいものがあれば何でも言いなさい。お前にやろう……お前が願うなら、この国の半分でもやろう』と固く誓った」……民話のような味わいが、王の気前の良い言葉ににじみ出ています(参照:ロシアの昔話「魔法の本」)。「少女」はヘロディアの娘であり、ヘロデからすれば妻の連れ子でありました。王女なる「少女」が恥じらいを打ち捨てて、宴席で「踊りをおどり、ヘロデとその客を喜ばせた」ごほうびにということです。彼女への愛情もあることでしょうから、ヘロデはもう後に引けなくなりました。
母親の目算どおり、娘が「何を願いましょうか」と尋ねると、母親は言下に「洗礼者ヨハネの首を」と答えました。娘は王であり父親であるヘロデのもとに行き、「今すぐに洗礼者ヨハネの首を盆に載せて、いただきとうございます」と言いました。
ここで頭がくらっと来るのは、わたし一人ではありますまい! 「盆に載せて」って、さっきまでご馳走を運んでいた「盆」でしょう。あたかもこれが「本日のメインディッシュ」であるかの如くに……。まことにおぞましいことです。飲食したものが逆流して来そうです。
Ⅳ 非常に心を痛めたヘロデ
マルコ6:26-29――
26 王は非常に心を痛めたが、誓ったことではあるし、また客の手前、少女の願いを退けたくなかった。27 そこで、王は衛兵を遣わし、ヨハネの首を持って来るようにと命じた。衛兵は出て行き、牢の中でヨハネの首をはね、28 盆に載せて持って来て少女に渡し、少女はそれを母親に渡した。29 ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた。
皮肉にも、王妃によって王手がかけられました。後は、事の成り行きを見守るだけです。
ヘロデは「非常に心を痛めた」自分の意思ではなく、「客の手前、少女の願い」によって誘導されます。もはやヘロディアとの結婚は律法違犯だと言って、自分を責め立てる者はいなくなります。
しかし、ヨハネの「教えに喜んで耳を傾ける」機会(マルコ6:20)がヘロデにはなくなります。たとえ一時期であれ、王はじめ支配者の一族やその仲間たちは、「悔い改めさせるための宣教」(同上6:12)から遠ざかります。これが、「暗闇に光を理解しなかった」(ヨハネ1:5)という現実でありましょう。
今、中断されている十二弟子の派遣から帰還への物語に関して、メッセージが残されているとすれば、このことではないでしょうか。すなわち、伝道者が闇に葬り去られ、御言葉に耳を傾けない人々が増えていくように見えても、恐れるな、宣教の旅を続けなさい、ということです。
「ヨハネの弟子たちはこのことを聞き、やって来て、遺体を引き取り、墓に納めた」……ヘロデの「誕生日」が「逝去日」、すなわち、ヨハネを埋葬する日に取って替わられました。
漆黒の闇を縫うようにして、「ヨハネの弟子たち」が現れました。彼らは勇気をもって、師への信従の姿勢を見せました。彼らが、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」(ヨハネ1:15)とのヨハネの教えを信じているならば、彼らは希望を失わないことでしょう。主イエスとヨハネを遣わした神(ヨハネ1:6、4:34)から、師の衝撃的な死を耐え忍ぶ力が、「ヨハネの弟子たち」に注ぎ込まれています。
そうだとすれば、懇ろにヨハネを葬る弟子たちの姿は、「イエスの弟子たち」、十二人へのメッセージになっています。それこそが、まさに弟子訓練の肝心要です。実際、都エルサレムで「イエスの弟子たち」もまた、テベリヤ(ティベリアス)での「ヨハネの弟子たち」の経験を〈回想〉せねばならない時が来ます。カルバリ(髑髏の意)の丘で、彼らは逃げ隠れしたりしないでしょうか。そして、主イエスの遺体を墓に納めることができるでしょうか。
結
マルコ福音書の展開を中断するかのように、洗礼者ヨハネの死が〈回想〉されました。彼は「正しい聖なる人」であり、殉教者として死を遂げました。これは、主イエス・キリストにあって〈これから〉起こる出来事を予告しています。
もちろん、主イエス・キリストの十字架による死は、罪人を贖い出すためのもので、一度限りの救いの御業であります。ただ、わたしたちの大部分はすぐに、真の「イエスの弟子」になれるわけではありません。主イエス・キリストの死の苦しみを見続けたのは、わずかの女性たちだけでありました。
ですからわたしたちには、洗礼者ヨハネの言葉と行い、そして、ヨハネとその弟子たちの関係から学び取ることが少なからずあります。その上、「ともし火」(ヨハネ5:35)なるヨハネは短い生涯を終える中で、罪深い人々の姿を内面に至るまで照らし出しました。罪からの救いを伝える働きは、ヨハネとその弟子を経て、わたしたちに託されています。
Y
* サンドウィッチ形式 *
具 材 ヨハネの虐殺 〈回想〉 マルコ6:14-29
・王の誕生日の祝宴で「提供」されます!
パンの生地 弟子たちの帰還 〈今〉 マルコ6:31
*生地と具材、合わせ読んで、全体を味わいましょう。
真の弟子として神に仕えること、
ヨハネならびに主イエスの死によって福音宣教が拡大していくこと、
そして、イエス・キリストの十字架の死を、自分の救いとして受け止めること、
が教えられます。
W
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2025年 1月5日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 7章1節~7節(P.306)
説 教「一人ひとり神からの賜物を持っている」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
……ゼカリヤ書12:12-14
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
……Ⅰコリント7:5-6
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
……Ⅰコリント7:7
序
コリントの信徒への手紙 一 6章まで、パウロは “ 霊 ” に導かれ、神の知恵をもって、福音をコリント教会の人々に指し示してきました。そして、7章から新しい単元(7:1-11:1)に移ります。そこでは、結婚と性生活、偶像の供え物、そして使徒の権利など個別の問題が取り上げられます。
パウロが誠実で忍耐強い人であることは、相手の意見によく耳を傾けている点に現れています。なにしろ、主イエスの死後、およそ20年後の初代教会とその信仰者たちの話ですから、前例も何もありません。パウロはじめ自分たちで神学し、自分たちで福音の土台固めをしなければならない時代のことです。アレクサンドリアのクレメンスやオリゲネスなど教父たちが登場し活躍するのも、およそ150年後のことでした。
こんなことまで教会内で問題になっていたのか、と思われるかも知れませんが、当時のキリスト者にとっては、信仰の基盤に関わる大事な問題でありました。幸いだったのは、個別の問題を聴き取り、それに霊的な説明を加え、正しい方向に導く伝道者・パウロがいたということです。その上、パウロは悩み苦しんでいる人々の魂への配慮を心がける牧会者でありました。
これまでにパウロが傾聴してきたコリント教会の一部の人々の主張を、以下に挙げましょう。
「わたしには、すべてのことが許されている。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:12
「食物は腹のため、腹は食物のためにある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:13
「人が犯す罪はすべて体の外にある。」⇒「しかし」 Ⅰコリント6:18
そして、本日のテキストで出てくるのが……
「男は女に触れない方がよい。」⇒「しかし」 Ⅰコリント7:1
以上、四つの例文すべての後に、「しかし」(ギリシア語:デ)が接続しています。つまり、「コリントびとよ、あなたは……とおっしゃるが、しかし、……」というように、パウロは持論を展開しています。相手の言い分を引用した上で、霊的な説明をもって応じているというのは、信頼できる姿勢に違いありません。
海図を持たない航海のようなおぼつかなさを感じられるかも知れません。だからこそ、キリスト教倫理を構築している最中の水先案内人パウロに従っていくことにしましょう。パウロは、歴史、文化、そして慣習の異なるキリスト者の考え方を受け容れる心の広い人です。神に喜ばれる信仰者の倫理観とはどのようなものか、読み取りましょう。
Ⅰ 男は女に触れない方がよい
コリントの信徒への手紙 一 7:1-2――
そちらから書いてよこしたことについて言えば、男は女に触れない方がよい。
心をざわつかせるような言葉がいきなり出てきました。序.で解説したように、「男は女に触れない方がよい」というのは、元々はコリント教会の一部の人々の見解です。では、パウロはこの見解について、どのように考えているのか、知りたいことでしょう。
詳しくは、Ⅳ.で説き明かしますが、パウロは例外として「男は女に触れない方がよい」と勧めることがあると言います。しかし、コリントの一部の人のように、これを律法として絶対視するとは考えていません。その人たちから見れば、パウロは中途半端だと感じたかも知れませんが……。
「そちらから書いてよこしたことについて言えば」……パウロは今、結婚と性生活「について」助言しようとしています。そこで、それを「書いてよこしたそちら」の事情を知ることから始めねばなりません。頭から、「男は女に触れない方がよい」との断言は間違っていると決めてかかってはなりません。
ただ残念ながら、コリントの信徒への手紙の本文に、その事情が打ち明けられているわけではありません。従って、当時コリントの町ならびに教会を取り巻いていた状況から、推論してみましょう。
一つは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景に、禁欲主義があるということです。「みだらな行いを避ける」(Ⅰコリント7:2)ことを金科玉条としている人々がいました。そこからさらに、性的な欲望を抑えるために独身を貫こうとする人々が現れました。
その背景には、ケンクレアイという外港(ローマ16:1)を持つコリントの繁栄により物欲に走り自由を謳歌していた多数の人々の存在があります。そして、町全体の風紀が乱れていたことへの反動として、禁欲主義や独身主義を是とする人々が生まれました。
また、信仰的に見逃せないこととして、終わりの日が近いという終末論の広まりが考えられます。これに従えば、終わりの日を迎えるのにふさわしく、身を清め、節度ある生活を保つのを第一とする考え方になります。極力今の状態のままで、終末の到来に、つまり、再臨のイエス・キリストをお迎えすることに集中するということです。独身者はそのまま結婚しないこと、また、既婚者は性生活を抑制することが推奨されることになります。
禁欲や独身などの主義主張、また、終末論の影響が大波のようにコリント教会に流入しています。まさに混沌とした状態です。その上、「わたしはパウロにつく」「わたしはアポロに」「わたしはケファに」「わたしはキリストに」などと言い合っていれば(Ⅰコリント1:12)、収拾がつかなくなります。
パウロは「頭ごなしに、あなたがたの主張を切り捨てたりしませんよ」との寛容な姿勢を言い表しました。それから、「しかし」との逆接の詞と共に、「男は女に触れない方がよい」と主張する人々への回答が示されます。
Ⅱ 夫は妻に、その務めを果たしなさい
コリントの信徒への手紙 一 7:3-4――
2 しかし、みだらな行いを避けるために、男はめいめい自分の妻を持ち、また、女はめいめい自分の夫を持ちなさい。3 夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい。
パウロは、「男は女に触れない方がよい」との一つに意見に対し、広い見地から回答しています。すなわち、「男と女」に対し、結婚の幸いとその義務について説いています。
確かに、「男は女に触れない方がよい」かどうかは、男性のみならず女性の思いにも配慮すべき事柄です。いわば男女の関係性が問われています。男女いずれにせよ、一方的な力による支配は許されません。
「みだらな行いを避けるために」結婚しましょう、と言うことに違和感を覚えるという人がいるでしょうか? 神の祝福のもとに、「こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる」(創世記2:24)という結婚が成し遂げられます。従って、神の恵みによる出来事を越えて、「~するため」という人間の目的を第一にすべきではありません。
幸いな時も災いの時も、神の祝福にあずかるとの信仰を尊ぶ中で、「しかし」、夫と妻が「~するため」という目的を設定し力を合わせる、ということをパウロは述べたいのでしょう。
さらにパウロは、「男は女に触れない方がよい」との主張の背景を見通していました。それは、性について放縦な者たち(Ⅰコリント5:1)への反動として、禁欲や独身に関わる主義主張が蔓延していたということです。
それら両者はいずれも、「キリスト者の自由」を勘違いしていました。すなわち、一方は、より緩やかな方へ、他方は、より厳しい方へ、と両極端な態度をとっていました。自分たちの判断で、奔放と厳格、その一方向のみに舵を切っていたのです。
その結果として、神から自由が与えられていると同時に、神から「務め」が託されていることを顧みなくなりました。パウロが、「夫は妻に、その務めを果たし、同様に妻も夫にその務めを果たしなさい」と諭しているのは、そのためです。ここで言う「務め」とは、「義務」あるいは「支払うべき善意」(F.F. ブルース)と言い替えられるほど、強いニュアンスを含んでいます。
結婚生活において、夫婦互いに「自由」があるとすれば、当然果たすべき「義務」もあるはずです。いずれにせよ、キリスト者の結婚は神の祝福のもとに置かれています。神は、わたしたちが「自由」を享受し、感謝して「義務」を果たす、その全体を見守っておられます。
パウロは、夫婦間における「自由」と「義務」との子細には触れずに、それぞれに「その務めを果たしなさい」との原則を示しています。そうして、夫婦が協働して、神の栄光を現すならば、自ずから「みだらな行いを避けられる」ことでしょう。
ここで旧約聖書から、男たちと女たちが信仰的に「自由」と「義務」を体現している或る出来事を取り上げましょう。
Ⅲ 女たちは女たちだけで嘆く
12 大地は嘆く。各氏族は各氏族だけで、ダビデの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、ナタンの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、13 レビの家の氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、シムイの氏族はその氏族だけで、その女たちは女たちだけで、14 その他の氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。
ゼカリヤ書12章は、紀元前4世紀頃に書かれた文書です。バビロン捕囚から解放された後、ユダヤの地で人々がどのような信仰をもって生きていたのかを知ることができます。
主イエス・キリストのエルサレム入城を預言している言葉、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声をあげよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者 高ぶることなく、ろばに乗って来る 雌ろばの子であるろばに乗って」(9:9)が、この文書の中にあります。
またゼカリヤ書には、主イエス・キリストの十字架の死を預言する言葉、「わたしはダビデの家とエルサレムの住民に、憐れみと祈りの霊を注ぐ。彼らは、彼ら自らが刺し貫いた者であるわたしを見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しむ」(12:10)もあります。
すなわち、初代教会の人々は、カルバリの十字架の丘で、ゼカリヤの預言が神の計画通りに成就した、と信じた(ヨハネ19:37)ということです。主イエス・キリストが「十字架につけられ、死にて葬られた」(使徒信条)のを「目撃した」(同上19:35)というのは、わたしたちの信仰の礎となりました。
さて、「独り子を失ったように嘆く」というエルサレムの住民の様子が、上記のゼカリヤ書12:12-14に描かれています。一人ひとり、その大いなる悲しみに連なるかが問われている厳粛な場面になります。これこそ、どのように男たちと女たちとが信仰的に「自由」と「義務」を体現しているのか、注目に価するものになっています。
「その日」(ゼカリヤ書12:9,11)というは、終わりの日を指し示しています。いわば聖なる祭日です。福音書には、主イエスが十字架の死を遂げられた「その日」に、主イエスとその状況を「見つめていた」女性たちが登場します(マルコ15:40,47)。彼女たちの真剣な目は、主イエスの死と葬りに対する畏れ、神の大いなる御業に対する畏れを現しています。
「大地は嘆く …… 氏族はそれぞれの氏族だけで、その女たちは女たちだけで嘆く。」……ここに、「マグダラのマリア、小ヤコブとヨセの母マリア、そしてサロメ」の先駆者とも言うべき、「女たち」がおりました。
「女たち」は男たちとは別に喪の作業を行いました。「氏族はそれぞれの氏族だけで」との言い回しから、強制されたのではないことがうかがわれます。王や祭司からの命令に従ったのではありません。「女たち」は「ダビデの家の氏族」はじめ嘆く者たち全体に連帯しつつも、個別に嘆き悲しみました。
そこで、都エルサレムの「女たち」は「彼ら自らが刺し貫いた者を見つめ、独り子を失ったように嘆き、初子の死を悲しむように悲しみ」ました。都中が喪に服す中で、「シオンの娘」(ゼカリヤ書9:9)の存在は、さぞや際立っていたことでしょう。
こうして、「女たち」はやがて来たる救い主を待ち望むようになりました。男性たちとは別に、一人ひとりが、「独り子」の証言者として生きる者となりました。彼女たちは神の与えてくださる「自由」を受け止め、感謝して「義務」(務め)を果たす先駆けとなったのです。「マグダラのマリア」たちに受け継がれました。
Ⅳ 自分を抑制する力がないのに乗じられないように
コリントの信徒への手紙 一 7:5-6――
5 互いに相手を拒んではいけません。ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です。あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです。6 もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません。
冒頭の「男は女に触れない方がよい」との主張に対し、熟慮の上でのパウロの回答が示されます。「互いに相手を拒んではいけません」というのは、必ずしも「男は女に触れない方がよい」とは言えないということです。つまりは、当事者の「男と女」の同意なしに、禁欲主義を持ち込むなということです。神の祝福によって解き放たれた結婚生活は、原理原則または固定観念とは相容れないものです。
それでは、元より夫婦が協働し家庭を造り上げていく、その成長を、外から阻んでしまうことになります。「ただ、納得しあったうえで」と言うパウロのように、実情を見据えて助言することが求められます。しかも、その夫婦には、キリストの土台の上に家を建てる(Ⅰコリント3:10)という「務め」があります。
「ただ、納得しあったうえで、専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ、また一緒になるというなら話は別です」……先に、「必ずしも『男は女に触れない方がよい』とは言えない」と述べましたが、ここでは、「男は女に触れない方がよい」ことが当てはまる例外が示されています。
この点に限って言えば、パウロはコリント教会の一部の人々の禁欲主義を認めています。というのも、パウロの目的は、考えの異なる人々を論破することではなく、多くのキリスト者から承認される倫理を確立することにあるからです。
元々、「専ら祈りに時を過ごすためにしばらく別れ……」というのは、例外的な出来事ではありません。というのも、主イエスご自身がしばしばひとりで祈っておられたからです(マタイ14:1、ヨハネ6:15)。そのようなひとりで行う密室の祈りは、夫婦生活の中でも推奨すべきものであります。
「あなたがたが自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑しないともかぎらないからです」……確かに、「男は女に触れない方がよい」との主張は極端であり、禁欲主義はキリスト教倫理と相容れないところがあります。なぜなら、キリスト者の自由のもとにある男女の関係を束縛することになるからです。
しかし同時に、パウロは、「自分を抑制する力がない」人間の弱さをしっかりと把握しています。「サタンの誘惑」に乗せられるならば、「男が女に触れる」という性行動が制御できなくなることを、彼は懸念しています。
性欲にせよ、食欲にせよ、自分が自分を律するというのでは立ち行かなくなる(箴言6:29,32、創世記25:33-34)のは、自明です。だからこそ、夫婦共々に、ひとりで「専ら祈りに時を過ごす」ことが大切なのです。それは、神の喜ばれる節制であって、いわゆる禁欲主義ではありません。
ここで皆さんは、このように助言するパウロは結婚した経験があるのか、と問われるでしょうか? 少なくとも、パウロは現在、独身です(Ⅰコリント7:8,9)。ただし、キリスト教に回心する以前に、パウロが結婚していたかどうかについて、何も情報がありません。結婚の経験の有無で、わたしはパウロの助言を評価するつもりはありません。むしろ、パウロは夫婦が喜びも悲しみも分かち合って暮らしている、その実情に寄り添っている、ということを指摘したいのです。それが、パウロの繊細な言葉遣いに表れています。
「もっとも、わたしは、そうしても差し支えないと言うのであって、そうしなさい、と命じるつもりはありません」……5節の「ただ、納得しあったうえで」、そして6節の「そうしても差し支えない」との言い回しによって、波風の立つことが無いとは言えない結婚生活へのパウロの洞察が表されています。すなわち、「納得する」ならびに「差し支えない」(譲歩・容認する)というギリシア語には、「シン」(シンクロナイズ〔同調・同時化〕のシン)がさりげなく使われています。パウロはデリケートな夫婦の生活を知悉しています。
このような言葉遣いの内に、「共に(シン)生きる」夫婦の結婚生活が表明されています。実際、場面場面で夫婦が互いに……場合によっては時間をかけて……「納得したり譲歩したり」する中で、結婚は成り立つものではないでしょうか。
「命じるつもりはありません」という、やや謙虚なパウロの姿勢には、段落の結びを際立たせる効果があります。コリント教会の「父」(設立者 Ⅰコリント4:15)と自認するパウロ以上に、その信徒一人ひとりを守り支えているのは……。
Ⅴ 人はそれぞれ神から賜物をいただいている
コリントの信徒への手紙 一 7:7――
わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい。しかし、人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います。
序.で、コリント教会の一部の人々の主張を引用した上で、「しかし」(デ)と切り返すパウロの論法を紹介しました。ここでは、より強い反意を示す「しかし」(アッラ)が使われています。
すなわち、自分自身の願いを、「しかし」(アッラ)によって切り返して、神の御業を指し示しています。
「わたしとしては、皆がわたしのように独りでいてほしい」……パウロは「神からの賜物」として、独身で伝道する生活を受け取っています。「わたしのように……してほしい」と言って、自分の願いが神に由来していることをほのめかしています。もちろん、皆に「そうしなさい、と命じるつもり」で言っているのではありません。
図らずもパウロは独身者として、神の喜ばれる節制を選び取っています。それは決して禁欲主義ではありません。そのことはパウロの姿勢が、「共に(シン)生きる」夫婦たちの結婚生活、その喜びや悲しみと「共に・一緒に」あることからも分かります。
「人はそれぞれ神から賜物をいただいているのですから、人によって生き方が違います」……パウロは、一つの生き方に縛られるような人ではありません。「人によって生き方が違う」ことを認めていました。というのも、キリスト者一人ひとりが「それぞれの神からの賜物」を携えて、人の思いをはるかに超えた終わりの日を迎えることが第一だったからです。
再臨の主イエス・キリストにお会いすることをめざして、パウロは “ 霊 ” の導きによって自分の生活を整えようとしていました。それ故に彼には、「いついかなる場合にも対処する秘訣を授けられて」いました(フィリピ4:12)。だからパウロは、当代屈指の人生相談の名回答者でありました。
結
パウロは、コリントの信徒への手紙 一 7章の新しい単元の冒頭で、結婚と性生活の問題を取り上げました。彼はキリスト教倫理の確立に取りかかっています。7節の短い段落ながら、そこには、倫理の全体像が見通せるような、霊的な説明が展開されていました。このようなパウロ書簡を参照されるならば、きっと善い倫理・集成がつくられるに違いありません。そうすれば、各教会において、「それぞれの神からの賜物」が十分に活用されることでしょう。
何より、パウロは「天の国のために結婚しない者」(マタイ19:12)でありました。彼は、神からの祝福と恵みを豊かに受けていました。だからこそ、彼自身は独身の「賜物」にあずかりながら、彼とは異なる生き方をしているさまざまなキリスト者を思いやり助言することができました。
夫婦が難題を抱えているときにも、時間をかけて「納得したり譲歩したり」しながら、神の栄光を現すように、パウロは見守っています。
パウロは、「自分を抑制する力がないのに乗じて、サタンが誘惑する」という人間の負の側面を把握しています。そこで、すでに誘惑されてしまった人、みだらな行いを犯した人(Ⅰコリント5:1)を見捨てたりしません。なぜなら、パウロは忍耐と希望をもって、終わりの時の到来を待ち望んでいるからです。
主イエスが見失われた羊を捜し回っておられます(ルカ15:5)。日夜、神の救いの御手が小暗き世に差し伸べられています(ローマ10:21)。その間にも、わたしたちにはこの世で、さまざまな人間関係の中で、隣人への「果たすべき務め」があります(Ⅰコリント7:3)。
現代にふさわしいキリスト教倫理を建て上げること、その大事な「務め」がパウロからわたしたちに譲り渡されています。
Y
* 要 点 *
パウロは性に関する諸問題について、率直に意見を述べています。
注目すべきは、その内容以上に、パウロの回答の出し方です。
パウロは結婚している人、独身の人、放縦な人、そして禁欲主義的な人などの考え方や背景を把握しようと努めています。「納得する」や「譲歩する」など、人の気持ちの側面も見逃していません。夫婦の関係が「祈り」によって成長するのを見守っています。
パウロは “ 霊 ” の導きを通して、性に関する問い尋ねに答えています。個別の問題を検討するとき、パウロは終わりの日を待ち望み、今は「神からの賜物」あふれる教会の建設と伝道に励んでいます。
W
〈説教の要約〉
2024年 12月29日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
降誕節 第1主日
旧約聖書 創世記 2章24節(P.3)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章15節~20節(P.306)
説 教「あなたがたの体は聖霊が宿ってくださる神殿である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である ……Ⅰコリント6:15
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
……Ⅰコリント6:16-17 + 創世記2:24
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
……Ⅰコリント6:18-19
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
……Ⅰコリント6:20
序
使徒パウロは今、地中海世界の諸教会を巡回伝道しています。さまざまな民族や文化・慣習に出合う中で、キリスト教倫理を確立しようとしています。その際、旧約聖書に記載されているユダヤ人の律法や倫理観も一助となりました。そこには、およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範と知恵が収められています。
さて、キリスト教倫理を確立していくときに、最も丁寧に考察しなければならないのは、一体何でしょうか? それこそ、コリントの信徒への手紙 一 1:10-6:20の内容や展開が参考になります。
それは、神の御前にあって、主イエス・キリストとの関係において、人間とはどのような者なのか、ということです。パウロはコリント教会の人々と向き合う議論の端々で、その点について言及しています。
後で、本日のテキストに従ってその要諦を提示しましょう。ただし、キリスト教の観点から人間とはどのような者なのかを知ること、つまり、この世にある信仰者の実体をつまびらかにしていくことには、痛みが伴います。悔い改めるべき問題が暴き出されます。すでにパウロは、ねたみ、争い、裁判ざた、高慢、偶像崇拝、姦淫、貪欲、窃盗、泥酔、陰口(Ⅰコリント3:3、6:7-10)などの罪咎を列挙しています。
しかも当然、どんな罪を悔い改めるのか、は人によって異なります。ということは、キリスト者同士でも、自分と他の人との比較や批判が生じかねないということです。自分と他の人の間で、ねたみや争いがわき起こって、罪咎がいや増すことほど、神を悲しませることはありません。ましてや、無垢で無実な人の献身的な行為が、中傷され罪ありとされるならば……。
パウロは決して規則作りを急いではいません。旧約律法に勝る、主イエス・キリストの掟を差し出して、コリントの人々を論破しようとはしていません。そうではなく、まず、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、という中心命題を掘り下げています。
わたしたち・信仰者は「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:17)と言われるほどに、主イエス・キリストの恵みにあずかっています。わたしたちがその「一部」(肢体・肢)であるとは、「体」を持つ人格的存在であるということです。
言い換えれば、わたしたちは神のかたちに似せて造られ、キリストの兄弟とされている(創世記1:27、マルコ3:24、ヘブライ2:11-12)ということです。そのように、神は人間を造り、守り、支えてくださっています。それ故に、わたしたち・キリスト者の最も大きな目的は、「神の栄光を現す」ということです。
わたしたちは皆、「キリストの体」全体の「一部」であります。その一人ひとりが、神から賜物が与えられ、独立した意志をもって生きています。そうして、「神の栄光」を映し出しながら、キリスト者としての個性を輝かせています。
そのようなキリスト者がこの世で生きていくとき、大切な課題は何でありましょうか?
パウロによれば、それは、罪を避けることとキリスト者の自由(Ⅰコリント6:12-14)を享受することです。そこに、人生における闇と光との闘いがあります。だからこそ、パウロは時に、厳しく禁止の命令を出し、時に、「すでに自由にされた」(ローマ6:18)人生の豊かさを教えようとしています。
Ⅰ 自分の体はキリストの体の一部である
コリントの信徒への手紙 一 6:15――
あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか。キリストの体の一部を娼婦の体の一部としてもよいのか。決してそうではない。
パウロは、どのように「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1,9-10、6:9,18)に対処するのか、という課題に切り込んでいます。これは現代人にもよく分かることですが、男女の性に関わる振る舞いというのは、人間の自由と罪の回避とがせめぎ合っているデリケートな問題です。
具体的に言えば、「わたしには、すべてのことが許されている」(わたしは何をするのも自由である Ⅰコリント6:12)とのコリント教会の一部の人々の主張によれば、自ずから性道徳の規範は緩やかになります。近親相姦のような「みだらな行い」は律法に照らして違犯している(レビ記18:8、申命記23:1)と諫めても、「あなたは古い」、「個人の自由を侵害するな」と反論されかねない状況にありました。
パウロは性道徳の向上を見据えながら、ここで、神によって救われた信仰者とは、一体どのような人なのか、との中心命題を明示しています。
「あなたがたは、自分の体がキリストの体の一部だとは知らないのか」……「体」(ギリシア語:ソーマ)というのは、この段落の鍵語であります(Ⅰコリント6:15,16,18,18,19,20)。この用語によってパウロは、心や魂と「体」とを区分しているのではありません。
そうではなく、「体」というのは、身体的・人格的存在としての人間を指し示しています。つまり、人間の生きていること全体、人の人格全体に関わる観点から、キリスト者とは何かを捉えようとしています。言い換えれば、「体」という実体……性欲や食欲などを含む……に則して、キリスト教倫理を掘り下げようとしているのです。それはまことに理に適っているに違いありません。
わたしたち・信仰者は、「キリストの体」なる教会に属しています。一人ひとりは、その「一部」であります。そのことを、主イエスは「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」(ヨハネ15:5)とのやさしい譬えで教えてくださいました。確かに、「枝」と呼ばれた方が、「一部」と言うより実感できるでしょう。
冒頭で聖なる「キリストの体」を持ち出して、次節以下で、その「一部」であるキリスト者の「体」を取り上げるという運びになっています。心憎いまでの巧みさです。裏を返せば、「みだらな行い」に浸っている者を、「娼婦の体の一部」の状態から、聖別された「キリストの体の一部」へと回復するのは難しいということなのです。
原文に即すると、「キリストの体の一部を取り去って、娼婦の体の一部と成す」という強意的表現になっています。「取り去って……成す」という過程には、サタンの誘惑と人間の堕落が内在しています。「決してそうではない」(断じてそうあってはならない)とのパウロの叱責以上に、父・子・聖霊の御力による奪還・救出を祈り求めねばなりません。
パウロは旧約聖書を援用しつつ、慎重に議論を進めていきます。
Ⅱ 主に結び付く者は主と一つの霊となる
コリントの信徒への手紙 一 6:16-17――
16 娼婦と交わる者はその女と一つの体となる、ということを知らないのですか。「二人は一体(=一つの肉)となる」と言われています。17 しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となるのです。
創世記2:24――
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、二人は一体となる。
パウロはここで、アダムとエバという最も原初的な人間関係、すなわち、男女の結婚、夫婦の結びつきから、「みだらな行い」に伴う人間関係の問題を解きほぐそうとしています。
およそ一千年にわたる選民イスラエルの生活規範を視野に入れていることからも、より良いキリスト教倫理を確立しようとしているパウロの意気込みが伝わって来ます。カインとアベル(兄弟)、サラとハガル(女性)、ヤコブとヨセフ(親子)などの創世記の物語に表されている確執と和解とは、今日のわたしたちの交わりの鑑となっています。
確かに、「娼婦と交わる者」と「娼婦」との戯れの交わりは、「男」と「女」との結婚と同列に論じられるものではありません。一方では、神の災いが下り、他方では、神の幸いが与えられます。個別の問題としては、「みだらな行い」と結婚とでは、語るべき戒めや教えの内容も異なります。
しかしそれならば、パウロは旧約聖書まで引用して、何を訴えようとしているのでしょうか?
17節の「しかし」の前後に分けて、二つ指摘しましょう。
一つ目は、「娼婦と交わる者はその女と一つの体となる」という関係の根深さが、「二人は一体となる」との結婚による絆に類比されうるということです。もちろん、前者は一刻も早く解消すべき関係であり、後者は神の永久の祝福のもとにある関係である、という違いがあります。しかし、「娼婦と交わる者」と「娼婦」の交わりは「体」を「一つ」にするという点は、「男」と「女」との結婚も同様です。
そのような論理飛躍のやや大きい内容において、パウロの強調点は、「みだらな行い」を為す「二人は一体となる」、すなわち、「二人は一つの肉となる」〔直訳〕という点に置かれています。
「体」という用語がさらに、生々しい「肉」(ヘブライ語 バサル;ギリシア語 サルクス)という言葉に言い替えられています。パウロの真意は、「しかし、わたしは肉の人であり、罪に売り渡されています」(ローマ7:14)との一句を引用すれば、氷解することでしょう。「肉の人」は「霊の人」または「信仰に成熟した人」と対極にあります(Ⅰコリント2:6,15)。「肉の人」は「この世の滅びゆく支配者たち」(同上2:6)と一体化するような、抜き差しならぬ「肉」の関係を結んでいます。
要するに、「娼婦と交わる者とその女」は「一つの肉」となって、「罪に売り渡される」というのが、パウロの訴えたかった点です。「一つの体」ならぬ「一つの肉」が密着した状態から、「キリストの体の一部」に回復される道筋を、パウロは「しかし」以下で示しています。
二つ目の主張は、「しかし、主に結び付く者は主と一つの霊となる」との一文に明快です。
「一つの肉」から「一つの霊」へ……筆の運びが冴えわたっています。片や、腐りかけている「一つの肉」、片や、新鮮な息吹の吹きめぐる「一つの霊」、どちらを選び取るべきか、が明瞭になっています。
「しかし」以下の文に、「娼婦と交わる者とその女」や「男と女」という関係が直接的に出てこないのは、なぜ、というのは良い質問です。それは、わたしたち・信仰者は、一つの「体」として「キリストの体の一部」とされている、そこにわたしたちの存在の根拠があるからです。
分かりやすく言えば、「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である」との信仰告白が第一で、その後に、「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13:34)との善い行いが続きます。信仰告白と愛の実践が一つとなっているところに、キリスト者の存在の根拠が在ります。
Ⅲ 自分の体に対して罪を犯している
コリントの信徒への手紙 一 6:18-19――
18 みだらな行いを避けなさい。人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです。19 知らないのですか。あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです。
パウロは健全にも、キリスト教の中心命題を軸として、各論に立ち寄りつつ、新しい倫理を打ち建てようとしています。18節-19節の文脈では、「みだらな行い」の罪についての説き明かしから、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との命題へと転じています。
まず、「みだらな行い」の罪についての説き明かしの箇所を読んでみましょう。ここでパウロは、「みだらな行い」の罪を深く認識するために、「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」との類別を試みています。或る事柄を理解するために、対象になっているものを細分化するというのは、意義あることです。
旧約聖書において例えば、敵意を抱き憎しみを込めて人に危害を加えた場合と、故意にではなく思わず激昂して人に危害を与えた場合とを峻別したうえで、刑罰の重さが決められています(民数記35:20-22、申命記19:4-6)。それが、犯行への予防効果になることもあるでしょう。いずれにしても、パウロによる罪の類別は、わたしたちが罪を深く悔い改めるきっかけとなります。
「自分の体の外で犯す罪」と「自分の体の中に向かって犯す罪」……一体どういうことなのだろうと思われることでしょう。論拠となる文を読み返してみましょう。
「人が犯す罪はすべて体の外にあります。しかし、みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯しているのです」……「人が犯す罪はすべて」というのは言い過ぎのようにも思われますが、パウロの意図は、「みだらな行い」の罪を特徴づけることにあります。それほど、「みだらな行い」はこれ以外「すべての罪」と比べて、深刻な問題を孕んでいると、パウロは見ています。
ガラテヤの信徒への手紙5:19-21で、15の罪のカタログが列挙されている、その冒頭には、「姦淫、わいせつ、好色」の三つが置かれています。「みだらな行いをする者は、自分の体に対して罪を犯している」とのパウロの憂慮が背景にあるのは間違いないでしょう。「仲間争い」や「泥酔」も、「自分の体の中に向かって犯す罪」で、罪人の身心を疲弊させる(参照:H.-D.ヴェントラント)のでは、という反論はさておくことにしましょう。というのも、喫緊の課題は、「みだらな行い」という罪の本性を見極めることにあるからです。
パウロの生きていた時代に勝って、「みだらな行い」が「自分の体の中に向かって」、どれほど大きな悪影響を及ぼすのかについて、今日わたしたちは痛感させられています。性暴力の被害によって、パウロが「体」と称している、身体的・人格的存在としての人間がどれほど傷つけられるのかについて、強い関心が寄せられています。
この点では、ギリシアの町コリントの教会における「みだらな行い」の問題を取り上げ、キリスト教的観点からその罪性を訴えたパウロには、先見の明があったと言えましょう。
「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)なるパウロによって、「みだらな行い」というのは、いわば筆頭格なる罪であることが喝破されました。それは、「体」を汚し、その共犯者または被害者をも「肉」の一体化によって巻き添えにしてしまいます。そうして、「キリストの体」なるコリント教会の「一部」(枝・肢体)の闇を白日のもとにさらけ出しました。
それは、コリント教会の大部分の人々にとって、知りたくもない事実だったかも知れません。しかし、一体「あなたがたの体」はどのようなものか、との中心命題を論じるためには、必要なことでありました。それによって、“ 霊 ” に導かれ畏れをもって、神の言葉を聴き取る姿勢が整えられました。
「あなたがたの体は、神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿であり、あなたがたはもはや自分自身のものではないのです」……肯定文と否定文による対照によって、主旨が明瞭にされています。主文とその但し書きという構成になっています。
重要なのは、「あなたがたの体」は「聖霊」の住まう「神殿」であるということです。すでに述べたとおり、「あなたがたの体」とは、信仰者の身体的・人格的な存在を指しています。
いちばんの注目点は、「神の神殿は聖なるものだからです。あなたがたはその神殿なのです」(Ⅰコリント3:17)との教会論を基盤として、個々人のキリスト者が「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」と言われている点です。
コリントの信徒への手紙 一 3章では、パウロは彼が土台を据えた神の建物なる家、すなわち、教会について論じていました。その中で、パウロは「あなたがた」が集って礼拝している所が「聖なる神殿」であると宣言しました。ところが6章の最後に、パウロは教会が「神殿」であると共に、信仰者一人ひとりが「神殿」であると告知しました。
一方、教会が「神殿」であるのは、「イエス・キリストという土台が既に据えられている」(3:11)からです。他方、信仰者が「神殿」であるのは、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる」からです。双方合わせれば、教会とその「体」である信仰者には、「イエス・キリスト」・「神」・「聖霊」によって、聖性が保たれているということになります。それによって、俗なる汚れと罪から切り離されているのです。
そのように、三位一体の神の御力によって罪人が聖別されているわけですから、「あなたがたはもはや自分自身のものではない」というのは当然の帰結になります。
キリスト讃歌の中に、洗礼者ヨハネについて、「彼は光ではない」(ヨハネ1:7)との但し書きが出てきます。ここで大切なのは、わたしたち・信仰者は、イエス・キリストの光に照らし出されて、自分は何者なのか、理解するということです。この種の自己否定は、いわゆる自己肯定感を低めることにはなりません。むしろ、主イエスに自分が愛されているという信仰により、「キリストの体の一部」として確固たる自己が築かれます。
Ⅳ 自分の体で神の栄光を現しなさい
コリントの信徒への手紙 一 6:20――
あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。だから、自分の体で神の栄光を現しなさい。
前節を受けて、なぜ「あなたがたはもはや自分自身のものではない」のか、の理由が昭示されます。
「あなたがたは、代価を払って買い取られたのです」が、その答えになります。
「代価を払って」というのは、端的にはイエス・キリストの十字架と復活の御業を指し示しています。より正確には、主イエスが罪を犯し続けている人間を救うために、十字架上で血を流し犠牲になられたということです。罪の奴隷だった者(ローマ6:17)が、十字架の血という身代金によって、「買い取られ」、新しい主人に結びつけられました。
その点で、わたしたちが「キリストの体の一部」(Ⅰコリント6:15)とされているのは、神の無償の恵みによるものです。今や、一羽の雀ほど(ルカ12:6)に小さき「一部」(枝・肢体)は「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」とされています。
そこで、「あなたがたは」何を為すべきなのか、ということで、パウロは次のように結びました。
「だから、自分の体で神の栄光を現しなさい」……文脈に即せば、「自分の体」というのは、ひと度、娼婦の「体」と交わって、「一つの肉」となってしまったものです。罪と死の縄目にがんじがらめになったものです。汚れが染みついて、見るも無惨な状態になってしまいました。
しかし、神はこの世に、イエス・キリストを遣わし、そのような罪人を「代価を払って買い取られ」ました。救われた罪人の「体」は、「神からいただいた聖霊が宿ってくださる神殿」に変えられました。今や「まこと光」(ヨハネ1:9)なるイエス・キリストが、ヨハネのように、わたしたちを「ともし火」あるいは「世の光」として用いてくださいます(ヨハネ5:35、マタイ5:14、Ⅱペトロ1:19)。
さあ、「自分の体で神の栄光を現そう」ではありませんか!
結
「自分の体で神の栄光を現しなさい」……これが、わたしたちのキリスト教倫理において掲げるべき目的です。そこに、キリスト者のほんとうの自由があるのではないでしょうか。というのも、わたしたちは「一つの肉」の塊状態……罪咎の連鎖……から、個性を持つ「一つの体」として解放されたのですから。
この「神の栄光」のもとで、隣人を心から愛することを第一とするキリスト教倫理が確立されることでしょう。暗がりと不条理に満ちた、この世を生きるしるべとして、わたしたちの新しい倫理・道徳が示されますように!
〈説教の要約〉
2024年 12月22日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
待降節 第4主日(降誕前第1主日) クリスマス礼拝
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章29節~34節(P.164)
説 教「この方こそ神の子である」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……ヨハネ1:29
……ヨハネ1:32-33
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
……ダニエル書3:25
Ⅴ この方こそ神の子である
……ヨハネ1:34
結
序
今年は、待降節、そしてこの降誕日の礼拝を通じて、ヨハネ福音書1章を読んできました。
一方、マタイ福音書とルカ福音書では、占星術の学者や羊飼いたちが、赤ちゃん・乳飲み子としてお生まれになった主イエスに出会い、御子を拝むという形で、その降誕が祝われています。他方、ヨハネ福音書では初めに、キリスト讃歌(1:1-16)がうたわれる中で、主イエスの受肉と栄光(1:14)とが闇の世に映し出されています。人物として登場するのは、イエス・キリスト、ヨハネ、そしてモーセ(律法制定者 1:17)の三者のみです。
ヨハネの教会は、1章の神学的または歴史的プロローグ(序文)によって、初めに、イエス・キリストがどんなお方であるか、見て知って信じたのであります。彼らはこのプロローグを通して、信仰を再確認しました。
その点でヨハネ福音書・冒頭の言葉は、新しい時代を開く「初めての子」(ルカ2:6)を囲んで読むにふさわしいものであります。その賛歌によって、御子から人々に恵みが分かち与えられます。
では、本日のクリスマス礼拝において、その歴史的プロローグ(ヨハネ1:19-51)から一つの段落を取り上げましょう。
Ⅰ 見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ
ヨハネ福音書1:29――
その翌日、ヨハネは、自分の方へイエスが来られるのを見て言った。「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ。
「その翌日」とは具体的には、ヨルダン川の向こう側・ベタニヤで、ヨハネが祭司とレビ人から尋問された(ヨハネ1:19-28)、次の日ということです。その「日」がケ(日常)だとすれば、「その翌日」はハレ、すなわち、ヨハネが神によって慰められた特別な「日」でありました。
「その翌日」は、ヨハネにとってはクリスマスに相当する「日」でありました。というのも、この世に誕生された主イエスを初めて「見た」からです。これ以前に、主なる神からイエス・キリストについて告げ知らされていた(ヨハネ1:15,30)かも知れませんが、現実にヨハネが主イエスに出会ったのは、この場面が最初になります。
野宿していた羊飼いたちが天使に呼び出されて、主イエスを「見た」(ルカ2:17)ように、ヨハネもまた、荒れ野から引き出されて、御子を目撃することになりました。しかも、「自分の方へイエスが来られた」、すなわち、主イエスの側からヨハネに近づいていったということです。この「日」に、先駆者と来たるべきお方との人生が交わったのです。「まことの光」(ヨハネ1:9)なる主イエスがヨハネと共におられることによって、ヨハネは「光の中を歩む」者となりました(Ⅰヨハネ1:7)。
「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」……ヨハネはそのような霊的な交わりのもとに、「言」なる主イエスについて証ししました。この重厚な言葉には、主イエスがどのようなお方であるのか、また、福音とは何か、との問いへの答えが含まれています。
そこで、主イエスについてと信仰者についてとの二つの視点から説き明かしましょう。
① 主イエスについて――
「神の小羊」(ヨハネ1:29,36)……ユダヤ人の過越祭で用いられる「小羊は、傷のない一歳の雄でなければならない」(出エジプト記12:5)と定められています。従って、「神の小羊」との呼称をもって、主イエスが無垢であり無実のお方であることが宣言されています。主イエスは「罪を犯されなかった」(ヘブライ4:15)にもかかわらず、罪状書きの掲げられた十字架につけられました(マタイ27:35-37)。
しかしなぜ、無実の主イエスが、十字架刑に処せられたのでしょうか? 苦難の僕の詩に、「彼が刺し貫かれたのは わたしたちの背きのためであり 彼が打ち砕かれたのは わたしたちの咎のためであった」(イザヤ書53:5)というように、その答えが明示されています。
つまり、主イエスは僕の詩の預言の通りに、「わたしたちの罪」のために、嘲りと傷を被り、命を断たれたのであります(イザヤ書53:6,8)。このように、主イエス自らがすべての人の「罪を負った」(イザヤ書53:6,11)のは、人々を罪から助け出すためでありました。主イエスは神の御心により人間に寄り添われました。
「神の小羊」との称号には、そのような深いメッセージが込められていました。それは、ヨハネが「見よ」と呼びかけるに価する、神からの啓示でありました。では、「人の心に思い浮かびもしなかった」(Ⅰコリント2:9)ような啓示を受けて、わたしたちはどのように応答すればよいのでしょうか。
② 信仰者について――
「世の罪を取り除く」……ここで、「世」という言葉を聞き逃してはなりません。すなわち、わたしたちは神に背いて、隣人を裏切り、そうして罪を積み重ねるようになりました。
こうして、多くの人々は “ 霊 ” 的な神の知識に見向きもしなくなり、「この世の滅びゆく支配者たちの知恵」(Ⅰコリント2:6)に洗脳されるようになります。自分は罪を犯すまいと決心しても、この世に生きている以上、罪への誘惑は大波のように自分に押し寄せて来ます。
「世の罪を取り除く」……これは単に、人々の眼前から「世の罪」が消え去るという意味ではありません。「恵みの上に、更に恵みを」(ヨハネ1:16)というように、「取り除く」イエス・キリストは大いなる救いの御業を現されます。これはまさに、わたしたちにとっての福音、喜びの知らせです。
主イエスはわたしたちに代わって、罪の重荷を担われます。このようにして、罪の染みついたわたしたちの汚れが清められます。というのも、過越祭において「小羊」が犠牲として屠られたように、十字架につけられて殺されたイエス・キリストがわたしたちの罪すべてを贖ってくださったからです。御子が御自身の命をもって、わたしたちの罪の代価を支払われたのです(Ⅱコリント6:20)。
主イエスは、「世の罪を取り除く」ために、十字架の死を遂げられ、三日後によみがえらされました。それをわたしたちの側から見るならば、自分の罪が無償で赦されたということになります。まことの救い主によって、わたしたちは救い出されました。そのような罪の贖いと赦しが、わたしたちに「恵み」として与えられています。それが福音です。神の御前にひれ伏し悔い改めをもって、喜んで受け取りましょう。
このように、ヨハネが宣教の最初に神より啓示された御言葉は、イエス・キリストの最後を予告するものとなりました。十字架の苦難を超えて三日後に復活されたイエス・キリストは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」と呼ぶにふさわしいお方であります。
Ⅱ わたしはこの方を知らなかった
ヨハネ福音書1:30-31 洗礼者ヨハネの言葉――
30「『わたしの後から一人の人が来られる。その方はわたしにまさる。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。31 わたしはこの方を知らなかった。しかし、この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た。」
キリスト讃歌中のヨハネの証言(1:15)と重ねて、現実に何が起ころうとしているのか、が浮き彫りにされています。特に、ヨハネ自身とイエス・キリストとの関係が、ヨハネのへりくだりのうちに述べられています。
「わたしの後から一人の人が来られる」……わたしたちすべて、天地万物が造られる「よりも先におられた」お方が今、この世に突入して来られました。すなわち、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ1:14)という「受肉」の出来事をもって、イエス・キリストがわたしたちの前に現れました。
それは、主イエスがわたしたちとまったく同じ人間として生まれ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担われたということを意味しています。「わたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」というほどに、わたしたちの日常生活、喜怒哀楽のただ中に入って来られました。人類の歴史の中に誕生の日が刻まれたことによって、わたしたちは毎年クリスマスを迎えられ、深い慰めと大きな喜びを与えられるようになりました。
「わたしはこの方を知らなかった」……不思議にもこの句が3回も、ヨハネの証しの中に繰り返されています(1:26,31,33)。ここには明らかに、ヨハネの特別な意図が隠されています。しかしなぜ、「知らなかった」というような否定的な言辞を弄する必要があったのでしょうか。
これは、「彼(ヨハネ)は光ではなく」(ヨハネ1:8)との否定による宣言で確認したとおりに、自分の分を越えて過大評価してはならないという戒めです。実際に「知らない」以上、「知っている」と言うのは、欺瞞です。真の証言者の言うことではありません。
それに加えて、ヨハネが3回「この方を知らなかった」と強調しているより大きな理由があります。それが、人間にとって全く未知の方、「新しいお方」が来たことを訴えるためです(松永希久夫)。これによって、「太陽の下、新しいものは何ひとつない」(コヘレトの言葉1:9)との嘆息は、「見よ、これは新しいものだ」との歓喜に変えられました。
それ故に、誰しも「この方を知らなかった」ことを恥じることはありません。むしろ、イエス・キリストに出会って、「知る」機会に恵まれたことを感謝すべきなのです。その「新しいお方」によって、わたしたち一人ひとりに新しい人生が切り開かれます。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子が、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」(マタイ28:20)と約束してくださいました。この約束によって、わたしたちは人生の最後まで、安んじて主イエスにゆだねることができます。
「この方がイスラエルに現れるために、わたしは、水で洗礼を授けに来た」……ヨハネの証しはイエス・キリストの到来と共に、現実のものとなっていきます。そして、ヨハネが「水で洗礼を授ける」ヨハネは、「聖霊によって洗礼を授ける」イエスの露払いとなっています。イエス・キリストの “ 霊 ” 性が際立たされています。
「わたしは、水で洗礼を授けに来た」⇒「この方がイスラエルに現れる」との流れ、すなわち、歴史的展開が確認されているのが、最も重要なことです。ヨハネの奉仕全体が、イエス・キリストのために捧げられています。ヨハネ自身が主イエスの到来を待望しています。だから、彼は「主の道を整える」先駆者と呼ばれているのです(マルコ1:3)。
Ⅲ その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である
ヨハネ福音書1:32-33――
32 そしてヨハネは証しした。「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た。33 わたしはこの方を知らなかった。しかし、水で洗礼を授けるためにわたしをお遣わしになった方が、『“霊”が降って、ある人にとどまるのを見たら、その人が、聖霊によって洗礼を授ける人である』とわたしに言われた。」
ヨハネが主イエスの洗礼について証ししています。文章上やや分かりにくくなっているのは、①主イエスの受けた洗礼と②主イエスの授ける洗礼のことが混ざっているからです。整理してみましょう。
「ヨハネは証しした」という内容においては、①主イエスが洗礼者ヨハネから洗礼を受けた時のことが物語られています。そして、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」と証言しています。
ここで皆さんは、①主イエスの受けた洗礼に何の意味があるか、と思われることでしょう。まさにその意義を、ヨハネが伝えてくれています。
その中心点は、「鳩のように天から降って、この方の上にとどまった“霊”」とイエス・キリストとのつながりにあります。それは、主イエスの公生涯全体を見渡せば、分かります。“霊”、すなわち、聖霊がとどまる中で、神から遣わされたイエス・キリストは、十字架と復活の御業を成し遂げられました。
ここで、“霊”が宿らずとも、人を罪から救い出す御業は、神と御子によって遂行されたであろうと、反問されるでしょうか。
しかし、つぶさに見れば、主イエスの公生涯、つまり、降誕から十字架の死に至るまで(ルカ1:47、4:1、23:46)は、“霊”に導かれていることは自明です。その上、キリスト者もまた、“霊”が「天から降って(自分に!)とどまれば」こそ、イエス・キリストの奇しき御業を見て知って信じることができるのです。さらに、わたしたちがいつも主イエスの言葉と行いを思い起こせるように、わたしたちの助け主なる聖霊が教えてくださいます(ヨハネ14:26)。
従って、わたしたちが聖霊信仰の原点に立ち返ろうとするときには、「わたしは、“霊”が鳩のように天から降って、この方の上にとどまるのを見た」とのヨハネの証言に戻ればよいのです。それは、“霊”とイエス・キリストとの強固なつながりに倣うということです。
次に、②主イエスの授ける洗礼について理解を深めましょう。
「その人(イエス・キリスト)が、聖霊によって洗礼を授ける人である」……ヨハネはこの言葉を「わたしをお遣わしになった方」、すなわち、「神」! から聞かされました。ということは、「イエス・キリスト」が「聖霊によって洗礼を授ける」ことの背景に、「神」がおられるということです。
まさにここに、「洗礼は父・子・聖霊なる三位一体の神が執り行われる聖礼典である」、と規定される根拠があります。洗礼者ヨハネは、「神」・「イエス・キリスト」・「聖霊」による聖礼典を信じる人として召し出されました。こうしてヨハネは、「この方を知らなかった」との三重の縛りから解放されました。人から①洗礼を受けるほどの主イエスの謙遜を学んで、ヨハネはへりくだり、「燃えて輝くともし火」(ヨハネ5:35)としての務めを全うしました。
Ⅳ 四人目の者は神の子のような姿をしている
ダニエル書3:25――
王は言った。「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える。そして何の害も受けていない。それに四人目の者は神の子のような姿をしている。」
待降節から降誕日に至ることを覚えつつ、ヨハネの証しの締めくくり(Ⅴ)の前に、関連する旧約聖書を読むことにしましょう。
紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。新バビロニア帝国の王ネブカドネツァル(在位:前604-562年)は、ユダヤ人の若者たちを召し入れ、行政を任せていました。というのも、彼らは神から知識と才能に恵まれ、夢を解く能力を持っていたからです(ダニエル書1:17)。
しかし彼らは、王の側近たちのねたみを買い、王に中傷されてしまいました。そして、だまされた王は激昂して、ユダヤの若者三人、「シャドラク、メシャク、アベド・ネゴ」を縛り上げ、燃え盛る炉に投げ込むように命じました(ダニエル書3:8,13,20)。
ところが、炉をのぞき込んだネブカドネツァル王は驚いて言いました……「だが、わたしには四人の者が火の中を自由に歩いているのが見える」と。王は、三人が「何の害も受けず」に無事だったうえに、四人目の人物が見えると証言しています。
この「神の子のような姿をしている」者とは、いったい誰だったのでしょうか? 場面状況から言えることは、この人物がユダヤの若者たちに寄り添い、彼らを救出する役割を果たしたということです。信仰深い者たちが危難から脱出できたのは、神が「神の子のような姿をしている」者を遣わしたからです。
こうして、苦しみ悩んでいる時にも「神の子」を待望する信仰が、ユダヤ人共同体の中で受け継がれていきました。およそ600年後に、真の救い主を待ち望んでいる人として、洗礼者ヨハネが荒れ野に現れました。
Ⅴ この方こそ神の子である
ヨハネ福音書1:34 洗礼者ヨハネの言葉――
「わたしはそれを見た。だから、この方こそ神の子であると証ししたのである。」
ここに、わたしたちの間に受肉されたお方が、「神の子である」と証言されています。まことの神でありまことの人であるということが、「神の子」との言葉の内に凝縮されています。神の大いなる救いの歴史において、イエス・キリストが降誕されました。そうして現実に、歴史が「まことの光」に照らされて動き始めました。
Ⅰ.で「その翌日」というのは、洗礼者ヨハネにとってのクリスマスであると述べました。それは、「神の子」の預言が成就した「日」であり、光の降誕祭としてキリスト者によって引き継がれました。
その「日」に、ヨハネは、「世の罪を取り除く神の小羊」であり「神の子」である目撃しました。「見よ」や「わたしは見た」(ヨハネ1:29,32,34)との句には、神によって見せられたのと意味合いが込められています。
言い換えれば、ヨハネは先駆者として、主イエスの受肉から十字架の死、そして復活までを見せられたのであります。神はヨハネに、クリスマスからイースターに至るまで全体を啓示されたのです。というのも、イエス・キリストは「神の子」としてお生まれになり、「神の子」として十字架の死を遂げられたからです。
マタイ福音書27:54――
百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たちは、地震やいろいろの出来事を見て、非常に恐れ、「本当に、この人は神の子だった」と言った。
「見た」という証言者は、ヨハネから「百人隊長や一緒にイエスの見張りをしていた人たち」に引き継がれました。民族の垣根を越えて、証言者の輪が拡げられました。このように、イエス・キリストは「神の子」として、ヨハネの整えた道を、全生涯を歩まれました。
神の遣わされた御子イエス・キリストが「聖霊によって洗礼を授ける」と、ヨハネは神から告げられました。ということは、この時すでに聖礼典を執り行う教会の基礎が据えられたのであります。その後、イエス・キリストは弟子たちを招いて主の晩餐を催し、パンと杯を分かち与えられました(マタイ26:26-29、Ⅰコリント11:23-26)。ここにまた、もう一つの聖礼典である聖餐の式が「神の子」によって定められました。
洗礼と聖餐とは、終わりの時が来るまで、教会が守り行うべきものであります。何よりもそれらを執り行ってくださるのは、「神の子」、イエス・キリストであるとの信仰が大切です。ヨハネはそのような信仰を持った、最初の人であります。
結
「まことの光」(ヨハネ1:9)のもとに、一人ひとりが「ともし火」(同上5:35)として集められる……それはなんと美しいクリスマスでありましょう。静けさの内に幕開けし、「ともし火」の一つひとつによって、御子降誕の喜びが証しされ物語られます。そうして、「まことの光」が照り輝き、そのもとで皆が賛美のうちに一つにされるのは、何と幸いなことでしょう。
メリー・クリスマス、皆さんに、神の祝福がありますように!
W
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〈説教の要約〉
2024年 12月15日
旧約聖書 出エジプト記 33章20節(P.150)
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章14節~18節(P.163)
説 教「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
……ヨハネ1:14
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
……ヨハネ1:15
Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
……ヨハネ1:16
Ⅴ 父のふところにいる独り子である神
……ヨハネ1:17-18
序
アドベント・待降節の第3主日を迎えました。来たる主日には、クリスマス礼拝が行われます。
本日は、ヨハネ福音書の神学的プロローグ(序文)の最終部分を読みます。一つの讃美として、イエス・キリストの誕生・受肉の意味が書き表されています。キリストの誕生について知れば知るほど、自分の信じているキリストがどういうお方なのか、がしっかりと捉えられます。
改めて言うまでもありませんが、受洗すると、人はキリスト者と呼ばれるようになります。それほどまでに、主イエス・キリストとわたしたちの関係には深いものがあります。
受洗の日からキリストに倣う生活が始まります(ローマ15:5)。キリストの言葉と行いにふさわしく生きてゆこうとの思いが、キリスト者の生活を造り上げます。キリストがいつもその生活の根底を支えてくださいます。
キリスト者は独りではありません。というのも、イエス・キリストという土台の据えられた教会(Ⅰコリント3:11)で、礼拝を行うと同時に信徒の交わりが深められるからです。そうして、わたしたちは皆、ますますキリストに似せられた者となります。
Ⅰ 言は肉となって、わたしたちの間に宿られた
ヨハネ福音書1:14――
言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た。それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた。
この一節には、主イエス・キリストの降誕のメッセージが集約されています。
主の降誕を、「誕生」と言えば、人間の出生と何ら変わらないものとなります。しかし、主の降誕は、単なる「誕生」ではなく、「受肉」として受け止めるべきものであります。
その「受肉」のことが、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」と書き表されています。ここで、「言」は「イエス・キリスト」(ヨハネ1:17)を指しており、「言は神であった」(同上1:1)と明示されています。
すなわち、まことの神が、「肉となって」まことの人として誕生したことを、信仰上忘れてはならないこととして、「受肉」と呼んでいるのです。主イエスはわたしたちとまったく同じ人間になられ、わたしたちの重荷である罪と病と死を担う者としてお生まれになりました。
それがいかに特別なことであるか、あるいは、それがいかに神の救いの計画にふさわしいものであるか、「わたしたちの間に宿られた」以下の文章に表されています。
「わたしたちの間に宿られた」……御子イエス・キリストが天の栄光の座からこの地へと降って来られたということが、独特な言葉で表されています。すなわち、イスラエルの民の荒れ野放浪をしのばせるかのように、「言はわたしたちの間に天幕を張った〔原意〕」と告げられています。
旧約聖書によれば、40年間の荒れ野放浪というのは、民が不平をつぶやくことが多く、罪と汚れに満ちていました(出エジプト記16:35、民数記14:33)。モーセが繰り返し、乳と蜜の流れる地に導かれるという主の託宣を取り次ぎましたが(出エジプト記3:8、申命記31:20)、民の大多数はその希望に依り頼むことはありませんでした。偶像崇拝に傾いて、ただ生き延びることしか考えなくなりました。
従って、「言はわたしたちの間に天幕を張った」というのは、荒れ野放浪における民の罪科や背信を打ち破るような新たな告知でありました。主イエス・キリストが「わたしたちの間に天幕を張った」ことによって、かつての天幕生活の失態が払拭され、ここに新しい時代が始まりました。「それゆえ」(イザヤ書7:14)、主キリストが先手を打って、民の頑なさと背きを打開されたということです。
もともと、この「天幕」または「幕屋」(ヨハネ黙示録7:15)は移動生活の中で使われるものです。主イエス・キリストがこの地上に「天幕を張った」と言うことによって、主イエスがわたしたちの人生の旅路に同伴してくださることが内示されています。まことに主イエスはいつも「わたしたちの間に」におられます(マタイ28:20)。
「わたしたちはその栄光を見た」……これぞまさに、クリスマスの出来事そのものです。本来、天の父なる神のものである「栄光」が「わたしたち」の眼前に現れ出てきました。御子イエス・キリストの「受肉」によって、「主の栄光」が「わたしたち」の周りを照らしました(ルカ2:9)。
ルカ福音書には、羊飼いたちが、ベツレヘムに生まれた乳飲み子を「見た」ということが、以下のように強調されています。
ルカ福音書2:12,15,16,20――
12 あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。…… 15 天使たちが離れて天に去ったとき、羊飼いたちは、「さあ、ベツレヘムへ行こう。主が知らせてくださったその出来事を見ようではないか」と話し合った。…… 16 そして急いで行って、マリアとヨセフ、また飼い葉桶に寝かせてある乳飲み子を探し当てた。20 羊飼いたちは、見聞きしたことがすべて天使の話したとおりだったので、神をあがめ、賛美しながら帰って行った。
羊飼いたちは、「主の栄光」の輝いている幼子を目撃しました。主イエスの降誕を「見た」ことによって、羊飼いたちは証言者となり、それがまた、彼らの信仰への導きとなりました。
「それは父の独り子としての栄光であって、恵みと真理とに満ちていた」……これはまさに、主イエスの「受肉」に伴って歌われた讃美であります。「父の独り子」としてこの世に遣わされたお方が、わたしたちに「恵みと真理」を与えてくださいます。
この「真理」こそが、わたしたちを偽善や偏見から解放します(ヨハネ8:32)。こうしてわたしたちは、「主の栄光」に照らされ、この「真理」を杖として自分の足でしっかりと立つことができるようになります。
なお、「恵み」については、後の節で重ねて出て来ますので、Ⅳ.で説き明かします。
ここで、「わたしたちはその栄光を見た」との文に関連して、果たして神を見ることができるのか否かという問いと答えを確認しておきましょう。
Ⅱ あなたは神の顔を見ることはできない
出エジプト記33:20――
また(主はモーセに)言われた。「あなたはわたしの顔を見ることはできない。人はわたしを見て、なお生きていることはできないからである。」
これはあくまでも、主なる神とモーセとが言葉を交わしているこの場面での話ということになりますが、モーセは「神を見ることはできません」。“ 霊 ” に導かれた「神の人」モーセ(申命記33:1)において、「神を見る」ことが許されないならば、当然イスラエルの民もまた、「神を見ることはできない」と類推されます。
しかし、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との厳格な託宣が置かれている文脈を見誤ってはなりません。確かに、神は、「わが栄光が通り過ぎるとき、わたしはあなたをその岩の裂け目に入れ、わたしが通り過ぎるまで、わたしの手であなたを覆う」(出エジプト記33:22)との具体的な説明と共に、「神を見ることはできない」と告げられています。
しかし、「神を見ることはできない」が、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、神は執り成してくださっています。
一つは、神がモーセに「臨在の幕屋」を造るように指示されたことです。これは、宿営の外に張られた一つの天幕であります。モーセがこの幕屋に入ると、雲の柱が降りて来て、主はモーセと語られました(出エジプト記33:7-11)。
もう一つは、「わたしはあなたの前にすべてのわたしの善い賜物を通らせ、あなたの前に主という名を宣言する。わたしは恵もうとする者を恵み、憐れもうとする者を憐れむ」(出エジプト記33:19)との御言葉によって、「主の栄光」を現す(同上33:18 他に同上24:16、40:34)ことを約束されたことです。
「金の子牛」を造って偶像崇拝に浸ったばかりの民(出エジプト記32:1-6)、悔い改めの不十分な民、あるいは、神を畏れることを知らない民にとっては、神からのあり余る「恵みと憐れみ」ではないでしょうか。「神を見ることはできません」が、「臨在の幕屋」と御言葉を通して、罪深い民は神の臨在に触れることが許されました。
この場面では、民の指導者モーセに、「あなたはわたしの顔を見ることはできない」との裁きの言葉が下りました。しかし、モーセが民の罪に絶望しそうになる中で、主イエス・キリストの降誕に係わる預言が示されました。すなわち、「臨在の幕屋」を造れとの指示が預言として、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」との成就につながっていくということです。そこで、神と人間と親しい交わりが築かれます。
主なる神は、神のいますことを告げたモーセの後継者として、洗礼者ヨハネを遣わされました(ヨハネ1:6)。
Ⅲ わたしの後から来られる方は、わたしより優れている
ヨハネ福音書1:15――
ヨハネは、この方について証しをし、声を張り上げて言った。「『わたしの後から来られる方は、わたしより優れている。わたしよりも先におられたからである』とわたしが言ったのは、この方のことである。」
神学的プロローグ、キリスト讃歌の中に、二度にわたり洗礼者ヨハネについて言及されています。ヨハネは、人々を悔い改めに導くために(マルコ1:4)、人間の心の闇へと分け入っていきました。主イエスはヨハネの働きを、「燃えて輝くともし火であった」(ヨハネ5:35)と証言されました。
世の人の中には、ヨハネのことを「風にそよぐ葦か」(マタイ11:7)と見下した人がいたかも知れません。「風にそよぐ葦」とは、荒れ野で風に揺さぶられているような、定見のない不安定なものという意味です。また、世の人が「その光のもとで喜び楽しもうと」(ヨハネ5:35)、ちやほやしても、ヨハネは自分を無にして、イエス・キリストを指し続けました。
それから、大勢の人々が自分から洗礼を受けたいとやって来ても(ヨハネ3:23-30)、ヨハネが高ぶることはありませんでした。断食を重んじて(マタイ11:18)、へりくだり、主イエスへと至る道を整えました(ヨハネ3:3)。なぜなら、ヨハネは一つの「ともし火」であり、主イエスは世全体を照らす「まことの光」(ヨハネ1:9)だったからです。
「わたしよりも先におられたからである」……実はヨハネの出生は、主イエスよりも半年ほど先んじています。というのも、マリアが身ごもった時、ヨハネの母エリサベトは懐妊からすでに六か月経っていたからです(ルカ1:36)。ですから、主イエスの方が「先におられた」とは、この世的な出生順、いわゆる歳の差を指しているのではないと分かります。
そこで、わたしたちはこのヨハネの証言もまた、キリスト讃歌の一節として読むべきであると教えられます。すなわち、「わたしよりも先におられた」とは、わたしたち・人間を含め、すべてのものが造られるよりも、もっと前から、イエス・キリストはおられた、ということです。
言い換えればそれは、永遠の昔より、御父と共に、御子イエス・キリストは被造物の礎になっておられたということです。このような万物の創造と救済という壮大な観点から、「わたしの後から来られる方は、わたしより優れている」と、ヨハネは「声を張り上げて証しをして」います。
ヨハネは自分が衰えゆく「ともし火」だと自覚しているからこそ、「まことの光」による救いを待ち望んでいました。ヨハネの宣べ伝えた罪の悔い改め(マルコ1:4、ルカ3:3)こそが、救いにあずかる第一歩なのです。それによって、創造の時の「神のかたち」(創世記1:26-27)が回復されます。そのために、「わたしよりも先におられた」イエス・キリストが罪人に寄り添い、愛をもって罪の赦しへと導いてくださいます。
Ⅳ わたしたちは皆、恵みの上に、更に恵みを受けた
ヨハネ福音書1:16――
わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた。
キリスト讃歌がますます盛り上がっていきます。
ここで、「臨在の幕屋」の建築に伴って、主がモーセに語られた「わたしは恵もうとする者を恵むであろう」(出エジプト記33:19)との預言の成就が表明されます。
すなわち、「わたしたちの間に天幕を張った」イエス・キリストが、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」を与えるということです。では、「恵み」(ギリシア語:カリス)とは、一体何でしょうか?
「恵み」は、「この方の満ちあふれる豊かさの中」にあるものですから、神秘に満ちており、わたしたちの想像をはるかに超えるものであります。それが第一義的なことを認めたうえで、「恵み」に対する対義語を挙げましょう。そうすれば、「恵み」の何たるか、についてヒントが得られることでしょう。
「主イエス・キリストの恵み」(Ⅱコリント13:13)に対置されるのは、「人の善い行い」です。「主イエス・キリストの恵み」は価なしに、無償でわたしたちに与えられるものです。しかし、「人の善い行い」には時に、見返りが要求されます。それは金銭であったり、協力あるいは隷属であったり、さまざまです。
一方、「主イエス・キリストの恵み」は、主を信じ従う者に、とこしえに「この方の満ちあふれる豊かさの中から」与え続けられます。他方、「人の善い行い」は永続するものではありません。時に、「善い行い」を実行している人が傲り高ぶって他人を見下すようになります。そうすると、「善い行い」から、ねたみや分裂が生じてしまうという結果に至ります。それは、わたしたちを「平和」への誘う「主イエス・キリストの恵み」(Ⅱテモテ1:2)とは正反対です。
愛の大波のように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を通して、「わたしたち皆に、恵みの上に、更に恵み」が注ぎ入れられます。この止めどない「恵み」の源泉について、「この方の満ちあふれる豊かさの中から」であると明示されています。
「この方」とは、ヨハネが証ししている「イエス・キリスト」を指しています。「この方」は、不毛な人生にあえぎ苦しんでいた女に、次のように語りかけられました。
ヨハネ福音書4:14 主イエスはサマリアの女に答えて言われた――
「しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
「この方の満ちあふれる豊かさの中から」、一人の女の内に「水」が注ぎ入れられます。すると、彼女の身心は潤わされて、「永遠の命」を得るという希望に生きる者に変えられます。それによって、昼下がりに、ヤコブの井戸から水がめで水を汲むという日常生活(ヨハネ4:6,28)がもはや、砂を噛むような味気ないものではなくなります。
サマリアの町で孤独だった女が、自分自身の「泉」から「冷たい水一杯」(マタイ10:42)を汲んで、隣人に飲ませるようになりました(ヨハネ4:28-30)。もはや、ヤコブの井戸の共同使用のために、住民たちとの間で気苦労することはなくなりました。なぜなら、その女は「この方の満ちあふれる豊かさ」に支えられて、信仰を持ち、日常の生活を営んでいるからです。
異邦人の女は、「わたしたちは皆」(ヨハネ1:16)の中の一人です。彼女もまた主の招きにより、イエス・キリストを証しする人々の群れに加えられました。
Ⅴ 父のふところにいる独り子である神
ヨハネ福音書1:17-18――
17 律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである。18 いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである。
蘊蓄話ではありませんが、創世記1:1「初めに、神は天地を創造された」のように、「初めに」が冒頭に置かれているのは、新約聖書・27文書中、どの文書か、分かりますか? これを、ヨハネ福音書の説教中に聞くのも、わざとらしいのですが……。ハイ、「初めに言があった」という書き出しのヨハネ福音書(のみ)です!
厳密に原語のレベルでも、創世記、ヨハネ福音書、それぞれの文書冒頭に、「ベレシート」(ヘブライ語)、「エン アルケー」(ギリシア語)というように、「初めに」… ‘ In the Beginning ’ …が確認されます。
ヨハネ福音書記者は、「初めに」との鍵語によって、天地創造の「初めに」からヨハネの教会の「初めに」へと架け渡そうとしています。つまり、新約の一文書であるヨハネ福音書は、イエス・キリストの降誕の時点から「初めに」を振り返っているということです。その点では、イエス・キリストは天地創造(初め)の前からおられた「まことの神」ですから、そのお方なる「まことの人」の「受肉」(ヨハネ福音書の初め)によって、二つの「初めに」はつなげられています。これぞ、プロローグが荘重である所以です。
ここでは、旧約聖書を代弁するものとして、「モーセの律法」が挙げられています。ヨハネの教会にとって、「モーセの律法」はまさに「初めに」神が啓示したものにほかなりません。では、そのような理解のもとに、どんなことを訴えようとしているのでしょうか。
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」……言い換えれば、これは、「律法はモーセを通して与えられた。そのような準備の上に、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れたからである」となります(熊澤義宣;参照 ローマ3:21)。
「モーセの律法」は「やがて来る良いことの影」であったが(ヘブライ10:1)、それが今や、「10:1」現実のものとなっているということです。「やがて来る良いこと」こそが、「恵みと真理」でありました。
わたしたちは、主イエスによって、律法遵守の軛から解放されました(ローマ6:14、ガラテヤ4:5)。というのも、わたしたちの最も重要な務めは、「この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受ける」ことだからです。
これに加えてわたしたちには、「この方」、イエス・キリストから、その時々に守るべき「律法」が示されます(マタイ22:37-40)。これに伴って主イエスは、神の教えに従おうとするわたしたちに寄り添ってくださいます。
「初めに言があった」との文で始められた神学的プロローグは、「イエス・キリスト」に焦点を合わせて閉じられます。
「いまだかつて、神を見た者はいない。父のふところにいる独り子である神、この方が神を示されたのである」……ここで、「神を見ることはできない」というモーセの時代から、「この方が神を示される」という新しい時代に移されます。
ただし、モーセはじめイスラエルの民が神の臨在に触れることができるように、つまり、神のいますことを信じられるように、導かれた神の執り成しが無駄だったというわけではありません。「そのような準備の上に」、神からイエス・キリストがこの世に遣わされたということです。「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた」ことによって、わたしたちは神の栄光を「見る」信仰者となりました。
「父のふところにいる独り子である神」……御父と御子イエス・キリストとの親しき交わりが描き出されています。ここに、わたしたちの信仰の核心があります。というのも、御父と御子が一つになっておられる(ヨハネ17:22)ことが、わたしたちの信仰と日常の礎となっているからです。そこでわたしたちは、神を信じ讃える礼拝において、一つとされるのです。
「ふところ」というのは、御父と御子とが「いちばん近いところ」におられることを昭示しています。その親しき交わりの中に、愛と「満ちあふれる豊かさ」があります。そこから、わたしたちは、「恵みの上に、更に恵みを受ける」ことになります。それは、汲めども尽きることのない、永遠の「恵み」であります。
結
本日はご一緒に、ヨハネ福音書の神学的プロローグの終わりの部分を読みました。洗礼者ヨハネは、罪と病と死を恐れている人々のただ中で、「わたしの後から来る方」について証言しました。そして、人々に「まことの光」を待つという忍耐と希望を示しました。主キリストの前に、ヨハネの身心は衰えていきましたが、キリスト讃歌の中に、彼の不滅の証しが残されました。
このキリスト讃歌を通じて、クリスマスにお迎えする御子がどのようなお方であるか、見て、知って、そして、そのお方こそが救い主であると信じることができますようお祈りいたします。
W
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2024年 12月8日
新約聖書 ヨハネによる福音書 1章6節~8節(P.163)
説 教「ここに、光について証しする人、現れり」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……イザヤ書48:16
……ヨハネ1:8
結
序
待降節・アドベントの第二週に入りました。本主日からクリスマス礼拝まで、3週連続でヨハネ福音書1章から御言葉を取りつぎます。
冬至(12月21日頃)が近づいて来ました。その日から夜より昼の時間が長くなっていきます。少しずつ朝の光がまぶしさを増していきます。心の闇を振り払って、「まことの光」(ヨハネ1:9)として世に来られる主イエス・キリストにお会いする準備をしましょう。主イエス・キリストを知ることによって、神への信仰が強められます。
Ⅰ 神から遣わされた一人の人がいた
ヨハネ福音書1:1-18は、神学的プロローグ(序文)で、主イエス・キリストの啓示を表しています。すぐれた讃美になっています。その流れを破るかのように、洗礼者ヨハネが登場します(1:6-8,15)。
この洗礼者「ヨハネ」は、ヨハネ福音書の著者ヨハネとは違います。彼は神から特別な使命を授けられて、民のもとに遣わされました。ヨハネはユダの荒れ野に現れて、御言葉を宣べ伝えました(マルコ1:3-4)。それによって、多くの人々が、主イエス・キリストの啓示を現実のものとして受け止めました。つまり、神の大いなる歴史がこの世で、主イエス・キリストの言葉と行いによって押し進められました。
「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)というそのちょうどその時に、ヨハネは主イエス・キリストについて証ししました。それが、神がヨハネに与えた使命でありました。道備えをする先駆者としての役割が「一人の人」、「その名はヨハネ」に託されました。
これまでユダヤの歴史上、大勢の預言者が殺されたように、ヨハネは、罪深い権力者の手によって殺されてしまいました(マルコ6:27-29)。彼は、主イエス・キリストを証しすることに徹して、殉教したのであります。「だから、わたしは喜びで満たされている。あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:29-30)とのヨハネの言葉は、信仰者の間で今も輝いています。
そのようにして、神に遣わされ、悔い改めの洗礼を宣べ伝え、最後に罪人に惨殺されたヨハネはその全生涯をもって、主イエス・キリストについて証ししました。それほどまでに、神の大いなる救いの計画を証しする “ 霊 ” 的務めに徹し得たのは、ヨハネがイスラエルの聖なる預言者たちの系譜に連なっているからです。
わたし〈主〉は初めから、ひそかに語ったことはない。
その霊を与えてくださった。
第二イザヤが主の託宣を広めようとしたのは、紀元前6世紀中葉、バビロン捕囚の時代でありました。異国での生活が30年、40年と長引いて、神礼拝が衰退し、民の間から希望が消え失せてゆきました。
そのように混沌とした世の中にもかかわらず、神の大いなる救いの計画が中止されることはありませんでした。なぜなら、「事の起こるとき、わたし〈主〉は常にそこにいる」を現すために、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」からです。言い換えれば、「わたし〈主〉は常にそこにいる」という「わたし」の代理こそが、「わたし」なる第二イザヤなのです。
主の託宣を聞いてすぐに、「わたし」の問題、「わたし」の使命と受け止めたところに、預言者の従順さがうかがわれます。まさに召命の基本は、「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろうか」との主の御声を聞いて、「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」と答えることです(イザヤ書6:8)。
洗礼者ヨハネの活動との並行で興味深いのは、第二イザヤ自身が「世の光」(ヨハネ8:12)とはなっていないということです。聖書には、第二イザヤもヨハネも、「神が遣わした」人物と明言されています(イザヤ書48:16∥ヨハネ1:6)。しかし、両者共に、あくまでも御言葉の宣教が中心で、ひたすら「世の光」として来たる解放者を指し示しました。
自分が前に出るのでは決してない、周りから抑圧や攻撃があっても、忍耐し、神の僕として使命を全うするのは、並大抵のことではありません。だからこそ、「今、主である神はわたしに 御自身の霊を与えてくださった」のです。その「御自身の霊」がいつも、第二イザヤに寄り添い、彼を慰め励まします。
さて、第二イザヤの伝えている主の託宣の内容を確かめましょう。
第二イザヤが預言した、来たるべき解放者とは、ペルシア王「キュロス」を指しています。イザヤには、なぜ神は異邦人を用いられるのか、という戸惑いまたは不信はありませんでした。
そのことが、次の御言葉にも表されています。
イザヤ書48:14――
皆、集まって聞くがよい。
彼らのうちに、これを告げた者があろうか。
「主の愛される者」または「主の御腕となる人」との呼称をもって、キュロスが示唆されています。主なる神が異邦人の王に油を注いで召し出す(イザヤ書44:28、45:1)というのは、驚きです。そうして、キュロスはユダヤの民を捕囚にしている「カルデア人」の国・「バビロン」に立ち向かいます。
キュロスはペルシア帝国(前547年-前330年)の創設者(在位:前559年-529年)です。大多数のユダヤ人には、キュロスが「主の御旨」を実行して自分たちを解放すると言っても、にわかに信じられなかったことでしょう。
それ故に、神「御自身の霊」による支えの中で、第二イザヤがたゆむことなく、「キュロス」について証しするかどうか、が問われています。問題は山積しています。祖国への帰還の長い旅、都エルサレムの復興、そして都に残った者たちとの再結集など、人々からつぶやきが聞こえてきそうです。
そうした時に、前539年、キュロスによって「カルデア人」の国・「バビロン」は征服されました。バビロンと異なり、キュロスは被征服民に対し寛容であり、各民族の宗教や慣習を尊重しました。
第二イザヤは、ユダヤの民に、「わたし〈主〉のもとに近づいて、聞くがよい」と呼びかけました。というのも、キュロスについての証しが真実であり、それによって、神の言葉の力が発揮されたからです。
ヨハネ福音書では、「わたしは荒れ野で叫ぶ声である。『主の道をまっすぐにせよ』」(1:23)との洗礼者ヨハネの宣教の第一声が昭示されています。「主の道をまっすぐにせよ」との命令はイザヤ書40:3からの引用です。ヨハネはまさに、「今、主なる神は御自身の霊をもってわたしを遣わした」という第二イザヤの系譜に連なる者として、世に現れました。
ヨハネ福音書1:7――
彼は証しをするために来た。光について証しをするため、また、すべての人が彼によって信じるようになるためである。
ヨハネが神から派遣されたということに続いて、彼の使命が明示されます。その使命とは、ヨハネ自身は黒子に徹して、その証しをもって「光」なる主イエス・キリストを照らし出すということです。
その点ではヨハネは、一年で夜が最も長い時季に、その暗がりの中で、光の降誕祭が近づいているのを知らせるのに、最もふさわしい人物です。ヨハネは「声を張り上げて」(ヨハネ1:15)、主イエスについて証ししています。
ヨハネは主イエスに係わる出来事を目撃し(ヨハネ1:29,34)、それを人々に伝達することに集中していました。実はヨハネ福音書では、ヨハネは一度も「洗礼者」との称号をもって呼ばれてはいません(比較:マタイ3:1、マルコ1:4、ルカ7:20)。
確かにヨハネは民衆に洗礼を授けていましたが、それは「ヨルダン川の向こう側」だったと限定されています(ヨハネ1:28 他に3:23)。「その人はわたしの後から来られる方で、わたしはその履物のひもを解く資格もない」(ヨハネ1:27)とのヨハネの主イエスに対する言葉にも、謙遜さがにじみ出ています。
「彼が光について証しをするために」……この点に関しては、神学的プロローグ自体(ヨハネ1:1-18)がその方向性を指し示しています。つまり、序文において、主イエス・キリストが「光」(同上1:4,5,7,8,9,14)としてこの世に遣わされたことが基調になっているからです。これに呼応して主イエスは後に、「わたしは世の光である」(同上8:12)と宣言されました。
その新しい啓示のただ中で、ヨハネは、主イエス・キリストの「光」を身にまとっています。そこで、ヨハネは「光について証しをして」、喜びに満たされています。それが、彼の活動の源になっています。
「また、すべての人が彼によって信じるようになるためである」……これがヨハネに託された最大の使命でありました。罪と闇と死の陰に住んでいる「すべての人」が「光」によって照らされます。そうして、人々は「言」なる主イエス・キリストを「信じるようになる」のです。ヨハネの証しは間違いなく、人々に信仰が与えられる、その土台となります。
Ⅳ 彼は光ではなかった
ヨハネ福音書1:8――
「彼は光ではなく」……ここでヨハネは、明確に留保を付けています(K.バルト)。自分の分を越えて過大評価してはならないということです。これは、自らへの戒めである以上に、「あなたは、どなたですか」(ヨハネ1:19)との問いに先んじて答えたものと言えましょう。
「彼は光ではなく」、「ヨハネは、燃えて輝くともし火であった。あなたたちは、しばらくの間その光のもとで喜び楽しもうとした」(ヨハネ5:35) と、主イエスが証言されている通りです。「燃えて輝くともし火」なるヨハネは先駆者であり、彼の後に、「まことの光」(同上1:9)なる主イエス・キリストを遣わすというのが、神の大いなる救いの計画でありました。
わたしたちが暗闇から光の世界に招き入れられるとき、つかの間の「喜び楽しみ」に惑わされてはなりません。それでは、光の降誕祭にたどり着く前に、道をさ迷うことになります。ヨハネの証しこそが、その旅路を照らす「ともし火」となります。
結
今回の結びとして、二度語られている「彼は光について証しをする」との言葉(ヨハネ1:7,8)について、少し深めてみましょう。
問題点は、どうして、「世の罪を取り除く神の小羊」(ヨハネ1:29)と「光」という二つのキリストについての証言が結びつくのか、ということです。すなわち、十字架にはりつけになったお方をどうして「光」と呼べるのか、ということです。
そこで、わたしたちの信仰の面からその問題を考えてみましょう。実際、「すべての人が彼(=ヨハネの証し)によって信じるようになるため」との言葉の通り、それは最重要なことです。
まず前提となるのは、わたしたち・信仰者は、主イエス・キリストが「まことの光」であり、「世の罪を取り除く神の小羊」であると「信じている」ということです。その信仰について、次のように書かれています。
ヨハネの手紙 一 5:4-5――
4 神から生まれた人は皆、世に打ち勝つからです。世に打ち勝つ勝利、それはわたしたちの信仰です。5 だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか。
ということは、十字架につけられて殺された主イエス・キリストを「信じる者」には、「世に打ち勝つ勝利」が与えられるということになります。
洗礼者ヨハネが神から「世」に遣わされたとき、「世」はサタンによってかき乱され、人々は罪と病と死におののいて暮らしていました。そこで、ヨハネは「光は暗闇の中で輝いている」(ヨハネ1:5)ことを証言しました。彼は人々の高ぶりや頑なさに屈することなく、証しし続けました。
そして、ヨハネによって道備えがなされた後に、御子イエス・キリストが「世」に遣わされました。最後に、「世」の権力者や偽善者は、主イエスを十字架刑にするとの審判を下しました。
そこで奇しくも、神の大いなる救いの計画が成し遂げられました。主イエス・キリストは十字架に死して復活されました。それによって、すべての人間の罪科を滅ぼされ、「世に打ち勝たれました」。主イエスを信じる者に永遠の命が与えられることになりました(ヨハネ3:15、17:2)。
以上が、十字架にはりつけになったお方をどうして「光」と呼べるのか、という問いへの答えです。それが、十字架上の主イエスを見て、「まことの光」・「世の光」と呼ぶ(ヨハネ1:9、8:12)ことのできる理由です。
加えて、御父と御子が一つであるように、御子と一つとされている教会もまた(ヨハネ17:21-23)、「世に打ち勝つ勝利」にあずかっています。それはまさに、主イエス・キリストの恵みによることです。
ヨハネは、「見よ、世の罪を取り除く神の小羊だ」(ヨハネ1:29)と叫んで、主イエスが過越祭の準備の日(同上19:31)に十字架に上げられることを予告しました。十字架の死と復活を見通していたという点において、ヨハネの「光についての証し」(同上1:7,8)は信頼に価するものでありました。だからこそ、「あの方は栄え、わたしは衰えねばならない」(同上3:30)という苦難の道を歩み切ることができたのでしょう。
ヨハネの生涯を象徴する「ともし火」は、燭台の上に置かれています(マルコ4:21)。「まことの光」がその「ともし火」を皓々と照らしています。アドベント・クランツのろうそくは、そのような「ともし火」を現しています。来たるクリスマスには、会堂いっぱいに、そして世の隅々にまで、「まことの光」が照り輝きますように!
W
〈説教の要約〉
2024年 12月1日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
待降節 第1主日(降誕前第4主日)
旧約聖書 イザヤ書 7章10節~14節(P.1071)
新約聖書 マタイによる福音書 1章22節~25節(P.2)
説 教「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ ……イザヤ書7:10-11
Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか
……イザヤ書7:13
Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む
……イザヤ書7:14
Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる
……マタイ1:22-25
序
12月に入り、教会の暦ではアドベント・待降節を迎えました。待降節とは、主イエス・キリストの降誕を待ち望む期間です。
そこで本日は、主イエスの降誕からおよそ700年あまりさかのぼる預言者の言葉に耳を傾けることにしましょう。というのも、預言者イザヤはその当時の王とその民に、救い主の誕生を預言しているからです。
言い換えれば、ユダヤの民は700年の歳月を経て、預言どおりに救い主に出会うことになりました。その救い主こそ、神がこの世にお遣わしなった御子、イエス・キリストでありました。ユダヤ人のただ中で待望されたそのお方は、ユダヤ人の垣根を越えて、全世界の人々に喜びを告げ知らされました。
実際、主イエスは異邦人の間でも、病気の癒やしや悪霊祓いなど、救いの御業を行われました(マルコ3:7-12、5:1-20、7:24-30)。それらは正しく、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)ということのしるしでありました。そのように主イエス・キリストは、暗闇を照らす世の光として到来されました(ヨハネ8:12)。
わたしたちは、突然光が暗闇に射し込んだというはじめの歓喜を自分のものとしなければなりません。それは、待降節を過ごす意義を回復するためであります。そのために、「インマヌエル」預言の語られた暗黒の時代に立ち戻りましょう。それは、主イエスの降誕からおよそ700年前、現代からおよそ2700年以上前、南ユダ王国で起こった出来事です。どんな人物がその預言を聞いたのか、そしてどのような反応を示したのか、とても興味深いことでしょう。
Ⅰ 主なるあなたの神に、しるしを求めよ
イザヤ書7:10-11――
10 主は更にアハズに向かって言われた。11 「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に。」
時と場合にもよりますが、王というものは概して神の声を聞こうとしません。なぜなら、自分の声こそが神の声だと思うほどに、自分を誇り傲慢になっているからです。
それが、動乱の世の中で、外国から圧力を受けているならば、なおさらです。どうにかして自分の身と財産を守りたい、あるいは、侵略を企てる列強の為政者をなだめすかして撤退させたいなどと案じて、おちおち夜も眠れません。ですから、王は神の言葉を伝える預言者に対し、しばしば横柄な態度をとってしまいます。
紀元前8世紀後半、南ユダ王国のアハズ(在位 前744-729年)は、まさにそれにぴったり当てはまる人物でありました。「アハズは二十歳で王となり、十六年間エルサレムで王位にあり」ました(列王記下16:2)。
当時の最強国は、メソポタミアのアッシリア帝国でありました。近隣諸国は、アッシリアと和睦して朝貢するか、それとも、反旗を翻すか、いずれかの道を選ばざるを得ませんでした。
そうこうするうちに前733年、北イスラエル王国(エフライム)とダマスコ(アラム)が南ユダ王国を、反アッシリア同盟に組み入れようとして攻め込んで来ました。これに応じて前732年、アハズ王はアッシリアに助けを求めて贈り物を送りました(列王記下16:7-8)。これによって、難を免れたものの、南ユダ王国はアッシリアの属国として扱われることになりました。
隣国に攻囲された時の、ユダヤ国内の様子がリアルに描かれています。
イザヤ書7:2――
しかし、アラムがエフライムと同盟したという知らせは、ダビデの家に伝えられ、王の心も民の心も、森の木々が風に揺れ動くように動揺した。
こんなに心が弱くなっているのでは、とても一介の預言者の声に耳を傾けるはずなどない、と想像されることでしょう。イザヤがそんなアハズ王を捕まえて対話したのは、「布さらしの野に至る大通りに沿う、上貯水池からの水路の外れ」でありました(イザヤ書7:3)。というのも、王宮で預言者から聴聞するなど、そんな余裕はアハズには無かったからです。
神礼拝、時代情勢、いずれの点でも、暗黒の中にありました。そんな折も折、「インマヌエル」預言が、一見ふさわしい聞き手とは思われない人物に向けて発せられました。このこともまた、御子イエスの降誕に不思議な形でつながっているのは、驚きです。
ルカ福音書2:8-9――
8 その地方で羊飼いたちが野宿をしながら、夜通し羊の群れの番をしていた。9 すると、主の天使が近づき、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
アハズ王とは違う人格を持つ人々ですが、「羊飼いたち」が夜の闇から呼び出されました。「主の栄光が周りを照ら」されて、乳飲み子を探し当てようと、町へと向かいました。
アハズ王にしても、また、「羊飼いたち」にしても本来ならば、聖なる「インマヌエル」預言から遠い所に置かれているような人々です。しかし、神はその預言のはじめの傾聴者として、アハズを召し、そして、預言の成就の目撃者また伝達者として「羊飼いたち」を呼び出されました。
およそ700年の歳月を越えて、人間の頑なさを打ち砕いて、「神が我らと共におられる」とのメッセージを伝えるという神の御旨が貫かれています。現代においても、神は無知で無垢な人、自分本位な人、そして頑なな人をクリスマスに招いておられるのではないでしょうか。
「主は更にアハズに向かって言われた」……先述通りの情勢で、アハズ王にとっては都エルサレムの防備が喫緊の課題でありました。北イスラエル王国とダマスコの攻撃によって破損した所がないか、調査したことでありましょう。案の定、アハズは「貯水池」や「水路」の見回りをしていました。
そこで、主から遣わされたイザヤは、アハズに主の言葉を取りつぎました。「主は更に言われた」(別訳:主は語り続けられた)というところに、神礼拝をおろそかにし、預言を聞き入れない者への忍耐強さが表れています。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ。深く陰府の方に、あるいは高く天の方に」……今アハズが知らなければならないのは、神と人との親密な関係、すなわち、「見よ、あなた(神)はそこに(ここに)います」(詩編139:8ということです。それは、アハズやイザヤの全存在が神の中に置かれているということです。
「天に登ろうとも、あなたはそこにいまし 陰府に身を横たえようとも 見よ、あなたはそこにいます」(詩編139:8)という以上、「深く陰府の方」にも、あるいは、「高く天の方」にも、神の「しるし」が満ち満ちているのです。
たとえば、人が死の床について、死んで、そして人の側から見て、神との交わりが切れたように思われようとも、神御自身が「陰府に身を横たえて」、その人に御力を発揮してくださいます(Ⅰペトロ3:19)。そのようにして、神は「天」でも「陰府」でも、人の心に思い浮かびもしなかったような奇跡を行われます。
主なる神は、アハズに「インマヌエル」預言を伝達する前に、アハズから頑なさを取り除こうとされました。たとえ、この地上で八方塞がりになっても、人の心が開かれていれば、御言葉が下って来ます。
Ⅱ 主を試すようなことはしない
イザヤ書7:12――
しかし、アハズは言った。
主を試すようなことはしない。」
さてここで、アハズの頑なさをつまびらかにしましょう。主に背く人間の本性が見出されます。
まず指摘できるのは、アハズが憐れみ深い助言に全く耳を傾けていないということです。預言者イザヤの口を通して伝えられる主の命令に対し、悪知恵を働かして却下しようとしています。アハズ王の斜に構えた態度には憤りを感じます。
・王の返答「わたしは求めない。主を試すようなことはしない。」
このように比較すれば、すれ違いが明確になります。
アハズは鍵語となる「しるし」という言葉を、わざと抜いています。「あなたの話は聞きません」との心理が見透かされます。直後に、前代未聞の「しるし」として「インマヌエル」預言が提示されるのですが、賢しらなアハズは巧みに話を逸らそうとしています。イザヤの懇切な助言に対し、「ゼロ回答」でけりを付けたい、そして、思うがままに我が道を突っ走りたいということです。
もう一つ、姑息なのは、「しるしを求める」を「主を試す」にすり替えていることです。ここでアハズは、聖書を重んじる敬虔な王を演出しようとしています。後に、悪魔が主イエスを誘惑する(ルカ4:9-12)ために、部分的に聖句(詩編91:11-12)を引用しますが、アハズのずる賢さは悪魔と同等です。
アハズが援用したのは、「あなたたちがマサにいたときにしたように、あなたたちの神、主を試してはならない」(申命記6:16)との律法です。これは、神の御心を問うことなく、一方的に神に自分の要求を押しつけるような不信仰を戒めているものです。しかし、先に比較したとおり、そもそも「主を試しなさい」などとは命じられていません。
イザヤは、「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と言ったまでで、それがどのような「しるし」であるかは、「主なるあなたの神に」ゆだねなさい、という主旨なのです。そこには、「神の子なら、神殿の屋根の端から飛び降りたら……」(ルカ4:9)というような命じる側からの押しつけはありません。
「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」(イザヤ書7:10)……アハズが「しるし」、すなわち、神の大いなる奇跡を待ち望むように命じられています。国の内外の情勢が不穏な空気が漂っている中で、アハズは神に信頼を置くことができるのでしょうか。
「ゼロ回答」に逃げ込もうとするような人物に、権力と名誉においてこの世の中心に立つ人物に、神の御計画が明らかにされたのは、紛れもない真実であります。
Ⅲ わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか
イザヤ書7:13――
イザヤは言った。
もどかしい思いをさせるだけでは足りず
これは、いよいよ「インマヌエル」預言が啓示される、その直前のイザヤの言葉になります。イザヤは「わたしの神」の思いを汲み取り、真剣に人々の態度を改めさせようとしています。
実はすでに、この言葉の内に「インマヌエル」の真意の一端がほのめかされています。すなわち、それは、アハズへの語りかけ(イザヤ書7:4,10)が「ダビデの家」への呼びかけに替わっている点にあります。ついでに言えば、アハズ王は「父祖ダビデ」の家系に属する者です(列王記下15:38)。
それでは、なぜ、「ダビデの家よ聞け」と言われているのでしょうか? それは単に、その当時の「ダビデの家」の皆さん、話を聞いてくださいね、というのではありません。そうではなく、これから啓示される預言において、「ダビデの家」が重要な役割を果たすということが示唆されているのです。
「ダビデ」はユダ族に属します。その支配地域には、エルサレムやベツレヘムが含まれます(士師記17:7)。ここまで言えば、もう気づかれることでしょう、「インマヌエル」預言、すなわち、主イエスの降誕を聴き取る際に、「ダビデの家」についての知識は必須である、と。実際、新約聖書・冒頭には、「アブラハムの子ダビデの子、イエス・キリストの系図」(マタイ1:1)と書かれています(「系図」の原意は「誕生・生成」です)。これはまことに、「ダビデの家」が傾聴すべき預言であり、その成就なのです。
「あなたたち(ダビデの家)は人間に もどかしい思いをさせるだけでは足りず わたしの神にも、もどかしい思いをさせるのか」……イザヤはアハズの不信仰を見抜いたうえで、この世の出来事から神の思いを類推させようとしています。
アハズ王の時代において、ソロモンの建てた神殿に集う「ダビデの家」の人々は本来ならば、“ 霊 ” 的に清められていなければなりません。しかし実際は、ユダヤの民に「もどかしい思いをさせ」(=煩わせ)ていました。それは、原文に則せば「小さな・わずかな」過失であるが、「あなたたちがわたしの神をも、もどかしい思いをさせている」のは、大罪なのではないか、ということです。
「人間」のみならず、「わたしの神」をも困惑させたことが、列王記下(16:2-4)には次のように、総括されています……「2 アハズは父祖ダビデと異なり、自分の神、主の目にかなう正しいことを行わなかった。3 彼はイスラエルの王たちの道を歩み、主がイスラエルの人々の前から追い払われた諸国の民の忌むべき慣習に倣って、自分の子に火の中を通らせることさえした。4 彼は聖なる高台、丘の上、すべての茂った木の下でいけにえをささげ、香をたいた」。
イザヤは、神と人とを煩わせるような罪深い者に神の言葉を取りついでいます。突き放すだけでなく、寄り添う思いがなければ、全うできない重い責務であります。「神がわたしの味方だとわたしは悟る」(詩編56:10)からこそ、耐えうるのでありましょう。
Ⅳ 見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む
イザヤ書7:14――
あなたたちにしるしを与えられる。
イザヤは「ダビデの子孫」であるアハズに向けて、肉によれば「ダビデの子孫」から生まれる「インマヌエル」の預言を告げました(ローマ1:3、ヨハネ7:42)。それは、「主は救い」という名のイザヤから「主は捕らえた」という名のアハズに伝達されました。ここに、罪深い者に、救い主の誕生を告げ知らせるという神の憐れみが認められます。
およそ700年前の、聖別された人と罪深い人との出会いにおいて、「言は肉となって、わたしたちの間に宿られた。わたしたちはその栄光を見た」(ヨハネ1:14)という将来が見通されていたのです。「インマヌエル」と呼ばれる神の御子は、アハズに代表される人間の破った関係を修復するために、この世に降って来てくださったのです。
それでは、「インマヌエル」預言そのものの注目点を説き明かしましょう。
イザヤが「主なるあなたの神に、しるしを求めよ」と前置きしたうえで、ここで昭示したのは、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産み その名をインマヌエルと呼ぶ」という「しるし」でありました。寸前に「求めよ」と命じておきながら、「それゆえ、わたしの主が御自ら あなたたちにしるしを与えるであろう」と確約されています。これぞ、神の一方的な憐れみにほかなりません。
「それゆえ」(ヘブライ語:ラヘン)は切れ味鋭い句なので、聞き逃さないようにしましょう。この導入句によって、全世界に向けて「インマヌエル」預言が告げ知らされています。
つまり、アハズ王と「ダビデの家」において、聖書を歪曲して援用し、弱く貧しい隣人を虐げ、神と人とをうんざりさせているのを見た、「それゆえ、わたしの主が御自ら……」ということなのです!
「それゆえ」によって、イザヤの口を通じて神の断固たる決意が表されました。もはやイザヤは、“ 霊 ” を注がれて「わたしの神」と叫び、神と一つになっています。
内容的には、「見よ」(ヘブライ語:ヒネー)以下に、注目すべし、となっています。
「おとめが身ごもって(女性形の動詞①)、男の子を産み(同上②)その名をインマヌエルと呼ぶ(同上③)」……神は、「おとめ」すなわち「若い女」に目を留められています。出産という人間的・日常的な営みの内に、「インマヌエル」(神は我々と共におられる)との啓示が宿されています。
このような「インマヌエル」預言が、「主のはしため」・マリア(ルカ1:48)を通して成就するのを確かめましょう。
Ⅴ その名はインマヌエルと呼ばれる
マタイ1:22-25――
22 このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
23 「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。
その名はインマヌエルと呼ばれる。」
この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。24 ヨセフは眠りから覚めると、主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れ、25 男の子が生まれるまでマリアと関係することはなかった。そして、その子をイエスと名付けた。
およそ700年の隔たりを経て、「ダビデの家系」に沿って、アハズ王からマリアの夫ヨセフへと「インマヌエル」預言が受け継がれました。それが、神を畏れる「正しい人」(マタイ1:19)に伝達されたのは、預言の成就が間近であるという兆しでありました。
ヨセフは「主の天使が命じたとおり、妻を迎え入れて」、その預言の成就を待ちました。それと軌を一にして、天使ガブリエルがマリアに、「あなた(=おとめ)が身ごもって(女性形の動詞①)、男の子を産む(同上②)」(ルカ1:31=イザヤ書7:14)との御告げを受けました。若い夫婦の熱愛を言祝ぐかのように、「その名をインマヌエルと呼ぶ(同上③)」ことは、父親となるヨセフに伝達されました(マタイ1:23)。
ヨセフとマリア、これぞまさに、神の召し出された、「インマヌエル」預言の受領者であります。こうして、「彼らがベツレヘムにいるうちに、マリアは月が満ちて、初めての子を産み、布にくるんで飼い葉桶に寝かせた」(ルカ2:6-7)ということで、預言は成し遂げられました。
結
最後に、「神は我々と共におられる」とのメッセージが今、どんなことをわたしたち・キリスト者に教えているのか、捉えることにしましょう。
確かに、「インマヌエル」預言は、主イエス・キリストが受肉され遣わされることによって成就しました。しかし、この預言の全容を知るためには、主イエス・キリストが十字架につけられて死に、三日後によみがえらされるのを待たねばなりませんでした(R.H. フラー)。
マタイ28:16,20――
16 さて、十一人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。……
20 (イエスは、近寄って来て言われた。)「あなたがたに命じておいたことをすべて守るように教えなさい。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる。」
これは、復活された主イエスが祝福をもって弟子たちを派遣する場面です。弟子たちは神の御計画のもとに、人間は罪と死に打ち勝てるものではないということを悟らされました。主イエスは、そのように打ち砕かれてしまった弟子たちに、「神は我々と共におられる」との信仰を堅く抱き続けるように導いておられます。
主イエス・キリストの十字架によって人間の罪の汚れは清められました。そして、主イエス・キリストの復活によって、人間の死のとげは滅ぼされました。このようにして、ひと度、主イエスに背を向け、ばらばらになっていた弟子たちが一つにされました。
特筆すべきは、彼らの信仰の土台に、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる」との主イエス・キリストの宣言が据えられたことです。弟子たちは、勝利者・イエス・キリストによって、「インマヌエル」預言の恵み豊かさを教えられました。
「世の終わりまで、いつも」との言葉は、イザヤやアハズの知り得なかったもので、新しい啓示であります。主イエスは御父のもとに帰られても、すぐにわたしたちの慰め主として聖霊なる神を送ってくださいます。そのようにして、「神は我々と共におられる」との御言葉はさらに力強いものとされました。
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〈説教の要約〉
2024年 11月24日
旧約聖書 箴言 16章1節~9節(P.1011)
新約聖書 使徒言行録 16章10節(P.245)
説 教「主は人の歩みを堅くされる」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである ……箴言16:4-7
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い ……箴言16:8
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした ……使徒言行録16:10
序
キリスト者は、自分の人生が主の御心によって変えられ整えられていくのを願っています。しかししばしば、人の思う計画と、その人に神の用意しておられる計画との間に葛藤が起こります。
たとえば、自分の願いが強過ぎて、神の御旨に思いが及ばないこと、あるいは、人生に挫折して、神の計画に信頼が置けなくなることが、神と人との間に溝を造り出します。
人生には山もあれば谷もあります。そこで大事なのは、人間の歩む道が神の計画に従って固められてゆくことです。逆に言えば、主の御心に背いて迷い出ないことです(マタイ18:12)。人生上の分岐点で、どちらに行けばよいのか、迷うこともあるでしょう。また、確信が持てるまで、その場に留まっていようとするかも知れません。
一つの失敗は決して最終的な失敗ではありません。今つまずいているからと言って、「神の国」を目指す旅路を見失わないことです。「御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働く」(ローマ8:28)という御言葉があります。神からの「御計画」を受け容れられるように、自分の心を拡げ柔らかくしておきましょう。
Ⅰ 主は人間の精神を測られる
箴言16:1-3――
箴言のこの箇所では特に、“ 霊 ” 的に深い人間観察がなされています。その理由の一つは、箴言16:1-9に連続して、「主」(ヤハウェ)が登場している(ただし:8には無い)ということにあります。すなわち、人の思いを超えたところにある神の計画や御旨に立脚して、信仰者が人生上、学ぶべきことが並べられています。
このように大所高所の視点から、自分の人生を捉えられれば、日々の一歩一歩も揺るぎないものとなるでしょう。そこで、三つの節で何が説かれているのか、見てみましょう。
まず気づくのは、「人間は心構えをする」、しかし、「人間の道は自分の目に清く見える」ことに危うさがあると、人間が洞察されていることです。
言い換えれば、人間はさまざまな企てをする、しかし、人間の持つ罪性、高ぶり・ねたみ・争い等によって、「人間の道」はいわば「白く塗った墓」になっているということです。つまり、「外側は美しく見えるが、内側は死者の骨やあらゆる汚れで満ちている」(マタイ23:27)のです。
本来、人間の「心構え」は、罪を繰り返さないこと、そして、神に立ち帰ることに向けるべきものです。しかし、その「心構え」や企ては、自らの名誉心や幸福欲を満たすことを優先しています。それが、「自分の目に清く見える」以上、欲望の充足に歯止めがかけられません。自分では良いことをしていると思い込んでいるのですから。
それ故に、信仰的に大所高所から語られているのは、「主が舌に答えるべきことを与えてくださる」または「主はその精神を調べられる」ということです。
冒頭で強調されているのは、「主」(ヤハウェ)と「人間」(アダム)との関係において、「主」から「人間」へを基軸にしなさい、ということです。その強固な主従関係を差し置いて、「人間」が自分の計画を見栄え良くして、人からの賛同を得ようとするのは、本末転倒です。
神の目には隠れているからと言い逃れようとする人に、「主はその精神を調べられる」と警告されています。仮に、今神が見過ごされているように思われても、終わりの日には、「人間の精神」の中身、その善と悪とが精算されます。神の正しい秤によって、この世で為した罪咎すべてが量られます。
では、どうすればよいのでしょうか? 「あなたの業を主にゆだねれば 計らうことは固く立つ」というのが、その答えです。
あなたが “ 霊 ” の導きにより「心構えをし」、そして「あなたの業」に取りかかるとき、そのこと全体を「主にゆだねなさい」と言うのです。詩編詩人も、「あなたの重荷を主にゆだねよ 主はあなたを支えてくださる」(55:23)と告げています。
それが、「主」から「人間」へを基軸とするということです。「あなたの重荷」を「主」にあずけましょう。もしも、「人間」関係に紛糾して打つ手が無くなるようなときにも、「主が舌に答えるべきことを与えてくださいます」。
忍耐して待たねばならない時もあります。しかし、「計らうことは固く立つ」のですから、動揺することはありません。
Ⅱ 主がいとわれるのはあらゆる高慢さである
箴言16:4-7――
ここでは、「主はその精神を調べられる」との観点から、信仰生活を妨げる諸問題がえぐり出されています。「逆らう者をも災いの日のために」から始まって、「高慢な心」、「罪」、「悪」、「敵」へと巡っていきます。わたしたちに求められているのは、「人間が心構えをする」ときに、これらの「災い」への「心構え」を怠るなということです。
人間が “ 霊 ” の導きによって計画や企てを造り上げるのに、時間がかかることもあります。先を急いではなりません。なぜなら、主が、「計らうこと(=あなたの計画・考え)は固く立つであろう」(箴言16:3)と約束してくださっているのですから。
ただしそれは、「人の道」(箴言16:7)が自分の思い通りになるということではありません。たとえば、「逆らう者」が道を塞いで、あなたの人生を「災いの日」の暗雲で覆うことがあります。しかしここで忘れてはならないのは、主なる神が「逆らう者をも災いの日のために造られる」ということです。苦難を見た哀歌詩人が「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(3:38)と述べています。
人生に波風が立つことを踏まえつつ、「主」から「人間」へという基軸がますます明らかにされます。それが、主なる神が「慈しみとまことをもって(自分の)罪を贖う」こと、そして、「主は敵(なる自分)と和解させてくださる」ことです。自分こそが「高慢な心」を持ち、「逆らう者」であると告白して、「主」の御前に出ることです。
Ⅲ 正義に適う僅かなものの方が善い
箴言16:8――
この詩行は例外的に、「主」(ヤハウェ)が出てきません。しかしこの箴言には、「主」から「人間」へという基軸が日常生活に浸透するように、との願いが込められています。
日常において実践されるのが求められている、この文の骨格は、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」となっています。この逆転の発想こそが、神の知恵なのです。
一般に正しく思える前提と理論に反する言説を、パラドックス(逆説)と言います。たとえば、「心の貧しい人々は、幸いである」(マタイ5:3)との山上の説教の一節は、主イエスの語られた一種のパラドックスだと言えます。このように信仰の世界では、何が「幸い」なのかを物語る、人知を超えたパラドックスに注目することです。
詩編84:11――
主に逆らう者の天幕で長らえるよりは
前半を直訳すると、「千日よりも、あなたの庭で過ごす一日の方が幸いである」となります。その意味は、無為に千日を送っている人よりも、「あなたの庭で過ごす一日」を持っている人の方が良いということです。なぜなら、この「一日」の中に人生全体の「幸い」が凝縮しているからです。その「一日の幸い」によって試練を耐え忍ぶ人は、永遠の命に導かれる(ヤコブ1:12)という点でも、「千日」の長さを超越しています。
この「あなたの庭で過ごす一日」には、「わたしの神の家の門口に立っている」とのヒントが与えられています。ただし具体的に、ユダヤ人にとっての三大祭(過越祭・七週祭・仮庵祭)のような日なのか、巡礼者が都にたどり着いた日なのか、それとも、神の臨在に触れた日なのか、は不明です。いずれにしても、これまでの人生が真っ暗闇だったという人々もまた、この「一日の方が幸い」という大逆転に招かれているのです。
この世の論理や慣習を打ち破って、「多くの~よりも、僅かな…の方が幸い」というパラドックスを成り立たせているのが、「主」(ヤハウェ)なる神であります。「正義に反する」ことなく、「恵みの業をする」人は、生涯の中でこの「一日」、唯一無二の日を獲得するに違いありません。というのも、「主」がその人を顧みて、神の栄光を仰ぐ日を造られるからです。
Ⅳ 主は人の歩みを堅くされる
この段落の掉尾を飾るにふさわしい箴言です。「人間」(アダム)と「主」(ヤハウェ)とが登場して、「主」から「人間」へという基軸が再現されています。同時に、「人の道」(箴言16:2,7,9)との鍵語によって、人生のガイドラインが示されています。
では、「人間(アダム)は自らの道について何を理解していようか」(箴言20:24)との問いかけをもって始めましょう。
「人の道」は言うまでもなく、無くてはならず大切なものです。それは、「人間(アダム)」が見極めよう・理解しようとして、「自分の道を計画する」ところに現れています。
それならば、「自分の道を計画する人」は「主に喜ばれる道を歩む人」(箴言16:7)と同一視されるのでしょうか? この箴言は単に、「自分の道を計画する」ことを奨励しているのでしょうか?
断じてそうではありません。それだと、「主」から「人間」へということにはなりません。「人の道」において最重要なのは、「主が(人の)一歩一歩を備えてくださる」ということです。その「主」への信頼に基づいて、「自分の道を計画する」ことに取りかかるのです。
この箴言において、「あなたの業を主にゆだねれば あなたの計らうこと(計画)は固く立つであろう」(16:3)との神の約束がなされました。あなたは、「主が一歩一歩を備え、固く立てられる」という道を行きますか、問われています。それは確かに、ただ一つの道であります。
或る人は、「自分の道」でつまずき倒れて、主の備えられた道にたどり着きます。また、他の人は、脇目も振らずに「自分の道」を突っ走ろうとしています。全く対照的な人の生涯です。
「主」なる神は、そのような人々の入り交じるただ中に、御子、イエス・キリストを遣わされました。主イエスは、「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(ヨハネ14:6)と言われました。
こうして人々は、ただ一つの道を見出せるようになりました。詩編詩人は、「あなたの道を主にまかせよ」(37:5)、あなたはその道をごろごろと転がっていきなさい、と勧めました。
今や、「あなたの道」・「人の道」は、「わたしは道である」という主イエス・キリストと交わりました。主イエスが愛と正義をもって、「(人の)一歩一歩を備えてくださいます」。
最後にそのようにして、広く地中海圏に足跡を残したパウロの人生の一場面を見てみることにしましょう。
Ⅴ わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした
使徒言行録16:10――
パウロがこの幻を見たとき、わたしたちはすぐにマケドニアへ向けて出発することにした。
マケドニア人に福音を告げ知らせるために、神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至ったからである。
結論的に言えば、パウロの第二回目の伝道旅行中、この場面で箴言16:9の預言が鮮やかに成就します。すなわち、パウロは身をもって、「人間の心は自分の道を計画するが、しかし、主が人の一歩一歩を備えてくださるであろう」(直訳)との御言葉を体験することになりました。この「しかし」の一句に象徴される神の御心の偉大さと神秘とを知らしめられたのです。
パウロは今、小アジア西端の港町トロアスに下って来たところでありました。しばらくぶりに地中海の海原を見て、パウロは何を想っていたのでしょうか。
この直前にパウロは、アジア州やミシア地方で御言葉を語ることが、聖霊またはイエスの霊によって阻まれるという経験をしています(使徒16:6-7)。傷心のパウロにとって、眼前の大海は障壁を意味していたのでありましょうか。ここで撤退してイスラエルに帰るというのも、一案だったでしょう。伝道はまさに瀬戸際にありました。
使徒言行録16:9――
(そして)その夜、パウロは幻を見た。その中で一人のマケドニア人が立って、「マケドニア州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と言ってパウロに願った。
「そしてその夜、幻がパウロに現れた」(直訳)ということです。神の御旨が「幻」により、「一人のマケドニア人」の口を通じて開示されました。小アジアで行き詰まった伝道に対し、「そして」と共に、次への転回が起こされました。問題は、この出来事を上からの啓示として、パウロが “ 霊 ” 的に受け止められるかどうかです。
この第二回目の伝道旅行は、「一方、パウロはシラスを選び、兄弟たちから主の恵みにゆだねられて、出発した」(使徒15:40)との証言をもって始められました。パウロは「主の恵みにゆだねられて」との言葉の重さを知る人でありました。その下地には、「あなたの業を主にゆだねれば 計らうこと(あなたの計画)は固く立つであろう」(箴言16:3)との御言葉を、教師ガマリエルから学んでいた(使徒22:3)ということがあったかも知れません。
パウロは「主の恵み」のうちに、「すぐにマケドニアへ向けて出発することにしました」。まことに、「人の道」はさまざまですが、パウロたち一行は海上の道を進むことなりました。それは単なる海路ではなく、キリスト教が初めてヨーロッパで宣べ伝えられる、その出立の道でありました。何よりも、「神がわたしたちを召されているのだと、確信するに至った」ということが原動力でありました。
この箇所が初出となる「わたしたちは」(一人称複数・主格)の中に、パウロの喜びが表されています。瀬戸際に追い込まれた一行はここで、「わたしたち」として一つになりました。というのも、「神の召し」において、パウロたちは神に結び合わされ、互いに「兄弟」と呼びようになったからです(Ⅱコリント1:1、2:13)。その点で、トロアス港を出航した船内に、小さいながらも一つの教会ができていたのであります。
結
2024年も残り一ヵ月ばかりとなりました。皆さんにとって、この一年の歩みはどのようなものだったでしょうか。自分が企てて進んで来た道は、神の計画に従って固められたでしょうか。新しい年の「わたしたちの道」が主によって「一歩一歩を備えられる」ようお祈りしましょう。
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〈説教の要約〉
2024年 11月17日
旧約聖書 ダニエル書 7章15節~22節(P.1393)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章1節~8節(P.305)
説 教「兄弟を仲裁できるような知恵のある者はいないのか」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか
Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです
……Ⅰコリント6:2-4
……Ⅰコリント6:5-6
Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです
……Ⅰコリント6:7-8
Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利
……ダニエル書7:15-22
序
今、パウロは新しく誕生した諸教会においてキリスト教倫理を打ち建てようとしています。その “ 霊 ” 的な作業は、観念的・思弁的に立案するというよりも、具体的な事例を検証しながら慎重に進められました。
例えば、コリント教会に「みだらな行い」が生じた時にも、パウロはすぐに介入し助言を送りました。そして、教会内に、間違った性的自由が忍び込まないよう戒めました(Ⅰコリント5:2-3,12)。
パウロは、個別の事例をつまびらかにし、罪を犯した人に寄り添っています。同時に、「みだらな行い」への対応に示されている通り、パウロは広い観点に立ち、過越祭(=主日礼拝)、最後の審判、そして神の国など(Ⅰコリント5:5,8、6:9)、キリスト教の基本をしっかりと踏まえています。その上で、ひとりの人が犯した罪について問題解決を試みています。
それは、倫理または道徳を説く者の姿勢として極めて健全であります。というのも、悪事を為した人を裁こうとして感情的になったり、また、自分が「教えてあげる」というように高慢になることがあるからです。そうではなくわたしたちには、神の国に向かって歩んでいるキリスト者として、つまずき倒れている人々の隣人となることが求められています。
それ故に、信仰の成熟した牧会者パウロが、どのようにキリスト教倫理を築き上げていったのか、が注目されます。そのような中に、パウロが「ささいな事件」(Ⅰコリント6:2)と呼んでいる争いが起こります。それは実際に災いなのですが、そこに、キリスト教倫理がより綿密化されるという幸いがもたらされます。
その案件は、「日常の生活にかかわる争い」(Ⅰコリント6:4)とも呼ばれています。皆さんはおそらく、どうして深刻かつ複雑でない出来事のために大騒ぎするのか、と思われることでしょう。しかし自分の周りを見わたせばすぐに分かるように、しばしば「ささいな事件」がこじれ、多くの人が巻き込まれて解決不能になることがあります。
ここで「ささいな事件」が紛糾してしまった一因は、その事件を「裁いた」人にある、とパウロは主張しています。確かに、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせた」(Ⅰコリント6:4)のであれば、「火に油を注ぐ」ようなものです。そうではなく当然、「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」(同上6:5)が裁きの席につくべきであります。
パウロはこの手紙で、「仲裁できる」人として的確な忠告をしています。これは単に、「教会内の疎んじられている人たち」や「信仰のない人々」(Ⅰコリント6:6)を訓誡したり排除したりして済むものではありません。
むしろ、「聖なる者たち」(Ⅰコリント6:1,2)と称呼されている、コリント教会に属するすべての人が真剣に係わらなければなりません。「ささいな事件」を見て見ぬふりをせずに、皆が「裁く」(ギリシア語:クリノー 同上6:1,2,2,3,6)ことに関心を寄せるように、パウロは訴えています。
「裁く」との用語が繰り返され、この段落の鍵語になっています。どのような文脈で「裁く」が出てくるのか、調べてみましょう。その前に、付け加えれば、キリスト者が「裁く」場合、それは、正しく「量る」・「判断する」こととほぼ同意だということです。
主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る秤」を持っていることが示されています。その「秤」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。
絵画的描写になりますが、「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされています(マルコ4:21)。その上、「自分の量る秤」には元来、注意深く「聞く耳」が付いています(同上4:31)。
以上、「裁く」と「量る」・「判断する」との関連が密接であることを確認しました。では、わたしたち各々、「自分の量る秤」を持って、コリント教会の「日常の生活にかかわる争い」に向き合うことにしましょう。
Ⅰ なぜ、聖なる者たちに訴え出ないのですか
コリントの信徒への手紙 一 6:1――
あなたがたの間で、一人が仲間の者と争いを起こしたとき、聖なる者たちに訴え出ないで、正しくない人々に訴え出るようなことを、なぜするのです。
新共同訳から読み取りにくいのですが、「(争いを起こし)訴え出る」の部分に「裁く」が使われています。要するに、「一人が仲間の者と争って」、「裁き」(裁判)を行う場合に、どうして、それを「聖なる者たち」ではなく、「正しくない人々」にゆだねるのか、ということです。
多分、少なからぬ人に、言語明瞭、意味不明の状態でしょうか。そこで初めに、「あなたがたの間で」(Ⅰコリント5:1、6:1)、「聖なる者たち」、そして「正しくない人々」という人物について説明します。
「あなたがたの間で」という「あなたがた」は、コリント教会の兄弟姉妹全員を指しています。パウロは「あなたがたの間」の情報を、手紙のやり取りや巡回伝道者の口を通して得ています。パウロがやや筆を慎重に進めているのは、そのためです。今遠隔地にいるパウロは、事件の当事者と直接話をしたわけではありません。
また、「わたしたち」と「あなたがた」には、実際の相互関係が暗示されています。すなわち、コリント教会の土台を据え、それを建てついだ「わたしたち」(パウロやアポロ)は、「あなたがた」、コリント教会の人々が「キリストの体」なる神の聖なる神殿を建てていくのを見守っているということです。そのことを背景に、ここでは、「わたしたち」が「あなたがた」を叱責しているという意味合いが込められています。
次に、急に飛び出してきたような「聖なる者たち」について説き明かします。これは、キリスト教倫理を構築していく上での重要な用語です。
この段落は、間違った裁判沙汰によって教会がかき乱されないように、といういわば緊急事態に置かれています。従ってここでは、主イエス・キリストの十字架と復活という福音的なメッセージは詳述されていません。しかし、この「聖なる者たち」は、主イエス・キリストの救いの御業と固く結び合わされています。
パウロは、この段落で「教会の中で、争いが起きたときに、どうすればよいか」との問題を取り上げた直後に、結びとして次のように述べています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
「(あなたがたは)聖なる者とされた」と「聖なる者たち」とは同じ語源から派生した言葉です。
キリスト者とは一体、どのような人かと言えば、「洗われ、聖なる者とされ、義とされた」人との定義をもって答えられます。言い換えれば、主イエスに救われて、悔い改め、その生活の上に大転換が起こった、そのような信仰者であるということです。そのように「あなたがた」がひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、パウロは明示しています。
このように、「聖なる者たち」について福音的な理解がなされるならば、「正しくない人々」の正体があぶり出されます。
「正しくない人々」はまず、コリント教会を取り巻いていた世間の一部の人々を指すと言えるでしょう。パウロは、「この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たち」(Ⅰコリント5:10)から信仰者が受ける悪影響を心配しています。
しかし、この文脈では、「正しくない人々」というのは、「兄弟と呼ばれる人」、つまり、教会の「内部の人々」(Ⅰコリント5:10,12)を昭示しています。そのことは、「それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか」(同上6:4)との一文から明らかです。彼らはきっと「王様になって」(Ⅰコリント4:8)、裁きの座についていたのでありましょう。
パウロの豊富な語彙において、「正しくない人々」については、さまざまな形で言及されました。思い起こしてみましょう。「自然の人」、「肉の人」、信仰の未熟な「乳飲み子」、「木、草、わらで家を建てる」人など、まことに辛辣な言葉が並んでいます(Ⅰコリント2:14、3:1,2,12)。
「正しくない人々」のいちばんの問題は、ひと度洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めないということでありました。その結果、彼らは「何でも許されている」(Ⅰコリント6:12)と錯覚し、キリスト者の自由を履き違えて、「みだらな行い」や「裁判ざた」を起こして、コリント教会を混乱させました。
残念ながら、救われたという確信のない「正しくない人々」が教会内で、どんな振る舞いをするか、十全には予測できません。実にコリント教会では、「ささいな事件」を裁く「裁判官の席」(Ⅰコリント6:2,4)が彼らの一人に乗っ取られてしまいました。
このように見てくるならば、「聖なる者たち」との一語に込められた重みが、ご理解いただけるでしょう。コリント教会の人々よ、「あなたがた」の大部分は「聖なる者たち」なのではないですか、「あなたがた」が立ち上がるのに、遅いということはありません、とのパウロの肉声が聞こえてきそうです。
冒頭に続いて次節でも、パウロは「聖なる者たち」との用語を前面に押し立てています。
Ⅱ 聖なる者たちが世を裁くのです
コリントの信徒への手紙 一 6:2-4――
2 ①あなたがたは知らないのですか。聖なる者たちが世を裁くのです。世があなたがたによって裁かれるはずなのに、②あなたがたにはささいな事件すら裁く力がないのですか。3 ③わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか。まして、日常の生活にかかわる事は言うまでもありません。4 それなのに、あなたがたは、日常の生活にかかわる争いが起きると、④教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせるのですか。
パウロは修辞疑問文(①~④)によって、自分の言いたいことを強調しようとしています。目下、「日常の生活にかかわる争いが起こっている」状況ですから、毅然たる態度のうちに柔和さをもって語りかけています。
①「あなたがたは知らないのですか」(他にⅠコリント3:16)……パウロは、「あなたがたは~を知らないのですか」と問いかけています。「はい、わたしたちは既に〈“霊”に教えられて〉知っています」との答えが期待されています。まさに、信仰の未熟な「乳飲み子」を諭すような丁寧な言い方です。パウロは信徒の「知っている」ことから議論を展開しようとしています。
そしてただちに、「聖なる者たちが世を裁くのです」と中心の論点が提示されます。これを聞いて、パウロはキリスト者の「裁き」(裁判)を当然のこととしているのか、と誤解してはなりません。
パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」(Ⅰコリント6:7)という箇所で、「裁き」(裁判)に抑制をかける主旨の発言をしています。しかしわたしは、「聖なる者たちが世を裁くのです」というのは真理であり、キリスト教倫理を支えるものだと考えます。
その理由は先に述べた通り、「裁く」との用語が「量る」・「判断する」との意味を包括しているからです。わたしたちが「自分の量る秤」を活用してはじめて、「地の塩、世の光」(マタイ5:13-14)として自分を証しすることができるのではないでしょうか。
要するに、「ささいな事件」や「日常の生活にかかわる争い」がこじれてしまったときに、「聖なる者たち」が当事者(罪を犯した人)に寄り添い、証人を喚んで、「裁き」の座を設ければよいのです。
論点の中心・「聖なる者たちが世を裁くのです」に戻りましょう。
キリスト教倫理の確立された「教会」(Ⅰコリント6:7)は世のともし火となって暗闇を照らしています。そこで、この世の中には、「聖なる者たち」の清い暮らしぶりを見て、自らを省みる者が現れることでしょう。あるいは、「自分が裁かれている」ような恐れを抱く人もいるかも知れません。
③「わたしたちが天使たちさえ裁く者だということを、知らないのですか」……この一文から、パウロが広い観点に立って、つまり、終わりの時を見据えて議論していることが分かります。
「ささいな事件」の「裁き」となると、人間は目先の利益に捕らわれることがあります。感情的になって過激な発言をすることもあります。
しかし、パウロは「ささいな事件」の「裁き」を、将来開廷される最後の審判と並行させて考えようとしています。根底になっているのは、あなたがた・「聖なる者たち」は「天使たち」よりも上に置かれているという思想です(R.B. ヘイズ)。この考え方は聖書に類例が見られませんが、「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリント3:22-23)との頌栄が理解のヒントになるはずです。
この頌栄では最後に、「キリスト」と「神」とが登場しています。つまり、「あなたがた」は創造主であり支配者である「神」につながれています。「死も、命も、天使も、支配するものも …… 他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8:38-39)というのが、「キリスト」・「神」と「あなたがた」との愛の交わりの基本です。
主イエスに救われている今、それほどに固い絆によって、「キリスト」・「神」と「あなたがた」は結ばれています。なお、その上に聖霊による励ましがあります。従って、「あなたがた」が最後の審判で裁かれた後に、「裁き」の座についている……天使たちさえ裁く者だ……とのパウロの見通しは “ 霊 ” 的な判断であるに違いありません。
相手を打ち負かそうと、邪悪な思いで、「ささいな事件」の「裁き」を行ってはなりません。それでは、最後の審判において与えられている陪審の栄誉が汚されてしまいます。「日常の生活にかかわる争い」だからこそ、神の大いなる救いの計画を仰ぎ、困難に陥っている兄弟姉妹の行く末を見守りましょう。最後の最後まであきらめることはありません。「あなたがた」には「聖なる者たち」としての永遠の栄誉と責務があります。
Ⅲ 兄弟が兄弟を訴えるのですか
コリントの信徒への手紙 一 6:5-6――
5 あなたがたを恥じ入らせるために、わたしは言っています。あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか。6 兄弟が兄弟を訴えるのですか。しかも信仰のない人々の前で。
「ささいな事件」に係わる論議の終結に向けて、パウロは「兄弟」という用語を多用しています(Ⅰコリント6:5,6,6,8)。親愛の情をもって「兄弟たちよ」(同上1:10、4:6)と、コリント教会の兄弟姉妹に呼びかけています。
パウロ自身の中で、「日常の生活にかかわる争い」を解決する信仰基盤が次第に鮮明になってゆくにつれて、兄弟姉妹が集うコリント教会全体が見わたせるようになりました。その上でパウロは、「あなたがたの中には、兄弟を仲裁できるような知恵のある者が、一人もいないのですか」と厳しく問いかけています。
「知恵のある者」もまた、パウロ特愛の鍵語です。パウロは「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した(=知恵のある)建築家のように土台を据えました」(Ⅰコリント3:10)と自己紹介しています。パウロの言う「知恵のある者」はへりくだり、一心に「十字架の言葉」に依り頼んでいます(同上1:18)。
パウロは、この世の知恵を収集することではなく、“ 霊 ” によって教えられることを重んじています(Ⅰコリント2:13)。そのような「知恵のある者」が「霊によって判断する」(同上2:14)からこそ、「ささいな事件」の「裁き」は信頼できるものとなるのです。
コリント教会内に、「兄弟が兄弟を訴える」ことが起こっています。これでは、「信仰のない人々」への証しになりません。「信仰のない人々」への福音宣教が滞ってしまいます。
Ⅳ なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです
コリントの信徒への手紙 一 6:7-8――
7 そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです。なぜ、むしろ不義を甘んじて受けないのです。なぜ、むしろ奪われるままでいないのです。8 それどころか、あなたがたは不義を行い、奪い取っています。しかも、兄弟たちに対してそういうことをしている。
前のⅢ.では、パウロは兄弟姉妹の集うコリント教会全体を見わたしながら問いかけていると指摘しました。このⅣ.では、パウロは主イエス・キリストの行いと言葉に思いを寄せながら語っています。「一切はあなたがたのもの、あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものなのです」(Ⅰコリント3:22-23)との頌栄に即するかのように、論を展開しています。
「ささいな事件」の「裁き」で注意しなければならないのは、「教会では疎んじられている人たち」からの横槍または妨害です。彼らは、自分たちが事の白黒をつける、と自信満々です。「わたしの正しい意見を聞かせてあげよう」と高ぶっています。
彼らの「量る秤」は人の知恵と誇りによって狂わされ、壊れかけています。ですから、主イエス・キリストなる「ともし火」によって照らされ、注意深く「聞く耳」の付いている「自分の量る秤」の登場が待たれます。「兄弟を仲裁できるような知恵のある者」には、健全でへりくだった「自分の量る秤」があります。その人は、天上の「キリスト」と「神」による「裁き」(最後の審判)に照らして、「日常の生活にかかわる争い」の「裁き」に取り組みます。
パウロは、「そもそも、あなたがたの間に裁判ざたがあること自体、既にあなたがたの負けです」との名言を唱えた後に、次のような形で、「裁く」人の姿勢を検証するように訴えています。
①「なぜ、(あなたがたは)むしろ不義を甘んじて受け〈受動態〉ないのです。」
②「なぜ、(あなたがたは)むしろ奪われるまま〈受動態〉でいないのです。」
同じ内容が繰り返されています。この繰り返しの主張の拠り所は、主イエス・キリストの忍従にあります。主イエスは、「しかし、わたしは言っておく。悪人に手向かってはならない。だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい」(マタイ5:39)と教えられました。パウロは「ささいな事件」の「裁き」においても、主イエスに倣う者になりなさい、と語りかけています。
わたしたちは、「不義を甘んじて受け」、「奪われるまま」では、「裁く」人として不適格ではないか、と思うかも知れません。果たしてそうでしょうか? 「むしろ」そのようにして、主イエスのごとく打ち砕かれている自分の内に、神の知恵と愛が降って来るのではないでしょうか。
主イエス・キリストへの信仰にこそ、神の力と権威が現れます。義しい「裁き」が行われるか否かは、神の支配のもとに置かれているかどうか、に掛かっています。
自分が「不義を甘んじて受け」させられ、「奪われるまま」だったから、今度は相手に、「不義を行い、奪い取る」ということでは、「裁判ざた」は止みません。ただただ、「不義を甘んじて受け」、「奪われるまま」という主イエスの忍従に徹することです。
Ⅴ 日の老いたる者の裁きといと高き者の聖者らの勝利
ダニエル書7:15-22――
15 わたしダニエルは大いに憂い、頭に浮かんだこの幻に悩まされた。16 そこに立っている人の一人に近づいてこれらのことの意味を尋ねると、彼はそれを説明し、解釈してくれた。
17 「これら四頭の大きな獣は、地上に起ころうとする四人の王である。18 しかし、いと高き者の聖者らが王権を受け、王国をとこしえに治めるであろう。」 19 更にわたしは、第四の獣について知りたいと思った。これは他の獣と異なって、非常に恐ろしく、鉄の歯と青銅のつめをもち、食らい、かみ砕き、残りを足で踏みにじったものである。20 その頭には十本の角があり、更に一本の角が生え出たので、十本の角のうち三本が抜け落ちた。その角には目があり、また、口もあって尊大なことを語った。これは、他の角よりも大きく見えた。21 見ていると、この角は聖者らと闘って勝ったが、22 やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである。
紀元前6世紀、バビロン捕囚時代のことです。
ダニエルは、眠っているとき頭に幻が浮かび、一つの夢を見ました。彼はその夢を記録し、さらにその解釈を付け加えました。上に引用したのは、夢の解釈の部分に当たります。「大いに憂い、幻に悩まされた」ダニエルに代わって、「そこに立っている人の一人」(天使)が、その夢を「説明し、解釈してくれた」ということです。
その「夢」というのは、ひと言で言えば、終末における神と「四頭の獣」との対決です。ラスボスならぬ「第四の獣」(ダニエル書7:7)が巨大で屈強でしたが、他の三頭ともども、神によって退けられてしまいました。
そこで注目したいのが、終わりの時、神が勝利するという預言の一節です。
やがて、「日の老いたる者」が進み出て裁きを行い、いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受けたのである……「日の老いたる者」というのは、ダニエル書独特のもので、神を指しています(ダニエル書7:9,13,22)。この類いの別称は、ユダヤ人たちが異邦人の迫害のもとで、ひそかに神信仰を守り抜いた痕跡とも言えましょう。
「第四の獣」は殺されて、燃え盛る火に投げ込まれました(ダニエル書7:11)。他の獣は権力を奪われました。そこで神の上に栄光が輝くのですが、その勝利について、次のように記されています。
①日の老いたる者が進み出て、席につき、裁きを行う。ダニエル書7:10,22,26
②いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける。同上7:18,22,27
①と②の出来事が、ダニエルの夢とその解釈の中に、再三描き出されています。ですから、それが重大事だと分かります。
パウロにとって、そしてわたしたちにとって大切なのは、コリント教会の「ささいな事件」の「裁き」の先に、「日の老いたる者」による「裁き」があるということです。パウロは、神が裁きの座について裁きを行う将来を切に待望しています。だからこそ、今、教会内に「裁判ざたがあること自体、既に負け」なのです。
パウロの「聖なる者たちが世を裁くのです」(Ⅰコリント6:2)との発言について、少し専横・出しゃばりではないかと思われた方がいるでしょうか。
①と②に言い表されている通り、「聖なる者たち」は、最後の審判において陪審の栄誉にあずかります。「日の老いたる者が席につき、裁きを行う」のを目撃し、その証人になっている、その理由は彼らが「世を裁く」よう訓練されていたからでありましょう。神の栄光のもとに、信仰者それぞれの「自分の量る秤」は輝いています。
裁判の陪席と言うと、固い話のように聞こえますが、神の恵みによって、「いと高き者の聖者らが勝ち、時が来て王権を受ける」ということです。“ 霊 ” の導きによって、「日常の生活にかかわる争い」に真摯に向き合う教会とその兄弟姉妹は、そのような恵みにあずかることが約束されています。
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〈説教の要約〉
2024年 11月10日 降誕前 第7主日
旧約聖書 エレミヤ書 11章21節~23節(P.1198)
新約聖書 マルコによる福音書 6章1節~6節a(P.71)
説 教「預言者は故郷では敬われない」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた
……マルコ6:2b-3
……エレミヤ書11:21-23 + マルコ6:4
Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた
……マルコ6:5-6a
結
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。
本日のテキスト箇所でその問いは、「この人は、このようなこと(知恵や奇跡)をどこから得たのだろう」と言い直されています。端的にその答えを言えば、「神から」となります。しかし、マルコ福音書記者自身も、人々が信仰をもって、「イエスは知恵や奇跡を神から得た」と告白するよう導いています。だからこそ、福音書記者は冒頭から、イエスは「神の子」である(1:1)と証言しています。
弟子たちを含め、群衆の中から一人でも多く、「あなたは神の子だ」(マルコ3:11)と告白する信仰者が生まれることが待望されます。しかし人々の関心が、イエス・キリストが何者なのか、に集中していくにつれて、サタンはじめこの世の権力者たちからの妨害が強まっていきます。
本日のテキスト箇所では、主イエスに対する反感や拒絶が露わになります。主イエスにつき従う者は、石だらけの不毛な土地や茨の生い茂る土地(マルコ4:4-7)を巡り回らなければなりません。「どのようにてイエスを殺そうか」(同上3:1)との陰謀を耳にして、逃げ出したりしてはなりません。というのも、そうした困難や脅威を乗り越えるうちに,忍耐とまことの喜びが育まれるのですから。
死と復活を予告され、十字架の道に向かって進まれる主イエスが、目の前におられます。“ 霊 ” の導きのもとに、主イエスの行いと言葉によって教えられる者となりましょう。
Ⅰ 安息日にイエスは会堂で教え始められた
マルコ福音書6:1-2a――
1 イエスはそこを去って故郷にお帰りになったが、弟子たちも従った。2 安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた。
この段落の結びの意外さがまったく予期できないような、平穏な始まりになっています。
主イエスは、伝道の拠点カファルナウムのあるガリラヤ湖畔を「去って故郷にお帰りになりました」(ガリラヤ湖と故郷のナザレとは約20㎞ 離れています)。主イエスの傍らには、今や「わたしの兄弟」(マルコ3:34)となった「弟子たち」がいました。
主イエスは通りがかりに、人に「わたしに従いなさい」と声をかけられました(マルコ2:14)。「弟子たちも従った」というように、弟子たちも湖畔でその呼び声を聞きました(同上1:17,20)。さらには、「徴税人や罪人」(同上2:15)はじめおびただしい群衆が主イエスに「従いました」(同上3:7)。
そのようにして、主イエスは野外で、あるいは、会堂や人の家で神の国の福音を宣べ伝えられました。主イエスに御業を伝え聞いた人々が、「ガリラヤ、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ(エドム)、ヨルダン川の向こう側、ティルスやシドンの辺り」からやって来ました(マルコ3:7-8)。すなわち、ユダヤ民族の垣根を飛び越えて、異邦人世界からも、人々が集まって来ました。
主イエスは「従う」人々の中から、あたかも「弟子たち」を選抜するかのように、彼ら十二人を故郷に伴われました。故郷への帰還は実際、十二人を呼び寄せ、権威を授けて派遣する(マルコ6:7-13)直前のことでありました。「弟子たち」は黙々とではありますが、彼らは「神の子」イエスに寄り添われる中で、数々の「神から授けられたイエスの知恵や奇跡」を経験することになりました。
ナザレ伝道の成果が、すでにそこにありました。それに考えてみれば、初代エルサレム教会を築いた人物、弟子・ペトロとイエスの弟・ヤコブとの初めて出会いも、その時のことでありました(使徒1:17、ガラテヤ1:18-19)。主イエスの復活後、そこで知り合った二人、ペトロとヤコブは協働し、迫害の嵐の中で教会を建てました。そしてまさにその二人に、パウロがつなげられて(使徒9:28、21:18)、キリスト教の伝道は大きく展開されていきました。
「安息日になったので、イエスは会堂で教え始められた」……これまでに主イエスは、カファルナウムで「安息日に会堂で教えられた」ことがありました(マルコ1:21、3:1-2)。この伝道の基本姿勢は、郷里でも変わりがありません。「安息日」に、幼児のイエスを知る人々がいたに違いない「会堂」に入って行かれました。
ルカ福音書によれば、主イエスは聖書朗読をもって、「貧しい人に福音を告げ知らせる」との御言葉を語られました(4:16-20)。それによって、ナザレの人々は初めて、主イエスの御言葉を聞くことになりました。果たして、彼らの心が解放されて、主イエスに「従う」ようになったのでしょうか。
Ⅱ この人は、このようなことをどこから得たのだろう
マルコ福音書6:2b-3――
2 多くの人々はそれを聞いて、驚いて言った。「この人は、このようなことをどこから得たのだろう。この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か。3 この人は、大工ではないか。マリアの息子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではないか。姉妹たちは、ここで我々と一緒に住んでいるではないか。」このように、人々はイエスにつまずいた。
上の文章を丁寧に読み解くと、二通りの問いに分けられます。
一つの問いは先述したように、「イエスは、知恵や奇跡をどこから得たのか」ということです。これ自体は、立てるに価する問いであります。人が “ 霊 ” の導きによって答えを得ようとするならば、「神から」と教えられることでしょう。
しかし、この良い「信仰問答」は、もう一つの問い、言い換えれば、厄介な疑惑によって妨げられます。
もう一つの問いというのは、「我々の良く知っているイエスが、御言葉を教え、奇跡を行っているのは、どういうことか」ということです。この第二の問いは、いわば「我々の良く知っているイエス」と「知恵を語り奇跡を行っている主イエス」との落差に起因するものです。その落差が解消されない限り、問いは問いのままで終わります。
つまりそれは、問いを発する以前に、その人の、主イエスとの向き合い方に問題があるということです。その人に偏見や独断がある限り、 “ 霊 ” 的な思考を期待することはできません。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)との主イエスの御言葉を借りるならば、その人の持つ「量る秤」は全く故障しています。その「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされることなく、また、注意深く「聞く耳」も付いていません(同上4:21,31)。
ナザレの人々はおそらく、イエスは我々の間で育った「大工」の子だという考え方に捕らわれています。自分自身を中心にしか、主イエスにまつわる日常性を受け止めていません。端的に言えば、「近所の子ども」だと思い込んでいては、このお方において「神の子」を見出すことはできません。それに輪をかけるように、「あの男(イエス)は気が変になっている」(マルコ3:21)とのうわさが広まっていました。
こういう状況下では、ナザレの人々は主イエスの平易なたとえも誤解してしまうことでしょう。というのも、ナザレでお育ちになった主イエスが、日常においては隠されている「神の国の秘密」(マルコ4:11)が物語っておられるからです。「種蒔き」の話なら「近所の子ども」(少年イエス)より、農夫の自分の方が熟知していると言い出しそうです。いずれにせよ、主イエスの日常性に「つまずいている」ようでは、たとえ話が指し示す「神の国」は見えてこないことでしょう。
主イエスが自分たちにとってあまりにも身近なために、ナザレの人々は「主イエスがどのようなお方であるか」との問いを真剣に考えることができなくなっています。どうして、故郷の人々は主イエスを歓迎しないのか、との問題に関し、旧約聖書からエレミヤとアナトトの人々の事例をひもといてみましょう。
Ⅲ 預言者は自分の故郷では敬われない
21 それゆえ、主はこう言われる。
「主の名によって預言するな
我々の手にかかって死にたくなければ」と言う。
22 それゆえ、万軍の主はこう言われる。
若者らは剣の餌食となり
息子、娘らは飢えて死ぬ。
それは報復の年だ。」
マルコ福音書6:4――
イエスは、「預言者が敬われないのは、自分の故郷、親戚や家族の間だけである」と言われた。
上のエレミヤ書からの引用は、エレミヤの「告白録」の一部に当たります。ここで「告白録」というのは、エレミヤが預言活動を行う際に、彼が個人的な思いを赤裸々に言い表したのを採録したものです。その中には、自分自身の心情のほか、神への訴え、神からの答え、そして、敵対者への裁きなど含まれます。
わたしたちはこの「告白録」を通じて、預言者エレミヤの深い苦悩を知ることができます。エレミヤは孤独になり、敵対者からの迫害に遭いました(エレミヤ書16:1-8、28:1-17)。エレミヤは八方塞がりの苦境に置かれていましたが、「深い淵の底から、主よ」(詩編130:1)と叫び、自らの悩みと願いとを訴えました。
そうしたエレミヤに対する神からの答えが、エレミヤ書11:21-23に載せられています。エレミヤと神との問答の背景になっているのが、エレミヤと彼の郷里「アナトト」の人々との対立です。
「アナトト」は、エルサレムの北東約5㎞に位置する祭司の町です(ヨシュア記21:18)。ここは、ベニヤミン族の領地に当たります。ちなみに、王サウルや使徒パウロはこのベニヤミン族に属します(サムエル記上9:21、ローマ11:1)。
「アナトトの人々はあなたの命をねらっている」……エレミヤを震撼させる告知が主から下りました。エレミヤ自身、うすうす故郷の人々の反感や拒絶に気づいていたでありましょう。「あなたの命をねらっている」との言葉を聞いて、エレミヤは覚悟を決めねばなりませんでした。親族や知人を含む「アナトトの人々」との対決は、もはや避けられないと……。
同郷人同士とは言え、なぜ、エレミヤと「アナトトの人々」との関係がそれほどまでに険悪なものとなったのか、については諸説あります。その説明の中の一つをご紹介しましょう。
それは、風雲急を告げる外交関係において、エレミヤはユダの民が総じて反対する立場にあったということです。当時、南ユダ王国は、大国エジプトとバビロンの覇権争いによって翻弄されていました(エレミヤ書26:21-22、44:30)。どっちにつくのか、あるいは、鎖国状態にして独自路線を行くのか、ということです。王や祭司たちが神からの託宣を仰げばよいのですが、神礼拝は衰退の一途をたどっていました。というのも、偶像崇拝に入る者たちが続出していたからです。
さてそれでは、預言者エレミヤはどういう立場をとったのか、ということですが、エレミヤは神からの使信に依り頼みました。
エレミヤ書21:7 ――
(バビロン軍がエルサレムの城壁内を攻撃した)その後、と主は言われる。わたしはユダの王ゼデキヤとその家臣、その民のうち、疫病、戦争、飢饉を生き延びてこの都に残った者を、バビロンの王ネブカドレツァルの手、敵の手、命を奪おうとする者の手に渡す。バビロンの王は彼らを剣をもって撃つ。ためらわず、惜しまず、憐れまない。
「わたし」なる神がバビロンを用いて、南ユダ王国に災いを下すと宣告されています。従って、エレミヤの立場は、祖国の滅亡と捕囚のうちに、神の御手の働きを信じるということでありました。民族の大惨事のうちにも、神の御心がある、とエレミヤは確信させられたのです。
神からの災いの中にも幸い、つまり、将来への希望がありました。エレミヤは、「この都を出て包囲しているカルデア人(バビロン)に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(エレミヤ書21:9)と預言しました。
以上が、紀元前7世紀末頃、エレミヤが主の託宣に従ってとった立場でありました。「売国奴!」との非難がエレミヤに向けられたことは、容易に察せられます。身の危険を感じても、エレミヤは都エルサレムのみならず、彼の郷里「アナトト」においても、「バビロンに降伏せよ」と告げたに違いありません。
アナトトの人々はあなたの命をねらい 「主の名によって預言するな 我々の手にかかって死にたくなければ」と言う……当時の事情がよく分からないとしても、なぜ、「自分の故郷で預言者が敬われなかった」のか、を問うのは意義深いことです。
同郷の者からあれこれ言われたくない、身内・親族の中で安泰に過ごしたい、出身地の誇りを汚さないでほしいなど、エレミヤが「アナトトの人々」から迫害を受けた理由は、このほかにもさまざま考えられます。
ただし、エレミヤと主イエスとの故郷での出来事を重ね合わせてみると、神の奇しき計画、つまり、神の厳しさと慈しみが見えてきます。①と②、二つの共通点を指摘します。
①故郷において、エレミヤと主イエスは最も激しい迫害を受けた――
すでに述べた通り、エレミヤは同郷人によって、命をねらわれ、殺されそうになりました。同様に、主イエスも、「人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした」(ルカ4:28-29)ということです。
裏を返せば、故郷での伝道中、最も激しい迫害に遭ったことによって、エレミヤならびに主イエスが自分の命をかけて御言葉を宣べ伝えているのが明らかになりました。
ただし、主イエスの場合には、伝道の最後の場面、十字架の丘で、その迫害は頂点に達しました。
②神はご自身が派遣された預言者エレミヤならびに救い主キリストを守られた――
エレミヤの場合には、「見よ、わたしは彼らに罰を下す……わたしはアナトトの人々に災いをくだす。それは報復の年だ」との審判が主なる神より告げられました。「屠り場に引かれて行く小羊」(エレミヤ書11:19)のような窮地に追い込まれましたが、神の介入によって、「アナトトの人々」の間から助け出されました。こうして、エレミヤは同郷人の陰謀から守られました。
主イエスもまた、「しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた」(ルカ4:30)ということで難を逃れられました。神の御手の力が遣わされた者の上に、思いがけない迫害と絶体絶命の状況において発揮されました。
Ⅳ イエスは人々の不信仰に驚かれた
マルコ福音書6:5-6a――
5 そこでは、ごくわずかの病人に手を置いていやされただけで、そのほかは何も奇跡を行うことがおできにならなかった。6 そして、人々の不信仰に驚かれた。
先述したように、故郷ナザレで主イエスは最も激しい迫害を受けられました。町の大勢の人々が「親戚や家族」に加わっていたことでしょう。そして主イエスとの対立は、愛憎入り交じる感情から泥沼化していたのではないでしょうか。このような確執は、エレミヤの先例に見られるように、故郷独特のものであります。
ナザレ伝道の結びの言葉を確認しましょう。
「(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」……これは、驚くべき報告であります。ナザレこそまさに、「種蒔く人のたとえ」に例示された、石だらけの不毛な土地または茨の生い茂る土地だったのでしょうか(マルコ4:4-7)。わたしたちは「神の子」イエスの全知全能をもってしても、どうにもならなかったのか、と落胆させられるだけなのでしょうか。
「(イエスは)ごくわずかの病人に手を置いていやされた」……主イエスは「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)も働き続けておられました。御言葉の種を蒔いて、成長させることに励まれました。
殊に、病人のいやしは、「夕方になって……イエスは、いろいろな病気にかかっている大勢の人たちをいやした」(マルコ1:32-33)との御業が、ナザレでも行われたという証しになっています。夕方から一日が始まるというユダヤの生活の中で、主イエスは病に苦しんでいる人や悪霊に憑かれた人に、希望の光をともしておられたのです。
「そして、(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」……これをもって、故郷ナザレでの伝道が終わります。これまでのガリラヤ湖畔での宣教において、「信仰」を持った人々(マルコ2:5、5:34)が現れなかったわけではありません。しかしナザレでは、どうしてこんなにも悲惨な結果になったのでしょうか。
わたしたちがこの難題を考えるとき、大切なのは、主イエスの公生涯全体を見渡した上で、一場面一場面の出来事を捉えるということです。そのことは、もう少し短い期間のガリラヤ伝道(1:16-8:26)においても当てはまります。
そうして、ガリラヤ伝道を眺めてみたとき、ナザレでの結末は、ガリラヤ湖畔での事件(マルコ3:1-6)と関わりがあることが判明します。双方いずれも、安息日の会堂が舞台の中心になっています。
マルコ福音書3:6――
ファリサイ派の人々は出て行き、早速、ヘロデ派の人々と一緒に、どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始めた。
記載されていませんが、「ファリサイ派の人々」や「ヘロデ派の人々」が「不信仰」であったことは論を俟たないでしょう。逆に言うと、「不信仰」はとどのつまり、「どのようにしてイエスを殺そうかと相談し始める」に至るということです。実際、エレミヤ同様に主イエスも故郷の人々から「命をねらわれる」(エレミヤ書11:21)はめになりました。
そのようにして、「かくて十字架が、ここで初めて視界に現れることになった」(E. シュヴァイツァー)ということです。ガリラヤ湖畔で初めて、その後、ナザレで再びということです。
伝道には、それにふさわしい時と場所があります。パウロは、「だから、わたしとしては、やみくもに走ったりしないし、空を打つような拳闘もしません」(Ⅰコリント9:26)と述べています。忍耐して待たねばならない時もあります。大切なのは、目標を見据えて、的を射ることです。
「やみくもに」、「空を打つ」ことのないように、主イエスによるガリラヤ伝道全体を見渡しましょう。主イエスは、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5、6:6)という宣教を続けておられます。時には、主イエスがナザレで崖っぷちに追い込まれたように(ルカ4:29)、「死の陰の谷」(詩編23:4)を行く時もあります。
結
一方、「信仰」とは、人間が主イエス・キリストからの「力」を受け止めることです。他方、「不信仰」とは、その「力」を拒むことです。
主イエス・キリストの「力」(ギリシア語 デュナミス)というのは、「奇跡」とも訳されます。本日のテキストにも2回出ていました。
「この人が授かった知恵と、その手で行われるこのような奇跡はいったい何か」(マルコ6:2)「(イエスは)何も奇跡を行うことがおできにならなかった」(同上6:5)
その「信仰」を通して、主イエス・キリストの「力」は、罪と病と死に苦悩している人間に注ぎ入れられます。
マルコ福音書5:30――
(そして)イエスは(すぐに)、自分の内から力(デュナミス)が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。
事の始まりは、「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た」(マルコ5:21)ということでありました。主イエスの方から迷える羊を捜しにやって来られました。
そこに、一人の女が「大勢の群衆」をかき分けて、主イエスに近づいて来ました(マルコ5:27)。彼女は群衆から叱責や侮辱を浴びることを恐れませんでした。主イエスの「服にでも触れればいやしていただける」(同上5:28)との一心でありました。
そこに、主イエスと長血を患う女との出会いが生まれました。「(群衆が押し迫る中)しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」(マルコ5:32)というように、主イエス自らが出会いの時と場所を造り出されました。
実に、この出来事は「奇跡」(デュナミス)でありました。なぜなら、主イエスの「内から力(デュナミス)が出て行った」からです。そうして、神からの「力」(デュナミス)が女の全身に行き巡りました。彼女は「キリストとその復活の力(デュナミス)」(フィリピ3:10)を受け容れて、立ち上がりました。
このような出会いと交わりに基づいて、主イエスは「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」(マルコ5:34)と宣言されました。
それと対照的に、「(イエスは)人々の不信仰に驚かれた」というナザレでは、「何も奇跡を行うことができません」でした。主イエスは「足の裏の埃を払い落として」、次の村へと進んで行かれました(マルコ6:6b,11)。
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〈説教の要約〉
2024年 11月3日 降誕前 第8主日 召天者記念礼拝
旧約聖書 出エジプト記 16章12節~15節(P.120)
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章12節~14節(P.306)
説 教「その力によってわたしたちをも復活させてくださいます」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます ……Ⅰコリント6:13前半
Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである ……出エジプト記16:12-15
Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます ……Ⅰコリント6:13後半-14
結
序
本日は、先に召された方々のことを思い起こしながら、礼拝を守っています。わたしたちが、お一人お一人の名を呼ぶ「召天者の記念」を執り行ううちに、主にあって慰められますようにとお祈りいたします。
ところで、「キリスト者の自由」という考え方があります。本日のテキストの中で、パウロがこれについて言及しています。ただし、これには誤解を受けやすい面があります。というのも、元々、主イエス・キリストの教えている「自由」から離れて、自分勝手に理解する傾向があるからです。
確かに、その人の聖書理解のみならず、時代や環境によっても、キリスト教的に「自由な」生活には、さまざまな型があることでしょう。食生活はわたしたち人間にとっての基本ですが、パウロは「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。つまり、菜食主義を採るかどうか、キリスト者には「自由」が与えられているということです。誰も、自分と違う立場の人を軽蔑したり裁いたりしてはなりません(同上14:3)。
何だか、「キリスト者の自由」って、難しそうだなぁ、と身構えてしまうでしょうか。ここで、それを平易に理解するために、一つの聖句を掲げましょう。
あなたがたは罪から解放され、あなたがたは義に仕えるようになりました。
この文中の「解放され」は、「すでに自由にされた」と訳し直せます。「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって、あなたがたはすでに①洗われ、②聖なる者とされ、③義とされた」(Ⅰコリント6:11)という三重の恵みにあずかっている人が、「すでに④自由にされた」(①~④すべて受動態)という「自由」を得ているのです。
ここで、「キリスト者の自由」を理解するために、最重要な点が明らかになります。それは、神が主イエス・キリストを通して、わたしたちを「自由にされた」ということです。一方的な恵みをもって、神がわたしたちを「罪の奴隷」(ローマ6:17)の状態から解き放ってくださいました。
従って、キリスト教的に「自由な」生活には、神に対する感謝と忠実が満ちあふれています。ここに、「キリスト者の自由」の原点があります。わたしたちは真の「自由」を神より賜りました。まことに尊ぶべき「自由」であります。それ故に、神とわたしたちとの関係性を踏まえて、「自由」を用いなければなりません。
さて、パウロの目の前(実際にはリモートですが)には、自分は「すでに自由にされた」と言い張って、「みだらな行い」や「裁判ざた」を起こしている人々がいました(Ⅰコリント5:1、6:7)。彼らはどうやら、キリスト教倫理にヘレニズム的な考え方(ギリシアの文化・思想)を加味するのも「自由」と思っていたようです。それどころか、教会の交わりの中に、自分たちの賢い知恵や慣習を取り入れるべきだというように、高ぶっていました。
以上、パウロ書簡の一文から、或る意味では深遠なる「キリスト者の自由」を理解するコツをご紹介しました。これから、コリントの信徒への手紙 一 のわずか三節を説き明かします。「キリスト者の自由」が論じられる出発点ともなったテキストです。パウロが “ 霊 ” に導かれ、神の知恵に満たされて、どのようなことを、わがまま勝手に「自由」を振り回している……裏返せば、過った考えに束縛されている……人々に向けて語ったのか、読んでみることにしましょう。
反論や批判が予想されますが、「基本的なキリスト教の信仰告白」(R.B. ヘイズ)に基づいて論証するパウロは、動じるところがありません。
Ⅰ わたしには、すべてのことが許されている
コリントの信徒への手紙 一 6:12――
「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、すべてのことが益になるわけではない。「わたしには、すべてのことが許されている。」しかし、わたしは何事にも支配されはしない。
パウロは相手の思っていることを汲み取る達人です。頭ごなしに持論を繰り広げてはいません。むしろ、相手の考えているところの「キリスト者の自由」を見据えた上で、議論を組み立てようとしています。パウロの言葉に説得力があるのは、そのためです。
「わたしには、すべてのことが許されている」との文言が、真の「キリスト者の自由」を議論する起点に置かれています。少し言葉を補うと、「わたしには、すべてのことができるように許されている」となります。「わたしには何でも許されている」というのは、神の律法から見て正当であるとの意味です。
コリント教会の一部の人々はまさに、「わたしたちには、すべてのことが許されている」との文言に拠りつつ、教会の内外で、「みだらな行い」や「裁判ざた」を繰り返しているのです。
さて、この「わたしには、すべてのことが許されている」との起点から、パウロがどのように自分の側にたぐり寄せていくか、が見どころです。図式化しましょう。
パウロの慎重かつ論理的な導き方が、一目瞭然です。パウロは粘り強く、キリスト教倫理を築き上げようとしています。
二度の「わたしには、すべてのことが許されている」との文言によって誘導しつつ、「しかし」以下で、パウロは福音理解に基づいて考えを表しています。
ここで、パウロは「益になる」か否かの観点に立っています。何かの損得が、「キリスト者の自由」と関わりがあるということなのか、との疑問を抱かれるでしょうか。それでも、「益になる」か否か、実際、大多数の人の関心を引きつけるに違いありません。だからここで、キリスト者にとって、一体「益になる」とはどういうことか、または、「益」にあずかるキリスト者の人生とはどのようなものか、問うのは一考に価します。
ここで、パウロは簡にして要を得ている議論を心がけています。それ故に、正しい理解のために、「わたしには」という「わたし」を取り囲んでいる〈神〉と〈兄弟姉妹〉に登場していただきましょう。
今、〈神〉は、「忠実で賢い僕」(マタイ24:45)なる〈兄弟姉妹〉がキリストの体なる教会を造り上げるのを見守っておられます。その際、「忠実で賢い僕」は「神の慈しみと厳しさ」(ローマ11:22)によって訓練されています。
パウロの言わんとしていることが見えてきたでしょうか。「わたしには、すべてのことが許されている」というほどに、キリスト者は罪から解放され、自由を得ています(ローマ6:18)。しかし、その自由を行使するとき、それが〈神〉と隣人なる〈兄弟姉妹〉にとって、「益になる」のかどうか、熟慮しなければなりません。
「しかし、すべてのことが益になるわけではない」のが真実ですから、「わたし」が自分の「益」を抑制しなければならないこともあります。言い換えれば、自由の占有を差し控えるということです。というのも、愛をもって、〈神〉と隣人なる〈兄弟姉妹〉に仕えられた主イエスに倣うのが、わたしたちの歩むべき道だからです。
脇目も振らず勝手放題にするならば、「罪の奴隷」に舞い戻ってしまいます(ヨハネ8:34)。
パウロは重ねて、「わたしには、すべてのことが許されている」と言うところで、ぐっと議論を深めています。つまり、「みだらな行い」や「裁判ざた」などによるコリント教会の混乱に歯止めをかけようとしています。「すべてのことが許されている」との過信から、そのような振る舞いをしている人々を説得しようとしています。
「支配」という鍵語から、「永遠の王」なる支配者と「この世の滅びゆく支配者たち」(Ⅰコリント2:6)とを思い起こしましょう。「永遠の王」とは、唯一の神を指しています(Ⅰテモテ1:17)。
そこで、まず分かるのは、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」と言うとき、「永遠の王」なる唯一の神以外の「支配」は受けない、ということです。しかし、その「何事にも」というものの代表例として、「この世の滅びゆく支配者たち」の思いのままになっている人はいないか、とパウロは問いかけています。すなわち、彼らに「支配され」、隷属状態に置かれてはいないか、ということです。
もしそうだとすれば、「わたしは何事にも支配されはしない」とは言い切れません。そのために、真の「キリスト者の自由」が侵害されている恐れが多分にあります。
具体的に、「みだらな行い」を含む人間の性的な関係や「裁判ざた」が、「この世の滅びゆく支配者たち」の思い通りにされたら、どうなるでしょうか? キリスト者の心に平安はなくなります。
多くの人々が欲望と激情に駆られて、教会の内にまで、「みだらな行い」と「裁判ざた」などを持ち込むことでしょう。その上、「この世の滅びゆく支配者たち」は、「つまずきとなるものや妨げとなるものを、兄弟姉妹の前に置いて」(ローマ14:13)、世の中を混乱させます。善悪の基準をないがしろにする彼らは、人々が「互いに裁き合う」(同上)のを傍観・放置していることでしょう。
パウロ自身は、神から賜った恵みとして「わたしには、すべてのことが許されている」と述べています。「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」……「永遠の王」なる神以外の「支配」は受けないということです。なぜなら、主なる神の遣わされた主イエス・キリストによって、わたしたちは欲望と激情による隷属状態から解放されたからです。
続いて、「この世の滅びゆく支配者たち」の思い通りにならないように、との警告が、平易なたとえによって説かれます。
Ⅱ 神はそのいずれをも滅ぼされます
食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます。
少し角度を変えて、「しかし、わたしは何事にも支配されはしない」との議論が続いています。というのも、「この世の滅びゆく支配者たち」が執拗にも、「みだらな行い」と「裁判ざた」などによって、人を罪へと誘導しているからです。
「食物は腹のため、腹は食物のため」とのありふれた句が、人間の食欲に関わるのは自明です。同時に、この日常的な事柄は、「キリスト者の自由」を考える上で、試金石となります。というのも、神または主イエスは、「食物」について、福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、御言葉を与えられているからです。
序.で例示したように、パウロも「食物」について「キリスト者の自由」の観点から、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです」(ローマ14:2)と述べています。パウロのように、神の大いなる救いの歴史の中に置かれている、一人ひとりが「キリスト者の自由」を享受している幸いをあらわしていきたいものです。目先のことで、やれ自由だ、やれ束縛だと叫んでいる人は、「永遠の王」なる神の御心を問い尋ねてはいません。そのような人は、偽りの自由を振り回して、隣人を束縛しています。
実際パウロは、「食べる人は主のために食べる。神に感謝しているからです。また、食べない人も、主のために食べない。そして、神に感謝しているのです」(ローマ14:6)と語っています。わたしたちの食卓の中心に、主イエスがおられるというのが、わたしたちの信仰です。
では、自由と係わりのある、パウロの「食物」についての言葉を読んでみましょう。
「食物は腹のため、腹は食物のためにあるが、神はそのいずれをも滅ぼされます」……パウロは明らかに、「この世の滅びゆく支配者たち」による「食物」への支配を警戒しています。
彼らの「食物」への不当介入……効果が実証されなかったり当事者の意志が尊重されなかったりする……と言えば、○×ダイエット法やがんを撃退する△△食事療法などを挙げれば十分でしょう。このように世を支配しようとする人々は、「食物は腹のため、腹は食物のため」とのスローガンを掲げ、自己流の「食物」摂取の方法を喧伝しています。
彼らは具体的には、自分が「金持ち」か「王様」かのように(Ⅰコリント4:8)、食生活を愉しんでいます。そして時に、過剰な食欲や節制に振り回されています。そこでの問題は、不健康という以上に、愛による〈神〉と弱く貧しい〈兄弟姉妹〉への奉仕と長期にわたる見通しが顧みられていないことです。
パウロは、「神はそのいずれをも滅ぼされます」と告知しています。過度の食欲によって「食物」と「体」を粗雑に扱ってはならない理由は、13節後半以下で昭示されます。
誰しも、自分にとってこの世で必要な「食物」が「滅ぼされる」時、すなわち、不要になる時がやがて来ます。だからこそ、わたしたちは、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈ります(マタイ6:11)。加えて、「だから、明日のことまで思い悩むな」(同上6:34)と戒められています。まさに、神への祈りこそが、「食物」に関わる、キリスト者の自由な生活を支えています。
先に神は、福音に基づく生活の重要課題と言えるほどに、「食物」について豊かな御言葉を与えてくださっていると述べました。一箇所、旧約聖書を読んでみましょう。「食物」に係わる信仰的な確信は、「キリスト者の自由」を享受するのに、大いに役立つことでしょう。
Ⅲ これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである
出エジプト記16:12-15 主なる神→モーセ――
12 「わたしは、イスラエルの人々の不平を聞いた。彼らに伝えるがよい。『あなたたちは夕暮れには肉を食べ、朝にはパンを食べて満腹する。あなたたちはこうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる』と。」
13 夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた。
14 この降りた露が蒸発すると、見よ、荒れ野の地表を覆って薄くて壊れやすいものが大地の霜のように薄く残っていた。15 イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った。彼らはそれが何であるか知らなかったからである。モーセは彼らに言った。「これこそ、主があなたたちに食物として与えられたパンである。」
ここには、イスラエルの民の飢え渇き(出エジプト記16:3)を顧みて、神が天からパンを降らせる様子が描かれています。「民は出て行って、毎日必要な分だけ集める」(同上16:4)ということですから、「わたしたちに必要な糧を今日与えてください」と祈りをささげる訓練になります。
荒れ野放浪の中で、「食物」に係わる信仰的な確信が培われました。イスラエルの民の「毎日」は、「夕方になると、うずらが飛んで来て、宿営を覆い、朝には宿営の周りに露が降りた」というくり返しでありました。そうして、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)という一日ごとのリズムが刻まれました。
六日目になると、二倍の量のパンが与えられました(出エジプト記16:22)。それは、「明日は休息の日、主の聖なる安息日である」(同上16:23)からです。そうして、一週ごとのリズムが刻まれました。
神から「食物」を賜るということを中心にして、荒れ野でのイスラエルの民の生活は整えられていきました。
「イスラエルの人々はそれを見て、これは一体何だろうと、口々に言った」というのは、イスラエルの民が、神より賜った「食物」に対する疑問です。「これは一体何だろう」(ヘブライ語:マン フー)に因んで、天から降って来たパンは「マナ」と名付けられました(出エジプト記16:31)。「こうして、わたしがあなたたちの神、主であることを知るようになる」との御言葉が、民の心に刻まれました。
マナが神より賜ったものであるように、「キリスト者の自由」もまた、神より無償で授けられたものです。なおかつ、その自由は、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、わたしたちが「罪から解放された」(すでに自由にされた ローマ6:18)ことに基礎づけられています。従って、わたしたちは、神と隣人とを愛する中で、「キリスト者の自由」の在り方・用い方を考えてゆかねばなりません。
Ⅳ その力によってわたしたちをも復活させてくださいます
コリントの信徒への手紙 一 6:13後半-14――
13 体はみだらな行いのためではなく、主のためにあり、主は体のためにおられるのです。
14 神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださいます。
初めに、語彙について説明します。パウロはここで、「体」(ギリシア語:ソーマ)を「腹」、「胃」、「腸」などの内臓を指す言葉として用いてはいません。パウロは、「体」(ソーマ)との用語により、信仰者の人格的な実存、つまり、個々の諸器官を超える全体、キリスト者の全人格を指し示しています(H.W. ホーランダル)。
従って、「体」を汚すという場合には、「神」に対して罪を犯して反逆することが、より大きな問題になります。
上の結びの文の力点は以下の通りです。
「主」イエス・キリストは……、「神」は……という言い回しによって、パウロは「基本的なキリスト教の信仰告白」を表しています。つまり、わたしたちは「主」に「支配」されるべき者であり、また、わたしたちの「益」は最終的に、「神」に帰されるべきものです。
先にパウロは、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」(Ⅰコリント5:1)がコリント教会内に生じたとき、以下のように対応しました。
すなわち、「みだらな行い」をした或る人と相手の父の母(継母)を召喚し「裁判ざた」を起こして事を済ませるというのではなく、「ですから、わたしたちは純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」(Ⅰコリント5:8)と、コリント教会全体に呼びかけました。
ここには、「過越祭」、つまり、復活祭をはじめとする主日の礼拝において、「みだらな行い」をした或る人が罪告白と悔い改めに導かれるように、とのパウロの祈りがありました。実際、わたしたちは、「体はみだらな行いのためではなく、主イエス・キリストのためにあり、主イエス・キリストは体のためにおられる」ことを見て、知って、そして信じるために、礼拝をささげています。
「罪人の頭」(Ⅰテモテ1:15)である点において、兄弟姉妹は皆、変わりありません。皆が神の御前に、主の赦しの愛にあずかれるように、「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)をもって進み出ます。そこで、受洗している人は、「すでに聖なる者とされた」ことを想起します(Ⅰコリント6:11)。その時、「主の日に彼(みだらな行いをした人)の霊が救われる」(同上5:5)ように、との希望が会衆の間に共有されることでしょう。
「主は体のためにおられる」……この「体」とは、「神はそのいずれをも滅ぼされる」という「食物」や「腹」とは異なります。「主は体のためにおられる」との言い方自体に、わたしたちの「体」の永続性が示されています。
より精確に言うと、「自然の命の体が蒔かれて、霊の体が復活するのです。自然の命の体があるのですから、霊の体もあるわけです」(Ⅰコリント15:44)との言葉通りに、わたしたちの「体」は、「自然の命の体」から「霊の体」へと造り変えられます。
なぜなら、「神は、主を復活させ、また、その力によってわたしたちをも復活させてくださる」からです。この地上で「キリストの体」なる教会の肢として仕え働いた信仰者の「体」はそれほど貴いものなのです。死者の中から復活したキリストの力を十全に受け止めるために、「みだらな行い」によって自分の「体」を汚してはなりません。
そのように、「キリスト者の自由」という考え方においては、「自然の命の体」から「霊の体」へ、現在から将来へという見通しが重要です。神の大いなる救いの歴史のもとでこそ、信仰者の持つ「自由」は、その伸びやかと柔らかさが存分に活用されることでしょう。
わたしたち・信仰者は、「四方から苦しめられても行き詰まらず、途方に暮れても失望せず、虐げられても見捨てられず、打ち倒されても滅ぼされません」(Ⅱコリント4:8-9)。なぜなら、わたしたちの罪と病と死の向こう側にも、「キリスト者の自由」が拡がっているからです。
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2024年 10月27日
降誕前 第9主日 宗教改革記念日礼拝
旧約聖書 イザヤ書 4章2節~6節
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 6章9節~11節
「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊」
小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 思い違いをしてはいけない
Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない
……Ⅰコリント6:9後半-10
Ⅲ 主はシオンの娘たちの汚れを洗う
……イザヤ書4:2-6
Ⅳ あなたがたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた
……Ⅰコリント6:11
結
序
1517年10月31日に、マルティン・ルターはヴィテンベルク城教会の門に、95箇条の提題を掲げました。この出来事を契機として、宗教改革が始まりました。
当時、ルターはアウグスチノ修道会の修道士であり神学博士でありました。95箇条の提題・第1条には、次のように記されています。
我々の主であり教師であるイエス・キリストが悔い改めよ、と言われたとき、
このように、ルターは日々、悔い改めるように勧告しました。いくら大きな善行や献げものをしたからと言って、次の日に、悔い改めが免除されるわけではありません。悔い改めとは、罪なる生活から、イエス・キリスト中心の生活にひっくり返されることです。これまでに自分が為してきたり蓄えたりしているものを、ひと度手放して、「我々の主であり教師であるイエス・キリスト」に立ち返るのです。
聖書に即し、“ 霊 ” の導きによって、わたしたちの礼拝の中で悔い改めるということが基本になります。そこから週日の生活が始まります。その悔い改めを促すのに、格好のテキスト、本日の旧新約聖書を読んでみましょう。
Ⅰ 思い違いをしてはいけない
コリントの信徒への手紙 一 6:9前半――
正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか。思い違いをしてはいけない。
パウロは今、「キリスト者の自由」について議論しています。具体的には、教会内の問題を軽々に「裁判ざた」にする人々を非難しています(Ⅰコリント6:7)。というのも、コリント教会の一部の人々が、この世の知恵によって善悪を判断しようとしているからです。
それに対し、パウロはキリスト教倫理を確立しようとしています。旧約聖書にさかのぼって神の御心を尋ねたり(Ⅰコリント1:19、3:20)、また、他の指導者(例えばエルサレム教会の人々)の意見を求めたりしている最中です。そのキリスト教倫理を土台として初めて、一人ひとりが「キリスト者の自由」を享受することができます。
「キリスト者の自由」を履き違える人々が多かったのは、特に「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)に関することでありました。コリント教会の一部の人々は、キリストの教えよりも、世俗の慣習によって振る舞うことがありました。
彼らは性的な問題について、教会の「聖なる者たち」に助言を求めようとはしませんでした(Ⅰコリント6:2)。かえって、「教会では疎んじられている人たちを裁判官の席に着かせて」(同上6:4)、問題を処理しようとしていました。それでは、「みだらな行い」をした人を義しく裁くことはできません。
その結果、コリント教会の一部の人々は、「姦淫してはならない」(出エジプト記20:14)との十戒のみならず、「しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」(マタイ5:28)との主イエスの教えをもないがしろにしていました。「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)は、自分の体を汚してしまうのみならず(同上6:18)、「聖なる者とされた」(同上6:11)人の心を侵してしまいます。その上、自分が模範として、若い世代の人々に教え諭すべき事柄であります。
今日の時代状況において、キリスト教倫理を確立するには、問題が山積しています。LGBTQ(性的マイノリティの方を表す総称)など新たな課題に向き合わねばなりません。呆然と立ちつくしてしまいそうです。
そこで、本日のパウロの言葉に耳を傾けましょう。信仰が日常生活の営みやささいな事件の裁きなどに結びつくようにと、総括的なメッセージが記されています。
「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」……誰が「知らない」のかと言えば、先の述べた、コリント教会の一部の人々を指しています。彼らは、キリスト教倫理に基づかず、自分勝手な道徳を盾にして、教会内にいたずらに「裁判ざた」を持ち込んでいます。「互いの間にねたみや争いが絶えない」情況を造りだしています(Ⅰコリント3:3)。そういう点で、彼らは「正しくない者」にほかなりません。カルヴァンによれば、「正しくない者」というのは、「兄弟をはずかしめる者、他人をだまし、あざむく者、要するに、他人を害して自分の益をはかる者」を指しています。
では、「正しい者が神の国を受け継ぐ」とは、一体どういうことでしょうか?
それを知るためには初めに、「正しい者」について正しく理解していなければなりません。
「正しい者」は、神の義しさを映し出しています。言い換えればそれは、自分が罪人であると告白し悔い改めた人です。その人は、主イエス・キリストを信じて、「義とされました」(Ⅰコリント6:11)。
「正しい者」はキリストに倣って(Ⅰコリント11:1)、「侮辱されては(わたしたちは)祝福し、迫害されては(わたしたちは)耐え忍び、ののしられては(わたしたちは)優しい言葉を返しています」(同上4:12-13)。元々は罪人でありながらも、今やキリストが模範となってくださっているので、その人は神の義をあらわすことができます。
次に、「神の国を受け継ぐ」とは、どのような意味なのでしょうか。これを正しく理解するには、〈預言〉―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことが求められます。
神はその〈預言〉を、「正しい者」(創世記18:23)、アブラハムに示されました。
創世記15:7――
主は(アブラハムに)言われた。「わたしはあなたをカルデアのウルから導き出した主である。わたしはあなたにこの土地を与え、それを継がせる。」
アブラハムは試練のただ中にありました。いまだに子どもに恵まれず、放浪の旅を続けていました(創世記13:1、16:1)。そのような時、「主の言葉が幻の中でアブラムに臨んだ」(同上15:1)というのが、上に引用した「この土地」の授与の約束です。それは、「あなたの受ける報いは非常に大きいであろう」(同上15:1)との主の言葉の通り、恵み豊かなものであります。
その上に、「正しい者」なるアブラハムへの土地授与の宣言は、新約の「正しい者が神の国を受け継ぐ」との言葉につながっています。というのも、神が御子イエス・キリストをこの地上に遣わされることによって、信仰の父アブラハムへの〈預言〉が〈成就〉したからです。
この主イエス・キリストが「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(ルカ17:21)と宣べ伝えられました。わたしたちは、この救い主なるお方を信じ、この言葉に「アーメン」と唱えるのであります。
そして、信仰者でありながらも、疑い深いわたしたち(創世記15:2,8、ヨハネ20:25)は、“ 霊 ” の導きやパウロの執り成しによって支えられています。共々に、「神の国を受け継ぐ」者になるようにと……。
主イエス・キリストは罪人や病の人を救われました。そして、悔い改めた人々の間に「神の国があるのだ」と告げられました。そうだとすれば、この世における救われた者の生活は一新させられます。ねたみや争いを退け、キリスト教倫理に従って生きようと、自分の心身を聖霊にゆだねる者となります。ひと言でいえば、「正しい者が神の国を受け継ぐ」との〈待望〉をもって、「神の国」を目指して行きます。
以上のことを反面から証ししているのが、「正しくない者が神の国を受け継げないことを、知らないのですか」との叱責です。彼らは「神の国」について、〈預言〉―〈成就〉―〈待望〉の観点に立つことなく、恵み豊かな御言葉に耳を傾けていません。
そこでパウロは、彼らを一喝します……「思い違いをしてはいけない」。「正しくない者」は高ぶっており、まるで「王様」か「大金持ち」であるかのように振る舞っていました(Ⅰコリント4:8,18)。「神の国の力」(同上4:20)が彼らの日常生活の中に浸透してはいませんでした。そうした彼らに今、「愛と柔和な心」(同上4:21)をもって接するのは、無駄でありました。だからこそ、パウロは「神の慈しみ」でななく「神の厳しさ」を表したのです(ローマ11:22)……「すでに神の国の入場券を持っているなどと、自分の都合の良いように考えるな」と。
Ⅱ 決して神の国を受け継ぐことはできない
コリントの信徒への手紙 一 6:9後半-10――
9 みだらな者、偶像を礼拝する者、姦通する者、男娼、男色をする者、10 泥棒、強欲な者、酒におぼれる者、人を悪く言う者、人の物を奪う者は、決して神の国を受け継ぐことができません。
ここに、10項目が列挙される形で「罪のカタログ」が明示されています。ここには、「ある人が父の妻をわがものとしている」という「みだらな行い」(Ⅰコリント5:1)に関わる知見も加味されています。このようにして、隣人愛や善行のみならず、悪徳に関わる側面からも、キリスト教倫理が確立されていきました。
①みだらな者、②偶像を礼拝する者、③姦通する者、④男娼、⑤男色をする者
⑥泥棒、⑦強欲な者、⑧酒におぼれる者、⑨人を悪く言う者、⑩人の物を奪う者
前半①~⑤には主に、性的な罪、そして後半⑥~⑩には主に、貪欲の罪が掲げられています。パウロはこの手紙の後の方で、「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)と言い換えています。
罪の罠にはまっている「正しくない者」とは、「肉と血」によって生きようとする者であります。それによって彼らは、キリスト者の全人格を表す「体」(Ⅰコリント6:13)を汚しています。「肉と血」との欲望に毒されている者には、主の恵み深さなど味わえません(詩編34:9)。
「決して神の国を受け継ぐことができません」……これは重い言葉です。コリント教会の一部の人々は心して聴かねばなりません。しかし、この宣告は最後通牒ではない、とわたしは考えます。というのも、例の「みだらな行い」の一件に関してパウロは、「このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです」(Ⅰコリント5:5 他に3:15)と述べているからです。パウロは常に、神の為される最終の審判について、自分の判断を抑制しています。
実際、次の11節で、「しかし」によって、神の企てられる罪人の救いという大逆転が昭示されています。「正しくない者」、すなわち、「罪のカタログ」によって裁かれるような罪人こそが、この「しかし」によって目覚めさせられます。なぜなら彼らは、ひと度はキリストの福音を聞いて悔い改めた人々なのですから。
鮮やかな逆転シーンを観たいというはやる気持ちを押さえて、旧約の御言葉を読んでみましょう。そこには、汚れに染まった「シオンの娘たち」が花嫁のごとく洗い清められる様子が描かれています。
Ⅲ 主はシオンの娘たちの汚れを洗う
2 その日には、イスラエルの生き残った者にとって主の若枝は麗しさとなり、栄光となる。この地の結んだ実は誇りとなり、輝きとなる。3 そしてシオンの残りの者、エルサレムの残された者は、聖なる者と呼ばれる。彼らはすべて、エルサレムで命を得る者として書き記されている。4 主は必ず、裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗い、エルサレムの血をその中からすすぎ清めてくださる。5 主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われる。それはそのすべてを覆う栄光に満ちた天蓋となる。6 昼の暑さを防ぐ陰、嵐と雨を避ける隠れ場として、仮庵が建てられる。
先に、次のⅣ.で取り上げるⅠコリント6:11との驚くべき類似点について見てみましょう。
イザヤ書4:4
「裁きの霊と焼き尽くす霊をもってシオンの娘たちの汚れを洗う」
Ⅰコリント6:11
「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって(あなたがたは)洗われた」
この場合、旧約と新約の言葉とは、まさしく〈預言〉と〈成就〉の関係になっています。
人々は罪の汚れにもがき苦しんでいます。自力でそれを清めようとしても、この世の知恵に惑わされて、「罪のカタログ」が増し加わるばかりです。
「エルサレムの血」は、敵国によって「シオンの娘たち」が犯された時に流されたものです(前587年、バビロニアにより都エルサレムは破壊されました)。同時に、その「血」は、エルサレムの民が神に背き、隣人を裏切る中で注ぎ出されたものです。「エルサレムの血」は、兄に殺害されたアベルの「血」のように、いまだに土の中から叫びを上げています(創世記4:10)。
ところが、「その日」すなわち「主の日」(イザヤ書2:12)に、「主は、昼のためには雲、夜のためには煙と燃えて輝く火を造って、シオンの山の全域とそこで行われる集会を覆われます」。呪われていた都とその「血」が、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」すすぎ清められます。
エルサレムの住民は、そびえ立つ「シオンの山」を見つめています。そこには、平和の象徴であるかのように、「隠れ場」と「仮庵」が建てられています。今や「シオンの娘たち」は、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)というように、主にあって「麗しさ」と「栄光」を回復しました。
主イエス・キリストは「イスラエルの生き残った者」の末裔として、この地に宿られました。主イエスは「ダビデの子」(マタイ1:1)として、「シオンの娘たち」の汚れと悩みをご存じです。
実際、主イエスは一人の娘に癒やしを行い、信仰を授けられました。主は彼女の手を取り、「タリタ、クム」、すなわち、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」(マルコ5:41)と呼びかけられました。主はうずくまっていた者を立ち上がらせました(詩編146:8)。
イザヤの預言によれば、罪の重荷に苦しんでいた者が、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」助け出されます。神は、弱く貧しい「シオンの娘たち」に寄り添われます。パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いを信じる者として、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」ということを語り直します。そこでパウロは、神からの無償の恵みに依り頼むということを徹底化しています。
コリントの信徒への手紙 一 6:11――
あなたがたの中にはそのような者もいました。しかし、主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって洗われ、聖なる者とされ、義とされています。
パウロは、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と前置きしています。これは、「しかし」で転換される前の過去に言及していることなので、とても重要です。
つまり、「あなたがたの中には」、「正しくない者」、すなわち、ひと度洗礼を受けながら、罪を犯しても悔い改めない者がいた、ということを述べています。「そのような者」はキリスト者の自由を履き違えて、「みだらな行い」や「裁判ざた」によってコリント教会を混乱させました。
パウロはこの結びにおいて、過去について、「あなたがたの中にはそのような者もいました」と簡略に述べました。「あなたがた」なるコリント教会全体が、一部の「そのような者」の問題を共有し、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)として再建されるように、祈り求めるべきであります。
さて、「しかし」以下の文に入ります。原文・ギリシア語では、3回、「しかし」(アッラ)が繰り返されています。その強調点を図示すると、以下のようになります。
①「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは洗われた」
②「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは聖なる者とされた」
③「あなたがたの中にはそのような者もいた。しかし、あなたがたは義とされた」
主イエス・キリストを信じた者があずかることになる、①洗礼、②聖化、そして③義認の恵みが描き出されています。パウロは「そのような者」に、あなたは「しかし」によって、ひっくり返されている、そのことをよくよく考えなさい、と訴えています。3連続で信仰上の転換が明示されています。「古いものは過ぎ去り、新しいものが生じた」(Ⅱコリント5:17)のであります。「見よ、その日を、あなたが洗礼を受けた日を」とのパウロの願いが通じるでしょうか。
あなたは以前には、“ 霊 ” の導きを軽んじたが、「しかし」今、“ 霊 ” の人として、「あなたは洗われ、聖なる者とされ、義とされた」ことを信じなさい、とパウロは勧めています。そのようにあなたがひっくり返されたのは、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」であると、明示しています。
かつて、「シオンの娘たち」に、「裁きの霊と焼き尽くす霊をもって」、神へと立ち帰るように勧められました。
そして今、「そのような者」に、「主イエス・キリストの名とわたしたちの神の霊によって」、神の御前で悔い改めるように勧められました。「主イエス・キリスト」の言葉と行いがわたしたちの罪過を照らし出しますので、わたしたちはより深く悔い改めることができます。
ルターいわく、「イエス・キリストは信じる者に全生涯が悔い改めであることを欲したのである」。
罪過への向き合い方が真剣になれば、その人の「全生涯」は、キリストの赦しの愛によって覆われます。
結
信仰者は、「正しい者が神の国を受け継ぐ」ことを待望して生きています。「神の国は言葉ではなく力にある」(Ⅰコリント4:20)という、その「力」が新しい「パン種」のように(同上5:7-8)、わたしたちの教会と日常生活の隅々に行きわたっているでしょうか。「あなたがたは聖なる者とされた」ことを土台として、より善いキリスト教倫理が築かれます。神の恵みによって、「みだらな行い」や「裁判ざた」が遠ざけられます。
信仰の先達・アブラハムを見上げて(ルカ16:22-24)、「神の国を受け継ぐ」との希望をもって歩んで行きましょう。
W
〈説教の要約〉
2024年 10月20日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第23主日
旧約聖書 詩編146編 1節~10節(P.986)
新約聖書 ペトロの手紙 一 4章6節(P.433)
説教の構成――
序
Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ ……詩編146:1-2
Ⅱ 君侯に依り頼んではならない ……詩編146:3-4
Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる ……詩編146:5-10
Ⅳ 霊において神によって生きる ……Ⅰペトロ4:6
序
詩編146-150編には、「ハレルヤ」で始まり「ハレルヤ」で終わる詩が五つ、配置されています。「ハレルヤ」、すなわち、「あなたがたは主を賛美せよ」との呼びかけが、旧約聖書・詩編の最終部分にはくり返されています。
詩編146編において、「わたし」は神の御前で力の限りに賛美しています。歌う中で、神と隣人を愛することを教えられています。詩編全体から美しく信仰的な詩句が集められているアンソロジー(詞華集)になっています。天から「ハレルヤ」との誘いが響いてくる中で、一体どんなことが物語られているのでしょうか?
その内容に入る前に、「ハレルヤ」入門として、一つのことをお話しします。賛美に圧倒されないように、心づもりをしてください。
それは、どうして、この詩編は “ 霊 ” 的で、生気と歓喜に満ちているのか、ということです。その源泉は、詩の一言一句に貫かれている信仰的な考え方に由来しています。
詩人は人生の達人です。加えて、イスラエルの族長や預言者の知恵と経験を受け継いでいます。その信仰的な考え方とは、ひと言でいえば、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということです。そこには、挫折してもあきらめない「力」、へりくだって誰にでも寄り添う「力」、そして、さまざまな礼拝者たちを一つにする「力」が溢れだしています。
その「力」は決して、わたしたちの手の届かない所にあるものではありません。実際、あなたが “ 霊 ” によって「ハレルヤ」詩編に引き寄せられ、賛美の世界に入って来るならば、あなたは自分の弱さや罪に向き合い、そこから立ち上がる「力」がわき出てくることでしょう。
主イエスは乾ききった人生を送っていたサマリアの女に、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」(ヨハネ福音書4:14)と語りかけられました。この慰め深い言葉は、賛美にも当てはまります。賛美は世々限りないものです(ヨハネ黙示録7:12)。
水と賛美との共通点といえば、人のからだ全体に浸透する点が見逃せません。そしてそれは、わたしたちの内側からわき上がって来ます。そうして、わたしたちは手を挙げ口をもって魂の底から、主をほめ歌います(哀歌3:41)。
Ⅰ ハレルヤ。わたしの魂よ、主を賛美せよ
詩編146:1-2――
詩人は、「ハレルヤ、主を賛美せよ」と、そこから始めています。何よりも「主」(ヤハウェ;ハレルヤのヤも神名)に依り頼むことが大切です。「主」をほめ歌うことは、パウロのように牢獄でも、どんな所でも可能です(使徒16:25)。
たとい心が闇に閉ざされていても、詩人は「主を賛美せよ」と、「わたしの魂」を鼓舞しています。誰しも、ねたみや争いなどの悪感情に捕らわれてしまうことがあります。そのためにも、「ハレルヤ」をからだに染み込ませておきましょう。力強く美しい詩は、魂に刻まれ続けます。もちろん、メロディーに乗せて、賛美するのは善いことです。
「命のある限り、わたしは主を賛美し 長らえる限り わたしの神にほめ歌をうたおう」……ここで詩人は自分の「命」または「生涯」に目を向けています。言い換えれば、それは「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけを「生涯」の課題とするということであります。
それは自分の努力によって、というよりも、神が「わたしの命」を授けてくださったことへの感謝によって、果たすことができるものでしょう。この点は、他の人が励まし得ても、「わたし」に代わることはできません。
詩人は、「わたしの魂」を傾けて、「生涯」にわたり、「わたしの神にほめ歌をうたおう」と心を定めています。ありあまる恵みをいただいている神への感謝が、その思いを支えています。
「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけの次に、何が来るのか、ここでわたしたちの信仰は一挙に深められます。すでにそのような信仰を持っている人は、幸いです。
次に来るのは、ひと言でいえば、悔い改めです。自らの欲望や高ぶりなどの罪をざんげします。なんだか、格調高い詩編が盛り下がりそうと言うのは、浅はかです。
パウロは、「律法が入り込んで来たのは、罪が増し加わるためでありました。しかし、罪が増したところには、恵みはなおいっそう満ちあふれました」(ローマ5:20)と述べました。わたしたちは「罪が増したところ」をよく知り、受け止めねばなりません。この世や自分の内に、あふれるほどの悪があることを認めるのです。そこで、自分が罪悪と戦おうとしたり、あるいは、いたずらに他の人々を批判したりしてはなりません。それこそ、サタンの思う壺となります。
そうではなく、「恵みはなおいっそう満ちあふれました」との信仰に立つことこそ、罪の増殖に打ち勝つ唯一の手立てなのです。主イエス・キリストが十字架と復活の御業を成し遂げられたことを信じることです。なぜなら、「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ1:16)ということなのですから。
その神からの「恵み」については、Ⅲ.で、どのように詩編の中で展開されているのか、見ることにします。その前に、この世に生きる詩人の赤裸々な罪の告発を経由することにしましょう。「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)を持つ人こそ、賛美の達人なのです。
Ⅱ 君侯に依り頼んではならない
詩編146:3-4――
以上のように、詩人はわたしたちを悔い改めに導くために警告しました。絶妙なのは、罪深い「人間」の代表として「君侯」を例示していることです。というのも、社会的地位の高い「君侯」はしばしば、欲望や高ぶりの罪を犯し、周囲の「人間」に悪影響を及ぼすからです。
彼らは他の人々が自分に「依り頼んで」くるように振る舞います。欲に駆られた人々は、彼らが偽善者であることを見抜けません。そのようにして、「君侯」は神信仰をないがしろにし、民を偶像崇拝に走らせます。主への讃美よりも、自画自賛によって栄華を築き上げようとします。
それに対して、詩人はどんな「人間」にも「救う力はない」と宣言しています。主なる神が現される「救う力」とは、どのようなものであるかは、この詩編の後段で歌い上げられます。
ここでは、諺風に、「霊が人間を去れば 人間は自分の属する土に帰る」と述べるにとどめています。この句を簡潔に説明すると、こうなります。
主なる神は、「人間」(アダム :3)の鼻に命の息を吹き入れられました。こうして、人は生きる者となりました。しかし、「人間」が息を引き取って死ぬと、「自分の属する土(アダマ :4)に帰り」ます。「人間」(アダム)が「土」(アダマ)に属するというのは、もともと主なる神が土の塵で人を形づくられたからです(創世記2:7)。
人間に「依り頼んではならない」のは、人にはそのようなはかなさがあるからです。それに加えて、詩人は「その日、彼の思いも滅びる」と告知しています。
「彼の思い」には、踏み越え得ない限界があるということです。悪しき「思い」が「滅びる」のはもちろんのこと、人の善い「思い」も死によって永遠に中断されます。
詩人は、神によって救われるべき者として御前に立っています。「君侯」の欲望や高ぶりなどを、我が事として、人生の日々を顧みています。「塵にすぎないお前は塵に返る」(創世記3:19)というはかなさを見つめて、ひたすら神に「依り頼もう」としています。
詩人は人並み外れた忍耐や賢さを持っているわけではありません。日々、罪を悔い改め、へりくだって神を礼拝するのは、決して容易なことではありません。「命のある限り」の、その隙間に、慢心や自信過剰が忍び入って来ます。
そのような詩人にとって、賛美のアンソロジー(詞華集)は大きな支えとなります。区切らないで、最後まで一挙に掲げましょう。それによって、わたしの「命」や「生涯」(:2)が、主の永遠に支配されている「代から代へ」(:10)に架け渡されているのが眺められるでしょう。
Ⅲ 主はうずくまっている人を起こされる
詩編146:5-10――
主なるその神を待ち望む人
海とその中にあるすべてのものを造られた神を。
とこしえにまことを守られる主は
7 虐げられている人のために裁きをし
飢えている人にパンをお与えになる。
主は捕われ人を解き放ち
8 主は見えない人の目を開き
主はうずくまっている人を起こされる。
主は従う人を愛し
みなしごとやもめを励まされる。
ハレルヤ。
ここで詩人は「幸いなるかな」の門をくぐりました(詩編1:1、2:12)。後は、まっしぐらに「この道」(使徒9:2)を行くのみです。ここには、「幸いな」のは、どんな人か、言い表されています。
「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」……人生の分かれ道で、「神を助けと頼む」ことを選び取った人が「幸いな」のです。神はあなたが「幸いな」道を進むように招いておられます。
そのようにして、「幸いなるかな」の門をくぐり抜けて人の耳に、賛美のアンソロジー(詞華集)が聞こえてきます。それは、「主なるその神を待ち望む人」に贈られるにふさわしいものです。順に賛美を読んでいきましょう。
「天地を造り 海とその中にあるすべてのものを造られた神を。とこしえにまことを守られる主は」……詩人はまず、創造主なる神をほめたたえています。「天地を造られた」神が「とこしえにまことを守られる」ということで、広大無辺な時空間を造られた神とその御業を指し示しています。
「すべてのものを造られた神」だからこそ、安んじて「わたしの命」(:2)を託すことができます。パウロは、「満腹していても、空腹であっても、物が有り余っていても不足していても、いついかなる場合にも対処する秘訣を授かっています」(フィリピ4:12)と述べています。ここには、詩人と同様に、「わたしの命」を造り、救い、そして保ってくださる神への信仰が告白されています。
ところで、賛美のアンソロジー(詞華集)とご紹介した通り、この6節から9節までにわたって、詩人は神をほめ歌っています。詩の文体も整然と、動詞の分詞形や形容詞の複数形が並べられて、暗誦しやすくなっています。要するに、
主なる神は、 ① 天地を造り、② まことを守り、③ 虐げられている人のために裁きをし、
④ 飢えている人にパンを与え、⑤ 捕らわれ人を解き放ち、⑥ 目の見えない人の目を開き、
⑦ うずくまっている人を起こされ、⑧ 従う人を愛し、⑨ 寄留の民を守る
というように、連続しています。
このように基本的に、主なる神の憐れみ深さが、数々の御業を通して描かれています。これらの中から一つ、⑦の「主はうずくまっている人を起こされる」に焦点を当てましょう。
人はしばしば、つまずいたり、倒れたりします。自分の不注意で、怪我したりもします。一般的には様々なケースが想定されますが、詩人が注視しているのは、罪の重荷に耐えきれずに「うずくまっている人」だと思われます。
その上で、ここでは、「主はうずくまっている人を起こされる」との預言が主イエス・キリストにおいて成就したとの観点から読み解きましょう。
ヨハネ福音書8:6-8――
6 イエスを試して、訴える口実を得るために、こう言ったのである。イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。7 しかし、彼らがしつこく問い続けるので、イエスは身を起こして言われた。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」 8 そしてまた、身をかがめて地面に書き続けられた。
「姦通の現場で捕らえられた女」(ヨハネ8:3)はまさに罪の重荷に耐えかねる情況にありました。彼女は死刑に処せられる大罪を犯してしまいました(レビ記20:10)。
そこは、神殿の境内で、律法学者たちやファリサイ派の人々が見守っていました。その時、「イエスはかがみ込み……そしてまた、身をかがめ」られました。そのようにして主イエスは徹底して、罪の重圧に苦しんでいる人に寄り添われました。
それから、人間の罪すべてを背負われる主イエスが「身を起こして」、立ち上がられました(ヨハネ8:10)。罪を赦す愛の御業によって、女は解放されました。ここに、「主はうずくまっている人を起こされる」との預言が成就しました。
さて、数々の御業を通して、主なる神の憐れみ深さを訴える詩の最後の部分を確かめておきましょう。
「しかし主は、逆らう者の道をくつがえされる」……皆さんもお気づきのように、「逆らう者」は「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」とは対照的な行く末が待ち構えています。「逆らう者」のようになってはならないと、釘が刺されています。何と行き届いた賛美なのでしょうか。
そして、賛美は流麗に変奏されつつ、初めに回帰します。
「主はとこしえに王。シオンよ、あなたの神は代々に王。ハレルヤ」……変奏と言ったのは、「わたし」は背景に退いて、「ハレルヤ、主を賛美せよ」が前面に出ているからです。
そして、被造物全体を代表する「シオン」(都エルサレム)が、「王」として天地を「とこしえに」支配される神をほめたたえるよう呼びかけています。
この詩編146編・最終節の預言も、主イエス・キリストにおいて成し遂げられました。
マタイ福音書21:5 主イエスのエルサレム入城――
「シオンの娘に告げよ。
『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、
柔和な方で、ろばに乗り、
荷を負うろばの子、子ろばに乗って。』」
主イエスは「王」としてこの地上に遣わされました。そして、「うずくまっていた」シオンの娘、哀れなる女が「起こされ」ました。この出来事は信仰者たちに、「ハレルヤ」から「ハレルヤ」へ、歌う力を注ぎ入れるに違いありません。賛美している信仰者たちの中心には、主イエス・キリストがおられます。
ここで、本日取り上げた新約のテキスト・Ⅰペトロ4:6と詩編146編とのつながりをお話しします。
詩編146編では、「ヤコブの神を助けと頼み 主なるその神を待ち望む人」と「君侯」・「人間」(アダム)・「逆らう者」とが対照的に描かれていました。両者の相違は、「霊」において生きるのか、それとも、「肉」において生きるのか、にあると言えます。
一方、「霊」の人はキリストの「霊」の支配にあずかっています(ローマ8:9)。その中心点は、とりもなおさず、主イエス・キリストの十字架と復活、神の愛・正義・希望を信じているということにあります。他方、「肉」の人は罪に売り渡されています(同上7:14)。彼らの欲求や誇りは決して充足されません。とどのつまり、彼らは現状に対する不安や死への恐怖によってがんじがらめになっています。
驚くべきことに、福音によれば、この世の生涯において、「霊」において生きた人のみならず、「肉」において生きた人も、主イエス・キリストの宣教の対象であるとされています。
「肉」において生き死んだ人がなお、主イエス・キリストの救いにあずかり得るとは、どういうことなのでしょうか。もしそうだとすれば、とこしえに至るまで賛美される主の御業は、まことにわたしたちには測り知り得ないものであります。
Ⅳ 霊において神によって生きる
死んだ者にも福音が告げ知らされたのは、彼らが、人間の見方からすれば、肉において裁かれて死んだようでも、神との関係で、霊において生きるようになるためなのです。
少し内容が理解しづらいと思います。これと並行する聖句を挙げましょう。
ペトロの手紙 一 3:19――
そして、霊においてキリストは、捕らわれていた霊たちのところへ行って宣教されました。
すなわち、「肉において裁かれて死んだ」人=「捕らわれていた霊たち」であると分かります。キリストは、「肉において裁かれて死んだ」人のところ、つまり、陰府にまで下って、今も福音を宣べ伝えておられます。キリストの「霊」の支配は、そこにまで及んでいるのです。畏れ多いことです。
これもまた、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」……(Ⅱコリント12:9)ということを立証しています。
「捕らわれていた霊たち」とは、この世にいる間に救われなかった人間を指しています。彼らは、キリストを知らずして「死んだ」人、あるいは、数々の罪を犯して「肉において裁かれて死んだ」人に属しています。
ということは、詩編146編における「神を助けと頼む人」と「君侯」・「人間」(アダム)・「逆らう者」との区分が、主イエス・キリストの宣教によって打ち破られたということです。しかし、キリストの「霊」の支配または聖霊の導きに依り頼む人が、「霊の人」(Ⅰコリント2:15)が「幸いな」のは変わりありません。
なぜなら、「ハレルヤ、主を賛美せよ」との呼びかけに答えて、生涯を全うしたキリスト者こそ、「幸い」だからです。人生、山あり谷あり、「ハレルヤ」がこだまするように、歓喜と感謝をもって歩んで行きましょう。
W
〈説教の要約〉
主日礼拝 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
マタイによる福音書14:22~33
神奈川教区・巡回教師 貴田寛仁
「ペトロの信仰」要約
ここに登場するペトロは私にとってはペテロと云う方が馴染み深い名前です。イエス様は神様と同様の存在ですから、聖書の登場人物の中で、最も好きな人物です。この聖句では、弟子たちは、イエス様と別れて、弟子たちだけで、舟に乗り、湖の向こう岸に向かっている途上の出来事です。弟子たちは、一晩中風と波とに翻弄されて、岸辺から1キロメートル位の所にいます。夜明けごろ、弟子たちは、湖の上を歩いて来られたイエス様と出会います。私がペトロを好きな理由の一つですが、イエス様と出会えた安心からか、ペトロは舟から少し離れたところにおられるイエス様に、湖の上を歩いて、イエス様の下に行かせて欲しいと頼みます。そして、イエス様はそれをお許し為さいます。しかし、ペトロらしいのは、強い風に気が付いて、溺れそうになります。私がペトロの信仰が素晴らしいと思うのは、「主よ、助けてください」と叫べる事です。その時、イエス様はしっかりと、ペトロを掴んでお助け為さいます。1枚の絵画が有ります。私はその絵葉書を手作りの額縁に、入れた物を、母教会の牧師から頂きました。額縁に貼り付けて有るので、その絵画の題も、作者も、分かりません。この場面を描いたものですが、イエス様が腰まで沈んだペトロの腕をしっかりと掴んで居られます。ペトロは何も掴んで居ません。イエス様が私たちを支え、助けて下さる時も同様だと思います。私たちも、ペトロの様に、全てをイエス様に委ねれば、良いのです。私たちがそうした時、イエス様が私たちをしっかりと掴んで下さいます。しばしば、この小舟は、強風と荒波の中に有る教会に譬えられます。今、日本基督教団の教会は高齢化が進み、教会で、若者を見る事が少なくなりました。今がイエス様に全てをお委ねして、ペトロの様に、「主よ、助けてください。」と叫ぶ時です。
〈説教の要約〉
2024年 10月6日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第21主日
旧約聖書 エレミヤ書 15章18節(P.1206)
新約聖書 マルコによる福音書 5章21節~34節(P.70)
説 教「娘よ、あなたの信仰があなたを救った」 小河信一牧師
説教の構成――
序
……マルコ5:21-24
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
……マルコ5:25-26
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
……エレミヤ書15:18
……マルコ5:27-29
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
……マルコ5:30-31
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。安息日に会堂に入ったり(マルコ1:21、3:1-2)、人家に招かれたりして(同上2:1、3:20)、神の教えを説いておられました。その上、今読んでいるテキスト(マルコ4:35-5:43)に出てくるように、風や湖を従わせる奇跡、悪霊の追放、そして病気のいやしを行われました。
主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をくり返されました。それは取りも直さず、主イエスがどのようなお方であるか、を示すためでありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と出合い会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。主イエスは、12歳の少女のいやしと12年間出血を患っている女のいやしとに向き合われています。一体、主イエスはどのように、緊急事態中の緊急事態に対応されるのでしょうか?
わたしたちの関心は、危篤状態の人(マルコ5:23)が助けられるか否か、に向いてしまいがちです。しかし、くり返しますが、主イエスがどのようなお方であるかを、“ 霊 ” によって見て、知って、信じることが大切なのです。
Ⅰ イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると
マルコ福音書5:21-24――
21 イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると、大勢の群衆がそばに集まって来た。イエスは湖のほとりにおられた。22 会堂長の一人でヤイロという名の人が来て、イエスを見ると足もとにひれ伏して、23 しきりに願った。「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう。」 24 そこで、イエスはヤイロと一緒に出かけて行かれた。大勢の群衆も、イエスに従い、押し迫って来た。
時系列をたどると、「その日の夕方になって、イエスは、『向こう岸に渡ろう』と弟子たちに言われた」(マルコ4:35)というゲラサ地方の伝道を終えて再び、ということになります。
ですから、ここで「イエスが舟に乗って再び向こう岸に渡られると」というのも、「夕方」のことかも知れません。いずれにしても、「一日が夕方から始まる」(創世記1:5)という時に、主イエスは驚くべき御業を成し遂げられます。そうして、湖畔の闇のただ中に、神の栄光が灯されます。
「大勢の群衆がそばに集まって来た」という雑踏を掻き分けて、「会堂長の一人でヤイロという名の人」が主イエスのもとにたどり着きます。そして、主イエスを見て、言いました……「わたしの幼い娘が死にそうです。どうか、おいでになって手を置いてやってください。そうすれば、娘は助かり、生きるでしょう」。
ヤイロは苦悩のどん底に置かれています。闇の中に、ひと筋の希望を見出そうとしています。「足もとにひれ伏して、しきりに願った」という主イエスへの信頼が、今のヤイロを支えていました。
湖畔の道端からヤイロの家へ……一刻の猶予も許されません。主イエスは、12歳の「娘が死にそう」な緊急事態を受け止められ、「ヤイロと一緒に出かけて行かれ」ました。「大勢の群衆も、イエスに従い」つつ、その後を追いました。
そのようにして、緊張がますます高まっていく中、マルコ福音書はもう一人の、病を負った女の存在を告げます。何もこんな時に出て来なくてもと、邪魔者扱いされそうですが、その女の事情が丁寧に描き出されます。
Ⅱ ここに十二年間も出血の止まらない女がいた
マルコ福音書5:25-26――
25 さて、ここに十二年間も出血の止まらない女がいた。26 多くの医者にかかって、ひどく苦しめられ、全財産を使い果たしても何の役にも立たず、ますます悪くなるだけであった。
この女は病を負い、傷つき苦しんでいました。また、孤独であったに違いありません。というのも、モーセの律法に「男女の漏出による汚れと清め」との規定があったからです。すなわち、「25 もし、生理期間中でないときに、何日も出血があるか、あるいはその期間を過ぎても出血がやまないならば、その期間中は汚れており、生理期間中と同じように汚れる。26 この期間中に彼女が使った寝床は、生理期間中使用した寝床と同様に汚れる。また、彼女が使った腰掛けも月経による汚れと同様汚れる。27 また、これらの物に触れた人はすべて汚れる。その人は衣服を水洗いし、身を洗う。その人は夕方まで汚れている」(レビ記15:25-27)と指示されていました。
ということは、「十二年間も出血の止まらない」というその期間、彼女は町や村の共同体から遠ざけられる存在であったということです。独りで苦しみに耐えるしかありませんでした。人前に出ることさえ憚られました。
しかし、果敢にも彼女は病と闘いました。「直りたい」との気持ちを捨てなかったのです。それにもかかわらず、「多くの医者にかかって……全財産を使い果たしても……」、病はいやされませんでした。モーセの律法が、病身の彼女にのし掛かっていました。「その期間中は汚れている」以上、祭司はじめ衆人環視のもとに置かれていました。
そんな女のもとに、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)という宣教をされているお方のうわさが入って来ました。聞けば、舟に乗って湖畔の群衆にたとえを話したり、また、通りがかりに様々な人々に語りかけている(マルコ1:16,19、2:14、4:1-2)ということです。ガリラヤの自然のように、心の広いお方であると、彼女は思ったかも知れません。
「十二年間も出血の止まらない女」がどんな行動に出たかを見る前に、哀しみを知る人エレミヤの苦悩について説き明かしましょう。なぜ、エレミヤは「負わされた傷は膿んで悪臭を放ちます」(詩編38:6)というほどに、苦汁をなめなければならなかったのでしょうか。神はエレミヤを見捨てられたのでしょうか。
Ⅲ 何故にわたしの痛みは絶え間なく続くのか
エレミヤ書15:18――
これは、「エレミヤの訴え」と呼ばれているテキストの一節です。エレミヤは「あなた」なる神に対峙しています。実際、直後の19~21節には、エレミヤへの主の返答が記されています。
最大の問題は、神に「諸国民の預言者」として立てられ聖別されたエレミヤ(1:5)がどうして苦悩のどん底に落ち込んでいるのか、ということです。神に遣わされているならば、「わたし(預言者)は力と主の霊 正義と勇気に満ちている」(ミカ書3:8)はずなのに、何とエレミヤは情けないことかと、あなたは思われるでしょうか。
預言者の苦悩……それは、安楽椅子に座っている学者の理論では知り得ないものがあります。旧新約聖書が描き出す預言者や伝道者の姿はリアリティそのものです。そこには、神と民衆との間に立っている葛藤、あるいは、人間の不信仰や絶望を垣間見ている恐れと憂いなどによって、彼らはしばしば憔悴・衰弱することがあります。
預言者が群衆に、神の愛と義を唱えれば、一部の者から罵声を浴びせられます。彼らは自己中心であり、自分の生活を変えられたくないからです。
コリントの信徒への手紙 一 2:3――
(わたしが)そちら(あなたがたのところ)に行ったとき、わたしは衰弱していて、恐れに取りつかれ、ひどく不安でした。
パウロは自分を「あなたがた」にぶつけています。自分をさらけ出しています。パウロはコリント教会の、少なくとも一部の人々が知っている事実を元に訴えています。というのも、(この手紙を書くおよそ2年前)パウロは1年半ほどコリントにとどまって伝道していたからです(使徒18:11)。
しかし、パウロの打ち明けた「衰弱・恐れ・ひどい不安(おののき)」に驚いた人が多かったでしょうか。これはある意味、真の「キリスト・イエスの僕」には避けられない体験でありました。それほどまでに、パウロはコリントで、神の言葉を教え、身を粉にして働いたのです。
さて、エレミヤに、ひいては、「十二年間も出血の止まらない女」に話を戻しましょう。
エレミヤは、「わたしの痛み」と「わたしの傷」を、「わたしを裏切り 当てにならない流れのようになった」かに見える神に訴えました。ここで、注解者のC.ヴェスターマンは、「エレミヤは徹底的に神に抵抗した。このように止めようのない痛みの中から、エレミヤは鋭い言葉で神を告発する。大切なことは、たとえ神に対する告発であったとしても、その言葉が神に向けて語られた言葉であった、という点である」と述べています。
従って、「十二年間も出血の止まらない女」が救われるかどうかは、彼女が主イエスの御前に自分を包み隠すことなく、主に依り頼むかどうか、に掛かっています。「やむことない痛み」と「重くて、いえない傷」に屈することなく、慈しみに満ちた神からの答えを待ったエレミヤは、間違いなく彼女の先駆者たる人物です。果たして、人を隔離に追いやるモーセの律法を乗り越えて、彼女は主イエスと対面することができるのでしょうか?
マルコ福音書5:27-29――
27(彼女は)イエスのことを聞いて、群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの服に触れた。
28 「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからである。29 すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた。
「イエスのことを聞いて」との一句によって、主イエスに対する彼女の期待が分かります。願わくば、仮に彼女の期待通りに行かなくても(参照:たといそうでなくても / but if not ダニエル書3:18)、主イエスに従い続けることです。そうすれば、やがて彼女の期待は、主イエスへの信仰に変えられます。
「群衆の中に紛れ込み」……幸いにも、主イエスに押し迫るほどの群衆が、彼女の隠れ蓑となりました。そして、彼女は「後ろからイエスの服に触れ」ました。
実は、イスラエル人の男子の衣服には「四隅に房が縫い付けられて」いました(民数記15:38)。主イエスの服に「房」が付いていたかどうかは不明ですが、聖なる「房」に触れるようにして、女は主イエスの御力にあずかりました。本来、律法には、「あなたたちが房を見るとき、主のすべての命令を思い起こして守り、あなたたちが自分の心と目の欲に従って、みだらな行いをしないためである」(同上15:39)と規定されています。
女はおそらく、「服の房をただ見ているだけ」という律法を知らなかったのでありましょう。しかし、「イエスのことを聞いて」、それが動機となって彼女は主イエスとの交わりを乞い願いました。群衆の誰かに、正体が気づかれれば、外に引きずり出されてしまいます。「去れ、汚れた者よ」、「去れ、去れ、何にも触れるな」(哀歌4:12)と。
彼女は一縷の望みを「後ろからイエスの服に触れる」ことに託しました。というのも、「この方の服にでも触れればいやしていただける」と思ったからです。雑踏の中、彼女は決死の覚悟で、主イエスに近づきました。そうして、「イエスの服に触れる」ことができました。
「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」……彼女の「いやしていただく」との願いは「すぐに」聞かれました。それはあたかも、「十二年間も出血の止まらない女」が祈る先から、神が彼女の願いを聞き届けておられたかのようです(マタイ6:8、イザヤ書65:24)。「すぐに」いやされた女から、「すぐに」気づかれた主イエスへと、焦点が切り替えられます。それによって、主イエスと女の出会いは揺るぎないものとなります。
Ⅴ イエスは自分の内から力が出て行ったことに気づいた
マルコ福音書5:30-31――
30 (そして)イエスは(すぐに)、自分の内から力が出て行ったことに気づいて、群衆の中で振り返り、「わたしの服に触れたのはだれか」と言われた。31 そこで、弟子たちは言った。「群衆があなたに押し迫っているのがお分かりでしょう。それなのに、『だれがわたしに触れたのか』とおっしゃるのですか。」
主イエスは、御自身の服に触れ、「すぐに」いやされた女に、「すぐに」気づかれました。なぜなら、「自分の内から力が出て行った」からです。わたしたちの信仰において、神ならびに主イエスの「力」を受けるというのは、とても大切です。
コリントの信徒への手紙 一 2:5――
それは、あなたがたが人の知恵によってではなく、神の力によって信じるようになるためでした。
ルカ福音書6:19――
(ユダヤ全土とエルサレムから、また、ティルスやシドンの海岸地方からやって来た)群衆は皆、何とかしてイエスに触れようとした。イエスから力が出て、すべての人の病気をいやしていたからである。
「神の力」が主イエスを通じて、人々に分かち与えられます(Ⅱコリント12:9)。「イエスから力が出て」、現実に病気のいやしや悪霊祓いが成し遂げられます。その御業にあずかった者は、「体に感じた」と証言しています(マルコ5:29)。何よりも、「イエスから出た力」は、神ならびに主イエスと信じる者との交わりを強めます。
使徒パウロが述べている「神の力によって信じるようになる」との言葉は、それを実証しています。すなわち、「神の力」によって、わたしたちの生活はひっくり返されます。「神の力」の影響が、わたしたちの生活の隅々にまで及びます。“霊”と力 の働きに押し出されて、わたしたちは善い業に励むようになります(Ⅰコリント2:4、コロサイ1:10)。
ところで、主イエスの弟子たちは、「後ろから」忍び寄って来た女の存在に気づいていません。それは、主イエスの問いへの答え、「それなのに、『だれがわたし(イエス)に触れたのか』とおっしゃるのですか」から分かります。彼らの視界には、病を負って苦しんでいた孤独な女が入っていません。
その時の情況を踏まえて、その理由を二つ挙げましょう。
①「幼い娘が死にそうな」ヤイロの家に急いでいたから。
②「群衆があなた(イエス)に押し迫っている」ので、必死に主イエスを護衛していたから。
このように弟子たちの内心を探ってみると、主イエスの態度との違いが明らかです。
主イエスは、助けを求めてきた一人に心を配られました。そして、緊急事態においても、〈中断する〉のを厭われませんでした。つまり、遮二無二に前へ前へ、というのではなく、とどまる必要がある時には、休止されました(マルコ1:35、3:9)。主イエスは神の栄光を現すために、〈中断する〉勇気を持っておられたということです。
そこで主イエスは、〈途上〉の緊急事態に立ち向かわれました。この場面でいえば、大群衆の中に、「わたしの服に触れたのはだれか」、探し出そうとされました。
Ⅵ 娘よ、あなたの信仰があなたを救った
マルコ福音書5:32-34――
32 しかし、イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた。33 女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した。34 イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」
「イエスは、触れた者を見つけようと、辺りを見回しておられた」……この主イエスの様子は、「見失った羊のたとえ」の一節を思い起こさせます。
ルカ福音書15:4――
「あなたがたの中に、百匹の羊を持っている人がいて、その一匹を見失ったとすれば、九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回らないだろうか。」
わたしたちが真に主イエス・キリストに出会うためには、羊飼いなる主によって「見つけ出され」ねばなりません。なぜなら、主イエス・キリストによって、自分が「救われる」ことが出会いの原点だからです。
そうして自分が「救われる」ならば、「羊のために命を捨てる」、慈しみ深いお方(ヨハネ10:11)につながれます。逃げ出したり、隠れたりしてはなりません。
「出血が止まって病気がいやされた女」の場合は、どうだったでしょうか。
「女は自分の身に起こったことを知って恐ろしくなり、震えながら進み出てひれ伏し、すべてをありのまま話した」……驚き、恐れ、恥じらいなど、いろいろな感情が入り交じっているように思われます。注目すべきは、「進み出てひれ伏し」と「すべてをありのまま話した」との二点であります。
悪霊に取りつかれていたゲラサの男も、「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し」ました(マルコ5:6)。「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。
これは、主イエスの招きに対する、「救われた」者の感謝をもっての応答です。「すべてをありのまま話す」という姿勢が保持されていれば、きっとこの人は、神に何でも打ち明ける祈りの生活に入っていくことでしょう。
自分の「ありのまま」というのは、神によってひっくり返されることと矛盾するのではないか、と問われるでしょうか。それは善い質問です。その答えを導き出すには、「ありのまま」の原意は「真実」(アレーセイア)であることを知らねばなりません。
つまり、神の「真実」がわたしたちの体験し生活している「ありのまま」を支配しているということです。従って、神の「真実」が、自分の固執している「ありのまま」、あるいは、ねたみと争うに満ちた「ありのまま」を変えることがあります。そうであってもまずは、この女性のように、「すべてをありのまま話す」ことが大切です。
最後に、序.で確認した、主イエスの宣教の基本線に立ち返りましょう。すなわち、主イエスは弟子たちはじめ民衆に向かって、①〈初めに〉罪の赦しを教える(マルコ2:5、3:28)⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす (マルコ2:11-12、3:5)との宣教をくり返していたということです。
「十二年間も出血の止まらない女をいやす」というのは、緊急事態中の緊急事態、〈途上〉で惹き起こされた出来事です。急ぎがちになるような〈途上〉においても、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのでしょうか?
イエスは言われた。「娘よ、あなたの信仰があなたを救った。安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい。」……というように、病気のいやしの物語は結ばれています。
結論的にいえば、主イエスはいつもと変わらない伝道の姿勢を貫かれたのか、に対する答えは、「はい、その通り。基本線が明確に確認できます!」ということです。
そこで、「①娘よ、あなたの信仰があなたを救った⇒②安心して行きなさい。もうその病気にかからず、元気に暮らしなさい」との主イエスの言葉の配列に着目してください。
初めに、①あなたは主イエス・キリストを信じる、そして次に、②あなたは主にあって平安と健康を享受する、という流れになっています。
確かに、時系列上は、「すると、すぐ出血が全く止まって病気がいやされた」(②の治癒 マルコ5:29)が先行しているように見えます。しかし、さかのぼるべき出発点は、「(彼女は)イエスのことを聞いて」(同上5:27)という事実にあります。つまり、彼女は人づてであれ、主イエスによって伝道されていたのであります。彼女がすでに、「たとえの連続公開講座」(マルコ4:1-32)の興味深い話、あるいは、人の罪を赦すという福音(同上2:10、3:28)を「聞いて」いたとしても不思議ではありません。
そのような一人の女性が、「振り返られた」主イエスのまなざしの中に置かれています(マルコ5:30)。そして彼女は、主イエスの御前に「ひれ伏して」います。主は親しみを込めて、その女に「娘よ」と呼びかけられました。ふたりの関係は、「あなたの信仰」によって堅く結ばれています。
この女性はこれから将来にわたり、健康はじめ、すべてのものが神から与えられる(Ⅰコリント4:7)という幸いな人生を送ることになります。
ローマの信徒への手紙11:36――
すべてのものは、神から出て、神によって保たれ、神に向かっているのです。栄光が神に永遠にありますように、アーメン。
W
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月報9月号
説教 『 風はやみ、すっかり凪になった 』
マルコによる福音書 4章35節~41節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう ……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか ……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,
10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も
一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、
わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、
わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この
光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への
信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これは
まさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせ
られる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
W
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〈説教の要約〉
2024年 9月29日
聖霊降臨節 第20主日
旧約聖書 イザヤ書 55章1節~5節(P.1152)
新約聖書 ヨハネによる福音書 4章13節~14節(P.169)
説教の構成――
序
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
……イザヤ書55:3後半-4
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
……イザヤ書55:5
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
……ヨハネ4:13-14
序
主イエス・キリストの十字架と復活の力によって、わたしたちの人生や考え方はひっくり返されます。そして、ひっくり返されると、どうなるかと言えば、神の祝福が大河のように押し寄せてきます。
天からの祝福の流入を、「遠慮」や「独占」によって堰き止めるのは止めましょう。自分の飢え渇きをもって祝福にあずかりましょう。「貯めておこうか」と思うときには、隣の人に分かち与えましょう。
このような姿勢を取るのは、意外に難しいことかも知れません。では、あるがまま、で良いでしょうか、と問われるでしょうか? ハイと言いたいところですが、あるがままだと、大概、自分に、つまり自分の欲望や誇りに力が入ってしまうことでしょう。そこで、パウロはあるべき信仰者の姿を、心を開いて「霊で賛美の祈りを唱えている」(Ⅰコリント14:16)というように提示しました。祈りをもって天を仰いでいる、賛美して喜んでいる……すでに多くの方が知っておられた通りのことです。
ここで、このような前置きを書いている理由を要約しましょう。すでに触れていることなのですが……。
それは、神の祝福が圧倒的な勢いで、主イエス・キリストを信じ、聖霊によって導かれているわたしたちの生活の隅々にまで流れ込んでくることを、心に刻んでおくということです。そしてそのことを、実体験するために、第二イザヤが描出している神の祝福の奔流に身心を浸してみましょう、ということなのです。
そこで、アラムの軍司令官ナアマンの轍を踏まないようにしましょう。神の人エリシャは、使いの者を通して、ナアマンに「ヨルダン川に行って七度身を洗いなさい。そうすれば、あなたの体は元に戻り、清くなります」(列王記下5:10)と命じました。しかし、大の大人がだだをこねて、家臣に、「イスラエルのどの流れの水よりもダマスコの川アバナやパルパルの方が良いではないか。これらの川で洗って清くなれないというのか」(同上5:12)と言い返しました。そのように憤慨したナアマンは、身を翻して立ち去りました。
神の癒やしにあずかるのも、神から祝福をいただくのも、同じことです。自分の欲望や誇りには、力が入りやすいので警戒しましょう。幸い、ナアマンの周りには、率直に助言してくれる家来たちと、重い皮膚病を患った人を憐れんでいる神の人エリシャとがおりました。ナアマンは彼らによって、神の御前にへりくだるように導かれました(列王記下5:14)。
それでは、さあ、「霊で賛美の祈りを唱えている」との心備えをもって、第二イザヤの最終章を読みましょう。イザヤ書55:1-5は基本的に、主なる神がイザヤを通して、イスラエルの民にメッセージを告げるという形になっています。
Ⅰ ああ、渇いている者は皆、来なさい
1 (ああ)渇きを覚えている者は皆、水のところに来るがよい。
聞き従って、魂に命を得よ。
新共同訳では訳出されていませんが、冒頭の「ああ」との嘆きを聞き逃さないようにしましょう(他にイザヤ書45:9,10)。というのも、その一句の内に、悲惨な民のただ中に身を沈められる神が表されているからです。主なる神は、災いから立ち直れない民と共におられます。神は時に厳しく、時に優しく、一人ひとりに寄り添っておられます。
主なる神は、民が立ち直るために必要なものを差し出されています。飢え渇いている者に、「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が無償で与えられます。「銀を持たない者も」、「銀を払うことなく」、そして「価を払うことなく」というように、3回もそれらがただであると強調されています。
悲惨のうちにあるイスラエルの民が悟るべきは、神の恵みの豊かさであります。わたしたちは、「水」や「穀物」が安定供給される様を見て、永遠に神の恵みが満たされるということを知らねばなりません。「水」、「穀物」、「ぶどう酒」、そして「乳」が不足しそうだと不安になるときにも、「ああ」と嘆いて、民に寄り添う神を信頼することです。
無償の恵みを受け取りなさいとの招きに続いて、神は民に忠告を与えています……「なぜ、糧にならぬもののために銀を量って払い 飢えを満たさぬもののために労するのか」。いくら神が助けの御手を差し伸べても、民が過ちを認め、立ち直ろうとしなければ、先に進みません。
ここで、「糧にならぬもの」と「飢えを満たさぬもの」というは、一体何を指しているのでしょうか?
イザヤの預言からは、「剣」(=戦争の象徴 イザヤ書51:19)、「よろめかす杯」(=暴飲 同上51:22)、無用な「搾取」(=弱者を苦しめる貧困 同上52:4)などが挙げられるでしょう。また現代社会においても、「糧にならぬもの」ために、一部の人々はお金を浪費し自ら堕落する一方で、その隣人は飢餓により死線をさ迷っているということが起こっています。
この世の生活の中で、「水」や「穀物」のことが気にかかるのは分かります。実際、イスラエルの民は荒野放浪を始めた途端に、「あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに」と不平を鳴らしました(出エジプト記16:3)。この愚痴を小耳に挟まれた神(同上16:4、マルコ5:36)は、「見よ、わたしはあなたたちのために、天からパンを降らせる」と告知されました。神は速やかに、人間の「ああ」(イザヤ書24:16、29:15)との嘆きに対処されました。
わたしたち・信仰者には、神と隣人を愛し、被造世界を保持していく務めが与えられています。その中で「銀を量って払い、労する」という生活が営まれます。誘惑の多いこの世で、一体何のために、「銀を量って払い、労する」のか、真剣に祈り求めることが大切です。
主なる神は、飢え渇いている者への語りかけを、招きから忠告へ、それから勧めへと展開していきます。
勧めの中心点は一目瞭然です……「わたしに聞き従えば」、「耳を傾けて聞きなさい」、そして、「聞き従いなさい」。「聞く」べき内容は、イザヤの口を通して宣べ伝えられています。
3回も「聞く」ように勧められているのには、訳があります。それは、民が御言葉を耳にしながらも、「真に聞いていない」、つまり、「聞き従っていない」ことが生じているということです。
それ故に、民の頑なさを見抜いておられる神は、民が「聞き従う」ように厳しく命じられたのです。義しい姿勢は、御言葉を「聞いて」心に納め、行うべきことを行って「従う」ということです。それならば当然、大河のように流れ下って来る神の祝福を堰き止めるようなことはないでしょう。
Ⅱ わたしはあなたたちととこしえの契約を結ぶ
イザヤ書55:3後半-4――
初めに、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」と呼びかけられた、神の〈本気度〉がひしひしと伝わって来ます。神とイスラエルの民との「契約」の特徴が克明に描き出されています。さらに、その「契約」に関して、「わたしは彼を立てた」ことと、その対象の拡大、つまり、「あなたたち」(イスラエルの民)が「諸国民」に拡げられたこととが告知されています。
順に見ていきましょう。まず、「契約」の特徴を二つに分けて……。
神は「ああ」と叫んで、民の困難や堕落に介入されます。神は忍耐強く、預言者を遣わして、民に悔い改めるよう呼びかけられます。人間の側がどんなに「契約」にふさわしくない態度を取っても、神は見放されません。それが、「とこしえの契約」と言われる所以なのです。
ここに、神は “ 霊 ” なる御力をこの世に宿らせ、いつもわたしたちと共におられることが実証されています。神は、具体的・歴史的人物を通して、「とこしえの契約」を結ばれました。「ダビデ」は、争いと妬みに巻き込まれることが頻繁で、罪深い人です。けれども、神は「ダビデ」に油を注いで、イスラエルの国を建て直されました。「ダビデ」のさまざまな働きを、神は陰で支えておられました。
ところで、主イエスは「ダビデの子」と呼ばれています(マタイ1:1、21:9)。主イエスは人の子として、「ダビデ」の家系にお生まれになりました(ルカ2:4)。それはつまり、「(神が)ダビデに約束した真実の慈しみ」が主イエスによって引き継がれ、拡大されたことを示しています。
神がイスラエルの民と結ばれた「契約」は、「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえ」なるものとなりました。
次に、「かつてわたしは彼を立てて諸国民への証人とした」との真意をつかみ取りましょう。
第二イザヤは、神が「彼を立てた」が故に、「契約」が確固たるものとなった、と述べています。それでは、一体「彼」とは誰なのでしょうか?
それは、第二イザヤが42章から53章にわたり預言してきた「わたしの僕」(イザヤ書52:13)、すなわち、苦難の僕であります。挫折と回復が交錯するような時代に、四つの僕の詩は歌い上げられました。そして、それらは、イスラエルの民が、ユダ王国崩壊とバビロン捕囚という大災難から、茨の道を経て、立ち上がっていくときの、信仰の原動力となりました。
そうしたことを踏まえて、第二イザヤは最終章で、「かつてわたしは彼〈苦難の僕〉を立てて諸国民への証人とした」と総括したのです。もはや、神の「真実の慈しみ」、祝福の奔流は現実のものとなります。その顕著な現れこそが、「わたしの僕」が人々の「罪すべて負い」(イザヤ書53:6,11)、その罪と過ちから救い出すということです。「諸国民」がその喜びの知らせにあずかるというのは、なんと幸いなことでしょう。それは、神が人々に「見よ!」(ヘブライ語:)と呼びかけるほどに、画期的なことであります。
神は、今なお「背いている者たち」を見捨てられません。「(主の僕は)背いた者のために執り成しをした(原文:執り成しをするであろう)」(イザヤ書53:12)との言葉は文字通り、神の約束です。なぜなら、その約束は主イエス・キリストによって成し遂げられるからです。
Ⅲ 見よ、あなたは知らなかった民に呼びかける
イザヤ書55:5――
あなたを知らなかった国は あなたのもとに馳せ参じるであろう。
あなたに輝きを与えられる イスラエルの聖なる神のゆえに。
前詩行と並行して、導入句「見よ!」(ヘブライ語:ヘン)が置かれています。「あなた」、すなわち、神の民は皆、じっくりとご覧なさい、ということです。そこには、「神の国」を予兆するような、出来事が繰り広げられています。
神の民として結集した「あなた」には、人の思いをはるかに超える形で、神の恵みが与えられています。これまでに挙げられた神の恵みには、圧倒されます。初めから整理して並べると……。
「水」・「穀物」・「ぶどう酒」・「乳」、そして、「善良」と「豊潤」(イザヤ書55:2)、あなたたちの「魂」と「命」、さらには、「とこしえの契約」と「指導者」なる「彼」(わたしの僕)がイスラエルの民と諸国民に与えられました。そして今、それらものは、わたしたち、「キリストに結ばれている者」(ローマ16:22)に、無償で授けられると約束されています。
このような神の恵みによって充足された「あなた」に、次なる展開が起こります。立ち直った「あなた」が今度は、「兄弟姉妹を力づけてやりなさい」(ルカ22:32)ということです。
親しい「兄弟姉妹」の範囲が、「あなたの知らなかった国」まで拡げられました。「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との神の招きがすでに、はるか彼方まで届いているかのように、「諸国民」は速やかに応答します。船に乗って海を渡り、あるいは、らくだに乗って砂漠を越えて、彼らは「あなたのもとに馳せ参じて」きます。このようにして、「あなたたちの魂はその豊かさを楽しむであろう」(同上55:2)との預言が成就します。
第二イザヤの最終章・前半は、次の神の預言で閉じられます。ここでは、「神の国」の予兆にふさわしく神の栄光が現されます。
「諸国民」が、「あなた」と呼ばれるイスラエルの民のもとに結集します。その時、「あなたの神である主」は、「あなたに輝きを与えられ」ます。神を信じる者にとって、これ以上の栄誉はありません。わたしたちが神の栄光を帯びるというのは、「土の器のかけらにすぎない」人間(イザヤ書45:9)と神が一つになるためであります(ヨハネ17:22)。
ただし、それは生半可なことではありません。“ 霊 ” によって、一人ひとりが決断しなければなりません。復活された主イエスは、悔い改めたペトロに、「あなたはその死に方で、神の栄光を現すようになる」(ヨハネ21:19)と告げられました。まことに畏れ多いことです。同時に、自分が死ぬ時にも、「神の栄光」が現されるということに、どれほど慰められることでしょうか。
第二イザヤの預言は、主イエス・キリストの行いと言葉によって成し遂げられます。そうしてまさに、神とイスラエルの民との「契約」が、(イザヤの預言上の)「ダビデ」⇒「イエス・キリスト」というつながりによって「とこしえの契約」となることが実証されます。
Ⅳ わたしが与える水を飲む者は決して渇かない
ヨハネ福音書4:13-14――
13 イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。14 しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」
これは、「水」をめぐる主イエスとサマリアの女の会話からの引用です。一読して、イザヤ書55:1-3前半の神の招きと、大差はないと思われるかも知れません。確かに概ね、「渇きを覚えている者は皆、来なさい」(イザヤ書55:1)との呼びかけと符合しています。しかし、先行するイザヤ預言があるからこそ、わたしたちは主イエスにおいて際立っている点を汲み取ることができます。
一方、第二イザヤは「あなたたち」、イスラエルの民に向かって叫びました。他方、主イエスは孤独なサマリアの女に語りかけています。主イエスによってすでに、ユダヤ人と異邦人との垣根は取り払われています。主イエスは「知らなかった国」(イザヤ書55:5)の女性に呼びかけています。
従ってここでは、主イエスがどのように、神を知らず、負い目を持つ人(ヨハネ4:18)の心を開くのか、が必見となります。「水に価を払うことはありませんよ」(イザヤ書55:1)と言えば、かえって警戒されそうです。
ヨハネ福音書4:7――
サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。
昼下がり、主イエスは旅に疲れて、井戸のそばに座っておられました(ヨハネ4:6)。「水を飲ませてください」との言葉には、何ら不自然なところはありません。つまり、相手に不信感を与えていません。
ただし、ユダヤ人がサマリア人に声をかけること、そして、孤独と悲哀のうちに沈んでいたその女に助けが求められることは、極めてまれなことでありました。
主イエスは「渇きを覚えている者」となり、女が久しく忘れていたであろう善行を促されました。それが、困っている人を助けるように、「冷たい水一杯を飲ませる」(マタイ10:42)ことでありました。こうして、主イエスはサマリアの女に立ち直るきっかけを与えられました。主イエスに対する、この小さな愛の業は、「受けるよりは与える方が幸いである」(使徒20:35)という信仰を植え付ける土台となることでしょう。
さらに、主イエスは「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と、驚くべき発言をされました。もちろん、このことは第二イザヤには書かれていません(比較:第三イザヤの58:11)。「水」や「穀物」の安定供給は、ひとえに神の恵みに掛かっていると示唆されましたが……。
ところが、今主イエスは、「わたしが与える」かぎり、その「水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」と言明されました。主イエスを信じる者たちへの、何と大いなる祝福でありましょうか。
同時にこれは、主イエスにつき従う者たちに、大いなる使命が与えられたということであります。すなわち、「その人の内の泉」から「永遠の命に至る水」を汲んで、罪人や病人に差し出すことです。そして、「永遠の命に至る水がわき出る」かぎり、小さな者たちへの小さな愛の業をくり返されます。
自分自身の世界に閉じこもっていた、一人の異邦人が主イエスによって解き放たれました。神と隣人を愛する人に変えられました。
結
主イエスは、第二イザヤの「渇きを覚えている者は皆、来なさい」との告知をしっかりと受け止められました。そして主イエスは、「水を飲ませてください」と言って、外国人女性に助けを求めるほどにへりくだり、わたしたちの弱さや疲れの中に入って来られました。
実は、主イエスは極限状況の中で、「渇き」を体験したお方でありました。それは、主イエスがサマリアを旅しておられた時、ヤコブの井戸のそばで覚えられた「渇き」をはるかにしのぐものでありました。
ヨハネ福音書19:28――
この後、イエスは、すべてのことが今や成し遂げられたのを知り、「わたしは渇く」と言われた。こうして、聖書の言葉が実現した。
「聖書の言葉(=詩編22:16)が実現した」という通り、主イエスは十字架上で、神の御心に添って、焼き付くような口の「渇き」に苦しまれました。その点で、主イエスは心底から、人の「渇き」を体験されました。だからこそ、「渇いている人」を助け出すことがお出来になるのです。
主イエスは十字架上で、「わたしは渇く」と叫ばれた後に、死を遂げ、そして三日後によみがえられました。それによって、「わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る」との約束が成し遂げられました。
というのは、復活の主が、きのうも今日も、また永遠に(ヘブライ13:8)、「わたしが与える」という務めを果たし続けておられるからです。ですから、「わたしが与える水」は、「永遠の命に至る水」にほかなりません。
わたしたち・信仰者の前途には、飢え渇きが潜んでいます。しかし、試練の時にも、主イエスは、「永遠の命に至る水」を注いで、わたしたちの魂を潤わせてくださいます。
そして、わたしたちは自分の内の「泉」の「永遠の命に至る水」をもって、自分と隣人の「渇き」を癒やします。そうして神の国にたどり着いた者に、主なる神は、「永遠の命」を得させてくださいます(ヨハネ3:16)。
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2024年 9月22日 聖霊降臨節 第19主日
説 教「現代に通じる共感の教え」 三浦久光役員
新約聖書 マタイによる福音書 7章7節~12節(P.11)
求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば開かれる。このあまりに有名な聖句を今まで何度聞いたでしょうか?クリスチャンのみならずノンクリスチャンの人でさえ知っている言葉です。これは主イエスが山上の説教で述べられたあまりに有名な句で黄金律とも呼ばれていますから今更説明するまでもないとは思いますが、果たしてどれだけの方が理解されているでしょうか?自分勝手な解釈にとらわれ思い違いに悩みまた、信仰から遠ざかってしまうのも、まさにこの聖句の解釈による問題なのではないかと感じております。ミッション系の学生ならば毎月毎週聖句の話を聞いていることでしょうから、本来は皆しかるべき時に洗礼を受けクリスチャンになるはずと考えますが実際はほぼ100%に近い学生が洗礼を受けずに卒業している現状です。なぜでしょうか?皆さんも覚えがあるでしょうが、人は本来「ああしなさい。こうしなさい。」言われれば言われるほど反発を覚えるものです。まして親や先生など近しい人であったりすればなおさらです。「こうするべき。こうあるべき。」いわゆる「べき論」を押しつけられるのは受け入れられないのです。学生時代毎週毎月先生型からああしなさい。こうしなさい。君は出来るはずだ。なんで努力を惜しむのか?などありとあらゆる機会に言われ続ければ聖書はおろか教師の話を聞くことすら苦痛になり結果として信仰どころか聖書を読み続ける古都からもとうのいてしまのではないかと私は考えてしまいます。聖書は実に不可思議な書物で世界一のベストセラーであり誰もが知る書物ですが、人によっては感心したり反発したりと。まさに様々な反応を示す書物でもあります。私も聖書を最初に一読しさらに4度通読しましたが、読み終える毎に違う感想や考えが浮かんできます。聖書にはわざわざ「信じられない」「納得しかない」と思われる出来事ばかりを記していて、読み手には反発されることを承知で「○○しなさい。」と押しつけがまし表現を使っている箇所が随所に見られます。聖書はそうしたやり方で私たちの常識や偏見を揺さぶりながら様々なことを問いかけてくるのです。そうして聖書と我々の対話を引き出してくるのです。山上の説教5章39節には「誰かがあなたの右の頬を打つなら,左の頬をもむけなさい」とあります。実際見ず知らずの人に、いきなり殴られてもう一回どうぞなどという人を見たことがありますか?残念ながら私を含め友人知人の中には一人もいませんでした。そんな馬鹿みたいな人はいないだろう?言い方は良くないかもしれませんが、そんな間抜けやでくのぼうみたいな人間がいるわけないだろう?それこそが世間一般の常識です。人に殴られたらさらに殴られ衣服をとられたらさらに与える。そんな間抜けが社会にでたらすぐに人生の終焉を迎えるかもしれません。人が人に対して寛容な世界なんかあるかいな・といわれてしまいそうです。しかし、仮に最も大きな悲劇である戦争を考えてみてください。やられたらやり返す。人質を一人殺されたから、こちらは2人を殺し返す。さらに倍またその倍と復習の連鎖がおさまりません。まさにイスラエルとパレスチナの戦争は復習による復習の連鎖で終わることがありません。主イエスは2000年以上前に人間の弱さ愚かさを十二分にご承知でした。それを踏まえた上での山上の説教だったのです。こうした理解をしているクリスチャンが今どれほどいるのでしょうか?私にはわかりませが。7章8節には「誰でも求める者は受け探す者は見つけ、門をたたく者には開かれる。」とあります。この聖句についても「そんなことあるわけない。」「現実は甘くない。」と考えるかもしれません。しかし、ここで不満をいう人たちは自分だけの狭い世界でしか考えていないのではないかと見受けられます。「だれでも」というときに「わたし」しかいない、確かに自分自身の人生をふりかえってみても求めても与えられず、探しても見つからず、門をたたいても開かれずということの方がはるかに多かった事でしょう。自分自身のそうです。聖書のいう「だれでも」は「わたし」を含めた世界を含む世界を映し出す鏡として読んだときに初めて共通の認識としてなされるのではないでしょうか? 主イエスが語られた言葉はわれわれに、ただ我慢を敷いていただけではありません。7章1節にあるように「求めなさい」と言われております。求めていいのです。何でもいいのでしょうか? 復讐による連鎖さえ起こさなければ何でもいいのか?というわけではなさそうです。9節にはパンをほしがる子どもに石を与えるだろか?10節に魚をほしがるのに、根火を与えるだろか?とあるように悪い者である私たちでさえ自分の子どもには良いものを与えることも知っている。とありますから、何もかもご存じである天の父が求める者つまり我々には良いものを与えてくださるに違いない。だからこそ、我々も人にしてもらいたいこと思うことは何でも人にするのです。社会派を気取るつもりは毛頭ありませんが日本における在日米軍基地の問題、まさに沖縄一極集中、平和維持のため必要なのだ。出あれば47都道府県全てに5~6%おいたらいいだけではないかと思いませんか?東日本大震災時に瓦礫の処理を東京都で石原都知事が引き受けるときに自分の街には受け入れたくないと多くに人が叫んだいましたが。石原さんは国に先駆け受け入れましたけど。自分にシテほしくないことを人には平気で押しつける。このような状態で平和な時代が保たれるのでしょうか?聖書で語られた主イエスの言葉は私たちが日々生活していく上でも大きな意義をもっているのです。クリスチャンなのであれば少なくとも聖書に書かれた主イエスの言葉のもつ意味や意義を共通の理解としてもつことの重要性が問われているのではないでしょうか?これからは私自身の私見として話しますが、主イエスが語られたのは信仰すら持てない当時の疲弊したユダヤ人に向けて主を仰ぐ信仰をもとめなさい。そうすれば信仰が与えられる。主イエスが語られる場所を探しなさい。そうすれば会うことも出来る。門が閉ざされていたならば叩きなさい。そうすれば開けられ主イエスにお会いできる。こう言いたかったのではないかと個人的には考えます。当時のユダヤはローマの支配下ですから太陽神や牛を捧げ子孫繁栄を願う宗教儀礼にまみえたいましたし、主イエスがご降誕前にはウル王朝から続くヒッタイトやアッシリアの神々の信仰など、ユダヤの民が主を契約された信仰がことごとく打ち砕かれようとする社会的な愛敬がありましたから、ユダヤの民の信仰する自由にローマから赦されていたわけではない状況下にありました。こうした中で人々に希望や神への自由な信仰を説く主イエスはまさに統治する側から見れば異端そのものであったはずです。そんな中でユダヤの人々はおろか異邦人にさえ神の救いをとく主イエスの存在がいかほどの喜びであったかを今一度想起する必要があるのではないでしょうか?
祈ります
御在天なる、あわれみ深い父なる神さま。過ぐる一週の間私たちはイエス様にたいしさらに罪を重ねる日常であったかもしれません。しかしながら、イエス様は、われわれに多くに希望や信仰に至る息吹を与えてくださいました。私たちの日々の生活を見越しながら如何に豊かに賢く平和に生きるかの教えすら与えてくださいました。教会員一人一人に聖書の知恵の中に大きな喜びを見いだせますように。今日この場に様々な事情で集えなかった兄弟姉妹方も同じ恵みが与えられますように。また教会学校に集う子供たちが将来あなたこそ主であると告白する日が来ますようにと願います。今日尾から始まる一週間の歩みも健やかでありますように、この言い尽くし得ぬ感謝と願いイエス・キリストの御名により祈ります。アーメン
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〈説教の要約〉
2024年 9月15日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 二 12章1節~10節(P.339)
説 教「大いに喜びて我が弱きを誇らん」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
……エゼキエル書28:24
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
……Ⅱコリント12:8-9
……Ⅱコリント12:10
本日は、2024年度の教会標語「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:18)を含む聖書箇所を取り上げます。毎年、9月が年度のほぼ中間に当たるということで、その年度の標語がどのようなメッセージを持っているのかを、礼拝で説教してお伝えするようにしています。
そこでまず、使徒パウロとコリント教会の人々とは今、どんなことを論争しているのか、あるいは、何が焦眉の課題なのか、テキストの前後関係から押さえておきましょう。
なるべく具体的にお話ししましょう。
コリント教会の一部の人々との対立点は、パウロ、アポロ(Ⅰコリント16:12)、そしてテモテ(Ⅱコリント12:18)などの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、にあります。彼らを非難する立場の人たちは、パウロやアポロにはつかないで、「他の指導者につく」と主張しています(Ⅰコリント1:12)。
他方、コリント教会内には、「福音を通し、キリスト・イエスにおいてパウロがわたしたちをもうけたのです」と言って、パウロを「父親」のように慕っている人々がいます(Ⅰコリント4:15)。容易に察せられるように、これではコリント教会は分裂状態に陥り、「神の聖なる神殿」(同上3:17)は崩壊してしまいます。
そこで、問題解決にあたるパウロは、コリント教会の一部の人々が「人間を誇っている」(Ⅰコリント3:21、Ⅱコリント11:18)という点に提示します。
人の知恵に頼り、「高ぶっている」かぎり(Ⅰコリント4:18)、神の力である十字架の言葉を軽んじてしまいます(同上1:18)。なぜなら、「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになった」(同上1:21)ということが分からないからです。伝道者パウロが「神の秘められた計画」(同上4:1)を説き明かそうとしているにもかかわらず、彼らの高慢さと頑なさとが厚い壁を造っています。
パウロは、地中海の「エウラキロン」並の逆風(使徒27:14)にさらされています。そうした中、パウロはいわばリモート(遠隔)の形での、伝道牧会を忍耐強く続けます。パウロは信仰上、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいました」(Ⅰコリント2:10)との点でぶれることがありませんでした。裏を返せば、批判者の問題点を、「自然の人は神の霊に属する事柄を受け入れません」(同上2:14)というように見抜いていたということです。
問題の本質を捉えていたパウロは、まさに「父親」のごとく、「自然の人」、「肉の人」、そして「キリストにある幼子」を見守っていました(Ⅰコリント3:1)。だからこそ時には、彼らを厳しく教え諭したのです(同上3:2-3、4:8,21)。「鞭」すらもちらつかせながら……。
そういう状況において、パウロはコリント教会の人々の前に、或る神秘的体験を持ち出します。その体験の内容によりけりですが、選ばれた人だけがそのような体験を持てるとの見方が今日でもあります。そうした人たちの中には、 霊的的パワーを誇示し、人々を幻惑することがあります。
パウロはいたずらに神秘的体験をキリスト者に推奨しているわけではありません。それを誇る気もさらさらありません。その種のことが誤解されやすいことに留意しつつ、パウロは幻を見、そして啓示を受けたことを語りはじめます。
Ⅰ その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた
コリントの信徒への手紙 二 12:1-4――
1 わたしは誇らずにいられません。誇っても無益ですが、主が見せてくださった事と啓示してくださった事について語りましょう。2 わたしは、キリストに結ばれていた一人の人を知っていますが、その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられたのです。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。3 わたしはそのような人を知っています。体のままか、体を離れてかは知りません。神がご存じです。4 彼は楽園にまで引き上げられ、人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にしたのです。
パウロの誇大広告しない控え目さによるのでしょうか、何か曖昧な感じがします。この体験に基づいてパウロが宣べ伝えようとしている要点は、Ⅱ.ならびにⅣ.で説き明かしますので、それまでお待ちください。そこで、パウロはこの神秘的体験に、どんな意味づけをしているか、が分かります。
今は、二つの点を押さえておきましょう。
①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした。
②第三の天または楽園にまで引き上げられた。
付け加えるとこれは、「十四年前」、「キリストに結ばれていた一人の人」に起きた出来事です。その「キリストにある人」ならびに「彼」・「このような人」というのは、パウロを指しています。神の知恵を物語ることが目的ですから、極力「自分」(わたし・一人称)を消そうとしています。「わたし」が高ぶってはいないことを証しするために、他人事のように三人称「彼」を使っています。
まず、①人が口にするのを許されない、言い表しえない言葉を耳にした について説明します。
これを言い換えると、パウロは明瞭に、神の声を聞いたり、神の姿を見たりしたのではない、と述べています。というのも、「口にするのを許されない、言い表しえない」ものだからです。
しかし、パウロは「十四年前」の体験を鮮やかに記憶しています。自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活(Ⅱコリント11:23-29)において、それがどのような意味を持つのか、“ 霊 ” の導きによって考え続けてきました。
大切なのは、「だから、異言を語る者は、それを解釈できるように祈りなさい」(Ⅰコリント14:13)というように、神秘的体験を「解釈する」ことです。人は恍惚状態で、異言を語り、神秘的体験をしています。その時、我を忘れるような喜びに浸っていることもあるでしょう。
しかし、それらは独り善がりに陥りやすいものです。自分だけ夢中になって、周りの人が見えなくなります。そこで、パウロは異言が「解釈できるように祈りなさい」と勧めました。その過程を経てはじめて、天上の聖なる「言い表しえない言葉」が、わたしたちの理性においても読み解けるようになります。「十四年」の歳月のうちに、「人の心に思い浮かばなかったこと」(Ⅰコリント2:9)が現れ出で、宣教の言葉とさえなります。
片や、この箇所の神秘的体験の叙述がおぼろげで、片や、パウロのメッセージが鮮明なのは、そのためです。
「霊で祈り、理性でも祈った」(Ⅰコリント14:15)上で、その体験の持つ意味を汲み取っています。そのことをパウロは、わたしたちの信仰に益するように、と語ってくれています。
次に、②第三の天または楽園にまで引き上げられた を取り上げましょう。
ここでは、「その人は十四年前、第三の天にまで引き上げられた」、「彼は楽園にまで引き上げられた」というように、「パウロは神によって引き上げられた」(受動態)、すなわち、「神はパウロを引き上げた」ことが二回繰り返されています。もちろん、パウロがこの世に生きている時の話です。
瞬間的にせよ、天の父なる神ならびに御子イエス・キリストとパウロとの特別な交わりが示唆されています。「楽園」(パラダイス)という言葉から、十字架上の主イエスが犯罪人の一人に言った「はっきり言っておくが、あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」(ルカ23:43)との約束を思い起こされる方も多いことでしょう。
その犯罪人は、十字架の木に「引き上げられ」ました。しかしその後、主イエス・キリストの憐れみによって、「楽園に引き上げられる」と告げられました。「今日」、そしてこれからずっと、「あなたはわたしと一緒にいる」と約束されました。
パウロの伝道は、まことに苦難と労苦に満ちたものでありました。その中で、「第三の天」または「楽園」を見上げることが、障壁を越えて前進する力の源となったのでありましょう。それでは、パウロによる神秘的体験の「解釈」に分け入っていきましょう。
Ⅱ わたしの身に一つのとげが与えられた
コリントの信徒への手紙 二 12:5-7――
5 このような人のことをわたしは誇りましょう。しかし、自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません。6 仮にわたしが誇る気になったとしても、真実を語るのだから、愚か者にはならないでしょう。だが、誇るまい。わたしのことを見たり、わたしから話を聞いたりする以上に、わたしを過大評価する人がいるかもしれないし、7 また、あの啓示された事があまりにもすばらしいからです。それで、そのために思い上がることのないようにと、わたしの身に一つのとげが与えられました。それは、思い上がらないように、わたしを痛めつけるために、サタンから送られた使いです。
パウロは、神秘的体験の「解釈」、意味づけについて、どんな観点から述べているのでしょうか?
「自分自身については、弱さ以外には誇るつもりはありません」、だから、「誇る者は主を誇れ」(Ⅰコリント1:31)ということを基調としています。端的に言えば、自分はへりくだり、「思い上がらない」ということです。
誇りや高ぶりへの、やや間怠っこい言及は、「わたしの身に一つのとげが与えられました」とのパウロの告白に収斂しています。そして、その「とげ」は、「わたしを痛めつけ」、「思い上がらないように」させた、と述べています。
「一つのとげ」を「思い上がらないように」させる、持続的な刺激物として受け止めたというのが、パウロの “ 霊 ” 的な「解釈」です。
序.で述べたとおり、ややもすれば或る種の神秘的体験は人を高ぶらせます。自分は選ばれた者だからこそ、幻を見、霊感を受けたのであると、周りの人々を見下します。そうして、自分は品性を高められ、名誉と富を得たのだ、と誇ります。
その点では、パウロが神秘的体験によって受けたもの、言い換えれば、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」は真逆です。なぜなら、それは「わたしの弱さにかかわる事柄」(Ⅱコリント11:30)だからです。一般論としては、「わたしを痛めつけるとげ」は生活の質(クオリティ オブ ライフ Quality of Life = QOL)を下げる元となります。周りの人々は、そのような人物を避けようとするかも知れません。
しかし、パウロはその「とげ」によって、自分が弱くされたことを受け入れています。「とげ」を含む「あの啓示された事があまりにもすばらしい」と証言しています。ここに、「そればかりでなく、苦難をも誇りとします。わたしたちは知っているのです、苦難は忍耐を、忍耐は練達を、練達は希望を生むということを」(ローマ5:3-4)という信仰の基があるのでしょうか。
「とげ」についての、パウロのさらなる「解釈」、意味づけを読み取る前に、いつものように、旧約の関連聖句を見てみましょう。
Ⅲ 突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨むことはない
エゼキエル書28:24――
イスラエルの家には二度と、彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげが臨むことはない。そのとき、彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる。
パウロは、「わたしを痛めつけるとげ」と表現していましたが、「彼らを侮辱する周囲のすべての人々の突き刺す茨や、痛みを与えるとげ」はその数倍も痛そうです。しかも、「イスラエルの家には二度と……臨むことはない」との言い回しからは、次のことが分かります。
すなわち、「イスラエルの家」は持続的または断続的に「茨」や「とげ」の痛みを被っていたということです。イスラエルが偶像崇拝に走ったり、また、弱く貧しい人や寄留者を抑圧したりしていたために、神の裁きが下りました。そしてそれは、神が憐れみをもって、「イスラエルの家には二度と茨やとげが臨むことはない」と告知されるまで続きました。
それでは、「周囲のすべての人々」からイスラエルが「侮辱」されたのは、一体何のためだったのでしょうか?
それは、「彼らはわたしが主なる神であることを知るようになる」ためでありました。「静まって、わたしこそ神であることを知れ」(詩編46:11 口語訳)ということです。
『ジュネーヴ教会信仰問答』(カルヴァン著)の冒頭に、問一「人生の主な目的は何ですか」、その答「神を知ることであります」と掲げられています。
その理由として、「神はわれわれの中に崇められるためにわれわれを創り、世に住まわせられたのでありますから」とあります。キリスト者は、「わたしが主なる神である」ことを、“ 霊 ” の導きによって知らねばなりません。神に自分が創られて、今この世に暮らしていることを感謝し賛美したいものです。
それは、わたしたちがひたすら、“ 霊 ” による上からの啓示にあずかるかどうかに掛かっています。しかし、しばしばその “ 霊 ” の働きを、わたしたちの高ぶりや欲望によって拒んでしまいます。
それで、どうなったのかは、「イスラエルの家」やパウロの神秘的体験が実証している通りです。「突き刺す茨や痛みを与えるとげが臨んだ」ということです。
パウロにおいては、「主が見せてくださった事と啓示してくださった事」の中で、「わたしを痛めつけるとげ」に焦点が合わせられました。その「とげ」は、パウロの、いわば信仰の質(クオリティ オブ フェイス Quality of Faith = QOF)に、どのような作用をもたらしたのでしょうか。
わたしたちは、パウロ自身の体験的ガイドに沿って、悪性の痛みを伴う緊急事態に立ち向かうことにしましょう。パウロのメッセージは、「とげ」で負傷している人をやさしく包み込むような、癒やしと慰めに満ちています。
Ⅳ 力は弱さの中でこそ十分に発揮される
コリントの信徒への手紙 二 12:8-9――
8 この使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました。9 すると主は、「わたしの恵みはあなたに十分である。力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」と言われました。だから、キリストの力がわたしの内に宿るように、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう。
パウロは神に、「わたしを痛めつける一つのとげ」から解放してくださるように、と切に祈りました。「三度」というのは、「ひたすらに」・「しばしば」という意味です。
その祈りは同時に、「とげ」の与えられた神秘的体験が「解釈できるように祈った」(参照:Ⅰコリント14:13)ということでもありました。実際、「とげ」の痛みは治癒されませんでしたが、パウロは神の御心を読み取ることができました。
これは、神が信仰者の願い求めを超えて、より大きな賜物を与えられたという祈りの実例です。自分の祈りにこだわり過ぎている人は、このテキストの パウロの熱心な祈り⇒神の恵み深い応答 を手本とすべきでありましょう。どんな回答を投げ返されようとも、パウロに恐れはありません。神を心から信頼しているからです。
主は、「わたしの恵みはあなたに十分である」と言われました……これはまさしく、罪人や病人への福音、喜びの知らせです。主イエス・キリストが、弱く貧しいように見える人々の人生の中に、「恵み」をもって介入されます。
「主は言われました」と、パウロは厳かに書き記しました。それは、この言葉が主イエス・キリストによって成し遂げられることが約束され保証されているという意味です。わたしたちに求められているのは、悔い改めをもって「キリストに結ばれている人」に造り変えられて生きることです。
力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ……補って言えば、「キリストの力は十字架の弱さの中で発揮されたように、あなたがたの弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」ということです。
このメッセージこそが、「わたしを痛めつけるとげ」に悩まされ続けられたパウロに、癒やしと慰めをもたらしました。こうして、彼の信仰の質(クオリティ オブ フェイス)は飛躍的に向上させられました。同時に、パウロは主イエスに倣いつつ、「自分自身も弱さを身にまとっているので、無知な人、迷っている人を思いやることができる」ようになりました(ヘブライ4:15)。“ 霊 ” の力によって旧約の出来事を知り抜いているパウロは、「突き刺す茨や痛みを与えるとげ」に苦しんでいる人々にも同情を寄せたに違いありません。
パウロにとって、「十四年前」の神秘的体験を通して、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」とのメッセージを受け取りました。人生を暗くする否定的なものの象徴であるパウロの小さな「とげ」にも「キリストの力」が宿っています。だから、「むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇る」と言い切っているのです。
最後の節でさらに、「だから、キリストの力がわたしの内に宿るように」との中心メッセージが深められます。
Ⅴ わたしは弱いときにこそ強い
コリントの信徒への手紙 二 12:10――
それゆえ、わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても、キリストのために満足しています。なぜなら、わたしは弱いときにこそ強いからです。
ここで、パウロはこれまでの自分の小さな「とげ」に特化してきた議論を切り替えています。「わたしは弱さ、侮辱、窮乏、迫害、そして行き詰まりの状態にあっても」と、視野を拡大しています。
その意図が、自分の苦難と労苦に満ちた伝道者生活を覆い尽くしている「キリストの力」の大きさを物語るためであるのは明瞭です。
これまでパウロは、神秘的体験を引きながら、「わたし(キリスト)の恵みはあなた(パウロ)に十分である」ことを証ししました。しかし今や、「あの方(キリスト)は栄え、わたしは衰えねばならない」(ヨハネ3:30)と言った洗礼ヨハネのごとく、パウロは背景に退いています。「わたしはキリストのために満足しています」というように、キリストに依り頼んでいます。
なにゆえに、それほどまでにキリスト中心になるのか、教えられるために、D.ボンヘッファーの説教の一部を読んでみましょう。
「神(主イエス・キリスト)は十字架上で苦しまれた(詩編22:2,7、ヘブライ2:9)。そのゆえに、あらゆる人間の苦しみと弱さは、この世における神御自身(主イエス・キリスト)の苦しみと弱さにあずかっているのである。
わたしたちは苦しんでいる! 神(主イエス・キリスト)は、もっともっと、苦しんでおられる。わたしたちの神は苦しむ神である。
苦しみは、人間を神の像に形造る(創世記1:27、Ⅱコリント4:4)。苦しむ人間は、神の似姿を持っている。」
主イエス・キリストは、弱さの極みである十字架上で、神の栄光を現されました。パウロが「わたしは弱いときにこそ強い」と結んでいるとき、彼は一心に、十字架上のキリストを見つめています。
「この(とげをもたらしたサタンの)使いについて、離れ去らせてくださるように、わたしは三度主に願いました」との祈りは聞き届けられました。なぜなら、その祈りは、十字架と復活の主、イエス・キリストの御名によって祈られたものだからです。
なおも「とげ」が刺さり、痛みがうずいているにもかかわらず、パウロは祈りへの神の応答に満足しているに違いありません。このキリストの証人の姿は、どんなに、苦悩・衰弱・絶望などの中から、神に叫びを上げる人々への励ましとなっていることでしょう。
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〈説教の要約〉
2024年 9月8日
旧約聖書 イザヤ書 52章2節(P.1148)
新約聖書 マルコによる福音書 5章35節~43節(P.70)
説教の構成――
序
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか ……マルコ5:37-39
Ⅲ 少女よ、さあ、起きなさい ……マルコ5:40-41
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした ……マルコ5:42-43
序
主イエスは、今のイスラエル北部、ガリラヤ湖畔を巡り歩いて伝道しておられました。主イエスは安息日、礼拝をする時には、会堂に入って聖書朗読や説教をされました(マルコ1:21、3:1)。また主イエスは、人の家に招かれて、神の教えを説いたり、病人を癒やしたりされました(同上1:29-31、2:1-12)。時には、食事でもてなされることもありました。
その上、主イエスは路上でも多くの人々と出会われました。土地の人々はしばしば、町から村へ、山辺から海辺へ、忙しそうに歩いている主イエスの姿を見かけるようになりました。時には、大勢の群衆が主イエスに押し寄せて、遠巻きに眺めるしかないこともありました。
或る日、主イエスは湖のほとりで、会堂長ヤイロに呼び止められました。「幼い娘が死にそうです」(マルコ5:23)ということで、主イエスはヤイロと一緒に、彼の家に向かわれました。
ところが図らずも、その途上で、主イエスは重い病気の女性と出会われました。そこで、彼女の病気を癒やすと共に、信仰を授けられました。それは、神によって救われたと、一生涯信じ、平穏に暮らすということでありました。
確かに、大勢の群衆が主イエスの周りに押し寄せて来ている中で(マルコ5:24)、誰を最優先するのか、判断するのは困難です。ヤイロは、主イエスがその女性と会話されるのを、やきもきして見守っていたに違いありません。
中断はしばしば、わたしたちの人生の方向を変えることがあります。一方それが、良い休養となって、新しいアイデアが浮かんで来ることがあります。他方、突如中断されて、緊張の糸が切れ、あきらめや絶望に心が支配されることもあるでしょう。
ここで主イエスは、ヤイロが遅延にいらつき、希望を捨てないように、彼に寄り添っておられました。考えようによっては、主イエスにおいて、12年間の病のどん底から人間を立ち上がらせる神の力が実証されたのは、順番待ちの人々によっても幸いでした。というのも、忍耐強く、待ってみようという余裕が湧いて来るからです。
なおも、出血が止まり癒やされた女性との会話が続いている時に……
Ⅰ ただ信じなさい
マルコ福音書5:35-36――
35 イエスがまだ話しておられるときに、会堂長の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」 36 イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた。
「お嬢さんは亡くなりました」との訃報に接して、父親のヤイロは青ざめたことでしょう。そして、彼の家の者は追い打ちをかけるように、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」と告げました。このひと言は、ヤイロを打ちのめしました。というのも、ヤイロは、「足もとにひれ伏して」懇願するほどに(マルコ5:22)、主イエスに依り頼んでいたからです。
ヤイロは、瀕死の娘(マルコ5:23)のいっさいを主イエスに託するという覚悟であったはずです。それが、「もうお世話にならなくていい」と人から言われてしまったのです。
「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」……主イエスにひれ伏す思いを持っている人と主イエスとの関係が切れそうになっています。娘の夭折によって、一時的にせよ、その関係が揺らいでしまうのは、誰しも非難できないことでしょう。
しかし、結論的に言えば、主イエスを大いに「煩わせて」善いのです。主イエスは、わたしたちが罪と病と死の淵から、助けを呼び求めるのを待っておられます。それが、忘れられない、神との出会いになるように、主イエスは導かれます。そうして、「わたしたちは、生きるとすれば主のために生き、死ぬとすれば主のために死ぬのです」(ローマ14:8)との信仰告白に至るのです。
イエスはその話をそばで聞いて、「恐れることはない。ただ信じなさい」と会堂長に言われた……即座に主イエスは、ヤイロが「その話」を真に受けないように、介入されました。「その話」が偽りだと言うのではなく、「その話」はまだ経過途中であるということです。
「恐れることはない。ただ信じなさい」……救い主なるイエスから、適確な勧めが動揺しているヤイロに投げかけられました。
ヤイロは、「お嬢さんは亡くなりました」とのひと言が頭から離れません。闇の世界に突き落とされました。もはや、ヤイロの視界からは、主イエスも、重い病が癒やされた女も消え去っていたことでしょう。
そんな中、「恐れることはない」との主イエスの言葉が耳に入って来ました。ヤイロは主イエスに、心配や不安をあずけることにしました。それに、息絶えて様変わりしたのかどうか、その娘の姿を見て確かめたわけではないのですから。
「ただ信じなさい」……主イエスはヤイロを、「生きるのも、また、死ぬのも、主のために」という信仰に招き入れようとしておられます。ヤイロに求められているのは、「イエスを見ると足もとにひれ伏して、しきりに願った」(マルコ5:22-23)という姿勢に立ち返ることです。主イエスに向き合う、その姿勢が崩されないように、自分の外から注がれる “ 霊 ” に助けを求めることです。
ヤイロの家へ急ぐ途上での〈病気の癒やしと救いの宣言〉は完了しました。主イエスは、つかの間の遅延を乗り越えて、幼い娘の死という難題に立ち向かわれます。
Ⅱ なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか
マルコ福音書5:37-39――
37 そして、ペトロ、ヤコブ、またヤコブの兄弟ヨハネのほかは、だれもついて来ることをお許しにならなかった。38 一行は会堂長の家に着いた。イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て、39 家の中に入り、人々に言われた。「なぜ、泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ。」
主イエスは、弟子の中から「ペトロ、ヤコブ、ヨハネ」を選び出して、態勢を整えられました。神の “ 霊 ” 的な御業は見せ物ではありません。主イエスと言えども、集中力高め、祈りをもって取りかかられます。
「会堂長の家から」の使者が「お嬢さんは亡くなりました」、と言った通りでありました。そこには、ガリラヤ地方の葬祭儀礼が繰り広げられていました。「イエスは人々が大声で泣きわめいて騒いでいるのを見て」との一文から、主イエスが喪に服している人々の悲しみを受け止められたことが分かります。主イエスは大きな嘆きに包まれた家のただ中で、“ 霊 ” 的な御業を現されます。
「なぜ、あなたがたは泣き騒ぐのか。子供は死んだのではない。眠っているのだ」……「眠っている」だけだから、安心しなさいという趣旨ではありません。「わたしは、泣き騒いているあなたがたのもとにやって来た。わたしがどんなことを眠っている娘に行うか、しかと見届けなさい」ということです。
主イエスはこれから、あたかも少女が夜昼、「眠り、そして起きる」ように、死から生へと彼女を立ち上がらせます。「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)、神の恵みはわたしたちに与えられています。眠っている少女が呼び起こされます。わたしたちにとって大切なのは、極めて日常的な出来事の中で、十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、悲嘆のどん底にいる人々に関わっておられるということです。
マルコ福音書5:40-41――
40 人々はイエスをあざ笑った。しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた。41 そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた。これは、「少女よ、わたしはあなたに言う。起きなさい」という意味である。
「人々はイエスをあざ笑った」との描写は、他所者への拒絶を現しています。人々は葬祭の鎧を付けて、主イエスを跳ね返そうとしています。何事も常識で振る舞おうとしている人間ならば、退却するしかありません。衆人から嘲笑を浴びている場面から、一刻も早く逃げ出したいことでしょう。
主イエスは、「子供は死んだのではない。眠っているのだ」との言葉尻をとらえる人間にかかずらってはおられません。「しかし、イエスは皆を外に出し、子供の両親と三人の弟子だけを連れて、子供のいる所へ入って行かれた」。
主イエスはあたかも「悪霊を追い出す」かのように(マルコ1:34,39)、「皆を追い出し」ました。というのも、「悪霊」ならびに「悪霊に取りつかれた人」(同上5:16)には、神の力の働く聖なる御業を妨害しようと習癖があるからです。
「子供の両親と三人の弟子だけを連れて」との一句には、主イエスの優しい気遣いが表されています。ペトロをはじめ「供の者たち」は、後々までの証言者として招き入れられています。
もはや、「もう、先生を煩わすには及ばないでしょう」との、慇懃な断絶宣言は、遙か向こうに飛び去りました。主イエスの介入は頂点に達します。
そして、子供の手を取って、「タリタ、クム」と言われた……「タリタ、クム」という言葉(アラム語)は、少女はじめその場にいる人々にとって、生涯忘れられない言葉となりました。毎朝、「○○よ、さあ、起きなさい」との御声と共に、彼らは活動しはじめます。
主イエスは「子供の手を取って」というように、幼い娘の介助をされました。その接触により、主イエスの「内から力が出て行って」(マルコ5:30)、娘の身体全体に行きわたりました。その背後には、父親の祈りがありました……「どうか、おいでになって手を置いてやってください」(同上5:23)。彼が「イエスの足もとにひれ伏して」、切に願ったことが実現されました。
「子供のいる所」に、その部屋中に、キリストの行いと言葉による御力が充満しました。その結果へと進む前に、旧約において、主なる神がどのように「捕らわれの娘シオン」に寄り添われたのか、見てみましょう。
イザヤ書52:2――
紀元前六世紀後半の頃のことです。ユダヤの民は目下、国家滅亡とバビロン捕囚からの回復をめざしているところです。
一方、捕囚の民は異国での生活が長引き、あきらめムードに浸っています。エルサレム神殿の再建の話を聞いても乗り気になれません。何しろ、暑い砂漠を通る帰還の旅には、命がけの困難が伴います。ならば、このままバビロンの流れのほとりに、定住し続けようか、となります。
他方、エルサレムに残留した人々にはまた、それなりの心労がありました。それは現実に、破壊され荒れ果てた都エルサレムを目の当たりにしているということです。希望よりも絶望がより多く生み出されていました。神の罰を受けて破壊されたものを直視せよ(エレミヤ書36:31)との厳しい声と共に、実際、再建を妨害する周辺住民もいます(エズラ書4:1-5)。
そのように、国の内外でにっちもさっちもいかない状況に陥っていました。神はそこに第二イザヤを遣わされました。聞く耳を持たない民の心を打ち開く言葉が語られます。それは、神の知恵に満ちた、美しい詩になっています。
「立ち上がって塵を払え」……この「塵」には深い意味が込められています。この「塵」に、ユダの民の挫折と絶望がまとわり付いています。というのは、「塵」はまさに、瓦礫となった「エルサレム」または「シオン」を象徴するものだからです。
神殿はじめエルサレムの人家は、外敵によって略奪され、指導者たちは異国へ連行されました。多くの人々が喪に服するかのように、「嘆きの声をあげ、衣を裂き、天に向かって塵を振りまき、頭にかぶり」ました(ヨブ記2:12、哀歌4:5)。残留した人々は死んだも同然の苦悩を味わっていました(エレミヤ書8:3、ヨハネ黙示録9:6)。
詩の第一声、「塵を打ち払いなさい」……この命令が、挫折と絶望のまみれた「塵」を掃き清める力の無い者に下されました。言い換えれば、それは、主なる神が「エルサレム」から「塵を打ち払う」のを約束されたということです。なぜなら、今「エルサレム」は「捕らわれ」の状態にあって動き出せないからです。
付け加えれば、「エルサレム」や「シオン」との呼称は、擬人法で、都の住民を指しています。この呼称にさらに、「娘」または「おとめ」(哀歌2:10)が添えられているところに、神の憐れみが表されています。
それから次に、「立ち上がりなさい」との命令が下されました。つまり、「頭に塵をかぶり、灰の中で転げ回る」(エゼキエル書27:30)ほどに、悲しんでいる人々に、「起き上がるように」との告知が向けられたということです。当然、主なる神は彼らの「手を取って」、立ち上がる力を彼らに注ぎ入れられます。
第二イザヤの預言は、主イエスによって受け止められました。なぜなら、「塵を打ち払いなさい」ならびに「立ち上がりなさい」との命令かつ約束が、ガリラヤ湖畔の喪中の家で、主イエスによって成し遂げられました。預言に託された神の企図は、中断で揉み消されることもなく、また、遅延で切り捨てられることもなく、幼い娘を救出する際に実行に移されました。
主なる神は、異邦人を含めて(イザヤ書51:5、55:4)、ユダヤの民が一つのなることを望んでおられます。「娘」や「おとめ」が成長して自立できるように、「首の縄目を解かれ」ます。
Ⅴ 少女はすぐに起き上がって、歩きだした
マルコ福音書5:42-43――
42 少女はすぐに起き上がって、歩きだした。もう十二歳になっていたからである。それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた。43 イエスはこのことをだれにも知らせないようにと厳しく命じ、また、食べ物を少女に与えるようにと言われた。
「少女はすぐに起き上がって」……この「すぐに」は、出血の止まらなかった娘が癒やされた時の様子と合致しています……「すると、彼女はすぐ出血が全く止まって病気がいやされたことを体に感じた」(マルコ5:29)。ここに、神の御業が主イエスにより、「娘」二人に現されました。今か今かと救いを待ち望んでいる人も、この「すぐ」に期待を寄せることができます。
ここに、ガリラヤ湖畔を巡回する伝道が確立されました。主イエスは路上でも多くの人々と出会ってくださいます。それならば、大勢の群衆が主イエスに従い、押し迫っている中でも、自分の時を待つことができます。主イエスの目には、一人ひとりが「捕らわれの娘シオン」のように、「価高く、貴い」存在なのです(イザヤ書43:4)。
「彼女は歩きだした。もう十二歳になっていたからである」……幼い娘の将来に、幸多かれ、という祈りが湧いて来ます。少女は現実に罪や病に突き当たり、そこで集積されていく経験や思索を通して、自らの考えを深めていくことでしょう。聖書に明記されてはいませんが、彼女はその後、どうなっていくのでしょうか?
結
「主イエスがあなたの救い主です」……少女は「十二歳」の時に、主イエスによって「立ち上がらされた」体験を繰り返し思い起こすに違いありません。両親(マルコ5:40)は娘に、目撃したこと、また、自分たちの悲嘆や歓喜について語り聞かせたことでしょう。そして、差し出された「食べ物」を元気よく食べたことも……。主イエスに「ただ信じなさい」(マルコ5:36)と命じられた父が見守る中で、彼女は成長していきました。
さらに、もう一人の「娘」、12年間重い病に苦しんでいた女と巡り会って、主イエスの御業を共有したかも知れません。それに、「それを見るや、人々は驚きのあまり我を忘れた」という或る一人が、その日、同時に起こった、出血を癒やされた女の出来事を彼女に教えてくれるということもあり得たでしょう。
いずれにしても、「十二歳」の少女にとって、主イエス・キリストによる救いが人生の基盤になりました。彼女は一家の危機を乗り越えた父母と、会堂に集う人々に囲まれて育っていきます。そこは、カファルナウムを伝道拠点とされている主イエスにとって重要な会堂です。
カファルナウムは、神の裁きを告知されるような伝道困難な町でありました(マタイ11:23)。しかしそこの会堂で、「十二歳」の少女を生徒とする教会学校が始まったと想像することも許されるでしょう。「娘」二人の回復の証人、ペトロ、ヤコブ、ヨハネはその教会学校のスッタフならば最高です。それならば、弟子たちがヤイロたちと共に、主イエスによる「救い」を宣べ伝えることになります。
「タリタ・クム」、「少女よ、さあ、起きなさい」との主イエスの御声は、いつまでもガリラヤ湖畔にこだましています。主イエスは、カファルナウムの町の人々の悲しみと喜びをご存じです。その力強い御声によって、小さく弱い存在の少女を救ってくださいました。
十字架につけられて死に、三日後によみがえられた主イエス・キリストが、わたしたちの町に来られた、そして、少女を救われた……その喜びの知らせは、ガリラヤの小さな町から世界中に広がっていきました。その知らせが今、あなたのもとに届いています。
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〈説教の要約〉
2024年 9月1日
旧約聖書 ヨブ記 21章14節(P.802)
新約聖書 マルコによる福音書 5章11節~20節(P.69)
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊どもは出て、豚の中に入った ……マルコ5:11-13
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている ……マルコ5:14-15
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした ……マルコ5:16-17
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ ……マルコ5:18-20
結
序
主イエスは今、ガリラヤ湖畔とその周辺で、大いなる救いの御業を現されています。マルコ福音書の大きな段落(マルコ4:35-5:43)の中に次々と、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが出てきます。
そして主イエスは今、「墓場を住まいとしてしている」人と向き合っておられます(マルコ5:3)。ゲラサ地方の人々はその男を遠ざけながらも、その狂暴性のゆえに彼を監視していました。夜も昼も、墓場から聞こえて来る雄叫び(同上5:5)に恐れおののいていたに違いありません。
主イエスはその人に深い同情を寄せられます。むやみに相手を叱りつけることはありません。むしろ、その人が被らなければならない神の怒り(イザヤ書65:3,5)を、自ら背負っておられます。というのも、主イエスは罪人を滅ぼすためではなく、罪と病と死の縄目から人を解き放つために、この世に来られたからです。
墓場に押しやられた人への深い同情は、現れるべくして現されたものであります。というのも、福音の中心的な出来事として、主イエスは、三日間、墓に閉じ込められたからです。十字架刑により死を遂げた後、墓の中に横たわらされました。
ガリラヤ伝道のさなかにも、主イエスは、エルサレムでの十字架の死と葬りを見据えておられたはずです。主イエスの将来には、「されこうべの場所」(マルコ15:22)で殺され、「墓場を住まいとさせられる」という悲惨さが待ち構えていました。その観点からすると、「墓場で」悪霊に取りつかれ、そして「墓場から」救い出された、その人はまさに、「イエスの兄弟」と呼ぶにふさわしい者でありました(ヘブライ2:11-12)。
「湖の向こう岸」に行かれた主イエスは、人の目を驚かすような悪霊祓いの御業を成し遂げられます。わたしたちもまた、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いを携えて、弟子たちと共に同行することにしましょう。
そこでまず今回は、悪霊祓いの後半ということで、直前の流れを確かめておきましょう。
主イエスは、悪霊に憑かれた人に出会うやいなや、「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との命令を発せられました。しかし、悪霊からの「かまわないでくれ」との懇願や、主イエスからの「名は何というのか」との問いが入って(同上5:7,9)、ひととき、時間が経ちました。
マルコ福音書5:11-13――
11 ところで、その辺りの山で豚の大群がえさをあさっていた。12 汚れた霊どもはイエスに、「豚の中に送り込み、乗り移らせてくれ」と願った。13 イエスがお許しになったので、汚れた霊どもは出て、豚の中に入った。すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ。
「汚れた霊、この人から出て行け」(マルコ5:7)との告知のうちに、悪霊祓いは終息に向かいます。地鳴りが辺り一面に起こり、その後に、静寂が到来しました。
ここで、「二千匹の豚」がおぼれ死んだのは、あまりにも残酷ではないか、との疑念を抱く方がおられるでしょうか? 一人の人間の命を助け出すためとは言え、神は、犠牲になった「二千匹の豚」に心を痛められないのか、ということです。古来より、被造物にもたらされる災いや悪について、義と愛なる神は沈黙しておられるのか、との疑問が出されて来ました。
確かに、神の創造された被造物を巻き込んで、主イエスの御業が成し遂げられました。それは、人間と被造物がこの地に共に生きていることの証しであります。
主イエスの語りには、ユダヤ人の間では律法上、豚肉を食べることが禁じられている(レビ記11:7)という背景があります。ガリラヤ湖畔のユダヤ人にとって、「豚」は禁忌になっている動物でありました。「汚れたものであり」、「死骸に触れてはならない」(申命記14:8)ものでありました。だからと言って、「二千匹の豚」の溺死を見過ごしてください、ということではありません。
そうではなく、「すると、二千匹ほどの豚の群れが崖を下って湖になだれ込み、湖の中で次々とおぼれ死んだ」との惨事を含む主イエスの語りの中心は、どこにあるのか、ということです。これは、「豚の群れ」にまつわる教訓ではなく、「悪霊に取りつかれたゲラサの人」の救済に関わる記事である、というのが肝心です。
「豚飼いたち」(マルコ5:14)が暮らしているゲラサの地で、生業の動物が突然消え去る中で、いつまでも残るのは何でしょうか? それは、主イエス・キリストの行いと言葉、そして、それにあずかった人の証し、すなわち、宣教(マルコ5:20)であります。それに合わせて、聖書による規範・生活指針が提示されていきます。そのようにして主イエスによって、異邦の世界に種蒔きのための鍬が入れられたのであります。混乱が一切起こらないというのではなく、まさに「雨降って地固まる」ということが大切なのではないでしょうか。
Ⅱ その人が服を着、正気になって座っている
マルコ福音書5:14-15――
14 豚飼いたちは逃げ出し、町や村にこのことを知らせた。人々は何が起こったのかと見に来た。15 彼らはイエスのところに来ると、レギオンに取りつかれていた人が服を着、正気になって座っているのを見て、恐ろしくなった。
「汚れた霊、この人から出て行け」との主イエスの命令から始まった出来事の反響が続きます。悲惨な目に遭った「豚飼いたち」が、主イエス・キリストの行いと言葉を「知らせる」一役を担います。
「豚飼いたち」の話を、聞き捨てならぬこととして、近隣の「町や村」から人々が、「イエスのところ」に来ました。「人々は何が起こったのかと見に来た」のも、実は神の御計画ではないでしょうか。そうして、「何かを起こした」、主イエス・キリストを見て、知って、信じさせるというのが、彼らに対する神の導きでありました。
ここで際立たされているのは、「レギオンに取りつかれていた人」の変貌ぶりです。その人は今や、「レギオン」(=大勢・軍団)の抑圧から解放されました。以前には、「石で自分を打ちたたいたりしていた」(マルコ5:5)というのですから、裸同然であったかも知れません。
しかし、その人が「服を着、正気になって」います。「町や村」から駆けつけた人々は唖然としたのではないでしょうか。叫び狂って、人を威圧するような面影はありません。何より印象深かったのは、主イエスの御前に、悪霊に憑かれていた人が「座っている」姿でありました。人を人とも思わぬ猛者が、彼らの知らない来訪者に「ひれ伏して」従っています(マルコ5:6)。
「町や村」からやって来た人々は、何を思ったかは、ひと言、「彼らは恐ろしくなった」と証言されています。これは、真実な報告でありましょう。この「恐れ」は、「主イエス・キリストを見て、知って、信じる」こととは、大きな隔たりがあります。
「町や村」の人々はまだ、悪霊祓いの「成り行き」が把握できていません。彼らが「恐れている」だけなのは、当然とも言えるでしょう。異邦人の漠然とした「恐れ」が、主イエス・キリストへの「畏れ」に変えられる日を待ち望みましょう。今しばらくは、主イエスも弟子たちも、異邦世界に広げられる「神の国」の福音を拒み、頑なになる人々の様子を見守らなければなりません。
Ⅲ 人々はイエスにここから出て行ってもらいたいと言いだした
マルコ福音書5:16-17――
16 成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った。17 そこで、人々はイエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした。
主イエスは、開始されたばかりのガリラヤ伝道において、カファルナウムの町という拠点を造られました。しかし、故郷のナザレの人々から憤りを受けて追い出されたり(ルカ4:20-30、マルコ3:20-34)、また、ゲラサ地方の人々から「出て行ってもらいたい」と言い出されたり、困難に遭いました。内憂外患、身内からも、周辺の異邦人からも、遠ざけられました。
ではなぜ、ゲラサ人は主イエスに、「出て行ってもらいたいと言いだした」のでしょうか? 初めは一部のゲラサ人の拒絶だったかも知れませんが、うわさが広まると、それはゲラサ地方全体からの「村八分」、排斥運動もなり得ます。
「成り行きを見ていた人たちは、悪霊に取りつかれた人の身に起こったことと豚のことを人々に語った」と証言されているように、ゲラサ人の目撃者は、「豚のこと」を気にしていました。
ゲラサ人の中に、「豚飼いたち」(マルコ5:14)がいました。その生業が尊ばれていたか、あるいは、蔑まれていたか、は安易に判断できません。しかし明白なのは、ユダヤ人と異なり、「豚」の肉を食べていたゲラサ地方では、それが「基幹産業」の一つであったということです。つまり、養豚とその食肉は、豊饒なる地の象徴でありました。それは、「乳と蜜の流れる土地」(出エジプト記3:8)、ユダヤ人の約束の土地とはひと味ことなる特色でありました。
ここまで言えば、もうお分かりでしょう。「二千匹ほどの豚の群れ」と「悪霊に取りつかれた人の身」とを天秤にかければ、ゲラサ人は当然、前者を取ります。だから、「悪霊に取りつかれた人の身」を案じるイエスという旅人にはお引き取りいただこう、となるのが常識です。自分たちの生活や慣習を守りたいというのが、彼らの本心でしょうし、現代に生きるわたしたちも、多かれ少なかれ、同じ思いを持っています。
ここに、人間の本性に伴う典型的な伝道の困難さが現れていると言えます。そこで主イエスは、神の知恵をもって忍耐強く、その壁を打開されます。いきなり、ゲラサ人の日常をひっくり返すというのではなく、福音を浸透させていくというやり方を採られます。その地方の「流れのほとりに植えられた木」が、御言葉を滋養とすれば、「ときが来れば実を結び、繁栄をもたらす」(詩編1:3)ことでしょう。
その「神の知恵」については、最後のⅤ.で説き明かします。その前に、「そっとしておいてもらいたい」という人間の本性について深掘りしておきましょう。
Ⅳ ほうっておいてください
ヨブ記21:14――
これは、ヨブがナアマ人ツォファルに答えている言葉の一節です。内容的には、「彼ら」、すなわち、「神に逆らう者」(ヨブ記21:7)の暴言が活写されています。
ヨブの主張によれば、「神に逆らう者」はこの世の幸せを第一として、「財産を手にし」、「生き永らえ」ています(ヨブ記21:7,16)。彼らは「あなた(神)に従う道など知りたくもない」と言って、神信仰をあざ笑っています。
彼らの考え方はヨブからは遠いものであります(ヨブ記21:16)。ヨブは、「あなた(神)に従う道を知る」ことを重んじる「無垢な正しい人」(ヨブ記1:8)です。
「神に逆らう者」がこの世の春を謳歌しているのとは裏腹に、ヨブは「わたしは幸いを望んだのに、災いが来た。光を待っていたのに、闇が来た」(ヨブ記30:26)と嘆いています。しかし、友人たちは、そのような不条理に悩み苦しんでいるヨブを慰めようとも寄り添おうともしません。
ただおひとり、主なる神がヨブを見守っておられます。深い悩みの淵から、ヨブが立ち上がり、「災いも、幸いも いと高き神の命令によるものではないか」(哀歌3:38、ヨブ記2:10)と、再び告白するのを待っておられます。
周りの人々が「神に向かって」、「ほうっておいてください」と言っているのが、ヨブの耳から離れませんでした。自分もそう宣言すれば、神の束縛から解放されると思ったかも知れません。自分勝手にやれば、すべてが自己責任で済むというように……。
しかしヨブ自身は、「ほうっておいてください」との宣言を自重することができました。それ故に、神の神たるゆえに信じるという「無垢な」信仰が全うされました。ヨブは感謝と謙遜をもって、この世の「災いも、幸いも」受け取る人であり続けました。
さて主イエスはどのように、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」、すなわち、「ほうっておいてください」と言い放った人々に向き合われたのでしょうか? 神に「そっとしておいてもらいたい」とは口が裂けても言わなかった、「無垢な正しい人」ヨブの物語を語るのも一つの方法かも知れませんが……。いずれにしても、主イエスは神から授けられた知恵によって伝道を進められます。
Ⅴ 主イエスはあなたを憐れんだ
マルコ福音書5:18-20――
18 イエスが舟に乗られると、悪霊に取りつかれていた人が、一緒に行きたいと願った。19 イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい。」 20 その人は立ち去り、イエスが自分にしてくださったことをことごとくデカポリス地方に言い広め始めた。人々は皆驚いた。
「レギオンに取りつかれていた人」は今や、新しい人生を歩みだしました。「一緒に行きたい」というのは、直訳すると、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」ことを願っている、となります。すなわち、その人は、「レギオン」(=大勢・軍団)の支配から、「インマヌエル」の呼ばれるお方の愛と正義のもとに移されました(マタイ1:23)。「神は我々と共におられる」という名のイエス・キリストが、「共にいたい」との願いをかなえてくださいます。
これによって、信仰上、その人の人生全体がひっくり返されたということが確約されました。なぜなら、主イエスはこれからずっとその人を見守り、その人のために祈っていてくださるからです。
イエスはそれを許さないで、こう言われた。「自分の家に帰りなさい」……「それを許さないで」というのは、「彼(その人)が彼(イエス)と共にいる」を拒絶されたのではありません。そうではなく、主イエスに同伴するのではなく、主イエスから派遣されるという別の道を、「インマヌエルの神なるイエスがあなたに勧める」ということです。
それ故に、悪霊に憑かれていた人が「自分の家に帰る」中で、主イエスの臨在、つまり、「神は我々と共におられる」ことが現されます。
ゲラサ地方で最も軽蔑されたいた者のひとりが、罪人や病人へ福音を「言い広め(宣べ伝え)」ます。それこそが、「イエスにその地方から出て行ってもらいたいと言いだした」と住民の厚い壁を打開する伝道のやり方でありました。
悪霊に憑かれていた人が「墓場から自分の家に帰る」というのは、尋常なことではありません。わたしたちは、さまざまな偏見・差別によって隔離された人々の悲しい人生を伝え聞いています。大勢の人々が「自分の家に帰れない」ままに、「身内の人」との和解さえできずに、最期を迎えられました。
幸いにも、主イエスが「自分の家に」遣わしたその人は、「身内の人」と話ができます。願わくは、互いに赦し合い、再会を喜ぶことができるようにと祈ります。しかし、最も重要だったのは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったこと」が、その「家」の中で「ことごとく知らせる」ということでありました。「人々は皆驚いた」というほどの反響はきっと、伝道への後押しとなるに違いありません。
結
一方、「その人は立ち去り」、他方、「イエスは舟に乗って再び向こう岸(カファルナウム)に渡られます」(マルコ5:21)。悪霊に憑かれていた人が帰った「自分の家」に、主イエスが訪ねて来られたのではありません。しかし、主イエスは、「主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせなさい」と厳しく命じられました。
「主があなたを憐れんでくださった」……舞台は「墓場から家へ」と移されました。腸痛めるほどの、主イエスの深い同情(マルコ6:34)は、香りのようにその「家」に満ちあふれたことでしょう。なぜなら、“ 霊 ” の力によって、主イエスがそこに臨在されているからです。そのようにして、「主の憐れみ」は一人ひとりに宣べ伝えられていきます。
三日の間、「墓場」に閉じ込められた主イエス・キリストは、そこから立ち上がりました。もはや死の支配する墓に戻ることはありませんでした。わたしたち・信仰者にとって墓地は、主イエスが十字架の死からよみがえられたことを記念する場所にほかなりません。それ故に、悪霊に憑かれていた人はもはや、「墓場」の狂気の生活に脅えさせられることはありません。
生きていながらも、「墓場」におびき寄せられそうになる人、挫折を重ねて絶望している人、そして、人間関係において疎外されている人、そうした人々のもとに、主イエスはやって来られます。そのひとりのために、海での難破も恐れずに旅をして、出会いの時を造られます。そして主イエスは、罪人らの敵対心や無関心をその身に浴びながら、憐れみの業と言葉を現されます。その点では、主によって救われているわたしたちは皆、悪霊に憑かれていた人と変わりがありません。教会で、家で、そして外で、「主があなたを憐れんでくださった」ことを知らせましょう。
W
月報8月号
説教 『 その言葉には力があった 』
ルカによる福音書 4章31節~37節
小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
Ⅴ 権威と力のある言葉によって命じる ……ルカ4:36-37
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月25日
旧約聖書 イザヤ書 65章3節~5節(P.1167)
新約聖書 マルコによる福音書 5章1節~10節(P.69)
説 教「いと高き神の子イエスよ」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
……マルコ5:3-5
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
……イザヤ書65:3-5
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
……マルコ5:6-8
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
……マルコ5:9-10
序
マルコ福音書の説教で前回より、主イエスの大いなる救いの御業を読んでいます。その御業によって、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えが、さまざまな角度から示されます。
大きなまとまり(マルコ4:35-5:43)の中に、海上の奇跡、悪霊祓い、そして病気のいやしが集められています。時の経過と共に、伝道の範囲が広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:7,20)。
本日は、主イエスがガリラヤ湖の向こう岸に渡られた時、何が起こったのか、見てみましょう。わたしたちの日常的思考の面から、出来事の細部の一つひとつには納得のいかないこともあるかも知れません。しかし、マルコ福音書の著者は “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという明確な企図を持っています。主イエスにつき従っているペトロはじめ弟子たちと共に、ガリラヤ伝道の最高潮を、すなわち、主イエス・キリストの十字架と復活への信仰告白(マルコ8:27-30)を目指していきましょう。
Ⅰ 汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た
マルコ福音書5:1-2――
1 一行は、湖の向こう岸にあるゲラサ人の地方に着いた。2 イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た。
主イエスは神の御心に従って、「湖の向こう岸」に行かれました。というのも、ガリラヤ地方ならびにその周辺で、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、と宣べ伝えることが、主イエスの使命に中心に置かれていたからです。
使徒パウロもまた、福音を告げ知らせるために、アジア州からギリシアへと渡って行きました(第二回・伝道旅行 使徒16:6-12)。それは決して破天荒な試みではありませんでした。伝道者生活のどん底にあったパウロに、聖霊の守りと共に、天より幻が現されました。
パウロは直ちに、「神がわたしたちを召されているのだ」と確信するに至りました(使徒16:10)。そうして、神の御力によってパウロたち一行は、「地中海の向こう岸に着いた」のです。
確かに人生の中で、いつが「向こう岸に渡る」時なのか、迷うことでしょう。パウロの事例からは次の点を学ぶことができるでしょう。
それは、自分の準備が十分できていなかった時に、あるいは、良いタイミングだとは思えなかった時に、彼は神の御心によって、背中を押されるように出発したということです。すると、「向こう岸」で、神が思いがけない出会いを用意しておられました(使徒16:13-15)。パウロの不安な心は奮い立たされたに違いありません。「向こう岸」にたどり着いたあなたにもきっと、迎え入れてくれる人が待っていることでしょう。
わたしたちの先駆者パウロの前にすでに、主イエスが「向こう岸に渡って」いかれました。新しい伝道地に入って行かれました。そこで、一人のひとと出会われました。
「イエスが舟から上がられるとすぐに、汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」との記述から、この出会いが神の御心に添って行われたことが分かります。すなわち、先行する形で、「イエスが舟から上がられ」、それに呼応して、「汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」のであります。まるで、主イエスの御声に呼び寄せられるかのように、その人は「すぐに・墓場から」出て来ました。
「墓場」がその人の「住まい」でありますから(マルコ5:3)、通常はその人が来訪者と出会うのは、稀なことでありましょう。しかし確かに、彼は遠来の旅人イエスを迎え入れています。
以前、主イエスは山に上って、十二人の使徒を任命されました(マルコ3:13-19)。そこで、新しいスタートが切られました。その際、主イエスは使徒派遣の目的は、「宣教させ、悪霊を追い出す権能を持たせる」ことにあると明言されました(同上3:14-15)。そこで率先垂範、「悪霊を追い出す権能」を現すチャンスが主イエスに巡って来ました。この場面で、使徒たちは沈黙していますが、その光景をしっかり眼に焼き付けておくべきでありましょう。
「ベルゼブル(家の主)論争」の中で、主イエスは「悪霊」を「強い人」になぞらえました(マルコ3:17)。すなわち、「強い人」または「暴君」は人の家に住み込んで、家人を「とりこ」にします(イザヤ書49:24)。それによって、「悪霊」に占拠された人の生活は激変します。その悲惨な情態は、Ⅱ.で確認する通りです。
そうした中で、主イエスは、悪霊に憑かれた人々の前に、「より強い方」・「わたしよりも力のあるかた」として登場されました。「わたしが、あなたと争う者と争うであろう」(イザヤ書49:25)と告げて介入し、その家に平和をもたらされます。
後に主イエスは、罪深い人間の裏切りと無関心によって、十字架につけられました。そして、自ら息を引き取られました(ヨハネ19:30)。そこで一瞬、「悪霊」サイドの人々は、イエスに対する、「墓場を住まいとさせる」(マルコ5:3)陰謀が成功した、と思ったかも知れません。万一、人が遺体を引き取りたい、と願い出ても、「されこうべ」(マルコ15:22)の丘から暗黒の世界へ、終の棲家が「墓場」(新しい墓 マタイ27:60)に替わるだけだと……。
しかし、「強い人」の軍団と闘われた主イエス・キリストは、「人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(フィリピ2:14-15)という謙卑によって、彼らを一掃されました。主イエスは、「力は弱さの中でこそ十分に発揮されるのだ」(Ⅱコリント12:9)ということを、最も大いなる救いの御業である十字架と復活によって現されました。
それでは、悪霊によってがんじがらめの情態になっている人の様子を見てみましょう。悲惨な墓場の生活から人を解き放つ主イエスによって、その男の姿が暴き出されます。
Ⅱ その人は昼も夜も墓場や山で叫んでいた
マルコ福音書5:3-5――
3 この人は墓場を住まいとしており、もはやだれも、鎖を用いてさえつなぎとめておくことはできなかった。4 これまでにも度々足枷や鎖で縛られたが、鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかったのである。5 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
「この人は墓場を住まいとしており」ながらも、「だれも彼を縛っておくことはできなかった」と言います。それでは、いつ「山」から村里に降りて来るか分からないので、怖くなります。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまう」という強力や闇夜をつんざく「叫び」は、その地方一帯の人々を震え上がらせていたことでしょう。
そう考えると、「ゲラサ人の地方」に多くの人が住んでいる中で、なぜ、主イエスが真っ先にこの人に出会われたのか、その理由が判ります。「石で自分を打ちたたいたりしていた」というのですから、一刻も早く、救出しなければなりません。それに応じるかのように、悪霊に憑かれた人は、主の前に進み出ました。
ところで、四福音書中で最初に書き上げられたと言われるマルコ福音書の、時の表示には注意を払わねばなりません。というのも、その用語法の内に、ユダヤの信仰ならびに日常の慣習を写し出す、ヘブライ的時間観念が保持されているからです。
マルコ福音書1:32――
① 夕方になって日が沈むと、人々は、病人や悪霊に取りつかれた者を皆、イエスのもとに連れて来た。
マルコ福音書4:35――
② その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。
①の引用例からは、「夕方になって」と「日が沈むと」というように類句が反復されて、病気のいやしと悪霊祓い(マルコ1:34)の開始として、「夕方」が起点になっていることが分かります(創世記1:2)。とすると、一日が「夕方」から始まる時間観念に沿って、「夜も昼も」(マルコ4:27、5:5)との句を読み取らねばなりません。言い換えれば、それは、「夜も昼も」に込められた、憐れみ深い神の御心を知るということです。
① 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。
マルコ福音書5:5――
② 彼は昼も夜も(原文:夜も昼も)墓場や山で叫んだり、石で自分を打ちたたいたりしていた。
そこで皆さんと共に、神の創造と支配のもとに、一日が「夕方」から始められている中で、「夜も昼も」という時が、すなわち、「夜」⇒「昼」の繰り返しが、どんな意味を持っているか、を捉えることにしましょう。
①の引用例は、成長する種のたとえの一節です。種を土に蒔いた人は、「夜」眠り、「昼」働いています。「神の国」に入れられるように願い、祈っています。その「夜昼」の反復によって明らかになったのは、種蒔いた人が、「種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、知らない」ということでありました。
「種は芽を出して成長する」ことについて、人間は無知なので、謙虚になれ、という道徳的な話なのでしょうか。そうではありません。それは、あなたの「知らない」こと、すなわち、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)のに注意しなさいということです。要するに、あなたに「打ち明けられて」、信仰的に「ドキッ」とさせられるか否か、に掛かっています。
あなたは今、「(種は)増し加えられ実を結ぶ、三十倍に、六十倍に、百倍に」(マルコ4:8 私訳)という神の気前の良さ、大いなる恵みを受け取りますか? それは、あなたの思いをはるかに超える贈り物にほかなりません。
今まで、そんなことがあるとは「知らなかった」し、これからも、「知る自信はない」、と言われるでしょうか。それなら、そのままでよいのです。大切なのは、「神の国の秘密が打ち明けられる」のを期待すること、つまり、 “ 霊 ” の導きによって教えられることです。その時、「知らなかった」あなたは、「知る人」・「信じている人」に変えられます。
遠回りになりましたが、あなたは、「夜」眠り、「昼」働いています。神が、あなたのそのような日常生活を見守っておられます。「土はひとりでに実を結ばせる」(マルコ4:28)ものなので、成長は神におゆだねしましょう。神はあなたが、日照りや茨の地で苦闘しているのをご覧になっています。労苦は決して無駄ではありません。
そうして、大いなる収穫がやって来た時、神はあなたを、「夜」から「昼」へ、すなわち、闇から光へと導き入れられます。そこに、一日が「夕方」から始まることの深い意味があるのです。
「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。実はかつて、偶像崇拝に熱心なイスラエルの民が同じような情況に陥っていました。預言者イザヤが、どのように彼らの罪を告発したのか、耳を傾けてみましょう。
Ⅲ この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごしている
イザヤ書65:3-5――
わたし(神)に逆らう。
わたし(偶像崇拝する者)に近づくな
わたし(偶像崇拝する者)はお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と言う。
絶えることなく火を燃え上がらせる。
紀元前6世紀後半、未だに荒れ果てているエルサレムにおいて、神殿完成の再建(完成:前515年)が急がれている時代でありました。主なる神の支配のもとに、礼拝共同体が確立されること、そして、敬虔な信仰をもって神の栄光を現すことが、最重要なことでありました。
上のテキストは、そのような信仰の立て直しが必ずしも順調に進まなかったことを証言しています。大災難(国家の滅亡と捕囚)からおよそ70年あまり経っていましたが、イスラエルの民の信仰は尚も揺らいでいました。その結果、神に背いて頑なになり、偶像崇拝に走る人々が途絶えなかったということです。
主なる神は、反逆の民に向けてイザヤを派遣し、審判の預言を伝えさせました。
「この民は墓場に座り、隠れた所で夜を過ごし 豚の肉を食べている」というように描写されています。まさにゲラサ地方の悪霊に憑かれた人の有様を思い起こさせます。
もともと、彼らは神礼拝を守る人々から遠ざけられていました。祭司はじめ人々は「汚れた者に近寄らない」ようにしていました(レビ記13:45-46、哀歌4:15)。ところが、ここでは偶像崇拝者が、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな わたしはお前(敬虔な信仰者)にとってあまりに清い」と叫んでいます。立場を逆転させ、仕返しするかのように、自分たちの方が「清い」と言い放ちました。
イザヤは、偶像崇拝者が敬虔な信仰者に「近づくな」と言っていることを皮肉っています。同時に、あきれ果てています。自分たちが「清い」、神聖であると思い込んでいる限り、彼らには救いがありません。
ちなみに、「豚(またはいのしし)の肉を食べる」ことは、ユダヤ人には禁忌とされていました(レビ記11:7、申命記14:8)。「園」、「屋根の上」、「墓場」、そして「隠れた所」、あらゆる場所が、異教の神々を崇める温床になっていました。
イスラエルの民はようやく神殿を再建し、礼拝共同体を確立する時を迎えました。しかし、町や村のそこかしこに、偶像崇拝者たちがたむろしています。イザヤはそこに、「これらの者は、わたし(神)に怒りの煙を吐かせ 絶えることなく火を燃え上がらせる」という「怒る神」の臨在を見ました。
主なる神を信じている人々が誘惑されそうになっています。神の都・エルサレムに、偶像崇拝者や異邦人が押し寄せています。果たして神は、どのように救いの御手を差し伸べられるのでしょうか? 隠れた人の罪悪をも見過ごしにされない神は、「怒りの煙を吐いて」いるということですが(エレミヤ書7:18、11:17)……。
ガリラヤ湖畔で、「墓場を住まいとしている」者が主イエスの前に立ちはだかっています。主イエスは、神の国の福音を告げ知らせようと、自ら異邦人の領域、「ゲラサ人の地方」に足を踏み入れられました。主イエスもまた、その人に向かって「怒りの煙」を上げられるのでしょうか?
Ⅳ いと高き神の子イエス、かまわないでくれ
マルコ福音書5:6-8――
6 イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、7 大声で叫んだ。「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい。」 8 イエスが、「汚れた霊、この人から出て行け」と言われたからである。
神の御心に添って、「〈先行〉イエスが舟から上がられるとすぐに、〈後続〉汚れた霊に取りつかれた人が墓場からやって来た」(マルコ5:2)という出会いが起こりました。
「イエスを遠くから見ると、走り寄ってひれ伏し、大声で叫んだ」……イザヤの時代に、「遠ざかっているがよい、わたしに近づくな」(イザヤ書65:5)と叫んだ反逆の民とは異なります。悪霊に憑かれた人は、主イエスとの「遠さ」(距離)を、「走り寄って」縮めました。「鎖を引きちぎり足枷を砕く」ような荒々しさは影を潜めています。
それは、その人が主イエスの御前に、「ひれ伏す」ためでありました。「汚れた霊」の支配下にある者が、聖なるお方の前に進み出ました。
「ひれ伏す」というのは、礼拝において神の御前にひざまずいている姿勢です。その人の謙遜さのうちに、神に近づくという大胆さが現されています。大切なのは、そこにイエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という主従関係が結ばれたことです。突如、「死の陰の地に住む者に光が射し込みました」(イザヤ書9:1∥マタイ4:16)。「汚れた霊」との格闘にも、逃れの道が見えてきました。
それから、主イエスとその人は、言葉を交わしました。
↓ ↓
ひれ伏した人「いと高き神の子イエス、かまわないでくれ。後生だから、苦しめないでほしい」
直接表現されてはいないものの、「神の怒り」(イザヤ書65:3,5)のもとに、「出て行け」と命令が下されました。そして、その人は下から「いと高き神の子イエス」を見上げました。イエス・キリストが〈主〉、そして、自分が〈従〉という立ち位置から、「神の子」の御姿が現れました。
しばらく前、対岸のカファルナウムの会堂でも、悪霊に憑かれた人が主イエスに向かって、「神の聖者」と叫びました(マルコ1:24)。このような「汚れた霊ども」の言葉は、「信仰の告白ではなく、恐れの告白である」(L. ウィリアムソン)と考えられます。というのは、悪霊は、イエスの「正体」を、具体的には「我々を滅ぼしに来た」ことを見抜いているからです(同上1:24)。
悪霊は人間の口を借りながら、「後生だから、苦しめないでほしい」と憐れみを乞うています。しかし、聞き捨てならないのは、直前の「かまわないでくれ」との強気な発言です。
「かまわないでくれ」……原文を直訳すると、悪霊のしたたかさが見えています。皆さんは、〔直訳〕「わたしとあなたに何の関係がありますか」との言葉から、それが読み取れますか。考えるよりも唱えてみれば分かります。
すなわち、「わたしとあなたに何の関係がありますか」⇒「関係ないだろ!」⇒「ほっといてくれ。とっとと帰れ!」ということです。それは、決してイエスとは主従関係を結ばないという宣言です。このように相手との関係性を、自分でコントロールしようとする「強い人」(マルコ3:17、Ⅰコリント4:10)に、神の祝福はありません。
誇り高く「強い人」人は、「神の恵みと義の賜物とを豊かに受けている人」(ローマ5:17)の対極にあります。なぜなら、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」からです(Ⅱコリント12:9)。「汚れた霊」の策略を見通しておられる主イエスは、あくまでも関係性の観点から、相手を窮地に追い込みます。「名は体を表す」との普遍の真理を覚えつつ、次へと進みましょう。
Ⅴ イエスは「名は何というのか」とお尋ねになった
マルコ福音書5:9-10――
9 そこで、イエスが、「名は何というのか」とお尋ねになると、「名はレギオン。大勢だから」と言った。10 そして、自分たちをこの地方から追い出さないようにと、イエスにしきりに願った。
この場合、「レギオン」とは、悪霊の名というよりも、悪霊に憑かれている人の実体を表しています。「レギオン」という語は本来、ローマの「軍団」を指すもので、それは約六千人の兵士から編成されています。いずれにせよ、「レギオン」に支配されている人間は巨大な力により圧迫されています。
その人は「レギオン」の力によって衝き動かされていました。「鎖は引きちぎり足枷は砕いてしまい、だれも彼を縛っておくことはできなかった」(マルコ5:4)というのは、その爆発的現象にほかなりません。
主イエスが初めに発せられた命令、「汚れた霊、この人から出て行け」こそが重要です。なぜなら、この人は病んでいるというよりも、その身心が悪霊に乗っ取られているからです。
悪霊に憑かれた人は、主イエスの前に「ひれ伏した」時に、立ち直る道が示されました。なぜなら、主イエスは、何がこの人の問題なのか、ご存じだからです。安易な解決法はかえって、その人の身心を蝕みます。
いくら悪霊が、「わたしとあなたに何の関係があるのか」と抗弁したり、「自分たちをこの地方から追い出さないように」と懇願しても、その人は速やかに悪霊から解放されねばなりません。
結
Ⅰ.と Ⅳ.の終わりに、使徒パウロの、「力は弱さの中でこそ十分に発揮される」(Ⅱコリント12:9)との証しを引用しました。「証し」と言ったのは、この句がさまざまな試練を乗り越えた、彼の経験に基づくものだからです。今、ゲラサの地の「墓場」に住む人が、この御言葉の力にあずかろうとしています。
悪霊祓い自体(マルコ5:11-17)は、見るに堪えない、まことにおぞましい出来事です。しかし、自分の常識や善悪の判断をもって、ただ眺めるだけというのは止めましょう。なぜなら、その出来事の中に、神の御心が現されているからです。主イエス・キリストは、異邦人伝道の最初の御業において、わたしたちに救いと愛を示されました。
わたしたちが、見て、知って、信じるに価するのは、次のことです。
御前にひれ伏す人の弱さの中でこそ十分に発揮される」
W
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〈説教の要約〉
2024年 8月18日
説教の構成――
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな ……Ⅰコリント5:11
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか ……Ⅰコリント5:12
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
……Ⅰコリント5:13 + 申命記13:6
序
前回から、コリントの信徒への手紙 一 の新しいまとまり(同上5:1-6:20)を読み始めています。そこでまず、コリント教会内の「みだらな行い」が取り上げられます(同上5:1)。これは、教会が置かれているコリントの町全体の問題でもありました。
教会は神の聖なる神殿である(Ⅰコリント3:17)と同時に、誰もが入って来られるよう、この世に向けて開かれています。コリントの町は、ギリシア人が多数を占めていました。そして、地中海世界の交易拠点として、イタリア、小アジア、アフリカのエジプトやリビア、そしてパレスチナから多数の異邦人が押し寄せてきていました。ユダヤ人もコリントに会堂を建て、信仰を守っていました(使徒18:7)。
そのような環境の中で、パウロが教会の土台を据え、アポロをはじめする人々が建てついでいきました。自ずから、歴代の指導者たちがどれほど、教会の聖さを保つために腐心していたかが、しのばれます。当時、偶像崇拝に熱心な異邦人の家で働いていたキリスト者もいたことでしょう。富裕なギリシア人に負債があり、言いなりにならざるを得ない教会員もいたかも知れません。いずれにせよ、信仰の揺らぎやすい彼らへの牧会は重要でありました。
パウロのコリント伝道を支えたのは、主なる神の御声でありました……「恐れるな。語り続けよ。…… あなたを襲って危害を加える者はない。この町には、わたしの民が大勢いるからだ」(使徒18:9-10)。
大胆に異教の世界に出て行くこと……そこから、コリントの伝道が始まります。その上で、外の世界との接触により疲れた魂がいやされるよう配慮しなければなりません。教会内に、間違った性的自由が忍び込んでいれば、原因を見極め、「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)をもって正さねばなりません。
ちなみに、今扱っている聖書箇所・「不道徳な人々との交際」(Ⅰコリント5:1-13)は二分割されますが、各段落はパウロによる勧告で締めくくられています。
〈連帯〉「純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。」Ⅰコリント5:8
〈除名〉「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」同上5:13
「みだらな行い」という微妙な問題に突きあたりながらも、パウロの論理は乱れていません。むしろ、“ 霊 ” の導きによって、二つの勧告が、「神の慈愛」〈連帯〉から「神の峻厳」〈除名〉へと行き巡っています。
パウロは初めに、キリストの体なるコリント教会に愛を語り、次に、「みだらな者」(Ⅰコリント5:9)に対し正義を告げています。そこには、神の知恵が豊かに宿っており、“ 霊 ” 的な説明が提示されています。パウロ自身は、「キリスト・イエスによって聖なる者とされた人」(同上1:2)ですが、教会内の「みだらな行い」に真剣に係わろうとしています。
それでは、本日のテキスト、「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」が結びとなっている箇所を読むことにしましょう。
Ⅰ あなたがたは世の中から出て行かねばならないのか
コリントの信徒への手紙 一 5:9-10――
9 わたしは以前手紙で、みだらな者と交際してはいけないと書きましたが、10 その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう。
パウロは、「みだらな行い」という微妙な問題を解決していくにあたり、「以前の手紙」によって生じている誤解を解こうとしています。互いの間に共通認識を築いてから、議論を進めるというやり方は言うまでもなく、賢明です。パウロの冷静さがうかがえます。
ところで、パウロがコリント教会宛に書き送ったと見られる「以前の手紙」は、詳細不明です。というのも、新約聖書・パウロ書簡内に、「以前の手紙」が見当たらないからです。しかしながら、「今の手紙」(コリントの信徒への手紙・本文)に照らせば、「以前の手紙」から、どのように誤解が生じたのか、推察できます。
「以前の手紙」の本文 …… みだらな者と交際してはいけない。
誤解の元 …… どのように「みだらな者」という言葉を認識したのか。
・パウロの真意
「あなたがたの間で、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)との言説の通り、
「みだらな者」は、教会内の人物、すなわち、キリスト者を指している。
・コリント教会側の理解
すなわち、教会の内外にかかわらず、「みだらな者と一切つきあってはならない」という厳しすぎる命令だと受け止めた。
結果として、教会内から「みだらな者」または「みだらな行い」を取り除くことをしなかった。
「みだらな行い」という個別の問題としてではなく、パウロとコリント教会とのすれ違いを大局的に眺めてみましょう。
そこで見えてくるのは、パウロがキリスト教倫理を確立する、その途上にあったということです。パウロは十戒など旧約の律法に精通している人ですから、キリスト者としての「新しい生き方」、倫理・道徳をとりまとめていく適任者であります。
しかし、パウロが細目まで決めて、起草して終わりというものではありません。エルサレム教会のペトロたちの意見も聞かなければならないでしょう。それなら、皆が従えるような、キリスト教倫理を確立するには、時間がかかるでしょう。加えて、その倫理は、それぞれの教会が置かれた地域、文化、政治等にも関わりがあります。
そのような難題を抱えていますが、わたしの見るところ、パウロにおいて、キリスト教倫理が確立される途上でありました。
パウロや同労者アポロやテモテは、“ 霊 ” の導きのうちに、自分がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるか、真剣に考えていました。その中でキリスト者として、どのように、自分が振る舞うべきか、あるいは、隣人の困窮に応じ助けるか、が明確になってきました。
ただし、パウロが「以前の手紙」を書いた時点では、「(教会)内部の人々のみだらな行い」と「外部の人々のみだらな行い」との区別が曖昧でありました。その点では、誤解が生じたのも、止むを得ないことでありました。
もちろん、「みだらな行い」という罪過に、二通りの「評価・判断」があるわけではありません。しかし、教会員が「キリスト教倫理」を実践するときに、「内部の人々」と「外部の人々」との間で、交際の仕方に違いが出て来るのは当然です。「みだらな行い」は微妙な問題だからこそ、まずは教会内でその罪過への対応を定めるべきでありましょう。
この世の道徳はルーズだ(たるんでいる)とかこつ前に、例えば、「姦淫してはならない。隣人の妻、男女の奴隷、牛、ろばなど隣人のものを一切欲してはならない」(出エジプト記20:14,17)との戒めによって、神の御前に立つことです。この世の腐敗を嘆く前に、「みだらな行いを避けなさい」(Ⅰコリント6:18)との言葉を自分の心に刻まねばなりません。
「もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」……パウロは皮肉を込めて、やんわりと問いかけています。にもかかわらず、「世の中」ある教会だからこそ、早いうちにキリスト教倫理を確立したいとのパウロの熱意が、一部の人にしか伝わっていないようです。
コリントの町には、「みだらな者、強欲な者、人の物を奪う者、偶像を礼拝する者」に溢れていました。そこでパウロは、教会で礼拝を守り、「世の中」で生活するキリスト者に簡潔な命令を送っています。
Ⅱ 兄弟と呼ばれる人で、みだらな者とは つき合うな
コリントの信徒への手紙 一 5:11――
わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです。
パウロは、「わたしが書いたのは」と書き出して、「以前の手紙」で曲解された事柄について真意を伝えようとしています。Ⅰ.でも述べましたが、このような信仰者同士のやり取りを通じて、キリスト教倫理が確立されてきました。つかの間の誤解を解きほぐすことから、「兄弟と呼ばれる人」、すなわち、キリスト者の生活が秩序づけられていきます。
ここでは、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」というように、六つの悪徳が数え上げられています。「兄弟と呼ばれる人で」と前置きされた上で、このような罪深い行いをする者とは「つきあうな」と、彼らとの交際が禁じられています。
そしてパウロは具体的に、「そのような人とは一緒に食事もするな」と指示を出しています。コリントの町では、キリスト者が異教徒と「食事をする」機会が頻繁にあったと思われます。異教徒は、隣の家にも、仕事場にも、さらには家庭の中にも存在していたはずです。
従って、いくらひもじい思いをしていても、「偶像を礼拝する」形での食事の催しには警戒しなければなりません。飲食によって羽目を外し、邪な教えに毒されるというのは、人間の性とも言える悪弊です。その罠にはまらないためにも、「そのような人とは、つきあうな」との教えを通じて境界線を引いておくことです。
ここで、「食事をする」というのは、教会内の愛餐会や家庭集会での飲食などに関わる問題ですので、少し補足します。
「そのような人とは一緒に食事もするな」とは逆の面で、果たして、キリスト者が律法主義的に「食事をする」ことに制限を付けるのは、如何なものかということです。パウロのここでの議論では「食事」を(聖礼典としての)「聖餐」に特定しているわけではありません。それで今お話ししているのは、ふだんキリスト者同士が、あるいは、キリスト教を求道する者が、「一緒に食事をする」際の指針について、になります。
それで思い起こすのは、主イエスの公生涯や初代教会の時代において、(誰とかは後で説明します)「一緒に食事をしてはならない」と禁じることで、宣教が妨げられることが、しばしばあったということです。
二つの事例を挙げましょう。
マルコ福音書2:16-17 レビを弟子にする――
16 ファリサイ派の律法学者は、イエスが罪人や徴税人と一緒に食事をされるのを見て、弟子たちに、「どうして彼は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」と言った。17 イエスはこれを聞いて言われた。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためである。」
ガラテヤの信徒への手紙2:11-12 パウロ、ペトロを非難する――
11 さて、ケファ(=ペトロ)がアンティオキアに来たとき、非難すべきところがあったので、わたしは面と向かって反対しました。12 なぜなら、ケファは、ヤコブのもとからある人々が来るまでは、異邦人と一緒に食事をしていたのに、彼らがやって来ると、割礼を受けている者たちを恐れてしり込みし、身を引こうとしだしたからです。
これらの「食事」の事例から分かるのは、「イエス」、また、「ケファ」(同席しているパウロも)、すなわち、新約の時代を代表する人物が、「罪人」、「徴税人」、そして「異邦人」と「一緒に食事をしていた」という事実であります。
出自や人種の垣根を越えて「兄弟と呼ばれる人」(=キリスト者)とは会食をするのが、慣わしでありました。「割礼を受けている者」でキリスト教に改宗したユダヤ人も、「割礼を受けていない」異邦人のキリスト者も、等しく招かれました。その「食事」の席において、主イエスの御言葉が語られ、「兄弟姉妹」の交わりが深められました。
わたしたちは概ね、「兄弟と呼ばれる人とは一緒に食事をする」という基本姿勢を保持しています。そうした中で、「みだらな者とは一緒に食事をするな」との禁令が発せられたことに留意しなければなりません。
食生活というのは、キリスト者のみならず人間すべての基盤であります。どんな物を食べてよいとするのか、あるいは、どのような作法をもって食卓につくのか等、多少の違いがあります(レビ記11章、マルコ7:3-4、使徒10:9-16)。
今日でも、キリスト者が「一緒に食事をする」際には、「食べ物について兄弟が心を痛めるないように」配慮しなければなりません(ローマ14:15)。日和見主義の「ケファ」のように、会食のメンバーを見渡して、出欠を決めるのも慎まなければなりません。大切なのは、主イエスの臨在を祈り、愛をもって食卓を囲むということです。
パウロはコリントでもエフェソでも、日毎の食卓において、主イエス・キリストにより「神の慈愛と峻厳」(ローマ11:22 口語訳)が現されることを願っていました。その意味では、自分の宣教の困難を覚えつつ、「神の峻厳」により「みだらな者とは一緒に食事もするな」と勧告したのではないでしょうか。牧会上の試練に襲われる中でも、パウロは「キリストに仕える者であり忠実な管理者」(Ⅰコリント4:1-2)として、自分を抑制することを知っていました。
Ⅲ 内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか
コリントの信徒への手紙 一 5:12――
外部の人々を裁くことは、わたしの務めでしょうか。内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか。
パウロは「今の手紙」で、誤解を解きほぐすべき、明瞭な言葉遣いをしています。一方、「外部の人々」とは、教会の「外」の人々を指しています。他方、「内部の人々」は教会の兄弟姉妹を表しています。
初めに、キリスト者は①「外部の人々を裁くべきではない」こと、次に、キリスト者は②「内部の人々を裁くべきである」ことについて説き明かしましょう。
これは、「外部の人々」、この世の人々に関心を持ってはならないということではありません。そもそも、「世の中から出て行く」ならば、自ら伝道の芽を摘んでしまうことになります。信仰者は「いわば旅人であり、仮住まいの身」(Ⅰペトロ2:11)として、「この世」で力の限りに生活しています。主イエスは神の民に、「地の塩」であり「世の光」であるように、と使命を託されました(マタイ5:13-14)。
だからこそ信仰者は、「この世の悪い者」や「みだらな者」から「守ってくださる」ように、と主に願い祈っています(ヨハネ17:11)。このように、神に依り頼むことにおいて、「外部の人々を裁く」のを差し控えるのです。それによって、「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」(Ⅰコリント4:5)との教えに従えるようになります。
②「内部の人々を裁くべきである」――
わたしたちは、「裁く」という言葉からすぐに裁判を想起します。がしかし、「裁く」との原意は「二つに分ける」で、善し悪しを「判断する」(評価したり批判したりする)ということです。ですから、教会内でお互いに「裁く」、すなわち、「判断する」のは日常的なことと言えます。
付け加えれば、「量る」という言葉も同列です。主イエスは弟子たちに、「何を聞いているかに注意しなさい。あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」(マルコ4:24)とのたとえを語られました。ここには明確に、信仰者は「自分の量る秤」を持っていることが示されています。その「秤」をもって正しく、神と、自分と、兄弟姉妹とのことを「判断する」のです。その判断のもとに、愛の交わりが確立されるのでありましょう。
絵画的描写になりますが、「自分の量る秤」は、主イエス・キリストなる「ともし火」によって皓々と照らされています(マルコ4:21)。その上、「自分の量る秤」には元来、注意深く「聞く耳」が付いています(同上4:31)。
「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、更にたくさん与えられる」というのですから、主イエスはこの「自分の量る秤」が活用されることを望んでおられます。台所の戸棚に隠しておいてはなりません。
Ⅰ.で、パウロはキリスト教倫理を確立する、その途上にあったと述べました。それは言い換えると、「自分の量る秤」で、信仰者のガイドブックとなる「善し悪しの判断」の集成が出来つつあったということになります。“ 霊 ” の息吹のかかった「秤」を重用したパウロは確かに、「持っている人は更に与えられるであろう」人(マルコ4:25)の先駆者でありました。
そのパウロの、「内部の人々をこそ、あなたがたは裁くべきではありませんか」との勧めに耳を傾けましょう。そうすれば、聖書の規範のもとに、教会内で、「人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をする」(Ⅱテモテ3:16)ことが実践されるでしょう。
Ⅳ あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:13――
外部の人々は神がお裁きになります。「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい。」
その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
段落の結びに旧約を引用する傾向のあるパウロは(Ⅰコリント1:31、2:16)、「不道徳な人々との交際」(同上5:1-13)のまとまりの最後に、申命記の勧告を置いています。そこに、「書かれているもの以上に出ない」(同上4:6)という彼の節度と賢明さが表されています。
引用元の申命記13:6について、短く補足します。これは、偽預言者たちがしるし、奇跡、そして夢占いなどを使って、主なる神を信じる者たちを誘惑しているという状況下に物語られたものです。主の言葉を取りつぐモーセは、「あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださった」という神の大いなる御業を思い起こすように、と告げています。憐れみと義なる神の権威によって、「あなたの中から悪を取り除け」と命じられています。
「あなたがたの中から悪い者を除き去りなさい」……ここでは、コリント宛の「以前の手紙」で誤解が生じたことを踏まえて、簡明に「みだらな者」に対する裁きを指示しています。「あなたがたの中から」との一句の内に、「あなたがた」に戒規上の手続きがゆだねられていることが分かります。
現実に、コリント教会は、「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」(Ⅰコリント5:1)という由々しき事態に直面しています。
結
教会における裁きは、神の御前において、「自分たちの量る秤」によって「判断される」ものであります。従って、「判断する」側の人々が、主イエス・キリストなる「ともし火」に照らされて、十字架と復活の御言葉を「聞いている」かどうか問われています。慎重に祈りをもって進めねばなりません。
言い換えれば、それは、その兄弟が罪のどん底から、神のもとへ立ち帰るかどうか、慎重に待つということです。「あなたがたの間に」、「そういう人を柔和な心で正しい道に立ち帰らせる」(ガラテヤ6:1)よう執り成す人が現れるかも知れません。
何よりも、主イエス・キリストが「あなたがたの間に」立っておられます。主イエスはかつて、二、三人の証人の立てられた教会での裁きに関して、次のように述べられました。
マタイ福音書18:15――
「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。」
「あなたはあなたの兄弟を得たことになる」の英訳は、‘ you have won your brother back ’(TEV)です。 ‘ win … back ’ という熟語が絶妙です! 単に人が奪還されて良かったという話ではありません。これをヒントにわたしは、次のように意訳してみました。
「あなたは“霊”に導かれて、いったん迷い出たあなたの兄弟を取り戻し、主の勝利を輝かすことになる。」
この度の「みだらな者」の裁きは、除名という結果に終わるのでしょうか。神の祝福が、コリント教会の信徒の「量る秤」の上に、正当な判断の上に、ありますように、とパウロは祈っていたことでしょう。
たといその兄弟を ‘ win … back ’ できなかったとしても、何事においても、神の栄光を映し出すことを第一とするコリント教会の働きを、神はいつも見守っておられます。神はわたしたちを祝福し、命の息を吹き入れるお方です。そのお方に結びつけられてこそ、わたしたちは「清さを保ち続ける」ことができます。
パウロに倣って、自分の清さに気を配るだけでなく、「みだらな者」が神の栄光のもとに奪い返されるよう、執り成し、祈りましょう。聖なる者とされた人には、キリストの体を造り上げてゆく使命が託されています(エフェソ4:12)。
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〈説教の要約〉
2024年 8月11日 旧約聖書 哀歌 2章14節
新約聖書 ルカによる福音書 22章31節~34節
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける ……ルカ22:31
Ⅱ 兄弟たちを力づける ……ルカ22:32
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する ……ルカ22:33
Ⅴ あなたを立ち直らせる ……哀歌2:14
結
序
主イエスは十字架につけられて、死を遂げ、三日後によみがえられました。それは、わたしたちの弱さと罪を担い、わたしたちを新しく生まれ変わらせるためでありました。それが、神のお遣わしになった主イエスによって救われるということでありました。
神は、わたしたちが救われて、希望をもって将来に向けて歩み出すことを心から願っておられます。というのも、元々人間は、「見よ、それは極めて良かった」(創世記1:31)との神の言葉のもとに創られたものだからです。神は創造主として、人間を見守っておられます。主イエスがこの世に遣わされたのも、神がわたしたちに寄り添っていることを示すためでありました。
そのような神の力と愛に応えるために、わたしたちが何をすればよいのでしょうか?
大きく分けると、二つあります。一つは、神を信じ、神にあらゆることをゆだねることです。それを実践するために、キリスト者は主の日に礼拝を守り、日々祈っています。
もう一つは、わたしたちが神への感謝を現すことです。神を礼拝し祈ることはじめ、自分で聖書を読むこと、隣人のために善い行いをすることなどがあります。
わたしたちが忍耐強くそれらを続けていくとき、わたしたちが神の国をめざし、希望をもって歩んでいることは大きな力となります。と同時に大切なのは、自分の個性や賜物などを、その弱さを含めてしっかりと見つめることです。
なぜなら、自分には思い悩みがあり、また、この世にはさまざまな誘惑や苦難があるからです。それ故に、隣人を助けるための自分の善い行いが本当に正しいことなのか、分からなくなることがあります。また、その善い行いを途中で放り出してしまうような挫折に遭うこともあります。だからと言って、自分の弱さや罪を包み隠してしまうことは、神の御心ではありません。
主イエスはたとえをもって、「あなたがたは自分の量る秤で量り与えられ、(あなたがたに)更にたくさん与えられる」(マルコ福音書4:24)、と人々に教えられました。主イエスの御言葉を「聞く耳」を持っている人は、「自分の量る秤」を使い得る人です。その人は、主イエスの「ともし火」によって、自分の信仰や善行が皓々と照らされます。ごまかすことも、なまけることもできません。
だから、その人は善い行いの是非を「量る」つまり「判断する」ことができます。挫折や困難に遭っても、正しく「評価する」・「批判する」・「考える」ことができます。ブレーズ・パスカルが「人間は考える葦である」と言ったのは、まさにこのことです。
少し前置きが長くなりましたが、主イエスが十字架刑直前の晩餐で、その最後の最後に語られたのは、今お話ししたことと深い関係があります。残念ながら、ペトロはじめ使徒たちは、自分の弱さや罪におぼろげにしか気づいていません。主イエスはどんなことを、そのようなペトロに告げておられるのでしょうか?
Ⅰ あなたがたを小麦のようにふるいにかける
ルカ福音書22:31 主イエスの言葉――
「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。」
「シモン、シモン」との連呼には、切迫した雰囲気の内に、弟子・ペトロに対する主イエスの熱い思いが表れています。良くも悪くも、失敗があったとしても、ペトロは弟子たちのリーダーなのですから。
「サタンは……を神に願って聞き入れられた」との表現は微妙です。なぜなら、「あなたがたを、小麦のようにふるいにかけること」が、神の計画なのか、それとも、サタンの仕業なのか、曖昧になっているからです。しかし、根本的にはそこに神の御心が働いていたと見て、良いでしょう。次の出来事において、それが例証されています。
それは、主イエスが悪魔によって受けた、荒れ野の試みです(ルカ4:1-12)。「荒れ野の中を“霊”によって引き回された」、その出来事において、主イエスは苦難を背負いながらも、わたしたち・信仰者に重要なことを教えられました。すなわち、「わたしたちを誘惑に遭わせないでください」(ルカ11:4)と祈ることを教えられました。わたしたちは自分の人生で、どんな「誘惑」が襲って来るのか、分かりません。それ故に大切なのは、祈りの中で、弱い自分を認め、神に助けを願い求めることです。「誘惑」への勝利は、主イエスに任せばよいのです。
主イエスが「四十日間、悪魔から誘惑を受けられた」のは、何よりもガリラヤ伝道において、「誘惑」に打ち勝つ神の御子が登場するという備えであり幕開けでありました。と同時にそれは、「誘惑」の嵐の中でひたすら祈るよう信仰者を導くという教えでありました。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」……「ふるいにかける」ことによって、本物と偽物とが分けられます。本物を装っていたとしても、この「ふるいわけ」によって、偽物は「ふるい」落とされます。
では、サタンによる最強クラスの「ふるいわけ」に耐えて残った「本物」とは、一体何を指しているのでしょうか。そこで、この試みの遂行が「神に願って聞き入れられた」との句がヒントになります。
主なる神は今、御子イエス・キリストを世に遣わして、罪人を助け出そうとされています。とりわけこれは、主イエスの十字架と復活の出来事の直前の、「サタン」と「神」とのやりとりです。
サタンの巻き起こす激しい「ふるいわけ」を用いてまでも、神が企図されたのは、御子の前に「本物」を残すということでありました。従って、「本物」とは、主イエス・キリストを信じ、主によって救われる人を指しています。主イエスの死と復活の予告(マルコ8:31)を聞いて、その救いの御業に自分もあずからせてください、と御子の前に進み出る人が、「本物」の信仰者なのです。
付け加えれば、すぐに吹き飛ばされる偽物と違って、最後まで残る「本物」は最強度の「ふるいわけ」を長時間こうむることになります。ペトロやパウロが迫害はじめ数々の試練に遭っているのは、そのためです。
繰り返しになりますが、主イエス・キリストの救いの御業に、自分があずかっているか、それを頼みの綱としているか、そうでないか、が分かれ目です。どんな試練の時にも、自分で克服するのではなく、そこから逃れられるように、主イエスに祈ることが第一に肝要です。
Ⅱ 兄弟たちを力づける
「しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい。」
「しかし」で、次の驚くべき展開が示されています。すなわち、神の監視下でのサタンの「ふるわけ」作業には必ず終わりの時が来ます。主イエスが「信仰」が守られるように、「あなたのために祈って」くださいます。「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」というように、あなたの出番がやって来ます。
その時、主イエスの御言葉を「聞くあなたの耳」は研ぎ澄まされます。この世の善悪を見極める「あなたの量る秤」は重用されます。「あなたは立ち直った」という強みを持っています。「あなた」はつまずきそうな人の傍らに立つことができます。苦難を体験した「あなた」は、同じような苦しみをこうむっている人を「力づけ」られます。
主の晩餐の直後、大祭司の屋敷内で、ペトロは三度もイエスを否みます(ルカ22:54-62)。「だから、あなたは立ち直ったら」って、本当なのかしら、と思うことでしょう。
ルカ福音書23:34 十字架上で――
そのとき、イエスは言われた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」
しかし、ペトロは立ち上がって墓へ走り、身をかがめて中をのぞくと、亜麻布しかなかったので、この出来事に驚きながら家に帰った。
ルカ福音書24:33-34――
33 そして、時を移さず(二人の弟子がエマオから)出発して、エルサレムに戻ってみると、十一人とその仲間が集まって、34 本当に主は復活して、シモンに現れたと言っていた。
十字架上で主イエスは、罪人たちを見渡しながら「父よ、彼らをお赦しください」と言われました。「信仰が無くならないように」、逃亡しているペトロを覚えて祈っておられました。
そのことは、復活の主イエス・キリストによって、ペトロの「信仰」が呼び覚まされたことから分かります。空の墓にまつわる婦人たちの言葉を聞いて、ペトロはすぐに墓に向かって駆け出しました。それから、その夕べには仲間たちの間で、ペトロは「本当に主は復活して、自分に現れた」と証ししました。
これぞまさに、わたしたちの思いをはるかに超えた出来事、人生の大逆転です。ペトロは、死から起き上がられた主イエスによって、「立ち直らされ」ました。
そうして、ペトロは、エマオから戻って来た二人の弟子はじめ、その仲間たちを「力づける」者となりました。ただし今や、「本物」の信仰者であるペトロは、「小麦のようにふるいにかける」ような試練によって打ちのめされた、弱く罪深く人間であることをも、大胆に証言したに違いありません。
聖霊降臨の後に、ペトロはエルサレム神殿の境内で、民衆にこう語りかけました……「だから、自分の罪が消し去られるように、悔い改めて立ち帰りなさい」(使徒3:19)。この言葉は、ペトロを取り巻く群衆のみならず自分自身に向けられたものなのではないでしょうか……三度もイエスを否んだ大罪が赦されるように、と。ペトロが演説している所から、ゴルゴタの丘はさほど遠くありません。そこに、大胆に御言葉を語るペトロの力の源がありました。
Ⅲ 死んでもよいと覚悟する
ルカ福音書22:33――
するとシモンは、「主よ、御一緒になら、牢に入っても死んでもよいと覚悟しております」と言った。
十字架刑の前夜に、話は戻ります。つまり、ペトロが「悔い改めて立ち帰る」以前のことです。
まるで天の邪鬼のように、ペトロは片意地を通しています。主イエスの「信仰が無くならないように」あるいは「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32)という慈しみ深い語りかけは、ペトロには他人事です。魂への配慮である御言葉を受けつけていません。
「信仰が有る」から大丈夫、つまずかないから「立ち直る」必要はないと、ペトロは思い込んでいます。そうして、先を見通す主イエスに逆らっています。
一見、「牢に入っても死んでもよいと覚悟している」とのペトロの言葉には、非の打ち所がないように思われます。しかし、「主よ、御一緒になら」と言いつつも、慈しみ深い主の言葉を拒んでいるのは、どういう訳でしょうか。主イエスが傍らにおられると言うならば、主に対し、とことんへりくだるべきでありましょう。ここで、ペトロの盟友、パウロの事例を引きましょう。
第三回・伝道旅行の折、パウロはエフェソの長老たちに、次のように述べました。パウロは幾度も、「牢に入っても死んでもよい」というほどの苦境を経験した人でありました(使徒14:5、16:22-24)。
使徒言行録20:23――
「ただ、投獄と苦難とがわたしを待ち受けているということだけは、聖霊がどこの町でもはっきり告げてくださっています。」
「聖霊がはっきり告げる」が故に、自分は「わたしを待ち受けている投獄と苦難」に対し心構えができているということです。「待ち受けている」との言い方から、自分が勇んで体当たりし撃沈しようというのではない、と分かります。
自分の「覚悟」ではなく、「聖霊」の教えに従って、苦難の道を進んで行くと、パウロは証言しています。その点で、十字架の出来事以前の、片意地を張ったペトロとは大きく異なっています。ペトロは自ら危険を冒してヒーローになろうとしています。
ペトロは、うわべだけで「主よ、御一緒になら」と言っているに過ぎません。「聖霊」によって為すべきことを教えられるという霊性と熟慮が欠けています。そこで、主イエスがペトロを一喝されます。
Ⅳ 三度わたしを知らないと言う
イエスは言われた。「ペトロ、言っておくが、あなたは今日、鶏が鳴くまでに、三度わたしを知らないと言うだろう。」
「三度わたしを知らないと言う」……ペトロは冷や水を浴びせられたような気分になったでしょうか。「牢に入っても死んでもよい」というペトロの「覚悟」は打ち砕かれました。主イエスは、ペトロの行いではなく、御自身と一人の弟子との関係を問われました。「あなた」は「わたし」を信じているか、が中心テーマでありました。その信仰から、善い行いが生み出されます(Ⅱコリント8:7)。
「父よ、わたしの願いではなく、御心のままに行ってください」(ルカ22:42)と祈られたお方の予告です。ですから、「三度わたしを知らないと言うだろう」というのは重い言葉です。この夕べの食事が終わってから、朝「鶏が鳴くまでに」、予告通りのことが起こります。
その夜、主イエスは祭司長や長老たちによって逮捕され、大祭司の家に連れて行かれます(ルカ22:54)。「主よ、御一緒になら、死んでもよい」と言っていたペトロは主を追って、その屋敷に忍び入りました(同上22:55)。そこで、主の晩餐の席(同上22:14-23)と異なり、ペトロは完全アウェーの状況に投げ込まれます。独りきりで、反イエスの人々がたむろしている、閉じられた空間に置かれました。そこでは、自分の知識や経験、また「覚悟」は役立ちません。
ペトロは、主イエスの注意喚起された「ふるいわけ」に遭遇することになります。「イエスを知っている」か、それとも、「イエスを知らない」かの二択です。そうして、本物と偽物とが見分けられます。
「サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」のですから、その「ふるいわけ」は容赦ありません。眼光鋭く、記憶力抜群の告発者がペトロを尋問します(ルカ22:54-62)。
結果は、火を見るよりも明らかです。「イエスを知らない」の三連発で、決死の「覚悟」のペトロは自滅しました。「そして外に出て、激しく泣いた」(ルカ22:62)……いとも鮮やかな撃沈です。ペトロの片意地も熱い思いも打ち砕かれました。
その時にこそ、「だから、あなたは立ち直ったら……」との主イエスの言葉を思い起こしたいものです。まだ半日も経っていないのですから、思い出すのは容易です。主イエスは「打ち砕かれ悔いる心」(詩編51:19)の人を見過ごしにされません。「川のように涙を流す、休むことなくその瞳から涙を流す」(哀歌2:18)の人の傍らに立っておられます。
ここで一応、本日のテキスト「ペトロの離反を予告する」についての説き明かしを終えることにします。ただし、補足の形になりますが、「だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」との慈しみ深い主イエスの言葉について、旧約聖書を通して掘り下げてみましょう。
Ⅴ あなたを立ち直らせる
哀歌2:14――
一度、罪をあばくべきなのに
むなしく、迷わすことを
あなたに向かって告げるばかりであった。
ユダ王国がこうむった大惨事(前587年)の際に、その情況を実況中継するかのごとく、哀歌2章が編まれました。ここで、「あなた」と呼ばれているのは、「娘エルサレム」(哀歌2:13)のことで、ユダの残りの民を表しています。詩人は、「娘エルサレム」に寄り添いつつ、その悲しみを歌い上げています。
一方、バビロニア軍の攻撃によって虐殺された人との別れがあり、他方、バビロンの地に連行されていく人との別れがあります。弔いと見送りの中で、主なる神への信仰を守り続けるのは、並大抵のことではありません。
この時、「娘エルサレム」は、「サタンがあなたがたを、小麦のようにふるいにかける」というような試みに遭っていたのでしょうか。確かに、王国、神殿、そして多くの宗教指導者が失われていく中で、選民・イスラエルの、信仰の真価が問われたことが、哀歌の内容からも伝わっています。
思いがけない「ふるいわけ」によって、偽物は飛び散りました。その正体が暴かれました。「むなしい、偽りの言葉ばかり」の「託宣」であった、と告発されています。
しかし、信仰においての本物、すなわち、「苦難の時の砦の塔」(詩編9:10)なる主に依り頼んでいた人々が数多く残っていたわけではありません。だからこそ、哀歌に中心テーマとして、「あなたを立ち直らせる」ことが取り上げられたのです。
ここで、「あなたを立ち直らせるには 一度、罪をあばくべきなのに」という詩人の言葉に沿って、「娘エルサレム」が神礼拝を再開し、善い行いをするようになる道筋を捉えましょう。
最初に、「だから、あなたは立ち直ったら」(ルカ22:32 ギリシア語)と「あなたを立ち直らせるには」(哀歌2:14 ヘブライ語)とを並べて考察しましょう。すると双方とも、「立ち直り」の原意は「立ち帰り」であり、それは、主なる神への「立ち帰り」を表している、と判明します。
次に、真に神に「立ち帰る」ために、自分の「罪をあばく」こと、すなわち、自分の「罪」を告白し、「悔い改める」ことが起こります。「鶏が鳴いたとき」にペトロが「激しく泣いた」(ルカ22:60-62)というのは、彼の悔いる心を示唆しています。
最後に、わたしたちが神に「立ち帰り」、「立ち直る」ならば、「兄弟たちを力づける」という愛の業が始められます。神の愛がわたしたちに注がれます。そして、わたしたちが通りよき管として用いられ、その愛が隣人に分かち与えられます。
結
突発的な「ふるいわけ」、あるいは、大災難という試みに遭った、使徒ペトロや「娘エルサレム」の人生から、次のことが分かります。
それは、最初から最後まで一貫しているのは、主イエス……その先駆者としての哀歌詩人……の祈りであるということです。父なる神への立ち帰り、罪人の悔い改め、そして隣人への愛という大きな輪の中心に、主イエス・キリストがおられます。「わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った」というのですから、危難が激しいほど、主イエスは信仰者のために、いよいよ切に祈ってくださいます。祈られる主イエスが、わたしたちと共に戦ってくださいます。
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〈説教の要約〉
2024年 8月4日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第12主日
旧約聖書 詩編89編 10節(P.926)
新約聖書 マルコによる福音書 4章35節~41節(P.68)
説 教「風はやみ、すっかり凪になった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
……マルコ4:35-36
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
……マルコ4:37-38
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる ……詩編89:10
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった ……マルコ4:39
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
……マルコ4:40-41
序
主イエスはこれまでに、病気のいやしや悪霊の追放などの奇跡(マルコ1:21-45、2:1-12、3:1-6,10-11,22-23)を行われました。次の大きなまとまり(同上4:35-5:43)には、より大きな奇跡が連続して出てきます。
それに伴って、伝道の範囲が徐々に広がっていきます。主イエスはガリラヤ湖畔・カファルナウムを拠点としつつ、ガリラヤ周辺(マルコ5:1、6:1)を巡回されます。そうして、ユダヤ人のみならず各地の異邦人が群れをなして、主イエスにつき従うようになりました(同上3:7-8、5:20)。
ここで、主イエスがガリラヤ湖畔やその周辺で宣教することに、どんな意味があるのでしょうか、という質問が出てくるかも知れません。一つひとつのたとえ話や奇跡物語からメッセージを汲み取るのが大切なのは分かりますが、一体何のために伝道が行われているのか、総括してくれませんか、ということです。
確かに、本の「あとがき」や「解説」から読む人は多いでしょうし、そこで著者や作者の意図や背景を知った方が本文の内容がより深く理解できることでしょう。そこで、どんなことを目指して、主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)が繰り返されているのか、端的にお教えしましょう。
マルコ福音書の著者はまさに “ 霊 ” によって、読み手をここに導くという企図を持っていました。それが、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という出来事になります。つまり、ペトロに代表される人間が、主イエス・キリストの十字架と復活を信じるということこそ、ガリラヤ伝道の最高潮なのです。ここに、「いったい、この方はどなたなのだろう」(マルコ4:41)との問いへの答えも示されています。
それでは、どこを目指しているか、明確にされたところで、一つの奇跡物語を読み味わいましょう。
Ⅰ 向こう岸に渡ろう
マルコ福音書4:35-36――
35 その日の夕方になって、イエスは、「向こう岸に渡ろう」と弟子たちに言われた。36 そこで、弟子たちは群衆を後に残し、イエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した。ほかの舟も一緒であった。
「その日の夕方になって」と時間が表示されています。実は四つの福音書の中で最も古いと言われているマルコ福音書には、ヘブライ的時間観念が色濃く残存しています。すなわち、この福音書全体にわたり、一日が夕方から始まる時間観念(創世記1:5)が採用され、ストーリー展開の節目になっているということです(マルコ1:32、6:47、14:17など)。
重要なのは、「夕方になって」、一日が始まるとき、主イエスの新しい御業が現れ出るということです。そこでわたしたちは、突然、夜の闇の中に輝く神の救いの業に対峙させられます。そこで、わたしたちの不安や失望がぬぐい去られます。「夕方になって」起こされた奇跡は、これに続く三つのいやしの奇跡の幕開けともなっています(マルコ4:35-5:43)。
「夕方になって」、一日が始まり、その日の終わりまでに、主イエスの御前で、自分の罪と弱さを言い表し信仰告白する……それこそ、神がわたしたちのために創られる一日であり主の日であり、わたしたちの一生涯の日々なのです。
そのような夕暮れ時に、主イエスは弟子たちに、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられました。弟子たちは何の用意もしていなかったことでしょう。それで良いのです。主イエスにすべてゆだねることです。
ガリラヤ湖畔にこだました主イエスの御声は、威厳に満ちたものでありました。そこには、途中の障壁を乗り越えていくという勇敢さと忍耐が込められていました。そのように察せられるのは、その呼びかけが、神の民イスラエルの歴史において、父祖たちのかけた号令と響き合っているからです。
出エジプト記14:13,15-16 葦の海の岸辺で――
13 モーセは民に答えた。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。」 …… 15 主はモーセに言われた。「なぜ、わたしに向かって叫ぶのか。イスラエルの人々に命じて出発させなさい。16 杖を高く上げ、手を海に向かって差し伸べて、海を二つに分けなさい。そうすれば、イスラエルの民は海の中の乾いた所を通ることができる。
ヨシュア記3:6 ヨルダン川を渡るとき――
ヨシュアが祭司たちに、「契約の箱を担ぎ、民の先に立って、川を渡れ」と命じると、彼らは契約の箱を担ぎ、民の先に立って進んだ。
神は闇雲に「向こう岸に渡ろう」と命じて、民に冒険させているわけではありません。そうではなく、神の約束の地へ旅立とう、不安を払拭して、神を信じ、行動を起こしなさい、との意図なのです。神の力があなたがたの弱さの中に発揮されること(Ⅱコリント12:9)を教えようとされています。
主イエスは単なる思いつきではなく、モーセやヨシュアの示した父なる神への従順を思い起こしながら、「向こう岸に渡ろう」と呼びかけられたのではないでしょうか。
「弟子たちがイエスを舟に乗せたまま漕ぎ出した」だけでなく、「ほかの舟も一緒であった」ということです。主イエスの御声を聞いて、弟子たちはじめ主に従う者たちが前進し始めました。この光景にこそ、約束の地、神の国をめざす信仰者の原型が現されています。「イエスを舟に乗せたまま行く」こと、言い換えれば、「神は我々と共におられる」(マタイ1:23)ことが頼みの綱です。自分は元漁師で、舟を操るプロであるという過信は即刻打ち砕かれます。
Ⅱ わたしたちがおぼれ死んでもいいのですか
マルコ福音書4:37-38――
37 激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほどであった。38 しかし、イエスは艫の方で枕をして眠っておられた。弟子たちはイエスを起こして、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」と言った。
「向こう岸」に漕いでいく途中で、障壁が立ちはだかりました。自分が実際、何を頼みの綱としているのか、が暴き出されます。
「激しい突風」をより原意に即して言うと、「巨大な嵐の突風」となります。この表現から、恐怖に取りつかれた人間(マルコ4:40)の心象風景が汲み取られることでしょう。「突風」、「波」、「水浸し」……自分たちの常識を超えたものの前に、心が押しつぶされそうになっています。不安が募るばかりです。これでは、弟子たち同士のチームワークも機能しません。このような時の一番の問題は、本当に見るべきものが見えなくなる、その平常心が失われる、ということではないでしょうか。
しかしその時、漆黒の世界に、「艫の方で枕をして眠っておられたイエス」の姿が浮かび上がりました。弟子たちはいまだに、主イエスを頼みの綱としてはいません。「神は我々と共におられる」というメッセージをもって、自分たちの間に臨在しておられる主イエス・キリストを信じてはいません。
幸いなことは、「眠っておられたイエス」の目の前で、自分たちの正体が露わにされたということです。主イエス・キリストが ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業(マルコ2:1-12、3:28)を繰り返されているにもかかわらず、弟子たちはいまだにイエスが救い主であると信じていません。
そのことが、「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」との弟子たちの言葉から分かります。ここで、「おぼれる」というのは、「滅びる」が原意で、「おぼれ死ぬ」と意訳できます。全文を訳し直すと、「先生、あなたはわたしたちのおぼれ死ぬことに気を留められないのですか」となります。
これは、主イエスに対し失礼極まりないというよりも、弟子たちの不信仰の告白と断じざるを得ません。自分の命が惜しいのは、切迫した状況からもよく分かります。しかしこれは、「わたしたち」が神の御子なる「あなた」に投げかける言葉ではありません。「先生」という言い方もかえって、しらじらしく聞こえます(マルコ5:35、14:45)。
では、添削すると、「主よ、あなたはいつも、わたしたちが滅びないように心にかけてくださっています。どうか、助けてください」となるでしょうか。元より、主イエス・キリストへの信仰を表すということなので、これが正解というわけではありません。
わたしたちが祈り求める以前から、主イエスは、罪と病と死の縄目から解放してくださるお方として、わたしたちに寄り添っておられます。「突風」、「波」、「水浸し」という悪循環の中でも、「イエスは艫の方で枕をして眠っておられた」という幸いと平安に依り頼みたいと願います。
ところで、旧約聖書には、自然界を支配されている神の権能が繰り返し描き出されています。「激しい突風が起こり、舟は波をかぶって、水浸しになるほど」の危難に遭った信仰者は、そのような神に救いを求めて祈りました。本日は、そのことを証しする旧約の一節を読んでみましょう。
Ⅲ あなたは荒れ狂う海を静められる
詩編89:10――
波が高く起これば、(あなたは)それを静められます。
「わたし」なる詩人が、神の慈愛や威光を讃美しています。そしてこの節では、「あなた」なる神が「おごり高ぶった海」と「大きくうねる波」とに対峙しています。悪霊のごとく「海」や「波」は猛威を振るい、被造世界を混沌に陥れようとしています。
詩人は身を潜めてその様子をうかがっています。その人は、神が「海」を創られたこと(創世記1:9-10)を知る信仰者です。そうして詩人は「あなたは誇り高い海を支配し 波が高く起これば、あなたはそれを静められます」と、口ずさみました。
詩人は単に神による自然奇跡を讃美したのではなく、「天はあなたのもの、地もあなたのもの。御自ら世界とそこに満ちるものの基を置かれた」(詩編89:12)というように、創造神への信仰を告白したのです。
この詩人と同じ信仰に立つ預言者エレミヤは次のように、主なる神の言葉を取りつぎました……「主は言われる。わたしは砂浜を海の境とした。これは永遠の定め それを越えることはできない。波が荒れ狂っても、それを侵しえず とどろいても、それを越えることはできない」(5:22)。
エレミヤは、悪霊が被造世界の中で荒れ狂い、人間に取りつき苦しめることがあっても、神の支配は侵しえないと信じています。なぜなら、神が信仰者と悪霊との間に、「越えることはできない境」を造ってくださるからです。大切なのは、危難の時にも、「わたし」が「あなた」なる神を信じ、安んじていることです。
Ⅳ すると、風はやみ、すっかり凪になった
マルコ福音書4:39――
イエスは起き上がって、風を叱り、湖に、「黙れ。静まれ」と言われた。すると、風はやみ、すっかり凪になった。
主なる神がこの世に遣わされた主イエスは、自然を創造し保持されている権能を持っておられます。「風」や「湖」と相対する前に、主イエスは眠りから目覚め、「起き上が」られました。これはまさに、死からのよみがえり(起き上がり)を予告する出来事です。
このようにして、主イエスはまことの神として自己啓示された後に、「風を叱り、湖に、『黙れ。静まれ』と言われ」ました。弟子たちもこの言葉を聞き届けたに違いありません。自然奇跡の中で、主イエスが言葉をもって神の力を現された出来事は、きっと彼らの信仰への導きとなることでしょう。
「巨大な嵐の突風」(マルコ4:37)が「巨大な凪」に変えられました。そうして、湖に静けさが回復されました。「神の国」に起こる救いの御業は、わたしたちの思いをはるかに超えています。
弟子たちは、「向こう岸に渡ろう」とされた主イエスの旅の中で、“ 霊 ” によって目覚めさせられる機会が与えられました。彼らにとって、主イエスはどのようなお方なのでしょうか。
Ⅴ あなたがたにはいまだに信仰がないのか
マルコ福音書4:40-41――
40 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」 41 弟子たちは非常に恐れて、「いったい、この方はどなたなのだろう。風や湖さえも従うではないか」と互いに言った。
主イエスは信仰を授けようと、その伝道の対象にしている弟子たちに向き合われます。
まず主イエスは、「突風」、「波」、「水浸し」によって恐怖に取りつかれた彼らに寄り添われます。「なぜあなたがたは怖がるのか」と語りかけられました。主イエスは人間の臆病と孤独とをご存じです。それから、この場面で最も重要な問いを出されました。
「まだ信じないのか」は原意を踏まえて、「あなたがたはいまだに信仰を持っていないのか」と訳しましょう。
「いまだに」を「すでに」と反転すれば、「すでに」信じられるように、あなたがたを導いたはずだが、との意味だと分かります。確かに弟子たちは、主イエス・キリストによって、 ①〈初めに〉罪の赦しを教える⇒②〈次に〉病気をいやし奇跡を起こす という御業が繰り返されたのを、見て・聞いて・知っていました。そのようにして、彼らには、神の国の秘密が打ち明けられました(マルコ4:11)。
弟子たちに一体何が足りない(あるいは無い)のでしょうか?
主イエスは問いかけの内に、足りないのは「信仰」だと明示されました。
主イエスに、弟子たちへのいらだちなど無かったことでしょう。というのも、主イエスははるかにガリラヤ伝道の最高潮を望み見て、ガリラヤ周辺を巡回しておられたからです。この度の湖上の事件が、「ペトロ、信仰を言い表す」と「主イエス、死と復活を予告する」(マルコ8:27-30と8:31-9:1)という奇しき出来事につながっているのをご存じありました。
いまだに信仰が育っていない弟子たちにとって大切なのは、「いったい、この方はどなたなのだろう」と問い続けることでありました。その点では、十二弟子は、おびただしい群衆にとっての模範でありました。そのために主イエスは、神の栄光を現すイエス・キリストにつき従おう、そして、イエス・キリストと共に、ユダヤ人と異邦人に伝道しようという姿勢を、弟子たちに培われました。
主イエスは弟子たちの前に座って、「ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(マルコ4:8)と語られました。収穫の時が来るのを待っておられました。だからこそ、主は、弟子たちが、“ 霊 ” によってイエス・キリストを信じるよう導き、執り成し、祈っておられたのです。
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〈説教の要約〉
2024年 7月28日
聖霊降臨節 第11主日
新約聖書 コリントの信徒への手紙 一 5章1節~8節(P.304)
説 教「純粋で真実なパンで祭りを祝おう」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
……Ⅰコリント5:3-5
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
……出エジプト記13:3-7
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
……Ⅰコリント5:7後半-8
序
この手紙の初めの大きなまとまり(Ⅰコリント1:10-4:21)が終わり、次の大きなまとまり(同上5:1-6:20)へと移ります。取り上げられる話題は、分派争いから、不品行、教会内の「裁判ざた」(同上6:7)、キリスト者の自由へと替わります。そのようにして、パウロは忍耐強く、コリント教会の人々との間に生じた誤解を解いていきます。
パウロは、主イエス・キリストの十字架と復活によって救われた者として語り続けています。その根底には、福音の正しい理解が据えられています。すなわち、神の聖なる神殿としての教会を建てる、そして、力を合わせ働く者が一つになって神の栄光を現すということです。
またこれまでに、キリスト教倫理の面から、パウロやアポロなどの使徒・指導者がどのような使命を持っており、また、どのような立場にあるかということが示されました。それを通して、コリント教会の人々に、キリスト者としての礼拝と日常生活の基本姿勢が教えられました。
パウロは今、小アジアのエフェソからギリシアのコリントへ、いわばリモート(遠隔)の形で伝道牧会しています。しかし、コリント教会には既にパウロに替わる指導者がおり、互いの間に疑念が生じやすい状況に置かれています。そうした中で、パウロは “ 霊 ” の導きにより、あたかもコリント人々が目の前にいるかのごとく、親しく語りかけました。
Ⅰ あなたがたは高ぶっているのか
コリントの信徒への手紙 一 5:1-2――
1 現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです。2 それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ悲しんで、こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか。
やや低姿勢に、「現に聞くところによると」と、パウロは語り出しています。憂慮すべき事件について、熟慮の上でのパウロの見解が述べられます。
「あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」……パウロの落胆が伝わってきます。「みだらな行い」は許されないことだと、戒めるのが足りなかったのか、と。
「ある人が父の妻をわがものとしている」というのは、ある息子が父親の後妻、すなわち、息子から見て義母と「関係を持っている」ということです。これは、旧約聖書の、「父の妻を犯してはならない。父を辱めることだからである」(レビ記18:8)という倫理規定に違反しています。「ある人」はコリント教会の信徒、また、「父の妻」はその教会に属さない異教徒と見られます。
おそらく、設立されたばかりのコリント教会において、「いとうべき性関係」に関わる規則(レビ記18章)が浸透していなかったのでありましょう。というのも、ユダヤ人以外、ギリシア人などの異邦人が多数を占めていたと考えられるからです。
加えて、主キリストに救われて、生まれ変わったときに、どのように「この道」(=キリスト教 使徒24:14)を歩んでいけばよいのか、がよく分からなかったということがあります。この点を察知していたパウロはすぐ後で、キリスト者の自由(Ⅰコリント6:9-20)について説き明かしています。「律法」に基礎づけられた倫理規定を明示するよう急がねばならないと、自省したに違いありません。
自分の「体」をどのように用いるかは自分が決めるのではありません。「聖霊の住まいである体」(Ⅰコリント6:19)との観点から、自分も教会の一つの肢であるが故に、それにふさわしい清さを保たねばなりません。自分の「体」は、主イエス・キリストの復活の力にあずかって、よみがえらされる、尊いものなのです。
ここで、こうした新たに確立されつつあるキリスト教の倫理規定について学ぶということ以上に大切なことがあります。それは、「ある人」が違反を起こしたときに、どのように「あなたがた」が対処すべきか、教えているパウロの語り方とその内容です。「ある人」の性的不品行の罪を定め、処罰して、ハイ終わりというものではありません。むしろ、「あなたがたの間に」起こった事件を通して、一人ひとりが自らを省みる機会となるように、とパウロは願っています。
「それにもかかわらず、あなたがたは高ぶっているのか。むしろ(あなたがたは)悲しんで……」というように、パウロはしっかりとコリント教会の人々の内面を見つめています。ここに、「ある人」への怒りは言及されていません。というのもパウロは、怒りが教会中に蔓延する先に、コリント教会に明るい将来が来ないのを知っているからです。
「あなたがた」が悔い改めるべきは、「高ぶり」です。主を誇るよりも、自分自身を、自分の知恵や力を誇っているところに、パウロは罪の巣窟を見ています。
パウロは懇切にも、どのような心持ちで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」に向き合えばよいかを教えています。それが、「(あなたがたは)悲しんで」ということです。ここに、嘆き悲しむ時を持つことが推奨されています。怒っただけでは、その「みだらな行い」はすぐに忘れられかねません。
そうではなく、「みだらな行い」という罪過を、他人事ではなく、自らのものとして受け止めるのです。そうして、「聖霊の住まいである体」、コリント教会全体が「悲しんで」、一人の兄弟が立ち直るのを待ちます。嘆き悲しみの中にこそ、罪を犯した、キリストにある兄弟に寄り添う想いが現されます。
最後にパウロは、「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」と問いかけています。「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との命令のもとに、「あなたがた」はどのように「ある人」を「除外すべき」なのか、見ていくことにしましょう。
「高ぶる」ことを戒める文脈において、パウロは次のように語りました……「こんなことを書くのは、あなたがたに恥をかかせるためではなく、愛する自分の子供として諭すためなのです」(Ⅰコリント4:14)。この度「みだらな行い」を犯した人も、パウロにとって「愛する自分の子供」の一人です。だからこそ、「神の峻厳のみならず慈愛」がキリストの体全体に現されるよう、パウロは祈っています。
Ⅱ その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した
コリントの信徒への手紙 一 5:3-5――
3 わたしは体では離れていても霊ではそこにいて、現に居合わせた者のように、そんなことをした者を既に裁いてしまっています。4 つまり、わたしたちの主イエスの名により、わたしたちの主イエスの力をもって、あなたがたとわたしの霊が集まり、5 このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。それは主の日に彼の霊が救われるためです。
パウロは決して傍観者ではありません。「みだらな行い」を犯した兄弟に寄り添っています。
「現に聞くところによると」、と謙遜に抑制しつつも、「現に居合わせた者のように」、率直に発言しています。「そこ(コリント教会)にいて」というパウロの「霊」において文字通り、彼は「霊的なものによる霊的な説明」に依り頼んでいます(Ⅰコリント2:13)。
従って、「(わたしは)そんなことをした者を既に裁いてしまっています」との判断は、聖霊の導きに従って下されたものと言えます。そこに、一寸の曖昧さもありません。なおかつ、パウロはそのような裁きが、「主イエスの名」のもとに(リモートながら)集まった「あなたがたとわたしの霊」の判断であると宣言しています。そのようにしてパウロは、コリント教会の土台を据えたキリスト者としての責務を果たしています。
「主イエスの名」によって、密接に「あなたがたとわたしの霊」が結び合わされました。そのようにして召集された人々の内には、存分に「主イエスの力」が働いています。「こんなことをする者を自分たちの間から除外すべきではなかったのですか」(Ⅰコリント5:2)との難問に対する回答を、二つに分けて読んでみましょう。それによって、「そんなことをした者を既に裁いた」(同上5:3)というパウロの真意も明らかになります。①と②を対比して並べると……
このような者を、その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡したのです。
それは主の日に彼の霊が救われるためです。
①の〈裁き〉は、「サタンに引き渡した」というように、既に遂行されています。「わたしは体では離れていても」との表現と異なり、ここでは、「その肉」という用語が使われています。すなわち、「滅び」に瀕しているのは、人間の「体」や「霊」ではなく、「その肉」です。
罪に染まっている人間の状態を表すのが、「肉」という言葉です。それは、パウロによる「肉」の用法を見れば、すぐに確認できます……「肉と血は神の国を受け継ぐことはできず、朽ちるものが朽ちないものを受け継ぐことはできません」(Ⅰコリント15:50)、または、「つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです」(ローマ8:3)。
終わりの時に向けて、「サタン」は人間の「高ぶり」や欲望につけ入り、この世にねたみや争いを巻き起こそうとします。そのような「サタン」の誘惑に陥って、つまずいてしまった人は、罪に染まった「肉」を身にまとうことになります。
そこで、「異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしている」という罪が確証された、その人に、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」という罰が執行されたのです。ということは、「自分たちの間から除外」した、すなわち、コリント教会から除名することが決議されたのです。
「はい、除外します」が問いへの回答でありますが、これにはその先がありました。
②〈裁き〉から〈救い〉へ――
ところが、「主イエスの名」によって「あなたがたとわたしの霊」が召集されたときに、「主の日に彼の霊が救われるであろう」との希望を一同共有した、と述べられています。皆さんは、「その肉が滅ぼされるようにサタンに引き渡した」というような人物に、立ち直るチャンスが与えられているのに、驚かれるでしょうか。だったら、除外・除名などわざわざしなくても、と戸惑われるでしょうか。
そこで、パウロが「それは主の日に彼の霊が救われるためです」と書き表した理由を、二つに絞って掲げましょう。
一つは、主イエス・キリストの十字架と復活による救いが、人の思いをはるかに超えているということです。十字架の血潮は、罪に染まっている人間を洗い清めます。主イエスは愛と正義をもって、罪を繰り返している者が帰って来るのを待っておられます。「サタン」の闇に呑み込まれる寸前、ようやく悔い改める者にも、罪の赦しを与えられます(ルカ24:47)。
もう一つは、最初のことの言い換えともなりますが、わたしたち一人ひとりのために準備されている「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:7)への畏れであります。この畏れによって、大罪を犯した人間の将来が「神の秘められた計画」の下にゆだねられたのです。この点において、先走って裁くことが差し控えられました(同上4:5)。現在のところの除外・除名が、「あなたがたとわたしの霊」が提示し得る、いわば境界線で、その先・その将来には踏み入らなかったのでしょう。
パウロの「神の慈愛と峻厳とを見よ」(ローマ11:22)との名言・誕生の内には、コリント教会の伝道牧会の体験がひそんでいるのではないでしょうか。真の喜びと悲しみを知る人が、神と出会い、その御姿を映しだしたのです。
付け加えれば、主イエス・キリストの救いと「主の日」への畏れとが、パウロの信仰の基盤になっているのは、これまでにも証言されていました。
コリントの信徒への手紙 一 3:13-15――
13 おのおのの仕事は明るみに出されます。かの日にそれは明らかにされるのです。…… 14 だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、15 燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます。
この箇所では、「かの日」と暗示されていますが、概ね、「主の日」、すなわち、キリストの再臨の日を指していると見られます。「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」という「その人」は、コリント教会の「未熟な建築家」(比較:Ⅰコリント3:10)のことです。コリント教会を建てつぐ「その人」が、「木、草、わら」(火の中で完全に燃えてしまう資材)を混ぜ込むのには、パウロもほとほと困ったことでしょう。「その人」は早く建て上げよう、と焦っていたのでしょうか。それでは、たとえ「土台」自体が頑丈であっても、風雨や洪水に遭い、「倒れて、その倒れ方がひどかった」という結末に至ります(マタイ7:24-27)。
しかし、パウロはこう言い切っています。「その人」は、「損害を受ける」、すなわち、神の裁きによって罰を受ける、がしかし、「火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われるでしょう」。「その人」には「火の中」の試練を耐え抜く力が残されていました。これこそ、「神の慈愛」、主イエス・キリストによる赦しと言う以外にありません。
Ⅲ 古いパン種をきれいに取り除きなさい
コリントの信徒への手紙 一 5:6-7前半――
6 あなたがたが誇っているのは、よくない。わずかなパン種が練り粉全体を膨らませることを、知らないのですか。7 いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。
パウロが、「みだらな行い」を犯した人の問題を、広い視野に立って論じてきました。コリント教会全体が見渡される中で、「あなたがた」の「高ぶり」が叱責され、「あなたがたとわたしの霊」との霊的集会の判断(除外・除籍)が提示されました。
このように、コリント教会全体の問題として、一個人の不品行を掌握することには、理由があります。それが、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺に示されています。
パウロは、「みだらな行い」を犯した人の問題に関して、「サタンへのその肉の引き渡し」、ならびに、主が来られるという「主の日における救い」の御業を昭示しました。そこで残された課題は、コリント教会の牧会者として、どのように悲しみ嘆き、傷を負っている(実際には高ぶってのほほんとしているような)信徒たちを励まし導くか、ということでありました。
さて、パウロは全体を透視する観点から、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を引き合いに出しました。これは良い意味にも悪い意味にも取れそうですが、前後関係から、「わずかなパン種」は一人の「みだらな行い」を指していると同時に、取り除くべき「古いパン種」を意味している、と分かります。
つまり、ここでの意味合いから、同類の諺として、「一桃腐りて百桃損ず」または「腐ったリンゴは傍らのリンゴを腐らせる」が挙げられます(参照:ホセア書7:8前半)。「みだらな行い」はじめ、高ぶり・ねたみ・争いなどは、人から人へ、またたく間に伝染していきます。「あなたがたが高ぶっている」ならびに「あなたがたが誇っている」ことへの非難が「全体を膨らませる」との一句に込められています。
むしろ、キリスト者に望まれるのは、主イエス・キリストに倣って、へりくだることです。教会の指導者も信徒一人ひとりも、主に忠実に仕えることが、礼拝と日常生活の原点です。互いに助け合う人々の間に、「誇り」がはびこるはずはありません。
そこでパウロは、「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい」と勧めています。「古い」と「新しい」との対句にご注意ください。
一方、「古い」というのは、罪に染まっている人間の状態を、他方、「新しい」というのは、主キリストの贖いによって潔められた状態を指しています。だから、「みだらな行い」はじめ、あらゆる罪過は「きれいに取り除かねば」なりません。
今パウロはコリント教会の人々にもなじみある、「わずかなパン種が練り粉全体を膨らませる」との諺を掲げました。そうしてパウロは、一個人の不品行からコリント教会全体〈新しい練り粉〉の集中すべきことへと主題を転じようとしています。その帰結が、「純粋で真実のパンで過越祭を祝おう」とのメッセージになります。そこでまず、「過越祭」とはどんなものか、旧約聖書をひもといてみましょう。
Ⅳ 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない
出エジプト記13:3-7――
3 モーセは民に言った。「あなたたちは、奴隷の家、エジプトから出たこの日を記念しなさい。主が力強い御手をもって、あなたたちをそこから導き出されたからである。酵母入りのパンを食べてはならない。4 あなたたちはアビブの月のこの日に出発する。5 主が、あなたに与えると先祖に誓われた乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ヒビ人、エブス人の土地にあなたを導き入れられるとき、あなたはこの月にこの儀式を行わねばならない。6 七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない。七日目には主のための祭りをする。7 酵母を入れないパンを七日の間食べる。あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない。
「七日の間、酵母を入れないパンを食べねばならない」
「過越祭」というのは、「七週祭」(出エジプト記34:22)、「仮庵祭」(レビ記23:34)と並んで、イスラエルの三大祭に数えられます。「アビブの月」(西暦の3月-4月)の「十四日の夕方からその月の二十一日の夕方まで」(同上12:18)が「過越祭」の期間となります。「過越祭」は「除酵祭」(同上12:17)とも呼ばれています。
一つは、「十四日の夕方」に、「イスラエルの共同体の会衆が傷のない一歳の雄の小羊を屠る」ことです。そして、「その血を取って、小羊を食べる家の入り口の二本の柱と鴨居に塗り」ます(出エジプト記12:6-7)。
もう一つは、「十四日の夕方から二十一日の夕方まで、酵母を入れないパンを食べる」(出エジプト記12:18)ことです。「酵母を入れないパンを七日の間食べる」のを徹底するために、「あなたのもとに酵母入りのパンがあってはならないし、あなたの領土のどこにも酵母があってはならない」と定められています。
現代のイスラエルにおいても、「古いパン種が」、すなわち、「酵母がきれいに取り除かれる」ように、「パン種除き」は慣習化されています。
「毎年、この祭日に先立ってペサハ(過越祭)用の特別な洗剤が売り出され、家の中ではスプーンから鍋まであらゆる食器が大釜の煮えたぎる湯の中に入れられて、煮沸消毒されます。日本の梅雨明けを思い浮かべるまでもなく、湿潤な冬を終えるにあたり、カビ臭くなった家中のものを洗い浄めるのは、まことに気候に順応した習慣といえるでしょう。」 小河信一著『聖書の時を生きる』、教文館、157頁
このようにして、人々は労苦して家の中から「パン種」を取り除きます。そして、七日の間、味気ない「酵母を入れないパン」を食べます。
一個人の不品行からコリント教会全体の問題へ、円滑に展開するために、祝い方において二つの特徴を持つ「過越祭」が援用されました。やや論理的な飛躍を感じられる向きもあるかも知れませんが、新しく正しい教会論を打ち建てるためにも、それは的確なことでありました。教会指導者の少なからずがスルーしたくなるような近親相姦事件から、このような帰結を導き出すパウロのしたたかさには感服させられます。というよりも、「異邦人の間にもないほどのみだらな行い」を現に聞かされて、「霊的なものによる霊的な説明」を施すと、こうなりますという実例なのでしょうか。
Ⅴ 純粋で真実のパンで過越祭を祝おう
コリントの信徒への手紙 一 5:7後半-8――
7 現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。8 だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか。
さすがにパウロは旧約聖書に通じたユダヤ人です。「過越祭」の祝い方の大きな特徴二つを踏まえて論理展開しています。言わずもがなではありますが、旧約聖書に基づいているということは、“ 霊 ” 的に説得力が十分あるということです。
「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」……この一文をもって、一体キリスト者とは、どんな人物なのかが、規定されています。すなわち、その人の「霊」と「体」からは、「悪意と邪悪」を含有する「古いパン種」が取り除かれているということです。神の恵みによって、その人の罪の汚れは洗い清められました。
そしてパウロはその神の恵みについて、主イエス・キリストの十字架と復活の御業を示唆する形で、「キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです」と述べました。すでに、神がわたしたち・罪人に先行して、無償で大いなる救いを成し遂げられました。
キリスト者が祝う新しい「過越祭」、すなわち、復活祭において、「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」は、どのように用意されるのでしょうか?
ユダヤ教の「過越祭」においては、「酵母入りのパン」を片づけるのに手間はかかりますが、「酵母を入れないパン」を作るのは容易です。ここで、パウロのいう「パン種の入っていない、純粋で真実のパン」に関しては、復活祭はじめ主日礼拝で執り行う聖餐式の「パン」との類比で考えるのが適切です。
そこでまず、「現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです」という状態を維持するためには、どうすればいいか、考えてみましょう。キリスト者の「霊」と「体」が潔められるには、主イエス・キリストから「パン」を食べさせていただかねばなりません。主イエスがわたしたちに差し出してくださるのは、「純粋で真実のパン」に違いありません。その時、わたしたちは「古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いない」との決心を新たにします。
それで、主イエスが分かち与える、その「純粋で真実のパン」とは……。十字架上で血を流され、裂かれた主イエス・キリストの「体」であります。聖餐式で、司式者が「パン」を掲げて、「これは、あなたがたのための主イエス・キリストの体です」(Ⅰコリント11:24)と告知している通りです。それは、「信仰をもってこのパンを味わいなさい」(参照:詩編34:9)との招きの言葉でもあります。
従って、「パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」とのパウロからコリント教会への勧めは、この祭りのために、その身を献げられた主イエス・キリストの呼びかけにほかなりません。
「キリストが過越の小羊として屠られた」というように、主イエス・キリストの十字架と復活の御業によって、新しい「過越祭」が設立されました。
自力で取り除くのではなく、神の愛と “ 霊 ” の力によって、「悪意と邪悪のパン種」が消え去ります。そうして、わたしたちはキリストを身にまとい、清くされます。「高ぶり」や「誇り」によって、教会「全体を膨らませて」、破滅させることはありません。
わたしたち・信仰者が為すべきは、この新しい「過越祭」、すなわち、復活祭をはじめとする主日礼拝を、キリストの支配される「祭り」として祝い続けることです。これこそ、子供たちに、次の世代に語り伝え、継承していかなければならない「祭り」です。 W
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月報7月号
『 御言葉を聞いて受け入れる人たち 』
マルコによる福音書 4章10節~20節 小河信一 牧師
説教の構成――
序
Ⅱ この民の心をかたくなにし 耳を鈍く、目を暗くせよ
……マルコ4:12 + イザヤ書6:9-10
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
……マルコ4:13-19
序
主イエスは「舟に乗って腰を下ろし」、湖畔に集う群衆に向かって、一つのたとえ話を語られました(マルコ4:1)。その「種蒔き」の話は、人々が野外で耳を傾けるにふさわしい内容であり、また、広い観点からは、「神の国」のたとえ話に属するものでありました(マルコ1:15、4:11)。
さて、主イエスは、「種蒔き」の「たとえ」について解説されます(Ⅲ・Ⅳでは、それをマルコの教会の説教として取り扱います)。初めに、「たとえ」に関する総論が提示され、次に、「種蒔き」のたとえが説明されます。主イエスがたとえを物語られた(マルコ4:3-8)後に、説明を加えられるのは、稀なことです。他には、「毒麦のたとえ」が挙げられます(たとえ マタイ13:24-30 → 説明 13:36-43)。
「たとえ」の本文を聞いたとしも、分からないことや質問したいことも出てくることでしょう。その点で、主イエスご自身が解説してくださるのは、大いに助かります。「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との警告を胸に、「“霊”による霊的な説明」(Ⅰコリント2:13)に耳を傾けましょう。
Ⅰ あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている
マルコ福音書4:10-11――
1 イエスがひとりになられたとき、十二人と一緒にイエスの周りにいた人たちとがたとえにつ いて尋ねた。2 そこで、イエスは言われた。「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される。」
さあ、注目の、主イエスによる「たとえの集中講義」が始まります。「十二人と一緒にイエスの周りにいた人たち」が招き入れられました。やがて、「おびただしい群衆」(マルコ4:1)にも、その要旨が伝えられることでしょう。
「十二人」弟子は今、任命されたばかりです(マルコ3:13-19)。主イエスのそばに置かれた途端に、騒動が起こりました。突然、主イエスの身内やエルサレムから下って来た律法学者たちに取り巻かれました。そこで、内輪もめ(同上3:26)を惹き起こすという陰謀が仕掛けられました(参照:ベルゼブル〔悪霊の頭〕問答 同上3:20-30)。それは、発足したばかりの弟子集団に向けられた、悪魔の誘惑でありました。弟子の中には、一瞬つまずきそうになった人もいたかも知れません。「自分の身内が自分を取り返しにやって来たら……」などと。
危うい道を行く弟子たちにとって、主イエスの「言葉」(マルコ4:14,20)こそが、彼らの「歩みを照らす灯」(詩編119:105)でありました。そこで、主イエスはまず、「たとえ」そのものについての問いに答えられます。
「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられているが、外の人々には、すべてがたとえで示される」……この文章の趣旨を言い換えましょう。すなわち、「たとえ」には「神の国の秘密」が隠されている、従って、「外の人々」は「神の国の秘密」の真意を汲み取らなければならない、ということです。
同時に、わたしたちが自らの事として問い尋ねたいのは、次のことです。すなわち、「あなたがたには神の国の秘密が打ち明けられている」と言われている弟子たちは、「神の国の秘密」を“霊”の導きによって理解しているのか、ということです。つまり、主イエスの言葉を先取りすれば、弟子たちが「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)になっているかどうか、が問われています。もし、その答えが「いいえ」だとすれば、彼らもまた、「外の人々」、信仰の不十分な者ということになります。
その点を踏まえれば、たとえの「説明」は、「外の人々」のみならず、弟子たちにも向けられているのであります。その説明を聞く前に、「外の人々には、すべてがたとえで示される」ことにまつわる旧約からの引用を読み取りましょう。
イザヤ書6:9-10――
9 主は言われた。
「行け、この民に言うがよい
よく聞け、しかし理解するな
よく見よ、しかし悟るな、と。
10 この民の①心をかたくなにし
②耳を鈍く、③目を暗くせよ。
悔い改めていやされることのないために。」
それは、
『彼らが❸見るには見るが、認めず、
❷聞くには聞くが、理解できず、
ようになるためである。」
このような旧約から新約への引用によって、主イエスが何を言おうとしているのか、整理してみましょう。
まず、今の主題が、「神の国の秘密」であることを念頭に置きましょう。「人々を恐れてはならない。覆われているもので現されないものはなく」(マタイ10:13)との主イエスの警告は、この「神の国の秘密」にも適用されます。すなわち、その「秘密」はすでに「打ち明けられて」います。というのも、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1:15)と宣べ伝える主イエスご自身が、ガリラヤの群衆の間に臨在されているからです。
主イエスは御業と御言葉をもって、つき従う者たちに、「神の国の秘密を打ち明け」ます。とりわけ、「神の言葉」(マルコ4:14、フィリピ1:14)の宣教を重んじられています。「種蒔き」のたとえが最初に語られ、説明が加えられているのも、そのためです。
そこで、「神の国の秘密」との主題と共に確認すべき、必須の事柄があります。それが、たとえを「聞く」者の態度であります。そのためには、入念な吟味が欠かせません。預言者イザヤは、❶心で理解する、❷耳で聞く、❸目で見るとの告知をもって、当時の頑なな民に悔い改めを迫っています。
御言葉の宣教からすれば、「❷耳で聞く」だけでも良さそうですが、さすがにイザヤは、神に聖別された預言者です。「❶心」と「❸目」を合わせて、全身全霊を集中して「聞くのに早い」態勢(ヤコブ1:19)ができているか、を点検しています。
そうした、主題「神の国の秘密」と「聞く」者の態度を、前提として、「それは……ようになるためである」(マルコ4:12)の要点を押さえましょう。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられ」ようとしておられます(マルコ4:2)。そこで、「❸目で見ることなく、❷耳で聞くことなく、その❶心で理解することなく」という民の頑なさが露わになります。
そのことはまさに、「種蒔き」のたとえ自体に暗示されています……「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)。原因はいろいろですが、実を結ばないのは結局、土地が良い状態に保たれていないからです。そこには、害鳥、日照り、雑草などに対処する力がありません。
「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)という「聞く耳」が良い状態に保たれるというのも、それと同じことです。そのためにまず、自分が元来、心の頑なな者を認めることです。そして、「“霊”による霊的な説明」が受け入れられるように、主に「立ち帰って赦される」ことです。そうすれば、わたしたちの信仰は、「たとえでいろいろと教えられ」、「神の福音が宣べ伝えられて」(マルコ1:14)、驚くほどに成長していきます。
そうすれば、「秘密」として「覆われていたものが現される」ようになります。そのことがまさに、「神の富」(ローマ11:33)を宿している、「信仰に成熟した人」(Ⅰコリント2:6)の内に起こり続けているのでありましょう。
主イエスは人間の頑なさを直視して、「種蒔き」のたとえを説き明かされます。たとえ本文の「ある種は道端に落ち……、ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち……、ほかの種は茨の中に落ちた」(マルコ4:4-7)に相当する部分を読んでみましょう。
Ⅲ 迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう
マルコ福音書4:13-19――
13 また、イエスは言われた。「このたとえが分からないのか。では、どうしてほかのたとえが理解できるだろうか。14 種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである。15 道端のものとは、こういう人たちである。そこに御言葉が蒔かれ、それを聞いても、すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る。16 石だらけの所に蒔かれるものとは、こういう人たちである。御言葉を聞くとすぐ喜んで受け入れるが、17 自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう。18 また、ほかの人たちは茨の中に蒔かれるものである。この人たちは御言葉を聞くが、19 この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない。」
この「説明」には、主イエスの死からおよそ40年後の時代状況が反映されていると言われます。すなわち、マルコがこの福音書を書いた時(紀元後60年代後半 場所はシリアか)、教会はどのように伝道していたか、あるいは、どのような迫害に遭っていたか、ということが暗に物語られています。
言い換えれば、マルコが、主イエスの語った「種蒔き」のたとえを、「説明」・説教していることになります。現代に生きるわたしたちの教会にとってもそうですが、主イエスの「言葉」(マルコ4:14)を、今の生活の中で説き明かすことは、とても重要です。たとえの本文と引き比べながら、「説明」の要点をつかみ取りましょう。本文が引き延ばされている箇所に注目すれば良いので、ご一緒にじっくり見ていきましょう。
まず、たとえの冒頭に着目しましょう。「種を蒔く人が種蒔きに出て行った」(マルコ4:3)が「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」に変わっています。これは見逃せない「説明」です。
「種を蒔く人」は固定されていますが、「種蒔き」が「神の言葉を蒔く」と言明されています。そこから、「蒔かれたもの」=「神の言葉」、そして、それが「蒔かれた土地」=「人間」という理解の仕方が見えてきます。そこからまた、わたしたちは、主イエスから「神の福音を宣べ伝え」られた群衆(マルコ1:14)が、「神の言葉」を聞き、それを実践する教会になっていったことを知らされます。
「神の言葉」を聞くとの観点に立って、「蒔かれた土地」=「人間」との設定を掘り下げると、こうなります。すなわち、「蒔かれた土地」が良い状態に保たれているのと並行して、「聞く耳」が良い状態に保たれているとは、どういうことかが、マルコの“霊”的な洞察によって示されるということです。
④に当たる「御言葉を聞いて受け入れる人たち」(マルコ4:20)の前に、①道端のもの⇒②石だらけの所に蒔かれるもの⇒③茨の中に蒔かれるもの……というように、「肉の人」・「ただの人」(普通の人間 アンスローポス Ⅰコリント3:3)の悪例が列挙されています。たとえの原典に即した、巧みな説教です!
初めに、たとえの本文が改変されている重要な点について、言及しましょう。
「蒔いている間に、ある種は道端に落ち……」(本文 マルコ4:4)
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」(説明 マルコ4:14)
一方、たとえの本文では、「種は落ちた」(マルコ4:4,5,7,8)というように、「種を蒔く人」の意図とはかけ離れて、生育上好ましくない土地に、種が落下したように描かれています。他方、たとえの説明では、「種を蒔く人」が生育の願いを込めて慎重に「種を蒔いた」(マルコ4:15,16,18,20)ように描かれています。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔く」という仕方(言い換えれば伝道)は、①「道端」、②「石だらけの所」、③「茨の中」、④「良い土地」、どんな土地においても一貫しています。それによって、「種を蒔く人」の忍耐強さとスケールの大きさ(マルコ4:20,24-25)が昭示されています。
マルコの教会は、そのような「説明」の工夫を通して会衆に、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストがどのようなお方であるのか、を伝達しようとしています。その会衆は、教会が設立されたばかりということもあって、苦難に遭っているという難題を抱えています。
それ故に、たとえの「説明」では、①「道端」に、②「石だらけの所」に、そして③「茨の中」に「蒔かれたもの」に対し、その苦難を受け止めつつ、いかに励ますか、ということが課題になります。そで、宣教が行き詰まっている、その根本原因に光が当てられます。
①「すぐにサタンが来て、彼らに蒔かれた御言葉を奪い去る」(マルコ4:15)
②「自分には根がないので、しばらくは続いても、後で御言葉のために艱難や迫害が起こると、すぐにつまずいてしまう」(マルコ4:17)
③「この世の思い煩いや富の誘惑、その他いろいろな欲望が心に入り込み、御言葉を覆いふさいで実らない」(マルコ4:19)
明らかに視点が、種が落ちた土地から、神の言葉が蒔かれた人間へと、移行しています。わたしたち・キリスト者が置かれている状況がそうであるように、「神の言葉」なる種が芽生えなかったり、枯死したりするのは、人間の内面的な罪性とそれを取り巻く「艱難や迫害」、双方に起因しています。
「神の言葉」を蒔かれたもの、すなわち、求道者や信仰者は、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストの支配のもとにありながらも、自分の「思い煩いや欲望」を省み、「艱難や迫害」を乗り越えてゆかねばなりません。そこで、「神の言葉」によって、④「良い土地に……」が説き明かされます。
Ⅳ 御言葉を聞いて受け入れる人たち
「良い土地に蒔かれたものとは、御言葉を聞いて受け入れる人たちであり、ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである。」
確かに、マルコの教会の人々は、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:9)との主イエスの勧めを心に納めていたことでしょう。しかし、マルコはじめ教会の伝道者は、「聞くには聞くが、理解できず」(同上4:12)との人間の頑なさに直面していました。それが、一筋縄では行かない課題であると知らされていました。ですから、たとえの「説明」では、細心の注意を払って、人間の内面性と外敵とが巡視されました。
「種を蒔く人は、神の言葉を蒔くのである」……主イエス・キリストなる「種を蒔く人」が、人間の心の包皮(頑なさの象徴)を取り払って(エレミヤ書4:4)、「神の言葉」を植え付けられます。主イエスが主体的に、愛と力をもって、わたしたちのために働いてくださいます。へりくだって、罪人や貧しい者に仕えてくださいます。これは、まさに、神の恵みの出来事です。
人間に求められているのは、ひらすらに「御言葉を聞いて受け入れる」ことです。良く「聞いて受け入れる」のは、わたしたちの実力ではなく、神からの賜物です。
結びの「ある者は三十倍、ある者は六十倍、ある者は百倍の実を結ぶのである」とは、一体どういうことなのでしょうか。それは、「御言葉を聞いて受け入れる人たちの内で、神の言葉が三十倍、六十倍、百倍と、増し加えられて実を結ぶ」ということだと考えられます。聖霊の導きによって、福音の核心〈主イエス・キリストの十字架と復活〉が押さえられつつ、それが、日頃の自分たちの言動の指針となっていくということです。
では、「神の言葉が増し加えられて、豊かに実を結んで」、一体、何のためになるというのでしょうか。それこそ、主イエス・キリストを信じる者によって、「神の栄光」が現されるということです。
「神の栄光」を現す信仰者は、御言葉を「更にたくさん与えられて」(マルコ4:24)、いよいよ深くキリストと隣人を愛するようになるでしょう。
W
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〈説教原稿〉
2024年 7月21日
聖書 新約・ヨハネによる福音書6:22~27、旧約・列王記上17:8~16
説教 「永遠の命に至る食べ物のために」田村博(茅ヶ崎教会)
説教要旨
1)イエスを捜し求めて
五千人以上もの人々がパンと魚を食べて満腹した(6:1~13)。すべての共観福音書もその事実をしっかりと伝えているが、ヨハネ福音書は、その事実に続けて、人々の反応、そして主イエスの御言葉をかなり詳しく伝えている(6:22~71)。そこで際立っているのが、人々が真剣に主イエスを追いかける様である。しかも主イエスの噂を聞き及んでであろうか、小舟に乗って到来した新たな人々までもが捜索の輪に加わろうとしている。わたしたちが暮らす現代社会でも、SNSを用いた宣伝によって、全くの無名であった人物が、短時間で何十万という「フォロワー」を生み出すという現象がある。主イエスは「人々が来て、自分を王にするために連れて行こうとしているのを知り、ひとりでまた山に退かれた。」(6:15) 主イエスには、一点のブレも一切の妥協もない。
2)しるしを見るとは
群衆の目は、五千人以上もの人々を満腹させた主イエスに注がれていた。主イエスが弟子たちと共に舟に乗らなかったことも見逃さなかったゆえ、どのようにして湖の向こう岸にたどりついたのか大いに不思議に思った。主イエスは、その彼らに対して、本当に見るべきところを見ていないと「はっきり言っておく」という言葉と共に指摘された。主イエスの「感謝」(6:11、23)は、主なる神としっかりと結びついていて離れることはない。五千人以上もの人々の満腹という出来事は、主なる神の御心と深く深く結びついている。すなわち「永遠の命」(6:27、40)である。ここからはずれているならば、どんなに目を皿のようにして主イエスを見つめ、追いかけていたとしても一切が無駄となってしまいかねない。
3)イエスが与える食べ物
主イエスが「あなたがたに与える食べ物」(6:27)がある。主イエスは、より具体的に、その「食べ物」について話された(6:28~59)。主イエスの「血」、主イエスの「肉」を食することは、イスラエルの民にとってありえないことだった(創9:4、レビ17:10~12)。主イエスは、律法を破るようにと勧めているわけではない。神の独り子の「死」というありえないことによって、そのままでは「朽ちる」ほかない「命」が、「永遠の命」とつながる。それは、父なる神によってはっきりと「認証」(6:27)された事実である(27節の塚本訳「神なる父上が、(これ〈=永遠の命〉を与える)全権を人の子に授かられたのだから。」)。わたしたちはここに目を注ぎ続ける。
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〈説教の要約〉
2024年 7月14日
聖霊降臨節 第9主日
旧約聖書 エレミヤ書 7章8節(P.1188)
新約聖書 ルカによる福音書 4章31節~37節(P.108)
説 教「その言葉には力があった」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
……ルカ4:33-34
……エレミヤ書7:8
序
一体、主イエス・キリストはどのようなお方であるのか、その答えが本日のテキストに物語られています。荒れ野の中からガリラヤ地方を巡って行かれた主イエスは、安息日、会堂にその御姿を現されます。それぞれの出来事とそのつながりに留意しながら読みましょう。
せっかくの機会ですから、「そこで、敬愛するテオフィロさま、わたしもすべての事を初めから詳しく調べていますので、順序正しく書いてあなたに献呈する」(ルカ1:3)という著者ルカのテクニックをご紹介します。
ここでは、ガリラヤ伝道の初期を取り扱った文章の構成に着目してみます。ガリラヤ伝道全体には、ルカ4:14-9:50が該当します。その初期の様子を、ルカ4:14-41によってたどってみましょう。出来事を「順序正しく書いて」といっても、無味乾燥にではなく、非常に劇的に物語られています。
準備 荒れ野の誘惑 ルカ4:1-13
① 導入のための要約――“霊”の力に満ちた宣教 ルカ4:14-15
② 安息日、ナザレの会堂にて ルカ4:16-30 〈スタートでつまずく〉
故郷の人々に受け入れられなかったため、ガリラヤ湖畔へ
③ 安息日、カファルナウムの会堂にて ルカ4:31-37 〈つまずいても、すぐに立ち上がる〉
④ 悪霊の追放と病気のいやし ルカ4:33-35,38-41
ストーリー展開が、これほどまでに精巧に組み立てられていたのか、と驚かれるでしょうか。さすがに、ルカ福音書(24章)―使徒言行録(28章)もの長編に挑むだけのことはあります。読み手をわくわくさせながら、信仰の世界に導き入れていきます。「御言葉によって罪の赦しを教える⇒悪霊を追い出し、病気をいやす」(参照:マルコ2:1-12)という信仰の基本線も踏襲されています。
それでは、わたしたちに向けて、〈つまずかされそうになっても、すぐに立ち上がりなさい〉とのメッセージが示されている箇所(③と④)を見てみましょう。
Ⅰ その言葉には権威があった
ルカ福音書4:31-32――
31 イエスはガリラヤの町カファルナウムに下って、安息日には人々を教えておられた。
32 人々はその教えに非常に驚いた。その言葉には権威があったからである。
主イエスは“霊”によって引き回されて、荒れ野の誘惑を受けられました。そして今、“霊”の力に満たされて、「ガリラヤの町カファルナウムに下って」行かれました。
主イエスは「はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷(ナザレ)では歓迎されないものだ」(ルカ4:24)と告知されているように、その滑り出しから伝道の困難に出遭われました。ところが、この世の闇を象徴するような迫害が起こった直後に、「ガリラヤの町カファルナウム」という伝道の拠点が与えられました。
ただし、主イエスはナザレと同様に、「安息日に会堂に入られました」(ルカ4:16,31-33)。これこそが、主イエスが「主日に茅ヶ崎香川教会の礼拝堂に」臨在される(マタイ18:20)ということの根拠になっています。“霊”の力によって、主イエス・キリストの言葉とその恵みがそこに再現されています。主イエスによるガリラヤ湖畔の開拓伝道以来、それは世界の隅々に至るまで拡大されています(ルカ4:37)。
「イエスは人々を(言葉により)教えておられた」⇒「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」というように、御言葉による宣教に重点が置かれていました。というのも、まずはガリラヤの民衆に、主イエスの「言葉」が、世の知恵や「むなしい言葉」(エレミヤ書7:8)とは全く異なるものであることを「教え」ねばならないからです。
その「教え」についてはすでに、ナザレにおいて「安息日に会堂で」説き明かされました(ルカ4:16-27)。要約すると、「わたしは貧しい人に福音を告げ知らせる」との主イエスの宣告のうちに、聖書朗読(イザヤ書61:1-2)と説教が行われました。それは、「わたしはあなたたちの罪を背負う。もう一度、やり直しなさい。今日、出発しよう」との招きでありました。残念ながら、「これを聞いた(ナザレの)会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出しました」(ルカ4:28-29)。このような「憤慨」や「いらだち」(使徒4:2)は、福音を拒む態度の根源にあるものです。
それに対し、カファルナウムの会堂に集っていた人々の反応は、「人々はその(言葉の)教えに非常に驚いた」ということであります。「驚いた」ことが、御言葉の理解から信仰の芽生えへとつながっていくのかは、不明です。しかし、悪霊の追放と病気のいやしを目撃するのに先んじて、「(言葉の)教えに非常に驚いた」(ルカ4:32,36)のは、神の御心に適うものでありました。
「その言葉には権威があった」という「権威」とは、一体何でありましょうか?
主イエスが「言葉」によって現された「権威」は、「すべての支配、権威、勢力、主権、あらゆる名の上に置かれる」(エフェソ1:21)ものでありました。それは「権威」の語源の通り、主イエス・キリストの「内から出てくる」ものであります。だからこそ、主イエスのやさしい言葉にもたとえ話にも、「権威」が宿っているのです。
要するに、「神は、この力をキリストに働かせて、キリストを死者の中から復活させ、天において御自分の右の座に着かせた」(エフェソ1:20)というのが、「権威」ある福音です。わたしたちは、「言葉」をもって告げ知らされた、この福音(ルカ4:18)を正しく聞かねばなりません。ひたすらに“霊”の導きによって聞くことです。
次に、③主イエスの「言葉」による宣教から④悪霊の追放へと移っていきます。それによって、会衆の目の前に、主イエスの「権威」が具体的に示されます。
Ⅱ ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ
ルカ福音書4:33-34――
33 ところが会堂に、汚れた悪霊に取りつかれた男がいて、大声で叫んだ。34「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ。我々を滅ぼしに来たのか。正体は分かっている。神の聖者だ。」
ここで、ハプニングが起こりました。「安息日に会堂で」、聖書朗読と説教の最中に起こったハプニングにほかなりません。主イエス・キリストの「内から出てくる」ものという「権威」が、主の「言葉」のみならず「行い」・御業によって現されます。
「ああ、ナザレのイエス、かまわないでくれ」……主イエスと敵対する勢力からの、「ああ」との嘆きであると同時に、証言です。これによって、主イエスと「汚れた悪霊」との関係が明確にされます。「汚れた悪霊」という闇によって、主イエスの「正体」が照らし出されるのです。まずは、悪霊の「正体」から捉えることにしましょう。
「かまわないでくれ」の直訳は、「わたしとあなたの間にどのような関係がありますか」となります。裏を返せば、「わたし」(悪霊)は「すべての支配、権威、勢力、主権」の面で、「あなた」よりも優位に立っている、という関係を壊さないでくれ、ということになります。まことに虫のいい、もったいぶった言い方です。しかしもちろん、自分の思いどおりにやらせてくれ、との発言は看過できません。
ところで、旧新約聖書には、この「当惑した悪霊の叫び声」に類似した言葉が、少なからず見出されます。二つ例を挙げましょう。
列王記上17:18――
彼女(サレプタの女)はエリヤに言った。「神の人よ、あなたはわたしにどんなかかわりがあるのでしょうか。あなたはわたしに罪を思い起こさせ、息子を死なせるために来られたのですか。」
マルコ福音書5:35――
イエスがまだ話しておられるときに、会堂長(ヤイロ)の家から人々が来て言った。「お嬢さんは亡くなりました。もう、先生を煩わすには及ばないでしょう。」
この二つの出来事では、「神の人」の前で、愛する息子または娘が死んだ状態になっています。もはや、その母親や家の人々には手の施しようがありません。
このように、「かまわないでください」、「あなたに関係ないことです」、そして、「もう、煩わさないでください」との慇懃な拒絶を並べてみると、人間の内面が見えてきます。すなわち、その拒絶に背後には、諦め・絶望があるということです。それ故に、本来、恵みを与えてくれる「神の人」との関係を断とうとするのです。
そうして、拒絶や絶望に取りつかれると、何でも周りのものを恐れてしまうことになります。その恐れが、「我々を滅ぼしに来たのか」との問いに証言されています。「正体は分かっている。神の聖者だ」と言うのですから、そのお方に救いを求めればよいのですが……。
そこで、主イエスの側から、憐れむべき一人の男を助け出されます。
Ⅲ 悪霊は何の傷も負わせずに出て行った
ルカ福音書4:35――
イエスが、「黙れ。この人から出て行け」とお叱りになると、悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、何の傷も負わせずに出て行った。
主イエスは、言葉巧みな悪霊の抵抗を見抜いておられました。「黙れ」と命じて、「神の聖なる神殿」(Ⅰコリント3:17)なる会堂から「汚れた悪霊」を追放されます。
「悪霊はその男を人々の中に投げ倒し、出て行った」というのは、ただの奇跡ではありません。そうではなく、「言葉」の「権威」による主イエス・キリストの支配のもとに、悪霊の追放や病気のいやしが行われるということの一貫(序に提示した③⇒④のつながり)なのです。そのようにして、「神の国」がわたしたちの間に実現しようとしているのです。
そして、悪霊から解放された男に関して、「何の傷も負わせずに」と証言されています。これで思い出すのは、「燃え盛る炉に投げ込まれた三人」の物語です(ダニエル書3章)。この三人は、神から知識と才能を賜った、ユダ族の若者たちでありました。
ユダ族の若者たちをねたんだ、バビロニアの侍従長や貴族は、信仰深い人々を抹殺する罠を仕掛けました。 それで、バビロニアの偶像を拝まないとの咎により王に訴えられて、三人の若者は罰を受けることになりました。
ダニエル書3:21,27――
21 彼らは上着、下着、帽子、その他の衣服を着けたまま縛られ、燃え盛る炉に投げ込まれた。
その後、三人が炉の中から出てきて……
27 総督、執政官、地方長官、王の側近たちは集まって三人を調べたが、火はその体を損なわず、髪の毛も焦げてはおらず、上着も元のままで火のにおいすらなかった。
奇しくも、「何の傷も負わせずに」と「火はその体を損なわず」とは同じです。「いつもの七倍も熱く燃やされた」炉の炎(ダニエル書3:19)というのは、まるで悪霊の軍団(ルカ8:30)を象徴しているかのようです。しかし、主イエスが男から悪霊を引き離して、元に戻されたように、「神は御使いを送ってこの僕たちを救われました」(同上3:28)。
王宮にいた若者たちも、会堂にいた男も、「わたしの霊はなえ果て 心は胸の中で挫ける」(詩編143:4)というような試練に巻き込まれました。しかし、そのような人間の弱さの中に、神の恵みと救いが現されました。
Ⅳ お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいる
しかし見よ、お前たちはこのむなしい言葉に依り頼んでいるが、それは救う力を持たない。
主イエスの「言葉」に「権威と力」が宿っていることを知る前に、諸国民の預言者として召し出されたエレミヤの「言葉」を読んでみましょう。
初めに思い起こしておきたいのは、エレミヤが召命を受けた時のエピソードです。
エレミヤが「ああ、わが主なる神よ わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」と言うと、主なる神はエレミヤに、「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ 遣わそうとも、行って わたしが命じることをすべて語れ」と答えられました(エレミヤ書1:6-7)。
幸いにも、ユダの民のもとへ遣わされる前に、エレミヤは自分の言葉ではなく、ひたすらに「主の言葉」を語り続けるという決心をさせられました。これによって、自分は、聖書に通じた「祭司の子」(エレミヤ書1:1)であるという誇りを捨て去ったに違いありません。
そうして、モーセ(出エジプト記4:10)のように元来は「口が重く、舌の重い」エレミヤが、「主の神殿の門に立ちました」。「主を礼拝するために、神殿の門を入って行くユダの人々」に、「言葉をもって呼びかける」ためです(エレミヤ書7:1-2)。
それでは、何故に、神殿で礼拝を行おうとしている人々が「むなしい言葉に依り頼んでいる」のでしょうか? エレミヤはその理由を見抜いています……「なぜなら、お前たちは勝手に自分の言葉を託宣とし、生ける神である我らの神、万軍の主の言葉を曲げたからだ」(エレミヤ書23:36)。彼らは、「主の託宣(言葉)」を「自分の言葉」にすり替えていたのです。それに対し、主なる神は、「わたしはお前たちを投げ捨てる」、また、「わたしはその人とその家を罰する」と警告されていました(同上23:33-34)。
人間の性というものは、どの時代、どの場所においても、そんなに変わらないものなのでしょうか。およそ600年後、ギリシアのコリントでも同様の「すり替え」(ヒューマン・エラー)が起こっていました。
パウロはこれまた礼拝者である、コリント教会の一部の人々に、「だれも自分を欺いてはなりません」(Ⅰコリント3:18)、すなわち、「だれも思い違いしてはなりません」と戒めました。というのも、罪に陥っている人間が、「神の知恵」を「世の知恵」に替えるという「思い違い」を起こしていたからです。
ではなぜ、そのような「思い違い」・「すり替え」が生じるのしょうか。要約すると、パウロは以下のようにその理由を明らかにしています。
すなわち、彼らが「肉の人」で、「神の霊に属する事柄を受け入れない」(Ⅰコリント2:14、3:1)、その上、彼らは一見、豪華絢爛な「この世の支配者たちの知恵」(同上2:6)に毒されてしまっている、結局、彼らは神の前においてすら、自分を誇っている(同上1:29)ということです。
このような人々に対し、エレミヤはただ神の審判を告げるだけだったのでしょうか。そうではありません……「それ(むなしい言葉)は救う力を持たない」。
否定的な文脈の中にも、エレミヤは神の救済計画を物語っています。「主は我らの救い」と呼ばれる神(エレミヤ書23:6)に立ち帰るように、と繰り返し告げています(同上3:7、18:11、31:21)。
今、神殿に上って来た人々にとって大切なのは、「わたしの律法を彼らの胸の中に授け、彼らの心にそれを記す」(エレミヤ書31:33)という神の「言葉」に耳を傾けることです。“霊”の導きにより、神の「言葉」の「力」にあずかることです。
そうすれば、神との正しい関係が回復されます。自己中心に陥れていた「思い違い」が消え去ります。エレミヤが孤立し嘲笑される状況下で、大胆に神殿の門で説教しているのは、そのためです。
ルカ福音書4:36-37――
36 人々は皆驚いて、互いに言った。「この言葉はいったい何だろう。権威と力とをもって汚れた霊に命じると、出て行くとは。」 37 こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった。
「人々は皆驚いて」という衝撃のうちに、「悪霊の追放」ではなく、「権威と力のある言葉」に、会衆の関心が向けられました。しかも、その「権威と力」というように、「力」が付け加えられています(他にユダの手紙1:25、ヨハネ黙示録12:10)。
なぜ、主イエスの「言葉」に「力」が必要なのか、二つの点から答えましょう。
一つは、「権威」と同様に、「力」は主イエス・キリストの「内から出てくる」ものです。ですから、「力のある言葉」はおのずから実を結びます。すなわち、「神は言われた。『光あれ。』」こうして、光があった」(創世記1:3)というように、それは、現実化されます。
主イエスの「言葉」によって、神の創造力が発揮されます。時には、その「力」が悪霊の追放や病気のいやしのために用いられます。そのようにして、救われた人はしばしば「賛美」(ルカ5:25、13:13)という「言葉」・歌をもって人々に福音を伝えます。
もう一つは、今述べた「力」の現実化と関連するのですが、主イエスが世の終わりに向けての戦いを見据えておられるからです(ルカ21:9)。その時、キリスト者の苦悩は深まります。そうした艱難や迫害が起こる時、主イエスの「言葉」はまさに「力」ある砦(サムエル記下22:33)として依り頼むことができます。
主なる神は、「あなたを憎むすべての者」や「あらゆる重い病気」から守ってくださいます(申命記7:15)。悪霊や偶像に惹かれてはなりません。わたしたちが御言葉の宣教に励むとき、わたしたちは主イエスと同様に、“霊”の「力」に満たされます。神は主イエス・キリストによって、耐え忍んでいる人々に、「幸いあれ」と言って祝福しておられます(ルカ6:22-23)。
「こうして、イエスのうわさは、辺り一帯に広まった」……主イエスは故郷ナザレから追い出されましたが、ガリラヤ湖畔に伝道の拠点が造られました。心を挫くようなつまずきがただちに、“霊”の導きによって乗り越えられました。
ナザレとカファルナウムとで主イエスは、神中心の伝道と生活に何も変更など加えておられません。主イエスは「安息日に会堂に入る」のを基軸に、その地方を巡る旅を続けられました。
そうして、おびただしい群衆の前に、③言葉には権威と力があることが教える⇒④悪霊の追放と病気のいやしを行う、という主イエス・キリストの御姿が現されました。主イエスは終わりの時に向けて、世界の隅々に届けられるよう、「権威と力のある言葉」をもって教え、そして祈られました。
主イエスの巡り行かれたガリラヤの湖畔、山や丘、家々などは、主を信じる者の原風景であります。礼拝の中で想起すべき、時代と場所に違いありません。ガリラヤの地に蒔かれたからし種は、世界の果てにまで枝を張って大きくなりました(マルコ4:30-32)。
W
〈説教の要約〉
2024年 7月7日 日本キリスト教団 茅ヶ崎香川教会
聖霊降臨節 第8主日
旧約聖書 ダニエル書 4章7節~9節(P.1386)
新約聖書 マルコによる福音書 4章26節~34節(P.68)
説 教「葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど成長する」 小河信一牧師
説教の構成――
序
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
Ⅱ 弟子たちはできなかった
……ダニエル書4:7-9
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
……マルコ4:30-32
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
……マルコ4:33-34
序
主イエスはガリラヤの湖や丘を背景にして、おびただしい群衆に向かって語りかけておられます。その中には、主イエスのそばに呼び集められた、十二人の弟子もいます。
主イエスは「たとえでいろいろと教えられました」(マルコ4:2)。これほど集中的にたとえを語られたのは、これ以後にはありませんでした(比較参照:マルコ7:15、12:1-11)。きっとそれらのたとえは、主イエスの周りにいた人々の間で語り継がれたことでしょう。そして、たとえとその説明は地域や民族の垣根を越えて伝え広められたに違いありません。
そこで本日は、「たとえ話の集会」で語られた、最後のたとえ、二つを読んでみることにします。一方、たとえの題材は、ガリラヤの民衆の生活の中から採られています。他方、その主題は、自然や大地に根差しつつも、神の国を指し示しています。つまり、主イエスは、人々に寄り添いながら、神の愛と義の支配する中に生きる者として造り変えられるよう導いておられるのです。
見よ、あなたがたの目の前に、主イエス・キリストがおられます! その行いと言葉によって、神の国が来ています。あなたの目に、主イエスはどのようなお方として写りますか。
大切なのは、これまで自分に隠されていたものが、主イエス・キリストによって明らかにされるということです。ですからそれは、これまで罪と病と死の「闇に閉ざされた国」(詩編143:3)で悩み苦しんでいた人々への福音です。
その暗黒の世界から脱出するには、どうすればよいのか……そのこともまた、主イエスが人々を招いて、教えられます。たとえをたくさん聞いて、「聞く力」(マルコ4:33)を鍛えなさい! 今はこの一点に集中しましょう。それでは、「成長する種」のたとえ、そして、「からし種」のたとえを順に取り上げます。
Ⅰ 土はひとりでに実を結ばせる
26 また、イエスは言われた。「神の国は次のようなものである。人が土に種を蒔いて、27 夜昼、寝起きしているうちに、種は芽を出して成長するが、どうしてそうなるのか、その人は知らない。28 土はひとりでに実を結ばせるのであり、まず茎、次に穂、そしてその穂には豊かな実ができる。29 実が熟すと、早速、鎌を入れる。収穫の時が来たからである。」
初めに以下のことを確認します。
「成長する種」と「からし種」とのたとえは共に、「神の国」のたとえであると明記されています(マルコ4:26,30)。この二つのたとえは、「種が土(地)に蒔かれる」という状況設定は同じなのですが、メッセージの内容は異なります。
しかし、「成長する種」と「からし種」のたとえが並置されていることからも分かるように、それぞれのメッセージを合わせて汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になります。ですから、メッセージの上で、「成長する種」と「からし種」のたとえ、それぞれどこに力点が置かれているのか、しっかりと見極めましょう。
では、「成長する種」のたとえを読み取りましょう。そこでまず気になるのが、「ともし火」と「秤」のたとえの前に語られていた「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:1-9)との関係です。
今、「種を蒔く人」のたとえの詳細は振り返りませんが、一点だけ、「成長する種」のたとえとの違いを確認しておきましょう。
一方、「種を蒔く人」のたとえでは、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。なぜなら、「神の国の秘密が打ち明けられる」(受動態! マルコ4:11)というたとえの結びから、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると「教えられる」(同上4:2)のが自然だからです。挫折に屈しない様子(同上4:4-7)も、主イエスを写し出していると言えます。
他方、「成長する種」のたとえでは、「人が土に種を蒔いて、夜昼、寝起きしている」、また、「どうしてそうなるのか、その人は知らない」と描写されています。その「人」(アンスローポス 人間)の知らなさ・無理解が際立たされています。ということは、その「人」は主イエスではなく、普通の人間であると言えるでしょう。
このように、たとえごとに、「種を蒔く人」が誰を指すのか、切り替えていくところにも、神の知恵が現れています。わたしたちも、その知恵を存分に享受したいものです。
そうすると、人間なる「種を蒔く人」が「どうしてそうなる(成長する)のか、知らない」という設定によって、たとえの中心点を浮き彫りにしようとしているのが分かります。すなわち、「土はひとりでに実を結ばせる」というのが、ここで主イエスが告げようとしておられる「神の国」についての重要なメッセージだということです。
ここでわたしたちは、農業に関わるこの世の知恵を振り回そうとすると、意味不明になります。いや、種を育てる人間は大概、草取りや施肥をしているし、長年の経験により「芽を出して成長する」ことに無知とは言えない、と反論したいでしょうが……。
しかし、先にお話ししたように、主イエスは、一方、ガリラヤの民衆の生活に立脚しながらも、他方、その民衆が神の愛と義の支配下に置かれるよう御言葉を宣べ伝えておられます。主イエスがたとえの教えによって目指していることは明確です。
「どうしてそうなるのか、知らない」ままに民は、安穏と「夜昼、寝起きしています」。ここでわたしたちは、「夕べがあり、朝があった」(創世記1:5)との天地創造における神の御業に注目したいと思います。この聖書の記事は、現代のイスラエルにおいても、一日は「夕べ」から始まるいうほどに影響を及ぼしています。
つまり、「どうしてそうなるのか、知らず」に、「夜昼、寝起きしている」こと自体がすでに、神の平和を象徴しているということです。神の安息の中で、わたしたちは、「土はひとりでに実を結ばせる」ことの背後に、何があるのか、気づかねばなりません。それが、メッセージの中心点を理解することにつながります。
「ひとりでに」、すなわち、自動的という言うことか、「そりゃ、楽だわ」だけでは、主イエスによるたとえを「聞く」ことにはなりません。無味乾燥な報告文のように、「土はひとりでに実を結ばせる」との一句を聞いてはなりません。聖霊に導かれるならば、この「成長する種」のたとえに正しく耳を傾けられるのを実証した人がいます。それが、使徒パウロです。
コリントの信徒への手紙 一 3:7――
ですから、大切なのは、植える者でも水を注ぐ者でもなく、成長させてくださる神です。
パウロは自らのコリントでの開拓伝道に「当てはめて」、このような「霊的なものによって霊的なことを説明しました」(Ⅰコリント2:13、4:6)。それによって、「成長する種」のたとえの中心点が射貫かれました。
要するに、神がすべてをなされる、持続的に「種を蒔く人」や「水を注ぐ者」を見守っているのは、神しかおられないということです。人が眠っている間も、神が寝ずの番をしておられます(出エジプト記12:42)。預言者イザヤは、「美しいぶどう畑」について、「荒らされないように、主なるわたしが夜も昼も監視している」(イザヤ書27:3 私訳)と述べています。このように、主イエスによってその到来が告げられた「神の国」(マルコ1:15)は、ひとえに神の御力によって成長していくのであります。
それならば、「土はひとりでに実を結ばせる」ではなく、「神が実を結ばせる」とおっしゃれば、誤解も何もないでしょう、と言われますか。しかしそれでは、「たとえ話の集会」の一貫性が壊されてしまいます。それに、おびただしい群衆の中には、たとえを「聞く力」が養われつつあった人々が少なからずいたでしょうから。
最後に、想定される疑問に対する答えを付け加えます。
「土はひとりでに実を結ばせる」との一句が「神がすべてをなされる」とのメッセージであるのは分かったけれども、「植える者」(教会の土台を据える者)や「水を注ぐ者」(それを建つぐ者)の働き(Ⅰコリント3:10,12)も看過できないのでは、という疑問です。
ここでも、三つ前(故にその連関は明々白々です)の「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)を思い起こしましょう。その話の中では、「種を蒔く人」は主イエス・キリストであると示唆されていました。「種は芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった」(同上4:9)というのも、主イエスの豊かな恵みを現しています。それは、わたしたちの思いをはるかに超えるものです。
しかし、ある意味、それに対比される形で、「成長する種」のたとえには、人間なる「種を蒔く人」が登場しました。二つのたとえの対比によって示されたのは、「人間にできることではないが、神にはできる。神は何でもできるからだ」(マルコ10:27)ということです。これは、「それでは、だれが救われるのだろうか」(同上10:27)との弟子たちの問いに対する主イエスの回答です。
ご安心ください、「神の畑」には、すべての人が招かれています(Ⅰコリント3:9)。「植える者」、「水を注ぐ者」、そして安気に「夜昼、寝起きしている」人(霊的に目覚め、悔い改めるなら尚更)も大歓迎です。なぜなら、「わたしたちは神のために力を合わせて働く者である」からです(同上3:9)。
次の「からし種」のたとえに入る前に、たとえならぬ、人の夢を読み解いてみましょう。その夢の中に「大きな木」が出てくる点で、「からし種」のたとえを理解する、良き備えとなります。
Ⅱ 弟子たちはできなかった
ダニエル書4:7-9――
7 眠っていると、このような幻が頭に浮かんだのだ。
大地の真ん中に、一本の木が生えていた。
大きな木であった。
天に届くほどの高さになり
地の果てからも見えるまでになった。
9 葉は美しく茂り、実は豊かに実って
すべてを養うに足るほどであった。
その木陰に野の獣は宿り
その枝に空の鳥は巣を作り
生き物はみな、この木によって食べ物を得た。
賢者ダニエルの夢解きについて考える前に、まず、夢を見た人物や時代などに関して背景を説明しましょう。
この夢を見たのは、バビロニア帝国の王ネブカドネツァルです。彼は前587年、パレスチナに遠征し、南ユダ王国を滅ぼしました。そして、バビロンの地に、ユダヤの王はじめ指導者や民衆などを捕囚として連行しました(歴代誌下36:-20)。異教の地で、ユダヤの民は神礼拝をささげるのが、困難な状況に陥りました。
そうした中で、ユダ族出身の四人の少年たちが、神によって立てられました。神から知識と才能を恵まれた少年たちは、ネブカドネツァル王によって宮廷に召し出されました。
一夜、ネブカドネツァル王は眠りの中に恐ろしい光景を見て、悩まされました。大勢のバビロンの知者を召集しましたが、その夢を解釈することは、誰にもできませんでした。そこで最後に、王はダニエルを呼び出して、夢の話をし始めました。上に引用したのは、その夢の内容の一部になります。
ユダヤの民にとっては仇敵の王が、「わたしネブカドネツァルは……」(ダニエル書4:1)と言って、ダニエルに向かって話しています。ユダヤ人の最大の敵、異邦人の言葉が、「聖書」(の一文書であるダニエル書)になっています。ここら辺りが「聖書」の奥深さでありましょう。異邦の王は決して神への冒瀆をなしているのではありません。今、「わたし」として神の御前に立たされています。賢者ダニエルを通し、神の知恵にあずかろうと、へりくだっています。
王の夢のストーリーを追ってみましょう。
「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり 地の果てからも見えるまでになりました」。その後、「見張りの天使」の命令でその木は「切り倒されます」(ダニエル書4:10-11)。そして、「切り株と根が地中に残されます」。
王は、これを聞いて驚いている様子のダニエルに解釈するよう懇願します。やおらダニエルは「王様」と呼びかけて、その解釈を告げます。要点を引用すると……
「その木はあなた御自身です。あなたは成長してたくましくなり、あなたの威力は大きくなって天にも届くほどになり、あなたの支配は地の果てにまで及んでいます」。「天使はこう言いました。この木を切り倒して滅ぼせ。ただし、切り株と根を地中に残し、これに鉄と青銅の鎖をかけて野の草の中に置け」。「これはいと高き神の命令で、わたしの主君、王様に起こることです」(ダニエル書4:19-21)。
では、この夢の中心メッセージは、一体どんなことなのでしょうか?
それは端的に言えば、「わたしネブカドネツァル」に対し、主なる神こそが、その繁栄と没落の鍵を握っておられるということです。「神の秘められた計画」(Ⅰコリント2:1)は、異邦の世界にまで、神に敵対している権力者にまで及んでいることが、一夜の夢によって開示されました。
この場面でダニエルは、神が愛と義をもって全世界を支配していることを告げる宣教者として用いられました。人質に捕られている身のダニエルですが、臆するこくなく、バビロンの王にその末路を告げました。
ここに、「その木が成長して大きくなって豊かに実を結ぶ」(ダニエル書4:17-18)かどうかは、ひとえに主なる神の御心と御業に拠るものであるとの霊的な説明が示されました。これは確かに、主イエスによる「成長する種」と「からし種」のたとえにおいて、その底流に流れている見方です。
Ⅲ 葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る
マルコ福音書4:30-32――
30 更に、イエスは言われた。「神の国を何にたとえようか。どのようなたとえで示そうか。
31 それは、からし種のようなものである。土に蒔くときには、地上のどんな種よりも小さいが、32 蒔くと、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る。」
ここには、「成長する種」のたとえに出てきたような「人」(アンスローポス 人間 マルコ4:26)は見当たりません。この点には注意が必要です。直訳すると、「土に(からし種が)蒔かれる(受動態)ときには」(マルコ4:31)という書き方になっています(これを神的受動態と取れば、蒔いたのは神となります 例:マルコ9:2、Ⅰコリント15:4)。次節 4:32の「蒔くと」も直訳は「蒔かれると」(受動態)です。
それでは、「からし種」のたとえで強調されているものは、一体何でしょうか? それは、「からし種」自体にほかなりません。そのことは用語を見れば分かります。
まず、「からし種」は「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)の組み合わせから成っています。次に、「どんな種よりも」には「種」(スペルマ)という別の語が使われています。マルコ福音書4章ではこの節で、満を持していたように、「種」(コッコス)と「種」(スペルマ)とが登場しました。これまでは「種を蒔く」(スペイロー 4:3,4他)という動詞、ならびに、その名詞形の「種」(スポロス 4:26,27)が活用されていました。また、マルコ福音書4章において、「からし」というように、「種」の種類が特定されているのは、この箇所のみになります。
以上、用語を注視すると、「からし種」のたとえにおいては、「からし」(シナピ)+「種・粒」(コッコス)に脚光が浴びせられていることが分かります。そのように、このたとえでは、この「種」を独特なものとして紹介した上で、「地上のどんな種よりも小さい」と明記しています。つまり、「からし種」の〈小ささ〉をよくよく脳裏に刻んでおきなさい、ということです。
そこで主イエスは、次のようにたとえを語り継がれました……「蒔く(蒔かれる)と、成長してどんな野菜よりも大きくなり、葉の陰に空の鳥が巣を作れるほど大きな枝を張る」。これを聞いたおびただしい群衆の中には、「その木は成長してたくましくなり 天に届くほどの高さになり……葉は美しく茂り、実は豊かに実って……その木陰に野の獣は宿り その枝に空の鳥は巣を作った」(ダニエル書4:8-9)というネブカドネツァルの夢を思い起こした人もいたかも知れません。このくだりを「聖書」からの再話・パロディーとして受け止められるのは、「聞く力」を持った人に違いありません(参照:讃美歌Ⅰ-234番)。
たとえに出てきた「からし」という植物の「種・粒」は、将来現れるような大きさを宿していることの比喩であります。「からし種」は取るに足りないように見えるが、その小ささの中に、「神の国」の大きさが隠されている、それがメッセージの中心点であります。まさにガリラヤで主イエス・キリストにおいて現し始められた「神の国」は、やがて世界の隅々にまで広がっていくことになります。
さて、Ⅰ.の冒頭で、並置されている「成長する種」と「からし種」のたとえからのメッセージを合わせ汲み取ると、「神の国」がどのようなものか、より明瞭になると述べました。そこで、この二つのたとえを見直してみましょう。
「成長する種」 土はひとりでに実を結ばせる 〈神の秘められた計画〉
↓
「からし種」 〈小ささ〉==============⇒〈大きさ〉
どんな種よりも小さい 大きな枝を張る
「からし種」のたとえには、人の思いをはるかに超えた、〈小ささ〉から〈大きさ〉へという成長が示されています。それは一見「ひとりでに」のように思われますが、実はその背後には、〈神の秘められた計画〉がありました。それが、「成長する種」と「からし種」とを重ね合わせると見えてくるメッセージです。
主なる神は、その計画を内示するたとえの語り手として、主イエス・キリストを用いられました。その神の御子が、「神の国」の到来を告げられました。そして主イエスは、すべての人を救い出す十字架と復活の御業によって、「神の国」の隅の親石になろうとされています(マルコ12:10)。
その観点から言うと、主イエスは命を賭けて、群衆に一つひとつたとえを宣べ伝えておられます。だからこそ、「聞く耳のある者は聞きなさい」(マルコ4:1)と勧告されるのです。
Ⅳ 弟子たちにはひそかにすべてを説明された
マルコ福音書4:33-34――
33 イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた。34 たとえを用いずに語ることはなかったが、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された。
ガリラヤ湖畔、カファルナウム(マルコ1:21、2:1)近郊で催された「たとえ話の集会」は、これで終わります。これから、主イエスとその一行はカファルナウムを拠点としながら、対岸のゲラサ人の地方、ナザレ、ティルス地方などを行き巡られます(同上5:1、6:1、7:24)。
ここで、主イエスによる「たとえ話の集会」を振り返りが行われます。
「イエスは、人々の聞く力に応じて、このように多くのたとえで御言葉を語られた」……主イエスはおびただしい群衆に圧倒されることなく、一人ひとりをよくご覧になっておられました。
御言葉の飲み込みの早い人、じっくり考えて理解しようとする人、そして、日常生活の中で実践できるようにと思い巡らす人などがいたことでしょう。主イエスはそうした人々に寄り添いながら、彼らの心の内にある苦悩と疲労、世へと思い煩い、富への欲望など(マルコ4:17-19)を見逃すことはありませんでした。
だからこそ、主イエスは「人々の聞く力に応じて」、きめ細かく対応されました。いずれにしても、求めている人々に対し、「神の霊に属する事柄を受け入れる」(Ⅰコリント2:14)という信仰的な姿勢を培うことに腐心されました。というのも、“霊”に教えられてはじめて、たとえのメッセージの中心点が究められるからです。
「イエスは、御自分の弟子たちにはひそかにすべてを説明された」……これは、十二弟子と一緒に主イエスの周りにいた人々を区別するという趣旨を物語るものではありません。言い換えれば、主イエスにつき従う一部の人を特別視したということではありません。
そうではなく、「ひそかにすべてを説明する」ために、主イエスが十二弟子を呼び寄せた(マルコ9:35、10:32)ということが重要なのです。
マルコ福音書10:32-34――
32 イエスは再び十二人を呼び寄せて、自分の身に起ころうとしていることを話し始められた。
33 「今、わたしたちはエルサレムへ上って行く。人の子は祭司長たちや律法学者たちに引き渡される。彼らは死刑を宣告して異邦人に引き渡す。34 異邦人は人の子を侮辱し、唾をかけ、鞭打ったうえで殺す。そして、人の子は三日の後に復活する。」
主イエスは弟子たちに「ひそかに」、十字架と復活についての予告を三回されました(マルコ8:31、9:31、10:33-34)。このことが、説明すべき「すべて」のことの中で、「自分の身に起ころうとしていること」の中で、最も重要なことであるのは自明です(Ⅰコリント15:3-4)。
しかし、主イエスの呼び寄せられた弟子たちにとって、それは理解のむずかしいことでありました(マルコ9:32)。主イエスをわきへ連れ出して、いさめる弟子もいました(マルコ8:32)。要は、主イエスご自身が、「ひそかにすべてを説明しよう」と召し出された弟子たちの「聞く力」は、そんな程度であったということです。
それならば結局、弟子たちを召集したこと(マルコ3:13-19)、彼らに「ひそかにすべてを説明された」こと、とりわけ、十字架と復活について予告されたことは、無駄であったのでしょうか。人間の内面性や外敵・サタンの働きを見通すことにおいて、主イエスの側に何らかの落ち度があったのでしょうか。
結
その問題に対する正しい向き合い方は、すでに「種を蒔く人」のたとえ(マルコ4:3-9)に明らかにされています。そのたとえでは、「種を蒔く人」として主イエス・キリストが指し示されている!というのが、理解のヒントになります。
詳しく振り返ることはしませんが、あたかも天から降って来るような形で、「種」が四種類の地に「落ちました」(マルコ4:4,5,7,8)。そこで、「種を蒔く人」の①道端、②石地、③茨の中、④良い土地を巡る放浪の旅が始められます。
そのとき、「種を蒔く人」はその土地の人々の「思い煩いや欲望」や「艱難や迫害」に向き合います。①・②・③の地の人々を憐れみ励まされます。というのも、「種を蒔く人」なる主イエス・キリストは、すべての人が、神の平和のもと、④良い土地に暮らすことを願っているからです。彼らが神の豊かな恵みにあずかるようにと招いておられます。
主イエス・キリストは、弟子たちによる裏切りや否認などに屈することなく、神の大いなる救いを成し遂げられます。主イエスはその時が来るのを待ちながら、繰り返したとえを話して「説明され(原意:解き明かされ)ました」。
主イエスが弟子たちに予告された、十字架と復活の言葉は、根本的には、人に啓示されるものであります。それは、「隠されていた、神秘としての神の知恵であり」、「わたしたちには、神が“霊”によってそのことを明らかに示してくださいます」(Ⅰコリント2:7,10)。
それ故に、「人々の聞く力」は、ただただ“霊”の働きに掛かっています。わたしたちはその力を受け容れる器になっているでしょうか。
“霊”なる神、聖霊が「成長する種」と「からし種」のたとえを解き明かされます。主イエスの息遣いが伝えられます。忍耐強い神がくり返し語ってくださいます。わたしたちは今、教会でそれを「聞く」だけで良いのです。そうすれば、わたしたちは大きく成長し、「神の国」に向かって前進していくことができるでしょう。
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